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目ざめよ! 1976
目76 8/8 10–13ページ

歌うことはわたしの生きる道

わたしはうれしさと興奮を覚え,また大変緊張していました。東欧のある国立美術館における,わたしのコンサートの時間が来たときでした。ベテランの専門家を含め音楽家ならだれでも舞台に立つとき緊張を覚えるもので,その気持ちはわたしにとっても初めてのものではありませんでした。ではなぜ,それほど興奮とうれしさを感じたのでしょうか。それは,熟達したピアニストである息子が,その時初めてわたしの伴奏をすることになっていたからです。わたしたちはうまくやり遂げたいと願っていました。

わたしと息子は指定された時間に舞台に上がり,その美術館の理事によって紹介されました。照明の良いホールの中の聴衆の顔がフットライト越しにはっきり見えました。その聴衆の中には美術館と関係のある教授たちや音楽に詳しい人々がいました。わたしはドイツ語で歌いましたが,ドイツ語を知っているそれらの人たちは,歌詞と音楽の両方を理解できました。すべての人の視線はわたしたちに向けられていました。

最初はブラームスの曲で,それからシューベルトとモーツァルトの作品を幾つか歌いました。わたしの歌と息子のピアノはぴったり呼吸が合っていました。聴衆との接触を感じ取れたため,数分後には緊張感はなくなっていました。一曲終わるごとに,熱烈な拍手がわき上がり,コンサートが終わったときには,拍手とアンコールを求める声がいよいよ大きくなりました。楽屋でも,訪問者からたくさんの祝いの言葉を受けました。

それは10年前のコンサートのことですが,声楽家として過ごした15年間における一つの際立つ経験となっています。もっと最近では1971年7月に米国の首都ワシントンで行なわれたコンサートも,楽しい思い出の一つです。他の場所でもそうでしたが,わたしはここでも,音楽愛好家が,たとえ歌われている歌の言語が理解できなくても,音楽とそれを正しく歌う声楽家の才能を楽しんでいるのに気付きました。

リリック・ソプラノ歌手として,わたしは古典派,およびオペレッタの曲を専門に歌いました。このような歌には,発声の面で多くのことが要求され,技術面での相当な能力と長年の練習が求められます。しかし,わたしにはそれが生きる道でしたし,それによって満足や幸福を得ていました。

わたしは幼少時代を,フランスのストラスブール市に近い南ドイツで過ごしました。思い出せる限り,わたしは幼いころから歌が大好きで,いつも歌っていました。母はわたしの声が生まれつき良いことに気付き,励ましてくれました。また,友人もわたしを激励してくれました。12歳ころまでには,学校の合唱団や教会の聖歌隊で歌うようになり,学校の行事やクリスマスの劇では歌い手を務めました。

徹底的な訓練

パリのオペラ座専属のマダム・ミッシュケンが,わたしの最初の先生でした。1946年から一年半の間,わたしはその先生の下で勉強するため,毎週二回ストラスブールへ出掛けました。わたしたち生徒には新しく学ばねばならない事柄が数多くありましたが,中でも正しい呼吸法を学ぶことは最も重要でした。空気の供給を制御し,音声を発する際にその空気を最も有効に用いるには,横隔膜から呼吸することを学ばねばなりません。

マダム・ミッシュケンは,早足で道を歩く犬がその動作に合わせて横隔膜から上手に呼吸することを,わたしたちに時折り思い出させました。そのような呼吸法を習得するのは容易なことではありませんでした。完全に覚えたと思っても,自分の呼吸をまだ十分に制御できるようになっていないことに後で気付く場合がよくありました。呼吸を正しく制御するなら,「ハッ,ハッ,ハッ,ハッ,ハッ」と歌うスタッカートなど,あらゆる歌い方ができます。歌の発声技術を修得するには,二,三年の練習が要求されます。

いわゆる“頭声”を使えるようになるため,わたしたちはピアノの伴奏で歌うレッスンを何度も受けました。頭声は人が普通に使う声ですが,口よりもむしろ後頭部や鼻から出るように感ずる場合があります。この頭声の訓練を正しく受けると,広い音楽会場やオペラ劇場でも,拡声器を使わずに十分聞こえるような力のある声を出せます。上達するにつれ,わたしたちはマダム・ミッシュケンの家で泊り客に向かって歌うという割当てを受けました。これは生徒たちにとって,経験を積み自信を得る機会となりました。

わたしたちは,立ったり,座ったり,お辞儀をしたり,またうつ伏せにもなったりして,あらゆる姿勢で歌う方法を学ばねばなりませんでした。あるオペラの中では,ひん死のヒロインが舞台に横たわったままで最後のアリアを歌う場面があります。

