グァテマラを荒廃させた地震
現地からの報告
グァテマラの「目ざめよ!」通信員
グァテマラの大地 ― 実際には中央アメリカの大部分がそうですが ― はよく震動します。ここに住む人の多くにとって,熟睡から目ざめて飛び起き,外に飛び出すと,最後の揺れが収まるところだったという経験は慣れっこになっています。しかし時には揺れるぐらいでは収まらないことがあります。
1917年に首都グァテマラ・シティは大地震に見舞われて大きな被害を出しました。しかし町は再建されて今では約100万人の人口を有する,中米第一の都会となっています。
妻とわたしはここグァテマラ・シティに住んでいるので,度々の地震には慣れています。しかし2月4日,水曜日,早朝のまだ暗い時間にわたしたちが経験したのは,グァテマラに住む人でもあまり経験したことがないような激しい揺れと震動でした。不幸なことに多くの人がそれを生き延びませんでした。
ある推計によると死者は5万人に上るものと見られていますが,現在の公の記録では2万3千人を越える見当とされています。およそ7万4千人かそれ以上の人が負傷し,家を失った人は100万人を越えました。人口およそ585万人の国で,これは五人にほとんど一人が家を失ったことになります。
これは1972年にニカラグアのマナグアを壊滅させた地震を上回る,中央アメリカ史上最悪の災害と言われています。アルゼンチンからの救援使節団長レアンドロ・サラト博士の言葉を借りて言えば,7万人という,はるかに多くの死者を出した1970年のペルー地震でさえも,「被害の点では今度の地震に及ばない」ということです。
夜間の恐怖
火曜日晩の聖書研究から帰宅して就寝した,妻とわたしはぐっすり眠り込んでいました。それでわたしが目ざめたのは激しい揺れと震動が始まってからでした。しかし地震の近づく気配で目を覚ましたという人もいます。
米国から訪問していたある人は,遠くで雷が鳴っていると思ったと語っています。その音は近づくにつれて大きくなり,しまいにはとどろきとなり,深い地中からの地鳴りになりました。これは岩層が裂け,破壊されるために生ずるものです。その音は拡大され,強められて遂に地表に達した時には,『二台のジェット機のエンジンの間に立っている時のような』音になりました。これを「無数の石が地中でがらがら鳴っているようだ」と表現した人もいます。
前に述べたように,わたしは激しい揺れと震動の始まるまで目が覚めませんでした。このような事態の時に人はどうしますか。ガラスが割れ,壊れた物が落ちてくる中でベッドから出ようとしますか。ドアを目がけて走り,外に飛び出すべきですか。秒が時を刻み,揺れがますます激しくなるにつれて,これは普通の地震ではないことが分かりました。頭の上に屋根が落ちてくるのではないかという恐れで他の事を考える余裕のなかったわたしは,妻の上に身を伏せてふたりの頭を保護しようとするのがやっとでした。
遂に揺れは止まり,家が揺れ動くこともやみました。それが続いた時間 ― 39秒間 ― は果てしなく長いものに思えました。遂に静けさが戻り,一時的にせよ,あたりは静かになりました。ようやく立ち上がることができたわたしは,今の地震が全く恐ろしいものであったことを直ぐに知りました。
停電のためにあたりは真っ暗でした。暗やみの中で懐中電燈を手さぐりしながら,わたしは直ぐに目に映るであろう惨たんたる光景を感じることができました。捜しあてた懐中電燈をつけると,その光に照らし出された光景は想像していた通りのものでした。壁から落ちて粉々に砕けた鏡を踏まなかったのが不思議なくらいです。花びんや電燈は床に落ちており,あるものは粉々になっています。皿は食器棚から落ち,本棚は倒れています。各部屋を調べて回りながら,わたしは鉄筋コンクリートの堅固な家に住んでいて本当に良かったと思いました。電気時計は午前3時3分をさして止まっており,地震の時刻を示しています。
生き延びた人のほとんどはその夜の恐ろしかった経験を口をそろえて語っています。アイオワ州シーダー・ラピッズからの観光客で,娘と一緒にリッツ・コンチネンタル・ホテルに泊まっていた人も,熟睡していたところを起こされました。彼はこう説明しています。
