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宇宙はどのようにして生じたか ― 創世をめぐる論議あなたのことを気づかう創造者がおられますか
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第2章
宇宙はどのようにして生じたか ― 創世をめぐる論議
宇宙飛行士にとってとりわけ感動となるのは,宇宙船の窓から,大きく迫る地球のすがたをカメラに収める時です。「それが宇宙飛行で最高の瞬間だ」と,一飛行士は語りました。とはいえ,太陽系と比べると,わたしたちの地球はいかにも小さく見えます。太陽は,100万個の地球を中に入れてもなお余裕のある大きさです。しかし,宇宙に関するこうした事実は,あなたの人生に,また人生の意味に何かのかかわりがあるでしょうか。
頭の中で宇宙への短い旅をして,わたしたちの地球と太陽を大きな視野の中で眺めてみましょう。太陽は,天の川銀河の,渦巻き状になった腕の一つにある,おそろしいほど多くの星の中の一つにすぎません。a それでも,この銀河系そのものは,宇宙のほんの小部分にすぎないのです。肉眼で幾つかぼんやりした光として見えるものがありますが,それは実際には他の銀河で,その一つに,大きくて美しいアンドロメダ銀河があります。天の川銀河,アンドロメダ銀河,および20ほどの他の銀河は重力によって房状に結び合っています。このすべては,ずっと大きな超銀河団の中の小さな範囲に位置する隣人同士なのです。宇宙には,そのような超銀河団が無数に存在しています。しかし,これが話の終わりではありません。
銀河団は宇宙空間に一様に分布しているわけではありません。広い視野で見ると,それら銀河団は,泡状の巨大な空洞<ボイド>の周囲にある平らなひも,またフィラメントのように見えます。そのある部分は非常に長くて幅もあり,万里の長城<グレートウォール>に似ています。これは,わたしたちの周囲の森羅万象が宇宙の偶然性の爆発によって独りでに造り出されたと考える多くの人にとって,とても不思議に思えることでしょう。サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)の熟練記者は,「宇宙のさん然たる細部がはっきり見えてくるにつれ,それがどうしてそうなったかを単純な理論で説明することはいよいよ難しくなるだろう」と述べています。
始まりがあった証拠
わたしたちに一つ一つ見える星はすべて天の川銀河内の星です。1920年代までは,それが唯一の銀河のように思われていました。しかし,ご存じのように,大型の望遠鏡による観測がなされるようになって,実はそうではないことが分かってきました。この宇宙には,少なくとも500億もの銀河があります。500億個の星ではありません。それぞれが太陽と同じような星を幾十幾百億個も持つ銀河が,少なくとも500億存在するのです。とはいえ,1920年代にそれまでの科学上の概念を揺るがせたものは,巨大な銀河がとてつもなく多く存在するということではありません。そのすべてが運動している,ということでした。
天文学者たちは,注目すべき事実を発見しました。つまり,銀河からの光をプリズムに通すと,その光の波長が引き伸ばされて見えました。これは,猛スピードでわたしたちから遠ざかる運動を暗示するものでした。遠くにある銀河ほど速い速度で後退している様子が見えました。これは,この宇宙が膨張していることを示しているのです。b
専門の天文学者やアマチュアの天文家ではなくても,宇宙が膨張しているということが,人間の過去について,そして恐らくはわたしたち各人の将来についても,深い意味を持つであろうことを理解できるはずです。何らかのものがその過程を始動させたはずであり,それは全宇宙の測り難いほどの引力に打ち勝つだけの強力な力です。『そうしたダイナミックなエネルギーの源はいったい何なのか』と問うのはもっともです。
たいていの科学者は,宇宙の歴史を非常に小さくて高密度の始まり(特異点)にまでさかのぼりますが,わたしたちは次の重要な問題を避けることはできません。つまり,「過去のある時点で,宇宙がかつて無限に小さく,無限に密度の高い特異状態に近かったなら,それ以前には,また宇宙の外には何があったのかと問わなければならない。……我々は,始まりの問題に直面しなければならないのである」。―バーナード・ラベル卿。
これは,単なる膨大なエネルギーの源以上のものを暗示しています。先見と知能もまた必要なのです。膨張の割合がきわめて微妙に調整されていることがうかがえるからです。ラベルはこう述べています。「もしも宇宙が1兆分の1ほど速い速度で膨張していたなら,宇宙内のすべての物質は現在までに消散してしまっていたであろう。……また,もし1兆分の1ほど遅かったなら,重力の作用により,宇宙は存在しはじめてから最初の10億年かそこらで崩壊していたであろう。長命の星も,生命体も全く存在しなかったであろう」。
始まりについて説明する試み
今日,専門の研究者は,宇宙の起源について説明できますか。多くの科学者は,宇宙が高度の知能によって創造されたという考えを受け入れにくく感じ,何らかの仕組みでそれは無から独りでに造り出されたという推測をしています。それは筋の通ったことに思えますか。その種の推測はおおむね,1979年に物理学者アラン・グースが想定した理論(インフレーション宇宙モデル)c を基にして,それを多少言い換えたものです。しかし最近グース博士は,自分の理論が「宇宙がどのように無から生じたかを説明するものではない」ことを認めました。アンドレイ・リンデ博士は,サイエンティフィック・アメリカン誌の一記事の中で,さらにはっきりとこう述べています。「この当初の特異点について説明すること,つまりそのすべてがどこで,いつ始まったかは,依然現代宇宙論の最も扱いにくい難問である」。
専門の研究者たちが宇宙の起源や初期の段階について実際には説明できないのであれば,わたしたちはどこかほかの所に説明を求めるべきではないでしょうか。実のところ,多くの人に見過ごされていますが,この問題に関して真に洞察を与え得る幾つかの証拠があり,それは十分に検討してみるべきものです。その証拠とは,物質に影響するあらゆる特性や変化に関与する四つの基本的な力の精密な測定値にかかわるものです。基本的な力と聞いただけで,『それは物理学者の問題だ』と考えて,しりごみしてしまう人がいるかもしれません。しかし,そうではありません。基礎的な事実として検討してみる価値があります。それはわたしたちと関係があるからです。
微妙な調和
広大な宇宙にも,極微の原子の構造にも,四つの基本的な力が作用しています。そうです,わたしたちの周囲に見られるすべての物に,それはかかわっています。
わたしたちの生命に欠くことのできない元素(とりわけ,炭素,酸素,鉄)は,宇宙内に見られる四つの力が微妙に調和していなければ存在できません。そのうちの一つである重力についてはすでに触れました。もう一つは電磁力です。仮にそれがずっと弱かったなら,電子は原子核の周りにとどまってはいないでしょう。『それが重大な事なのだろうか』と尋ねる方もおられるでしょう。重大なのです。原子と原子が結合して分子を構成することができなくなるからです。逆に,もしこの力がもっと強かったなら,電子は原子核にとらえられて動けないでしょう。原子相互の化学反応は何も起きず,生命は生じないことになります。ただこの点だけから見ても,わたしたちの存在と生命とは,電磁力の強さが微妙に調整されていることの上に成り立っていることは明らかです。
宇宙的な規模でこれを考えてみてください。電磁力のわずかな違いが太陽の活動に影響し,それが地球に達する光に変化を来たらせ,植物の光合成を起きにくく,もしくは不可能にします。それはまた,生命活動に必須な水の特異な特性を失わせることにもなります。ここでも,電磁力の精密な調整が,わたしたちの生存を決定しているのです。
電磁力の強さの度合いは,他の三つの力との関係という点から見てもきわめて重要です。一例を挙げると,物理学者はふつう,電磁力を,重力の10,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000倍(1040)と計算しています。このような数字にゼロをあと一つ足しても(1041)それほどの違いではないように思えるかもしれません。しかしそれは,重力がその分だけ電磁力より弱いということになります。ラインハルト・ブリューア博士は,それによって生じ得る状況についてこう述べています。「重力の値が今より低ければ,星の大きさは小さくなり,その内部で重力のために生じる圧力は,核融合反応を始動させるほどの高温を発生させることができない。つまり,太陽は照り輝くことができない」。これがわたしたちにとってどういう意味になるかは,容易に想像できるはずです。
仮に,重力が相対的にやや強く,上の数字のゼロが39個だけ(1039)であるとしたらどうでしょうか。ブリューア博士はこう続けています。「そのようなごくわずかな調整だけで,太陽のような星の寿命は著しく短くなるだろう」。このような微妙な調整をもっともっと精密なものと見ている科学者たちもいます。
実際のところ,わたしたちの太陽その他の恒星が持つ二つの注目すべき特性は,長期的効率と安定性です。簡単な例えで考えてください。わたしたちもよく知るとおり,自動車が効率的に走るには,エンジンの中で燃料と空気の比率が適正になっていることが必要です。技術者たちは性能を最適なものにするために,入り組んだ機械とコンピューターの装置を設計します。ただのエンジンでもそうであれば,太陽のように効率よく“燃焼している”星については何と言えるでしょうか。そこに基本的に関係している各種の力のバランスは精密に調整され,生命のために最適な状態になっているのです。そうした精密さはたまたまそのようになったのでしょうか。古代の人ヨブは,「天の法則を知り その支配を地上に及ぼす者はお前か」と問いかけられました。(ヨブ 38:33,新共同訳聖書)人間がこれを行なったのではありません。では,そのような精密さはどこから来ているのでしょうか。
二つの核力
宇宙の組み立てに関係しているのは,単に重力と電磁力との微妙な調和だけではありません。物理学的に見ると,あと二つの力があって,それがわたしたちの生命とかかわりを持っています。
その二つの力は原子の核の中で作用しており,あらかじめそのように考量されたことを十分に証拠立てるものとなっています。強い核力について考えてください。それが,原子の核内で陽子と中性子を結び付けています。この結び付きによって,軽い元素(ヘリウム,酸素など)から重い元素(金,鉛など)まで,各種の元素が構成されています。もしその結合力がほんの2%ほど弱かったなら,水素以外の元素は存在していないでしょう。逆に,もしこの力がわずかに強かったなら,重い元素だけができ,水素は全く存在していないでしょう。わたしたちの命に影響があるでしょうか。この宇宙内に水素がなければ,太陽は,生命のもととなるエネルギーを発散するための燃料がないことになります。そしてもちろん,わたしたちには,水も食物もないことになります。水素はこれら二つに必須の構成要素です。
ここで論議する四番目の力は弱い核力と呼ばれるもので,放射性崩壊を制御しています。それは,太陽内部での熱核反応にも影響を与えています。『この力も微妙に調整されているのだろうか』とお尋ねになるでしょうか。数学者で物理学者でもあるフリーマン・ダイソンはこう説明しています。「この弱い[力]は,もう一方の核力の幾百万分の一と極めて弱い。太陽内の水素がゆっくりと安定した割合で燃焼するのにほどよい弱さである。この弱い[力]がもっと強かったり弱かったりしても,太陽のような星に依存している生物すべてはやはり生存しにくいことになる」。そうです,こうして精密な割合で燃焼しているおかげで,地球は温暖に保たれ,焼けて灰になってしまうことはなく,わたしたちは生き続けているのです。
