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目ざめよ! 1975
目75 4/8 12–15ページ

歴史は書き直されるべきか

「歴史を書き直す」などというのは,とんでもないことであると考える人がいます。そのような人々に言わせれば,現代の理論に合わせるため,あるいは一国民,民族また宗教を高めるために過去に手を加えて,それを変えようとするのは不正なことです。しかしすべての場合にそう言えますか。

確かにそう言える場合もあります。ある政治また宗教上のイデオロギーに合わせるため,時に人間の過去の記録が「書き直され」たことがありました。しかしこれは,すべての場合に言えることではありません。歴史が改訂されなければならない事情が存在することもあります。

考えなければならない大切な点は,なぜそれは書き直されているか,歴史を訂正するようになった動機あるいは理由は何かということです。調べてみることにしましょう。

事実を知る

歴史を書き直す正当な理由のひとつは,資料となる,さらに多くの事実が明らかになったということです。歴史を書く人が「事実」をつかむのは,ある人々が考えるのとは異なって,容易でない場合が少なくありません。それはなぜですか。

意外なことに,ひとつの問題としてあげられるのは,現代の著述家にとって資料があまりにも多いということです。これは調査,研究の妨げとなることがあります。ある事柄について,入手し得るすべての資料に目を通すことは,人間わざでは不可能です。しかも,おかしな話のようですが,比較的最近の出来事でも,きわめて根本的な資料が欠けていたり,あっても意義が不明確であったりするごとがよくあります。

たとえば,あなたはだれが北極を発見したかをご存じですか。参考文献を調べればおわかりのように,ロバート・E・ピアリーとフレデリック・A・クックの,少なくとも二人があげられており,互いに一方を発見者とする説が対立しています。この問題については多くの本が書かれました。しかしだれが北極に一番乗りをしたかについて確かなことを,今日,自信をもって言える人はひとりもいません。しかも,これは七十年もたっていない昔の出来事です。

また,十年ちょっと前のこと,アメリカの大統領だったジョン・F・ケネディは大ぜいの人が見ているところで暗殺されました。一般に信じられているように,大統領を暗殺した犯人はひとりですか。それとも,ほんとうは何人かの共犯者がいて大統領を暗殺したのですか。このような疑問を解明しようとする努力は,ある人々の間で今なお続けられています。

これらの例からわかるように,「事実」を集めることだけでも,現代の歴史学者の取り組まねばならない問題は非常に大きいと言えるでしょう。ここにあげた問題点のどれかが解明されたと仮定してごらんなさい。それに照らして歴史を書き直すことが必要になるでしょう。しかし時には他の理由で歴史の本の改訂が必要になります。

新しい見解

過去に対する国家や人々の見解は,時がたつにつれてしだいに新しいものに変わってゆくことがあります。外交や通商協定を通して,かつての敵国は同盟国となります。過去を調べる際の物事の見方も移り変わり,以前に書かれた歴史の本や記念碑が時代おくれ,あるいは耳ざわりに感じられるようになります。かつて悪と思われたことも,時がたつにつれて善に見えるかもしれません。それで歴史は,後代の事情に合わせるために,しばしば書き直されます。

それで1868年当時,ニューメキシコの准州議会は戦死した兵士をたたえようと考えました。高さ十メートル近くの方尖塔が建てられました。「ニューメキシコ准州において野蛮なインディアンとの,さまざまの戦いに倒れた英雄たちにささぐ」。さて一世紀あまりを経た今日,白人のアメリカ人でさえ,その大多数は,侵入者自身,その土地に住んでいたインディアンにおとらず「野蛮」であったことに同意するでしょう。それで現在のニューメキシコ州当局者の多くは,記念碑の元の碑文が『過ぎ去った昔の考え方を反映』していることを説明した別の記念碑を建てることを望んでいます。

歴史の見解が人々の態度の変化に影響されることは,現代のカトリック教会のいわゆる宗教精神にも見られます。従来,異端審問所に関するカトリックの歴史書には,十五,六世紀におけるカトリック教会の宗教裁判を弁護する傾向がありました。しかしノートルダムのジョン・A・オブライエンの近著「異端審問所」は,「第二バチカン公会議以後におけるカトリック信仰の新しい有利な立場」をとるものとしてカトリックの著述家たちに評価されています。それで,「はるかに正直であり,手前勝手の議論をしていない」と言われています。

同様に,キリスト教会の思潮は,ユダヤ教の出版物に描かれたイエス・キリストのイメージに影響を与えたように見えます。ユダヤ教においては何世紀もの間,イエスの名前を口にすることさえ禁ずるのが伝統となってきました。しかし今日,ユダヤ人に関する一研究が明らかにしているところによれば,現在イスラエルの青少年に使われている学校の教科書は,イエス・キリストに関して,現代のユダヤ人に示された見方のうちでも最も好意的な見方をしています。

