神の目的とエホバの証者(その34)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10新世訳
カナダで中立を守る人々は禁ぜられても伝道する
英連邦内のエホバの証者は抑制され,ある場所では完全な禁止を受けました。例えば,カナダの兄弟たちは戦争中のむずかしい時でも耐えしのびました。協会の初期の年月中,カナダのわざは,アメリカの会衆と同じくブルックリン事務所の指示を受けていました。しかし,ご存じの通り,1918年には独立の支部がウイニペッグに設立されました。a 第一次世界大戦が終結して後,そしてカナダにいるエホバの証者に対する禁止が取りのぞかれて程なく,1920年の1月1日協会のカナダ支部はトロントに移転しました。b 1925年,カナダの万国聖書研究会と名づけられる慈善的な法人が組織され支部の資産を所有するようになりました。c
年月が経つにつれてわざは良く進歩しました。しかし,1936年には顕著な地位についていたある人々は真理からはずれ,指導部の変更が必要となりました。霊的洞察力が不足したためにこのような変更が必要になり,わざの進歩は中止しました。しかし,新しい指導部の発足と共に霊的な状態は改善して,証者のわざは急速に進歩しました。d
この期間中,カトリックの勢力が強いケベックでは,わざは猛烈に反対されて,証者たちは逮捕されました。しかし,真実の意味の「ケベックの戦い」は,後日に行なわれたのです。そのことについては,後にお話ししましょう。しかし,カトリックの優勢なケベックでの反対は強く,1940年7月4日,ヒトラーの欧州征服が絶頂に達していたとき,当時司法大臣であったケベックのカトリック信徒,アーネスト・ラ・ポインテは,エホバの証者の法人団体,カナダの万国聖書研究会の活動を完全に禁ずる命令を出しました。e
民主主義諸国家の敗色がいちばん濃かったとき,エホバの証者は迫害をうけて,現代における異端審問所が設立されました。隣人に対して,スパイ行為をすることが奨励され,家宅は不法侵入をうけ,私有の書物は没収され,聖書の集会は中断され,有名な欽定訳の聖書さえも没収されて焼却されました。新聞も痛烈な非難の言葉を浴びせかけました。この怒りの波は国内のあらゆるところに及んだのです。f
このすべてはカナダの証者たちの上に突然降りかかってきました。しかし,彼らはそんなことでくじけませんでした。彼らはただちに,効果的な,そして広範囲にわたる地下組織を建て始めました。それで,聖書研究をしたり,伝道の活動を行なうために小さな群れに集まることができました。これらの証者たちは,全体主義的な支配下にいた兄弟たちと同じく,人間ではなく神に仕える決意を強くしました。そして人間の法律による妨害をうけても,神からの使命を達成しつづけて行きました。約5000人の伝道者は再訪問の活動や聖書研究のわざを行ないました。
1940年11月の朝,兄弟たちは早く起きて国内に「ナチス主義の終り」と題する特別な冊子を人々の戸口の下に置きました。それで人々は目が覚めてから,この大胆な冊子に目を通すことになりました。この冊子の言葉から,主イエス・キリストの支配下にある神の御国は間もなく力を行使して,一切の反対を終わらせ,あらゆる全体主義的な力を終わらせるということが示されました。7000名以上の証者たちはこの特別な運動に参加しましたが,わずか10人足らずの人々が逮捕されただけです。その音信は長年のあいだ国内にひろめられていた音信と似かよっていたものですが,その10人の中ひとりとして暴動を起こす文書を配布したと告訴されませんでした。g
カナダから世界を半分まわったところでも,英連邦の兄弟たちのわざは禁ぜられていました。オーストラリアでは,1940年7月以降宗教指導者たちは熱心な証者たちに対して政治的な処置を取り始めました。その結果,1941年の1月16日メンジス首相は,エホバの証者を禁ずる政府の意向を時期尚早にも国会で発表しました。翌日の1月17日,命令は官報で広く報知され,協会とその合法の法人の活動は抑制されました。そして,御国会館を所有していたエホバの証者のアデレード会も禁ぜられました。政府は間もない中にその御国会館を没収したのです。ベテルの本部も政府に没収されました。h
しかし,これらの国々においてエホバの証者は御国のこの良いたよりを伝道せよという神から与えられた命令を実行しつづけました。地上のあらゆる場所で御国の証言はつづけてなされました。そして,全体主義的な支配下にいた兄弟たちはすばらしい勇気と忠実を示しましたが,その記録はひじょうにすばらしいものです。
