-
人間がこの地球上にいるのはなぜか目ざめよ! 1976 | 10月8日
-
-
人間がこの地球上にいるのはなぜか
澄みきった夜空を見あげて次のようにいぶかったことがありますか。自分がこうして地上に生を享けたのはなぜだろうかと。あらゆる惑星と他の天体の中でも,多種多様の植物と生物の命をささえるのに理想的な環境を備えているものは,地球の外には知られていません。この地球と,地球上に見られる様々な形態の生命が存在するようになったのは,起こりそうもない事柄が単に偶然に数多く結びついたことによるのですか。それともこのようなものは,理知のある造物主が作り出したのであって,そのことを示す証拠があるのでしょうか。
今日多くの人の信ずるところによれば,人間は進化の結果産み出されたもので,人間以上の優越者に対する責任などというものはありません。ゆえに我々が地球上にいる目的は我々自身の欲望と標準に従って人生を送ることであると,彼らは結論しています。もちろん“孤島に住んでいるのでない”以上,各人は自分が世話になっている人々との関係を損なうことのないように注意しなければなりません。基本的に言って人の全生活は自分の好きなことをする,そしてできれば幾らかは社会のためになることもして自己満足を得,世間にも認められるようにすることが中心になっていると言えそうです。
しかしこのような考え方には,真に励みとなるものが何かありますか。一生の間に何を成し遂げたとしても,すべては死と共に失われてしまいます。名前こそ死後何年間も人の口に上ることがあっても,個人的にはその人はやがて忘れられてしまうでしょう。
このすべてから次のような疑問が生じます。七,八十年の地上の生命は,人生を有意義と思われるものとするのに足りますか。むしろ死によってこれほど多くが失われることは,ざ折感を与えるものではないでしょうか。約二十年かかっておとなになると,次の二十年かそこらは知識を深め,経験を積むのに費やされ,その後ほどなくすると人は老いと弱さを感ずる年を迎えます。そして遂には死がすべての活動に終止符を打ちます。その人の知識の幾分かは他の人に伝えられていたにしても,その知識と経験を全部合わせたものは,子孫にとって失われたものです。人間が存在するようになって多くの世紀を経た今なお,この地球と,果てのない宇宙には未解決の神秘が無数にあるのに,これは何と残念な,そして無駄なことでしょう。
他方,理知のある造物主の存在を信ずる人も何百万人といます。もしその信ずる通りであれば,地球とその上の人間に対する造物主の目的は何ですか。多くの人が考えているように,地球は遂には滅びてしまうのですか。それは人類の永久の運命を定めるための試験の場所に過ぎないのですか。地球がこのような試みの場所に過ぎないとすれば,生まれたばかりの赤ん坊でも死ぬことがあるのはなぜか,説明できますか。何もしていない者がどんな人間であるか,どうして分かるでしょうか。そしてまた人間を試みる広大な場所のごくわずかな部分を知っただけでそれ以上のことは何も分からないうちに,男と女を地球上から早くも引き離してしまうことを,理知ある創造者がどうして望むでしょうか。また人を楽しませる様々な形態の生命をはぐくんでいるこの美しい地球を燃やし尽くすことを,創造者がどんな理由で望むでしょうか。
人間がなぜこの地球上に生存しているかについて,一般に受け入れられている考え方にあき足りない人々は今日ますます増えています。多分あなたもそう感じておられるかもしれません。それにしてもわたしたちがこの地球上に生きている真実の理由を確かに知る方法が何かあるのですか。それともこの問題はきれいに忘れてしまって,自分にできる限り最善の生き方をするのがわたしたちにとって益のあることと言えるのでしょうか。
実を言えば,こうした事柄について間違った考え方を持っていると,害を受けないとも限りません。例えば,造物主が存在せず,従って造物主に対する責任が人間にないとすれば,何億という人々は欺かれていることになります。その人々は自分たちの信念ゆえに時間と精力と資力をささげて宗教的な目標の達成に努めているかもしれません。それでもそうした目標はだれの益にもならないことになってしまいます。他方,至高者が存在し,人間に対して目的を持つとすれば,その目的が何であるかを知ろうとすることはわたしたちにとって当然です。それを知って初めて,わたしたちは至高者の目的と調和した生き方をすることができます。全くのところ,わたしたちがこの地球上に生きている理由についてどんな考え方を持つかは,現在の命と将来の命の両方に影響すると言えるでしょう。
