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目ざめよ! 1980
目80 3/8 9–13ページ

サッカー界の花形から敬神の道へ

私は英国ヨークシャー州の小さな炭鉱の村で育ちました。学校は嫌いでしたが,一つだけ楽しみがありました。それはスポーツです。特にフットボール(サッカー)は大好きでした。

ある日,学校のチームの一員として試合に出た後,私はあるスカウトから,ウルバーハンプトン・ワンダラーズ・フットボール・クラブでプレーする気はないかと声を掛けられました。私は心を動かされませんでした。自分は学校を出たら,当然,地元の炭鉱で働くことになると思っていたのです。ところが母は,その勧めから考えて,同クラブの言い分を聞きに少なくともウルバーハンプトン市まで行ってみるべきだ,と提案してくれました。私はそうすることにしました。

その訪問は忘れ難いものになりました。私は胸の躍るような雰囲気を膚で感じました。監督は誠意のある人で,“ウォルブズ”と呼ばれるそのチームに入団するよう私を説得しました。

一軍の試合に出るチャンスを与えられたのは17歳のときでした。その試合はレスターで行なわれ,私たちのチームが勝ちました。次の試合は本拠地で行なわれ,私はゴールを入れました。新聞のスポーツ欄の見出しは,「新スター誕生」と書き立てました。

サッカーの花形選手としての生活

自分が本当に幸福だと思えたのは,サッカーをしているとき,特にゴールを入れたときだけでした。プレストンで,ゴール前約35ヤード(32㍍)の所からボールをゴールへ蹴り込んだときのことは忘れられません。そのボールがロケットのようにネットの最上端に突きささった様は,今でも目に浮かびます。それから私は35ヤード走って,ゴールの後ろに立っているウォルブズのファンのところへ行き,握りこぶしを挙げて,今のようなゴールは見たことがないだろう,と言わんばかりの態度を執りました。観客は私の名前を繰り返し唱えて,それに応じました。

私は18歳未満の全英チームでプレーするよう幾度も選ばれ,最後には23歳未満の全英チームのナショナル側に選ばれました。多くの人は,私が正規の全英チームでプレーするよう選ばれるのも時間の問題だと言いました。

しかし,サッカーの花形選手になったところで,人生の真に個人的な問題が解決されるわけではありません。私のいけないところは反抗的な態度にあり,他の人にどんなことが起きようと自分の知ったことではないという態度を執りました。それが余りに過ぎたため,精神科医に診てもらうよう監督が取り決めてくれたほどでした。それでも私は変化しませんでした。そんなある日,ジーンと知り合い,私たちはほどなくして結婚することになりました。チームの監督は大喜びしました。結婚すれば,私も落ち着くだろうと思ったのです。

私がジーンを好きだったのは,ジーンがきれいだったからです。ジーンに言わせると,彼女が私を好きだったのは私がジーンを笑わせるからでした。しかし,私たちは互いに真の愛を抱いていたわけではありません。サッカーの花形選手とデートをすることと,そのような人と結婚することとは全く異質の問題だ,とジーンは言いました。数週間もすると,私たちの結婚生活には波風が立つようになりました。あるとき,怒りを爆発させて,ティーポットをジーンに向かって投げ付けたところ,それはももの部分に当たり,それからガラスのドアを粉々に砕いてしまいました。それに対してジーンは,はさみを持って来て,買ったばかりの私のスーツをずたずたに切り裂いてしまいました。私はジーンのもとを去ろうとしましたが,ジーンは,あなたがそんなことをするのなら自殺をする,と脅すことさえしました。

エホバの証人との出会い

結婚後二か月ほどして,ドアをノックする音がして,一人の男の人が自分はエホバの証人だと自己紹介しました。後日,その人がケンという名であることが分かりました。宗教関係の人だと分かるとすぐ,自分には関心がない,と告げました。しかし,私がドアを閉じる前に,その人は地が平和になるのを見たいと思うか,と尋ねました。その質問には答えませんでしたが,私は自分の父親と幼い妹がどのようにして死んだかを話して聞かせようという気になり,そうしました。

父は人望もあり,尊敬されていた人でしたが,わずか42歳でガンのために世を去りました。父の墓の傍らに立っていたときに,幾度もこみ上げてきたくやしさは今でも忘れられません。それからわずか二週間後,幼い妹が息を引き取りました。母は悲嘆に暮れてしまいました。また,当時11歳の少年だった私が死んだ赤ちゃんを腕に抱いて階段を上り,ベッドに横たえたことも忘れられません。どうしてこんな事が起きたのでしょうか。

