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献身 ― だれに? なぜ?ものみの塔 1982 | 2月15日
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献身 ― だれに? なぜ?
「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民[聖別された国民; ささげられた国民],特別な所有物となる民』であ(る)」― ペテロ第一 2:9,新世界訳; エルサレム聖書; 新英訳聖書。
1,2 (イ)アブラハム・リンカーンはキリスト教世界のどこかの教会に属していましたか。それでもゲティスバーグでの演説で,自分が大統領を務めていた国についてどのように言いましたか。(ロ)どんな行動は,この国が神に信頼を寄せていることを示していますか。そして世の苦難の後に出現する政府は,どのように「人民のため」になりますか。
キリスト教世界の諸教会の中に,アメリカ合衆国の第16代大統領は自分たちの教会の会員だったと主張できる所は一つもありません。それでも,聖書の愛読者だったアブラハム・リンカーンは,1863年11月19日にかの有名なゲティスバーグの演説を行ない,次のような力強い言葉を語りました。
「我々の先祖は87年前この大陸において,自由の精神のうちに,すべての人間は平等に創造されているとの信条にささげられた新しい国家を創設した。……しかしより広い意味で言えば,我々はこの土地をささげ,聖別し,神聖にすることはできない。生者と死者の別を問わず,この地で奮闘した勇敢な男たちはこの地をすでに聖別しており,我々の微力をもってしてはそこに何かを加えることもそこから何かを減ずることもできない。……むしろ,この地で闘った人々がかくも勇敢に前進させた未完の業に,我々生ける者がささげられるべきである。むしろ,我々の前に残されている偉大な業に,ここにいる我々がささげられるべきである……」
2 ペンシルバニア州のゲティスバーグにある国立墓地におけるこの記念すべき演説以来,アメリカ合衆国はその1㌦紙幣に記されている「我々は神を信頼す」という標語の主張に背いてきました。この大統領や他の誠実な米国人がその未完の業に身をささげていたとはいえ,「人民の,人民による政治」は「地上から滅び去る」でしょう。幸いなことに,これは「人民のため」には永続的な災いを意味するものではありません。その後に,神が任命された王イエス・キリストによる,王が治める神の最高の政府ができ,現在アメリカ大陸となっている場所を含め,この地上全体の住民すべてに祝福となるからです。
3,4 (イ)その時に顕著な存在となるのはどんな「国民」ですか。(ロ)この新しい「国民」に関し,ペテロはエホバがイスラエルに呼び掛けられたどんな言葉から引用しましたか。
3 その時,新しい国民が顕著な存在となります。それはどんな国民でしょうか。それは,霊感による次の言葉が指し示していた国民です。「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であ(る)」― ペテロ第一 2:9。
4 使徒ペテロはこう言って,神がお用いになった表現を引用しています。それは神がご自分の選ばれた民イスラエル,当時アラビアのシナイ山にいたその民に関連してお用いになった表現で,出エジプト記 19章5,6節(新)に次のように記されています。「それで今,もしわたしの声に固く従い,わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。そしてあなたがたは,わたしに対して祭司の王国,聖なる国民となる」。
5 聖書中の用法に照らしてみると,「聖別する」と「ささげる」は同じことを意味していますか。
5 上に引用した出エジプト記 19章6節およびペテロ第一 2章9節で,幾つかの翻訳は「聖なる国民」という簡単な句を,「聖別された国民」あるいは「ささげられた国民」と訳すことによってその句を強調しています。a (エルサレム聖書,モファット訳,ノックス訳,新英訳聖書をご覧ください。)エホバの規準を受け入れ,その規準に従って生きるなら,イスラエル人は聖別された,あるいはささげられた民として取り分けられることになったでしょう。神は,ある物や人あるいは人の集団を「聖別する」もしくは「ささげる」ことがおできになります。神の観点からするとこれらの二つの語は根本的に同じことを意味しています。一方不完全な人間は何かを「聖別し」,それを神聖な目的に資する清いものとすることはできないものの,自分自身を含め何かを正しく,また愛を込めて「ささげる」ことができます。
6 (イ)「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行ないます」と述べて,イスラエル国民は個人として,また集団としてどんな行動を取りましたか。(ロ)強制することなしに,神は彼らをどんな取決めの中に入れられましたか。
