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  • 神の目的とエホバの証者(その32)
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
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  • 第22章 第二次世界大戦中のクリスチャンの中立者
  • 英国の大会はアイルランド共和隊により脅迫される
  • 世界的な攻撃は始まる
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
塔62 2/15 122–124ページ

神の目的とエホバの証者(その32)

「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10新世訳

第22章 第二次世界大戦中のクリスチャンの中立者

トム: 水曜日の代わりに今日来ていただいて,ほんとうにうれしく思います。今日の日曜日の午後はひまですし,電話でもお話した通り,ロイスも私も第二次世界大戦中のことを知りたいと思っています。第一次世界大戦中の協会の経験を考えると,第二次世界大戦をよく切り抜けたものだと感心します。そして……

ロイス(中断する): お話によると,20年にわたる神権制度の発展後に世界的な拡大のわざがつづいたとのことでしたね。それはこの戦争中に始まりましたか。このあいだのお話によると,アメリカでもカトリック・ファシストたちが活動し始めたとのことでした。それについてすこし話していただけますか。

トム: ジャッジ・ルサフォードがした「ファシズムか自由か」という話の題からも分かる通り,アメリカは,大ぜいの人が認めていた以上にファシストの支配という大きな危険に面していたようです。ジョンさん,戦争中に協会はどんな立場を取りましたか。エホバの証者が独裁者たちによって滅ぼされなかったのはどういうわけですか。

ジョン: 今日はできるだけ多くのご質問にお答えしましょう。しかし,どの程度までお答えできるかは分かりません。1938年が終わる以前でも,私たちの拡大計画はただちに実施されました。そして,戦争中でも神権制度は進歩しつづけたのです。もっとも,世界的な拡大計画は,戦争が終わるまで実施されませんでした。しかし,戦争が終了した年までには,私たちの伝道の技術は十分進歩していたので,数年のうちに,わざはどんどん拡大されました。

新しい世の社会を神権制度に組織することが必要でした。制度のことについては後日もっとくわしくお話ししましょう。神権的な組織がつくられたのでエホバの証者は力づけられ,毎日の活動にのぞんだはげしい試練を乗切ることができたのです。一例として,ロイスさんの話したカトリック・ファシストのことがあります。それはジャッジ・ルサフォードの講演「ファシズムか自由」がアメリカ人に告げた警告を成就するものでした。1939年の夏,チャールス・イー・カウリン ― ラジオ放送のとき「野次馬を騒ぎ立たせる」ので有名 ― に従うファシスト思想の暴徒たちは,ニューヨーク市のマジソン・スクエア・ガーデンに集まったエホバの証者の秩序正しい大会を妨害して,その平和を乱そうとしました。これはカトリック-ファシスト派のした反対行為の中でも,大たんきわまるたくらみでした。彼らは良いたよりを一般人にひろめることを反対し,中心的な大会をまったくつぶしてしまおうとしました。その大会はアメリカと海外の大会プログラムの中で重要な役割を持ったのです。そのときの出来事をかんたんにお話しましょう。

カウリン主義者たちは中心大会を脅かす: 1939年6月23-25日,多都市大会が計画されました。ニューヨーク市のマジソン・スクエアガーデンは,オーストラリア,英国,ハワイ,およびアメリカ合衆国で開催された28の大会の中心大会会場に選ばれました。「政府と平和」と題する公開講演をニューヨーク市で大々的に宣伝したところ,カトリック行動の群れがこの大会をつぶすため一致した努力をしていることが分かりました。このことが前もって判明したので,多数の警官はマジソン・スクエア・ガーデンに配置され,妨害に対処して,治安維持を命ぜられました,年鑑に出た次の報告を読んでごらんなさい。

エホバ神をたたえて崇拝するために1万8000名以上の人々が秩序正しくマジソン・スクエア・ガーデンに集まった。これらの人々は熱心に話を聴いた。公開講演は正4時に始まった。話が始まって10分たたぬ中に,数人のカトリック神父に引率された約500人の欺かれたローマ・カトリック信徒とナチス派の者たちが,ガーデンの中にはいり,講演者の演壇のすぐ後に席を占めた。講演が約20分つづいたとき,それらの反対者たちは,なんの理由も口実もないのに,いろいろなことを大声で叫び始めた。たとえば,「ヒトラー万歳!」「フランコ万歳!」「あのルサフォードめを殺してしまえ!」 彼らが悪意をいだいてガーデンに来たことは明白である。彼らは悪事を行なって,クリスチャンの民の合法の大会をぶちこわそうとつとめた。……彼らはあらゆる種類の悪口雑言をならべ,脅迫の言葉や呪や罵声を発した。また場内整理につとめた多数の案内者たちを殴打した。流会させようとした彼らの企ては失敗し,講演は全部行なわれ,その録音も全部とることができた。a