ニューメキシコ州当局,カトリック教会,ユダヤ教の見解は,時とともに変わりました。そのいずれも「歴史を書き直す」ことを賢明と考えたのです。

他方の言い分

もうひとつ別の事があります。ある見解はよく知られているかもしれません。それは通俗化された歴史となっています。しかしそれは他の国また民族が,進歩のおそい,あるいは愚かなものであるかのような印象を与えているかもしれません。そう見られた人々も,やがては自分たちの言い分を主張する気になります。それは当然ではありませんか。こうして歴史は書き直されます。

もちろん,ここには明らかな危険があります。ある見解を支持しようとして歴史を書き直す際によくある傾向は,筆者の主張する見解をよいものに見せる資料を見つけ,資料を「えり好み」することです。これは証拠をふるいにかけ,依頼者に有利なものだけを選んで,他の情報を無視あるいは隠してしまう巧妙な弁護士のやり方と,どこか似ています。この「えり好み」精神に支配されている時,書き直されたほうの歴史も,前のものと同じく偏ったものになってしまうでしょう。

また,ある国の歴史の本を読む人は,おそらく,ある印象を受けます。別の国の本を読むと,全く異なった見方をしていることに気づくでしょう。たとえば,ドイツ人とポーランド人から成る委員会は,両国の国境に関して学校の教科書を改訂する作業をいま進めています。国境地帯では,もう何世代にもわたって強い憎しみの気持ちがしみ渡ってきました。いま双方の側では,過去における国境紛争の熱をさます一助として新しい歴史の教科書を望んでいるということです。しかし幾つかの点で合意が得られていません。

およそ六百年前,チュートン人が東方のポーランドに侵入したことについて,ドイツ人はこれを「教化のための宣教師派遣」と言うかもしれません。一方,ポーランド人に言わせるなら,彼らはこの同じ活動を,「宣教師活動に名をかりた侵略」であったと言うでしょう。ゆえにどちらの側も,過去に起きた事についてそれぞれの見解を持っているのです。どちらの側も,自分の言い分を裏づける証拠をあげることができます。

アフリカの歴史についても同じ事が言えます。『アフリカの過去について,自分はいったいどれだけの事を知っているか』と自問してごらんなさい。率直に言えば,今日の大多数の人は,ヨーロッパ人の目から見たアフリカの歴史を学びました。ヨーロッパ人にとってアフリカとは,交易商人,宣教師,探険家,征服者が名をあげたところでした。ヨーロッパ人は多くの場合アフリカを未開の地と見なし,「暗黒大陸」と呼びました。

しかしアフリカ人は,自分たちが,ヨーロッパ人の言うほど実際に未開であったと考えているでしょうか。ニューヨーク州立大学のアフリカおよびアメリカ黒人問題研究所のヌワブエゼ・チュクエメカ・オコイエはひとつの答えを与えています。ヨーロッパ人のアフリカ進出について,彼はこう述べています。「明らかにその努力は,ヨーロッパ人によるアフリカ人支配を,全くの力によるもの(事実はそうであった)とは見なさず,文明の優劣(事実はそうでなかった)という面から正当化しようとするものであった」。

今日,賢明なアフリカ人とヨーロッパ人が悟っているように,一部のヨーロッパ人は崇高な目的を抱いてアフリカに渡り,確かにある程度の善を成し遂げました。他方,外国人が来てから,アフリカ人の多くが明らかに搾取されたことも,認められています。

歴史を読む人で,可能なかぎり客観的であろうと努める人は,すべての側 ― ドイツ人とポーランド人,ヨーロッパ人とアフリカ人 ― にそれぞれの言い分があるということを認識しています。そして,たいていは,それぞれの見方にいくぶんかの理があることを知っています。しかしまた,真実に近いところにとにかく到達するには,ひとつの歴史と,その反対の歴史とを当然釣り合わせなければならないことを知っているのです。

様式の探究

人間はまた,今までに起きたすべての出来事に様式を求めるゆえに,歴史を書き直します。物事がなぜそのように起きたかを説明しようとして,念の入った理論が作りあげられています。歴史上の話が,それらの理論に合うよう鋳直されるのです。

こうして現代の一歴史家は,一見,周期的と見える諸帝国の興亡を,相次いで波頭に達してはくずれ落ちる「波」として見ています。別の歴史家は人類の全歴史を分析して,思想およびイデオロギーの添加すなわち絶え間ない集積を認め,それが現在の西欧文明において頂点に達しているものと見ます。しかし他の人々は,思想の同じ発展が世界的な共産主義を指向するものと論じます。なんらかの様式を求めて過去を調べた人々は,さまざまの異なった結論を出しており,おのおのそれに従って歴史を書き,また歴史を書き直してきました。

しかし実際のところ歴史には様式があるのでしょうか。歴史に認められるとされる様式の多くは,それを作り出した人々の思考の中に主として存在しているのです。なかにはある程度の真理を含むものがあるにしても,多くは考え出されたもの,人の作ったものという感じがします。しかしほとんどすべての学者が認めるひとつの様式があります。それは何ですか。

人間の歴史は,そのほとんどが悪いものであったということです。おびただしい流血,経済危機,腐敗,さまざまな形のサディスト的な残酷な行為や拷問は,人類のお手の物となってきました。この様式を認めない学者は,まずいません。

なぜこの悪の様式?