6 神は救出されたイスラエル人に対し,もし彼らが『神の声に固く従い,神との契約を守る』なら,という条件で,彼らが聖なる国民になるということを申し出られました。彼らは,「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行ないます」と答えました。こうして,集団としてだけではなく個人的にも,彼らは救い主であるエホバ神に自分自身をささげました。それは取り消すことのできないものでした。エホバはすでに,アブラハムの生来の子孫であるがゆえに彼らを選び,紅海を渡らせて彼らをエジプトから奇跡的に救出しておられましたが,それでもイスラエル人がご自分とその崇拝に,自発的に自らをささげることを待っておられました。このことに基づいて,彼らはエホバの契約の民とされたのです。この点に関しては次のように記されています。
「律法にしたがってすべてのおきてを民全体に語ったのち,モーセは,若い雄牛とやぎの血,それに水と緋色の羊毛とヒソプを取り,書そのものと民全体とに振りかけて,『これは,神が務めとしてあなたがたに課した契約の血である』と言ったのです」― ヘブライ 9:19,20。出エジプト 24:1-8。
7 (イ)その後のユダヤ人の世代の境遇はどうなることになっていましたか。(ロ)どんな場合に,彼らは献身した身分を失うことがありましたか。
7 ユダヤ人のその後の世代は生まれながら,ささげられたこの国民の一員となり,その結果,生まれながら,神に対して献身した関係に入りました。しかし個人的には,責任履行能力の備わる年齢に達すると,シナイ山におけるこれらのユダヤ人にならい,この聖なる国民の中で良い立場を保ち続けられるよう,自分たちが本当にエホバにささげられていることを,心の動機と行動によって証明しなければなりませんでした。このことは確かに,一国民としての彼らの繁栄,そして彼らの生命そのものが関係していたのです。これは真実です。神には,ご自分が一国民にお与えになる神聖な,あるいは聖なる身分を,もし彼らがそれにふさわしくないことを示す場合には取り去り,それにふさわしいことを示す人々にそれを移すことがおできになるからです。その理由で使徒ペテロは,最初は生来のイスラエルに対して言われた神の言葉,つまり彼らが神の「祭司の王国,聖なる国民」となるという言葉を,西暦33年のペンテコステの日に存在するようになった新しいクリスチャンの国民に適用したのです。聖なる是認の移行は,どのように生じたのでしょうか。
8 (イ)ペテロが霊感による第一の手紙を書いた当時,イスラエルにどんな災いが臨もうとしていましたか。そしてユダヤ人はエホバ神とのどんな関係をもはや保っていませんでしたか。(ロ)では,だれが「聖別された国民」を構成しましたか。
8 使徒がペテロ第一 2章9節の言葉を書いた当時,ユダヤ民族には国民的災厄が近付いていました。神殿のあった彼らの都市エルサレムは,イエスの予告通りローマの軍団によってまさに滅ぼされ,人々は諸国に散らされようとしていました。(ルカ 21:20-24)悲しいことに,西暦33年に彼らは神の新しい契約の仲介者イエス・キリストを退け,しかも預言者モーセを仲介者とする古い律法契約は明らかにもはや効力を失っていました。「肉的な面でのイスラエル」は今や退けられつつあったのです。(コリント第一 10:18。マタイ 23:38)霊的イスラエルという新しい国民がエホバ神により生み出されていました。(ローマ 9:6。ガラテア 6:15,16)この新しい「聖別された国民」はイエス・キリストの弟子たちで構成されており,ペテロはこれらの人たち,つまり「父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって……選ばれた人たち」にあてて手紙を書いています。―ペテロ第一 1:1,2。
9 神はその聖なる国民の成員ひとりひとりを予知しておられましたか。彼らはどのようにして選ばれた「種族」となりましたか。
9 これは,神があらかじめ個々の成員を知っておられたとか,その名を挙げて彼らを任命されたとかいう意味ではありません。むしろ神は,ご自分が新しい国民,「聖なる国民」を生み出すであろうことと,そうした人々が選ばれて聖なる国民の一員とされるために必要とされる事柄を予知しておられたのです。さらに,この国民の成員は聖霊によって生み出されて神の霊的な子供となるので,この霊的な国民は神の聖霊によって特に聖なるものとされます。(テトス 3:4-7)この聖なる,あるいは神聖にされた立場において,彼らは「王なる祭司」として仕えることができました。霊によって生み出されたものとして,彼らは一つの「種族」,一つの「選ばれた種族」でした。
10 神が油そそがれたクリスチャンを一つの「国民」あるいは集団として扱われることからすると,個人の責任についてどんな質問が生じますか。
10 では,新しい国民の個々の成員がエホバに献身するということは,どのように問題とかかわってくるのでしょうか。神は彼らを集団あるいは国民として「聖別する」,もしくは「ささげる」ことをされますが,各人はこの新しい国民の一員として受け入れていただくため,神に対し無条件で献身しなければならないのでしょうか。聖書には,『主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば救われます』,あるいは『悔い改めて転向しなさい』という意味のことしか書かれていないのではありませんか。ですから,イエスの弟子,つまりクリスチャンになるための要求事項として明記されているのは,信仰と悔い改めと転向がすべてではないのですか。神のみ子であるイエスは地上におられた時,献身という段階を踏まれましたか。では調べてみましょう。
