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  • 善良さを示して造り主を覚えなさい
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • 善良さを示して造り主を覚えなさい

      「あなたの造り主を覚えよ」― 伝道 12:1。

      1,2 (イ)伝道の書 12章1節は何からの引用ですか。(ロ)聖書とは何ですか。(ハ)すべての人が聖書に通じていますか。(ニ)聖書はあなたと関係がありますか。

      ここにあげたことばはキリスト教の聖典からの引用です。あなたはそのことがわかりましたか。あなたはその聖典に通じておられますか。「ものみの塔」の読者がいるある土地で,人々はキリスト教を奉じておらず,この聖典に通じていません。クリスチャンを自任する人が多い土地にいながら,聖書と呼ばれるこの宗教書にそれほど関心をいだいたことのない人もいます。あるいはあなたは聖書をよく知り,聖書を愛していますか。あなたがどこに住み,宗教についてどんな知識をもっておられるにしても,ここで取りあげる問題,つまり善良さを示して自分の造り主を覚えるということは,あなたに関係があります。上にあげた聖句は,身体的,精神的,また霊的な能力をもち,自分の造り主を覚えることのできる人すべてに対する宗教上の戒めです。そして造り主はまさに偉大です。

      2 本誌は人の信仰心に差があること,信仰心があってもクリスチャンでない人のいることを認めます。それでも聖書には,あなたの宗教,住む土地,信仰心の程度などにかかわりなく,あなたにあてはまることばがあります。その理由は,

      聖書はすべての人が造り主なるエホバ神をほめるようにすすめる

      3 だれが聖書の戒めに注意すべきですか。

      3 聖書中の多くのことばは,その健全で建設的な戒めが,年齢,性別,国籍,人種,身分などの区別なく,すべての人にあてはまることを示しています。次に引用する聖句の中にご自分を見つけることができますか。あなたもそこに含まれているのです。

      4 (イ)詩篇 148篇が述べるとおり,どんなものまただれが造り主をほめるべきですか。(ロ)造り主はだれですか。

      4 「あなたがた民よ,ヤハをほめよ!」(新世訳)。ヤハはエホバの省略形であり,エホバは造り主なる神のお名前です。「もろもろの天よりエホバをほめたゝへよ,もろもろの高所にてエホバをほめたゝへよ その天使よみなエホバをほめたゝへよ,その万軍よみなエホバをほめたゝヘよ 日よ月よエホバをほめたゝへよ,ひかりの星よみなエホバをほめたゝへよ もろもろの天のてんよ天のうへなる水よエホバをほめたゝへよ これらはみなエホバのみ名をほめたゝふべし,そはエホバ命じたまひたればかれらは造られたり……地の王たち,もろもろのたみ,地の諸候よ,地のもろもろの審士よ 少きをのこ,若きをみな,老いたる人,をさなきものよ みなエホバのみ名をほめたゝふべし そのみ名は高くしてたぐひなく,そのえいくわうは地よりも天よりもうへにあればなり……エホバをほめたゝへよ」― 詩 148:1-5,11-14,文語。

      5 あなたはこの中に含まれていますか,いませんか。

      5 それで,造り主エホバをほめることを全人類にすすめる聖書は,そのさそいの中にあなたをも含めているのです!

      造り主エホバは霊と光の源

      6 エホバが,(イ)聖霊,(ロ)光,(ハ)真理の光の源であることを説明しなさい。

      6 造り主エホバは力をもたれます。その力はエホバの霊つまり活動力を通して働きます。聖書がこの点にふれている一例はその巻頭のことばです。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく,むなしく,やみが淵のおもてにあり,神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て,良しとされた。神はその光とやみとを分けられた」。神の霊は神から発するものですから,エホバ神は霊の源であられます。またここにあげた創世記 1章1-4節が示すとおり,エホバは物理的な光の源でもあられます。また,知識と理解の光もエホバ神から来ます。この点をきわめて興味ぶかく述べているのはコリント人への第二の手紙 4章6節です。「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は,キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために,わたしたちの心を照して下さったのである」。造り主なる神は真理を明らかにする光の源であられます。

      7 クリスチャンはどんなものによって啓発されますか。

      7 クリスチャンは神のことばの真理を理解するための光を聖霊によって受けます。「それを神は,御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである……神の思いも,神の御霊以外には,知るものはいない……わたしたちが受けたのは……神からの霊である。それによって,神から賜わった恵みを悟るためである」。(コリント第一 2:10-12)聖書のこの本の初めの4章はクリスチャンとなった人々に神の霊がいかに働くかについて多くのことを述べています。これらおよび他の聖句はエホバ神が霊の源また光の源であられることを示しています。

      霊と光から生まれる結果

      8 (イ)なぜわたしたちはエホバを覚えるべきですか。(ロ)どのように覚えますか。(ハ)神の霊と光は何を生み出しますか。

      8 エホバが備えられた聖書は人類に対する神のことばを書きしるしたものであり,その理解を可能にされるのはエホバです。エホバのことばはエホバをほめることをすべての人に求め,偉大な造り主であるエホバがそうした賛美にふさわしいことを示しています。わたしたちはどうしてエホバを忘れることができますか。エホバはわたしたちが持つ物のすべてを造り,わたしたちが命をもつことをさえ可能にされました。それでわたしたちはエホバを覚えるべきです。どのようにして? エホバを覚える一つの方法は,エホバが是認され,エホバのほまれとなる資質を示すことです。成長と産出に関する神の法則が働けば,結果として実がなるのを見ることができます。それでエホバ神を愛する人の心と思いに働くエホバの霊と光の結果を,エホバのことばは実と呼んでいます。そうした例の二つに注意してください。