第25章 激しい戦争の最中に地下にもぐって伝道する
ジョン: 第二次世界大戦のいんうつな年代中,世界中のエホバの証者は神の御国を世界の唯一の希望として伝道しました。はるかかなたのフィリピン諸島では,1941年12月7日の真珠湾奇襲以後,アメリカにある協会本部との通信が絶たれました。しかし,伝道のわざはどんどん続けられました! 1941年,支部事務所から送られた最後の報告によると,373名の伝道者がフィリピンにいました。日本軍の占領下でも,彼らは信仰と忍耐を保ちつづけました。次の記事は,刑務所から釈放された直後支部の僕が送ってきた報告文の一部です。
日本軍は1942年1月2日にマニラ市に侵入し,程なくしてきびしい軍政を始めました。ただちに検閲が始められました。ラジオ受信機はみな封印されて没収されました。また出版物は一般公共に発表される前に日本の軍部に提出することが命ぜられました。書店の聖書は検閲を受けました。しかし,兄弟たちの中で自分の持つ本や雑誌を提出した人はひとりもいません。兄弟たちは,検問を受けずに御国の音信を証言しつづけました。日本の軍人は,マニラとその郊外で,定期的に家から家を調査して,兵器とか弾薬を捜し出そうとしました。しかし,彼らは兄弟たちの家の本棚に載せられてある主の兵器と弾薬についてはあたまを悩ましませんでした。
1942年1月26日,私は侵略者共の敵と見なされ,他の外国人といっしょに刑務所に入れられました。最初,民間行政の下にいたので,私たちの受けた待遇は良いものでした。しかし,日本の軍政下にはいったとき,収容所に入れられた者たちはつらい目に会いました。……3年間の刑務所生活の結果,私たちの健康は害されました。アメリカ軍が刑務所を占拠したとき,私たちは骨と皮ばかりになっていました。終り頃になるとひどい飢餓状態が出現しました。毎日塩味のうすいおかゆ一杯がひとりひとりに給与されました。キャモートの皮,雑草,また収容所の庭で集められる青いものはなんでもみな食べてしまい,恐ろしい空腹感をすくなくしようとつとめました……
日本軍の圧制の下にあっても,逮捕されない友たちは,神権的なわざをどんどん押し進めました。世界の唯一の希望である御国の大使として,彼らは数多くの危険に面しても,真理と正義に飢えかわく人々を養いつづけ,戦争の終わるまで待ちませんでした。機会のゆるすかぎり,兄弟たちは,没収をまぬかれた数箇の拡声装置を利用して,模範的な研究を開きました。……日本軍の苛烈な支配下でも,彼らは31の新しい会制度を組織し,約2000名の伝道者を得ました。不敗の王の保護の御手の下にあって,ルソン島のいろいろの場所では七つの地帯大会が開催されました。最高出席者数は2000名でした。
出版物の数がすくなくなるにつれて,兄弟たちは有益な配布方法を考え出しました。つまり,善意者たちに本を1週間貸すことでした。その結果,再訪問の数が増加し,模範的な研究が始まり,新しい会の制度が発足しました。このような手段により,彼らは家から家の証言を行いつづけることができました。出版物はいつでも伝道者の手元に戻つてきたからです。
日本軍が占領していた最後の年,そしてアメリカ軍がマニラ空襲を決行して,日本軍人が罪のない市民たちを虐殺し始めたとき,伝道者たちは伝道の仕事をゆるめず,よろこびつつ全能のエホバに奉仕しました。家から家の証言のわざはつづけられました。一群の兄弟たちは,主に従って伝道していたとき興味深い経験をしました。証言していたとき,彼らはゲリラ隊とその家族の住む小さな村を通りました。兄弟たちは,かつてそこで伝道したことがあります。兄弟たちは,「父のみわざ」をするために,次の町へ行くところでした。その途中,日本の兵隊がその町にいると警告されました。しかし,引きかえすわけにも行かず,兄弟たちはいつもの通り家から家の伝道をして行きました。日本の兵隊とゲリラ隊が,鉄砲の発射準備をしているのを見ました。敵同しがなぜ撃ち合わないのかと,彼らはふしぎに思いました。両方ともにらみ合っていただけです。伝道者はそこで中止せず,区域の証言をすませました。帰路,同じ小さな村を通りましたが,村はすっかり焼かれ,男も女も子供たちもみな銃剣で殺されていました。伝道者たちも日本軍につかまえられて殺されてしまったでしょう。しかし,どうして殺されずに助かったかは,だれも分かりません。エホバが御自分の民を保護されたにちがいないのです。i
