年を取っても若さを保つ
ドイツ連邦共和国の「目ざめよ!」通信員
すでに94歳だというのに,私の前に座っている男の人は驚くほど若々しくて元気があり,目は輝いています。活字になる前に,私の原稿を読んで検討していただくには打って付けの人物だと思いました。その記事は,「年を取っても若さを保つ」と題する記事でした。しかし,まずはウィルヘルム・ヒルマンの,“若さ”を保つ秘けつを知りたいと思いました。そこで,その質問をして,答えを待ちました。
ヒルマンは,「若さを保つ秘けつですか」と質問を繰り返し,考えてからこう述べました。「私のような“老いた鷲”に尋ねてくださるとは光栄です」。
“老いた鷲”とはどういう意味なのか分かりませんでしたが,後になってはっきりしました。
「若さを保つにはまず人生の目標を持たなければならないと思います。私は十代のころすでに自分の目標を定めていました」。そして少し間を置き,笑みを浮かべてこう語りました。「当時は自分の目標が変わるとは思いませんでしたし,60年以上あとに本当の目標が見付かるとは思ってもいませんでした。でも,十代のころは帆船に魅せられていました。大きくなったらそういう帆船を製作することがその時の目標でした。学校を卒業してから,私はドイツ北部の港湾都市ブレーメルハーフェンにあるドックで見習工になりました。そして1905年に,夢がかない,初めての船旅に出ることが許されました。それもただの船ではなく,当時最も有名だった帆船で,これまでに建造された5本マストの船としては最大のプロイセン号に乗り組むことになったのです」。
テーブル越しに1枚の写真を差し出して見せてくれましたが,それはプロイセン号の写真で,非常に印象的でした。
ヒルマンはさらにこう語りました。「チリから硝石を運ぶことになっていました。それはケープホーン岬を回る68日間の旅でした。19歳の少年にとっては大変な経験です。あらしの時のことは忘れられません。風と雨で顔はびしょびしょになってしまいました。帆を思い通りの状態に保っておくための闘いは決して容易なものではありません。ある時,自分としては帆の一番高い所で作業をしていた時,そばの船乗りが風の吹く中で私に向かって,『こうなったら神様におすがりするほかない』と叫びました。私は,『ああ,必ず助けてくださるさ』と答えました。若い時にも,人間は神に依存しているという事実に疑いを抱いたことは一度もありませんでした」。
目標が変わる
この年老いた友人が大人になってから本当に船を造ったかどうか,知りたくなりました。
「それが,そうしないようにと忠告されたのですよ。それはもっともなことでした。20世紀が始まった時には,帆船はすでに過去のものとなりつつありましたから。私は汽船を造ることに関心はありませんでした。でも,海への愛と空を飛ぶこととを結び付けてはどうでしょうか。当時の陸上機は大西洋を横断してアメリカまで達することはできませんでした。だから,必要なのは水上飛行機とも呼ばれる飛行艇だと考えました。こうして新しい目標ができました。
「1913年10月10日は私の生涯の記念すべき日となりました。私はパイロットの免許をしっかり握っていました。後日“老いた鷲”になる資格を手にしたのです」。
再び口から出たその言葉は,やはり説明が必要であるように思えたので,尋ねてみました。
すると,こう説明してくれました。「1934年のことになりますが,“老いた鷲”という飛行連盟が設立されました。第一次世界大戦が始まる前に免許を取ったパイロットはだれでも,加盟できました。あと1年遅ければ資格がなかったわけです。
「その間に,後日ナイトの爵位を受けてトマス・ソップウィス卿になった英国人が単艇体の飛行艇を製作していました。そこで,英国に行って,水上機の操縦法を学び,ドイツの飛行艇操縦士の草分けとして帰国しました。こうして自分で飛行艇を製作できるようになったのです。
「間もなくドイツ政府はソップウィスの飛行艇を購入することに関心を示すようになりましたが,それは秘密裏に行なわれることになっていました。そこで,一民間人であるキャプテン・フォン・プスタウが飛行艇を発注し,その製作を見守るよう私を英国に派遣しました。
