ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 「千年」― 見せかけの希望ではない
    神の千年王国は近づいた
    • 1章

      「千年」― 見せかけの希望ではない

      1 人間の建てる王国が千年間持続できるかどうかについては何といわねばなりませんか。

      王国が千年間持続するには,それはほんとうにしっかりした ― 強力な王国でなければなりません。そのような王国政府は,一介の人間またはその継承者などによって立案,創設,維持できるものではありません。ある家系の歴代の王の支配する,人間の建てた王国で,かつて千年近くですら持ちこたえた王国は一つもありません。

      2 ただひとりの人間の君主による王国支配というようなことはどうして問題になりませんか。

      2 では,ただひとりの君主が10世紀間支配を継続する王国についてはどうですか。それは不可能です! いまだかつてそれほど長生きした人はひとりもいません。記録にとどめられている最古の系図によれば,西南アジアに住んだメトセラという人は地上の被造物である人間の中で最も長生きをした人ですが,それでも千年までにはなお31年を残して一生を終えました。a 現代の人間の平均寿命は前述の並はずれた寿命からはほど遠いものになりました。今日の先進諸国は医学の恩恵に浴しながらも,人びとの平均寿命は70歳にも及びません。女子の平均寿命は男子のそれをおよそ6年上回っています。ゆえに,ただひとりの男子あるいは女子による千年間の王国支配などということは,その臣民が自分たちの支配者をどんなに良い人物と考えようが問題になりません。

      3 ごく最近に作られた「千年計画」は人類に対して何をもくろむものでしたか。

      3 したがって,無論ここではそうした人間的見地から千年王国について論じているのではありません。わたしたちはもとより,今なお生存している他の何百万もの人びとは個人的観察者として,一国の政府を千年間持続させようとする努力が払われたごく最近の実例を思い起こせます。その「千年計画」とは,西暦1933-1945年まで支配したナチ・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーの計画です。アメリカが第二次世界大戦に突入した後,ほどなくして押収されたナチ文書や拘置されたドイツ人スパイその他種々の出所から,そのナチ計画に関する情報が少しずつ収集されました。同計画は,もしヒトラーが第二次世界大戦で首尾よく勝ちを得た暁には人類世界に情け容赦なく強制する予定であったナチ世界秩序をねらいとした事実上の奴隷計画で,そのための労働者はドイツ以外の諸国から補充されることになっていました。同計画は千年先にまで及ぶものでした。

      4 ヒトラーは明らかに昔のどんな帝国のことを考えていましたか。一司祭はその点をどのように証言しましたか。

      4 オーストリアのハプスブルク王家の土地の出身者であった,ナチの指導者ヒトラーは明らかに,962年から1806年まで続いたゲルマン民族の神聖ローマ帝国のことを考えていました。事実,その趣意のことばを述べたローマ・カトリックのある司祭の例があります。1940年2月16日の夜,ワシントン市のメモリアル・コンチネンタル・ホールで満員の聴衆を前にして,ジョージタウン大学の海外勤務学部の評議員エドモンド・A・ウォルシ博士は,「神聖ローマ帝国の再興」を目ざすドイツの戦争目的のあらましを述べました。こう伝えられています。「ウォルシ博士は,アドルフ・ヒトラーがゲルマン民族の帝国であった神聖ローマ帝国は再興されなければならないと語るのを聞いたと述べた」― 1940年2月17日付,ニューヨーク・タイムズ紙。

      5 ヒトラーはナチ帝国に関して何を誇りましたか。その計画はどうなりましたか。

      5 ナチ総統ヒトラーは高慢にもこう言いました。「国家社会主義ドイツ帝国は千年間持続するであろう」。ところが,ナチの秘密警察の長官ハインリッヒ・ヒムラーはそれ以上に自信満々で,「一万年までも!」と答え応じました。その自己中心的な計画をひとたび実行に移したヒトラーは,世界支配さもなくば世界の破壊以外の何ものによっても満足できなかったのです。「ヒトラーの最後の日」という本の中で著者H・R・トレボァ-ロパーはこう述べています。「ヒトラーが,世界強国さもなければ破滅という最初の計画をあくまでも堅持するであろうことは言うまでもないことであった。もし世界強国になれないのであれば,(彼のことを知っている人はすべてこの点で意見を同じくしたが)彼は破滅をできるかぎり大きくするつもりであった」。これを読んで,なかには,「なんと悪魔に似ているのだろう!」と叫びたい気持ちになる人がいるかもしれませんが,それはもっともなことです。いずれにしても,ヒトラーの宗教の多くの信奉者の期待した神聖ローマ帝国の再興は成らず,ナチ「千年計画」は12年を経ずして失敗しました。

      6 ゲルマン人ではない昔のどんな支配者は,ヒトラーが学ばなかったと思われる教訓を学び取りましたか。その支配者の夢をだれが正しく解き明かしましたか。

      6 この自称世界支配者ヒトラーは教訓を学ばなかったかもしれませんが,遠い昔の世界支配者が苦しい思いをして学ばざるを得なかった厳とした動かせない事実にまともに直面しました。その支配者はヒトラーよりも長く,すなわち43年間(西暦前624-581年)支配しました。彼はゲルマン人つまりアーリヤ人ではありません。彼はバビロンの王で,ネブカデネザルという長い名前の持ち主でした。西暦前607年にユダヤ人の都エルサレムを滅ぼし,生き残ったユダヤ人の大半を遠くバビロニアの地方に流刑囚として連れ去り,ヒトラーがしたように住民をそっくり国外に追放したセム人種の世界征服者といえば,その人物を思い起こせるでしょう。国外に追放された当時の人びとの中には,ユダヤ人のユダの支族の,セム人種の預言者ダニエルがいました。ネブカデネザル王は不思議な夢を見,それを非常に重視しました。その夢を解き明かすことができたのは,奴隷であった預言者ダニエルだけでしたが,その解き明かしは適中しました。

      7 その夢はいつ実現し始めましたか。その支配者は卑められたことからどんな教訓を学ぶことになりましたか。

      7 夢を見てから1年後,バビロニア世界強国の首位者ネブカデネザルは自ら誇り,ユーフラテス河畔の自国の首都バビロンを自慢しはじめたところ,その誇りのことばを述べ終えるか終えないうちに彼は,目に見えない所から ― 天からの ― 声が,かつてその夢の中で聞いたことばを述べるのを聞きました。ネブカデネザルはそのことに関する自分の記述の中でこう述べています。預言者ダニエルはその記述を保存しました。「ネブカデネザル王よ,あなたに告げる。『王国はあなたから離れ去った。あなたは人間の中から追い出され,野の獣とともに住み,雄牛のごとくに草を食べ,こうして七つの時があなたの上に過ぎ,ついにあなたは,いと高き方が人間の王国の支配者であり,ご自分の望む者にそれをお与えになることを知るようになる』」― ダニエル 4:29-32,新。

      8 その高慢な王を打ったのはだれですか。だれが彼を癒しましたか。

      8 その直後何が生じましたか。その時のできごとに関する記述がバビロニアの歴史の記録中に保存されていないにしても,あるいはバビロニアの年代記作者の記録から削除もしくは抹殺されたとしても,それはもっともな話です。しかし,その問題に個人的に関係した,事実に忠実で正直な預言者ダニエルは霊感を受けてその記録を残したので,2,500年余の後代のわたしたちはそれを調べることができます。高慢な王ネブカデネザルはたちどころに狂気に打たれました。が,彼がこのうえなく敬っていた神,マルドゥク(もしくはメロダク)に打たれたのではありません。西暦前607年にエルサレムの聖なる神殿を崩壊させたこの高慢な王を打ったのは,その狂気を予告した全能の神です。そして,預言され,定められていたとおり,ネブカデネザルの身の上に文字どおり「七つの時」が経過し,彼はその間,付近の原野で雄牛のように狂気のごとく草を食みました。狂気した王は,1945年に首都ベルリンがソ連の赤軍の手に落ちる直前自殺したアドルフ・ヒトラーのように自殺したりはしませんでした。ネブカデネザルを打った真の神は,その狂気の7年の終わりに彼を癒し,正気を取り戻させました。

      9,10 ダニエルによって保存された記述(4:34-37)は,神の絶対的支配権に関してバビロンの王が教訓をよく学んだかどうかについてどのように示していますか。

      9 バビロンの王は教訓を学びましたか。それは預言者ダニエルによってわたしたちのために保存された,王自身の記述からわかります。一人称の形で書かれているその記述はこう述べています。

      10 「そしてその期間の終わりに,私,ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に自分の理性が戻り始めた。それで私はいと高き方をほめたたえ,定めのない時まで生きておられる方を賛美し,あがめた。なぜなら,その支配権は定めのない時まで保つ支配権であり,その王国は代々限りなく続くからである。また,地の住民すべては無きもの同然にみなされる。彼は天の軍勢や地の住民の中でご自分の意志にしたがって事を行なっておられる。その手を抑えうる,あるいは『あなたは何をしておられるのか』と彼に言いうる者はいない。……今,私,ネブカデネザルは,天の王を賛美し,たたえ,あがめる。なぜなら,そのみわざはすべて真実であり,その道は公正だからである。また,高ぶって歩む者たちを,彼は卑しめることができるからである」― ダニエル 4:34-37,新。

      11 バビロンの王は,支配を行なうには不適格者となったその「七つの時」の期間に関するどんな事を少しも知りませんでしたか。

      11 ネブカデネザルはバビロニア世界強国,つまり聖書の中で言及されている一連の七つの世界強国中の第三世界強国の王座に復位したことを自ら述べています。(ダニエル 4:36)しかし,支配を行なうのに不適格者となったその「七つの時」の期間が長期間にわたる「七つの時」という預言的な,より長大な期間,つまり「異邦人の時」と呼ばれる期間であることはつゆ知りませんでした。また,そのより長大な「七つの時」の間,五つの世界強国 ― バビロニア,メディア-ペルシア,ギリシャ,ローマそして現代の英米世界帝国がそれぞれ地を支配することも少しも知りませんでした。また,合計2,520年になるその「七つの時」は,ネブカデネザルがエルサレムとその神殿を荒廃させた年に始まって,人類世界が最初の世界戦争に巻き込まれた年 ― 西暦1914年に終わることなど知るよしもありませんでした。(ルカ 21:24,欽。ダニエル 4:16,23,25,32)まして,異邦人の支配するその「七つの時」の終わる1914年に,「天の王」がご自分の望む者 ― そのメシアに「人間の王国」をお与えになることなど,ネブカデネザルは少しも知りませんでした!―ダニエル 9:25,新。

      神の霊感によって与えられた先見

      12 この世の政治家は「人間の王国」に関して依然どんな考えを持っていますか。しかし彼らは人間の事がらに関してだれの手を抑えることができませんでしたか。

      12 すべての国の政治家は依然として,「人間の王国」は自分たちの正当な関心事であり,自分たちの正当な活動領域であると考えています。昔,バビロンの王ネブカデネザルもそう考えました。かなり最近には,千年の長期政治体制を夢見たアドルフ・ヒトラーもそう考えました。しかし,『その支配権は定めのない時まで保つ支配権である』ことをネブカデネザルがついに認めざるを得なかった方,その方は依然として「人間の王国の支配者」であられます。人間の事がらを治めるその王国は依然として,その方が関心を抱き,その運営に当たるべき正当な領域なのです。キリスト教世界の僧職者の支持するこの世の政治家は「その手を抑える」ことはできませんでしたし,またその方に対して,「あなたは何をしておられるのか」と言う権限も持ってはいません。(ダニエル 4:34,35,新)その方は西暦1914年の「異邦人の時」の終わりにさいして,「人間の王国」をだれに与えるべきかに関し,それら政治家やその宗教上の支持者とは相談されませんでした。政治家やその宗教上の同盟者たちは相談相手のような重要な存在ではありませんが,その方は『いと高き方,定めのない時まで生きておられる方』なのです。

      13,14 きたるべき千年に関しては,だれのことばに基づいて確信をいだいて預言できますか。なぜですか。

      13 では当然,だれのことばに基づいて来たるべき千年について預言できますか。人間は明日のことさえ予告できません。19世紀余の昔の一観察者は,「あなたがたは,あす自分の命がどうなるかも知らない」と述べました。(ヤコブ 4:14)しかし,『いと高き方,定めのない時まで生きておられる方』に関しては事情は異なります。その方にとって時間はどのようなものですか。

      14 この方に向かって,ちょうど120年生きたある人はいみじくも述べました。「あなたの目には,千年も,過ぎ去れば昨日のごとく,夜の間のひと時[古代ユダヤ人の4時間のひと時]のようです」。(詩篇 90:4および表題,新)その方は,単なる一夜の夢とネブカデネザル王に対する預言者ダニエルのその夢の解き明かしとによって,西暦1914年に終わる2,520年の期間の後に世界史に生ずる事がらを予告できました。ではその方は,西暦1914年以後のある時点から始まる千年の期間に起こる事がらを同様に容易に,また正確に予告できるのではないでしょうか。まさにそのとおりです! しかも,そのような千年の期間に関する説明をすでに与えておられるとしたらどうですか。そうであれば,そのことばを根拠にして,きたるべき千年について確信を抱いて語れるでしょう。

      15 ラテン語あるいはギリシャ語の語根を用いる人たちは,その千年の期間を何と呼びますか。その到来を信ずる人たちは何と呼ばれていますか。

      15 英語では古代ラテン語に由来することばを用いる人は,千年のその期間をミレニアムと呼びます。このことばの二つの語根であるラテン語のミレは「千」を,アヌスは「年」を意味するからです。ギリシャの人びとはその期間<ピアリアド>のことをキリアスティック・ピアリアドといいます。ギリシャ語のキリアは「千」を意味するからです。それで千年のこの特別の期間の到来を信ずる人たちはミレニアリストまたはミレネアリアンあるいはキリエスト(千年期説信奉者)と呼ばれました。キリスト教世界の人びとはこれらの語を非難がましい仕方で用いています。

      16,17 (イ)西暦1000年に関する人間のどんな経験は,西暦2000年が近づいているゆえにわたしたちが千年期に関心を持っているのではないことを示していますか。(ロ)人類生存の第七千年紀が西暦2000年より何年も前に始まるのはどうして幸いなことですか。

      16 無理解な人びとからの非難に身をさらそうとも,近づく千年のこの期間に対して真の関心をいだいて然るべきです。そのことに関する情報は,『いと高き方,定めのない時まで生きておられる方』の記されたことばの中に収められています。そのことに対するわたしたちの関心が高まっているのは,西暦2000年つまり西暦2,000年紀の終わりが近づいているからではありません。これは重大な事がらではありません。わたしたちは,人類が西暦1000年つまり西暦1,000年紀の終わりに近づいたとき何が起きたかを思い起こします。このことに関して新カトリック百科事典はその853ページで「千年期説」の題目のもとにこう述べています。「西暦1000年が近づくにつれ,千年期説はいっそう優勢になった。なぜなら,多数の終末論者は創造の第七日が人類史上西暦1000年に満了し,十世紀間にわたるキリストの輝かしい統治がそれに続くということを信じていたからである」― 1967年,版権取得。

      17 一つには,地上における人類生存の6,000年の終わりと人類生存の7,000年紀の始まりは西暦2000年よりも何年も前に訪れると考えられます。これは幸いなことです。今日,人類世界はかくも嘆かわしい状態にあり,多方面から破滅の脅威を受けているため,人類の存続を脅かす種々の問題を調査,研究している識者の中には,人類が西暦2000年まで生存できるかどうかに対する事実上の疑問を表明する向きは少なくありません。それら識者は最も広く読まれているあの聖なる書物つまり聖書の何らかの年表に基づいて人類の将来に対する暗い見通しをいだいているのではなく,今日の厳然とした事実や,わたしたちすべてを包含している今や逆転不能の物事のすう勢に基づいて論じているのです。権威をもって語るそれらの人びとは人類の今後の生存年数を1,000年よりもはるかに少なく見積っています。このことを信じまいとするどんな理由を読者はお持ちですか。

      18,19 (イ)この情報はなぜ,その道の人で成るある種の終末論者秘密結社に局限されてはいませんか。(ロ)その情報を収めた書物はだれの名を署して著わされていますか。なぜですか。

      18 純粋に人間的見地から語るそれら陰気な予言者とは正反対に,『いと高き方,定めのない時まで生きておられる方』は,人類のなお前途に控えている千年,さらには人類史全体の中でも最もすばらしい何年かに関して楽しく語っておられます。この希望を鼓吹する情報は,「事情」に詳しい特殊なその道の人びとで成る,ある種の終末論者秘密結社がひそかに入手したものではありません。1,500の言語や方言を用いる全地の何十億もの人びとは,その貴重な情報の出典を公に手に入れられます。どこの人でも聖書を1冊持っていれば,人生を明るくするその情報を入手できるのです。

      19 聖書は書記もしくは筆記者としての,それも単なる不完全な人間によって書かれましたが,その聖なる書物は人間のことばではないことを随所で述べています。それは神の霊感による著作ですから,『いと高き方,定めのない時まで生きておられる方』のみ名を署して著わされた書物です。その方は現代に至るまで,その書物が過去について,またわたしたちの将来について述べる事がらに対して責任を負っておられます。それはまさに本の中の本です!

      20 千年期に関するその情報は聖書中のどの書に見いだされますか。だれがその書を記しましたか。

      20 では,きたるべき千年とそれに続く永遠の時代に関するその情報は,その本のどこに見いだせますか。いみじくも聖書巻末の書として載せられている箇所に見いだせます。それはその書名の意味するとおり啓示の書です。あるいは覆いを取り去る,または黙示の書です。そうです,その書は,ローマ帝国から犯罪者として烙印を押され,今日のトルコに当たる小アジアの海岸に近いエーゲ海上の流刑地パトモス島に幽閉されたひとりの男の人によって書き記されました。それは現に存在する場所で,伝説めいたところは少しもありません。その流刑囚は若いころ,当時のローマ領ガリラヤ州のガリラヤの海の漁師でした。彼はゼベダイの子ヨハネで,その漁師の兄弟はヤコブです。ヨハネは啓示の書を霊感を受けて記したと,その冒頭で述べていますが,それは何に関する啓示もしくは覆いを取り去る書ですか。今日のわたしたちの関心をそそるその答えを解くにさいして,その書に対する責任をヨハネがだれに帰しているかに注目しましょう。

      21 ヨハネは冒頭で,啓示の書に対する責任をだれに帰していますか。

      21 「これは神によりイエス・キリストに与えられた啓示である。それが彼に与えられたのは,まもなく起こるはずの事を彼がそのしもべたちに示すためであった。彼はその使いを遣わして,そのしもべヨハネにそれを知らせた。ヨハネは,自分の見た事をすべて告げるにさいして,神のことばとイエス・キリストの証言との証を行なった。この預言のことばを読む者と,それを聴いて,そこに書かれている事に注意する人たちは幸いである。成就の時が近いからである」― 啓示 1:1-3,新英語聖書(1970年)。

      22 今日のわたしたちにとって,「成就の時が近いからである」ということばには,なぜ感動させるものがありますか。

      22 およそ19世紀前に書かれた前述の「成就の時が近いからである」ということばには,西暦20世紀の今日のわたしたちを感動させるものがありますか。確かに時間の観点から評価すれば,およそ1,900年を経た後の今日,とりわけ予告された「千年」が始まるまでに,「まもなく起こるはずの事」が起きても早すぎはしないでしょう。問題の千年とその直前の期間に関するヨハネの記述を読めば,その始まりの時をよりよく確定できます。では,啓示 19章11節(新英)から読んでみましょう。

      23 白い馬の乗り手をはっきり見分ける特色を挙げなさい。

      23 「また,私は広く開かれた天を見た。すると,私の前には白い馬がいた。それに乗った方の名は,忠実また真実と称えられた。彼は正しく裁き,正しく戦う方だからである。その目は火のように燃え,その頭には数多くの王冠があった。その身には,ご自身のほかはだれにも知られていない名が書かれていた。彼は血に染まった衣をまとっていた。彼は神のことばと呼ばれた。天の軍勢は,清くて輝かしい,上等の亜麻布を着て,白い馬に乗って彼に従った。彼の口からは,諸国民を打つための鋭い剣が出ていた。この方こそ,鉄の杖をもって彼らを支配し,主権者なる主であられる神の憤りと懲罰の酒ぶねを踏む方だからである。その長服にも,そのももにも,『王の王,主の主』という名が書かれていた。

      24 (イ)中天を飛んでいる鳥はどんな招待を受けましたか。(ロ)戦いに加わった者たちはどうなりましたか。

      24 「また私は,太陽の中にひとりのみ使いが立っているのを見た。彼は,中天を飛ぶすべての鳥に向かって大声で叫んだ。『さあ,来て,神の大いなる夕食に集まり,王たちや司令官たち,また戦士たちの肉,馬とその乗り手たちの肉,奴隷と自由人,大いなる者と小さい者などすべての人の肉を食べよ!』 また私は,地の王たちとその軍勢が召集されて,馬に乗った方とその軍勢と戦いをまじえるのを見た。すると,獣は捕えられた。また,獣の前で奇跡を行なって,獣の印を受けた者とその像を拝んだ者たちを迷わしたその偽預言者も,同様に捕えられた。彼らは両方とも,硫黄の燃えている火の湖に,生きたままで投げ込まれた。残りの者たちは,馬に乗った方の口から出る剣で殺された。そして,すべての鳥が,彼らの肉をたらふく食べた。

      25 次いで,悪魔サタンはどんな処置を受けましたか。それはいつまで続きますか。

      25 「また私は,ひとりのみ使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして,天から下って来るのを見た。彼は,悪魔またはサタンである竜,つまりあの年経たへびを捕えて,千年の間縛った。そして,彼を底知れぬ所に投げ込んで,そこを閉じ,その上に封印して,千年の終わるまでは,彼がもはや諸国民を唆すことのないようにした。そののち,サタンはしばらくの間,解き放されねばならない。

      26 天に見えた数々の王座にはだれが座していますか。彼らは何を行ないますか。

      26 「また私は,数々の座を見た。そして,その上に,裁きをする権を委ねられた者たちが座した。また私は,神のことばとイエスに対する証言のために首をはねられた人たち,つまり獣やその像を拝まず,その印を額または手に受けなかった人たちの魂を見ることができた。それらの人たちは生き返って,キリストとともに千年の間王となったが,残りの死人は,千年の終わるまでは,生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は確かに幸いであり,神の民のひとりである! この人たちに対しては,第二の死は何の力も持っていない。かえって,彼らは神とキリストとの祭司となり,彼とともに千年の間統治するのである。

      27 地上では,サタンの解放に続いて何が生じましたか。彼はどうなりましたか。

      27 「千年が終わると,サタンはその牢から解き放され,出て行って,地の四方にある諸国民,すなわちゴグとマゴグの大群を唆し,戦いのために彼らを召集する。その数は海辺の砂のようである。そこで,彼らは地の広い所を進んで来て,神の民の陣営と神の愛しておられる都とを包囲した。しかし,火が天から彼らの上に下って来て,彼らを焼き尽くした。そして,彼らを唆した悪魔は火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこは獣も偽預言者も投げ込まれた所で,そこでは永遠に昼も夜も責め苦しめられるのである」― 啓示 19章11節から20章10節まで。

      28 (イ)それで,その千年はどんなできごとの後に始まりますか。(ロ)では,どうしてその千年は明らかにこれから始まるといえますか。

      28 この記述の中には「千年」という表現が6回出ていることに気づきます。また,その千年は,「王の王」と,「獣」や「偽預言者」それに「地の王たち」との間で戦いが行なわれ,次いで悪魔サタンが鎖でつながれ,底知れぬ所に投げ込まれた後に始まることがわかります。こうしたできごとは,「まもなく起こるはずの事」の一部です。これまでのところ,世界にはそうしたできごとに匹敵する事がらは何も生じていません。したがって明らかに,その「千年」はこれから始まるに違いありません。それは正確に計れない漠然とした長い期間を意味してはいません。それは文字どおりの千年です。

      29 その千年に関してはどれほどの長さの期間が,証明ずみの神の時間表とよく合致しますか。

      29 その千年は無期限の期間を表わすと主張する研究者は,神がご自分の新たに組織されたエルサレムのクリスチャン会衆に聖霊を注がれた西暦33年のペンテコステの祭りの日に,その期間が始まったと言います。しかし,そのような議論は結局厄介な問題に直面し,クリスチャン会衆が霊的に生気を得たペンテコステのその日以来今日までの1,940年余の全期間中,霊によって生み出されたクリスチャンに実際に起きた事がらに反する説明を試みるものとなります。字義どおりの千年期は,証明ずみの神の時間表とよく合致します。

      30 わたしたちはどうしてその千年の期間の預言的な光景を調べずにはおられませんか。

      30 その千年がこの地に招来する事がらは,人類の世の永遠の生活と幸福にとって必要不可欠です。では,使徒ヨハネがわたしたちのためにたいへん美しく描写した驚嘆すべき千年期の預言的な光景を,どうして早速綿密に調べないでおれるでしょうか。

  • その千年に先だって起こる,天と地との間の戦い
    神の千年王国は近づいた
    • 2章

      その千年に先だって起こる,天と地との間の戦い

      1 (イ)啓示の書によれば,至福千年期が到来するに先だってどんな戦いが起きるはずですか。(ロ)その戦闘は明らかになおわたしたちの前途にあります。それはなぜですか。その戦いに対してどんな態度を取るべきですか。

      わたしたちは,その千年に関して使徒ヨハネが自ら先見した事について描写した記述を少し前に読みましたが,その期間に関してはそうしたすばらしい事がらが予告されているので,それは至福千年期とも呼ばれています。とはいえ,ヨハネはその輝かしい至福千年期の直前に起きる事がらとしてどんな事を描写しましたか。天の軍勢と地上の人間の軍勢との間の戦闘を描きました。クリスチャン会衆が命を与える神の霊によって生み出されて霊的に生気を得た西暦33年のペンテコステの祭りの日以来今に至るまで,そのような戦いは起こりませんでした。確かにイエス・キリストはその祭りの時,つまりヨハネが「まもなく起こるはずの事」に関する啓示を得る60余年前,天で神の右におられました。(啓示 1:1,2,新英)しかし,ヨハネが啓示を得た後の時代でさえ,「王の王」と「地の王たち」との間のそうした戦闘は起きませんでした。それはなお前途にありますから,わたしたちはその事前の記述に関心をもつべきです。それは真向から近づいているからです。

      2,3 (イ)この戦いはその参加者についていえばどんな戦いといえますか。(ロ)戦いを進める点で,栄光を受けたイエス・キリストは地上におられた時のイエスとどんな対照をなしていますか。

      2 近づくその戦いは,核・化学兵器の過剰軍備を擁した超大国が狂気のように互いの絶滅を図ろうとする恐ろしい三度目の世界大戦ではありません。それは,政治イデオロギーのいかんを問わず,「地の王たち」すべてが配下の軍勢を結集して自分たちの共通の敵対者と相対する,きたるべき戦いです。その敵対者は彼らすべてに勝る王また主であり,それゆえに「王の王また主の主」と呼ばれています。彼は神ではありませんが,啓示 19章13節を引用すれば,「その称えられる名は神のことば」です。これは神の独り子が人間になる以前にその天の父エホバ神とともに天にいたとき与えられた称号です。―ヨハネ 1:1-3,18。

      3 イエス・キリストは人間として地上で生存していたとき,白い馬に乗った騎兵の軍隊を率いてはいませんでしたし,12軍団の天使を呼んで援助を請おうとさえなさいませんでした。(マタイ 26:52-54)しかし今や天で栄光を受け,また「異邦人の時」が西暦1914年に終わって以来,イエス・キリストは最高の審判者エホバ神の刑執行官として行動し,西暦前732年のある夜,エホバ神の民の地に侵入したアッシリアの王セナケリブの兵士18万5,000人をせん滅したあのみ使いのように,地上の敵を,しかも核爆弾などを用いずに処刑する権限を受けています。(列王紀略下 19:32-36。イザヤ 37:33-37)このことを考えれば,霊感を受けたヨハネが天の戦士イエス・キリストについてなぜ次のように書いたかがわかります。「[白い馬]に乗っている者は忠実かつ真実と称えられ,その者は義をもって裁きまた戦う」― 啓示 19:11。

      4 諸国民の共通の敵対者の口から長い剣が突き出ているということは彼らにとって何を意味しますか。

      4 それは核・化学兵器で武装した今日の地上の諸国民の間で勃発するかもしれない三度目の世界大戦をはるかに陵駕する戦いです。この度は諸国民は血肉に対してではなく,象徴的な白い馬に乗っておられる方とその天使の軍勢に対して戦うことになります。そして,その方が舌を用いて話し,ご自分の敵に対する刑の執行を命ずるとき,それはあたかも,権限をもつ執行官の長い剣がふるわれるかの観を呈するでしょう。これが霊感を受けて記された次のことばの意味です。「そして,彼の口からは鋭くて長い剣が突き出ている。それによって諸国民を打つためである。また彼は,鉄の杖で彼らを牧する。また,全能者なる神の憤りの怒りの酒ぶねも踏む。そして,彼の外衣に,実にそのもものところに,王の王また主の主と書かれた名がある」― 啓示 19:15,16。

      5,6 (イ)諸国民はどんな場所で王の王と戦闘をまじえますか。どんな壊滅また破壊が生じますか。(ロ)地上で殺される者たちが軍人としての栄誉を受けて葬られるかどうかを示しているのは,「神の大きな晩さん」に対するみ使いのどんな招待のことばですか。

      5 それは反宗教的で急進的な人びとが二手に分かれて戦い合う三度目の世界大戦どころか,「全能者なる神の大いなる日の戦争」なのです。その時までには国際的な宗教上の「娼婦」,大いなるバビロンを手荒く処置した諸国民は,今度はハルマゲドンと呼ばれる,世界情勢のあの段階にはいっていることに気づくでしょう。「そして,それらは王たちを,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた」と書かれているとおりです。(啓示 16:14-16)その世界情勢のもとで,王の王また主の主であるその方は,反抗的な諸国民を酒ぶねの中のぶどうのように打ち砕き,こうして「全能者なる神の憤りの怒りの酒ぶね」を踏みます。その方にとって諸国民は無力な羊も同然です。彼は「鉄の杖」を使って陶器師の陶器のように諸国民を粉砕します。(啓示 14:18-20; 2:26,27; 12:5。詩篇 2:8,9)「全能者なる神の大いなる日の戦争」にさいして地上で殺される人たちが,軍人としての栄誉を受けて葬られることはありません。そのようなわけで,神の使いはその戦いを,腐肉を食べる鳥のために設けられた「神の大きな晩さん」と呼んでいます。

      6 太陽に照らされたみ使いは,中空を飛ぶあらゆる鳥に向かって叫びます。「さあ来なさい,神の大きな晩さんに集まれ。王たちの肉,軍司令官たちの肉,強い者たちの肉,馬とそれに乗る者たちの肉,そしてすべての者,すなわち自由人ならびに奴隷および小なる者と大なる者の肉を食べるためである」。そして,この「全能者なる神の大いなる日の戦争」に関する記述は次のことばで結ばれています。「そして,すべての鳥は,彼らの肉を食べて満ち足りた」。(啓示 19:17,18,21)腐肉を食べる鳥によってその屍を食い荒らされる人びとに関するこうした描写からすれば,戦いの中のこの戦いのために国々の民の総動員と組織化が行なわれるように思えます。

      7 ハルマゲドンにおける地の王たちの戦陣の中に見られる「野獣」とは何ですか。

      7 ハルマゲドンにおける戦陣に関して使徒ヨハネはこう書いています。「そしてわたしは,野獣と地の王たちとその軍勢が,馬に乗っているかたとその軍勢に対して戦いをするために集まっているのを見た」。(啓示 19:19)その「野獣」は,それら「地の王たち」の軍勢のための単なるマスコット,つまり幸運をもたらすと考えられる動物ですか。文字どおりの野獣は,ハルマゲドンで戦う軍勢にとって何の価値があるでしょうか。全く無価値です。それで,ここに出てくる野獣は文字どおりの野獣と解すべきではありません。それは象徴的な野獣です。事実,それは歴史的重要性をもつ世界的な象徴物です。どうしてそういえますか。なぜならそれは,啓示 13章1節から8節で説明されている象徴的な野獣だからです。それについて,2節はこう述べます。「そして,龍は自分の力と座と大きな権威をその野獣に与えた」。それは,「龍」すなわち悪魔サタンが全世界の人びとを支配する見える手段として遠い昔に設立した世界的な政治体制です。それは地上の至る所で千年間どころか,西暦前22世紀以来4,100年余の間,その獣的な慣行を続けてきました。

      8 その象徴的な野獣はいつ活動を開始しましたか。その権力をどれほど拡張しましたか。

      8 この象徴的な野獣は,文字どおりの野獣の狩猟者であったニムロデの時代に地上の住民を荒らし始めました。そのニムロデがメソポタミヤの渓谷のシナルの地でバベルの塔の建設を企てたのは西暦前2189年ごろでした。世界的に有名になった彼は,「エホバに逆らう強力な狩人ニムロデ」と呼ばれました。彼は古代もしくは初期バビロニア帝国を設立しました。そのことについて創世記 10章10節から12節(新)はこう述べています。「彼の王国の始まりはシナルの地のバベル,エレク,アッカド,カルネであった。その地から,彼はアッシリアに進出し,ニネベ,レホボテイリ,カラおよびニネベとカラの間のレセンを建てることにした。これは大きな都市である」。(創世記 10:8-12,新; 11:1-9)その小さな始まり以来,この象徴的な野獣はその力と権力を拡張し,ますます多くの人びとを支配し続け,ついにその政治的支配の座を全地に確立するに至りました。

      9 (イ)象徴的な野獣の七つの頭は何を表わしていますか。(ロ)野獣はその十本の角をだれに対して用いてきましたか。

      9 過去いく千年にもわたってこの象徴的な野獣は,その政治体制の種々の成員国を優勢な世界強国として行動させてきました。啓示 13章がこの象徴的な野獣を一連の七つの世界強国,すなわち,(1)エジプト,(2)アッシリア,(3)新バビロニア,(4)メディア-ペルシア,(5)ギリシャ,(6)ローマ,そして(7)英米二重世界強国を表わす七つの頭をもつ獣として描いているのはそのためです。七つの頭のあるこの象徴的な野獣はその象徴的な「十本の角」を用いて,イスラエルの子らがエジプトで奴隷状態に陥って以来今日に至るまで,神のみ子イエス・キリストの真の追随者を含め,エホバ神の崇拝者たちを突いたり,突き刺したり,虐げたりしてきました。であってみれば,啓示 19章19節で「地の王たちとその軍勢」が「野獣」とともに戦闘隊形に隊伍を組んで,「馬に乗っているかた」つまりイエス・キリストの天使の軍勢に敵対するさまが描かれているのも何ら不思議ではありません!

      10 (イ)地の王たちの戦陣の中にいる「偽預言者」とは何ですか。それは何を預言しますか。(ロ)その偽預言者の提唱で作られる「野獣の像」とは何ですか。

      10 啓示 19章20節はまた,「[野獣]の前でしるしを行ない,それによって,野獣の印を受けた者とその像に崇拝をささげる者とを惑わした偽預言者」と呼ばれる者が「地の王たちとその軍勢」とともにいることを指摘しています。それは宗教上の大いなるバビロンに所属する宗教的預言者ではなくて,政治的預言者です。それは啓示 13章11節から17節に描かれているのと同じ政治組織です。そこではそれは,野獣の像を作ることを提唱し,次いでその像に息を与えて,その像が権威をもって語れるようにした,二本の角のある野獣のような姿をしています。その二本の角のある野獣は英米二重世界強国もしくは第七世界強国で,七つの頭のある政治的な「像」は,今日の世界の平和と安全のための機構,つまり国際連合です。今日,全世界の人びとは,英国およびアメリカ合衆国で成るこの第七世界強国が人類の世界にさしずをするように努め,人類の将来に関する印象的な預言を行なっていることを知っています。しかし,それはエホバ神の霊感を受けた,エホバの預言者ではなくて,「偽」預言者です。

      11,12 (イ)王たちとその軍勢はどんな霊に動かされてハルマゲドンの戦いに向かいますか。(ロ)その戦いの形勢は一方向にしか進展しません。なぜですか。その結果を先見したヨハネは,それについてどんな事を示していますか。

      11 象徴的な野獣は西暦1763年以来その七番目の頭をもつようになり,完全に発達した段階に達してきました。また今日までに,国際連合(その前身である国際連盟はさておき)は四半世紀余を経ました。「人の住む全地の王たち」は,独自の国家目標を追求し,地を治める正当な政府としての神の王国を無視して独自の国家的主権を維持しようとする推進力に動かされて,「全能者なる神の大いなる日の戦争」にいやおうなく集められています。生き生きと描かれた光景の中で使徒ヨハネが先見した前代未聞のハルマゲドンの戦いの時は,自分の事がらにかまけている世の人びとが考えるよりもずっと近づいています!「地の王たちとその軍勢」が隊伍を組んで全面戦争で相対する全能の神とその王の王にとって,戦いの形勢はまさに最初から一方向にしか進展しません。ですから,その戦いに関する使徒ヨハネの預言的な描写は正確なものであることを確信できます。こうしるされています。

      ハルマゲドンにおける戦闘

      12 「そしてわたしは,野獣と地の王たちとその軍勢が,馬に乗っているかたとその軍勢に対して戦いをするために集まっているのを見た。そして,野獣は捕えられ,それとともに,[野獣]の前でしるしを行ない,それによって,野獣の印を受けた者とその像に崇拝をささげる者とを惑わした偽預言者も捕えられた。彼らは両方とも生きたまま,いおうで燃える火の湖に投げ込まれた。しかし,そのほかの者たちは,馬に乗っている者の長い剣で殺された。その剣は彼の口から出ているものであった。そして,すべての鳥は,彼らの肉を食べて満ち足りた」― 啓示 19:19-21。

      13 (イ)全能の神は,敵対する組織のどれほどの部分をご自分の敵対者として相手取りますか。(ロ)「野獣]は何をしているうちに捕えられますか。だれがその野獣を突き倒しますか。

      13 戦いに関するこの記述からすれば確かに,全能の神は象徴的な龍すなわち『初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれている者』の見える組織全体を敵対者として相手取っておられることがわかります。そのあらゆる構成要素,すなわち「地の王たちとその軍勢」,軍事司令官,強い者,馬に乗る者,自由人や奴隷,小さい者も大きい者もすべて,七つの頭のある野獣で象徴されている,見えるその世界的組織を支援しています。「偽預言者」も地球上のその見える組織の一部です。なぜなら,それは英米二重世界強国,つまりこの世の見える組織全体の中の主要部分だからです。この世界の全体制は,そのあらゆる不敬虔な行為や人びとを食い物にしてきた仕業に対する神からの裁きを免れられるほど狡猾ではありません。象徴的な野獣はその偽預言者もろとも「捕えられ」,そうです,エホバ神の忠実な崇拝者たちに対する最後の悪事を犯しているうちに捕えられます。このどう猛な野獣を突き倒すのは,王の王であられるイエス・キリストです。それは人を食べる動物のように滅ぼされます。

      14 「野獣」と「偽預言者」を投げつけるということは,それらにとっては何を意味しますか。

      14 この獣のような世界政治支配体制がその政治上の「偽預言者」とともに,人類を苦しい目に会わせることは二度と再びありません。死んで,機能を失った政治制度としてではなく,啓示 19章20節によれば,「彼らは両方とも生きたまま,いおうで燃える火の湖に投げ込まれ」ます。その「火の湖」から生きて出てくることは決してありません。なぜなら,戦いにおけるその死は,罪人アダムがその子孫である全人類にもたらした死に帰因するものではないからです。「火の湖」は別の種類の死,つまり復活のない永遠の死を象徴します。啓示の書そのもの(20章14節)がその点をこう説明しています。「火の湖,これは第二の死を表わしている」。人間の事がらを管理するその政治体制を永続させようとして愛国心に燃えて戦う人間的な努力はことごとく失敗します!

      15 ハルマゲドンで殺される支配者や被支配者たちが死から復活させられるかどうかを示しているのはどんな事がらですか。

      15 では,支配者もしくは被支配者として,王の王の手にある神の王国に敵対する象徴的な野獣や偽預言者を支持して戦う他の者たちは復活させられるでしょうか。彼らは完全に絶滅させられます。大義のために戦う王の王の口から突き出る鋭利な長い剣のような舌は,彼らすべての処刑を命じ,天使の軍勢はその王の命令を遂行します。ゆえに,神のメシアの王国に故意に反対する者たちはことごとく殺されます。それらの者は国や政府のための「至高の犠牲」を供する名誉ある死を遂げた者とはみなされません。また,記念の墓,つまり戦没将兵記念日に毎年追悼者の訪ねる国有軍人墓地などに葬られることもありません。かえって,復活に値しない者として,その死体はハルマゲドンの戦場に野ざらしにされ,悪臭を放つその屍は腐肉をついばむあらゆる鳥を招き寄せるものとして描かれています。「すべての鳥は,彼らの肉を食べて満ち足りた」と予告されています。それらの鳥は「神の大きな晩さん」に突如現われて,むさぼり食らいます。―啓示 19:17-21。

      16 ハルマゲドンの戦いを切り抜けられるかどうかに関して,(イ)地,(ロ)鳥,(ハ)野獣の崇拝者ではない例外の人びとについては何といわねばなりませんか。

      16 その記述は「王たち」の治める文字どおりの地が焼きつくされるとは述べていないことに注目すべきでしょう。そうです,地はハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を切り抜けます。また,「中天を飛ぶすべての鳥」も生き残って,地を一面に覆う死体の肉のご馳走にあずかります。しかし,「全能者なる神の大いなる日の戦争」の後の地上にはやはり人間の生存者もいます。このことはその戦いの記述の中には直接示されてはいません。とはいえ,そうであるに違いありません! なぜですか。なぜなら,その戦いの時に地の全住民が「偽預言者」に惑わされるわけではないからです。「野獣の印を受けた者とその像に崇拝をささげる者」に比べればごく少ないとはいえ,例外となる人びとがいます。(啓示 19:20)神の王座と子羊イエス・キリストの前に立っているのを少し前に幻の中で使徒ヨハネが見た「大群衆」についてはどうですか。彼らはハルマゲドンで神のメシアの王国に対して戦う者たちの中にははいっていません。

      17 啓示 7章は,神とそのメシアの王国に対する「大群衆」の態度に関して何を示していますか。

      17 それらの人たちのことを告げたヨハネはこう述べます。「[彼らは]大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによります』」。それらの者について尋ねた後,二十四人の天の長老たちのひとりがヨハネにこう告げます。「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」。(啓示 7:9-14)「すべての国民と部族と民と国語の中から」出てくるこの「大群衆」は,確かに神のメシアの王国に敵対しませんでした。そして,「野獣の印」を受けることも,「その像に崇拝をささげる」ことも拒みました。

      18 キリストの千年統治が始まるとき,地はなぜ人間のいない所とはなりませんか。

      18 ゆえに,「大群衆」はハルマゲドンで処刑される人びととともに斃されるどころか,「全能者なる神の大いなる日の戦争」をその壮大な最高潮とする「大患難から出て来る」のです。その「大患難」を生き残り,勝ち誇るエホバ神と子羊イエス・キリストを歓呼して迎える「大群衆」は,やしの枝をもって行なうように,喜んで前途の千年を待ち望みます。ですから,輝かしいキリストの千年統治が始まるとき,地は人間のいない所とはなりません。

  • 幻の中で先見したその千年期を享受する
    神の千年王国は近づいた
    • 3章

      幻の中で先見したその千年期を享受する

      1,2 (イ)この地球はハルマゲドンの戦いで焼きつくされてしまいますか。(ロ)その後にサタンと配下の悪霊に対してなされるどんな事がらは,このことをどのように示していますか。

      この地球は,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で灰燼に帰することはありません。このことはその戦いの直後,悪魔サタンに生ずる事がらからもわかります。どうしてですか。なぜなら,サタンとその使いたちである悪霊は,天における神のメシアの王国の誕生後,天で起きた戦いに敗れて追い落とされた地になお生き長らえているからです。サタンと配下の悪霊は地の周辺に落とされ,短期間そこに引き留められることになりました。(啓示 12:7-13)彼らは「全能者なる神の大いなる日の戦争」中もずっと地に拘束されているからこそ,神の使いは彼らに対してさらに処置を講ずるため地に降りて来なければならないのです。このことについてヨハネの見た幻に関するその記述はこう述べています。

      2 「それからわたしは,ひとりの使いが底知れぬ深みの鍵と大きな鎖を手にして天から下って来るのを見た。そして彼は,悪魔またサタンである龍,すなわち初めからのへびを捕えて,千年のあいだ縛った。そして彼を底知れぬ深みに投げ込み,それを閉じて彼の上から封印し,千年が終わるまでもう諸国民を惑わすことができないようにした。これらのことののち,彼はしばらくのあいだ解き放されるはずである」― 啓示 20:1-3。

      3 底知れぬところに入れられるのは悪魔サタンだけですか。その結果,サタンの行なっているどんな戦いが終わりますか。

      3 悪魔サタンが天から追い出されたとき,その使いたちである悪霊もサタンとともに追い出され,地の近辺に閉じ込められました。ですから,彼らの支配者に対してなされる事は,彼らに対してもなされます。彼らは捕えられ,鎖をかけられ,悪魔サタンとともに千年間底知れぬ所に入れられます。その結果,彼らはそれ以上世の諸国民を惑わすことはできなくなるだけでなく,神のメシアの王国を相続するクリスチャンの中でなお地上に留まっている残れる者に対して彼らが行なっている戦いも終わります。このことに関して啓示 12章13,17節はこう述べています。「さて,自分が地に投げ落とされたのを見た時,龍は,男の子[天の神のメシアの王国を象徴する]を産んだ女を迫害した。それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」。

      4,5 (イ)その戦いは王国相続者の残れる者や「大群衆」をすべて滅ぼすものとなりますか。このことに関するどんな証言がありますか。(ロ)サタンが底知れぬ所に入れられることによって,この地からだれが除去されることになりますか。

      4 この悪魔的な戦いは,神のおきてを守り,そのみ子イエス・キリストの証しをする王国の相続者の残れる者すべてを滅ぼすものとはなりません。また,メシアであるイエスに関するそうした証しを受け入れ,地のあらゆる国民の中から出て来て,王国の残れる者に加わり,神の霊的な神殿でエホバ神を崇拝する「大群衆」をすべて滅ぼすものともなりません。啓示 7章9-15節は,あらゆる人種や国民また部族から出て来る「大群衆」が生き残ることを証しし,彼らについてこう述べています。「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう」。

      5 このようなわけで,サタンとその使いたちである悪霊が底知れぬ所に閉じ込められても,地は住民のいない廃虚にはなりません。彼らが底知れぬ所に入れられるということは,王国相続者の残れる者と「大群衆」ではなくて,むしろ悪魔サタンとその使いたちである,悪霊が地からいなくなることを意味します。底知れぬ所に幽閉される千年のあいだ,彼らはまるで『いない』も同然となります。―啓示 17章8節と比較してください。

      地を千年間治める支配者たち

      6 サタンが底知れぬ所に入れられることから,地の支配権に関するどんな疑問が生じますか。

      6 もはや悪魔サタンは人類の世の支配者でも,事物の体制の「神」でもなくなります。(ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11。コリント第二 4:4)では,悪魔サタンが底知れぬ所に入れられて『いなく』なる千年の間,人の住む地をだれが支配しますか。

      7 その疑問に対する答えとなるどんな事がらをヨハネは幻の中で見ましたか。

      7 地の支配権がだれによって執行されるかを幻の中で見た使徒ヨハネはこう述べます。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した。(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」― 啓示 20:4-6。

      8,9 (イ)彼の見たそれらの座はどこにありましたか。実際にはいくつの座がありましたか。(ロ)それで,ヨハネはどんな「日」が始まるのを見ましたか。パウロはアテネでその日についてどのように述べましたか。

      8 ヨハネが見たそれらの座は地上ではなくて,天にありました。というのは,それらは千年間キリストとともに王として支配する者たちの王座だからです。したがって,それら王座の数は決まっています。その数は,「生ける神の証印」を押され,子羊イエス・キリストに従って彼の「行くところにはどこへでも」行く14万4,000人の霊的なイスラエル人に対応する14万4,000でした。(啓示 7:1-8; 14:1-5)悪魔サタンが「この世の支配者」となってきた過去何千年もの間,公正の欠如もしくは誤審にはおびただしいものがありますから,人間を裁く権能が主イエス・キリストのそれら14万4,000人の共同審判者に委ねられるのはなんとすばらしいことでしょう。それで,それら14万4,000の王座とそこに座している者たちとを見た使徒ヨハネは,19世紀前,アテネのアレオパゴスの法廷で次のように言及された輝かしい審判の日が始まるのを見ていたのです。

      9 「神は……義をもってこの世界をさばくためその日を定め,お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち,このかたを死人の中からよみがえらせ,その確証をすべての人に示されたのである」― 使徒 17:22-31,口語。

      10,11 ヨハネが見たのはどんな魂ですか。彼らはどんなわざを行なう備えができていましたか。

      10 使徒ヨハネは次のように述べて,主イエス・キリストの14万4,000人の王国共同相続者として審判の座を占める者の実体をさらに明らかにしています。「実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである」― 啓示 20:4。

      11 使徒ヨハネは首のない「魂」を見たのではありません。「魂」という叙述的なことばを用いて,霊媒のように,「肉体から離脱した霊」について語っていたのでもありません。霊感を受けて著わされた聖書の語法にしたがって「魂」ということばを用いていました。個性はからだによって表わされますが,そうしたからだをもち,意識のある,生きた存在者のことを意味していたのです。ただ,見えない天の審判の座につくためには,彼らのからだは霊のからだでなければなりませんでした。死人の復活に関する論議の中で,コリント第一 15章44節はこう述べています。「[死にさいして]物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます」。それで使徒ヨハネは,意識のある,生きた天的なからだを持つ者,つまり裁きのわざを行なう精神的能力をもつ者を見て,彼らがイエスおよび神のみことばの証しをしたために「斧で処刑された」人たちであることを明らかにしました。

      「斧で処刑された」

      12 (イ)キリストの王国共同相続者はみな文字どおり斧で処刑されてきましたか。(ロ)神は比喩的に斧で処刑を行ないますか。それともだれが,またどんな事がらのゆえに処刑を行ないますか。

      12 とはいえ,イエス・キリストの14万4,000人の王国共同相続者すべてがイエスの証しを行ない,神について話したために斧で処刑されたり,首をはねられたりしたわけではありません。文字どおり処刑されたのではありません! ヨハネの肉親の兄弟,使徒ヤコブは,王ヘロデ・アグリッパ1世に剣で,それもおそらく首をはねられて殺されたようです。(使徒 12:1,2)伝承によれば,使徒パウロはイタリアのローマで首をはねられたとされています。(テモテ第二 4:6-8)しかし,14万4,000人の人たちすべてが首を切られて殉教の死を遂げるわけではありません。彼らがみな斧で処刑されるのは神について話すためだというのですから,文字どおりにせよ,比喩的にせよ,彼らを斧で処刑するのは確かに神ではありません。彼らを処刑するのは政治国家です。使徒ヨハネを囚人として流刑地パトモス島に幽閉したローマ帝国の場合,そうした刑執行の権能は,打ち首に用いた斧の回りに犯罪者を打つのに使った棒を束にして縛ったもので象徴されました。その標章は束桿(fasces)と呼ばれ,行列にさいしてはローマの最高執政官の先駆をつとめたリクトル(警士)によって奉持されました。イタリアのファシスト<Fascist>党首,ベニト・ムッソリーニはその執政中,その標章を一般大衆になじみ深いものにしました。

      13 啓示 20章4節によれば,政治国家は世界中でなぜ比喩的に14万4,000人の王国相続者を斧で処刑していますか。

      13 事実上,この世の政治国家は14万4,000人の王国相続者を国家の権威のもとで生きるに値しない者と裁くことによって,それら王国相続者を処刑しています。彼らにいわば死刑を宣告しているのです。使徒ヨハネはその理由を明らかにしています。どんな点でですか。それはヨハネが言うように,彼らは「野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった」ためです。いいかえれば,それら14万4,000人の王国相続者は,地上のどこであろうと,政治国家のさまざまな表現をいっさい崇拝しませんでした。この20世紀のそれら王国相続者の残れる者は,以前国際連盟として知られ,現在国際連合として知られている,世界の平和と安全のためのあの国際機構も崇拝しませんでした。象徴的な「野獣」つまり世界的な政治国家は,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で,滅びを象徴する「いおうで燃える火の湖」に投げ込まれるのです。―啓示 13:1-17; 14:9-11; 19:19,20; 20:4。

      14 14万4,000人の王国相続者は野獣を崇拝しませんし,その印を額や手に受けることもしません。どんな点でそういえますか。

      14 14万4,000人の王国相続者は象徴的な「野獣」を崇拝して,その政治に干渉したり,政治上の職務につくため立候補したり,その血なまぐさい戦争に参加したりはしません。こうして彼らは,自分たちが国家の奴隷であって,その世俗的で,多くの場合獣的な種々の活動を遂行するよう積極的に手を貸していることを象徴する印を額や手に受けたりはしません。また,「野獣の像」を崇拝して,世界の平和と安全のための人間の作った国際機構に救いを帰したりもしません。彼らは真の神だけを崇拝し,その方について話し,宇宙の主権者であられるその神に忠誠を誓います。彼らは地上の政治国家をたたえたりせず,かえって神のみ子,イエスの証しをします。イエスはいと高き神によって千年のあいだ人類の世界を支配すべく任命されたキリスト,つまりメシアだからです。ですから,「野獣」が斧を使って行なうように,それら14万4,000人を処刑するといっても何ら不思議ではありません!

      15 それら14万4,000人は地上で最後には何を経験しますか。彼らはどうして天の審判の座に着くことができるのですか。

      15 非業の殉教の死を遂げて地上での歩みを終えるにしても,そうでないにしても,14万4,000人の王国相続者はすべて,最後には肉体的死を遂げます。では,どうして天の王国にはいって,天のそれら審判の座に着くことができるのでしょうか。それは魂の不滅性によるのではなく,死からの復活によります。「イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち」に関してヨハネはこう述べています。「そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」― 啓示 20:4。

      16 彼らはどんな被造物として生き返りますか。今やその寿命については何といえますか。

      16 彼らは地上で人間もしくは人間の魂としてではなく,神の霊的な子として天で生き返ります。使徒ヨハネが幻の中で見たとおりの者として生き返るのです。彼らの寿命は今日の人類のそれよりも長く,彼らは969年生きたメトセラよりも長く生きることができます。(創世記 5:25-27)彼らは千年間生きてキリストとともに統治し,それ以後は限りなく永遠に生きることができます。なぜなら,死からの復活にさいして,不滅性を付与されるからです。(コリント第一 15:50-57)彼らは復活させられるや否や,弱さも腐敗させるものもなく,罪深いアダムとエバから受け継いだ死ぬべき肉のからだにかつてまつわりついていた不完全性などの少しもない完全無欠の状態で生きます。そして,霊者として永遠の命にあずかることを全能の神から認められ,完璧な状態で生きてゆきます。―コリント第一 15:42-55。

      17 (イ)「大患難」の生存者である「大群衆」は,サタンが底知れぬ所に入れられるや否や直ちに完全にされますか。(ロ)彼らはいつ神の律法を完全に守れるようになりますか。なぜですか。

      17 復活にさいして彼らが即座にはいる状態と千年の期間の最初における人類の世界の残りの人びとの状態とのそうした相違を強調するため,使徒ヨハネはこう続けます。「それらの人たちは生き返って,キリストとともに千年の間王となった。残りの死人は,千年の終わるまでは,生き返らなかった」。(啓示 20:4,5,新英)これは神の霊的な神殿にいて,「大患難」を生き残る崇拝者たちの「大群衆」でさえ,悪魔サタンとその悪霊が縛られて底知れぬ所に入れられるや直ちに肉体的に完全にされ,地上で永遠の命を受けるにふさわしい者と即座に宣言されるのではないことを証明しています。それらの人びとはイエス・キリストの千年統治による人間の向上を図る援助や祝福のお蔭で徐々に進歩して人間としての完全性に到達し,肉身をもって罪を犯さずに生活し,神の律法を完全に守る能力を身につけるようになります。しかし,地上の記念の墓や水底の墓に眠る何十億もの人びとについてはどうですか。

      18 (イ)千年期中にハデスから出て来る人たちの中には,イエスに同情を示したどんな人が含まれていますか。(ロ)死から復活させられるそれらの人びとはいつ,またどのようにして人間として完全性に達しますか。

      18 それらの人びとに関しては,千年期のことを先見したヨハネの記録は,彼らがどうなるかについてこう述べています。「そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」。(啓示 20:13)そのようにしてハデスつまり死んだ人間の共通の墓から出て来る人びとの中には,イエスの傍で刑柱に掛けられたあの悪人も含まれます。イエスはその悪人にこう言いました。「今日われ真に汝に告げん。汝は我と共にパラダイスにあるべし」。(ルカ 23:43,ロザハム訳; 新世界訳)その悪人はハデスから出て,イエス・キリストの王国によって人類のために再興される地上のパラダイスにはいります。そして,そのパラダイスで,死から復活させられる他の人間すべてとともに,自分の生き方を是正し,人間としての不完全さや罪深い状態を癒す機会にあずかります。そのようにして,キリストの千年統治の終わりまでには,その人は神のかたちとさまに似た人間としての完全性の目標に到達できます。しかし,千年の終わりまでに地上で人間としての完全性および罪のない状態に達する人びとはすべて,完全な命を保つためには,神の宇宙最高の統治権に対する忠節の最終的な試験を経なければなりません。

      19 (イ)では,どうして「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」といえますか。(ロ)神の主権に対する忠節の試験を通過しない者たちはどうされますか。

      19 忠誠を保ち,神の正当な統治権に対する忠実を実証して地上で完全にされた人びとは,最高審判者であるエホバ神から義にかなった者と宣言されます。エホバは罪のないそうした人たちが永遠の命を受けるにふさわしい者であることを宣言し,地上のパラダイスで幸福な限りない命を享受する権利を彼らに譲渡するでしょう。あらゆる非難から解放されたそれら従順な人びとは,今や神の完全な見地から見てほんとうに生きるのです。このようにして,その時こそ,「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」ということになります。(啓示 20:5)完全にされながらも,千年が終わった後に敬虔な忠節のあの試験を忠実を保って通過しない人は,永遠に滅ぼされます。その時のことを先見したヨハネが次のように述べているとおりです。「そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。(啓示 20:14,15)それで,それら不忠節な者たちは永遠の命を得ません。

      「第一の復活」

      20-22 (イ)ヨハネは論議を「第一の復活」の問題に戻していますが,ここでどうしてエフェソス 2章1-6節に関する疑問が生じますか。(ロ)同様に,パウロがクリスチャンの割礼を論じているコロサイ 2章11-13節に関してもどんな疑問が生じますか。

      20 「残りの死人」に関するその説明を不意に挿入した後,使徒ヨハネは,「イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された」人たちが生き返ることに話を戻して,こう続けます。「これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」― 啓示 20:5,6。

      21 使徒パウロがエフェソス 2章1-6節で述べているのは,キリストのそれら14万4,000人の王国の共同相続者のこの「第一の復活」であるなどといえますか。その中で使徒は1世紀当時の小アジア,エフェソス市のクリスチャンにこう書き送りました。「また,あなたがたは,罪悪と罪とによって死んでいた者であって,そのころは,それらの罪の中にあって,この世の道に従い,空中の権威を持つ支配者,つまり反抗的な者たちのうちに働いている霊に従って生活していました。……しかし,憐みに富む神は,私たちを大いなる愛をもって愛してくださり,私たちが自分の罪によって死んでいたとき,神は私たちをキリストとともに生かし,― あなたがたが救われたのは,恩寵によるのです。―キリスト・イエスにおいて,私たちを彼とともによみがえらせ,彼とともに天の所にすわらせてくださいました」― エルサレム聖書,ローマ・カトリック,1966年。

      22 同様に,小アジア,コロサイにいるクリスチャンを対象にしてクリスチャンの割礼について論じた使徒パウロはこう書きました。「これはキリストによる割礼です。あなたがたは,バプテスマを受けたとき,彼とともに葬られ,また,バプテスマによって,あなたがたは,キリストを死者の中からよみがえらせた神の力に対するあなたがたの信仰により,彼とともによみがえらされたのです。あなたがたは罪人であって,割礼を受けていなかったので死んでいたのに,神はあなたがたを彼とともに生かし,私たちのすべての罪を赦してくださいました」― コロサイ 2:11-13,エ。

      23 (イ)前述の聖句はクリスチャンの生活上の「第一の」経験の一つに言及しているゆえに,新カトリック百科事典は「第一の復活」について何と述べていますか。(ロ)それで,サタンが千年間縛られることについては何と述べていますか。

      23 比喩的,あるいは霊的な意味でのこうした死から命への移行は,確かにクリスチャンの歩みの上で「第一の」経験の一つであることは認めねばなりません。それで,この経験を啓示 20章5,6節で指摘されている「第一の復活」とみなした新カトリック百科事典(1967年,版権取得)は,「至福千年説」の項目のもとで次のように述べています。

      ……「第一の復活」はバプテスマを象徴しており……人はそれによってキリストの復活にあずかるのである。……忠実な信徒はすべて,地上にいる者も天にいる者もともに,キリストの復活の時から最後の審判の時に至るまでの,輝かしい局面にあると考えられる教会の寿命の全期間の象徴である,イエスの千年統治にあずかる。……同期間中,サタンが鎖で縛られるということは,サタンの影響が完全には除去されないまでも,著しく弱められてきたことを意味している。サタンの影響の減少は,キリストの贖罪が効力を発揮している結果である。終わりの時が近づき,最後の闘争が行なわれた後……サタンはキリストによって完全に征服される……

      24,25 西暦33年のペンテコステ以来,教会の寿命はどれほどの長さに達してきましたか。パウロは,当時のクリスチャン会衆内で王として支配することに関して何と述べていますか。

      24 「第一の復活」に関するこうした説明は,ヨハネが啓示 20章1-6節で述べていることと調和しますか。エルサレムのクリスチャン会衆が神の聖霊によってバプテスマを施された西暦33年の七週の祭りの日以来今日に至るまでの「教会の寿命」は,一千年どころか,およそその2倍になんなんとしています。そのほとんど二千年の全期間中,真のクリスチャン会衆の成員のだれかが会衆それ自体の中でさえ「統治」しましたか。

      25 使徒たちの中でだれがそのようにして「統治」しましたか。それは使徒パウロではありません! というのは,彼はコリントの会衆内のある野心的な成員たちにこう書き送ったからです。「あなたがたはわたしたちとは別個に王として支配しはじめたのですか。いや,あなたがたが王として支配しはじめていてくれたらとこそ願うのです。そうすれば,わたしたちもあなたがたといっしょに王として支配することになるからです。でも,神はわたしたち使徒を,死に定められた者として,出し物の最後に置かれたように思えます。というのは,わたしたちは,世に対し,み使いたちに対し,また人びとに対して,劇場の見せ物のようになっているからです」。(コリント第一 4:8,9)彼は仲間の宣教者テモテに対して,クリスチャンが統治を行なうのは肉体的死を経た後の事がらであることをこう述べました。「次のことばは信ずべきものです。『ともに死んだのであれば,わたしたちはまたともに生きるようになる。忍耐してゆくなら,わたしたちはまたともに王として支配するようになる。もし否むなら,彼もまたわたしたちを否まれる』」― テモテ第二 2:11,12。

