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目ざめよ! 1986
目86 6/8 4–7ページ

聖書か伝統か ― 誠実なカトリック教徒のかかえるジレンマ

近年,カトリック諸国において聖書はいよいよ手に入りやすい書物となってきました。例えばスペインでは,過去50年間に,標準スペイン語の聖書の翻訳がそれ以前の500年間よりも多く出版されました。同様に,フランスのカトリック教徒も,原語から翻訳された,教会公認の数種の聖書を自由に入手できるようになりました。英語を話すカトリックの学者たちも聖書の新しい翻訳を何種類か世に出しました。

ですから,今日,聖書を読むことを願うカトリック教徒はだれでも聖書を読むことができます。それでも,必ず注記の付されている,正式に公認された版を読まなければなりません。なぜカトリック教会はそのような条件を付けるのでしょうか。神の啓示の別の源として伝統がある,と主張するからです。そして,それらの注記は聖書を伝統と調和させるのに必要であると考えられています。では,カトリック教会では聖書と伝統という二つの源のどちらが重要視されているのでしょうか。

許されているが,不可欠なものではない

「カトリックの聖書注解」という本は,「聖書を読むことは救いに必要か」という質問を提起しています。その答えとして同書は,「あらゆる男女子供を含むすべての信者が個人的に聖書を読むべきであるとする,神あるいは使徒に源を発する普遍的な指示は存在しない」と述べています。

ですから,現在カトリック教会は同教会の会員が聖書を読むことを許し,「少なくとも1時間半,聖書を読み続けるなら」全贖宥を与えることさえしていながら,聖書を読むことを必要不可欠なものとは見ていません。a フランスのカトリック聖書辞典はその理由を説明し,こう述べています。「伝統は信仰に関する教え全体が人類に達するための最も標準的な経路である。新約聖書を使うようになったのは後のことである。聖書には信仰のすべてが保管されているのではない。したがって聖書の使用は不可欠なことではない」。

聖書より伝統が優先される

ですから,カトリック教徒は聖書を読むよう求められているわけではありません。また,たとえ読むとしても,それは伝統を出し抜くことのない,第二の地位を占めていなければなりません。初期クリスチャンは,文字に書かれたみ言葉が手に入るまで,口頭によって伝えられてきた伝統に頼っていたのであるから,聖書は,教会によって保存されてきた伝統の光に照らして理解しなければならないというのがカトリック教会の主張です。

フランス語を話すカトリック教徒が聖書を読めるようになることを目的として書かれたある本は,この見解を裏づけるように,こう述べています。「神の啓示は,聖書中に顕著な形で表わし示されているものであっても,一つの忠実な共同体,つまり生ける教会に託されてきた。このことから,聖書,伝統,教会の関係について重要な質問が生じる。……既に与えられている[聖書中の]この増し加えられた光は,伝統という貴重な宝に加わり,その宝を完成させる。……したがって,聖書は全く伝統に依存している」―「イニシアシオン・ビブリケ」,963,971ページ。下線は筆者による。

誠実なカトリック教徒は,同じカトリック教徒である聖書学の一教授の著わした本の中に,「聖書の手前にあった伝統は,やがて聖書を包み込み,聖書と共になり,聖書を超える」b と書いてあるのを読むとき,聖書に対するどれほどの信頼感を抱くでしょうか。あるいは,カトリック辞典を手に入れて,「カトリック教会は,……聖書全体が神の言葉であることを認めてはいるが,同時に,聖書を超え,聖書を凌駕する,書かれざる神の言葉が存在するものと考える」と記されているのを読むとき,どのように考えるでしょうか。

聖書を読むカトリック教徒のかかえるジレンマ

平信徒には教会の教理の真実性を計る尺度がなかったため,一般のカトリック教徒は幾世紀もの間,疑うこともなく教会の教義を受け入れてきました。大抵のカトリック教徒は公教要理の授業で丸暗記して自分の信じる事柄を学びました。三位一体やマリアの無原罪の懐胎のような,理解し難い教理の説明を公教要理の教師や司祭に求めても,ほぼ確実に,「それは聖なる奥義です」という答えが返ってきたのです。

