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目ざめよ! 1978
目78 2/22 25–27ページ

台風に荒らされた台湾

台湾省の「目ざめよ!」通信員

台湾は六日後に再び台風に襲われる! 1977年7月31日,台湾北部の台北<タイペイ>と基隆<キールン>がベラ台風に襲われたとき,このような速報が世界中に伝えられました。7月25日に南部の高雄<カオシュン>と鳳山<フェンサン>およびその周辺を襲ったテルマ台風は,1952年以来最大規模のものとされていますが,産業などに及ぼしたその影響は史上最大であったと言われています。テルマ台風により,この島にある工場の三分の一はひどく破壊されるか,停電のために操業不能になりました。新聞の報道によると,高圧送電線用の鉄塔が155基ほど倒れました。また,破壊されたコンクリートの電柱は4,000本にも上りました。これがテルマ台風のもたらした被害です。

それから六日後,今度はベラ台風が台湾の北部に上陸し,少なくとも38名の死者を出しました。そのほか,多くの人々がけがをし,幾百戸もの家屋が倒壊しました。報道機関は被害の模様を示す写真を数多く掲載したり,映し出したりしましたが,その中には台北で高架交差道(陸橋)の建設に使用されていた鉄塔の倒壊による被害の様子を報ずるものもありました。その鉄塔が倒れたとき,三台のバスと幾台もの自動車が下敷きになりました。

台風を切り抜ける

台風を切り抜けるとはどのようなことですか。こうしたあらしは非常に気まぐれなことがあります。ある家が破壊されたのに,その隣りの家はほとんど被害を受けないといったことがあるのです。また,台風の進路が突然変わることもあります。テルマ台風の場合がそうでした。上陸せずに高雄を通過したかと思ったら,突然Uターンして,高雄地方の優に100万人を上回る人々に被害をもたらしました。

台北にあるものみの塔協会の支部事務所は,ベラ台風による被害をほとんど受けませんでした。そのために,比較的最近台湾にやって来た宣教者の中には,台風を経験するのもそれほどひどいことではない,と考えた人もいました。しかし,鳳山市の四階建てのアパートにある宣教者の家から寄せられた次の報告は,別の見方をさせてくれます。

「けが人が一人も出なかったことに大変感謝しています。石綿材の屋根の断片がガラス張りの二重ドアを粉々にして飛び込んで来たとき,もしだれかが台所にいたなら,その人は間違いなく重傷を負うか,下手をすれば死んでいたことでしょう。その屋根の断片がバルコニーのコンクリートの一部を削り取り,ドアの上部のアルミニウム製の大ばりをゆがめ,床に跳ね返って食器棚と冷蔵庫に当たり,大きなハンマーでたたいたかのような跡を残したことは,それが飛び込んできた際の勢いを物語っていました。コンクリートの壁や床や木造の部分に砕けたガラスが突き刺さり,家じゅうの部屋にガラスが飛び散りました。そのとき,私たち四人は,風の当たらない裏のバルコニーにいました。ところが,正面のドアが壊され,開いてしまうと,家の中を吹き抜ける風の力でバルコニーのドアが強く押され,ついに錠前の周囲の板にひびが入り,私たちは反対側の壁に足を押し付けながら,二人掛かりで錠前を押さえねばなりませんでした」。

そのほかにもこの家は,屋上に通じる鉄製のドアがもぎ取られ,70㌔もあるコンクリートの板が屋上の水槽のてっぺんから宣教者の家の洗たく機の上へ落ちてきて,洗たく機がひどく壊されるなどの被害を受けました。また,屋上の水槽につながる水道管が壊されたために,たちまち水が止まってしまいました。文書類や個人の所持品も水浸しになりました。電力会社が九日間にわたり奮闘したにもかかわらず,停電は依然として続きました。