科学者たちはまた,弱い力が超新星の爆発にもかかわっていると考えています。それが,たいていの元素の生成され,放出される仕組みである,と言うのです。「もしそれらの核力が何らかのかたちで今日あるところとは多少とも異なっていたならば,星々はわたしたちを形造っている諸元素を造り出すことができないであろう」と,物理学者ジョン・ポルキンホーンは述べています。
ほかにも多くの点を挙げることができますが,あなたはすでに要点を理解されたことでしょう。これら四つの基本的な力について,驚くほどに微妙な調整がなされているのです。「わたしたちは,自然界が実にみごとに適合している証拠を,周囲のいたるところに見ているようだ」と,ポール・デーヴィス教授は書いています。そうです,基本的な力が精密に調整されていることによって,太陽の存在と運行が可能になり,生命を維持する水をたたえた快適な惑星である地球,また生物に欠くことのできない大気と,地上の多彩で貴重な種々の元素が生じることになったのです。しかし,考えてください。『どうしてこのように精密な調整がなされているのか,それはどこから来ているのか』と。
地球の特徴的条件が理想的なこと
わたしたちの生存のためには,物事が他の面でも精密に調整されていることが必要です。地球の各種の測定値,また太陽系内の他の天体との位置関係について考えてください。聖書のヨブ記には,人を謙虚な気持ちにならせる次のような問いかけがあります。「わたしが地の基を置いたとき,あなたはどこにいたのか。……だれがその度量衡を定めたのか。もしあなたが知っているのなら」。(ヨブ 38:4,5)これらの問いは,これまでにもまして答えを求めています。なぜでしょうか。わたしたちの地球,とりわけその大きさ,また太陽系内での位置に関して見いだされている数々の目ざましい事柄のためです。
地球のような惑星は,宇宙内の他のどこにも見いだされていません。確かに,間接的な証拠によるとはいえ,地球の何百倍も大きい天体を周囲の軌道に乗せている星が幾つかあるとする科学者たちもいます。しかし,地球は,わたしたちの生存のためにちょうど良い大きさなのです。どうしてそう言えますか。もし地球が今より多少とも大きかったなら,その引力は今より強くなり,軽い気体である水素も集められて,地球の引力から抜け出せないでしょう。そうなると,大気は生物にとっては好適ではないのです。一方,わたしたちの地球が多少とも小さければ,生命を維持する酸素は地球から抜け出し,地表の水は蒸発してしまうでしょう。いずれの場合にも,わたしたちは生存できないでしょう。
地球は,太陽からの距離という点でも理想的な位置にあります。これも,生物が生きるのに欠かせない要素です。天文学者ジョン・バローと数学者フランク・ティプラーは,「地球の半径と太陽からの距離との比」について研究しました。「この比が今日観察されるところと多少とも異なっていたなら」,人間の生命は存在し得ない,というのがその結論です。デービッド・L・ブロック教授はこう述べています。「計算からすると,地球が今よりわずか5%太陽に近い位置にあったなら,とどめようのない地球の温暖化[地球の過熱]がおよそ40億年も前に起きていたであろう。逆に,地球が今よりほんの1%だけ太陽から離れた位置にあったなら,とどめようのない氷結現象[巨大な氷の板が地球の多くの面を覆ってしまうこと]が20億年ほども前に起きていたであろう」。―「我らの宇宙: 偶発的なもの,それとも設計されたもの?」(Our Universe: Accident or Design?)
精密さの例として,地球が地軸を中心にして一日に一回自転するという点も挙げることができるでしょう。これは,温度を穏やかに保つのにちょうど良い速度です。金星は一回自転するのに243日かかります。地球の自転にそれほどかかるならどうなるかを想像してください。昼と夜があまりに長いために生じる極端な暑さと寒さを,わたしたちは生き延びられないでしょう。
もう一つ重要な点は,太陽を回る地球の道筋です。彗星は横長の楕円状に動きます。幸いなことに,地球はそうではありません。その軌道はほぼ円形です。ここでもわたしたちは,致命的な甚だしい寒暖の差を免れているのです。
わたしたちの太陽系の置かれた位置関係も見落とすべきではありません。それが天の川銀河の中心にもっと近かったなら,近隣の星による引力の影響で,地球の軌道はゆがめられていたことでしょう。逆に,銀河系のごく端に位置していたなら,夜空に星はほとんど見えなかったでしょう。星の光は生命に不可欠なものではありませんが,それはわたしたちの夜空を大いに美しくしているのではないでしょうか。そして,宇宙に対する今日の科学者たちの概念に基づく計算によれば,天の川の端のほうでは,今あるような太陽系を構成するに必要なだけの化学元素はできなかったでしょう。d
法則と秩序
ご自身の経験からも知っておられるはずですが,すべてのものは秩序の失われる方向に向かいます。家を持つ人ならだれもが観察しているとおり,何も構わずにおけば,事物はだんだん分解し,崩壊してゆきます。科学者はこのような傾向を,「熱力学の第二法則」と呼んでいます。この法則の働く様子は日常的に見られます。新しい自動車でも自転車でも,ほうっておけばやがてがらくたになります。建物は,放置しておけば廃墟になります。宇宙についてはどうでしょうか。そこにも同じ法則が働いています。ですから,宇宙全体にわたる秩序は全く無秩序の方向に変わってゆくはずだと思われないでしょうか。
ところが,このことは宇宙に生じていないように思われます。数学者ロジャー・ペンローズは,観測しうる宇宙の無秩序さ(つまり,エントロピー)について研究しようとしてそのことを見いだしました。このような研究の結果を論理的に解釈すれば,宇宙は整然としたかたちで始まり,依然として高度に組織的な状態を保ってきた,ということになります。天文物理学者アラン・ライトマンの言葉を借りれば,科学者たちは「宇宙がこれほど整然たる姿に出来上がっていることを不思議に思って」います。さらにライトマンは,「宇宙論としてしっかり成り立つものは,エントロピーにかかわるこの問題点を」,つまりなぜ宇宙が混沌に至っていないのかを「究極的に説明するものでなければならない」と述べています。
現に人間の存在そのものが,はっきり認められているこの法則に逆行しているのです。それで,わたしたちがいま地上に生存しているのはなぜなのでしょうか。すでに述べたとおり,これは,ぜひとも答えを得るべき基本的な疑問です。
[脚注]
a 天の川銀河は直径が約100京(けい)㌔,つまり1,000,000,000,000,000,000㌔もあります。これを光が横切るのに10万年かかり,この銀河系だけで1,000億個以上の星があります。
b 1995年,科学者たちは,それまで観測された中で最も遠い星(SN 1995K)がその銀河内で爆発した時の奇妙な動きに注目しました。近くにある銀河内の超新星の場合と同じように,この星も非常に明るくなり,それから徐々に薄れてゆきましたが,その時間がこれまで検知されてきたものよりずっと長くかかりました。ニュー・サイエンティスト誌(New Scientist)はその模様をグラフで示してこう説明しました。「その光が示す曲線は……時間と共に引き伸ばされ,その度合いは,その銀河が光のほぼ半分の速さで我々から遠ざかっているとすれば想定されるものとまさに一致する」。結論はどういうことですか。「宇宙がまさしく膨張しているというこれまでで最大の証拠」です。
c インフレーション理論は,宇宙が始まってから1秒のほんの何分の1かの間にどのような事柄が生じたかを推測しています。インフレーションを唱える人たちは,宇宙は初めは超顕微鏡的で,その後,光より速い速度で膨張(インフレート)したと考えていますが,研究室では検証しにくい議論です。インフレーションは依然論議の的とされている理論です。
d 科学者の発見のとおり,各種の元素の間には驚くほどの秩序と調和が見られます。26ページの付録,「宇宙の基本的構成単位」に,この点の興味深い資料があります。
[15ページの囲み記事]
星の数を数える
天の川銀河には100,000,000,000(1,000億)個以上の星があると推定されています。これらの星一つ一つについて1ページを充てている百科事典を想像してみてください。太陽も太陽系の残りの部分も合わせて1ページとします。天の川にあるすべての星を取り上げるのに合計何巻の百科事典にしなければならないでしょうか。
普通の厚さの書巻にすると,その百科事典は,全長412㌔の書架を持つニューヨーク公共図書館にも収まりきらないだろうとされています。
その百科事典のページを調べてゆくのにどれくらいの時間がかかるでしょうか。「1秒に1ページの割でページをめくるだけで1万年以上はかかるであろう」と,「銀河系の中でようやく大人に」(Coming of Age in the Milky Way)という本は述べています。それでも,わたしたちの銀河系を構成している星の数は,宇宙の推定50,000,000,000(500億)の銀河にある星全体のごくわずかな部分でしかありません。仮にそれらの星の一つ一つに1ページずつを充てるとすれば,その百科事典は,地上のすべての図書館の書架を合わせても収まりきらないでしょう。「宇宙について知れば知るほど,我々の知っていることがいかに少ないかが分かってくる」と上記の本は述べています。
[16ページの囲み記事]
ジャストロー ― 始まりについて
コロンビア大学の天文学および地質学の教授ロバート・ジャストローは次のように書きました。「この出来事が,つまり宇宙の突然の誕生が,科学上の事実として立証されるだろうと予想できた天文学者はほとんどいなかったと思われる。しかし,各種の望遠鏡による天体の観測は,どうしてもそのような結論に至らせたのである」。
次いで同教授は,そのことの意味をこう述べています。「始まりに関する天文学上の証拠は,科学者たちを不都合な状況に立たせる。どんな結果にもそれなりの原因があると信じているからである。……英国の天文学者E・A・ミルンはこう書いた。『我々は[創世における]事の次第については何も説を立てられない。神の創造の行為のさいにその様子を観察した者はおらず,そのことの証人はいないのである』」―「魅せられた織り機: 宇宙に見られる知能」(The Enchanted Loom—Mind in the Universe)。
[17ページの囲み記事]
物理学上の四つの基本的な力
1. 重力 ― 原子のレベルで働く非常に弱い力。惑星,星,銀河など大きな物体にも影響を及ぼす。
2. 電磁力 ― 陽子と電子の間の引き合う主要な力で,分子を構成させる。稲妻はその力の一つの証拠。
3. 強い核力 ― 原子核の中で陽子と中性子を結合させる力。
4. 弱い核力 ― 放射性元素の自然崩壊,また太陽の効率的な熱核反応を制御している力。
[20ページの囲み記事]
「種々の同時発生的な組み合わせ」
「その弱い力が少し強くなるだけで,ヘリウムは造られなかったであろう。それが少し弱くなるだけで,水素はほとんどすべてヘリウムに変換してしまっただろう」。
「ヘリウムが幾らかあり,しかも爆発している超新星もあるような宇宙が存在するチャンスの幅は非常に狭い。我々の存在は,この種々の同時発生的な組み合わせに,そして[天文学者フレッド・]ホイルの予言した,異なる核エネルギー・レベルの同時共存というさらに劇的な一致に依存している。我々は,これまでのどの世代にもまして,自分たちがいかにしてここに存在するに至ったかを知っている。しかし,これまでのどの世代とも同じように,それがなぜなのかをまだ知らない」― ニュー・サイエンティスト誌。
[22ページの囲み記事]
「地球の大きさが理想的であること,その元素構成,また長命の星である太陽から申し分のない距離で円に近い軌道を回っていることなどから来る,地球の特別な条件が,地表面に水を集めることを可能にしている」。(「統合動物学原理」[Integrated Principles of Zoology],第7版)水がなければ,地上に生物は出現できませんでした。
[24ページの囲み記事]
見えるものだけを信じる?
