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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
塔68 8/1 468–473ページ

自分の才能を最大限に用いて幸福を見いだす

友人の語るアントン・ケーバーの生涯の物語り

時は1967年の晩夏,ところはエホバの証人の一大会会場,メリーランド州,ローレル競馬場でのこと,中央演壇を一望に見おろすスタンド高く,白髪をいただいた高齢の一紳士が友人に付き添われて車椅子に腰かけていました。その後4か月を経ずして生涯を終えねばならなかったにもかかわらず,励みを与える考えや興味深い事柄を友人と語り合う際には知力に少しの衰えも見せず,明るい精神と熱意にあふれていました。

友人に囲まれて座している彼の様子を見て思い起こしたのは詩篇筆者のことばです。「エホバの宮にうゑられしものはわれらの神の大庭にさかえん かれらは年老いてなほ果をむすび豊にうるほひ緑の色みちみちてエホバの直きものなることを示すべし,エホバはわが巌なりエホバには不義なし」― 詩 92:13-15。

なかば病身の75歳になるアントン・ケーバーは,50有余年にわたってエホバ神に熱心に仕えた幸福なしもべでした。その間,彼はその神エホバと,クリスチャンと否とを問わず仲間の人間とに奉仕するきわめて変化に富んださまざまの機会に恵まれ,また同時に,世の相当の資産にも恵まれ,惜しみなくその資力を善用しました。

1892年6月13日,アントンは,ルーテル教会の信者の二親の下,メリーランド州バルチモア市の一ホテルのコック長を勤める父の質素な家庭に生まれました。家は小さくとも清潔で,生活の中では倹約が尊ばれ,しつけも行き届いていました。家庭事情のゆえにスポーツに興ずる時間はほとんどなく,12歳の時から学校の休暇には,最初は八百屋,次に新聞社で働き,質素な家庭だったため,8年間の普通教育を終えてすぐ就職しました。しかし仕事のかたわら夜学に通い,また通信教育を受け,高校卒同等の教育を修めました。

聖書を詳しく読みはじめたのは特に14歳以来のことで,17歳当時には幻滅を感じてルーテル教会を去りました。しかし,神および神のみことば,そして聖書の原則の正しさに対する信仰は失わず,その後4年間,さまざまの教会の礼拝に出席し,また神を見いだしたいと願って友愛組合にさえ関係しました。(使行 17:27)そうしたある日のこと,当時,聖書研究生として知られていたエホバの証人のひとりに会ったのです。その人は彼のいだいていたすべての疑問に満足のゆく答えを与え,かつ,その集会の一つに招待しました。これこそ本物でした。聖書を読みはじめて以来,一心に捜し求めて来た教えおよびそれに従う人々をついにその交わりの中に見いだしたのです。その後,何か月もたたぬ中に,御心を行なうことに意を決して神に献身し,1913年7月,西バージニア州フェアモント市でバプテスマを受けました。

アントンは,忠実を保てば,黙示録 20章4-6節の約束どおり,天的復活にあずかり,永遠にその主とともになる希望を伴う天的な召しにあずかったことを理解し,その希望をいつも明確に心にいだき,常に喜んでそのことを他の人々に語り,新しく見いだした真理を友人や親類に分かち合おうと努めました。しかしそれについては彼自身こう述べました。「どれほど熱心に説明しようが理解してもらえず,さらに説いて聞かせようものなら,敬遠されるのみだということにまもなく気づいた」。しかし,イエスがその追随者の予期すべきことを前もって警告されたとおり,アントンはこのことで失望しませんでした。―マタイ 10:34-36。

3年後,結婚してワシントンに移り,一男一女をもうけ,第一次世界大戦中には良心的参戦拒否者として逮捕され,裁判に付されましたが,審理は中断され,終戦とともにその訴訟は破棄されました。こうして全時間伝道のわざを始め得る事態が開かれたのを知ったアントンは,ものみの塔協会初代会長パスター・ラッセルに伴われて世界旅行に一度同行する特権を得た退役陸軍准将ウイリアム・N・ホールとともに,そのわざを行ないました。ホールはアントンにとって良い同労者であり,またイエス・キリストのりっぱな兵卒でした。二人はメリーランド,バージニアその他東部諸州の各地を旅行し,多量の文書を人々の手に渡し,多数の聖書研究グループを組織しました。そしてのちに再び訪れて,彼らの信仰を強め,クリスチャンの宣教の面で訓練し,ついに,それらのグループの多くが会衆として確立されました。それで二人はこれらの面で使徒パウロとその同僚がなしたほどの大きな働きをしました。(使行 15:35,36)そのうえ,彼はきわめて有能な講演者だったので,週末の講演旅行にも精力的に携わり,これらすべてのわざから大きな喜びを得ました。