ケンは,神がすべての事柄を正されると思うか,と尋ねました。私は,「そんなことは決してない」と断言したのを覚えています。するとケンはテモテ第二 3章1-5節を示しました。その中の一節,すなわち「人びとは自分を愛する者(となる)」という箇所が目に留まりました。私は,「今の人たちはそうなっている」と言いました。実のところ,「現にこの私がそうだ」とまで言いました。ケンはさらに,聖書が「終わりの日」と呼ぶ時代にどんな状態が広まるか説明しました。そして,翌週も話し合いを続けることを勧めてくれたので,私はそれに同意しました。私たちは,「とこしえの命に導く真理」という本の助けを借りて,聖書を研究するようになりました。ジーンは私が聖書を読んでいると考えただけでもおかしいという態度を執りました。しかし,四週目に,ジーンは通り掛けに一つの質問をし,ケンはそれに答えました。そこでもう一つ質問をし,そうこうしているうちにほどなくしてジーンも研究に加わりました。

やがて,ケンは王国会館へ私たちを招待するようになりました。非常に自己中心的だった私は,自分がどんな印象を与えるだろうかと考えました。初めて出席した集会の最中に,私は隣に座った人に自分ではひそひそ話と思えたぐらいの声で話し掛けたところ,会場整理係から,静かにしてもらえないだろうかと丁重に頼まれました。それも私のうぬぼれには何の影響も及ぼしませんでした。集会後,かなりの数の人がやって来て自己紹介をし,私の名前を尋ねました。私を知らないことにびっくりして,私はピーター・ノールズだと言いました。私がフットボールの選手だということも知らないのです。「どのチームですか」と尋ねられたときには,とうとう鼻をへし折られたような気がしました。ウルバーハンプトンの住人であれば,一人残らず私のことを知っていると思っていたのです。その夜の経験は,自分を正しく見つめさせてくれた数々の出来事の最初のものとなりました。

私とジーンは学び続けましたが,神の言葉を生活に当てはめることが問題でした。「あなたがたが怒り立ったまま日が沈むことのないようにしなさい」という原則が,私の家庭で実行されたためしはありませんでした。(エフェソス 4:26)なかなかくつろいだ気分になれず,いつもいらいらして,殺気立っていました。聖書研究の際も,一つのいすから別のいすへと席を変え,最後には,床の上に座り込むということがよくありました。フットボールをすると圧迫が加わり,その結果,神経が張りつめてジーンとのけんかになりました。サッカー界の花形選手であるということは,結婚生活に少しも資するところがありませんでした。

必要なときに与えられた愛ある援助

そのころの私たちに深い感銘を与えたのは,会衆の親切です。会衆の人たちはすばらしいもてなしの精神を示してくれました。フットボール選手たちとの交わりとは似ても似つかぬものでした。私たちは他のフットボール選手の家へ招かれたこともなければ,自分の家へ招こうという気持ちにもなりませんでした。しかし,私たちの学んでいる新秩序に住むことのできるような人がここにいたのです。

1968年から1969年にかけてのシーズンが終わると,私たちはシーズンオフを利用して,他の幾つかの英国チームと一緒に,サッカー振興のため米国でトーナメントをすることに同意しました。同国滞在中にもエホバの証人と連絡を取りました。そのうちの一人は,私たちが六週間カンザスにいたとき,幾度か集会に連れて行ってくれただけでなく,自発奉仕者たちが忙しくエホバの証人の大会の準備に携わっている事務所へも連れて行ってくれて,ことのほかよく面倒を見てくれました。今にして考えてみると,それは私の霊的な進歩にとって重大な時期でした。

二つの異なった生き方

帰国すると,新しいシーズンのためのトレーニングが始まっていました。一方,会衆はウェンブレー・スタジアムへ行くことを楽しみにしていました。フットボールを見に行くのではなく,エホバの証人の「地に平和」国際大会に出席するためです。その週のことは忘れられません。初めて大会に出席しただけでなく,フットボールの試合三試合に出場しなければならなかったからです。その際,更衣室の雰囲気と大会の家族的な霊とを比較するまたとない機会がありました。私は試合の時の観客を見,それからその人たちを,日曜日にエホバの証人の大会に出席した8万2,000人の人々と比べてみました。その週に,私はサッカーの花形選手としての生活と敬神の道との間にある大きな相違を,痛切に感じました。

それでもなお,私は自分がフットボールをすることと,エホバの証人になることとは矛盾しないと思っていました。ある晩,私のプレーを見に来るよう自分の会衆の主宰監督を招待しました。私たちのチームが勝ち,私はゴールを一度入れました。その晩の後刻,主宰監督が私の家に来て,少しの間談笑しました。最後に,その日の試合をどう思ったかと尋ねてみました。グラウンドにいるときの私は,王国会館の集会に出席している私とは別人のようだと言われてショックを受けました。私はどの試合の前にも冷静さを保てるよう助けてください,とエホバに祈っていることを説明しました。それでも,私はグラウンドで剣闘士のように振る舞うことがあると言われました。しかし,私は納得しませんでした。

