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目ざめよ! 1992
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若い人は尋ねる…

応援集会に行くべきだろうか

『ファイト,ファイト!』『行け,行け,行け!』 かけ声が何度も繰り返され,宗教的熱情に近い気勢が上がります。音楽のビートと激しいドラムの音が絶え間なく響き,それに合わせて体育館が揺れます。カラフルなコスチュームを着けた女の子や男の子が声援や応援歌をリードしながら,アクロバットのような妙技や熱狂的な振りで仲間たちを魅了します。チームの監督やコーチは自信たっぷりに必勝を宣言します。そこへ,耳をつんざくようなファンの声援を受けながら自校のチームが登場します。生徒は全員駆り立てられて,まるで我を忘れたようになり,その興奮は頂点に達します。皆,勝利を信じて疑いません。

多くの学校では,応援集会は待ちに待った行事です。様々な学校行事に対する気勢を盛り上げるために時々いろいろな集会が開かれますが,応援集会はフットボール,サッカー,野球,バスケットボールなど,近づく学校のスポーツ行事に関連して開かれます。多くの若者にとって,応援集会には,決まりきった学校生活の息抜き以上の意味があります。学校代表のチームになくてはならない応援をし,花形選手に声援を送り,勝利に向けてチームを激励するチャンスです。また応援集会には,愛校心や生徒同士の連帯意識を燃え立たせる目的もあります。

もちろん,すべての生徒がスポーツに関心を持っているわけではありません。応援集会の活気と大騒ぎと興奮を楽しむだけの生徒もいます。「羽を伸ばして,気違いじみたことをする時さ」と一人の若者は言いました。スポーツの集会は授業を休む時,また自由に異性とつき合えるチャンスと考える生徒もいます。ある十代の少年は,「ボーイフレンドやガールフレンドが集まる時です」と言います。

いずれにしても,多くの教育者たちは,学校のスポーツ行事に参加することは教育の中で非常に重要な部分であると考えています。バーバラ・メイヤーは,「高校で生き残るための導き ― 生徒のための成功の手引き」という本の中でこう書いています。「観客席に座ったり自分の学校を応援したり……することなく高校生活を終える生徒はみな,……しばらくの間しか経験できない極めて楽しい時と成長のための絶好の機会を,みすみす逃している」。ですから,正規の授業を削って応援集会を開く学校があるのも不思議ではありません。

学校でそのような行事が行なわれるとき,あなたも出席を考えたことがあるかもしれません。事実,そうするよう圧力を受けることもあるでしょう。出席しないと,たぶん他の人たちから気取っているとか裏切り者などとばかにされるでしょう。それでも,クリスチャンの若者が出席すべきでない十分の理由があるのです。

熱意か,それとも熱狂か

聖書はスポーツに反対しているわけではありません。聖書は,「体育には多少の価値がある」ことを認めています。(テモテ第一 4:8,今日の英語訳)多くのクリスチャンは老いも若きも,観戦したり参加したりして,いろいろなスポーツを楽しみます。節度を保つ限り,スポーツは楽しく,有益なものとなります。a

しかし,応援集会はスポーツに対する健全な熱意をはなはだしい熱狂に変えてしまうことがあります。「古代世界のスポーツ競技」という本によると,古代ローマのローマ風競技会の際には,「狂ったような拍手,叫び,声援があふれて」いました。それで,「必然的に熱狂が広く見られた」のも驚くべきことではありません。剣闘士の闘いの間,「観衆は,『殺せ! 打て! 突き刺せ!』と叫び声を上げ」,自分たちが冷酷にも同じ人間を殺すことをせき立てているという事実に全く無感覚になっていました。

スポーツに対する熱狂は今でも見られますが,やはり健全なものではありません。ヨーロッパで行なわれたサッカーの試合でファンの暴力行為のために38人の死者が出た後,ディスカバー誌は,群衆の中にいることから生じる,「だれがやったか分からないという感覚」がその原因ではないかと述べました。そのため人は自分の行動にあまり責任を感じないのです。しかし,聖書は出エジプト記 23章2節で,「よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない」と警告しています。でも,ただ自分のチームを応援して声援を送るのが本当にそれほど悪いことなのでしょうか。そのとおりです。ディスカバー誌は,「スポーツ行事で応援したり叫んだりすることは,言葉による攻撃と言える。人によっては,うっかりするとそれが体を使った攻撃になりかねない」と述べています。

では,対戦相手をやっつけるよう選手を激励する独特の応援文句を繰り返すことには何か有益な点があるでしょうか。若いジェラルドは以前出席していた応援集会を思い出してこう言います。「集会では荒々しい叫び声が響き,群衆は時々手がつけられないほど乱暴になりました。集会というより,暴動をあおる戦いの儀式のようでした。『殺せ』,『踏みつけろ』,『倒せ』などという言葉が終始飛び交いました」。時には,言葉が行動になって表われました。若いペリーが覚えている応援集会では,「全員が棒を手にして,相手チームのマスコットの模型をさんざん殴りつけた結果,マスコットはずたずたにされてしまいました」。

