聖書は歴史を明らかにする
歴史を明らかに説明する歴史の本は,ごくわずかしかありません。歴史の本は普通ある時代に何が起きたかは述べています。しかし,このこと,あの事の起きた理由に至っては,多くの場合全く人間の想像に終わっています。なぜでしょうか。世俗的な歴史家は,往々にして神の御言葉を無視するからです。霊感された言葉の知識なしでは,彼らといえども歴史を理解することはできないのです。
世俗の歴史家が聖書を無視するとき,彼らの書いた物は,結果として人間に重点を置きすぎ,人間と人間の業績をたたえるものとなります。聖書の啓発を受けて書かれた歴史は,人間ではなく神に栄光を帰します。
現在,神の御言葉の光を頼りに歴史を書く歴史家はほとんどありませんが,過去においては神に全き信仰をもった歴史家たちがいました。その中のひとりはチャールス・ローリンです。彼は,18世紀に4巻一組の通常「ローリンの古代史」と呼ばれている本を出版した人です。その本のまえがきに彼はこう書いています。「世俗の歴史が扱っているのは,迷信的崇拝という奇怪な幻想を同化し,最初の人間の堕落以後人間の性質に入りこんできたあらゆる不法に身をもちくずした国民のことだけであるが,それでも,全能者の偉大さ,その力,その義を広く伝えている。…それゆえにわれわれは,全能者が王国や帝国の設立,持続期間,没落を定めたということを,世俗の歴史を研究するうえにおいての議論の余地ない原則として,基礎あるいは土台として考慮しなければならない……。
「神はご親切にも,われわれが聖書の中で,地の数ヵ国と神ご自身の民との関係の一部を発見できるようにして下さった。そして〔それは〕こうした国々の歴史をはっきり照らし出すものである。もし霊感された記述者たちに頼らないならば,われわれはそれらの国民についてはなはだ不完全な考えしか持っていないであろう。君主たちのひそかな考え,矛盾した計画,愚かしいプライド,邪悪で残酷な野望を表示し,明るみに出しているのは彼らだけである。彼らは,勝利と敗北,諸国民の盛衰,諸国家の興亡の,真の原因とかくれた動機を明らかにし,また全能者が君主と帝国の両方に対して,いかなるさばきを下すか,従ってわれわれは彼らに対していかなる考えをもつべきかを教えている。
「バビロンの王ネブカデネザルは,明らかに神意によって支配されて…いたようである。…彼の軍隊は,二つの別れ道にさしかかった。一つはエルサレムに通じ,他の一つはアンモン人の主都ラバに通じていた。この王は,どちらに攻め込むのが最適か分からなかったので,しばらくひとりで思案したあげく,くじを投げた。神はそのくじをエルサレムの方に落ちさせた。それは,彼がエルサレムの上に下していた災の宣告,すなわち,エルサレムを破壊し,宮を焼き,その住民をとらわれに渡すという宣告を成就するためであった。
「人はすぐに,この王が,単なる政治的見地からつまり彼の死後強力で堅固な要塞の町が残っていては困るという考えから,ツロを攻略する気になったのだと思うだろう。しかしながら,ツロの攻略には,神の意志が働いていたのである。
「諸帝国の偉観,君主たちの威厳,偉人たちの輝かしい活動,民間社会の秩序,異なったメンバーの一致,為政者たちの知恵,哲学者たちの博識を見る時,この世界は人間の目に偉大なものと輝しいものしか示していないように思われる。しかし神の目にはこの世は…全く汚れた不潔なものであった。…世俗の歴史の中でふい聴されているそれらの偉人はすべて,真の神を知らず,また神を怒らせたことにおいて非常に不幸であった。であるからわれわれは,彼らを賞揚しすぎないように,特に注意しなければならない」。
そういうわけで,神の御言葉の導きによらぬ歴史の研究は人を,英雄崇拝とか,都市や王国の滅亡した理由に関して間違った結論を下すなどの,多くの落し穴におとしいれます。賢明な人は,歴史を聖書に照らして見て,真理を悟るだけでなく,神に賛美をささげるでしょう。