多年,アントンは保険会社に関係していましたが,戦時債券の売買などの問題のため,事業上の同僚との関係が悪化し,そのうえ,聖書研究生が当時,高唱していた「現在生きる万人は決して死することなし」というスローガンのゆえに保険会社との関係は断たざるを得なくなり,不動産業の分野にはいりました。ここでその天与の才能を発揮した彼は,家屋,ホテル,アパート,ビルなどの売買,建設,融資,経営を仕事にして多大の成功を収めました。

時を生かして用いる

アントンは(事業上の成功からも明らかにわかるとおり)きわめて積極的な性格の持ち主であり,その利点を用いて,神の御名と御国について大いに証言しました。それで初めから,事業上の諸関係をその目的のために利用できるチャンスは決して見のがさず,貧富,地位の高低を問わずあらゆる種類の人々に証言し,人々は彼に敬意をいだき,中には,彼の語ったことは真理であり,自分もその同じ信仰を持ちたいものだと述べた人もいましたが,聖書を信じさえすれば,同様の信仰を持つことができるのだと彼はそれらの人に告げました!

アントンと一緒にタクシーに乗るのは一つの見ものです。車中では世界情勢や神の国について語りはじめ,それから運転手を会話に引き入れ,そしてしばしば運転手に「ものみの塔」誌を予約させることに成功したものです。それから予約者の住所氏名を最寄りの会衆に知らせ,「種」に水をそそいでもらうよう取り計らいました。(コリント第一 3:6)奉仕の色々の特権ゆえにしばしば汽車で夜を過ごしましたが,きまって寝台車の係員に伝道し,時には夜明け近くまで係員と聖書研究を行なうことさえありました。そしてたいていの場合,「ものみの塔」誌の予約を得ました。それで,典型的な例として1955年に1年で合計532の予約を得たのも彼にしてはさほど不思議ではありません!

健康があまりすぐれぬ時でも,目ざとくチャンスをとらえては神の国について証言しました。ローマの大会に出席した時のこと,少しの時間,新鮮な空気を吸って休憩したいと感じ,場外に出ようとした矢先,政府高官の車が着き,りっぱな風采の紳士とその夫人が軍服姿の運転手の手を借りて車を降りようとしていました。アントンは直ちに近寄り,何かお役にたつことがあればさせていただきたいと申し出ました。その紳士は,イタリア議会の一上院議員で,一部の議員は反対しましたが,エホバの証人によるこれらの会場の使用に賛成投票をした人であり,万事順調に進んでいるかどうかを見るために,今,会場を訪れたところだったのです。アントンがさっそく機会をとらえて二人に証言した結果,その上院議員は,妻とともに読みたいからと言って,会場に展示されているすべての出版物を1冊ずつ求めて来るようにと,軍人であるその運転手に命じました。

渉外活動

アントン・ケーバーはまた,事業上の関係において多大の成功を収めることにより,いわば連絡将校の役目を果たして,神の国のために働き,大きな喜びを得た人です。そして,御国の良いたよりを放送するための放送契約やラジオ放送網を設置するための契約を結ぶことに成功しました。また,ニューヨーク,ブルックリンの地所,ニューヨーク州,サウスランシングの御国農場およびギレアデ学校の敷地およびカナダ,トロントのベテルと印刷工場の土地を購入するのに貢献しました。その事業上の経験および各方面で知り合っている関係者の力添えがそれらの交渉面で大いに役だったものの,事を成功裏に落着させるには常にエホバにより頼んできたと彼は語りました。

しかし,神の事柄のために代表者として首都ワシントンの政府当局者に接触するという点でさらに大きな特権にあずかりました。1925年には,ものみの塔協会の所有する放送局の認可を得るための戦いに一役買いました。自分の兄弟たちのためのエホバの代表者であるとの事実を常に銘記して,25年余にわたり,大統領,政府の閣僚,議員などに幾度も面接しては,エホバの証人が色々の大会で採決した数多くの決議文を手渡しました。しかし,エホバの喜ばれることを語り,かつ行ない得るよう,まず導きと力を祈り求めることなしにそれら政府要人に面会することはなかったと言われています。

