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  • あなたも弟子を作る業の喜びにあずかることができますか
  • 王国奉仕 1974
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王国奉仕 1974
宣 74/1 3–6ページ

あなたも弟子を作る業の喜びにあずかることができますか

イエスは追随者たちに次の命令を与えました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし……バプテスマを施し(なさい)」。今日,全世界の208の土地や島で,150万人以上のエホバ神の賛美者たちが,イエスの与えたこの使命が遂行されていることの生きた証しとなっています。

弟子を作る業には特別の喜びが伴っています。使徒パウロは,自分がその設立のために働いた,マケドニアのテサロニケ市にある会衆にあてた手紙の中で,その喜びについて書いています。「わたしたちの希望,喜び,また歓喜の冠となるものはなんでしょうか ― それは実にあなたがたではありませんか。……確かにあなたがたは,わたしたちの栄光また喜びなのです」。(テサロニケ第一 2:19,20)羊のような人々がエホバ神とそのお目的について基本的な真理を認識し,それによって幸福を増してゆくのを見ることは,特に心の躍るような経験です。あなたもそうした喜びにあずかることができますか。

現代においては,聖書研究が,弟子を作るための最も効果的な手段となってきました。しかし,聖書研究の業は自分のものではないと考えている伝道者がいるかもしれません。これはどうしてでしょうか。ある人たちは,老齢,病気,世俗の教育の不足などのために,自分はその資格がないと感じているのかもしれません。

野外宣教においてかなりのあいだ勤勉に働きながら研究を始める点で成功していない人たちもいます。実りのない研究を六か月後に中断し,それに代わる研究を見つけられないでいる人も多いことでしょう。こうした兄弟や姉妹たちが,聖書研究によって弟子を作る業の喜びにあずかる方法があるでしょうか。

あなたは聖書研究をどれほど求めていますか

聖書研究の業における成功は,その業に加わりたいという願いをどれほど強くいだいているかということと密接に結び付いています。あなたはだれかに真理を教えたいという強い願いをいだいていますか。あなたはそのことを常に祈り求めていますか。その祈りにふさわしく,研究を始めるために余分の努力を払いましたか。

ある巡回監督は,そのような努力を払った16歳の少女の経験について次のように話しています。「この年若い少女は聖書研究をほんとうに望んだので,そのことをエホバに祈り,自分の努力の上にエホバの導きを求めました。それから彼女は電話番号簿の第一ページを開き,人々の家に電話をかけはじめました。彼女は自己紹介をしてから,『わたしはエホバの証人のひとりですが,皆さまに無償の聖書研究を申し出ております』と言いました。かなり電話をかけても成功しませんでしたが,彼女はあきらめませんでした。やがて,話の通じたひとりの婦人から,『わたしはぜひ聖書研究をしたいです』という返事がありました。しかも,なんと興味深いことではありませんか。その婦人はエホバの証人がそれまで伝道できなかったビルの中に住んでいたのです」。聖書研究を持ちたいというあなたの願いはそれほど強いものですか。あなたがそれを祈りの中に加え,それを目ざして努力するなら,エホバは必ずあなたを祝福されます。

研究をどのようにして始めることができるか

聖書研究を始める方法はいろいろあります。ある地域では,聖書の理解を助けますという直接の申し出によって,最初の訪問の時からこれを成し遂げることができます。人々が神のことばに対する敬意をいだいている地域では特にそうです。しかし,偏見・誤った教理・無関心さなどの障壁をまず乗り越えなければならない地域もあります。そうした場合には,正式の研究を始める以前に,何度か聖書に基づく論議を重ねることが必要かもしれません。それぞれの状況に応じてどちらの方法を用いるべきかは,あなた自身が最もよく判断できます。

関心が示されたと思えるところでは,次の訪問まで長く待たせすぎてその関心をさめさせることのないように注意してください。関心を示した人をもう一度訪ねるのに一,二週間待たねばならないという聖書的な要求はありません。普通以上の関心が認められた場合にはその日のうちにもう一度訪ねるようにしている伝道者もいます。また,初めて会ったその週のうちに再び訪ねて優れた結果を報告している人たちもいます。

何度も繰り返し回りながらほとんど研究の始まらない区域があることに気づいておられますか。これはなぜでしょうか。そこの人々が真理に関心をいだいていないということだけによりますか。もちろんそうかもしれません。しかし,自分の語りかける事がらが人々の関心を呼びさましていないということはないでしょうか。聖書研究を始める点で成功するためには,人々が何に関心をいだいているかを見いださねばなりません。