たいていの歴史家は何か非人格的なもの,彼らが「歴史の力」と呼ぶものを指摘し,今までに起きた事柄はその力のせいであると言います。しかし人々はふつう平和と平穏を望んでいるのに,「歴史の力」によってこれほど多くの害がなされ,これほど大きな苦難と不穏が生み出されてきたのはなぜですか。歴史に関する人間の理論は,図書館の書棚からあふれ出るほどあるにしても,この疑問に対して納得のゆく答えを与えていません。

しかし聖書は,猛威をふるったこの様式が人間の歴史に深く刻み込まれてきたわけを説明しています。人間を動かしてきた真の「歴史の力」が何であったかは,聖書にはっきり説明されているのです。なによりもまず,聖書は物事や事態の当然の成りゆきを度外視しているわけではありません。その示すところによれば,人々も国々も『みずからまいたものを刈り取り』ます。善行も悪行も共にいつかは必ず,個人の場合と同じく国々にも追いつき,相応の報いをもたらします。(創世記 15:16に述べられているアモリ人の例とくらべてください。)さらに聖書は,人間の問題の多くが人間の罪と貪欲に根ざしていることを明らかにしています。そして聖書のみ,罪と貪欲がどのように始まったかを説明しています。(創世記 3章。ローマ 5:12)しかし聖書は,人間の状態がこうなっていることに対する責めの大部分を,盲目的な「歴史の力」にではなく,実在者,見に見えないサタンに帰しています。聖書の示すところによれば,歴史を通じて,サタンは災いを生み出すことにより悪い状態をますます悪くしてきました。歴史に見られる,常に悪というこの様式を満足に説明するものは,これ以外にはありません。―ヨハネ 8:44。使徒 10:38。啓示 12:10-12; 13:1,2。

歴史を貫く神の目的

しかしながら歴史の正しい評価は,他のあるものの光に照らしてのみ可能となります。それは何ですか。神の意志と目的です。歴史を正しく見るには,何世紀も前のバビロンの王に告げられた次の真理を認めなければなりません。『至高者人間の国を治めて己れの意のままにこれを人に与へたまふ』。(ダニエル 4:32)ご自身の目的がかかわっている時,神は人間の事柄に介入されました。歴史のこの事実を見すごしている人は,だれであれ過去に対する見方の多くを訂正しなければなりません。

クリスチャンの使徒パウロは,この重要な要素に気づいていました。神について語ったことばの中でパウロはこう述べました。「彼はひとりの始祖からあらゆる民族を創造して,全地の表に住ませた。彼は彼らの歴史の時代と,彼らの領土の境を定めた」。(使徒 17:26,新英語聖書)どんな意味で神は『人間の歴史の時代を定めた』のですか。

ひとつには,神がさまざまの政治上の帝国の興亡およびそれら諸帝国と神の民との関係を予見したことによります。(申命 32:8とくらべてください。)聖書のダニエル書はとくにこの事を示しています。(2,4,7,8,11章をごらんください。)数千年もの間,神は人間があらゆる統治形態を試みることを許してこられました。そのひとつとして,永続する平和を地にもたらしたものはないではありませんか。ひとつとして,犯罪や不道徳などの根本的な社会問題を解決したものはありません。病気と死をくいとめたものもありません。それでも神は人間が試みるのを許してこられたのです。神は,人間の作った記録を,『野獣的』なものと裁かれています。―ダニエル 7:2-14。

いまや異なる『時代』がわたしたちに臨んでいます。諸国家が人類の世を治める,神に許された時は終わったのです! 間もなく神は決定的な行動を起こし,ダニエル書 2章44節の預言を成就されるでしょう。『この王たちの日に天の神一つの国を建てたまはん これは何時までも滅ぶることなからん この国は他の民に帰せず かへってこのもろもろの国を打ち破りてこれを滅せん これは立ちて永遠にいたらん』。神のこの王国の永続する支配下で,地は正義を愛する人々のための楽園となるでしょう。そして,あなたもその時代に生きることができるのです。―マタイ 6:9,10。

それで,歴史が書き直されるべき場合は,確かにあります。しかし最も重要なことに,歴史に対するわたしたち自身の見方は,『人間の歴史の時代を定めた』方の見方と一致するように,もし必要ならば訂正されねばなりません。

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