-
-
目的があるに違いない目ざめよ! 1976 | 10月8日
-
-
目的があるに違いない
非常なざ折感を味わった結果,『さあ飲み食いしよう。明日は死ぬのだから』という哲学を持つようになった人は別として,ほとんどすべての人は何かを成し遂げたいという望みを持っています。たとえ目的を失った生き方に身をゆだねている人であっても,成し遂げずに終わった事は心に残り,幸福ではありません。達成できるかどうかは保証の限りでないとしても,何かの目標を目ざして働くことは,これといった目的を持たずに人生を送るよりもはるかに満足感を与えます。
そのうえ大抵の人は人生に有意義な目的を望むだけでなく,それと共に建設的な生き方をする機会を求めています。そのような人は地球にも人間にも関心を抱き,真に有益な目的は他の人々の福祉と幸福に貢献するものであることを悟っています。自分の周囲に見られる美と,他の人々のうちに認めることのできる善良さに十分気づいている人は,何にもまして目的を目ざして働くように動かされます。医学研究や科学の諸分野における多くの人の努力は,― 利己主義や不完全さにもかかわらず ― 基本的には他の人々の福祉に関心を持つ人がきわめて多いことを物語っています。
この考え方をすることが人間にとって可能ならば,創造者においてはどうですか。創造者の占める優越した地位から地球を見ることができるとしたら,世代が入れ替わり登場しては悩み多い,そして満ち足りることの少ない短い年を生きてやがて死んでゆくのを見るだけで,はたしてそれが理にかなった,あるいは満足すべきことであると考えられますか。この同じ光景が何度も,そして際限なく繰り返されるのは,目的のあることと言えますか。イザヤ書 45章18節に記録されているとおり,神はこう宣言されました,『地を造り成したわたしはいたずらにこれを創造せず,人の住みかに造った』。これは地球を死んでゆく世代の住みかにするつもりであったということですか。このような事態のむなしさは聖書の次の言葉に描写されています。「世は去り,世はきたる。しかし地は永遠に変らない」。(伝道 1:4,口)神はこれがいつまでも続くままにされるのでしょうか。あなたが全知の創造者に期待するのは,このような種類の目的ですか。今こうなっているのも,すべてを見通しておられる創造者に目的があってのことであり,創造者は来たるべき良い事柄を見越しておられるに違いありません。
人体には明らかに目的が認められる
地球上の生物とくに地球上で最高の生物である人間をよく見てごらんなさい。人間の体にむだなものは一つもないことに気づくでしょう。手を見てごらんなさい。これほど適切で,これほど巧妙な,またこれほど美しい,手の代わりになるものを作った人がかつていますか。指の持つ感覚,望む通りのことをするために指を動かす能力を考えてごらんなさい。小さなトランジスタから巨大な船に至るまで,人間の作り出したもので,神から授けられたこの指の働きなしで作り得たものはこの地上に一つもありません。
あなたの目を考えてごらんなさい。目はすばらしく作られた二つの小さな球状の映画“撮影機”であって,完全に連動し,現像の時間を必要とせずにカラーの立体写真をとることができます。しかし目はカメラよりもはるかに勝っています。例えば,目は被写体の動きを“固定する”ためのシャッターを必要としません。目は動いている物を見てもぼけたりせず,動いているものと静止しているものを区別します。これら二つの生きたカメラは,見たものを解釈する脳の部分と共に胎児の中で数種のミネラル,ある種のたんぱく質,脂肪,糖分および水から形づくられます。
ニューヨーク・タイムズ紙の科学記事は,驚嘆すべき脳について次のように述べていました。
『物理的に見た脳の構造は非常に複雑で,それと比べれば巨大なコンピューターも子供のおもちゃに等しい。脳の神経細胞ひとつを考えただけでも,それは人間が今までに作った最もすばらしい機械と比べてさえ,比較にならないほど複雑な構造を有している。しかも高等な精神作用の中枢である大脳皮質は,器官全体の小さな部分を占めているに過ぎないが,それでも百億の神経細胞から成り立っている。そのひとつひとつが,生きた発電機として作用する複雑な原形質の単位である』。
また人体に兆を数える細胞について研究が明らかにしたところによれば,そのどれもが一から二千までの異なった化学反応を同時に起こさせることができます!