『わたしはあなたのご意志を行なうために参りました』
11 イエスは神とのどんな契約の取決めの下で生まれましたか。どのようにそのことは生じましたか。
11 人間としてのイエスの誕生に関してガラテア 4章4節は,「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て[モーセの]律法のもとに置かれ(た)」と記しています。ユダヤ人のある処女から奇跡的に誕生した後八日目に割礼を受けられたことは,この方が生来,神の契約の民の一員であることを確証するものでした。そしてこの点に関連し,ヨセフとマリアは,「エホバにささげるため,彼を連れてエルサレムに上(りまし)た」。―ルカ 2:22-24。
12 何の象徴としてヨハネは自分のところに来たユダヤ人にバプテスマを施しましたか。しかし最初イエスにバプテスマを施すことに異議を唱えたのはなぜですか。
12 イエス・キリストの先駆者であったバプテスマを施す人ヨハネが国民を悔い改めに導くべく遣わされたのはこの献身した国民のところでした。イエスも,「わたしは,イスラエルの家の失われた羊のほかはだれのところにも遣わされませんでした」と述べておられます。(マタイ 15:24)神の献身した民に対するこの音信は特別なもので,イスラエル人でない諸国民には適用されませんでした。バプテスマを施す人ヨハネはこれら「イスラエルの家の失われた羊」に対し,律法契約に違犯したその罪を悔い改めるよう呼び掛けました。(マタイ 3:1-6)「ヨハネは,悔い改めの象徴としてのバプテスマを施して,自分ののちに来る者,つまりイエスを信じるよう民に告げました」。(使徒 19:4)しかしイエスが水のバプテスマを受けるためにヨハネのところに来られたのは,明らかに悔い改めを象徴するためではありませんでした。イエスには罪がなかったからです。またイエスは律法契約の下に生まれましたが,その律法契約の違犯者ではなかったからです。このことを知っていたヨハネはイエスにバプテスマを施すことをためらいましたが,イエスから「このたびはそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなうことをすべて果たすのはふさわしいことなのです」と言われ,その求めに応じました。(マタイ 3:13-17)イエスは何を言わんとしておられたのですか。
13 (イ)イエスはどのように詩篇 40篇7,8節を成就されましたか。(ロ)イエスのバプテスマは何を象徴していましたか。
13 この時イエスは,詩篇 40篇7,8節のご自分に関する次の預言に一致して行動されました。「それゆえに,わたしは言いました,『ここにわたしは参りました。書の巻き物にわたしについて書いてあります。わたしの神よ,あなたのご意志を行なうことをわたしは喜びとしました』」。ヘブライ 10章5-10節では,この預言はイエス・キリストに適用されています。イエスの場合,神はモーセの律法契約にのっとってささげられた犠牲ではなく,新しい契約の土台として犠牲にされるべき,み子のために神が備えられた完全な人間の体を犠牲として望まれたからです。ですからバプテスマをお受けになった時,イエスは神に献身したのではありません。イエスはすでに献身した国民の一員であり,罪がなく,転向する必要がなかったからです。(ヘブライ 7:26)むしろイエスのバプテスマはその後のみ父のご意志を行なうため,天の父にご自分を差し出されたことの象徴でした。そしてこの点でイエスは弟子たちのバプテスマの手本を残されたのです。
14 (イ)ヨハネの投獄の後,イエスはどんな音信を宣べ伝え始められましたか。(ロ)この当時,悔い改めとバプテスマは何に対して人々を備えさせるものとなりましたか。
14 バプテスマを施す人ヨハネが投獄されたことを聞いたイエスは,すでに献身していたイスラエル人に対する伝道活動を開始されました。こう記されています。「その時からイエスは伝道を開始し,『あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです』と言いはじめられた」。(マタイ 4:17)悔い改めの象徴としてバプテスマを施すことが新たな勢いを得ました。(ヨハネ 3:26; 4:1,2)大いなるモーセであるイエス・キリストが天に昇り,ご自分の人間の犠牲の価値をエホバ神に差し出された時,モーセの律法契約は無効になり,予告されていた「新しい契約」を施行するための土台が据えられました。(エレミヤ 31:31-34,新)したがって西暦33年のペンテコステの日に,イエスのユダヤ人の弟子たちはモーセの律法契約から,大いなるモーセ,イエス・キリストを仲介者とする「新しい契約」に移されたのです。b