      9 (イ)善良はどんな実ですか。(ロ)神の霊が悪い実を生むことがありますか。(ハ)人が生み出す実について何を言うことができますか。

      9 「御霊の果は愛,喜悦,平和,寛容,仁慈,善良,忠信,柔和,節制なり」。(ガラテヤ 5:22,23,文語)このガラテヤ人への手紙 第5章は良いものと良くないものをはっきり対照させています。造り主の霊は悪いものを生み出しません。神はご自分の創造物を見て,それを良しとされました。(創世 1:12,18,25,31)神は良いかたであり,悪いかたではありません。(詩 25:7,8,新世訳)したがって,エホバ神との調和を求める人は良いもの,御霊の実とされているものを生み出さねばなりません。

      10 人間の結ぶ実がエホバの霊の実となることを説明しなさい。

      10 これは人間が生み出すものであるのにどうして神の霊の実であると言えますか。正義を愛する人が神の霊を受け,神と調和しようとの願いのうちに行なうものだからです。エホバとエホバのことばである聖書の高い標準に対する愛が彼らを動かし,エホバの要求に従わせます。こうして彼らは神のことばと神の霊に導かれます。

      11 ガラテヤ人への手紙 5章22節の中で,わたしたちがいま特に関心を払うのは何ですか。

      11 ガラテヤ人への手紙 5章22,23節からの引用の中に,御霊の実の一部として「善良」があげられていたのにお気づきでしょう。わたしたちがここで特に関心を払うのは,この善良という資質です。

      12 エホバからの真理の光の結果としてどんなものがありますか。

      12 光の実についてはこう書かれています。「光はあらゆる善意(善,文語)と正義と真実との実を結ばせるものである。主に喜ばれるものがなんであるかを,わきまえ知りなさい。実を結ばないやみのわざに加わらないで,むしろ,それを指摘してやりなさい。彼らが隠れて行っていることは,口にするだけでも恥ずかしい事である」。「だから,彼らの仲間になってはいけない。あなたがたは,以前はやみであったが,今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい」。(エペソ 5:9-12,7,8)ここでも,わたしたちの関心を集めるのは「善良」です。これは神の霊の実であるだけでなく,真理の光の実でもあるのです。

      13 (イ)神の真理と霊を受ける人は結果としてどうあるべきですか。(ロ)わたしたちにはどんなすばらしい機会がありますか。

      13 善良という実は神の霊と真理の結実ですから,神の霊と真理をもち,造り主エホバをほめようとする人は善良さを示さねばなりません。この善良さを示していないのは,造り主を覚えておらず,むしろ無視し,忘れ,遠くへ押しやっていることのしるしです。人類の一員として存在していることそのことが,造り主エホバをほめ,崇拝する機会となります。エホバはご自分の神聖なことば,つまり聖書の中にご自身を啓示しておられます。何とすばらしく,恵まれた機会が与えられているではありませんか! 命を得ているだけでなく,自分の造り主を覚え,善良さをもち,造り主の善意をかち得て,この命を価値あるものとすることができるのです。しかも,造り主の善意を得る者は永遠の命をいただけます! 造り主の目的はその是認を受ける者が正義の新秩序下で永遠の命をもつことです。

      14,15 (イ)善悪を比較対照してどのように言う人がいますか。(ロ)受ける益について正しい考え方は何ですか。(ハ)時間についてはどうですか。

      14 どんな言語を使う場合でも,わたしたちは善と悪を対照させます。聖書も善と悪を対照させています。しかしこのように言う人がいるかもしれません。「良いことをする価値がわからない。悪を行なう者が栄えているではないか。悪を行なう者が罰を受けないで,良いことをする者が苦しんでいる。悪を行なう者は善を志す者を利用してさえいるではないか。だから,あえて良いことをする必要などはない」。実際にこのような考え方をし,時にきわめて無情な態度をとる人がいます。エホバ神はこのことをご存じであり,エホバのことばはこの点を認めています。善良さという実を生んで祝福を受けるのは,他の人の好意を得るかどうかの問題ではありません。求めるべきものは神の好意と祝福です。そしてこれは神の定めの時に与えられます。時を待たねばなりません。時間を与えられないなら,善良さというこの望ましい資質をどうして示すことができますか。それで,良い行ないがあまり見られず,それが物質的な面で不利益となるなら,その時こそ善良さを示し,他の人が何をしてもしなくても自分の偉大な造り主を愛し,覚えていることを実証すべきです。次の聖句は非常に有益ではありませんか。

      15 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして,なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13。

