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バルク ― 預言的音信を受けた書記官ものみの塔 1979 | 3月15日
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は将来受けることになっているエホバの保護を小規模な形で味わっていたのです。
エルサレムが滅んだ後でさえ,バルクは,引き続き忍耐し,エホバの保護に頼らねばならないことを知りました。エレミヤが民にエホバの言葉を告げ,エジプトに逃げないよう勧めた時,民はそれに少しも注意を払いませんでした。エレミヤを通して語られたエホバの言葉を退ける口実として,彼らは,「ネリヤの子バルクがあなたをそそのかして,われわれに逆らわせ,われわれをカルデヤびとの手に渡して殺すか,あるいはバビロンに捕え移させるのだ」と言って,バルクを中傷しました。(エレミヤ 43:3,口)エレミヤは今や老いぼれて書記官の言うなりになっている,エレミヤはもはやエホバの言葉を語ってはおらず,書記官の言葉を全能者の音信として伝えている,と彼らは主張したのです。こうした事態に面したバルクは,自分を守ってくださるというエホバの約束に信仰を持ち続ける必要がありました。
今日のわたしたちは,バルクの経験から益を得ることができます。バルクは,エレミヤの書記官としてエホバに忠実に仕えることによって特別な物質の報酬を受けたわけではありません。同様に,今日のわたしたちも,民全体に苦難や困難が臨む時,何かの特別の扱いを受けられると期待すべきではありません。「[エホバ]の怒りの日に,あるいは隠されることがあろう」というエホバの保証の言葉で満足し,来たるべき「大患難」の際には進んで苦難を忍ばねばなりません。(マタイ 24:21,22。ゼパニヤ 2:3,口[新])そうするなら,神の裁きが邪悪な者に対して執行されるのを見る時,わたしたちは自分の魂,つまり命をぶんどり物として得て,「大患難」を生き残り,義と平和のエホバの新秩序に入ることを確信を抱いて待ち望めます。
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『肥えて,つやがある』ものみの塔 1979 | 3月15日
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『肥えて,つやがある』
エレミヤ記 5章28節(口)は,不法な手段で栄えるようになった人々をこう描写しています。「肥えて,つやがあり,その悪しき行いには際限がない」。そのような邪悪な者は,十分に栄養が行き届いているという意味で肥えていました。ですから,その人たちの皮膚は,栄養不良にさいなまれているかのように垂れ下がってはいませんでした。それどころか,その皮膚には張りがあって,なめらかで,「つやがあり」ました。しかし,その繁栄は一時的なものにすぎませんでした。エホバはそうした人々に償いをさせようとしておられました。―エレミヤ 5:29。
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覚えていますかものみの塔 1979 | 3月15日
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覚えていますか
あなたは最近号の「ものみの塔」誌を注意深くお読みになりましたか。もしそうでしたら,恐らく次の点を覚えておられるでしょう。
● 西暦一世紀にイエス・キリストの言葉を聞いた人々はどのように『死から命へ移る』ことができましたか。―ヨハネ 5:24。
イエスが地上で宣教を行なった時代の人々は罪人であったため,死の宣告下にありました。しかし,神のみ子に聞き従い,自らの罪過を悔い改め,人間を罪と死から贖う,約束されたメシアとしてイエスを受け入れることにより,人々はもはや有罪宣告のもとにはいません。このように比ゆ的な意味で,彼らは『死から命へ移った』のです。―78年 12/1 18ページ。
● 使徒パウロが書いた「愛は決して絶えません」とはどんな意味ですか。―コリント第一 13:8。
文脈から明らかなように,パウロが論じていたのは,奇跡的な賜物は廃されても愛は続くということでした。そのため,決して終わることも乏しくなることもないという意味で「愛は決して絶え(ない)」のです。―78年 12/15 25ページ。
● ネフィリムとはだれですか。
ネフィリムとは,ノアの時代に住んでいた,神の不従順な霊の子と人間の女との間に生まれた者でした。ネフィリムの名には他の人を倒れさせる人,“打ち倒す者”という意味があります。ノアの時代にはびこっていた暴力は専らこの強い力を持つ混血種によって引き起こされたものでした。―79年 1/1 5ページ。
● 義人が病気の際,エホバがそのふしどを変えられるということに関して詩篇 41篇3節に言い表わされている確信にはどんな意味がありますか。
エホバはご自分のしもべたちが病気に耐えるように強め,回復に不可欠な希望を人の内部に生じさせます。こうして至高者は病のふしどを回復の床に変えられるのです。―79年 1/15 6,7ページ。
● 個人的な観点からして,イエス・キリストの弟子たちが模範的な行状を保ち,公の証言や他の良い業に熱心であることはなぜ急を要するものでしたか。
現在の年齢がいくつであろうとも,死もしくは“大患難”はエホバ神に対する良い業の記録を築き上げる機会を閉ざしてしまうでしょう。それで人はクリスチャンの責務を果たすことにむとんちゃくであるはずがありません。それは創造者に対する記録に影響を及ぼし,神の祝福を失うことになりかねないからです。―79年 2/15 25ページ。
● ある人が長老として任命される前に,クリスチャンとしての年数に慎重な考慮を払うべきなのは特にどんな場合ですか。
それは会衆内にすでにクリスチャン生活の長い経験を持つ長老たちがいる場合です。このような会衆で最近バプテスマを受けた人が任命されるなら,その人は「誇りのために思い上が」るようになる恐れがあります。(テモテ第一 3:6)しかし会衆が新しい人たちで構成されている場合には,比較的新しいとはいえ,聖書の資格にかなっている人が任命されても,同様の霊的な危険を招くことはありません。このような人は自分が奉仕しているのは必要が生じたからであって,霊的な人として格別に際立っているからではないということを認識します。―79年 3/1 19,20ページ。
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読者からの質問ものみの塔 1979 | 3月15日
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読者からの質問
● 自分の目と契約を結んだので処女に注意を向けることはないと語ったヨブの言葉にはどんな意味がありますか。
このヨブ記 31章1節(新)は次のようになっています。「契約を,わたしは自分の目と結んだ。それゆえ,どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか」。これは,神への忠誠を保つ決意を抱いたヨブが,自分の妻以外の女性を情欲の目で見ることさえすまいという気持ちを固めていたという意味です。
ヨブとその妻は幾人かの子供をもうけていました。長年連れ添った妻から,神を呪って死になさいと勧められた困難な時期にも,ヨブは妻に対して忠実でした。(ヨブ 2:9,10)ヨブが一夫一婦制から離れたとか,年若い女性,処女との性行為に思いふけったとかいう記録はありません。―ヨブ 19:17。
ヨブは,不道徳行為が多くの場合,異性を肉欲の目でながめることから始まり,それが心の中に不道徳な性行為に対する欲望をつのらせる結果になることを知っていました。そのためヨブは,自分の目といわば正式な契約を結びました。どんな目的のためにですか。ヨブは妻以外の女性を色情を抱いて見ることはしないと断固決意したのです。当然,ヨブは日々の生活の中で女性を見ることもあれば,助けを必要としている婦人たちに注意を向けることもありました。しかしうわ気や恋愛をする動機で注意を払うことに関しては,問題外でした。それはヨブにはできない相談でした。確かにヨブは,“目との契約”によって,不道徳行為を招きかねない,情欲をかき立てるように見つめることから守られました。―ヨブ 31:9,11; マタイ 5:28と比較してください。
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