多くの理性ある人々が,目では見ることのできないものの存在を受け入れています。1997年1月号のディスカバー誌(Discover)は,天文学者たちが,遠くの星の周りを回っている合計12ほどの惑星と判断できるものを探知した,と伝えました。
「これまでのところ,それらの新しい惑星については,その引力が親星の運行を乱していることからのみ知られている」。そうです,それら天文学者たちにとっては,引力による目に見える影響が,見えない天体の存在を信じる根拠となりました。
直接の観察ではなく,関連した証拠だけでも,科学者が,まだ目に見えない物事を受け入れるに十分な根拠となりました。創造者を信じる多くの人たちも,目で見ることのできないものを受け入れるだけの同様の根拠がある,と判断しています。
[25ページの囲み記事]
フレッド・ホイル卿は「宇宙の本質」(The Nature of the Universe)の中でこう説明しています。「創造をめぐる論争を避けるためには,宇宙のすべての物質は無限に古いということにせざるを得ないが,そのような事はあり得ない。……水素は徐々にヘリウムに,また他の元素に変換されてゆく。……では,一体なぜ宇宙はほとんどすべて水素で成り立っているのか。物質が無限に古いのであれば,このようなことは全く起き得ない。それで,宇宙の今日ある姿からすると,創造をめぐる論争をただ避けては通れない」。
[12,13ページの写真]
この渦巻き銀河NGC5236を例にして示せば,わたしたちの太陽(四角の部分に相当)は,天の川銀河の中でごく小さな存在でしかない
天の川には1,000億個以上の星があるが,これは現在知られている宇宙にある500億以上の銀河の一つにすぎない
[14ページの写真]
天文学者エドウィン・ハッブル(1889-1953年)は,遠くの銀河から来る光の赤方偏移(せきほうへんい)から,この宇宙が膨張していること,またそれゆえに宇宙に始まりのあったことを知った
[19ページの写真]
太陽を制御している幾つもの力の微妙な調和が,地上でのわたしたちの生活に好適な状態をかもし出している
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生命はどのようにして始まったかあなたのことを気づかう創造者がおられますか
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第3章
生命はどのようにして始まったか
わたしたちの地球には生命がみなぎっています。氷雪に覆われた極地地方からアマゾンの雨林まで,サハラ砂漠からフロリダのエバーグレーズ沼沢地まで,暗い海の底から光あふれる山々の頂にまで,生物が満ち満ちています。しかも,それら生き物は,わたしたちを驚嘆させるものをいっぱいに秘めています。
生物は,種類の豊富さ,大小の違い,数のおびただしさの点でわたしたちの想像を超えています。地上では100万種の昆虫が羽音を立て,あるいは這い回っています。周囲の水の中には,2万種あまりの魚類が泳いでいます。米粒ぐらいのものもいれば,貨物トラックほどの長さのものまでいます。少なくとも35万種の植物が地を飾っています。風変わりなものもありますが,ほとんどはいたって優美です。そして頭上には,9,000種を超える鳥類が飛び交っています。これらの生き物にさらに人間が加わって,生命と呼ばれるもののパノラマとシンフォニーが作り出されています。
しかし,わたしたちの周囲にあって目に楽しみとなるこうした多様性にもまして驚きとなるのは,むしろこれらを結び合わせている深遠な統一性です。生化学者たちは,地上のさまざまな生物のいわば皮膚の下をのぞき込んでいます。そして,アメーバにせよ人間にせよすべての生き物が,畏敬を感じさせるような一つの相互作用,すなわち核酸(DNAとRNA)とタンパク質分子との共同作業<チームワーク>に依存している,と説明しています。これら構成要素相互の入り組んだ過程は,わたしたちの体のほとんどすべての細胞の中に見られ,またハチドリやライオンやクジラの細胞の中でも同じように生じています。この一様な相互作用によって,生命の美しいモザイクが織り成されています。生物界のこうした全体的調和は,どうして生じたのでしょうか。そうです,生命はどのようにして始まったのでしょうか。
あなたも,地球上に生命が全く存在しなかった時期のあることを認められるでしょう。科学上の見解もその点で一致していますし,宗教関係の多くの書物もそのことを認めています。とはいえ,これらの二つ,つまり科学と宗教は,地上で生命がどのように始まったかについて説明を異にしているということも,あなたは知っておられるでしょう。
あらゆる教育レベルの非常に大勢の人々が,理知ある創造者,つまり最初の設計者がいて地上の生命を造り出した,と信じています。いっぽう多くの科学者は,生命は次から次へと化学的な段階を経て無生の物質から生じてきたのであり,これはただ偶然性によるとしています。どちらなのでしょうか。
わたしたちはこれを,自分とあまり関係のない事柄,また意義ある人生を見いだすこととは無縁の問題と考えるべきではありません。すでに述べたとおり,生きる人間として自分たちがどこから来たのかということは,人類が答えを得ようとしてきたきわめて基本的な疑問の一つなのです。
科学のたいていの講座は,生命がそもそもどのように始まったのかという核心となる疑問よりも,すでにある生物の適応とか生存とかいう点をもっぱら論じています。気づいておられるかもしれませんが,生命がどのようにして生じたかという説明の試みと言えば,『何億年もの間に分子同士の衝突により何らかの形で生命が生み出された』と概説されるのが普通です。しかし,これは本当に満足のゆく説明でしょうか。太陽,稲妻,火山などからのエネルギーが存在するところで,何らかの無生の物質が作用し,組織化され,やがて命あるものとして始まった,しかもそのすべては何ら方向づけのある助けなしになされた,というのです。それは何と大きな飛躍だったのでしょう! 命を持たない物質が,命のあるものになったのです! そのような事が,説明のとおりに起き得たのでしょうか。
中世であれば,そのような考えも問題なく受け入れられるように思えたことでしょう。自然発生,つまり生物は無生の物質から自然に生じ得るという概念が支配的だったからです。やがて17世紀に,イタリアの医師フランチェスコ・レディは,腐った肉にウジが発生するのはそこにハエが卵を産みつけた場合だけであることを立証しました。ハエが近づくことのできなかった肉にウジは全く発生しませんでした。ハエほどの大きさの動物が独りでには生じないのであれば,食べ物にふたをしていてもいなくてもいつも発生してくる微生物についてはどうでしょうか。その後の実験によって,微生物も自然には生じないことが示されました。しかし,論争はなお続きました。そこに登場したのがルイ・パスツールの研究です。
パスツールの業績としては,発酵や伝染病に関する問題を解決したことを思い出す方が多いでしょう。パスツールは,微小な生物が独りでに生じ得るかどうかを見定める実験も行ないました。お読みになったことがあるかもしれませんが,パスツールは,ごく微小なバクテリアも,殺菌して汚染されないようにした水の中には発生しないことを証明しました。1864年,パスツールは,「自然発生の理論はこの簡単な実験による致命的な打撃から決して立ち直れないであろう」と発表しました。この言葉は今日なお真実です。どんな実験によっても,無生の物質から生命が造り出されたことはありません。
では,生命は一体どのようにして地上に生じたのでしょうか。この疑問に答える現代の努力は,1920年代の,ロシアの生化学者アレクサンドル・I・オパーリンの研究にまでさかのぼることになるでしょう。オパーリンおよび他の科学者たちはその後,地球の舞台で生じてきたとされる事柄を描く,三幕物のドラマの台本のようなものを示してきました。第1幕では,原材料である地上のいろいろな元素が種々の分子のグループに変わるさまを描いています。次には,大型の分子への大跳躍です。そして,このドラマの最後の幕は,最初の生きた細胞への飛躍の様子を物語ります。しかし,それは本当にそのような形で起きたのでしょうか。
そのドラマの重要な点として,地球の初期の大気は今日のものとは非常に異なっていた,と説明されます。ある説では,遊離状態の酸素はほとんど存在しておらず,窒素,水素,炭素などの元素がアンモニアやメタンを構成するようになったとされています。これらの気体と水蒸気から成る大気に稲妻や紫外線が作用した時,糖類やアミノ酸が生じたというのがその概念です。ですが,これは仮説であることを忘れないでください。
この仮説上のドラマによれば,こうして分子の形になったものが海洋その他の水の中に溶け込みました。長い時間がたつうちに,糖類,酸類,その他の化合物は濃縮されて培養液のような“前生物的スープ”となり,その中で,例えばアミノ酸同士がさらに結合してタンパク質が出来上がりました。この仮説上の進展として,ヌクレオチドと呼ばれる別の化合物が鎖状に連なって,DNAのような核酸ができたとされています。このすべてが,分子成長のドラマの最終幕のための筋立てであるとされています。
この最後の幕は,考証がなされていないものなのですが,愛情物語<ラブストーリー>のように描き出されることでしょう。タンパク質分子とDNA分子とが,ふとした事で出会い,互いに認め合い,抱き合うのです。そして,まさに幕が下りる前に,最初の生きた細胞の誕生を迎えるのです。このドラマの筋を追ってこられたあなたは,『これは実話だろうか,それともフィクションなのだろうか。地上の生命は本当にこのようにして始まったのだろうか』と思われることでしょう。
実験室で創世記の再現?