      16 聖書の教えに照らして,わたしたちはどう結論すべきですか。

      16 それで,悪しきわざに対する刑の執行が遅れても,善を行なうことをためらう必要はありません。

      17 私たちが直面している時代のことを考慮に入れるのは,良い実を結ぶうえにどう役だちますか。

      17 わたしたちが生きている時代のことも考えねばなりません。今は暴力と不法と利己心のはびこるむずかしい時代であり,テモテへの第二の手紙 3章1-3節のあげることがらが現われる時代です。「しかし,このことは知っておかねばならない。終りの時には,苦難の時代が来る。その時,人々は……善を好まない者……となるであろう」。それで,人々が善を好まない者となっていても,悪を行なってはならず,いよいよ善良の実を生むことに努めねばなりません。

      18 クリスチャンもクリスチャンでない人もこれからどんなことを学びますか。

      18 個々のクリスチャンは聖書に従って何をすべきかという観点でこの主題をさらに発展させましょう。クリスチャンであってもなくても,あなたは真のクリスチャンの道として聖書が何を示しているかを見ることができるでしょう。

      行なうべき良いことはたくさんある

      19 行なうべき良いことは数多くありますが,どんな定義がそのことを示していますか。

      19 個々のクリスチャンが日毎に行なうべき正しく良い事柄は数多くあります。これらが結果として善良という実を結びます。基本的に言えば,善良さとはふさわしさです。「われらの神をほめうたうことはよいことである……さんびはふさわしい」。(詩 147:1)善良であるということは,神の標準から見て,創造者のしもべにふさわしく,似つかわしい事柄です。良い事柄は良い目的,適当でふさわしい目的のためになされます。神のことばはどんな事柄が良く,善良さがどんなものから成り立つかをクリスチャンに教えます。申命記 12章28節は述べています。「〔エホバ〕が見て良いとし,正しいとされる事を行(え)」。(〔文語〕)ウエブスターの「第三新国際辞典」(英語)は英語の「良い」という語の基本的な意味として「よく合う,ふさわしい,似つかわしい,適切な」をあげ,「善良」の意味として「道義上の美質」をあげています。しかし聖書のギリシャ語で「良い」とは「可能な,役だつ,品性のすぐれた」という意味であり,聖書のヘブル語では,「(あらゆる意味で)よい,快よい,有用な,有能な,美しい,正しい,道義的によい」という意味であるとしています。これらの定義に合う事柄は多く,クリスチャンのすべきことは多いと言わねばなりません。―ヤコブ 3:17,18。

      ことの良しあしをいかに決めるか

      20 (イ)あることが良いか悪いかをどのように決められますか。(ロ)そうした判断に役だつのはどんな知識ですか。

      20 これは良い質問です。(適当な質問)わたしたちの行為,あるいは言ったり,支持したりすることが良いか悪いかをどのように決めることができますか。自分が邪悪さでなく善良さを示しているかどうかはどうしたらわかりますか。一つの方法は自分が考えあるいは行なっている事柄について自問することです。こうたずねてごらんなさい。それは真のクリスチャンにふさわしいだろうか。それは不適当ではなかろうか。造り主はそれを是認されるだろうか。真のクリスチャンはある事柄がキリスト・イエスの追随者たる者にふさわしいかどうかを見きわめることができます。クリスチャンの使徒パウロはほかのクリスチャンに言いました。「わが兄弟よ,われはなんぢらが自ら善に満ち,もろもろの知識に満ちて,互に訓戒し得ることをかたく信ず」。(ロマ 15:14,文語)善意に満ち,神のみことばとご要求に対する知識に満ちているなら,クリスチャンはある事柄が良いか悪いか,自分の行為が霊と光の実つまり善良さを生み出すかどうかを判断できます。ここでわたしたちは真のクリスチャンが慎重に考慮すべき事柄を幾つか順に取りあげましょう。まず考えるべき影響は,

      21 わたしたちの判断いかんがエホバへの崇拝を左右することを述べなさい。

      21 エホバ。エホバに喜ばれますか,喜ばれませんか。その行為また言行はエホバのほまれとなり,善であり正義であられる神と一致するものですか。もしそうでないなら,それが良いことであり,ふさわしいことであるとは言えません。神のみこころにそわないことがらにどうして道義上の美質を求めることができますか。クリスチャンが行ない,口にする事柄にはエホバへの崇拝がかかわっています。「この世にならふな,神のみこころの善にして悦ぶべく,かつ全きことをわきまへ知らんために心をかへて新たにせよ」。(ロマ 12:2,文語)つぎに考えるべき点は,

      22 (イ)クリスチャンはどんな仕事をもっていますか。(ロ)それはわたしたちの判断とどのように関係していますか。

      22 御国の事柄。クリスチャンはキリスト・イエスを王とするエホバの御国の事柄に関する奉仕をゆだねられています。御国の事柄を忠実に果たすクリスチャンの仕事は指導者キリスト・イエスの預言的な命令に基づいています。「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14)御国の福音の伝道は進められますか。それとも妨げられますか。それは,天使の指導下にクリスチャンが伝える「永遠の福音」にふさわしいですか。(黙示 14:6)これに関連して次の点も考えねばなりません。

