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世界展望目ざめよ! 1974 | 8月8日
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世界展望
胎児は“呼吸”している
◆ 胎児は子宮の中では呼吸していないものと,何年ものあいだ考えられてきた。しかし最近号の「医学世界ニュース」誌は,母体の中で「胎児が規則的で明らかに不可欠な間げき的微動を行なう」と報じている。こうした間げき的微動は,「出産後の呼吸作用に胎児を備えるためのもの」と言われている。こうした時期に,胎児は自分の気管の中でごく少量の液体を毎分30回から70回の割合で移動させる。出産後には,動かしにくい液体に代わって空気がそこに入る。呼吸という仕事に対して,赤子の筋肉はこの時までに十分に備えができている。
戦争はなくなる?
◆ 天然資源が枯渇すれば武器を造ることができなくなるので戦争はなくなる,という夢をいだく人がいる。しかし,1955年度のノーベル賞受賞者でもある,米国ダラス大学の原子核物理学の教授ポリカープ・クッシュ博士はその考えに同意していない。最近行なわれた講演のさい,同博士は聴衆に向かってこう語った。「最後に主要資源がなくなると,われわれは弓矢とおので戦い合うようになるであろう」。
不足するオヒョウ
◆ 太平洋地域国際オヒョウ委員会は,アラスカ湾周辺での今年のオヒョウ漁獲量をこれまでの半分(最高545万㌔)に定めた。すでに打撃を被っている漁船団が経済的不利益を被ることがなければ,これは454万㌔に定められていたであろう。北東太平洋およびベーリング海域のオヒョウ資源は「危険なほど少なくなっている」と,同委員会は報じている。同海域で漁をしているアメリカおよびカナダ以外の国は国際オヒョウ委員会の監督を受けていない。種々の報道によると,そうした国の漁船団はオヒョウ資源を著しく減少させている。協調関係はなかなか進展をみない。
“信じられない”
◆ 銀行経営者は概して保守的であり,誇張した言いまわしを使うことはあまりない。しかし,クリーブランド信託銀行の業務月報はこう報じている。「経済分析とその解釈という点から見ると,1973年は(そしておそらく1974年も)アメリカ史上最も不可解でざ折的な時期の一つとして記憶に残るであろう。……誤解や曲解,あるいは解決不能に見えるジレンマなどが,信じられないほど次から次に生じた」。また,同月報はさらに次のようにことばを続けている。「政府や業界はきわめて動揺した[事態に]いやおうなしに」追い込まれており,「その窮極的な性格はまだ十分に理解できない」。
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聖書の第45番めの本 ― ローマ人への手紙目ざめよ! 1974 | 8月8日
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『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
聖書の第45番めの本 ― ローマ人への手紙
筆者: パウロ
書かれた場所: コリント
書き終えられた時期: 西暦56年ごろ
含まれている時代: 確定できない
1 現代の聖書の中で「ローマ人への手紙」がパウロの他の手紙よりも前に置かれているのはなぜ論理的なことと言えますか。
「使徒たちの活動」の中で,わたしたちは,ユダヤ人のクリスチャンを激しく迫害したサウロがキリストの熱心な使徒パウロとなり,非ユダヤ人の諸国民に遣わされるのを見ました。そして,「ローマ人への手紙」を最初として,かつてはパリサイ人で今や神の忠実なしもべとなったこの人に聖霊が霊感によって書き記させた,聖書の14冊の本が始まります。「ローマ人への手紙」を書くまでに,パウロはすでに二度の長い伝道旅行を終え,三度めの旅行も相当進んでいました。霊感の手紙もすでに五つを書き終えていました。それは,テサロニケ第一,第二,ガラテア,コリント第一,第二です。しかし,わたしたちの現代の聖書の中で,「ローマ人への手紙」は他のものより前に置かれています。この書は,パウロが伝道した二グループの人々,つまりユダヤ人と非ユダヤ人が新たに平等な立場に立ったことを論じていますから,それは論理的なことです。この書はご自分の民に対する神の取計らいの転換について説明し,また,良いたよりが非ユダヤ人にも宣明されることを,霊感を受けたヘブライ語聖書がずっと以前に予告していたことを示しています。
2 (イ)パウロはここでどんな問題を論じていますか。(ロ)この手紙によってどんなことが確立されますか。