1950年代の初め,科学者たちは,アレクサンドル・オパーリンの仮説の検証に取りかかりました。生物は生物からのみ生じるというのはすでに立証された点でしたが,科学者たちは,もし過去において条件が今とは異なっていたとすれば,生命は無生物から徐々に生じたのではないかという説を立てました。それを実証できるでしょうか。ハロルド・ユーリーの研究室で働いていた科学者スタンレー・L・ミラーは,水素,アンモニア,メタン,水蒸気を(これが原始の大気であったと想定して),沸騰した水を底部に入れた(海に相当するものとして)フラスコ装置の中に密閉し,電気火花を(稲妻のように)それら蒸気の中に放ちました。1週間たらずのうちに,赤みを帯びた粘っこい物質がかすかに生じていました。ミラーはそれを分析して,タンパク質の基本成分であるアミノ酸を多く含んでいることを発見しました。この実験についてはこれまでに何度もお聞きになったことがあるかもしれません。科学の教科書や学校の授業で多年にわたって引き合いに出され,地上の生命がどのように始まったかを説明しているかのように扱われてきたからです。しかし,本当に説明しているのでしょうか。
実のところ,ミラーの実験の価値については,今日まじめな疑問が提出されています。(36,37ページの「疑問視される古典的規範」をご覧ください。)とはいえ,この見かけ上の成功は他の種々の実験を導き,核酸(DNAやRNA)を構成する物質が生み出されたこともあります。この分野の専門家たち(生命の起源科学者と呼ばれることもある)は楽観的な展望を抱きました。分子成長のドラマの第1幕を現実的に再現できたと思ったからです。残る二幕の実験室版もその後に続くように思えました。化学の一教授は,「進化的メカニズムによる原始生命系の起源についての説明はじゅうぶん視界内にある」と唱えました。ある科学記者は,「学識者とされる人たちは,メアリー・シェリーのフランケンシュタイン博士のような科学者たちが,実験室の中でいまにも生物体を出現させて,創世の物語がどのように展開したかをつぶさに示してくれるものと思っていた」と述べています。生命の自然発生のなぞは解かれたのだと,多くの人は考えました。―38ページの,「右手,左手」をご覧ください。
見方の変化 ― なぞは残る
しかし,年月がたつうちにこうした希望的観測は消えてしまいました。数十年が経過した今,生命の秘密は依然はっきりしないままです。ミラー教授は,その実験から40年ほど後に,サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)の中で,「生命起源の問題は,私や他のたいていの人たちが思い描いたよりはるかに難しいものであることが分かってきた」と語りました。見方を変えている科学者たちはほかにもいます。例えば,1969年,生物学の教授ディーン・H・ケニヨンは,「生化学的予定説」(Biochemical Predestination)という本の執筆者の一人でした。しかし,ずっと最近になって同教授は,「物質とエネルギーが何の助けも受けず独りでに組織化されて生命体になったということは根本的に受け入れ難い」と結論しています。
実際のところ,実験室での研究は,「生命の化学的起源をめぐる現在のすべての説には根本的な欠陥」があるというケニヨンの評価を裏付けています。ミラーその他の人たちがアミノ酸を合成した後,科学者たちは,タンパク質とDNAを造り出すことを手がけました。これらはどちらも,地上の生命に必須なものです。前生物的条件とされるところでなされた幾千という実験から,どんな成果が得られたでしょうか。「生命起源のなぞ: 今日の理論の再評価」(The Mystery of Life's Origin: Reassessing Current Theories)という本はこう記しています。「アミノ酸合成におけるかなりの成功と,タンパク質やDNAを合成する面でのいつも変わらぬ失敗との間の対照はいかにも印象的である」。この後のほうの試みは,「すべて一様に失敗」というのがその特徴です。
実際的に見ると,このなぞには,どのようにして最初のタンパク質と核酸(DNAないしはRNA)の分子が存在するようになったかということ以上の多くのことが含まれています。つまり,それらがどのように作用し合うのかという点も含まれるのです。「それら二種の分子の協力関係があって初めて,今日の地上の生命は存在可能である」と,新ブリタニカ百科事典(英語版)は述べています。同百科事典はさらに,その協力関係が果たしてどのように生じるのかということが,「生命の起源に関する重大な未解決の問題」として残っている,と記しています。まさにそのとおりなのです。
付録イの,「生命活動のためのチームワーク」という記事(45-47ページ)は,人体の細胞内でのタンパク質と核酸との興味あふれる共同作業<チームワーク>について,その基本的な点を幾つか取り上げています。わたしたちの体にある細胞の世界をこうしてかいま見るだけでも,科学者たちのこの分野での研究に対する嘆賞の念を覚えます。科学者は,わたしたちがほとんど考えもしないことながら,命の続いているかぎり刻一刻営まれている,驚くほど複雑な過程に光を投じてくれました。しかし別の観点に立って,ここで求められる,感服させるほどの複雑さと精密さを思うとき,このすべてはどのようにして生じたのかという初めからの疑問に戻らざるを得ません。
生命の起源科学者たちが,最初の生命の出現に関するドラマのためにもっともなシナリオをまとめようと今でも努力していることがお分かりでしょう。それでも,書き上げられてくる台本はいずれも,説得力のあるものとなってはいません。(48ページの付録ロ,「“RNAだけの世界”から,それとも,外界から?」をご覧ください。)この点で例を挙げれば,ドイツ,マインツの生化学研究所のクラウス・ドーズは,「現状からすれば,この分野の主要な学説や実験に関する論議はすべて,結局のところ行き詰まってしまうか,無知を告白することになるかのいずれかである」と述べています。
1996年の,“生命の起源に関する国際会議”においても,解答は見えていませんでした。むしろ,サイエンス誌(Science)の伝えたとおり,参会した300人近い科学者たちは,「[DNAやRNA]分子が最初にどのように現われ,どのように自己複製してゆく細胞へと進化したかというなぞと苦闘して」いました。
わたしたちの細胞内の分子レベルでどのような事が起きているかについて研究し,その説明を試みるだけでも,知能と高度の教育とが求められています。最初の“前生物的スープ”の中で,幾つもの複雑な段階が,何の導きも受けることなく,自然発生的な偶然の仕組みで生じた,と信じるのは道理にかなったことでしょうか。それとも,別の何かが関係していたのでしょうか。
なぞとされるのはなぜか
今日人は,生命が独りでに発生したというこれまで半世紀近くにわたる推測と,それを証明しようとする幾多の試みのあとを振り返ることができます。それを行なうとき,ノーベル賞を受けたフランシス・クリックの言葉に否定しがたいものを感じることでしょう。生命の起源に関するさまざまな学説について,クリックは,「あまりにも少ない事実を追ってあまりにも多くの推測がめぐらされている」と述べました。ですから,事実を精査する科学者たちの中に,生命はあまりにも複雑で,何ら制御されていない環境下はもとより,よく組織化された実験室においてすら,ひょっこり飛び出してくるようなものではない,と結論する人がいるのは理解できます。
生命が自然に生じ得ることを高度な科学が証明できないでいるのに,ある科学者たちがそのような説にずっと固執しているのはなぜでしょうか。30年ほど前,J・D・バーナル教授は,「生命の起源」(The Origin of Life)という本の中で,状況を見通してこう述べました。「科学的手法の厳密な規範をこの問題[生命の自然発生]に当てはめれば,生命の生じて来ることがいかに不可能かは,その話のさまざまな箇所で有効に実証できる。それが起こり得ない確率はあまりにも高く,生命の出現してくる可能性はあまりにも小さいのである」。同教授はさらにこう述べました。「この観点からすれば,遺憾なことではあるが,生物は形態も営みも実に多様なものとして現に地上に生存しているのであり,その存在を説明するためには,議論の方向を曲げなければならない」。そして,事情は今も変わっていません。
こうした論議の背後の意味を考えてください。事実上こう言っているのです。『科学的に言えば,生命は独りでに始まったはずはないというのが正しい。しかしそうではあっても,生命は自然発生的に生じたというのが,我々の持ち得る唯一の想定である。ゆえに,議論の方向を曲げて,生命は自然発生的に生じたという仮説を説明できるものにする必要がある』。このような論理に納得できますか。このような論議のためには,事実を大いに『曲げる』ことが求められるのではないでしょうか。
しかし,見識があり尊敬される人々で,生命の起源に関する一般的な観念に適合させるために事実を曲げる必要など認めない科学者たちもいます。そうした人々はむしろ,事実に基づく道理にそった結論を受け入れます。どんな事実,どんな結論でしょうか。
情報と知能
ポーランド科学アカデミーの樹木学会員で,著名な遺伝学者でもあるマーチェイ・ギエルティフ教授は,あるドキュメンタリー番組のインタビューの中でこのように答えました。
「私たちは,膨大量の情報が遺伝子に含まれていることに気づくようになりました。それだけの情報がいかにして自然発生的に生じるかについて,科学は説明を持ち合わせていません。そこには知能が必要です。それは偶然性の出来事によっては生じ得ません。ただ文字を混ぜ合わせるだけで言葉はできないのです」。同教授はさらにこう述べました。「例えば,細胞内でなされるDNAやRNAやタンパク質の複製のシステムはきわめて複雑なものですが,それはごく最初から完全に整ったものであったはずです。そうでなければ,生命体は生存できません。この莫大な量の情報は何かの知能から来ているというのが唯一の論理的な説明です」。
生命の不思議について学べば学ぶほど,このような結論を認めざるを得ないことが分かるでしょう。生命の始まりには,どうしても知能のある源が必要なのです。それはどんな源でしょうか。
すでに述べたとおり,教育のある人々で,地上の生物が高度の何らかの知能によって,つまり何らかの設計者によって生み出されたに違いないと判断している人たちは非常に多くいます。そうです,そうした人々は,物事を公正に調べた結果として,今日の科学の時代においても,神について,『命の源はあなたのもとにあります』と述べた,遠い昔の聖書時代の詩人の言葉に同意するのがもっともだという見方をするようになりました。―詩編 36:9。
この点についてすでにはっきりした結論に達しているにしてもいないにしても,わたしたち自身にかかわる幾つかの驚異に目を向けてみましょう。それは大いに満足を与えてくれるものであり,わたしたちの人生に関係のあるこのテーマに少なからぬ光を投じるものとなるでしょう。
[30ページの囲み記事]
偶然の可能性はどれほどか
「偶然,まさに偶然だけが,原始のスープから人間にまで至るすべての事を行なった」。ノーベル賞を受けたクリスチャン・ドデューブは,生命の起源についてこのように述べました。しかし,偶然性は生命の起こりについて合理的な説明となるでしょうか。