      23 クリスチャンが他の人に与える影響という観点で自分の行動を見守らねばならないのはなぜですか。

      23 他の人々。クリスチャンの行動は他の人の益にも害にもなり得ます。永遠の福音は「地に住む者,すなわち,あらゆる国民,部族,国語,民族」に伝えられねばなりません。それは,「神をおそれ,神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを伏し拝め」ということを,すべての人に呼びかけるものです。(黙示 14:6,7)エホバの証人はこの偉大な造り主に自ら仕え,他の人も仕えることをすすめていますから,他の人またその人とエホバとの関係に与える影響という観点から自分の行動を見守らねばなりません。自分が伝える福音にふさわしく日を送ることにより,クリスチャンは他の人がエホバ神の恵みと善意を得るのを助けることができます。またクリスチャン各自にきわめて身近な人々のことがあります。

      24 クリスチャンはどこでだれを大きく助けられますか。

      24 愛する人々。クリスチャンは自分の愛する人々がエホバ神に対してもつ関係に心を配ります。そして家族という親密な間柄にある者として,互いを大いに助けることができます。ここであてはまるのは「自分の骨肉に身を隠さない」という原則です。(イザヤ 58:7)ついで考えるべきものは,

      25 クリスチャン会衆のためにできる良いことを幾つかあげなさい。

      25 会衆。「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」。(ガラテヤ 6:10)クリスチャン会衆を支持し,会衆の益と幸福に注意するのは良いことです。会衆の集会に出席し,集会の始まる以前に会場に行き,機会に応じて集会に参加するのは適当なことです。親が年齢によらずすべての子供を会衆の集会に伴い,人の妨げにならぬよう集会の間しずかに聞くようにさせるのは神の霊の実です。そうすれば,おとなも子供も,御国会館に来た者すべてが,備えられた霊的食物の益に十分あずかれるでしょう。所有する御国会館またその設備に必要な手入れをするのは良いことです。そして,必ず考えるべきことは,

      26 善良さを示すという主題全体はどんなことを扱うものですか。

      26 自分とエホバとの関係。エホバとの良い関係と悪い関係について聖書は述べています。「愛する者よ。悪にならわないで,善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり,悪を行う者は神を見たことのない者である」。(ヨハネ第三 11)善良さを示して自分の造り主を覚えるという主題全体は,実際には偉大な造り主エホバと自分との関係を扱うものです。

      27 若者に対しても年配者に対しても,聖書はどんなことを明らかにしていますか。

      27 このことは,子供,若者,おとな,老人など,あらゆる年齢の真のクリスチャンにあてはまります。親も子供も聖書の大切な真理のことばを心にとめるべきです。「幼な子でさえも,その行いによって自らを示し,そのすることの清いか正しいかを現す」。(箴言 20:11)ごく幼い子供もそうですか。そうです。子供を持つ人々にはすばらしい機会があるではありませんか。自分の子供のすることが清さと正しさを現わすようにすることができるのです。

      28 以上のことを心にとめ,わたしたちは次に何をしますか。

      28 わたしたちは日常生活において,どんな道をとるか,どんな聖書の原則に従うかについて決定を迫られることがありますが,次の記事の中では,そうした生活上の諸問題に前述の聖書の原則をいかにあてはめるかという点をとりあげましょう。つまりここで学んだ事柄を個々の場合にあてはめるのです。どうぞ次の記事を見てください。

  • 善良さは示すべきもの
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • 善良さは示すべきもの

      「神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」― 伝道 12:14。

      1 (イ)申命記 12章28節によればだれの標準に従って行動すべきですか。これは最初にあげた伝道の書 12章14節とどのように調和しますか。(ロ)善良さを示すという観点から言えば,これはわたしたちに何を求めますか。(ハ)ピリピ人への手紙 4章9節はこの点をどのように確証していますか。

      エホバ神がむかしご自分の民に伝えられた戒めの一つに次のことばがあります。「あなたはわたしが命じるこれらの事を,ことごとく聞いて守らなければならない。こうしてあなたの神,〔エホバ〕が見て良いとし,正しいとされる事を行うならば,あなたにも後の子孫にも,長くさいわいがあるであろう」。(申命 12:28〔文語〕)これは神の喜ばれることを行なえと命ずるものですか。明らかにこのことばは,単に口で正しいことを語るだけでなく,実際に行なえと命じています。前の記事で取りあげた原則をあてはめて言うなら,これは善良の実を結べという意味です。神のクリスチャンのしもべは同じことをこう言いました。「あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。(ピリピ 4:9)善良さを実際に示すには,こうした事柄を実行し,学んだことを個々の場合にあてはめねばなりません。さもなければ善良さは現われず,かげに隠れてしまいます。

      2 どんな問題と対照を次に取りあげますか。

      2 ここでは,方法と程度が違ってもすべての人が直面する生活上の問題を,前述のことに照らして検討いたします。良いと悪いとの対照があるように,次に取りあげる問題の一つ一つにも良い道と悪い道があります。良い道をとるなら,エホバを賛美し,御国の事柄を押し進め,他の人の幸福に寄与し,自分とエホバの間の良い関係をいっそう堅くすることができます。