暴徒たちは流会させることに失敗しました。しかし,暴徒たちの叫んだ声はマイクロホンの中にはいり,全世界7万5000人の聴衆は,その叫びを聞きました。その叫びはレコードの中に吹込まれ,そのレコードは全世界の幾十万という人々に聞かれました。ガーデンに出席していた聴衆はさかんに拍手して講演者を力づけたので,彼は恐れずにマイクロホンを通して話しつづけ,その難しい事態を乗り切りました。警察はこの状態を収拾するのに失敗したので,ジャッジ・ルサフォードは1939年7月11日付の手紙をニューヨーク市長ラ・ガージアに送りました。この手紙に対する回答がなかったので,その手紙は公表され,広範囲に配布されました。b この手紙の一部は次のように述べています。

講演が始まって約20分後,そして坐席内の或る人の会図と共に,狂信的な人々の一群は,大声で叫んだり,どなったり,呪いの言葉を投げかけた。案内者たちは警察の者に妨害者をしずめるよう願ったが,警察の監督は「それはあなたがたの仕事だ」と答えた。警察権妨害者たちの不法行為を目のあたり見聞きしたにもかかわらず,そのような答えをしたのである。

大会の会場整理に当たっていた案内者たちは,いそいで妨害者たちの所へ行き,妨害を中止するかあるいは会場から去るか,どちらかを選ぶようにと告げました。カトリックの熱狂徒たちは,この要求に従わず,かえって多数の案内者たちに襲いかかって暴力をふるった。幾人かの案内者たちは,自己防衛をした。警察は,その合法的な大会に反対した不法な妨害者たちを逮捕しようとせず,かえって自分の義務を合法的に行なった数人の案内者たちを逮捕した。以来2週間が経過している,しかし,合法の大会を流会させようとした妨害者たちは,ひとりも逮捕されていない。法律を守る市民が,警察のするべき務めをしたために逮捕されている。c

3人の案内者たちは兇悪な暴行をしたという非難が浴びせられ,その裁判は1939年10月23日と24日にニューヨーク市の特別会議法廷の3人の判事の前で行なわれました。この裁判についての報告は,次のことを示しています。

彼らの習慣どおり……「カウリン神父に忠誠をつくす者」『クリスチャン前線のメンバー』あるいは『クリスチャン暴徒』と称する者たちは,あきらかにナチの『群れ』や他の全体主義的な過激派の者と結びつきを持っており,ローマ・カトリック教職制度の指令下に働く。彼らの戦略の一部は,街頭で戦うことである。ふたりの人が怒りを感じて口論して戦うふつうの型の戦いではない。むしろ,ナチドイツで始められて,特にユダヤ人に対する暴動のときに使用されたものである。彼らの方法は,ある人を打つか,または加害者自身が害を受けたかのように叫び出すことである。彼らは同情心を持つ警官を呼び,実際の犠牲者を襲撃者として非難することである。……

数多くの出版物に示されている証拠によると,ニューヨーク市では,これらの「カウリン主義者たち」は,過去数カ月のあいだこの戦術をユダヤ人たちに使用して来た。同様な戦術をマジソン・スクエア・ガーデンでも使用しようという計画が立てられた。前述の3人の案内者が裁判にかけられたときの証人たちは,次の事実を法廷に提出した,すなわち数百人もの彼らはラジオ放送局WMCAから歩いて来たということである。その放送局はカウリンの講演の放送を拒絶したので,彼らはピケットをはっていた。……この悪意のある一群は,「社会正義」(英文)という雑誌を携行して来て,案内者の目の前で振り,「お前たちにはこれをやる」と言った。d

この裁判で兄弟たちを告訴した側の証人たちは,矛盾する言葉をたくさん述べたので,3人の判事 ― ふたりのローマ・カトリック信徒とひとりのユダヤ教徒 ― は,3人の案内者を無罪としただけでなく,市の警官が秩序を維持するという本分を果たさなかったとき,その3人が暴徒に対し,毅然とした強い態度を取ったことをほめました。

英国の大会はアイルランド共和隊により脅迫される

ニューヨーク市からの話を中継する予定であった英国の大会も,暴力の脅威を前もって通知されました。1940年の年鑑(英文)に載せられた英国ロンドンの支部の僕からの報告を聞きましょう。マリア,どうぞ読んでください。

マリア〔読む〕: 6月24日,土曜日。I・R・A・(アイルランド共和隊。カトリックのテロ運動。過去数カ月のあいだ,英国中に爆弾を投げつける運動をしてきた)は協会のロンドン事務所に「正式な」脅迫電話をかけてきて,ジャッジ・ルサフォードの海外講演のためのロンドン-ベルファーストの電線回路の借用契約を取り消さないなら,なんらかの処置を取ると言ってきた。このことはすぐロンドン市の警察署に知らされた。そして,ベルファーストとロンドンの両方のホールは,警察と探偵で厳重に守られた。大会の土曜日の夜の部が終わってすぐに,ロンドンの中心部にあるキングスウェイ・ホール近くで五つの爆弾が破裂した。エホバの証者はそのキングスウェイ・ホールで会合していたのである。これらは彼らの行なった爆弾襲撃の中で最悪のものであり,多くの資産と多数の人々を害した。しかし,彼らの低劣な手段のために害をうけた者は,エホバの民の中にひとりもいなかった。われわれは4カ月間に,I・R・Aと自称するこれらの狂人たちから3度脅迫されたが,これはその3度目であった。e