      26 ラオデキアの人たちに対するイエスのことばによれば,バプテスマを受けた日からクリスチャンが地上で統治するということに関しては何がわかりますか。

      26 また,使徒ヨハネについてはどうですか。ローマの流刑地,パトモス島に流刑囚として幽閉されていた彼は,復活させられた主イエス・キリストがラオデキアのクリスチャンに告げた次のことばを引き合いに出しました。「征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」。(啓示 3:21)統治するのはすべて将来のこと,つまりイエス・キリストの忠実な弟子たちが肉体的死を経た後のことでした。クリスチャンは水のバプテスマを受けた日からこの地上で統治することにはなっていませんでした。

      27,28 (イ)啓示 20章4節は,彼らのことを,自ら進んで水のバプテスマを受けて比喩的な死から生き返る者として描いていますか。(ロ)その死はどんな手段によって,またどんな事がらのゆえにもたらされるものとして描かれていますか。それで,「第一の復活」はどんな死からの復活であるに違いありませんか。

      27 「彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」とありますが,それはどんな復活によるのでしょうか。比喩的な復活,それとも実際の死と墓からの文字どおりの復活によるのでしょうか。啓示 20章4節は,それらの人びとがイエスご自身の場合のように,水のバプテスマを受けるさいに進んで経験する比喩的な死から生き返ることについて述べているわけではありません。いいえ,それは「イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑され」るときに経験する死なのです。

      28 彼らは自らの意志によってではなく,神とキリストとの敵の意志によってそうした『斧による処刑』を受けるのであって,彼らが水のバプテスマを受けた後,またキリストとしてのイエスについて証しを行ない,(この地球を含め)宇宙の正当な支配者としての神について語るがゆえに,そうした事態が生ずるのです。そのような『斧による処刑』は,ついには現実の肉体的死をもたらします。したがって彼らは,王として支配するために,水のバプテスマのさいに起きる比喩的な死からではなくて,文字どおりの肉体的な死から『生き返る』のです。同様に,水のバプテスマに続く霊的な復活の後に王として支配し始めるわけでもありません。啓示 20章4-6節に述べられている復活は,シェオールつまり人類共通の墓における死の眠りからの現実の,文字どおりの復活です。

      29,30 (イ)『これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たない』ということばは,単に比喩的な復活にあずかった人たちにもあてはまりますか。(ロ)このことについてパウロはヘブライ 10章26-31節で何と述べていますか。

      29 このことを証明するもう一つの点を見過ごしてはなりません。啓示 20章6節はこう述べます。「第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持た(ない)」。その第二の死は,「いおうで燃える火の湖」で象徴されています。(啓示 19:20; 20:14)このことは,単に水によるバプテスマを受け,罪過や罪による死から霊的に生き返らされ,そして霊的にともによみがえらされて「キリスト・イエスとの結びつきにおいて……天の場所に……座らせ」られた人たちにもあてはまりますか。(エフェソス 2:1,5,6)いいえ,バプテスマを受けた人たちが地上にいるときに試練を受けて不忠実になり,「第二の死」つまり完全な滅びの処罰をこうむることは依然として可能なのです。使徒パウロがギリシャ,コリントの,バプテスマを受けた,油そそがれたクリスチャンに次のように警告したのはそのためです。「立っていると思う者は,倒れることがないように気をつけなさい」。(コリント第一 10:12)また,ヘブライ 10章26-31節は,バプテスマを受けた,油そそがれたクリスチャンにこう警告しています。

      30 「真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期と,逆らう者たちを焼き尽くそうとする火のようなねたみとがあるのです。だれでもモーセの律法を無視した者は,ふたりか三人の証言に基づいて,同情を受けることなく死にます。では,神の子を踏みつけ,自分が聖化を受けた契約の血をあたりまえのものとみなし,過分のご親切の霊をないがしろにした者は,はるかに厳しい処罰に値すると,あなたがたは考えないでしょうか。わたしたちは,『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する』と言われたかたを知っているのです。そしてまた,『エホバはご自分の民を裁かれる』とあります。生ける神の手に陥るのは恐ろしいことです」。

      31 ヘブライ 6章4-8節はこのことについて何と述べていますか。

      31 また,ヘブライ 6章4-8節はこう述べます。「一度かぎりの啓発を受け,天からの無償の賜物を味わい,聖霊にあずかる者となり,神の優れたことばときたるべき事物の体制の力とを味わっておきながら,なお離れ落ちた者たちについては,そうした者たちを再び悔い改めに戻すことは不可能なのです。なぜなら,彼らは神の子を自分であらためて杭につけ,公の恥にさらしているからです。たとえば,自分の上にしばしば降る雨を吸い込み,その耕作の目的となっている人びとに適する草木を生み出す地面は,報いとして神からの祝福を受けます。しかし,いばらやあざみを生じるなら,それは退けられ,のろわれたも同然になり,ついには焼かれてしまいます」。

      32 「第二の死」の「権威」に服させられない,もしくは「第二の死」によって損われないのは,どんな復活を経験するクリスチャンだけですか。

      32 この点から考えて,「第一の復活」は,バプテスマを受けた人がなお「第二の死」に陥り得る状態にさらされている,つまりその「権威」に服すべき状態に放置されている,バプテスマに続く,あの比喩的な復活ではありません。それはイエス・キリストご自身が昇られた見えない天で神の霊的な子としての命を得る,現実の,文字どおりの復活です。イエスの次のような約束がそれらの人に適用されます。「忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば,命の冠をあなたに与えよう。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損われることがない」。(啓示 2:10,11)「第一の復活」にあずかる者は「第二の死」によって損われることはあり得ませんし,その「権威」に服させられることもありません。なぜなら,その復活にさいして不滅性と不朽性を付与されるからです。―コリント第一 15:53,54。

      33 それはどんな二つの点で「第一の復活」と呼べますか。

      33 いまやわたしたちは,それが「第一の復活」と呼ばれる理由を正しく評価できます。というのは,それはイエス・キリストが死後3日目に経験されたのと同じ復活,つまり一瞬のうちに命の満ち満ちた状態によみがえる復活だからです。それで,復活させられたイエス・キリストは,「死人の中からの初子」となられました。(啓示 1:5。コロサイ 1:18)その復活は時間の点で,「残りの死人」の『生き返る』復活に先行します。また,単に時間の点だけでなく,死人が経験し得る最も優れた復活であるという点でも「第一の」復活です。それは神ご自身の天で神の霊的な子として,朽ちない不滅の命によみがえる復活です。

      34 「第一の復活」にあずかる者はどうして聖なる者ですか。

      34 ですから,まさしく,「第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者」と呼ぶことができます。(啓示 20:6)彼らは「第二の死」を受けるに値する不忠実に陥る可能性がないという点で,ほんとうに「聖なる」者たちです。彼らはまた,その復活により,天で「神およびキリストの祭司」となって,「千年のあいだ彼とともに王として支配」することができるのです。その時,悪魔サタンは世界の支配者ではなくなります。

      現実の,明確に限定された「千年」

      35,36 (イ)クリスチャンはバプテスマを受けて以来,「キリストの贖罪が効力を発揮している」ゆえにサタンの影響が減少するのを経験してきましたか。(ロ)ペテロやパウロの助言は,実情がどうなっていることを示していますか。

      35 ですから,悪魔サタンとその使いたちである悪霊が鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられるということは,新カトリック百科事典の述べること,すなわち現在のこの事物の体制の存続期間中にサタンの影響が著しく弱められる,つまり『キリストの贖罪が効力を発揮する』結果サタンの影響が大いに減少することを意味してはいません。確かに地上の真のクリスチャンは,水のバプテスマを受けて以来,サタンの影響がそれほど減少したとか,その影響が多少でも目だって弱められたなどとは感じてはいません。むしろ,使徒ペテロは地上での生涯の終わりごろ,次のような警告のことばをクリスチャンに書き送る必要を認めました。「冷静を保ち,油断なく見張っていなさい。あなたがたの敵対者である悪魔がほえるししのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしています」。(ペテロ第一 5:8)同じ理由で,使徒パウロは次のような助言をクリスチャンに与えました。

      36 「悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からのよろいを着けなさい。わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこのやみの世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。このゆえに,完全にそろった,神からのよろいを取りなさい。あなたがたが,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なったのち,しっかりと立てるようにです」― エフェソス 6:11-13。

      37 キリストが贖罪のわざを行なって以来,サタンが比喩的に鎖で縛られたかどうかに関して,啓示 12章17節は何を示していますか。

      37 さらに,啓示 12章1-17節で,使徒ヨハネは象徴的なことばを用いて,神のメシアの王国の誕生と,「初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ」た「大いなる龍」の,天から地に追い落とされた後の活動を描写しています。次いで,それらの事がらの生ずるこの20世紀の真のクリスチャンに対する特別の警告としてヨハネはこう付け加えます。「それで龍は女に向かって憤り,彼女の胤のうちの残っている者たち,すなわち,神のおきてを守り,イエスについての証しの業を持つ者たちと戦うために出て行った」。(啓示 12:17)このすべては水のバプテスマを受けた後のクリスチャンに対するサタンの力や影響が多少でも目だつほど弱められたことを示すと考えられますか。それはサタンが鎖で縛られるという意味ですか。

      38 サタンが縛られ,底知れぬ所に入れられるのは,だれをそれ以上惑わすことがないためですか。

      38 それにしても,使徒ヨハネが実際に述べるところによれば,悪魔サタンはなぜ捕えられ,鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられるのですか。「千年が終わるまでもう諸国民を惑わすことができないように」するためです。(啓示 20:1-3)ヨハネの用いている「諸国民」ということばは,バプテスマを受けた,油そそがれた14万4,000人の王国相続者をさしているのではなくて,主イエス・キリストの正真正銘の追随者また模倣者ではない人びとのことを意味しています。悪魔は天から追い出される時点で,「サタン……人の住む全地を惑わしている者」と呼ばれています。(啓示 12:9)忠実な14万4,000人の王国相続者は,人の住む地の,それら惑わされている「諸国民」の一部ではありません。ゆえに,悪魔サタンとその使いたちである悪霊が縛られ,底知れぬ所に入れられると,「第一の復活」にあずかる14万4,000人の忠実な王国相続者をではなくて,「諸国民」をそれ以上惑わすことが中断されます。

      39 西暦33年のペンテコステ以来,諸国民を惑わすサタンの影響は弱められてきましたか。啓示 12章12節は何を予告していますか。

      39 では,西暦33年の七週の祭りの日にクリスチャン会衆が神の聖霊によってバプテスマを受けて以来,1,900年余の間,それら諸国民を惑わす悪魔サタンの影響は減少し,弱められてきましたか。この問いに,はいと答えるほど物を見る目のない,人類史に疎い人がいますか。実情はその逆です。科学の面で人類が最大の啓発を受けている時代の今日,世の「諸国民」はかつてないほどに惑わされ,またいっそう重大な結果を招くことになります。なぜですか。なぜなら,サタンと配下の悪霊によるそうした国際的欺瞞は,惑わされているそれら諸国民すべての,ごく近い将来における滅びを意味しているからです。悪魔サタンの放逐にさいして,「大きな声が天で」次のように述べたのももっともです。「地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」― 啓示 12:10-12。

      40,41 (イ)このようなわけで,サタンが縛られる千年の期間に関する宗教家たちのどんな議論は偽りであることがわかりますか。(ロ)人類は何が実際に起きることを必要としていますか。今だれがキリストの千年統治に望みをかけていますか。

      40 ゆえに,悪魔サタンが底知れぬ所に入れられる「千年」は文字どおりの千年ではなくて,地上における「教会の寿命の全期間」(既に1,900年余を経た)に適用されるとするキリスト教世界の宗教家のこの議論はまさしく偽りであることがわかります!

      41 聖書の時間表によれば,地上における人類生存の七千年紀は間近に,この世代のうちに始まります。今やこれまでのどんな時代にもまして地上の住民は,悪魔サタンが実際に縛られ,底知れぬ所に入れられることを必要としています。その直前の世界的なできごとは今や起ころうとしています。そして,人類の大敵対者また大圧制者は,底知れぬ所に千年間閉じ込められます。キリストと復活させられたその会衆が千年のあいだ王として支配し,人類に平和と祝福をもたらすとともに,その輝かしい見込みすべてを伴う,すばらしい時代を,わたしたちは前途に控えているのです! 聖書を信じて献身し,今キリストの千年統治に望みをかけている「大群衆」には,死から守られて,人類史上最も輝かしい時代に招じ入れられる,神からの保証があります。彼らにとってそれはなんと祝福された見込みでしょう!

      42 千年期の支配者たちに対する「大群衆」の態度に関して,どんな質問が提起されますか。それで,何を考慮するのは時宜にかなっていますか。

      42 その「大群衆」は同じ支配者たちを自分たちの上に千年間戴くことに飽きないでしょうか。その期間が終わるずっと前に政府の変革を求めたり,支配者の別の一団の一般投票を叫び求めたりはしないでしょうか。というよりはむしろ,自分たちの上に戴く天のそうした祭司や王たちをいっそう愛することを学んだり,神の定められた全期間中彼らにその職に留まってもらうことを感謝したりしなくなるでしょうか。これらは重大な質問です。なぜなら,その千年王国のもとでそれら「大群衆」は,その天的な政府が持続するかぎり ― 千年間,そしてその後は果てしなく生きる機会を持つからです。いまこうした興味深い質問を考慮するにさいして,どんな王また祭司たちが仕えるのか,またその奉仕が全人類つまりそのとき生きている生存者や死者にとってどれほど貴重かをもっと十分に調べるのは時宜にかなったことです。(テモテ第二 4:1)それには,彼らの過去の背景や,いと高き神が彼らを千年期の王また祭司として仕えるにふさわしい者とみなすため彼らに何を要求されたかを調べてみなければなりません。

  • 後継者なしに千年間治める王たち
    神の千年王国は近づいた
    • 4章

      後継者なしに千年間治める王たち

      1 だれの時代以来,人間の立てた王国は不満足なものであることを示してきましたか。

      人間の立てた王国は結局人類の必要を満たすものとはなりませんでした。人類家族は少なくとも西暦前22世紀つまり4,150年余の昔から,人間の立てた王国をもつようになりました。記録に残る最初の人間の王の名はニムロデです。箱船を建造したノアの曾孫ニムロデは,創世記 10章8-12節の記録によれば,自分勝手に王になったようです。

      2 (イ)ノアは王国に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)今日,大多数の人びとは明らかにどんな統治形態を好んでいますか。

      2 ノアはニムロデの王国が始まった後まで生き延びましたが,彼をバベル(もしくはバビロン)の王にしたわけではありません。ノアは自らをさえ王とはせず,かえって膨張する人類家族の一族長として留まりました。(創世 9:28,29; 10:32–11:9)今日,たいていの民族は固有の家系の世襲後継者を持つ王には飽きています。一般選挙による大統領を持つ共和政体や民主政体のような人民による統治形態が明らかに好まれています。しかし,そうした民主政体のもとで人びとは,たいてい一政党が立てる一団の支配者たちにすぐ飽きてしまい,別の政党の候補者を選出して政権の交替を図ろうとします。

      3 人間の立てた王国はもうたくさんだと考えているのはだれですか。そのかたは,人間の立てた最初の王国の占めた地で,何を宣言させましたか。

      3 世襲後継者を持つ,人間の立てた王国に飽きているのは人間だけではありません。神も飽きておられます。事実,神は今日の地上の,人間の立てたあらゆる政府に飽きておられます。a たとえ人びとはもうたくさんだと考えてはいなくても,神はそう考えておられます。事実,人間の立てた諸政府は神の地所(地球)の上で失政,もしくは不満足で不十分な支配を続けてきました。ゆえに神は,人間の立てた諸政府すべてをご予定の時に滅ぼして,ご自分のみ子イエス・キリストの千年統治への道を開くことを,人間の立てた最初の王が権力を握った場所であるバビロンで宣言させました。預言者ダニエルを通して神は,バビロンの王ネブカデネザルに言われました。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらの王国をすべて打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時まで立ちつづけるでしょう」― ダニエル 2:44,新。

      4,5 (イ)人類を治める支配者で,神に愛されているのはだれですか。(ロ)使徒ヨハネによれば,神に対するそれら支配者の愛は,彼らがほかにだれをも愛していることを保証しますか。

      4 神のこの目的によれば,天のいと高き神は,地上の王その他の政治支配者を愛してはおられません。その多くはキリスト教世界と呼ばれる領域の王また政治支配者でありながら,神を愛してはいません。もし神をほんとうに愛していたなら,神のみ子イエス・キリストが弟子たちに,「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と言われたことを行なっていたでしょうし,人間の立てた今日の政府の政治的公職についてはいなかったでしょう。(マタイ 6:33)天の神の愛される者を人類の王として戴くのは非常に重要なことです。このことはそのような王の提携者たちにもあてはまります。人類を益するには,それら提携者は神に愛される者であるべきです。それゆえに神は彼らをその職に留まらせるのです。第一,それゆえにこそ神は彼らをその職につけるのです。彼らは生ける唯一,真の神を愛しており,また今後も愛してゆきます。ということは必然的に,彼らはまた地上の人びとをも愛する者であることを意味しています。使徒ヨハネはまさにこの点についてこう書きました。

      5 「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです。そして,神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべきであるという,このおきてをわたしたちは彼から受けているのです」― ヨハネ第一 4:20,21。

      6 支配者たちが自国の国境や主権を固執してきたため,人類はどのように影響を受けてきましたか。

      6 人間の王その他の政治支配者は,国民や民族を分割するものとなる,国あるいは国家の境界線を守ることに汲々としてきました。政治支配者はそれぞれ自国の領土内で支配権を保持することに努め,また領土内の人びとからは忠節を要求します。現行の事物の体制のもとでは,地は数多くの国あるいは国家の領土に区分され,おのおのの領土内では人びとは国家の主権を主張しており,こうした事態は全人類の一致を達成するどころか,逆に国家間の抗争を進展させてきました。それでいまや,興味深い疑問が提起されます。

      7 地にかかわる天的な支配権に関して神はどんな目的を持っておられますか。啓示 14章1-5節はこのことをどのように示していますか。

      7 神の目的は,イエス・キリストをただ独り王として千年間治めさせることではありません。神の最愛のみ子は,政府の所在地である天のシオンの山にただ独りで王として立つのではありません。そうではなくて,使徒ヨハネはこう述べています。「またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた。……そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような歌をうたっている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。……これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」― 啓示 14:1-5。

      8 14万4,000人の王国相続者の成員の領土上の割当てや言語の問題についてはどんな疑問が起きますか。

      8 このように14万4,001人の王なる支配者が地を治めるということは,地が14万4,000の領土に分割され,14万4,000人の各人がそれぞれ独自の領土を治め,住民は頭なる王イエス・キリストのもとにある特定の支配者に対して責任を持つことを意味していますか。地の住民をそのように分けるなら,たとえ見えないとはいえ境界線を設ける結果になり,ひいては境界線で分離される住民の間にある程度の相違が生ずるのではないでしょうか。また,以前中国語を話していた王国相続者は中国語を話す人びとの住む地域を治め,ロシア語を話す王国相続者はロシア語を話す住民を,英語を話す王国相続者は英語国民をといった具合に,言語を異にするグループに応じて治めるよう任命されるのでしょうか。分裂を生む言語上の障壁は引き続き存続し,相互理解を妨げるのでしょうか。

      9 (イ)14万4,000人の王国相続者は,イエスのどんな命令に応じて,どんな人びとの中から選ばれてきましたか。(ロ)彼らの言語上の違いに関してどんな疑問が生じますか。

      9 それは当然で,もっともな疑問です。しかしこの点,キリストの14万4,000人の共同相続者を構成する個々の者に対して,かしらなる王イエス・キリストを通して王としての責務のどんな割当てが与えられるかを聖書は何も示していないということを述べておかねばなりません。クリスチャン会衆が創設された西暦33年以来,過去19世紀余にわたって,キリストのそれら14万4,000人の共同相続者は,多くの言語を用いる国民や民族そして部族から選ばれてきました。復活させられたイエス・キリストは,昇天する何日か前,ガリラヤに集まっていた弟子たちに言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし…彼らにバプテスマを施し(なさい)」。(マタイ 28:19)では,王国の栄光のうちにある14万4,000人の仲間の王たちは天で言語上の違いのために分裂し,通訳を必要とするなどと考えられますか。使徒パウロは「人間やみ使いのいろいろなことば」について書きました。―コリント第一 13:1。

      10 14万4,000人の者たちは天でどんな言語を用いますか。彼らが以前地上で用いていた言語はどうなりますか。

      10 復活して栄光を受ける14万4,000人の者はすべて,一つの天上の言語を話すことは疑いありません。その言語の賜物は,死から復活するさい新しい霊のからだを持つ彼らに授けられます。とはいえ,以前の地上の言語が彼らの思いの中から消し去られるわけではありません。というのは,彼らは以前人間として用いていた言語によって自分がだれであるかを見分けることにより,自分が以前の同じ自分であることを識別できるからです。しかし,天的な復活にあずかるさい,彼らは主イエス・キリストの言語を話し,イエス・キリストはその天の父,エホバ神の用いる言語を話します。

      一つの人種,一つの言語

      11 千年期王国のもとでは,現在地上に見られる言語上の障壁に関しては何が行なわれますか。どのようにして,またなぜですか。

      11 同様に,キリストおよびその14万4,000人の仲間の王たちによる千年統治のもとでは,現在地上に見られる言語上の障壁は人類から除去されます。地に対する神の最初の目的は,一つの共通の言語,つまり人間の最初の地的な父親,完全な人間アダムの言語を話す人間で地を心地よい程度に満たすことでした。エデンの園で人類は一つの言語を用いて生活を始めました。ノアの日の全世界にわたる大洪水の後,神は人類に,一つの言語,つまりアダムの十代目の子孫,義人ノアの言語を用いさせ,義にかなった営みを新たに開始させました。その一つの言語は,バベルの塔の建設が企てられるに至るまで続きました。

      12 神はバベルの塔のそばで講じた処置のもたらした言語上の影響をどのようにして拭い去りますか。

      12 次いで全能の神は,努力を結集して悪事に携わっていた建設者たちの一致を打ち砕きました。どのようにしてですか。それは言語を混乱させ,そのようにして人びとを地上の別々の地方に種々の言語群として四散させることによってです。(創世 11:1-9)神はご自分の最初の目的と調和して,一つの語族,つまり神が人類の最初の人間の父親に授けた言語,ただし神がバベルの塔のそばで考案した他の種々の言語からの修飾語をおそらく伴う,はるかに語彙の多い言語の通用する状態に人類全体を連れ戻すでしょう。

      13 このようなわけで,だれにとって一時的な言語上の問題が生じますか。しかし,結局はどんな益がもたらされますか。

      13 ノアの洪水の八人の生存者を含め,大洪水前の人びとが神の千年期王国のもとで死人の中から地上で復活するさい,それは彼らにとって大きな問題とはなりません。しかし,人類のその他の人びとの大多数にとって,それは新しい言語,つまり神が全人類のために意図された言語を学ぶことを意味します。その王国の用いる,言語を教える有能な教官のことを考えれば,それは何ら大きな問題はありません。復活させられる赤ちゃんにさえ,幼い時から新しい言語を教えることができます。そのようにして,人びとはすべて,相互の言語上の用語や表現を十分に理解して,互いに直接話し合えるようになります。それは人類家族の一致を図るなんとすぐれた影響をもたらすことでしょう。人びとはすべて,霊感のもとに記されたヘブライ語聖書bをおのおの自分で読み,その預言がすべてどのように適中したか,またヘブライ語聖書には預言者マラキの時代に至るまでの正確な歴史上の記述がどのように収められているかを研究できるのです! その時,正直な心の持ち主は,使徒パウロのようにこう言えるでしょう。「すべての人が偽り者であったとしても,神の真実さが知られるように」― ローマ 3:4。

      14 第一の復活にあずかる人たちのために,現代の人種,国民,部族間の障壁はどのようにして排除されますか。

      14 言語上の障壁について言えることは,人種・国民・部族に起因する現代の障壁にもあてはまります。「第一の復活」にあずかる14万4,000人の王国相続者にとって,それら後者の障壁はすべて過去のものとなります。そうした障壁はみな肉にまつわるものです。彼らは以前この地上で持っていた肉体を伴って復活させられるわけではありません。こう書かれているからです。「わたし[使徒パウロ]はこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません」。(コリント第一 15:50)「たとえ,[わたしたちクリスチャンは]キリストを肉によって知ってきたとしても,今はもう決してそのような知り方はしません」。(コリント第二 5:16)「第一の復活」にさいして,14万4,000人の王国相続者は現代の人種,国民,部族間のあらゆる障壁をかかえた人間の性質ではなく,「神の性質」を受け継ぎます。(ペテロ第二 1:4)彼らはみな,天の特別な家族の兄弟たち,つまり神の子たちとなります。「さて,子どもでもあるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です」。(ローマ 8:17)こうして彼らの間には,「神の性質」に従って一致が見られるでしょう。

      15,16 (イ)14万4,000人の王国相続者は一致を保つために,どのようにして人間的,地的障害を克服しますか。(ロ)彼らは,神への祈りの中でイエスが彼らのために懇願したどんな事がらにあくまでも忠実をつくしますか。

      15 しかし,それら14万4,000人の王国相続者はこの地上で肉のからだで試練を受けている時でさえ,人類一般の人種・国民・部族間の障壁のゆえに分裂させられるようなことは許してはきませんでした。肉によれば,彼らは「すべての国の人びと」で成る「弟子」たちです。(マタイ 28:19)しかし彼らは第一にキリストの弟子であって,どの人種,国民あるいは部族の出身者かは単なる二義的な事がらとみなしています。そして,バプテスマを受けたキリストの弟子であるがゆえに,地上で一致団結し,肉的,人間的障害すべてを克服します。この世の人種・国民・部族間の闘争に対して厳正中立の立場を明らかにし,その立場を保持して,地方的・国家的または国際的政治に参加しないのはそのためです。彼らは,イエス・キリストが彼らに関して神への祈りの中で次のように懇願した事がらにあくまでも忠実をつくします。

      16 「わたしは彼らに関してお願いします。世に関してではなく,わたしに与えてくださった者たちに関してお願いするのです。彼らはあなたのものだからで(す)……わたしはあなたのみことばを彼らに与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではないからです。……またわたしは,わたしに与えてくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです。わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです」― ヨハネ 17:9-23。

      国際的平安が守られる

      17 (イ)戦争に関して14万4,000人の者たちはキリスト教世界やユダヤ人社会の宗教家に見倣ってはきませんでした。どうしてそういえますか。(ロ)彼らは天の王たちとして,聖書のどんな規則を地上の人びとに実施しますか。

      17 破滅的な戦争に携わる国々の政府のもとで生活しているという理由でローマ・カトリック教徒はローマ・カトリック教徒に,正教会の信徒は正教会の信徒に,新教徒は新教徒に,また生来のユダヤ人は生来のユダヤ人に対してそれぞれ肉の武器を取って戦い合ってきましたが,14万4,000人の王国相続者が地上で彼らに見倣わなかったのはそのためです。一方の手に福音もしくは聖書を携え,他方の手に剣あるいは機関銃を持って弟子を作るわざに赴いたりはしませんでした。多種多様な国民の中から来てはいるものの,イザヤ書 2章4節の預言の述べる次のような原則を履行してきました。『かれらはその剣をうちかえて鋤となし その槍をうちかえて鎌となし 国は国にむかいて剣をあげず戦いのことを再びまなばざるべし』。それで,もし彼らが地上にいたとき,神から与えられたこの規則にあくまで忠実だったのであれば,彼らは地を治める王となるとき,その規則を実施し,平和のためのその同じ規則を堅く守ることを地上の住民に要求するでしょう。

      18 使徒ヨハネが予見したとおり,地上の他のどんな国際的集団が,行動を律するこの規則を堅く守っていますか。

      18 その喜ばしい前ぶれとして,今や国際的な大群衆がそれら王国相続者の残れる者と交わっており,行動を律する,平和のためのその同じ規則を堅く守っています。それは使徒ヨハネが次のように述べて描写したとおり,世界の歴史上の今の時代に集められることが予告されていた驚くべき集団です。「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊[イエス・キリスト]とによります』。……『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう』」― 啓示 7:9-15。

      19 神の新しい体制は,すでにどんな相互関係を持って地上で生活している人びととともに出発しますか。彼らは,長い命を愛する人たちに書き送られたペテロのどんなことばに留意しますか。

      19 エホバ神は今日見られるこの「大群衆」の上にご自身の保護の天幕を広げ,彼らをして近づく「大患難」を無事に切り抜けさせてくださるのですから,全地にわたる神の新しい事物の体制に生きて入るのは,平和愛好者の国際的な一集団です。戦争をする諸国民はそのとき存在しません! 神の新秩序のもとで人類社会は,すでにすべてが互いに平和な関係にある「大患難」生存者とともに出発します。彼らは永遠の命を愛するゆえに,使徒ペテロの引用した次のようなことばと調和して行動し続けるでしょう。「命を愛して良い日を見たいと思う者は,舌を制して悪を口にせず,くちびるを制して欺きを語らぬようにし,悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ」― ペテロ第一 3:10,11。詩篇 34:12-14。

      20 (イ)キリストはご自分に関する聖書の預言を成就するため,その平和を乱されるままにはされません。それはどんな預言ですか。(ロ)キリストの統治はソロモンのそれとどのように似ていますか。

      20 「大患難」の嵐の後,全地にわたる平和は清められたこの惑星の上に虹のように輝くでしょう。エホバの用いられる千年期の王,子羊イエス・キリストはその平和が乱されるのを許しません。さもなければ,イエスはご自分に関して昔発表された次のような預言にふさわしく行動してはいないことになります。「ひとりの子供がわたしたちのために生まれた。ひとりの子がわたしたちに与えられた。君としての支配権はその肩に置かれる。そして,その名は不思議な助言者,力ある神,永遠の父,平和の君と呼ばれる。ダビデの王座とその王国の上にあって,今よりのち,定めのない時まで,公正と義とによってそれを堅く立て,それを支えるため,君としての支配の豊かさと平和とには終わりがない。万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。(イザヤ 9:6,7,新)イエス・キリストは「ソロモン以上のもの」であることを忘れてはなりません。(マタイ 12:42)ダビデの子,ソロモン王の40年間の統治は,「平和を好む」という意味のソロモンという名にふさわしく平和によって特徴づけられました。とはいえ,イエス・キリストは千年にわたる平和を保持されるのです。

      「ダビデの王座とその王国の上に」

      21 平和の君の君としての支配も,またその平和もだれの王座と王国から切り離せませんか。

      21 イザヤ書 9章6,7節をもう一度読んでみると,平和の君の「君としての支配」は,「ダビデの王座とその王国の上に」あることに気づきます。その約束された終わりのない平和を,西暦前1070-1037年までエルサレムで王として支配したダビデの王座とその国王から切り離すことはできません。その平和はアメリカ合衆国の大統領や,人間の立てた,世界の平和と安全のための機構としての国際連合などに依存してはいません。どうしてですか。

      22 (イ)どんな根拠に基づいてエホバの熱心はその預言を成就させますか。(ロ)宗教についていえば,ダビデはどんな人でしたか。

      22 なぜなら,「万軍のエホバ」はダビデ王に関してその治世の初めごろ,エルサレムで破ることのできない契約もしくは神聖な約束を結ばれたからです。どんな根拠に基づいてですか。ところで,ダビデは無神論や不可知論者ではなく,非常に信心深い人でした。とはいえ,当時の非イスラエル民族の偶像崇拝者または多神教徒のようではありませんでした。聖書の詩篇に収められているダビデの作った数多くの詩篇もしくは叙情詩を読むと,ダビデはアブラハム,イサクそしてヤコブの神エホバのまじめな崇拝者だったことがわかります。最もよく知られている彼の詩篇の一つである詩篇 23篇の中で,ダビデはこう述べました。『エホバはわが牧者なり われ乏しきことあらじ わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐みとわれにそいきたらん 我はとこしえにエホバの宮にすまん』。(詩篇 23:1,6)また,詩篇 40篇8,9節ではこう言いました。『わが神よわれは聖意にしたがうことを楽しむ なんじの法はわが心のうちにありと われ大いなる会にて義をつげしめせり 見よ われ口唇をとじず エホバよなんじこれをしりたもう』。

      23,24 (イ)神の契約の箱をエルサレムに運んだのち,それを収めることに関してダビデは何をしたいと願いましたか。(ロ)その建築工事に関してエホバはダビデに何と述べましたか。

      23 ダビデ王はエルサレムを首都にしたのち何か月かを経て,聖なる契約の箱つまり「真の神の箱」をエルサレムに運ばせ,王宮の近くに張られた天幕の中に置きました。ダビデは自分の宮殿の住まい,つまり「杉材の家」と,エホバの契約の箱の置かれている所との相違を痛感しました。そしてついに彼は,エホバの箱を置くに値する神殿の建造を預言者ナタンに示唆しました。(サムエル後 7:1-3,新)ところが神は,次のような知らせをダビデに伝えました。

      24 「おまえは多くの血を流し,大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから,わが名のために家を建ててはならない。見よ,男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて,周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ,彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。彼はわが名のために家を建てるであろう」― 歴代志上 22:8-10,口語。

      25 ダビデの願いを十分認めたエホバは,ダビデのためにどんな家を建てることを約束されましたか。

      25 これは神のみ名に敬意を表して崇拝の家を建てたいとのダビデの愛のこもった願いをエホバが正しく評価しなかったという意味ではありません。エホバはそうしましたし,またそのことを示すために契約を結びました。つまり,ダビデのために家を建てる厳粛な約束をしました。それは文字どおりの住まいとしての家ではなくて,ダビデの一族の歴代の王家です。預言者ナタンは次のような知らせをダビデ王に伝えました。「〔エホバ〕はまた『あなたのために家を造る』と仰せられる。……『あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」― サムエル後 7:11-16,口語〔新〕。

      26 深い感謝の意を表したダビデは,その家にかかわるエホバのみ名と目的に関して祈りの中で何と言いましたか。

      26 この神聖な契約に対する深い感謝の意を表したダビデは,祈りの中でこう述べました。「〔エホバ〕神よ,今あなたが,しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして,あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば,あなたの名はとこしえにあがめられて,『万軍の〔エホバ〕はイスラエルの神である』と言われ,あなたのしもべダビデの家は,あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の〔エホバ〕,イスラエルの神よ,あなたはしもべに示して,『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ,しもべはこの祈りをあなたにささげる勇気を得たのです。〔主権者なる主エホバ〕よ,あなたは神にましまし,あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今,しもべの家を祝福し,あなたの前に長くつづかせてくださるように。〔主権者なる主エホバ〕よ,あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって,しもべの家がながく祝福されますように」― サムエル後 7:25-29,口語〔新〕。

      27 エホバはダビデと結んだ王国契約を固守していることを示すためイザヤを通して,また後にはエゼキエルを通してゼデキヤ王に何と言われましたか。

      27 主権者なる主エホバはダビデのその祈りに答えられました。300年余の後,万軍のエホバの熱心が平和の君の君としての支配を「ダビデの王座とその王国の上に」確立し,「今よりのち,定めのない時まで」それを支えることをエホバが預言者イザヤを用いて告げ知らせたのはそのためです。(イザヤ 9:6,7,新)それから1世紀余の後,エルサレムのダビデの子孫の治める王国がまさに滅ぼされようとしていたとき,エホバは王位継承権がダビデの家から離れないということを告げ知らせて,ダビデとの王国契約を固守していることを示されました。エホバはエルサレムのダビデの王座に着いた最後の王ゼデキヤに語りかけて,預言者エゼキエルを用いてこう述べました。「かぶりものを取り除き,王冠を取り去れ。これは同じではなくなる。低いものを高く上げ,高い者を低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはこれを生じさせる。それは,正当な権利を持つ者が来る時まで決してだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」― エゼキエル 21:25-27,新。

      28 (イ)ダビデの家の王国はいつ覆されましたか。その70年後,ゼルバベルはユダを治めるどんな職務につきましたか。(ロ)ダビデの家を清めることに関してゼカリヤは何を預言しましたか。

      28 西暦前607年のエルサレム崩壊のさい,ダビデの王座は覆され,生き残ったユダヤ人はバビロンに追放されました。70年後,神を恐れるユダヤ人の残れる者はバビロンから解放されて,ユダの地に戻り,エルサレムでソロモン王の建立した最初の神殿の敷地に別の神殿を建てることになりました。ダビデ王の子孫,シャルテルの子ゼルバベルは,ユダとエルサレムの総督になりました。エホバは預言者ハガイおよびゼカリヤを起こして,神殿再建のわざに携わる総督ゼルバベルを激励しました。ダビデと結んだ王国契約に対してなおも忠誠を示したエホバは,預言者ゼカリヤに霊感を与えてこう言わせました。『その日罪と汚穢を清むる一つの泉ダビデの家とエルサレムの居民のために開くべし』― ゼカリヤ 13:1。

      29 エルサレムとユダにいつエドム人の王が立てられましたか。ダビデと結ばれた王国契約に関してどんな疑問が生じたと考えられますか。

      29 その後400年余を経て,パレスチナの地はローマ帝国の支配下にはいり,ローマの元老院の任命で,ヘロデ大王と呼ばれた非ユダヤ人のエドム人がエルサレムとユダヤ州の王になりました。こうして何世紀も経ったのですから,平和が限りなく続くことになっていた永遠の王国のためにダビデと結んだあの契約のことなど,エホバ神はすっかり忘れられたのではありませんか。神がその契約を結んで以来,合計1,000年余を経た今となっては,その契約は廃れ,時代遅れとなり,また失効状態にあるように思えるゆえに生命を保っている何らかのしるしをもはや示してはいないのではありませんか。不信仰な者ならそう考えたかもしれません。しかし,神についてはどうですか。

      ダビデ王の永遠の相続者の誕生

      30,31 (イ)エホバはダビデ王のどんな家系を見守りましたか。(ロ)エホバはその家系のだれの娘に注目しましたか。彼女はだれと婚約しましたか。

      30 王国契約の神聖な作成者で,忘れることのない神は,ダビデに対するご自分の誓約を確実に実行する態勢を整えました。忠実なダビデ王のために王家を造ることを約束した神は,ダビデの男子の子孫を見守りつづけました。そして,ソロモン王を通してではなく,ダビデの別の息子ナタンを通して続くダビデの家系の一つに目を向けました。その特定の家系は他の20人の人びとを経て続き,預言者ゼカリヤの時代にエルサレムの総督となったゼルバベルを生み出します。ゼルバベルにはレサという名の息子がいましたが,その息子の後,他の16人の人たちを経て家系はなおも跡切れずに続き,後にマタテの息子ヘリが生まれました。(ルカ 3:23-31)次いで神は,ヘリの男子の子孫ではなく,その娘に注目しました。その娘は西暦前1世紀の後半,ローマ領ユダヤ州の町,ベツレヘムで生まれました。その名はマリアです。

      31 やがてマリアはローマ領ガリラヤ州のナザレの町に連れてゆかれました。その町で婚期に達した彼女は,ヤコブの子でナザレの住人であるヨセフという名の大工と婚約しました。

      32 ヨセフとのその婚約はなぜ適切でしたか。ダビデの相続者に関してどんな疑問が生じましたか。

      32 その婚約はたいへん適切なものでした。なぜですか。というのは,ヨセフは片田舎の町ナザレのしがない大工でしたが,ナタンの家系ではなく,ダビデの最初の王位継承者ソロモンの家系の,ダビデ王の子孫だったからです。それでヨセフには,先祖ダビデの王室の王座に着く正当な権利がありました。では,ヨセフはダビデ王の約束久しい永遠の相続者の直系の父親になるのですか。

      33,34 (イ)エホバはなぜ,マリアとともにおられる証拠をお与えになりましたか。(ロ)ここで起きたできごとは,ヤコブが臨終の床で述べたどんな預言の成就に資するものでしたか。

      33 さて,婚礼が催され,ヨセフが合法的に娶った妻マリアをその家から導いて,彼女のために用意した住まいに連れて行く前のこと,きわめて異例な事がら,この20世紀の頭脳時代の人びとが信じようとしない重大なことが起こりました。時はいまや西暦前3年も終わりごろのことでした。神にとってそれは待望久しい特別の時でした。突如,神がマリアとともにおられる証拠が明らかにされました。それは彼女がユダヤ人の娘だったからではなくて,ユダの部族のダビデの王家の子孫だったからです。ゆえに,そのできごとは,族長ヤコブがその四番目の息子ユダに関して霊感のもとに述べた預言の成就に資するものでした。それは遠い昔の西暦前1711年のことで,臨終の床にあったヤコブはユダに関してこう言いました。

      34 『ユダは獅子の子のごとし……雄獅子のごと(し)……誰かこれをおこすことをせん 杖ユダを離れず法を立つる者その足の間をはなるることなくしてシロ[つまり,それを持つ者]の来たる時にまでおよばん 彼にもろもろの民したがうべし』― 創世 49:8-10。

      35,36 (イ)神はマリアの年取った親族エリサベツのためにどんな奇跡的なことをすでに行なわれましたか。(ロ)み使い,ガブリエルは,ダビデの王座に対する神の目的についてマリアに何と述べましたか。

      35 神はユダの部族またダビデ王家の処女マリアとともにおられることをどのように示されましたか。神はレビ人の祭司ゼカリヤの妻で,マリアの年取った親族エリサベツのために行なった以上の重大なことをマリアのために行ないました。神はゼカリヤとエリサベツの生殖力を奇跡的に回復させたので,彼女はいまや妊娠六か月目を迎え,ほどなく男の子を産もうとしていました。その子はバプテストのヨハネと呼ばれることになりました。しかし,大工ヨセフとの婚約期間がなお満了していない,ユダヤ人の処女マリアのために,神は何を行なわれましたか。医師ルカはこう述べます。

      36 「その六か月めに,み使いガブリエルは神のもとから遣わされ,ナザレというガリラヤの都市に,つまり,ダビデの家のヨセフという人と婚約していたひとりの処女のもとに来た。その処女の名はマリアであった。そして彼女の前に現われた時,彼はこう言った。『こんにちは,大いに恵まれた者よ。エホバはあなたとともにおられます』。しかし彼女はそのことばを聞いてひどく思い乱れ,このあいさつはどういうことなのだろうと考えていた。それでみ使いは彼女に言った,『マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません』」― ルカ 1:26-33。

      37 ガブリエルはマリアが人間の父親なしに男児を生むことをどのように説明しましたか。

      37 これはマリアのいいなずけの夫ヨセフがイエスの直系の普通の父親とはならないことを意味しました! 何ですって? 人間の父親なしに男児が生まれるのですか。その奇跡的な処女懐胎がどのようにして生ずるかをマリアに説明するため,み使いガブリエルはさらにこう述べました。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます。そして,見よ,あなたの親族エリサベツでさえ,あの老齢で子を宿し,不妊の女と言われる彼女が,今や六月めを迎えています。神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」― ルカ 1:34-37。

      38 マリアに関してはいまやどんな事が生じましたか。彼女の宿した子はだれの子になるはずでしたか。

      38 マリアはそのような仕方で,ダビデ王の永遠不変の相続者となる者の地的母親になることに応じましたか。ルカ 1章38節はこう述べています。「するとマリアは言った,『ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの布告どおりのことがわたしの身になりますように』。すると,み使いは彼女から去って行った」。その後まさしく聖霊がマリアに臨み,いと高き神の力が彼女を覆いました。そこで,彼女はいいなずけの夫ヨセフによらずに奇跡的に妊娠しました。それはいと高き神エホバが今やマリアの宿した子イエスの父親であることを意味しました。霊感のもとに記された他の聖句は,エホバ神がご自分の天の最愛の独り子の生命をマリアの胎内の卵細胞に移して身ごもらせたことを述べています。(ヨハネ 3:16。フィリピ 2:5-11)このことに関しては汚れたことは一つもありませんでした。「生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」とあるのはそのためです。そのすべては神の定められた時に起きました。次のように記されているとおりです。「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法[モーセの律法]のもとに置かれ(ました)」― ガラテア 4:4。

      王国契約の永久相続者

      39 (イ)マリアの子イエスをヤコブの家を治める王にしようとしていたのはだれですか。(ロ)イエスはマリアを通してどんな権利を相続しましたか。

      39 み使いガブリエルがマリアに告げた事がらは,確かにその子イエスがダビデ王の永久相続者になる者であることを示しました。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:32,33)そのイエスに彼の父祖ダビデの王座を与えることになっていたのは19世紀前のユダヤ人でも,今日の生来のユダヤ人でもありません。王国のその王座をイエスに与えようとしておられたのは天の父,エホバ神でした。ダビデの場合,その王座は単に,イスラエルの十二部族の父である族長「ヤコブの家」を治めるものでした。それで,ユダヤ人の処女マリアにより,その初子はダビデの王家の者として生まれたので,イエスはダビデの王国を継ぐ人間としての権利をマリアを通して生まれながら持つことになりました。この事実を証明するものとして,霊感を受けた使徒パウロは神からの良いたよりについてこう書きました。「[それは]神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。(そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで[す])」― ローマ 1:1-4。

      40 (イ)ヨセフはマリアの子イエスに関して何を行なう義務を神に対して負っていると感じましたか。こうして,彼はイエスに何を与えましたか。(ロ)ルカはヨセフをだれの子と呼んでいますか。なぜですか。

      40 マリアが妊娠していることがわかった後,そのいいなずけの夫はそのわけを知らされ,マリアを自分の妻として彼女のための家に連れて行くよう命じられました。ヨセフはナザレでそのとおりにしました。ヨセフはソロモン王の家系のダビデの子孫cでしたから,マリアによって与えられた神のみ子を自分の初子として養子にし,そのようにしてダビデの王座につく正当な権利をイエスに与えるのは神に対する自分の責務であることを悟っていました。(サムエル後 7:13-16)そこでヨセフは,生後八日目のイエスに割礼を受けさせ,その名をイエスと呼び,また生後四十日目にエルサレムの神殿で自分とマリアのための清めの儀式にさいして赤子のイエスを捧げたのです。(マタイ 1:17-25。ルカ 2:21-24)イエスが「ヨセフの子」と呼ばれたのはそのためです。(ヨハネ 1:45; 6:42)また,イエス・キリストの系図にかんして医師ルカがこう述べているのもそのためです。「なお,イエス自身は,その業を開始された時,およそ三十歳であり,人の意見では,ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子」。(ルカ 3:23)ヨセフは実際にはヤコブの子でしたが,「ヘリの子」とも呼ばれました。なぜなら,ヘリの娘マリアと結婚していたからです。それで彼はヘリの義理の息子でした。

      41 「ナザレのイエス」と呼ばれたその人は西暦前2年にどこで生まれましたか。

      41 イエス・キリストは後に「ナザレのイエス」また「イエス,ガリラヤのナザレから来たかた」と呼ばれました。(ヨハネ 19:19,欽。マタイ 21:11)それはイエスがナザレで生まれたという意味ですか。そうではありません。というのは,イエスが生まれる前のこと,その母マリアと彼女の夫ヨセフはふたりともユダのベツレヘム生まれの者だったので,ローマ皇帝,カエサル・アウグスツスの布告に従って登録をするため西暦前2年,ベツレヘムに下らねばならなかったからです。こうしてイエスは,エッサイの子ダビデが生まれたゆえに「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれることになりました。―ルカ 2:1-7,欽。

      42,43 マリアの子が神のメシアになるという趣旨のガブリエルの証言のほかに,他のみ使いの行なったどんな証言がありますか。

      42 マリアの子であるこのイエスがメシアもしくはキリストつまりダビデの王座と王国の永久継承者となるべき油そそがれた者になることを証言したのは,み使いガブリエルだけではありません。西暦前2年10月の初めごろ,イエスが生まれた夜のこと,もうひとりの天使も証言しました。そのみ使いは,同年のその時期になおベツレヘムの近くの野原で羊の群れを世話していた羊飼いたちに輝かしいさまで現われました。

      43 驚いた羊飼いたちにみ使いは言いました。「恐れてはなりません。見よ,わたしはあなたがたに,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを伝えているのです。きょう,ダビデの都市で,あなたがたに救い主,主なるキリストが生まれたからです。そして,これがあなたがたへのしるしです。あなたがたは,幼児が布の帯にくるまり,飼い葉おけの中に横たわっているのを見つけるでしょう」。次に生じた事がらはその誕生が尋常なものではないことを示しています。「すると突然,大ぜいの天軍がそのみ使いとともになり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように』」― ルカ 2:8-14。

      44 幼子イエスはなぜエジプトに連れてゆかれましたか。彼はどうしてナザレで大工になりましたか。

      44 悪魔サタンは「主なるキリスト」となるべきこの神のみ子の誕生に気づきました。この世に対する自分の支配権を失うまいと気を配る悪魔サタンは,イエスがエルサレムの神殿で捧げられた後のある時,それもヘロデ大王の手を借りて幼子イエスを殺させようとしました。そこで,神のみ使いはヨセフに妻子とともにエジプトに逃れ,さらに知らせがあるまでそこに留まるよう命じました。ヘロデ王の死後,神のみ使いはヨセフにその民の地に帰るよう命じました。しかし,ヘロデ王の子アケラオがベツレヘムを含め,ローマ領ユダヤ州を支配していたので,ヨセフはベツレヘムを避けて通り,ガリラヤ州のナザレに帰りました。そこでイエスは育てられ,ナザレ人と呼ばれるようになりました。その町で,この未来の王は大工として働きました。―マタイ 2:1-23; 13:55。マルコ 6:1-3。

      45 (イ)実際にメシアつまりキリストとなるためには,イエスはダビデのように何を注がれる必要がありましたか。(ロ)イエスはいつ,またなぜバプテスマを受けるためにヨルダン川に行きましたか。

      45 しかし,油そそがれた者という意味のキリストもしくはメシアという言葉は,イエスが実際に油を注がれる時までは真の意味では適用できませんでした。彼の先祖であるベツレヘムの羊飼いダビデは,イスラエルの王として実際に即位する何年も前に神の預言者サムエルによって油を注がれました。(サムエル前 16:1-13。サムエル後 2:1-4; 5:1-3)イエスについても同様のことがいえます。完全な人間イエスが30歳を迎えたとき,その親族,バプテストのヨハネはバプテスマを施すわざを始めました。なぜなら,ヨハネは当時,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と告げて,神の王国を知らせ始めたからです。(マタイ 3:1,2)その知らせに接したイエスは,神のメシアの王国の事がらに専念すべき時が来たことを知りました。そして,ご自分の人間としての生活の30年目の終わりが近づいたころ,ナザレを去り,ヨルダン川で人びとにバプテスマを施していたヨハネのもとに赴きました。なぜですか。罪の悔い改めの象徴としてのバプテスマを受けるためではなく,「天の王国」つまり神の王国に関連して神の意志を行なうために自らをエホバ神に全く捧げることを象徴するためでした。ヨハネはそのことを理解してはいませんでした。それでこう記されています。

      46 (イ)そこでバプテスマを受けたとき,イエスはどのようにしてメシアもしくはキリストになりましたか。(ロ)その場で神は,バプテスマを受けたイエスをなぜご自分の子と呼ばれましたか。

      46 「その時,イエスがガリラヤからヨルダンに,ヨハネのところに来られたが,彼からバプテスマを受けるためであった。しかし,ヨハネは彼をとどめようとして言った,『わたくしはあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたがわたくしのもとにおいでになるのですか』。イエスは答えて言われた,『このたびはそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなうことをすべて果たすのはふさわしいことなのです』。そこでヨハネはとどめるのをやめた。バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,イエスは,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。『これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した』」。(マタイ 3:13-17)バプテスマを受けたイエスの上に神の霊がそのように下ることにより,イエスはバプテストのヨハネではなく,神によって油を注がれました。こうして,メシア,つまりキリスト,すなわち油そそがれた者となりました。それは西暦29年初秋のことでした。神はまた,その時イエスをご自分の子と宣言されました。なぜなら,今や神はご自分の霊によってイエスを霊的な子として生み出されたからです。(ヨハネ 1:32-34)イエスは今や,人間としてのメシアよりも高位の霊的なメシアもしくはキリストとなりました。

      47 イエスは単に人間としてのメシアになるどんな機会を退けましたか。イエスは油を注がれたことと一致して,どんなわざに携わりましたか。

      47 さて,イエス・キリストは自らをエルサレムで「ヤコブの家」を治める地的な王にしようとしましたか。いいえ,しませんでした。荒野で誘惑を受けたとき,イエスは,ヤコブの家どころか,この世のあらゆる王国を治める王になるようにとの悪魔サタンの申し出を拒絶しました。(マタイ 4:1-11。ルカ 4:1-13)後日,大勢の群衆に奇跡的な仕方で食物を与えた後,たらふく食べた何千人ものユダヤ人がイエスを自分たちの地的な王にしようとしたので,イエスは人びとの企てを退けて立ち去りました。(ヨハネ 6:1-15)イエスはご自分の王国は,彼をメシアなる王として油を注いだ方,エホバ神から来るものであることを知っておられました。神の霊によって油を注がれることにより自分に課せられた予備的なわざを正しく評価したイエス・キリストは,「ヤコブの家」の地の至る所で神の王国を教えたり,宣べ伝えたりする平和なわざに携わりました。西暦30年にバプテストのヨハネが投獄された後は特にそうでした。

      48 ナザレの会堂でイエスは,イザヤのどんな預言をナザレの人びとに読んで聞かせましたか。イエスは地上でのその生涯の残りの期間,何を行なうことに努めましたか。

      48 ナザレの会堂でイエスはナザレの人びとにイザヤ書 61章1,2節を読んで聞かせ,こう言いました。「エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,捕われ人に釈放を,盲人に視力の回復を宣べ伝え,打ちひしがれた者を解き放して去らせ,エホバの受け入れられる年を宣べ伝えさせるために,わたしを遣わしてくださったからである」。バプテスマを受けたイエスはご自分の説教の主題としてのこの言葉を述べてから,こう言い始めました。「あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています」。(ルカ 4:16-21)こうしてイエスは,以前の自分の町の人びとにご自分がエホバの油そそがれた者,メシアつまりキリストであることを理解させようとなさいました。そして,地上でのその生涯の残りの全期間中,エホバの霊によって油そそがれて行なうよう権限を受け,委任された事がらを果たすべく努力されました。

      49,50 (イ)イエスはイスラエル王国を再興するために軍隊を組織しましたか。(ロ)イエスは,自分が王ではあっても,なお王国のために戦ってはいないことをピラトにどのように説明しましたか。

      49 したがってイエスはこの世の政治に干渉しませんでしたし,マカベア家のように軍隊を組織してローマ人をその地から追い出し,エルサレムにダビデの王国を再興したりはしませんでした。なぜですか。

      50 イエスはそうしなかった理由をローマ総督ポンテオ・ピラトに説明しました。それもイエスは宗教上の敵の手で同総督に引き渡され,ローマ帝国に対する動乱扇動者として処刑されようとしていたのです。「あなたはユダヤ人の王なのか」という総督の質問に答えたイエスは,最後にこう言いました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。そこで,ピラトは言いました。「それでは,あなたは王なのだな」。真理を証ししたイエスは,こう答えました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています」。そうです,彼はローマ帝国が当時世界強国となっていた世のものではない王国の王だったのです。―ヨハネ 18:33-37。

      51,52 (イ)イエスはご自分に「付き添う者たち」に対して,何を行なうよう教えましたか。(ロ)イエスは十二使徒に,次いで70人の福音宣明者に政治活動,それとも福音宣明のわざを遂行するよう命じましたか。どのように命じましたか。

      51 イエスの述べた「わたしに付き添う者たち」とはだれですか。それは十二使徒(「遣わされた者」)を含めた,武器を持たないその弟子たちです。イエスは,それら弟子たちもやはりこの世の政治や暴力闘争に加わらず,約束された神の王国の良いたよりを平和裏に教え,また宣べ伝える仕事に専門的に従事するよう教えました。

      52 ある時,十二使徒を遣わしたイエスは,地下の政治運動を組織してユダヤ人の間で反乱を扇動するよう彼らに命ずるどころか,むしろこう言われました。「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」。(マタイ 10:1-8)後に,他の70人の福音宣明者を派遣したときにも,イエスは同様の指示を与え,何を宣べ伝えるべきかを彼らに告げてこう言われました。「また,どこであれ,あなたがたが都市に入り,人びとがあなたがたを迎えてくれるところでは,あなたがたの前に出される物を食べ,そこにいる病気の者たちを治し,『神の王国はあなたがたの近くに来ました』と告げてゆきなさい」― ルカ 10:1-9。

      53,54 (イ)イエスはご自分の臨在とこの体制の終結に関する預言の中で,どんな宣べ伝えるわざを予告しましたか。(ロ)この宣べ伝えるわざを続行するとはいっても,自分たちの宣べ伝える政府はどんなところからのものであるかを知っているゆえに,何に干渉することは許されませんか。

      53 イエスは過ぎ越しの日に亡くなる少し前の西暦33年ニサン11日のこと,将来のご自分の臨在と事物の体制の終結に関する驚くべき預言を述べました。その預言の中でイエスは,ご自分に付き添う者たち,つまり弟子たちのなすべき著しいわざを確かに予告しました。こう言われたからです。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:3-14)この事物の体制の全き終わりが来る前に,全世界で王国を宣べ伝えるこのわざが,イエスの弟子たちによって行なわれなければならないのです。「また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」。(マルコ 13:10)弟子たちは王国を宣べ伝えるこのわざをあらゆる国民の間で平和裏に行なったからといって,世の政治に干渉したり,国際的闘争に加わったりすることは許されませんでした。

      54 弟子たちはその指導者イエス・キリストのように,神のメシアの王国を単に宣べ伝えることになっていたにすぎず,地を治めるその王国を樹立する権限や権能を与えられてはいませんでした。それは地的な政府になるのではなく,「そのようなところからのものでは」なかったのです。それは全人類を治める超人的権力を伴う天的な政府だったのです。それで当然,いと高き方である天の神以外に,地の全住民を治めるそのメシアの政府を樹立できる者はいませんでした。

      55 油を注がれた者としての務めを遂行し,聖書の預言を成就することに関するかぎり,全人類を支配するイエスの資格に関して異議を唱えることができるでしょうか。

      55 では,全人類を治める王として千年間支配すべく油そそがれた者であるメシアつまりキリストの地上での生涯に関して,天であれ,地上であれ,だれが文句を言えますか。まるでイエスは千年期の王になるにはふさわしくない,その資格がないなどといって,だれかが正当な反対を唱えられますか。それはだれにもできません。地上でのイエス・キリストの非の打ち所のない生活を指摘した使徒ペテロは,ローマ軍百人隊の隊長コルネリオとその異邦人の友人たちにこう言いました。「あなたがたは,ヨハネの宣べ伝えたバプテスマののちにガリラヤから始まり,ユダヤ全体にわたって話題となった事がらを知っています。すなわち,ナザレから来たイエスのことで,神がどのように聖霊と力をもって彼に油そそがれたかです。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです。そしてわたしたちは,彼がユダヤ人の土地で,またエルサレムで行なったすべての事がらの証人です」。(使徒 10:37-39)あらゆる証拠は,イエス・キリストは油を注がれることによってなすべく委ねられた事がらすべてを地上で成し遂げたことを示しています。イエスはついには殉教の死をさえ遂げて,ご自分に関する聖書の預言をすべて成就なさいました。

      [脚注]

      a イザヤ書 1章14節; 7章13節; 43章24節と比べてください。

      b とはいえ,神の事物の新秩序における一つの世界語は,現代のヘブライ語アルファベットの角張った字母で印刷されたり,書かれたりするという意味ではありません。今日でさえ,英語で用いられているローマ字のアルファベットの字母で綴られたヘブライ語の出版物が残っています。たとえば,1949年に南アフリカで出版された「タリヤグ・ミリム」という教本,1927年エルサレムで出版された「アビ」と題する伝記,1933-1934年にテル・アビブで発行されたデロル紙の一部などがその例です。

      c もし,ダビデ王の王統の者であるヨセフが,ダビデの王座につく「正当な権利」をヤコブ,ヨセフ(二番目の),シモンあるいはユダなどの自分の直系の普通の息子に与えるまで待ちたいと考えたのであれば,その正当な請求権は発効しなかったでしょう。(エゼキエル 21:27)なぜですか。なぜなら,ヨセフはエコニヤ(またはコニヤ,あるいはエホヤキン)の血筋を引く,ソロモン王の子孫で,エコニヤに関してはエレミヤ記 22章24-30節にこう記されているからです。『エホバいいたもう我は生く ユダの王エホヤキムの子エコニヤはわが右の手の指輪なれども我これを抜かん……エホバかくいいたもう この人を[ダビデの王座の相続権に関しては]子なくしてその命のうちに栄えざる人と記せ そはその子孫のうちに栄えてダビデの位に座しユダを治むる人かさねてなかるべければなり』。(マタイ 1:11-16; 13:55)したがって,処女マリアの子イエスはエコニヤ(コニヤ)の生来の子孫とはならず,ダビデの子,つまりバテシバの子ナタンの家系を経てダビデ王の血筋の者となったので,ヨセフが自分の養子にした息子イエスに正当な権利を与えたのは無駄なことではありませんでした。このために,ルカ 3章23-38節に記されているイエスの系図にはエコニヤ(コニヤまたはエホヤキン)の名は出ていません。

  • 仲間の王たちはどのようにしてその職につけられるか
    神の千年王国は近づいた
    • 5章

      仲間の王たちはどのようにしてその職につけられるか

      1 人類を治める王としてイエス・キリスト以上の適任者がいるなどとは考えられません。なぜですか。

      全人類は神のみ子イエス・キリスト以上に優れたどんな王を載くことができるでしょう。自分の栄光をことごとく捨て,自分の民のために罪なくして自らの命を投げ捨てるほどに民を深く愛した人間の王がいましたか。たとえ,民のために無私の気持ちで命を投げ捨てたとしても,民にとってどれほど永続する益をもたらしたでしょう。しかし神のみ子イエス・キリストは,父とともにあずかっていた天的栄光を捨てて,単なる人間,しかし全く完全な,それでも「神のような者たちよりも少し低く」つまり「み使いたちより少し低く」された者となりました。(詩篇 8:5。ヘブライ 2:9)次いでイエスは,神の意志に従って,神によりメシアなる王として油を注がれた後,人間の手にかかって非業の死をさえ遂げるまでにご自分を卑しめられました。それは人類に対する愛の比類のない表われだっただけでなく,その死は全人類に永続する益をもたらす,神に嘉納される完全な人間の犠牲を備えるものとなりました。人類の王としてこの方以上の適任者がいるでしょうか。

      2 (イ)王としてイエス・キリストを欲するかどうかという点で,今日の人びとは1世紀当時の人びととどのように似ていますか。(ロ)人類がだれを王として載くかに関して,ほんとうに重要なのは何ですか。

