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目ざめよ! 1984
目84 10/8 20–23ページ

核時代の罪のない犠牲者たち

グアム島の「目ざめよ!」通信員

それは1946年7月1日,月曜日のことでした。ハワイの南西約3,200㌔の洋上に浮かぶマーシャル諸島の中の,あまり名の知られていなかったある環礁で,目のくらむような爆発が起こり,光輝く静かな礁湖は破壊されてしまいました。放射能を含むきのこ雲は10㌔上空まで舞い上がり,ビキニ環礁は最初の平時核実験場として一躍有名になりました。

ビキニ環礁には,775平方㌔の楕円形の礁湖の周囲に大小幾つかの島々があります。広島と長崎の2都市が原子爆弾によって破壊されてから5か月後に,米国政府は,さらに核実験を行なうための場所としてビキニ島を選び,そのことを米国内で公表しました。しかしビキニの島民が,立ち退かなければならなくなるということを知らされたのは,それから数週間後のことでした。

167名の島民は島を出ることをいやがりましたが,この実験は「人類のためになるもの,世界大戦が二度と行なわれないようにするもの」であると言われて,島を出ることを承諾しました。やがて何千人もの軍関係者や科学者,何百もの船や飛行機などが,ヤシの木の茂るこの環礁にやって来るようになりました。その間に,ビキニ島の人々は悲しい気持ちで故郷を離れる準備を整え,長いさすらいの旅に出ました。多くの人にとってその旅はまだ終わっていないのです。

実験が終わったら戻れると言われていたので,ビキニ島の人々は,200㌔東にあるロンゲリク島を選んでそこに落ち着きました。しかし,ロンゲリク島はビキニ島とは比較になりませんでした。それまで無人島だったこの環礁は17の島から成り,陸地といえばわずか1.3平方㌔しかありません。これに比べるとビキニ島の場合は6平方㌔ありました。礁湖の広さは142平方㌔で,ビキニ島の775平方㌔の礁湖とは比較になりません。一つしかない井戸からは塩水しか出ないし,ココナッツは質が良くありません。ビキニ島では食べられた色々な魚が,ロンゲリク島では有毒で食べられませんでした。それでビキニ島の人々は,その島に来てから2か月もたたないうちに,ビキニ島に帰らせて欲しいと頼みました。不幸にしてそれは不可能でした。

近くのロンゲラプ島の人々は,彼らの窮境を耳にし,舷外浮材の付いたカヌーで魚その他の食物を運び,援助を試みました。それでもロンゲリク島の状態は悪化する一方でした。しかも悪いことに大きな火事があって,実のなるココヤシの木の30%が焼けてしまい,食糧不足は一層深刻になりました。その後2年ほどの間に数回医学上の報告が行なわれ,ビキニ島の人々が「飢えに苦しむ人々」であること,また彼らがロンゲリク島から引き揚げることが「遅くなり過ぎていることが」確認されました。

それでビキニ島の人々はついにまたその島を立ち退き,やはりマーシャル諸島にあるクワジャリン島の海軍基地に作られた一時的なキャンプに移りました。それから数か月後,投票の結果その人たちはキリ島へ移住することになりました。キリ島は面積がわずか0.86平方㌔の孤島です。しかし一つ良いところがありました。つまりその島にはだれも住んでいなかったということです。なぜそれが重要なことだったのでしょうか。

マーシャル諸島の人々は,自分たちの社会集団が住んでいる環礁以外の環礁には土地の所有権を持っていません。また,ほかの国の人々のようには土地の売買を行ないません。陸地や海から生活を支えるものを得られるので,他の島の人々が住んでいる所に居を構えるのを好みません。無人島でもない限り,どの島に行っても貧しい親戚のような立場を占めることになり,その島の人々の善意に頼ることになります。ビキニ島の人たちはそれを望まなかったので,キリ島へ行くことにしました。

しかしキリ島の生活状態は思わしくありませんでした。この島は深い海の中にそそり立つ狭い岩棚で囲まれています。ココナッツはよく育ち,雨も十分に降りますが,波は岩棚に直接当たって砕けるので,さんご礁の魚や貝類が取れません。荒波を乗り切ってカヌーを出す方法がないので,カヌーは無用の長物です。貿易風の季節には,海が非常に荒れるために,物資を運ぶ船は島まで来ることができません。今マジュロ島に住んでいるあるビキニ島の人は次のような感想を述べました。「ロンゲリク島とキリ島での生活はそれはひどいものでした。どちらも非常に小さな島で食物も十分になかったために,刑務所に入っているよりもひどい状態でした」。