      クリスチャンは真実を語る

      3 クリスチャンであることのしるしの一つは何ですか。

      3 ここで取りあげる対照は真実と不真実です。真のクリスチャンは真実を語ります。真実さはクリスチャンであることのしるしの一つです。

      4 (イ)うそおよびうそをつくことについて人々はどんな見方をしていますか。(ロ)エホバと聖書はどんな見方をしていますか。(ハ)正直さはどれほど必要ですか。

      4 人々は一般に,うそをそれほどの悪,絶対に避けるべきものとみなしていないのが実情です。物事に成功し,人との友好を築きあるいは保つため,うそは必要であると言う人さえいます。自分の悪行を隠すため,あるいは問題や不都合さや恥辱を避けるためにうそを言う人もいます。うそをつくのは妥協であり,誠意が欠けています。うそを言うのは憶病さのしるしであり,愛と親切さが欠けている証拠です。エホバ神はうそと,うそを言う者を憎まれます。(箴言 6:16-19)正しく正直な者はエホバを恐れ,不正直でうそを言う者は全能の神を侮ると聖書は教えています。(箴言 14:2)御霊の良い実を結ぶには正直さが必要であり,またすでに見たとおり,「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるもので」す。―エペソ 5:9。

      5 わたしたちは教育機関のどんな失敗に注目しますか。

      5 あなたの国の教育機関は人々が真実を語るように教えていますか。アメリカの大学について雑誌にのせられたつぎの論評からするなら,この問いは見当ちがいのものではありません。「〔不正直な従業員の〕問題の一部は,我が国の大学が信頼に足りる倫理規範および正しい道義観を学生に教えていないことによる。ただの名声やつかのまの経済的成功を目ざして産業界にはいる卒業生が実に多い。彼らは道義的また倫理的な配慮をほとんど,あるいは全く欠いている。これらの者が利権争い,たなおろし表の不正,会社機密の盗み出し,ぴんはね,価格のつり上げ,帳簿や申告書の偽造事件などの多くに携わっている」―「アドバンス」,1963年7,8月号。

      6 真実を愛する人にどんな励みのことばがありますか。

      6 うそと不正を嫌悪されるなら,あなたは正しいものの見方をもっていると言えるでしょう。うそをつくことは必要でありません。クリスチャンは真実の必要なことを知っています。たとえこれまで不正を習慣にしていた者でも,その行ないを改めることは可能です。そして,それまでの不正をあがなうことも不可能ではありません。その深い愛によって,エホバはわたしたちにこう教えておられるからです。「あはれみと真実とによりてとがはあがなはる,エホバをおそるゝことによりて人悪を離る」。(箴言 16:6,文語)それで,ひとがどんな行ないをしても,自分は真実をつくすことに努めてください。正直は正しいことであり,命と祝福に至る道であり,また愛があり益の多い道です。それは聖書が教えるクリスチャンの道であり,偉大な造り主を覚える者に対する聖書の要求です。

      クリスチャンは盗みをしない

      7-9 盗みについて一雑誌の述べる事柄をあげなさい。

      7 盗みはうそと結びついています。教育機関の失敗を論じた前述の出版物は次のように述べました。「証券会社の統計によると,従業員全体の25パーセントは,うまくゆくと見れば,何らかの盗みをする。残りの50パーセントは,ほかの者の行ないから良くも悪くも影響を受ける……管理また監督職にある従業員も,現金と物品の形で,1日に400万ドル以上を雇い主から盗む。本年,この種の盗みの額は天文学的な数字に達し,優に10億ドルを越えるであろう……

      8 「商品の盗みは現金の7倍に及ぶ。そして,不正行為がもとで倒産する会社は1年に250以上ある……ぴんはね,利権争い,会社機密の盗み出しなどは広範囲に見られる。奨励制度を悪用してもうけの水増しをはかるのもごくふつうのことになっている。

      9 「損失はここにあげただけではない。仕事を休むための仮病,偽りの作業報告,廃品や破損品の不手際な処理,作業能率を下げる不当な要因,定められた作業能率の不履行などによって,さらに多くの資産が流失している。こうした損失は経営費の中に隠されている。これは帳簿に現われない損失である」。

      10 (イ)エホバをたたえる結果になるのはどんな行ないですか。(ロ)ローマ人への手紙 2章19-21節は,正直を説く者各自にどんな問題を提出していますか。

      10 盗むこと,あるいは盗まれた品を承知で買うことは,エホバのほまれになりません。クリスチャンはひとの所有権を尊重しなければなりません。聖書はクリスチャンにこう尋ねています。「知識と真理とが律法の中に形をとっているとして,自ら盲人の手引き,やみにおる者の光,愚かな者の導き手,幼な子の教師をもって任じているのなら,なぜ,人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて,自らは盗むのか」― ローマ 2:19-21。

      クリスチャンは法律を守る

      11 (イ)クリスチャンはまずだれに従わねばなりませんか。(ロ)クリスチャンはさらにどんなものへの従順も求められていますか。(ハ)クリスチャンが法律に従うことの良い結果を述べなさい。

      11 聖書は年齢と状況を問わず,すべてのクリスチャンに従順を求めています。エホバ神とそのことばおよび律法に従うことを第一に求めるクリスチャンは,家庭や学校において,また政府当局者に対しても従順さを示さねばなりません。これは世の人々の間に広く見られる無法な態度と対照的です。法律に従うことは良い実を生み,エホバ神をたたえる結果になります。子供について聖書は述べています。「子たる者よ,何事についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである」。(コロサイ 3:20,21)最良の市民は神に従い,神の戒めを第一にし,法律を守る真実のクリスチャンです。彼らは政府に対する暴動,暴徒行為,盗み,傷害行為,またどんなかたちのものであれ暴力行為に参加しません。彼らの武器は霊的なものであり,すべての人の益および彼らが覚える神のほまれのために使われます。―エペソ 6:10-18。

