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目ざめよ! 1981
目81 12/8 16–19ページ

今日の若い人々は神をどこまで信じているか

ドイツ,ウィースバーデン

1981年12月8日

親愛なるアラン君

手紙に書かれていた君の心配はよく分かります。宗教的な国に住み,神を信じるように育てられ,君自身若いので,ここドイツの多くの若者が神の存在を否定するということは,信じ難いことでしょう。少なくとも,君が最近読んだ記事は,非常に多くの若者が神を否定していることを示しています。

むろん,その記事に出ていたような世論調査による数字は,必ずしも,私たちが知る必要のある事柄すべてを教えてくれるとは限りません。ニューヨークに本拠地を持つある世論調査会社の社長は最近このように説明しました。世論調査の結果というものは,「大衆が……一つの問題に関してよく考えたかどうかについては何も語らない」。「人々が,考えを決める過程の漠然とした初めの段階にあるのか,思い惑う中間の段階にあるのか,決定的な最終段階にあるのかどうかを示す」ものではない。

しかし,ドイツの若い人々の間には(恐らく君の国でも同じだろうが),神への信仰が衰えているはっきりした兆候がみられます。私はドイツに住むようになってから,多くの若い人たちとこの問題について話し合ってきました。しかし,君に最新の資料を提供できるように,数人の友人に援助を頼み,幾人かの代表的な若い人々にインタビューしてもらいました。それによって私たちは,多くの若者が極めてはっきりした意見をもっている一方,神の存在についての考えを決めるのに非常な困難を感じている人もいることを発見しました。彼らの言うことには大いに考えさせられるところがあります。その一部をお話しすることにしましょう。

疑う人もいれば信じる人もいる理由

若い人々は神を信じられない理由として四つの基本的な点を挙げました。彼らに共通していた一つの理由は,「神を見たことがないから,神が存在するとは信じられない」というものでした。しかし15歳になるカトリック教徒のヨアヒムは,「自然界に見られるいろいろな物は,神の存在を信じる十分の理由になる」と言いました。ヨアヒムの級友のウルリケも,神は「そのみ手の業の中に見ることができる」と言って彼の説に賛成しました。

2番めの理由としては,「科学は神が存在しないことを証明した」というものでした。ただしその裏付けとなる証拠は挙げませんでした。これに対して他の若い人々は,「その逆で」,科学的調査により,宇宙内に「秩序と調和」の存在すること,「ひとりでには生じ得ない」「正確な働き」のあることが明らかになった,と言いました。十代のカトリック教徒サシャは,「すべてのものに始まりがあったことを科学が証明した」以上,すべてのものを出発させた偉大な第一原因,すなわち神が存在するに違いない,と論じました。

挙げられた別の理由は,主張というよりはむしろ不満でした。「みんな,神は助けてくれると言うけど,ちっとも助けてなんかくれない」と,ある少女は不満そうに言いました。これには全員が共鳴したわけではありません。次に挙げる例えは,彼女の論拠が薄弱であることを指摘するのに使えるでしょう。自分が助けを必要としているときに,友達や親せきがその助けを与えてくれないということは,私たちだれもが時々経験することではないでしょうか。助けてくれない理由はいろいろあるかもしれません。しかし,彼らが存在しないということがその理由の一つでないのは明らかです。もしかしたら,相手よりもこちらに落ち度があるのかもしれません。

4番めの理由はよく耳にする点で,「もし神がいるなら,神は戦争,殺人その他の恐るべき事柄を許さないはずだ」というものでした。ハンブルクに住む一人の学生は,「より高い力が存在するのであれば,なぜそのような事柄をその高い力は禁じないのか」と反論しました。その学生が次の事実を見逃していたことは明白です。つまり聖書によると,神はそのような事柄を禁止されたということです。しかしそれは,人間がそのような事柄をあえて行なおうとするのまで阻むものではありません。人間の不従順が問題であるのに,そのことから神は存在しないと結論するのは道理にかなったことでしょうか。ある子供が不従順であることは,その子に父親がいないことの証明になるでしょうか。

人々は時に,ひどい犯罪が行なわれているのをそばで見ていながら,それを防ぐ手を何も打たずにいることがあります。その行為が正しいかどうかについては人は疑問を持つことでしょう。しかしそのような傍観者の存在を疑うでしょうか。同様に,多くの人は神が悪の存在を許してきたのは正しいことかどうかについて疑問を抱くかもしれません。しかし,それは神の存在を疑う理由にはなりません。

