非常に多くの人がエホバの証人になっているのはなぜか
多くの国や地域で,人々はエホバの証人になっています。例えばイタリアではボローニャで,教会当局が法王の承認を得て,エホバの証人の成功に対抗する方法を研究するために会議を開いたほどです。ラ・レプブリカ紙によると,カトリック教会は,毎年カトリック教徒1万人がエホバの証人になっているため,「警告の声」を上げました。
イエズス会のジュセッペ・デ・ロサは,「宗教上の観点からすると,最も危険なのはエホバの証人である。彼らは十分に訓練されており,いつも聖書を手にしている」と述べました。
イエズス会の刊行物「ラ・チビルタ・カットリカ」の1984年2月18日号は,論説の中で特にエホバの証人のことを取り上げ,次のように書いていました。
「この運動組織が広まった第1の理由は,その宣伝技術[すなわち,宣べ伝える業]にある。この業は,ある面では骨の折れる業だが,周到な訓練を受け,強い確信を抱いた人々が戸別に行なっている。……
「エホバの証人が成功している第2の理由は,エホバ信奉者の音信の持つ魅力的な力,すなわち,この時代の人々が必要とし,要求し,期待するものを提供できることにある。まず第一に,確実さの必要が満たされている。それはすべてが不確実で不安定な時代にあって大いに感謝されるものである。……とりわけ,それは将来に関する絶対確かな啓示であるゆえに,それを受け入れる人は皆あらゆる恐れや不安から解放され,喜びをもって将来に向かうことができる。彼らは,邪悪な世界に対する神の大いなる裁きの日という滅びを生き残り,地上で永遠に幸福に生活できると確信している。第二に,エホバ信奉者の音信は,我慢のならない今日の状況が覆される時の近いこと,それゆえ間もなく新しい時代が到来する,つまり今勝ち誇っている邪悪な者たちがみな除き去られることによって新しい世界が実現することを知らせているので,この世界の災いに直面している人にとって不安を克服する助けになる。……
「エホバの証人が成功を収めている第3の理由は,この運動がその成員に自分自身に関する明確で強力な自覚を持たせると共に,その組織の成員が温かく迎えられ,兄弟関係や連帯感を味わえるということである」。
バチカン教書は現代の人々が必要としている事柄を分析しました。そして,先ほどのイエズス会のラ・チビルタ・カットリカ誌からの引用文によれば,そうした必要を満たしているのはエホバの証人の音信であることが分かります。このことはカトリック作家のビットリオ・メッソーリの言葉によってさらに裏づけられています。メッソーリは,最近の著作である「スコンメッサ・ズラ・モルテ」(「死についての賭」)の中で次のように書いています。
「これら終末論を説く宗派の一つ ― エホバの証人 ― が世界で最も急速に伸びている信仰あるいは宗教であることを認めると,これは考えさせられる。エホバの証人は,多くの国や地域で最もよく実践されている宗教のうちに数えられる。……そして恐らく,真剣さ,熱意,活発さ,改宗者を得る能力の点では筆頭に挙げられるであろう。
「彼らの存在は,キリスト教の伝統を持つ国や地域に限らず,世界中の至る所でかつてなく目立っており,多くの場合,カトリックやプロテスタントや正統派の宣教師が何百年も働いて得た結果よりも優れた成果を,エホバの名によって非常に短期間に収めている。
「この印象的な拡大の力を不可解とする人がいるとすれば,それは……エホバの証人による聖書の解釈の仕方のほうが,他の神学ではもはや満たせない真の必要にかなっているようだ,ということを認めたくない人たちだけである。
「証人たちが繁栄しているのは恐れを利用しているからだ,などと言って論争を避けることはできない。事実はその反対なのである。“公認の”諸教会とは違い,彼らは地獄の存在を否定し,邪悪な者や不信者は滅びる,つまり死ねば完全に消滅すると説いている。この見込みは不愉快なものかもしれないが,永劫の恐ろしい苦しみで脅されるよりは恐怖も薄らぐことは確かだ」。
そうです,エホバの証人の神は愛のある神であり,人々を恐怖で打ちのめす方ではありません。
次に紹介するのは,カトリックの刊行物「モンド・エッレ」の1986年3月号からの引用文です。「自らの宣べ伝える信仰を実践する点での第一人者はエホバの証人である,と言わねばならない。彼らは腹を立てない。たばこは吸わない。富は蓄積しない。政治にかかわる議論はしない。……彼らは税金を払い,高潔で正直な生き方をする。幸福であり,よく人の世話をする。万事がこうだから,みんなから好かれるのである」。
元カトリック教徒に聞く
元カトリック教徒だった二人の人に,別の宗教を選んだ理由をじかに説明してもらうのは興味深いことです。
パルマ州(イタリア北部)に住む若い既婚婦人ロザンナ・Cはこう語っています。
