『聖書全体は神の霊感を受けたものであり,有益です』
ヘブライ人への手紙(つづき)
なぜ有益か
23 パウロは律法について何を論じますか。彼は自分の論議をどのように裏付けていますか。
23 ヘブライ人への手紙は,キリストに関する法的な論証として他からの挑戦を許さぬ傑作であり,その完全な構成とヘブライ語聖書からの豊富な文書証拠とは異論の余地を与えません。この書は,契約,血,仲介者,崇拝の天幕,祭司職,ささげ物など,モーセの律法のさまざまな面を取り上げ,それらが,神の備えた完全なひな型であり,後に来るはるかに偉大な事柄を予表するものであったことを示しています。そのすべては,律法の成就であるイエス・キリストと,そのささげた犠牲とのうちに完結を見たのです。「廃れたものとされて古くなってゆく」律法は「近く消えてゆく」とパウロは語りました。一方,「イエス・キリストは,きのうも,きょうも,そして永久に同じ」なのです。(ヘブライ 8:13; 13:8; 10:1)こうした手紙を読んで,ヘブライ人のクリスチャンたちはどんなにか喜んだことでしょう。
24 ヘブライ書の中では,今日のわたしたちにも計り知れない益となるどんな取決めについて説明されていますか。
24 しかし,このことは,異なった環境に住む今日のわたしたちにどんな価値があるのでしょうか。わたしたちは律法の下にはいませんが,パウロの論議の中に何か有益なものを見いだすことができますか。もちろんできます。この手紙の中に,偉大な新しい契約の下での取決めが略述されているのです。それは,アブラハムの胤を通して地のすべての家族が祝福を得るという約束に基づくものです。これこそ命のためのわたしたちの希望,わたしたちの唯一の希望であり,アブラハムの胤イエス・キリストによって祝福を与えることに関するエホバの昔からの約束の実現です。律法の下にはいなくても,わたしたちはアダムの胤として罪のうちに生まれており,あわれみある大祭司を必要としています。それは,真に有効な罪のささげ物を携え,天のエホバのおられる所に入り,そこでわたしたちのための仲介の務めをなしうる方です。ここにこそ,わたしたちは,わたしたちをエホバの新しい事物の体制での命に導いてくださる方,わたしたちの弱いところを思いやることのできる方を見いだします。それは,「すべての点でわたしたちと同じように試され」,「時にかなった助けとしてあわれみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づ」くようにとわたしたちを招いておられる方です。―ヘブライ 4:15,16。
25 パウロはヘブライ語聖書のことばをどのように当てはめて啓発を与えていますか。
25 さらに,ヘブライ人にあてたパウロの手紙の中には,遠い昔ヘブライ語聖書の中に記録された数々の預言が後に驚嘆すべき仕方で成就したことを示す,心を奮い立たせるような証拠が見いだされます。そのすべては,今日のわたしたちの教えのため,また慰めのためです。例えば,パウロはヘブライ書の中で,詩篇 110篇1節にある王国に関する預言を五度イエス・キリストに当てはめ,そのイエスが王国の胤であることを示しています。そのイエスは「神のみ座の右にすわ(り)」,「自分の敵たちが自分の足の台として置かれるまで待」つことになったのです。(ヘブライ 12:2; 10:12,13; 1:3,13; 8:1)さらに,パウロは詩篇 110篇4節を引用し,『メルキゼデクのさまにしたがう永久の祭司』として,神の子イエスが果たす重要な職務について説明します。聖書の記録の中では「父もなく,母もなく,系図もなく,生涯の初めもなければ命の終わりもな(い)」昔のメルキゼデクと同じように,イエスは王であり,また,贖いのための自分の犠牲の永遠の益を,従順な態度で自らその支配に服するすべての者に施す『永久の祭司』でもあります。(ヘブライ 5:6,10; 6:20; 7:1-21)この同じ王なる祭司に関して,パウロは詩篇 45篇6,7節を引用しつつさらに次のようにも語りました。「神は永久にあなたの王座,あなたの王国の笏は方正の笏である。あなたは義を愛し,不法を憎んだ。それゆえに,神,あなたの神は,あなたの仲間にまさってあなたに歓喜の油をそそがれた」。(ヘブライ 1:8,9)パウロがヘブライ語聖書から引用し,それがキリスト・イエスにいかに成就したかを示すにつれ,わたしたちは,神の備えたひな型の一つ一つがそれぞれの場所に納まり,自分たちが啓発されるのを見ます。
26 信仰と忍耐とをもって競走を走りつづける点でヘブライ書はどんな励みを与えますか。
26 ヘブライ人への手紙がはっきり示すとおり,アブラハムは王国を待ち望みました。それは「真の土台を持つ都市」であり,「その都市の建設者また作り主は神」です。それは,「天に属する」都市でもあります。「信仰によって」彼はその王国をとらえようとし,「さらに勝った復活」によってその祝福に到達するために多くの犠牲をいといませんでした。アブラハムおよび他のすべての信仰の男女,すなわちパウロがヘブライ 11章の中に描き出す「大ぜいの,雲のような証人たち」の中に,わたしたちは本当に目ざましい手本を見るではありませんか。その記録を読むにつれ,それら忠誠な信仰保持者たちと同じ特権と希望にあずかるわたしたちの心は喜びに躍ります。こうしてわたしたちは,「自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろう」という励みを得ます。―ヘブライ 11:8,10,16,35; 12:1。
27 ヘブライ書の中では,王国に関するどんな栄光ある見込みが明瞭に示されていますか。
27 パウロはハガイの預言(2:6)を引用して神の約束のことばに注意を引きます。「わたしは,さらにもう一度,地だけでなく天をも激動させる」。しかし,約束の胤であるキリスト・イエスによる神の王国は永久に保つのです。「それゆえ,わたしたちは,揺り動かされることのない王国を受けることになっているのですから,過分のご親切のうちにとどまろうではありませんか。それによってわたしたちは,敬神の恐れと畏敬とをもって,受け入れられるしかたで神に神聖な奉仕をささげることができます」。この奮い立たせるような記録は,キリストが二度めに現われること,それが「罪のことを離れ」,「自分の救いを求めてせつに彼を待ち望む者たちに対して」であることを,わたしたちに保証しています。それですから,わたしたちは彼を通して「常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。エホバ神の大いなるみ名が,その王なる祭司イエス・キリストを通して,永久に神聖なものとされますように。―ヘブライ 12:26,28; 9:28; 13:15。