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  • 私は闘うだけの価値のあるものを見いだした
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 2/15 114–120ページ

私は闘うだけの価値のあるものを見いだした

ローリエ・ソームールの語った経験

冷たくて澄み切った冬の空気に触れると,身の引き締まる思いがします。もみやアメリカつがの生い茂る林をぬって続く木材運搬道路からは,そりのきしむ音や馬が鼻を鳴らす音が聞こえてきます。私たちが木を切り倒し,人々が群れになってその丸太を滑らせているときにも,私はこのすばらしい地球を造ってくださった神に感謝をささげました。

十代のころ,私はそんな事を考えながら父の農場で冬の日々を過ごしていました。その農場はカナダ・ケベック州西部のゆるやかな起伏が続くガチノー丘陵にありました。生活はつらいものでしたが,健康的でした。私は,カトリック教徒だったフランス系カナダ人の一家庭に,14人の子供の一人として生まれました。

ケベック州の他の地方と同様,フランス語を話す私たちの小さな地域社会でも,カトリック教会が生活を支配していました。私はミサや聖体拝領などカトリックの集まりに参加しました。しかし,神に仕えることを望みながらも,何か満たされない気持ちでした。

当時,世俗の教育は,政府ではなくカトリック教会の管轄下にありました。そしてカトリック教会の方針は,人々の教育を制限し,司祭が人々を支配しやすいようにするというものでした。その結果,父や私の兄弟二人を含め,大勢の人々は読み書きができませんでした。教育に対するこうした否定的な取組み方,および本や図書館がなかったため,私は満たされないまま,知識に飢え渇いていました。

1939年,当時18歳だった私は,高等教育を受けるためにモントリオールへ出ました。やっとのことで,図書館や本に恵まれるようになったのです。ほとんど一晩中,読書にふけることも珍しくありませんでした。その結果私は,カトリック教会の恐ろしい異端審問について知り,カトリック教会に対して今までとは異なった見方を持つようになりました。

それでも私は,いとこの紹介でカトリック・アクション運動と関係するようになりました。それは,ファシスト的傾向を持つ,反ユダヤ色の強い政治団体です。その団体は,司祭の指導の下に,カトリック教会の中で集まりました。カトリック・アクションの言わんとしている事柄は簡単でした。『ヒトラーはそれほど悪くはない。我々フランス系カトリック教徒を抑圧しているのは,ユダヤ人と英語を話すプロテスタントだ』。数々の過激な提案を聞いて,私は不安になり,やがてカトリック・アクションから脱退しました。

自分の兄弟の投獄が私の助けになる

1943年の春,モントリオールに住む一人の友人が,私にとある新聞記事を手渡し,「君と同じ名字の人のことが載っているけど,君の親族かね」と尋ねました。

その記事を読んで驚いた私は,「親族だって。それどころか,血のつながった兄弟ヘクターじゃないか」と言いました。ヘクターとは幾年もの間音信不通になっていました。新聞によると,彼はエホバの証人の一人であったために,オンタリオ州チミンズで,懲役三か月の刑を言い渡されたのです。

「エホバの証人というのはだれのことかね。聞いたこともないなあ」と私は尋ねました。

すると友人は,「エホバの証人というのは,政府によって禁止されている宗教団体さ」a と答えました。

私は一層驚きました。宗教団体ですって。ヘクターは家族の中でも一番信仰心のない子でした。何が起きているのかを知るために,私はヘクターに手紙を書きました。

その手紙に答えて,ヘクターは一冊の聖書とエホバの証人の小冊子を数冊送ってくれました。聖書を見たのはその時が初めてでした。司祭たちはいつも,「聖書を読んではいけない。聖書を読むと気違いになる」と言っていました。そのため私は,それが信頼の置ける版であるかどうかを確かめるため,その聖書を愚かなことにも司祭のところへ持って行ってしまったのです。司祭は,調べてあげるからと言ってその聖書を取り上げ,それを返そうとしませんでした。

しかし私は小冊子を読んで非常に興味を覚えたので,カトリック系の書店へ行き,フランス語の聖書をもう一冊手に入れました。そして,むさぼるようにそれを読み始め,翌年,聖書全巻を二回読み終えました。私は,イエスの生涯と使徒たちの宣教の業に特に心を奪われました。