      2 19世紀前,単なる人間の政治的支配権のみに頼っていた人びとは,自分たちの王であるイエスを欲しませんでした。ゆえに彼らはイエスをあたかも偽キリスト,偽りのメシアとみなしてローマ総督にその処刑を叫び求めたのです。今日,人類の大多数は,キリスト教世界においてさえ,現実の王としてのイエスを欲するどころか,人間の支配権を求めて盛んに政治運動を行ない,自分たちの指導者イエスに真に見倣っているクリスチャンを軽視し,彼らに反対し,迫害を加えています。が,今日の人類の圧倒的大多数の人びとがその天の現実の王イエス・キリストを欲していないからといって,それがどうしたというのですか。それが生きている者と死者とを問わず人類にかかわる事がらを決しますか。重要なのは全能の神の決定です。神はみ子イエスがヨルダン川でバプテストのヨハネからバプテスマを施されたとき,イエスを是認されました。また,その忠実なみ子が北パレスチナの非常に高い山で三人の証人の前で輝かしい変貌を遂げたときにも,み子を是認されました。(マタイ 3:17; 17:5)罪のないみ子がカルバリの刑柱上で今わのきわに大声で,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と叫んだとき,神はそのみ子を是認されました。―ルカ 23:46。

      3 (イ)殉教の死を遂げたみ子イエス・キリストに対する是認を示す比類のない表現として,神は何を行ないましたか。(ロ)神はみ子をどんなレベルの命を持つ者として復活させましたか。

      3 殉教の死を遂げたみ子に対する是認を示す比類のない表現として,弱小な人間が不可能と考える事を行なう神は,三日目にイエス・キリストを死人の中からよみがえらせました。どんなレベルの存在としてですか。『み使いたちより少し低い』単なる血肉の人間としてですか。そうではありません! み使いよりもはるかに高いレベル,つまり自らを空しくして自分の生命がユダヤ人の処女の胎内に移されるのを甘んじた時の生命のそれよりも高い天的なレベルの存在としてです。(フィリピ 2:5-11)復活後,肉体をそなえて現われたイエスを最初に見た人の一人,使徒ペテロは述べました。「これに相当するもの……がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなたがたを救っているのです。彼は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろの使いと権威と力は彼に服させられました」― ペテロ第一 3:21,22。ヘブライ 1:1-4。ルカ 24:34。コリント第一 15:5。

      4,5 ダビデの子イエス・キリストはどのようにしてダビデの「主」となりましたか。このことを最初に指摘したのはだれですか。

      4 こうして,処女懐胎によりダビデの家系の「ダビデの子」となって勝利を得た神のみ子は,ダビデ王よりもはるかに高位の者となりました。イエス・キリストの復活後五十日目の七週の祭りの日に,霊感を受けた使徒ペテロは何千人ものユダヤ人に向かって話をし,そのことを指摘しました。ペテロは聖霊に満たされ,彼らにこう言いました。

      5 「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです。実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:32-36。

      6 (イ)ダビデは復活した後に,イエスに関して何を認めなければなりませんか。(ロ)イエスは人間としてどんな系図を持っていますか。

      6 将来,メシアの王国のもとで死人の中から復活させられるとき,ダビデは栄光を受けたイエス・キリストを自分の「主」と認めなければなりません。その時,ダビデはイエス・キリストを「わたしの主」と呼ぶでしょう。(詩篇 110:1,新)そして,地から天に高められた主イエス・キリストを自分の子孫の中の最も重要な者,つまり「ダビデの根また子孫」「ユダ族の者であるしし,ダビデの根」として認めなければなりません。(啓示 22:16; 5:5)ダビデの子孫の二つの家系の系図が,ユダヤ人の処女マリアの息子イエスで終わっているのはそのためです。実際,イエス・キリストの系図は単にダビデ王そして族長アブラハムまでではなく,最初のアダムにまでさかのぼります。アダムはエデンの園で創造されたとき,「神の子」と呼ばれました。(マタイ 1:1-18。ルカ 3:23-38)イエス・キリストは,「神の子」と呼ばれた最初の人間にまでさかのぼって,中断されたり途切れたりせず連綿と続く先祖の系図の保存されている唯一の人物です。

      7 (イ)ダビデ王の家系の王朝はどれほどの期間イスラエルで統治しましたか。(ロ)イエスは対抗する地的な王なしにどれほどの期間統治しますか。どのようにしてそうしますか。

      7 ダビデ王はイスラエルでわずかに40年間治めました。(列王上 2:10,11。歴代上 29:26,27)ダビデ王の王家はその王統の男子の後継者20人により,西暦前1077年から607年まで合計470年間イスラエルを治めました。一つの家系の歴代の王の治める,他のどんな国の王朝がこれに匹敵できますか。ところが,ダビデの天の主としてのイエス・キリストは,ご自分に対抗する地的な王なしに全人類を千年間治めます。その天的な王座に着く後継者なしに治めるのです。彼は不滅だからです。彼は「滅びることのない命の力」を持っており,それで「永久に生き続けるので」,「後継者を持たずに」その王国を保持できるのです。(ヘブライ 7:16,24)み使いガブリエルがナザレでマリアに告げたように,「彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:33)したがって彼は,ダビデ王の永久相続者です。

      仲間であって,後継者ではない

      8,9 (イ)14万4,000人の者はイエス・キリストの後継者になるのでしょうか。主の夕食を制定した後,イエスは王国における彼らの特権についてどのように述べましたか。(ロ)ダニエルはその同じ共同統治をどのように予告しましたか。

      8 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はその王国の後継者ではありません。彼らは仲間の王であるにすぎず,イエスは神により彼らの上に立てられた頭です。したがって,啓示 20章4節はそのことをこう述べています。「そして彼らは生き返り,キリストとともに[キリストの次にではない]千年のあいだ王として支配した」。それは主の夕食あるいは晩さんと呼ばれるようになった新しい祝いを制定した後,過ぎ越しの夜,イエス・キリストが忠実な使徒たちに述べたとおりです。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)キリストの時代より何百年も前に預言者ダニエルは,その同じ共同統治について事前にこう指摘しました。

      9 「しかしついには,いと高き者の聖徒が〔王国〕を受け,永遠にその〔王国〕を保って,世々かぎりなく続く」。「日の老いたる者がきて,いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて,この聖徒たちは〔王国〕を受けた。〔王国〕と主権と全天下の国々の権威とは,いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの〔王国〕は永遠の〔王国〕であって,諸国の者はみな彼らに仕え,かつ従う」― ダニエル 7:18,22,27,口語〔新〕。

      10,11 (イ)14万4,000人の者が後継者を持つかどうか,また彼らが「神と子羊に対する初穂」であることに関しては何と言わねばなりませんか。(ロ)どんな精神的態度のゆえに,王としての14万4,000人を恐れる必要はありませんか。

      10 この言葉からすれば当然,いと高き神の14万4,000人の聖徒たちは,後継者なしに千年間キリストとともに王となることがわかります。彼らについてはこう言われています。「これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであ(る)」。(啓示 14:4)人類の中から買い取られたのですから,彼らはかつては人類の残りの人たちすべてと同様普通の男女でしたが,このことでは,それら14万4,000人の王としての支配を受ける地上の住民は何ら恐れるには及びません。彼らは,「神と子羊に対する初穂」が厳密に「神聖」でなければならないのと同様に「聖徒」になったのです。イエス・キリストによる支配については何らかの恐れるべき点がありますか。いいえ,ありません! 同様に,「人類の中から買い取られた」14万4,000人による支配についても不安な点は何もありません。彼らは使徒パウロの次の助言に従ってきました。「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい」。(フィリピ 2:5)彼らはまた,ペテロ第一 4章1節の使徒ペテロの助言にも従ってきました。

      11 「したがって,キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから,あなたがたも同じ精神の意向をもって身を固めなさい。肉体において苦しみを受けている者は罪をやめているからです」。

      12 (イ)神はキリストの仲間の王たちに関して何をあらかじめ定めましたか。(ロ)エホバ神はいつ,またどのようにそのような政府の構成者級を最初に認めましたか。

      12 14万4,000人の者は自分たちの指導者で教師であるイエス・キリストの精神的・倫理的・霊的な像つまり姿を自らの内にはっきりと形造っていなければならないことは明らかです。これはエホバ神が彼らに関してあらかじめ定めた要求の一つです。神はイエス・キリストのそのような姿を自分自身の内に抱く者たちを人類の中のどんな個人で構成するかはあらかじめ定めませんでしたが,その人数は確かにあらかじめ定めました。それは14万4,000人です。神はまた,彼らをどう扱い,どんな輝かしい天的地位に彼らをつけるかをも確かにあらかじめ定められました。エホバ神は,エデンの園で人間が反抗したその時以来,人類の事物の新しい体制のための政府について心配されたので,そのような政府の構成者級を最初に認めました。そしてそのことを,「初めからのへび」である悪魔サタンに知らせた聖なる判決の中で次のように表明されました。「わたしはおまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に敵意をおく。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く」― 創世 3:15,新。

      13,14 (イ)神の女の約束の「胤」についていえば,イエス・キリストはどんな方ですか。(ロ)自分たちの召しを確実なものにすべく努力していたクリスチャンにあてて,使徒パウロはどんな激励の言葉を書きましたか。

      13 もちろん,神の女のその約束の「胤」の主要な者はイエス・キリストです。しかしそれにはまた,キリストと提携して,へびの頭を砕くことにあずかるそれら忠実な弟子も含まれます。(ローマ 16:20)ゆえに,召しを受け,その召しを確かで最終的なものにすべく努力していた者たちの会衆に語りかけた使徒パウロは,ローマ 8章28-32節で次のような激励の言葉を書きました。

      14 「さて,わたしたちは,神を愛する者たち,つまりご自身の目的にしたがってお召しになった者たちの益のために,神がそのすべてのみ業をともに働かせておられることを知っています。ご自分が最初に認めた者たちを,神はまた,み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められたからです。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした。さらに,神があらかじめ定めた者たちは,またお召しになった者たちでもあります。そして,お召しになった者たちは,ご自分が義と宣した者たちでもあります。最後に,神が義と宣した者たちは,栄光をお与えになった者たちでもあるのです。では,これらのことに対してわたしたちはなんと言えばよいでしょうか。もし神がわたしたちの味方であるなら,だれがわたしたちに敵するでしょうか。ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのために彼を渡してくださったそのかたが,どうしてそのご親切によって,彼とともにほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか」。

      15 (イ)神があらかじめ定めたところによれば,神の新秩序の政府はどのようにそれ自体調和したものとなりますか。(ロ)その政府内の者は神の働きによってどのように「義」なる者となりますか。

      15 それら召された人たちは,個人的にいってどんな人かにはかかわりなく,「み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められ(ていました)。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした」と記されていることに注目してください。それは彼らが神の子たちとしてキリストのようになることを要求するとともに保証しています。こうして神は,きたるべきご自分の新秩序の政府を内部分裂や不一致のない,一致調和したものにすることをあらかじめ定めました。その政府内の者はみな,「義」にかなっていなければなりません。神がそれら召された人たちを義と認めるために,特別の,しかし公正な備えを設けなければならないのはそのためです。神は,子羊イエス・キリストの血を通して彼らを義と認めます。神は彼らを死人の中から復活させるとき,義にかなったその人格と調和する完全な霊的被造物として彼らを義なる者にします。(ローマ 5:1,9; 8:1)神はそれらの人たちをイエス・キリストの血に対するその信仰ゆえに今や義と認め,今度は地上での神への奉仕の祝福された数々の特権をもって彼らを尊び,彼らに誉れや栄光を与えます。また,王国における将来の栄光を彼らの前に差し伸べています。

      16 イエスはご自分の弟子たちに,この世の政治家は見倣うべき手本かどうかをどのように示されましたか。

      16 神によって是認され,復活させられて王国の栄光を受ける者たちは,その職についても,現在の世の政府の政治家のようにふるまうことはしません。全人類はこのことを確信できます。イエスはこの世の政治家を見倣うべき手本としてご自分の弟子たちの前に立てたりはしませんでした。天の王国のイエスの14万4,000人の仲間のあいだには政治的対抗はありません。ルカ 22章24-27節の述べるところによれば,それはありません。「彼らの間では,自分たちのうちだれがいちばん偉いのだろうかについても激しい論争が起こった。しかしイエスは彼らにこう言われた。『諸国民の王たちは民に対していばり,民の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。だが,あなたがたはそうであってはなりません。むしろ,あなたがたの間でいちばん偉い者はいちばん若い者のように,頭として行動している者は仕える者のようになりなさい。というのは,食卓について横になっている者と仕えている者では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか。でもわたしは,仕える者としてあなたがたの中にいるのです』」。

      17 この世に遣わされたイエスは,まさしく人類に対する神の大使でした。なぜですか。

      17 約2,000年前,神のみ子はこの世に遣わされましたが,それは選挙運動をしたり,イスラエル国民の間でさえ政敵と戦ったりする政治家になるためではありませんでした。彼は地上の政治家がだれも行なえないことをするため,すなわち神と敵対関係にあるあらゆる人種・国民・部族の人びとを神と和解させるために来たのです。つまり,命の与え主である偉大なエホバ神との平和で友好的な関係に人類を連れ戻すために来たのです。そうすることは,神のみ子にとって自己犠牲を意味しました。彼はまさしく神からの大使といえます。神と和解し,またそうすることによって神による滅びを免れるよう訴えるために,み子は敵対する人類に遣わされたのです。

      18 キリストの弟子となった人たちは,神のその大使にどのように応じましたか。どんな結果をもたらしましたか。

      18 クリスチャンである弟子たちは,神から遣わされたその大使と,彼が弟子たちのために行なった大使としてのわざとを受け入れました。使徒パウロはローマにいたそのような弟子たちにこう書き送りました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。それゆえ,わたしたちは彼の血によって今や義と宣せられたのですから,まして彼を通して憤りから救われるはずです。わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです。それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通して神を歓喜しています。このキリストを通して,わたしたちは今や和解を授かったのです」― ローマ 5:8-11。

      キリストの代理をする大使

      19 (イ)キリストの昇天以来,人類に対する大使の仕事はどのように続行されていますか。(ロ)世の政治支配者はキリストの大使たちをどう見ていますか。それはなぜですか。

      19 西暦33年の春に昇天して以来,イエス・キリストはもはや地上にはいないので,大使としてのそのわざを直接続行してはおられません。ですから,和解したその弟子たちがイエスの代理として大使の仕事を続行しなければなりません。この世の政治支配者や政府はそれらの弟子たちを宇宙の最高政府からの大使とは認めません。それらクリスチャンの大使もまた,諸国民の政治上の大使と交渉もしくは折衝して,一度の交渉で,また政治上の大使との間のたった一つの協定によって一国民全体の和解をもたらすわけでもありません。政治支配者や諸政府は派遣された弟子たちを肉にしたがって,つまり古い見地から見ており,ローマ・カトリック教会のバチカンに対して何世紀もの間してきたように,それら弟子たちに対して外交使節を遣わすことはしません。それら称号を持たない弟子たちを,外交官としての礼服や信任状を持たない単なる普通の人間とみなします。それら弟子たちが新しい事がらを提供できる,霊的な意味での新たな被造物であることを識別してはいないのです。

      20 パウロはローマ当局からは大使として認められなかったにもかかわらず,エフェソスの人びとに書き送った手紙の中で自分のことを何と呼びましたか。

      20 使徒パウロはエルサレムのユダヤ人の政府を代表してはいなかったので,ローマ帝国当局によりクリスチャンの大使と認められなかったからといって,いと高き神の政府からの真の大使であるという事実はいささかでも価値を減じましたか。ローマ政府から正しく認められなかったとはいえ,パウロはローマでの拘留中,自分のことを大使と述べて,小アジア,エフェソスの会衆に対してこう言いました。「決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい。そして,わたしのためにも祈ってください。わたしが口を開くときに話す能力を与えられ,少しもはばかりのないことばで良いたよりの神聖な奥義を知らせることができるようにです。その良いたよりのために,わたしは鎖につながれた大使となっています。わたしがそれについて,当然の大胆さをもって語れるようにと祈ってください」― エフェソス 6:18-20。

      21 クリスチャンの大使たちは自分たちの責任を果たすにさいして,だれのもとに赴きますか。

      21 任命されたクリスチャンは,エホバ神と敵対関係にあるこの世の政府の見解を取り入れてはなりません。クリスチャンは大使としての身分をキリストを通して神から得たのですから,自分に授けられたその新たな栄誉に伴って課せられた責任を認識しなければなりません。クリスチャンはこの世の大使ではありませんから,その新たな資格において政府当局を訪ねるわけではありません。神との和解というこの問題については,政府は国民全体に代わって行動したり,自国民と神との関係を変えたりすることはできません。それは個人的な事がらです。人はおのおの自分で決定して行動しなければなりません。クリスチャンとしての霊的な大使たちが政府を通してではなく,直接人びとのもとに赴くのはそのためです。以前の立場を度外視し,新たな責任を十分に評価した使徒パウロはこの問題を堂々と提起し,こう述べました。

      22 クリスチャンの大使は,だれの代理としてどんな務めを履行しますか。彼らは和解した人たちに,何をしないよう懇願しますか。

      22 「したがって,キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物[もしくは被造物]です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです。しかし,すべてのものは神から出ており,神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ,また,和解の務めをわたしたちに与えてくださいました。すなわち,神はキリストによって世をご自分と和解させて,その罪過を彼らに帰さず,わたしたちに和解のことばをゆだねてくださったのです。それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。『神と和解してください』。罪を知らなかったかたを神はわたしたちのために罪とし,彼によってわたしたちが神の義となるようにしてくださったのです。彼とともに働きつつ,わたしたちはまたあなたがたに懇願します。神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないようにしてください」― コリント第二 5:17–6:1,英文脚注。

      23 「キリストの代理をする大使」になると,神を代表する人たちにはどんな重大な制約が課されますか。

      23 「キリストの代理をする大使」になると,キリストと結ばれた新しい被造物として神を代表する人たちには重大な制約が課されます。どんな制約ですか。それは政治諸国家の大使に課されるのと同様の制約です。今日だけでなく,聖書時代においても大使は,派遣される外国の政治に干渉する権利を持ってはいませんでした。(ルカ 19:12-15,27)大使は外国の政府に対して訴えや抗議をさえ行なえるかもしれませんが,外国の政治に加わることは厳に慎まねばなりません。大使は本国政府に対して忠節でなければならず,外国政府と交渉するさいには,大いに用心して自国の権益を守らねばなりません。もしそうしないなら,そのような大使は忌避されたり,信任状を撤回され,外国駐在を拒否されたりする恐れがあります。

      24 それら霊的な大使の市民権はどこにありますか。彼らはどんな政府を代表しますか。また,この世のどんな活動を慎しみ,そのようにして身の潔白を守りますか。

      24 キリストと共同の相続者である14万4,000人は,地上にいる間,自分たちは「キリストの代理をする大使」であることを認めます。そして,自分たちがそうした大使であるということは,神に敵対するこの世と自分たちとの関係にとって実際に何を意味しているかを聖書に照らしてはっきりと理解しています。(ローマ 5:10)彼らは使徒パウロとともにこう告白します。「わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリストが来られるのをせつに待っています」。(フィリピ 3:20)敵意を持つこの世にあって彼らは,世界中で宣べ伝えるよう主イエス・キリストから命じられた天の王国を忠実に代表しなければなりません。(マタイ 24:14)敵対するこの世に対して彼らは霊的な大使であるとはいえ,この世のどんな国家の政治にも干渉したり,参加したりすることは許されません。彼らは政治的な選挙運動に携わったり,世の政府の公職を奉じたりすることはできません。それはこの世の大使が忠節を二分したり,外国で政治上の職についたりすることができないのと同じです。こうして彼らは,地上のいかなる国家の犯す違法行為や流血の共同責任に関しても身の潔白を保ちます。

      25 14万4,000人の王国共同相続者はどのようにして「野獣」やその「像」を崇拝しないようにし,またその印を額や手に受けないようにしますか。

      25 このことを考えると,キリストの王国提携者となる忠実な14万4,000人の者に関して使徒ヨハネが述べたことをいっそう正しく認識できます。「実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」。(啓示 20:4)人を啓発する神の霊の力を受けた彼らは,666という数字を持つ「野獣」が悪魔の世界的な政治体制であることを悟っています。悪魔はその体制を用いて「この世の支配者」となっているのです。また,彼らは今日,その政治的な野獣の「像」はもう一つの政治機構,すなわち神との敵対関係にあるこの世の平和と安全のために人間の立てた機構つまり国際連合であることをも悟っています。彼らはその象徴的な「野獣」の携わっている政治や闘争に巻き込まれないようにし,身を潔白に保って初めて,野獣の印を額あるいは手に受けずにすむのです。

      26 「野獣」を崇拝することを避け,その「印」を身につけないようにするとはいえ,14万4,000人の者は世の「上にある権威」に何を与えますか。どの程度までそうしますか。

      26 14万4,000人の者たちは「野獣」とその政治的な「像」の奴隷でも,崇拝者でもありません。彼らはむき出しの額の印で表わすように,自らを悪魔サタンの配下で人間の支配権を行使するその「野獣」の奴隷として公に表わしてはいません。彼らは,奴隷のように,また崇敬の念をいだいて「野獣」を積極的に支持し,「右手で握手をして」示すように,自分たちの手にその政治的な「印」がついていることを示してはいません。彼らはローマ 13章1-7節にある使徒パウロの助言にまさしく従い,この世の「上にある権威」に対する服従を良心的に表わして,税金その他当然支払われるべきものを支払います。しかし,その服従は絶対的のものではありません。それはある重大な理由のゆえに単なる相対的服従にすぎません。それはどういうことですか。すなわち,それら地的な上にある権威の法律や裁定が,いと高き神の律法や裁定に牴触する場合,彼らはエルサレムの最高法廷でキリストの使徒たちが示した次のような方針に良心的に従わねばなりません。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29)そうすることによって初めて,「野獣」の「印」を身につけられないようにし,キリストとともに天で統治するにふさわしい者であることを実証できます。

      27 啓示 22章4節によれば,14万4,000人の者は自分たちの身分を証明するどんなものを額につけて,あらわに示していますか。

      27 それゆえ,14万4,000人の忠実な者たちは,自己本位なこの世の政治上の汚れたものをいっさいキリストの天の王国に持ち込みません。彼らの身分を証明する,その額に表示されているものについていえば,啓示 22章3-5節はそれら神の忠節なしもべたちに関してこう述べています。「その奴隷たちは神に神聖な奉仕をささげるのである。彼らは神の顔を見,神の名が彼らの額にあるであろう。……エホバ神(は)彼らに光を与える……そして彼らはかぎりなく永久に王として支配するであろう」。

      千年間その職につくことの益

      28 (イ)14万4,000人の者にとって,後継者なしに千年間統治することにはどんな益がありますか。(ロ)サタンとその悪霊たちは解き放たれるとき.神の支配権に関して何を行ないますか。惑わされる者たちはどうなりますか。

      28 悪魔サタンとその悪霊たちが縛られ,底知れぬ所に入れられた後,千年間キリストとともに王として支配するのは彼らにとってなんとすばらしい特権また機会なのでしょう。その結果,彼らには神の新秩序のその最初の千年の期間中になすべきこととしてエホバ神から割り当てられるわざを首尾よく完遂するための十分の時間が与えられます。彼らにも,イエス・キリストにも,あとからやって来て職につき,前任者の成し遂げた事がらを覆そうとしたり,物事を別の仕方でしようとしたりする後継者はいません。啓示 20章7-10節によれば,悪魔サタンと悪霊たちは千年の終わりに解き放たれた後,物事を覆そうとします。そして,神の栄光と人間の祝福のために千年期政府の成し遂げた事がらをことごとく覆そうとしますが,失敗します。その時サタンにまんまと惑わされる人びとはみなその後,神の支配権に対する自分たちの反抗が無力で,はかないものであることに気づきます。それら地上の反抗者はサタンとその悪霊もろともに,生ける者の領域から一掃されてしまいます。

      29 (イ)千年の終わりになって,物事は神がみ子を遣わしたり,あるいはみ子が死んだりしたことが徒労に終わらなかったことをどのように示しますか。(ロ)どんな点でキリストと14万4,000人の者には,千年間統治したことが徒労に帰さなかったことを喜ぶべき理由がありますか。

      29 イエス・キリストとその14万4,000人の王国共同相続者の千年統治は徒労に終わるものではありません。全地にわたる楽園で人類が人間としての完全性を回復したことは以後既定の事実となります。そうです,神のみ子イエス・キリストの死は徒労に帰するものではありません。神が愛をもってみ子をこの世に遣わされた目的は,失敗に帰すことはありません。サタンがしばしの間解き放たれるさい,忠節を保って試練を通過する,エホバの宇宙主権の忠実な擁護者ゆえに,創造者なる全能の神はご自分に対する忠誠を破ることなく保持する男女をこの地上に置き得ることが圧倒的に立証されます。それゆえに彼らは,最高の審判者エホバ神により義と認められ,地上の楽園で平和と幸福のうちに永遠に神に仕える犯すべからざる権利を与えられるに値する者となります。(啓示 20:5)イエス・キリストと14万4,000人のその仲間の王たちは人類に対する神の裁きのそのような結果を喜ぶとともに,千年にわたる自分たちの統治が首尾よい結果をもたらしたことを知ります。

      30 14万4,000人の者は王としての職責以外に他のどんな職責をキリストとともに千年間果たさねばなりませんか。このことからどんな質問が生じますか。

      30 とはいえ,使徒ヨハネが見た輝かしい幻は,14万4,000人の王国共同相続者は王としてキリストとともに支配する以上のことをするということを明らかにしています。啓示 20章6節は「第一の復活」にあずかるそれら14万4,000人の者たちについて,「彼らは神およびキリストの祭司とな(る)」と述べています。彼らはまた,なぜ千年間「祭司」でなければならないのでしょうか。そうなれば,単なる王権だけでは成し遂げられないどんな事がらが成し遂げられるのでしょうか。その答えを見いだすまでは,きたるべき千年に関して得心できるものではありません。

  • 狡猾な政略を弄せずに,十世紀にわたって仕える祭司たち
    神の千年王国は近づいた
    • 6章

      狡猾な政略を弄せずに,十世紀にわたって仕える祭司たち

      1,2 (イ)歴史の記録にとどめられている祭司たちはなぜ人びとをそれほどまでに虐待してきたのでしょうか。(ロ)ギリシャの神ゼウスとユダヤ人の生ける神との相違がルステラで示されたのはいつですか。

      人類の歴史はその初期の時代以来,祭司に関する記録で満たされています。人類が祭司たちによって大いに惑わされ,欺かれ,搾取され,抑圧されてきたのは,そうした祭司たちの大多数が生ける唯一の真の神の祭司ではなかったからです。19世紀前のこと,異教徒ギリシャ人の最高の神に仕えていた,ある祭司はほかならぬその事実に注目させられました。どのようにしてですか。

      2 そのできごとは西暦47ないし48年ごろ,小アジアのローマ領ルカオニア州,ルステラ市で起きました。同市の住民は,ローマ人によればジュピターと呼ばれ,ギリシャ人によればゼウスと呼ばれる神を崇拝していました。が,神の王国を宣べ伝える二人の男子が同市にやって来るに及んで,ゼウスあるいはジュピター神と生ける唯一の真の神との著しい相違が示されることになりました。それら二人の男子のうちの一人は,以前長年ユダヤ教の一派パリサイ派に所属していたパウロで,別の一人はかつてエルサレムの神殿付きのレビ人であったバルナバでした。そこで起きた事については,医師ルカに述べてもらうことにします。

      3 ルステラで行なわれたどんな奇跡的な癒しのゆえに,その地のゼウスの祭司は犠牲をささげたいと考えましたか。

      3 「さて,ルステラに,母の胎を出た時から足なえで,両足の利かない人が座っていた。彼はそれまで一度も歩いたことがなかった。この人はパウロが話すのを聴いていたが,パウロは彼をじっと見て,いやしを受けるだけの信仰があるのを見ると,大きな声で言った,『自分の足でまっすぐに立ちなさい』。すると,彼は躍り上がって歩きはじめたのである。そこで群衆はパウロが行なった事を見て声を上げ,ルカオニア語で,『神々が人間のようになってわたしたちのもとに下って来たのだ!』と言った。そして,バルナバをゼウス,またパウロのほうを,彼が先に立って話していたので,ヘルメス[マーキュリー]と呼びはじめた。また,市の前に神殿があるゼウスの祭司は,数頭の雄牛と花輪を門のところに携えて来て,群衆といっしょに犠牲をささげようとするのであった。

      4 バルナバとパウロは,自分たちに対して犠牲がささげられるのをどのようにして阻止しましたか。

      4 「しかし,そのことを聞くと,使徒のバルナバとパウロは,自分の外衣を引き裂いて群衆の中に飛び出し,叫んでこう言った。『皆さん,なぜこうした事をするのですか。わたしたちも,あなたがたと同じ弱さを持つ人間です。そして,あなたがたに良いたよりを宣明しているのも,あなたがたがこうしたむだな事がらから生ける神に,天と地と海とその中のすべての物を作られたかたに転ずるためなのです。過去の世代において,神は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善を行なって,あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなたがたの心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません』。それでも,このように言って,彼らはやっとのことで,群衆が自分たちに犠牲をささげるのをとどめたのである」― 使徒 14:8-18,英文脚注。

      5 宗教面で興奮した群衆がどんなに気まぐれな人びとだったかを,後日どんなできごとが示しましたか。それで,ルステラでは祭司のどんな政略が依然続きましたか。

      5 ルステラの住民のある人びとはイエス・キリストの弟子,また「生ける神」の崇拝者になりましたが,一般の群衆はそうはなりませんでした。宗教面で興奮した群衆がどんなに気まぐれで,動じやすい人びとだったかは,後日彼らがキリスト教に敵するユダヤ人に説得されるまま,奇跡を行なうパウロを石打ちにし,まるで死んだようになった彼を同市の外に置きざりにするほどの仕打ちをしたことからもわかります。明らかに同市のゼウスの祭司は反対しませんでしたし,ルステラの群衆は相変わらずゼウスを崇拝し,ゼウスのその祭司に惑わされ,搾取されるままになっていました。また,ユダヤ人でキリスト教に敵する迫害者たちは,ルステラでそうした事態が見られるのを喜んでいました。―使徒 14:19-22。

      6 イエスが裁かれ,杭につけられたことに関する記録は,生ける神の祭司たちでさえ悪い者になりうることをどのように証明していますか。

      6 記録によれば,「生ける神」への奉仕に携わっていたユダヤ人の祭司たちさえ悪い者になりました。たとえば,西暦33年のあの有名な過ぎ越しの日に,群衆はイエス・キリストを杭につけて処刑するよう叫び求め,ローマ総督が,「わたしがあなたがたの王を杭につけるのか」と尋ねて,群衆を制止しようとした時,ユダヤ人の王としてのイエス・キリストを退ける点で率先していたのはだれですか。記録はこう述べます。「ピラトは彼らに言った,『わたしがあなたがたの王を杭につけるのか』。祭司長たちは答えた,『わたしたちにはカエサルのほかに王はいません』。こうしてその時,ピラトはイエスを彼らに引き渡して杭につけさせることにした」。(ヨハネ 19:14-16)その日の後刻,カルバリで刑柱に釘づけにされて掛けられていたイエスを通行人が悪しざまにののしったとき,イエスをあざけったそれらの者の中にはだれがいましたか。記録は率直にこう述べています。「同じように祭司長たちも,書士や年長者たちといっしょに彼を嘲弄しはじめて,こう言った。『ほかの者は救ったが,自分は救えないのだ! 彼はイスラエルの王だ。だったら今,苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたらわれわれは彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるのなら,いま神に救い出してもらうがよい。「わたしは神の子だ」と言ったのだから』」― マタイ 27:39-43。

      7 ペテロとヨハネ,また後日,十二使徒がエルサレムのユダヤ人のサンヘドリンの前に出たとき,祭司長たちと神との関係に関して何が明らかになりましたか。

      7 ここで「祭司長たち」として言及されているのは,特にアンナス(大祭司の勤めを退いていた)とその婿カヤファのことです。(ルカ 3:1,2。ヨハネ 18:13,24。使徒 4:5,6)それら祭司長たちおよびエルサレムの最高法廷(サンヘドリン)の成員の残りの者たちがクリスチャンの使徒ペテロとヨハネに,「どこにおいてもイエスの名によって何か口にしたり教えたりすることはないように」と命じたとき,ペテロとヨハネはそれら祭司長たちに向かって言いました。「神よりもあなたがたに聴き従うほうが,神から見て義にかなったことなのかどうか,あなたがた自身で判断してください。しかし,わたしたちとしては,自分の見聞きした事がらについて話すのをやめるわけにはいきません」。(使徒 4:18-20)その後しばらくして,イエス・キリストの12人の使徒たち全員がその同じエルサレムの最高法廷に出頭し,同法廷の主宰役員としての大祭司と法廷の残りの者すべてに向かって次のように言うのを,その大祭司は聞きました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29)それらユダヤ人の祭司長たちが「生ける神」に仕えるのをやめていたことは明らかでした。彼らはもはやその神を代表してはいませんでした。

      8 それらユダヤ人の祭司長たちの記録に対応する記録を持つどんな人間は,キリストとともに仕える千年期の祭司から除外されますか。

      8 聖書中のこうした記録を考えると,キリスト教世界の宗教体制内で「祭司」という称号を担う者たちが,宗教史および一般の歴史の示すとおり,自らのためにきわめて憎悪すべき卑劣な記録を残してきたとはいえ,類例がないわけではありません。啓示 20章6節で,「彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」と述べられている祭司たちの中に,前述のような地上の祭司たちが含まれるなどと考えようものなら,恐ろしさのあまり身震いすることでしょう。喜ばしいことに,霊感を受けた聖書は,そのような者たちを天でイエス・キリストとともに一千年の期間仕える祭司としては不適格者として除外しています。

      9 ユダヤ人の祭司がみな,それら祭司長たちのような人間だったかどうかについて聖書は何を示していますか。

      9 しかし厳密に公平にいえば,エルサレムの神殿で仕えていたユダヤ人の祭司たちは全部が悪い祭司だったのではないことを述べておかねばなりません。聖書の記録は,当時のクリスチャン会衆の統治体がエルサレム会衆で起きた問題をどのように解決したかを述べたのち,その点を確証しています。使徒 6章7節はこう続けています。「その結果,神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。

      10 イエスを信じた祭司やレビ人たちの,神殿での仕事はどうなりましたか。彼らはどんな祭司職の成員になりましたか。

      10 もちろん,預言者モーセの兄弟アロンの家系のそれらの祭司たちは,メシアまた神のみ子としての主イエスの名によってバプテスマを受けた後,エルサレムの神殿における祭司としての仕事を捨てました。同様に,キプロス出身のヨセフ・バルナバも,その同じ神殿におけるレビ人としての自分の仕事を捨てました。(使徒 4:36,37)とはいえ,それら以前の祭司は今や,さらにすばらしい祭司制度の成員になりました。それは天的な希望をいだくクリスチャンに対して使徒ペテロが次のように述べて保証した,「王なる祭司」で成る祭司制度でした。「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:9; 1:3,4。

      11 地上でのイエス・キリストはどうしてユダヤ人の祭司ではなかったのですか。しかし,彼の真の祭司職はどんな大祭司のそれに象られていましたか。

      11 しかし注目すべきことに,地上の祭司制度はあの「王なる祭司」,つまりあの「祭司の王国」の大祭司を供しませんでした。(出エジプト 19:6)イエス・キリストは肉によれば確かにユダヤ人もしくはイスラエル人でしたが,ユダヤ人の祭司職が限定されていたレビ族のアロンの家系に生まれたのではありません。イエスは「マリアの子」だったので,ダビデの王家に,したがってユダの部族に生まれました。「わたしたちの主がユダ,すなわちモーセが祭司については何も語らなかった部族から出たことは全く明白なのです」。(ヘブライ 7:14)ゆえに,イエス・キリストの天的な大祭司としての職能は彼が地上で人間として祭司を勤めていたことに基づいていたとはいえません。ここでわたしたちは,イエスがどのようにして王であるほかに祭司となられたかを調べなければなりません。とはいえ,彼の真の祭司職はユダヤ人の大祭司アロンのそれに象られていました。

      「生ける神」の真の祭司の価値

      12 いずれにしても,ヘブライ 5章1-3節によれば,祭司にはどんな価値がありますか。

      12 いずれにしても,祭司にはどんな価値がありますか。祭司は,単なる王には行なえない事がらを行ないます。異教の神の無価値な祭司職についてではなく,レビ人アロンの家の祭司職について述べたヘブライ 5章1-3節にはこう記されています。「人の中から取られる大祭司はみな,人びとのため,神にかかわる事がらの上に任命されます。供え物と罪のための犠牲とをささげるためです。彼は,自分もまた[大祭司アロンのように]自らの弱さにまとわれているので,無知で過ちを犯す者たちを穏やかに扱うことができ,またそのゆえに,民のためにするのと同じように,自分のためにもやはり罪のためのささげ物をすることを余儀なくされています」。

      13 (イ)人類のための祭司が必要でなかったのはいつでしたか。(ロ)イエスはなぜ大祭司となって犠牲をささげることができましたか。

      13 「生ける神」に対する人間の罪がなかったなら,祭司,とりわけ大祭司は必要ではありませんでした。エデンの園にいた完全な人間アダムは祭司を必要としませんでした。彼はエホバ神により罪のない者として創造されたからです。エホバ神は罪の源ではありません。(創世 2:7,8。伝道 7:29)「最後のアダム」と呼ばれるイエス・キリストは,罪人である人類の中に生まれましたが,祭司を必要とはしませんでした。なぜなら,彼は処女マリアから生まれ,その命は直接神から来たからです。彼は罪なくして生まれ,罪なくして成長し,また犠牲の死に至るまで罪のない状態を保ちました。(コリント第一 15:45-47。ヘブライ 7:26。ペテロ第一 2:21-24)彼は罪がなかったゆえに,大祭司となって,完全な犠牲をささげることができました。

      14,15 (イ)イエスはどのようにして大祭司になりましたか。自らそうなるよう自分で決めることによってですか。それともどのようにしてですか。(ロ)エホバがイエスを復活させることによって,詩篇 2篇7節はどのように成就しましたか。その時,イエスはどのようにしてメルキゼデクに似た祭司になることができましたか。

      14 イエス・キリストはユダの王族の出だったにもかかわらず,だれが彼を大祭司にしましたか。彼は自ら大祭司になることに決めましたか。いいえ,そうすることはできませんでした。そのことがヘブライ 5章4-6節に次のように説明されています。「また,アロンの場合と同じように,人はこの誉れを自分で取るのではなく,神に召された時にのみ取るのです。キリストもまた,自ら大祭司となって自分に栄光を付したのではなく,彼について,『あなたはわたしの子。わたしがきょうあなたの父となった』と言われたかたによって栄光を与えられました。そのかたはまたほかの所で,『あなたはメルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司である』とも言っておられます」。

      15 死人の中からイエス・キリストを復活させることによって,全能の神は,ダビデの記した詩篇 2篇7節から引用されたそれらの言葉を成就しました。こうして神は,復活したイエス・キリストの永遠の父となり,また不滅の者としてよみがえらされたその方は,命の与え主である天のエホバ神の永遠のみ子となりました。今や不滅のみ子となったのですから,彼は後継者を必要とせずに「永久に祭司」になることができ,こうして,「メルキゼデクのさまにしたがって」祭司となることになりました。―使徒 13:33-37。詩篇 110:4。

      16 このメルキゼデクはいったいだれですか。創世記によれば,彼はどのように歴史に登場しましたか。

      16 その神秘的な歴史上の人物メルキゼデクとはいったいだれですか。彼はヘブライ人でも,イスラエル人でも,レビ人でも,ユダヤ人でもありませんでした。西暦前1943年から1933年の間のある時期に彼は突然,今日のエルサレムの場所の近辺で登場します。そこで,戦いから戻って今日のヘブロンの近くに帰る途中であった「ヘブライ人アブラム」が彼に会いました。ヘブライ語聖書はその出会いについて述べていますが,それは次のとおりです。「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時,ソドムの王はシャベの谷,すなわち王の谷に出て彼を迎えた。その時,サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った,『願わくは天地の主なるいと高き神が,アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように』。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」― 創世 14:17-20,口語。

      17 どんな点でメルキゼデクは,大祭司としてのイエス・キリストを予表しましたか。イエスはメルキゼデクの後継者でしたか。

      17 この記録はメルキゼデクの父親がだれかを述べてはいないので,メルキゼデクは祭司職を父親から受け継いだとはいえません。またそれは,メルキゼデクがいつ死んだかを述べてはいないので,その祭司職はいついつ終わったと言うこともできません。ゆえに,その祭司職は定めのない時まで続きました。このことと一致して,メルキゼデクに後継者がいたとは伝えられていません。こうした点で,彼は大祭司イエス・キリストを予表するのに用いることができました。あるいは,イエス・キリストは「メルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司」であると言うことができたのです。イエス・キリストはメルキゼデクから祭司職を得たのではありません。イエスはメルキゼデクの後継者としての祭司ではありませんでした。彼は単に「さま」つまり型の点で,サレムのあの王なる祭司に似ていたにすぎません。

      18 メルキゼデクという名前からすれば,イエス・キリストの祭司職はどんな祭司職といえますか。ヘブライ 6章20節から7章3節までにメルキゼデクに関する事がらがどのように説明されていますか。

      18 メルキゼデクという名前は「義の王」という意味であり,イエス・キリストはメルキゼデクの「さま」に似ているので,このことは千年にわたる大祭司イエス・キリストの祭司制度が,術策をめぐらし,狡猾な政略を弄することのない義の祭司制度であることを保証しています。そのことはヘブライ 6章20節から7章3節までに次のようによく説明されています。「それは,メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司となられたイエスです。このメルキゼデク,つまりサレムの王,また至高の神の祭司であり,王たちの討伐から帰るアブラハムを出迎えて祝福し,アブラハムがすべての物のうちその十分の一を配分した人ですが,このメルキゼデクは,訳せば,まず第一に『義の王』,ついでまたサレムの王,つまり『平和の王』です。彼は,父もなく,母もなく,系図もなく,生涯の初めもなければ命の終わりもなく,神の子のようにされていて,永久に祭司のままです」。

      19 祭司職に関してはメルキゼデクはどのようにして「神の子のようにされ」ましたか。それで,イエスの祭司職は何に依存していましたか。

      19 メルキゼデクはどのようにして「神の子のようにされ」ましたか。つまり,神のみ子イエス・キリストをさし示す例として用いられましたか。それはエホバ神がみ子イエス・キリストのために立てようとしておられた誓いについて述べるさい,メルキゼデクを型として用いたという点においてです。神はダビデ王に霊感を与えて,詩篇 110篇1-4節〔新〕で次のように言わせました。『エホバわが主にのたまう 我なんじの仇をなんじの〔足台〕とするまではわが右にざすべし……エホバ誓いをたてて聖意をかえさせたまうことなし 汝はメルキゼデクのさまにひとしくとこしえに祭司たり』。ゆえに,メルキゼデクの場合のように,イエス・キリストの祭司職は人間の家系や相続権に基づくものとはされませんでした。イエスはメルキゼデク,あるいはレビ族のアロンの祭司の家系のいずれかを通して祭司職を得る必要はありませんでした。イエスの祭司職は,エホバ神の誓いと,死人の中から復活させられて天的な命を持つ不滅の者として神の右に上げられたこととに基づいていました。

      20,21 (イ)死んでゆく人類のために,祭司職の変化,つまりアロンの祭司職からメルキゼデクのそれへの変化が必要でした。なぜですか。(ロ)そのことはヘブライ 7章11-14節にどのように述べられていますか。

      20 アロンのレビ族の祭司職は,エホバ神がアラビアのシナイ山で仲介者モーセを通してイスラエル民族に与えた律法によって制定されました。しかし,違犯者アダムから罪と不完全性を受け継いだアロンの家系は完全な大祭司を生み出しませんでしたし,また生み出すことはできませんでした。その家系の生み出した祭司で,完全な者はいませんでした。(ローマ 5:12)それで,全人類の陥った事態は,エホバ神からの祭司職の変化,つまり不完全で滅ぶべき祭司職から,完全で永続する祭司職への変化を必要としました。ゆえに,古代のメルキゼデクに似た大祭司が必要でした。ヘブライ 7章11-14節が述べているのはそのことです。

      21 「そこで,もし完全にすることがほんとうにレビの祭司職を通してであったとすれば,(それ[レビ族の祭司職]を特色として民は律法を与えられたのですが,)メルキゼデクのさまにしたがい,またアロンのさまにしたがうとは言われない別の祭司の起こる必要がさらにあるでしょうか。祭司職が変えられつつあるので,当然律法の変更も生じるのです。これらのことが言われている人[イエス・キリスト]は別の部族の成員であり,その部族の者はだれも祭壇での職務を行なったことがないからです。わたしたちの主がユダ,すなわちモーセが祭司については何も語らなかった部族から出たことは全く明白なのです」。

      22,23 (イ)レビ族の大祭司とは対照的に,イエスはどのようにして大祭司にされましたか。(ロ)ヘブライ 7章23-28節によれば,大祭司としてのイエスはご自分を通して神に近づく人たちをどのようにして完全に救えますか。

      22 ユダヤ人の大祭司アロンと職務についたその後継者たちは,エホバ神の誓われた誓いをもって祭司にされたのではありません。しかし,イエス・キリストは地上の祭司とは全く無関係に,神の誓いによって大祭司とされました。イエスの命は彼が完全な人間の犠牲として死ぬことにより短期間中断されましたが,彼はメルキゼデクのように永久に大祭司となるべく,朽ちない天的な命に復活させられました。このイエスと,アロンのレビ族の祭司職およびその後継者たちとの相違がヘブライ 7章23-28節にこう説明されています。

      23 「さらに,祭司の職にとどまることを死によって阻まれるため,多くの者[アロンの子たち]が次々に祭司とならねばなりませんでしたが,彼[より偉大なメルキゼデク]は永久に生き続けるので,後継者を持たずに自分の祭司職を保ちます。それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです。このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,[もろもろの]天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼は,あの大祭司たちがするように,まず自分自身の罪のために,ついで民の罪のために,日ごとに犠牲をささげる必要はありません。(彼はご自身をささげた時,そのことをただ一度かぎり行なわれたからです。)[モーセの]律法は弱さを持つ人たちを大祭司として任命しますが,律法ののちに[四百年余を経て]来た,明言された[神の]誓いのことばは,永久に完全にされたみ子を任命するのです」。

      24 イエス・キリストはどんな「聖なる所」で仕える大祭司ですか。イエスの勤める,どんな時期の祭司職に対して人類は感謝すべきですか。

      24 それで,ここで言わんとしているのはどんな論点ですか。それは次の二つの節(ヘブライ 8:1,2)でこう要約されています。「そこで,いま論じている点について言えば,これがその要点です。すなわち,わたしたちにはこのような大祭司があり,彼は天におられる威光のみ座の右に座し,聖なる所,そして,人間ではなくエホバの立てた真の天幕の公僕であられるという点です」。ですから,人類は,悪魔サタンとその悪霊たちが縛られて底知れぬ所に入れられる,所定の千年間,神に近づいて人類のために懇願するこのような大祭司を持てることに対して神に深く感謝すべきではありませんか。そのとおりです! 神のこうした備えはまさしく,人類のための最善の益を保証しています。

      25 イエスはなぜエルサレムの神殿で大祭司として仕えませんでしたか。エルサレムの神殿は何を表わす型でしたか。

      25 完全な人間として地上におられたとき,イエス・キリストはエルサレムの神殿で公僕として仕えたことは決してありませんでした。モーセの律法によれば,そうすることは許されませんでした。なぜなら,彼はレビ人でも,アロンの祭司の家系の者でもなかったからです。とはいえ,イエスは,より高い聖なる所で,つまりヘロデ大王や総督ゼルバベルあるいはソロモン王のような人間がエルサレムに建てたのではない,より高次の,もしくはより重要な神殿で仕えました。預言者モーセが建てた会見の幕屋のような,それら人間の建てた神殿は単に模型的な,つまり説明となるものにすぎませんでした。(出エジプト 40:1-33)メルキゼデク王がサレムに神殿を建てたとか,「至高の神の祭司」として仕えるためにそうした建物を必要としたとかという記録はありません。それで,メルキゼデクに関連して,そのようなものは何一つ型として用いることはできません。しかし,より偉大なメルキゼデク,つまりイエス・キリストは大祭司として対型的な聖なる所また神殿で,すなわち「聖なる所,そして…エホバの立てた真の天幕」で仕えています。

      真の神殿

      26,27 (イ)神聖な天幕やエルサレムの神殿はどんな仕切り室に分けられていましたか。(ロ)その天幕やソロモンの神殿のおのおのの仕切り室にはどんな備品がありましたか。

      26 モーセがシナイ山で建てた神聖な天幕やエルサレムの神殿には二つの仕切り室があって,第一の仕切り室は聖所と呼ばれ,第二の,つまり一番奥の仕切り室は至聖所,もしくは最も神聖な所と呼ばれました。

      27 第一の仕切り室,つまり聖所には幾つかの備品がありましたが,それは普通「供えのパン」と呼ばれるパンを捧げるための金の食卓と,上端にともしび皿を取りつけた七つの枝のある金の燭台と,備え付けの金の香壇でした。この仕切り室で大祭司は金の燭台の光の中で供えのパンを整えたり,かぐわしい香を祭壇に供えたりすることができました。しかし,一番奥の仕切り室つまり至聖所には,モーセの張った天幕やソロモン王の建てた神殿の場合,聖なる金の契約の箱がありました。そして,その箱の金のふた,もしくは覆いの上には,金でできた二つのケルブが互いに翼を伸ばして対座していました。この一番奥の仕切り室,つまり至聖所で光を供したのは,なだめの覆いの上方で,二つのケルブの間で輝く,シエキナの光と呼ばれる奇跡的な光でした。

      28 ユダヤ人の大祭司は至聖所で贖罪の犠牲の血を振りかける用意をどのようにして整えましたか。こうして,大祭司はだれのために贖罪を行ないましたか。

      28 毎年一回,贖罪の日に,贖罪の犠牲の血を捧げる前に,アロンの家系の大祭司は持ち運びのできる香炉つまり手にさげる吊り香炉を持って,第一の仕切り室と一番奥のそれ(至聖所)とを隔てている奥の幕の内側に入り,シエキナの光に照らされながら契約の箱の前で香をたきました。そのようにして,後刻二頭の贖罪の犠牲の血を携えて戻り,その血を契約の箱のなだめの覆い(贖罪所)に向かって振りかける用意を整えたのです。こうして大祭司は,自分自身とそのレビの家あるいは部族の罪,次いでイスラエルの民の罪のために贖罪を行ないました。これはモーセの律法契約に大要が述べられている贖罪の手順です。―ヘブライ 9:1-10。民数 7:89。

      29 (イ)モーセの張った神聖な「天幕」はいつ落成しましたか。また,ソロモンの神殿の場合はいつでしたか。(ロ)真の天幕もしくは神殿はいつ存在するようになりましたか。

      29 モーセは西暦前1512年の春の月,ニサンの第1日にシナイの荒野で神聖な会見の天幕を建てました。ソロモン王は西暦前1027年にエルサレムの神殿を完成し,その後,西暦前1026年の秋の月,チスリの第15日にそれを献堂しました。(列王上 8:1,2,65,66)しかし,対型的な天幕もしくは神殿,つまり「聖なる所」を備えた「真の天幕」はいつ存在するようになりましたか。それはヘロデ大王の建てた模型的な神殿が依然としてエルサレムに立っていた,西暦29年の初秋のことでした。それはどうしてですか。その時,真の神殿を必要とするどんな事が起きたのですか。

      30,31 (イ)対型的な大祭司はどんなできごとに際して,またどのようにして存在するようになりましたか。(ロ)その時,罪を取り除く,どんな対型的な日が始まりましたか。イエスがささげたものと,アロンがささげたものとはどのように比べられていますか。

      30 西暦29年のその年に対型的な大祭司が存在するようになりました。そして彼は,アロンのレビ族の大祭司のように,その職務に携わるための神聖な天幕もしくは神殿を持たねばなりませんでした。犠牲をささげるその対型的な大祭司こそ,霊的な大祭司になるべく神の聖霊で油そそがれた主イエスです。イエスの上に聖霊が臨み,そのようにして油を注がれたのは,彼がヨルダン川でバプテストのヨハネによってバプテスマを施された後でした。こうしてイエスは30歳でメシアつまり油そそがれた者になりましたが,それは人類の罪のための犠牲の死を遂げる3年半前のことでした。(ダニエル 9:24,25,27。ルカ 3:21-23)その時,大いなる対型的な贖罪の日が始まりました。しかもイエス・キリストは,西暦前1512年当時,神聖な天幕もしくは幕屋が建てられた後,大祭司アロンが持っていたものよりもさらに優れた何ものかを持っていました。それは何でしたか。ヘブライ 8章3-6節および9章11-14節にはこう記されています。

      31 「大祭司はみな供え物と犠牲の両方をささげるために任命されます。それゆえに,このかたもささげるものを持つことが必要でした。さて,もし彼が地上にいるとすれば,祭司とはならないはずです。律法に従って供え物をささげる人たちがいるからです。しかしその人たちは,天にあるものの模式的な表現また影として神聖な奉仕をささげているのです。モーセが,天幕を作り上げるにあたって神命を与えられたとおりです。『山であなたに示されたひな型にならってすべての物を作るように』と述べておられるのです。しかし今,イエスはさらに優れた公の奉仕の務めを得たゆえに,それだけ勝った契約の仲介者でもあられるのです。その契約は勝った約束に基づいて法的に確立されたものです」。

      32 アロンの場合に模型的に示されたように,イエス・キリストは何に入りましたか。死んだわざからわたしたちの良心を清めるための何を携えて入りましたか。

      32 「しかし,キリストは,すでに実現した良い事がらの大祭司として到来した時,手で作ったのではない,すなわち,この創造界のものではない,より偉大でより完全な天幕を通り,そうです,やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり[天幕の至聖所に相当する]聖なる所に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださったのです。汚れた人たちに振りかけられた,やぎや雄牛の血また若い雌牛の灰が,肉の清さという点で聖化をもたらすのであれば,まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清め,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださらないでしょうか」。

      33,34 (イ)ヨルダン川で浸礼を受けることによってイエスは何を象徴しましたか。(ロ)人間イエスのために神は何を用意されましたか。イエスはなぜそれをささげましたか。どれほどしばしばそうしましたか。

      33 それでは,完全な人間イエスが水のバプテスマを受けた後に神の油そそがれた大祭司となったとき,犠牲として神に捧げねばならなかったのは何ですか。それは,その血では決して人間の罪を洗い清められない,人間以下のある動物のからだではなくて,処女マリアから生まれることによって得たイエスご自身の完全な人間のからだでした。イエスは,ご自分がその犠牲の道を歩むよう全能の神によって備えられ,整えられたことを認識しました。また,その特別の時期にさいして,その自己犠牲の道を歩み始めるのがご自分に対する神の意志であることをも認識しました。したがって,ヨルダン川で浸礼を受けるためにバプテストのヨハネのもとにやって来たイエスは,それ以後は神の意志を行なうべく,ご自身を神に捧げたのです。イエスの受けた水のバプテスマは,犠牲の死に至るまでも神の意志を行なうべくご自身を捧げたことを象徴するものでした。このことに関してヘブライ 10章4-10節はこう述べています。

      34 「雄牛ややぎの血が罪を取り去ることは不可能…です。ゆえに,世に来る時,彼はこう言います。『「犠牲やささげ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった。あなたは全焼のささげ物や罪のささげ物を是認されなかった」。そこでわたしは言った,「ご覧ください,わたしは参りました(書の巻き物にわたしについて書いてあります),神よ,あなたのご意志を行なうために」』。初めに,『あなたは,犠牲やささげ物,また全焼のささげ物や罪のささげ物を望まず,また是認されなかった』と言い ― これらは律法にしたがってささげられる犠牲です ― そののち,『ご覧ください,わたしはあなたのご意志を行なうために参りました』と実際に言われます。彼は,第二のものを確立するために,第一のものを除き去ります。ここに述べた『ご意志』のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです」。

      35 (イ)模型的な贖罪の日に,何が祭壇につけられましたか。その上に何がささげられましたか。(ロ)イエスがご自身をささげるために設けられた対型的な「祭壇」とは何ですか。

      35 模型的な贖罪の日に大祭司アロンは,贖罪の生けにえの幾らかの血を祭壇につけ,また神聖な会見の天幕の前の中庭の中央にあったその祭壇の上で贖罪の生けにえの脂肪を焼きました。(レビ 16:16-19,25)では,霊的な大祭司としてのイエス・キリストがご自分の完全な人間としての犠牲を,その上に捧げた対型的な「祭壇」とは何でしたか。それは会見の天幕の中庭のあの銅の祭壇のような物質的な祭壇ではありませんでした。それはイエスがカルバリで死に至るまで掛けられていた刑柱でもありませんでした。あの杭はのろわれたものであって,イエスの尊い血で清められはしなかったからです。(申命 21:22,23。ガラテア 3:13)むしろそれは,イエス・キリストがご自分の完全な人間の生きたからだの価値をその上にささげ得る霊的なものでした。それは神の「意志」つまり厚意でした。その意志を行なうべくイエスはやって来て,ご自身を捧げたのです。それは今や動物の生けにえに代わって人間の犠牲を喜んで受け入れることにした神の志でした。ゆえに,イエスは神のその「意志」に基づいてご自分の人間としての命の価値をささげたのです。

      36 どんな人たちはその霊的な「祭壇」から食べることを許されていますか。それらの人たちにはどんな結果がもたらされますか。

      36 こうして,対型的な「祭壇」が存在するようになりましたが,それに関してヘブライ 13章10節は油そそがれたクリスチャンに向かってこう述べています。「わたしたちには,天幕で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります」。ですから,キリスト教世界のある司祭たちが教会堂あるいは他の礼拝所の中に物質でできた「祭壇」を築き,「ミサ」を挙行する場合のように,キリストの犠牲を繰り返し供えると主張するのは,なんと物質的なものに関心のある,非聖書的な主張でしょう。真の霊的な「祭壇」から食べる権限を持っている人たちは,「イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされて」いるのです。

      37 (イ)霊的な「祭壇」に加えて,昔の「天幕」に関連して模型的に示されたどんなものが存在するようになりましたか。(ロ)その中庭はイエスの場合,何を模型的に表わしていましたか。

      37 昔の銅の祭壇が神聖な会見の天幕の前の中庭の中央に立っていたのと全く同様,対型的な霊的「祭壇」に加えて,対型的な「中庭」も存在するようになりました。その中庭は所在地または場所を表わすのではなく,地上にいる人間の状態を表わします。油そそがれた大祭司,イエス・キリストはその対型的な中庭にいました。なぜなら,彼は完全な被造物としての人間の状態のうちにあったからです。ですから,地上におられた時の彼の状態は文字どおり正しくて,義にかなっており,欠点もきずもないものでした。レビ人コラの子たちのように,イエスはエホバの真の「偉大な幕屋」の中庭にある,エホバの意志という偉大な祭壇に自分の憩の場所を見いだしました。(詩篇 84:1-3)彼は神の意志を行なうことを大いに喜びました。―詩篇 40:8。

      38,39 (イ)対型的な中庭や祭壇に加えて,ほかにどんなものが存在するようになりましたか。(ロ)このことからどんな質問が生じますか。イエスの述べたどんな言葉は,神の居所を示していますか。

      38 その時,新しい霊的な大祭司つまり油そそがれたイエスの便宜を図るために対型的な祭壇や中庭が存在するようになっただけでなく,対型的な天幕もしくは神殿も同様に存在するようになりました。それ以来,「エホバの立てた真の天幕」は新しい霊的な大祭司が自由に使えるものとなりました。

      39 その「真の天幕」もしくは神殿とは何ですか。それは創造者が目に見えない天でご自分のために造った特別の建物ですか。いいえ,神はそのようなものを必要としてはおられません。いと高き神は常に天に住みかを持っておられます。神は遍在する,つまり時を同じくしてどこにでも存在する,あらゆる場所に充満する霊ではありません。神は理知のある存在者ですから,ご自分の居所,つまりそこで神に近づくことのできる住みかをお持ちです。イエス・キリストは弟子たちに,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう教えました。そして,ご自分を信ずる「小さな者」のだれをも軽べつしてはならないと戒め,その理由を次のように説明しました。「あなたがたに言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を見守っているのです」。(マタイ 6:9; 18:10)すなわち,それら天のみ使いたちは聖なるみ父に近づくことができるのです。

      40 神はご自分の天の住まいに関して,それを神聖な「天幕」の至聖所と比べられるようにするために何を行なうことができましたか。

      40 しかしながら,全能の神はその占有的な住みかの様相を変化させることができます。たとえば,バプテスマを受けたばかりのイエス・キリストに油をそそぐことによって,ご自分の霊的な大祭司を生み出したとき,神は罪を持つ人類に関連して(罪のないみ使いたちに関連してではない),ご自身の天の住まいに新たな様相を帯びさせ,その住まいにかかわる新たな役職もしくは特徴を持たせることができました。人類の非常に罪深い状態とは対照的に,神の天の住まいの神聖さはその度合いを強めました。神ご自身の住まいは今や,公正で,しかもなお汚れた人類のためのふさわしい完全な犠牲を受け入れるほどに憐み深い神の聖なる所として現われました。しかし,その犠牲,もしくはその価値は,罪のない神聖な,また神意にかなって個人的に神に近づき得る大祭司が捧げなければなりません。それで,神の天の王座は,なだめの座となります。このようにして神はご自分の天の住まいに,模型的な天幕あるいは神殿の至聖所もしくは最も聖なる仕切り室の霊的な特色を帯びさせました。

      41,42 (イ)アロンは「年に一度」何に入ることを許されましたか。どのようにして入りましたか。(ロ)イエス・キリストの入られた至聖所とは何ですか。どんな時期に,またどれほどしばしば入られましたか。

      41 これは聖書の見解です。大祭司アロンは贖罪の日の犠牲の血を携えて,地上の会見の天幕の至聖所に入り,またそうするために奥の幕もしくは垂幕をくぐりました。(レビ 16:12-17。ヘブライ 9:7)その模型的な光景を成就するためには,大祭司イエス・キリストは真の至聖所に入らなければなりません。聖書はそれがどこにあることを示していますか。また,それは何ですか。

      42 次のことばに耳を傾けてください。「それゆえ,天にあるものを模式的に表現したものはこのような手段で清められ,天のものそれ自体は,そのような犠牲より勝った犠牲をもって清められることが必要でした。キリストは,実体の写しである,手で作った聖なる所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです。それはまた,大祭司が自分のではない血を携えて年ごとに聖なる所へ入るように,何度もご自身をささげるためでもありません。そうでなければ,彼[イエス]は世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けねばならないでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の[模型的な]諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです」― ヘブライ 9:23-26。

      43,44 (イ)では,神の神殿についていえば,神の聖なる住まいとはなんですか。(ロ)聖所は何によって至聖所から隔てられていましたか。その対型の場合,イエス・キリストはどのようにしてそれを通過しましたか。

      43 模型的な天幕もしくは神殿の中の,これまた模型的な「聖なる所」に入ることによって対型的な贖罪の日を最高潮に達せしめる代わりに,大祭司イエス・キリストは「神ご自身」のおられる「天そのものに」入りました。正に神ご自身のおられるその天の住まいこそ,真の至聖所,つまり聖所の中の聖所,もしくは最も神聖な所なのです。