15 (イ)律法契約が解消されても,ユダヤ人にとってどんなものはすぐには終わりませんでしたか。(ロ)神に献身した関係を大切にしたユダヤ人たちに対する神のご意志は,その時どのようなものとなりましたか。
15 律法契約は今や無効にされましたが,ユダヤ人はアブラハムの生来の子孫であるという理由で,神が彼らに特別の好意と注意を向けられる期間は終わっていませんでした。それは西暦36年に初めて終わりました。ですから西暦33年に最初に聖霊が注がれた後でさえ,霊によって油そそがれた使徒ペテロはエルサレムにいた一群のユダヤ人にこう述べています。「ですから,あなたがたの罪を消していただくために,悔い改めて身を転じなさい[転向しなさい]。さわやかにする時期がエホバのみもとから到来し,あなたがたのために任命されたキリスト,イエスを遣わしていただけるようにです」。神に対して献身した関係を是正することには,律法契約,すなわち彼らが依然として自分たちはその下にあると考えていた契約に違犯した罪を悔い改めることだけではなく,この新しい国民の成員となる見込みを持つ者として自分自身を差し出すことが関係するようになったのです。それはイエスの弟子たち,つまりクリスチャンとなるすべての人に対する当時の神のご意志でした。このことは,イエスを死に追いやることに荷担したため「心を刺され」たユダヤ人に対し,ペテロがそのペンテコステの日の早くに述べたことによって確証されています。ペテロは彼らにこう語りました。「悔い改めなさい。そしてあなたがたひとりびとりは,罪のゆるしのためにイエス・キリストの名においてバプテスマを受けなさい。そうすれば,無償の賜物として聖霊を受けるでしょう」。ですから,ただ悔い改めることや,イエスに対する信仰に基づいてただより良いことを行なうというばく然とした決意以上の多くの事柄が関係していたのです。―使徒 3:19,20; 2:37-40,新世界訳,欽定訳。
16 (イ)王国の音信が無割礼のサマリア人に達した時,彼らの水のバプテスマは何を象徴していましたか。なぜですか。(ロ)彼らが神との契約関係に入れられたことを何が立証していますか。
16 イエスは昇天される前,ご自分に関する証しが弟子たちによって「サマリア……でも,また地の最も遠い所にまで」広く行なわれるようになると弟子たちに告げられました。(使徒 1:8)非イスラエル人であり,「他国の」人であったにもかかわらず,サマリア人は割礼を受けていました。モーセが書いた聖書の書物を受け入れ,モーセが神と自分たちとの間の仲介者であると考えていたからです。(ルカ 17:16-18)エホバはその過分のご親切により,ペテロが無割礼の異邦人に幾分先立ってサマリア人のために特別なかぎを用い,天の王国に関連した機会を開くことをよしと見られました。しかし,そのサマリア人たちは事実上モーセの律法契約には入っておらず,「自分の知らないものを崇拝して」いたため,バプテスマを受けるに当たっては,よく理解した上で新しい契約の仲介者であるメシア,イエスの名においてエホバ神にまず献身しなければなりませんでした。彼らがのちに聖霊によるバプテスマを受けたことは,彼らが新しい契約に受け入れられたことを立証しました。―マタイ 16:18,19。ヨハネ 4:4-42。使徒 8:5-25。
17 (イ)神は「ご自分のみ名のための民を取り出すため」,いつまたどのように無割礼の異邦人を初めて顧みられましたか。(ロ)彼らの水のバプテスマは何を象徴していましたか。
17 西暦36年,ユダヤ人に対する神の特別な恵みの時が尽きると,エホバ神は,「ご自分のみ名のための民を取り出(すため)」,無割礼の非イスラエル人,つまり異邦人に注意を向けられました。(使徒 15:14-18)別の「かぎ」を用いるに際し,ペテロはユダヤ人に対して親切な態度を示していたコルネリオという名のローマの百人隊長の家に遣わされました。これらの異邦人はエホバ神とその栄光を受けたメシアに関する証しを受け入れたに違いありません。聖霊が彼らの上に下り,彼らは異言を語り始めたからです。神はあわれみ深くも,「世の罪を取り去る,神の子羊」であるイエス・キリストを通して,「命のための悔い改めを諸国の人びとにも」授け始められたのです。(ヨハネ 1:29。使徒 11:18)エホバはまた,彼らが心の中で神に対して示した献身を根拠に,霊的な国民の中に彼らを受け入れられました。聖霊がこのことを確証しました。そのため,ペテロに同行した,キリスト教に転向したユダヤ人たちは,「イエス・キリストの名においてバプテスマを受ける」ようにとのペテロの命令に対し,だれも異議を唱えることができませんでした。これは,「諸国の人たちの転向」の発端となりました。(使徒 10:1-48; 15:3)その時以来,ユダヤ人であれ異邦人であれ神に仕えたいと望む人は皆,エホバに心の中で献身しなければなりませんでした。そして彼らの水のバプテスマに関して言えば,彼らはイエスに倣い,自分たちに対する神のご意志を行なうために自らを差し出すのです。
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献身とその象徴ものみの塔 1982 | 2月15日
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献身とその象徴