この疑問を解くのは困難に思えることでしょう。しかしその答えは,いったん分かると十分満足のいくものです。その答えを得るには,神の支配の正当性と神の言葉の真実性に異議をさしはさむある論争が生じたことを理解しなければなりません。この論争を効果的に解決するには一定の期間が必要であることに気付けば,それも神が悪の存在を許しておられる理由を理解する助けになります。聖書のヨブ記(1,2章)はそれについてよく説明していると思います。

信じていても「揺るがない確信」ではない

多くの若い人々の意見にはあまり根拠がありません。神を信じていると言っても,その理由についてはかなりあやふやで,ただ「両親が信じているから」と言う程度です。神を信じていない若者たちもいます。彼らは大抵,「神について聞かされることに納得がいかない」と言います。しかし彼らは,聞いた事柄が本当かどうか調べたことがあるのでしょうか。この問題を深く考えることにどれほど励んできたでしょうか。

66人の学生からなるグループのうち29人は,両親が神を信じているかどうか知らないと答えました。察するところ,彼らの家庭では神は話題に上らないようです。この問題を深く考えたことがないために,それらの若い人々は依然として,「考えを決める過程の漠然とした初めの段階」にあります。

これは多くの大人についても言えることです。ドイツのデル・シュピーゲル誌に掲載されたある記事は,大多数のドイツ人の間に見られる信仰が,「信仰というよりもむしろ希望であり,揺るがない確信というよりは漠然とした憶測である」ことを認めています。それにしても,キリスト教国と言われる国になぜそのような状態が存在するのでしょうか。

「教会」―「神と人との間に割り込んでいる邪魔もの」

若い人々の多くは,神を信じることと,「組織宗教」を信ずることとを区別しています。事実,正統派の教会は自分たちの信仰を深めるようなことを何一つ行なってこなかった,と感じている人が少なくありません。ですから,過去10年間だけで,ドイツのカトリック教会とルーテル教会から200万人の会員が脱退したのも不思議ではありません。

政治学と歴史を専攻するある学生は,宗教的な雰囲気の中で育てられたにもかかわらず,「ただ自分でいろいろと考察して,神は存在するという結論に到達した」と答えました。これらの若い人々は事実上,「神はよいが,教会はいやだ」と言っているのです。

シュテルン誌は1968年にすでに,「ドイツ連邦共和国内のクリスチャンの3分の1は神[に対する信仰]を失う危険がある」と警告しており,「牧師たちがそれを手伝っている」と公然と非難しました。

確かにそうです。それは「神は死んでいる」という説を永年にわたり信奉してきた牧師たちです。“自分の手で成し遂げる”という「社会的福音」を不当に強調して,人間の諸問題に対する神の解決策である神の王国を無視した牧師たちです。神の名のもとに,不合理で明らかに非聖書的な教理を教えてきた牧師たちです。グループとしてお粗末な手本を示してきた牧師たちです。「教会さえも聖書にのっとっていない」と,北ドイツに住むある若者は言いました。ですからほかの人々がみなそうなるのは当然と言えるでしょう。

またある若者は怒りを込めて,「教会と関係のあるものは何でもいかさまだ」と言い放ちましたが,彼は多くの人を代弁していると思います。彼の言った「何でも」には,「神に対する信仰」も含まれています。教会は創造者を代表すると主張しますが,現実には創造者を誤り伝えてきました。そのようにして教会は,自分に属する多数の人々に,神の存在そのものを疑わせることに成功したのです。

このことは人の注意を引かずにはいませんでした。ハンブルクに住むある若いアフリカ人の学生は,裏切られたという気持ちをありありと目に浮かべ,激しい口調で,「あなたがたヨーロッパ人は全くずうずうしい! アフリカへやって来て,われわれをいわゆる異教から神の崇拝に改宗させたけれど,あなたがたのだれ一人その神を信じてさえいないことが今分かった!」と言いました。