      44 地上にあった模型的な天幕もしくは神殿の至聖所は,幕もしくは垂幕で仕切られていたので,至聖所は幕の内側にあるといえました。ゆえに,その幕は,人が地上での人間としての生活をあとにして,目に見えない天に入るために通過しなければならない,人間の肉体の障害物を表わしていました。イエス・キリストは天的な至聖所に入るために,死と復活によりその障害物を通過しました。これこそ,14万4,000人の忠実な弟子たちの天的な希望について述べたのちにヘブライ 6章19,20節が言わんとしている事がらなのです。「この希望を,わたしたちは魂の錨,確かなもの,またゆるがぬものとしていだいており,それは幕の内側に入るのです。そこへは前駆者がわたしたちのために入られました。それは,メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司となられたイエスです」。「幕の内側に」つなぎ留められている希望は,天的なものです。

      神の霊的な神殿の「聖所」

      45 (イ)至聖所のほかに,「天幕」にはどんな部屋がありましたか。(ロ)聖所にはだれが,どれほどしばしば,またどのようにして入りましたか。

      45 至聖所は地上の天幕もしくは神殿のすべてではなかったという事実を見過ごすべきではありません。その一番奥の仕切り室つまり至聖所のほかに,天幕もしくは神殿には,仕切り幕の前に聖所と呼ばれる仕切り室がありました。(ヘブライ 9:1-3)至聖所は「神ご自身」のおられる「天そのもの」を模型的に表わしていたのであれば,幕もしくは仕切りの前の聖所は何を表わしていましたか。至聖所には大祭司が「年に一度」だけ贖罪の日に入れましたが,聖所には大祭司だけでなく,すべての従属の祭司も定期的に入れました。祭司たちは祭壇のある中庭から直接その第一の仕切り室つまり聖所に入りましたが,中庭と聖所とを隔てている仕切り,もしくは掛け布をくぐらねばなりませんでした。

      46,47 (イ)イエスはいつ,またどのようにして対型的な聖所に入りましたか。(ロ)それで,聖所は何を表わしていますか。対型的な祭司たちはその中でどんな特権を享受しますか。

      46 ですから,聖所は,中庭が表わしたよりもいっそう著しい神聖な状態を表わしていました。聖所は仕切られていたので,その中の備品は中庭にいる人たちの目からは隠されていたように,聖所は中庭で表わされているものよりも勝った霊的な状態を模型的に表わしていました。その中庭は神の前に義にかなった立場を持つ人間の状態を表わしました。イエス・キリストは水のバプテスマを受けた後に神の聖霊によって生み出された時,聖所と呼ばれる仕切り室で表わされた状態に入り,こうして神の霊的な子となりました。(マタイ 3:13-17)また,神の霊によって油そそがれることにより,神の霊的な子としてのイエスには祭司の職が付与されました。つまり彼は大祭司アロンによって表わされていた神の大祭司になりました。

      47 こうした見地からすれば,聖所と呼ばれる仕切り室は,この霊的な祭司職につく人たちの,霊によって生み出された状態を表わしていたことがわかります。そうした状態のもとで,地上にいるそれら霊的な祭司たちは,金の燭台からの光のように霊的な光を享受し,供えのパンを載せる金の食卓から食べるかのように霊的な食物を食べ,また金の香壇の傍に立っているかのように神への祈りと奉仕という香をささげます。―出エジプト 40:4,5,22-28。

      48 イエスは聖所によって表わされていた状態のうちにどれほどの期間留まっていましたか。その弟子たちはどうしてイエスのことを明確に識別しませんでしたか。

      48 イエスがバプテスマを受け,聖霊によって油そそがれた日から,その亡くなる日まで(西暦29年から33年まで)を数えると,イエス・キリストは聖所と呼ばれる仕切り室で表わされた霊によって生み出された祭司としてのあの状態の中に3年半留まっていたことになります。単なる自然のままの人間は,イエスの忠実な弟子たちでさえ,そのような状態のもとでイエスが行なった奉仕を正しく識別し,認識することはできませんでした。なぜなら,彼らは自然のままの人間的な見地から物事を見ていたからです。聖霊が注がれる,西暦33年のペンテコステの祭りの日はまだ到来していませんでした。(ヨハネ 7:39)聖所と呼ばれる仕切り室の内部の物品が「幕屋の入口の仕切り」によって隠されていたように,彼らの識別力は妨げられていました。―出エジプト 40:28,29,新。

      49 対型的な聖所にいたイエスは,天の至聖所に直接近づくことをどのように妨げられましたか。

      49 聖所の表わす状態,つまり霊によって生み出された祭司としての状態のうちにあった,地上の大祭司イエス・キリストは完全な人間としてなお肉身で留まっておられたので,天の神のみ前に直接近づくことは妨げられていました。ちょうどモーセが「仕切りの幕を掛け,証しの箱に近づく道をさえぎった」ように,イエスと天の至聖所との間にはあの象徴的な「幕」がありました。―出エジプト 40:21,新。

      50 (イ)イエス・キリストはいつ奥の「幕」を通過しましたか。どのようにしてですか。(ロ)その時,祭司職に関するどんな誓いがイエス・キリストに対して効力を発しましたか。なぜですか。

      50 大祭司としてのイエス・キリストは西暦33年のニサン16日,死人の中から復活させられ,もはや単に霊によって生み出されただけの肉なる者としてではなく,目に見えない天に存在する神の霊的な子として完全に生み出されることにより,「真の天幕」のあの象徴的な幕を通過しました。使徒ペテロはそのことを次のように正しく書き表わしています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです」。(ペテロ第一 3:18)今やイエス・キリストは「滅びることのない命の力」をもって報われたので,『メルキゼデクのさまにしたがった』永遠の祭司職に関する神の誓われた誓いは,その重大な日にイエスに対して効力を発しました。(ヘブライ 7:16,24。使徒 13:33-37。ローマ 1:1-4)その後の40日間,特別の仕方でご自分の忠実な弟子たちに現われたのち,イエスは天に昇り,ご自分の完全な人間の犠牲の価値を真の至聖所で神ご自身に捧げました。―使徒 1:1-11。ヘブライ 9:24。

      51 (イ)対型的な贖罪の日はいつ終わりましたか。それはどれほどの期間継続しましたか。(ロ)イエスの犠牲の価値が至聖所で受け入れられたことを示す証拠はどのようにして与えられましたか。

      51 キリストの犠牲の価値がそのようにして天の至聖所で捧げられるとともに,対型的な大いなる贖罪の日は終わりました。レビの部族の大祭司アロンの場合,国家的な贖罪の日は文字どおりの24時間の長さの一日だけでした。しかし大祭司イエス・キリストの場合,対型的な贖罪の日はおよそ3年8か月の期間にわたりました。イエスの昇天の10日後,天の至聖所で神に捧げられたイエスの完全な人間としての犠牲の価値が受け入れられたことを示す証拠が地上のその忠実な弟子たちに与えられました。どのようにしてですか。西暦33年,シワン6日,日曜日,七週の祭り,つまりペンテコステの日に,エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれることによってです。(使徒 2:1-36)それは「エホバの立てた真の天幕」に関してある新しい事がらに注意を引くものとなりました。それをこれから調べてみましょう。

      霊的な従属の祭司たち

      52 (イ)より偉大なメルキゼデクが従属の祭司を持っていることはどのように予表されていましたか。(ロ)アロンの祭司職はいつ創設されましたか。アロンの頭にどんな「聖なるしるし」が着けられましたか。

      52 古代のサレムの王なる祭司,メルキゼデクが従属の祭司を持っていたという記録はありません。しかし,「メルキゼデクのさまにしたがう大祭司」となられた神のみ子は従属の祭司を持っています。(ヘブライ 5:8-10)このことはレビ人アロンの祭司の家系によって予表されていました。エホバ神はアロンをイスラエルの大祭司に,またその子たちをアロンの従属の祭司になるよう召されました。西暦前1512年の春の月,ニサンの第1日に預言者モーセは神の命令に従って,アロンとその子たちを祭司職に就任させはじめました。(出エジプト 40:1,2,12-16; 29:4-9。レビ 8:1-13)大祭司の衣服につける物品の一つとして人びとは,「輝く板,つまり献身の聖なるしるしを純金で作り,その上に印を彫るように,『神聖さはエホバのもの』という銘刻文を刻」みました。―出エジプト 39:30,新。

      53 (イ)こうして大祭司アロンのターバンを飾ったモーセは,エホバのどんな命令に従いましたか。(ロ)「献身のしるし」と訳されている語はヘブライ語のどんな動詞から来ていますか。

      53 それで,大祭司として就任させるべく自分の兄に正装させたモーセは,エホバの次のようなご命令を遂行しました。「また,ターバンを彼の頭にかぶらせ,献身の聖なるしるしをターバンの上に着けなければならない。また,注ぎの油を取って,それを彼の頭に注ぎ,彼に油をそそがねばならない」。(出エジプト 29:6,7,新)その「献身の聖なるしるし」は純金の「輝く板」だったので,ヘブライ語聖書の多くの翻訳者はその表現を「聖なる冠」と訳出することを好んでいます。(エルサレム聖書の出エジプト記 29章6節,脚注を見てください。)もちろん,「冠」や「王冠」と訳される普通のヘブライ語は,ここで「献身のしるし」と訳出されているヘブライ語とは異なっています。レビ記 21章12節(新)では,この後者のヘブライ語は大祭司の頭にそそがれる注ぎ油を表わすのに用いられています。こう記されているからです。「また,聖所から出て行ったり,神の聖所を汚したりしてはならない。なぜなら,献身のしるし,つまり神の注ぎ油が彼の上にあるからである」。そのヘブライ語は,ホセア書 9章10節で「献身する」と訳されている動詞ナーザルから来ています。―アメリカ訳; 新。

      54,55 (イ)油そそがれた大祭司は何と呼ばれましたか。大祭司に油をそそぐことは,何を模型的に表わしましたか。(ロ)バプテストのヨハネはイエスに聖霊で油をそそぎましたか。それとも,だれがそうしましたか。

      54 大祭司アロンと,職務についたその後継者たちは公式に職に任じられたゆえに,エホバ神に献身した男子であったことには疑問の余地がありません。(出エジプト 29:30,35)聖なる注ぎ油をもって油そそがれたゆえに,大祭司は「油そそがれた者」つまりメシアと呼ばれました。(レビ 4:3,5,16; 6:22)後代には,イスラエルの油そそがれた王たちも同様にメシアと呼ばれました。(サムエル前 24:6,10; 26:9-11。哀歌 4:20)それで,大祭司アロンの従属の祭司である4人の子たちの名が列挙されたのち,こう記されています。「これがアロンの子たちの名であって,彼らはみな油を注がれ,祭司の職に任じられて祭司となった」。(民数 3:1-3,口語)エホバ神とイスラエル国民の仲介者であるモーセはその兄アロンに油をそそいで大祭司にしましたが,そのことには模型的な意味がありました。それは神が,バプテスマを受けて水から上がって来たご自分のみ子イエスに聖霊をもって油をそそがれたことを模型的に表わしていました。

      55 バプテストのヨハネは,レビ族の祭司,すなわちアビヤの祭司の組のゼカリヤの子でした。しかし,ヨハネはヨルダン川でイエスに単にバプテスマを施したにすぎません。イエスに油をそそいで,彼を霊的な大祭司にしたわけではありません。(ルカ 1:5-17; 3:21-23。マルコ 1:9-11)神だけが聖霊をもってイエスに油をそそぐことができました。

      56,57 (イ)バプテストのヨハネは,何を行なう権限がイエスに与えられるということを述べましたか。(ロ)イエスはご自分の弟子たちのもとを去る前に,聖霊によるバプテスマについて彼らに何と語りましたか。

      56 バプテストのヨハネはかつてイエスに関してこう言いました。「わたしの後にわたしより強いかたが来られます。わたしはかがんでそのかたのサンダルの締めひもをほどくにも価しません。わたしはあなたがたに水でバプテスマを施しましたが,そのかたはあなたがたに聖霊でもってバプテスマを施すでしょう」。神はヨハネにその人が来ることを告げておられました。ヨハネはこう述べているからです。「わたしも彼を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すべくわたしを遣わしたそのかたが,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました」。(マルコ 1:7,8。ヨハネ 1:33)それでイエスは聖霊で油をそそがれて霊的な大祭司になっただけでなく,また他の人びとに聖霊でバプテスマを施す権限をも与えられました。しかし,イエスはいつ聖霊でバプテスマを施すのでしょうか。それは完全な人間の犠牲として死ぬ以前ではありません。

      57 死人の中から復活させられた後,イエスはなおエルサレムに留まっていたご自分の弟子たちに,化肉して現われました。その時,聖霊について弟子たちに何を告げましたか。使徒 1章4,5節はこう述べています。「そして,彼らと会合しておられる時に,この命令をお与えになりました。『エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネはたしかに水でバプテスマを施しましたが,あなたがたはこれから幾日もたたないうちに聖霊でもってバプテスマを施されるからです』」。

      58,59 (イ)そのバプテスマはいつ行なわれましたか。その日,大祭司が神殿で行なったことを,イエス・キリストはどのようにして対型的な仕方で成就しましたか。(ロ)そこでヨエルのどんな預言が成就しはじめましたか。ペテロはイエスをそのこととどのように結びつけましたか。

      58 このことはイエスが昇天して10日目に生じました。それは西暦33年のシワン6日,七週の祭り(あるいはペンテコステ)の日でした。その日,エルサレムの神殿ではユダヤ人の大祭司が小麦の収穫の初穂としてパン種の入ったパン2個を神に捧げました。(レビ 23:15-21)その同じ日に,天の大祭司イエス・キリストは対型的な仕方で,神への初穂としてクリスチャン会衆をエホバ神に捧げました。(啓示 14:4)イエスはそのことを,エルサレムで待機していたご自分の弟子たちに聖霊を注ぐ経路として仕えることによって行ないました。それはヨエル書 2章28,29節の預言の成就の始まりとなりました。霊に満たされた使徒ペテロはそのことを説明し,何千人ものユダヤ人の傍観者たちに次のように言いました。

      59 「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです。実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:14-21,32-36。

      60 イエスがこうして聖霊を注いだことは,西暦前1512年,ニサン1日におけるモーセの活動によってどのように予表されていましたか。

      60 こうしてイエス・キリストはご自分の忠実な弟子たちに聖霊でバプテスマを施しました。このことは遠い昔,西暦前1512年のニサン1日に予表されていました。それはモーセがエホバのご命令を履行し,聖なる注ぎ油をもって大祭司アロンの子たちに油をそそいだ時のことでした。そのことについてはこう記されています。「〔エホバ〕はモーセに言われた。『正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて,水で彼らを洗い,アロンに聖なる服を着せ,これに油を注いで聖別し,祭司の務をさせなければならない。また彼の子たちを連れてきて,これに服を着せ,その父に油を注いだように,彼らにも油を注いで,祭司の務をさせなければならない。彼らが油そそがれることは,代々ながく祭司職のためになすべきことである」― 出エジプト 40:1,2,12-16,口語〔新〕。

      61 それら最初の4人の従属の祭司の後継者たちが油そそがれたかどうか,また大祭司の後継者が個人的に聖なる油で油そそがれたかどうかについては何といわねばなりませんか。

      61 こうしてアロンの4人の子たちは,イスラエルの最初の従属の祭司として油をそそがれました。しかしその後,彼らの後継者たちは従属の祭司としてその職につけられるさい,聖なる注ぎ油で個人個人油をそそがれるということはありませんでした。従属の祭司の正装を着用させるだけで十分と考えられました。最初の4人の従属の祭司たちは,他の祭司たちを代表して油をそそがれたのです。しかし,大祭司アロンの後継者はおのおの個人的に油をそそがれました。(民数 3:1-3。出エジプト 29:29,30。民数 20:23-29。申命 10:6)とはいえ,イスラエルの祭司全員は,最初の成員が油をそそがれたことにより,油そそがれた一つの級とみなされることになりました。

      62 地上のご自分の弟子たちに油をそそぐべく用いられることにより,イエス・キリストは彼らをご自分の下で仕える何にしましたか。啓示の書のヨハネのことばはこの事とどのように一致していますか。

      62 対型的成就においては,天のイエス・キリストは神の代表者として行動し,14万4,000人の忠実な弟子たちに聖霊をもって油をそそぐことにより,彼らを霊的な祭司,つまりご自分が大祭司としてその上に立つ従属の祭司たちにします。イエス・キリストに関して使徒ヨハネが次のように書きえたのはそのためです。「『忠実な証人』,『死人の中からの初子』,『地の王たちの支配者』であるイエス・キリスト……わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださったかたに ― そして彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである ― 実にこのかたにこそ,栄光と偉力が永久にあらんことを。アーメン」。また,こう記されています。「あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取(りました)。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」― 啓示 1:5,6; 5:9,10。

      63 使徒ペテロはその書簡により,イエスの油そそがれた弟子たちの祭司職についてどのように証言しましたか。

      63 この事実の,霊感を受けた証人がもう一人います。それは使徒ペテロです。エルサレムの神殿がローマ人によって(西暦70年に)滅ぼされ,レビ族の祭司たちが仕事を失う破目に会う数年前,ペテロは天的な希望を持つ,霊によって油そそがれたクリスチャンに次のように書き送りました。「こうした者たちはみことばに不従順なためにつまずいているのです。……しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:8,9。

      64 それで,それら油そそがれた弟子たちは古代の「会見の天幕」によって模型的に表わされたどんな状態に入っていますか。そのような状態にあって彼らはイエスのようにどんな特権を享受していますか。

      64 彼らが今や祭司であるということは,人手によってではなく,エホバ神によって立てられた「真の天幕」もしくは神殿に関連して新しい立場にあることを意味しています。それは彼らが今や,モーセの立てた古代の「会見の天幕」の聖所と呼ばれる仕切り室で模型的に表わされた,霊によって生み出された祭司としての状態に入ったことを意味しました。それは,聖霊で油をそそがれた時から,完全な人間として死ぬ時に至るまでの大祭司イエス・キリストの場合と全く同様でした。それで,肉のからだでなお地上に留まっている間,彼らはイエスのように,対型的な金の燭台から注がれるかのように霊的啓発を享受します。そして,金の食卓の上の二つ重ねの供えのパンで模型的に表わされている霊的な食物を食べ,あたかも会見の天幕の聖所の金の香壇に香をささげるかのように,祈りや熱心な奉仕を神にささげます。

      65 聖所によって表わされた状態のうちにある人たちに対して,彼らが油そそがれたことに関し,使徒ヨハネは何と書きましたか。

      65 模型的な聖所によって表わされた,霊によって生み出された状態のうちにある人たちに対して,こう記されています。「あなたがたには聖なるかたからのそそぎ油があります。あなたがたはみな知識を持っています。わたしは,あなたがたを惑わそうとしている者たちについてこれらのことを書きます。そして,あなたがたについていえば,彼から受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっており,だれかに教えてもらう必要はありません。むしろ,彼からのそそぎ油がすべてのことについてあなたがたを教えており,またそれが真実であって偽りでないように,そしてそれがあなたがたに教えたとおりに,引き続き彼と結ばれていなさい」― ヨハネ第一 2:20,26,27。

      66 聖所によって表わされた状態のうちにあるそうした人びとに対して,彼らが油そそがれたことに関し,使徒パウロは何と書きましたか。

      66 アロンの祭司たちが入って仕えることを許された聖所と呼ばれる仕切り室で模型的に表わされた,霊によって生み出された祭司としての状態のうちにある人たちに対して,さらに使徒パウロはこう記しています。「あなたがたとわたしたちがキリスト[油そそがれた者]に属することを保証してくださるかた,そしてわたしたちに油そそいでくださったかたは神です。神はまたわたしたちにご自分の証印を押し,きたるべきものの印,つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです」― コリント第二 1:21,22。

      67 キリスト教に帰依したヘブライ人に対して,祭壇のものを食べることや,犠牲をささげることについて,霊感を受けた筆者は何と述べましたか。

      67 それら14万4,000人の人たちは天の大祭司イエス・キリストのもとで仕える霊的な祭司ですから,彼らには神の「意志」という「祭壇」にささげられたイエス・キリストの犠牲を食べる権限があります。が,真のメシアもしくはキリストとしてのイエスを信ぜずに退けた者たちには,神の対型的な「祭壇」にささげられたイエスの犠牲にあずかる権限はありませんでした。霊感を受けた前述の筆者は憶測したりなどせずに,ヘブライ 13章10-15節で,キリスト教に帰依した信仰の厚いヘブライ人にこう言うことができました。「わたしたちには,天幕で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります。大祭司がその血を罪のために聖なる所に持って行く動物の体は宿営の外で焼きつくされるのです。ゆえにイエスも,ご自身の血をもって民を神聖なものとするため,[エルサレムの]門の外で苦しみを受けました。ですから,わたしたちは宿営の外に出て彼のもとに行き,彼が忍ばれた非難を忍ぼうではありませんか。わたしたちはここに,永続する都市を持っておらず,きたるべきものをせつに求めているのです。彼を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。

      68,69 (イ)彼らが祭壇のものを食べるということは,対型的にいって彼らはどんな場所にいることを示していますか。どのようにしてそこに入りましたか。(ロ)彼らがそのような立場を得ている証拠として,ローマのクリスチャンに宛てて何と書き送られましたか。

      68 それらの霊的な祭司たちは神から権限を与えられて,神の真の「祭壇」にささげられた犠牲にあずかるのですから,それは彼らもまた,犠牲をささげる銅の祭壇の設置された中庭で表わされた状態のうちにあることを意味しています。それは,犠牲としてささげられたイエス・キリストに対する信仰によって神により義と認められた,あるいは義とされた状態です。大祭司イエス・キリストがご自身の犠牲の「血」の価値を携えて,天の至聖所に入り,それを直接エホバ神に捧げたとき,その時,つまり西暦33年のペンテコステの日以降,イエスの完全な人間としての犠牲の恩恵は地上にいた弟子たちに,彼らの信仰ゆえに適用され始めました。彼らは感謝の心を抱き,信仰によって,神の意志に基づいてささげられたキリストの犠牲にあずかりました。こうして彼らは,自分たちの罪の許しを得ました。彼らにそうした許しを与え,またそうすることによって彼らを肉において罪のない者とみなすことにより,神は彼らを義と認め,あるいは義としました。そのようにして,神は彼らを対型的な中庭に導き入れられました。彼らがこのような立場にあるということの証拠として,こう記されています。

      69 「わたしたちは,わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じて頼ってい(ます)。イエスはわたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです。それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。このキリストを通して,わたしたちは,自分たちがいま立つこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました。それで,神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜しようではありませんか。それゆえ,わたしたちは彼の血によって今や義と宣せられたのですから,まして彼を通して憤りから救われるはずです」― ローマ 4:24から5:2,9。

      70 (イ)彼らがなお肉のからだで留まっている時でも神のみ前では有罪の宣告を受けた状態にはないことをさらに確証するものとして,ローマ人への手紙には何と記されていますか。(ロ)彼らは自分たちの側で何らかの犠牲をささげることによって,キリストの犠牲の価値に何かを加えることができますか。

      70 それら霊的な従属の祭司たちはなおこの地上にいる間,神により肉において罪のない者,有罪の宣告を受けていない者とみなされていることをさらに確証するものとして,こう記されています。「わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです! こうして,わたし自身[使徒パウロ]は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです。こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。キリスト・イエスと結びついた命を与える霊,その霊の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです」。(ローマ 7:25から8:2)罪に苦しめられる不完全な肉のうちになお留まっている間,有罪宣告を受けずに神の前で彼らが得ているこの義の立場こそ,アロンの祭司たちの仕えた,犠牲をささげる銅の祭壇の置かれた昔の中庭で表わされていたものなのです。彼らは自分の肉身を犠牲にしても,罪のためのキリストの犠牲の価値に何をも加えることはできません。彼らがキリストを通して「賛美の犠牲」とキリストの教旨にかなった善行とをささげるのはそのためです。彼らは,ある教会で「ミサの犠牲」と呼ばれるものを用いる式を執り行なうことが全く無価値であることを悟っています。

      71 (イ)こうして義と認められるクリスチャンはまた,対型的にいってどんな場所に入っていますか。(ロ)何が彼らを天の至聖所から隔てていますか。そこに入る道をだれが彼らのために切り開きましたか。

      71 義とされたことを表わす長服を着た,それら従属の祭司たちはまた,なお肉のからだで地上にいる間,模型的な天幕もしくは神殿の聖所と呼ばれる仕切り室で表わされていた,霊によって生み出されたあの状態に入っています。しかし彼らは,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,神ご自身が王座についておられる天の至聖所に入る希望を抱いています。今や彼らがあの真の至聖所に直接入るのを妨げているのは,肉の障害物,つまり彼らがなお肉のからだで生きていることなのです。その肉の障害物は,契約の金の箱がシエキナの光を伴って置かれていた天幕の至聖所から,聖所と呼ばれる仕切り室を仕切っていた奥の幕によって表わされていました。イエス・キリストは『幕を経て』真の至聖所に入る道を彼らのために切り開きました。イエスは彼らのために「前駆者」として「幕の内側」の至聖所に入りました。(ヘブライ 6:19,20)それで,イエスは天的な命に入るこの新しい道を設けられたのです。

      72 14万4,000人の従属の祭司たちは,何に入るのにふさわしい者であることを証明するよう勧められていますか。どのように勧められていますか。

      72 したがって,それら14万4,000人の霊的な従属の祭司は,肉体で死を遂げて死人の中から霊の命に復活させられるに至るまで忠実を保つことにより,「幕の内側」に入るにふさわしい者であることを証明すべく勇敢に努力するよう命じられています。霊感を受けた筆者はヘブライ 10章19-22節でこう述べています。「それゆえ,兄弟たち,わたしたちは,イエスの血によって聖なる所へ入る道を大胆に進むことができるのですから(それは,幕すなわち彼の肉体を経る新しい生きた道として,彼がわたしたちのために開かれたものなのです),そして,わたしたちには,神の家の上に立つ偉大な祭司がいるのですから,信仰の全き確信のうちに,真実の心をいだいて近づこうではありませんか」。

      73 肉の障害物を通過する霊的な従属の祭司たちは何に入りますか。それは何をするためですか。

      73 彼らは霊的な従属の祭司として地上での自分たちの任務を死に至るまでも忠実に果たした後,「第一の復活」によって命によみがえらされるとき,彼らは肉の障害物つまり対型的な「幕」を通過することになり,そして天の至聖所に入り,生ける神の言語に絶した栄光を見ることを許されるのです。彼らは神のみ前に入ります。それは,大祭司イエス・キリストのように完全な人間としての犠牲の価値を捧げるためではなく,自分たちの大祭司とともに奉仕し,困窮している人類にキリストの犠牲の恩恵を及ぼすためです。(啓示 20:6)天の祭司職は千年間遂行されるとはいえ,彼らは自分たちの後継者として仕える者を必要とはしません。彼らは自分たちの,栄光を受けた大祭司と同様,「滅びることのない命の力」を持ち,後継者なしに一千年の期間,自分たちの祭司職を十分に果たすことができるのです。―ヘブライ 7:16,24。

      同情を示す,理解のある祭司たち

      74 (イ)キリストのなだめの犠牲は,14万4,000人の者たちが何を得る道を開きましたか。(ロ)その犠牲は,キリストの祭司職を伴う千年間を人類にとって祝福された時とします。なぜですか。

      74 死にゆく,罪深い人類にとって,このような天の祭司職を伴うその千年間は,どんなにか祝福された時となるでしょう。その祭司職の大祭司は単にご自分の14万4,000人の従属の祭司のためだけでなく,全人類のためにも完全な犠牲を神にささげられたのです。それら霊的な従属の祭司の一人としてヨハネは19世紀前にこう書きました。「わたしの子どもらよ,わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。(ヨハネ第一 2:1,2)イエス・キリストのなだめの犠牲は,14万4,000人の従属の祭司が罪と,罪がもたらした死に定められた状態から解放され,彼らの大祭司とともに天で永遠の命を得る道を開きました。その同じなだめの犠牲は全人類に益を与え得る十分の価値を伴うものです。それは世の罪のための犠牲です。バプテスマを受けたイエス・キリストをさし示してバプテストのヨハネが叫んだとおりです。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」―ヨハネ 1:29。

      75 (イ)地上にいる14万4,000人の従属の祭司を助ける能力をキリストが持っておられることは,ほかにだれを助ける能力があることを保証していますか。(ロ)患難を生き残る大群衆のほかにだれがキリストの犠牲の価値の恩恵にあずかりますか。

      75 大祭司イエス・キリストはご自分の14万4,000人の従属の祭司の会衆が罪を克服して,罪のもたらした死に定められた状態から救済されるよう助けることができました。イエスは,人類の残りの者たちすべてに対しても同じことを行なえます。神に対する正しい良心を抱いて喜んで永遠の命を求める人びとに対しては特にそうです。キリストは千年の間そうする機会を持ちます。彼は喜んでそうしますし,またそうしたいと願っておられます。「メルキゼデクのさまにしたがう」ご自分の一千年にわたる祭司職の務めをし損じることは絶対にありません。その時,生きている人たち,つまりこの事物の体制の終わりを伴う大患難を生き残り,その患難から出て来る「大群衆」だけでなく,もっと多くの人びとを助けます。現在,地上の墓で死の眠りについている何十億もの数え切れないほどの人びとをも助けるのです。(テモテ第二 4:1。啓示 7:9-15。使徒 24:15)ご自分の完全な人間としての犠牲の貴重な価値を幾らかでも,困窮している人たちのために用いずに,適用せずにすますことはありません。

      76,77 (イ)地上で試練に遭ったとき,イエスは人びとに対してどのように振る舞われましたか。それは,イエスが一千年の期間祭司の務めを行なうさいの人類の取り扱い方に関して何を保証しますか。(ロ)それでイエスは,試練に遭う人たちをさらによく助けることができます。なぜですか。

      76 「わたしたちがまだ罪人であった間にキリスト(は)わたしたちのために死んでくださった」のです。(ローマ 5:8)このことは,わがままなアダムとエバから罪と死を受け継いだ堕落した人類に対してキリストが同情を示す,憐み深い,自己犠牲の態度をいだいておられたことを立証しました。33年半地上にいた彼は親切で,辛抱強くて,思いやりがあり,人を助け,また理解がありました。彼自身人間でしたし,誘惑にも遭ったので,人間のことを理解できました。また,それゆえにこそ,不完全で,罪に悩まされる人類がどのような取り扱いを受けることを必要としているかをいっそう深く認識できました。カルバリで刑柱につけられ,罪なくして死を遂げる時でさえ,誤導された人びとの悪口やののしりのことばを甘んじて受けました。さて,地上におられた時,最悪の状態のもとでそのように振る舞われたのであれば,一千年の期間人類に対して祭司の務めを行なうさいにも,全く同様に振る舞われることを確信できます。これこそ,霊感を受けた筆者が次の節で述べている心暖まる論議なのです。

      77 「実に,彼はみ使いたちを助けているのではなく,アブラハムの胤を助けているのです。そのために,彼はすべての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。神にかかわる事がらにおいてあわれみ深い忠実な大祭司となり,民の罪のためになだめの犠牲をささげるためでした。彼は,自分自身が試練に遭って苦しんだので,試練に遭っている者たちを助けに来ることができるのです」― ヘブライ 2:16-18。ヘブライ 5:1,2と比べてください。

      78 ヘブライ 5章7-10節は,イエスが清い崇拝のため,またわたしたちのために何を経験されたことを示していますか。

      78 イエス・キリストが神の清い崇拝のため,またわたしたちのために,ご自分が目的を達成する申し分のない大祭司であることを地上で実証するため何を経験されたかについて,ヘブライ 5章7-10節はわたしたちのために簡潔にこう述べています。「キリストは,肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできるかたに,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬神の恐れのゆえに聞き入れられました。彼はみ子であったにもかかわらず,苦しんだ事がらから従順を学ばれました。そして,完全にされたのち,自分に従う者すべてに対し,永遠の救いに責任を持つ者となられました。彼は,はっきり神によって,メルキゼデクのさまにしたがう大祭司と呼ばれているからです」。

      79,80 (イ)「滅びることのない命の力」を持っておられるゆえに,キリストは祭司職につく一千年の期間,人類のために何を行なうことができますか。(ロ)律法によって生み出された祭司職とは対照的に,神の誓われた誓いはどんな祭司職を生み出しましたか。

      79 キリストは「滅びることのない命の力」を持っておられるゆえに,一千年にわたるご自分の祭司職の務めを,神に誉れをもたらす結末に至るまで後継者なしに遂行することができます。そして,罪とその恐るべき刑罰である死が完全に除去される時に至るまでずっと人類を助けることができます。アロンの大勢の歴代の祭司たちが聖なる奉仕を行なってきた1,500年余の期間に決してなし得なかった事をキリストは行なえます。それはヘブライ 7章23-28節に記されているとおりです。

      80 「さらに,祭司の職にとどまることを死によって阻まれるため,多くの者が次々に祭司とならねばなりませんでしたが,彼は永久に生き続けるので,後継者を持たずに自分の祭司職を保ちます。それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです。このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼は,あの大祭司たちがするように,まず自分自身の罪のために,ついで民の罪のために,日ごとに犠牲をささげる必要はありません。(彼はご自身をささげた時,そのことをただ一度かぎり行なわれたからです。)律法は弱さを持つ人たちを大祭司として任命しますが,律法ののちに来た,明言された誓いのことばは,永久に完全にされたみ子を任命するのです」。

      81 (イ)14万4,000人の従属の祭司はなぜ人類に対して同情や理解を示すことができますか。(ロ)「滅びることのない命の力」を持つことによって,彼らは何を行なえるようになりますか。

      81 そして,千年の間「神およびキリストの祭司」となる14万4,000人の霊的な従属の祭司についてはどうですか。(啓示 20:6)神は彼らを「み子の像にかたどったものとする」ことをあらかじめ定められました。(ローマ 8:29)彼らもまた,人間の男女として,しかも反抗的なアダムとエバから生を受けたゆえに罪深くて不完全で,気質の悪い者として生まれ,成長しました。ですから彼らは,弱くて罪深い人間であるとはどういうことかを知っています。ゆえに彼らもまた,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,死んでゆく罪深い人類に対して同情や優しい気持ちを示すことができます。霊的な従属の祭司として依然地上にいた時分,彼らはそうした態度を取りました。では,「第一の復活」にあずかって天的な従属の祭司となる時にも,全く同様の態度を取るでしょう。彼らは自分の仕事を未完成のまま残して残念に思いながら死なねばならないなどということはありません。かえって,「滅びることのない命の力」を持つことにより,彼らは自分たちの大祭司に加わり,また遅れずについて行って,罪を取り除くわざを遂行し,完成させることができます。どんな結果がもたらされますか。人類の中の,喜んで答え応ずる人はすべて,罪のない人間としての完全性を取り戻します。

      82 啓示 21章4節は,一千年間にわたってその祭司制度によって成し遂げられる,畏怖の念を起こさせる業績をどのように描写していますか。神は再び,どんな宇宙を所有されますか。

      82 狡猾な政略を弄せずに,一千年間にわたってこの祭司制度によって成し遂げられる,畏怖の念を起こさせる業績は,次のような驚くべき言葉でわたしたちのために描写されています。「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)そうです,『死を生み出すとげ』である罪はなくなります! 自己本位の最初の人間の二親から受け継いだ,人類の罪深い状態は,神を辱しめる,その悲しむべきあらゆる結果もろともに一掃されてしまいます。いと高き神エホバは再び,清くて,無垢の,聖なる宇宙を所有されるのです。

  • 千年間仕える審判者たちに期待できる事がら
    神の千年王国は近づいた
    • 7章

      千年間仕える審判者たちに期待できる事がら

      1 ヨハネが見た数々の王座に座した者たちには何が与えられましたか。

      ほとんど信じがたい驚嘆すべき事がらが間もなくもたらされる千年の期間に関して自分が先見したことを述べた,霊感を受けた使徒ヨハネはこう記しました。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた」― 啓示 20:4。

      2 ここで持ち出されている「裁き」のことを考えると,さもなければ明るい光景から,明るさが奪われがちなのはなぜですか。

      2 それは裁きを行なう権限を与えられた者たちの占める「座」でした! それは希望に満ちた,慰めを与える光景ですか。それとも,さもなければ,きたるべき千年期の中の千年期に関する明るい描写に陰うつな影を投げかけるものですか。使徒ヨハネ自身はそうした光景をどう考えましたか。わたしたちは今日それをどう見るべきでしょうか。今日,わたしたちはキリスト教世界で行なわれている司法制度に対してさえ,ひどく失望しているのではありませんか。司法官の資格を持ち,「神々」のようでありながら,自らの職責に対して不誠実になる人びとに関する預言である詩篇 82篇5節のことばは,今日,かつてないほど適中しています。『かれらは知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり』。ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこの聖句をこう訳しています。「彼らは無知で,無分別で,盲目的に振る舞い,地的な社会の基そのものをむしばんでいる」。

      3,4 (イ)しかし,そのすぐ前にヨハネが見た事がらから考えれば,それらの座に関する情景はどんな気持ちをいだかせるものですか。(ロ)不当な裁きを受けてきた人類が,それら「数々の座」に救済を期待するのは,なぜ適切なことですか。

      3 今日,人類は確かに,気持ちを和らげるものを欲しています! そして幸いにも,使徒ヨハネがそれら裁きの「座」に関して見たのは,暗たんたる不安の念を引き起こすものではなくて,わたしたちの気持ちを大いに和らげるものでした。ここで,ヨハネが預言的な幻の中で,天の王の王と,「地の王たち」とその「軍勢」および世界的な政治機構との間の戦いを予見したことを思い起こしてみましょう。それらの王たちとその地上の支持者たちは敗北を喫し,滅ぼされました。その結果,王座つまり政治支配者が裁きを行なう権威の座は空席となりました。その後直ちに,使徒ヨハネは,神の使いが地の近辺に下ってきて,悪魔サタンとその悪霊たちを鎖で縛り,彼らを底知れぬ所に投げ込んで,そこに神の封印を施し,そのもとに彼らを千年間幽閉するのを見ました。―啓示 19:11から20:3まで。

      4 悪魔の支配する事物の体制のそうした滅びは確かに,人間を裁く裁判官の地位の変化を求めるものとなりました。人類に対する天的な監督権が,「忠実かつ真実と称えられ……義をもって裁きまた戦(って)」勝利を収めた,王の王の手にすでに渡されたのですから,特にそうです。(啓示 19:11-16)次いで,物事の当然の成り行きからすれば,新たな裁きの座が生じます。神の権威によって天に確立されるそれら新たな裁きの座を占める者と予想できるのは,より優れた一団の審判者にほかなりません。その後,不当な支配や,不当な裁きを受けてきた人類は司法上の不正からの救済を期待できるでしょう。

      5,6 裏切られる前に,イエスが11人の忠実な使徒たちに述べたことばによれば,それら「数々の座」を占める審判者とはだれですか。

      5 人類の上に立つその新たな一群の審判者とはだれのことですか。そうした審判者になる見込みのある人たちを代表した一群の者たちに対するイエス・キリストの言葉は,だれがその天的な審判者の一群に属しているかを示しています。

      6 裏切られて捕えられ,エルサレムの最高法廷で不当な審理を受けた夜,イエスは忠実を保っていた使徒たちにこう言われました。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)それら忠実な使徒たちは,イエス・キリストによって天の王国のための契約に入れられて裁きの座につく14万4,000人のうちの主要な人たちでした。(マタイ 19:27,28)もちろん,それら14万4,000人の仲間の審判者の上に立つのは,主宰審判者イエス・キリストです。

      7 アテネのアレオパゴス法廷で述べたパウロのことばによれば,人の住む地は神の定められた時にどのように裁かれますか。

      7 ここで思い出されるのは,西暦51年ごろアテネのアレオパゴス法廷に出頭させられた使徒パウロの語った言葉です。「他の人たち以上に神々への恐れの念を厚くいだいて」いるように見えた同法廷の裁判官に自分の立場を説明したパウロは,最後にこう言いました。「たしかに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。(使徒 17:22-31)それで,人の住む地は「義をもって」裁かれますし,神が裁きを行なうさいに用いられる主要な者は,復活させられたそのみ子イエス・キリストです。

      8,9 (イ)この任命された審判者はどのようにして,人間の裁判官が行なえなかったような仕方で人類を裁くことができるのでしょうか。(ロ)ヨハネ 5章27-30節に記されているイエスの言葉によれば,イエスはどのようにして,すべての人が必ず裁きを受けられるように取り計らわれますか。

      8 仲間の宣教者テモテに最後の手紙を書き送った使徒パウロは,裁きを行なうべく任命された方を名指してこう言いました。「神のみまえ,また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみまえにあって,またその顕現と王国とによって厳粛に命じます」。(テモテ第二 4:1)神により任命されたこの審判者は,地上の人間の裁判官がかつて行なわなかった,あるいは行なえなかったような仕方で司法官として行動します。彼は単に生きた人間だけでなく,それ以外の者をも,つまり死んだ人間をも裁きます。人間によって任命された,単なる人間の裁判官は死者を呼び戻して裁くことはできません。しかし,神により任命されたその審判者は,そうすることができます。そして,それら死人はそうした裁きを受けるには死者の中から連れ戻されねばならないにしても,一千年の期間のその裁きにあずかります。「生きている者」はもとより,それら死者には,キリストの犠牲の死によってそうした裁きにあずかる権利があるのです。イエスの次の言葉に注目してください。

      9 「父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の欲する者を生かす(の)です。父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。それは,すべての者が,父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は,それを遣わされた父を尊んでいません。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです。このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が[父から]聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」― ヨハネ 5:21-23,27-30。

      10 (イ)そのような裁きを行なうために,その審判者は死人を何から解放しますか。(ロ)どんな行為がそうした解放をもたらしますか。それで,復活の目的に関してどんな疑問が生じますか。

      10 考えてみてください! 地上では人の子として知られていたこの審判者は,記念の墓のそれらすべての死人を解放することによって,一千年にわたる審判者としてのご自分の務めを飾るのです。一千年にわたる裁きの日は,記念の墓にいる者すべての復活の日となります。人の子はそれらの人びとのために完全な人間の犠牲として死なれたのです。それは,「第一の復活」つまり天的復活にあずかる14万4,000人の共同の審判者以外の買い戻された人類のすべてを意味しています。(啓示 20:4-6)さて,葬られた死者を解放するこの愛ある行為,つまりこの地的復活は,復活させられる人たちを害する目的で行なわれるものと考えるべきでしょうか。愛ある行為は,その行為の対象となる人に害をもたらすためになされるものでしょうか。わたしたちが言いたいのは次の点です。つまり,この復活は義とみなされる人たちだけでなく,比較的にいって「不義」者と呼ばれる人びとのためにも行なわれるのです。「義者と不義者との復活がある」のです。(使徒 24:15)義者については心配がいりませんが,不義者についてはどうですか。

      11 (イ)「不義者」を復活させる目的に関してはどんな疑問が生じますか。(ロ)イエスに好意を示して死んだ悪行者の例は,この問題とどのような関係を持っていますか。

      11 「不義者」はいかめしい過酷な審判者に面と向かって,自分たちの過去の不義の行ないすべてを再び詳しく聞かされ,そのようにして,完全な滅びの宣告を受ける理由を聞かされる,ただそれだけのために過分の親切を示されて復活させられるのでしょうか。もしそれが彼らの場合の目的だとすれば,それら「不義者」にとって復活にはどんな実際的価値があるのでしょうか。それは,カルバリでイエス・キリストの傍らの刑柱に掛けられながら,イエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と語った,あの一方の「悪行者」のような不義者を復活させる目的ですか。彼はイエスに向かってそうした好意的な言葉を述べたからといって,悪行者から聖人に変わったわけではありません。イエスはその悪行者に慰めを与える返事をしましたが,だからといって,復活させられたイエスがご自分の人間としての犠牲の価値を捧げるために天のみ父のみ前に昇った時よりも42日も前に,すでにその悪行者が信仰によって義と認められ,あるいは義とされたわけではありません。(ルカ 23:39-43)その男の人は罪に定められた悪行者として依然死んだままであり,よみがえらされることになっている「不義者」のひとりとして数えられねばなりません。

      キリスト教時代以前の審判者たち

      12 「不義者」はもとより,「義者」は,復活によって記念の墓から解放される以上のことを必要としています。なぜですか。

      12 「義者」と呼ばれる人たちはもとより,「不義者」と呼ばれる人たちにとって,死人の復活は何を意味していますか。そのすべては,不従順なアダムとエバから罪とその刑罰である死を受け継いだゆえに死にました。ですから,彼らはみな,自らは何ら義にかなったものを持たずに死にました。(ローマ 5:12; 3:23)それで,彼らが個人的な性格の点では変わらずに,復活によって戻って来るとき,「義者」でさえ,人間としては完全ではありません。つまり,不完全さや罪深い状態から解放されてはいません。このことは,預言者エリヤやエリシャ,また主イエス・キリストやその使徒たちが復活させ,地上で生きかえらせた人たちにも当てはまります。(ヘブライ 11:35)このことからすれば,「不義者」と全く同様,「義者」も,死人の中から復活させられて記念の墓から解放される以上の事を必要としていることがわかります。「義者」もまた罪深い状態と人間としての不完全さから解放される必要があります。したがって,天の審判者イエス・キリストは,彼らがほんとうに潔白で,完全で,罰すべき罪深いところのない者であると直ちに宣言し,また彼らは地上で永遠の命を受けるにふさわしい者であるとの判決を,その復活当日に下せるわけではありません。

      13 (イ)神はなぜ,人類の審判者となるイエス・キリストのために千年の期間を指定されたのですか。(ロ)神の千年期の審判者に期待すべき事がらに関して,「士師記」は何を示していますか。

      13 もし審判者の責務が,復活させられた「義者」と「不義者」が審判者の前に現われる日に判決を下すことだけに限られているとすれば,人類のための審判者として仕える者になぜ千年の期間が指定されているのでしょうか。それほどの長い期間は,なすべき仕事のためにこそ指定されるものであって,単に評決や宣告を発表するためだけに指定されるものではありません。聖書の中では,神がキリスト教時代以前のご自分の選民のための審判者として起こした人びとは,単に個人間の争いを解決したり,裁判判決を下してそれを執行したりする以上のことを行ないました。神の立てられたそれら「士師」は,神の選民の救出者でした。聖書中には,特に「士師記」と呼ばれる書がありますが,それはたいへん感動的な記録の書です。そこには,『天下を裁く者』であられる神が虐げられたご自分の民を救い出すために起こした人びとの果敢な偉業が記されています。では,神が苦しめられているご自分の民のための裁きを執行させるべく審判者を起こされた時に始まった裁きの日を歓呼して迎えてください!

      14 士師であったエホデやバラクについて読んで知っていることを簡単に述べなさい。

      14 単身で赴き,異常に肥えたモアブ人の王エグロンをその会議室内で殺し,次いで逃れてイスラエル人を組織し,やがてモアブ人の圧制者たちに対する勝利を得させることにより,士師として勤め始めたエホデのことを,わたしたちは読んで知っています。車輪に鉄の鎌を取りつけた戦車900両を備えて自分の軍隊を恐るべきものにしたカナンの王ヤビンの強力な軍勢を打ち破ることによって,イスラエル国民の士師として自分が選ばれたことを証明したバラクのことも,わたしたちは読んで知っています。

      15 同様に,ギデオンやエフタについてはどんなことを読んで知っていますか。

      15 次いで,神に対する信仰を持つ,わずか300人の男子を率いて,おびただしいいなごのようにイスラエルの地に殺到したミデアン人や東方の民を敗走させた,謙虚な人,ギデオンがいます。真夜中のこと,寝静まった敵の陣営をほとんど包囲したギデオンとその300人の兵は,手にしたつぼを一斉に地面に投げつけて砕き,たいまつを高々と掲げ,ラッパを吹き鳴らし,「エホバの剣 ギデオンの剣」と叫びました。敵の陣営は突如混乱し,恐慌状態に陥り,人びとは逃走し,また互いに殺し合いました。そして,ギデオンとその300人の兵は,生き残った者たちを追跡しました。その後,多くの年月が経ち,約束の地がまたもや危機に見舞われたとき,エホバは家を追い出されたエフタを起こして,横柄なアンモン人に立ち向かわせました。神のために尽くそうとするエフタの熱心は非常に熱烈なものだったので,もし勝利が与えられたなら,わが家に戻った時,何であれ最初に自分を迎え出たものを犠牲として神にささげる旨,自ら誓いを立てました。勝利を得て意気揚々と帰って来た彼を最初に出迎えたのはその独り子,つまり彼の娘でしたが,エフタはその娘を神への奉仕にささげて,神への献身のほどを示しました。

      16,17 (イ)サムソンはイスラエルの士師としてどのように仕えましたか。(ロ)霊感を受けた筆者は士師についてヘブライ 11章32-34節で何と述べていますか。

      16 それにしても,二親に対して誕生が予告され,また肉体的にいって,かつて地上に現われた最も強い人間となったサムソンの話を聞いたことのない人がいるでしょうか。彼は終始独りで自分の民を圧制的なペリシテ人から救い出しましたが,ペリシテ人に捕えられて盲目にされた彼は最期の日に,ペリシテのガザにあるダゴンの神殿を三千人余の祝い客の上に倒壊させ,そのようにして彼はそれまでの生涯中に殺した以上の多くのペリシテ人を,自ら死を遂げたその日に殺しました。

      17 霊感を受けたクリスチャンの筆者は,神に対する信仰を抱いて勝利を得た人たちの中にそれら士師を含めて,ヘブライ 11章32-34節でこう述べています。「そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」。

      18,19 (イ)約束の地に定住した後,イスラエル民族に臨んだ苦悩に関しては,だれにその責任がありましたか。(ロ)なぜ彼らのために次々に士師を起こさねばなりませんでしたか。

      18 もちろん,それら士師の時代にイスラエル民族が敵の手によって苦しめられたことに対しては自分たちに責任がありました。なぜなら,彼らは生ける神エホバの清い崇拝から逸脱したからです。しかし,彼らが誠実に悔い改めてエホバの崇拝に戻ったとき,エホバは彼らに恵みを示されました。士師 2章16-19節に述べられているとおりです。

      19 『エホバ士師を立てたまいたれば かれらこれを掠むるものの手よりすくい出したり 然るにかれらその士師にもしたがはず反りてほかの神を慕いてこれと淫をおこない これにひざまずき 先祖がエホバの命令に従いて歩みたるところの道を頓に離れ去りてそのごとくには行なはざりき かれらのためにエホバ士師を立てたまいし時にあたりては エホバつねにその士師とともにいまし その士師の世にある間はエホバかれらを敵の手よりすくい出したまえり こはかれらおのれを虐げくるしむるものありしを呻きかなしめるによりてエホバこれを哀れみたまいたればなり されどその士師の死にしのち またそむきて先祖よりもはなはだしく邪曲を行ない ほかの神にしたがいてこれに仕え これにひざまずきておのれの行為をやめず その頑固なる路を離れざりき』。

      天の不滅の審判者たち

      20 (イ)人類は一千年の期間中,かつてのイスラエルの士師の時代のように,再三取り残されることはありません。なぜですか。(ロ)患難を生き残る「大群衆」でさえ,さらに救い出される必要があるのはなぜですか。

      20 しかし,その同じエホバ神が審判者として起こしたイエス・キリストとその14万4,000人の仲間の司法官は,たとえ悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられて地の近辺から除かれても,次々に死んで地上の住民だけを残すということはありません。「滅びることのない命の力」を持っているので,彼らはすべて,司法官としての千年の任期いっぱい続けて奉仕します。彼らは単に王座に座して判決や裁定を下すだけでなく,昔エホバの是認を得た忠実な士師が行なったのと同様,救出者として行動します。神の保護を受けて「大患難」を生き残り,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられた後も生き続ける「生きている者」たちでさえ,さらに救い出されることをなお必要としているのです。それらの人びとは神のみ前における義の立場ゆえに,地上で守られて一千年の裁きの日に生きて入りますが,彼らの場合,自分たちが救い出される必要のある事がらがほかにもまだあります。それは何ですか。それはこの事物の体制が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に投げ込まれるさい,彼らがずっと守られながら,同時に,携えてきた罪深い状態,不完全さ,弱さ,また死に赴く状態などです。

      21,22 (イ)死んだ人間は復活させられるとき,さらに救い出される必要があります。なぜですか。(ロ)ヨブやダビデのように,ある人びとは復活させられるとき,どんな理由で「義」とみなされますか。

      21 同様に,記念の墓から生き返らされる必要のある「死んだ者」の場合も,死の眠りから覚めるとき,「義」あるいは「不義」の者とみなされるかどうかにはかかわりなく,彼らはすべて,罪深い状態,欠点,欠陥のある状態,人間的弱さ,死に向かう傾向などから解放されねばなりません。だれかが「義」とみなされるからといって,人間的また倫理的見地から見て当人が完全な肉身の人間だという意味ではありません。とはいえ,神の目に義とされるということは,そのような人はウヅの地の辛抱強いヨブがそうであったように,神に対して忠誠を保つ男女であるという意味です。(ヨブ 2:3,9; 27:5。ヤコブ 5:11。エゼキエル 14:14,20)または,神によって裁かれることを恐れなかったエルサレムのダビデ王にも似ています。詩篇 26篇1-3,11節(新)でダビデはこう述べているからです。

      22 「エホバよ,わたしを裁いてください。わたしは自分の忠誠のうちに歩み,またわたしはよろめかないように,エホバに信頼してきたからです。エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎とわたしの心を精練してください。あなたの愛ある親切はわたしの目の前にあり,わたしはあなたの真理のうちを歩んできたからです。しかし,わたしは,忠誠のうちに歩みます。どうかわたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。

      23,24 (イ)キリスト教時代以前に忠誠を保ったそれらの人びとはどんな復活のために,不敬虔な者たちとの取引きを拒みましたか。(ロ)それらの人たちについてヘブライ 11章35-40節は何と述べていますか。

      23 不敬虔な者たちとの何らかの取引き,もしくは妥協によってエホバ神に不忠節になることを拒み,忠誠をつくして死んだキリスト教時代以前の他の人びとは,キリスト教に帰依したヘブライ人に書き送られた書の11章にその名を挙げられたり,言及されたりしている男女です。彼らはより良い地上の状態のもとで,つまりより良い政府のもとで命に復活させられることを待ち望みました。その政府のもとで,彼らは完全な平和と幸福と,生ける神への忠誠のうちに永遠に生きられるのです。ヘブライ 11章35-40節にはそのことがこう述べられています。

      24 「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人びとは,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです。そうです,ほかの人びとはあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行きめぐり,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです。彼らは砂ばくや山々,またほら穴や地のどうくつをさまよいました。しかしなお,これらの人びとはみな,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。

      25,26 (イ)それらの「義者」は復活させられるとき,なぜ裁きの日を恐れませんか。(ロ)それらの「不義者」は復活させられるとき,「義者」と比べて,どうして不利な条件のもとにありますか。

      25 それらの「義者」は人間として完全で,行ないの点で欠点のない者としてよみがえらされはしないにしても,神への忠誠のうちに死んだので,神に忠誠な者としてよみがえらされるでしょう。彼らは復活によって招じ入れられた千年間の偉大な裁きの日を恐れはしません。彼らは死ぬ以前に忠誠を培い,またそれを備えてよみがえらされるのですから,罪深い状態から完全に解放されて人間としての現実の完全な状態に向かって進歩する点では「不義者」よりも有利な立場にあります。いわば,その方向では「不義者」を少し引き離していることになります。

      26 そういう趣旨のことがこう記されています。「資力に乏しくても,忠誠のうちに歩んでいる者は,くちびるのひねくれた者,また愚かな者よりも勝っている」。また,「義人は忠誠のうちに歩んでいる。彼ののちの子たちは幸いである」。(箴言 19:1; 20:7,新)一方,死に至るまで罪深い性向や悪い習慣また悪い欲望を培った「不義者」にとって事態はもっと難しいものとなります。そうした事がらは,楽園のような地上で罪のない人間としての完全性を備えた永遠の命を獲得する競走において,彼らの歩みを妨げる障害,不利な条件,煩わしいものとなります。また,それら「不義者」の多くはこの世で,手近にあった霊的な機会や備えを利用するどころか,それを無視し,蔑視し,軽べつし,あるいはそれに反対しました。そのようなわけで,彼らは主人に対して感謝の念に欠けた,がん固な性向をいだいています。したがって,それは彼らにとっては災いとなります。イエス・キリストは悔い改めようとしなかったコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどの都市に向かって次のように告げて,その種の事例を挙げました。

      27 イエスはコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどを引合いに出して,前述のことをどのように例証しましたか。

      27 「コラジンよ,あなたには災いが来ます! ベツサイダよ,あなたには災いが来ます! あなたがたの中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。したがって,あなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたがたよりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。下ってハデスに至るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたなら,ソドムはきょうこの日に至るまで残っていたからです。それであなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 11:20-24。

      28,29 (イ)古代のニネベの人びとや南の女王はなぜイエスの当時のユダヤ人の世代を罪に定めるのでしょうか。(ロ)裁きの日には,いま有利な立場にある人びとと宗教的に不利な立場にある人びととの場合のように,物事はどのように釣合いが取られることになりますか。

      28 俗事にかかわり,目に見えるしるしを自分たちの信仰の基礎にしようとして神との関係を不純なものにしていたユダヤ人の世代に対して,イエスはこう言いました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:38-42。

      29 大勢の独善的宗教家,つまり自分たちは自らが異教徒と呼んだ者たちよりももっと義にかなっていると自負した,自己満足,自己陶酔に陥った因襲的な宗教家は,その時どんなにか驚かされるでしょう。彼らは自分たちこそ宗教的偽善者であって,自分たちの見下げていた異教徒のほうがより誠実で,もっとよく教えを聞き入れ,感謝の念がもっと厚く,無知ゆえに非難される所がもっと少ないことに気づくでしょう。宗教的にあまり恵まれていなかった人びとの誠実さや態度はその時,自分たちの機会を無関心な態度で,あるいは故意になおざりにした,特権に恵まれた人たちを罪に定めるものとなります。それで,現代の有利な立場にある人びとと不利な立場にある人との場合のように,物事は正しく釣合いを取ることになります。

      裁きの日の利点

      30,31 (イ)裁きの日には,すべての人の前に彼らの以前の状態を列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要がありますか。(ロ)律法下のユダヤ人を引合いに出すことによって,全人類に関して何が証明されましたか。

      30 「差別はない(の)です。というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからで(す)」と述べたローマ 3章22,23節のことばの真実性は,否定できるものではありません。したがって,裁きの日にはすべての人,つまり「生きている者と死んだ者」はみな,エホバ神が起こされる天の審判者たちの助けによって,裁きの日に招じ入れられるさいに身にまとっている罪や,道徳面の弱さ,また身体的不完全さなどの痕跡すべてから救い出されることを緊急に必要としています。ローマ 3章23節その他の聖句の中で包括的に述べられているとおり,証拠および証言はすべて人類にとって不利なものですから,裁きを受ける人類の前にそれを列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要はありません。神がモーセを通して与えた律法を生来のユダヤ人が守れなかったことによって,人類はだれも,恵みを受けたユダヤ人でさえも神の律法を完全に守れるものではないことが証明されました。こうして,律法のもとにあったユダヤ人のこの現実的実例により,自己弁護をする人の口はことごとく閉ざされ,人類の世は神の前にすべてが有罪とされました。それは使徒パウロが昔次のように記したとおりです。

      31 「さて,わたしたちは,律法の述べる事がらはみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するためです」― ローマ 3:19。

      32 (イ)人類は裁きの日に「二度目のチャンス」を持つかどうかについては,何というべきですか。(ロ)では,彼らが楽園の地で生き続けられるかどうかは,だれに依存していますか。なぜですか。

      32 人類は罪深いものとして生まれ,死に定められたので,一度も「チャンス」に恵まれませんでした。完全な義のわざを行ない,罪深い状態を自力で除き去って,絶対的完全の神の前で身のあかしを立てることは決してできませんでした。それで,裁きの日は,いわゆる「二度目のチャンス」を与えるものではありません。むしろ,それは,地上の楽園で人間的完全さと絶対的潔白さを伴う永遠の命を得る最初の現実の機会を人類に与えるものとなります。キリストの完全な人間の犠牲は,人類が罪から清められ,今はまだ受けられない神の全き「栄光」にまで高められる機会を備えるものですが,裁きの日はそのような機会を人類に供するものです。このことからすれば,楽園の地を永久に所有するかどうかは,裁きの日に「生きている者と死んだ者」とが何を行なうかにかかっていることがわかります。彼らの過去の記録はすでに作られたものなので,彼ら自身に善し悪しいずれの影響を及ぼすにせよ,取り消せるものではありません。裁きの日は,人類が罪との関係を今後永久に断ち,自分たちの誠実な心の願うところを行ない,成し遂げる者であることを人類に実証させる時となります。天の審判者たちはその職務につき,教えや指導を与えて彼らを助けます。

      33 裁きの日のそのような機会は,啓示 20章11-15節に象徴的なことばでどのように描写されていますか。

      33 裁きの日のそうした機会は,啓示 20章11-15節に次のような象徴的な言葉でわたしたちのために描写されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大いなる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。

      34 (イ)その箇所で描かれている復活には,「第一の復活」にあずかる人たちが含まれていますか。(ロ)その時に開かれる「数々の巻き物」には,何に関する記録は収められてはいませんか。なぜですか。

      34 この象徴的な光景は,「第一の復活」にあずかる者たち,また啓示 20章4-6節で「第二の死」に陥る恐れのない者として既に言及されている者たちとは無関係です。この光景は,復活にあずかって地上で生存する人たち,また千年の終わりになって初めて永遠の命に値する者と判定される人たちのことを示しています。その時,彼らは人間としての完全さのうちに,十分に身につけた義を示すことができるでしょう。巻き物が開かれ,その中に記された事がらに従って彼らは有利な,あるいは不利な裁きのいずれかを受けますが,その巻き物には,この事物の体制下の現在のこの世における彼らの過去の不完全で,罪深い行為すべての記録が収められているのではありません。天の審判者たちは,復活させられる個々の人びとが有罪か,あるいは無罪かを決定するために千年間を費やして,過去の人間の生活の記録をつぶさに調べる必要はありません。彼らは人類の過去についてそれほど無知,あるいは疎くはありません。それら審判者たちが特に留意するのは,人類の過去ではなくて人類の将来のことです。人類は将来のための指導を必要としているのです!