「子供のころの私は平穏な日々を過ごしました。両親からとても愛されていましたし,標準的なカトリックの教育も受けました。青年期には多くの若者に共通の願いを持つようになりました。神のために有用な者となって神に仕えたいと思ったのです。その願いを抱くようになったのは,本屋で求めた1冊の福音書を読んだからでした。それ以前には一度も読んだことがありませんでした。自分の読んだ事柄からイエスを愛するようになりました。意味はよく分かりませんでしたが,イエスが人類に対する希望の音信を持っていらっしゃることははっきりと理解しました。それに,イエスの弟子は神と仲間の人間に深い愛を示さなければならない,ということも理解しました」。
「目ざめよ!」誌: 教会員として活動していて満足を味わっておられましたか。
ロザンナ: いいえ,満足してはいませんでした。私は17歳の時に,10歳から12歳の子供に公教要理を教えました。そして,カトリック・アクション青年団の一員として様々な集会や霊的黙想に参加しました。宗教活動の面から言えば非常に忙しかったのですが,いやなことが二つありました。自分のとても尊重していた聖書が一度も検討されなかったことと,自分の属していたそのグループには本当の無私の愛と一致が見られなかったことです。それだけでなく,男色者や同性愛者が受け入れられていて,グループの中で高く評価されていたことも気になっていました。ある日の午後のこと,こらえきれなくなって泣いてしまいました。
「目ざめよ!」誌: エホバの証人になるのに問題はありませんでしたか。
ロザンナ: いいえ,ありました。最初に両親がエホバの証人の訪問を受け入れ始めた時,一緒に聞こうという気持ちは全くありませんでした。それでも後に,その人たちの良い振る舞いに心を動かされ,証人たちのことを調べてみようと思ってその人たちとの聖書の討議に加わりました。それによって私の心は決まりました。一番心を動かされたのは,私の持ち出すどんな異議に対しても証人たちが聖書から明確な答えを与えてくれたことです。
「目ざめよ!」誌: そうした話し合いをした後で司祭のだれかに相談しましたか。
ロザンナ: ええ,数人の司祭と一人の尼僧に相談しました。でも,それらの人たちは“失われた羊”を助けることにあまり関心を抱いていませんでした。私は聖書を綿密に研究した後,1977年に水のバプテスマを受けて,エホバ神に献身したことを公に表わしました。
イゼルニア(イタリア中部)出身の30歳の男性クラウディオ・Cは,次のように語りました。
「私は10歳の時に自ら志望して,カプチン修道会の経営する神学校に入学しました。宣教師になって神に仕えたいと願っていたのです。神学校での生活には,特異な種々の事情のために問題がありました。しかし,私にとって本当に悩みだったのは,切に読みたいと願っていた聖書を上長たちが与えてくれなかったことでした。さらにある司祭が私たちに,人間の起源は進化によるものだと言ったので,私はいよいよ不安になりました。それで15歳の時に,神学校では神に仕えるという自分の目標を達成することはできないとあきらめて,そこを去りました」。
「目ざめよ!」誌: どういういきさつでエホバの証人と接触するようになったのですか。
クラウディオ: 私の家に証人たちが来たのです。私はその人たちに率直な質問をしたのを覚えています。私の質問に対しては率直で的確な答えが返ってきました。その人たちは,『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』という本と『聖書はほんとうに神のことばですか』という本を置いていきました。私はそれらの本を読んで,進化論には根拠がないこと,また聖書は神の霊感による著作であることを悟りました。共に真理の探究をするようになっていた私の実の兄弟と一緒に考えたのは,エホバの証人が本当に真のキリスト教を代表する人たちではないだろうかということでした。それで証人たちの教理をもっと徹底的に調べてみる必要を感じました。
「目ざめよ!」誌: それからどうされましたか。
クラウディオ: 私たちは3人の司祭と話し合い,いろいろなプロテスタント教会の牧師とも話し合いました。そして徹底的に調査した結果,聖書を理解するよう本当に人々を助けているのはエホバの証人である,という確信を持ちました。私たちはバプテスマを受けてエホバの証人になり,私はついに,神に仕えるという子供のころからの目標を達成しました。
あなたは自ら進んでご自分の宗教上の見解を神の言葉聖書と比較なさいますか。偏見を持たずにそうする勇気をお持ちですか。
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『彼らはいつも聖書を手にしている』― イエズス会士ジュセッペ・デ・ロサ
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「自らの宣べ伝える信仰を実践する点での第一人者はエホバの証人である」― カトリックの刊行物「モンド・エッレ」
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『証人たちは聖書から明確な答えを与えてくれました』
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『私はついに,神に仕えるという子供のころからの目標を達成しました』