「飛行艇が完成すると,キャプテン・フォン・プスタウの“友人”の一人 ― 実際には姿を変えた政府の検査官 ― が飛行艇を受け取りに来ました。その人から試験飛行をしたいと言われました。離陸してから,ポーツマスの上空を飛ぶようにと言われました。ポーツマスは重要な軍港だったので,そうすることは通常の場合,禁じられていました。しかし,その人の決意は固く,私の方が折れました。
「翌朝,フォン・プスタウがホテルに飛び込んで来て,取り乱して,『ヒルマン,荷物をまとめろ ― ポーツマスの上空を飛んだだろ ― スパイ活動の容疑で逮捕しに来るぞ!』と言い,私にポンド紙幣を一つかみ握らせて,立ち去りました。さてこれからどうしよう,と私は考えました。
「警察の手で私は泊っていたホテルに軟禁されました。数日が過ぎ,夜間にひそかに逃げ出すことを計画するようになりました。飛行艇はこちらのものです。すでに支払いは済ませていました。そして私のスピードなら ― その飛行艇は時速110㌔で飛ぶのですが ― 決して捕まることはないでしょう。
「ところが,英国で以前に操縦法を教えてくれた教官が取りなしをして,片を付けてくれました。私たちは親しい友人になっていたのです。私はすぐに帰国の途に就きました。まだ30歳前でしたが,依然として自分の前途に横たわっていると思い込んでいた充実した生活を手に入れることに専念できるようになりました。ところが,戦争が始まってしまったのです!」
戦時中および戦後に空を飛ぶ
「1914年から1918年までの戦争中,戦闘機操縦士として,私はその恐ろしさを身をもって体験しました。一つの経験はいまでも脳裏に焼き付いています。空中戦の際に,私はフランスの有名な撃墜王ベドリネに撃ち落とされました。しかし,私の飛行機が戦闘不能になったと見るや,ベドリネはとどめを刺さず,別の方向へ飛んで行きました。私は胴体着陸して,飛行機の残がいの下で意識不明になって倒れていました。近くのたこつぼ壕にいたフランス兵は,友人たちが私を助けるのを阻止しようとはしませんでした。
「私は九死に一生を得て神に心から感謝しました。また,ベドリネやフランス兵が示してくれた思いやりにも心を打たれました。なぜ私たちは殺し合おうとしていたのでしょうか。戦争は実に不自然に思えました。以来,独仏友好を促進するためにできる限り尽力しようと決意しました。
「水上飛行機を製作するという目標に次いで,このことも目標になりました。幾年も後,この新しい分野での功績に対し,パリの名誉市民に列せられるという報いを得ました。しかし,これとても後日人生を変えることになった目標ではありませんでした。その目標に巡り合うのはまだ先のことです」。
時間は過ぎてゆきましたが,原稿の方は二人の間のテーブルの上に置かれたきり,少しも進んでいません。しかし,わき道にそれるのも当然ではありませんか。「戦争を体験したために,もう空は飛びたくない,と考えましたか」と尋ねてみました。
「とんでもない,“老いた鷲”を地上に縛り付けておくことなどできませんよ。実を言うと,今でも毎年南フランスへ行って,グライダーで滑空するスリルを味わっています」。
「94歳のお年でですか」。
「若さを保つ秘けつをお尋ねでしたね。私は常に将来に生きるようにし,過去のことでくよくよしないようにしてきました。このことは若さを保つのに役立っているようです。それだけでなく,どんな人にも一生のうちには危機一髪で難を逃れることがあるものです。1926年に私はそういう目に遭いました。すべてパラシュートが原因でした」。
昔をしのばせる古い飛行機に乗ったヒルマンの写真をひざに置き,私は耳を傾けました。
「霧の立ちこめた1月のある朝のことでした。私はパイロットの免許を更新しに行きました。天気予報によると,雲底高度は180㍍ということでした。しかし,高度360㍍になっても,依然として濃い霧に包まれていました。すると突然,飛行機の調子がおかしくなりました。制御不能になったのです。
「当時はどの飛行機にもパラシュートが付いていたわけではありません。しかし,幸いその飛行機には付いていました。飛行機から飛び出すと,一方の端がパラシュートに,もう一方の端が飛行機に取り付けられている全長25㍍の綱で,パラシュートが開きます。その時,『飛び降りるべきかどうか』祈りのうちに神に尋ねたことを覚えています。