日本と韓国での伝道は禁ぜられる
もちろん,戦争中の日本でも証言のわざは禁ぜられました。神の御国の音信が始めて伝えられたときから,もともと異教国であったこの国での進歩はおそいものでした。最初とは1912年のことで,そのときシー・ティ・ラッセルは,万国聖書研究会の委員長として日本を訪問し,東洋の宗教を調査しました。ラッセル兄弟とその仲間の者たちは,横浜から長崎まで日本縦断700マイルの旅行をしました。ラッセル兄弟は,正統派のキリスト教宣教師のいだいていた大きな失意を見て,次のように結論しました。すなわち「日本人に必要なものは,地上の全家族を支配し,いやし,教える,栄光のメシヤとしてのイエスの再臨を告げる『御国の福音』である」。
聖書文書販売人は,1913年頃に日本を訪問し真理の種をまきました。1927年,アメリカの国籍をもつ日本人が日本に派遣されて支部を開設しました。j 彼は神戸に支部を開きましたが,程なくしてそれは東京の銀座に移転しました。それから東京の郊外,荻窪に移転し,印刷工場も設置されました。第二次世界大戦が始まるまで,日本人の聖書文書販売人たちにより,大きなわざが行なわれました。1938年には,その数は110名という新最高数に達しました。街頭の集会と日本語版の「黄金時代」の配布が強調されたため,1938年だけでも112万5817部が配布されました。
しかし,戦雲がこくなるにつれて,日本の独裁者たちはエホバの証者のわざを禁止しました。すでに1933年から御国伝道者は逮捕されて虐待を受けました。しかし,彼らは伝道をつづけ,近隣の国々である台湾,韓国および満州にわざをひろめました。証者たちに対する告訴のひとつは,彼らが「エホバ唯一神論を提唱している」ということでした。密室内での尋問は長く,拷問がともないました。期間は2年から3年もつづいたのです。信仰の否認を拒絶した者たちは,5年以上の入獄を宣告されました。そして,忠実を守った者たちは,最初の刑期が終わったとき再宣告を受けました。
韓国でも,日本軍の圧制の手は感ぜられました。韓国の最初の証言のわざは,英国からの一姉妹によってなされました。彼女は自費で,協会の初代会長ラッセル兄弟の是認をうけて,日本,中国および韓国を旅行しました。聖書文書販売人としての彼女の仕事は,韓国に住んでいた英語を話す人々や,多数の韓国人に限られていました。1915年のこの旅行中,彼女は600冊以上の「聖書研究」(英文)の本を配布しました。
1926年,協会は韓国に翻訳部門と小さな印刷工場を設立し,野外で用いる韓国語の出版物を準備しました。韓国語の他の出版物はブルックリンで印刷されて韓国に送られました。1931年,ふたりの兄弟は,この保管所でのわざを管理していました。ひとりの兄弟は翻訳の仕事を行い,他の兄弟は会衆の仕事とか文書配布の仕事を監督しました。東京にあった協会支部の代表者は,講演旅行に来て韓国の兄弟たちに教訓を与えました。1933年,日本の政府は京城にあった協会の資産をいくらか没収しました。1933年6月17日,日本の政府は5万冊の本や冊子を没収しました。東亜日報4493号によると,その文書全部を運び出すために18台の苦力の車が必要でした。1933年8月15日,政府は平壌のエホバの証者の家にあった3万3000冊の本を没収しました。これは東亜日報4452番に報告されていました。
日本の戦争指導者たちは,アジアの征服に邁進しました。彼らは日本の国の宗教,神道を使用して,大帝国の諸国民を結合しようとしました。韓国人はみな神道の神社にぬかずいて天皇を崇拝することが強制されました。エホバの証者たちは偶像崇拝を拒絶したため,日本の当局に弾圧されました。しかし,制度そのものは1939年まで存続することができました。
1938年6月18日,日本と韓国にいたエホバの証者たちは逮捕され始めました。1939年,6月29日,韓国の事務所にいた兄弟たちは逮捕されました。同日,1000平方フィートのスペースを必要とするだけの文書が没収されました。翌日の新聞の報道によるとその文書は漢河に持ち出されて燃されました。韓国の多数の証者たちは逮捕されました。神道の神社に参拝しなかった者たちは,刑務所に入れられました。30名以上の者たちは,長い刑期を宣告されました。多数の人は刑務所内で死にました。ひとりの年老いた姉妹は,石にしばりつけられ,2年以上のあいだずっとおじぎをする姿整にさせられていました。私たちのわざは禁ぜられました。