2 パウロはテルテオを秘書として用い,ヘブライ語聖書から驚くほど多くの聖句を引用しつつ,急速な議論展開によって,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でも特に力強い書物をまとめ上げています。一世紀のクリスチャン諸会衆はユダヤ人とギリシャ人の双方から成っており,パウロはそうした時代に起きた種々の問題をきわめて美しいことばで論じています。ユダヤ人はアブラハムの子孫であるゆえになんらかの優先権があるのですか。クリスチャンはモーセの律法からは解放されていますが,円熟したクリスチャンは,その自由によって,旧来の習慣をまだ固守している弱いユダヤ人の兄弟をつまずかせてもよいですか。この手紙の中で,パウロは,ユダヤ人と非ユダヤ人が神の前で平等であること,また,義とされることが,モーセの律法によってではなく,神の過分のご親切により,イエス・キリストに対する信仰を通してもたらされることを明確に論証しています。同時に神は,自分がその下に置かれるさまざまな権威に対してクリスチャンがふさわしい服従の態度を示すことを要求しておられます。
3 ローマ会衆はどのようにして始まりましたか。パウロがその地の非常に多くの人を知っていることにはどんな理由が考えられますか。
3 ローマ会衆はどのようにして始まったのですか。特にポンペイウスが西暦前63年にエルサレムを攻略してからというもの,ローマにはかなりの規模のユダヤ人社会が形成されていました。使徒 2章10節では,そうしたユダヤ人の幾らかが西暦33年のペンテコステのさいにエルサレムに来ていたことを明確に述べています。彼らはそこで良いたよりが伝道されるのを聞きました。転向したとう留者たちは,使徒たちから学ぶためにその後もエルサレムに滞在しましたが,それらの人々はのちにローマに戻ったに違いありません。その中にはエルサレムで迫害が始まった時に戻った人たちもいることでしょう。(使徒 2:41-47; 8:1,4)さらに,当時の人々は非常に遠くまで旅行しました。パウロがローマ会衆の多くの人を親しく知っていたのはそれが理由であるかもしれません。そして,その人々の中には,パウロ自身の伝道の結果としてギリシャやアジアで良いたよりを聞いた人たちもいたかもしれません。
4 (イ)この手紙はローマ会衆についてどんな情報を与えていますか。(ロ)アクラとプリスキラがローマを離れ,後に再びそこへ戻ったのはなぜですか。
4 この会衆に関する最初の信頼できる情報はパウロの手紙の中に見いだされます。その情報から明らかなのは,この会衆がユダヤ人および非ユダヤ人のクリスチャンの双方から成っており,その人々の熱心さが賞賛に価するものであった,という点です。パウロは彼らに,「あなたがたの信仰のことが世界じゅうで語られている」,また,「あなたがたの従順がすべての人の注目するところとなった」と述べています。(ローマ 1:8; 16:19)スエトニウスの第二世紀の記述は,クラウディウス帝の治世(西暦41-54年)に,ユダヤ人がローマから追放されたことを伝えています。しかし,アクラとプリスキラの例に見られるとおり,彼らはのちにローマに帰りました。この二人はクラウディウスの勅令の時にローマからコリントに来てそこでパウロに会い,のちに,パウロがローマの会衆に手紙を書いた時にはそこに戻っていたのです。―使徒 18:2。ローマ 16:3。
5 どんな事実が「ローマ人への手紙」の典拠性を確立していますか。
5 この手紙の典拠性はりっぱに確証されています。その導入のことばが述べるとおり,それは,『イエス・キリストの奴隷であり,使徒となるために召されたパウロから……聖なる者となるために召され,神に愛される者としてローマにいるすべての人たちへ』あてられたものです。(ローマ 1:1,7)この書に関する外的な文書証拠があり,それは,クリスチャン・ギリシャ語聖書に関するものとしては最古の例に属します。ペテロは,おそらく6年から8年後に記されたと思われるその第一の手紙の中で同様の表現を非常に多く使用しており,多くの権威者たちは,彼が「ローマ人への手紙」の写しをすでに見ていたものと考えています。この書は,ローマのクレメンス,スミルナのポリカルポス,アンティオキアのイグナティウスなどにより,パウロの著作の一部として明確に認められかつ引用されています。これらはいずれも,一世紀の終わりから二世紀初めの人です。
6 古代のパピルス写本は「ローマ人への手紙」の正典性をどのように証言していますか。