ある地域の人々は聖書の教理に関する論議に応じません。でも,そうした人々は,今日の世界における不正・不道徳・隣人愛の欠如などを憂えている場合が多くあります。あなたの区域の人々は聖書の教理には興味をいだいていないように見えても,日ごろ考えているそうした問題に関する話し合いには応ずるのではないでしょうか。新しい本,「真の平和と安全 ― どこから得られるか」の中に,そうした人たちのまさに必要としているものを見いだすことができます。人々の注意を10,12,13章に向け,あるいは14,15章の最初の節を読んで人々に聞いてもらうこともできます。これが良い研究を始める糸口となるかもしれません。

あるいは,人々を悩ましているのは,戦争,食糧不足,汚染,病気,犯罪などの問題でしょうか。「平和と安全」の本の初めの二つの章はそうした人々と話し合う資料として理想的です。ちょうどよい箇所を選んでそれを人々に読んでください。人々はそこに述べられている事がらが道理にかなったものであることを認め,これこそ自分の求めていたものだと悟るかもしれません。

ある巡回監督は次のように述べました。「世の人々は,聖書研究と聞くと,たいくつでおもしろみのないものと感ずる場合が多いようです。兄弟たちは,ただ聖書とか聖書研究という表現によって自分の言い方をあまりに一般的なものにしてしまわないように注意しなければなりません。何かはっきりした特定の点を人々に示すことが必要です」。どうすればこれをできるでしょうか。この兄弟は自分の方法をこう説明しています。「わたしは自己紹介ののちによくこう言います。『わたしたちはきょう,ご近所の皆さんに一つの質問をしています,罪のない人々が苦しみに遭うのを神が許しておられるのはなぜだと思われますか』」。それから彼は人々の注意を「真理」の第8章に向けます。あなたの区域ではどんな話題が人々の関心を呼びさますでしょうか。

人々が何に関心をいだいているかを知る一つの良い方法は,人々の言う事を注意深く聴くことです。あなたの準備した話とは全く異なった話題を家の人が持ち出すかもしれません。しかし,その人が関心を持たない問題で話を無理に進めてゆくよりは,その人が関心をいだいている問題に関して協会の出版物の述べている箇所にその人の注意を向けるほうがまさっていないでしょうか。

別の効果的な方法は,家の人に,「真理」の本や「平和と安全」の本の目次を見せることです。そして,こう尋ねてください。「これらの問題のうち特にどれについてさらに知りたいと思っておられますか」。ニューヨークのある巡回監督によると,その巡回区内では,「わたしたちが年老いて死ぬ理由」「神はなぜ今日まで悪を許してこられましたか」「どうすれば神に祈りを聞いていただけますか」などの主題を選ぶ人が多いとのことです。あなたの区域でもこれらの主題が効果的ですか。もしそうでないとすれば,ほかのどれでしょうか。

研究を司会するためにいつでも印刷された聖書研究手引きを使うことが必要でしょうか。決してそのようなことはありません。事実,しばらくの間はただ聖書だけを使ったほうがよい場合もあります。一宣教者は新潟のある姉妹の経験を次のように話しています。

「ある婦人に『真理』の本が配布されましたが,再訪問してみると,婦人は伝道者を招き入れませんでした。彼女はその本を幾らか読み,それがカトリックの教えと調和しないことに気づいたのです」。この姉妹はそこで研究を始める希望を捨てましたか。宣教者はこう続けています。

「姉妹はただ聖書だけを使うことを提案し,婦人はそれに同意しました。そうした話し合いが四か月も続きました。一回の話し合いで50もの聖句が用いられたこともあります。確かに真理を学んでいるのだとこの婦人が納得した時,姉妹は,資料の多くを『真理』の本から得たことを話しました。そののち,興味をいだいたこの婦人は,印刷された出版物を用いることに同意しました。やがて彼女はカトリックの像や絵などを除き去り,集会に出席するようになりました。そして,自分の教会の司祭に手紙を書いて,教会の名簿から自分の名を消してくれるようにと頼みました」。この婦人は今,王国伝道者となって自ら二つの聖書研究を司会しており,近い将来にバプテスマを受けることを希望しています。あなたの区域にも,文書は求めなくても,聖書の内容について話し合うことを望んでいる人はいないでしょうか。

