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目ざめよ! 1975
目75 11/22 28–29ページ

聖書はそれをどう見ていますか

魂とは何ですか

英語では,「その部屋には一つの魂もいなかった」という表現がよく使われます。部屋には人っ子一人いなかった,という意味であることは容易に理解できるでしょう。この場合,魂という語が,肉体を離れた,目に見えない霊を意味している,などと考えることはないはずです。

同様に,聖書の中で「魂」という語が使われている所では常に,人間や動物など生きていて活動し,ある程度の知能を持つものに関連して用いられています。人間に関連して用いられる場合,「魂」という語は,肉体を持つ人間にある欲望や感情や経験とも関係があります。聖書は,魂が『食物を取ることを必要とし』,「罪を犯す」ものであり,「やつれ果て」たり,『あえい』だりするものであると述べています。(出エジプト 12:16; レビ 4:2; 26:16; エレミヤ 15:9,新)「罪を犯している魂 ― それが死ぬ」とエゼキエル書 18章4,20節は述べています。人間の魂は不滅ではありません。しかし,死ぬことができるのは,罪を犯す魂だけではありません。罪を持っていなかったイエス・キリストは,罪人が,さらには死んだ人々さえもが命を取り戻せるように,贖いとして『おのが[魂,新]をかたぶけて死にいたらしめ』ました。―イザヤ 53:12。

従って,聖書の中で「魂」という語が人間に適用される場合,それは「人間としての命」,あるいはさらに正確には,「理知を持つ被造物としての人間」を意味しています。魂という語は,体全体,また人格を含め,あらゆる特徴や傾向を持つ人の総体を指しています。そうした用法は例外的であると思われますか。

それでは,「(聖書における)魂」という見出しの下で,新カトリック百科事典(第13巻)の述べていることに注目してください。「ネペス[あるいはネフェシュ,“魂”を意味するヘブライ語]は,動物と人間の双方に関して用いられている。生物が人間であれば,ネペスは人つまり“わたし”に相当する。ネペスは死後シェオールに行く。

「上記の要約は,旧約[聖書]の中には肉体と魂を分けて考える概念のないことを示している。イスラエル人は,物事の全体を具体的に見ており,人間を複合体としてではなく一個の人とみなした。ネペスという語は魂という言葉に訳されてはいるが,決して肉体あるいは個人から分離したものとしての魂を意味してはいない」。

さらに,「新約聖書における用法」という副見出しの下で,その同じ書物は魂について次のように述べています。「その語[プシュケー,魂を意味するギリシャ語]は,命の原理,命そのもの,あるいは生き物を意味することもある」。さらに,この百科事典は,プシュケーがそれに相当するヘブライ語ネフェシュの場合と異なって,肉体とは別個の不滅性を備えたものと考えられるようになったが,それは,ギリシャ人(キリスト教のものではない)の影響によるのであると,述べています。同事典はこう結んでいます。「様々な経験をする生き物として,その語[プシュケー]は,『海のいきもの[プシュケー]はみんな死んでしまった』(黙示 16:3)とあるように動物を指す場合もあり,あるいは,『人々[プシュケー]は畏れをいだいた』(使徒 2:43。ローマ 2:9; 13:1)とあるように人間を指す場合もある。ゆえにプシュケーなるものは,感じ,愛し,欲することがある。この点に関して,プシュケーは『いつまで私たち[プシュケー]を迷わせておかれるのですか』とヨハネ 10章24節に書かれているように,人称代名詞または再帰代名詞として用いられる場合がある」― 449,450ページ。

ゆえにわたしたちは,人格を人間の中にある霊的あるいは非物質的な,肉体を離れて存在し得るものであるかのように考えて,肉体と人格とを分けることはできません。生物学の研究は,わたしたちの人格の多くの部分が,父母から,さらには両親を通して遠い先祖から受け継いだものであることを示しています。人体の幾十億もの細胞それぞれの中には,全く同じ染色体や遺伝子があります。それらは,人が生まれる時にその人の人となりを決める遺伝要素を伝える因子です。人は誕生時からすでに,性格の面で一定の傾向や特徴を持っています。そうした傾向や特徴は育まれてゆき,人が大人になるに従ってはっきりしたものとなります。身体上の障害は,人の性格に影響を与えますが,身長の高低,体重の軽重など体のつくりでさえ人格に影響を及ぼし得ます。

したがって,魂とはまさに,人の総体,さまざまな特性を持つその存在のあらゆる面,すなわち,人としての全存在のことです。そして,人体の各部分は緊密に結び付いているので,体の一部分あるいは器官だけが影響を受けて,他のすべての部分に影響が及ばないなどとは言えません。使徒パウロは,人体のこの結合を例えとして用い,次のように書いています。「目は手に向かって,『わたしにあなたは必要でない』とは言えず,頭も足に向かって,『わたしにあなたがたは必要でない』とは言えません。それどころか,実際には,体のなかでほかより弱く見える肢体がかえって必要なのであり,また,体のなかでほかより誉れが少ないと思う部分,これをわたしたちはより豊かな誉れをもって包みます。しかしそうではあっても,神が体を組み立てたのであり,欠けたところのある部分に誉れをより豊かに与えて,体に分裂がないように,その肢体が互いに対して同じ気づかいを示すようにされました」― コリント第一 12:21-25。

魂が何であるかに関するこの理解に照らしてみると,イエスが次のように言った時,何を意味しておられたかを識別することができます。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」(マタイ 10:28)人間は,体を殺してただ一時的に人を死に至らせることができても人間としての命の“権利証書”とも言うべきものを取り去ることはできません。神は忠実な人々を生きているものとみなされ,神の定めの時に必ず再び生きた魂とならせます。復活はないと,主張したサドカイ人に対する反論の中で,イエスはこう言われました。「彼[エホバ]は死んだ者の神ではなく生きている者の神です。彼らはみな,神にとっては生きているのです」― ルカ 20:38。

ゆえに,人が復活する時に生き返るのは,その人の存在全体つまり魂です。そうではあっても,同じ原子から成る全く同じ肉体が戻ってくるという訳ではありません。使徒パウロはこう説明しています。「神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれ[死によって『まかれた』もの]に体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます……物質の体があるなら,霊の体もあります」。(コリント第一 15:38-44)天に復活する者は霊の体を受け,地上でよみがえらされる人は肉の体を受けるのです。人間を死の状態から地上での命に復活させる際に,神は,異なった原子を用いて,死ぬ前と同じ遺伝構造と配例を持った細胞を容易に再生することができます。神は,再生したその体の中に,その人が一生の間に獲得したさらに多くの特徴を,事実上刻み込むことができるのです。神がそうすることは,人間が電子の作用によってビデオテープに録画・録音を行ない,それを再生するのと同じほど容易です。

一方,神が個々の人を,永遠の死を象徴している「ゲヘナ」で滅ぼされるなら,その人は,その時に存在しなくなるだけでなく,事実上永遠に死んだ状態に置かれることになります。神が,命に対するその人の“権利証書”とも言うべき,その魂を滅ぼされたからです。―マタイ 10:28。

ゆえに命を望む人は,当然のこととして,自分の魂,つまり自分の全存在とすべての才能を神に仕えるために使うべきです。その点についてイエスはこう言われました。「自分の魂を慈しむ者はそれを亡くしますが,この世において自分の魂を憎む者は,それを永遠の命のために保護することになる」。(ヨハネ 12:25)わたしたちの関心は,単に現在の物質的な事柄にではなく,わたしたちの魂に永遠の命を与えることのできる神への従順に向けられねばなりません。

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