      35,36 (イ)では,それら「数々の巻き物」は何を表わしていますか。だれがその内容を知りますか。(ロ)知らなかったとして言いわけできる人は地上にはなぜ一人もいなくなりますか。

      35 ですから,それら開かれる「数々の巻き物」とは,神の代理を勤める審判者たちによって人類に与えられる新しい一連の教示や指示また命令です。こうして,それら開かれた「数々の巻き物」の内容は全人類に知らされます。それは彼らが自分たちの裁かれる規準や,自分たちの将来の行動やわざに関して何が期待されているかを知るためです。人類は無知のままに放置されることはありません。人はみな,裁きの巻き物にしたがって律法の意味するところを知らざるを得なくなります。人びとを惑わしたり,発表された律法や教示を曲げたりする悪魔サタンやその悪霊たちは,地球の近辺の見えない領域のどこにも存在しなくなります。確かに存在しなくなります。というのは,それら古い「天」はこの裁きの日のための時を定めた神の面前から逃げ去ってしまっているからです。したがって,祈祷師,霊媒あるいは透視者,天宮図を携えた占星術者はどこにもいませんし,霊応盤その他同類の悪霊崇拝と関係のある用具の売買も行なわれることはありません。新しい天のみが存在し,義を滴らすでしょう。こう記されています。

      36 『天よ うえより滴らすべし 雲よ 義をふらすべし 地はひらけて救いを生じ 義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      地上の「君」たち

      37 (イ)天の審判者たちは,それら「数々の巻き物」の内容をどのようにして人類に伝えますか。(ロ)神の律法や裁定が施行されているとき,人類はどのようにしてそのことを知りますか。

      37 目に見えない天的な審判者たちが,開かれる「数々の巻き物」の内容をどのようにして地上の住民に伝えるかは,聖書には明確に述べられてはいません。しかし,地上には神の天の王国を直接代表する人たちがいます。そのような人びとが人類の中にいることは,「新しい地」がその新しい人類社会を伴って存在していることの公式な証拠となります。悪魔サタンにより見えない仕方で支配されていた古い「地」は,神の面前から逃げ去って,滅亡以外にその占めるべき所は見いだされなくなります。法廷や弁護士や代理人そして司法制度は過去のものとなり,神の律法こそ,いまや人がそれに精通し,それによって裁かれ,また人が適用すべきものとなります。王国の地上の代表者たちが行動するとき,施行されているのは神の律法また裁定であることを人びとは知り,はっきりと理解します。

      38 天の王イエス・キリストは顕著さの点で,ご自分の地的な先祖を当てにする必要がありますか。それとも,独自の顕著さを有することになりますか。

      38 千年間の裁きの日のためのこの取決めに関する指示は,聖書の預言的な句の中に述べられています。たとえは,神の油そそがれた王,イエス・メシアまたはキリストに関する叙情詩である詩篇 45篇を取り上げてみましょう。イエス・キリストとその花嫁である会衆との天的な結婚と,その花嫁級に仕える人たちに関して預言的なことばを述べた後,その詩篇はこう語ります。「彼らは王の宮殿に入って行く。あなたの父祖たちに代わってあなたの子たちとなり,あなたは彼らを君として全地に任命するであろう」。(詩篇 45:15,16,新)もちろん,天の王イエス・キリストには顕著な先祖がいました。それらの人びとがエルサレムのダビデ王の王座に着いて仕えたかどうかは別として,聖書の記録の中にその名が列挙されています。しかし,その天の王は顕著さの点で先祖を当てにする必要はありません。完全な人間として地上におられたとき,エルサレムその他どこであれ,有形の王座に着くことを拒んだとはいえ,イエス・キリストは独自の顕著さを有することになります。

      39 領土に関して王イエス・キリストはダビデ王をさえ,顕著さの点でどのようにしのぎますか。

      39 天の王イエス・キリストは名声や誉れ,そして顕著さの点でダビデをさえ凌ぐことになります。イエスは,ダビデ王がアブラハムに対する神の約束にしたがって当時征服した領土全域の境界線のはるかかなたにまでご自分の王国を広げて行きます。(創世 15:17-21)そうです,東西,南北がそれぞれ相会する所まで,まさにこの惑星上の至る所に,つまり「全地」に広げるのです。それは,王イエス・キリストの預言的な型としての「ソロモン」に関して記されているとおりです。『神よねがわくは汝のもろもろの審判を王にあたえ なんじの義を王の子にあたえたまえ かれは義をもてなんじの民をさばき 公平をもて苦しむものをさばかん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし』― 詩篇 72:表題,1,2,8。

      40 イエスは地上で子供を設けませんでしたし,彼はまた,ダビデ王の永久相続者であるため,君となる子たちに関して,ここでどんな問題が生ずるように思えますか。

      40 しかし,ここで問題が生ずるように思えるのではありませんか。ダビデ王の子ソロモンよりもいっそう偉大で,いっそう賢明なこの王は,完全な人類家族を生み出す生殖力をその腰に有する完全な人間としてこの地上におられましたが,結婚しませんでした。では,「あなたの父祖たちに代わって」,次の点に注目してください,「あなたの子たちとなり,あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」という預言はどのようにして成就されるのでしょうか。そのうえ,天のイエス・キリストはダビデ王の永久相続者であって,「滅びることのない命の力」を持つゆえに後継者なしに,つまりあとを継ぐ子を必要とすることもなく統治してゆくのです。み使いガブリエルがマリアに向かって,その息子となるべきイエスに関して次のように語ったとおりです。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:32,33。

      41,42 (イ)14万4,000人の共同相続者は,地上で任命されるべき「子たち」ではありません。なぜですか。(ロ)天のイエス・キリストはどのようにして,またどんな預言的称号を成就するものとして地的な「子たち」を持ちますか。

      41 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はイエスの霊的な子たちではなくて,神の子たち,つまり「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人で」あることを,わたしたちは知っています。(ローマ 8:17)では,「あなたの子たち……あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」といわれている子たちとは,だれのことですか。王イエス・キリストの天的な子たちでないことは明らかです。地上にいるゆえに「全地に」君として任命され得る地的な子たちであるに違いありません。死んだ人びと,それも特に死んだ「義者」が復活させられて彼の子たちとなるのです。イザヤ書 9章6,7節の預言に基づく彼の約束の称号,すなわち,とこしえの父という称号は単なる空しい名誉称号となるのではありません。イエスは実際に,復活させられる人類家族の父となります。彼は,「命を与える霊」となった「最後のアダム」なのです。(コリント第一 15:45,47)最初の人,アダムはその子孫すべてを罪と死に売り渡しましたが,「天から出」た「第二の人」は,アダムから受け継いだそうしたものから,その子孫を買い戻すために,ご自分の完全な人間としての命を捨てました。それで,こう記されています。

      42 「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」― ヘブライ 2:9。

      43 (イ)その王はどのようにして,患難を生き残る,復活を必要としない「大群衆」の父になりますか。(ロ)また,どのようにして人類のとこしえの父になりますか。

      43 神の意志にしたがってご自身を犠牲にすることによってイエス・キリストは,死んでゆく人類に命を与える権利を得,そのようにして彼らの父となります。そして,「死んだ」人たち,つまり「義者」と「不義者」双方を記念の墓や水中の墓場から呼び出し,次いで喜んで応ずる人たちすべてを完全な人間にまで引き上げることによって,彼らに命を移します。「大患難」を生き残ってキリストの千年統治の時代に入る「生きている」人たちについては,イエスは同様に,それら生き残った「義者」を,「満ちあふれるほど豊かに」命を享受する,つまり輝かしい完全な人間としての命を享受するレベルにまで引き上げます。(ヨハネ 10:10。テモテ第二 4:1。使徒 24:15)そして,このすべてを千年の終わりまでに成し遂げさせます。しかし,イエスの地的子供たちの享受するその豊かな命は永久に存続できるものであって,完全な人間として誠実さを保つ人たちは,とこしえの命を受けるにふさわしい者であることを実証します。それらの人びとはイエスの永遠の子供たちとなり,イエスは文字どおり彼らのとこしえの父となります。

      44,45 (イ)王はどのようにして十分の数の君たちを地上に立てて,その統治を開始しますか。任命される人たちはすべて「君」としての地位を占めます。なぜですか。(ロ)しかし,他の人びとの長となる者が君(サー)と呼ばれるには,王の家系の人でなければなりませんか。

      44 千年統治の初めに,傑出した王イエス・キリストはご自分の地的な子供たちの中から相応しい人たちを選んで,「全地に君」として立て始めます。「大患難」や,悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられる際に生き残った「生きている」人たちは,多数のそうした「君」たちを供するでしょう。死の眠りから復活させられる「死んだ」人びとの中の「義」人たちは,任命された君たちが「全地に」立てられるようにするため,十分の数の他の君たちを供することでしょう。詩篇 45篇16節は,それらの「君」たちの中にはイエスの復活させられた「父祖たち」の中の「義」人が含まれていることを示しているようです。そうした人たちはかつてイエスの先祖でしたが,いまや復活によって彼の「子たち」となるのです。それら任命された人たちは天の王の子たちなので,「君」としての地位を占めます。

      45 しかし,詩篇 45篇16節で「君」と訳されているヘブライ語がサリム<sarim>であることは注目に値します。古代イスラエル民族の間では,「サー<sar>」と呼ばれた人がすべて王室とつながりを持っていたわけではありません。そうした人びとに含まれる者として,千人の司,百人の司,五十人の司そして十人の司さえ,「サー」と呼ばれました。王室の召使い頭の長,あるいは王室のパン焼き職人の長さえ,「サー」と呼ぶことができました。―出エジプト 18:21,25。申命 1:15; 20:9。サムエル前 8:12。創世 40:2。創世記 23章5,6節と比べてください。

      46,47 (イ)任命されるそれらの人びとはすべて,その王の先祖の王統もしくは族長の家系の者でなければなりませんか。彼らはどんな人であるべきですか。(ロ)イザヤ書 32章1,2節に述べられているように,彼らはだれの関心事に対して真の関心をいだかねばなりませんか。

      46 「全地に君」として任命されるそうした人たちはすべて,人間としてのイエス・キリストの先祖で,その王統もしくは族長の家系の者でなければならないというわけではありません。基本的に言って,彼らは忠誠の人,つまり預言者モーセによって裁き人として任命されたような「有能な人びと」「賢くて,経験のある人びと」でなければなりません。それらの裁き人についてはこう記されています。「モーセはイスラエル全体の中から有能な人びとを選び,千人の長[サリム],百人の長[サリム],五十人の長[サリム],十人の長[サリム]として,民の頭としての地位を彼らに与えた。そして,適当な場合,いつもは彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのところに持って来たが,小さい事件はみな,彼ら自身が裁き人として取り扱った」。(出エジプト 18:25,26; 申命 1:15,新)王イエス・キリストによって任命される地上の君たちは,人びとの福祉を図ることや争いを平和裏に,また穏やかに解決することに真の関心を抱きます。そして,イザヤ書 32章1,2節(口語)で次のように描写されている君たちのように,正しい事を勇敢に擁護します。

      47 「見よ,ひとりの王が正義をもって統べ治め,君たち[サリム]は公平をもってつかさどり,おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。

      48,49 (イ)現在の訴訟手続きのゆえに助長された,犯罪者の抱くどんな考え方のために,犯罪が増大しましたか。(ロ)伝道之書 8章11-13節によれば,悪事を繰り返す犯罪者にとって,あるいはだれにとって,物事はうまくゆきますか。

      48 天の平和の君[サー]の治める時代には,法を公正に適用して違反者の責任を問う訴訟手続きは,すべての違反者の審理を迅速に行なうに足る十分の数の審判者や役員がいないために手間どって,だらだらと長引くことはありません。これまで,悪行者を審理し,不正行為を正し,法に照らして処断するのに長い時間がかかり,多くの事件の場合,何年もの時間がかかるため,結局は処罰されずにすむかもしれないと考える悪行者たちの犯罪が助長されてきました。今世紀の後半に犯罪はすさまじい勢いで増大してきましたが,すでに西暦前11世紀の昔,鋭い観察力を持つ,霊感を受けた賢い一筆者は次のように書きました。

      49 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして」― 考えてもみてください! しかし,霊感を受けた筆者はさらにこう続けます。「なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13,口語。

      50 (イ)現在,法の施行が手間どるのは,人類の上にあるどんなもののためですか。(ロ)義に関して,「新しい地」は「新しい天」にどのように答え応じますか。

      50 悪行者を裁いて処罰する現在の訴訟手続が手間どったり,あるいは悪行者の責任を問うことが決してなされない場合があったりするのは,『古い天』のもとにある『古い地』でわたしたちが生活しており,悪魔サタンとその配下の「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が人類社会を支配しているからです。腐敗した古い人類社会が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられると,平和の君[サー]とその仲間の14万4,000人の審判者たちが審判者の職につく一千年の期間中,法の施行を妨げるものはすべて除去されることになります。「新しい天」から義が滴り落ちる結果,「新しい地」の人間社会という土壌はそれに答え応じて実を結ぶようになります。エホバはそのことをこう予告されました。『地はひらけて救いを生じ義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      51 それでわたしたちは,イザヤとともに,どんな新時代を魂をこめて待ち望みますか。

      51 わたしたちは義と公正の行なわれるそうした時代を切望しているのではありませんか。その時代には,義人の道は今日のように苦しいものではなく,平坦なものとなります。地的復活を待ち望んだ預言者イザヤは,その願わしい新時代を期待して,霊感のもとにこう書き記しました。『義きものの道は直からざるなし なんじ義きものの道を直く平らかにし給う エホバよ審判をおこないたもう道にてわれら汝をまちのぞめり われらの〔魂〕はなんじの名となんじの記念の名とをしたうなり わが〔魂〕夜なんじを慕いたり わがうちなる霊あしたに汝をもとめん そは汝のさばき地におこなわるるとき世にすめるもの正義をまなぶべし 悪しき者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこないエホバの稜威を見ることをこのまず』― イザヤ 26:7-10〔新〕。

      52,53 (イ)神のめぐみのもとで,直き地に住んでいてさえ,義を学ぶのはだれにとって難しいことですか。(ロ)彼らの場合,使徒ペテロの述べたどんな原則が当てはまるように思えますか。

      52 一千年の期間にわたる「直き地」,つまり人びとを正直に扱い,また人びとの間で物事が正直に扱われる地は,生来人間としての不完全性を持つ全人類に大いなる恵みが示される所となります。人類家族の成員の中には,他の人びと以上に深く罪深い堕落のふちに沈んだ人もいれば,長い間責任を問われなかったために,不誠実な性格をいっそう硬化させた人もいます。そのような人びとには不正をする性癖があります。その種の邪悪な人びとは,たとえ彼らの周囲ですべて物事が正直に行なわれ,また王イエス・キリストを通して彼らに神からの恵みが示されていてさえ,義と廉潔さを学ぶのに困難を感ずるであろうことは容易にわかります。あらゆる援助を差し伸べられるにもかかわらず,彼らはともすれば不正を行なおうとします。正当な立法者としてのエホバも,エホバの定められた生活上の規準の正当さをも認めようとはしません。そのような人びとに関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。

      53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。

      54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。

      54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。

  • 一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
    神の千年王国は近づいた
    • 8章

      一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら

      1 サタンが底知れぬ所に入れられる千年の間,地上の住民が義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。なぜですか。

      悪魔サタンが底知れぬ所に閉じ込められる千年の間,地とその住民に対する神からの裁きが世界的に行なわれるでしょう。天の審判者たちは審判を下し,エホバ神の代理を勤めます。地上にいる君としての代表者たちも同様に行ないます。彼らは,エルサレムのヨシャパテ王が民を神に導き返すため国内の至る所に配属させた裁き人のように振る舞います。ヨシャパテはそれら裁き人にこう言いました。『汝らそのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます 然ば汝らエホバを畏れ 慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人をかたよりみることなく賄賂を取ることなければなり』。(歴代下 19:4-7)そのような天の審判者たちや,そのもとで地上で司法官として仕える君たちがいるのですから,豊かに産物を出す楽園の地の住民がいっしょに千年のあいだ義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。―イザヤ 26:9。

      2,3 (イ)イエスはダビデを通して,どんなベツレヘム人の子孫となりましたか。それで,イザヤは,地上での活動の開始時のイエスをそのベツレヘム人の何になぞらえていますか。(ロ)霊はどんな特質とともに彼の上に留まりますか。彼はどのようにして裁きますか。

      2 十世紀にわたるその裁きの日の全期間中,全人類を治める「新しい天」の主要な審判者は,何という資格のある,信頼できる審判者なのでしょう。西暦前8世紀にイザヤが記した,その審判者に関する預言的描写は,暖かさのこもった生き生きとしたものです。その予告された審判者とは,ベツレヘムのエッサイの子であるダビデ王の子孫で,メシアとなった主イエス・キリストです。エホバ神は人間の諸問題を解決させ,また人びとが公正に取り扱われ,地上に義が永遠に確立されるよう取り計らわせるために,それ以上に優れた審判者を供し,任命することができたでしょうか。では,ダビデ王を通してベツレヘム人エッサイの子孫となる,その後代の審判者の特質について,預言者が霊感のもとに述べたことばに十分の注意を払ってください。地上での活動の開始時におけるその子孫のことを,切り倒された樹木の幹から生ずる小さな枝になぞらえて,イザヤは次のように預言しました。

      3 「エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に,エホバの霊が必ず留まる。それは知恵と理解との霊,はかりごとと大能の霊,知識とエホバに対する恐れとの霊である。その方は,エホバを恐れることを楽しみとする。彼は単に自分の目に見えるところによって裁かず,単に自分の耳に聞こえる事がらにしたがって叱責したりはしない。彼は義をもって,謙遜な者たちを裁かねばならず,彼は廉潔さをもって,地の柔和な者たちのために叱責を与えねばならない。彼はその口のむちをもって地を打たねばならない。彼はそのくちびるの霊をもって,邪悪な者を殺す。義はその腰の帯となり,忠実はその胴の帯となる」― イザヤ 11:1-5,新。

      4 (イ)彼はだれを恐れて人類を裁きますか。(ロ)彼はどのようにして,「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」あるいは「若枝」以上のものになりますか。しかし,失望や悩みをもたらすものとはなりません。どうしてですか。

      4 この主要な審判者はエホバを恐れることを実際に喜びとし,そうすることに真の楽しみを見いだす方ですから,間違いなく,人のためにではなく,エホバのために裁きを行ないます。ですから,彼は人を恐れずに,神のみを恐れて判決を下します。確かに彼は,生ける唯一真の神エホバに対するそうした健全な恐れゆえに賢明な方であるに違いありません。彼は固く根を降ろした「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」もしくは「若枝」のような状態に留まることなく,かえって生けるエホバのみ子,より偉大なダビデとして,天的な王威を呈する頑丈な「大木」のようになりました。(イザヤ 61:3,新。エゼキエル書 17章22-24節と比べてください。)エホバの強力な霊は,王としての偉大な立場に高められたこの方の上に留まって,その責任ある職務を遂行するのに大いに必要な知識や理解力や知恵を授けるのです。したがって,彼は神の右で即位した王として,エホバの誉れとなる方であって,神によって任命された審判者である彼は,地上の住民に失望や悩みをもたらすことはありません。

      5 法の厳正な施行を支持し,裁き人としてのソロモンよりなおいっそう勝った者として,彼はえこひいきをせず,物事を正しく弁別できることをどのように示しますか。

      5 地上では正義が確立されます。天のその審判者は彼の原型ともいうべきソロモン王よりもさらに優れた識別力を働かせるでしょう。そのソロモン王は,二人の遊女が起こした難しい訴訟の場合のように極めて優れた判決を下しました。問題の遊女はふたりとも,死んだ子供は自分の子ではないと唱え,生きている子供をわが子だと主張しました。その生きている子供のほんとうの母親がだれかを明らかにしたソロモンの特異な方法に関してはこう記されています。「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって,さばきをするのを見たからである」。(列王上 3:16-28,口語)同様に,より偉大なソロモンは物事の外見や単なる伝聞にしたがって裁くのではなくて,正確な事実が明るみに出され,真実の弁明が行なわれ,その結果,正しい判決が下され,刑が執行されるよう取り計らいます。また,身分の低い者よりも身分の高い者に,あるいはおとなしい者よりも尊大な者に特別に目をかけたりなどはしません。

      6 彼は「大患難」のさいに講ずる措置によって,審判者として職務につく千年の期間が義の行なわれる時になることをどのように示しますか。

      6 エホバの霊に満ちあふれているこの審判者は,千年にわたって審判者としで仕える時代がどんな時期になる見込みがあるかを示すため,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で最高潮に達する,きたるべき「大患難」にさいして,ご自分が身分の低い,おとなしい人たちの解放者であることを自ら示されるでしょう。(マタイ 24:21。啓示 7:14; 16:14,16)彼が天の軍勢に与える命令や指図は,その口から出る「杖」のようになります。というのは,司令官としての彼の言われる事は成就して,不義を宿す『古い地』は粉々に打ち砕かれてしまうからです。そのくちびるはエホバの霊によって動かされ,地上の邪悪な者たちに対するご自分の態度や気持ちを表明します。したがって,そのような者たちは死刑に処されます。高慢で,尊大で,邪悪な者たちは一掃され,この地球はことごとく清められます。もちろん,そうした者たちの,見えない支配者であるサタンは鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられてしまいます。

      7,8 (イ)人類を益することとして,それはどうして審判者があたかも義の帯を結び,忠実の帯をしめるようなものとなりますか。(ロ)それは人類に変化を生じさせるという点で,どんな影響を人類に及ぼしますか。

      7 実際,エホバにより任命された審判者として一千年にわたってその職務につくイエス・キリストに人類が期待できるのは,ほかならぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。

      8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。

      性格の変化

      9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。

      9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきました。結果として,会衆の忠実な成員は,たとえ性格の点でかつては恐ろしい野性動物に似ていた人でも,互いに忍び合い,いっしょに仲よくやって行けるようになりました。(使徒 2:1-33)イザヤの預言に一致して,彼らは仲間のクリスチャンを害しませんし,エホバの崇拝の「聖なる山」にある会衆に危害をもたらすこともありません。

      10 (イ)キリストの14万4,000人の仲間の審判者たちのほかに,だれの上にそうした性格上の変化がもたらされましたか。(ロ)キリストが一千年にわたる審判者としてのわざを開始するさい,そうした変化は彼らにとってどうして有利な結果をもたらしますか。

      10 ついには主要な審判者イエス・キリストの14万4,000人の仲間の審判者を構成する人たちだけでなく,今日,あらゆる国民・部族・民族・言語の中から集められている,エホバの崇拝者たちの数え切れないほどの「大群衆」に関しても,そうした性格の変化が生じています。それら地上の楽園に住む見込みを持つ人たちは,「大患難」にさいして確かに神の保護を受けて無事に大患難を通過し,一千年にわたって審判者の職務につくイエス・キリストの治める神の新秩序に入ります。(啓示 7:9-17)当然のこととして,彼らは変化させた自分たちの性格をそのまま神の新秩序に携えて行きます。それは彼らにとって非常に有利な結果をもたらします。というのは,彼らは,天の審判者イエス・キリストが千年期の裁きを表明し始める際にその対象とされる「生きている者」となるからです。(テモテ第二 4:1)そうした状況のもとでは,エホバの崇拝の「聖なる山」からは,危害や破壊に対する恐れはなくなります。彼らはエホバをすでに知っており,したがってそれら生存者が世界中にいるのですから,地はまさしくエホバを知る知識で満たされます。しかも,その知識は増大するのです。

      11 地上の下等生物に関して,大洪水の八人の生存者に神は何を保証されましたか。現代の場合,それに対応する事がどのように生じますか。

      11 ここで,ノアの時代の大洪水を生き残った八人の人間に対して言われた事が思い出されます。箱船を出てから神に犠牲をささげた彼らに対して,エホバはこう言われました。『地のすべての獣畜 空のすべての鳥 地にはうすべてのもの 海のすべての魚汝らを恐れ汝らにおののかん これらは汝らの手に与えらる』。(創世 9:2)現代においても,これに対応する事が生ずるのではないでしょうか。きたるべき「大患難」は地上の不敬虔な人間を襲うのですから,陸上の動物や鳥また海の魚を絶滅させるわけではありません。神は人間に対する失われた,ある程度の恐れ,また恐怖感をそれら下等動物のうちに置くであろうと予想するのは当を得たことです。そして,人間は,そこなわれた地を楽園に変える仕事を委ねられるのです。確かに神はご自分の霊によって,14万4,000人の人びとおよび今日の「大群衆」の間で,獣のような性格をクリスチャンのそれに変えさせることができたのですから,野性動物の場合にも何かそれと同様の事がらを行なうことができるでしょう。実際,野性の動物は地上のエホバの崇拝者たちを傷つけることはありません。

      12,13 (イ)昔の最初の楽園にいた男女は,地上の下等生物に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)地上の下等生物の間には,比喩的な意味以上のものを持つ,どんな関係が生じますか。

      12 このことと一致して,わたしたちは,イザヤ書 11章6-9節に述べられている動物に関する魅惑的な描写が,より偉大なエッサイであられるエホバ神のみ子,平和の君による千年統治の期間中,地球上の鳥や魚また陸性動物に関して文字どおりに成就することを期待できます。ずっと昔,最初の喜びの楽園つまりエデンの園では,女エバは,話せるようにされたへびから話しかけられたとき,そのへびを恐れて逃げようなどとはしませんでした。(創世 3:1-4)その前のこと,アダムは自分の前に連れてこられた野性動物や飛ぶ生き物に名前をつけて,それら動物に対して恐れをいだいていないことを明らかに示しました。(創世 2:19,20)地上の下等動物を恐れることもなければ,下等動物から危害を受ける心配もない安全な,そのエデンのような状態が,回復される楽園に再びもたらされるでしょう。

      13 また,それら陸性動物や飛ぶ生き物や魚は,人間に関してはもとより,動物同志の間でも仲よくなります。神が霊感を与えて,イザヤ書 11章6-9節やエゼキエル書 34章25節またホセア書 2章18節のような預言を記させたのは,あたかもその文字どおりの成就が実現不可能な理想でもあるかのように,単に比喩的もしくは霊的な意味だけを持たせるためであって,現実の生活の中でそうした事がらが生ずるということを実際に示させるためではなかったと考えるのは,つじつまの合わないことです。

      14 とはいっても,地上の下等生物をならすよりももっと重要なのは何ですか。それはなぜですか。

      14 それにしても,主要な目的は動物や鳥そして魚などの創造物をならすことではありません。そうした地上の生物は人類が存在するよりもずっと前から存在してきました。問題なのは,あるいは危機にさらされているのは,地上の人類の存続なのです。アダムとエバの子孫はすべて,罪人として生まれてきたので,「神の栄光に達し」ませんでした。(ローマ 3:23)多くの場合,人は敬虔な特質ではなく,いま野獣が示しているような獰猛な性質を呈しています。それで人類は,永遠の命を受けるにふさわしいことを証明して,創造者なる神に賛美をもたらすには,その「神の栄光」に引き戻されねばなりません。人類家族の成員は一体とされ,互いに傷つけ合わない平和な関係に入り,公正と義を完全に行なう必要があります。これこそ,千年間にわたって審判者を勤めるイエス・キリストがもたらされることなのです。

      15 人類の上に立つ天の審判者たちは,人口は増えても,悪行の発生率の減少する事態をどのようにしてもたらしますか。

      15 現在,人間の犯す犯罪の増加率は,地上の人口の増加率よりももっと速い速度で大きくなっています。それとは著しく対照的に,千年期の期間中,地上の人口は死者の復活のゆえに,つまり「義者」と「不義者」との復活のゆえに一様に増えてゆきます。が,悪行の発生率は減少してゆき,ついには消滅点に達します。どうしてですか。なぜなら,人類の上に立つ天の審判者たちは全く義にかなっているとともに,神の規準に基づく真の義を全人類に教えるからです。この方面で助けになることとして,「水が海を覆っているように,地は必ずエホバの知識で満たされ」るでしょう。(イザヤ 11:9,新)その神権統治下の千年期の時代に認められるのは,エホバの崇拝だけです。人類はエホバの「真の天幕」,つまりその霊的な神殿の地的な中庭に導き入れられます。人類はそこで,イエスが天の父にささげた祈りの中で次のように言われた事の真実さを知らされるでしょう。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。ヘブライ 8:2。

      16 (イ)どんな結果からすれば,一千年にわたって審判者としての職務につくキリストは目的を達し損うことはないと言えますか。(ロ)キリストは元に戻った人類に,楽園におけるとこしえの命を授けるわけではありません。なぜですか。

      16 一千年にわたる裁きの日は,その目的を達し損うことはありません。その期間の終わりの時までには,喜んで答え応じる従順な人びとはすべて,真の公正と義の点で完全に訓練されていることでしょう。アダムとエバから受け継いだ彼らの肉体的また精神的欠陥は除去されてしまいます。いまや彼らはあらゆる点において神の絶対的な義の規準に自らかなうことができるようになります。ではその時,主要な審判者であるイエス・キリストは,楽園の美に包まれた,まさに輝かしい平和な地上でとこしえの命を得る権利を彼らに授けるのでしょうか。いいえ,そうではありません! この点に関しては,イエスは神の代理を勤めることはなさいません。というのは,次のように記されていることをご存じだからです。「神が彼らを義と宣しておられるのです」。(ローマ 8:33)では,神の立てられた審判者は何を行なわれるのでしょうか。

  • 一千年の後に全人類が受ける試み
    神の千年王国は近づいた
    • 9章

      一千年の後に全人類が受ける試み

      1 一千年にわたる裁きの日の終わりに,回復された人類には最終的に何が要求されますか。それで,代理審判者イエス・キリストは,彼らをどうしますか。

      千年に及ぶ裁きの日の終わりに,義をもって裁かれた人類家族は完全な者として,その審判者で解放者であるイエス・キリストの前に立ちます。しかし,依然として彼らは,楽園の地上でのとこしえの命を受けるに価する者として裁かれるわけではありません。彼らはなお,宇宙の最高法廷,つまりいと高き神,主権者なる主エホバの法廷の前に出なければなりません。この最終的要求と一致して,代理審判者イエス・キリストは,今や完全な義にかなえるようになった人類を,ご自分の父なる神に引き渡さねばなりません。それは,試みを受けて,平和と幸福を伴うとこしえの命という貴重な賜物を受けるに価するかどうかを示す人びとすべてに対して,神ご自身が判決を下すためです。彼らは完全ではあっても,不死ではありません。

      2 その時までには,アダムに帰因する死はどうなりますか。したがってエホバは,人類の個人個人に関して何を決定されますか。

      2 エデンにいた最初の人間の父の罪ゆえに人類に付きまとっていた死んでゆく状態はいまや,あたかも「火の湖」に投げ込まれて消滅するかのように除去され,一掃されます。(啓示 20:14,15)それにしても,アダムに帰因する死や不完全性から今や解放された人類が,エホバの裁きのもとで,とこしえの死をこうむるに価するようなことを自ら故意に行なう場合があるのでしょうか。どんな人びとが「第二の死」をこうむるに価する者となりますか。それは最高の審判者エホバが最終裁決者として決定しなければなりません。

      3 コリント第一 15章24-28節によれば,物事のどんな移行が行なわれますか。

      3 ここで,コリント第一 15章24-28節で使徒パウロの予告した事がらが適用されます。「ついで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる統治,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています。神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます。神は『すべてのものを彼の足の下に服させた』からです。しかし,『すべてのものが服させられた』と言うとき,すべてのものを彼に服させたかた[エホバ神]が含まれていないのは明白です。しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させたかたに自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです」― 新,ロ。

      4 主権者なる主エホバは今や,完全にされた人類に対して,どんな問題で決定を下さねばなりませんか。どんな方法でそのことを行なわれますか。

      4 み子がその父なる神に王国を引き渡される結果,その王国はエホバ神のものとなります。こうして,主権者なる主エホバと人類との間には,副次的な王国は存在しなくなります。さて,人類は自分たちを直接治める神の王権にどう応じますか。人類はすべて,永遠にわたって神に忠節な臣民であることを言明しますか。人びとはすべて個人個人,その方を永遠に自分たちの神として選ぶことに決めますか。人を当人の真価ゆえに義と認め,永遠の命を得る権利をその人に授けるのは,そうした貴重な権利の受領者に揺るぎない忠節を要求する重大な事がらです。だれの名が「命の書」に載せられるべきかを神はどのようにして決定なさるのでしょうか。それはウヅの地の族長ヨブの場合のように,心からの忠誠および誠実に関する試みによってなされます。

      5 完全にされた人類に対してその時なされる試みは,ヨブの場合のそれとどのように合致しますか。それは何を試すためですか。

      5 人類はいまや千年間,神のみ子の王国のもとで神の過分の親切を享受し,地上の麗しい楽園にいます。ヨブの場合と同様,問題は次の点です。人は単に,自分たちのために神が行なってくださった良い事がらゆえに神を愛し,崇拝しますか。それとも,神ご自身の本来の神性ゆえに,つまりその方が生ける唯一真の神で,宇宙の正当な主権者であられるゆえにそうしますか。ヨブの場合,その命を取る以外は,彼を悩ますことがサタン悪魔に許されたので,エホバ神に対するヨブの誠実さは試されました。それで今度は,回復された人類を神の認められる限度まで試すことを悪魔サタンに許すことによって,完全にされた人類は神に対する個人的誠実さに関して完全な意味で試みられ,試されます。そうした試みがなされるには,底知れぬ所に千年間幽閉されたサタンとその悪霊たちを解き放す必要があります。これから起こるのはそのことなのです。

      6 キリストの千年統治の終わりに起こる事がらを,啓示 20章7-10節はどのように描写していますか。

      6 イエス・キリストとその14万4,000人の仲間の王たちによる千年統治が終わった後に起こる事がらを,啓示 20章7-10節は次のように述べています。「さて,千年が終わると,サタンはすぐにその獄から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。

      7 サタンとその悪霊たちは解き放されるとき,完全にされた人類に関してなぜ自信を持っていますか。何が再び争点となりますか。

      7 サタンとその悪霊たちを底知れぬ所から解き放すとは,人類の中で彼らに屈服する者たちに対して目に見えない仕方で支配力を行使できる地の近辺に彼らを再び入らせることを意味しています。人類は精神的・倫理的・霊的・肉体的に完全であるにもかかわらず,悪魔サタンは自信たっぷりでしょう。事実,彼は族長ヨブの場合には確かに失敗しましたが,それよりも24世紀余の昔のアダムとエバの場合には,両人は完全な人間としてエデンにいたにもかかわらず,サタンは正しく成功しました。それにしても,この両方の場合とも,争点は同じでした。すなわち,神の律法および禁令に対する被造物としての人間の絶対の従順を要求する,エホバ神の正当な主権が争点でした。

      8 (イ)全人類がいや応なく直面させられる論争は宇宙主権のそれであることが,ここでどのように示されていますか。(ロ)「聖なる者たち」とはだれのことですか。「愛されている都市」とは何ですか。

      8 千年が終わった後に,人類がいや応なくその同じ論争に直面させられることは,いまやサタンとその悪霊たちによって惑わされる者たちが地の上を進み,「聖なる者たちの宿営と愛されている都市」を取り囲むということからもわかります。そうです,その時,地上には「聖なる者たち」がいます。彼らはサタンとその悪霊たちによって惑わされるのを拒むゆえに,サタンとその配下の地上の群衆によって取り囲まれます。それら「聖なる者たち」とは,回復した人類の中でも,万事を決するこの試みに遭って神に対する誠実を保つ人たちのことです。彼らは敵軍の攻撃を受ける陣営の中にいるかのようです。「聖なる者たち」は,「愛されている都市」とは別個に扱われています。彼らはその都の中にいるのではなく,「宿営」の中にいます。それで明らかに,その「都市」は,全世界の首都として地上に建てられた都ではありません。それは栄光を受けたイエス・キリストが啓示 3章12節でその追随者に述べた都であるに違いありません。イエスはそれを「わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレム」と呼んでおられます。

      9 その都はだれに「愛されて」いますか。それはどのようにして神のもとを出て天から下りますか。

      9 この「都市」は,神に,また「聖なる者たち」に「愛されている」都です。イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者は自分たちの上にこの「新しいエルサレム」の名を書いてもらいました。それは地上にある有形の都市のようなものではなく,その影響力や権威を地の住民に及ぼすことによって下る天の都なのです。

      10 解き放されるサタンは「愛されている都市」に直接近づけますか。それで,サタンは何のためにその都に対して攻撃を行ないますか。

      10 その「都市」は,人類を支配するその千年の終わりに解体され,破壊されるわけではなく,義にかなったその良い影響は「聖なる者たち」とともに依然として地上に存続します。悪魔サタンはこの「愛されている都市」に戦いを挑むことによって,その新しいエルサレムのもたらした,そうした良い事がらすべてをだいなしにしようとします。彼はそのような恩恵が人類の間に永遠に存続するのを好みません。彼は地の近辺に拘束されており,かつて配下の悪霊たちとともに追い出された天には居場所がないため,天にある「愛されている都市」に直接近づくことはできません。それで彼は,その都によって地上で確立されたあらゆる義にかなった事がらを無に帰させようと試みる程度まで,その都に対して戦います。

      11 (イ)その時,その「戦争」はどのようにして行なわれますか。(ロ)論争点は神の全能の能力の問題ではなくて,その宇宙主権の正当性の問題であることが,どのように示されますか。

      11 その「戦争」が核爆弾その他,この20世紀の戦争道具のような科学兵器を用いて行なわれるなどとはとても考えられません。地の住民は一千年の間,そうした武器を貯蔵してはいませんし,そのような戦いをもはや学んでもいないからです。(イザヤ 2:2-4)それはその種の軍事力を行使する戦争ではありません。欺瞞,人を惑わす宣伝,宇宙の主権者への不忠節を促そうとする利己主義に対する訴えなどが,人びとを圧倒する強力な武器となることでしょう。論争点となるのは,神の全能の能力よりはむしろ,エホバの宇宙主権の正当性の問題です。これはサタンが底知れぬ所に千年間幽閉され,今や解き放されることによって,悪魔サタンの力に比べて神の力の勝っていることが実証されることからもわかります。依然としてエホバの主権に反対する反抗者であるサタンは,人類を同様の反抗者にしようとして躍起になっているのです。

      一千年の後に示される反抗の程度

      12 サタンに惑わされる人びとが「海の砂のようである」といわれている事実は何を示していますか。

      12 その主要な論争でサタンと配下の悪霊たちにまんまと惑わされる人びとの数は,「海の砂のようである」といわれています。すなわち,数えきれない人数と考えられます。(啓示 20:8)それは決して人類の大多数という意味ではありません。たとえば,裁き人ヨシェアに戦いを挑んだ連合軍は海辺の砂のようにおびただしかったと言われています。(ヨシュア 11:4)ヨアシの子,ギデオンの時代にイスラエルの地に侵入した敵のらくだは,『浜の砂の多きがごとくにして数うるにたえず』といわれています。(士師 7:12)同様に,サタンに惑わされる人びとの人数は決まってはいません。何人になるかは予告されていませんが,大群という印象を与えるに足るほど大勢でしょう。それで,悪魔サタンは限られた程度で功を奏するにすぎません。

      13 「地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグ」が楽園の地に現われるのは,復活によるのでしょうか。

      13 サタンにまんまと惑わされる人たちは,「地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグ」と言われています。彼らが楽園の地に現われるのは,「不義者」を含む死人の復活によるのではなく,人数は予告されてはいませんが,回復された人類の中のある人びとがサタンに惑わされる結果なのです。

      14 では,彼らはどういう意味で「諸国民」と呼べますか。彼らはどうして「地の四隅」にいる者たちといえますか。

      14 一千年にわたる裁きの日の期間中,人類の間には国家的分裂はありませんし,どの国の出身者かによって人びとの受ける裁きが左右されるわけでもありません。解き放されたサタンに惑わされる人びとが「諸国民」と呼ばれていることは,彼らがサタンのようにエホバの宇宙主権を認めようとはしないこと,また国家主権のような独自の地的主権を確立する道を選ぶということを表わしています。彼らは自ら服すべき共同の主権は持たないにしても,相互に分裂しているゆえに集団別に主権を持つでしょう。しかしながら,エホバの主権に対しては,彼らは結束して反対します。彼らが「地の四隅の諸国民」と呼ばれていることは,「愛されている都市」から彼らがはるかに離れていることを示しています。したがって,惑わされる者たちは,主権に対する態度の点では,エホバ神の行使される主権を遠く退けています。彼らについて言えば,エホバ神は「だれに対してもすべてのもの」とはなりません。

      15,16 (イ)それら国家主義的な考えを持つ惑わされた者たちは,物事のタイミングや攻撃目標の点で,どのように「ゴグとマゴグ」に似ていますか。(ロ)それら惑わされた者たちは,エホバに操られて攻撃を仕掛けるという点で,どのようにゴグに似ていますか。

      15 それら国家主義的な考えを持つ惑わされた者たちは,いみじくも「ゴグとマゴグ」と呼ばれています。エゼキエルの預言の中で予告された最初の「マゴグの地のゴグ」の場合,彼はエホバ神の崇拝者たちに最終的な攻撃を行ないました。それら崇拝者たちが彼らの正しい地的な状態に回復され,彼らの地が「エデンの園」のようになった後にゴグはそうした攻撃をしました。(エゼキエル 36:35)彼らは「無防備の村々の地に」「穏やかにして安らかに」住み,「すべて石がきもなく,貫の木も門」さえもないまま住んでいました。(エゼキエル 38:11,口語)同時に,「マゴグの地」の人びとは,一見無防備に見えるエホバの崇拝者たちを攻撃する自分たちの首領を支持しました。しかし,ゴグは実際,はるか遠くから攻撃しにやって来ます。なぜなら,エホバはこう言われるからです。「わたしはあなたを引きもどし,あなたのあごにかぎをかけて,あなたと,あなたのすべての軍勢と……を引き出す。……終わりの年にあなたは……回復された〔人びとの〕地……に向か(う)」― エゼキエル 38:4-8,口語〔新〕。

      16 一千年にわたる裁きの日が終わった後に悪魔サタンに惑わされる人たちは,ほかならぬ回復された人類を攻撃させる目的で底知れぬ所からエホバ神によって解き放されたばかりの,目に見えないこの首領に従います。悪魔サタンと配下の悪霊たちは底知れぬ所から解き放されると,再び地の近辺に侵入し,今やエデンの園のようになった地上の楽園にいる人類と密接に接触することができます。それで,解き放された悪魔サタンは攻撃を行なうさい,エホバは巧みに事を運ばれるので,サタンはあたかもあごにかぎを掛けられて動かされるかの観を呈します。そして,今や地上で悪魔サタンに惑わされる者たちも,サタンと同様,あたかもあごにかぎを掛けられて動かされ,「聖なる者たちの宿営と愛されている都市」に対するその攻撃を行ないます。(啓示 20:7-9)それで,ゴグとマゴグという名称は適切であるとともに,エホバ神の宇宙主権に忠節に従う人びとを襲って略奪しようとする,人類の中の国家主義的な考えを持つ惑わされたそれらの者たちによく当てはまります。

      17,18 (イ)それら惑わされた者たちは「愛されている都市」を直接攻撃できますか。彼らはどのようにして攻撃せざるを得ませんか。(ロ)キリストの千年統治の終わりに,地上で君として仕えるその子たちは,どんな行動を取らざるを得ませんか。どんな目的でそうすべきですか。

      17 人類の中のそれら惑わされる者たちは地上に住む人間に過ぎないので,その見えない指揮者である悪魔サタンが行なえないのと同様,天の新しいエルサレムを直接攻めることはできません。しかし,彼らは天のメシアの政府を地上で忠実に代表する人たち,すなわち『全地の君』たちと関係を持つことができます。それらの人びとは新しいエルサレムの王であるとこしえの父イエス・キリストによりそのような君たちとして任命されているのですから,「愛されている都市」の見える代表者である君として仕えています。そして,王としての,神のみ子が千年統治の終わりに「王国を自分の神また父に渡」すとき,地上で君として仕えるそれら子たちも,それに対応する行動を取らねばなりません。「すべてのものを自分に服させたかたに」,すなわち天の父に「自ら服」する神のみ子に倣わねばなりません。

      18 したがって,とこしえの父イエス・キリストのもとで君として仕えるそれら「子たち」がイエスに倣い,また宇宙主権の正当な行使者であられるその父なる神に自ら服従するのはもっともなことです。彼らは自分たちの事情が変化したために要求される事がらに高慢な態度で反抗する代わりに,キリストと同様に行動し,自らエホバの宇宙主権に服します。悪魔サタンに惑わされる者たちは,議論や圧力を駆使して,「愛されている都市」の目に見える地上の代表者たちを攻撃し,エホバの主権に服させまいとしますが,それら代表者たちは断固としてその立場を守ります。彼らはいと高き神に対する誠実を保ち,全地および全宇宙を治める神の正当な主権を忠節に守り通します。彼らはためらうことなく,エホバ神が「だれに対してもすべてのもの」となられることを望みます。―コリント第一 15:24-28。

      「ゴグとマゴグ」および彼らを惑わす者を処分する

      19 惑わされた者たちの攻撃を受けるとき,忠節な者たちは神に対する信仰のみならず,神の宇宙主権に対する誠実をもどのように表わしますか。

      19 悪魔サタンが,自ら惑わした地上の者たちを集めて行なうその「戦争」にさいして,「聖なる者たちの宿営」および「愛されている都市」の地上の代表者たちは,肉の武器を取って抗戦するわけではありません。もちろん彼らは,自分たちが見ることも,また捕えることもできない悪魔サタンやその使いである悪霊たちを絶滅できるものではありません。しかし,エホバの宇宙主権が行使されるのを欲する忠節な人たちは,「ゴグとマゴグ」を構成する惑わされた地上の者たちをたとえ見ることができるにしても,惑わされた者たちの刑執行者として行動して彼らを絶滅するというようなことはしません。エホバ神の側につくことを望む彼らは,神の宇宙主権を表明し,惑わされた不忠節な者たちに対して神の宇宙主権の真正さを示すことをエホバに委ねます。彼らはその戦いをエホバの戦いとします。またそれゆえに,エホバの刑執行者の軍勢として行動して致命的武器を取って戦うことはしません。それは彼らの信仰のみならず,エホバ神とその宇宙主権に対する全き誠実をも表わすものとなります。エホバご自身に彼らを救っていただき,不忠節な者たちを滅ぼしてもらいましょう! 彼らは固く信じて,じっと立ち,自分たちのための『エホバの救い』を見るのです。―歴代下 20:15-17。

      20 (イ)神の保護のもとで,忠節な人たちは何を見る特権にあずかりますか。(ロ)神のそうした行動は,不忠節な者たちにとっては何を意味しますか。

      20 エホバの宇宙主権に対して忠誠を保つ人たちは「全能者の陰に」宿るので,ただ目をもって「見,悪しき者の報いを見る」だけです。(詩篇 91:1,8,口語)彼らは一千年の後の「ゴグとマゴグ」に関して啓示 20章9節で次のように予告された事がらの成就を見ます。「そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした」。人類の中のそうした不忠節な者たちは,永遠の滅びを意味する火のバプテスマを受けます。神は彼らを義とし,あるいは義と認めて,その名を「命の書」に載せることはなさいません。(ローマ 8:33)それはエホバの宇宙主権の乱用ではなく,ご自分の敵に対するその正当な表明となります。

      21 (イ)サタンはどれほどの期間,底知れぬ所から解き放されることになっていましたか。その目的は今や達成されましたか。(ロ)サタンを底知れぬ所に戻すとすれば,それは何を意味するものとなりますか。

      21 しかし,善を憎むそうした不法な者たちの永遠の滅びは,悪魔サタンとその使いである悪霊たちが地の近辺から除かれることを意味してはいません。いまやサタンは底知れぬ所から十分に長い期間解き放されてきました。サタンを解き放す点での神の目的は十分達成されており,サタンとその悪霊たちをもはやそれ以上解き放したままにしておく理由は何もありません。わたしたちは,サタンが底知れぬ所に投げ込まれて千年間閉じ込められることに関して次のように記されているのを覚えています。「これらのことののち,彼はしばらくのあいだ解き放されるはずである」。(啓示 20:3)悪魔サタンが回復された人類の中のできるだけ多くの人びとを惑わし,地に対するエホバの主権の行使の仕方は不正で横柄であると彼らに思い込ませようとしてきた,その「しばらくのあいだ」に相当する期間は,今や終わりました。さて,どうなりますか。サタンとその悪霊たちは底知れぬ所にまた投げ込まれるのでしょうか。そうなるとすれば,それは丁度,イエス・キリストご自身が底知れぬ所から解き放されたように,また象徴的ないなごや,大いなるバビロンの乗った「野獣」が底知れぬ所からそれぞれ解き放されたように,彼らが再び解き放されることを暗示するものとなるでしょう。―ローマ 10:7。啓示 9:1-3; 17:8。啓示 11章7節と比較してください。

      22,23 (イ)人間に関するサタンの非難に対する弁明はどのようにして行なわれてきましたか。長年にわたる論争はだれに勝ちをもたらすものとして解決されましたか。(ロ)今やサタンとその悪霊たちにはどんなことがふりかかりますか。

      22 悪魔サタンとその悪霊たちが鎖で縛られ,底知れぬ所に幽閉されたとき,彼らは一時的に責め苦を受けました。では,また拘束されて,再び一時的に,それともいつまでも責めさいなまれるのですか。地上で彼らに惑わされた者たちが火のような滅びの処罰をこうむるのを見た後,彼らはどうなりますか。地上の人間は単に神から得られるもののためにエホバ神に仕えているに過ぎず,悪魔サタンの意地の悪い誘惑に遭っても,エホバへの純粋な愛ゆえにエホバ神に対する忠節を保つような人間はいないと,悪魔は初めからずっと非難してきましたが,今やその非難に対する弁明がなされました。不忠節な者たちが火のような激しい絶滅をこうむった後も生き長らえて誠実を保つ男女は,悪魔に対する生きた答えとして立ち,悪魔がうそつきであることを実証します。七千年の期間にわたった論争は終わり,真理の神が勝ちを得ます。ですから,悪魔サタンとその悪霊たちをそれ以上生き長らえさせる必要はもはやありません。彼らに対する神の忍耐は今や尽きました。このようなわけで,神はそれら反抗した使いたちを底知れぬ所に再び入れることはなさいません。それで,彼らにはどんな事がふりかかりますか。

      23 「そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」― 啓示 20:10。

      24,25 (イ)火の湖に投げ込まれるということは,サタンとその悪霊たちにとっては何を象徴していますか。(ロ)これはどうして別の種類の死といえますか。

      24 火と硫黄の湖で悪魔サタンがこうむる責め苦は,象徴的な野獣と偽預言者にとってもそうであるように,サタンと悪霊たちにとってもやはり同じ事を意味しています。それは何ですか。限りない永遠の滅びです。(啓示 19:20)その象徴的な野獣と偽預言者の場合と同様,悪魔サタンとその悪霊たちは二度とふたたび生きることはありません。彼らの名は,神聖な「命の書」のどれにも記されません。楽しく過こそうと,苦しみながら過ごそうと,生きているということは生きることです。ですから,彼らが象徴的な「火といおうとの湖」に投げ込まれるといっても,生きたまま意識を保って肉体的また精神的に責めさいなまれるという意味ではありません。

      25 その象徴的湖は,いわゆる「生きながらの死」を象徴してはいません。それは別の種類の死,つまり罪深いアダムとエバから全人類が生まれながらに受け継いで,人類に苦しみをもたらした死,また創造物の領域,つまり神のかたちに作られた被造物の間に明らかに初めて入ってきた形態の死とは異なる死を象徴しています。しかし,そのようにして受け継がれた死は,一時的な死です。それはイエス・キリストの死と復活の結果として起こる復活によって,「死の眠り」に変えられたからです。―コリント第一 15:20-22。

      26 この別の種類の死はなぜ適切にも「第二の死」と呼ばれていますか。その死に遭う人びとの名はどこに記されることはありませんか。

      26 「火といおうとの湖」で象徴される死は,目ざめさせられて終える眠りのようなものではなく,完全な滅び,つまり終わりのない死なので,人類がアダムから受け継いだ死とは異なります。継承物としてアダムから受けた死は『第一の死』です。したがって,「火といおうとの湖」で象徴されているこの別の種類の死は,いみじくも「第二の死」と呼ばれています。これこそ千年間の裁きの日の期間に入りながらも,後に神の「命の書」にその名を書き記してもらえない地上の人たちの場合の死が表わしているものなのです。霊感を受けた聖書は,永遠の命を受けるに価しないそうした者たちのための「火の湖」の意味を説明して,こう述べています。「そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」― 啓示 20:14,15。

      27,28 (イ)サタンとその悪霊たちはどうして「第二の死」をこうむることができますか。(ロ)では,彼らが火の湖で責めさいなまれるとは何を意味していますか。

      27 「火の湖」が何を象徴するかに関するこの天来の説明については,数節後の箇所でもう一度次のように証言されています。「だれでも征服する者はこれらのものを受け継ぎ,わたしはその神となり,彼はわたしの子となるであろう。しかし,憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。(啓示 21:7,8)「火の湖」に言及しているこうした箇所はすべて,啓示の書の19章から21章までの同じ文脈の中で非常に密接に関係し合っています。ですから,「命の書」に書き記されない人びとにとって「火の湖」が意味する事がらは,同時に悪魔サタンとその悪霊たちにとってそれが意味するところと同じです。それは「第二の死」を意味しています。それは必ずしも二度目の死を遂げるという意味ではなく,聖書の述べる第二の種類の死を遂げることです。それは果てしのない死です。

      28 したがって,サタンとその悪霊たちは,たとえかつて一度も死んだことがなくても,その種の死をこうむることができます。最初の人間の罪によってもたらされた第一の種類の死には,ほんの少しの命もありませんでした。同様に,神に故意に背き,そうするために自分の完全性をさえだいなしにする者たちのための永遠の処罰である「第二の死」には,命のひらめきさえもありません。それで,聖書に基づくすべての規定によれば,サタンとその悪霊たちが火と硫黄の湖でかぎりなく永久に責めさいなまれるとは,彼らが無に帰させられる,つまり存在しなくなること,彼らの霊の命が永久に拭い去られることを意味しています。結果として,神の所有される宇宙は,二度と再び悪霊の現われることのない,悪霊のいない所となります。

      一千年が終わった後に生き返る

      29 聖なる者たちの宿営,また君として仕える,愛されている都市の代表者たちが生き残るのを神が許されたことは,神が彼らに対してどんな行動を取ったことを示していますか。

      29 ゆえに,何と輝かしい永遠の時代が人類を待ち受けているのでしょう。ご覧なさい! エホバ神は「ゴグとマゴグ」および悪魔サタンとその悪霊たちの滅びにさいして,「聖なる者たちの宿営」と,君として仕える「愛されている都市」の地上の代表者たちを生き残らせてくださるのです! それは神が彼らの名を「命の書」に書き記された,あるいは彼らの名を「命の書」に記載させたということのほかに何を意味していますか。それは彼らが神に対する誠実を守り,そのようにして,神のみ子イエス・キリストと14万4,000人の共同相続者たちとに加わって,あらゆる良いものの創造者であられる,いと高き神の宇宙主権の正しさを立証したゆえに,神が彼らを義と認め,彼らを義とされたことを意味しています。エホバ神によって義と認められるということは,楽園の住みかで永遠の命を受ける権利をエホバが彼らに授けられることを意味します。

      30 (イ)最終的試みを首尾よく通過する人たちは,だれの恩をいつまでも負う者となりますか。彼らはどこに永遠に立ちますか。(ロ)彼らはいつ,ほんとうに「生きる」ことになりますか。

      30 千年の間,愛ある仕方で人類を扱うことによって,喜んで応ずる従順な人たちを肉身でそうした完全な義にかなうまでに引き上げてくださったのは,祭司で審判者である天の王イエス・キリストです。もし,彼が千年の終わりまでにそうしなかったなら,最高の審判者エホバ神による最終的試みを受けるよう彼らを引き渡すのを躊躇されたことでしょう。なぜですか。なぜなら,完全な義に欠けているとすれば,彼らは神による試みを首尾よく通過して,とこしえの命を取得することは決してできないということを彼は知っておられたはずだからです。それで彼らは,肉身で全き義にかない,罪の全くない状態で,エホバの崇拝者としてその「真の天幕」もしくは神殿の地的な中庭に立ちます。彼らは主権者なる主エホバに対する非の打ちどころのない誠実と揺るぎない忠誠をもって神による試みを通過することにより,そこに永遠に立ち続けます。彼らは神のみ子イエス・キリストの恩を永遠に負う者として留まります。彼らの贖い主で救い主なる主イエスは,ご自分のわざを完成させた証拠として,愛をもって彼らを完全な義にかなうそうした状態にまで引き上げてくださったのです。ゆえに,その時こそ,彼らはほんとうに生きるのです!

      31 こうして,キリストの統治する千年の終わりまでには,「残りの死人」はどんな状態に達しますか。アダムに帰因する死はどうなりますか。

      31 こうした事がらに照らしてみると,啓示 20章5節のかっこ内の,「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)」という陳述の正確さを正しく評価できます。もしイエス・キリストと,「第一の復活」にあずかった14万4,000人の共同相続者が彼らのために千年間の予備的な仕事を成し遂げなかったなら,完全な命を享受するそうした状態は,千年の終わりに際して「残りの死人」の受ける分とはならなかったでしょう。実際,その時までには,『(アダムから受け継がれた)死はその中の死者を出し,死は火の湖に投げ込まれて,「第二の死」つまり消滅に遭っている』でしょう。(啓示 20:13,14)その時,コリント第一 15章25,26節で予告されたことが実現します。「神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければならないのです。最後の敵として,死が無に帰せしめられます」。

      32 その時,啓示 21章3,4節のことばはどのようにして全く実現しますか。

      32 その時,罪深いアダムから受け継いだ死は,まさに次のことばどおりになるでしょう。「そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:3,4。

      33 (イ)そのような豊かな命を得る人たちは,命を永遠に延長させてもらうに価する者であることをどのようにして実証しますか。(ロ)その時,彼らはローマ 6章23節の真理をどのようにして身をもって認識しますか。

      33 千年の終わりまでに,このような完全な意味で生き返る人たちはすべて,その豊かな命を永遠に延長させることを望みますか。永遠の命を得る権利を,あらゆる命の源であるエホバ神から受けるに価することを実証するなら,彼らはそうすることができます。忠実で忠節な人たちは,エホバに対する魂をこめた誠実さの徹底的な試みを通過するゆえに,自分たちの命を守られ,また永遠にわたって命を延長させられて幸福を享受する,その貴重な特権をもって報われます。こうして彼らは,「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」であることを身をもって悟ります。(ローマ 6:23)もし,神がその愛する独り子をお用いにならなかったなら,人類家族にとってこのような事は不可能だったでしょう。

      34,35 (イ)「大患難」以前に,白い衣をまとってエホバの霊的な神殿ですでに奉仕していた「大群衆」に関しては,どんな希望がありますか。(ロ)復活させられた「不義者」たちでさえ,エホバのその中庭に対してコラの子たちが抱いたどんな気持ちを培うことができますか。

      34 その時,エホバという名をお持ちになる神をその霊的な神殿の地的な中庭で崇拝し,その神に仕えるのは,なんと魂を満足させる事がらでしょう。「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」ということばは,輝かしい千年期の初めに「大患難」の生存者たちの「大群衆」に関してすでに実現しました。(啓示 7:9,14,15)清い衣をまとったこの「大群衆」の成員は千年の間,また一千年が終わった後に主権者なる主エホバに対する絶対の誠実に関する試みがなされる間も最後までずっと神の霊的な神殿のその中庭に留まるものと期待されています。一千年の期間中に墓からよみがえらされる人たちも,エホバへの崇拝と奉仕を行なえるよう,エホバの霊的な神殿の地的な中庭に導かれます。正しい認識をいだいて,エホバへの奉仕をそこで行なうことにより,復活させられる「不義者」たちさえ,レビ人コラの子たちが感じたように感ずることでしょう。

      35 『なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり われは悪の幕屋におらんよりは むしろ わが神の家の門守とならんことを欲うなり そは神エホバは日なり盾なり エホバは恩と栄光とをあたえ 直くあゆむものに善き物をこばみたもうことなし』― 詩篇 84:表題,10,11。

      36 誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデの言い表わした,神の神殿に関するどんな感謝の気持ちを培いますか。

      36 生ける唯一の真の神に対する心からの誠実を保つよう決意している人たちは,ダビデが次のように述べて言い表わした,霊的な事がらに対する感謝の気持ちを培います。「わたしは一つの事をエホバに願った。わたしはそれを求めている。わたしの命の日の限り,エホバの家に住むことを。エホバの麗しさを仰ぎ見,感謝をもってその神殿を見る,そのために」― 詩篇 27:表題,4,新。

      37,38 (イ)エホバの「足台」はついには,当然そうあるべきどんな状態にされますか。(ロ)エホバの「足台」の上に留まる住民は,単に自然の楽園だけを享受しますか。彼らは詩篇の最後の一編の叫びにどのように答え応じますか。

      37 その時,全地はその驚くべき創造者の崇拝の行なわれる所となります。地は創造者の「足台」であり,他方,天はその「王座」です。(イザヤ 66:1,新)その天の王座は輝かしいものですから,その地的足台も,その足を据えるにふさわしい,輝かしい所とされます。地上はどこもかしこも楽園のように,つまりエデンの園,エホバの園のようになります。(創世 2:8; 13:10)それは楽しみと喜びの場所となります。なぜなら,そこは,「神の栄光に達しない」状態のもとにはもはやいない,神の崇拝者たちすべてにとって純粋の幸福を伴う生活の場となるからです。彼らは麗しく開花した敬虔な特質をすべて備えており,神との快い関係を存分に享受します。ゆえに彼らは,地的な楽園だけでなく,霊的な楽園の中にいることをも悟ります。このすべては,言語に絶するこうした良いものすべての偉大な創造者で供給者であられる方を賛美するよう,まさに魂を揺り動かす理由ではありませんか。彼らは自分たちの磨いたきれいな声と音楽的技能のすべてをもって,感謝をこめて創造者を賛美するでしょう。そして,霊感を受けた詩篇の最後の一編の次のような熱烈な叫びに答え応じて,天に住む者たちの大群衆と,とこしえに声を和することでしょう。

      38 「ヤハを賛美せよ。その聖なる場所で,神を賛美せよ。そのみ力の大空で,神を賛美せよ。その大能のみわざのゆえに,神を賛美せよ。その偉大さの豊かさのゆえにより,神を賛美せよ。角笛を吹き鳴らして,神を賛美せよ。タンバリンと円舞をもって,神を賛美せよ。弦と笛をもって,神を賛美せよ。きれいな音のシンバルをもって,神を賛美せよ。鳴り響くシンバルをもって,神を賛美せよ。息あるものはみな,ヤハを賛美せよ。ヤハを賛美せよ」― 詩篇 150:1-6,新。

  • それが近づいていることを示す「しるし」
    神の千年王国は近づいた
    • 10章

      それが近づいていることを示す「しるし」

      1 至福千年期が近いことを知るのは,なぜ胸の躍るような興味を感じさせられる事がらでしょうか。

      聖書の述べるところからすれば,生者あるいは死者の別なく全人類にとって至福千年期はきわめて望ましい時代です。それゆえにこそ,至福千年期が近づいたという発表は,物のわかる人すべてにとって大いに歓迎すべきニュースです。では,それが近づいたことを確信できるどんな確かな理由があるかを知るということは,胸の躍るような興味を感じさせられる事がらでしょう。それはどんな理由ですか。その幾つかを時間をかけて考慮してみましょう。

      2 (イ)わたしたちは今それを目撃していますが,何が集められていること自体,至福千年期が近づいたことを示す明確な証拠ですか。(ロ)神の側に立ってその「戦争」を指揮しているのはだれですか。その方はすでにどんな資格で仕えておられますか。

      2 至福千年期についてこれまでに考察したところからすれば,その直前に全人類史上最も壊滅的な戦い,つまりハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」が必ず起きることがわかります。今やわたしたちは,政治支配者たち,すなわち「人の住む全地の王たち」が人間の抑制力の及ばない勢力に動かされて,あらゆる戦争の中のその戦争のために集められているさまを目撃することができます。このこと自体,その戦争の後に続く待望の千年期がやはり近づいたことを示す明確な証拠といえるでしょう。(啓示 16:13-16)全能者なる神の側に立って,その戦いに活発に加わるのは,神の天の軍勢の指揮者で,忠実また真実と呼ばれる方,つまり神のことばです。そのハルマゲドンの戦いの始まる以前に,その天的な指揮者はすでに王となっておられます。その「頭には多くの王冠が」あり,またその「外衣に,実にそのもものところに,王の王また主の主と書かれた名が」あります。(啓示 19:11-16)それで彼は,14万4,000人のクリスチャンの共同相続者とともに千年にわたる統治を開始する前にすでに王として統治しておられるのです。―啓示 12:5; 14:1-4; 20:4-6。

      3 千年期の始まる前にキリストが統治を開始することに関連して,巻き物の最初の二つの封印が開かれたとき,ヨハネは何を見ましたか。(啓示 6:1-4)

      3 この王の中の王,イエス・キリストがこうして千年期の始まる以前に統治を開始することは,20世紀の現代の世界のできごとを描写した,もっと前の箇所で言及されています。それらのできごとはヨハネへの啓示の6章に描写されていますが,その中で使徒ヨハネは,神の子羊イエス・キリストが七つの封印を開き始めたときに自分が見たことをわたしたちに告げています。その封印は,天の王座に座しておられる神のみ手からイエス・キリストが受け取った「巻き物」を封印したものでした。ヨハネはこう述べます。「そして,子羊が七つの封印の一つを開いた時にわたしが見ると,四つの生き物の一つが雷のような声で,『来なさい!』と言うのが聞こえた。そして,見ると,見よ,白い馬がいた。それに乗っている者は弓を持っていた。そして,その者に冠が与えられ,彼は征服しに,また征服を完了するために出て行った。また,彼が第二の封印を開いた時,わたしは,第二の生き物が,『来なさい!』と言うのを聞いた。すると,別の,火のような色の馬が出て来た。そして,それに乗っている者には,人びとがむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された。そして大きな剣が彼に与えられた」― 啓示 6:1-4。

      4,5 (イ)火のような色をした馬の乗り手は何を象徴していることがわかりますか。(ロ)その時,完全に征服すべく,だれが出て行きましたか。このことはどのようにして詩篇 2篇1-6節を成就する舞台を整えるものとなりましたか。

      4 ここで,西暦1914年に勃発した最初の世界大戦が象徴的なことばで描写されていることがわかります。もっとも,同大戦は,さらにもう6年間地から平和を奪い去った二度目の世界大戦の先触れとなったにすぎませんでした。その最初の世界大戦は,正義の戦士イエス・キリストが天的な王冠を受け,戦いに勝って地上の敵を完全に征服すべく,それら地上の敵に向かって出て行った時をしるしづけるものとなりました。このことは,後にハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」にさいしてイエス・キリストが神の側に立って戦うことを意味しています。最初の世界大戦が起きた時にイエス・キリストが天で王として王冠を頂くことにより,詩篇 2篇の次のことばの成就する舞台が整いました。

      5 「なぜ諸国民は騒ぎ立ち,諸国家群はむなしい事をつぶやきつづけるのか。地の王たちは立ち構え,高官たちは結束し,一つになってエホバとその油そそがれた者[そのキリスト,ギリシャ語七十人訳]とに逆らって言った。『彼らのかせを引き裂き,彼らの綱をわれわれから解き捨てよう!』天に座しておられる方は笑う。エホバは彼らをあざけられる。その時,彼は怒りをもって彼らに語り,燃える不快の念をもって彼らを狼狽させて言われる。『しかし,わたしは,わたしの王をシオンに,わたしの聖なる山に立てた』と」― 詩篇 2:1-6,新。使徒 4章24-30節と比べてください。

      6 世界大戦や国際連合は,シオンの山に座す,エホバの王をその座から除き去るものとなりましたか。ハルマゲドンにおける戦いの結果は,わたしたちに何を保証していますか。

      6 西暦1914年から1918年にわたる最初の世界大戦以来,諸国民を狼狽させてきたあらゆる騒乱をも物ともせずに,エホバはご自分の王,み子イエス・キリストを王国政府の天的な座つまりシオンにすわらせました。(啓示 14:1。ヘブライ 12:22)第一次世界大戦も,第二次世界大戦も,また国際連合機構といえども,このメシアなる王をその座から首尾よく除き去るものとはなりませんでした。ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」は,天の王座に座すイエスの立場をいよいよ強化するものになるとともに,彼はその天的な王座から忠節な14万4,000人の共同相続者といっしょに,一千年にわたる統治を開始する態勢が整います。(啓示 19:19-21)こうしたきわめて重要な理由のゆえに,わたしたちにとっては,人類に生気をもたらす数々の祝福を伴う至福千年期は保証されています。それはまさしく近づきました!