1 西暦前607年にエルサレムが滅ぼされる前の誠実なユダヤ人の場合のように,人の身分を示すしるしは,どのように良いものとなり得ますか。
人の身分,あるいは公の立場を示す印や象徴は良いもの,必要なものであることがあります。例えばエルサレムが西暦前607年に滅ぼされようとしていた時のこと,正しい心を持つイスラエル人を虐殺から守るよう,その額に印を付けるべく象徴的な一人の「人」が派遣されました。神の聖都であるはずの場所のただ中で『行なわれている嫌悪すべきこと』に義憤を感じていた少数の人だけが,救いのための印を付けられました。―エゼキエル 9:1-7,新。
2 啓示 7章には身分を明らかにするどんな要素が論じられていますか。これらはどのように救いと関連していますか。
2 今日,「大患難」が全世界を襲おうとしています。そのため啓示 7章1-8節によると,地の四隅に位置する「四人の使い」は,神のお選びになる一定の数の人々の額に証印が押されるまで,四方の風が吹いて極めて破壊的なあらしである「患難」が生じないよう,その風を押さえていなさい,という指示を受けています。このことにより,「大群衆」がこの「大患難」に生き残るにふさわしいものとみなしていただけるよう,自分自身を「子羊の血」で洗うための時間が与えられることになります。―啓示 7:9-14。マタイ 24:21,22。
3,4 ユダヤ人の大祭司の場合,そのターバンの上の『献納の象徴』は何を思い出させるものとなりましたか。
3 古代イスラエルには祭司職が設けられました。モーセはエホバから与えられた特別な指示に従い,大祭司用の独特な衣服を製作しました。ターバンに関してはこのように記されています。「彼らは自らの聖なる献納の象徴[しるし]として純金のばら飾りを作り,その上に印章上の刻み込みとして『主に対して神聖な』[『ヤーウェに対して聖別された』,エルサレム聖書]と書き込み,それから彼らはターバンの上部にそれを固定するため,その上にすみれ色の組みひもをしっかりと付けた」a ― 出エジプト 39:30,31; 29:6,レビ 8:9,新英訳聖書,新世界訳聖書。
4 この『献納の象徴』は,大祭司が献身した民を益する神聖な奉仕のため神によって「聖別され」た,あるいは献納されたものであるということを大祭司および見守るすべての人に思い出させたことでしょう。大祭司や仲間の祭司たちは率先して人々に教育を施し,罪を贖う受け入れられる犠牲をささげましたが,そうしたことは彼らが神への献身にふさわしく生活するための助けとなったでしょう。これは,この国民の献納された聖なる身分に寄与したことでしょう。もしエホバを離れるなら,今度はエホバが彼らから離れ,彼らを敵の手に渡されるとの警告を受けていたからです。―申命 28:15,25,63。
5 今では,コーヘーンという名のユダヤ人でも自分がアロン系の大祭司であると証明することはできませんが,わたしたちの場合絶望的でないのはなぜですか。
5 イスラエル人の悲惨な歴史は,彼らが神の命令と,神に対して献納された自分たちの奉仕から離れたために被った災いで満ちています。西暦70年に生じた,エルサレムおよびその神殿の2度目の滅びの後,ターバンに献納の象徴を付けていた大祭司は姿を消しました。今日では,コーヘーン(“祭司”を意味する)という苗字を持つユダヤ人といえども,自分がイスラエルの大祭司であると証しすることはできません。ではわたしたちの状況は絶望的なものでしょうか。そうではありません。栄光を受けた神のみ子に関して次のように記されているからです。『このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼はただ一度かぎりご自身をささげられました』― ヘブライ 7:26,27。
6,7 イエスは,イスラエルの祭司の部族に生まれましたか。イエスはどのように大祭司になることができましたか。
6 イエスは神の子であったので,神の祭司となるためにレビ族,あるいはアロンの祭司の家系の一員となる必要はありませんでした。エホバ神のすばらしい取決めによりそれが可能になったのです。ダビデ王は神の霊感を受けて,この優れた子孫に関する預言を行ないました。この子孫は自らの王家の父祖たちよりも高い地位に就きます。「わたしの主に対するエホバのお告げはこうです。『わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,わたしの右に座していよ』。あなたの力の杖をエホバはシオンから送り出して,こう言われます。『あなたの敵のただ中で従えてゆけ』。あなたの軍勢の日に,あなたの民は進んで自らをささげます。神聖さの光輝のうちに[聖なる軍勢のうちに],夜明けの胎から,あなたは露玉のような若者の隊を得ておられます。エホバは誓いをお立てになりました。(そして悔やまれません。)『あなたは定めのない時に至るまで,メルキゼデクのさまにしたがう祭司である!』」― 詩 110:1-4,新世界訳,アメリカ訳。
7 したがって栄光を受けたイエス・キリストは現代に至るまで,献納を象徴する物質を身に付けていた古代イスラエルの祭司長たちよりも地位の高い,王なる大祭司であられます。イエス・キリストは,レビ族の祭司であるからではなく,エホバ神の誓われた誓いによって職務に就いておられるのです。