6 「ローマ人への手紙」は,パウロの他の八つの手紙とともに,「チェスター・ビーティー・パピリNo.2」と呼ばれる古写本の中に含まれています。1947年発行の「聖書の話」という本の29ページで,フレデリック・ケンヨン卿はこう書いています。「それゆえ,三世紀前半に書かれた,チェスター・ビーティー・パピリの一写本は,その完全な状態では,四つの福音書すべてと使徒行伝を含んでいた。また,少なくとも同時代,あるいは二世紀末のものと思われる別の一写本は,聖パウロのすべての書簡を含んでいた。さらに別の写本はエゼキエル書,ダニエル書,エステル書を含んでいた」。チェスター・ビーティーのギリシャ語聖書パピルスは,著名なシナイ写本やバチカン1209号写本より早い時代のものです。後者はいずれも四世紀ごろのものですが,それらも,「ローマ人への手紙」を初め,正典となっているパウロの手紙の大部分を含んでいます。
7 その書かれた時と場所についてどんな証拠がありますか。
7 「ローマ人への手紙」はいつごろどこで書かれたのでしょうか。この手紙がギリシャにおいて,そしておそらくはコリントにおいて書かれたという点で,聖書注釈者の間に見解の相違はありません。それは,パウロが第三回めの宣教旅行の終わり近くに数か月その地を回った時のこととみなされています。内的な証拠はコリントを指し示しています。パウロはガイオの家でこの手紙を書き,ガイオはその地の会衆の成員でした。またパウロは,コリントの海港である近くのケンクレアにある会衆のフォイベという婦人を推せんしています。彼女がこの手紙をローマに運んだものと思われます。(ローマ 16:1,23。コリント第一 1:14)ローマ 15章23節でパウロは,「今はもう,この地域に手のつけられていない区域はありません」と書き,その次の部分で,宣教者としての自分の仕事をさらに西方,スペインにまで広げる意図のあることを示しています。彼は,三回めの宣教旅行の終わりごろ,西暦56年の初めにはこのように書くことができたでしょう。
ローマ人への手紙の内容
8 (イ)パウロは自分の使命についてなんと述べますか。(ロ)彼は,ユダヤ人もギリシャ人もともに神の憤りに価することをどのように示しますか。
8 ユダヤ人と異邦人に対する神の公平(1:1–2:29)霊感を受けたパウロはローマの人々に何を告げますか。その冒頭のことばの中で,パウロは,自分が,諸国民の間に『信仰による従順』をもたらすためキリストによって選ばれた使徒であることを述べます。そして,ローマにいる聖なる者たちを訪ね,「相互に励まし合(い)」,「信仰を持つ者すべてにとって,救いのための神の力であ(る)」良いたよりを彼らの間で宣明したいとの熱烈な願いを言い表わします。ずっと以前に書かれていたとおり,義なる者は「信仰によって生き」ます。(1:5,12,16,17)パウロは,ユダヤ人もギリシャ人もともに神の憤りに価することを示します。神の見えない特質はその創造の業を通して明らかに見ることができますから,人間の側の敬神の欠如は言いわけができません。それなのに,諸国民は愚かにも,創造されたものを神としています。しかし,ユダヤ人は諸国民を厳しく裁いてはなりません。ユダヤ人もまた罪があるからです。どちらのグループもその行ないによって裁かれることになります。神は不公平なかたではないからです。肉の割礼の有無は決定の要素ではありません。「内面のユダヤ人がユダヤ人なのであり,その人の割礼は……心の割礼」だからです。―2:29。
9 (イ)どのような点でユダヤ人はまさっていますか。しかし,すべての者が罪のもとにあることを示すためにパウロはどんな聖句を引用しますか。(ロ)では,人はどのようにして義と宣せられますか。どんな例がこの論議を支持していますか。
9 すべての者は信仰によって義と宣せられる(3:1–4:25)「では,ユダヤ人のまさったところはなんですか」。大いにあります。ユダヤ人は神の神聖な宣言を託されたからです。しかし,「ユダヤ人もギリシャ人もみな罪のもとにあ(り)」神の目から見て「善」なる者はひとりもいません。この点を証明するため,ヘブライ語聖書から合計七つの引用がなされます。(ローマ 3:1,9-18。詩 14:1-3; 5:9; 140:3; 10:7。箴 1:16。イザヤ 59:7,8。詩 36:1)律法は,人間が罪を持つ者であることをはっきり示します。したがって,『律法の業によって肉なるものが義と宣せられることはありません』。(ローマ 3:20,28)パウロはこの論議の裏付けとしてアブラハムの場合を例に引きます。彼は,業や割礼のゆえではなく,その模範的な信仰のゆえに義とみなされました。こうしてアブラハムは,ユダヤ人ばかりでなく,「信仰を持つ者すべて」の父となりました。―4:11。
10 (イ)死が王として支配するに至ったしだいを述べなさい。(ロ)キリストの従順の結果として何がもたらされましたか。しかし,罪に関してどんなことが警告されますか。