「わたしが最初に感じたのは怒りでした。―だれかがベッドをひっくり返そうとしているのです。次に思ったのはハルマゲドンだということでした。ホテルが耐震構造であったことは全く幸いでした。それは実によく揺れたからです。わたしたちは道路に振り落とされないように文字通りしがみついているといった感じでした。壁のしっくいははがれて落ち,窓はつぶれました。しまいには地面は馬がはねる時のように建物を持ち上げました。
「地面の大揺れが収まると,不気味なほど静かでした。人々はぼう然としていました。恐怖,消え去らない恐怖だけがありました。隣室の人がろうそくを持っていました。わたしたちは階段を歩いて降りませんでした。わたしたちは走ったのです。わたしは時計を見ました。午前3時15分にならないうちにわたしたちは往来に出ていました。
「グァテマラ・シティは海抜およそ5,000フィート(約1,500メートル)に位置しているため相当に寒く,吐く息が白く見えました。一時間後,わたしたちは衣服を取りにホテルに戻ることにしました。ろうそくを手に暗いホテルに再び入ると,余震にびくびくしながら八階に上って行きました。薄暗い部屋の中で身の回り品をかばんにつめ,急いで往来に戻りました。家を出る時,二日がかりで支度した物をホテルから持って出るのに要した時間は十分に過ぎません。しかしかみそりと歯ブラシはバスルームの床に落ちて砕けた物の下になって取り出すことができませんでした」。
そうこうする間にわたしたちも隣人もショックから立ち直りつつありました。車を車庫から出すためにエンジンをかける音が聞こえてきました。隣人たちは寒さから身を守るため,おびえきった子供たちや老人を車に乗せていました。
家の中に落ちて砕けた物を片付けて通り道を作っているところへ,安否を気遣ったエホバの証人の一家族が訪ねて来ました。わたしたちは熱いチョコレート飲料を入れ,命の助かったことを感謝する祈りを共にエホバにささげました。しかし気懸かりなのはクリスチャン兄弟たちの安否です。市内には約2,500人の証人がおり,グァテマラ全国でその数はおよそ5,000人に上ります。
地震のあと ― どれほどひどかったか
とりあえずわたしたちはエホバの証人の支部事務所に行くことにしました。ふだんならば車で十分のところですが,一マイル(約1.6キロ)以内のところで地滑りのために外周道路が通れなくなっており,古い住宅地域を通って行くことにしました。わたしたちの近所の新しい家に被害の跡はほとんど認められませんでしたが,ここでは家々の正面の部分が道路に崩れ落ち,へいも倒れていました。
すでに昼間と同じぐらい多くの車が行きかっており,人々は親類や知人の家へと急いでいました。男も女も子供もねまきやガウンのまま,そして毛布を体に巻いて外に出ていました。人々は家あるいは家の残った部分に入ることを恐れていたのです。崩れたれんがとアドービ粘土のほこりが夜の暗やみの中で異様なふんい気をかもしており,自動車のライトの光だけが道路を照らし出しています。
支部事務所では全員が無事であることを知ってわたしたちはほっとしました。また建物も被害を受けた様子はありません。支部の調整者は別の地区の証人たちの安否を問うため,すでに出掛けた後でした。そこでわたしたちも自分たちの会衆の人々の家を巡回することを始めました。エホバの証人の監督たちと奉仕のしもべたちは朝の早い時間中かかってクリスチャン兄弟,姉妹たちの安否を調べました。すると家を失った人や,かすり傷を負った人はいましたが,命を失った人はひとりもいませんでした。
夜明けとともに地震のすさまじかったことがますます明白になりました。この地震はリヒター・スケールで震度7.5を記録したということです。間もなく薄いシーツやプラスチックで覆われた何百の遺体が道路に並べられてゆきました。「遺体安置場はいっぱいです。これ以上,遺体を運び込まないでください」とラジオは報じました。後で聞いたところによると市内で約800人の死者が出たということです。