テルマ台風の襲来は多くの人にとって思い掛けないものでした。エホバの証人のある青年は,そのうち収まるだろうと考えて,いつものように勤務先の工場へ出掛けました。まもなく,そうした決定を後悔するはめに陥りました。風が建物につかみかかるような勢いで吹きつけ,建物が揺らいだり,震えたりしました。やがて,バリバリというすさまじい音を立てて屋根がはぎ取られました。屋根がなくなると,風の力で壁は見る見るうちに引き裂かれ,飛ばされてしまいました。その工場は,工員たちの目の前で文字通り消えてしまったのです。

その青年には,どうにかして家に帰る以外に道は残されていませんでした。風の最もひどいときには四つんばいになり,ようやく橋のがん丈な柱までたどり着きました。彼はその柱にしがみつきながら,エホバ神に祈りました。しばらくして,青年は,やっとのことで自分の家にたどり着きましたが,その家も屋根がほとんど飛ばされて残っていませんでした。そこではとても雨風をしのげませんでした。苦心さんたんして近くの王国会館にたどり着き,王国会館のある建物の三階に避難しました。そこは,窓がほとんど吹き飛ばされ,雨漏りのするような所でしたが,少なくとも仮の避難所にはなりました。

清掃作業

台風の後には清掃の仕事が必要になります。しかし,これらの町の住民は大抵アパートに住んでおり,電力の供給がないと屋上の水槽に水をくみ上げることができないため,ほとんどの家庭ですぐに断水が起きました。三階建ての建物の最上階にある,高雄の宣教者の家では,大きな被害を免れました。風をまともに受けたのは建物の裏側で,そこは他の建物の陰になっていたため,窓が三つ壊れただけですみました。それでも,屋上には破壊された他の建物から飛んで来たがれきの山ができました。八人の宣教者は屋上を掃除して,そこで台風に続いて降った大雨の雨水を集めました。お陰で給水の問題は解決しました。しかし,他の場所ではそうはゆきませんでした。例えば,鳳山にいたエホバの証人の宣教者は,少し離れた所にある手押しポンプの周りに近所の人々と共に列を作り,くみ上げた水をアパートの四階まで運ばねばなりませんでした。「きのうはバケツ18杯分の水を運び上げました」と,そのうちの一人は語っていました。

高雄と基隆は台湾でも最大級の港で,いずれも大変活気に満ちています。新聞の報道によると,テルマ台風によって約32隻の船が沈み,22隻の船が大破しました。高雄でのこうした被害すべてを元通りにするには,少なくとも一年はかかると言われています。その後,台湾北部を襲ったベラ台風は基隆港にそのほこ先を向けました。基隆港のコンテナ用橋形クレーン四台のうち三台がひどい被害に遭いました。毎日,大量の商品を輸出したり輸入したりする台湾にとって,これは非常に大きな痛手でした。

停電と断水の上に,通信機関の受けた被害も重なり,清掃作業は難航しました。家庭を持つ人々にはこうした事柄が最もこたえました。しかし台湾では,食糧の多くを高雄周辺からの供給に頼っているため,そうした地域が一時水浸しになったことにより,野菜の価格がはね上がりました。多くの野菜は,水害に遭って少し悪くなっていたにもかかわらず,普段より五倍も高い値段で売られていました。高雄ではしばらくの間,豚肉と牛肉は手に入らず,人々は鳥肉を食べていました。それも手に入ればの話です。漁船もしばらくは漁に出られず,そのために影響を受けた人も少なくありません。

政府は種々の機能を回復させるために軍隊を出動させました。軍隊は,清掃作業の速度を速めるのに大いに貢献しました。電力会社や水道会社,電話会社では,どこでも作業員を昼夜復旧作業に当たらせました。それで,被害の最もひどい地域を除けば,電気や水道,電話の復旧作業は驚くほど短期間で完了しました。

エホバの証人は,神の約束された新秩序が間近に迫っているという良いたよりで台湾の人々を慰められることを特権とみなしています。その新秩序では,テルマ台風やベラ台風のような台風によって悲惨にも命や財産が奪われるといった出来事は過去のものとなります。

[26ページの写真]

送電線に仮の修理を施し,電力の復旧に当たる人々

[27ページの写真]

高雄港周辺におけるテルマ台風による被害

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