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  • どうしても学校へ行かなければならないのだろうか
  • 目ざめよ! 1984
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目ざめよ! 1984
目84 4/8 18–20ページ

若い人は尋ねる…

どうしても学校へ行かなければならないのだろうか

ジャックは学校の職員として生徒の出欠に関係した仕事を25年以上行なってきました。ですから無断で学校を休む子供は,ジャックがまだ聞いたことのない言い訳を考え出すのに骨を折ります。「『今日は何だか病気になりそうな気がした』……『アラスカにいるおじいさんが死んだ』といった具合いに,ありとあらゆることを聞かされる」と,ジャックは言います。ジャックの“お気に入りの傑作”は,3人の少年が言った,「霧がとても深くて学校が見つからなかった」という言い訳です。

“創造性”においても ― あるいはただのずうずうしさにおいても ― これらのようなあやしげなアリバイをしのぐものはないでしょう。それでもこうした言い訳は,一般的になっているらしい学校ぎらいを反映するものと言えます。学校のことをどう思うかと尋ねられると,子供たちはしばしば無関心な態度(「まあいいんじゃあないですか」)か,またはあからさまな敵意(「学校なんていやだ! 大きらいだ」)を表わします。しかしあなたは学校のことをどう思いますか。少なくとも時々,十代の若者たちと口をそろえて,「どうしても学校へ行かなければならないのだろうか」と叫ぶことがありますか。

もしそういう状態であれば,あなたは恐らく自分の感情を何とか抑えて,ともかく出席しているでしょう。しかし,挑戦的な態度を取り,学校へ行かないことに決めている子供たちの数が増えています(そうなるともちろんジャックのような人たちは忙しくなってきます)。米国だけでも小中学校の児童生徒の欠席者数は毎日約250万人に上るのです! 最近ニューヨーク・タイムズ紙に載ったある記事によると,ニューヨーク市内の高校では「長期欠席」が非常に多い(約3分の1!)ので,「その生徒たちを教えることは不可能に近い」ということです。

しかし,学校へ行くには行っても,学校ぎらいをもっと巧妙な方法で示す生徒たちもいます。

シュールアングスト

ジェニファーは小学校では良くできましたが,中学校に入ってからはかろうじて落第しないでいる程度になりました。「娘はどうでもいいという態度をとります。する事があってもすぐにしないで寝てばかりいます。そしてぎりぎりになって大慌てで宿題をするのです。それも,すればよいほうです」と,ジェニファーの母親はこぼします。

ゲーリーは学校へ行くために起きますが,すぐに胃の具合いが悪くなります。「学校へ近づくと汗が沢山出て不安になります。……家に帰るしかなかったのです」と,ゲーリーは言いました。

二人とも学校でのストレスや緊張に対して反応を起こしていたのです。ドイツ人はその状態を表わす言葉さえ持っています。“シュールアングスト”,つまり学校不安です。その原因は何でしょうか。生徒の中には,ジェニファーのように,中学校に入って戸惑いを感じる子供たちがいます。そのような子供たちは,小学校から,大勢の教師のいる大きくて非個人的な学校へ移るその変化に耐えられないのです。防御作戦として彼らは動機を失い,学校を閉め出してしまいます。そしてどっちつかずの考えを持ち,何とか落第せずにすむ程度に勉強し,学校生活を漫然と送ります。

ゲーリーのような生徒たちの場合は,校内暴力,仲間の残虐行為,良い成績を取らせようとする圧力などが原因で,学校に対し病的な不安を抱くようになります。医師たちはこれを学校恐怖症と呼びます。そういう子供たちは(親が少し説得すると)学校へ行くようになるかもしれませんが,恐れを克服するまでは絶えず不安を感じ,肉体的な苦痛まで味わいます。南カリフォルニア大学のジョナサン・ケラマン博士の推定によると,米国では「60人につき一人の子供」が「学校恐怖症」にかかっています。学校恐怖症はどれほど深刻なものになることがあるでしょうか。例えば,ロバートはわずか10歳でした。消防士は,学校の屋根の高い所に登ったロバートに,そこから飛び降りないように説得しなければなりませんでした。危険を冒してそういう所に上った理由ですか。「ロバートは学校がいやでたまらなかったのだ」と,ニューヨーク・ポスト紙は述べています。

ドイツでは1978年に,大ざっぱに計算して,16歳未満の子供3人につき一人がシュールアングストらしい症状を示していたという報告もあります。その年にドイツでは1万4,000人もの子供たちが自殺を図りましたが,そのうちの多くはこの学校不安が原因であったと考えられています。また別の情報筋によると1978年に,「日本では5歳から19歳までの間の児童生徒800人以上が,学校に関係した問題のために……自殺した」ということです。

しかし教育を受けるということは常に苦しい試練だったわけではありません。事実,聖書時代の子供たちは学習意欲が旺盛でした。この違いを生み出したのは何だったでしょうか。