カトリック教会とルーテル教会は,失った教会員を取り戻そうとして,宣伝活動を行なうことを真剣に考慮しています。それが行なわれるとなると,雑誌の読者たちは,せっけんや歯みがきの広告の中に,教会をスポンサーとする,「信仰を売る」ための広告を目にすることになるでしょう。新聞の報道によると,宣伝活動の準備にあたっている広告の専門家たちの意見は,「『福音』は,今日の人々の言葉ではなく,一昔前の装いで売られている」という点で一致しています。この欠点を正すために,彼らはその製品を売るための巧みな宣伝文句と魅力的な絵を準備しました。

しかし,魅力的な包装によって信仰を売ろうとしても,あまり効果はありません。包装よりも大切なのは製品そのものです。人々,特に若い人々は,自分たちが何を信じるべきか,なぜそれを信じるべきか,それを信じることがなぜ道理にかなっているか,それを信じることからどんな益が得られるか,といった事柄を知ろうとします。簡単に言えば,彼らは自分たちの疑問に答えてもらいたいのです。

キリスト教世界の教会とその牧師たちは,神の言葉から明快で率直な答えをお与えになったイエスの優れた模範に倣わずに,回りくどくて歯切れの悪い説明の仕方をするので,広告の専門家の一人は,「教会は神と人との間に割り込んでいる邪魔ものだ」と言いました。

若い人々を援助すると信仰が強くなる

エホバの証人は,キリスト教世界の教会の僧職者が失敗したことを成し遂げるべく,一生懸命に努力しています。探求心のある若い人たちの質問に対し,神の真理の言葉に答えさせることによって,エホバの証人は成功を収めています。次に挙げるのは,現在エホバの証人になっているある人の体験談ですが,これは多くの経験の代表的な例と言えます。

「私は,学校と堅信礼を受けるためのクラスに通っていたとき,牧師に様々な質問をしましたが,それに対しては,不正確で満足のいかない答えを与えられるか,あるいは全く答えてもらえないかのどちらかでしたから,そのころは,神の存在を否定することはできず,かといって全く確信しているとも言えない状態でした。しかし私はこの問題について少し考えてみました。そして,結局のところ,神と聖書についての見方は,学問のある神学者たちでさえまちまちではないかと考え,『もし大学で神学を勉強する僧職者たちが聖書を理解できないのであれば,聖書は理解できない本,それ自体が矛盾している本なのだ』と,私は信じ込むようになりました」。

この言葉は,今日の多くの若い人々が感じていることをよく表わしています。信じたいという願いを持ち,また信ずる必要のある人たちは少なくありませんが,多くの場合,信ずるための論理的な根拠を持っていないのです。彼らは依然として,「考えを決める過程の漠然とした初めの段階にある」のです。エホバの証人になった理由を説明したある青年の次の言葉がそのことをよく示しています。

「神の存在を疑ったことはありませんが,地球や人類に対する神の目的がどこにあるかは,分かりませんでした。人生の真の意義については私は全く暗やみの中にいました。それで毎週私のところに来てくれたエホバの証人に次々と質問を浴びせました。特別にむずかしい質問を考え出して,これにはきっと答えられまいと思いました。ところがそうではなかったのです。彼は少しもいらだつことなく,それぞれの質問に対して聖書から答えを示してくれたのです。彼のように聖書の意味を説明してくれた司祭は一人もいませんでした」。

聖書の答えが,神の存在に対する人の信仰を強め,神が間もなくご自分の王国によって人類の諸問題を解決すべく介入されるという確信を人に与えるのを聞くのは,本当にうれしいことです。ここドイツには,神の存在を信じない若者も多くいますが,それを信ずる若者もまた多いということを聞くと,アラン君,君もきっとうれしいでしょう。依然として,「考えを決める過程の漠然とした初めの段階」,あるいは「思い惑う中間の段階」にある多くの若い人々,また「揺るがない確信」というよりも「漠然とした憶測」のような信仰を持つ人々も,エホバの証人が無料で提供する優れた教育の機会を活用して,聖書について持っている疑問の答えを見いだしてほしいものです。

紙とペンでの会話でしたが,君と話し合えたのはうれしいことでした。お便りを待っています。クリスチャンの愛による温かいあいさつを送ります。

[著名 ヨハン]

[18ページの拡大文]

教会は多くの人に信仰を失わせている

[19ページの拡大文]

『私の所に来たエホバの証人は,私が尋ねた質問に対して,それぞれ聖書から答えてくれた』

[16ページの図版]

「私は神を見たことがない」

[17ページの図版]

「神は私を助けてくれたことがない」

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