あらゆる可能性を見つけなさい

たいていの国では,家から家への宣教奉仕が,関心を持つ人々に会う主要な方法です。しかし,聖書研究を始める方法はほかにもたくさんあります。

関心を持つ人を見つけられる場所は,すでに勉強している人の家族です。親しみ深い態度で近づくなら,未信者の配偶者は友好的な態度で応ずる場合が少なくありません。モロッコの一宣教者は,自分の妻が聖書研究をしている婦人の家を訪ねた経験をこう話しています。

「以前,彼女の夫はその研究に対して少しも関心を示しませんでした。わたしは彼の持つ自動車について話しはじめ,わたしたちは親しい気持ちになりました。そののち彼は,フランス語を学びたいという意味のことを言いました。わたしは,『失楽園から復楽園まで』の本の英語版とフランス語版はだいたい各ページの内容が対応することを説明しました。そして,その本を利用していっしょにフランス語を勉強することを提案しました。彼はそれに応じ,こうして聖書研究が始まりました。のちに彼はフランス語をあきらめましたが,真理の勉強はやめませんでした。彼とそのふたりの子どもは今では王国伝道者となっており,その妻は開拓者です」。

アメリカのある地域監督は,未信者の夫たちを助けることに努力を集中したある開拓者の夫婦のことを述べています。そうした努力の結果,その夫婦はふたりで26の聖書研究を持つようになりました。

すでに研究している人に,関心を示すかもしれないさらにほかの人たちのことについて尋ねてみるのも,聖書研究を始めるのに良い方法です。ある巡回監督は次の経験を話しています。「姉妹が一つの研究を始め,その研究からさらに四つの新しい研究が始まって,姉妹はそれを他の伝道者に渡しました。この五つの研究から,今では合計20名の人がエホバに仕えています。その後,同じ姉妹は別の研究を始めました。しばらくして,彼女は,他の人たちを研究に招待するようその関心者に勧めました。こうしてまたさらに四つの研究が始まることになりました。先回わたしがその会衆を訪問した時,それら最近の研究から合計26名の人が集会に出席していました」。こうして,研究生の紹介という方法によって二つの研究が十になり,46人が永遠の命への道を歩むようになりました。聖書研究を見つけるこの方法をあなたも試みたことがありますか。ぜひやってごらんください。

教育をあまり受けておらず,読み書きの十分にできない人たちをも,優れた聖書研究に招き入れることができます。そうした人々は文書は求めようとしないかもしれません。しかし,それは真理に関心をいだいていないという意味でしょうか。必ずしもそうではありません。そうした人たちの中には,鋭い知力を持ち,真理に飢えている人々が少なくありません。あなたはそのような人を毎週喜んで訪ね,聖書や聖書研究手引きから少しずつ読んであげることができますか。今日の熱心な伝道者の中には,読み書きを知らないながらも真理を学んだ人々が大ぜいいます。

子どもたちについてはどうでしょうか。年若い人たちは学ぼうとする意欲に燃えているものであり,神について教えてくれる人がいると大いに喜ぶものです。アメリカ,ニューイングランド地方の7歳の少女は,同じ年齢の別の少女に聖書の真理について話しました。少女は興味を持つようになり,勉強する許しを親に求めました。でも,親はそれを許しませんでした。それで少女はその友だちの家に行き,自分をそこに住ませてくれるかと尋ねました。エホバの証人になることは誕生日その他の祝祭日を祝わず,またそれに類する事をやめることだという点が説明されました。しかし少女は,「かまわないわ。パラダイスで生活するほうがずっと大切ですもの」と答えました。もちろんこの少女は自分の家で生活しつづけましたが,特に子どものために書かれた聖書の読み物を受け取るため,毎週その証人の家に訪ねて来るようになりました。エホバ神について学ぼうとする少女の願いは非常に強かったため,ただ遊ぶよりもそうした物を読むことのほうを望んだのです。

老齢の人々,また病弱であったり身体に障害を持っていたりする人々も聖書研究を開拓することのできる分野です。そうした人々の中には,だれかが訪ねて来て神のことばについて話してくれることを喜ぶ人たちが多くいます。ある巡回監督は,老齢や病弱の人たちと研究するために特別の努力を払ったふたりの姉妹について話しています。「一方の姉妹は療養院の患者たちに雑誌を提供することから始めました。彼女は今そこで数件の研究を司会しています。他方の姉妹は老齢の市民を収容している建物を指さして,『あれがわたしの区域です』と言います。彼女はそれら年取った人々を訪ねて可能なかぎり研究を司会しており,読み書きを教えながら行なっている研究もあります」。