10 もはや罪の奴隷ではなく,キリストを通して義の奴隷である(5:1–6:23)一人の人アダムを通して罪が世に入り,罪が死をもたらし,「こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広が」りました。(5:12)死がアダム以来モーセに至るまで王として支配しました。モーセを通して律法が与えられた時,罪は満ちあふれ,死が引き続き君臨しました。しかし,神の過分のご親切は今やさらに満ちあふれ,キリストの従順を通して多くの者が永遠の命のために義と宣せられています。しかしこれは罪のうちに生活してよいという意味ではありません。キリストへのバプテスマを受けた人は罪に対して死んだ者とならなければなりません。その古い人格は杭につけられ,彼らは神に関連して生きています。罪はもはや彼らを支配せず,彼らは神聖さの見込みを持つ義の奴隷となります。「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」です。―6:23。
11 (イ)クリスチャンとなったユダヤ人が律法から解放されることをパウロはどのような例えで説明しますか。(ロ)律法はどんなことを明瞭にしましたか。それで,クリスチャンの中でどんなものが戦い合っていますか。
11 律法に対して死に,キリストと結ばれて霊によって生きる(7:1–8:39)パウロは,夫が生きているかぎり夫につながれ,夫が死ねば再婚の自由を持つ妻の場合を例えにして説明します。クリスチャンとなったユダヤ人はキリストの犠牲を通し律法に対して死んだ者とされ,キリストのものとなって神に対する実を結ぶことが自由になりました。聖なる律法は罪をいよいよ明らかにし,罪は死をもたらしました。わたしたちの肉の体に宿る罪は,わたしたちがいだく善良な意向に対して戦いをいどみます。パウロはこう述べます。「自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっている」。したがって,「それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに宿る罪です」。―7:19,20。
12 どのようにしてある人々はキリストと共同の相続人となりますか。そのような人はどのような点で全く勝利を収めていますか。
12 人間をこの惨めな状態から救いうるものはなんでしょうか。神が,キリストに属する人々をご自分の霊によって生きさせることができます! 彼らは養子として迎えられ,神の相続人,キリストと共同の相続人となり,義と宣せられて栄光を受けます。彼らに対してパウロは語ります,「もし神がわたしたちの味方であるなら,だれがわたしたちに敵するでしょうか。だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すでしょうか」。だれもそのような者はありえません! パウロは揚々と宣言します,「わたしたちは,わたしたちを愛してくださったかたによって……全く勝利を収めているのです。死も,生も,み使いも,政府も,今あるものも,きたるべきものも,力も,高さも,深さも,またほかのどんな創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえないことを,わたしは確信しているからです」。―8:31,35,37-39。
13 (イ)預言によると,神の真のイスラエルの中にだれが含まれていますか。これは神のどんな原則によりますか。(ロ)肉の上でのイスラエル人が目ざしていたものに達しえなかったのはなぜですか。しかし,救いのためには何が必要ですか。
13 「イスラエル」は信仰と神のあわれみとによって救われる(9:1–10:21)パウロは同胞であるイスラエル人に対して「大きな憂い」を言い表わしますが,肉の上でのイスラエルがみな真の「イスラエル」ではないことを認めます。神はだれでもご自分の望む者を子として選ぶ権威を有しておられるからです。ファラオに対する神のご処置と,陶器師の例えとに示されるとおり,「願う者にでも走る者にでもなく,ただあわれみを持たれる神にかかっているのです」。(9:2,6,16)ホセア(2:23)が遠い昔に予告したとおり,神は「ユダヤ人だけでなく,諸国民の中からも」子となる人々を召しておられます。イスラエルは,「信仰によらず,業によるかのようにして」神の恵みを得ようとしたために,また「とがのもととなる岩塊」であるキリストにつまずいたために,それに達することができませんでした。(ローマ 9:24,32,33)彼らは「神に対する熱心さ」をいだいていましたが,「それは正確な知識によるものではありません」でした。義のために信仰を働かせる人々にとってキリストは律法の終わりであり,救いのために,人は「イエスは主である」ということを公に宣言し,「神(が)彼を死人の中からよみがえらせた」という信仰を働かせなければなりません。(10:2,9)あらゆる国の人が聞き,信仰を持ち,エホバの名を呼び求め,こうして救いを得るために,宣べ伝える者たちが遣わされます。