      クリスチャンは尊敬心をもつ

      12 (イ)尊大さと尊敬心のある態度とを比較しなさい。(ロ)良い実を結ぶに必要なのはどちらですか。

      12 尊敬心は従順さや法律を守る態度と密接に結びついています。この世には尊大な態度がよく見られますから,この点についてクリスチャンの立場を理解しておくことは大切です。尊敬心と尊大さとは対照的です。尊大で高慢な人はおうへいで,他の人に対して軽蔑的であり,物腰やことばづかいの乱暴な場合が少なくありません。そのような人は威ばりちらし,他の者なかんずくエホバ神に対してはなはだしく敬意を欠きます。尊大さは実際には偽りの宗教の一つであり,偉大な造り主に対する崇拝とは対照的な悪霊崇拝です。「そむくことは占いの罪に等しく,強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが〔エホバ〕のことばを捨てたので,〔エホバ〕もまたあなたを捨てて,王の位から退けられた」。(サムエル上 15:23,〔文語〕)尊大さはエホバの憎まれるもの,「その心に,忌みきらわれるもの」の一つなる「高ぶる目」です。(箴言 6:16,17)敬意と敬意のある態度および尊敬される態度は神の光と霊が結ぶ良い実の表われであり,クリスチャンに必要かつにつかわしいものです。尊敬心のある人々と共にいるのは何と快いではありませんか。

      清潔は善良さの表われ

      13 清潔さが善良さの表われとなることを述べなさい。

      13 クリスチャンはあらゆる意味において,この清潔さという良い資質を示します。クリスチャンの導きである聖書はこの資質をクリスチャンに求めています。清潔さはことばとからだ,家やすまい,そしてもとより行ないに必要です。これらのすべてにおいて,清潔さと対照をなすのは汚れです。「汚れたるものに触るなかれ……エホバの器をになふ者よ,なんぢら潔くあれ」。(イザヤ 52:11,文語)あらゆる不潔がいたる所に見られ,汚れはいまの時代のしるしともなっていますから,聖書が清潔さをはっきり求めているのは良いことです。

      14 なぜ清いことを語るべきですか。

      14 人々の語ることは不潔で,不敬で,ひわい,また粗雑である場合が少なくありません。クリスチャンは,話す能力が神の賜物であること,また口で物ごとを表現するこの能力が大きな祝福であることを知っています。そして,神を汚すことではなく,自分の唇で神をたたえることを願っています。―ヘブル 13:15。

      15 (イ)からだ,(ロ)すまいについてはどうするのが良いですか。

      15 クリスチャンはからだを清潔にすることに努めます。聖書は高価な衣服を求めていません。クリスチャンにふさわしいのはだれでもがすることのできる清潔な身なりです。同じことはすまいについても言えるでしょう。非常に質粗な家でも清潔に,清そに,そして整然とととのえることができます。こうした家は神に仕える人のすまいにふさわしいだけでなく,人々が日を決めて集まり聖書を勉強する所としても使えます。富んだ人々がことばや心や行ないにおいて清潔であるとはかぎりません。またたとえ貧しくても,すまい,ことば,考え,心,行ないなどを清潔にすることができます。聖書がクリスチャンに求めているのは清潔さです。このことの適切さ,ふさわしさは容易に知ることができるでしょう。

      泥酔と暴食についてはどうか

      16 (イ)飲み物と食べ物を備えたのはどなたですか。(ロ)これらのものの良い用いかたについて述べなさい。(ハ)これらのものについて聖書はどんな助言をのせていますか。

      16 泥酔は酒類の飲みすぎであり,暴食は物の食べすぎです。これらはいずれも創造者をたたえるものではありません。食べ物と飲み物は創造者が人間のすみかである大地を通して備えられたものであり,確かに神は地上を産物の豊かな所とされました。人間はこうした豊かな備えを備えられたかたのみこころに従って用いるべきです。あなたは聖書のことばに関心を持たれるでしょう。「酒にふけり,肉をたしなむ者と交わってはならない。酒にふける者と,肉をたしなむ者とは貧しくなり」(箴言 23:20,21)節度をもってこれらのものをたしなむことには喜びと楽しみがあります。放縦と泥酔に喜びや楽しみや満足はありません。

      17 (イ)酔っぱらうことについて事実を述べなさい。(ロ)道徳心を弱めるのは何ですか。(ハ)どすうれば道徳心をつちかうことができますか。(ニ)これらのことは何を励ますものですか。