「それに答えるかのように,一つの考えがひらめきました。私は機を急降下させ,高度150㍍のところで水平姿勢に戻しました。急に機首が上がった時,割れるような大きな音がしました。翼にこびりついていた氷が壊れ始めたのです。その氷がトラブルの原因だったのです。私は無事着陸しました。その時,空港の職員がそばを通って機体を見てこう叫びました。『パラシュートの綱を機体に結び付けるのを忘れたのは一体どこのどいつだ』。もしも私が外に飛び出していたら,この“老いた鷲”は間違いなく“死んだカモ”になっていたことでしょう」。
年を取ってもユーモアのセンスを忘れていないのを見るのはうれしいことでした。
強制収容所行きをかろうじて免れる
「ナチ政権下で,私はブレーメンにある飛行機工場,ベーゼル-フルークで主任技師をしていました。5,000人以上の工員を管理する立場にいながら,私はナチ党員になりませんでした。ヒトラーの政策に同調できなかったのです。そのために危うく容易ならぬ問題に陥るところでした。
「1939年に,ベーゼル-フルークは第2工場の建設を監督させるため,私をベルリンに派遣しました。それはテンペルホーフ空港の敷地に建てられることになっていました。その空港は後日,1948-49年のベルリン空輸の際に世界的に有名になりました。私の下で働くよう割り当てられたナチ党員の職長たちは,中心をなす数々のビルの一つに隣接した所に大きな演壇を築き,ヒトラーがベルリンにいる時演説ができるようにしようとしました。その必要を認めなかったので,私はそれを計画から抹殺しました。『飛行機を製作するのにステージはいらない』と連中に話しました。
「そのことと他の“軽罪”のゆえに,ほどなくして裁判にかけられるはめに陥りました。しかし,ベーゼル-フルークの上役が救いの手を差し伸べ,ゲーリンクに,『ヒルマンなしにはテンペルホーフはできあがりません』と話してくれました。お陰で釈放され,その空港を今あるものとほぼ同じ姿に完成させることができました」。
終わり ― だが始まりに過ぎない
「戦争が終わり,私は59歳になっていました。仕事はなく,船も飛行機も製作できませんでした。若い時代,目標と夢に満ちた時代は過ぎ去ってゆきました。それはあっと言う間の出来事でした。しかし,ぶらぶらしていたくはありませんでした。自分がまだまだ社会の有用な成員であり得ると感じる必要があったのです。
「戦後の難しい時期の9年間,仕事を探した結果,ようやくかなり離れたある都市で格好の仕事を見付けました。すでに68歳でしたが,81歳になるまでその仕事を続けました。その後引退しましたが,それよりもはるかにすばらしいことが始まろうとしていました。それ以前は考えることもできなかったような目標です。それは……」。
そこへ夫人が入って来て,「お茶を一杯召し上がりません?」と尋ねました。私は夫人が前に置いてくれたお茶に感謝しました。この休憩の時間を利用して,テーブルの向こう側のウィルヘルムの方に原稿を押しやり,夫人と少しおしゃべりをし始めました。横目使いに見ていると,ウィルヘルムがタイプされた原稿を取り上げて,眼鏡を合わせているのが見えました。ウィルヘルムは次のような主題の付いた記事を読んだのです。
「年を取っても若さを保つ」
友人を訪ねた際,そこの家の息子に「ウェルナーはいくつになった? 13歳だったかな」と尋ねました。少し憤慨したウェルナーはすかさず,「違います。もう14歳になるところです!」と答えました。
若い人々は成長するのが待ち遠しく,中には年長の人と同じ服装をしたり,丹念にあごひげや口ひげを蓄えたり,単に大人ぶってみたりして実際の年齢よりも年上に見られようとしてかなり骨を折る人もいます。大人になりたがっている若者を当人の年相応に扱うことほど,目ざめはじめた自我を速やかに傷つけるものはありません。一方,一生懸命大人のように振る舞おうとしている若者を,一人前の大人として扱うことほど当人を喜ばせるものはありません。
しかし,若い時代はつかの間しか続きません。健康が損なわれ,どうしても活動を抑えなければならなくなると,大人になりたがっていた人が一変して若者になりたがります。あの“古き良き時代”のことを実に懐かしく思うのです! 眼鏡をかけずに字を読み,合わない入れ歯で悪戦苦闘しながら物を食べることもなく,腰痛やへん平足などに悩まされなかった日のことを思い起こされますか。今のようにせっかくメモを書いておいてもそれを見るのを忘れてしまうようなことがなく,メモを書いておかなくても物事を覚えていられた時のことが思い起こされますか。