その後,1943年中に,エホバの証人についてもっとよく知り,英語を幾らか学ぶため,モントリオールからチミンズに引っ越しました。その地で私はエホバの証人と研究をしましたが,カトリック教会にも通い続けました。私は,地獄や三位一体や霊魂不滅などの教理上の問題について,教区司祭や司教と話し合いました。ある日司教は,私がどこでそんな資料を入手したかを尋ねました。「エホバの証人からです」と答えると,「もうあなたと話し合う時間はありません」という言葉が返ってきました。

次の日曜日,依然として忠実なカトリック教徒であった私は教会へ行きましたが,そこで教区司祭がエホバの証人に対して激しい非難を浴びせるのを聞きました。その不快な言葉遣いと偽りの非難にうんざりさせられました。もはや耐えられなくなった私は,その日教会を後にしてから,二度と再びそこへは戻りませんでした。間もなく私は決心をしました。私は聖書の真理を見いだし,ちょうどキリストの初期の追随者がしたと同様,その真理を擁護する闘いのために,自分の命を用いようと決心したのです。1944年7月1日,私はエホバ神に仕えるために自分をささげたことの象徴として,浸礼を受けました。

ケベックが戦いの場となる

ケベック州での問題は増大し,カトリック教会とその政治上の盟友モーリス・デュプレッシー首相は権力を使って共謀し,エホバの証人を逮捕したり,悩ませたりしました。1945年6月,私はケベック州の主要都市モントリオールで,全時間伝道の業に携わるようになりました。その地で初めて戸別の証言活動に出掛けた際,私は逮捕されました。それは来ようとしていた事柄の前兆にすぎませんでした。

ケベックの戦いの幕が切って落とされたのです。そして,それは何とすさまじい戦いだったのでしょう。デュプレッシー首相はエホバの証人を同州から追い出すと約束し,「エホバの証人に対する情け容赦のない闘争」を布告しました。同州の全権力が私たちの敵に回りました。同州は不条理な敵意という荒波に巻き込まれ,私自身,100回以上逮捕されました。

カナダのある有力紙は,その迫害を「異端審問の再来」として描写し,次のように述べました。「エホバの証人として知られる宗派に対する迫害は,現在熱狂的な行政および司法当局者の承認の下に進行しており,フランス系カナダ人社会に,異端審問が再来したかのような様相を呈している」― 1946年12月19日付,トロント・グローブ・アンド・メール紙。

聖書について話すために人々を訪問すると,教区司祭から聞いたり,仏字新聞で読んだりした最新の非難の言葉を家の人からあいさつ代わりに聞くことがしばしばありました。一日に二,三度逮捕されることも珍しくなく,その後には繰り返し,幾度となく法廷に出頭しなければなりませんでした。これは,家族持ちの人にとって特にやっかいな問題となりました。働けない日が多くなり,時には職を失う場合もあったからです。しかし,エホバの証人の忍耐強さについて当局者が知らなかったと言うのであれば,彼らはその証拠を目のあたりにしようとしていました。

家族持ちの人が逮捕されないようにするため,私は陽動作戦に出ました。パトロールカーが来ると,私はすぐにパトロールカーのところへ行って警官と話をするのです。そうすることによって,近くで伝道している,家族持ちの人にその場を離れる機会を与えることができました。もちろん,私が逮捕される回数は増え続けてゆきました。

1945年9月には,モントリオール西部の小さな町シャトーグェで恐ろしい暴動が二回もありました。カトリック教徒の暴徒が,個人の敷地で集会を開いていたエホバの証人を襲撃したのです。その間,警官は腕をこまねいて見ていただけでした。私はひどくけとばされ,殴打されました。暴徒の中の一人もけがをしました。その人は私の後頭部を強く殴ったために,手首の骨を折ってしまったのです。私はあざだらけになり,その後数日間,歩行が困難で,歩くたびに痛みを覚えました。

私たちは刑務所に入らないで済むよう保釈金を集めるのに苦労しました。私たちは偽りの非難を浴びせられても最後に親切な言葉を二言三言かけて,偏見を取り除くことを願い,戸口でじっと待つよう努力しました。暴徒を避け,家族持ちの人が逮捕されないようにするために苦労しました。また,クリスチャン兄弟姉妹の士気を高めるのにも苦心しました。集会を開く場所を借りるのも一苦労でした。家主たちは“魔女狩り”とでも呼ぶべきものを恐れていたからです。子供たちが退学処分を受けないように努めねばなりませんでした。そして,退学処分を受けた子供たちのためには,家庭での教育を取り決めねばなりませんでした。エホバの証人が死ぬと,埋葬にも苦労しました。司祭がエホバの証人の埋葬を妨げようとしたことがあったからです。