貧しい人々の多い地区では何千軒もの家が倒壊し,家を失った人は何万人にも上ります。ある地域では瓦れきの山以外に何も残っていませんでした。しかし中流また上流階級の住む,もっと堅固な家は比較的に被害が小さかったようです。それでも教会の多くは大きな被害を受け,わたしの家の近くでは,れんが造りの現代的なカトリック教会が崩れてしまいました。
当局の推計によると首都の建物全体の20パーセントが全壊,40パーセントは使用不能なほどに破壊されました。全国的な被害は50億ドル(約1兆5,000億円)を越えるものと見られています。グァテマラ・シティはこうしてキャンプの町と化しました。裕福な人々でさえ,もっと大きな地震があることを恐れて車の中や外の芝生あるいは間に合わせの差掛け小屋の中で眠りました。
難儀をしながらも人々は一般に元気でいました。エホバの証人は一緒にかたまって助け合いました。あるところでは道路に作られた仮の避難所に35人の証人たちが寝起きしているのを見かけました。外には崩れ落ちたアドービれんがで作った,バーベキュー・スタイルの粗末な炊事場がありました。みんな快活で,訪問者さえも歓迎されていました。
不安はまだ去りませんでした。というのはその後しばらくの間,毎日十回以上も地震を感じたからです。2月6日,金曜日のものはリヒター・スケールで震度5.5を記録し,すでに壊れかけていた壁を崩し,地滑りを引き起こしました。大地震の後の生活がどんなものであったかは,アイオワ州からの観光客がよく描写していると思います。
「我々のグループの医師は死体の処理やけが人の手当てを手伝わなければなりませんでした」と彼は説明しています。「この医師が忘れることのできない光景として語ったのは,ある若い婦人のことです。彼女は何ら外傷が認められないのに死んでいました。彼の想像では彼女は驚きのあまり死んだのです。
「午前8時,我々の旅行のガイドは南西およそ35マイル(約56キロ)にあるグァテマラのアンチグアに移ってはどうかと勧めました。道路は地滑りでふさがれ,また恐怖でぼう然となった人々が群がっていたため,そこに着くのにトラックで5時間かかりました。村の人は町へ,町の人は村へ,だれもが親類の安否を気遣って出かけて行くところでした。
「絶え間ない震動と揺れで峡谷は反響し,こだましていました。歩いていた人にとってそれは奇妙な感じでした。地面の感じが普通ではないのです。ぬかるみの中を歩いているようで,しかも足は土にめり込まないのです。別の言葉で言えばテラ・ファーマ(堅固な大地)が少しも堅固ではありませんでした。
「アンチグアのホテルで我々はみなプールの周囲の庭で生活しました。我々はそこで食事をし,ホテルの人がそこで調理をしてくれました。そして我々はそこで眠ったと言うよりは眠ろうと努めました。大きな余震があるかもしれないのでだれでも建物の中にいることを恐れました。
「それは消え去らない恐怖,毒気にあてられたかのような恐怖でした。2月8日の日曜日,空港へ車を走らせながら我々は兵士たちが死体の山を燃やしているのを見ました。立っている家はほとんど無い村々がありました」。
グァテマラ・シティのわたしたち多くの者は被害の程度について初め見当もつきませんでした。水曜日朝の米軍放送は,震源地がグァテマラ・シティの北西約105マイル(170キロ)にあるグアラン付近であったことを報じました。ここよりも被害の大きいところが他にあるのではないかという疑いは,周辺の地域からのニュースが少しずつ入るにつれて現実のものとなりました。
想像を絶するひどさ
まず耳に入ったのは,北西にあるエル・プログレソが全滅し,2,000人を越える死者を出したという事でした。ついですぐ北にあるサン・ファン・サカテペクエズとサン・ペドロ・サカテペクエズの村が全滅し,何千人もの死者を出したというニュースが伝えられました。最後に伝えられたのは,南部の中心に位置するチマルテナンゴ州が全くの壊滅状態にあるとの,ショッキングなニュースでした。そこにはインデアンの町が沢山あります。なんと1万3,000人を超える死者が出たということです。
それで最も大きな被害を受けたのは,グァテマラ・シティの北およそ12マイル(20キロ),東西におよそ150マイル(241キロ)延びる地域です。しかしわたしたちは実際の被害が伝えられるほどひどいものか半信半疑でした。