地球は人間が住むのに理想的につくられている
地球そのものに目を移すと,それは人類の住む場所として驚くべきものであり,まさに理想的であることが明らかです。男と女が地球上に置かれた時,二人が生命を維持し,幸福に生きるのに必要なものはすべて備えられており,二人はそれを享受できました。現在でも生態系は,人間がはなはだしく介入しさえしなければ,人類が必要としているものを備えます。この事はニューヨーク市ブルックリンで大学生のグループに話された講演の中で強調され,講演者は次のように述べました
『この地球は実際の家と同じように設計され,設備されています。それは全くよく似ています。例えば,実際の家の天井には電燈があります。地球も同様です。つまり太陽があります。実際の家には廊下に常夜燈があり,地球にもそれと同じく月があります。月は夜を支配する光体になると,神は言われました。(創世 1:14-18)その光はやや冷たい光であり,眠りを妨げない柔らかい光です。
『実際の家には各部屋に給水する配管設備があります。地球にも同じく配管設備があって,地下のパイプつまり水脈により地球のあらゆるところに水を供給しています。山の中にさえ,泉がこんこんとわき出ています。サハラ砂漠も場所によっては数フィート掘るだけで水が得られます。
『住宅の地下室には暖房用の石油あるいは石炭があります。地球の“地下室”である地層の中にも石油と石炭があって,人間はそれを使うことができます。住宅の地下室にはたいてい銅,鉄その他の金属片があって物を作ったり,修理したりするのに用いられます。地球の“貯蔵庫”にも銅,鉄,金,銀,プラチナその他があり,またこの地球の“家族”の婦人が美しく身を飾るダイヤモンド,ルビーそのほか無数の宝石があります。
『住宅の食料貯蔵室にはさまざまの食料品があります。地球にも豊富な“食料貯蔵室”があり,数多くの美味な栄養物: 果実,いちご類,メロン,野菜,穀物その他多くがそこにあって人類の命を支えています』。
だれにせよ,このすべてが何の目的もなしにそこに置かれている,つまり偶然にそうなったと論理的に言えますか。住宅にこのような設備があるのを見る時,わたしたちは設計者のいることを知るではありませんか。
この事すべての良さは,人間は地球のために造られ,地球は人間のためを意図して造られたということです。神は,地球が,人類に与えられた神の賜物であることを語っておられます。(詩 115:16)動物が地球上での生息に適しているのと同様,地を治める者として人間は地球上で幸福に生きるのに全く適しているはずです。(創世 1:26-28)人間が心身の病から解放されるならば,適切な環境の下においては,例えばその生息地における野生やぎと同様,気楽なはずです。これらの動物は,ほとんど垂直に切り立ったがけの上で,足を踏みはずすことなく,岩から岩へ跳びはねています。(ヨブ記 39章と比べてください)人間がその持つ能力を最大限に発揮し,すべての感覚が研ぎ澄されているならば,これらの動物よりもけがが少ないのではありませんか。心身の不完全さにもかかわらず,今でさえ人間は訓練によって,信じられないほど精密な軽業を瞬時になし得ることを考えてごらんなさい。
霊的に生きる人間の能力
このすべてを考えると,人間は七,八十年よりも長い人生を楽しむのがふさわしいことのように思えてきませんか。これは個性,感情,希望という面から人間というものを考えれば,なおのことそうです。聖書によれば,人間は『神のかたちにかたどって』造られました。(創世 1:26)人間には道徳観念,霊的に生きる能力など,動物には見られない性質があります。そして人間の持つこの霊的能力が十分に生かされないと,人は幸福ではありません。イエス・キリストは言われました,「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」。(マタイ 5:3)自分の霊的な必要を悟っている人は,それを満たそうとします。神は誠実に求める人の願いを喜んでかなえてくださるのです。イエスは次のように言われました。「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あけてもらえるであろう。あなたがたは悪い者であっても,自分の子供には,良い贈り物をすることを知っているとすれば,天にいますあなたがたの父はなおさら,求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」― マタイ 7:7,11,口。
もしあなたがざ折のある現実に悲哀を感じ,人生に目的があるかを自問してその答えを求めている人であれば,あなたは霊的な必要を自覚しているのです。次の記事があなたを力づけるものとなることを願ってやみません。
[5ページの図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
目は,動いているものをぼやけずに見ることのできる,自動焦点のすばらしいオートマチック・カラー“カメラ”である