また,老齢に伴いがちな悲哀を本当の意味で知っている人がお年寄り以外にいるでしょうか。幾十年も連れ添った配偶者を失う悲しみやその献身的な配偶者を失った寂しさが十代の若者に分かるでしょうか。あるいは,視力や聴力が衰え,体が弱ってくることに伴う不安感を膚で感じられるでしょうか。また,わずかばかりの年金で借金をせずにやりくりするのがどういうことか分かるでしょうか。あるいは,「来年の春もまだ生きていて,またヒバリが鳴くのを聞けるだろうか」と考える時のむなしい気持ちが分かるでしょうか。
老年期は問題に満ちていることもありますが,それなりの利点もあります。長年の経験のお陰で,人の持つ様々な問題に一層識別力や洞察力を働かせることができるようになります。ご自分が蓄えてきた知識について考えてみるとよいでしょう。より賢くなり,恐らくより平衡の取れた人になり,そして必ずと言ってよいほど,命に対するより深い認識を抱くようになっているでしょう。
両方の生活の最善のもの,つまり若い時代の活力にあふれた体力と年齢に伴う知恵やその他の恩恵を共に享受できるのは,すばらしいことではありませんか。そして限られた範囲ではあっても,それはあながち不可能なことではありません。寿命を延ばせなくても,若さを保つことはできるかもしれません。でもどのようにしてですか。
年を取るというのは身体だけの問題ではありません。精神,つまり心構えの問題でもあるのです。長生きをする気になり,若さを保ちたいと願っていれば,その両方を成し遂げる可能性は大きくなります。人は,年を取ることを心配し始めたその日から,年を取ると言われています。
考え方を若々しくし,楽しいことを考える
そのためには,玄関のポーチで安楽いすに座り,世の中で起きていることなど気に留めずに晩年を過ごすわけにゆかないのは明らかです。時代遅れにならないようにします。同年配の友人との話し合いは往々にして最新の死亡告知欄に関する話題に落ち着くので,交友を同年配の友人に限らないようにします。若い人とも交わるようにするのです。そうした人々の言い分に耳を傾け,その人たちの問題を知るようにします。若い人たちはあなたの示す関心を感謝し,その人たちの敬意を勝ち得ることになるでしょう。それだけではなく,そうした人々の若々しい熱意や陽気で楽観的な態度などは必ず自分にも移るものです。
笑顔を忘れる傾向があっては,老齢に伴う不愉快な面を改善することにはなりません。小さな事柄に喜びを見いだすようにします。幼いころ子猫が自分のしっぽを追い掛けているのをながめた時と同じような喜びを味わうようにしましょう。若いころ,贈り物をもらって驚いた時と同じように顔を輝かせるのです。
“威厳を失わずに死ぬ”という考えではなく,“目的を持って生きる”という,より積極的な考えを持つようにします。幸福で満ち足りた精神は不幸で不満に満ちた体を再び活発にする上で大いに役立つことを忘れてはなりません。人生の荒波の中にあって,「快活であることは長生きの秘けつである」と100歳になるある人は言いました。
体を常に活動させる
適度の運動を定期的に行なうのは肝要です。これは心臓や肺を強め,体調を整え,筋肉が弱くならないようにするのに役立ちます。どんな運動がお好きであれ(何らかのスポーツでも,あるいはもっぱら長い距離を散歩することでも),そうした運動は体を常に活動させておくのに役立ちます。a
退職するほどの年齢に達したなら,運動は特に大切です。退職が無活動を意味するようなことがあってはなりません。いつも忙しく働き,自分にとって関心のある事柄を行なうようにします。道理にかない,必要であると思われる場合以外は,手をゆるめてはなりません。少しは手をゆるめるように言われて,幾らか抵抗するような口調で,「御免被りますよ。こうして動いている限り,棺おけに入れられることはありませんから」と答えた人のようになりましょう。
頭を常に活動させる
