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神の目的とエホバの証者(その35)ものみの塔 1962 | 4月1日
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終戦まで,彼はいろいろの収容所に入れられました。そして,いく度も尋問をうけ彼から他の兄弟たちの名前を聞き出そうとした警察は彼を迫害しました。あるとき,彼はドイツ南西部のゲシュタポに質問され,4ヵ月半のあいだ下着を変えることを許されませんでした。いく度も彼を「処分する」取決めがつくられましたが,それは最後の瞬間に変更されました。約5年間,彼は証者たちとすこしも連絡が取れず,聖書もありませんでした。それは彼の心を打ちくだくためでしたが,彼はしっかりと忠実を保ちました。
兄弟たちに霊的な食物を与えることは,危険な仕事でしたが,証者たちの地下活動で大切な役割を占めていました。一時に1部か2部が国境を越えて運ばれ,それから,地下運動の指導者たちは,信頼できるメッセンジャーを通して,いろいろの場所に送り,それを騰写版印刷しました。そのような場所には騰写印刷機が穴倉,屋根裏などに備えつけられていました。まず見つからないような部屋の壁の中にすえつけられていたのです。ドイツの数人の兄弟たちは配布用の「ものみの塔」を準備した理由で起訴され,死刑に宣告されて処刑されました。
伝道の仕事は地下活動の性質を帯びるものでしたが,兄弟たちは良く組織されました。このひとつの例は,1936年9月,スイス,ルセルンの大会で採決された決議の配布でした。約2500名のエホバの証者はドイツからこの大会に出席することができました。そしてそこで採決された決議は,1936年12月12日,ドイツの大都市で配布されたのです。各伝道者は,20部入り小包を持って定められた区域に決議を配布しました。どの決議も郵便箱か戸の下に置かれました。人々に直接手渡すことは許されなかったのです。証者は決議を家のところに置いて,すぐに近くの通りの別の家に行きました。このようにして,30万部の決議は,12月のこの土曜日の5時から7時までの2時間足らずの中に30万部も配布されました。
そのとき,ドイツにおける地下活動を監督した兄弟は,この配布にまつわるひとつの挿話を話しています。この話は,彼を逮捕した政府の役人のひとりが彼に告げたものです。
午後5時,配布の仕事が始まりました。15分後に,そのことは警察に知らされました。そして15分後には,ベルリンの警官はみな街頭に出ました。すると,ハンブルク・ミューニッヒ,ライプチヒ,ドレスデン,そしてルール地方や他の多くの市から電話がかかって来ました。運動が始まって1時間たたぬ中に,警官やSSのパトロールはこれらの都市に出動して,配布者を捕えようとしました。しかし,ひとりもつかまらなかったのです。……
警察は町内の家を一軒残らず訪問して,パンフレットをすぐ渡すようにと要求しました。ごくわずかな人しかパンフレットを持っていたに過ぎず,大多数の人々は何のことかすこしも知らなかったので,あたかも市民全部が聖書研究生と結託して,聖書研究生にある種の保護を与えているような印象を受けました。やましい心をもっていた政府とその「強い腕」にとってこの印象は当然なもので,破壊的な効果をあげました。e
伝道するために「弾薬」を供給する
ドイツのひとりの兄弟は,広範囲にわたって警察に追跡されました。幾度もつかまりそうになりましたが,警察は彼の人相を知らなかったので危く難を避けることができました。彼の仕事は,逮捕がたえずなされたために生じたギャップをうめるため,各会衆を管理して再組織することでした。彼は次のようにその経験を話しています,