角膜
虹彩
毛様体
水晶体
網膜
脈絡膜
鞏膜
[5ページの図版]
人体の細胞は巨大な工場よりも複雑であり,細胞ひとつで一から二千までの化学反応を音もなく同時に遂行できる
[6ページの図版]
賢明な家長は,家族の必要とする物すべてが家の中に備えられ,あるいは蓄えられているように配慮する
[7ページの図版]
偉大な家長であられるエホバは,ご自分の家族の必要とする物すべてがご自分の家の中に蓄えられ,あるいは備えられるように配慮されている
-
-
人間の造り主が考えておられる事目ざめよ! 1976 | 10月8日
-
-
人間の造り主が考えておられる事
人間がわずかな年をこの地上で生き,そして死ぬことは,神のお目的では決してなかったのです。聖書に明白に示されているところによれば,神が最初の人間のために設けられた前途は,地上における終わりのない命でした。公園のように麗しい人間の住みかにあった「生命の樹」は,その実を食べるのにふさわしいと神により裁かれた人々に対して,創造者が命を保証していることを示す不変の象徴でした。―創世 2:9; 3:22。
今日,実際の「生命の樹」は地球上どこにも存在していません。また最初の人間アダムとエバが完全であった時に享受した麗しい楽園も,もはやありません。これは人間に対する神のお目的が変わったということですか。
今日見られる事柄のゆえに人はそのように,つまり地球と人類に対して神の考えが変わったと思うかもしれません。しかし物事は見掛けによらないものです。神のことば聖書は,創造者の目的に何ら変更のなかったことを確実に保証しています。次のように記されています。「神は人のように偽ることはなく,また人の子のように悔いることもない。言ったことで,行わないことがあろうか,語ったことで,しとげないことがあろうか」。(民数 23:19,口)「われエホバは易らざる者なり」― マラキ 3:6。
実を言えば,人間が何千年もの間,死の道をたどってきたという事実は,神の言われた事柄がその通りになることを確証しています。どのようにですか。不従順の結果についてアダムは次のように告げられていたからです。「汝……必ず死べければなり」。(創世 2:17)妻にせがまれて遂にアダムは神の律法を破りました。創造者はその日アダムに死を宣告し,ご自分の言葉通りにされました。神はこう言われたのです,「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついに土に帰る,あなたは土から取られたのだから。あなたは,ちりだから,ちりに帰る」― 創世 3:19,口。
アダムとその妻はしばらくの間生きて親となることを許されたので,人類家族が生み出されました。それは死の道をたどる人類です。命の権利をみずから失ったアダムは,それを相続財産として子孫に伝えることができませんでした。その理由で聖書に次のように記されています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
それでアダムに対して表明された神の裁きは真実であった訳で,わたしたちはなおその影響を受けています。では人類が楽園の地で永遠に生きるという全能者の目的もまた実現するものと期待してよいのではありませんか。全くその通りです。
神の初めからの目的は人間が生きることであって死ぬことではありません。この事と一致して聖書は次の保証を与えています。「[神は]とこしへまで死を呑たまはん」。(イザヤ 25:8)ゆえにアダムとエバがかつて享受した完全さは人類家族のために取りもどされるに違いありません。
回復のための基礎
このような回復を図るための基礎は,何世紀も前に神ご自身によって据えられました。アダムは不従順のゆえに人間家族の生命の権利を失いました。そこで至高者はそれを買い戻す手だてを備えられたのです。すなわちご自身の第一のみ子の生命を天からユダヤ人の処女マリアの胎に移されました。一世紀の医師ルカは,マリアがその奇跡的な受胎に先だって告げられた事を伝えています。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」― ルカ 1:35。
この者すなわちイエス・キリストは,ご自分の父なる神に対して完全な従順を保つことをされました。ゆえにイエスは,ご自身の人間の生命の権利を捧げられた時,アダムのゆえにアダムの子孫すべての失った生命の権利を買い戻すことができました。この事について聖書は次のように教えています。「一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです。ひとりの人の不従順を通して多くの者が罪人とされたのと同じように,ひとりのかたの従順を通して多くの者が義とされるのです」― ローマ 5:18,19。