特命を帯びて関係当局を訪れる彼の同行者にとって,廊下を通って目ざす執務室に行く途中,多くの人が敬意をこめてアントンにあいさつするさまを見るのは喜びでした。明らかに彼は人々の間で広く知られ,かつエホバの証人の一代表者として尊敬されていたのです。一方,強力な反対を受けながら神の国を伝道するエホバの証人のために彼が助力を請うたとき,当局者はたいてい協力的で親切な態度を示しました。

1933年,その妻と二人の子供をブルックリンの協会の本部に残して,アントンは地域のしもべのひとりとして米国東部に派遣され,各会衆を特別の奉仕のグループに組織し,そしてこれらのグループは,証人たちが神の国の伝道のために逮捕され,あるいは何らかの妨害を受けている特定の都市で集中的な伝道を行なうために用いられました。20台余の車に分乗した100人余の証人たちが予定の都市の郊外の一地点に集合し,そして一斎に市内にはいって家から家の伝道を行なったのです。アントンはそれと時を同じうして,このわざに携わる証人たちの憲法上の権利について市および警察当局者を啓発するために訪問しました。

また,ヒトラーにより接収され,ソ連に運ばれた,マグデブルグ市にあるものみの塔協会の支部の印刷機を取り戻し,そして,できればソ連に支部を設ける目的で1935年,今度はドイツに派遣されました。クリスチャンのエホバの証人に対していずれも一片の好意をもいだかぬナチ・ドイツおよび共産主義ソ連の官憲の絶えざる監視下におかれていたため,これはアントンにとってきわめて困難な使命でした。この使命では所期の目的を達成できませんでしたが,ソ連内の一部の証人たちと連絡することができ,またもちろん,ドイツの多数の証人たちを励ませました。

この世の事業に対する正しい見方

その後まもなくアントンは不動産業に戻りましたが,そののち全時間開拓奉仕者として再び活発に働きはじめました。1952年には色々の事情を調整し,ものみの塔協会を代表する巡回奉仕者として各地を旅行しました。この資格で7年間奉仕した彼は,往年,ホール兄弟とともに働いて最初に組織した群れの多くを再び訪れることができ,多くの喜びを味わいました。さらにこれらの歳月中,巡回,地域,全国そして国際大会とさまざまの大会で奉仕する多くの特権も得ました。彼の話はいつもきわめて建設的でかつ励みの多いものであり,エホバへの奉仕に心から喜んで自らの能力を駆使していたことがだれの目にも明らかでした。

アントンがこの世の仕事に対して正しい見方を持っていたことは,色々の点で明らかですが,長年ブルックリンのベテルなどで神の国のために全時間をささげて奉仕した人々に惜しみなく与えた施しもその一つです。また,つい二,三年前,ある事態の下でとったその態度からも,彼のいだいていた正しい見解のほどがうかがえます。事業上のその才腕を熟知している長年の事業仲間の一部の者が,彼個人に純益100万ドル(3億6000万円)を保証するほどのまたとない大事業を請け負ってはどうかと持ちかけてきたのです。しかし,それをまとめるには,事業関係の膨大な事柄を処理するために約1年間,自分のすべての時間を費やさねばなりませんでした。もちろん100万ドルあれば,相当の事に使えるので,問題を慎重に考慮しました。しかし祈りの中に考え,かつ,健全な心の思いと導きを神に願い求めたのちに次のような結論に達しました。「たとえわずか1年間であれ,また,全世界のすべての富のためであれ,ここでエホバに仕えるすばらしい特権を捨てることはできない。ここワシントンで兄弟たちに仕えるのはそれ以上に尊いうえ,ここでエホバの祝福がそそがれていることをわたしは知っている。100万ドル得られることはわたしも確信できるが,そのような生活をした1年後に自分の霊的な状態あるいは健康状態でさえどうなるであろうか」。こうして彼はその申し出を退けました。

苦難の時期

アントンの生涯は波乱や問題のない一生ではありませんでした。クリスチャンは,何らの苦難にあずかることなく神の国にはいれるものではありません。(使行 14:22)きわめて積極的な性格の持ち主だっただけに,時には兄弟たちの間で誤解を受け,一時的にいわば道をそれることもありました。そのような時期の1938年,妻は中風に倒れ,以来14年間,病床に寝たきりの状態で夫と娘の手厚い世話を受け,1952年に死去したのです。しかし妻の死去する少し前,アントン自身ガンの手術を受ける破目にあい,ひどく苦しみましたが,決して不平をこぼしませんでした。そして次から次に手術を受け,医師も親しい友人も彼が回復するとは期待しませんでした。