当時,エホバの証人であるということは容易なことではありませんでしたが,それは信仰を強める結果になりました。エホバの証人すべては,信仰,愛,そして決意などのすばらしい精神を示しました。その経験は,使徒パウロの味わった経験と同じようなものでした。パウロは自らの試みの時についてこう語っています。「主は……わたしに力を注ぎ込んでくださいました。それは,わたしを通して,宣べ伝える業が十分に遂行され(る)……ためでした」― テモテ第二 4:17。

確かに私たちは,少なからず,しかも予想だにしないような仕方で,助けられ,励まされました。やがて私は,22件の聖書研究を司会するという快い経験をしました。そのうちの一つは異例とも言える研究でした。

街角に立って,「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌を提供していると,一人の婦人が近付いて来ました。その人は読み書きのできない人だったので出版物は役に立ちませんでした。そこでその婦人の住所を教えてもらい,再訪問をするよう取り決めました。すぐに聖書研究が始まり,週に二,三回研究が行なわれました。彼女は聖書の真理を熱心に取り入れただけでなく,文字を読むことをも学びました。ローラ・シャボーは,迫害のさ中にあって忠実なエホバの証人になり,それ以来30年以上その立場を保っています。その間彼女は,現在ではエホバの証人になっている45人ほどの人々との聖書研究を司会しました。

ケベック市 ― 新たな活動の場

当時,ケベック州の首都であるケベック市では,エホバの証人による組織的な活動は行なわれていませんでした。そこで,1945年の末に,私たち五人がその地に割当てられました。同市のふん囲気は,国際都市モントリオールとはだいぶ異なっていました。

ケベック市では,ローマ・カトリック教会が全権を掌握しており,僧衣をまとった司祭たちが至るところに見られました。恐怖と圧制のとばりがあたり一面にたれ込めているかのようでした。この町にはカトリックの枢機卿と独裁的なデュプレッシーが住んでいました。このカトリックの牙城で,聞く耳を持つ人々を見いだすことができるでしょうか。

当初,ケベック市の人々は非常に友好的で,私たちの戸別訪問を受け入れてくれました。私とパートナーのジョン・ハウは,最初の月に聖書研究の手引きを各々100冊以上配布しました。関心を示した一人の婦人の家で集会が取り決められ,その家族十人が出席しました。長時間にわたって,極めて率直な討議が活発に行なわれました。彼らは名目上はカトリック教徒でしたが,実際にはカトリック教会に対して反感を抱いていました。帰る前に私は,「敵」と題する書籍数冊を含め,伝道かばんに入っていた文書全部を配布しました。そのうちの一冊を持って行った人の中に,家の人の肉親の兄弟に当たるアルフォンス・ボーデーがいました。

数日後,道を歩いているときに私は声を掛けられました。声を掛けたのは,その同じアルフォンス・ボーデーで,「聖書について話し合うためだれかを訪問するのでしたら,一緒に連れて行っていただけませんか」と尋ねました。

「もちろん,構いませんよ」と私は答えました。その道すがら,彼は自分のしたことについて話してくれました。

前の日曜日の晩に,私が彼の親族を訪問した後,アルフォンスは家に帰り,徹夜で「敵」の本を読み,三日間というものはむさぼるようにその本を読みました。その本を読み終えると,アルフォンスは自宅にあった偶像,十字架,彫像などすべてを集め,家の外に持ち出し,カトリックの隣人の見ている前でそれを焼き払いました。しかし,それだけではありませんでした。

次に彼は司教のところへ行き,自分の名前をカトリック教会の名薄から削除するよう申し出ました。その後,私を捜しに来たのです。こうしたことがあってから30年を経た今日,アルフォンスは依然としてケベック市で聖書を教えており,その際立った熱意と専念によって,多くの人々はエホバ神に忠実に仕えるよう助けられました。

間もなくケベック市に小さな会衆が設立され,会衆の集会が定期的に開かれるようになりました。しかし,平和な状態は長続きしませんでした。やがて司祭たちは,説教壇での話やカトリック系の新聞によって,憎悪の嵐を巻き起こすようになりました。その後,逮捕や有罪判決が相次ぎました。