しかし,第二バチカン公会議で事態の変化が生じました。ローマ・カトリック教会は現代化を経験し,そのためにカトリック教徒の間で前例のない自己批判が行なわれるようになりました。この会議は,「適切で正確な,[聖書の付加的な]翻訳」を出版するためのゴーサインを出し,カトリックの司教に対しては,「神聖な書物の正しい使用法に関するふさわしい指示を,ゆだねられた信者に与える」ことを命じました。ですから,今は,ごく一般のカトリック教徒でも,聖書を入手し,読み,その内容を自分たちが教えられた事柄と比較することができます。

しかし,当然この急激な変化は幾つかの問題を生じさせました。教会の多くの教義が聖書には全く記されていないことを生まれて初めて知ったカトリック教徒は少なくありません。それらの教えとしては,マリア崇拝,“聖人”への祈り,聖遺物をあがめること,贖宥,煉獄,リンボなどがあります。

この後半の教えについて,カトリック辞典は次のことを認めています。「罪を犯してもいない人が地獄で責めさいなまれるという信条に対する無理からぬ反感が見られた。そして,この難しい問題から逃れる手段として,神学者たちは様々な教えを取り入れるようになった」。リンボはそのような教えの一つです。c

しかし,聖書は,死者は墓の中で眠っており,復活を待っていると述べています。(伝道の書 9:5,10。ヨハネ 5:28,29)不滅の魂は存在しないので,地獄の責め苦もあり得ません。それで,神学上の窮境から脱出するためにリンボの教えを考え出す必要もありませんでした。これは,聖書を読むカトリック教徒が現在陥っている多くのジレンマの一例にすぎません。人間が考案した伝統と聖書のどちらを信じるべきでしょうか。

カトリック教会のかかえるジレンマ

しかし,問題はそれ以上に深いのです。司祭は,『問題はない。聖書中の啓示は伝統によって完成を見てきたのである。教会の伝統を受け入れよ』と述べて,個々のカトリック教徒の直面するここに挙げたジレンマから脱出しようとするでしょう。しかし事はそれほど簡単ではありません。

イエズス会士で,パリにあるカトリックの研究所の教授,ポール・アンリはこのように書きました。「聖書は,命,崇拝,道徳,教会の神学上の教理に関する規範である。[つまり,聖書は,権威ある基準を確立する。] 神の啓示される,あるいは望まれる事柄がすべて聖書中に明白に記されているという意味で規範なのではなく,不謬の権威をもって教会が行なうこと,また教えることが何ら聖書と矛盾するはずがないゆえに規範なのである」。

聖書が伝統によって完成されると主張するのは甚だしい誤りです。そう主張すること自体,カトリック教徒がその聖書のコリント第一 4章6節から読み取れることと矛盾しています。聖書のどこを探しても見いだされないばかりか,明らかに「聖書と矛盾する」,地獄の火,煉獄,リンボなどの教義を教えることによって,カトリック教会はジレンマに陥っているのです。―エゼキエル 18:4,20。ローマ 6:23。

聖書に照らして伝統を評価してください

第二バチカン公会議でカトリック教会は,「神から与えられた聖書を頻繁に読む」よう,「キリスト教の信者すべて」に公に勧めました。さらに,カトリック辞典には,「教会は聖書と矛盾するいかなる教理も教えるはずがないと,全き確信をもって信じることにおいて,カトリック教会の正当性は十分に証明される」と記されています。誠実なカトリック教徒の皆さんには,聖書を読むようにとの同教会の勧めに注意を払い,カトリックの教理が「聖書と矛盾」しないかどうか,ご自分でお調べになるようお勧めいたします。

その点は,第3回世界カトリック聖書使徒職連盟の総会でなされた呼びかけ,つまり,カトリック教徒は聖書の教え手になるべきであるとする呼びかけに注意を払いたいのであれば,一層重要な事柄となります。この呼びかけとその意味については,次の記事で考慮されます。

[脚注]

a 「アンシリディオン・インダルジェンティアルム」,1968年,no.50。

b 「ラ・パロール・ドゥ・デュ」,26ページ。

c リンボは,「地獄に隣り合う領域で,洗礼を受けていない子供たちや,イエス以前に生きていた義人が死後に住む場所」と定義されてきました。

[5ページの拡大文]

「聖書を超え,聖書を凌駕する,書かれざる神の言葉」が存在するのだろうか

[6ページの拡大文]

「不謬の権威をもって教会が行なうこと,また教えることが何ら聖書と矛盾するはずがない」というのは本当だろうか

[6ページの図版]

第二バチカン公会議で事態は変化した

[クレジット]

UPI/Bettmann Newsphotos

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