体を使わないと体が衰えていくのと同じく,頭も使わないと衰えてゆきます。知識を増やして,人生を豊かにしましょう。以前は時間がなかったり機会がなかったりして学べなかった事柄,手工芸や外国語,楽器の演奏法などを学ぶのです。例えば,55歳を超えたアメリカ人で学校に戻った人がほぼ200万人いることをご存じでしたか。その多くは現在大学で勉強しています。
さらに,1975年にはスイスのジュネーブで,停年に達した人だけを対象にした大学が開校されました。当初の入学者は600人でしたが,1979年には2,000人を超えました。この大学について論評したドイツの一科学雑誌は,大学の当局者が次のような点を発見したことを述べています。「老齢の人は学ぶことができないという一般の概念とは反対に,お年寄りの理解力と学習能力は全体として極めて正常であることが実証されている」。
飲食の習慣に注意する
住民が長生きをすることで世界的に知られた三つの地域の一つ,エクアドルのビルカバンバ村に関する研究は,その地の人々が小食であることを明らかにしています。低カロリーで,果物や野菜や穀物に含まれるような複合炭水化物に富み,糖分や脂肪分の少ない食べ物で生きているのです。栄養上の必要を補うために,各種のビタミンが役立つと考える人は少なくありません。研究の示すところによると,老化の過程を遅らせるのにビタミンEが特に役立つようです。
喫煙はたとえたしなむ程度でも健康に有害ですが,アルコール飲料は一般に度を過ごさなければ有害ではありません。飲酒については,かつてある若いアフリカ人が述べた,適切で道理にかなった助言を心に留めておくとよいでしょう。その人はこう語りました。「飲む量を慎めば,長生きできることを忘れてはなりません。そして長生きをすれば,もっと飲めることになるのです」。
できる限り自立する
どんなに善意から出ているにしても,若い人々があなたをかばったり保護者気取りになったりする余り,子供のころに引き戻されてはなりません。独りで暮らしてゆけるのなら,そうするのです。自分で家を管理し,自分で炊事ができるのなら,そうするのです。自分で家の芝を刈り,車を洗えるのなら,そうするのです。
一方,心身いずれかの面で弱ってきて助けが必要なら,助けが差し伸べられる時に礼儀正しく,感謝の念を抱いてそれを受け入れるようにします。ただ年を取ったからではなく,必要に応じて助けてもらうようにします。そうすれば自尊心を保てますし,人の好意に甘え過ぎているのではないかと罪悪感を感じることもありません。
過去に生きてはならない
思い出を胸に秘めておくのは悪いことではありませんが,古い手紙や写真など昔をしのばせる品々を多く手元に置き過ぎたり,思い出にばかりふけっていたりすると,沈んだ気持ちになりかねません。過去に生きるより,現在起きている事柄と取り組むようにし,同時に将来の予定を立てるようにします。明日あるいは翌週何をしたいかを決めておくなら,毎日張りのある生活ができます。
昔の思い出を現在に移し変えることもできます。例えば,「主人が死んでから全然お菓子を焼かなくなったわ」というやもめのようになるのではなく,近所の人や友人にケーキを焼いて驚かせるのです。そして,「お口に合わないかもしれませんが,主人の好物でしたの。主人はチョコレートケーキが大好きだったんですよ」と話せるでしょう。他の人を喜ばせることにより,自分が幸福になれます。こうして,心に秘めていた思い出が一転して新たな様相を帯びてくるのです。
明白な事実を受け入れる
自分が昔のように若くはないという事実を受け入れなければなりません。しかし,そうでない人がいるでしょうか。年齢が自分の半分ほどの人々に遅れを取らないようにしようなどとは思わないことです。自分が若くはないことはかなりはっきりしているのに,まだ若いことを“示そう”とするのは理にかなったことではありません。悪びれることなく,優雅に年を取ってゆきましょう。
年を取る機会を与えられたことに感謝の気持ちを失わないようにしたいものです。若くして亡くなった幾百万もの人々にはその機会が与えられませんでした。朝起きる時に,起きなければならないと言って不平を言う若い人々のようになるのではなく,自分がまだ生きていることを喜ぶお年寄りのようになりましょう。
― 終わり ―