      7 わたしたちはなぜ,あの「邪悪で姦淫の世代」の者のようではありませんか。それにしても,イエスから与えられた,わたしたちの考慮すべき「しるし」はどこに見いだせますか。

      7 前述の証拠があるにもかかわらず,至福千年期が実際に近づいたこと,そうです,わたしたちの世代のうちに始まることを確信させられるに足る「しるし」を要求する懐疑的な人は少なくありません。わたしたちは,イエス・キリストがメシアであることを確信させられるに足るしるしをイエス・キリストに求めた,19世紀前の律法学者やパリサイ人のあの「邪悪で姦淫の世代」の者ではありません。(マタイ 12:38,39)しかし,わたしたちには確かに,イエス・キリストご自身がお与えになった「しるし」に関する説明の記録があります。しかも,イエスはそれをわたしたちが読めるようにしてくださったのですから,それを考慮するのを拒むとすれば,重大な無知のうちに自ら留まることになるでしょう。マタイ 24および25章,マルコ 13章そしてルカ 21章を読めば,その説明に接することができます。そのしるしに関する説明は,使徒たちの求めに答えて与えられましたが,それはイエスがメシアもしくはキリストであることを証明するためではなく,約束された将来のあるできごとが近づいていること,つまり成就されようとしていることを示すためのものでした。その説明が与えられたのは,西暦33年の春の月,ニサンの11日,つまりイエスが非業の死を遂げる3日前のことでした。

      「しるし」に関する預言

      8 イエスは去って行こうとしておられたことをどのように示されましたか。イエスが戻られるとき,どんなことばが述べられることになりますか。

      8 イエスはユダヤ人の耳にとって非常に恐るべき事がら,つまりエルサレムの彼らの神殿の崩壊を預言したばかりでした。エルサレムで彼は宗教上の反対者たちにこう宣言しました。「見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています。あなたがたに言いますが,『エホバの名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなたがたは今後決してわたしを見ないでしょう」。(マタイ 23:38,39)これはイエスが去って行こうとしておられることを示していました。彼が戻って来るとき,詩篇 118篇26節(新)の預言的なことばを取り上げて,「エホバのみ名によって来る人は祝福された者!」と言う人たちがいるはずです。

      9 イエスの再来を歓迎するこうしたことばを崇拝者たちがエルサレムの神殿のそばで述べるのではないことを,イエスはどのように示しましたか。

      9 しかし,エホバの崇拝者たちが,エホバのみ名によって来る方をこうした預言的なことばをもってエルサレムの有形の神殿のそばで歓迎するのでないことは明らかでした。イエスの述べた驚くべきことばに続く記述によれば,イエスはそのことを非常にはっきりと示されました。「さて,イエスがそこを立って神殿から去って行かれるところであったが,弟子たちが神殿の建物を示そうとして近づいて来た。イエスはそれにこたえてこう言われた。『あなたがたはこれらのすべてをながめないのですか。あなたがたに真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してありません』」― マタイ 24:1,2。

      10 神殿を見おろせるオリーブ山の上で,四人の使徒たちはどんな質問をイエスに尋ねましたか。幾つかの翻訳は彼らの質問をどのように訳出していますか。

      10 十二使徒はオリーブ山に行き着くまでは,その恐るべき預言について何も尋ねませんでした。オリーブ山からはエルサレムを見おろし,ヘロデ大王によって改築されたその美しい神殿を一望のもとに眺めることができました。四人の使徒たちはその光景に動かされて,重要な疑問を抱いたように思われますが,その疑問はまた,他の使徒たちの関心をも引き起こしました。こう記されているからです。「イエスがオリーブ山の上で座っておられたところ,弟子たちが自分たちだけで近づいて来て,こう言った。『わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在[パルーシア,ギリシャ語]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか』」。(マタイ 24:3)ヤングの逐語訳聖書は,弟子たちのことばをギリシャ語から次のように訳しています。「われらに告げ給え,これらのことはいつあるか。また,汝の臨在し給うと時代の全き終わりとには何の兆あるか」。ロザハムのエンファサイズド・バイブルも同様に訳出しています。「われらに告げ給え,これらのことはいつあるか。また,汝の臨在し給うと時代の終結とには何の兆あるか」。ニューコム大司教の「新しい翻訳」(改訂本文)はこう訳しています。「汝の出現し給うと時代の終わりとには何の兆あるか」― 1808年版。

      11 (イ)エルサレムの神殿の滅亡はいつ起きましたか。しかし,他のどんな事がらは,その時にも起きませんでしたか。(ロ)したがって,歴史に関して何を行なうのは当然なことといえますか。

      11 今日,わたしたちは,エルサレムの文字どおりの神殿の滅亡がいつ起きたかを知っています。それは1,900年前の西暦70年の夏,チツス将軍の率いるローマ軍団がエルサレム全市を壊滅させたときのことでした。(ルカ 21:20-24)しかし,それら他の事がら,つまり弟子たちの質問に含まれていたキリストのパルーシア(臨在,出現)と,時代もしくは事物の体制(あるいは事物の状態a)の終結との「しるし」についてはどうですか。確かにユダヤ教の事物の状態もしくは体制は西暦70年にその全き終わり,もしくは終結を見ましたが,ユダヤ教の体制がその単なる預言的な型もしくは模型であったにすぎない,より大きな事物の体制は終結したわけではありません。また,主イエス・キリストのパルーシア,つまり臨在もしくは出現がその年に起きたわけでもありません。わたしたちはこの20世紀に生きているのですから,この20世紀の現代の歴史を調べて,予告された「しるし」がわたしたちの世代のうちに現われているかどうかを確かめてみるのは,ごく当然なことと言わねばなりません。

      12 キリストの最初の到来についてステファノが述べたことから考えて,使徒たちがイエスの「到来」もしくは「降臨」について尋ねていたのかどうかを問うべきなのはなぜですか。

      12 弟子たちが主イエス・キリストのパルーシアについて尋ねたのは注目すべきことです。そのように尋ねた弟子たちは,イエスの「到来」について,つまりある人びとが言う,イエスの「降臨」について尋ねていたのでしょうか。これは提起するに価する質問です。なぜなら,主イエスの最初の「到来」について述べた,クリスチャンの殉教者ステファノは,エルサレムのユダヤ人のサンへドリンに対してこう語ったからです。「どの預言者をあなたがたの父祖は迫害しなかったでしょうか。そうです,彼らは,義なるかたの到来[エリューシス,ギリシャ語]について前もって告げ知らせた者たちを殺し,あなたがたは今,そのかたを裏切る者,また殺害する者となりました」。(使徒 7:52)キリストの最初の到来について語ったステファノは,パルーシアという語ではなく,エリューシスというギリシャ語を用いていたことがわかります。これら二つのギリシャ語は単に語形や語源だけでなく,その意味をも異にしています。

      13 語源からすれば,パルーシアということばは文字どおりにはどんな意味を持っていますか。ギリシャ語の権威者はこの語の意味をどのように説明していますか。

      13 パルーシアという語は,文字どおりには「そばにいる」という意味を持っています。それはギリシャ語の前置詞パラ(「そば」)とオウシア(「いる」)から来ているからです。リッデルとスコットの「希英辞典」は第二巻1,343ページ,2欄にパルーシアの第一の定義として「臨在」という語を掲げ,第二の定義として到着ということばを挙げ,次いで,「特に王室の,もしくは公職にある名士の来訪」という説明をつけ加えています。これと一致して,「新約聖書神学辞典」(ゲルハルト・フリードリッヒ編)はその第五巻で,「一般的な意味」として「臨在」という語を挙げています。(859ページ)次いで同辞典は,ヘレニズム時代のギリシャ語の「専門的語法」として,「1 支配者の来訪」という説明を載せています。そして865ページでは,「新約におけるパレイミ[動詞]とパルーシアの専門的用法」に関してこう述べています。「新約においては,これらの語が肉身のキリストの到来をさして用いられることは決してなく,またパルーシアには再来という意味は決してない。パルーシアに幾つもの意味があるとする考え方が最初に認められるのは,後代の教会内だけである」。

      14 (イ)ヘレニズム時代のギリシャ語のこの語の専門的語法によれば,「臨在」の代わりにどんな表現が用いられますか。(ロ)どんな翻訳は一貫してパルーシアを「臨在」と訳していますか。フィリピ 2章12節にはどんな対照的用例が見られますか。

      14 それで,イエスの弟子たちはイエスの「到着」についてではなく,その到着後のことについて尋ねていたのです。弟子たちはイエスの「臨在」について尋ねていました。そこで,「臨在」ということばを用いる代わりに,ヘレニズム時代のギリシャ語の「専門的語法」の助けを借りるとすれば,弟子たちはイエスに次のように尋ねたと考えられるでしょう。「あなたの[王室の名士としての来訪]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。「来訪」は,「到着」以上の意味を含んでおり,「臨在」の意味を含んでいます。いわゆる新約聖書の中にパルーシアというギリシャ語は24回出ていますが,それらの箇所でそのことばを毎回「臨在」と訳出しているのは「新世界訳聖書」(英文)だけではありません。西暦1862年発行の「ヤングの逐語訳聖書」,西暦1857年から1863年にわたって編集されたウィルソンのエンファチック・ダイアグロット訳,西暦1897年発行のロザハムのエンファサイズド・バイブルのような他の翻訳も同様の仕方で訳出しています。フィリピ 2章12節では,「臨在」つまり「いる」という語と「いない」という語が,たいへん対照的に用いられていることに気づきますが,そこで使徒パウロはこう述べています。「あなたがたは常に従ってきましたが,つまり,わたしのいる時だけでなく,わたしのいない今いよいよすすんで従っています」。

      十人の処女のたとえ話

      15 イエスの予告された「しるし」に関する幾つかの特筆すべき事がらからすれば,パルーシアはどう訳出される必要がありますか。一例として,どんなたとえ話の場合がそうですか。

      15 パルーシアと,事物の体制の終結との「しるし」に関するイエスの預言の幾つかの特筆すべき事がらについて考えても,パルーシアは「臨在」という意味に解する必要があります。たとえば,賢い処女と愚かな処女のたとえ話として一般に評されている預言のあの部分を考慮してみましょう。「忠実で思慮深い奴隷」と「よこしまな奴隷」について預言したばかりのイエスは,今度はご自分のパルーシアに関連して別の特筆すべき事がらについて預言し,こう言われました。「その時,天の王国は,自分のともしびを手に取って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります。そのうち五人は愚かで,五人は思慮深い者でした。愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い者たちは,自分のともしびとともに,油を入れ物に入れていったのです」― マタイ 25:1-4; 24:45-51。

      16 たとえ話の紹介のことばによれば,それらの女はどんな意味で「処女」ですか。

      16 まず第一に,このたとえ話には人びとの一つの級が関係しており,それゆえにその成就は個々の人間の生死に適用されるものではないことに注目すべきです。ここで関係している人たちは,「天の王国」を代表しているのですから,特別の意味での「処女」です。というのは,「その時,天の王国は[だれの?]……十人の処女のようになります」とイエスが言われたからです。その王国は,イエスがもっと前にご自分の預言の中で次のように述べて言及された「王国」のことです。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:14。

      17 (イ)それらの「処女」は十人なので,だれを表わしていますか。(ロ)そのたとえ話はいつ成就し始めましたか。なぜその時からであるといえますか。

      17 「十」という数は,聖書では地的な事物の完全さを表わす数ですから,十人の「処女」は,イエス・キリストと共同で天の王国を相続する見込みのある,もしくはその見込みを持っていると唱えるクリスチャンのすべてを表わします。したがって,この預言的なたとえ話はいつ成就しはじめましたか。それは西暦33年シワン6日,日曜日のペンテコステの祭りの日のことでした。それはどうしてですか。なぜなら,その時,処女級が存在するようになったからです。というのは,エルサレムのとある二階の部屋に集合していたイエス・キリストの忠実な弟子たちが,その日,聖霊によってバプテスマを受けたからです。そうすることによって,彼らは神から生み出され,「神の相続人」また「キリストと共同の相続人」となる立場にある霊的な子となりました。(ローマ 8:17)しかし,聖書では相続人は普通息子です。それでは,このたとえ話の中で,霊によって生み出されたキリストの弟子たちの会衆の成員すべてが女性として,つまり婚礼の行なわれる夜,花婿を迎えに出かける処女の娘として表わされているのはなぜですか。また,その「花婿」とはだれですか。

      18 結婚の事がらに関連して,バプテストのヨハネは自分とイエスのことをだれになぞらえましたか。ヨハネは自分の弟子たちをだれに導きましたか。

      18 まず第一に,その「花婿」は,復活させられて栄光を受けた主イエス・キリストです。バプテストのヨハネはそうした見地からイエスについて語り,したがって自分のことを「花婿の友人」になぞらえました。当時は普通,「花婿の友人」が花婿と花嫁の婚礼の手はずを整えました。婚約したふたりが結ばれる夜には,花婿の友人よりも花婿にいっそうの注意が向けられました。それでバプテストのヨハネは,比喩的な「花婿」であるイエス・キリストのために備えさせてきた自分の弟子たちに向かってこう言いました。「わたしは……キリストではなく,そのかたに先だって遣わされた者で(す)……花嫁を持つ者は花婿です。しかし,花婿の友人は,立って彼のことばを聞くと,その花婿の声にひとかたならぬ喜びをいだきます。そのわけで,わたしのこの喜びは満たされているのです。あのかたは増し加わってゆき,わたしは減ってゆかねばなりません」。(ヨハネ 3:28-30)それで,ヨハネが自分の弟子たちをイエスに導いたのはもっともなことです。

      19,20 (イ)イエスは,たとえ話やヨハネへの啓示の中でご自身をどのように花婿になぞらえておられますか。(ロ)それに対応して,新しいエルサレムは何と呼ばれていますか。

      19 一方,イエスは独自の別のたとえ話をして,その中でご自分を花婿になぞらえました。それはある王が息子のために準備した「婚宴」のたとえ話で,その息子は,永遠の大いなる王エホバ神のみ子を表わしています。(マタイ 22:1-14)また,イエス・キリストが神から受けて使徒ヨハネに伝えた啓示の書の中で,神の子羊としてのイエスはその弟子たちの会衆と結婚する花婿にたとえられ,そのことがこう記されています。「喜び,そして喜びにあふれよう。また,神の栄光をたたえよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである。そして彼女には,輝く,清い,上等の亜麻布で自分を装うことが許された。上等の亜麻布は聖なる者たちの義の行為を表わすのである。……こう書きなさい。子羊の結婚の晩さんに招かれた者たちは幸いである」。さらに使徒ヨハネは,自分のところにやって来たみ使いについて次のように述べています。

      20 「[彼は]わたしと話をしてこう言った。『こちらに来なさい。子羊の妻である花嫁をあなたに見せよう』。そうして彼は,霊の力のうちにわたしを大きく高大な山に運んでゆき,聖なる都市エルサレムが,天から,神のもとから下ってくるのを,そして神の栄光を携えているのを見せてくれた」。―啓示 19:7-9; 21:9-11。

      21 エフェソス 5章23-27節でパウロは,イエス・キリストとその会衆の関係を何になぞらえていますか。

      21 使徒パウロは,イエス・キリストと14万4,000人の共同相続者のその会衆との関係を夫と妻のそれになぞらえて,こう書いています。「夫は妻の頭…です。それは,キリストが会衆の頭であり,この体の救い主であられるのと同じです。そうです,会衆がキリストに服しているように,妻もすべての事において夫に服しなさい。夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し,そのためにご自分を渡されたのと同じようにです。それは,会衆を神聖なものとし,みことばによる水の洗いをもってそれを清めるため,そして,輝かしいばかりの会衆をご自身の前に立たせ,こうしてそれが,汚点やしわ,またそうしたものの何もない,神聖できずのないものとなるためでした」― エフェソス 5:23-27。

      22 その結婚はどこで行なわれますか。イエスのたとえ話は,花婿のめとる花嫁についてはなぜ言及されていませんか。

      22 もちろん,花婿であるイエス・キリストと「花嫁」であるその会衆との結婚は天で行なわれます。そこで彼らは,天の父エホバ神の祝福を得て,結び合わされるのです。それにしても,十人の処女のたとえ話の中では,花嫁については何ら言及されていないことに注目すべきでしょう。それは思考上の混乱を避けるためです。なぜなら,実際のところ,「花嫁」は「十人の処女」そのものの中から取られる,もしくは選ばれるからです。選ばれた「処女」は,「子羊の結婚の晩さんに招かれ」る「幸い」な人たちです。(啓示 19:9)このことと一致して,イエスのたとえ話は,資格のある「処女」たちのことを,扉を通って婚宴の催される部屋に入って行く者として示しています。たとえ話は,彼女たちがいったいどのようにして資格を得るかをさらに説明しています。

      23 キリストの会衆の成員は「処女」にたとえられていますが,それゆえに彼らには何が要求されていますか。

      23 キリストの花嫁である会衆の成員は,童貞である花婿と婚約をしているという以上の理由で「処女」にたとえられています。彼女たちはさらに霊的な意味で「処女」といえます。処女の娘は清くて,貞潔で,性的に触れられていないのと全く同様,クリスチャン会衆のそれら忠実な成員はこの世の宗教および政治組織との関係を一切持たず,この世から離れることによって純粋で,清くなければなりません。彼らは教会と国家の結合にはいっさい加わりません。この世の事がらに巻き込まれないようにして,自分たちの霊的な処女性を保持します。(テモテ第二 2:3,4)これこそ,霊的なシオンの山に神の子羊とともに立っているのが見えた14万4,000人の者たちについて次のように言われていることの意味なのです。「これらは女によって自分を[宗教上の娼婦,大いなるバビロンとその娘たちのように]汚さなかった者である。事実,彼らは童貞である。これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである」― 啓示 14:4; 17:3-5。

      24 処女にたとえられている人たちに要求されている清さについて,ヤコブ 1章26,27節は何と述べていますか。

      24 要求されている清さに関して弟子ヤコブはこう述べています。「自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても,自分の舌にくつわをかけず,自らの心を欺いている人がいれば,その人の崇拝の方式は無益です。わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:26,27。

      「花婿」を出迎える

      25 キリストの会衆は西暦33年のペンテコステの際,どのようにして,神の見地から見て純粋で汚れのない宗教をもって発足しましたか。そのことを示すどんな証拠を彼らは持っていましたか。

      25 エルサレムで待機していた,イエス・キリストの忠実な弟子たちの上に聖霊がバプテスマを施すかのように下った西暦33年のペンテコステの祭りの日に,クリスチャン会衆は,「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式」をもって発足しました。彼らは,イエス・キリストを退けてローマ総督ポンテオ・ピラトによってイエスを杭につけて殺させた宗教組織と関係を絶った,霊的な意味での処女級でした。(使徒 2:1-42)彼らはメシアなるイエスの教えおよびその十二使徒の教えを奉じて活動を開始し,誤った考えに支配された父祖たちから伝えられた非聖書的な宗教上の伝承に夢中になっていた,あの「曲がった世代」から自らを守りました。(使徒 2:40。ガラテア 1:13-17。マタイ 15:1-9)聖霊によるバプテスマを受け,異言の賜物を得たことは,彼らが真の宗教を有していることの証拠でしたし,彼らはまた,そのことを知っていました。今や彼らはそうした点で「処女」として留まっていなければなりませんでした。

      26,27 (イ)霊的な意味において,クリスチャン会衆は西暦33年のペンテコステにさいして,だれの許嫁となりましたか。(ロ)「花婿の友人」に似たパウロは,コリント第二 11章2-5節でクリスチャンたちにどのように語りましたか。

      26 クリスチャン会衆が天的な花婿イエス・キリストに娶られることになり,許嫁になり,婚約したのはその日(西暦33年シワン6日)のことでした。エルサレムで発足した120人の弟子たちで成るその最初の会衆にその後加わった人たちはみな,その許嫁級の一員となり,そして「処女」としての自らの立場を守らねばなりませんでした。イエス・キリストとの婚約を破棄して,偽キリストと結婚することのないよう,コリントのクリスチャンを戒めた使徒パウロが言及しているのは,そのことなのです。「花婿の友人」に多少似ているパウロはこう述べます。

      27 「わたしは敬神のしっとをもってあなたがたをしっとしているのです。あなたがたを貞潔な処女としてキリストに差し出すため,わたし自身があなたがたをただひとりの夫に婚約させたからです。しかしわたしは,へびがそのこうかつさによってエバをたぶらかしたように,あなたがたの思いが腐敗させられて,キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れるようなことになりはしまいかと気づかっているのです。現状では,だれかが来てわたしたちが宣べ伝えたものとは別のイエスを宣べ伝えても,あるいは自分が受けたものとは別の霊を受け,自分が受け入れたものとは別の良いたよりを受けても,あなたがたはその者を簡単に容認してしまうからです。わたしは,あなたがたの優秀な使徒たちにただの一事といえども劣っていないと考えているのです」― コリント第二 11:2-5。

      28 イエスおよびみ使いたちは,イエスがユダヤ人の花婿のようにやって来て弟子たちを家に連れてゆくであろうことを,彼らにどのように語りましたか。

      28 彼らは将来のいつか,つまり西暦33年のペンテコステの日に許嫁となった後の遠い後代のいつの日かに,天の童貞の花婿と結婚することになりました。それより52日前のこと,不忠実な使徒ユダ・イスカリオテに裏切られる夜,イエスはご自分の忠実な使徒たちにこう言われました。「わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったなら,わたしはあなたがたに告げたことでしょう。わたしはあなたがたのために場所を準備しに行こうとしているのですから。そしてまた,わたしが行ってあなたがたのために場所を準備したなら,わたしは再び来て,あなたがたをわたしのところに迎えます。わたしのいる所にあなたがたもまたいるためです。そして,わたしが行こうとしている所への道をあなたがたは知っています」。(ヨハネ 14:2-4)それから42日の後,幾人かの弟子たちの眼前でイエスがオリーブ山の上から空に昇ってゆかれたとき,ふたりのみ使いが弟子たちに現われて言いました。「ガリラヤの人たちよ,なぜ空をながめて立っているのですか。あなたがたのもとから空へ迎え上げられたこのイエスは,こうして,空にはいって行くのをあなたがたが見たのと同じ様で来られるでしょう」。(使徒 1:9-11)したがって,弟子たちは,以前イエスから保証されていたとおり,去っていったイエスが結婚式の夜のユダヤ人の花婿のようにやって来て,自分たちを天の父の住まいに連れて行くであろうことを知っていました。―ヨハネ 14:1-3。

      29 (イ)「処女」級はいつ花婿を迎えるために出かけましたか。(ロ)ここでどんな質問が生じますか。二種類の処女の人数が等しいことは何を示していますか。

      29 結婚の祝典に関するそうした期待を抱いて,許嫁の処女級は花婿を迎えて歓迎し,花婿とともに喜ぶために出かけました。彼女たちは油断なく見守っていなければなりませんでした。「その日もその時刻も」知らなかったからです。(マタイ 25:13)西暦33年のペンテコステの日に出かけた人たちと,その後彼らに加わった幾千人もの人たちのうち何人が,そのたとえ話の「思慮深い」処女のようであり,また何人が「愚かな」つまり無思慮な処女であることを示しましたか。このたとえ話は,思慮深い者たちと愚かな者たちの人数が等しいことを示していますが,それは実際に出かける人すべてに平等の機会があることを示すためであって,いずれか一方の処女たちが他方のそれより多いことを示すためではありません。そのことは明示されずに終わっています。しかし,出かけてゆく「処女」たちすべてが,宴の部屋に入って「子羊の結婚の晩さん」を楽しむのを許されるにふさわしい者であることを証明するわけではありません。このたとえ話は確かにそのことを示しています。―ルカ 12:35-38。

      30 (イ)思慮深い処女たちを愚かな処女たちから区別するものとなったのは何ですか。(ロ)すべての者が灯のともったともしびを携えて出かけましたか。ゆえに,その点で非常に重要だったのはどんな問題でしたか。

      30 では,思慮深い,あるいは分別のある処女たちを無思慮な,あるいは無分別な処女たちから区別するものとなったのは何ですか。これです。「愚かな者たちは自分のともしびを持ちましたが,油を携えていかず,一方,思慮深い者たちは,自分のともしびとともに,油を入れ物に入れていったのです」。(マタイ 25:3,4)しかし彼女たちはみな,歓迎の行列の最後までずっとともしびをともしておくなら,自分たちの身分を証明できる,つまり自分たちが婚宴に連なる許しを得るのにふさわしいことを証明できる,ということを知っていました。しかし,そのためには,結婚の祝賀行列が花婿の家に着くまでともしびの灯を保たせるに足る油が必要でした。たとえ話の成就についていえば,その油は何を表わしていますか。彼女たちは花婿の到着が知らされる前に花婿を迎えようとして出かけて行ったので,彼女たちが出かけたとき,ともしびの灯はともっていました。ですから,少なくともその時,彼女たちのランプには油が入っていました。しかしそれは,結婚の祝賀行列が花婿の家に入る時までともしびの灯をともし続けるに足るものでしたか。

      31,32 (イ)このたとえ話の目的は,それら象徴的な「処女」たちに関して何を示すことでしたか。(ロ)フィリピ 3章20,21節でパウロが言い表わしているように,彼らはどんな態度を保って待ち望まねばなりませんか。

      31 その油は灯油でしたから,その油がなければ,ランプの芯は一定の光を絶え間なく照らすことはできません。灯のともったランプを彼女たちが婚宴に携えて行くということは何を象徴していましたか。この疑問に答えるには,イエスがこのたとえ話を述べた目的を思い起こさなければなりません。その目的とは,天的な結婚式に参列したいと願う人たちは特定の身分証明を携える,つまり特定の人格を身につけていなければならないこと,また結婚の祝賀行列がいつ開始されて続けられ,ついに「花嫁」のための「花婿」の家に着くにしても,そうした状態を最後まで保たねばならないということを示すことでした。一つには,「天の王国」級の人たちは,地上のこのまっ暗な世界のただ中にあって,霊的な面で「処女」のままでいなければなりませんでした。彼らは自分たちの希望を天的な花婿に向けており,またそうした態度ゆえに,汚れた世のために自らを汚すわけにはゆきませんでした。彼らは「子羊の行くところにはどこへでも従って行」かねばなりません。(啓示 14:4)彼らは次のように述べた使徒パウロのような態度を保たねばなりません。

      32 「わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリストが来られるのをせつに待っています。彼はその持つ力,すなわちいっさいのものをご自分に服させるほどの力の働きにより,わたしたちの辱しめられた体を作り替えてご自分の栄光ある体にかなうものとしてくださるのです」― フィリピ 3:20,21。

      33 (イ)彼らは霊的な意味でのこの処女性をいつまで,また何にふさわしいことを証明するために,保たねばなりませんか。(ロ)受け入れられるにふさわしいそうした状態を彼らが反映させることについて,イエスはどのように話しましたか。

      33 ゆえに彼らは,天的な花婿にその「花嫁」として受け入れられるにふさわしいことを実証したいとの願いと決意のゆえに,霊的な意味での処女性を保っています。彼らの日常生活は,人類のこの世の暗闇のただ中で,そのことを反映させるものでなければなりません。西暦31年に述べた山上の垂訓の中で,花婿イエス・キリストは弟子たちにこう言われました。「あなたがたは世の光です。都市が山の上にあれば,それは隠されることがありません。人はともしびをつけると,それを量りかごの下ではなく,燭台の上に据え,それは家の中にいるすべての者の上に輝くのです。同じように,あなたがたの光を人びとの前に輝かせ,人びとがあなたがたのりっぱな業を見て,天におられるあなたがたの父に栄光を帰するようにしなさい」― マタイ 5:14-16。

      34 フィリピ 2章14-16節のパウロのことばによれば,クリスチャンはどのように光を輝かすべきでしたか。

      34 使徒パウロはまた,仲間のクリスチャンにこう言いました。「すべての事を,つぶやかずに,また議論することなく行なってゆきなさい。それはあなたがたが,とがめのない純真な者,また,曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子どもとなるためです。その中にあって,あなたがたは世を照す者として輝き,命のことばをしっかりつかんでいます。こうしてわたしはキリストの日に,自分がむだに走ったりむだにほねおったりはしなかったという,歓喜の理由を持てるのです」― フィリピ 2:14-16。

      35 それで,処女たちが灯をともしたランプを掲げることは何を表わしていますか。また,何を期待してそうするのですか。

      35 「天の王国」級の人たちが「世の光」として輝くためには,彼らは天の父に栄光をもたらす「りっぱな業に携わらねばなりません。つぶやいたり,議論したりしないですべての事を行なわねばならず,またクリスチャンとしての生活に関する限り,自らをとがめる所のない,純真な者として保ち,神の子どもとしてきずのない者であることを実証しなければなりません。彼らは,花婿がやって来て,天の父の家に連れていってもらうことを期待しながら,そうしなければならないのです。処女たちが灯のともされたランプを掲げることは,彼らがこうした事がらすべてを行なうことを表わしています。それは世の暗闇の夜のさなかで花婿を大いに喜ばせるものなのです。

      象徴的な油と入れ物

      36 灯油としてのその「油」は何を表わしていますか。

      36 では,その油,つまり灯油は何を表わしていますか。それは「天の王国」級の人たちに,まっ暗な世のただ中で光を照らす者として絶えず光を輝かさせるものを象徴しています。したがってそれは,彼らが「しっかりつかんで」いなければならない「命のことば」を表わしています。それはこう記されているからです。「あなたのみことばはわたしの足のともしび,わたしの道の光です」。(詩篇 119:105,新)「あなたのみことばを開けば光が放たれ,無経験な者に理解を得させます」。(詩篇 119:130,新)また,油によって表わされているものの中には,神の聖霊も含まれています。なぜなら,神のこの見えない聖なる活動力は,神のみことばを理解するよう人を助けるものだからです。(ヨハネ 16:13)クリスチャンのうちにあるこの聖霊は,霊の結ぶ実,つまり愛・喜び・平和・辛抱強さ・親切・善良・信仰・柔和・自制などの霊の実となって表わし示されます。(ガラテア 5:22,23)このような霊的な「油」には,ともしびをともす力があります。

      37 処女たちが自分の「入れ物」に油を蓄えて持っていることは何を表わしていますか。なぜそう言えますか。

      37 このたとえ話の中の「処女」たちは,自分の入れ物に油を蓄えておき,携えて行ったランプに注ぎ足せるようにしておかねばなりませんでした。油を飲んで自分のからだを「入れ物」替わりにし,必要に応じて油を吐きもどしてランプに入れて,ともしびをともし続けるわけにはゆきませんでした。それにしても,油を満たした入れ物を持っているということは,もちろん自分のからだを入れ物替わりにしてではありませんが,油を蓄えて持っていることを意味しました。ゆえに,「天の王国」級の人びとは確かに,自らのうちに神のみことばとその聖霊を蓄えて持っています。それで適切にも,たとえ話の中で描かれている「入れ物」は,象徴的な「油」の所持者である「処女」級の成員そのものを表わしています。確かに彼らは,花婿を迎えるために出かけて行ってその行列に加わる際,そうした「油」の十分の量の蓄えを必要としています。

      38 では,処女たちのランプは何を象徴していますか。それはどんな仕方で光輝きますか。

      38 たとえ話の中の十人の処女は,灯油のランプを用いて夜半の光景を明るく照らしました。では,たとえ話の成就において,それらのランプは今日何を表わしていますか。それは油の「入れ物」が表わしているのと同じものです。というのは,昔のランプは蓄えを入れる「入れ物」の場合と同様,灯油を入れて携えることができたからです。「天の王国」級の成員は自らが象徴的なランプなのです。彼らは油を十分に飲み,次いで全身に油を注ぎ,わが身に火を放って花婿のために自らを犠牲にする殉教者のように行列の道筋に並んで「生きたたいまつ」になるわけではありません。そうではなくて,啓発を与える神のみことばとその聖霊で満たされているのです。それゆえに,彼らは輝かしい天の花婿を祝うべく霊的な仕方で光輝くのです。彼らはその霊的な特質のゆえに,「世を照らす者」となっています。彼らは神のみことばと霊の影響を受けて営んでいる生活のゆえに光輝いており,神に栄光を帰しています。

      39 (イ)「処女」たちは花婿を迎えるのにどれほど待たねばならないかは知りませんでした。なぜですか。(ロ)それで,思慮深い処女たちは,どうするのが賢明なことに気づきましたか。

      39 花婿が花嫁をもらった家を夜何時に出て行列を伴い,結婚生活をする自分の家に戻って来るかは決められていなかったので,たとえ話の中の処女たちは花婿が姿を現わすまでどれほど待たねばならないかを正確には知りませんでした。それで,携えていたランプをどれほどの時間ともし続けねばならないかは知るよしもありませんでした。ですから,油を満たしたランプだけでなく,ほかにも油を満たした入れ物を携えるのは賢明なことでした。「思慮深い」もしくは分別のある処女たちはそのことを認め,灯をともしたランプとともに,「油を入れ物に入れて」持って行きました。「愚かな」あるいは無思慮な,つまり無分別な処女たちはそうしなかったので,時が経つにつれてこの点での愚かな態度が明らかになりました。

      40 (イ)たとえ話の成就についていえば,「思慮深い」処女級は,どのようにして自分たちの入れ物に油を入れて持って行きますか。(ロ)それは彼らが自分たちの花婿との婚約関係を保っていることを証明するのに,どのように助けとなりますか。

      40 このたとえ話の成就についていえば,「思慮深い」五人の処女で表わされている人たちは,いわば神のみことばを自分の内に満たし,自分個人の研究により,また神のみことばが教えられ,討議されるクリスチャンの集会に出席することにより,そして神のそのみことばを他の人びととわかち合って用いることにより,みことばを思いと心に留めることによって,自分たちの入れ物に余分に入れて持っているのです。彼らは神の霊を祈り求め,絶えず「霊に満たされ」るよう努力しています。(エフェソス 5:18)彼らはこうして霊の「油」に満たされているので,将来いつなんどき緊急事態に面しても,忍耐の力を新たにし,天の花婿との婚約関係をまさしく固守している証拠として「世の光」のように輝き続けられるよう助けが得られます。

      花婿が遅れている間に

      41 (イ)異邦人が初めて,花婿を迎えに出かけた「貞潔な処女」級の一員となったのはいつですか。(ロ)西暦70年にはユダヤ人の身の上に何が起きましたか。それゆえに,その時,「処女」たちは花婿に会いましたか。

      41 西暦36年の秋,割礼を受けていない非ユダヤ人つまり異邦人が,神の見地から見て「清く,汚れのない崇拝の方式」であるキリスト教に改宗できるよう扉が開かれました。それら信仰の厚い異邦人は,西暦33年のペンテコステの日にユダヤ人の信者が受けたと同様の神の聖霊とその賜物を受けました。(使徒 10:1から11:18; 15:7-19)こうして,それらの人たちも,キリストと「婚約」している「貞潔な処女」級の一員になりました。(コリント第二 11:2)その時以来,彼らは「十人の処女」のたとえ話の成就にあずかり,このたとえ話のことばづかいを借りていえば,彼らは「自分のともしびを手に取って花婿を迎えに出」ました。西暦70年にはエルサレム市とその壮麗な神殿はローマ軍団によって滅ぼされました。その恐るべき滅びはキリスト教に反対する不信仰なユダヤ人に対する神の裁きの表明でしたが,「貞潔な処女」級は,自分たちが歓迎するために出かけた天の花婿には出会いませんでした。―ルカ 21:20-24。マタイ 24:15-22。マルコ 13:14-20。

      42,43 (イ)第一世紀も終わりに近いころ,希望をいだく「貞潔な処女」級はどんな啓示で励まされたに違いありませんか。しかし,その啓示はどのように終わりましたか。(ロ)その後に書いた最初の手紙の中で,ヨハネは,だれがいることをすでに指摘していますか。

      42 何年かが過ぎ去り,西暦1世紀も終わりに近い西暦96年ごろ,使徒ヨハネは,天の花婿イエス・キリストと,新しいエルサレムとして描かれているその「花嫁」のことを明らかにした驚くべき啓示を受けました。(啓示 21:1から22:17)これは戻って来る花婿に会うことを依然として期待し続けていた「貞潔な処女」級にとって,測り知れない励みとなったに違いありません。とはいえ,天の花婿はその啓示を結ぶにあたって,こう述べました。「これらのことについて証しされるかたが言われる,『しかり,わたしは速やかに来る』」。それに対して,年老いた使徒ヨハネは答えました。「アーメン! 来たりませ,主イエスよ」。次いでヨハネはこう付け加えて結んでいます。「主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちとともにありますように」。(啓示 22:20,21)恐らくそれから2年後の西暦98年ごろ,使徒ヨハネは彼の三通の手紙の最初のものを書き,その中で次のように述べました。

      43 「幼子たちよ,いまは終わりの時です。そして,あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります」。「わたしたちは,すべて神から生まれた者が罪をならわしにしないこと,神から生まれたかたがその者を見守ってくださり,邪悪な者が彼をとらえてしまうことがないのを知っています。また,わたしたちが神から出,全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています」― ヨハネ第一 2:18; 5:18,19。

      44 (イ)ですから,ヨハネの死は,だれの到来する道を開くものとなりましたか。(ロ)その時分には,「十人の処女」級のランプの灯はどれほど明るくともされていたに違いありませんか。花婿に会うということに関しては,どんな希望がありましたか。

      44 疑いもなく「子羊の十二人の使徒」の最後の人であった年老いた使徒は,その三通の手紙や,またヨハネの福音書として知られるイエスの生涯の記録を書いた後,ほどなくして亡くなったに違いありません。したがってヨハネの死去により,花婿キリストではなく,ヨハネの警告していた反キリストが入って来る扉が徐々に開かれることになりました。(テサロニケ第二 2:7,8)次いで,「世の光」はほとんど消えました。「十人の処女」で表わされた人たちの級の象徴的な「ともしび」は,ほとんど燃えつきたに違いありません。実際,真の「処女」たちの数はごく少なくなったに違いありません。他の関心事,つまり主イエスの再来に対する望みよりはむしろ世俗的な物質上の関心事が,単にクリスチャンと称する人たちの注意を占めたに違いありません。相当長い時間が経ちましたが,彼は現われませんでした。

      45 「花婿が遅れている間に,彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました」ということばは,特にコンスタンティヌスの時代までにどのように成就しましたか。

      45 このことは十人の処女に関するたとえ話の中で次のように予告されていました。「花婿が遅れている間に,彼女たちはみな頭を垂れて眠り込んでしまいました」。(マタイ 25:5)同様に,クリスチャン会衆と称する宗教団体の内部では成員たちは花婿の到来を待ちくたびれるようになりました。事実,コンスタンティヌス大帝がいわゆる「改宗」を行ない,当時の見せかけのキリスト教をローマ帝国の国教とするに及んで,キリストの再来は必要ではないように見えました。今やキリスト教世界が確立され,諸教会の司教の多くはローマ政府と同盟を結び,宗教的な意味において統治し始めました。イエス・キリストの正真正銘の使徒たちが死の眠りについていただけでなく,キリスト教の自称司教たちもクリスチャンの責任に関して眠ってしまいました。つまり,クリスチャン会衆を人間の哲学や伝承から遠ざけ,純粋さを保たせ,また神のみ前における清くて汚れのない崇拝の様式の点で全く純粋で,全然しみのない状態を保たせる必要性に目を閉ざしました。

      46 (イ)こうして「十人の処女」級が眠ることは,小麦と雑草のたとえ話の中でイエスの予告したどんな事がらと,どのように類似していますか。(ロ)霊的な意味でその眠りはどれほどの期間続くことになっていましたか。たとえ話の終わりの特筆すべき事がらの成就は,どんな時代に位置づけられることになっていましたか。

      46 こうした宗教事情は,小麦と雑草に関するイエスのたとえ話の中で描かれている事がらと類似しているようです。その話の中でイエスはこう言いました。「天の王国は,自分の畑にりっぱな種をまいた人のようになっています。人びとが眠っている間にその人の敵がやって来て,小麦の間に雑草をまき足して去りました」。(マタイ 13:24,25)長い成育期を経たのち初めて,収穫期が訪れ,たとえ話の中のその「人」がやって来て収穫作業を行ない,雑草は引き抜き,純粋の「小麦」は集めて倉庫に入れるよう命ずる時が来ます。興味深いことに,このたとえ話全体を説明するにさいして,イエスは,その使徒たちがマタイ 24章3節に記されている質問を彼に尋ねたときに用いたのと同じ表現を用いました。イエスは言われました。「収穫は事物の体制の終結で(す)」。(マタイ 13:39)この世の事物の体制の終結までにはなお長い時間が残されていたので,「十人の処女」のたとえ話の中で予告されていた眠りは,長い眠りとなりました。処女のたとえ話の終わりの特筆すべき事がらの成就は,わたしたちが「事物の体制の終結」の時期にいることを示す「しるし」の一部を成すことになっていました。

      [脚注]

      a キャンベル,マクナイトおよびドッドリッジ共訳,「イエス・キリストの使徒および福音宣明者たちの記した,一般に新約と呼ばれる,聖なる著作」,1828年版。

  • 「さあ,花婿だ!」
    神の千年王国は近づいた
    • 11章

      「さあ,花婿だ!」

      1 「十人の処女」が眠りに陥った,その長い不定の期間中に,だれに関するかぎり人を興奮させるような事がらが生じますか。どんな宗教的覚醒の生じた後は特にそうでしたか。

      イエスのたとえ話の中で予告されていた,眠りに陥ったその長い不定の期間中に,象徴的な「処女」たち,特にそれぞれ入れ物に余分の油を蓄えて携えていった「思慮深い」処女たちにとっては,彼女たちを興奮させるような事がらが幾つか生じたに違いありません。西暦16世紀初頭に宗教的覚醒が生じ,天与の真理を収めた唯一の書で,花婿キリストの追随者のための霊感を受けた真の道しるべである,霊感のもとに記された聖書に帰る努力がヨーロッパで精力的に払われるようになった後は特にそうです。再び来るとのキリストの約束は,聖書の誠実な読者や研究者にひとかたならぬ感銘を与えました。彼らはその再来が至福千年期前に,すなわち至福千年期の始まる前に生ずるであろうことに気づきました。この千年期はサタンが縛られ「底なき坑」つまり「底知れぬ深み」に幽閉されることにより印づけられることになっています。

      2 人びとを宗教面で興奮させるそうした事がらに関して,ルーテル派の神学者J・A・ベンゲルはどのように一役演じましたか。

      2 たとえば,18世紀の前半には,ヨハン・アルブレヒト・ベンゲルというルーテル派の神学者が現われました。彼は西暦1687年にドイツ,ウェルテンベルクのウインネンデンで生まれ,1752年に死にましたが,聖書に関する書物を何冊か著わしました。ブリタニカ百科事典(第11版)はそれらの著書についてこう述べています。

      さらに重要な著作としては,オルド・テンポルム[時代の秩序]と題する,聖書の年代表に関する論文がある。その中で彼は,世の終わりに関する考察を紹介している。また,ドイツでしばらくの間たいへん好評を博した「黙示録詳説」と題する著書がある。これは数か国語に翻訳された。―第3巻,737ページ。

      マクリントクおよびストロング共編,「百科事典」は,ベンゲルについてこう述べています。

      「獣の数字」や,「千年期」(彼は確信をもって,千年期の始まりを1836年と決めた)の始まる年などを決めようと試みた彼の年代学的著作は,かえって判断の堅実さに関する彼の評判を落とすものとなった。―第1巻,749,750ページ。

      3 (イ)出版されたベンゲルの著作はなぜ花婿に関する夜半の叫び声を意味するものとはなりませんでしたか。(ロ)ほかにマサチューセツ州ピッツフィールドのウィリアム・ミラーは,人びとを興奮させるものをどのようにもたらしましたか。

      3 しかしながら,18世紀前半に出版されたベンゲルの著書は,「見よ,花婿だ! 迎えに出よ」;「さあ,花婿だ! 迎えに出なさい」という夜半の叫び声を意味するものではありませんでした。(マタイ 25:6,改訂標準訳; 新世界訳)ベンゲルの出版物に従い,その述べる所に応じて行動した人たちは,1836年に,見える肉身の姿で再来する天の花婿を迎えはしませんでした。やがて,「貞潔な処女」級の成員と称するクリスチャンの間ではほかにも彼らを揺り動かす事がらが起きました。特に,1781年にアメリカ,マサチューセツ州ピッツフィールドに生まれたある人に関する事がらがそれです。その人はいわゆるミラー説信奉者もしくはアドベンティスト派の創立者となったウィリアム・ミラーです。マクリントクおよびストロング共編,「百科事典」はその第6巻,271ページでこう述べています。

      1833年ごろ,ニューヨーク州ロー・ハンプトンに住んでいた彼は,新しい教理の主唱者としての生涯を始め,世の終わりは1843年に到来すると説いた。彼の信仰の根拠となった主要な論議は,ダニエル書 8章14節にある2,300日の満了に関する論議であり,彼はそれらの日を年とみなした。次いで彼は,ダニエル書 9章24節の七十週を前の草の2,300日の期間を算定する鍵と考え,その期間を,ペルシアの王アルタクセルクセスがエルサレムにユダヤ人国家を再興させるべくエズラを釈放して派遣した(エズラ書 7章)紀元前457年から起算し,注釈者が一般に行なうように,その七十週の終わりをキリストの十字架上の死を招いた紀元33年と計算したので,2,300日の残りである1,810年は1843年に終わるということを知ったのである。その後10年間,彼はこうした趣旨の主張を堅持し,軽信から生ずる期待をいだいて約束の日を待望した大勢の追随者を集めることに成功し,その数は5万人に達したとされている。しかしながら,結果は彼らの主唱者の教えに反するものとなり,時おりアドベンティスト派と呼ばれる彼らは,徐々にミラーを見捨ててしまった。彼は1849年12月20日,ニューヨーク州ワシントン郡ロー・ハンプトンで死去した。

      4 (イ)ミラーの運動は,夜半の叫び声を意味するものとはなりませんでした。どうしてですか。(ロ)その30年後,独立した聖書研究者たちのグループは,キリストが再び来ることに関して何を悟りましたか。

      4 それで,ミラー説信奉者の運動開始は,「さあ,花婿だ!」という夜半の叫び声を意味するものとならなかったのは明らかです。天の花婿は1843年に目に見える肉身の姿でそれらアドベンティスト派の信者に現われて,狂喜する彼らをその待望の天の住まいに連れて行ったりはしませんでした。それにもかかわらず,聖書の研究は続行されました。それから30年後のこと,アドベンティスト派とは無関係の,すなわちキリスト教世界の諸宗派のいずれとも提携していない人たちの小さなグループが,アメリカ,ペンシルバニア州ピッツバーク(アレゲーニー)で聖書研究を行なっていました。彼らは宗派的な色眼鏡で聖書を見るのを避けるため,独立して研究しました。それらの人たちの中に,20代に入って間もないチャールズ・テイズ・ラッセルがいました。もちろん彼らは,天の花婿イエス・キリストが再び来ることに強烈な関心をいだいていました。それにしても,聖書研究を行なった結果,彼らはキリストの再来は目に見えるものではないこと,つまり肉体を備えて人間として現われる場合のように,肉身で目に見える様でではなく,もはや血肉を備えてはいないゆえに,霊者として見えない様で再来するということを悟りました。したがって,キリストの到着は人間の目には見えませんが,その到着はキリストの側からすれば,目に見えない臨在もしくはパルーシアの始まりとなります。しかし,それは種々の証拠によって明らかに示されるのです。

      「七つの時」―「異邦人の時」

      5 彼らは自分たちの研究を続けてゆくうちに,イエスが指摘されたどんな期間について考察しましたか。1876年,その期間の終わりについてラッセルはどんな事を発表しましたか。

      5 それら探求心の強い研究者たちは聖書研究を続けてゆくうちに,ルカ 21章24節(改標)でイエスの言及された「異邦人の時」に関する問題を取り上げて考察し,その異邦人の時をダニエル書 4章16,23,25,32節で4回指摘されている「七つの時」と結びつけました。それら聖書研究者たちは,地に対する異邦人支配の続く「七つの時」が神のみ前で合法的に終わるのはどの年であると断定しましたか。当時,ニューヨーク市ブルックリンでジョージ・ストルズという人が,「バイブル・イグザミナー」と呼ばれる月刊誌を発行していました。1876年のこと,24歳のラッセルはその問題に関する一文を同誌に寄稿し,それは同年10月号,第21巻1号に発表されました。ラッセルの記事はその号の27,28ページに,「異邦人の時; それはいつ終わるか」という題で発表されました。その記事(27ページ)の中でラッセルは述べました。「七つの時は紀元1914年に終わるであろう」。

      6 (イ)1877年,ラッセルはどんな本の発行に参画しましたか。その本は,異邦人の時の終わりについて何と述べましたか。(ロ)次いで採用された年表によると,人類生存の6,000年の終わりはいつであると示されましたか。しかし,第七千年期はどの年に始まると考えられましたか。

      6 翌年(1877年),ラッセルはニューヨーク州ロチェスターのネルソン・H・バーバーという人に加わり,「三つの世界およびこの世界の収穫」と題する本を発行しました。その本は,西暦1914年における異邦人の時の終わりに先立って,3年半の収穫の開始によって印づけられる,西暦1874年に始まる40年の期間が先行することを明らかにしました。その収穫は,1874年に臨在もしくはパルーシアを開始した主イエス・キリストの目に見えない指導のもとでなされていると解されました。その後まもなく,モーセの律法のもとでユダヤ人が守った古代の「ヨベル」によって予表されていた,人類のための対型的な大いなるヨベルが始まったと解されました。(レビ記 25章,新)その後採用された聖書年表によると,地上における人類生存の6,000年は1872年に終わりましたが,主イエス・キリスとは人類生存のそれら六千年の終わりではなく,対型的なヨベルの始まった1874年の10月に来ました。この1874年は,人類に罪が入って以来の六千年の終わりの年と計算されました。そして,この後者の年以来,人類は第七千年期に入っていると解されたのです。―啓示 20:4。

      7 (イ)1879年にラッセルが宗教誌を発行したとき,その名称にはなぜ「およびキリストの臨在の告知者」という表現が含まれていましたか。(ロ)その「臨在」が1914年における異邦人の時の終わりに達した時,何が起きることになっていましたか。

      7 この問題に対するこうした理解からすれば,「貞潔な処女」級は,1874年に天の花婿を迎えるべく出かけ始めました。というのは,彼らは花婿がその年に到着し,以来目に見えない様で臨在していると信じていたからです。彼らは目に見えない様で臨在する花婿の面前ですでに生活していると感じました。こうした事実のゆえに,チャールズ・T・ラッセルは1879年の7月に独自の宗教誌を発行し始めたとき,彼はその雑誌を「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」という題名で発行しました。彼はマタイ 24章3節その他の箇所のギリシャ語パルーシアを「来る」ではなく,「臨在」と訳出したウィルソンのエンファチック・ダイアグロット訳にすでに精通していました。その新しい雑誌は,キリストの見えない臨在が1874年に始まったことを告げ知らせました。その臨在は1914年における異邦人の時の終わりまで続き,その年には異邦人諸国家が滅ぼされ,「貞潔な処女」級の残れる者は,死んで霊者として命に復活させられることによって,天にいる彼らの花婿とともに栄光を受けるものと考えられました。こうして,五人の賢い処女で表わされた級の人たちは,戸口を通って中に入り,結婚式に連なるのです。

      8 (イ)「貞潔な処女」級の残れる者は,何を切に待ち望みましたか。なぜですか。(ロ)その日の朝,ニューヨーク市ブルックリンで働く本部職員に対して,ラッセルはどんな発表を行ないましたか。

      8 何年かが過ぎ去り,時がいっそう迫るにつれて,「貞潔な処女」級の残れる者は関心の強烈さを募らせながら,1914年10月1日のその重大な日のことを考えました。それらの人たちはこの汚れた世から分かれ,キリストを通して神のために全く「聖別された」クリスチャンの一つの級を成しており,彼らは神のためのそうした「聖別」を水の浸礼で象徴しました。そして,天で花婿と会う待望の時が近づいたので,それぞれ光を輝かすことに努めていました。ついに,1914年10月1日のその日か到来しました。その日の朝,ものみの塔聖書冊子協会の会長チャールズ・T・ラッセルは,ニューヨーク市ブルックリンで働く本部職員に対して,「異邦人の時は終わり,その王たちの時代は過ぎ去りました」と発表しました。

      9 とはいえ,ラッセルはいつ死去しましたか。このことからどんな結論を下さねばなりませんか。

      9 とはいえ,異邦人の時のその終わりとともに,教会の成員の残れる者が天で栄光を受ける待望の時もまた到来したというわけではありませんでした。まず,1916年10月31日には,ラッセル自身死去し,協会の会長の職を別の人に残しました。何らかの誤算があったに違いありません。

      10 (イ)1914年10月1日には,地上にいた「貞潔な処女」級の残れる者に対するどんな事がらが具体化していましたか。(ロ)その迫害はいつ最高潮に達しましたか。どんな手紙は,天の花婿と結ばれたいという心からの切なる願いを示していますか。

      10 1914年10月1日のその日には,クリスチャンの教会が天で栄光を受けるどころか,天の花婿に会いたいと願っていた人たちにとっては重大な難事が具体化してゆきました。第一次世界大戦が恐るべき形を取って,だらだらと続いて年月が経つにつれ,「貞潔な処女」級に加え続けられた迫害が最高潮に達しました。その最高潮は1918年の夏に到来し,その時,ものみの塔協会の新しい会長ジョセフ・F・ラザフォードと当協会の会計秘書W・E・ヴァン・アンバーグおよびニューヨーク市ブルックリンの本部職員と関係を持っていた他の6人のクリスチャンの男子が米連邦裁判所で不当にも有罪宣告を受け,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に投獄されました。同刑務所の独房から会長ラザフォードは,刑務所の鉄格子や壁の外で迫害をこうむっていた仲間のクリスチャンに宛てて一通の手紙を書き送りました。その手紙の一部は,1918年8月30日から同9月2日までの4日間,ウィスコンシン州ミルウォーキーで開かれた国際聖書研究者協会の大会のプログラムの4ページに印刷されました。a その手紙は,天で花婿と早く結ばれたいという「貞潔な処女」級の心からの切なる願いを明らかに示しています。下記に一部引用されていることばは,特にそうです。

      神のイスラエルへ

      「キリストにある最愛の皆さん:

      「刑務所での生活は奇妙に思えますが,それでも経験はすべて,喜びを伴うものとなっています。私たちはこうした事がらすべてを天的な見地から見るからです。私たちはほんとうに今こう歌うことができます。

      『地的な喜びはみな,さめよ,さめよ,

      イエスは私のもの!』

      「事実,今や地的な喜びはありません。私たちは喜び溢るる期待をいだいて,家に集められることを待ち望んでいます。……私たちはしばしば ― 去るべきか,それとも家に帰る前にしばらくの間あなたがたの所に行って仕えることを望むべきか ― この二つの道のいずれを取るべきか,どっちつかずの苦しい立場にあるのを感じます。彼のご意志がなされますように! これらすべての経験は確かに,最後の取り入れに備えて教会を成熟させるものになっていると私は思います。どこか他の所にいる親愛なる人たちから寄せられた種々の手紙は,犠牲を焼きつくしている火を彼らがどのように甘受しているかを示しています。……

      「……皆さんは,群れの愛する羊を励ますために,できるかぎりのことを行なってください。近い将来の輝かしい帰省に関する快い約束をもって彼らを慰めてください。私は今ほどに皆さんすべてを深く愛したことは決してありません。私たちの父の王座の周りに集まって,言いようもない喜びを抱いてとことわに歓喜するのは,何と楽しいことでしょう。……

      「私は,親切にも七人の兄弟たちを私とともに遣わして,私たちがこうした特権に一緒にあずかれるようにしてくださったことに対して,私たちの愛する父に感謝します。……

      「私たちはあなたがたすべてをこの上なく愛していますが,このことをしかと知っていてください。主イエス・キリストの恩寵があなたがたすべてとともにありますように。

      「主の恩寵により,あなたがたの兄弟で,しもべである,

      「J・F・ラザフォード」

      11 (イ)その迫害の期間中,「貞潔な処女」級の残れる者は1874年に関して何を察知しませんでしたか。(ロ)協会の代表者たちはどれほどの期間,連邦刑務所で服役しましたか。彼らが釈放されるとともに何が始まりましたか。

      11 第一次世界大戦の暗黒の時期のさなかでこれらすべての苦しい経験をしていた時分,「貞潔な処女」級の苦悩する残れる者は,当時から40年余の過去の1874年は花婿再来の時でもなければ,「さあ,花婿だ! 迎えに出なさい」という発表のなされる時でもないことを察知しませんでした。夜半の叫び声の上がる時はなお先のことでしたが,その時は間近に迫っていました。ラザフォード会長は1918年6月21日に裁判所で言い渡された20年の刑期ではなく,わずかに9か月を刑務所で過ごしただけでした。1919年3月25日,彼とその7人の仲間はアトランタ連邦刑務所から釈放され,ニューヨーク市ブルックリンに戻り,そこで3月26日に全員保釈を認められ,また上訴が認められました。彼らは「貞潔な処女」級の残れる者の他の成員すべてとともに戦後の自分たちのわざを開始すべく再び自由の身となりました。が,それら残れる者は,暗黒の増大するこの邪悪な世から取り去られ,天の父の王座のもとに集められるということは経験しませんでした。地上でクリスチャンとしての奉仕を行なう新しい時代が始まっていたのです!