ほとんど全部の家がアドービれんが造りであるこのような町のひとつを訪れただけで事態は判明しました。2月6日の金曜日にグァテマラ・シティの北12マイル(20キロ)足らずのサン・ペドロ・サカテペクエズに行ってみると,立っている家はほとんどなく,村は瓦れきの山と化し,道は家々の壁から落ちた泥で埋まっていました。カトリック教会も倒れ,人々はなおぼう然自失の状態でした。死体はほとんど埋葬されていたものの,瓦れきの下から引き出される死体がなおありました。
かつて自分の家であった瓦れきの山から,小さなこてを使ってわずかな持ち物を掘り出している男の人がいました。安物の松のテーブルの表面がかろうじて見えていました。別の人は落ちたたるきから金属の屋根葺き材料をはがして少しでも回収しようとしていました。
土曜日にわたしは最も被害の大きかった高地の地域にあるエホバの証人の会衆に食糧を届けることができました。道路は地滑りのためにふさがれていましたが,それでもパツシア,ザラゴザ,テクパンおよびコマラパに達することができたのです。コマラパでは市長と治安判事の両方が死んでいました。死者が多いのと,伝染病のおそれのために多くの死体は一緒に埋葬されていました。
高地の町々を今,車で通ると,すべての物が平らになっています。普通の家と教会との違いは,教会のほうが大きな瓦れきの山になっているというだけに過ぎません。これらはインデアンの町々です。と言うよりは町々でした。インデアンはグアテマラの人口のおよそ43パーセントを占めており田舎にあるインデアンの町が最も大きな被害を受けました。
わたしたちが訪れた土地の生存者には水が無く,食糧もほとんどありませんでした。大多数の人は風と,夜間に摂氏4度にも下がる山地の寒さの中で身を寄せる避難所もありません。崩れたアドービれんがの乾いた粉が風に吹かれてまき起こすほこりは息もつまるほどであり,ほこりは多くの場合15センチもの厚さに積もっていました。
何千人もの人は火曜日の晩,寝床についたまま目ざめることがありませんでした。アドービれんがの壁が崩れて,人々は重い瓦屋根の下敷きになったのです。生き残った,その土地の人のひとりはアドービれんがについてこう語りました,「それは土でできており,我々の棺おけです」。
負傷した生存者の多くは非常な苦しみを味わいました。地滑りで道がふさがれたため,医師が被災者のところまで来るのに多くの場合,何日もかかりました。ある医師はこう報告しています,「彼らは苦痛をやわらげるすべもなく何日も横たわっていた。はれは多くの場合ひどかった。多くの骨,特に足の骨は皮膚の表面を突き破っていた。傷は露出していることが多く,直ぐに化膿した」。
テクパンでは証人の若い娘が足の骨を折っていました。他にも証人たちの中に負傷者がいました。しかし死んだ人がひとりもなかったのは驚くべきことでした。事実,この地震で証人の間に死者の出た場所は国中どこにもありません。しかし証人たちの中にも家族を失った人はいます。
ひとりの証人は,テクパンの近くで25人の親族が全滅したことを語っています。彼らの住んでいた村に彼は木曜日に着きました。家族のうち15人はすでに埋葬されていましたが,残りの人々を葬るのに棺おけが足らず,作ろうにも木がない有様でした。彼は死体の処理にあたっている人々に向かって,死者はいずれ土に帰ることを説明し,伝染病を防ぐために早く死体を土に埋めるように促しました。
この証人は大きな袋を肩にかついで道を歩いて来る人に会いました。その人は立ち止って数分間,話をしたのち,こう尋ねました,「この袋の中に何が入っているか分かりますか」。
「いいえ」と証人は答えました。
「妻と二人の子供です。これから墓地に行くところなのです」。
震源地近くのグアランにある会衆を訪問していたエホバの証人の旅行する代表者のひとりは次のように報告しています。「死人の間を歩き,家の下敷きになった負傷者の叫びを聞く恐ろしさは何とも言えません。
「多くの証人は崩れた家の下からはい出して来ました。ある人々はろうそくの光の中で傷の手当てを受けました。王国会館も被害を受けましたが,修理不能ではありません。わたしの訪問があったために,遠く離れた地域の証人たちは,地震のあった夜,家に帰らずに王国会館に泊まっていました。それで命拾いをしたと言えるかもしれません」。
