ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目75 9/8 25–26ページ
  • 民主主義,その“揺りかご”に戻る

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 民主主義,その“揺りかご”に戻る
  • 目ざめよ! 1975
  • 関連する記事
  • 第4部 ―『われら人民は』
    目ざめよ! 1990
  • ギリシャ正教会 暴力を振るうと脅し,大会を妨害
    目ざめよ! 1988
  • 信教の自由が攻撃にさらされるギリシャ
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1986
  • 世界展望
    目ざめよ! 1986
もっと見る
目ざめよ! 1975
目75 9/8 25–26ページ

民主主義,その“揺りかご”に戻る

ギリシャの「目ざめよ!」通信員

地中海に面する国ギリシャは,自国が“民主主義揺籃の地”であることを常に誇りとしてきました。しかし,西暦前六世紀から同四世紀にかけて,ギリシャという揺りかごの中にいた“幼児”がどのような状態であったかを見るのは興味深いことです。その時期に,人間は多くの分野で知識を大幅に増大させました。哲学的思考や一般の美術も広範囲に広がりました。しかしこのギリシャ型の民主主義は,ごく限られた範囲で行なわれるにとどまり,多くて一万人そこそこの住民の都市国家で採用されていたにすぎません。しかもこうした町においてさえ,奴隷や女性,また外国で生まれた者たちには投票権が認められていなかったので,この形態の民主主義を享受したのは,一部の少数者にすぎませんでした。

ギリシャに関して言うなら,その後約2,000年間,“揺りかご”の中はからだったようです。19世紀以降,ギリシャは,立憲君主政体,共和政体,独裁政府,第二次世界大戦中の外国による支配など,さまざまな形態の政府を有してきました。第二次世界大戦後,民主主義が再び力を盛り返しましたが,それも1967年4月21日までのことで,この日に軍事政権はその“揺りかご”から民主主義の息吹きを取り除いてしまいました。

同政権の実権を握る陸軍大佐らは,選挙制度を廃止し,すべての政党に解散を命ずるなど,市民の権利を大幅に制限しました。そして,ギリシャ国民は民主主義的支配を受けるほど成熟していないとして,過酷に支配しました。その結果エホバのクリスチャン証人は,社会運動や政治とは一切関係がなかったのに,聖書教育活動を地下で行なわねばなりませんでした。1969年には,ニュルンベルクからアテネに向かって旅をしていたギリシャ国籍を持たないエホバの証人たちまでが,国境で調べられ,同国内の信仰を共にする仲間の人々に渡そうとしていたキリスト教関係の文書すべてを押収されてしまいました。また,国外に住む親族を尋ねたり,クリスチャンの大会に出席したりする目的で旅券を申請して,「公共の秩序と福祉に反する」との理由でギリシャ国外に出ることを禁じられたエホバの証人もいました。

1970年11月13日に内務省が,エホバのクリスチャン証人同士の婚姻を“実在しない”ものとみなすよう指示した省令を発布したことも,同独裁政権が権力をふるっていたこの異常な時期に生じたもう一つの驚くべき出来事といえます。同省令は,ギリシャ国内の戸籍吏に対し,「エホバの証人の宗教は無名の宗教である」ゆえ,証人同士の婚姻およびそれによって生まれた子どもを戸籍に登録してはならないと命じていました。

これほど非道な,そしてだれの目にも明らかに不当な,こうした内務省令を発布して大きな社会問題を引き起こしえたのも,独裁政権ならではのことでした。エホバの証人の宗教は,諸外国においてはもとよりギリシャ国内においても,幾十年もの間あらゆる面でよく知られています。最高裁判所,行政裁判所および一般法廷の弁護士はみな,エホバの証人が“既知の宗教”団体である事実を公に言い表わしてきました。その上,エホバのクリスチャン証人の宗教儀式にのっとって結ばれた婚姻関係は,70年以上の長きにわたり同国政府の戸籍役場で登録されてきました。このよく知られている宗教を奉ずる家庭に生まれた子どもたちは,これまで四世代にわたり,何の問題もなく登録されてきたのです!

しかし,市民の権利の大幅な制限が六年間続いた後,予期しなかったある事態が生じました。1973年11月に別の軍事政府が政権を握ったのです。この軍事政府は以前にも増して圧制的でしたが,結局は短命に終わりました。経済不況に政治的,社会的不安が加わり,同政権の基盤を弱体化しました。そのためキプロス紛争に関連して難しい問題が生じ,トルコとの戦争に備えて全土に軍事体制をしく必要に迫られた時,同臨時政府は極めてやっかいな問題を抱え込むことになりました。

同政府は,亡命中の前首相コンスタンチノス・カラマンリスに帰国と組閣を要請する以外に道はないと考えました。カラマンリスはその要請に応じ,1974年7月24日,新たに内閣を組織しました。このカラマンリスは,1955年から同63年まで政権を担当しましたが,王室と意見を異にしたため,外国に行き,パリに滞在していました。王座から引き降ろされていた民主主義は,こうして衝突も流血行為も伴わずに,1974年11月27日の議会での自由選挙,および同年12月8日の国民投票によって,再びその地位を回復しました。

新政府は,次の三つの大きな課題を負っています: (1)政治・経済・社会情勢を正常に戻すこと。軍事政権の支配下で,同国は観光事業,外国為替,国際運輸事業などを中心に約4億ドル(約120億円)もの損失を被り,工業生産力もかなり低下しました。(2)議会による,“古代ギリシャ民主主義”に立脚した憲法の制定。(3)キプロス紛争とそれに関連して持ち上がった多数の極めてやっかいな問題の解決。

かつての“揺りかご”に民主主義が再び戻ってきた結果,エホバのクリスチャン証人は再び公に集まることができるようになりました。1974年の暮れに,エホバの証人は特別な集まりを開くため,大きなバスケットボール競技場を借りました。ところが,明らかに政治的圧力ではなくて宗教的圧力を受けた管理者が,直前になって契約を解除してしまいました。そこで,一人のエホバの証人の経営する大きなホテルのホールを使い,幾つかの集まりが開かれました。また二日後には,ある屋内バスケットボール競技場で別の集まりが開かれました。その結果,合計1万1,644名のエホバの証人がその特別な集会に出席し,ニューヨーク,ブルックリンから来たエホバの証人の統治体の二人の成員の話を聞くことができました。

言うまでもなく,ここギリシャの証人たちは感動に胸を躍らせました。こうして公に集うことができたのは七年振りでした。証人たちはエホバに感謝しました。そして,政府が軍事政権から民主政権に変わったことにも感謝しました。禁令下にあった間,証人たちは怠惰に過ごしていたのではありません。来る年も来る年も,熱意を込めて宣べ伝える業を続けました。―イザヤ 54:17。

民主的な政府のもとにある現在,ギリシャのエホバの証人は自由に公の講演会を開くことができます。そして近い将来,“王国会館”として知られる証人たち自身の崇拝の場を持てるようになることも希望しています。ギリシャにおける増大する聖書文書の需要をまかなうために,印刷施設を拡充する計画も立てられています。現在政府は,人権を保護する憲法を起草していますから,婚姻に関する問題もやがて解決されるものと考えられます。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする