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目ざめよ! 1999
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現実は予想をしのぎました

ウィレム・ファン・セイルの語った経験

時は1942年,祖国は第二次世界大戦の真っただ中にありました。私はオランダのフローニンゲンで,ナチに見つからないよう,ほかの4人の若者と一緒に隠れていました。そして,狭い室内に座ったまま,生き残るチャンスがあるだろうかと話し合うようになりました。

生き残るチャンスがあまりないことは明らかでした。結局,そのグループのうちの3人は非業の死を遂げました。事実,老齢に達したのは私だけでした。これは現実が私の予想をしのいだ,ほんの一例にすぎません。

前述の事件があった時,私はまだ19歳で,聖書や宗教についてほとんど何も知りませんでした。実のところ,父は宗教には一切反対でした。宗教を探し求めていた母は,心霊術を受け入れていました。私には希望などありませんでした。爆撃に遭って,あるいはほかの何らかの仕方で殺されたところで,神には私のことを覚えておく理由など何もないはずだと思いました。神について学んでみようとしたこともありませんでした。

探求は報われる

4人の若者とそのような話をして間もなく,私はナチに捕らえられ,エメリヒの近くにあった,ドイツの強制労働収容所に連行されました。私たちの仕事には,連合軍による爆撃を受けた後のがれきを片づけたり損傷箇所を修理したりする作業も含まれていました。1943年の暮れに,戦争はまだ激しく行なわれていましたが,私は逃走し,オランダに戻りました。

どういうわけか,私は質問と聖句がいっぱい載せられている小冊子を1部入手しました。それは,エホバの証人が発行した「救い」という本を研究するのに使われたものでした。それらの質問を読み,聖句を調べた私は,聖書預言の成就に非常な関心を抱くようになりました。

そして,自分の読んだことを婚約者のグレに話しましたが,最初,グレはほとんど関心を示しませんでした。一方,その小冊子を夢中になって調べた母は,「これこそ,私がこれまでの人生で探し求めていた真理です」と叫びました。さらに,友達にも話したところ,もっと知りたがる友達もいました。実際,ある友達は証人になり,1996年に亡くなる時まで,手紙をやりとりしたり訪問したりして絶えず連絡を取り合いました。

その間に,グレは聖書を研究するようになり,私たちは二人とも1945年2月にバプテスマを受けました。それから数か月後に戦争は終わりました。結婚した後,私たちは開拓者になりたいと思いました。エホバの証人の全時間奉仕者は開拓者と呼ばれています。しかし,病気や経済上の問題といった種々の障害に直面しました。また,私たちの収入がずっと増える機会も訪れました。では,まず,ある程度の経済的な安定を図るために働いてから開拓奉仕を始めたほうがよいでしょうか。それとも,直ちに開拓奉仕を開始するほうがよいでしょうか。

オランダでの私たちの宣教

私たちは直ちに開拓奉仕を始めることに決め,1945年9月1日にその奉仕を始めました。その日,夜遅く帰宅する途中,レストランに入って飲み物を注文しました。それから,1グルデンだと思って,お札を1枚ウエーターに渡し,「お釣りは取っておいてください」と言いました。しかし帰宅してから,100グルデン札を渡したことに気づきました。そのため,開拓奉仕を始めた時,手元には,何とたった1グルデンしかありませんでした。

1946年に公開講演を行なうようになったころ,私は一着の革のジャケットしか持っていませんでした。私と同じくらいの背丈の友人が司会者として私の話を紹介すると,直ちにステージのそでに来て私に上着を貸してくれました。それから私が話をし,講演が終わると,その逆の手順を踏みました。

1949年3月,グレと私は巡回奉仕に参加するようにという招待を受け,エホバの証人を霊的に強めるために諸会衆を訪問するようになりました。そして,戦前戦中を通じて忠実な奉仕者であったフリッツ・ハートスタングから巡回奉仕のための訓練を受け,「ウィム,エホバの組織から受ける指示に従いなさい。たとえそうした指示が最初は最善だと思えなくてもそうすべきです。そのことで後悔するようなことは決してないでしょう」という適切な助言を受けましたが,そのとおりでした。

1951年,ものみの塔聖書冊子協会の当時の会長,ネイサン・H・ノアがオランダを訪れました。その時,グレと私は米国で宣教者の訓練を受けることを申し込みました。その後まもなく,ものみの塔ギレアデ聖書学校の第21期のクラスに出席するようにとの招待を受けました。1945年に私たちが開拓奉仕を始めたころ,オランダには2,000人ほどの証人がいましたが,1953年には7,000人余りの証人たちがいました。ですから,確かに現実は私たちの予想をはるかに上回りました。

私たちの新たな住みかでの宣教

私たちは,現在のインドネシアの1州である元のオランダ領ニューギニアに割り当てられましたが,入国許可が得られなかったため,任命地は南米の熱帯の国スリナムに変更され,私たちは1955年12月に着きました。当時,スリナムの証人たちはわずか100人ぐらいでしたが,他の人を実によく助ける人たちでした。私たちはすぐにくつろいだ気持ちになりました。

もちろん,さまざまな異なった状況に順応しなければならず,そうするのは難しい時もありました。例えば,グレは昆虫を何でもこわがっていました。オランダでは,自宅の寝室に小さなくもが1匹でもいたら,私がそれを退治するまでグレは眠れませんでした。しかしスリナムのくもは大きさが10倍ほどある上,有毒なくもさえいるのです。私たちの宣教者ホームにはごきぶり,ねずみ,あり,蚊,ばったなどもいました。へびが入って来たこともあります。グレはそういう生き物にすっかり慣れたので,それを退治するのは,今では日常生活の決まりきった事柄の一つにすぎません。

私たちは43年以上の年月を過ごしてきたので,ここで生まれた多くの人たちよりもこの国のことをよく知っています。この国の河川,熱帯雨林,沿岸地方の近くの沼沢地などの良さも分かってきました。たくさんいる動物,つまりやまあらし,なまけもの,ジャガー,そして,そうです,往々にして美しい色彩を持つ種々さまざまなへびなどにも慣れました。しかし,とりわけこの国の非常に多様な人々を正しく評価できるようになりました。アフリカやインド,インドネシア,中国その他の国々から来た人々の子孫もいれば,原住民の子孫であるアメリカ・インディアンもいます。

私たちはクリスチャンの宣教に携わって人々の家庭を訪問する際,そうした様々な背景を持つ人々に会います。また,私たちの王国会館でも,同様に変化に富んだ,すばらしいクリスチャンの兄弟姉妹と楽しく交われます。崩れかかった王国会館が1軒しかなかった1953年以来,30軒余りの魅力的な王国会館,美しい大会ホール,それにたいへん立派な支部施設を持てるまでに業は増大しました。その施設の献堂式は1995年2月に行なわれました。

これまでに得た数々の教訓

スリナムの奥地にはいわゆるブッシュ・ニグロの会衆が幾つかあります。それらの人は大農園から逃亡して,できるだけ遠く川上に逃れたアフリカ人奴隷の子孫です。私はそうした人々の色々な妙技を見て何度もびっくりしました。例えば,川を交通運搬路として利用したり,熱帯雨林を自分たちの住みかにしたりする方法などは見事です。人々は樹木を伐採し,小舟を作り,巧みに小舟を操って滝や急流を下ります。食べ物は狩りや漁をして手に入れ,現代的な設備など何も使わずに料理をします。そのほか,私たちにはとても難しい様々なことをやってのけるのです。

何年もの間に,ここスリナムに住んでいるほかの多くの民族とその習慣や考え方や生き方についてもよく知るようになりました。1950年代にアメリカ・インディアンのある村を訪ねた時のことを今でも覚えています。私は真夜中に熱帯雨林の中の人気のないキャンプに着きました。アメリカ・インディアンのガイドと私はそこから小舟で旅を始める予定でした。ガイドは火を起こし,食べ物を料理し,ハンモックを結わえてくれました。何でも私のためにするのは当たり前のことでした。私がやり方を何も知らないということをガイドは承知していたからです。

真夜中に私はハンモックから落ちましたが,ガイドは笑いませんでした。それどころか,私の衣服についたごみを払い落とし,ハンモックを結わえ直してくれました。ある狭い川を通っていた時のこと,辺りは真っ暗で,目の前の自分の両手すらよく見えないのに,ガイドは幾重にも曲がりくねっている流れに沿って障害物をよけながら小舟を上手に操りました。どのようにしてそうするのかと尋ねたところ,ガイドはこう言いました。「あなたは違う方向を見ています。上を見て,木々のこずえが描く線と空との対照に注目するのです。そうすれば,川が曲がっているのが分かります。下を見たら,さざ波に注意するのです。そうすれば,岩などの障害物があるかどうかが分かります。また,よく聞くことです。物音は前方に何があるかをも教えてくれます」。

丸木舟で旅行する際,急流を横断したり,滝を迂回したりするのは危険で,骨の折れる場合があります。しかし旅が終わって,私たちを歓迎して温かくもてなそうと待ち構えている仲間のクリスチャンの兄弟姉妹に会うと,気分はさわやかになります。来客のための食物はいつもありますが,それはボール1杯のスープかもしれません。宣教者の生活はつらい困難な経験である場合も少なくありませんが,期待外れに終わることは決してありません。

任命地にずっととどまる助けになった事柄

私たちは並外れた健康に恵まれていたわけではありませんし,家族の他の成員から多くの励ましを受けたわけでもありません。親族の中で証人になったのは私の母だけだったからです。しかし,多くの愛する友から援助や励ましを受けたので,私たちの必要が満たされなかったことは一度もなく,任命地にずっととどまるよう助けられました。とりわけ,母は励みになりました。

任命地で約6年間過ごした後,母が重い病気にかかりました。これが最後の機会かもしれないので,帰国して母に会ってほしいと友人たちは考えましたが,母はこう書いてきました。「どうか任命地にとどまっていてください。病気になる前の私の姿を覚えていてください。復活の際にあなた方とお会いしたいと願っています」。母は強い信仰を持った女性でした。

休暇を取ってオランダに帰国できたのは1966年のことでした。昔からの友達に会えて大変うれしく思いましたが,今ではスリナムが私たちの故郷だと感じるようになりました。ですから,宣教者は任命地で少なくとも3年間奉仕してからでなければ休暇を取って母国に帰ることはできないという組織の助言は,知恵の言葉です。

任命地で楽しく奉仕する助けになったもう一つの点は,ユーモアを解する心を持つこと,つまり自分自身を含め,物事を笑って問題にしないようにすることです。エホバは自然界の創造物のあるものをさえユーモアを表わせるようにされました。チンパンジーやカワウソ,とりわけ様々な動物の子どものこっけいなしぐさには,ほほえましいものがあります。また,物事の肯定的な側面を見,自分を過度に重視しないようにするのも大切なことです。これは何年もの間に学んだ事柄です。

とりわけ,宣教という実りの多い仕事は,私たちが任命地にずっととどまる助けになりました。グレはパラマリボの老人ホームで9人の男性との聖書研究を始めました。全員80歳以上のそれらの男性は,ゴムの樹液採取に携わった人か金鉱掘りかのどちらかで,それぞれ自分の学んだ事柄を愛するようになり,バプテスマを受け,皆,亡くなるまで伝道の業に忠実に携わりました。

その研究の際,スウェーデンボリ新教会に属するリバーズという名の老齢の説教師も研究を傍聴し,皮肉を言いました。しかし毎週,少しずつ近寄ってきて,あざけりの言葉も少なくなってゆき,ついにほかの人たちと一緒に腰を下ろして研究に参加しました。その人は92歳で,ほとんど目も見えず,耳も聞こえませんでしたが,聖句なら,まるで読んでいるかのように引用できました。やがて,私たちと一緒に宣教に加わるようになり,話を聴いてくれる人であればだれにでも伝道しました。亡くなる直前,私たちに来てほしいという知らせをよこしました。私たちが着いた時にはすでに亡くなっていましたが,兄弟の枕の下から,その月に宣教に費やした時間を記した報告が見つかりました。

伝道の業に25年余り携わった後,私は1970年にスリナムの支部事務所を監督するよう任命されました。事務所の仕事に困難を感じた私は,依然として毎日,野外宣教に出かけていたグレのことをうらやましく思いました。今ではグレも支部で働いており,ここでは年を取った私たち二人にも行なうべき有意義な仕事があります。

実際,1945年当時の世界の活発な王国宣明者は16万人足らずでしたが,今日では600万人ほどいるのですから,当時と比べて現実は私の予想をはるかにしのいでいることが分かります。私たちがスリナムに到着した1955年以来,宣教に携わる人の数は19倍にも増えました。当時,100人ほどだったのが,今日では1,900人以上になっているのです。

私たちは自分たちの神に忠実を保ちさえすれば,将来,エホバの目的が成し遂げられる際,はるかに壮大な仕方で物事が展開するのを見られるということを私は確信しています。また,それこそ私たちの願っている事柄なのです。

[13ページの写真]

スリナムに来た1955年当時

[15ページの写真]

丸木舟を使って宣教に携わる

[15ページの写真]

妻と共に

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