その間に……

その間に,やはりマーシャル諸島の中にある,40の小島から成るエニウェトクという名の環礁が,別の核実験場として目をつけられていました。そのために島の住民はその島を立ち退かされ,200㌔南西にあるウジェラング島へ送られました。ところが,ビキニ島の人々もたまたまこの島を選んでおり,既にその島に自分たちの住む新しい家を建てていました。そこへ,ほとんど何の知らせもなく,当局者はエニウェトク島の住民を連れて来て住まわせたのです。これにはビキニ島の人々も非常に苦々しい思いをしました。

それから水素爆弾の登場です。1952年にエニウェトク島で最初の水爆実験が行なわれました。一つの島と,ほかに二つの島の一部が完全に蒸発してしまいました。ひどい災害をもたらしたのは,1954年3月1日にビキニ島で行なわれた実験(皮肉なことにブラボーと呼ばれた)でした。公表された中では最大のものであるこの水素爆弾は,最初ビキニ島に投下された原子爆弾の700倍の威力を持つものだったようです。目のくらむような光が走ったかと思うと,それに続いて,何千万度もの高熱の火の玉が時速480㌔ほどの速さで上昇しました。それから何分もたたないうちに巨大なきのこ雲が3万500㍍の上空まで立ち上ったのです。

時速数百キロの爆風が礁湖に吹きつけました。ビキニ環礁のサンゴ礁やサンゴ島,礁湖などが粉砕され,何億トンにも上るものが空中に吸い上げられました。死の灰は上空の風によって130㌔先まで運ばれ,日本漁船福竜丸の乗組員23人の上に雪のように降りそそぎました。160㌔以上離れた,住民のいるロンゲリク環礁とロンゲラプ環礁 ― それらの島の住民はビキニ島から来た人々に対してとても親切だった ― にも,じゃりじゃりした死の灰が5㌢ほど降り積ったのです。440㌔ほど離れたウティリク環礁では,その灰は霧状になって降りました。合計11の島と三つの環礁が直接に影響を被りました。

その後間もなく,日本人の漁船員とウティリクおよびロンゲラプ島の人々に,ひどい被爆の影響が現われ始めました。皮膚がかゆくてひりひりし,吐き気を感じ,おう吐しました。日本漁船の乗組員の一人は間もなく死亡し,日本政府はその後2年以内に,病気になった他の乗組員に対する補償,またマグロ漁業が受けた被害の賠償として200万㌦を受け取りました。

実験が終わった時には,18キロ㌧から15メガ㌧の核爆発が既にビキニ島で23回,エニウェトク島で43回行なわれていました。中断期間もありましたが,一連の実験が始まってから平均して1日おきに1個の核兵器を爆発させていたことになります。

次に来たもの

実験が終了してからしばらくして,ビキニ島の人々はこれで自分たちの島に戻れるとだれもが考えていました。1969年に,米国の原子力委員会による初めての調査が行なわれ,ビキニ島の安全が宣言されました。実験によってできたがれきはすべて,1㌔余り礁湖の中に入った所に,3か所に分けて捨てられることになっていました。「放射能はほとんど残っていない。植物にも動物にも目立つ影響は見られない」とビキニ島の人々は言われました。8年にわたる清掃と再定住が計画されました。

しかし長い間の夢は悪夢に変わりました。戻ってみると,立ち退いた時の緑に覆われた島々の姿はそこになく,破壊された環礁は密生する役に立たない低木と,わずかの樹木と,実験でできた何トンものがれきとで覆われていました。ある人々は慟哭しました。それでも,経済援助を得て,またココヤシの木や他の作物を植え,家を建てることに取り掛かりました。

しかし,彼らの問題はそこで終わったわけではありません。1972年と1975年に行なわれた放射能テストで,最初考えたよりも多量の放射能のあることが分かったのです。幾つかの井戸は放射能が多過ぎて飲料水としての用をなしませんでした。ある食物は食用にすることを禁じられました。人々の体にも多量の放射能が発見されました。そこでもう一度ビキニ島民は島を立ち退いてキリ島に戻りました。300万㌦の復興計画の一部であった5万本のココヤシの木と40軒の新しい家が放棄されたのです。1983年4月に行なわれたビキニ島の科学調査が示すところによると,大々的な清掃でもしない限り,ビキニ島に人が住めるようになるまでには少なくとも110年かかるということです。