ある時私は「備え」という本のはいっている重いかばん二つを運んでいました。この本はトリエル近くの国境を越えてボンとカッセルに運ばれたものです。夜おそく,私はボンに到着して,用心深くそのかばんを会衆のしもべの家の穴倉に置きました。翌朝,午前5時30分,ベルが鳴りました。だれでしょうか。それは家宅捜査に来たゲシュタポとSSでした。会衆の僕は……私のへやの戸を叩いて,訪問者のあることを告げました。とうてい逃げられそうもないので,私たちは何が生ずるかを待つだけでした。彼らが私のへやに来たとき,何の用事で私がそこにいるかとたずねたので,私はライン川の舟旅をして,ボン市の植物園に行きたいと思っていると簡単に答えました。彼らは私の身分証明書をしらべてから……意味ありげに私に戻しました。それから,〔会衆の僕に〕洋服を着て,彼らといっしょに来るようにと告げました。
〔会衆の僕が〕後日,私にこうお話してくれました。彼らが警察署に着いたとき,警官はこう言いました,「お前の家には,もう一人の男がいた。あの男はいまどこにいるか」。「連れてきませんでした」。「何だと! 連れてこなかった! お前は馬鹿者だ!」「連れてきましょうか」。「連れてくる? お前の来るまであの男が待っていると思うか」。もちろん,私は長く待っていませんでした。私はかばんのひとつを持ってカッセルに行きました。
私がそこについたとき,会衆の僕はこう言いました,「ここに滞在なさることはできません。すぐに行ってください。ここ八日間,ゲシュタポが毎朝私を訪問しています」。私たちはこんな風に手筈をしました。つまり彼が私より50ヤードほど先を歩いて,文書の置ける場所まで私を案内することです。美しいチェストナット通りを200ヤードも歩いたか歩かないうちに,ゲシュタポが私たちの方に向かってやって来ました。彼らは彼に侮べつにみちた態度でニヤリと笑いましたが,別段彼を尋問しませんでした。50ヤードうしろの私は良く見ることができました。文書は助かりました。
この兄弟は,かつて兄弟であったひとりの人に裏切られたため逮捕され,自動車でベルリンに連れて行かれました。3時間から4時間かかったその旅行中,彼は絶えず叩かれました。彼はこう報告しています。
ベルリンのプリンツ-アルブレヒト-ストリートにあるゲシュタポの地下室に到着したとき,私は物が言えませんでした。ここで,最も残酷な方法の尋問が二日半つづきました。ひとりが私に質問し,二人が私をしっかりつかまえ,もう一人の男は重いゴムの棍棒で私を絶えず打ちました。そのような拷問は,二日半のあいだ休みなしにつづいたのです。それから,彼らは私のところに紙を持ってきて,すべてのことを書くように,また私といっしょに働いていた兄弟たちの名前を書くようにと命じました。彼らがもどって来て,エホバだけに責任を感じているために兄弟たちの名前を書かぬという私の言葉を読んだとき,残酷な仕打がまたつづきました。私は地下室に連れて行かれましたが,ひどい痛みのために休むことができませんでした。また尋問が行なわれました。こんどはひとつの頭蓋骨がへやのテーブルの上に置かれていました。2時間のあいだ彼らは気が狂ったように私を打ち叩きました。ところが,突然彼らは打ち叩くのを中止して,厚さ約4インチもある書類をテーブルの上にほうり出し,われわれはもう知りたいことは知っているのに,おまえがいつまでも打たれているのは愚の骨頂であると言いました。私は大急ぎで頁を繰ってみましたが,私の行動をそんなによく知っていたのにはびっくりしました。……質問は全部で43日つづきました。それから,私はマイン川の流域にあるフランクフルトに連れて行かれ,特別な裁判を受け,5年の入獄を宣告されました。
2年の後,国家の検事と刑務所の一高官が私を見に来ました。その目的は,私の考えを変えさせて,信仰を否認させるためでした。もしそうしたなら,私は釈放されるでょう。彼らの努力は水泡に帰しました。激怒した彼らは,「あいつのあたまをおので割ってやる」という捨ぜりふを残して行きました。刑務所に5年いて後の私の目方は,わずか105ポンドだけでした。f
多くの場合,兄弟たちは2年から5年の入獄を宣告されました。しかし,刑期が過ぎると釈放されたわけではありません。特に戦争が始まってからは釈放は望めませんでした。ベルリンは,エホバの証者を釈放してはいけないという命令を出しました。エホバの証者は収容所あるいは破滅の収容所に入れられたのです! エホバの力によってのみ多数のエホバの証者は生きて戻ることができました。