同市の記録官(裁判官)ジャン・メルシェは警察が「エホバの証人であると知られている者,あるいはその疑いのある者を見付けたらその場で逮捕する」よう指示されていることを発表しました。古色蒼然としたケベックでの迫害は,突如全国的なニュースとなったのです。その結果カメダの他の州の人々は,公平であるはずの裁判官が非常に不公平になっているということに対して,著しく反発しました。

1946年および1947年には,ケベック市で非常に多くの有罪判決,令状の執行,上訴,および訴訟があったため,報道関係者はそれを,“訴訟令状の戦い”と呼んだほどです。私は,“騒乱罪”,“無免許行商”などいつもの不法妨害のかどで,合計四か月間刑務所で過ごしました。

私はギレアデ聖書学校第九期のクラスに入るよう招きを受けましたが,登録を済ませるはずの1947年2月に,まだ刑務所の中にいました。うれしいことに,その課程が始まる直前になって,私は保釈されました。しかし,その課程が終わる前に,カナダの最高裁判所は私の上告を却下し,保釈は取り消されました。

悲しいことに,私はギレアデでのすばらしいクリスチャンの交わりに別れを告げ,ケベックの刑務所に戻らねばなりませんでした。学校の教務主任は刑務所に試験の用紙を送ってくれたので,私は刑務所でその質問に答え,採点してもらうために用紙を送り返しました。卒業式には出席しませんでしたが,こうしてギレアデの教育課程を修了することができました。

刑務所でも報われることがありました。私は,運動場で20人もの囚人たちに対してしばしば聖書に基づく講話をすることができました。そのうちの一人は,後日エホバの証人になりました。

新しい割当て

1947年の秋,現在では巡回監督と呼ばれる,エホバの証人の旅行する代表者としての新たな割当てを受けました。私はケベック州で奉仕しましたが,同州には12ほどの会衆のある巡回区が一つあったにすぎず,そのほとんどはごく小さな会衆でした。

大抵の場合,集会に出席しているのは,宣教者のグループと新しく関心を抱いた人一人か二人でした。開拓者と呼ばれる,全時間の王国宣明者たちを励ますために遣わされると,反対に直面した際に彼らの示す不動の態度を見て自らが大いに強められました。1949年,私はモントリオールの忠実な開拓者イベッティー・ウェレットと結婚し,私は彼女を伴って巡回の仕事に携わることになりました。

私が巡回監督として最初に訪問した群れは,ケベック市南部の丘陵地帯にある,サント・ジェルメン・ステーションでした。その群れに交わっていたのは,一家族,すなわちエイム・ブーシェとその妻,そして三人の子供たちでした。その家族は,貧しくてつつましいながらも,愛すべき人々で,岩の多い,小さな農場に住んでいました。ブーシェ兄弟は,二頭の雄牛に引かせた背の高い二輪の荷車で,駅まで迎えに来てくれました。困難な状況に囲まれているにもかかわらず,エイム・ブーシェは勇気のある人で,真理を非常に効果的に証しする人でした。

最高裁判所での勝利

1950年は,カナダの最高裁判所でエホバの証人が勝訴した最初の五つの大きな判決ゆえに,際立った年となりました。最初の勝利は,エイム・ブーシェの事件に関してもたらされました。エホバの証人に有利なその判決は,ケベックを支配していた,教会と国家の結合による圧政に対する,主要な突破口となりました。

エホバは,私自身に関する事件の一つがカナダの最高裁判所に持ち込まれるよう取り計らわれて,敵の攻撃をさらに鈍らせてくださいました。1953年10月のエホバの証人に有利なこの判決が判例となって,信教の自由という同じ原則が決定要素となった1,100件の他の事件にも勝利がもたらされました。こうして,ケベック州でエホバに対する真の崇拝を促進する新たな時代が始まりました。

法廷での判決によって私たちの法的立場は有利にはなったものの,すでに生じていた恐れや偏見を取り除くにはさらに多くの努力が必要でした。会館所有者の中には,依然としてエホバの証人に建物を貸すことを恐れる人がいました。そこで親切な警察官が,警察専用の便せんに,エホバの証人は合法的な組織であり,会館所有者はためらわずに自分の建物をエホバの証人に貸すことができる旨を記した手紙を書いてくれました。その後,プロテスタントやカトリックの教会委員会も,巡回大会のために建物を貸してくれるようになりました。