伝染性のあるそのような暴力的な精神に影響されない人がいるでしょうか。ですから,「悪い交わりは有益な習慣を損なう」との聖書の警告には十分の理由があるのです。(コリント第一 15:33)ある若い生徒が認めているとおり,「ほかのみんながしていることをするよう影響されずにいることはできない」のです。また,もし実際に暴力行為に荷担すれば,深刻な結果を招きかねません。古代エドム人が,エルサレムを略奪するバビロニア人に声援を送ったことを思い出してください。エドム人は,「それをさらけ出せ。その中の基までもさらけ出せ」と叫びました。(詩編 137:7)しかし神は,彼らの復しゅう心に燃えた暴力的な精神を徹底的に糾弾されました。(オバデヤ 1:1,8,12)今日それと似たことを行ないながら,神の不興を買わずにいられるでしょうか。

確かに,すべての応援集会 ― そしてすべてのスポーツ行事 ― が暴力的なわけではありません。しかし,たとえ全体的にある程度のまじめさが見られる場合でも,学校やチームに対する熱狂的な忠節心や,場合によっては崇拝にも似た態度さえ表わす言葉を繰り返し口にするのは,クリスチャンにふさわしいことでしょうか。(出エジプト記 20:5と比較してください。)挑発的なことばをわめくのはエフェソス 4章29節と31節の助言と調和しますか。そこにはこう書いてあります。「腐ったことばをあなた方の口から出さないようにしなさい。……すべて悪意のある苦々しさ,怒り,憤り,わめき,ののしりのことばを,あらゆる悪と共にあなた方から除き去りなさい」。感情に訴える集会に出席することは,「温和」や「自制」を含む,神の霊の実を培う助けになるでしょうか。(ガラテア 5:22,23)それとも,激しい競争心という不敬虔な精神がかき立てられるだけでしょうか。―フィリピ 2:3と比較してください。

もちろん,状況はひとつひとつ異なります。時には,学校の集会に出席することが義務づけられていて,応援集会が授業の一部になっていることもあります。応援集会そのものの性格や内容にも違いがあるかもしれません。それで,出席について厳しい規則を設けることはできませんが,クリスチャンの若者がそのような問題を親に相談し,それに関係する様々な要素をじっくり考えるのは賢明なことです。(箴言 24:6をご覧ください。)応援集会に参加しないという決定をすれば,仲間からの強力な圧力に耐えなければならないでしょう。でも,次のことを片時も忘れないでください。あなたが第一に忠節を示すべきなのは神に対してであって,学校やチームに対してではないのです。

[脚注]

a 「目ざめよ!」誌,1991年8月22日号の「スポーツ ― どんな位置を占めていますか」という題の一連の記事をご覧ください。

[13ページの囲み記事]

『チアリーダーになりたい!』

チアリーダーになって有名になり,注目を集め,人気者になることにあこがれる若い女の子たち ― それに男の子たち ― は大勢います。セブンティーン誌(英文)はリサという少女の次のような言葉を引用しました。「みんなの乗りをよくして興奮させるのはいい気分よ。みんなの視線を感じるのは最高ね」。チアリーダーになって交際の範囲が広まることに魅力を感じる若者もいます。若いハンナは,採用テストを受けるよう誘われたとき,「人気者になれるし,男の子たちと親しくなれる」と言われました。中には,チアリーダーになって自尊心が強まったと言う女の子もいます。

とはいえ,ただポンポンを持ってアクロバットのようなジャンプをしていればチアリーダーが勤まるわけではありません。多くの場合,テストの際の競争は激しく,落ちるとひどいショックを受けることもあります。ライバル校のチアリーダーとの間には,あからさまな敵対心が存在するかもしれません。さらに,最近のチアリーダーの複雑な演技の中には,オリンピックの体操選手に匹敵するほどの技術を要するものがあります。けがは付き物です。ですから,チアリーダーは毎週何時間も練習します。チアリーダーに関するあるガイドブックは,「生き方として,歌や応援をリードすることに献身」しなければならない,と述べています。

愛校心を高めるという無益な事柄に,クリスチャンが本当に「献身」できるでしょうか。それは無理でしょう。さらに,観衆を駆り立ててかけ声を繰り返させたり,暴力をたたえてチームや花形選手を偶像視する歌を歌わせたりするのも,クリスチャンの若者にとってふさわしいことではありません。また,先ほど述べたように,「悪い交わり」の危険にもやはり注意すべきです。(コリント第一 15:33)さらに,チアリーダーにたいてい要求されている,慎みに欠けた衣装を身に着けて人目を引く ― そして踊る ― なら,問題が生じかねないことも忘れるべきではありません。―テモテ第一 2:9。

あらゆる面を考慮してみると,クリスチャンの若者にとってチアリーダーになることがふさわしくないのは明らかです。エホバへの献身のほうがはるかに重要です。

[12ページの図版]

応援集会でかき立てられる精神はクリスチャンの原則と調和するか

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