偶然とはどういうことですか。投げた硬貨が表になるか裏になるかの偶然性を見るときのように,数学的な確率という意味でこれを考える人々がいます。しかし,多くの科学者が生命の始まりに関して「偶然」という語を使うのは,そのような意味ではありません。「偶然」というあいまいな語が,例えば「原因」など,もっと厳密な言葉の代用語として用いられているのです。しかも,物事の原因がはっきりしない場合にかぎってそのように用いられています。
生物物理学者のドナルド・M・マッケイはこう述べています。「『偶然』ということを擬人化してしまって物事の原因行為者であるかのようにするのは,科学的な概念を,宗教めいた神話的な概念に変えてしまう誤りである」。同様に,ロバート・C・スプラウルも次の点を指摘しています。「原因の分からないときにそれを『偶然』と呼ぶことが長く行なわれてきた結果,人は,ここで考えの置き換えがなされていることを忘れかけている。……『偶然とはすなわち未知の原因のことである』という想定が,多くの人にとって,『偶然とはすなわちその原因のことである』という意味になってしまっている」。
この,偶然すなわち原因というような論法をしている人のひとりとして,ノーベル賞を受けたジャック・L・モノがいます。こう書いています。「純然たる偶然,つまり絶対の自律的盲目性こそ,進化というとてつもない殿堂の根底にあるものなのである。人間はただ偶然によって宇宙内に出現してきたが,感情を持たない広大無辺のこの宇宙にあって,ついに自分が独りそこにあることを知ったのである」。『偶然によって』と述べられている点に注目してください。モノは他の多くの人たちと同じことをしています。つまり,偶然性を,創造的原理の位置に祭り上げています。偶然性が,地上の生命が存在に至ったその手段として提出されているのです。
実際のところ,辞書は一般に,「偶然(chance)」を,「説明のできない事象の,非人格的で目的性のない決定要因とされるもの」と意味づけています。ですから,生命が偶然によって生じたと唱えるとすれば,原因となる未知の何かの力によってそれが生じた,と述べていることになります。ある人々は事実上,「偶然」を「創造者」と同じ意味にしているのでしょうか。
[35ページの囲み記事]
「[最小のバクテリアでも],スタンレー・ミラーのこしらえた化学的混合物に比べたらずっと人間のレベルに近い。それはすでに,これら器官系統の特性を備えているからである。それで,バクテリアから人間に進むほうが,アミノ酸の混合物からそのバクテリアへ進むよりもむしろ小さなステップなのである」― 生物学の教授リン・マーグリス
[36,37ページの囲み記事/写真]
疑問視される古典的規範
スタンレー・ミラーの1953年の実験は,生命の自然発生が過去には起こり得たことの証拠としてしばしば引き合いに出されています。しかし,ミラーによる説明の妥当性は,地球の原初の大気が「還元的」であったという仮定に基づいています。これは,遊離した(化学的に他と結合していない)酸素がほんのわずかしかそこに含まれていなかった,という意味です。どうしてでしょうか。
「生命起源のなぞ: 今日の理論の再評価」(The Mystery of Life's Origin: Reassessing Current Theories)という本は,遊離した酸素が多く存在したならば,『アミノ酸は一つとして形成されることさえなく,何かの偶然で形成されたとしても,すぐに分解してしまったであろう』と指摘しています。a いわゆる原始大気が還元的であったというミラーの仮定はどれほど確かなものでしょうか。
その実験から2年後に公表された規範的な論文の中で,ミラーはこう書いていました。「これらの考えはもちろん推測である。地球が形成された時その大気が還元的であったかどうか,我々は知らないからである。……直接的な証拠はまだ得られていない」―「アメリカ化学学会ジャーナル」(Journal of the American Chemical Society),1955年5月12日号。
以来,証拠は得られていますか。およそ25年後,科学評論家ロバート・C・カウインは,「科学者たちは自分たちの想定の幾つかについて再考を余儀なくされている。……水素に富む非常に還元的な大気という考えを支持するような証拠はほとんど出ておらず,むしろ幾つかの証拠はそれを否定している」と伝えました。―「科学技術評論」(Technology Review),1981年4月号。
それ以後はどうでしょうか。1991年,ジョン・ホルガンは,サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)にこう書きました。「最近10年ほどの間に,大気に関するユーリーとミラーの想定に疑念が増してきた。研究室での実験とコンピューター処理による大気の復元を何度も重ねた結果は……今日であれば大気中のオゾンによってさえぎられる太陽からの紫外線が,大気中の,水素を基にする分子を破壊したであろうことを暗示している。……そのような大気[二酸化炭素と窒素]は,アミノ酸その他の生命前駆体の合成に資するものではなかったであろう」。
ではなぜ多くの人は今でも,地球の初期の大気は還元的で,酸素をあまり含んでいなかったという見方をしているのでしょうか。「分子進化と生命の起源」(Molecular Evolution and the Origin of Life)の中で,シドニー・W・フォクスとクラウス・ドーズは次のような答え方をしています。大気は酸素を欠いていたに違いない; なぜなら,一つには,「実験室での実験からすれば,化学進化は……酸素によって大いに抑制される」からであり,また,アミノ酸のような化合物は「酸素の存在する中では地質時代を通じて安定してはいない」からである。
これは循環論法ではないでしょうか。生命の自然発生はそれ以外では起こり得なかったから,初期の大気は還元的であった,と論じられています。しかし,それが還元的であったという裏付けは実際には何もないのです。
もう一つ注目すべき点があります。もしその混合気体がその時の大気を表わし,電気火花が稲妻を模したもので,沸騰した水が海の代わりなのであれば,その実験を準備して,実行した科学者は,いったい何,あるいはだれを表わすのでしょうか。
[脚注]
a 酸素は非常に反応性の高い元素です。例えば,鉄と化合してさびを作り,水素と結び付いて水を作ります。アミノ酸が組み立てられている時に大気中に多量の遊離酸素があったなら,酸素がすぐに結び付いて,形成されるその有機分子を次々に破壊したでしょう。
[38ページの囲み記事]
右手,左手
ご存じのとおり,手袋には右手型と左手型とがあります。アミノ酸の分子についても同じようなことが言えます。知られているおよそ100種のアミノ酸のうち,タンパク質に用いられるのは20種だけで,すべて左手型です。前生物的スープとして想定されるものを模して科学者が研究室でアミノ酸を作ると,右手型の分子と左手型の分子が同数ずつできます。「このような50対50の分布」は「左手型のアミノ酸のみに依存している生物界の特徴ではない」と,ニューヨーク・タイムズ紙は伝えています。生物体がなぜ左手型のアミノ酸だけで成り立っているかは「大きななぞ」となっています。いん石の中に発見されるアミノ酸も,「左手型がずっと多くなって」います。ジェフリー・L・バーダ博士は,生命の起源に関する難問と取り組んできましたが,「地球外の何らかの影響が,生体アミノ酸の利き手の決定に何かの役割を果たしているのかもしれない」と述べています。
[40ページの囲み記事]
「これらの実験は……非生物合成を主張してはいるが,実際は,高度に知性的できわめて生物的な人間により,その人間が大いにかかわっている概念の確証を意図して演出され,計画された物事を裏付けているだけである」―「生物器官系統の起源と発達」(Origin and Development of Living Systems)。
[41ページの囲み記事/写真]
「それを意図した知的な行為」
英国の天文学者フレッド・ホイル卿は,数十年にわたって宇宙と宇宙内の生物について研究を続け,地上の生命は外界宇宙から到来したとの説まで提唱しました。カリフォルニア工科大学での講演の中で,ホイルはタンパク質内のアミノ酸の配列について論じました。
ホイルはこう述べました。「生物学における大きな問題は,タンパク質が一定の方式で結合したアミノ酸の連鎖で構成されているというやや素朴な事実よりも,それらアミノ酸の明確な配列法がその連鎖に注目すべき特性を付与しているという点である。……各種のアミノ酸が手当たりしだいに結合したなら,その生体細胞の目的には役立たない組み合わせが無数にできてしまうだろう。一つの典型的な酵素がおそらくは200ほどの結合から成る連鎖で,各々の結合に20の可能性のあることを考えれば,役に立たない組み合わせの数が膨大なものになってしまうことを容易に理解できるだろう。最大の望遠鏡で見える銀河すべてにある原子の数よりも多くなるのである。これはただ一種の酵素についてのことであり,2000を超える酵素があって,多くがそれぞれ非常に異なった目的にかなっている。どのようにしてこうなったのだろうか」。
ホイルはこう付け加えました。「生命が自然のさまざまな力の盲目的な働きで生じたとする場合の途方もなくわずかな確率を受け入れるより,生命の始まりはそれを意図した知的な行為であった,と想定するほうがましなように思えた」。
[44ページの囲み記事]
マイケル・J・ビヒー教授はこう述べました。「知能によらない原因にしぼって探究しなければならないとは思わない人にとって,多くの生化学的システムはそのように設計されたものなのだというのが素直な結論である。自然の法則性によって設計されたとか,偶然性や必要性によってそうなったというのではない。むしろ,計画されたものなのだ。……地上の生命は,最も基本的なレベル,すなわちその最も決定的な構成要素の点からして,知能的な活動の所産である」。
[42ページの図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
生体の細胞一つ一つが持つ複雑な世界と入り組んだ種々の機能をかいま見るだけでも,このすべてがどのようにして生じたのだろうかと問わざるを得ない
• 細胞膜
細胞に入るものと,そこから出るものとを制御している
• 核
細胞のコントロール・センター
• 染色体
遺伝の基本設計図であるDNAを収めている
• ミトコンドリア
細胞にエネルギーを供給する分子の製造センター
• 仁(じん)
リボソームを組み立てる場所
• リボソーム
タンパク質が造られる場所
[33ページの図版]
生命の基本となっている種々の複雑な分子が何らかの前生物的スープの中で自然発生的に生じたというようなことはあり得ない,とする科学者たちが多くなっている
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人間はきわめて特異な存在!あなたのことを気づかう創造者がおられますか
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第4章
人間はきわめて特異な存在!