いつ,またどこで研究を司会できるか

関心を示した人に再訪問をしても不在の場合が多いように思いますか。今日の物価高,また速い生活テンポのために,毎日長時間家から離れている人が多くいます。しかし,そうした人々との聖書研究を司会する喜びにあずかるために,自分のいつもの生活を変えて特別の努力を払っている伝道者もいます。

例えば,アメリカ,フロリダ州の一姉妹は,興味を示した一夫婦との毎週の研究のために,その研究の日には午前3時半にベッドを起き出ました。その夫婦にとっては,その時間しか研究の時間を取れなかったからです。オランダのある監督は,ダンスの教師と毎週一日朝の2時から4時まで研究をしたアムステルダムの一兄弟のことを述べています。その男の人はやがて自分のダンス教習所を売り払って開拓宣教奉仕に入りました。彼は今,自分の会衆の長老のひとりとして奉仕しています。

研究生の家では勉強できない場合もあります。それでも,どこかほかの場所で研究を続けることができないでしょうか。王国会館や自動車の中,また仕事場でなされている研究も多くあります。南アフリカのある監督は,その国に,職場で昼の休みに研究を司会している兄弟の多いことを伝えています。それら関心を持つ人たちが兄弟たちの家からは遠い所に住んでいるためです。今は宣教者として働いている一兄弟は,ニューヨークの地下鉄の駅の待合室で研究を司会したことについて話しています。ある巡回監督がニューヨークのタクシー運転手と研究を始めましたが,きまった場所で会うことがなかなかできませんでした。それでどうしたでしょうか。兄弟はこう説明しています。「わたしたちはなんとかして定期的に研究を続けました。彼の家で,彼のタクシーの中で,王国会館で,レストランで,公園で,またわたしの家で研究したこともあります」。関心を持ったこの男の人は今ではすべての集会に出席し,神権宣教学校にも参加し,まもなくバプテスマを受けることを計画しています。あなたも,普通とは違った時間や場所で聖書研究を司会することができるでしょうか。あなたは,そうした喜びにあずかるために,自分のスケジュールを喜んで調整しますか。

あなたは研究の司会ができないように感じていますか

あなたは,なんらかの理由のために,聖書研究を司会するだけの備えがないように感じますか。世俗の教育が非常に少ないために聖書研究の業は自分のものではないと感じている人がいるかもしれません。しかし,それは必ずそうでしょうか。読むことも書くこともできないグアドループの一兄弟の場合を考えてください。その国の支部の監督はこう話しています。「この兄弟は家から家の奉仕のさいにひとりの男の人に会って本を配布しました。再訪問をした時,彼は自分が字を読めないということについては特に言いませんでした。ただ,その人に自分の本を持って来るように勧めました。そして,その人に本文の節を読んでもらい,ついで質問を読んでもらいました。それからこう尋ねるのです。『あなたが今読んだ質問の答えを言ってみてくれますか』。こうしてその人は進歩して集会に出席するようになり,今では野外宣教にも加わっています」。教育の少ない人の中には,別の伝道者を連れて行って自分の聖書研究の司会を助けてもらっている人もいます。

あなたが聖書研究を司会する喜びにあずかることを阻んでいるのは病気その他の身体的な障害ですか。ある巡回監督はこう述べました。「若くて健康な人たちではなく,年取った人,また病弱の人のほうが研究を司会しているという場合がよくあります」。そのよい例はオランダのある特別開拓者です。その人は10年のあいだ体の自由を失った状態になりました。彼女はそのために,真理を他の人に教えることをやめましたか。彼女のことを知るある監督はこう述べています。「その期間のあいだこの姉妹は正規開拓者としてずっと全時間奉仕を続けました。彼女は自分のベッドのかたわらで研究を司会しました。事実,彼女は奉仕のこの分野で非常な能力を持っていたので,他の伝道者たちは自分の見つけた関心のある人たちを彼女のところに連れて来たものです。この姉妹は数十人の人を助けて献身の段階にまで至らせました」。

弟子を作る業の喜びにあずかることはあなたの心からの願いですか。では,それをあなたの祈りに含め,聖書研究を始めるために開かれたあらゆる機会を試みてください。そして,聖書研究の業において成功するかどうかは生来の能力や教育の程度などにはよらない,ということを忘れないでください。そうです,「わたしたちにじゅうぶん資格があるのは神から出ている」のです。―コリント第二 3:5。

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