入院中,彼は病床で医師や医員に向かって,自分の命はエホバ神の御手の中にあると語りました。最初の入院の際,血の問題に関する自分の立場を明確に告げました。外科医に語ったそのことばを聞いていた一看護婦が軽卒にも,「でも,とにかく輸血は施します!」と告げたところ,アントンは答えました。「もし輸血をするのであれば,病院創設以来最大の訴訟事件に直面することを覚悟しなさい!」 言うまでもなく,医師はあえて輸血を施そうとはしませんでした。ある時,かかりつけの外科医で長年の友人ゴールドスタイン博士はこう話しました。「アントン,君の信ずるエホバ神は君のために大変親切なお方だ。これまでのすべての病歴に耐えて今日まで生き残れた理由はそれ以外にはないと思う」。家から家の宣教そして人々の家庭での聖書研究の司会はもとより,大会や個々の会衆で奉仕できたのも,多くの場合それはエホバの霊と過分の恵みおよび不動の決意によるものでした。

彼の友,ゴールドスタイン博士の死去後,他の外科医や病院を捜さねばなりませんでした。最後に入院した病院の医師は彼のことを知らなかったため,まず最初の治療として輸血を行なおうとしました。彼が輸血を拒むや,そのことばに逆らって告げました。「輸血を拒むのであれば,いったいなぜこの病院に来たのか」。アントンは答えました。「エホバ神とその律法および御国について君たちに証言をするためである」。この確固とした態度には医師側も敬意を示さぬ訳にはゆかず,彼の語るところに従って手当てをし,その後,彼は家に送られました。

1967年10月1日,ピ ツバーグで開かれたペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の年次総会に,彼は見事に出席できました。しかし,彼にとってそれは兄弟たちとともに集まる最後のものになりました。この集会はこれまで日曜日に開かれてきたので,その集まりのために市の公会堂が用いられました。この会合を待ち望んでいたアントンは,なんとかして出席できるようにと,あらん限りの努力を払いました。幾人かのクリスチャン兄弟が彼を助けて飛行機に乗せ,かつ付き添ってともに旅行しました。かなりの苦痛にさいなまれたにもかかわらず,一言も不平をもらさず忍耐し,兄弟たちとともにその集まりに連なることのみを一心に願っていたのです。

その年次総会の席上,代理投票委任状を手渡した直後,ひどい発作を起こし,少しの時間,場外に連れ出してもらいましたが,再び会場内に戻り,総会の終了直前までとどまりました。この集まりに出席できなかった会衆内の人々に十分報告できるよう,プログラム中の話すべてをよく聞くことに努めたのです。それから人々に助けられて宿舎に戻り,その後まもなく,ピッツバーグにある協会の本部を訪れ,再会した幾人かの友人は,彼に会えたことをこよなく喜びました。しかしそこに長くとどまることが無理だったため,すぐに宿舎の自室に引き返しましたが,たちまちひどい出血がはじまりました。そしてその容態のまま,翌日,ワシントンの自宅にたどりつきましたが,医師にはもはや施すすべもなく,アントンは徐々に衰弱し,1967年11月19日,死去しました。

その生涯はまさに満ち足りた幸福なものでした。彼は,会衆の一伝道者,開拓奉仕者,ものみの塔協会を代表する旅行者として,また,ブルックリンのベテルで,あるいは政府当局や事業の関係者との交渉において,それぞれ奉仕しました。アメリカの内外を問わず協会のために遠く広く旅行し,兄弟たちを代表して数多くの訴訟事件で法廷に足を運び,また物質面でも惜しみなく兄弟たちに施しました。それで明らかなとおり,熱心,エホバへの愛,その喜び,そして忠実な労苦のゆえに,彼は確かにエホバの祝福を得たのです。

アントンは,『パンを水の上に投げ(て),多くの日の後』に,かつて真理の知識を得るように,あるいは別の面で,助けた兄弟たちからの愛という形で,『報いを得(る)』という祝福にあずかりました。(伝道 11:1,2)また使徒パウロと同様,仲間のクリスチャンを自らの推薦の手紙として指し示すことができました。忠実なその同僚は彼の死去を心からいたみますが,しかし,霊感の下に使徒ヨハネの書きしるした次のことばがアントンにもあてはまるのを知って,大きな喜びを得ています。「『今から後,主にあって死ぬ死人はさいわいである』。御霊も言う,『しかり,彼らはその労苦を解かれて休み,そのわざは彼らについていく』」― 黙示 14:13。コリント第二 3:1-3。

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