現代の日本女性
日本にいる外国人宣教者が,全世界の「目ざめよ!」読者のために書いた記事
幾世紀もの間,日本の女性は西洋人にとって,奥ゆかしい美しさや黙従の手本のような存在でした。国外では,着物を着た控え目で静かな,召し使いのような妻といった印象が一般的になっています。これは的確な描写と言えるでしょうか。また現代における日本女性はどのような状態にあるでしょうか。
日本における伝統的な女性像は良妻賢母で,今日でもこれは理想とされています。日本女性の大半は,現にその良妻賢母という役割の範囲内で幸せを見いだし物事を成し遂げ得ることを示しています。しかしそうは言うものの,日本の社会における女性の立場は特に第二次世界大戦以来,大きく変化してきています。
今日でも着物を着たつつましやかな女性はいますが,それとともに,ジーンズやショートパンツやハイ・ブーツをはいた女性も見られます。タクシーを呼び止める,スラックス姿の活発なお嬢さんが,着物を着て週に一度のお茶のけいこに通う静かな女性に変わることもあります。大体において近代的なこういう女性でも,やはり先祖から受け継いだ慎み深さや辛抱強さといった賞賛すべき特質が見られます。しかしその人のおばあさんに比べれば,自分の考えをはっきり言うようになっており,また自分の将来を決めるうえでもより大きな自由を持っています。仲人が結婚の相手を紹介する場合もありますがそれでも,最終的に相手を決めるのは本人です。現代の女性には向学心があって読書を楽しみ,自己の向上を大切なこととみなし,情操を高めようとします。女の子は男の兄弟に比べて厳しくしつけられますが,そのため,将来妻また母親となる者に求められる人格や責任感が培われてゆきます。
さらにまた,女性は経済面でも大切な役割を果たします。最近の政府のある報告によると,労働人口のうち2,000万人余りは女性であり,その数は全体のほぼ40%に相当します。女性は様々な職業に就いていますが,とりわけ教育の分野で活躍する女性が少なくありません。また農業労働人口の50%以上は女性によって占められています。
長年日本に住んだことのあるエドウィン・ライシャワー氏の観察は,女性の立場が変わりつつあることをよく表わしています。「日本人」と題する著書の中で同氏はこのように書いています。「1920年代には,夫婦が一緒に道を歩くとき,夫は胸を張って大またで歩き,妻のほうは大抵赤ちゃんをおんぶし,持たねばならないものはみな自分で持ち,夫より一歩さがってうやうやしく歩いていたのを私はよく覚えている。しかし何年かたつうちに妻は夫に追いつき,今では夫婦は肩を並べて歩くようになった。夫が赤ちゃんを抱いたり荷物を下げたりするのも珍しくはない」。
しかしそうは言っても,女性が大事業を手掛けることはまずなく,わずかの例外を除けば家庭の外で妻が夫と共に夫との交わりを楽しむといったこともほとんどありません。こうしたことは一部の現代的な家族の間では変わりつつあるとはいうものの,夫婦はほとんど別々の生活をしており,親しい交わりがほとんどあるいは全く見られない場合も少なくありません。
日本女性の歴史 ― 彼女たちを理解するための助け
日本はもともと家母長制であったと言われていますが,幾世紀もの間の様々な社会的変化が女性の地位を著しく低めました。興味深いことに,女性の地位を低める面で大きな役割を演じたのは,諸外国から取り入れた宗教と哲学でした。日本の一般民衆の間に広まった仏教の諸宗派は,女性は生まれつき邪悪であり,霊的意識の五つの状態に達することができず,男性として再び生まれなければ救いは得られないと教えました。やがて社会に儒教が浸透し,女性は社会の居候であり,知的にも道徳的にも男性より劣っている,といったことが教えられました。女性を教育するために書かれた「女大学」の中で,儒学者である貝原益軒は,「女性は非常に愚かであるゆえに,あらゆる事柄において自己に頼らず夫に従う義務がある」と書いています。こうした考えに慣らされていたために,女性は自分を劣った者と考えていました。このような訳で,表面に出ようとしない内気な日本女性が生まれたのです。封建主義が世を支配するようになると,女性の立場はますます不利なものとなってゆきました。女性は法的な権利を一切失い,17世紀には男性の僕として完全な服従を強いられるようになりました。