毎朝,その日の活動を始める前に,あなたはちょっと鏡をのぞいて,自分の姿を確かめますか。その時には,ゆっくり考えるひまなどないかもしれません。しかし今,少しの時間を取って,そのようにちらりと鏡をのぞくだけでもどれほど驚嘆すべき事柄が関係しているかを考えてみてください。
あなたは,目でご自分の姿を見ることができます。しかも,豊かな色彩でそれを見ています。もっとも,彩りのあることが生きる上で欠かせないというわけではありません。あなたの耳は,その位置関係によって,立体的な音響をあなたに伝えます。それによって,どこから音が来るのか,例えば,あなたの愛する人がどこで話しているのかをも聞き分けることができます。わたしたちはそれを当たり前のことのように思っているかもしれません。しかし,音響技術者向けのある書物はこう述べています。「ところで,人間の聴覚の仕組みを多少とも細部まで考察してゆくと,その複雑な機能と構造には,設計の面で何か愛情深いものが示されている,と結論せざるを得ない」。
鼻にも見事な設計が表われています。鼻で空気を吸うことができ,それによって人は命を保っています。また,鼻の中には幾百万もの感覚受容器があって,1万種ものにおいを微妙に嗅ぎ分けられるようになっています。食事を楽しむ時には,別の感覚もかかわってきます。幾千もの味蕾が食べ物の風味をあなたに伝えるのです。舌にはほかにも受容器があって,あなたの歯がきれいかどうかを感じさせることまでします。
そうです,あなたには五感が備わっています。視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚です。確かに,暗いところで人間よりも視力がきき,あるいは嗅覚がもっと鋭く,聴覚がもっと鋭敏な動物もいますが,人間はそれらの感覚すべてが釣り合いよく備わっているために多くの面でまさっています。
しかしいま,このような能力や機能がどうしてわたしたちに役立っているのかという点を考えてみましょう。そのすべては,わたしたちの頭の中にある1,400㌘ほどの器官,つまり脳に依存しています。動物にも脳があってその機能を果たしています。ですが,人間の脳は格段に優れており,わたしたち人間をまぎれもなく特異な存在にしています。どれほど優れているのでしょうか。また,この特異性は,意味ある人生をずっと永く送ろうとするわたしたちの願いと,どのように結び付いているのでしょうか。
あなたの持つ驚くべき脳
長年のあいだ,人間の脳はコンピューターになぞらえられてきましたが,最近のいろいろな発見は,その種の比較が全く不十分なものであることを示しています。「およそ500億個の神経単位<ニューロン>が,1,000兆ものシナプス(接合部)を持ち,しかも全体で毎秒おそらく1,000兆の10倍もの頻度で発信しているような器官の働きを,いったいどのように把握していったらよいのだろうか」と,リチャード・M・レスタク博士は問いかけています。どう答えていますか。「最も進んだ神経回路網型<ニューラル・ネットワーク>コンピューターといえども,その働きは……イエバエが持つ知的性能の1万分の1ほどでしかない」。ですから,人間の脳と比べればコンピューターがどれほど劣っているかを考えてください。人間の脳のほうがはるかに優れているのです。
人間のこしらえたコンピューターで,自己を修理し,プログラムを自ら書き直し,年数がたつにつれて独りでに改良してゆくようなものがあるでしょうか。コンピューター・システムに調整が必要な場合,プログラマーは符号化した命令を書き改め,それを入力しなければなりません。わたしたちの脳は,人生の早い時期にも年を取ってからでも,そうした事を自動的に行なっています。最新鋭のコンピューターでも,人間の脳と比べるとごく原始的なものであると言っても,決して言いすぎではないでしょう。科学者たちは,脳を「知られているものの中で最も複雑な構造体」,また「宇宙で最も入り組んだ物」と呼んできました。多くの人が,人間の脳は気づかいのある創造者の手によるものだ,と判断するようになっています。そのような判断に至らせた幾つかの発見について考えてください。
使わなければ,失われる
車やジェット機などは有用な発明品ですが,その機能は,人が設計して組み込んだ固定化された機械装置<メカニズム>や電気システムによって基本的に制約されています。一方わたしたちの脳は,控えめに見ても,きわめて柔軟な生物学的メカニズムないしはシステムです。脳は,その使い方に応じて ― あるいは悪用の仕方に応じても ― 変化を続けてゆくことが可能です。わたしたちの脳が生涯を通じてどのように発達してゆくかには,二つの大きな要素が関係しているようです。つまり,感覚機能を通して何を脳に入れるか,そして,どんな事柄を自分で思い巡らすかという要素です。
遺伝の要素が頭脳の働きにある程度関与しているとはいえ,今日の研究は,わたしたちの脳が受胎の時に遺伝子によってすべて決定されてしまうわけではないことを示しています。「脳が,現在科学が理解しているほどに変化し得るものだとは,だれも予想しなかった」と,ピュリッツァー賞を受けた著作家ロナルド・コチュラックは書いています。300人以上の研究者から取材したコチュラックはこう結論しました。「脳は静止的な器官ではない。それは,絶えず変化してゆく細胞連携の集合体であり,経験する物事によって大いに影響されてゆく」。―「脳の内側」(Inside the Brain)。
とはいえ,経験する事柄だけがわたしたちの脳を形作るのではありません。脳は思考によっても影響されます。知的に活発な状態を保っている人の脳は,知的に怠惰な人の脳に比べて,神経細胞(ニューロン)間の接合部(シナプス)が最大で40%も多いことに,科学者たちは気づいています。神経科学者たちは,使わなければそれは失われる,と考えています。では,老人の場合はどうでしょうか。人は年を取るにしたがって脳細胞を幾らか失うように思われ,老齢になると記憶力が低下することがあります。それでも,その違いは,かつて考えられていたほど大きくはありません。人間の脳に関するナショナル・ジオグラフィック誌のある報告は,「年老いた人たちは脳の中でニューロンの新しい結合を作り,知的活動によって古い結合を維持し,記憶容量を保っている」と伝えています。
わたしたちの脳の持つ柔軟性に関して最近見いだされた事柄は,聖書の勧めている点と一致しています。その知恵の書は読者に,『思いを作り直すことによって変革する』こと,すなわち頭脳に「正確な知識」を取り入れることによって「新たにされ(る)」ようにと促しています。(ローマ 12:2。コロサイ 3:10)エホバの証人は,人が聖書を学んでその諭しを当てはめるときにこのことが生じるのを目にしてきました。あらゆる社会的,教育的背景から来た非常に大勢の人々がそれを行なってきたのです。それらの人々は依然としてそれぞれに異なっていますが,ずっと幸福で,釣り合いのとれた人となり,1世紀のある著述家が「正気」(もしくは『健全な思い』)と呼んだものを示しています。(使徒 26:24,25)この種の進歩向上はおもに,大脳皮質の前頭部を十分に活用することから来ます。
あなたの前頭葉
脳の外側の層である大脳皮質にあるニューロンの大半は,筋肉や感覚器官に直接につながっているわけではありません。一例として,前頭葉を構成する幾十億のニューロンについて考えてください。(56ページの図をご覧ください。)脳走査画像<ブレーン・スキャン>によると,人がある単語について考えたり,記憶を呼び戻したりする時には,前頭葉が活発になっています。脳の前のほうの部位は,あなたのあなたらしさを作り出すうえで特別の役割を果たしています。
「前頭前皮質は……緻密な思考,知能,動機づけ,人格特性などと最も緊密にかかわっている。それは,抽象的概念,物事の判断,粘り強さ,計画性,他者への配慮,良心の働きなどを生み出すのに必要な種々の経験を想起させる。……人間を動物から隔てているのは,この分野の緻密さである」。(マリエブの「人間の解剖学的構造と生理」[Human Anatomy and Physiology])数学,哲学,道義感など,前頭前皮質がおもに関係する分野で人間が達成してきた事柄の中に,そのような相違の証拠が確かに認められます。
人間には大きくて柔軟性のある前頭前皮質があって,それが高度の精神機能を支えているのに対し,動物ではこの部分が初等的だったり全く存在しなかったりするのはなぜでしょう。この対照性があまりに著しいために,人間は進化してきたと唱える生物学者たちさえ,「脳の大きさの不可解な爆発的増加」という表現を使います。生物学の教授リチャード・F・トムソンは,人間の大脳皮質のけた外れの増大に注目して,「これまでのところ,これがなぜ生じたのかについて,我々は明確な理解を何も得ていない」と認めています。人間はこのような比類のない脳の特性を備えたものとして創造された,ということに答えがあるのではないでしょうか。
無比の意思伝達能力
脳の他の部位も,人間の持つ特異性に関与しています。前頭前皮質の後ろ側にあるのは,頭の上部を帯状に横切る運動野です。そこには,筋肉と連結する幾十億個ものニューロンがあり,ここにも,わたしたちを類人猿や他の動物とは大きく異ならせる特徴が秘められています。一次運動野はわたしたちに,「(1)手および親指や他の指を使って非常に器用な手作業をするためのずば抜けた能力と,(2)口,唇,舌,顔の筋肉などを用いて話す力」を得させています。―ガイトンの「医学生理学教本」(Textbook of Medical Physiology)。
運動野があなたの言語能力にどのように作用しているかを少し考えてみましょう。その半分以上は意思伝達の器官のために充てられています。この点は,人間の持つ無類の意思伝達能力を理解するのに役立ちます。手も意思を伝えるのにある程度の役割を果たしますが(書くこと,手まね,手話など),たいていの場合,この面でおもな役割を果たすのは口です。人間の言語力は,赤ちゃんの最初の言葉から老人の声にいたるまでが,議論の余地なく一つの驚異です。舌,唇,あご,のど,胸などにある合計100ほどの筋肉が協働して,数かぎりない音声を作り出します。次の点に注目してください。脳細胞一つで運動選手のふくらはぎにある2,000の筋肉繊維を動かすことができます。これに対し,喉頭部のための脳細胞は,それぞれがわずか二つか三つの筋肉繊維をおもに担当しているようです。このことは,わたしたちの脳が特に意思伝達のために整えられていることを暗示していないでしょうか。
どんな短い言葉を発するときでも,筋肉には特殊化された一定の動きが求められます。同じ一つの言い回しでも,幾十もの別々の筋肉が,瞬間的なタイミングでどの程度に動くかによって意味合いが変わります。スピーチ研究の専門医であるウィリアム・H・パーキンズはこう説明しています。「人は1秒間におよそ14の音声を楽に発することができる。これは,舌,唇,あご,その他の発話機構の各部を個別に動かす際にそれをコントロールできる速さの2倍である。しかし,言葉を話すためにそのすべてを協働させると,熟練したタイピストや演奏会のピアニストの指のような動きが生じる。それら個々の動きが絶妙なタイミングで重なり合って,音の協和<シンフォニー>が織り成される」。
「お元気ですか」という簡単な質問をするのに必要な実際の情報は,脳の前頭葉の,ブローカ領域と呼ばれる部分に蓄えられています。そこが人の言語中枢であると一般に考えられています。ノーベル賞を受けた神経科学者ジョン・エックルズ卿は,「ブローカ言語領域に相当するような領域は類人猿には認められていない」と書いています。たとえ動物に何かそれと似た領域が発見されるとしても,科学者は類人猿に,二,三の不十分な言語音を出させる以上のことはできない,というのが事実です。一方あなたは,複雑な言語を操ることができます。そうするために,あなたは,幾つもの単語をその言語の文法にしたがって結び合わせています。ブローカ領域が,言葉を話すときにも書くときにも,あなたにそれができるようにしています。
もちろん,少なくとも一つの言語を知って,その個々の単語の意味を理解していなければ,言葉を話すという偉業は行なえません。これには,脳のもう一つの特別な部分,つまりウェルニッケ領域として知られるところが関係しています。そこでは幾十億個ものニューロンが,話されたり書かれたりした言葉の意味を識別しています。ウェルニッケ領域は,述べられていることの意味を理解し,耳で聞いたり目で読んだりしている事柄を把握できるようにしています。それによって,あなたは情報を得,分別のある受け答えができるのです。
あなたのよどみない話し方には,ほかにもいろいろな要素がかかわっています。例を挙げましょう。ただ,「こんにちは!」と言う語句に,実に多くのことが含まれ得るのです。声の調子は,あなたが楽しい気分か,興奮しているか,退屈ぎみか,急いでいるか,いらいらしているか,悲しい気持ちか,怖がっているかを反映し,さらには,その感情の度合いをさえ示すことがあります。脳の別の領域が,言語の感情的な面の情報を提供します。こうして,あなたが意思を伝える時には,脳のいろいろな部位が働いているのです。
チンパンジーに幾らかの身振り言葉が教え込まれましたが,根本的に見て,チンパンジーがそれを使うのは,食べ物その他のごく基本的なものをただ要求する場合に限られています。話し言葉によらない単純な意思伝達をチンパンジーに教えようとしたデービッド・プレマック博士は,次の結論を下しています。「人間の言語は,普通に説明されるよりもはるかに強力なもので,進化論的な見方にとっては困惑の種である」。
『考えや感情を伝達し,物事を尋ねたり返答したりする,この驚嘆すべき能力が人間に備わっているのは一体なぜなのだろう』と思われることでしょう。「言語・言語学百科事典」(The Encyclopedia of Language and Linguistics)は,「[人間の]言葉は特別のものである」と述べ,「動物の意思伝達法の中に何か前段階的なものを探しても,言語や言葉と人間以外の生物の行動様式とを隔てる途方もないギャップを埋めるにはあまり役立たない」ことを認めています。ルートウィヒ・ケーラー教授はこの違いについて要約し,「人間の話し言葉は神秘である。それは神からの賜物,つまり一つの奇跡である」と述べています。
類人猿が用いる身振りと,人間が子供でさえ持つ複雑な言語能力とには,何と大きな違いがあるのでしょう。ジョン・エックルズ卿は,わたしたちの多くが目にするもの,つまり,「自分のいる世界を知ろうとしてあれこれと質問する,わずか3歳の子供が示す」能力を引き合いに出しています。そして,「これとは対照的に,類人猿は質問しない」と付け加えています。そうです,人間だけが物事を尋ね,人生の意味についても疑問を持つのです。
記憶装置,いや,それ以上のもの!