『進んで自らをささげる』人々のための象徴
8 今はなぜキリストの「軍勢の」日なのですか。今進んで自らをささげるこれらの人々は,この点でどのように前進してゆきますか。
8 王なる大祭司であるキリスト・イエスの弟子たちは今,その「軍勢の日」に「進んで自らをささげます」。彼らはこの王なる大祭司の名においてエホバ神に献身し,その献身の象徴として水のバプテスマを受けます。「大患難」がぼっ発する前,最終的に全員に証印が押されなくてはならないのはこれらの人々です。彼らは「大群衆」という仲間と共に,正に露玉のように,救いに関する神のさわやかな音信を人々にもたらすことに「進んで自らをささげ」ます。―啓示 7:2-4,9,10,14。
9 ローマ 12章1,2節でパウロは油そそがれたクリスチャンたちにどんな助言を与えていますか。
9 使徒パウロは1900年前に弟子たちに手紙を書き,こう述べています。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です。そして,自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」― ローマ 12:1,2。
10,11 (イ)したがってパウロは,どんな論議に続くものとして,ローマにいた異邦人のクリスチャンたちに訴えを行なっていますか。(ロ)この取決めは,どんな点で神の側の大いなるあわれみの表明でしたか。
10 上述の懇願は,象徴的なオリーブの木に関するパウロの論議の直後に出てきます。園のオリーブの木の枝のように,献身したイスラエル国民は神の「友」アブラハムの生来の子孫でした。そうした事情のため彼らには,アブラハムに対してなされた約束により,まず最初に「アブラハムの胤」となる資格がありました。(創世 12:3; 22:17,18,新。ガラテア 3:16,29。ヤコブ 2:23)しかしイエスをメシアとして受け入れ,地的なアブラハムの生来の胤から大いなるアブラハムであるエホバの霊的な胤へと移されたのは生来のユダヤ人の残りの者だけでした。(ローマ 11:5,7)そのほかの者たちは「枝」のように切り落とされました。彼らに代わるものとして,神はいわば象徴的な野生のオリーブのような非ユダヤ人に目を向けられたのです。それは,十分の数の「枝」を切り取り,すべての祝福の源,大いなるアブラハムであられるエホバ神を根とし,14万4,000の枝で構成されることになっていた霊的な園のオリーブの木に接ぎ木をするためでした。―ローマ 11:13-33。啓示 14:1。
11 したがって,そのローマの人々や他の無割礼の非ユダヤ人たちのすべてが,神の王国によって地の全家族を祝福するアブラハムの霊的な胤の一部になるということは,神の側の大いなるあわれみの表明でした。(エフェソス 2:12。ガラテア 3:26-29)これは彼らに自己犠牲の道を課するものとなりました。しかしこれは,神がその時人類に差し伸べておられた唯一の特権でした。しかもそれは特別にすばらしい特権でした。使徒パウロは適正な限界を踏み越えることなく,手紙の中で彼らに次のように述べました。「自分を死人の中から生き返ったものとして神にささげ,また自分の肢体を義の武器として神にささげなさい。律法[モーセの律法]のもとにではなく過分のご親切のもとにある以上,罪があなたがたの主となってはならないからです」― ローマ 6:13,14。
12 「自分を死人の中から生き返ったものとして神にささげなさい」と告げられた時,霊によって油そそがれたキリストの弟子たちにとってそれはどんなことを意味していましたか。
12 パウロは,すでに献身していたクリスチャンたち,つまり「聖なる者たち」に手紙を書いていますが,彼らが命をささげるに当たって最初に行なったことを見過ごすことなく,『自分を死人の中から生き返ったものとしてささげなさい』と述べています。しかし彼らはこの自己犠牲の道において,この献身にふさわしい生き方をしなければなりません。そうしないなら,代わりの枝としての彼らも,やはり切り取られてしまうでしょう。(ローマ 1:7; 11:21,22)さらに,霊感のもとに書かれたこれらの言葉は,イエス・キリストの将来の弟子たちによって読まれ,彼らが献身しバプテスマを受けたこの関係を神との間に持ち,またその関係を保つのに必要とされる段階をすべて経るよう,強い励ましを与えるものとなります。一度築かれた,神に献身した関係を保つために,彼らは自分たちの肉の肢体を罪の支配に服させるのではなく,義の武器とする闘いを絶えず行なうことになります。それは次のイエスの言葉に従うことです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて絶えずわたしのあとに従いなさい」― マタイ 16:24。
献身を象徴する「大群衆」
13 地的希望を持つ人々が神に献身し,それを水のバプテスマによって象徴するのは正しいことですか。