人間としてイエス・キリストが欠けるところのない行ないを常にされたという事実は,完全な人間にとってそれが可能なことを証明しました。これに基づいて神は,神のみ子が示されたのと同様な献身を示す人を,たとえ不完全でも義とみなし得るのです。なぜなら,このような献身を示す人もまた完全であったとすれば,全く非のうちどころのない行ないを常にできるはずだからです。したがって,エホバ神がみ子を通して人類をご自身との一致に導き入れる根拠がありました。
なぜこれほど多くの世紀が過ぎたか
しかし何世紀もたっているのに,わたしたちがなお弱さや不完全さに苦しんでいるのはなぜですか。それは,神が,行動の時を定めておられるからです。イエス・キリストは,死からの復活後,忠節な弟子たちに告げてこう言われました,「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなたがたのあずかるところではありません」― 使徒 1:7。
ゆえに人間の見地から物事を見ずに,神の時また時期を辛抱強く待つことが必要です。ある目的を達成しようと望む場合,人間は比較的短期間のうちに行動しなければなりません。寿命に限りがあるゆえに,人間は物事をいつまでも延ばす訳にはいきません。
しかし創造者にとって,時間の制限は全くありません。創造者にとって「千年も過ぎ去ればきのうのごとく,夜の間のひと時[四時間]のようです」。(詩 90:4,口)創造者は「とこしえからとこしえまで」存在しておられます。(詩 90:2,口)また不測の事態に対処する必要もなく,将来は空白のページではありません。「終りの事を初めから告げ,まだなされない事を昔から告げ」るかたとして,聖書は創造者のことを述べています。(イザヤ 46:10,口)ゆえにエホバ神は過去と現在,また将来を考慮に入れたうえで,人類のために行動する最善の時を決めることがおできになるのです。また死者を復活させることも可能であるゆえに,人類を再び完全にするエホバ神の時がなお将来であっても,人間がいつまでたっても救われない結果になることはありません。この理由で至高者はご自身の時,すなわち適当な時が来ないうちに急いで行動する必要が全くないのです。
人間の弱さと不完全さから解放される時がいつ来るのかを知る方法がありますか。聖書の示すところによれば,現在の不敬虔な体制が滅びて義の新秩序と入れ替わったのちに,この解放がもたらされます。現在の体制に神の裁きが執行される「その日と時刻」は聖書中に示されていません。(マタイ 24:36-42)しかしその事の起こるすぐ前に地上に見られる事態を,聖書は確かに告げています。
次のように書かれています。「終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者,裏切り者,乱暴者,高言をする者,神よりも快楽を愛する者,信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう」。(テモテ第二 3:1-5,口)今日世の中がますます暮しにくくなっているのは,ここに描かれている事柄のためではありませんか。それは「終りの時」を終わらせる神の時が間近に迫っていることを示してはいませんか。
実現する高遠な目的
今の体制が終わりを告げてのち,人類家族はみ子イエス・キリストおよび地から買い取られた人々より成る天の支配者たちの一団によって完全さを取りもどすことでしょう。これはエホバ神のお考えです。この支配者の一団を構成する人々は,神に対するゆるぎない忠節と,仲間の人類に対する無私の関心とを表わした男女です。―啓示 14:5。
現在の不完全な事物の体制が根こそぎにされるとすぐに,イエス・キリストおよび非のうちどころのない共同の支配者たちは地の事柄を管理します。これは地球を荒廃させている者たちが彼ら自身,荒廃つまり滅びにいたることを意味します。(啓示 11:18)地を荒廃させている者たちの滅びを生き残る人々は,その後すばらしい変化を経験することでしょう。彼らは「千年のあいだ」イエス・キリストおよび共同の支配者たちの愛ある世話を受けるのです。(啓示 20:6)この期間に地球は楽園に変えられます。今までの悩みと苦しみはすべて取り去られるでしょう。そして死人は復活します。聖書巻末の書である啓示は,神がご自身の天の政府によって行なわれる事柄を描いています。
「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」― 啓示 21:4。
神の初めからのお目的の成就を目撃すること ― 人類が完全さを取りもどし,地球が美しい楽園に変えられるのを見ることは,なんとすばらしい見込みでしょう! いま何をすれば,この目的の確かな成就にあずかることができますか。
[9ページの図版]
エホバ神が人間を造られたのは,人間が死ぬためではなく生きるためであった。そして最初の人間は公園のような快適な住みか,すなわち楽園に置かれた
-
-
いま 機会を捕らえてください!目ざめよ! 1976 | 10月8日
-
-
いま 機会を捕らえてください!