他の犠牲者についてはどうか

1958年に18キロ㌧の爆弾を爆発させた時には,連鎖反応が起こらなかったために,死を招くプルトニウム237が,エニウェトク環礁の40の島の中の一つであるルニト島を覆いました。破片は後程集められ,爆弾の爆発でできた穴に埋められ,その上に幅113㍍,厚さ48㌢のコンクリートのふたが置かれました。そのふたは,世界で最も危険なものに数えられる廃物8万4,000立方㍍を覆っているのです。ある報告によると,そこは「永久に」,しかも完全に立ち入り禁止になるだろうということです。その環礁の中で住居として使える島は三つしかありません。そして食物は,その土地に植えたココヤシやパンノキ,クズウコンなどが生長するまで,輸入食糧が主になります。1980年には500人がエニウェトク島に戻って来ましたが,2年もたたないうちに,そのうちの100人が生活苦のために島を離れました。清掃と復興には2億1,800万㌦(約523億2,000万円)の費用がかかるということです。

一方,放射性降下物を浴びた環礁では,甲状腺異常,白内障,発育遅延,死産,流産などが住民の間に見られ,その率はマーシャル諸島の他の島々に住む人々の場合よりもはるかに高いものがあります。1954年に行なわれた“ブラボー”の実験の時に被爆したのは250人でしたが,そのうちの多くに甲状腺腫ができており,250人全員に甲状腺の異常が見られます。その人たちは風邪やインフルエンザやのどの病気に普通以上にかかりやすく,ほとんどの人がすぐに疲れを覚え,大抵の人が自分の健康のことで心配しています。

政府のある指導者は,「被爆した人はだれもが,『明日も元気でやれるだろうか,正常な子供が生まれるだろうか』と自問します。そして病気になったらなったで,『これは普通の病気なのだろうか,それともあの爆弾の亡霊が何年もたった今私の命を奪いに来たのだろうか』と自分に尋ねるのです」と言いました。ウティリク島に住むある男の人は,「私も何人か子供を亡くしました。産まれた時は健康だったのですが,1歳にならないうちに死んでしまうのです。……全部で4人亡くしました。息子のウィントンは核爆弾の実験の丁度1年後に産まれたのですが,甲状腺のガンで既に2度も手術を受けています」と悲しそうに話しました。

「望みを得ることが長びくときは……」

島を離れてさすらいの生活をするビキニ島の人々の将来はまだ定かではありません。最近ではハワイへの移住を望んでいるので,米国政府はそのことを考慮しています。ほとんどの人はまだキリ島に住んでいます。彼らの体験は,核軍備競争がいかに悲劇的なものであるかを実証するものです。核軍備競争は人類が供給できるよりもはるかに多くのお金と努力を要し,平時においてさえ犠牲者を出し,核上位を競う大国からははるかに遠く離れた所に住む,罪のない傍観者たちまで巻き添えにします。

聖書には,「望みを得ることが長びくときは,心を悩ます」とあります。(箴言 13:12,日本聖書協会 口語訳聖書)ビキニ島の人々が人間に頼って経験してきたのはこのことです。しかし,これまで何年もの間,真の安全をもたらすものとして,軍備競争ではなく神の王国に注意を引く音信が,マジュロ島からマーシャル諸島全域にラジオで放送されてきました。神の王国こそ本当に「人類のためになるもの,世界大戦が二度と行なわれないようにするもの」です。間もなくその王国は「地の果てに至るまで戦いをやめさせ」,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせ」ます。―詩編 46:9。啓示 11:18。

キリ島に住んでいるビキニ島の人々は,物資を手に入れるために,あるいは仕事でマジュロ島に来る時,その島にいる多数の活発なエホバの証人から個人的にこの音信を聞きます。王国が楽園の状態を地に回復する時が非常に近いということについての知識は,先に述べた聖書の節の後半を経験するのに役立つでしょう。それは,「願いがかなうときは,命の木を得たようだ」という言葉です。その王国の支配下には,もはや核の脅威はありません。したがってその犠牲者もいないのです。

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