鏡をのぞくとき,若い時に自分がどのように見えたかを思い起こすこともあるでしょう。あるいは,何年かしたらどのように見えるだろうか,化粧をすればどうなるだろうかと思い浮かべることさえあるかもしれません。こうした考えはほとんど無意識に出てきますが,実に特別なこと,どんな動物も経験できないような事柄が生じているのです。
もっぱらその場の必要に応じて生活したり行動したりする動物とは違い,人間は過去を思い返し,将来の物事を計画することができます。それを行なう点でかぎとなるのは,脳の持つほとんど無限の記憶容量です。確かに,動物にもある程度の記憶力があって,自分の巣に戻る道を見つけたり,食べ物のありかを思い起こしたりすることができます。しかし,人間の記憶力は,これよりはるかに大きいのです。ある科学者は,わたしたちの脳は「およそ2,000万冊,すなわち世界最大の図書館に収められているものに匹敵する数の本を満たすほどの」情報を収納することができる,と見積もっています。平均的な寿命の間に人は脳の潜在的容量の1%の100分の1(0.0001)しか使っていない,と見ている神経科学者もいます。『普通の生涯中にごくわずかしか用いないのに,どうしてそれほど大きな容量の脳を持っているのだろうか』と思われることでしょう。
わたしたちの脳は,膨大量の情報をスーパーコンピューターのようにして蓄えられるというだけのことではありません。生物学の教授ロバート・オーンスタインとリチャード・F・トムソンはこう書いています。「人間の頭脳の学習能力,つまり情報を蓄えて,それをまた取り出せるということは,生物学の世界で最も注目すべき現象である。言語,思考,知識,文化など,我々を人間たらしめているものはいずれも,このずば抜けた能力による」。
さらに,人間には意識があります。これはごく当然のことのように聞こえるかもしれません。しかし,このことの中に,人間をまちがいなく他とはっきり異なる存在にしているものが集約されているのです。頭脳は,「知能,判断力,知覚,認識,自意識などの宿る,とらえ難い存在物」とも呼ばれてきました。大小の水路や河川が海に注ぎ込むように,多くの記憶,概念,映像,音響,感情が絶えず頭脳の中に流れ込み,あるいはそこを通過しています。ある定義で,意識(consciousness)とは,「人の心的内面を経過するものについての知覚」です。
今日の研究者たちは,人体内の脳の構造やその中で起きている電気化学的な過程をある程度理解する面で,長足の進歩を遂げてきました。研究者たちはまた,新鋭のコンピューターの電子回路やその機能を説明できます。しかし,脳とコンピューターとの間には大きな隔たりがあります。あなたは脳によって自分についての意識を持ち,自分の存在に気づいています。コンピューターは決してそれを行なっていません。どこに違いがあるのでしょうか。
率直のところ,わたしたちの脳の中での理学的な過程から,なぜ,またどのように意識が生じるのかはなぞとなっています。「どんな科学にせよ,それをどのように説明できるのか,私には分からない」と,ある神経生物学者は述べています。また,ジェームズ・トレフィル教授はこう述べました。「人に意識のあることが正確に何を意味するかということ,……これは,種々の科学の中で,我々がどのように問い尋ねたらよいかすら分からない唯一の大きな疑問である」。こう言われる理由の一つは,科学者たちは脳を理解するためにその脳を使っている,という点にあります。そして,ただ脳の生理機能を研究するだけでは十分には解決できないでしょう。デービッド・チャマーズ博士は,意識は「存在をめぐる最も深遠ななぞの一つ」であるとし,「脳に関する知識だけでは[科学者たちは]その核心に到達できないであろう」と述べました。
それでも,わたしたち各人は,自分の意識を持っています。例えば,過去の出来事についての鮮明な記憶は,コンピューター上の情報断片集のような,単なる事実の蓄積ではありません。わたしたちは,自分の経験を回顧し,そこから教訓をくみ取り,それを用いて前途の方向づけをすることができます。将来のために幾つかの筋立て<シナリオ>を考え,それぞれについて起き得る結末を見定めることができます。物事を分析し,創造し,評価し,愛する能力があります。過去,現在,未来について楽しく語り合うことができます。行動に関する倫理上の価値観を持ち,それを当てはめてすぐに,あるいは後に益になる判断をすることもできます。さらに,芸術や徳義上の美しさに引き付けられます。自分の思いの中で考えをまとめ,練り上げ,それを実行したときに他の人がどのように反応するかを推し量ることもできます。
このような要素が人間各自の持つ自意識を生み出し,地上の他の生物とは異ならせています。犬や猫や小鳥は,鏡の中をのぞいても,同類の別のものを見ているように反応します。しかしあなたは,鏡を見るとき,ここで述べたような能力を備えたものとして自分自身を意識します。『150年も生きるカメ,1,000年以上も生きる樹木もあるのに,知性を持つ人間の場合は100歳まで生きればニュースになるのはなぜだろう』といぶかったりもします。リチャード・レスタク博士はこう述べています。「人間の脳は,そしてただ人間の脳だけが,振り返って自らの作業を調べ直す能力を持ち,こうしてかなり卓抜した事柄を成し遂げもする。事実,自分の台本を自分で書き換え,世界における自分を自ら定義し直すという能力は,世界の他のすべての生き物から我々を明確に区別するものなのである」。
人間の持つ意識は,ある人々を当惑させています。「上りゆく生命」(Life Ascending)という本は,単なる生物学的な説明を好みながらも,このように認めています。「負ければ恐ろしい罰則のある運だめしゲームにも似た過程[進化]から,美や真実さへの愛,他への思いやり,自律性,なかんずく拡張性の高い人間精神といった特質がどのようにして生じてきたのかを考えると,当惑させられる。我々の精神機能について考察すればするほど,我々の驚異の念は深まる」。そのとおりです。それで,人間の特異性について考えたこの部分の締めくくりとして,人間の意識感覚に関係する二,三の例をさらに取り上げましょう。多くの人は,そうしたものを証拠として,人間のことを気づかう理知ある設計者,すなわち創造者がおられるに違いないと確信するようになりました。
芸術と美
「なぜ人々は芸術をこれほど情熱的に追い求めるのだろうか」と,マイケル・レイトン教授は,「均整美,因果性,思考力」(Symmetry,Causality,Mind)の中で問いかけています。レイトンが指摘しているとおり,数学などの精神活動は人間に明らかな益をもたらすと言う人もいますが,芸術の場合はどうでしょうか。レイトンは,人々が美術展やコンサートのために遠くまで出かけることを例にして説明しています。これにはどんな内的な感覚が関係しているのでしょうか。また,世界のどこの人々も自分の家や事務所の壁に魅力ある写真や絵を掛けます。さらに,音楽についても考えてください。たいていの人は,家や車の中で何かの音楽を聴くのを好みます。これはなぜでしょうか。音楽がかつて適者の生存に役立ったからでないことは明らかです。「芸術は,人間という種に関する最も説明し難い現象と言えるだろう」とレイトンは述べています。
とはいえ,美や芸術を楽しむのは,人が「人間的」と感じる一面であることを,だれもが知っています。動物が丘にすわって彩り豊かな夕空を眺めることもあるかもしれませんが,それはそのような美しさに引かれてのことでしょうか。わたしたちは,山あいの渓流が陽光にきらめくのを見,熱帯雨林の生物の驚くほどの多様性に目を見はり,やしの木の並ぶ浜辺に見入り,黒いビロードのような天空全体にちりばめられた星に感動します。しばしば畏怖の念を覚えるのではないでしょうか。そうした美しさはわたしたちの心を燃え立たせ,精神を高揚させます。これはなぜでしょうか。
どうしてわたしたちは,現実に生きてゆくには物質面でほとんど役に立たないような物事に対して本然的な渇望を抱いているのでしょうか。わたしたちの持つ美的価値観はどこから来ているのでしょうか。人間の創造のさいにそうした価値観を植え込まれた造り主を考えに入れない限り,これらの質問に納得のゆく答えはないでしょう。これは,道徳面の美しさについても言えます。
道徳的価値観
最高の美は人の徳行である,ということを多くの人が認めます。例えば,迫害に直面しようとも節義を固く守ること,人の苦しみを救うために無私の気持ちで行動すること,自分を傷つけた人を許すことなどは,どこであろうと思慮深い人の道徳観に強く訴える行為です。これは,聖書にある次の古い箴言の述べる美しさです。「人の洞察力は確かにその怒りを遅くする。違犯をゆるすのはその人の美しさである」。別の箴言はこう述べています。「地の人のうちにあって望ましいものは,その愛ある親切である」。―箴言 19:11,22。
わたしたちは皆,ある人々が,時には大勢の人々が,道徳上の規範を無視したり踏みにじったりしても,大多数の人はそうはしないことを知っています。どの時代にもほとんどすべての土地で見られる道徳的価値観は,どこから来ているのでしょうか。もし道徳性の源となるもの,つまり創造者がいないとしたら,善悪の規準はただ人々,すなわち人間社会から生まれてきたのでしょうか。一つの例を考えてください。たいていの人また国民は,人を殺すことを悪とみなしています。しかし,『何に照らしてそれは悪とされるのか』と問う人がいることでしょう。明らかにそこには,人間社会全般の根底にあり,多くの国の法律にも組み込まれている,ある種の道徳観念があります。この規準となる道徳観念はどこから来ているのでしょうか。道徳上の価値観を持ち,良心の働きもしくは倫理的感覚を人間の中に置いた,理知ある創造者がおられるのではないでしょうか。―ローマ 2:14,15と比較してください。
将来を思い巡らして計画することができる
人間の意識作用の別の面は,将来を考察できることです。人間には動物と異なる特性があるだろうかと尋ねられた時,リチャード・ドーキンズ教授は,確かに非常に特異な特質があると述べました。「意識して物事を予測的に想像し,先のことを計画する能力」について論じた後,ドーキンズはさらにこう述べました。「進化で常に重視されてきたのは短期的な便益だけであり,長期的な便益が重んじられることはなかった。個体にとって当面短期的な益には不利なのにそれが進化した,ということはあり得なかった。今や初めて,少なくともある種の人々は,『この森を切り払えば短期的な利益が上がるという点は考えないことにしよう。むしろ,長期的な利益のほうはどうなのか』と言うことができる。これはまさに,新しくて特異なことだと思う」。
他の研究者たちも,人間が持つ,意識して長期的な計画を立てる能力が比類のないものであると認めています。神経生理学者ウィリアム・H・カルヴィンは,「ホルモンに誘発されて冬ごもりの準備をしたり,交尾したりすることを別にすれば,動物は数分よりも先のことを計画しているような証拠を意外なほど示さない」と述べています。動物は寒い季節の前に食べ物を蓄えることをするかもしれませんが,物事をずっと考えぬいて計画を立てることはしません。それとは対照的に,人間は将来について,まさに遠い将来についてさえ考察します。ある科学者たちは,数十億年先に宇宙で何が起きるかを推測しようとしています。人間が動物とは大きく異なって,将来のことを考えたり計画を立てたりできるのはなぜだろうかと,お考えになったことがあるでしょうか。