      17 酔っぱらう人には身体的もしくは精神的な病気があるのであり,泥酔は一つの病気であるからとがめることはできないという考え方に,クリスチャンは欺かれてはなりません。むしろ,酔っぱらう人は道徳的な面で病気になっているのです。人類の道徳的な力はきわめて低下しています。放縦な生活は人の道徳心を弱め,神のことばが与えるエホバ神の教えを絶えず退けるなら,道徳の崩壊は避けられないでしょう。酔っぱらいその他不道徳な人々は道徳心が弱くなっており,それは神のことばの教えを受け入れていないからです。酔っぱらう習慣のある人はいつまでもそれを続ける必要はありません。聖書の教えに従うなら,それを克服することができるのです。そうすることは賢明です。「酒は人をあざける者とし,濃い酒は人をあばれ者とする,これに迷わされる者は無知である」。(箴言 20:1)道徳心は訓練して身につけ,練習することのできるものです。節度のある人は創造者の愛の備えに対する感謝の心から,自分の飲食につつしみを守り,造り主を覚えて善良さを示します。

      クリスチャンは勤勉である

      18 (イ)勤勉さとは対照的などんなことが見受けられますか。(ロ)勤勉さはどんなことにも及びますか。(ハ)とばくと善良さとについて述べなさい。

      18 勤勉と対照をなすのは怠惰です。怠惰な人は不必要に借金し,労せずに何物かを得ようとしてかけごとに頼ります。「悪しき者の得る報いはむなしく,正義を播く者は確かな報いを得る」。(箴言 11:18)クリスチャンは約束した給料に対し1日中正直に働きます。クリスチャンは他の人が神のことばの真理を知るのを助け,自分の愛する者たちを顧み,自分の会衆と御国の事柄のために努力するという面でも勤勉です。またクリスチャンは公営あるいは宗教団体の運営でいろんな形のとばくが行なわれていても,これに欺かれません。たとえ宗教団体の財政をまかなうためのものであっても,とばくが造り主を覚えて善良の実を示す道でないことを知るクリスチャンは,あらゆるとばくから遠ざかります。

      19 「罪のない社交的なかけごと」より何のほうがよいですか。

      19 罪のない社交的なかけごとと称するものにふけって自分の家族や神の民の会衆と共に過ごす時間を犠牲にする人がいます。これは誤りです。習慣的な泥酔者の場合と同じく,とばく常習者は神のことばを学ぶことによって,必要な道徳心を十分に身につけることができます。とばくより正直に働くことのほうがはるかにすぐれています。「二種のふんどうはエホバに憎まる 虚偽のはかりはよからず」― 箴言 20:23,文語。

      つつしみ

      20 つつしみを定義しなさい。つつしみはなぜクリスチャンにふさわしいですか。

      20 つつしみはクリスチャンにふさわしく,につかわしい資質であり,つつしみがないのはその逆です。つつしみとは自分のことをつつましく,あるいはひかえ目に見,それゆえに誇らないことですが,同時に礼儀を守り,みだらなあるいは下品な言行を控えることでもあります。したがってつつしみの中には考えや行ないや身だしなみの貞節さが含まれます。服装についてみても,つつしみのある服装とつつしみのない服装があります。クリスチャンはつつしみ深い服装をすべきです。つつしみ深いのは適当な,したがって良いことであり,つつしみのなさに伴う非難を避けることができます。

      21 スタイルと身なりについて事実を述べなさい,(イ)聖書に基づいて,(ロ)影響と絶えざる変化について,(ハ)背後にあるつつしみのない傾向について。

      21 聖書は人がどんなものを着るべきかを規定していません。聖書はスタイルブックではありません。土地によっては人々の着るものが何世紀もの間ほとんど変わらない所があるようです。しかし,男女の服装が終始変化している所もあります。服装のスタイルがいつも変化している国は世界のほかの土地に大きな影響を与えています。その影響は服装だけでなく,ほかの物事にも及んでいます。工業技術の進んだ国は世界大戦を行ない,その発達した兵器で多くの人を殺し,全世界に経済的な影響力をふるっています。こうした影響が他の分野とあいまって,人の服装にも及んでいるのです。これらの国では商業的な理由や人々の放縦な傾向のため,性が重く見られています。性を過度に重く見るこの傾向は服装のスタイルの変化にも表われ,人々はしだいにつつしみを欠いた服装をするようになっています。

      22 からだを誇示するのはなんのあらわれですか。

      22 こうした性の誤用および過大視の動きは,男女がからだを誇示することに表われています。この誇示的な傾向は現代のスタイルの流行が及ぶ所すべてで強まっています。放縦な性の思いで心を満たした男女は,人前にからだをさらすような,タイトで,短かく,簡略な服装をして,不自然な満足を見いだしています。

      23 (イ)これらのことに対する良い見方は何ですか。(ロ)つつしみのない服装にはどんな危険がありますか。(ハ)マタイによる福音書 5章28節はこの点でどのように結びつきますか。(ニ)つつしみのある服装は演壇での話の価値を高めるのにどう役だちますか。