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年次総会ものみの塔 1962 | 4月1日
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年次総会
1961年10月1日,日曜日の午前10時,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会は,法律および憲章と定款に従い,ペンシルバニア州アレゲニー郡ピッツバーグにおいてメンバーの年次総会を開きました。通常この年次総会はピッツバーグ市ビゲロウ通り4100番地において開かれますが,日曜日の朝の年次総会には大勢の人の出席が予想されたので,講堂はあふれてしまうでしょう。そこでペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会のメンバー403人の一致した投票により,総会は通常の場所ではなくてピッツバークのカーネギー・ミュージック・ホールで開かれることになりました。投票した403人のメンバーには自ら出席していた人と委任投票によった人とがあります。この美しいホールはビゲロウ通り4100番地からわずか2,3の区画をへだてたところにあります。しかしピッツバーグにあるものみの塔協会の本部の御国会館においてもホールにはいりきれなかった人々が電話線によって総会の模様を聞きました。
歌と祈りのあと,年次総会は協会の会長エヌ・エッチ・ノアによって午前10時,正式に開かれました。ついで協会の理事の一人ライマン・エイ・スイングルが月の主題「新しい世の事のために真心をこめて働きなさい」について話すように求められました。これはきわめて時宜にかなったものです。つづいて議事にうつり,ティ・ジェイ・サリバンとグラント・スーターの任期満了に伴って二人の理事の席が空席となった旨,司会者より発表されました。この二人は次の3年間,理事の任につくよう満場一致で再選されました。
財政理事は各国からの興味深い経験を語りました。それは遠くの国々に住む協会のメンバーが委任状と共に書き送った手紙の中から読まれ,きわめて興味深いものでした。
そのあと,協会のメンバーの一人で英国から訪米中のプライス・ヒューズが紹介され,英国におけるエホバの証者の活動について大きな励みを与える報告を行ないました。彼はロンドンの新しいベテルの家に皆が喜んでいることを述べ,一般的なわざの進歩と,ロンドンの家にある御国宣教学校について語りました。次に協会のメンバーでベテルの僕ジョージ・カウチがブルックリン・ベテルの活動について語り,またニューヨーク市を訪れるエホバの証者がだれでもベテルとベテルにあるものみの塔ギレアデ聖書学校を見学するようにと招待しました。次にブルックリンにある協会の印刷工場の監督エム・エッチ・ラーセンが立ち,アダムス街117番地とサンヅ街77番地の工場の30台の印刷機について語りました。そのうち15台は大型の高速度輪転機です。過ぐる年のあいだ聖書と本,冊子の印刷に加えて毎月51の異なった雑誌を準備して印刷することが必要でした,次に御国宣教学校の幹事で御国農場のエイ・ディ・シュロダが,会衆の監督を御国宣教学校に呼んで特別の訓練と教育を授けるわざの成果について語りました。聴衆はこれらの兄弟たちの話に熱心に耳を傾け,大きな励みを受けました。
次に協会の会長エヌ・エッチ・ノアは「世界のハルマゲドンに面して勇気を待つ」と題する話をしました。詩篇 27篇に基づくこの話の中で今日エホバの証者がエホバに望みを置き,勇気を待たねばならない必要が指摘されました。
集会のすべては3時間19分で終わりました。出席した人の数はきわめて大きく,カーネギー・ミュージック・ホールの聴衆2093人,隣接の講堂にはいった640人,ド・ビゲロウ通り4100番地の御国会館の1169人を加えて年次総会に出席した人の総計は3902人でした。それはほんとう
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