人類の創造者が人間を愛してその必要物を備え,かつ顧みてくださるのは,人類にとって良いことです。そうであればこそ,人間が罪と死に陥ってからも創造者は人類を見捨てなかったのです。創造者は人間の願い,その愛するもの,人間の浮き沈みに対して“死んでいる”かのように無関心ではありませんでした。それとは反対に,創造者はご自身のみ子を与えて人間を元通りにするための基礎を据え,こうして最大の関心を示されました。そして人類に対するご自身の完全な目的 ― 楽園の地における豊かな生命 ― の実現に向かって着々と進んで来られました。
この目的を理解することはすなわち,自分が地上に生を享けた理由を知ることです。しかしもっと重要なことに,それを知ることによって,いま何をすべきかの指針が得られます。それは人生がもっと有意義なものとなる将来を望み見るだけでなく,いま真の目的をもって生きることであることが分かってきます。ゆえに使徒の次の言葉は絶対的な真理を述べたものです。「敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」― テモテ第一 4:8。
真実の,そして分別のある,徳を高める事柄に専念できるように,神はわたしたちを見守っています。神は,意義ある人生を送るための導きを求めて人が神に近づくことを許しておられます。使徒パウロは,アテネの町でクリスチャンではない人々に話をしました。その中には人生に理由を求めていたギリシャの哲学者が何人もいたのです。神は人間が神を求める道を備えられており,「それは,彼らが神を模索してほんとうに見いだすならばのことですが,実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と,パウロは人々に説明しました。―使徒 17:24-27。
知恵と経験において自分より勝った者からの導きを必要としないと言える人がいますか。人類のすべては,この容易ならぬ時代にそれを大いに必要としています。人生に目的を見いだすための導きを得るならば,わたしたち自身そして愛する者たちに今いっそう大きな幸せがもたらされます。そのうえ更に,これは今捕えるべきものです。なぜならそれによってわたしたちは「きたるべき命」を得る者となるために備えることができるからです。
「きたるべき命」
何十億の人々が享ける「きたるべき命」は,神が初め人間のために意図された通りのものに実際になるでしょう。神はアダムとエバに告げてこう言われました,「生めよ,ふえよ,地に満ちよ,地を従わせよ。また海の魚と,空の鳥と,地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世 1:28,口)この夫婦に対して,死のことは,不従順であれば死ぬということ以外には何も述べられていません。(創世 2:17)彼らに対する神の目的は,従順であるかぎり彼らがそのまま永遠に生きていくことでした。神に対する従順は,広大な宇宙の創造者であられる神の要求として決して無理な要求ではありません。創造者は人類の幸福のために何が必要かを確かにご存じです。―マタイ 6:8。
地上で永遠に生きる! これこそ人間に対するご自身の目的であると,神が実際に言われていることなのです。もちろん,そのためにはまず地球が永久に続かなければなりません。詩篇作者は,わたしたちに慰めとなる次の言葉を霊感によって書き記しました。「[神]は地をその基の上にすえて,とこしえに動くことのないようにされた」。(詩 104:5,口)聖書は,神が悪を地から滅ぼし去り,正しい人々を生き残らせることを何回となく述べています。―詩 37:1,2,9,11,20,27,34; 115:16。
聖書巻末の本である啓示は,「きたるべき命」について多くの事を述べています。それは「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」神の決意と,悪人を滅ぼす最後の「大患難」に大ぜいの人が生き残ることについて述べています。(啓示 11:18。マタイ 24:21)生き残る人々の「きたるべき命」について,神は次のことを約束されています。「み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の[保護と安全の]天幕を広げられるであろう。彼らはもはや飢えることも渇くこともなく,太陽が彼らの上に照りつけることも,どんな炎熱に冒されることもない。み座の中央におられる子羊[イエス・キリスト]が,彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれるからである。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるであろう」― 啓示 7:9,14-17。