結婚は夫婦間の愛情や宗教的概念よりもむしろ社会的,経済的な結び付きに基づくものであったため,妻を愛情の対象とすることは必ずしも求められていませんでした。女性は家系を継続させるための手段とみなされていたのです。多くの場合,厳しいしゅうとめの監督を直接受け,法的な権利も個人的な権利も与えられませんでした。妻のいるべき場所は家庭の中であり,宗教的な行事に参加することさえ控えねばならなかったのです。その姿はすべての愛情を公然と子供たちに注ぐ自己犠牲的な母親の姿でした。子供たちがその愛に答えて表わす愛情から母親は慰めを得ていたのです。
こうした背景のもとに,女性は男性たちに喜ばれるよう家の中でよく働き,要求されることは何でも不平を言わずに行なったものでした。このような訓練を受けて育ったある女性について,その娘は次のように語っています。「母は頭が良くて慎み深く,利己的なところがなく,いつも家族の他の者に思いやりがあります。礼儀作法にはよく注意を払い,会う人は皆その気品のある態度に感銘を受けるようです。……家族の中ではだれよりも早く起き,だれよりも遅く床に就きます。日曜日の朝でも寝坊するようなことはありません。ゆっくり休むのは病床にあるときくらいです。……母は辛抱することと自分を抑えることを最大の理想と考えています。わたしによくこのように言います。『女の人は何よりも辛抱することを学ばねばなりません。どんな境遇の下でもよく辛抱するなら幸せになれるのです』」。
と言っても,女性は自分について全く否定的な考え方をしていた訳ではなく,むしろつらい事があっても辛抱できることを誇りとしていたのです。一家の切り盛りをうまく行なう方法を学び,様々な難しい事態に対処する能力を身に付け,今日の世界ではめったに見られないしっかりした人格を養っていたのです。
19世紀の終わりには,産業革命の影響を受けて女性は家庭の外へ出て社会で働くようになりました。その後,戦争が始まり,出征中の家族の頭に代わって様々な仕事を行なうようになり,1941年ごろまでには多くの女性が正規の賃金労働者となることを認められました。第二次世界大戦が終わると同時に,法的に男女同権が確立されました。女性は突然,あらゆる面で男性と平等であることを宣言され,選挙権や男性と平等の教育の機会,一切の法的な補償が与えられるようになりました。
興味深いことに,そうした自由が与えられているにもかかわらず,今日でも日本の女性は目立たない立場にいることを望み,“理想的な”良妻賢母であることを好みます。今日,女性は教育を受ける権利や選挙権を男性以上に活用する場合が少なくありませんが,それでも社会的には依然として目立たない立場を望み,男性と張り合うようなことはあまりありません。女性は主婦であるからといって引け目を感じたりせず,むしろ自分に与えられている異なった役割の真の価値を認識しています。西洋の場合とは違って,この国ではそうした役割に対する挑戦といったものは見られません。日本では立派な主婦は人々から尊敬されます。結婚を考えている若い女性は,より良い,より魅力的な妻になるために料理や生け花を習って結婚の準備をします。結婚するまで仕事を持ち,子供が学校へ上がった後に再び仕事を持つ場合もありますが,家庭内の務めこそ主婦の生涯の仕事なのです。
女性の直面する問題
家族の幸せを願うがゆえの気苦労や心配事は,今日,日本の妻たちにとって大きな負担となっています。これは彼女たちが口にする主な不満の一つです。また,日本でも最近では家庭で父親が権威を行使することが非常に少なくなっているため,子供が非行に走る傾向が見られます。多くの場合,しつけはすべて子供に寛大な母親あるいは職業を持つ母親にまかされており,そのために子供の訓練は母親がしばしば援助を求める分野の一つとなっています。