この偶像崇拝という論争については,韓国の新教徒たちは,安易な道を歩きました。新教徒の教会は,神道の神社におじぎをすることは民事に属することで,宗教的なものでなく,それは「カイザルに属すること」と考えると言明しました。多数の教会の成員もこれは妥協であると認めました。その結果この論争のために長老派教会はいろいろの派に分裂しました。
ポーランドとギリシャで主の羊をさがす
ポーランでは,「他の羊」を狩り出すことは高度に組織されて効果的でした。ここでは特に熱心な開拓者がわざを押し進めて行きました。
戦争中でもポーランドには開拓者がいました。たとえば,ワルシャワの町全部が開拓者により伝道されました。彼らは行商人の振をして家から家に行きました。小さな箱の中には歯みがき,くつずみ,その他の小さなものを入れておいたのです。しかし,彼らは品物を売るのに熱心でありませんでした。むしろ品物が売れない方をよろこんでいました。彼らの目的は,人々に話をして御国のことを告げることでした。物価の高いことと,金のないことは人々の話のトピックでしたから,そのところから会話を始めることができました。人々が不平の言葉を言うときは,会話を正しくみちびいて,戦争前から読まれて,たいへん興味ぶかい小冊子のことを告げることができました。証言はそのようにして行なわれたのです。人々が真理に対して興味を持っていると見るなら,彼らは第1冊を貸しました。その人の名前と住所は,他の兄弟たちに告げられて,こんどは彼らが再訪問をしました。このようにして知合いになり,真実に興味を持つ人々はいっしょに集められて,5人 ― 10人の小さな群れにされ,定められた研究の計画に従い模範的な研究が司会されました。k
ギリシャでも文書が不足していました。しかし,手元にあるものを巧みに使用することにより,その問題を解決することができました。ギリシャでの証言は,偶然の伝道という性質を帯びていました。
1940年10月,イタリアとギリシャの間に戦争が始まったとき,軍役に召集された多数の兄弟たちは,軍事的な奉仕にも非軍事的奉仕をも拒絶しました。戒厳令は厳格であって,良心的な反対者たちが良心の理由で軍役を拒絶することは免除されなかったため,兄弟たちは軍法裁判にかけられました。3人の兄弟は死刑に,他の者は終身刑か,20年から7年の刑期が宣告されました。主についてのあかしはいちじるしいものです。種々の状況の結果,いまに至るまで死刑は執行されず,また入獄を宣告された兄弟たちは刑務所から出されています。
1941年,ギリシヤとアメリカの間の通信が絶たれたとき,主の「他の羊」と兄弟たち全部に奉仕するため最善の努力が払われました。それで,「ものみの塔」の副記事は訳されて彼らに分けられました。また,「救い」と「宗教」という本,および「避難民」という本が訳されて,2500部も謄写印刷され,あらゆる場所の兄弟たちに与えられました。それで集会はすこしも中断されず,兄弟たちにとって大きな祝福となりました。
本や冊子の数がずっと少なくなったので,私たちは公園や公立の庭園のベンチにすわっている人々に伝道のわざをするようにしました。そういう人々に御国についての証言をしたのです。もし聞く人々が興味を持っているなら,私たちは1冊の冊子を貸して,この次に別の冊子を渡し,分からなかった点を話し合うことを告げました。次の訪問のときは,2番目の冊子を提供し,もしこれらの良いことが認識できたなら,他の興味を持つ人々といっしょに冊子を定期的に研究することをすすめました。2冊か3冊の冊子を研究して後ものみの塔や書物の研究に参加するよう招待しました。このように主のご準備により,再訪問の方法が確立し,1941年以来「他の羊」の数は増加しました。l
[脚注]
a (ソ)1918年の「ものみの塔」(英文)2頁。
b (ツ)1920年の「ものみの塔」(英文)36,37頁。
c (ネ)1945年の「年鑑」(英文)119頁。
d (ナ)1937年の「年鑑」(英文)126-138頁。
e (ラ)1941年の「年鑑」(英文)160頁。
f (ム)「コンソレーション」(英文)1944年3月15日。4頁。
g (ウ)1942年の「年鑑」(英文)156,157頁。
h (ヰ)1942年の「年鑑」(英文)124-134頁。
i (イ)1946年の「年鑑」(英文)176-178頁
j (ロ)1928年の「年鑑」(英文)
k (ハ)1946年(英文)1946年の「エホバの証者の年鑑」(英文)181頁,182頁。
l (ニ)1946年の「年鑑」(英文)140,141頁。