その後,マンチェスター・ユナイテッドとの試合に出た際,観衆は私に大きな声援を送ってくれました。「ノールズへ渡せ,ゴールを入れさせろ!」と叫ぶのです。そして,私がゴールを入れると,観衆は熱狂して,それまで以上に私の名前を連呼しました。徐々にではありますが,会衆の監督の言う通りであることを悟るようになりました。観衆の多くは私を神であるかのように扱っていました。それは偶像崇拝の一種であり,それが間違っているのは分かっていました。それでもサッカーをあきらめ切れませんでした。ある試合の前にこんな風にエホバに祈ったのを覚えています。「二つを両立させられるよう助けてください。自制心を保てるようどうか助け,そしてエホバ,どうぞ3点入れさせてください。イエスのお名前を通して祈ります。アーメン」。しかし,心の中で,サッカーの花形選手としての日々は終わりに近づいていることを悟っていました。

私の選択 ― その結果

ある日,全国紙のスポーツ記者のインタビューを受けた際,私は引退を考えていることに少し触れました。その記者はあわててカメラマンを呼びにやり,翌朝のその新聞のスポーツ欄はそのことで持ちきりでした。「ピーター・ノールズ,エホバの証人になる ― 引退も考慮中」。その後,物事はとんとん拍子に進みました。エホバの証人になって,敬神の専念をもってエホバに仕えるなら,永遠の命の報いがもたらされることは分かっていました。サッカーの花形選手であることはそうした報いを決してもたらしません。そこで,私はわずか数週間ほど後のある日を引退の日と決めました。ノッティンガム・フォーレストとの試合が最後の試合になりました。

三週間後,私とジーンはエホバへの献身の表われとしてバプテスマを受けました。後日,約束を果たすため,肉親のシリルの記念試合に出たほかは,サッカー界に二度と戻りませんでした。

当時会衆には聖書の全時間の教え手が二人いたので,私たちはその二人に加わり家から家へ神の王国の良いたよりを宣べ伝える業に多くの時間を費やしました。私たちはしばしば家へ招じ入れられ,度々「真理」の本を配布しました。しかし,聖書について話すのは困難で,二年以上の間聖書研究を始めることができませんでした。どの人も,話したいと思っているのはフットボールのことばかりでした。フットボール界に復帰するよう私を説得するために数々の圧力が,様々なところからかけられました。しかし,もう一度ユニフォームを着てほしいという手紙に加えて,信仰を捨てないようにと励ます手紙が世界各地のエホバの証人から数多く寄せられました。私たちは,今や本当に世界的な兄弟姉妹たちの交わりの一部とされたことを膚で感じました。私たちはその中にとどまり,六か月しないうちに神の王国の良いたよりを宣べ伝えるために全時間をささげる特権を与えられ,そして九年後,私は会衆で長老として奉仕する特権を与えられました。

もしエホバに仕えるようになっていなかったとすれば,私とジーンはもう一緒に生活していなかったに違いありません。信仰によって,私たちは本当に結び合わされました。今では,将来の事柄を知っているので,満ち足りた気持ちでいます。もちろんいまだに浮き沈みはありますが,神のみ言葉の助言のおかげで,今では生じ得るどんな問題にも首尾よく対処できるようになりました。

私に深い感銘を与えた聖句の一つは,テモテ第一 4章8節で,そこにはこうあります。「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。「きたるべき命」については,父と幼い妹の両人が他の無数の人々と共に,近い将来,この地上に復活するのを楽しみにしています。「今の命」はと言えば,フットボールをしていた時期よりもはるかに満ち足りています。

プロ・フットボールの選手とクリスチャンという二足のわらじをはくことができると思う人もいるでしょうが,私にとっては不可能です。試合中に自制心を保つことは,不可能といわないまでも,困難なことです。試合は闘争心をむき出しにさせ,しばしば偶像崇拝を促進します。観衆が私の名を唱え,私をあたかも神のようにみなしていたときのことを思い起こすと,それがいかに危険をはらんでいたかがひしひしと感じられます。今では,足が地に着いてきたように思います。エホバへの崇拝によって,思いの平安と数多くの真の友を得ました。その崇拝のおかげで,自分自身だけでなく,妻を,そしてとりわけエホバ神を愛するよう助けられました。―マタイ 22:37-39。

私はサッカー界の花形としての生活を経験しました。しかし今,私は敬神の専念を全うする生活を送りたいとしか思いません。―寄稿。

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