『自分の人生をどう生きるか』
中年の人に,「どんな人生を送りたいと思っておられますか」と聞けば,相手の人は大抵当惑した表情をするでしょう。大人はほとんど,毎日の生活の決まりきった事柄に埋没しており,そんなことはあまり考えていないでしょう。どんな人生を送りたいのかをはっきり見極めたことがなかったのかもしれません。そのような人々はもはやそうした質問に関心がありません。そのような質問を真剣になって考えると“中年の危機”を身に招くことになりかねないと考え,そうした質問に幾らかおびえてさえいるかもしれません。
若い人々の場合には異なります。「どんな人生を送りたいと思いますか」という質問は,たとえ答えが定かではないとしても,若い人々にとっては差し迫った問題です。ですから,若い人々が“人生の意味”を見いだすことについて年配の人々よりもはるかに深い関心を抱く場合が多いのも驚くには当たりません。しかし,どこに人生の意味を見いだせますか。
教育に答えがあるか
若い人であれば,自分の時間の多くを学校で過ごします。そうであれば教育が何らかの仕方で人生の意味を示してくれると考えるのは自然なことですが,そのような希望は大抵失望に終わります。一人の優等生はこう語っています。「大学に入った時,自分が人生に新たな才能,新たな能力,新たな業績を加えることになると思っていました。ところが,私の取った課程の一つ一つ,読んだ良書の一冊一冊,真剣に考慮した概念の一つ一つが私から何かを奪ってゆきました。何もなくなるまで,すべてがなくなるまで皮が一枚また一枚とはがれてゆく玉ねぎのような気がしました」。
一体どうしたのでしょうか。この学生は人生の意味を見いだすどころか,様々な論議とそうした論議と同じほどもっともらしい反論とにもてあそばれ,自らの立場を失ってしまったのです。かつて抱いていた信念に対する信仰を失ったこの学生は,それに代わるものを何も得られず,人生には意味がないという結論を出しかかっていました。
これは今から3,000年ほど前に行なわれた次の非常に鋭い観察を思い起こさせます。「多くの書物[あるいは,「意見」]を作ることには終わりがなく,それに余りに専念すると体が疲れる」。(伝道之書 12:12,新)人間の作り出した『偉大な書物』,『偉大な思想』に人生の意味を見いだそうとしてもざ折に終わります。学生たちがすぐに気付くように,そうした書物や思想はどこまでいっても互いに矛盾しているからです。
科学は希望を差し伸べるか
「いよいよ複雑さを増す社会問題すべての確かな解決策として,ほんの数年前には歓呼して迎えられた科学や科学技術は,今日いずれも難しい事態に置かれている」と,広い読者層を持つ科学随筆家ルイス・トーマス博士は認めています。ノーベル賞受賞者マックス・デルブルックはさらに率直に,「科学が我々の諸問題を解決することにならないのは明らかである」と述べています。
今日の大人たちは,「化学によってより良い生活」というような楽観的なスローガンを聞いて育ってきました。一方,若い人々は科学の暗い側面を見て成長してきました。最近,一大学生は担当の教授にこう書き送りました。「だれもが口をそろえて自然の神秘への新たな突破口について語っている。しかし,私はなぜかそれを受け入れることができない。突破口,突破口 ― それは我々をどこへ導くのだろうか。原子爆弾,汚染,恐ろしい薬物。科学の最前線とはこうしたもののことなのだろうか」。
その学生はさらにこう書いています。「倫理と科学的知識の間のギャップに関するお決まりの答えはご免こうむりたい。そうした答えは何回となく聞いている。我々の科学は良いものだが我々の倫理は悪い,と人々は信じている。これこそ正に私が受け入れられないことなのである。私は狂っているのだろうか。そもそも,道徳と知識とはそのように分けられるものなのだろうか」。
この若い学生は重要な点を指摘していました。核物理学の知識が原子爆弾を製造するのに用いられた場合のように,道徳の伴わない知識は,はなばなしい発明を生み出すかもしれませんが,そうした知識は希望を差し伸べるでしょうか。それは人類に生きる理由を与えるものとなりますか。それとも,人類が自滅して果てる可能性を高めるにすぎないでしょうか。
「今後の歴史の歩みは科学の分野の今後の発見によってではなく,人間の価値観に関する問題……によって決定されると私は思う」と,デルブルック博士は述べています。言い換えれば,正邪の区別をわきまえるほうが,より性能の高い爆弾を製造する方法をわきまえるよりも大切であるということです。
しかし,今日の世界は正邪よりも爆弾のほうにはるかに深い関心を抱いているようです。若い人々はそれを感じ取り,その結果正しい事を行なおうとしなくなることがあります。一人の少年はこう書いています。「僕は15歳です。マリファナも吸いませんし,覚せい剤もやりません。でも試してみたいという気持ちになったことは何度となくあります。また,物を盗んだり乱暴なことをしたり他の人を傷付けたりしないようにしています。……つまり,これまでずっと正しい事を行なうよう努力してきたのです。そして数か月前になって,そうしたところで何ら変わりがないことに気付きました。僕がどんな生き方をしようと,それは物事のあり方を変えることにはならないのです。今では生きていようと死んでしまおうと構わなくなりました。大人は僕たちがどうして“自分たちの人生をだめにしてしまう”のか理解できないようですが,実際にはもうどうでもよくなったのです」。
宗教は助けになるか
人々に正邪を教えるのは科学ではなく,宗教の仕事であるという論議はしばしば聞かれます。しかし,今日の若い人々は宗教の行なっている事柄にそれほど満足を覚えてはいないようです。1万人の若者を対象に調査を行なった英国の一僧職者は,同国の若い人々の間で信仰心が急速に失われつつあることを知りました。米国の場合,十代のアメリカ人の大半は神を信じているとはいえ,そのうちの4分の3は組織宗教に対して強い確信を抱いていないことを最近のギャラップ調査が示しています。