王国を宣べ伝える業に対する良い反応

ケベックで12年過ごした後,1957年に,私は地域監督として,カナダ東部全域で奉仕するよう求められました。その仕事は,エホバの証人の幾つもの巡回区を訪問し,そこで働き,巡回大会で話をすることでした。その後,カナダ西部のブリティッシュ・コロンビア州で三年間,地域監督として奉仕しました。

しかし,私はケベックに対する愛を決して失いませんでした。実際,必要のより大きいケベックへ行くよう兄弟たちに余りにも熱心に勧めたため,“ケベックの笛吹き(ドイツ民話ハメルンの笛吹きをもじったもの)”というニックネームを付けられてしまいました。西部で私が話をした多くの人々は,実際にケベックへ引っ越し,フランス語を学び,その地のエホバの民の会衆を築き上げる点で良い業を行なっています。

1969年,私とイベッティーはケベックに戻り,そこで1972年まで地域監督として奉仕しました。同年,家族の責任を果たすためにモントリオールに定住することが必要になり,私たちはそこで今日に至るまで特別開拓者として奉仕してきました。この四年間に,私たちが研究を司会した44人の人がエホバの証人となってバプテスマを受けました。

1974年に,北大西洋の仏領の小さな島サン・ピエール・エ・ミクロンに行き,その地でエホバの証人の業を開始できたのは特権でした。司祭たちは私の訪問に関する情報を得,教区民に警告するためにそのことをラジオで発表しましたが,その発表は逆効果を招きました。家の人の多くは,「これはこれはソームールさん,あなたのことは聞いていますよ。どうぞお入りなさい」と言って,私を暖かく迎えてくれました。

数週間で私は八件の家庭聖書研究を取り決め,エホバの証人がさらに活動するための土台を据えました。私がその地を離れる時に,王国の良いたよりを引き続き広めるために,フランスの宣教者二人が同地に割り当てられました。

1975年,“聖霊伝道団”と呼ばれ,1,500人ほどの会員を擁するフランス系の小さな教会のグループの有力者たちに会ったことから,類例を見ないような経験をしました。それら有力者の一人と長時間話し合った後,その人は幾人かの友人を連れて私に会いに来てもよいかと尋ねました。私は,「もちろんです」と答えました。数日後,彼は他の会員とその妻たち,合計40人を伴ってやって来たのです。

やがて彼らは自分たちの教会や学校を閉鎖し,その教会の“しもべたち”すべては辞職しました。それから,自分たちの教会の会員に,エホバの証人と研究を始めるよう告げました。突如として,千人もの人々が聖書研究を望むという事態が生じたのです。

私は,二か月間に,1,300冊の聖書研究の手引きを彼らに配布しました。研究の多くは後に中断されましたが,この以前の教会グループに属していた人のうち100人近くがエホバの証人として浸礼を受け,ほかにも研究をしたり,王国会館での集会に出席したりする人が400人ほどいます。間もなくさらに大勢の人が浸礼を受けるものと思われます。

全時間の宣べ伝える業に携わったこの30年余りの年月は,価値のある,報いの多いものであったと言わねばなりません。数々の問題にも直面しました。しかし,エホバは私たちに援助の手を差し伸べ,いかなる妨害をも乗り越えられるよう助けを与えてくださいました。聖書が神のしもべに関して述べている次の言葉は真実です。「あなたを攻めるために形造られるどんな武器といえども効を奏さ(ない)」― イザヤ 54:17,新。

この言葉が真実であることは,ケベックで何とよく証明されたのでしょう。1945年に同地で神の王国を宣明していたのは356人にすぎなかったのが,現在では8,000人余りがその業に携わっています。1945年当時,ケベックにあった八つの会衆は,149に増加しました。1947年当時の一つの小さな巡回区は,10の巡回区になりました。確かに,『霊的なさばくはサフランの花のごとくに咲きかがや(いて)』います。(イザヤ 35:1)この楽しい年月を思い起こすと,それは何物にも換え難い経験であると言えます。真の崇拝を擁護するために闘うことは,これまで同様,今でも大きな特権です。

[脚注]

a 1973年8月22日号の「目ざめよ!」誌をご覧ください。

[115ページの写真]

最近の筆者と夫人

[117ページの写真]

以前は読み書きのできなかったこの婦人は,多くの人に聖書の真理を教えた

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