      12 その当時,彼らは「十人の処女」に関するイエスのたとえ話のどの部分の事がらを経験していましたか。

      12 彼らはこの重大な時点で,「十人の処女」のたとえ話の中で天の花婿が次のように述べて予告した事がらを経験しました。「真夜中に,『さあ,花婿だ! 迎えに出なさい』という叫び声が上がりました。そこで,それらの処女はみな起きて,自分のともしびを整えました」― マタイ 25:6,7。

      13,14 (イ)たとえ話の中では,花婿の臨在はだれによって発表されましたか。そのことはどのようにして成就されましたか。(ロ)1914年以来,天の花婿がほんとうに臨在していることを証明するどんな証拠がありましたか。

      13 たとえ話の中では,花婿が来たという発表は「十人の処女」によって行なわれたのではありません。それは明らかに花婿の付添い人たちによってなされました。それら処女たちはただ叫び声を聞いただけでした。同様に,花婿が来て,その父の家の中で催される霊的な婚宴に自分たちが導かれることを,それら処女たちのように待ち望んでいると唱えていた人たちすべてに対して,天の花婿が目に見えない様で臨在している事実が西暦1919年に提示されました。

      14 したがって,1919年は,愚かな者また思慮深い者の別なく,自らその「処女」であると唱えた人すべてにとって驚くべき年となりました。全地に及んだ最初の大戦は終わり,世界の平和と安全のための国際的機構として国際連盟が推し進められました。1914年におけるその世界大戦の勃発以来,イエスが述べたご自分のパルーシアと事物の体制の終結とに関する預言の十分の数の特筆すべき事がらが成就して,1914年における異邦人の時の終わりにさいしてイエス・キリストがまさしくその天の王国を継いだことを示す複合的な「しるし」を構成していました。約束のメシアによる神の王国は天で樹立されました。世界の歴史および真の教会の歴史は,キリストが臨在していることを今やほんとうに実証しました!

      自分の「ともしび」を整える

      15 (イ)今や「ものみの塔」誌はどんな副表題を正しく担うことができるようになりましたか。(ロ)「ものみの塔」誌の世界じゅうの読者は,1919年4月15日号の同誌に載せられたどんな発表によって揺り動かされましたか。

      15 「ものみの塔」誌は今やついに,「およびキリストの臨在の告知者」という副表題をまさしく担うことができるようになりました。3月に連邦刑務所から釈放された8人のクリスチャンの聖書研究者は,1919年4月13日,日曜日夜に行なわれた主の夕食の例年の祝いに出席する特権にあずかりました。不備ながら,同年5月15日付の「ものみの塔」」誌の151ページに発表された出席者総合計に関する報告によれば,その祝いに連なった人は1万7,961人を越えました。「ものみの塔」1919年4月15日号の117,118ページには,偽りの告発を受けたそれら8人の人たちがそれぞれ1万ドルの保釈金を納めて釈放されたこと,またブルックリンのベテルでは何百人もの仲間のクリスチャンにより彼らのために盛大な歓迎会が設けられたことが発表されました。世界じゅうに知らされたこの発表は,「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の読者を元気づけるものとなりました。

      16 (イ)イザヤ書 60章2節によれば,当時は何をすべき時でしたか。(ロ)「聖別された」聖書研究者たちはどのように勇気を強められましたか。どんな国際的な集まりが催されましたか。

      16 今は霊的にうとうとしたり,眠ったりすべき時ではありません。イザヤ書 60章2節に次のように予告されていたとおり,活動すべき時が来ました。『くらきは地をおおい闇はもろもろの民をおおわん されどなんじの上にはエホバ照り出でたまいてその栄光なんじのうえに顕わるべし』。世界情勢は,「聖別された」聖書研究者すべてに果敢な活動を要求しました。花婿を待っていた人たちは時を逸さずクリスチャンとしての勇気を強められました。というのは,1919年8月1日と15日号の「ものみの塔」には,「恐れなき者は幸いなり」と題する二つの記事が掲載され,それとともに9月1日から8日までの八日間にわたり国際的規模で開催される「エリー湖湖畔,シーダー・ポイントの大会」に関する取決めが発表されたからです。霊的な眠けを勢いよく払いのけた何千人もの「聖別された」神の民は,特にカナダとアメリカからおよそ6,000人ほど群れをなして大会に参集し,連日その集まりに出席しました。その感動的な大会は,「聖別された」人たちがすっかり目ざめて,前途にある神への奉仕に活発に携わる決意を新たにする機会となりました。

      17,18 (イ)その大会の「同労者たちの日」には出版物に関するどんな発表がありましたか。それはどんな見込みを伴うものでしたか。(ロ)そのわざの進め方に関する指示は,読者をどのように励ますものとなりましたか。この大会のその日のできごとは,単なるつかの間の興味深い事がらだったに過ぎませんでしたか。

      17 9月5日,金曜日の「同労者たちの日」に,会長J・F・ラザフォードは1919年10月1日を期して「黄金時代」という名称の新しい雑誌を発行する旨発表し,大会出席者を大いに感激させました。それは神のメシアによる王国の良いたよりを知らせる「ものみの塔」誌の姉妹誌となる雑誌で,「聖別された」神の民は同誌の発行部数が毎号400万部になる時代を待ち望みつつ,その予約を得るわざにあずかるよう励まされました。後日,1919年9月15日号の「ものみの塔」の279-281ページに掲げられた「王国を告げ知らせる」と題する2ページ半の記事の中には,その雑誌を世界的に広めるわざの進め方に関する,さらに多くの指示が載せられました。

      18 その記事の最後から3番目の節の次のようなことばは,読者すべてを何と奮い立たせる招きのことばだったのでしょう。「急いで入っていただきたい。行って,このわざを行なうさい,あなたがたは単なる雑誌販売人として勧誘を行なうのではなく,王の王,また主の主の大使として仕え,きたるべき黄金時代,われらの主また主人の輝かしい王国,その到来を真のクリスチャンが幾世紀にもわたって待望し,祈り求めてきた王国を,そうした品位ある仕方で人びとに告げ知らせているということを忘れてはならない」。王国のわざのこの特筆すべき新たな分野へのその招待のことばに対して,人びとは直ちに答え応じました。それから53年余を経た今日,今では「目ざめよ!」という名称を付したその同じ雑誌は,毎号750万部印刷されています。確かにそれら6,000人の「聖別された」クリスチャンがオハイオ州シーダー・ポイントに居合わせて,1919年9月5日,金曜日に行なわれた「黄金時代」誌に関する発表を歓呼して迎えたことは,キリストのパルーシアが実現しているこの現代における神の「貞潔な処女」級の歴史の中で決して,意味らしい意味のない単なるつかの間の興味深いできごとだったのではありません。その処女級は二度と再び眠りに落ちませんでした!

      19 ともしびを整えるということは,どんな行為を要求しましたか。処女たちはなぜそのために二分されることになりましたか。

      19 それはまさしく『それらの処女がみな起きて,自分のともしびを整えた』時でした。(マタイ 25:7)たとえ話の中では,そのために処女たちはそれぞれランプに油を補充しなければなりませんでした。彼女たちのともしびは「消えそう」だったからです。しかし残念なことに,愚かな「処女」たちは自分のランプにすぐには油を補充できないことに気づきました。油を入れ物に満たして携えてはいなかったのです。一方,思慮深い処女たちは携えていました。そのために処女たちは二分されることになりました。なぜですか。マタイ 25章8,9節はその点をこう説明しています。「愚かな者たちは思慮深い者たちに言いました,『あなたがたの油を分けてください。わたしたちのともしびはいまにも消えそうですから』。思慮深い者たちはこう答えました。『わたしたちとあなたがたに足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のを買いなさい』」。

      20 愚かな者たちと自分の油を分かち合うことを拒んだ思慮深い処女たちは,利己的でしたか。思慮深い者たちはどんな決意を抱いていましたか。

      20 夜中のその時刻に出て行って,開いている灯油店,もしくは必要な油を用立ててくれる灯油商を探し出すのは,それら愚かな処女たちにとってどんなに困難なことかは想像するにかたくありません。それでは,自分たちの蓄えを無思慮な処女たちと分かち合おうとしない思慮深い処女たちは利己的だったのではありませんか。いいえ,そうではありません。もしそうしていたなら,十人の処女たちはひとりも,花婿の家の戸口に着いて婚宴に招じ入れられたりはしなかったからです。十人の処女たちが皆で蓄えを分け合っていたなら,そこに着かないうちに油は尽きてしまったでしょう。思慮深い処女たちは,急場のための油を携えて行くことにより,どうしてもそこに着かねばならないと感じていることを示しました。そのことはまた,彼女たちが皆そこに着く決意でいたこと,そして今やそれら思慮深い処女たちは自分たちの努力がだいなしにされ,花婿へのお祝いのためという自分たちの正しい意図が阻まれるのを許すつもりはないことを示しました。それに,愚かな処女たちは,思慮深い処女たちが功を奏するのを妨げたり,危うくさせたりなどせずに,なおほかの所からでも油を入手できたのです。

      21 これは,聖書を研究して花婿について学びたいと願う人に対する「思慮深い」処女級の取り扱い方に関して何を意味してはいませんか。

      21 このことは,天の花婿のパルーシアもしくは臨在が始まっている現代におけるそのたとえ話の成就に関しては,どのように解されますか。それは主イエス・キリストの目に見えない臨在について聞いたある正直な人が「思慮深い」処女級の人に聖書研究を司会してもらい,花婿のお祝いに加わらせてもらいたいと願う場合,「思慮深い」処女級の者がそうすることを拒み,自分で何とかするようにと,その人に告げることを意味していますか。その人が神のみことばと聖霊で満たされたいと願う場合,そうすることはこのたとえ話の教訓に背くことになりますか。決してそうではありません。

      22 「油」を分かち合うという問題を考慮するさい,灯をともしたランプを高々と掲げることは何を意味していることを思い起こすべきですか。その「油」は何を象徴していますか。

      22 では,その成就において,「思慮深い」処女級はなぜ「愚かな」処女級と自分たちの油を分かち合うことを拒んだのでしょうか。自分の入れ物に油を入れて持っていることは,自分自身の内に象徴的な油を持っているのと同じであることを,わたしたちは銘記しておかなければなりません。また,灯をともしたランプを高々と掲げるのは,人が自分の光を輝かせる,つまりこの無知蒙昧の暗い世の人びとがわたしたちの良いわざを見,またそれゆえに神の栄光をたたえるようになるために,発光体のように自ら輝くのと同じことです。(マタイ 5:14-16。フィリピ 2:15)啓発する力を与えるのは,象徴的な油であり,その「油」は,神の崇拝者にとってともしびとも光ともいうべき神のみことばと(詩篇 119:105),わたしたちのために神のみことばを解明し,またその所有者すべての内に「霊の実」と呼ばれる優れた敬虔な特質を生み出す神の聖霊の両方を表わしています。(ガラテア 5:22,23。エフェソス 5:18-20)では,「思慮深い」処女級は,自分の内に持っているこの「油」,つまりこの啓発する力を減らすべきでしょうか。そしてついには,輝かなくなってもよいのでしょうか。

      23 (イ)「愚かな」処女級は「思慮深い」処女級が自分たちに対して何を行なうことを望んでいますか。(ロ)「愚かな」処女級の人たちはどんな「クリスチャン」ですか。

      23 それこそ「愚かな」処女級が「思慮深い」者たちに行なわせたいと思っていることなのです。「愚かな」者たちは,「思慮深い」者たちが自分たちと妥協することを望んでいます。西暦1919年になされた,天の花婿の見えない臨在に関する発表は,その花婿を迎えて,花婿の喜びにあずかりたいと願う「処女」であると自ら唱えた人たちすべてに挑戦をもたらしました。「愚かな」処女に似ている人たちは,単にキリスト教を信じていると告白するだけの人びとです。その多くは名目だけのクリスチャンで,真のキリスト教の要求にはかなっていません。それらの人は聖書の知識を,それも特にこうした聖書の知識に関する宗派に偏した理解に基づく知識を多少持ってはいるかもしれません。そして,自分の持ち合わせているただそれだけの知識の影響は受けていても,神の強力な霊を自分の内に持って,「霊の実」を生み出すほどに至ってはいません。その行ないはキリスト教の真の型に合致してはいません。彼らは単にキリスト教世界における自分たちの宗派の宗教上の形式主義に従う名目だけの,つまり自称クリスチャンとして輝いているに過ぎず,死んだら天に行けると期待しているのです!

      24 (イ)「愚かな」処女級の経た宗教上の発展は,花婿の臨在に関する証明できる種々の証拠を彼らに受け入れさせるものとなりますか。(ロ)愚かな者たちは,思慮深い者たちがキリスト教の信仰告白の点でどんなレベルまで自らを引き下げて協調することを望んでいますか。

      24 しかし,彼らの経た宗教上の発展は,「さあ,花婿だ! 迎えに出なさい」という夜半の叫び声が上がる時,その挑戦に彼らを応じさせ得るものではありません。事実,1914年以来花婿が臨在しているという証明できる事実を彼らは認めませんし,受け入れません。花婿を信じており,教会はその花嫁であることを信じていると唱えてはいますが,彼らは自分勝手な仕方で,つまり自分たちの宗派に偏した仕方で花婿を迎え,またその喜びにあずかることを主張しているのです。それゆえ,もし彼らと「思慮深い」処女級が交わりを持つとすれば,妥協しなければなりません。彼らすべてを自称クリスチャンまた天の自称相続者として融合させ,信仰合同を図らねばなりません。「思慮深い」処女級は自分たちの蓄えている霊的な「油」を減らして,クリスチャンとして発展し,到達した自分たちのレベルを無思慮な宗教家のレベルにまで引き下げなければならなくなります。そうなれば,「思慮深い」者たちは,「愚か」で,無思慮で無分別なキリスト教の自称者たちと付き合うために,自らを宗教的な面で愚かな者としなければなりません。

      25 (イ)では,「思慮深い」処女級に関して問題となっているのは何ですか。(ロ)要求に最終的にかなうためには,彼らはペテロとパウロのどんなことばを実行する必要がありますか。

      25 問題は明らかです。「思慮深い」処女級の人たちは,キリスト教世界に見られるような単なる宗教的感傷によって影響されることになるのでしょうか。彼らは自分たちの霊的な「油」を枯渇させ,真のクリスチャンとして終わりまでずっと輝くことを不可能にさせられ,花婿に伴って婚宴の間の戸口に到達するまで光を掲げる者たちの行列から,やがて落伍せざるを得なくなるようにさせられるままにするつもりでしょうか。彼らは,ペテロの第二の手紙 1章10節が述べるように,『自分の召しと選びを自ら確実にするため力をつくして励む』ことが必要です。地上の生涯の終わりが迫ったころ,次のように書き記した使徒パウロに見倣わねばなりません。「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました。今からのち,義の冠がわたしのために定め置かれています。それは,義なる審判者である主が,かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです」。彼らは花婿の婚宴の開かれる部屋に通ずるあの戸口に到達するとき,キリスト教の要求にことごとくかなっていなければなりません。―テモテ第二 4:7,8。

      26 第一次世界大戦中,「思慮深い」処女級はどのようにして束縛状態に陥りましたか。その級の人たちは1919年になぜ「愚かな」処女級との交わりを絶ちましたか。

      26 そのような理由で,「思慮深い」処女級は,小麦と雑草あるいは毒麦(ホソムギ)のたとえ話の中の雑草のような,単にキリスト教を奉ずると自称する人たちとの交わりを絶ちました。第一次世界大戦中,彼らは偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンとその軍事・政治および司法上の情夫に捕われた状態に陥っていました。彼らはかなり,有力な地位にある人間に対する恐れのゆえに束縛されただけでなく,投獄されたり,兵営その他の場所に拘留されたりして文字どおり捕われの身となりました。が,1919年,彼らは大いなるバビロンに関する天からの次のような召しの声に答えて行動しました。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」。(啓示 18:4)彼らはその問題で「愚かな」処女級と妥協することはできませんでした。彼らは大いなるバビロンとその世俗的な情夫たちよりもむしろ神に従わねばなりません。彼らはまた,野獣の像,つまり西暦1919年に大いなるバビロンが高々と乗った国際連盟を崇拝する点で,大いなるバビロンと行動をともにすることはできませんでした。―啓示 13:14,15; 14:11,12; 17:1-18。

      27 1919年9月7日,日曜日に公に述べられたことばが証明するように,「思慮深い」処女級の立場はどのように最初から明確でしたか。

      27 この問題で「思慮深い」処女級が取った立場は,最初から明確なものでした。その証拠として,1919年9月7日,日曜日,午後,シーダー・ポイント大会でラザフォード会長は「苦悩する人類のための希望」と題する公開講演を行ない,その中で国際連盟は神の不興を買うものであることを指摘しました。1919年9月8日,月曜日付,サンダスキー(オハイオ州)・スター-ジャーナル誌に発表された報告を次に引用します。

      日曜日,午後,ラザフォード会長は,木陰に参集したおよそ7,000人の聴衆に向かって講演を行なった。同会長は,平和で豊かな時代を確立することによって人類の向上を図りたいとの願いに動かされた政治および経済上の諸勢力により創設された国際連盟は,多大の善を成し遂げるであろうと言明し,次いで,それにしても,僧職者は ― カトリックもプロテスタントも ― 神の代表者と称しながら,神の計画を放棄し,国際連盟を承認し,連盟を地上におけるキリストの王国の政治的表現として歓呼して迎えたゆえに,主の不興が連盟に臨むのは必至であると断言した。―1919年10月1日付,「ものみの塔」誌,298ページ,第1欄。

      28,29 「思慮深い」処女級はなぜこうした立場を取りましたか。ヤコブの用いた非難のこもったどんな用語は,彼らには適用できませんでしたか。

      28 「思慮深い」処女級は,1914年における異邦人の時の終結にさいして神の愛するみ子の王国が天で樹立されたという信仰を抱いていたので,妥協せずにその王国を支持し,その代用物はいっさい認めたり,崇拝したりすることを拒みました。彼らは自分たちの霊的な「油」を少しでも配って,神のメシアによる王国に対する全き専念の度合いを弱めさせることはできませんでした。王国に対するそうした堅い愛着はこの世で,あるいはこの世の友の間で彼らに人気を得させるものとはなりませんでした。それは彼らに対するこの世の憎しみを強めました。しかし,世からのそうした憎しみや敵意は,彼らが天の王である花婿と自分たちとの関係をほんとうに固守していることをかえって明らかにするものとなりました。彼らに対して,「姦婦」という非難のこもった用語を適用することはできませんでした。それは弟子ヤコブが1世紀当時の会衆のある成員をさして,次のように述べて用いた語だからです。

      29 「姦婦たちよ,あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」― ヤコブ 4:4。

      30,31 そうすることによって,「思慮深い」処女級は,許嫁の処女の特質をだれに示しましたか。そうした花嫁の美しさはイザヤの預言の中でどのように描写されていますか。

      30 それで,蓄えておいた霊的な「油」すべてを妥協せずに保持し,それを用いて自らを明るい焔を上げて燃え続ける「ともしび」のような状態に保つことによって,「思慮深い」処女級は,自分たちがその許嫁となっている,あるいは婚約している天の花婿を礼遇していました。彼らはその「ひとりの夫」である主イエス・キリストの天の花嫁になる人たちの内に求められている,忠節で,貞潔で,清くて,純粋な特質を自らのうちに光輝かせていました。彼らは神の最愛のみ子が自分の「花嫁」をわが家に連れて行く,神の予定の時が来たことを,花婿とともに大いに喜んでいます。歓喜する花婿の喜びにあずかっているのです。次のように記されているとおりです。『新郎の新婦をよろこぶごとくなんじの神なんじを喜びたもうべし』。(イザヤ 62:5)花婿が栄光を伴って現われる様に釣り合うよう,彼らも婚礼の日の花嫁のように自らを美しく装いたいと願って,天の父から授けられる飾りを受け入れます。イザヤ書 61章10節には,花婿と花嫁の間の釣り合いの取れたそのすばらしい美しさが次のように描写されています。

      31 『そはわれにすくいの衣をきせ義の外服をまとわせて新郎が冠をいただき新婦が玉こがねの飾りをつくるがごとくなしたまえばなり』。

      32 「思慮深い」処女級はどのように光輝いて,その花婿を礼遇していますか。

      32 地上の「思慮深い」処女級には,『日は新郎がいわいの殿をいずるごとし』と記されている太陽のように,さん然と輝く天の花婿の栄光をそこなうものは,いっさいあってはなりません。(詩篇 19:4,5)ですから,「思慮深い」処女級があの宗教上の娼婦,大いなるバビロンやその宗教上の不道徳な「娘たち」すべてから自分たちを区別する,キリストの示されたそうした特質を表わすことによって,発光体のように光輝いて自分たちの花婿を礼遇するのは,彼らの責任です。そのように光輝くことによって,彼らは人類に対して自分たちの最愛の花婿を偽って伝えてはいません。

      売り手からランプの油を買う

      33 イエスのたとえ話によれば,「思慮深い」処女たちは「愚かな」者たちに向かって何と言うことしかできませんでしたか。こうして,「思慮深い」者たちは何を示しましたか。

      33 「愚かな」処女級は霊的な「油」を欠いていたため,到着して居合わせており,婚宴に臨もうとしていた花婿を礼遇しようにも光輝くことができませんでした。彼女たちには,「思慮深い」者たちが自ら携えていて,花婿の跡を追うために必要としていた「油」を少しでももらう資格はありませんでした。それで,たとえ話によれは,「思慮深い」者たちは「愚かな」者たちに次のように言うことしかできませんでした。「わたしたちとあなたがたに足りるほどはないかもしれません。むしろ,油を売る者たちのところに行って,自分のを買いなさい」。(マタイ 25:9)そうした態度を取った「思慮深い」処女たちは自分たちの思慮深さをいっそう示し,無思慮で,無分別な処女たちの愚かさは彼女たちにとって悲惨なものとなりました。彼女たちは灯油商を探し出して,自分たちのランプに油を補充しなければなりませんでした。

      34,35 たとえ話の成就において,油をそのように買うということは,どのようにして行なわれましたか。しかし,その間に何が起きたことをたとえ話は示していますか。

      34 同様に,たとえ話の成就においても,「愚かな」者たちは自分たちの必要とする霊的な「油」を入手しなければなりませんでした。彼らは自分たちの信条にしたがって,天に入る道を開くものとなる「油」を入手できると宗教上感じていた所に行きました。したがって彼らは,宗派や分派に分かれている自分たちの宗教制度の販売している一種の「油」を求めて,そうした宗教制度を探し出し,そして天の花婿に正しい仕方で専念することなしに,快く代価を払えるような「油」をそうした商人から入手しました。しかし,彼らが代価を支払って灯油商から買った宗教的な「油」は,婚宴に連なる許可を得させる効力を持つものとなりましたか。その点についてはこう記されています。

      35 「彼女たちが買いに行っている間に花婿が到着し,用意のできていた処女たちは,婚宴のため彼とともに中にはいりました。それから戸が閉められたのです」― マタイ 25:10。

      36 行列の中にいる花婿のことで喜びを味わったのはどの処女たちでしたか。それらの処女たちは「戸」口で行なわれた検閲にどうしてパスできましたか。

      36 「思慮深い」処女たちと「愚かな」処女たちは互いに反対の方向に ―「愚かな」者たちは花婿から遠ざかり,「思慮深い」者たちは到着する花婿のもとに行きました。「思慮深い」処女たちが花婿を迎えた所から,婚宴が催されることになっていた家の「戸」口まではかなりの隔たりがありました。それら二つの地点の間を,ともしびを掲げた行列がしばしの間通りました。その時間の経過中,「思慮深い」処女たちは花婿とともにおり,また花婿は彼らとともにいました。喜びにあふれた行列がその目的地に到達し,花婿の住まいの戸口を通って中に入ったとき,「思慮深い」処女たちのともしびはあかあかと燃えていました。彼女たちの油の蓄えは,彼女たちがその「戸」口に到達しないうちに尽きたりはしませんでした。それで「思慮深い」処女たちは,花婿の跡に従う行列に加わった者であることを証明しました。そのために彼女たちは,婚宴に連なる許しを得る資格を得ました。彼女たちが検閲を受ける用意ができていたことの重要性を強調するものとして,たとえ話の中でこう言われています。「用意のできていた処女たちは,婚宴のため彼とともに中にはいりました」。その戸は彼女たちの面前でではなく,その後ろで閉ざされました!

      37 検閲地点において今日の「処女」たちは,どんな仕方で光輝いていることを証明しますか。花婿は,彼らがどんな状態にあるゆえに「花嫁」級の者の中に入るのを許されますか。

      37 現代に見られるこのたとえ話の成就においては,「思慮深い」処女級は,栄光に輝く花婿を礼遇し,たたえる行列に終わりまでずっと連なり続けます。そして,「戸」のそばの検閲地点に達するとき,婚礼の祝宴に連なる許しを受けるにふさわしい者であることを証明します。彼らは自分たちの婚約している天のその方によって検閲を受けるとき,花婿がその天の「花嫁」にふさわしいものとして是認する,クリスチャンの人格を身につけて光輝いていることが明らかにされます。彼らは身を「貞潔な処女としてキリストに」ささげます。彼らは「腐敗させられて,キリストに示されるべき誠実さと貞潔さから離れる」ようなことは許しませんでした。(コリント第二 11:2,3)その花婿は今日のそれら「思慮深い」処女たちをクリスチャン会衆の一部として受け入れることができます。その会衆についてはこう記されています。「そして,輝かしいばかりの会衆をご自身の前に立たせ,こうしてそれが,汚点やしわ,またそうしたものの何もない,神聖できずのないものとなるためでした」― エフェソス 5:27。

      「それから戸が閉められたのです」

      38 結婚を祝う催しに,ついにはどれほど多くの人びとが列席する許しを得ることになりますか。「戸」はいつ正式に閉められますか。なぜですか。

      38 もちろん,天の「花嫁」級の14万4,000人の成員の数を満たす人たち以外の者は,もはやその「戸」口を通って婚宴に列席する許しを与えられることはありません。(啓示 7:4-8; 14:1-5)しかし,「戸」が正式に閉められるのはいつですか。それは神の定められた時に「大患難」が勃発し,キリスト教世界とあの宗教上の娼婦,大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国の残りの部分すべてに滅びが臨み始める時でしょう。その時,自称クリスチャンはだれであれ,大いなるバビロンを出て,その罪にあずかったり,その致命的な災厄の一部をこうむったりしないようにしようとしても,遅きに失するでしょう。(啓示 18:4)「大患難」の日数は,「選ばれた者たち」のために「短くされ」ますから,「選ばれた者たち」の総数,すなわち14万4,000人の人数は明らかに,「大患難」が勃発する時までに満たされていることでしょう。こうして,戸は閉められるのです。

      39 「十人の処女」に関するたとえ話の中では,最後に何が起きますか。

      39 次いで,何が起きることになっていますか。「十人の処女」に関するたとえ話は次のようなことばで結ばれて,そのことが示されています。「のちに,残りの処女たちも来て,『だんな様,だんな様,開けてください』と言いました。彼は答えて言いました,『あなたがたに真実を言いますが,わたしはあなたがたを知らないのです』」― マタイ 25:11,12。

      40 花婿は「愚かな」処女たちに向かって,『わたしはあなたがたを知りません』と言いましたが,それはどうして正当なことでしたか。

      40 五人の「愚かな」処女は,その夜のその時刻に捜し出せた灯油商から,それも入手し得る油を手に入れて,自分たちのともしびをともして戸口にやって来ました。しかし,彼女たちのともしびは,花婿が礼遇されたときには光輝いてはいませんでした。彼女たちは,花婿を迎えて,そのために喜びあふれて花婿に随行した行列に加わってはいなかったのです。では,花婿には,彼女たちを自分のことを祝ってくれる人たちの一部と認めるどんな根拠がありましたか。何もありませんでした! 彼女たちは彼の結婚を祝う行列に何ら光彩を添えませんでした。ですから,まさしく花婿は彼女たちに,『わたしはあなたがたを知りません』と言うことができました。したがって,花婿が彼女たちの面前で戸を閉ざしたままにしておいたのは正当なことでした。

      41 「大患難」がキリスト教世界を襲うとき,「愚かな」処女級の者たちは自分自身について何を知ることになりますか。

      41 同様に,宗教上の娼婦,大いなるバビロンの最も際立った部分であるキリスト教世界に「大患難」が臨み始めるとき,死んだら天に行けるという彼らの希望は大いにゆすぶられ,おぼつかないものとなるでしょう。彼らは「貞潔な処女」つまり「子羊の妻である花嫁」を構成する正しい宗教組織と交わっていたのではないことに気づくでしょう。そして,テサロニケ第一 4章17節に関する自分たちの宗教上の教師の解釈にしたがって,自分たちが肉身のまま雲の中に「引き上げられ」,しかも肉身で狂喜しつつ,『空中で主と会』っているわけではないことを知るでしょう。確かに彼らはキリスト教世界のいずれかの宗派の成員として光輝いてはいても,単に名目だけの,つまり自称クリスチャンにすぎず,本物ではありませんでした。彼らが「大患難」に遭遇するさいの今重要なのは,彼らの司祭あるいは牧師が彼らのことをどう考えるか,あるいは何と言うかではなくて,彼らがどんな人間かについて天の花婿が何と言うかということなのです。

      42 仲介役を果たす,彼らの宗教組織がそのとき滅びてしまっているので,彼らは花婿に認めてもらうよう,どんな根拠に基づいて訴えますか。

      42 彼らは自分たちの論拠としてきた宗教的基盤が「大患難」によってだいなしにされるとき,遅きに失して「締め出し」を食わされた時のように,自分たちに対して戸が閉ざされていることを暗示する事態に近づきます。彼らのために仲介役を果たした彼らの宗教組織は滅ぼされるのですから,彼らは真の会衆のかしらである花婿と直接交渉しなければならなくなります。花婿の臨在つまりパルーシアは目に見えませんし,あたかも閉ざされた戸口の後ろにでもいるかのように彼らの目から花婿は隠されているので,彼らはキリスト教に関する,正しいわざの伴わない単なる信仰告白によって,自分たちが救われて天に入ることができるかどうかを調べてもらうため,花婿に向かって大声で叫びます。彼らは花婿をその口のことばによってそれと知ったのですから,花婿は今やあいさつを交し,彼らを認めるべきではありませんか。彼らは花婿に聞き入れてもらうことを期待して,「だんな様,だんな様」あるいは「主よ,主よ」と大声で叫びます。そうすれば,自分たちのために戸は開かれるはずです。しかし,そうでしょうか。

      43 (イ)イエスを「主」と呼ぶことについていえば,それら「愚かな」処女級の成員は,イエスの山上の垂訓の中のどんな言葉を真剣に考えませんでしたか。(ロ)イエスが最後にそれらの言葉を真剣に取り上げるとき,彼らはどうなりますか。

      43 天の花婿が地上にいたとき,その山上の垂訓の中で次のように述べたことを,彼らは真剣に考えませんでした。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」。(マタイ 7:21-23)しかし,「大患難」にさいして,「愚かな」処女級は,花婿がご自分の指針となる原則としてのこれらのことばを非常に真剣な態度で述べたことを思い知らされるでしょう。天の婚宴の場に通ずる戸口を花婿が彼らのために開くことはありません。彼らを世の真夜中の暗闇のたれこめる戸外に置き去りにし,他の「不法を働く者たち」すべてとともに滅びるままにします。彼らはその滅びから復活させられて,天の命を得るというようなことは経験しません。

      44 イエスは「十人の処女」のたとえ話をどんなことばで結びましたか。「思慮深い」者たちは霊的な油の蓄えに関して,あえて何を許しませんでしたか。

      44 したがって,「十人の処女」のたとえ話の要点を強調したイエスのことば,すなわち,「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなたがたは,その日もその時刻も知らないからです」ということばは,「事物の体制の終結」の時期に生きているわたしたちにとって特に時宜を得たものです。(マタイ 25:13)今は,五人の「思慮深い」処女のようでありたいと願う者たちが,天の「花嫁」級の一員になるための要求にかなう活動的なクリスチャンとしての人格を身につけて,絶えず光輝くべき時です。彼らは,自分たちに他の者の愚かさという重荷をいっしょに負わせ,そのようにして彼らの霊的な「油」の蓄えを多少,あるいはたくさん奪い去ろうとする人たちと,少しでもあえて妥協しようとはしません。

      45 「思慮深い」者たちは宗教上だれと付き合うような立場にあえて身を置きませんでしたか。彼らはだれを礼遇して絶えず光輝いているべきですか。なぜですか。

      45 わたしたちは,自分たちのあかりを燃えつきさせる危険な立場にあえて身をさらしたり,宗教上彼らと付き合うような立場にあえて身を置いたりはしません。わたしたちは自ら供給できる霊的な「油」すべてを必要としています。花婿の到着と臨在に対するわたしたちの信仰は,明るく輝き続けなければならず,またわたしたちは,花婿がその花嫁である会衆を完全に家に連れてくるまで,その足跡に従い,光を掲げて進む行列の一部として歩み続ける必要があります。花婿の到着が遅れた長い期間は終わりました。花婿はここにいます。その輝かしいパルーシアは始まりました。うとうとしたり,眠ったりする時は過ぎました! 今は花婿を礼遇して光輝き,また天の父が花婿の前に置いた喜び,つまり花婿がその霊的な「花嫁」をめとり,その結婚を祝して婚宴を催すその喜びに花婿とともにあずかって歓喜すべき時です。今や絶えず見張っていることが絶対に必要です。というのは,機会のあの「戸」が閉められて,決して開かれなくなるその日,あるいはその時刻を,わたしたちは知らないからです。

      彼のパルーシアの「しるし」の一部

      46 (イ)「十人の処女」のたとえ話は,使徒たちのどんな質問に対するイエスの答えの一部となっていますか。(ロ)「思慮深い」者たちの級の人びとは,たとえ話の成就の最高潮をどのように見ていますか。このことは彼らにどんな事実を確信させるものとなっていますか。

      46 「十人の処女」のたとえ話は,「あなたの臨在[パルーシア]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」というイエスの使徒たちの質問に対する答えの一部として与えられたものです。(マタイ 24:3)そのたとえ話の最高潮は,西暦1914年以来成就を見て来ました。世の人びとはすべて,そのたとえ話の最後の特筆すべき事がらが今日実現している様を見ることができます。これまでに詳細に述べたできごとは,どこかの片隅で,人目につかない見えない所で演じられたのではなく,観察力の鋭い人びとが,その意味を理解したかどうかは別として,それと気づける公の場で起きてきたのです。少なくとも,「思慮深い」処女級に属する人たちはそれらの意味深いできごとを見守って来ました。そして彼らは,天の花婿が西暦1914年に到着し,そのパルーシアつまり臨在が今や目に見えない仕方で進行していることを示す強力な証拠を,そうしたできごとのうちに見いだしています。彼らは「十人の処女」のたとえ話の成就のうちに供されている証拠のゆえに,信仰の目をもって花婿の臨在を認めています。そして,「事物の体制の終結」が西暦1914年に始まったことを確信しています。

      47 ギリシャ語パルーシアの正しい意味は,たとえ話の「思慮深い」処女たちが花婿のことを告げる夜半の叫び声が上がった後に行なったどんなことによって,どのように確証されていますか。

      47 そうです,それに,使徒マタイがその福音書の24章3節で用いたそのギリシャ語は,多くの翻訳者が訳出しているような「来る」という意味ではなくて,「臨在」を意味しています。このことはたとえ話の中で描写されている事がらによって確証されています。「十人の処女」は,「さあ,花婿だ!」という夜半の叫び声を聞いて,うたた寝や眠りから目をさまして起き上がります。明かりを掲げた花婿の行列を食い入るように見守っていた彼女たちは,花婿が自分たちの所に到達するのを見て取り,次いで花婿とともにその行列に加わります。その地点から,招かれたふさわしい人たちすべてを待ち受ける婚宴の催される花婿の住まいに行列の一行全員が到着するまでには時間がかかりました。したがって,花婿が到着してから,その花嫁を彼女のために整えた家に連れて行くまでには,花婿の臨在もしくはパルーシアという一区切りの時間がありました。

      解釈の間違いの訂正

      48 (イ)「シオンのものみの塔」の編集および発行者は,キリストの臨在は何年に始まったと計算しましたか。(ロ)また,何年かの間,「ものみの塔」誌の表紙に公示されたように,人間が創造された年代は何年であると計算されましたか。

      48 「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」の編集および発行者は確かに,天の花婿の「臨在」あるいはパルーシアは西暦1874年に始まったと計算しました。また,エホバ神が最初の人間を創造した年は西暦前4128年であると計算しました。ということは,地上における人類生存の六千年は,ラッセルとその同僚が計算したように,西暦1872年に終わったことになります。この計算は1906年7月1日号を皮切りに,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」の第1ページに公示され始め,この習慣は1928年9月15日号まで続けられました。たとえば,そのことを示した雑誌の最初の号には,「紀元1906年7月1日 ― 開闢以来6034年」という発行年月日が記されています。一方,同様の日付を付した最後の雑誌には,「開闢以来6056年 ― 1928年9月15日」と記されています。この「開闢」,つまり「世界年」の始まりは西暦前4128年と計算されました。

      49 (イ)罪が入った年代は何年であると計算されましたか。(ロ)ですから,サタンが底知れぬ坑に投げ込まれてキリストの統治が行なわれる千年期はいつ始まることになりましたか。

      49 しかし,罪が入る以前に完全な男女がエデンで潔白を保った期間として2年の余裕を取ったので,したがって罪の入った年は西暦前4126年と計算されました。その結果,罪を伴う六千年の期間は西暦1874年に終わると計算され,またその年の秋に,罪の扇動者,サタン悪魔が縛られて,底知れぬ坑に投げ込まれ,予告された千年間の統治をキリストが開始したゆえに,第七千年期が始まったと考えられました。このことは,キリストの統治のその始めの年はまた,キリストの再来の年またその目に見えない臨在つまりパルーシアの始まりの年であることをも意味しました。

      50 その年代計算は,ウィルソンのエンファチック・ダイアグロット訳に見られる,使徒 13章20節に関するどんな脚注に従って行なわれましたか。

      50 前述の年代計算は,ウィルソンのエンファチック・ダイアグロット訳の使徒 13章20節の脚注に述べられている提案に従って行なわれました。その節は次のとおりです。「それらの事の後,預言者サムエルの時まで,約四百五十年間裁き人たちをお与えになりました」。この節の読み方に関する脚注はこう述べています。

      ここで,聖書の年代学者を大いに当惑させる問題が生ずる。ここに挙げられている年代は列王紀略上 6章1節と食い違っている。数多くの解決策が提案されて来たが,十分納得できるように思えるただ一つの解決策がある。すなわちそれは,列王紀略上 6章1節の本文は,ヘブライ語の文字ヘー(5)が形の非常に似通ったダーレス(4)で置き替えられて改悪されたとする見方である。こうして,エジプト出国から神殿建設までの期間は(480年ではなく)580年となり,パウロの年代表と正確に合致することになる。

      51 (イ)したがって,「時は近づけり」と題する本の53ページで,その著者C・T・ラッセルは列王紀略上 6章1節に関して何と述べましたか。(ロ)その計算によれは,人間はいつ創造され,また罪を伴う6,000年間はいつ終わり,そして大いなるヨベルはいつ始まりましたか。

      51 そこで,「時は近づけり」(英文)と題する本の53ページで,著者C・T・ラッセルは列王紀略上 6章1節に言及して次のように書きました。

      それは明らかに第五百八十年目と読むべきであって,それは恐らく複写のさいの誤りであろう。なぜなら,もしソロモンの治世の四年にダビデの治世の四十年とサウルの四十年の期間,およびエジプトを出て,土地の分割を行なった時までの四十六年を加えると,それは百三十年となる。これを四百八十年から引くと,裁き人たちの時代は,これまでに述べたように,士師記に示され,またパウロの指摘している四百五十年ではなくて,わずか三百五十年しか残らないことになる。ヘブライ文字「ダーレス」(4)は「ヘー」(5)という文字とよく似ているので,こうした点で間違いが,恐らく複写をした者による誤りが生じたものと考えられる。したがって,列王紀略上 6章1節は五百八十年と読むべきであり,そうすれば,これは他の陳述とも完全に合致するであろう。

      こうして聖書の年代表には裁き人の時代に100年が付加され,人間の創造された年代は100年押し戻されて西暦前4128年とされたので,地上における人類生存の六千年は西暦1872年に終わりました。(「時は近づけり」,42ページ)次いで,罪が入るまでの期間として2年の余裕を取ったので,罪を持つ人類の六千年の期間は1874年に終了し,キリストの統治によって罪の除かれる第七千年期はその年に始まりました。それで,大いなるヨベルはその年に始まることになったのです。

      52 最古のギリシャ語写本によれば 現代の聖書翻訳が示すように,使徒 13章20節の450年の期間は,裁き人の時代の以前に,あるいはその期間に適用されますか。

      52 しかし,クリスチャン・ギリシャ語聖書の最古の写本によれば,使徒 13章20節の読み方は,エンファチック・ダイアグロット訳やジェームズ王による欽定訳聖書のそれとは異なっています。ゆえに,最も古い写本によれば,その四百五十年間は裁き人たちの時代に適用されてはいません。このことを証明するものとして,新英語聖書(1970年版)は使徒 13章20節を次のように訳しています。「およそ四百五十年間……,その後,預言者サムエルの時代までは彼らのために裁き人たちをお立てになりました」。エルサレム聖書(1966年英訳)はこう述べています。「約四百五十年間……。その後,預言者サムエルの時に至るまで彼らに裁き人たちをお与えになりました」。1952年に出された改訂標準訳も同様に訳しており,西暦1901年発行のアメリカ標準訳も同様です。

      53 昔のヘブライ語聖書の写本は,数を表わすのにアルファベットの文字を用いましたか。

      53 そのうえ,死海写本のような現存最古のヘブライ語写本は聖書中の数字を一字一字正式につづっており,数詞の代わりにアルファベットの文字を用いてはいないので,列王紀略上 6章1節で複写を作る人が見まちがえることはまずあり得ません。b

      54 (イ)聖書中の年代を書かれているとおりに受け入れると,ここで論じられているどんな期間の始まりが影響を受けますか。(ロ)「ものみの塔」誌の題名から「臨在」ということばが省かれたことは,キリストの臨在をもはや信じてはいないことを意味しましたか。

      54 このようなわけで,聖書の年代表の裁き人たちの時代に100年を付け加えることは,聖書的根拠に基づいてはいないことがわかります。したがって,そうした挿入は省くべきであって,聖書は,その年代上の事がらについて述べるとおりに,受け入れるべきものです。したがって,これが花婿イエス・キリストのパルーシアの始まる年代に影響することは必至でした。「ものみの塔」誌の題名は1939年1月1日号をもって,「ものみの塔およびキリストの王国の告知者」に変えられ,また1939年3月1日号をもって,「ものみの塔,エホバの王国を告げ知らせる」と改められました。これは当誌の発行者が当時進行中のキリストの臨在もしくはパルーシアをもはや信じなくなったという意味ではありません。むしろそれは,王国,つまりイエス・キリストによるエホバ神の王国がいっそう重視されたことを意味しました。というのは,エホバの宇宙主権を立証するのは,キリストによるエホバの王国だからです。

      55 (イ)裁き人たちの時代に対してなされた100年の挿入は,いつ,またどのようにして廃止されましたか。そのために,人類生存の6,000年はいつ終わることになりましたか。(ロ)これは西暦1874年という年代にどのように影響をもたらしましたか。どんな質問が生じましたか。

      55 1943年,ものみの塔聖書冊子協会は,「真理はあなたがたを自由にする」と題する本を発行しました。同書は「時の計算」と題するその11章の中で,裁き人の時代に対してなされた100年の挿入を廃止して,使徒 13章20節の最古の,そして最も信頼できる読み方に従い,ヘブライ語聖書の正式につづられた数字を受け入れました。その結果,人類生存の六千年の終わりは,1970年代の10年間の時期に移されることになりました。それで当然のこととして,西暦1874年を主イエス・キリストの再来およびその目に見えない臨在つまりパルーシアの始まりの年とする考えは葬り去られました。ですから,悪魔サタンが底知れぬ所につながれて監禁され,14万4,000人の共同相続者がキリストとともに天的な栄光を受けて統治することにより特色づけられることになっていた千年期は,なお将来の事がらでした。では,キリストのパルーシア(臨在)についてはどうですか。前述の本の324ページはこう述べています。「王の臨在もしくはパルーシアは1914年に始まりました」。また,1949年7月15日号の「ものみの塔」誌(215ページ,22節)にはこう記されています。「……メシア,つまり人の子は紀元1914年に王国の支配権を執りました。……これは彼が再び来て,その二度目のパルーシアもしくは臨在が始まったということにほかなりません」。

      56 (イ)1950年には,新たに翻訳されたどんな聖書が発行されましたか。それは使徒 13章20節をどう訳出していますか。(ロ)また,キリストの臨在に関しては,信頼できる聖書の年代表にしたがってどんな説明が行なわれましたか。

      56 1950年には,使徒 13章20節の最も信頼できる読み方を取り入れ,またパルーシアを毎回「臨在」と訳出した「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」(英文)が発行されました。その直後,「これは永遠の生命を意味する」と題する本が出版されました。「命の主要な代理者の再臨」と題するその21章全体は,信頼できる聖書の時間表に基づいてこの問題を論じた章となっています。その220-222ページはこう述べています。

      すでに考慮した証拠は,紀元1914年に神の王国が生まれ,そのみ子が敵対者のただ中で鉄の杖をもって支配する権威を執って即位したことを証明しています。み子はついにはその敵対者を粉砕し,神の正当な主権に敵して戦う者をことごとく宇宙から除き去ります。―詩篇 2:8,9。

      それで,紀元1914年はキリストが霊において目に見えない様で戻った時を印づけています。……1914年にイエスが王国を継いだことは,その再臨あるいは二度目のパルーシアの始まりを印づけるものです。このギリシャ語は臨在を意味しています。

      ……それは霊によるもので,目に見えないとはいえ,その再臨は全地の人びとにとってたいへん重要な事がらですから,秘密にしておいてはなりませんし,またそうされることはありません。……「いなずまが東のほうから来て西のほうに輝き渡るように,人の子の臨在[パルーシア]もそのようだからです」― マタイ 24:26,27,新。

      1914年以来,臨在しているキリストはご自分の再臨つまり二度目のパルーシアの証拠をあらゆる場所の人びとに明らかに示し,理解できるようにしておられます。

      57 (イ)キリストは,1914年における異邦人の時の終わり以前に敵のただ中で統治を開始されましたか。(ロ)花婿はいつ夜半の叫び声を聞こえさせましたか。それ以来生じてきた事がらは,どんな重要な事実の証拠となっていますか。

      57 それで,キリストは1914年における異邦人の時の終わりの40年前に統治を始めたわけではないとする考えは,霊感のもとに記された聖書と何と調和しているのでしょう。むしろ彼は,その敵のただ中で支配を開始すべく,天の父の右でその時まで待っておられました! そしてエホバは,それらの敵をキリストの足台として据えるのです。(詩篇 110:1,2。ヘブライ 10:12,13)それで,キリストの王としての臨在もしくはパルーシアがその年に始まったのはもっともなことです。歴史が証明するとおり,1919年に彼は地上で夜半の叫び声を上げさせ,眠っていた「処女」たちを目ざめさせ,緊急な事態に直面させました。「さあ,花婿だ! 迎えに出なさい」。その叫び声は,天の花婿の臨在を彼女たちに確信させるものでした。「思慮深い」処女級は以来,迎えに出ました。彼らがこの無知蒙昧の世にあって発光体のように光輝いているのが見えます。このこと自体,約束されたキリストの臨在が今進行していることの証拠です。それはまた,千年にわたるキリストによる神の王国が近づいたことを示す証拠です!

      58 王国が近づいたことを示す「しるし」を考慮するにさいして,わたしたちはなぜ「十人の処女」のたとえ話をもって,ここで事終われりとするわけにはゆきませんか。

      58 「十人の処女」に関するたとえ話の成就は,神の祝福を受けるその千年王国が近づいたことを示す「しるし」のすべてではありません。ですから,わたしたちは,このたとえ話をもって事終われりとするのではなくて,その驚くべき「しるし」の他の特筆すべき事がらを次に考慮しなければなりません。

      [脚注]

      a 「その時…神の秘義は終了する」と題する本(英文)の274ページの最後の節をご覧ください。また,1918年8月15日付の「ものみの塔」(英文)のミルウォーキー大会およびラザフォードの手紙に関する249ページの箇所をご覧ください。

      b 聖書時代の後,ヘブライ人はアルファベットの字母を数詞替わりに用いた当時,彼らは零つまり0という記号を持ってはいませんでした。彼らの方式には零はなかったからです。したがって,ダーレスという字母に0を二つ付けて400を表わしたり,ヘーという字母に0を二つ付けて500を表わしたりはしませんでした。400という数は一つのヘブライ語字母(ターウ)で,また500という数は二つのヘブライ語字母(ターウ コーフ)でそれぞれ表わされました。また,80はヘブライ語字母ペーで,10は一つの字母ヨードで表わされました。それで,ターウ コーフ ペー(580)とは明らかに異なるターウ ペー(480)を読み違える可能性はまずありませんでした。

  • 王の持ち物を増やす
    神の千年王国は近づいた
    • 12章

      王の持ち物を増やす

      1 (イ)今もなおわたしたちの中にいる王国の共同相続者に関して,どんな質問が生じますか。(ロ)そのような事がらが彼らに関して生じているのを,もしわたしたちが観察しているのであれば,それはどんな事を示す証拠となりますか。

      あらゆる証拠は神の千年王国が近づいたことを示しているので,次のような質問が生じます。「天の政府で神の用いられる千年期の王と一緒になる人たちに関して,わたしたちは何を期待すべきでしょうか」。彼は自らも王としてその王とともに一緒に支配すべく召されていますが,彼らがわたしたちの中にいる間,その王に属するものをどのように扱うかに関して彼らが試みられ,検閲されているところを,わたしたちは観察できると期待して然るべきでしょう。天の王が持っておられる地上の関心事すべてを彼らはどのように管理していますか。わたしたちの間で彼らが試みられ,検閲されているところを,もしわたしたちが観察しているとすれば,それは神のお用いになるメシアなる王が支配していることを示す強力な証拠となります。その王はご自分の王座に着いて君臨しておられるのです。

      2,3 (イ)わたしたちの目撃している,今展開している事がらは,イエスのどんなたとえ話の成就となっていますか。そのたとえ話は使徒たちのどんな質問に対するイエスの答えの一部ですか。(ロ)そのたとえ話はどのように始まっていますか。

      2 この20世紀の現代のこれまでに,人目による観察を受けながら展開してきたその興味深い事がらは,西暦33年の春の月ニサンの11日に,エルサレムを見おろすオリーブ山上に座したイエス・キリストがその注目すべき預言に含めた一つのたとえ話あるいはたとえの中でわたしたちのために描写されています。イエスは使徒たちの提起した次のような質問に対する詳しい答えをなおも述べておられました。「そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在[パルーシア]と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3)イエスはご自分の使徒たちに「十人の処女」のたとえ話を述べ,その話から得られる教訓を示したばかりでしたが,今度はさらに別のたとえ話を彼らになさいました。そのたとえ話の成就は,イエスの見えないパルーシアが始まって進行していることを示すものとなります。その話は一般に,「タラントのたとえ話」と呼ばれており,次のようなことばで始まっています。

      3 「それはちょうど,人が外国へ旅行に出るにあたり,奴隷たちを呼び寄せて,自分の持ち物をゆだねたときのようになるのです。そして,ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました」― マタイ 25:14,15。

      4 (イ)このたとえ話の文脈によれば,金持ちが「ちょうど」外国に旅立つさい,貴重品を奴隷たちにゆだねた「ときのよう」であるとは,どういう意味ですか。(ロ)その「人」はだれを表わしていますか。なぜですか。

      4 それにしても,「ちょうど」金持ちが外国へ旅立つ前に自分の持ち物を奴隷たちにゆだねる「ときのよう」であるとは,どういう意味でしょうか。それはイエス・キリストが話しておられた王国に関連する事情をさしています。このことはイエスが次のように語って紹介した,その前のたとえ話,つまり「十人の処女」に関するたとえ話からもわかります。「その時,天の王国は,自分のともしびを手に取って花婿を迎えに出た十人の処女のようになります」。(マタイ 25:1)そのことはまた,イエスが「タラント」に関するたとえ話をした後に述べたたとえ話からもわかります。(マタイ 25:31-34)ここで考慮中のたとえ話の場合,外国へ旅立つ金持ちとはもちろん,主イエス・キリストご自身のことです。イエスはご自分の臨在の「しるし」に関して質問を受けたのです。

      5 それ以前のどんなたとえ話は幾つかの特徴の点で,「タラント」のそれと似ていますか。しかし,この二つのたとえ話は,何を示すよう意図されているかという点で,どのように異なっていますか。

      5 「タラント」のこのたとえ話は幾つかの特徴の点で,イエスが以前に述べたたとえ話で,一般に「ミナのたとえ話」と呼ばれているものと似ています。不思議なこととして,「タラント」のたとえ話は現代におけるその成就によって,主イエス・キリストの王としての臨在あるいはパルーシアが進行中であることを証明するものとして与えられましたが,「ミナ」のたとえ話は,当時,メシアによる王国はなお後代の事がらであることを主イエスが聴衆に示すために述べたものでした。ですから,ミナのたとえ話を述べた記録は次のように始まっています。「彼らがこれらの事を聴いていた時,イエスはさらに一つの例えを話された」。なぜですか。「彼がエルサレムの近くに来ており,彼らは,神の王国がいまやたちどころに出現するものと想像していたからである。それでこう言われた。『ある高貴な生まれの人が,王権を確かに自分のものとして帰るため,遠くの土地に旅行に出ました。彼は自分の十人の奴隷を呼んで,それに十ミナを与え,「わたしが来るまで商売をしなさい」と言いました』」。(ルカ 19:11-13)遠い土地まで長い旅をして,そこから帰って来ることが関係していましたが,それは高貴の人が王権を得て戻るまでに長い時間がかかることを意味していました。

      6 (イ)イエスが「タラント」のたとえ話をなさった2日ばかり前には,何が起きましたか。その時,何が現われませんでしたか。(ロ)それで,今どんな質問が生じますか。

      6 同様に,主イエスが「タラント」のたとえ話を述べた当時,確かに神のメシアによる王国はなお遠い後代の事がらであって,直ちに現われることになってはいませんでした。その2日ばかり前の西暦33年ニサン9日の日曜日,イエスはろばの子に乗ってエルサレムへの勝利の入城を行ない,群衆は歓呼して叫びました。「エホバの名によって来るのは祝福された者! きたらんとする,我らの父ダビデの王国は祝福されたもの! 救いたまえ,上なる高き所にて!」それにもかかわらず,当時,その王国は現われませんでした。(マルコ 11:9,10)その王国は今日現われていますか。これは今日のわたしたちにとって重大な質問です! イエスが肉身でこの地上におられた時以来,長い時間が経過しました。

      7,8 (イ)わたしたちは「タラント」のたとえ話が成就し始めた時をどのようにして確認しますか。(ロ)使徒 1章2-5節はそのことをどのように確証していますか。

      7 「タラント」のたとえ話の成就はイエスのパルーシアつまり臨在と関係がありますが,そのたとえ話は,19世紀前の使徒たちの時代に実現し始めました。たとえ話のそのある「人」つまりイエス・キリストご自身は,エルサレムでペンテコステの祭りが行なわれる十日前に昇天する日まで,なおも使徒たちとともに親しく交わっておられました。たとえ話は,その人が「外国へ旅行に出るにあたり」,奴隷たちを呼んで自分の持ち物を彼らにゆだねるところから始まっています。復活させられたイエスは,空に昇って見えなくなる日までは,「遠くの土地に」「旅行に出」かけはしませんでした。それで,そのできごとが生ずる前に,イエスは「奴隷たち」つまり当時の忠実な弟子たちを呼んで,ご自分の持ち物を彼らにゆだねられたに違いありません。また,それゆえにこそ,このたとえ話は,イエスが死人の中から復活させられ,そして天の父のみ前に昇る時までの間に実現し始めたに違いありません。このことと調和して,使徒 1章2-5節にはこう記されています。

      8 「そのお選びになった使徒たちに聖霊を通して命令を与えたあと天に上げられた[つまりイエスはご自分の弟子たちにかかわる用事を済ませた後,天に上げられた]日までのことを書きました。これらの者たちにはまた,ご自分が苦しみを経たのちに生きていることを多くの確かな証拠によって示し,四十日にわたって彼らに現われ,また神の王国に関する事がらを話されました。そして,彼らと会合しておられる時に,この命令をお与えになりました。『エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネはたしかに水でバプテスマを施しましたが,あなたがたはこれから幾日もたたないうちに聖霊でもってバプテスマを施されるからです』」。

      9 (イ)「タラント」のたとえ話の中では,その人が外国へ旅行する目的はどのように示されていますか。(ロ)それに対応するミナのたとえ話の中では,その人が遠くの土地に行く目的は何でしたか。主の夕食のさいに,イエスはそのことをどのように確証されましたか。

      9 たとえ話の中のその「人」が旅行しようとしていた「外国」の地とは,主イエス・キリストの天の父が住んでおられる天そのものでした。ルカ 19章12節はいみじくもそのことを「遠くの土地」と述べています。「タラント」のたとえ話の中でイエスは,その「人」が外国へ旅行した目的については述べていません。とはいえ,特別の「喜び」を得,ご自分の「持ち物」を増やして,もっと『多くのもの』にするのが目的であったことを示しています。それで,その人は自分の外国旅行の目的を達成したとき,あとに残したそれら「奴隷たち」の主としての「喜び」を味わいました。これに類似した,あるいは対応するミナのたとえ話は,「王権を確かに自分のものとして帰る」のがその外国旅行の目的であることを示しています。ですから,王国を所有することが彼の「喜び」でした。それが天に去って行くご自分の目的であることを示すものとして,イエスは,主の夕食を年毎に祝う方法を示した後,忠実な使徒たちにこう言われました。「わたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」― ルカ 22:29,30。

      10 たとえ話の中の「奴隷たち」はだれを表わしていましたか。彼らがこの名称を受け入れたことは,どのように示されていますか。

      10 たとえ話の中の「奴隷たち」というのは,「天の王国」で王座につく見込みのあった,バプテスマを受けた,イエス・キリストの弟子たちでした。使徒たちでさえ,主イエスの「奴隷」であると唱えることを恥じませんでした。たとえば,ペテロの第二の手紙は,「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロ」ということばで始まっています。(ペテロ第二 1:1)聖書巻末の書,ヨハネへの啓示を紹介するにさいして,使徒ヨハネは,イエス・キリストが「自分の使いを送り,その使いを通して,しるしによりそれを自分の奴隷ヨハネに示した」と述べています。(啓示 1:1)弟子ユダは,「イエス・キリストの奴隷,しかしヤコブの兄弟であるユダ」と述べて,その手紙を書き出しています。(ユダ 1)弟子ヤコブは,「神および主イエス・キリストの奴隷ヤコブから,各地に散っている十二部族へ」ということばで,その手紙を書き起こしています。(ヤコブ 1:1)使徒パウロはフィリピの人たちにあてたその手紙の冒頭で,「キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから,フィリピにいる,キリスト・イエスと結ばれたすべての聖なる者…たちへ」と記しています。―フィリピ 1:1。

      「自分の持ち物」をゆだねる

      11 たとえ話の中のその「人」であるイエスが,ご自分の「奴隷たち」に残して行った「持ち物」は,どんな種類のものではありませんでしたか。

      11 天の王国を継ぐ見込みを持っていた弟子たちは,離れ去ろうとしていたイエス・キリストが地を去る前に呼んで「自分の持ち物」をゆだねたその「奴隷たち」でした。(マタイ 25:14)それらの持ち物とは何でしたか。イエスは家,土地,衣類,銀行にあずけたお金などの物質上の持ち物は何ら弟子たちのために後に残したりはなさいませんでした。カルバリで苦しみの杭につけられて死んだイエスは,年取った母マリアと異父兄弟および異父姉妹を後に残したので,彼らに残された有形の財産はみな,モーセの律法にしたがってそれらの人たちが利用することになりました。それに,神の王国を宣べ伝え,また教える活動を行なった約3年半の間,イエスはご自分のために「地上に宝を蓄える」ことをせず,天の父の王国を第一に求めました。(マタイ 6:19,20,33; 12:46,47; 24:3-47。使徒 1:14)では,ご自分の「奴隷たち」にゆだね得るどんなものを後に残されましたか。

      12,13 (イ)では,イエス・キリストがご自分の「持ち物」として後に残したのは何でしたか。(ロ)それに関するこうした見方は,サマリアのヤコブの井戸の近くでイエスが使徒たちに言われたどんなことによって裏付けられていますか。

      12 それはキリスト教のわざを推し進めるための土台,つまり神のメシアによる王国の良いたよりを宣べ伝え,キリスト教を実践する弟子を作るわざをさらに続行して成果を上げ得る耕された畑でした。それはイエスの弟子である「奴隷たち」のために整えられた道でした。すでに西暦30年のこと,サマリアの地を通って旅をしていたとき,スカルの近くの「ヤコブの泉」の傍でサマリア人の女性に伝道した後,イエスは使徒たちにこう言われました。

      13 「さあ,あなたがたに言いますが,目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています。すでに,刈る者は報酬を受け取って永遠の命に至る実を集めており,こうして,まく者と刈る者はともに喜ぶのです。この点,ひとりはまく者,もうひとりは刈る者,ということばはたしかに真実です。わたしは,あなたがたが少しも労力をかけなかったものを刈り取らせるために,あなたがたを派遣しました。ほかの者たちが労し,あなたがたはその労の益にあずかっているのです」― ヨハネ 4:35-38。

      14 (イ)バプテストのヨハネとイエス・キリストの公生涯はどのように対比されますか。(ロ)イエスはだれの間に,またどのようにして,さらに実を生み出し得る耕された畑を残しましたか。

      14 バプテストのヨハネは約6か月の間,イエスの先駆者として奉仕し,次のようにふれ告げました。「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」。それから,西暦30年にヨハネが投獄された後,イエスはその同じ音信を取り上げました。というのは,その後の3年間,イエスはその音信を宣べ伝え,機会あるごとにどこでも人びとを教え続けられました。それで,バプテストのヨハネが公に自由に活動した期間はかなり短く,わずか1年そこそこですが,イエスが公に,また個人的に活動した期間はその3倍も長いものでした。この両者は蒔く仕事を行ない,イエスはヨハネの跡を継いだと言うことができるでしょう。イエスはいわば弟子たちを刈り取り始めましたが,その活動の畑から刈り取り得る者すべてを刈り取ったわけではありません。(マタイ 4:12-23; 3:1-7)そのうえ,イエスは,その非業の死および死人の中からの復活を含め,ご自分の公生涯によって約束のメシアに関する聖書の預言を成就させましたし,またそれはすべて周知の事がらでした。このことは,イエス・キリストが公の人物として当時最大の論議の的とされた地域に住むユダヤ人に影響を及ぼしました。その結果,キリスト教を実践する弟子たちを生み出す畑が耕されました。

      15 (イ)それで,イエス・キリストは潜在力を有するどんな貴重なものをご自分の弟子たちに残しましたか。(ロ)それらの「持ち物」を最初何人の人びとに残しましたか。

      15 イエスはこうして,ご自分の働いた,人びとの畑に潜在力を,つまり弟子たちを生み出す潜在的な力および産出能力,すなわちイエスの弟子たちの将来のわざに直ちに好意的な反応を示す,あるいは答え応ずる,畑の用意のできた状態を付与されました。キリスト教を実践する弟子たちを育成して刈り取る潜在力(キリスト教的可能性)のある用意のできたこの畑こそ,復活させられた主イエス・キリストの「持ち物」でした。イエスはそれを,ご自分の弟子である奴隷たちにゆだねたのです。死人の中から復活させられた後,イエスは「一度に五百人以上の兄弟」たちに現われましたが,その後,ペンテコステの祭りの日にはわずか百二十人ほどの弟子たちだけがエルサレムのとある二階の部屋に集合して,天から注がれた聖霊を最初に受けました。(コリント第一 15:6。マタイ 28:16-18。使徒 1:13-15)したがって,イエスがその天の父のもとに昇ることによって外国へ旅立つ前に,ご自分の「持ち物」をゆだねたクリスチャンの「奴隷たち」は少なくとも百人以上いました。