「命の水の川」
この「命の水」について,啓示の最後の章はさらに詳しく述べています。これより以前にイエスは次のことを言われました。「だれでもわたしが与える水を飲む人は,決して渇くことがなく,わたしが与える水は,その人の中で,永遠の命を与えるために沸き上がる水の泉となるのです」。(ヨハネ 4:14)それで「命の水」は,人類のためのイエスの贖いの犠牲と関係のあることが分かります。ゆえに啓示の描写を読む時,そこに描かれている「命の水の川」は,人類の命のためにイエス・キリストを通して設けられた備えのすべてを表わしていることが理解されます。次のように記されています。
「また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,その大通りのまん中を流れていた。[この川は,「新しいエルサレム」すなわち栄光を受けられたイエス・キリストおよびキリストと共に治める天の王たちが住む天の首都を通って流れています。]そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木があった。そして,その木の葉は,諸国民をいやすためのものであった」― 啓示 22:1,2。
地上における事物のこの新しい取決めの下で,人々は,彼らの罪とすべての病気や不完全さを取り除くキリストの犠牲の価値から絶えず益を受けていやされるでしょう。死の原因である罪が彼らすべてから遂に取り除かれ,「もはや死もなく」なります。(啓示 21:4。コリント第一 15:26)これは神の備えにあずかる人々にとって永遠の命を保証するものです。今こそ,聞く人すべてが「命の水の川」より現在のところ手に入れられるものを得て機会を捕えるべき時です。招待は差し伸べられています。「だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」― 啓示 22:17。コリント第二 6:1,2。
永遠の命は単調でも退屈でもない
『しかし』と,ある人は言うかもしれません。『永遠に生きるようになると,人は今よりも意義のある生き方をするだろうか。食べて寝て働くことを果てしなく続けて,同じ生活の繰り返しを経験するだけではないだろうか。いま多くの人がしているような生き方つまり子孫の代のために何かを成し遂げることに努め,子孫にそれを引き継がせるのも同じく有意義なことではないか』。
このような質問に答えるため,今日,人々が人生の目的を成し遂げるのに一体どれほど成功しているかを考えてごらんなさい。真に永続するもの,命を守り,あるいは生活を良くするのに役だつものを提供して他の人々に貢献できる人がどれだけいますか。実際には,周囲の事情や限られた寿命のために,このような努力はくじかれてしまうことが少なくありません。(伝道 2:11,17-21)しかし限りのない命を与えられる時,人が成し遂げ得る事柄を考えてごらんなさい。人は知識と能力を絶えず増し加えることができます。また個性を豊かにすることができます。人間社会に貢献できる貴重な能力は減ずることなく,かえって絶えず増し加えられることでしょう。また年老いて衰えることもありません。今日多くの人は,働き盛りの年が容赦なく短くなり,生涯の終わりが近づいてくることに悲哀を感じています。その訳で聖書は次のようにすすめているのです。「あなたの若い日に,あなたの造り主を覚えよ」― 伝道 12:1,口。
そのうえ,永遠の命を持つ時,学ぶことに終わりはなく,この地球と,そこにあるものについてすべてを発見しつくすことは決して出来ないでしょう。すばらしい科学“実験室”であるこの地球の研究は終わることがありません。発見をするごとに無数の新しい“とびら”と展望が開かれるでしょう。また努力の他の分野において同様な進歩をしている他の人々との交流は,楽しい変化をそえるでしょう。互いの才能や個性を楽しむことは,つきない喜びとなります。