      23 このような身なりに,良いところ,クリスチャンとしてふさわしい所は何もありません。クリスチャンは清潔また清そな服装をすると同時に,つつしみを欠いた世の傾向に流されぬよう注意しなければなりません。つつしみ深く,しかも「流行に合った」服装をすることはできるのです。外見と土地の流行だけを考えて極端に走る必要はありません。クリスチャン婦人であっても,つつしみを欠いた服装をするなら,古い事物の制度に属する女性と全く同じに見えるでしょう。クリスチャン婦人およびクリスチャンの少女は,自分の服装が男に対する「約束」となる場合の多いことを知らねばなりません。ニューヨークの「ジャーナル・アメリカン」誌は,『これ見よがしにすその短いドレス,および腰かけるとき過度に足をむき出しにすること』について若い婦人たちに警告し,「あなたがたは……自分が約束するとおりのことを求められている」と書きました。クリスチャン婦人はイエスがマタイによる福音書 5章28節で語った事態をわざわざ助長してはなりません。「わたしはあなたがたに言う。だれでも,情欲をいだいて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたのである」。つつしみを欠いた服装をする女が男の心に起こさせようとしているのはこのことでありませんか。良いクリスチャンの道はすべての人の益になります。それを実践するなら,演壇に立つ人々を,あるいは御国会館の聴衆を当惑させることはありません。―ペテロ第一 3:3,4。

      24 (イ)自分の偉大な造り主を覚えるという原則はこれらのことにどのようにあてはまりますか。(ロ)すべての道でエホバを覚えることは賢明ですか。

      24 正義を愛する人が良い決定をしなければならない場合はこのほかにもたくさんありますが,それらのすべてにあてはまるのは自分の造り主を覚えるという原則です。エホバが人間に示された愛を思い返すのは良いことです。「わたしたちも以前には,無分別で,不従順な,迷っていた者であって,さまざまの情欲と快楽との奴隷になり,悪意とねたみとで日を過ごし,人に憎まれ,互に憎み合っていた。ところが,わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき,わたしたちの行った義のわざによってではなく,ただ神のあわれみによって,再生の洗いを受け,聖霊により新たにされて,わたしたちは救われたのである。この聖霊は,わたしたちの救主イエス・キリストをとおして,わたしたちの上に豊かに注がれた。これは,わたしたちが,キリストの恵みによって義とされ,永遠のいのちを望むことによって,御国をつぐ者となるためである」。(テトス 3:3-7)ここに述べられた原則は,エホバを喜ばせ,エホバの善意を得,やがてエホバのもたらす正義の新秩序下での命を得ることを望む者すべてにあてはまります。ここにわたしたちは,善良さを示すことが真の知恵の道であることを見ることができます。こうして善良さを示すことはエホバに対する信仰の行ないでもあり,またクリスチャンとして謙孫な心をもっていることのしるしです。「エホバかくいひ給ふ知恵ある者はその知恵に誇るなかれ 力ある者はその力に誇るなかれ,高める者はその富に誇ることなかれ 誇る者はこれをもて誇るべし すなはちさとくして我をしる事とわがエホバにして地にめぐみと公道とただしきとを行ふ者なるを知ることこれなり,我これらをよろこぶなりとエホバいひ給ふ」― エレミヤ 9:23,24,文語。

  • 「目ざめている」
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • 「目ざめている」

      ◆ アーモンドの木(シャーケード)のヘブル語名は「目ざまし」という意味である。アーモンドは冬の休眠に続いて一番早く開花するものの一つであり,パレスチナでは1月下旬か2月上旬に花をほころばせるので,この名前は適切である。聖書のエレミヤ書 1章11,12節には,「あめんどう」(シャーケード)につづいて「見張って」(ショーケード)という表現を使った言葉のしゃれがある。「〔エホバ〕の言葉がまたわたしに臨んで言う,『エレミヤよ,あなたは何を見るか』。わたしは答えた,『あめんどうの枝を見ます』。〔エホバ〕はわたしに言われた,『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ』」。

  • 孤立した区域で証言する医師
    ものみの塔 1967 | 8月1日
    • 孤立した区域で証言する医師

      ● 真理を知ってごく新しい人は,交わりの価値を痛感することが少なくありません。ダホメーの政府にやとわれている一医師は聖書を少しの間学んだだけですが,ダホメーから大分離れた北部の町に任命されました。その町から一番近い会衆は480キロも離れていました。新しい職場に来て1年後,彼は兄弟に手紙を書き,エホバの証人とまた交わりたいと言いました。兄弟は会衆のある最北端の町で間もなく大会が開かれることをしらせました。それでも480キロも離れており,道路は悪く,輸送機関といえば無蓋のトラックだけでした。兄弟たちと交われる大会に出席するため,この医師は木曜日の夜どおし,また金曜日と旅をしました。彼は兄弟たちとの交わりを存分にたのしんだので,自分も神に献身してエホバの証人になりたいが,自分の家に来て聖書を教えてくれる人がいないだろうかと聞きました。1か月後,二人の兄弟は医師の家で一月間生活し,彼が出勤する前に一緒に聖書を研究しました。医師の仕事中,二人は町で伝道したのです。医師は仕事が終わると二人の兄弟に加わり,最初の月に39時間奉仕しました。彼の両親や妻はカトリックの信仰を捨てないように熱心に彼を説得しましたが,今,彼の妻も真理に関心を持っています。今彼は四つの聖書研究を定期的に司会しており,また浸礼によって献身を象徴するために次の地域大会の時に休暇をとることにしました。これは一人の伝道者もいなかった,480キロ離れた北の町でわざを押しすすめるすばらしい機会となりました。

      ― エホバの証人の1967年度年鑑から

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