教育 ― 族長時代の方法

最初の人間アダムは,神から直接に喜ばしい教育を受けました。(創世記 1:28-30)神が設けられた完全な教科課程は,道徳的な導きを与えただけでなく,エデンの園を耕し世話をするようにという命令に関する情報も含まれていたものと思われます。アダムはまた,動物に名前を付ける仕事も与えられました。この大仕事を行なうためには,鋭い観察力と言語についての知識が求められました。―創世記 2:15-19。

アダムはそうした知識を自分の子孫に伝えました。それから何世紀もの間,族長制の下で家族の頭たちは同様の方法で自分の子供たちを教育しました。例えばイスラエル民族は,エジプトで奴隷状態にあった間ずっと,親が子供を教えるという方法を取りました。当時のエジプトで育った子供たちは,モーセが「エジプト人の知恵をことごとく」教えられたエジプトの立派な学校に通うことはできませんでした。(使徒 7:22)それでも,イスラエル民族は文盲ではなく,読み書きができたのです!―申命記 6:9。

後日,神は親たちに対して,「家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときも」あなたの子供たちを訓練しなさいという指示をお与えになりました。(申命記 6:7)ユダヤ人の子供たちはこうして優れた教育を授けられたのです。年に3回行なわれる祭りに出るための首都エルサレムへの興奮に満ちた楽しい旅は,子供たちにとって地理の実施教育となったばかりでなく,全国から集まって来る人々と会う機会ともなりました。(申命記 16:16)男の子たちはさらに,いわば実地職業訓練を受け,家業を仕込まれました。女たちは家事だけでなく,物を買ったり売ったりすることにも巧みになりました。(箴言 31:10-31)イスラエル人の子供たちにはシュールアングストや学校恐怖症などありませんでした!

しかし,イスラエルにおける教育を実際に成功させたものは何だったでしょうか。親のかかわり合いが教育に喜ばしい面を添えたことは確かです。しかしさらに重要なのは,イスラエルにおける教育には明示された目標があったという事実です。それは,子供たちがエホバ神を知りエホバ神を愛するように助けるという目標です。(申命記 6:4-7)したがって,子供たちが学んだ事柄はすべて崇拝と関係がありました。例えば,ソロモンは地球の水の循環,動物の特性,昆虫の習性,体の循環器系などについて研究したようです。そして霊感のもとに,科学的にも正確な観察を行ないました!(伝道の書 1:7,12-14; 12:6。箴言 6:6-8; 30:24-28)それでもソロモンは,その科学的な識見を無神論的な科学ではなく,神の崇拝を促進することに用いました。ソロモンはそうした研究を行なった末,「まことの神を恐れ,そのおきてを守れ」という結論に到達しました。(伝道の書 12:13)ですから当時の教育は本当に目的と強い原動力を持っていたのです。

過去から学ぶ

族長時代以後,生活様式は大きく変化してきました。もちろん,神を恐れる親は依然として子供たちを道徳的に導くことに努力を傾けています。しかし,大抵の親は,子供たちを正式に教育するのに必要な時間も専門的知識も持ち合わせていないことを認めます。また,今日の世界で生きていくのに必要な専門技術を子供たちに教えるのは困難なことでしょう。そのために学校が,子供たちに世俗の訓練を施す責任の大部分を担っています。

しかし,学校が両親と同様の温かい愛をもって当たるわけにゆかないことは明らかです。また現在では,ちょっと考えてみただけでも,暴力,麻薬,仲間の毒舌,教育の水準の低下,不道徳など,世界中の学校制度は多くの問題に悩まされています。それであなたは,強いて学校に行かせようとする考えそのものに憤りを感じているかもしれません。しかし,聖書時代の子供たちにとって教育を楽しいものにしていたのが何であったかを忘れないようにしましょう。それは神を崇拝したいという願いでした。ですから子供たちは,神の言葉を読んで理解できるよう,読み方を ― しかも上手に読むことを目標にして ― 習いました。子供たちが自然界を研究したのは,創造者に対する感謝の念を深めるためでした。また家業を習得したのは,家族の世話をするという神から与えられた責任を果たすためでした。あなたはこの事から学ぶことができますか。同じような態度を培うなら,学校についての考えが大きく変わるでしょうか。

学校に行くかどうかについて選択の余地はほとんどないかもしれませんが,それを憂うつな前途,あるいは非情な宣告とみなす必要はありません。正しい態度を培えば学校に行くことには確かに利点があります。ではどのようにしてその態度を養いますか。学校にとどまることにはどんな利点がありますか。そして,校内暴力や麻薬といった特定の問題にどのように対処できますか。この連載記事では今後こうした質問に答えるよう努力したいと思っています。

[19ページの図版]

勉強に身を入れないで学校がきらいなことを示す子供たちもいる

[20ページの図版]

古代イスラエルの子供たちは,神への愛に動かされて,教えられる事柄を真剣に学んだ

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