しかしこれらの事よりもはるかに心を楽しませるのは,きわめつくすことのできない神を知る知識を絶えずとり入れ,神の知恵と愛を豊かに受け続けることです。地に来られる前に,計り知れない期間,天で神と共におられたイエスはご自身について,「わたし(は)父によって生きている」と言われ,また次のように言われました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 6:57; 17:3。
「地に満ちよ」
死がなくなるということは,地球が遂には耐え難いほどの人口過剰になるということですか。そうではありません。地球に対する目的を持たれる創造者は最初の人間夫婦に告げてこう言われました,「生めよ,ふえよ,地に満ちよ」。(創世 1:28,口)賢明な創造者は地球がどれだけのものを養い得るかを確かにご存じであり,ふえ過ぎて快適に生活できないほど地に人が満ちることを許されないでしょう。創造することができ,また創造物が全体の益のために調和した営みをするように仕組まれる創造者は,述べられたこの目的を達成でき,そうするにあたってだれにも害や悲しみを与えません。
神の目的について学ぶ機会を捕えるならば,あなたは「今の命」に関する神の約束を体験するでしょう。神のすばらしい目的には人類を幸福にする事柄がすべて盛り込まれており,あなたはこうした神の目的の型を次第に理解して心に喜びを得ることでしょう。今日,物事がなぜこのようになっているのかにつき,また神の目的の知恵についてあなたが抱いていた疑いは,すべて人間の無力と知識の不足のせいであったことが明らかになるでしょう。神が昔行なわれた事柄の知恵に挑戦した者たちに向かって,神はこう言われました,「あなたがたは,わが子らについてわたしに問い,またわが手のわざについてわたしに命ずるのか。わたしは地を造って,その上に人を創造した」― イザヤ 45:11,12,口。
神の目的を啓示する聖書は,あなたにとって理解できない本ではありません。そして今の人生が良いものとなるにとどまらず,死ももはやない義の宿る地において,愛する者たちと再会するというすばらしい前途が開かれます。(啓示 21:3,4)いま機会を捕えてください。エホバの証人は,あなたがご自分の家で聖書を学ぶのを喜んで無償でご援助します。
[12ページの図版]
地球にある多くのものは,全人類を永遠に楽しませるであろう
[13ページの図版]
地球は計り知れない科学“実験室”である。今それは人間に楽しみを与えるものを数多く供給している。楽園の地において,それは人間の永遠の楽しみのために何を供給するであろうか
[14ページの図版]
どちらを向いても一致と友情,もてなしと寛大さに面する時,生活ははたして退屈なものであろうか
-
-
聖書は家族の一致を促す助けになる目ざめよ! 1976 | 10月8日
-
-
聖書は家族の一致を促す助けになる
今日,聖書の助言を自分たちの生活に当てはめようとしないために,重大な問題に直面している家族は少なくありません。しかし,ひとたび聖書の助言を当てはめるようになると,良い方向への驚くべき変化が現われます。
スペインに住む,ある男の人はこう語っています。「この世でのわたしの経済状態はかなり良いものでした。わたしが経営していた広告代理店は非常に繁盛していました。しかし,わたしの結婚生活は姦淫のために悲惨な状態にありました。わたしたち夫婦は別々の生活をし,“不貞”の日を定めることまでしました。妻の予定の日になると,わたしは留守番をして,二人の子供の世話をし,わたしの番になるとその反対のことが行なわれました。しかし,そうした状態がいつまでもうまく続くわけがないことに気付きました。わたしは自分の生活を正したいと思い,神に助けを求めました。すると,助けは全く思いもよらないような方法でもたらされました。
「わたしが他の友人たちとある画家のアトリエにいたとき,一人の友人が腕時計に目をやって,こう言いました。『さあ帰らなければ。家でエホバの証人が待っているんだ』。わたしは,『それは何のことだ』と尋ねました。その答えに興味をそそられ,わたしは話を聞くために,その人に付いて行きました。そこでわたしの近所のエホバの証人に連絡が取られ,わたしと妻は研究を始めました。わたしたちは少しずつ自分を変化させ,道徳的な面だけではなく,望ましくない接触を避けるために,広告会社を離れるところまでゆきました。エホバに感謝すべきことに,わたしたちの家族は今や一つに結ばれています」。
-