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明確に考える方法を学んでいますか目ざめよ! 1973 | 3月22日
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一方,正真正銘のクリスチャンには,物事を明確に考える方法を身につけるのに不可欠な要素があります。それはどうしてですか。なぜなら,真のクリスチャンは,人生に目標を持っており,何にもまして神を喜ばすことに努めているからです。とはいえ,そうした目標ゆえに可能とされている,明確に考える能力を享受するには,クリスチャンといえども誠実な努力を払わねばなりません。まず,聖書を勉強する必要があります。神の義の新秩序におけるとこしえの命の報いについて聖書から学ぶのです。そして,神への愛と,神から差し伸べられているその報いを得たいとの願いに動かされて,神の高い道徳的要求に自分の生活を一致させ,『この世に效う』のをやめます。こうして,自分の生活の道徳上の事がらを改めます。そして多くの場合,そうした変化は自分の考え方を大いに助けるものとなり,不道徳な生活のもたらした不必要な重荷はその良心や思いの中から除かれてしまいます。―ロマ 12:2。
しかしながら,人生にただ一つの目標を置く人は,「開放的な」思いではなくて,「閉鎖的な」思いを持つようになるのではなかろうかと問う人がいるかもしれません。では,調べてみましょう。
普通,人が「開放的な」思いについてうんぬんする場合,それは単に,他の人びとの見方に対して寛容な人のことを言っているにすぎません。しかし,単に他の人の見方に対して寛容であるというだけでは,実際には考える必要はないのではありませんか。実際のところ,完全に「開放的な」思いというようなものは,とにかく何でも,下水をさえ通すパイプになぞらえることができるでしょう。自尊心のある人で,自分の思いをごみのようなもので汚されるのを欲する人はひとりもいません。ですから,人は取捨選択をする必要があります。自分の思いに取り入れるものをえり分ける必要があります。要するに,考える必要があります。しかしながら,あまり狭量で,あるいは偏狭で,自分の考え方を改善できる事実を考慮することをさえ拒むようになりたいとは思いません。
したがって,考え方に平衡を持たせる必要があります。「物事を狭く考えることも,広く考えることも,ともに必要である」とレベンスタイン教授が述べたとおりです。どうすれば,そうすることができますか。
正しい規準の益
提供される新しい情報を評価する規準を持つことによって,人は平衡の取れた考え方を身につけることができます。そうすることによって,人は自分の思いにはいって来るものを制御するとともに,自分の目標を達成する道からそらされずにすみますし,しかも価値のある新しい情報を締め出すこともありません。
この点でもやはりクリスチャンには,大きな助けを得る源となるものがあります。どうしてそういえますか。自分の考え方を導く確かな指針としての聖書があるからです。一方では,その思いは確かに「開放的」です。すなわち,芸術や科学を含め,人間が努力を払っているほとんどあらゆる分野から得られる新しい情報を受け入れることができます。そして,聖書に基づく規準に照らして,そうした新しい情報を正しく考量し,自分の思考の型に合わせて取り入れます。他方,聖書に基づいた自分の目標に全く反する情報に対しては,その思いは「閉鎖されて」います。そのような情報は,それ以上注意を払う価値のないものとして退けることができます。
物事を明確に考える人は,毎日,悪いもの,それに対して自分の思いが正しく「閉鎖されて」いるものを取り除いたり,遮断したりしなければなりません。本や,テレビやラジオの番組はもとより,公共の出版物や新聞雑誌から絶えまなく宣伝を浴びている今日,そうすることは以前にもましていっそう肝要です。
もちろん,今日出版されている多くのものは一見しただけで,注意を払うに値しないものであることがすぐわかります。たとえば,性的倒錯,不道徳,暴力行為などを称揚する小説や演劇またテレビ番組などはその例です。それらは劣情に迎合するものですから,その目的はたいてい,りっぱな考え方を思いとどまらせる,実際,無分別な情欲を奨励して人の思いを鈍くさせることにあります。
しかし多少の有益な情報を入手できる本や番組でさえ,注意を払う必要があります。そのようなものはしばしば,進化論のような実証されていない学説の影響をおそらく受けているためでしょうが,考え方の面でまちがった傾向をわずかに表わす場合があります。たとえば,育児,歴史,自然科学,考古学,医学,心理学,小学校の教科書などの一部の出版物,そして聖書のいわゆる参考書のあるものさえ,さまざまの問題を論ずるさい,進化論を暗にほのめかしたり,それを「事実」とみなし,その前提のもとに物事を論じたりしている場合があります。ここでも,読書にさいして,特に「開放的な考え」の持ち主は,悪影響をこうむらないようにするには,あるいは,まちがった教義を支持した1世紀当時のある人々のことが描写されたように,『精神的に病んだ』状態に陥らないためには,用心しなければなりません。―テモテ前 6:3-11,新。
あなたは明確に考える方法を学んでおられますか。もし人生に確かな目標を持ち,また自分の注意を引く新しい情報を判断する規準を持っておられるなら,あなたは幸先の良い出発をしたことになります。しかしあなたは,次のように言われるかもしれません。『わたしには確かに人生の目標や規準があります。しかし,わたしの考えをひるませるのは,そうした重大な事がらではありません。むしろ,日常の数多くのささいな事がらで下さなければならない決定 ― わたしを困らせるのはそのような事がらなのです。どのようにしてわたしの思考力を奮起させたなら,そうした日常のこまごまとした用事を最も能率的な仕方で処理できるのでしょうか』。
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急に働きをやめる頭脳にとって良い助けとなる考え方目ざめよ! 1973 | 3月22日
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急に働きをやめる頭脳にとって良い助けとなる考え方
日常の用事を考えたり,決定を下したりする段になると,急に頭脳の働きが止まってしまうように感じますか。もしかしてあなたは,「思索家」とは学者や天才だけなのだと考えておられるかもしれませんが,そうではありません。多くのほんとうの思索家は,毎日直面する数限りない挑戦に対処する方法を知っている普通の人びとなのです。そのような能力を発達させるのに何が役だつでしょうか。
いつも自分の目標のすべてを考慮に入れますか
前の記事で説明されたとおり,物事をよりよく考えるのに助けとなる基本的な事がらは,自分の人生の総合的な目的を絶えず念頭に置くことです。主要な目標が見失われると,考え方はあやふやになってしまいます。
しかし,思考作用を促すのにやはり重要なのは,二次的な目標とでも呼べるものです。ある種の日々の問題は決して片づきません。なぜなら,ある人びとは長期にわたる主要な目標だけを考えて,もっと小さな,それでいて重要な他の目標を無視するからです。
物事を考えるのに二次的な目標がどのように役だつかもやはり旅行のたとえで説明できます。スペインのマドリードから東ドイツのベルリンへ旅行する人は,自分の主要な目標を知っています。しかしながら,その旅行者は旅行経路をもう少し短く区分したいと考え,フランスのツールーズと
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