1948年,わたしはドイツのマンハイム音楽学校で,サルバトーレ・サルバティ教授に師事することになりました。そこでは,さらにレベルの高い訓練を受けました。特に,学生たちが音を聞き分けられるかどうかに注意が向けられました。これは声楽において大変重要なことなのです。わたしは“音感”に恵まれていたので,ある曲を聞いてその旋律や譜を覚えるのは容易でした。むしろ,歌詞を覚えるほうに努力が要りました。

サルバティ教授の下で勉強した一年半の間に,わたしはさらに上達しました。歌い方や聴衆との接触の面で進歩するため,しばしば学校の講堂で友人や仲間の学生を前にして歌いました。その後,わたしは一般の人々の前に出るようになりました。

1951年にわたしは結婚しました。夫も音楽には理解があり,わたしの声の質を認めていました。それで,夫はわたしが声楽を続け,声楽家になることを目指してさらに進んだ訓練を受けるよう励ましてくれました。そうすることに夢中だったわたしは,間もなくして自分の生来の能力を,訓練を受けた声楽家としての能力に変えようとして懸命になっている自分に気付きました。

専門家としての地位

それからわたしは,ケルン,デュッセルドルフ,カールスルーエで教えていたハンス・エムゲ教授の指導を受けることになりました。エムゲ教授は,わたしが専門家としての地位を得られるよう援助してくれました。歌いながら,自分の声に耳を傾け,それを分析することを同教授から教わりました。また,フォルテとピアニシモ,つまり極めて強く,また極めて弱く歌う方法を学びました。

技巧を身につけた声楽家にとって,フォルテはそれほど難しくありませんが,ピアニシモで歌うのは本当に難しいことです。声がホール全体に聞こえるようにするためには,ごく小さな声であっても響きのある声で歌わなければなりません。こうした技巧を習得するための練習は,ますます複雑で難しいものとなってゆきました。

わたしたちが歌った曲の中でモーツァルトの作品は,非常に技巧を要するものの一つでした。モーツァルトを立派に歌える人は,歌う能力の面で頂点に達したと言えるでしょう。自分にはそれはとても無理だと思ったこともありましたが,わたしは努力し続けました。エムゲ教授に個人的に師事できなかったときでも,自分の歌をテープに録音してそれを送り,教授の批評や助言を求めました。約六年後,わたしはようやく卒業証書を手にすることができました。

わたしは東欧で,さらに三年間学びました。それは発声法や声楽の全般的な技巧に関する仕上げの段階になりました。わたしは自分の声を最大限に生かすために,すばらしい才能を持つ,あるルーマニア人の作曲家について,大変難しい劇的な歌曲のレッスンを受けました。それまでは叙情詩的な歌ばかり歌っていましたが,今度は劇的な歌曲を学ぶようになりました。それでわたしは,フィガロのコンテッサやベルディの作品など,劇的なアリアを歌いました。その教師は,自分が満足するまで,わたしにこうした歌を練習させました。とうとうわたしは,リリック(叙情的)ソプラノ,ドラマティック(劇的)ソプラノ歌手としての地位を揺るがぬものにし,声楽の教師としての免状を得ました。

声楽家としての仕事

幾年にもわたって訓練を受け,声楽家として歌った期間中,わたしは夫の仕事の都合でいろいろな国々へと移動しなければなりませんでした。一つの国に三年以上滞在することは,めったにありませんでした。わたしはどの歌劇団にも所属せず,長期間の契約は避け,大抵独唱会を開くことにしていました。富を得ることには関心がありませんでしたから,わたしの公開コンサートはほとんど慈善を目的としたものでした。入場料はある慈善団体に寄贈され,わたしは有意義な目的のために役立つことができ,満足でした。

わたしは新教徒でしたが,教会や宗教にはほとんど興味を持っていませんでした。聖書についても余り知りませんでしたが,わたしの母と音楽の影響で,神にはある種の親しみを感じていました。わたしが主に歌ったのは,宗教心の強い作曲家の作品でした。そうした作品から,神の名前がエホバであることを知りました。例えばフランツ・シューベルトは,「エホバは偉大なり」という歌を作曲していますし,シューマンは「ベルサザル」で,ストラデラは「ピエタ・セニョール」の中で,エホバという名前を使っています。わたしはこうした歌を歌っていたので,神についてある程度は知っていました。

わたしにとって人生は楽しいものでしたが,ただアフリカに住んでいたときなど,多くの人々の貧困や生活苦を見て心を傷めたこともありました。しかし,わたしは別の事柄でとくに悩みました。この世での人間の生命が死によって永遠に断たれることに,わたしは納得できなかったのです。友人や家族との生活を大変楽しんでいたので,そうした生活をそれほど早く奪われるのは理に合っていないと思ったのです。