ウィルヘルムは原稿を読みながら時々含み笑いをしたりほほ笑んだり,時にはうなずいたりしていました。こういう反応ならうまくいくのではないかと思いましたが,物を書く人の例にもれず,どんな意見が出て来るか幾らか気懸かりでした。
「立派な記事ですね。啓発的で有益です。でも,もう一つ付け加えたい点があります」。
その新たな目標 ― いつまでも若さを保つ
ウィルヘルム・ヒルマンは次のように話してくれました。「私が町から離れた所でまだ働いていた時のことですが,81歳までそこで働いていたんですがね,家内が聖書を組織立って研究するようになったんです。週末には家内と一緒に過ごすため帰宅しました。ある時,1週間ずっと家にいて,家内がエホバの証人と一緒に行なっていた研究に参加することができました。それはなかなか興味深いものでした。後日,仕事をやめてから,私は定期的に加わるようになりました。
「研究を通して,人間に対する神の当初の目的は,人間が決して年老いることなく,永遠に生きることであったという点を学びました。神の王国が間もなくこの当初の目的を実現させることを学んで胸が躍りました。その時,啓示 21章4節にあるような預言が成就するのです。『また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである』。
「過ぎ去ってゆく『以前のもの』の中には,様々な問題や困難の伴う老齢も含まれていることを学びました。ヨブ記 33章25節(新)の言葉が私自身にまた他の人々に成就するのを生きて見ることができると教えられ,希望が膨らみました。『彼の肉は若いころよりもみずみずしくなり,その若い時の精力の日に返るように』という聖句です。
「その時まで,聖書は興味深いが純粋に歴史的な本であると考えていました。ところが徐々にそれが信仰の書となってゆきました。そしてとうとう,80代に入って大分たってから,私はバプテスマを受けてエホバの証人になりました。
「昔の友人に会うと,少しも年を取っていないようだと言われます。そういう時は,その通りかもしれないと話し,その理由を説明しています」。
自分の聖書をテーブル越しに差し出し,ウィルヘルムはイザヤ書 40章30,31節(新)を指差し,そこを読むようにと言いました。「年少の者は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもある。若者も必ずつまずくであろう。しかし,エホバを待ち望んでいる者は力を取り戻す。彼らは鷲のように翼を張って上って行く」。
そして,ウィルヘルムはこう言いました。「エホバについて学び,エホバに希望を置くのに自分は年を取り過ぎているとだれも考えるべきではありません。“老いた鷲”の言うことを信じなさい。それは,神の新秩序において,いつまでも限りなく年を取っていきながら,いつまでも限りなく若さを保てることを知っている希望なのです」。
[脚注]
a さらに詳しい提案をお望みの方は,「目ざめよ!」誌1981年2月8日号に載せられた「運動は本当に有益ですか」と題する記事をご覧ください。
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「空中戦の際に,私はフランスの有名な撃墜王ベドリネに撃ち落とされました」
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「若い時代,目標と夢に満ちた時代は過ぎ去ってゆきました。それはあっと言う間の出来事でした」
[10ページの拡大文]
「来年の春もまだ生きていて,またヒバリが鳴くのを聞けるだろうか」と考える時のむなしい気持ち
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「人間に対する神の当初の目的は,人間が決して年老いることなく,永遠に生きることであったという点を学びました」
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有名な5本マストの帆船,プロイセン号。ヒルマンはこれに乗り組んで,ケープホーン岬を回って航行した
[9ページの図版]
初期のころの自分の飛行機の傍らに立つ“老いた鷲”。94歳になる今も,毎年,グライダーで空を飛ぶ