どんな事柄がこれらの若者たちを悩ませていたのでしょうか。「キリストが愛を示した人々に諸教会が真に仕えようとしていないこと……非常に多くの教会員の浅薄で見せかけだけの姿勢,信仰の基本を扱い,強固な霊的土台に基づいて若者に訴える面での会衆の無力さ,教会内の交友に刺激や温かみを感じさせるものがないこと,任に当たっている僧職者に対する否定的な感情」などを調査員たちは挙げています。意義深いことに調査員たちはさらにこう述べています。「ヤングアダルトの10人中4人までが僧職者の正直さや個人的な倫理規準は“ごく普通”,“低い”あるいは“極めて低い”と述べている」。
科学にも教育にも宗教にも不信感を抱いているのであれば,今日の若い人々の多くが途方に暮れているのも少しも不思議でないのではありませんか。若い人々は将来にどんなことを予期しなければならないのでしょうか。一人の母親はこう書いています。「十代という題目で娘に意見を求めたところ,娘は快活に,しかも即座に“十代は明日のしかばね”という引用句を示しました」。スイスのローザンヌ地方に住む19歳の若者はそのことを次のように言い表わしています。「どうして父のようにあくせく働かねばならないのか。どうせみんな数年後に死んでしまうなら,少しは楽しんだってよいではないか」。
若い人は浅薄で物質主義的だとしばしば非難されます。しかしその若者たちの幼いころからテレビは即座に満足を得ることの美徳をふいちょうしてきました。確かに,若者たちの受けた“教育”を考えれば,今日の若者が物質主義的でない方が不思議です。一方,今日の若い人々は高潔で自己犠牲的になるようどこから励ましを得るでしょうか。テレビからではありません。世の政治および実業界の指導者の模範からでもありません。大宗教からでもありません。では,どこからですか。
人間の創造者からの助け
何かを信じたいと考えるのは愚かなことだという結論に達した若者もいます。コロンビア大学の一学生は,「人間は根本的に自分のことに関心がある」と言っています。しかし,そうした態度は本当に幸福に導くものとなるでしょうか。若い人であれば,利己的な生活を送っていて幸福になれると本当に思っていますか。あなたが知っている利己的な人々はどうですか。そうした人々は本当に幸福ですか。賢人が述べるように,「ただ銀を愛する者は銀に満ち足りることなく,富を愛する者は収入に満ち足りることがない」のです。(伝道之書 5:10,新)どうしてですか。
人間が衣食住など物質の必要を持つ者として造られているのと全く同様,人間には霊的な必要もあるのです。金銭はこの必要を満たすことができません。『人生の意味』を理解したいという,若者の感じるばく然とした,それでいて根強い必要は,霊的な必要の一つです。無私の愛を与えまた受けるという必要もやはり霊的な必要です。テレビのコマーシャルが何と言おうと,こうしたものはお金で買うことができません。
しかし,人間に霊的な必要があるからといって,それを満たす資格が人間にあるという意味ではありません。若い人であれば,自分に衣食住の必要があっても,ご両親ほどそれを満たす備えが自分にはないことを認識していることでしょう。同様にわたしたちの霊的必要を満たす点で最も優れた備えをしておられるのはわたしたちの天の父です。天の父こそ人間をそうした必要を持つ者として造られた方であることを忘れてはなりません。
でも,どのようにしたら創造者と“接触を持ち”,自分の霊的な必要を満たすことができるでしょうか。過去10年間に,大勢の若い人々はキリスト教世界の主流をなす諸教会に幻滅を感じ,他の宗教組織に加わりました。それらの宗教の中には,統一教会のようにクリスチャンであると唱えるものもあれば,一方,“神の光伝道団”(DLM)のようにクリスチャンであるとは唱えない団体もあります。それらはいずれも若い人々の霊的必要を満たすことができると主張していますが,本当にその追随者たちが創造者に近付けるよう助けているでしょうか。その多くは創造者の存在さえ教えておらず,ばく然とした“第一原因”について語るにすぎません。創造者を崇拝するととなえる宗教でも,創造者には名前と人格があることを追随者に教えている宗教がどれほどあるでしょうか。
預言者アモスはこう述べています。「見よ,山々を形造った方,風を創造した方,地の人にその思っている事柄を告げる方,あけぼのを薄暗がりに変える方,地の高い所を踏み進む方,万軍の神エホバがそのみ名である」― アモス 4:13,新。
エホバこそ,わたしたちの霊的必要を満たす点で最も優れた資格を備えておられるわたしたちの創造者のお名前です。上記の聖句の中で,エホバが人類にご自分の意志を知らせることに関心を抱いておられるのに気付きましたか。神は喜んで,『ご自分の思っている事柄をわたしたちに知らせ』てくださいます。「今日の英語聖書」はこの箇所を,「神はご自分のお考えを人に知らせる」と訳出しています。
エホバ神を知り,そのお考えを調べることにより,『自分の人生をどう生きるか』という質問に対する優れた答えを得ることができます。正にそのことを行なった若者たちについて知りたいと思いますか。
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「原子爆弾,汚染,恐ろしい薬物。科学の最前線とはこうしたもののことだろうか」
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『人生の意味』を理解したいという,若者の感じるばく然とした,それでいて根強い必要は,霊的な必要の一つです
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「どうしたら創造者と接触を持てるだろうか」