より優れた生命について知る

ドイツにいたときにエホバの証人のことを聞いたことはありましたが,わたしは彼らについてほとんど知りませんでした。それから,現在スリランカとして知られるセイロンにいた1960年のある日,エホバの証人がわたしの家を訪ねて来ました。わたしの英語の力は,当時非常に限られたものでしたが,彼らの話を興味深く聞きました。人間が地上のパラダイスで永遠に生きることは神の変わらない目的であるゆえに,地上における人間の見込みが死によって終わる訳ではない,とそのエホバの証人は説明しました。

こうした考えは,本当にわたしの心に訴えるものでした。エホバ神が地に正しい人間を住まわせることを意図されたという説明は,大変理にかなっているように思えました。神は最初の人間夫婦を完全な状態に創造し,彼らを地上のパラダイスに置いたと聖書は述べているのではありませんか。そのようなパラダイスが復興されることをエホバの証人から聞いたとき,わたしは本当にうれしく思いました。この点を証明するために彼らは,聖書の啓示の書の21章3節と4節を読んでくれました。そこにはこう書いてあります。

「わたしはみ座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして,神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである』」。

確かにこれはめいりょうな言葉です。愛する人々の病気や死を嘆いて無数の人々が涙を流したまさにこの地上から,こうした悲しむべき事柄が除き去られることをその言葉は示しているのです。詩篇 37篇29節(新)に「義なる者たちは自ら地を所有し,そこに永久に住まう」,と述べられているとおり,聖書が地上での永遠の命という見込みを差し伸べていることを学ぶのは,わたしにとって大きな喜びでした。やがてわたしは,地上のパラダイスで永遠に住む人々の一人になりたいと願うようになりました。

ようやく,神の新体制のために生活する

最初に訪問してくれたジョイスという名のエホバの証人の司会で,「失楽園から復楽園まで」という手引き書を用いて,聖書研究が始まりました。わたしの夫が少し関心を示すと,彼女の夫も一緒に来てくれました。わたしたちは,このエホバの証人の夫婦の熱心さと誠実さに,大きな感銘を受けました。その夫婦はバイクを使って奉仕していましたが,土砂降りの雨季にもそうした業をやめようとはしませんでした。わたしたちの研究は幾らか進歩しましたが,夫がノルウェーに転勤することになったので,セイロンを離れねばなりませんでした。

ノルウェーでは,電話帳を調べてエホバの証人を探し出しました。しかし,再び言葉の問題にぶつかったので,わたしたちは三か月間ある大学に通い,ノルウェー語の読み方や話し方を学びました。ここでも,エホバの証人の親切な夫婦と知り合うことができました。その夫婦は気温が零下34度ほどになる時でもわたしを集会に誘うためよく立ち寄ってくれました。ところが,仕事に熱中していた夫は,一緒に集会に来ないばかりか,わたしを落胆させようとさえしました。

夫の態度は,わたしにも影響を及ぼすようになりました。また,多くの国を旅行し,ワシントン,アジスアベバ,コロンボ,オスロなど,世界の首都でコンサートを開くという楽しい経験のために,わたし自身も自分の仕事に過度に関心を抱くようになりました。それで,エホバの証人とほとんど接触を持たないまま数年を過ごしました。しかし,その間も神の新しい事物の体制で受ける,より優れた命に関する聖書の約束を忘れるようなことはありませんでした。

1970年,わたしたちはやがて米国に移り,わたしはドイツ語を上手に話す一人の女性と友達になりました。彼女はこのころ,エホバの証人との聖書研究を取り決め,わたしも研究に参加しました。このようにして,わたしはメリーランド州ケンジントンでのエホバの証人の集会に再び出掛けて行くようになりました。

神の新秩序で生きることを本当に願うなら,神への奉仕を生活の中で第一にし,声楽に対する関心よりも優先させることによって,そうした願いを示さねばならないことを,わたしはようやくそのとき悟りました。そして,そのことを実行し始めました。クリスチャンの長老たちは,将来のコンサートのために選曲する面で,良い助言を与えてくれました。偽りの宗教の教えを含む歌や国家主義的な歌は,歌うのをやめました。1973年の2月に,エホバ神に仕えるための献身の象徴として,わたしはついにエホバの証人によるバプテスマを受けました。

1973年6月,わたしは夫と共にトリニダード島に移り,そこの3,000人近くの仲間のクリスチャン証人とエホバへの奉仕を続けています。わたしは神の約束に対する全き確信を抱いて,エホバへの奉仕に永遠にあずかることを望んでいます。夫と息子もやがては聖書の真理を十分に理解し,愛する創造者に仕えるため献身することが,わたしの心からの願いです。―寄稿。

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