13 今日,全地にわたって230万以上の人々が王国の良いたよりを宣べ伝えることに参加しており,そのうちの大部分は自らの献身を象徴する水のバプテスマのために自らを差し出しています。年ごとの主の夕食の祝いの際に,表象物のパンとぶどう酒にあずかり,自分たちが天的な希望を持つキリストの弟子であることを告白する人々はそのうちの1万人足らずです。では,その他の人々も皆献身し,水のバプテスマによってそれを正しく象徴するでしょうか。確かにそうします。彼らも目前に迫った「大患難」に生き残り,神の「新しい地」の一部として相続財産を得るため,立派な羊飼いであるキリスト・イエスを通し,神との正しい関係に入らなければならないからです。―ペテロ第二 3:13。啓示 21:1-4。
14 立派な羊飼いであるキリスト・イエスの「一つの群れ」の中で,どんな優れた関係が正しく行き渡っていますか。
14 それで,献身したエホバの証人たちの圧倒的大多数は,天にある王国においてイエス・キリストの共同相続者になるという天的希望を抱いていません。彼らはエホバの霊によって生み出された霊的イスラエル人であるとは主張しません。それでも「ひとりの羊飼い」であるイエス・キリストの下にある「一つの群れ」の成員として,霊的イスラエル人の残りの者と交わり,彼らから離れることがありません。(ヨハネ 10:16)これは彼らの優れたところであり,聖書的にも正しいことです。
15 (イ)生来のユダヤ人のほかにだれがエジプトを出,最後には約束の地に入りましたか。彼らはそこでどんなものとみなされましたか。(ロ)彼らは今日のだれを表わしますか。
15 ではここで,聖書のコリント第一 10章18節に勧められていることをしてみましょう。つまり「肉的な面でのイスラエルを見てください」。モーセの指導の下にエジプトを脱出した時,そこを出たのは割礼を受けた生来のイスラエル人だけではありませんでした。「入り混じった大集団も彼らと共に上って行き,加えて羊の群れと牛の群れ……が一緒であった」のです。(出エジプト 12:38,新)イスラエル人が約束の地に入った時,これらの人々は「あなたの門の内にいる外人居留者」となりました。(出エジプト 20:10; 民数 35:15; レビ 19:9,10,新)古代のこの入り混じった大集団は,今日における,立派な羊飼いであるイエス・キリストの「ほかの羊」の「大群衆」を表わしていました。―ヨハネ 10:14,16。啓示 7:9-17。
16,17 (イ)ひゆ的に言って,「入り混じった大集団」はどんな方法でイスラエル人と共にバプテスマを受けましたか。(ロ)今日の対型的なエジプトから逃れたのはだれですか。紅海における状況と似た状況で滅びを被るのはだれですか。
16 モーセの時代の非イスラエル人から成る「入り混じった大集団」は,奇跡的なバプテスマを含め,割礼を受けたイスラエル人と同じ経験をしました。このバプテスマについて使徒パウロはコリント第一 10章1-4節でこう述べています。「わたしたちの父祖はみな雲の下にあり,みな海の中を通り,みな雲と海とによってモーセへのバプテスマを受けました。そして,みな同じ霊的な食物を食べ,みな同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らはいつも,自分たちについて来た霊的な岩塊から飲んだのです。その岩塊はキリストを表わしていました」。このように,イスラエル人も「入り混じった大集団」もひゆ的な方法でバプテスマを受けたのです。もっとも彼らは文字通り水にぬれることはありませんでした。
17 エホバ神によるこの奇跡的なバプテスマは,彼らを,神がお与えになった指導者モーセに託すものとなりました。それはあたかも彼らが文字通りモーセへのバプテスマを受けたかのようでした。しかしそれは,追跡して来たエジプト人の場合とは異なり,死へのバプテスマではありませんでした。(出エジプト 14:1-15:21)今日わたしたちは同様の状況に近付いています。霊的イスラエル人の忠実な残りの者とその仲間である「大群衆」は対型的なエジプトを後にしました。(啓示 11:7,8)彼らはキリストの千年王国の支配する事物の新秩序へと行進します。大いなるモーセである栄光を受けた主イエス・キリストが彼らを導かれます。その後ろを追跡するのは,そうやすやすとは行かせまいと心に決めている敵の世です。対型的なエジプトは神の戦場であるハルマゲドンに向かっており,そこで彼らは火による,つまり滅びのバプテスマを受けるでしょう。生き延びてその恐ろしい体験を話せる人は一人もいません。(啓示 16:14-16。マタイ 3:11,12)紅海における出来事と同じように,ハルマゲドンにおいて虐殺される人の中には霊的イスラエルや,大いなるモーセの「ほかの羊」の「大群衆」は一人も含まれません。
18 「大群衆」の人々は,モーセの指導の下でエジプトを出た後の「入り混じった大集団」とどのように似たものとなりますか。
18 「大群衆」の忠実な人々は,ファラオに相当する悪魔サタンの支配する,災厄の臨んだ対型的なエジプトに戻りたいなどという二心の気持ちを抱いて落伍することはありません。彼らは顔を前に向け,「一つの群れ」のように,霊的なイスラエル人の残りの者と絶えず接触を保ちます。(ヨハネ 10:16)「入り混じった大集団」が紅海を通って生き延びたと同じように,現代の「大群衆」の人々も,「全能者なる神の大いなる日の戦争」の後,救いの岸辺に立つことでしょう。