悲劇の程度はここにいるわたしたちにとってさえ,つかみ難いほどのものです。地震の一週間あまり後にロゲルド・ガルシア大統領は,およそ300の町と村が40パーセント以上破壊されたと報告しています。ある村々ではその後何日ものあいだ死臭がただよいました。急いで掘った浅い墓の上にまくための石灰がトラックやヘリコプターで運ばれて来ました。
グァテマラ・シティとホンデュラス湾の間の田舎に巨大な裂け目ができたことは,大地の猛烈な震動を物語っています。ある場所でそれは幅8フィート(約2.4メートル),深さ10フィート(約3メートル)にも達しています。パン・アメリカン・ハイウェイでも多くの地滑りが起きて通行は困難であると伝えられていました。
しかし被害が甚大であったにせよ,人々は立ち直りつつあります。それを可能にすることを助けたのは,寄せられた莫大な量の援助です。
各方面からの援助
百を越える国々から援助が寄せられました。何週間ものあいだ昼も夜も,医師,救援隊,医薬,移動式病院,テント,食糧,衣類,毛布を積んだ飛行機で空は混雑しました。しかしこの援助の手も辺ぴな町や村になかなか届きませんでした。道路の通行が不可能な場合,救援物資を届けるのにヘリコプターが使われましたが,それでも援助を必要とする地域にそれが届くまで時には何日もかかりました。
援助の手がようやく届くと,インデアンの村人たちは非常事態の中にあって行儀よく振舞い,列を作って順番に食糧を受け取り,傷の手当てを受けました。米国から来た救援隊のひとりはこう述べています,「これが米国ならば,とっくに暴動になっているに違いない。ここでは人々は列を作って番を待っている。秩序を保つための兵士さえもいない」。
中米各国それに他の国のエホバの証人も直ちに援助の手を差し伸べました。地震のあったその日にエルサルバドルの証人たちは食糧と衣類を携えて来ました。次の日,ニカラグアから救援物資が到着しました。ホンデュラスからはテントと屋根葺き用トタン板が届きました。中米におけるエホバの証人の支部組織およびニューヨーク市にあるものみの塔協会の本部をはじめ,他にも志ある個人から何千ドルもの寄付が寄せられました。そしてグァテマラ自体からも,被害の小さかった地域から食糧,資材,資金の面で寛大な援助が与えられました。
その結果,わたしたちは何トンにも上る食糧と衣類を被災者に配ることができました。辺ぴな町や村に救援物資を運ぶのを手伝うのは確かに特権でした。行く先々でわたしたちは救援物資を携えて来た最初の人でした。例えばグァテマラ・シティの北およそ30マイル(50キロ)にあって被害の大きかったラビナルに救援物資を積んで到着した最初のトラックはわたしたちの支部事務所からのものであったと伝えられています。
木材および屋根葺き用トタン板の不足が予想されたので,わたしたちがまずした事のひとつは荒削りの松材とトタン板を買うことでした。それから建築のできる証人たちが発電機と電動のこぎりをトラックに積み,被災地となったチマルテナンゴの町や村に出かけて行きました。そこで彼らは家を失った証人たちのために9フィート(約3メートル)四方の部屋を建て始めたのです。このような建造物は一時間で作ることができます。こうして他の団体がテントをこれらの被災地に運び込むよりも早くエホバの証人には避難所がありました。
グァテマラ・シティでは二つの王国会館がひどく壊れ,建て直すことが必要です。他の町々の会衆も集会の場所に被害を受けました。それでも証人たちは落胆していません。彼らは目下熱意を持って再建しており,将来に対する確信を抱いています。
なぜそうした確信があるか
基本的に言ってそれは彼らの持つ霊的な見解のためです。彼らは今日の大きな地震の持つ意義を理解しています。そして多くの場合,これらは被害を与え,悲嘆の原因となるにもかかわらず,エホバの証人は将来に対して確信を抱く理由をその中に見いだしています。しかしこの国で圧倒的に多いローマ・カトリック教徒は全く別の見方,悲観的な見方をしています。