その翌日,200名以上の警官と多数の私服が,日曜日の公開講演を聞くための大きな大会会場,アレキサンドラ・パレスのまわりを取りかこみました。類似の保護手段はベルファーストの大会会場の内部と外部に設けられました。マジソン・スクエア・ガーデンでの暴徒たちの起こした雑音が電波に乗ってロンドン大会に送られてきたとき,数分のあいだ空気は緊張しました。警官をはじめ,多数の人々は,それを合図に英国のI・R・Aが行動を起こすと考えました。しかし,ロンドンでもベルファーストでも何事も生じませんでした。この強力な証言の言葉はこの二つの国ではっきり聞くことができました。

世界的な攻撃は始まる

さて証者たちは難事に直面しました。特に欧州の証者たちは難しい状態にいました。アメリカ合衆国内でファシストのデモが生じてすぐ後に,国際的な性格を帯びる出来事が海外で発展していました。1939年9月1日,ドイツの軍隊はポーランドに侵入しました。これをきっかけに第二次世界大戦は始まりました。ポーランドはあっという間に征服され,9月3日に英国とフランスはドイツに宣戦を布告しました。数カ月間,軍事活動は中止したので,この戦争は「いかさま」戦争だと言う人が大ぜいいました。しかし,そのような希望は木っぱみじんにくだかれました。というのは1940年4月,ヒトラーはデンマーク,ノルウェー,オランダ,ベルギーそしてルクセンブルクを占領するための猛攻撃を始めました。電撃的速度でフランスに攻め入り,1940年6月22日にはフランスは已むなく平和条約をヒトラーとむすびました。欧州大陸にいた英国の軍隊は,大陸に駐在することができなくなり,1940年6月4日,ダンケルクから英国海峡を渡って退却しました。イタリアとドイツに対抗して戦っている国は英国だけで,欧州中の他の国はみな全体主義的な勢力下にはいってしまいました。太平洋の彼方にあったアメリカ合衆国は,まだ戦争に参加しませんでした。f

ナチ-ファシスト-カトリックの軍隊が欧州を席巻したとき,エホバの証者のわざは禁ぜられ,証者は投獄されました。ものみの塔協会の支部事務所はかたはしから閉鎖されてしまい,ブルックリン本部との連絡は切られました。ドイツでの型にならない,ナチの占領軍は,オーストリアやチェコスロバキアでしたように各国のエホバの証者のわざを禁じました。エホバの証者を根絶しようとするこのカトリック行動は強烈なものとなり,もうすこしでエホバの証者はすっかり巻きこまれそうになりました。欧州のスウェーデンとスイスだけが中立を保ったので,適当な本部がその両国に設置され,そこからエホバの証者の地下運動の指示が出されました。フランス,スペイン,ポーランド,ベルギー,ギリシャ,ブルガリア,ハンガリー,イタリア,オランダ,ルーマニア,ユーゴスラビア,エストニア,フィンランド,デンマーク,そしてノルウェーはみな独裁者の支配を受けるようになりました。戦争の影響はアフリカにも及び,北ローデシア,南ローデシア,ナイジェリア,およびゴールド・コーストにいるエホバの証者のわざは禁ぜられました。

遠いアジアや太平洋の各地にいたエホバの証者は,日本の軍隊が1941年に行動を開始したときに反対を受けました。日本,フィリピン,ビルマ,マラヤ,海峡植民地,オランダ領東インド諸島,フィージー,ニュージーランド,インドおよびセイロン島にいたエホバの証者のわざは禁ぜられ,証者たちはものすごい迫害を受けました。エホバの証者に対する世界的な攻撃が始まり,御国伝道者の世界的な伝道はまったく中絶するように見えました。g

[脚注]

a (イ)1940年の「年鑑」(英文)43,44頁。

b (ロ)1939年7月「キングダム・ニュース」(英文)第4号。

c (ハ)1939年8月「メッセンジャー」(英文)8頁をも見なさい。

d (ニ)「慰安」(英文)1939年11月29日第21巻,20と21頁。

e (へ)1940年の「年鑑」(英文)81,82頁。

f (ト)「世界年鑑」(英文)1953年248頁。

g (チ)1940年の「年鑑」(英文)85頁。1942年の「年鑑」(英文)88,107,111,142,143,144,161,163,171,172,181,190,191,199,200,208頁。

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