19 今日「大群衆」を構成している人々は特にいつから水のバプテスマを受けてきましたか。そしてどのように神に清い崇拝をささげるべく,自分たちの身分を証明するものを清くしてきましたか。
19 特に1935年以来,現在「大群衆」を構成している人々は,大いなるモーセであるイエス・キリストを通して行なう神に対する無条件の献身を象徴するものとして,水のバプテスマを進んで受けてきました。彼らは自分たちの身分を証明するものとなる長い衣を洗い,それを大いなるモーセである「子羊の血で白く」しました。(啓示 7:9-14)彼らは神に対して清い崇拝をささげています。
20 「大群衆」の人々はどこでエホバを崇拝していますか。このことはゼカリヤ書 8章20-23節の中でどのように予告されていましたか。
20 清い崇拝者のこの「大群衆」は,昼も夜も神の霊的な神殿にいます。(啓示 7:15-17)彼らは,預言者ゼカリヤが前もって見ていた人々によって予表されていました。その人々は,西暦前537年にイスラエル人がバビロンから解放されてエルサレムにエホバの神殿が回復された後,その神殿で崇拝を行なっていました。この点に関しゼカリヤ書 8章20-23節(新)にはこう記されています。
「万軍のエホバはこう言われた。『再びもろもろの民と多くの都市の住民がやって来る。一つの都市の住民は必ず別の都市の住民のところに行ってこう言う,「ひたすら行って,エホバの顔を和め,万軍のエホバを求めよう。わたしも行く」。こうして多くの民と強大な国民がエルサレムで万軍のエホバを求め,エホバの顔を和めようとして,まさにやって来る』。
「万軍のエホバはこう言われた。『その日には,国々の民のあらゆる言語の者のうち十人が,ユダヤ人であるひとりの人のすそをつかみ,まさにそれを捉えてこう言うであろう。「わたしたちはあなた方と共に行こう。わたしたちは神があなた方と共におられるということを聞いたから」』」
21 「大群衆」はどんな方法で「ユダヤ人であるひとりの人のすそをつかみ」ますか。そしてどんな理由のために,彼らは「大患難」に生き残る希望を抱きますか。
21 これら「国々の民のあらゆる言語の者のうち十人」の態度は,唯一の生けるまことの神であられるエホバ神への献身を示すものです。今日このような献身は,かつて地上に存在した最も偉大な「ユダヤ人」,すなわち一度かぎり犠牲にされた「子羊」イエス・キリストを通して神に受け入れられるものとなります。彼らは自分自身を差し出すことだけではなく,彼らの場合にはそれに加えて同じ神に対する専心の献身の象徴として水のバプテスマを受けることにより,忠実にイエスに見倣っています。彼らは14万4,000人の霊的ユダヤ人の残りの者の「すそをつかみ」,その「あなた方」と共に上なるエルサレム,天のエルサレムの下に集まります。まだ地上にいる残りの者が代表しているその霊的な神殿において,彼らは昼も夜も至高者であられる神エホバに「神聖な奉仕」をささげます。彼らの望みは,「大患難」を生き残り,神にささげられた奉仕を地上で永遠に行ない続けることです。専心の献身をし,バプテスマを受けた神の僕として彼らがふさわしく認められることにより,彼らはそれを得ることになります。『父は,霊と真理をもってご自分を崇拝するそのような者たちを求めておられる』と保証されているからです。―ヨハネ 4:23,24。
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ホセアの統治に光を投げかけるアッシリア年代記ものみの塔 1982 | 2月15日
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ホセアの統治に光を投げかけるアッシリア年代記
聖書には,ホセアがペカ王に対して陰謀をたくらみ,「ウジヤの子ヨタムの第二十年に彼に代わって治め始めた」ことが記されています。(列王下 15:30,新)第20年というのは,明らかにヨタムが王となってからの期間を指すものと理解されます。ヨタムが実際に統治したのは16年間でした。―列王下 15:32,33。
ホセアはヨタムの後継者アハズの第4年に統治を開始しましたが,その後何年かはイスラエルの王として完全に認められてはいなかったようです。列王下 17章1節によると,ホセアはアハズの第12年に王となりました。ティグラト・ピレセル三世の年代記はそれを説明するものと思われる一つの事実に光を投げかけています。この支配者の統治に関する碑文の断片にはこう記されています。「余は住民(と)その財産すべてをアッシリアに携えていった。彼ら[イスラエルの人々]は自分たちの王ペカを倒した。……そして余はホセアを……彼らの王とした」。(ジェームズ・B・プリチャード編,「古代近東テキスト,1955年,284ページ)ホセアが首都サマリアからイスラエルに対する完全な支配を確立したのは,おそらくアッシリアの後ろだてによるのでしょう。
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