14 パウロはオリーブの木の例えによってどんなことを説明しますか。
14 オリーブの木の例え(11:1-36)過分のご親切によって生来のイスラエルの残りの者が選ばれていますが,大多数の者がつまずいた結果として「諸国の人たちに救いがある」ようになりました。(11:11)パウロはオリーブの木の例えを使い,イスラエルが退けられたことを喜びとすべきではないことを非ユダヤ人に示します。神が不忠実であった生来の枝を惜しまれなかったのであれば,諸国民の中から接がれた野生のオリーブの枝を惜しまれることもないからです。
15 生きた犠牲を神にささげることには何が含まれていますか。
15 思いを作り直すこと。上にある権威(12:1–13:14)自分の体を生きた犠牲として神にささげなさい,とパウロは勧めます。もはや「自分をこの事物の体制に合わせ」るのではなく,「思いを作り直して自分を変革し」なければなりません。高慢になってはなりません。キリストの体は,人体と同じように多くの肢体を有しています。その肢体はそれぞれに異なった機能を有していますが,それでも一致してともに働きます。だれに対しても悪に悪を返してはなりません。復しゅうはエホバにゆだねなさい。「善をもって悪を」征服しなさい。―12:2,21。
16 クリスチャンは権威者や他の人々の前でどのように行動すべきですか。
16 上にある権威に服さなければなりません。それは神の取決めです。善を行ないつづけ,互いに愛することを別にすれば,だれに対しても何一つ負ってはなりません。救いが近づいています。それゆえ,「やみに属する業を捨て去り,光の武具を着け」なければなりません。(13:12)良いふるまいのうちに歩み,肉の欲望のままに歩んではなりません。
17 寛容さ,裁くこと,弱い人たちを築き上げることについてどんなことが助言されますか。
17 寛容をもってすべての人を公平に迎え入れなさい(14:1–15:33)その信仰の弱さのためにある種の食物を断ち,また祝祭の日を守っている人に対して寛容でありなさい。人を裁いてはならず,また自分の飲食によって兄弟をつまずかせてもなりません。神がすべての者を裁かれるからです。平和と,人を築き上げる事がらとを追い求め,他の人の弱さを忍びなさい。
18 (イ)神が非ユダヤ人を受け入れられたことを示すためにパウロはさらにどんなことばを引用しますか。(ロ)パウロ自身は神の過分のご親切をどのように活用しますか。
18 使徒パウロは,「以前に書かれた事がらはみなわたしたちの教えのために書かれた」と述べ,神の約束が非ユダヤ人の諸国民にも差し伸べられることを,霊感を受けた預言者たちがずっと以前に予告していたその最終的な証拠として,ヘブライ語聖書のことばをさらに四つ引用します。(ローマ 15:4,9-12。詩 18:49。申命 32:43。詩 117:1。イザヤ 11:1,10)そしてパウロはこう訓戒します。「それゆえ,神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,あなたがたも互いを迎え入れなさい」。(ローマ 15:7)パウロは,神の過分のご親切を受けて諸国民に対する公僕とされ,「神の良いたよりの聖なる業」に携わっていることに対する感謝を言い表わします。また彼は,「ほかの人の土台の上に建てる」のではなく,むしろ新しい区域を開くことを常に求めています。そして,彼の務めはまだ終了したのではありません。彼は,寄付をエルサレムに届けたのち,遠いスペインに至るまでのさらに大規模な伝道旅行を計画しているからです。そして,その地に向かう途中で,ローマにいる自分の霊的な兄弟たちに,「キリストからの祝福を十分に」携えて行くことが彼の願いです。―15:16,20,29。
19 どんなあいさつと勧めのことばが手紙の結びとなっていますか。
19 結びのあいさつ(16:1-27)パウロはローマ会衆の26人,および他の人々に,名を挙げて個人的なあいさつを送り,また,分裂を生じさせる人々を避け,「良いことについては賢く,よこしまなことについては純真であるように」と説き勧めます。すべては神の栄光のためであり,「神に,栄光が,イエス・キリストを通して永久にあらんことを。アーメン」。―16:19,27。
(この続きは次号に載せられます)
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