一例をあげると: 地震後の金曜日,サン・ペドロ・サカテペクエズを訪れていた時,崩れた家の跡を両手でかきわけていた男の人は落胆しきった様子でこう言いました,「これも神様の罰があったのです。我々は非常な悪人でしたから」。
この人そして彼のようなつつましい,勤勉な人々の多くは,どうしてこうした考えを持つようになったのか,あなたはいぶかるかもしれません。翌日それは明らかになりました。グアテマラのカトリック枢機卿マリオ・カサリエゴは,この国の有力紙が伝えるところによれば,次のように語りました。
「人々が大きな災いを被ったこの時に聖書の教えが思い起こされる。神は愛を持ち,また愛を持たれるがゆえにきょう正し,正し,目ざめさせる。……我々はあまりにも神にさからったため,神がこのように行動されたのもやむを得ないことではなかったか」。ついで枢機卿は大会堂や他の破壊された教会の再建を助けることが「真実に,また個人的に神に帰ったことのしるしになるであろう」とつけ加えました。―1976年2月7日付エル・インパーシアル,6ページ。
しかし人々を罰するために神がこの地震を起こしたというのは,聖書の教えではありません。聖書は全くそのようなことを教えていません。エホバの証人はそのことを知っています。むしろ聖書は,現在の悪の事物の体制の終わりが近いことと,王国の権力を持つキリストの臨在の「しるし」の中に「大きな地震……そこからここへと(起こる)疫病や食糧不足」が含まれることを預言していました。そしてこの「しるし」を与えて後に偉大な預言者イエス・キリストは,励ますために次のような言葉をつづけて言われました。「これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」― ルカ 21:7-28。マタイ 24:3-14。
ゆえにエホバの証人は,この地震のように,聖書預言の成就を示す強力な証拠を見る時,神の新体制がきわめて近いことを確信して頭を上げるのです。わたしたちが経験しているところによれば,途方に暮れているグァテマラの人々は,神のことばからの,慰めに満ちたこの音信を,特にいま受け入れています。(ペテロ第二 3:13。啓示 21:3,4)地震の前においてさえ,エホバの証人の統治体のメンバーであるN・H・ノアが1975年12月にグァテマラ・シティを訪れた時,5,000人以上の人がノース・ヒッポドロウムの野球場に集まって話を聞きました。これはグァテマラ・シティの証人を二倍以上も上回る人数です。
1976年はここでは特筆大書すべき年となることになっていました。グァテマラ・シティの市役所の建物には次の文字が掲げられています。1776年 二百年 1976年。1月6日には二百年の記念行事が始められていました。以前の首都は地震で破壊され,1776年1月6日に新首都が正式に発足したのです。
それで1976年の1月,発展しつつある現代都市グァテマラ・シティの前途は明るいものでした。しかし再建に励む,そして神のことばの真実の預言に信頼している人々を見る時,このような人々にとって将来は明るいことを確信する,いっそう大きな理由が確かにあります。
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「地面は馬がはねる時のように建物を持ち上げました」。
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「地面の感じが普通ではないのです。ぬかるみの中を歩いているようで,しかも足は土にめり込まないのです」。
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「棺おけが足らず,作ろうにも木がない有様でした」。
[5ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
グァテマラ
チマルテナンゴ州
テクパン
コマラパ
パツシア
太平洋
ラビナル
サン・ファン
サン・ペドロ
グァテマラ・シティ
アンチグア・グァテマラ
グアラン
エル・プログレソ
ホンデュラス
エル・サルバドル