さらに問題の原因となっている事柄として,良妻賢母という言葉が今なお使われているものの,そうした規準の適用の仕方が非常に変わってきているという点が挙げられます。昔は賢い母親と言うと,子供に優れた諭しを与え,愛情をもって親しく接する母親のことを言ったものですが,今日では家族に物質的なものをより多く与えるために働いたり,子供が出世できるよう有名校に通わせたりする母親がしばしば“良き母親”とされています。そのような母親は,心の中では“賢い妻”になりたいと思ってはいても,物質主義的な社会の現実のためにその努力は徒労に終わっています。
女性がクリスチャンになるとき
多くの場合,従順さという特質ゆえに,日本の女性が聖書を自分の導きとして受け入れるのは難しいことではありません。そのようにする女性は数々の益を受けます。
もし夫婦がそろってクリスチャンになるなら,結婚生活は愛に基づいたものとなります。夫は妻を自分の体のように愛し,慈しむようにとの聖書の助言は,家庭内に楽しいふんい気を作り出す上で大いに助けとなります。また妻も,それが自分に期待されているからというだけの理由で夫に仕えるのではなく,夫に対する愛に動かされて仕えるようになるのです。彼女はその骨折りに対する夫の感謝の言葉によって報われるのです。(箴 31:28,31)夫は,家の頭であることには監督するという責務が伴うことを学ぶため,妻は重要な決定を下すという重荷から大いに解放されるようになります。また,聖書は夫と妻に意思の疎通を図るよう励ましているので,配偶者は親しい友のようになります。
家庭で女性だけが聖書を学ぶ場合でさえ大きな益があります。独身者も既婚者も,自分が劣った被造物ではなく,神の目に価値ある者であることを学びます。家庭では夫を家の頭として認めるようになります。たとえ夫がクリスチャンでなくても,家族の事柄に夫も加わってもらうようにします。多くの場合こうした妻の努力は報われ,夫と家族の関係は親密なものとなり,やがては夫も聖書を学ぶようになります。夫の助言を求める妻は,クリスチャンとしての服従や敬意を示していることになり,このようにして夫の目に一層魅力的に映るようになるのです。
しゅうとめと同居していた,結婚して間もない一人の妻の経験は,家族関係や個人的な関係という面で聖書が有益なことを示しています。この若い女性は聖書研究を始めましたが,しゅうとめと親しくなりたいと思ってその研究に参加するよう勧めました。しゅうとめは,嫁が新興宗教にだまされたりしては困ると考え,その勧めに応じました。やがて二人は聖書が真理を教えていることに気付き,聖書の原則に一致した家族になるよう協力し合うようになりました。夫は最初の数年間関心を示しませんでしたが,妻と母親の間が非常にうまく行っていることを友人に自慢していたようです。最近その夫も,聖書によって訓練されている自分の子供の立派な振る舞いに心を動かされて研究を始めました。
さらにまた,内気で引っ込み思案の女性でもクリスチャン会衆と交わることによって,人前でもくつろいだ気分で振る舞えるようになり,愛のある家族的なふんい気の中で自分の考えを述べられるようになっています。
このような訳で日本の現代女性には,昔ながらの型にはまった目立たない存在といったイメージはありません。女性は変化を続ける社会の中で複雑な役割を果たしているのです。確かに都会と田舎とでは生活様式はかなり異なっており,古い考えが根強く残っているため,今でも多くの人が女性を劣った者とみなしていることは否めません。それにもかかわらず,日本の女性は妻としての,また母親としての役割に誇りを持っており,世界の注目を集めている女性的な魅力と慎み深さを今なお身に着けています。