聖書は人間について,「[創造者は]定めのない時をさえ彼らの心に置(かれた)」と述べています。「改訂標準訳」はこの部分を,「神は人間の思いに永遠を置かれた」と訳しています。(伝道の書 3:11)わたしたちは,鏡をのぞいて10年後,20年後にはどうなっているかを考えるといったごく日常的な行為においてさえ,この独特の能力を働かせています。さらに,定めなく続く時間や空間についてふと思うとき,わたしたちは,伝道の書 3章11節の述べていることの真実さを裏書きしているのです。わたしたちにこの能力があるという事実そのものが,創造者は「人間の思いに永遠を」置いたという言葉と一致しています。
創造者に引き寄せられる
しかし,美を楽しんだり,人に良いことを行なったり,将来について考えたりするだけでは満たされないものを感じる人が多くいます。「不思議なことに,最も幸福で,かけがえのない愛情にひたる時にさえ,何かが欠けていると感じることがよくある。さらに何かを求めているのだが何をさらに求めているのか分からない自分に気づくのである」と,C・ステフェン・エバンズ教授は述べています。確かに,自己意識を持つ人間は,惑星である地球を共有している他の生き物とは異なり,何か別の必要を感じるのです。
「宗教心は人間の本質に深く根ざし,経済的地位や教育的背景を問わずどんな人も抱くものである」。これは,アリスター・ハーディー教授が,「人の精神的本質」(The Spiritual Nature of Man)という本に載せた研究の要約として述べた言葉です。これは他のさまざまな研究が立証してきたこと,すなわち,人間は神を意識するものであるという点を裏付けています。個人的には無神論を標榜する人々がいるとしても,国民がこぞってそうであるということはありません。「神は唯一の実在か」(Is God the Only Reality?)という本はこう書いています。「物事の意義の宗教的探究は……人類の出現以来,あらゆる文化,あらゆる年齢層に共通する経験である」。
この生得的に見える,神についての意識性は,どこから来ているのでしょうか。もし人間がただ核酸とタンパク質分子の偶発性の集合にすぎないものであるなら,どうしてそれら分子の集まったものが美や芸術への愛を発達させ,宗教心を抱き,永遠性について思うようにまでなるのでしょうか。
ジョン・エックルズ卿は,人間の存在に関する進化論的な説明には「最も重要な点が欠けている。それは,自己意識を持つ特異な生き物としての我々個人個人の存在を説明することができない」と結論しました。脳や思考力の働きについて学べば学ぶほど,意識ある者としての人間の存在は,わたしたちのことを気づかう創造者のおられる証拠である,と幾百万もの人々が結論するようになった理由が理解しやすくなってきます。
次の章では,道理にかなったこの結論に基づいて,あらゆる階層の人々が,どうしてわたしたちはここに存在するのか,わたしたちはどこに向かっているのかという,根本的な問いに対する満足のゆく答えを見つけるようになった理由を調べます。
[51ページの囲み記事]
チェスのチャンピオン 対 コンピューター
ディープ・ブルーと名づけられた先端的コンピューターがチェスの世界チャンピオンを破った時,「ディープ・ブルーには思考力があると言うべきではないのか」という疑問が持ち上がりました。
エール大学のデービッド・ゲランター教授はこう答えました。「そうではない。ディープ・ブルーは機械にすぎない。それは,思考力の点では植木鉢と同じである。……主な意義はこうである。すなわち,チャンピオンとなった機械の製作者は人間なのである」。
ゲランター教授は次の大きな違いを指摘しました。「脳は『自分』を造り出す能力を備えた機械である。脳はいろいろな精神の世界を呼び起こすことができるが,コンピューターはそれができない」。
教授はこう結論しました。「人間と[コンピューター]との差は永久的なもので,決して狭められることはない。機械は今後も生活を便利に,健康的に,豊かに,そしていっそう煩雑なものにしてゆくであろう。いっぽう人間は,今後もやはり,これまでずっとしてきたと同じ事を気にかける。すなわち,自分自身について,互い同士について,そして,多くの人は神について考えるであろう。こうした点で,機械は少しも進歩してこなかった。これからも決してしないであろう」。
[53ページの囲み記事]
スーパーコンピューターはカタツムリと同じ
「今日のコンピューターは,見る,話す,動く,常識を働かせるといった点で,4歳の子供の能力にも及ばない。一つにはもちろん,純然たる計算能力の問題である。最も強力なスーパーコンピューターの情報処理能力も,カタツムリの神経系と同程度と見積もられている。それは,[わたしたちの]頭の中にあるスーパーコンピューターの持つ力に比べれば,そのほんの小部分にすぎない」― マサチューセッツ工科大学認知神経科学センター所長スティーブン・ピンカー。
[54ページの囲み記事]
「人間の脳は,そのほとんどすべてが[大脳]皮質である。例えば,チンパンジーの脳にも皮質はあるが,その割合ははるかに小さい。[大脳]皮質は,物事を考え,思い出し,想像するのを可能にしている。本質的に見ると,わたしたちが人間であるのはこの皮質のおかげである」― イタリア,ミラノの,分子生物学研究所所長エドアルド・ボンチネリ。
[55ページの囲み記事]
素粒子物理学からあなたの脳まで
ポール・デーヴィス教授は,数学という抽象的な学問分野を扱う脳の能力について考察して,次のように述べました。「数学は,あなたの裏庭にふつうに転がっているようなものとは違う。それは,人間の思考力の産物である。しかし,数学がどこで最もよく用いられるかと言えば,それは,素粒子物理や天体物理の分野,すなわち日常の物事とはおおよそかけ離れた基礎科学の面である」。これは何を意味しているのでしょうか。「私にとってこれは,意識,および数理を追求する我々の能力が,決して単なる偶発物でも,ありふれた物事でも,進化のささいな副産物でもないことを示している」。―「我々だけか」(Are We Alone?)。
[56,57ページの囲み記事/図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
前頭葉
前頭前皮質
ブローカ領域
ウェルニッケ領域
運動野
● 大脳皮質は,脳の表面の部分で,知能と最も緊密に結び付いている。人間の大脳皮質は,平らにするとタイプ用紙4枚分ほどになるが,チンパンジーのものはわずか1枚分ほどで,ネズミのものは郵便切手ほどである。―サイエンティフィック・アメリカン誌(Scientific American)。
[58ページの囲み記事]
すべての人が持っているもの
歴史を通じ,あるグループの人々が別のグループの人々に出会った時にはいつでも,それぞれ相手が言語を話すことに気づいてきました。「言語の本能」(The Language Instinct)という本はこう述べています。「口のきけない部族というのはこれまでに発見されていないし,いずれかの土地が言語の『揺籃地』となって,それまで言語のなかった他のグループにそれが広がったというような記録はない。……複雑な言語が普遍的に見られるということは,言語学者に畏敬の念を抱かせる発見であり,言語が……人間の持つ特別な本能の所産ではないかと考えさせる第一の理由である」。
[59ページの囲み記事]
言語と知能
人間の知能が,類人猿も含め動物の知能よりはるかに優れているのはなぜでしょうか。一つのかぎは,わたしたちが系統的な配列を行なう,すなわち音を組み合わせていろいろな単語を作り,いろいろな単語を使って文章を作ることにあります。理論神経生理学者ウィリアム・H・カルヴィン博士はこう説明しています。
「野生のチンパンジーは,3ダースほどの異なった発声音を用いて,3ダースほどの異なった意味を伝える。彼らは意味を強めるためにある音を繰り返すかもしれないが,三つの音をつないで語彙に新たな単語を加えるということはしない。
「我々人間も,音素と呼ばれる,3ダースほどの発声音を用いている。しかし,それらの組み合わせだけが内容を持つ。つまり,意味のない音をつなぎ合わせて意味のある単語を作る」。カルヴィン博士は,動物の「1音/1意味」から系統的配列法を用いる人間の特異な能力への飛躍については,「まだだれも説明していない」と述べています。
[60ページの囲み記事]
落書き以上のことができる
「言語で意思伝達を行なえるのは,人すなわちホモ・サピエンスだけだろうか。もちろん答えは,ここで『言語』が何を意味するかによる。すべての高等動物は,身振り,におい,鳴き声やほえ声やさえずり,はてはミツバチのダンスなど,実にさまざまなサインで確かに意思伝達を行なうからである。けれども,動物は人間と違い,文法的な言語を組み立てたことはないようである。また,非常に意味深いことだが,動物は何かを表現する絵を描くことはない。せいぜい無意味な落書きどまりである」― R・S・ファウツ教授とD・H・ファウツ教授。
[61ページの囲み記事]
「人間の知性に目を向けると,その驚くほど入り組んだ成り立ちに気がつく」と,A・ノーム・チョムスキー教授は述べている。「言語はその好例だが,それだけではない。数の体系という抽象的概念を扱う能力についても考えるとよい。人間の特異な面[と思われる]」。
[62ページの囲み記事]
尋ねる能力を「授けられている」
この宇宙の未来に関して物理学者ローレンス・クラウスはこう書きました。「我々は,自分が直接には見ることのないものについても質問してみようという気になる。我々は尋ねることができるのである。我々の子供,あるいはその子供たちが,いつの日かそれに答えるだろう。我々には,想像力が授けられている」。
[69ページの囲み記事]
宇宙,またわたしたちがそこに存在していることが,偶然の所産であるなら,わたしたちの人生は何ら永続的な意味を持ちません。しかし,宇宙に存在するわたしたちの生命が意図的設計の結果であれば,そこには得心のゆく意味があるはずです。
[72ページの囲み記事]
サーベルタイガーをかわすことから?
英国,ケンブリッジ大学のジョン・ポーキンホーンは次のように述べました。
「理論物理学者ポール・ディラックは,物質世界に関する現在の理解の基礎となる,場の量子論と呼ばれるものを発見した。その理論を発見したディラックの能力や,一般相対性理論を発見したアインシュタインの能力は,我々の先祖が剣歯虎<サーベルタイガー>などから身をかわさなければならなかったことの派生的産物のようなものとはとても思えない。ずっと深遠で,ずっと神秘的な何かが働いている。……
「物質世界の合理的秩序と,透き通るような美しさが物理学を通して明らかにされてゆくのを見るとき,我々は,知性のしるしが浸透した世界を目にしているのである。宗教を奉じる人にとって,こうして認識されるものは,創造者の知性である」― コモンウィール誌(Commonweal)。
[63ページの写真]
人間だけがものを尋ねる。人生の意味についても疑問を持つ
[64ページの写真]
動物とは異なり,人間は自分自身について,また将来についての意識を持つ
[70ページの写真]
人間は,美しいものを認識し,将来について考え,創造者に引き寄せられるという点で特異な存在である
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