      16 たとえ話の中のその人の「持ち物」は,どれほどの量のお金に相当しましたか。彼はそれらの「持ち物」をどのように「奴隷たち」に配分しましたか。

      16 その「持ち物」はどのように,また何に基づいて配分されましたか。こう記されています。「そして,ある者には五タラント,別の者には二タラント,さらに別の者には一タラントと,各自の能力に応じてひとりひとりに与えてから,外国に行きました」。(マタイ 25:15)したがって,銀八タラントは,彼が奴隷たちに分配した「持ち物」を表わしています。西暦1世紀当時,それは相当の量の富を表わすものでした。というのは,銀一タラントは六十ミナ,あるいはアメリカのお金で850㌦(23万円ほど)に相当したからです。銀一タラントを受け取った奴隷は,それだけの量のお金を用いるべく入手したわけです。二タラントを得た奴隷はその量の二倍のお金を,また五タラントを得た者はその量の五倍のお金をそれぞれ受け取りました。奴隷はおのおの「各自の能力」に応じた量のお金を受け取り,それぞれの量のお金を取り扱って商売をすることになりました。その金持ちは自分の奴隷たちとその能力のほどをよく知っていました。

      17 (イ)たとえ話の中の「奴隷たち」はどんな能力を持っていましたか。しかし,たとえ話の成就の場合はどうですか。(ロ)たとえ話の中で最も大きな責任を受けたのはだれですか。その成就の場合はどうですか。

      17 たとえ話の中では,それらの能力は生来の能力,あるいは奴隷たちが培って伸ばした能力でした。「タラント」のたとえ話の成就においては,「能力」とは単なる身体的あるいは精神的能力のことではありません。その種の能力は貴重で,有用なものとなり得ますが,その「能力」は,天の王国を継ぐ見込みのあるクリスチャンの奴隷のうちに見いだされることになっている霊的な意味での可能性を表わしています。そのようなクリスチャンの奴隷の抱いている熱心さ,喜んで行なう態度,また熱望は,ゆだねられた霊的富を用いる当人の可能性に寄与します。自己の能力に応じて五タラントに類似するものを受け取る人は,もちろん最も大きな責任を負います。こうして主イエス・キリストは,その使徒たちである奴隷に最も大きな責任を負わせたので,彼らはクリスチャン会衆の副次的な土台になるとともに,大々的な規模で開拓のわざを行なうことになりました。―啓示 21:14。エフェソス 2:20-22。

      18 (イ)わずか三人しかいないという点で,その「奴隷たち」は何を表わしていますか。(ロ)たとえ話の中の「奴隷たち」は全部男子でしたが,その成就についてはどうですか。

      18 もちろん,主イエス・キリストが天の王国のための契約を結んだ霊的な「奴隷たち」は三人以上いました。それで,たとえ話の三人の「奴隷たち」は,将来天の王国の相続者になれそうな人たちの三つのそれぞれの級を表わしています。霊によって生み出されたクリスチャン会衆には,信仰の厚い女性が多数含まれていることを忘れてはなりません。西暦33年のペンテコステの日の,イエスの母マリアは,そのような女性のひとりでしたし,エルサレムの近くのベタニヤの町のマリアやマルタもペンテコステのその注目すべき日に聖霊を受け,使徒 1章14節で言及されている「幾人かの女たち」の中に含まれているものと考えられます。(ヨハネ 11:1-45)また,エルサレムで迫害を受け,仕方なく北方のサマリアへ行った福音宣明者フィリポは,信仰の厚いサマリア人の婦人たちを見いだしました。こう記されています。「しかし,神の王国とイエス・キリストの名についての良いたよりを宣明していたフィリポのことばを信じた時,彼らはついで,男も女もバプテスマを受けた」― 使徒 8:12。

      19 (イ)たとえ話の中で,その「人」は自分の「持ち物」に関して奴隷たちが何を行なうことを期待しましたか。(ロ)イエス・キリストはご自分の弟子である「奴隷たち」に残した「持ち物」に関して何を期待しておられますか。

      19 たとえ話の中の旅に出るその人は,自分の留守中,奴隷たちがそれらタラントを用いて商売をし,それを増やすものと期待していました。奴隷たちがそのお金を遊ばせて,利益を上げさせぬままにすることを彼は望んではいませんでした。同様に,地上のご自身の持ち物すべてをご自分の弟子である「奴隷たち」にゆだねた主イエス・キリストは,ご自分が彼らにゆだねた,耕されて用意のできた畑を,彼らがそれ以上注意を払わず,拡張することもなく,ものをもっと産み出させぬままに放置したりはしないことを期待し,事実,そうしないよう命じました。その畑はまた,増し加えたり,広げたり,拡大したりせずに元の大きさのままにしておくべきものでもありませんでした。そうではなくて,不在の主イエス・キリストは増加を期待しておられました。したがって,増加をもたらさなければ,責任を果たさない者の受ける処罰をこうむるでしょう。

      「タラント」を用いて商売をする

      20 その「人」はタラントを預けた奴隷たちに何を期待しましたか。そうした期待にかなうよう努めた奴隷たちはどのように報われましたか。

      20 たとえ話の中の奴隷たちは,特に告げられなかったとはいえ,自分たちに増加が期待されていることを自覚しました。たとえ話はこのことを明らかにしています。こう記されているからです。「五タラントを受けた者はすぐに出かけて行き,それで商売をしてさらに五タラントをもうけました。二タラントを受けた者は同じようにしてさらに二タラントをもうけました」。(マタイ 25:16,17)明らかにこれら二人の奴隷はそのお金を銀行に預けて,銀行経営者に運用させて利子を得させたのではありません。かえって,手腕や洞察力や鋭敏さを発揮して自ら投機的事業に携わりました。その個人的な努力は報われました。彼らのお金はそれぞれ二倍に増えたからです。二人はおのおの,自分の所有者の是認を得たいとの願いはもとより,所有者に対する忠節と専念の態度をいだいて「各自の能力」を活用しました。

      21,22 イエス・キリストの「持ち物」はその量の点で,どのようにして,またどの程度,そしてどんな地域で増やされることになっていましたか。

      21 さて,たとえ話の成就においては,将来王国の相続者になりそうな人たちにゆだねられている主イエス・キリストの「持ち物」のその部分は,どのように二倍に増えましたか。主イエスは,それがどのようになされるべきかを告げましたし,聖書の記述は,それが19世紀以前にどのようになされたかを例証する事がらを提供しています。昇天する何日か前,主イエスはガリラヤ州のとある山上の予定の場所で,肉体を備えて弟子たちに現われ,そこで彼らにこう言われました。「わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」。(マタイ 28:16-20)しかし,昇天する日にさいしてイエスは,ご自分の「持ち物」を増やすそのわざがたどろうとしていた経過をさらに明確にされました。そのことについてはこう記されています。

      22 「さて,集合した時に,彼らはイエスに尋ねはじめた,『主よ,あなたはいまこの時に,イスラエルに王国を回復されるのですか』。イエスは彼らに言われた,『父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは,あなたがたのあずかるところではありません。しかし,聖霊があなたがたの上に到来するときにあなたがたは力を受け,エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう』」― 使徒 1:6-8。

      23 (イ)イエスは宣べ伝えて教えるご自分のわざをどんな地域に局限されましたか。どんな結果がもたらされましたか。(ロ)それで,弟子たちはキリストの「持ち物」をどこに見いだしましたか。だれの定めた予定の時までそれを用いて働くことになりましたか。

      23 王国を宣べ伝え,教える者として地上で活動した期間中,イエスはご自分の努力をエルサレムおよびガリラヤと(サマリアを含む)ユダヤ両州,そしてヨルダン川東岸のペレアに局限されました。それらの地域のユダヤ人やサマリア人の間でイエスは,さらに多くの弟子を作るための耕されて用意のできた状態を生ぜしめられました。それらの地域のそうした状態こそ,キリスト教を実践する弟子たちを増やす点で当時の弟子たちが利用することになっていたものだったのです。それが,彼らの主イエスが「奴隷たち」である彼らにゆだねた「持ち物」でした。それで,まず第一に彼らは,天の父がご自分の権限内に保留しておられた時期もしくは時節が到来するまで,それら用意のできた地域で働くことになっていました。彼らは,「キリストは実に,神の真実さのために,割礼を受けた者たちの奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の真実さを証拠だて(るようにされた)」ことを思い起こして,そこで働かねばなりませんでした。―ローマ 15:8。

      24 (イ)聖霊を受けた後,弟子たちは直ちに自分たちの主の「持ち物」をどのように運用しましたか。どれほどの結果がもたらされましたか。(ロ)ペンテコステの後,家に戻ったユダヤ人の信者は,生産性のあるどんな畑を見いだしましたか。

      24 このことと調和して,弟子である当時の「奴隷たち」は,主イエスが働いて世話をしてきたご自分の「持ち物」として彼らにゆだねた,用意のできた,耕された地所を利用し,そして弟子を増やすべく,その霊的な地所を運用しました。彼らは西暦33年のペンテコステのあの祭りの日に直ちにそこエルサレムでそうしました。そして直ちに,約三千人もの人びとがバプテスマを受けて産み出され,彼らは聖霊によるバプテスマを受けることにより,王国を継ぐ見込みを持つ者とされました。彼らは生来のユダヤ人であろうと,あるいはユダヤ教の信仰を受け入れた改宗者であろうと,すべて割礼を受けた人たちでした。弟子たちにゆだねられた主イエスの持ち物はなおもいっそう用いられ,キリスト教の事業が行なわれたので,しばらく後にはエルサレムにいた弟子たちの人数は「およそ五千」人に殖えました。(使徒 4:4)ペンテコステの祝いの後にエルサレムを去って,さまざまな地方にある各自の家に戻ったそれら何百人ものユダヤ人や改宗者たちは疑いもなく,自分たちの郷里の近隣のユダヤ人の間にキリスト教のための活動の畑を見いだしました。

      25 (イ)エルサレムの祭りに出るユダヤ人や改宗者たちの場合には,イエスはすでに幾らかの「持ち物」のためにどのように働いておられましたか。(ロ)迫害が生じたため,キリスト教の信仰は遠方のユダヤ人社会にどのように広まりましたか。

      25 それら戻って行ったユダヤ人や改宗者たちは恐らく,すべての祭りに出るため以前何度かエルサレムを訪れたさい,イエス・キリストに接して,その話を聞いていたと考えられます。そのようなわけでイエスは,エルサレムを訪れるそれらユダヤ人や改宗者の場合でさえ,用意のできた,耕された状態を生じさせておられたので,エルサレムにいた使徒や仲間の弟子たちは,イエスの持ち物のそうした部分をも利用し,そのような「持ち物」を運用しました。(ヨハネ 12:20-29。使徒 2:5-11)それで,使徒パウロがイタリアのローマに到着する以前でさえ,多数のクリスチャンで成る一つの会衆がその地にできていたのです。(ローマ 1:1-7; 15:22-24)また,エルサレムではキリストの弟子たちに対する迫害が生じたため,キリスト教はユダヤ州以外の地の多くのユダヤ人の間に広まるようになりました。使徒 11章19節にはこう記されています。「このようにして,ステファノのことで起こった患難のために散らされた者たちは,フェニキア,キプロス,アンティオキアにまで進んで行ったが,ユダヤ人のほかにはだれにもみことばを話さなかった」。

      26 (イ)弟子を作る仕事をユダヤ人の畑にだけ限定する事態はいつまで,またどんなできごとが起きる時まで続きましたか。(ロ)新たに開かれたその地域におけるわざは,霊的な「タラント」を増やす点でどのように成果をもたらしましたか。

      26 こうして,不在の主イエス・キリストの「持ち物」をユダヤ人およびユダヤ教に改宗した人たちの間だけに限定して増やす事態は,西暦36年の秋まで続きました。次いで,イエスご自身が,「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし……バプテスマを施し(なさい)」,「あなたがたは…地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と言って命じられたとおり,ほかの地域でキリスト教を実践する弟子たちの数の増える時が到来しました。(マタイ 28:19,20。使徒 1:8)当時,それはイエスからその霊的な「タラント」をゆだねられたユダヤ人の弟子たちが,さらに多くの霊的な「タラント」をもうけるために,イエスのそうした「持ち物」を用いるべき神のご予定の時でした。また,そうすることは,使徒ペテロがコルネリオを改宗させてイエス・キリストの弟子にすべく,ユダヤのローマ総督府,カエサレアに派遣されたとき,五タラント級の人たちの活動をもって始まりました。(使徒 10:1から11:18)このことによって,人類の全異邦人つまり非ユダヤ人世界が,弟子を作るわざのために開かれました。それは蒔いて刈り取り,弟子を作る割当てをエホバ神から受けて地上にいたイエス・キリストに『所属して』いない地域でした。―マタイ 15:24。

      27 こうして産出の期待される世界的な地域が開かれた結果,ユダヤ人の弟子たちには何が要求されましたか。

      27 さて,そこにあったのは,イエス・キリストが自ら人びとを整えさせたことのない,つまりご自分の弟子たちがクリスチャン会衆の増大を図るのに有利に用いられるよう,開拓者としてのイエスが残した,用意のできた,耕された状態などの見られない広大な地域でした。彼らはイエスが最初の畑を耕された状態に整えるさいに行なった事がらの利点や有利さを知り,またそれから刺激を受けていたので,今や経験を積んだ,資格のある働き人として種を蒔き,成育の可能性を培い,そうすることにより,メシアなるイエスの弟子を産み出す他の畑を殖やすことができました。それには彼ら自身努力して開拓しなければならず,また勇気,誠実な努力,慎重な注意そして粘り強さを働かせて,損失をこうむらないようにする必要がありました。彼らはもはや他人の土台の上に築くのではなく,全く新しい地域で,弟子を作るわざの下準備すべてを自ら行なっていたのです。それは自分たちの主に対する従順を示すものでした。―ローマ 15:17-21。

      28,29 (イ)キリストの後代の弟子である「奴隷たち」は,1世紀の弟子たちの示した型に従って,自分たちの能力に応じてどのように努力しましたか。(ロ)増加をもたらすことに関係して最も重大な要素となっているのは何ですか。

      28 イエス・キリストの使徒たちや他の1世紀の弟子たちは,自分たちにゆだねられた比喩的な「タラント」を用いて『商売をする』仕方の型を示しました。彼らは自分たちの主のタラントの数を百パーセント増やしました。主の「持ち物」である「五タラント」を委託されたクリスチャンの「奴隷」級は,さらに五タラントもうけました。自分たちの主のものである二タラントを引き受けさせられたキリストの「奴隷」級は,さらに二タラントもうけました。比例の点からすれば,おのおのの級にとってそれは百パーセントの増加でした。それで,おのおのできるかぎりのことを行なったので,いずれか一方が勝っていたということはありませんでした。おのおの期待されただけのことをしました。「各自の能力」に応じて最善を尽くしたのです。しかし,自分たちの主の持ち物を用いてもたらした増加は,単におのおのの「奴隷」がその「能力」を活用したことだけによるものではありませんでした。この問題にはもう一つの要素が加わっていました。それはすべての要素の中でも最も肝要なものでした。自分の奉仕と雄弁家の弟子アポロのそれについて,両者を比較して語った使徒パウロは,この要素に言及してこう述べました。

      29 「では,アポロは何者ですか。そうです,パウロは何者ですか。仕える者であり,あなたがたはそれを通して信者となりましたが,それは主がおのおのに授けられたところに応じてなのです。わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです。ですから,たいせつなのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです。さて,植える者と水を注ぐ者とは一つですが,おのおのはその労に応じて報いを受けます。わたしたちは神とともに働く者だからです。あなたがたは耕されている神の畑,神の建物です」― コリント第一 3:5-9。

      30 (イ)では,増加という点で第一に誉れを受けるべき方はだれですか。(ロ)1世紀においては,弟子たちによって耕された地域で増加が見られたことを示すどんな証拠がありましたか。

      30 ですから,神こそその増加の点で誉れを受けるべき方であって,キリストの「奴隷たち」は,増加を図るために神が喜んでお用いになる器にすぎません。神はその「奴隷たち」が各自の責務に真正面から取り組めるよう助けてくださいます。神は,あらゆる国の人びとの中で弟子を作るわざを首尾よく遂行するのに必要なものをその「奴隷たち」に授けてくださいます。こうして,離れ去ろうとしていた神のみ子がご自分の忠実な弟子たちに残した,弟子を産み出す,用意のできた,耕された地域は増してゆきます。なぜなら,キリストの「奴隷たち」がその命令に従順に従い,その模範に見倣うことによって,全地の至る所にこの種の地域が存在するようになるからです。西暦1世紀当時,そのことを示すどんな証拠がありましたか。次のとおりです。天の王国の相続者となった弟子たちの会衆はエルサレム,また全ユダヤ,ガリラヤそしてサマリア以外の地でも次々に現われ,アジア,アフリカ,ヨーロッパそして地中海諸島の各地に会衆が設立されました。

      31 前述のことを例示するものとして,ペテロの最初の手紙の発信地は彼についてどんなことを示していますか。

      31 たとえば,使徒ペテロの例を取ってみましょう。彼はイエスがエルサレムの壮麗な神殿の滅びについて預言するのを聞いた後,イエスに次のように質問した四人の使徒たちのうちの一人でした。「そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,これらのすべてのものが終結に至るように定まった時のしるしには何がありますか」。(マルコ 13:1-4)さて,約30年後,つまり西暦62-64年ごろ,もしくはエルサレムとその神殿が攻囲され,滅ぼされて,「そうしたこと」が正しく起こる数年前,使徒ペテロはローマ帝国外の地で宣教者の仕事をしていました。そうです,彼がローマ帝国内の仲間のクリスチャンに宛てて書いた最初の手紙は,メソポタミアのユーフラテス河畔の都市バビロンで記されました。その手紙の終わりの箇所で彼は,その地のクリスチャン会衆に言及してこう記しています。「バビロンにいる,あなたがたと同じように選ばれた婦人が,あなたがたにあいさつを送っています」― ペテロ第一 5:13。

      32-34 (イ)パウロはコロサイの人たちに宛てた手紙をいつごろ,またどこから書き送りましたか。(ロ)その中でパウロは,弟子たちにゆだねられた「タラント」が世界的に増えていることをどのように示唆していますか。

      32 それからまた,使徒パウロがいます。彼は少なくとも帝都ローマに,ただし公正な裁判を求めてカエサルに上訴した囚人として到着しました。彼はローマで拘留されていた所から,西暦60-61年ごろ小アジア,コロサイのクリスチャン会衆に手紙を送りました。それは主イエス・キリストの預言した「そうしたこと」が生ずるおよそ10年前でした。それでも,エルサレムを中心としたユダヤ教の事物の体制の終わるそれほど前でありながら,使徒パウロはイエスがその「奴隷たち」にゆだねた比喩的な「タラント」が世界中で増えたことについて述べました。『良いたよりを告げること』に言及したパウロは,彼らにこう書き送りました。

      33 「[わたしたちは]キリスト・イエスに関するあなたがたの信仰と,あなたがたのため天に蓄えられている希望のゆえにあなたがたが聖なる者たちすべてに対していだく愛とについて聞(きました)。その希望は,良いたよりの真理が語り告げられることによってあなたがたが以前に聞いたものです。その良いたよりはあなたがたのところにもたらされましたが,世界じゅうで実を結んで増大しているのであり,それは,あなたがたが真に神の過分のご親切について聞きかつ正確に知った日以来あなたがたの間でも起きていることと同じです。これはあなたがたが,わたしたちの愛する仲間の奴隷エパフラスから学んだ事がらです。彼はわたしたちのための,キリストの忠実な奉仕者であり,また霊的な面でのあなたがたの愛をわたしたちに聞かせてもくれました。

      34 「そうです,思いが邪悪な業に向けられていたためにかつては疎外され,また敵となっていたあなたがたを,神は今やこのかたの肉の体により,彼の死を通して,再び和解させてくださったのです。それはあなたがたを,聖にしてきずなく,なんらとがめのない者としてそのみまえに立たせるためでした。もとよりそれは,あなたがたが引き続き信仰にとどまり,土台の上に堅く立って揺らぐことなく,自分たちの聞いた良いたよりの希望からそらされないでいるならばです。その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」― コロサイ 1:4-8,21-23。

      35 1世紀の弟子たちの熱心さを示す証拠は,どんな限られた期間にもたらされましたか。それはイエスのどんな預言の成就となりましたか。

      35 霊感を受けた使徒パウロのこのことばは,自分たちにゆだねられた「タラント」を用いて『商売をする』点で主イエス・キリストの1世紀当時のそれら「奴隷たち」の熱心さを示す何とすばらしい証拠でしょう。それほどの短期間に彼らは何とすばらしい業績を成し遂げたのでしょう。―良いたよりは「世界じゅうで実を結んで増大し」「天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです」。考えてもみてください。イエス・キリストは西暦29-33年に「事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされ」ました。しかも,ユダヤ人の宗教上の首都の壊滅により,ユダヤ教の事物の体制が西暦70年に完全に終結する以前でさえ,当時知られていた世界の至る所でユダヤ人は,神のメシアによる王国に関する証言を受けていたのです。実際,異邦諸国民もすべて,やはりそうした証言を受けました。それは「事物の体制の終結」の「しるし」に関するイエスの預言,すなわち,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」という預言の模型的な成就となりました。―マタイ 24:14。ヘブライ 9:26。

      今日見られる,たとえ話の成就の最高潮

      36 弟子である「奴隷たち」の主は,エルサレムが滅びる前に,あるいはその後に再び来ましたか。啓示の書のヨハネの結びのことばは,キリストの到来に関して何を示しましたか。

      36 戦争,疫病,飢饉,地震そして迫害にもめげず,貴重な「タラント」をそれほどの世界的な規模で増やしたそれら1世紀の「奴隷たち」はみな次々に死にましたが,去って行った彼らの主また所有者は,ローマ軍団によるエルサレムの崩壊以前にも,またはそれ以後にも彼らの時代のうちには戻りませんでした。ユダヤ教世界に衝撃を与えたあの恐るべきできごとが起きてから約26年の後,パトモス島に監禁されていた使徒ヨハネは神からの啓示を受け,その服役期間は明るいものになりましたが,その啓示の中でヨハネは将来をさし示してこう言いました。「見よ,彼は雲とともに来る。そして,すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちもである」。そして,ヨハネは啓示の書の記述を祈りをもって結びました。「『アーメン! 来たりませ,主イエスよ』。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちとともにありますように」。(啓示 1:7; 22:20,21)主の到来を請い求めるその熱烈な祈りが実際にかなえられたのは,18世紀余経ってからのことでした。

      37 (イ)どんな期待に反して,主イエス・キリストはいつ戻りましたか。(ロ)それ以来,王国を宣べ伝えるわざはどんな新たな意味を帯びるようになりましたか。なぜですか。

      37 主イエス・キリストの再来とそのパルーシアつまり臨在が始まって初めて,「タラント」のたとえ話の成就の最高潮が到来することになります。昔,19世紀も後半のころ,西暦1874年に主が戻り,霊による主の見えない臨在がその年に始まったと考えられました。しかし,その後の40年間,主の臨在と事物の体制の終結との「しるし」は実際のところ現われませんでした。異邦人の時の終わった1914年10月4日か5日ごろ,あるいはユダヤ暦の陰暦の月チスリの半ばに至るまでは現われませんでした。その時,神のメシアによるきたるべき王国の良いたよりを宣べ伝えるわざは,樹立された神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざに変わりました。続いて生じた世界のできごとは,上記の重大な年にメシア,つまりアブラハムの子であるダビデの子イエスを即位させ,王冠をいただかせることによって神の天の王国が誕生させられたことを示す証拠を積み重ねるものとなりました。(マタイ 1:1)その「正当な権利」を持つ者が来たのです。事実,彼は戻られたのです!―エゼキエル 21:25-27,新。

      38 「タラント」のたとえ話はどんな預言の一部として与えられましたか。それで,今日その成就が最高潮を迎えているということは,どのように示されて然るべきですか。

      38 「タラント」のたとえ話は,イエスのパルーシアつまり臨在の事実を示す,多くの特色を備えた「しるし」の一部としてイエス・キリストが与えたものです。それで,たとえ話の成就がわたしたちの時代に頂点に達するのであれば,イエスが霊において戻り,またその臨在が今や進行していることを示す証拠は当然増えるはずです。主イエス・キリストの王としての臨在が1914年における異邦人の時の終わりに始まったと言うのであれば,確かに,そのたとえ話の成就が今日最高潮を迎えていることを立証する事実があって然るべきです。どんな事実がありますか。

      39 一タラントを得た奴隷は何をしましたか。奴隷たちとの勘定の清算はいつ始まりましたか。

      39 まず,たとえ話がどうなったかを調べてみましょう。それで,イエスのたとえ話をさらに読んでみると,こう記されています。「しかし,ただ一タラントを受けた者は,出かけて行って地面を掘り,主人の銀子を隠しておきました。長い時を経たのち,その奴隷たちの主人が来て,彼らとの勘定を清算しました」― マタイ 25:18,19。

      40 (イ)たとえ話の中で,「その奴隷たちの主人」は何を携えて戻りましたか。(ロ)西暦1914年は特にどんな「王権」と関係がありましたか。それはどうしてですか。

      40 「その奴隷たちの主人」は,外国へ旅行して得た望みのものを,携えて来ました。その主人が後で述べたことばは,自分の忠実な奴隷たちと分かち合うべき「喜び」を得ていたことを示しています。彼は銀八タラントを奴隷たちにゆだねた時には持っていなかった『多くのもの』を携えて帰って来ました。イエスがもっと前に話した,「十ミナ」のたとえ話は,主人が携えて帰って来たのは「王権」であったことを明示しています。(ルカ 19:12-15)異邦人の時,つまり「諸国民の定められた時」は「王権」,それも特にエルサレムのダビデ王の家系の「王権」,つまり西暦前607年にバビロンの王ネブカデネザルによって覆されたダビデの家系の王権と関係がありました。破滅を招いたその年は,西暦1914年に至る2,520年にわたる異邦人の時を起算する年となりました。それで,1914年10月4,5日ごろにおけるその異邦人の時の終わりは必然的に,それまで長く続いた事態が逆転するのを目撃する時となるはずでした。ですから,1914年10月4,5日に異邦人諸国家が人類史上最初の世界大戦に巻き込まれてすでに2か月間苦しんでいたことは,決して意味のない事がらではありませんでした。

      41 (イ)第一次世界大戦は,主イエス・キリストの弟子で,「奴隷たち」である,当時地上にいた少数の者たちを絶滅させるものとなりましたか。(ロ)彼らがさらに行なおうとしていた証言に関して諸国民は彼らに何をしようとしましたか。

      41 しかし,天の主人イエス・キリストがご自分の貴重な「タラント」をゆだねたクリスチャンの「奴隷たち」についてはどうですか。その注目すべき時に地上の舞台にいて,聖書から第一次世界大戦の意味を悟った,それら忠実な「奴隷たち」の少数の者たちは今日もなおいます。その国際的闘争はついには28か国もの国々や帝国を全面戦争に引きずり込みましたが,新しく即位した天の王イエス・キリストのそれら忠節な「奴隷たち」を絶滅するものとはなりませんでした。全地の王としてのイエス・キリストによって支配されるのを好まなかった地上の敵は,それら「奴隷たち」を絶滅させたいと思いましたが,そうすることには成功しませんでした。事実上,彼らは,それら奴隷たちが天の主人また所有者から受けた比喩的な「タラント」を奪い去ろうとしました。それら奴隷たちが新しく即位した天の王のために成し遂げた優れた業績や得た収益すべてを台なしにさせようとしました。そのために彼らは,それら奴隷たちがあらゆる国の人びとに及ぼしていた影響を弱めさせようとしました。それら奴隷たちが王国に関して将来なされる証言のために用意し,耕した土台を必死に削り去ろうとしたのです。

      42,43 (イ)1918年に第一次世界大戦が終わったとき,天の主人の「奴隷たち」はどんな状態のもとにありましたか。(ロ)見たところでは,彼らにゆだねられた「タラント」はどうなってしまいましたか。

      42 第一次世界大戦が1918年11月11日に終わった時,統治していた天の王の「奴隷たち」は,キリスト教世界内外の人びとの間で得たあの良い評判に関しては事実上死んだも同然の状態にありました。クリスチャンとして人びとから寄せられた好意は,国粋的な愛国主義者や戦争に熱中している狂信者による誤伝や中傷の陰で事実上絶えてしまいました。また,群衆の激しい襲撃にも遭いました。彼らの聖書文書は発行を禁止されたり,彼ら自身追放されたりしました。その多くは投獄されました。中でも最もおもだった人たちだったのは,ものみの塔聖書冊子協会の会長および当協会の会計秘書,それに他の六人の著名な同僚たちで,誣告された彼らは,気違いじみた戦争が終わった後に初めて,無罪であることが明らかにされました。

      43 この地球の正当な支配者のそれら「奴隷たち」は一切のものを取り去られたように見えました。彼らにゆだねられた「タラント」は一掃されたかに見えました。彼らの敵は,それら「奴隷たち」にその天の主人に対する奉仕を二度と再び行なえないようにさせたことを大いに喜びました。というのは,もう一度始める力が彼らにあるかどうかは疑問視されたからです。

      44 (イ)事態はいつ,またどのように逆転しはじめましたか。(ロ)生き残った「奴隷たち」に関してはどんな疑問が生じますか。なぜですか。

      44 事態が逆転しはじめるのを見て敵が驚き,仰天したのは,戦争が終わって4か月余経ってからのことでした。それはものみの塔聖書冊子協会のそれら八人の代表者たちが1919年3月25日,(ジョージア州)アトランタ連邦刑務所から釈放され,翌日ニューヨーク市ブルックリンで保釈が認められたときのことでした。はなはだしい虚偽の告発を受けた彼らは,その後ほどなくして無罪であることが証明されました。しかし,戦争のための宣伝や戦争熱のゆえにイエス・キリストの「奴隷たち」に関して偏った歪められた見方をいだいた,戦争で疲れ果てた人びとにとって,このことにはどれほどの価値がありましたか。それは「奴隷たち」の考慮すべき事がらでした。そうした険悪な事情にもかかわらず,彼らは元気を取り戻して再び前進することができましたか。彼らはそうするために,自分たちの天の主人の勇気と確信を得ましたか。それは当時のそれらクリスチャンの奴隷たちにとって正しく試みの時でした。

      45 (イ)たとえ話によれば,「その奴隷たちの主人」によって何が行なわれようとしていましたか。(ロ)彼らが「タラント」を持ち合わせているという点では,それらクリスチャンの奴隷たちのために何がなされる必要がありましたか。

      45 「タラント」のたとえ話は,外国から戻った旅行者が彼らとの勘定を清算することを表わしていました。それは彼らを検閲することを意味していました。1919年の春のそれらのできごとを転機として,「その奴隷たち」の天の「主人」が彼らを検閲することになったのは,けだし当然と言わねばなりません。それにしても,彼らは奴隷級にゆだねられた主人の「タラント」に関して,どんな説明を行なうことができましたか。戦時下の迫害が1918年に最高潮に達する以前に彼らが得たであろう幾ばくかの増加は拭い去られてしまったように見えました。彼らはまるで比喩的な「タラント」を何ら持ち合わせていないようでした。もし今,自分たちの主人の「タラント」のもたらす増加を示すというのであれば,彼らは戦後の時期にそうした増加をもたらし,そうして増やした主人の持ち物を後日彼に手渡さねばなりません。彼らは新たな別の機会を得て,主人の貴重な「タラント」を用いて「商売をし」なければなりませんでした。彼らの主人の憐み深い思いやりのゆえに,歴史上まさにそのとおりに事が運びました。

      46 (イ)当時は彼らが何を払いのけるべき時でしたか。彼らは何のために再組織する心要がありましたか。(ロ)彼らの天の主人が「王権」を持っていることを考えると,当時は何をするのに絶好の時機であり,幸先のよい時でしたか。

      46 最初の世界大戦が猛り狂い,病的興奮状態をもたらしていた間,奴隷級のあいだには人間に対する恐れの気持ちが引き起こされ,統治する王イエス・キリストの信頼できる奴隷としてなすべき仕事からかなり手を引くことを余儀なくされましたが,1919年はそうした恐れを払いのけるべき重大な時でした。当時は,崩され,損われた自分たちの隊伍を再組織し始め,今や王権を持っておられる主の奉仕の点で自分たちの生活の中で最大の努力を払うべき絶好の時機でした。今や彼らの主は,恵みとして天の王国の希望が与えられる弟子たちをさらに産み出すべく自由に用い得るご自分の畑である全地に対する正当な権利をかつてなかったほど要求されました。彼はその時宜にかなった事態を彼らにゆだねて,ご自分に対する奉仕の点で『商売をさせる』ことができました。当時は弟子たちで成る「奴隷」級が,「五タラント」を委託された奴隷や,また二タラントゆだねられた奴隷によって表わされた者として立ち上がるべき幸先のよい時でした。彼らはそうしました。「タラント」のたとえ話は,それも特に最高潮を迎える時点で成就しないわけにはゆかないからです。

      47 1919年に彼らは,恐れるのではなくて,戦後のわざに自らを捧げるよう,どのように強められましたか。

      47 一刻も無駄にはされませんでした。1919年,「奴隷たち」のそれら二つの級は仕事を始めました。彼らは1919年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌の「恐れなき者は幸いなり」と題する記事から強力な新たな確信を得ました。そして,1919年9月1-8日にわたってオハイオ州シーダー・ポイントで開かれた8日間の大会の発表を歓呼して迎えました。さらに迫害を伴い,多大の精力と勇気を要する戦後のわざに直面しはしまいかと恐れて,その大会に出席するのを思い留まったりはしませんでした。

      48 (イ)シーダー・ポイント大会の出席者たちは,「ものみの塔」誌の姉妹誌としての新しい雑誌に関する発表をどのように受け入れましたか。(ロ)付け加えられたこの雑誌は今日に至るまでどのように用いられてきましたか。

      48 特にカナダおよびアメリカ合衆国から来た六千人もの人びとは,自分たちの前途のわざをどのように行なうようエホバが意図しておられるかを知りたいと切に願いつつ,国際聖書研究者協会のこの大会の集まりに毎日出席しました。彼らは「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の姉妹誌として1919年10月1日に発刊される「黄金時代」と題する新しい雑誌の発表を驚きとともに,心からの感謝の念をいだいて迎えました。その新しい雑誌は,樹立された神のメシアによる王国を告げ知らせる上で付け加えられた補助誌となりました。それは主イエス・キリストの弟子をさらに産み出すための新たな地域を耕し,植えて水を注ぐわざを行なうのに彼らが用いるもう一つの道具となりました。「ものみの塔」誌と並んで,その新しい雑誌(今日の「目ざめよ!」)は今日に至るまで発行部数を増しながら,心の正直な人たちに新たに関心を引き起こさせ,神のみことばのいっそう深い事がらを受け入れられるよう用意させてきました。

      49 ものみの塔協会の支部に関してはどんな事が行なわれてきましたか。その結果,耕されるようになった地域はどの程度増えましたか。

      49 また,世界大戦のために断たれていた,ものみの塔聖書冊子協会の本部と全地の支部組織との間の通信連絡が回復され,強化されるとともに,時と事情の進展により必要が明らかになるにつれ,新しい支部がさまざまな土地に確立されました。その結果,天の主人イエス・キリストの「奴隷たち」のいっそう綿密な監督を受ける地域が増え,またそうした地域を耕して,あらゆる国の人びとの中からさらに多くの弟子を集めるわざは大いに強化されることになりました。当時はごくわずかの支部しかありませんでしたが,その数は急増し,今日では95の支部があります。それらの支部は,208の国々や海洋の島々で行なわれている,種を蒔いて育成する働きを監督しています。

      50 (イ)1922年のシーダー・ポイント大会の出席者たちは自分たちが,神殿にいるイザヤ同様の立場に立っていることをどうして知りましたか。(ロ)イザヤがエホバの招きに答え応じたことは,彼らに関してどんな質問を提起するものとなりましたか。

      50 1922年の9月,天の王国を継ぐ見込みを持つそれらクリスチャンの奴隷たちは,自分たちが今や正に,王の王,主の主で,統治しておられる主イエスの検閲を受けていることを強烈に知らされました。マラキ書 3章1節を成就して主イエスは,神殿で仕える霊によって生み出された「奴隷たち」に関して裁きのわざを行なうため霊的な神殿に来るさい,エホバ神に付き添って来ました。オハイオ州シーダー・ポイントにおける国際聖書研究者協会の第二回大会に出席した人たちは,「勝負の日」と呼ばれた4日目,つまり1922年9月8日に今や自分たちが,神殿でエホバ神に関する幻を見た預言者イザヤ同様の立場にあることを知りました。霊的に清められる必要を感じたイザヤは,必要な清めを受けで憐みを示されました。こうして彼は,「ここに私がおります! 私を遣わしてください」という熱烈な叫びをもってエホバの招きに答え応じ得る有利な立場に立ちました。(イザヤ 6:1-8,新)それで問題は,国際聖書研究者協会のその大会出席者たちが当時自分たちに差し伸べられた奉仕へのエホバの招きに同様に答え応じるだろうかということでした。

      51 協会の会長は「勝負の日」における話の結びとして大会出席者にどんな質問を尋ねましたか。会長は最後にどんな勧告のことばを聴衆に述べましたか。

      51 イザヤの幻を取り上げた話の最後から2番目の節の中で,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは大会出席者に対して次のような最後の質問を含め,幾つかの質問を提起しました。「主は今やその神殿にいて,地の諸国民を裁いておられることを,あなたは信じていますか。あなたは,栄光を受けた王が統治を開始されたことを信じていますか」。何千人もの大会出席者はいやが上にも熱意をこめて賛同の叫びを上げました。そこで講演者は次のように述べて,講演を最高潮に持って行きました。「では,いと高き神の子たちである皆さん,野外に戻ってください! 自分のよろいをまとってください! 冷静にし,油断なく注意し,活発に働き,勇敢でありなさい。主の忠実で真実の証人でありなさい。バビロンの痕跡がことごとく荒廃に帰するまで戦い,前進し,音信を遠く広く告げ知らせなさい。世界は,エホバが神であり,イエス・キリストは王の王,主の主であることを知らねばなりません。今は最も重大な勝負の日です。ご覧なさい,王は統治しておられます! あなたがたは王のことを広く伝える代理者です。それゆえに,王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」― 1922年11月1日付,「ものみの塔」誌の332-337ページをご覧ください。

      52 (イ)1920年,聖書文書の配布を増大させるために協会は何を行ないましたか。(ロ)1924年には協会は王国を宣伝する他のどんな手段を用い始めましたか。後日,他のどんな広報手段によってわざは拡大されましたか。

      52 戻られた主イエス・キリストの「奴隷たち」はかつてないほど一層強烈な熱意を抱き,一層大きな努力を払って出かけて行き,イエス・キリストのことを統治する王として宣伝し,家から家に,また公式の演壇でも公に宣べ伝えました。1920年以来,彼らはニューヨーク市ブルックリンで独自の印刷施設を運営し始め,その結果,聖書文書,雑誌,小冊子,冊子,硬い表紙を使って製本した書籍,そしてついには聖書そのものをも大いに経費を節約して一層大量に入手し,メシアなる王とその王国を宣伝するのに用い得るようになりました。1924年2月24日,日曜日からは,それら「奴隷たち」の法人団体の所有する放送局が数知れぬ見えない聴衆にラジオ受信機を通して王国の音信を放送し始めました。時経つうちに多くの土地で多数のラジオ放送局が用いられ,有料あるいは無料の時間に王国の良いたよりが地の最果てまで伝えられるようになりました。こうした広報手段に加えて,何年か後には,拡声器を取りつけた宣伝カーが用いられ,またキリストの「奴隷たち」は携帯用蓄音器を持って戸別訪問をし,家々の人びとに王国を宣伝しました。

      53 1925年3月1日号の「ものみの塔」誌の主要な記事を読んだ読者には,なぜ感動させられる理由がありましたか。

      53 「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の読者は1925年3月1日号を受け取って,「国民の誕生」と題する主要な記事を読み,感動させられました。なぜですか。なぜなら,その記事からヨハネへの啓示 12章の一層詳細な理解を与えられたからです。理解の目を開かれた彼らは,同章に非常に感動的な筆致で表現され,自分たちにとって久しく秘義とされていた男子の象徴的な誕生が,異邦人の時の終わった1914年における神のメシアによる王国の誕生を表わすものであることを知りました。その記事は結びとして74ページで次のように述べました。「天の王国は今や来ました。救出の日が今や見えます。この良いたよりは地上の諸民族に告げ知らされねばなりません。勝利はわれわれの王の側にあります。この戦いの終わりまで忠実でありなさい。そうすれば,喜びと楽しみの永遠に満ちあふれる所で,降り注ぐ陽光のような王の愛に永久に浴せるでしょう」。

      54,55 1925年の主の夕食にあずかった人の数は,活動のための地域が増えたことをどのように示しましたか。

      54 続いて1925年4月8日,水曜日に行なわれた主の夕食の例年の祝いは,励みになる事がらを明らかにするものとなりました。活動のために付け加えられた地域で当時まで進められていた,種を蒔いて水を注ぎ,育成するわざに加えて,王国を宣伝するために新たに備えられた道具のお陰で,天的な希望を抱く弟子たちの会衆の数は増加しました。諸会衆の成員も増えました。それで,その主の夕食の祝いにあずかった人たちの人数は,キリストの弟子たちのそうした成長と産出を示すものとなりました。では,その年にはどれほど多くの人が祝いにあずかりましたか。1925年9月1日号の「ものみの塔」誌は263ページの「記念式の報告」という見出しのもとでこう述べました。

      55 「記念式にあずかった人の人数がたいへん多いのは喜ばしいことです。なぜなら,それは至る所で真理に対して多大の関心が示されていることを明らかにしているからです。また,そうあって然るべきでしょう。今まで寄せられた報告の総合計は昨年のそれより2万5,329人も多い9万434人です」。

      56 このことは,「タラント」を委託された弟子の「奴隷たち」の「商」取引きに関して何を示しましたか。

      56 確かにキリストの「奴隷たち」は,つまり「五タラント」を委託された奴隷および二タラントをゆだねられた奴隷によって表わされた級の人たちは,キリストの弟子たちをさらに多く生み出す他の地域を殖やすべく,それらのタラントを用いて時をたがえず素早く『商売をし』ました。発表された事実は,それら「奴隷たち」の努力が祝福され,増加をもって報われたことを証明しています。それは,なおも努力するよう彼らを励ますものとなりました。

      喜び

      57 (イ)たとえ話のその金持ちはなぜ外国に旅行しましたか。(ロ)それで,たとえ話の成就について言えば,イエス・キリストに関してどんな質問が生じますか。

      57 とはいえ,歴史的に言えば,この問題についてはもう一つの要素が今や判然としてきました。イエスのたとえ話の,銀八タラントと三人の奴隷の持ち主は,観光旅行の場合のように単に楽しみのために外国へ旅行したのではありません。その外国旅行には重大な理由がありました。ある貴重なものを確保したいと願っていたのです。たとえ話が示すように,彼が外国へ旅行したのは,『多くのもの』とともに,ある種の「喜び」を得るためでした。したがって,その独特の「喜び」を授け得る方に願い出るため,長い時間を要する長途の旅をしなければなりませんでした。「タラント」のたとえ話ははっきりと述べてはいませんが,イエスのたとえ話は暗にそのことを示しています。たとえ話のその金持ちは主イエス・キリストを表わしていますから,その人が長途の外国旅行をすることは,主イエスが目ざす特別の喜びの唯一の源に赴くことを表わしています。では,だれのもとに行きましたか。喜びのその源とはだれのことですか。

      58,59 (イ)復活させられたイエス・キリストはその「喜び」を得るために,だれのもとに行きましたか。(ロ)ローマ 15章13節に示されているように,エホバ神はほかにだれにとっても喜びの源ですか。

      58 ヘブライ 12章2節はそのことをわたしたちに示しています。こう記されています。「わたしたちの信仰の主要な代理者また完成者であるイエスをいっしんに見つめ(なさい)。彼は,自分の前に置かれた喜びのために,恥をものとも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右にすわられたのです」。

      59 そうです,エホバ神こそ,その「喜び」の源です。復活させられたイエス・キリストはこの地上に忠実な弟子たちを残し,ご自分の「持ち物」つまり「タラント」を委託して,エホバ神のもとに去って行かれたのです。天の父はイエスの「喜び」の特別な理由の源でした。エホバ神はその最愛のみ子の弟子たちにとってもやはり喜びの源です。したがって,そのような弟子のひとりは,ローマにいた仲間のクリスチャンに手紙を送ってこう述べました。「希望を与えてくださる神が,その信ずることによって,あなたがたをあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなたがたが,聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように」。(ローマ 15:13)その正しい祈りに神は答えることができました。

      60 (イ)今やイエス・キリストは「喜び」を得て戻ったのですから,だれを当然そうあるべき顕著な存在として目立たせるのは時宜を得たことでしたか。(ロ)その方はみ名に関して,当然そうあるべき顕著な存在としてどのように目立たされましたか。

      60 今や神のメシアによる王国が天で誕生したのですから,主イエス・キリストの喜ばしい再来が始まった後,物事の当然の成り行きとして,喜びの天的な源であられる神を当然そうあるべき顕著な存在としてイエスの「奴隷たち」の目に映じさせるのは時宜を得たことと言えるでしょう。喜びのこの神聖な源である方にとって,名を上げる時が到来したのです。それにはまず,その方の個有のみ名が知らされなければなりません。そして,そのみ名は正しく知らされました。当然のこととして,そのみ名は神を敬う地上の崇拝者たちの間でいつも用いられるようになり,またそれ以前には一度もなかったほど全地の至る所で広められました。1926年に入るや,同年最初の「ものみの塔」誌は,「エホバを尊ぶのはだれか」と題する主要な記事を掲げました。その時以来,聖書の最初のヘブライ語本文に何千回も出ている聖なるみ名は,神のみ子の「奴隷たち」の間でその正当な高い位置に引き上げられました。彼らはまず第一にその神のための証人になりましたが,み子イエス・キリストのための証しを減少させたりはしませんでした。エホバという名を持っておられる唯一の方のための証人になるという自分たちの義務に従って,愛をもって行動したのです。

      61 (イ)1931年に採択された決議によって,イエス・キリストの弟子であるその奴隷たちは,どんな名称で呼ばれることに反対する旨を表明しましたか。(ロ)以来,彼らはどんな名称で呼ばれることを欲しましたか。

      61 それに続く5年半の間,その聖なるみ名のためのそうした証しがなされました。次いで,それらクリスチャンの「奴隷たち」が身分を明らかにする,つまりキリスト教世界の自称クリスチャンすべてから自らを区別する時が来ました。そのためにイエス・キリストの「奴隷たち」は1931年7月26日,日曜日,午後,アメリカのオハイオ州コロンバスにおける国際大会で行動を起こしました。同日の午後4時,幾千人もの大会出席者に決議が提出され,読み上げられました。ここに,その決議の4節,5節そして6節を引用いたします。

      それゆえに今,私たちの真の立場を知らせるため,またそれがみことばに表明されている神の意志と調和するものであることを信じて,次のように決議いたします。

      私たちはチャールズ・T・ラッセル兄弟をその働きのゆえにこよなく愛しており,主が同兄弟を用いて,その働きを大いに祝福されたことを喜んで認めるものですが,神のみことばに終始一貫従う者として,「ラッセル信奉者」という名称で呼ばれることには承服できません。ものみの塔聖書冊子協会,国際聖書研究者協会および一般人伝道者協会という名称は,クリスチャンである私たちが一団として神のご命令に従って私たちのわざを遂行するために保持し,管理し,用いている法人の呼称にすぎません。それらの名称はいずれも,私たちの主で主人であるキリスト・イエスの足跡に従うクリスチャンの団体としての私たちに正しく結びつく,もしくは当てはまるものではありません。私たちは聖書の研究者ですが,協会を組織しているクリスチャンの団体として,主のみ前における私たちの正しい立場を明らかにする手段としては,「聖書研究者」その他同様の名称を持つ,あるいはそうした名称で呼ばれることを拒みます。私たちはいかなる人間の名前を持つことも,あるいはそれで呼ばれることをも退けます。

      また,私たちの主で,買い戻し手であるイエス・キリストの貴い血をもって買い取られ,エホバ神によって義とされ,生み出され,そしてその王国に召されたゆえに,私たちはエホバ神とその王国に対して全き忠誠と専心の限りを尽くすことを,ためらうことなく断言します。私たちはエホバ神のしもべであって,その御名によって仕事を行ない,またそのご命令に服してイエス・キリストの証しを伝え,エホバが真の,そして全能の神であられることを人びとに知らせるわざを委ねられています。それゆえに,私たちは主なる神が御口をもって命名した名称を喜んで採用し,また用います。私たちは,すなわちエホバの証人という名称で知られ,また呼ばれることを欲するものです。―イザヤ 43:10-12,新; 62:2。啓示 12:17。

      62 その決議の最後の節では,どんな招待が差し伸べられましたか。

      62 この決議の8節と最後の節はこう述べています。

      私たちは,エホバとその王国に全く専念している人たちすべてに対して,この良いたよりを他の人びとにふれ告げるわざに加わるよう,謹んでお勧めいたします。それは主の義の規準が高く掲げられ,救済をもたらす真理と希望をどこに見いだせるかを世界の諸民族が知り,なかんずくエホバ神の偉大な,聖なる御名が立証され,高められるためです。

      63 (イ)新しい名称に関するこの決議は,どんな人たちの全員によって採択されましたか。(ロ)その後,この決議はどのようにして公表され,その結果この知らせは世界中に伝えられましたか。

      63 オハイオ州コロンバスの大会に参集した人たちだけでなく,後日全地のイエス・キリストの「奴隷たち」の諸会衆も熱意をこめてこの決議を採択しました。こうして彼らは「エホバの証人」という名称を自発的に採用しました。この名称に関するその決議は,同大会で発表された「王国,世界の希望」と題する小冊子に載せられて公表されました。その題はまた,ものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードが同大会の見える聴衆と大規模なラジオ放送網を通じ,耳を傾ける見えない聴衆の両方に向かって正午から行なった公開講演の主題でもありました。その後,同公開講演の全文と決議文を収めたこの小冊子は,カトリックおよび新教の牧師たちの手に,後には著名な政治家や専門職の人びとの手に個人的に直接渡されました。また,一般の人びとの間でも広く流布されました。それら義とされ,霊によって生み出された,いと高き神の崇拝者たちは自分たちの神の名によって歩み,エホバの証人という名称のみを認めるという知らせは,こうして世界中に伝えられました。―ミカ 4:5,新。

      64 彼らはなぜ自分たちがエホバのクリスチャン証人であることを認めていますか。

      64 それら崇拝者たちは,主イエス・キリストが最初に来られる以前にもやはり生ける唯一の真の神の証人たちがいたので,自分たちはエホバのクリスチャン証人であることを認めています。―イザヤ 43:10-12; 44:8。ヘブライ 11:1–12:1。また,1931年9月15日号の「ものみの塔」誌の278,279ページもご覧ください。

  • 今日の奴隷たちと勘定を清算する
    神の千年王国は近づいた
    • 13章

      今日の奴隷たちと勘定を清算する

      1,2 (イ)天与の名称を担うことは,キリストの「奴隷たち」の残れる者の何を増し加えましたか。その源となったのはだれですか。(ロ)「タラント」のたとえ話の中でこの喜びがどのように言及されていますか。

      主イエス・キリストの「奴隷たち」の,なお地上に留まっている残れる者にとって,1931年以来天与の名称を担うことは,新たな喜びを加えるものとなりました。彼らの喜びは,彼らの主で,所有者である方が喜びを得たのと同じ源,すなわちエホバ神からもたらされました。主イエス・キリストは「タラント」のたとえ話の成就において,ご自分の奴隷たちと勘定を清算したさい,ご自身のその喜びに言及されました。このことは,次のように記されているマタイ 25章20-23節を見るとわかります。

      2 「それで五タラントを受けていた者が進み出,追加の五タラントを差し出して,こう言いました。『ご主人様,わたしに五タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに五タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなことに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのことをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』。次に,二タラントを受けていた者が進み出て,言いました,『ご主人様,わたしに二タラントをゆだねてくださいましたが,ご覧ください,わたしはさらに二タラントをもうけました』。主人は彼に言いました,『よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなことに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのことをつかさどらせる。あなたの主人の喜びに入りなさい』」。

      3,4 (イ)三人の「奴隷たち」は個人それとも何を表わしていますか。(ロ)たとえ話の成就において,「奴隷たち」によって表わされているものと勘定を清算することは,パルーシアの正しい意味をどのように示唆しますか。

      3 奴隷たちとこうして勘定を清算するには,確かに時間と注意が要りました。それで,これはたとえ話の最後の特色の成就という点で天の主人イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアの期間を表わしていたと言えるでしょう。(マタイ 24:3)たとえ話の中の三人の奴隷はそれぞれある級を表わしており,それらの級は個々の人びとで成り立っていることを決して忘れてはなりません。一つの級あるいはグループを扱うには,一個人を扱う場合よりも時間や注意がもっと要ります。一つの級もしくはグループの場合,その成員をおのおの扱わねばなりません。ローマ 14章9,10節で使徒パウロはこう書きました。

      4 「死んだ者にも生きている者にも主となること,このためにキリストは死に,そして生き返ったからです。……わたしたちはみな,神の裁きの座の前に立つことになるのです」。

      5 (イ)生きている人と死んだ人を裁くさい,イエス・キリストはだれに代わって裁きますか。(ロ)キリストのパルーシア以前に死んだ「奴隷たち」によって表わされている級の人たちは,自分たちの報いに関してはどうしなければなりませんでしたか。

      5 「タラント」のたとえ話の成就においては,主イエス・キリストはエホバ神に代わって裁きます。「タラント」をゆだねられたその「奴隷たち」はすべて,20世紀の現代にこの地上で肉のからだで生きているわけではありません。たとえば,十二使徒の時代から,啓示を受けてその書を記したヨハネの当時までの1世紀の人たちは,遠い昔に亡くなり,死の眠りに就き,自分たちの主で所有者である方のパルーシアを待ち,その時,義の審判者である主から報いを受けることになりました。殉教の死を遂げる少し前に使徒パウロが仲間の宣教者テモテに書き送ったとおりです。「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました。今からのち,義の冠がわたしのために定め置かれています。それは,義なる審判者である主が,かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです。しかし,わたしだけにではなく,その顕現を愛してきたすべての者に与えてくださるのです」。(テモテ第二 4:7,8)そうです,正しく使徒パウロは「かの日」を,主のパルーシアの日を,つまり死人の中からの復活および不滅の天的な命の賞を受けることを待ち望んだのです。主のパルーシア以前に死ぬ人はみな,待たねばなりませんでした。

      6 死の眠りに就いていた「奴隷たち」は,いつ復活させられますか。それらの人は復活に関してはだれに先立って報われますか。

      6 霊によるその見えないパルーシアの期間にさいし,死の眠りに就いていたそれら忠実な「奴隷たち」はすべて,裁きが始まる時に目ざめさせられ,霊の領域における天的な命を得ました。そのようなわけで,生きている「奴隷たち」が,眠っている忠実な「奴隷たち」に先立って報われるということはありませんでした。これはわたしたちの想像ではありません。というのは,使徒パウロがテサロニケのクリスチャン会衆に次のように書き送っているからです。「イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより[死んで]眠っている者たちをも彼とともにやはり連れ出してくださるからです。主の臨在の時まで生き残るわたしたち生きている者は[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバのことばによってわたしたちがあなたがたに伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパとともに天から下ると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。そののち,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らとともに,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主とともにいることになるのです」― テサロニケ第一 4:14-17。

      7 それら眠りに就いている人たちがあずかるのはどんな復活ですか。

      7 これは,主のパルーシアの期間にさいして,裁きが始まる時に,眠っている忠実な「奴隷たち」が霊者として天の命を得る見えない復活が起こることを意味しています。もちろん,なお地上に生き残っている「奴隷たち」にとってそれは肉眼では見えません。それは見えない様で臨在しておられる主イエスの「奴隷たち」ではない世の人びとにとって見えないのと全く同様です。

      8,9 (イ)「奴隷たち」が空中で主と会うのは,肉体のまま大気圏に引き上げられることを意味するかどうかに関して,証拠は何を示唆していますか。(ロ)コリント第一 15章50-54節で指摘されているように,この問題には何が関係していますか。

      8 復活させられた「奴隷たち」が「空中で主」と会うこともやはり,地上の人間の肉眼では決して見えません。それで,神のみことばに対する信仰と時代の兆候による以外,それが起きているかどうかは地上の人間にはわかりません。死の眠りに就いていたそれら「奴隷たち」はすべて同時に一緒に復活させられて,「空中で主に会い」ました。しかし,裁き,つまり勘定の清算の始まる時まで生き残った地上の「奴隷たち」は,見える肉体のまま地球の大気圏に文字どおり引き上げられて,目に見えない主と空中で会ったわけではありません。現代の歴史の記録にはそのようなできごとは何も残されてはいないからです。「奴隷たち」のこの生き残っているグループの成員の中のある人たちは,これまでに経過した50年余の期間にそれぞれ亡くなりましたが,聖書の約束によれば,彼らは一瞬にして復活させられ,目に見えない天の霊者としての命を受けました。主のパルーシアは既に始まったのですから,死の眠りに就いて主の到着を待つ必要はありませんでした。パウロの述べた次の事がらが彼らに適用されました。

      9 「肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません。ご覧なさい,わたしはあなたがたに神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな[死の]眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,[朽ちるものが不朽を着け,また]死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久にのみ込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」― コリント第一 15:50-54。イザヤ 25:8。

      10 啓示 14章13節で言及されているそれらの「奴隷たち」は,どんな点で「幸い」ですか。

      10 主のパルーシアつまり臨在の時まで,またその期間中も生存し,主とともにあって忠実を保ちながら,その後亡くなった油そそがれた奴隷たちには,啓示 14章13節の次のような約束が適用されます。「今からのち主と結ばれて死ぬ死人は幸いである。しかり,彼らはその労を休みなさい,彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って行くからである,と霊は言う」。彼らは「幸い」です。なぜなら,肉体の死にさいして,朽ちるものから朽ちないものへ,死滅するものから不滅のものへ,つまり人間から霊に一瞬のうちに変えられる,あの変化を経験するからです。それで死の眠りに就くことなしに地的な労苦を終え,自分たちの主とともに行なう天的なわざに直ちに携わるのです。彼らはその主の共同相続者なのです。

      11 前述の事がらの実例として取り上げられているR・J・マーチンとはだれですか。

      11 たとえば,ロバート・J・マーチンの例を取ってみましょう。彼は1918年7月5日から1919年3月25日までジョージア州アトラントの連邦刑務所における約9か月にわたる不当な投獄に遭った,協会の会長J・F・ラザフォードを含む,聖別された八人のクリスチャン男子のうちの一人でした。この「奴隷」は1919年3月26日,水曜日,ニューヨーク市ブルックリンで保釈されたとき,その主から預けられた「タラント」に関するかぎり,事実上何も持ち合わせてはいませんでした。今や主の「奴隷たち」に対する迫害を伴った第一次世界大戦は終わり,既に4か月余経ちましたが,R・J・マーチンは事実上初めからやり直さねばなりませんでした。なおも主イエスとともにあって忠実を保っていた彼は,後に主イエス・キリストの弟子を豊かに生み出すものとなった畑を拡張するため,喜んで「タラント」を受け取り,天の主のためにそれを用いて「商売をし」ました。刑務所から釈放された翌年,彼はブルックリンに新しく設けられた,ものみの塔聖書冊子協会の印刷工場の監督になりました。そして,1926年11月1日には当協会の理事の一人になり,地上の歩みを終えるまで彼はその持ち場を固守しました。

      12 マーチンはいつ亡くなりましたか。このことに関して,「ものみの塔」誌は何と述べましたか。

      12 それで,R・J・マーチンは何年かにわたって忠実に商売をし,弟子を作る畑で自分にゆだねられた「タラント」を増やしました。彼は自分の持ち場を守りながら,1932年9月23日に54歳で亡くなりました。(1878年3月30日出生)彼が「主と結ばれて」亡くなったことは,1932年10月1日号の「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌(英文)の304ページに発表されました。その一部は次のとおりです。

      1932年9月23日の午前零時を過ぎて間もなく,エホバの組織の兵士,ロバート・J・マーチンはその地上の幕屋を折りたたんで,安らかに逝去しました。この善良で忠実な証人は地上での歩みを終えました。彼は直ちに去って王国に入り,今やエホバの首都組織の中で永遠に主とともにいますが,このことを信ずる十分の理由があります。

      ……マーチン兄弟の忠実な同志たちの望みは,彼らも栄光と美に満ちる主を見,その後エホバの目的遂行にとわにあずかることです。エホバのために専心尽くしたマーチン兄弟の働きは,引き続き軍を門から追い戻すよう残れる者のそれら同志を鼓吹するものとなりました。

      13 マーチンの仲間の囚人となったラザフォードはいつ亡くなりましたか。彼の死は歴史上何を画するものとなりましたか。

      13 彼の仲間の囚人,J・F・ラザフォードは依然ものみの塔聖書冊子協会の会長でしたが,1942年1月8日,木曜日,七十二歳でその地上の歩みを終え,その死去の知らせは,「ものみの塔,エホバの王国を告げ知らせる」1942年2月1日号の45ページに発表されました。以来30年余の歴史は,彼の死が現代のエホバのクリスチャン証人の活動の一時代の終わりを画するものとなったことを示しています。

      14 (イ)キリストの「タラント」を用いて商売をしたことに対する報いの点でこうした二人の「奴隷たち」に関しては何を信ずる聖書的な理由がありますか。(ロ)なお地上で生き長らえている「奴隷たち」は,何らかの「喜び」にあずかってきましたか。支配権の問題についてはどうですか。

      14 前述の二人の場合のように,クリスチャンの「奴隷たち」の生涯は,自分たちにゆだねられた主の「タラント」を用いて「商売をして」,その結果,さらに多くのキリストの弟子を産み出すために働く地上の畑を殖やしたことを確かに示しています。それらの人たちが主イエス・キリストの裁きの座の前に現われたとき,主の次のような賞賛の言葉を聞いたということを信ずる聖書的な理由があります。「よくやった,善良で忠実な奴隷よ! あなたはわずかなことに忠実であった。わたしはあなたを任命して多くのことをつかさどらせる」。(マタイ 25:21,23)しかし多くの年月を経た後の今日,それら忠節なクリスチャンの「奴隷たち」の少数の残れる者が地上に留まっており,自分たちの天の主人の「タラント」を増やそうと愛をこめて努力しています。彼らはやがては地上の生涯を終えて,イエス・キリストの裁きの座の前に現われ,喜びのうちにその同じ賞賛の言葉を聞くことを期待しています。しかし地上にいる今でさえ,自分たちの天の所有者の「タラント」を増やしており,その程度に応じて既に主人のかなりの喜びにあずかっています。しかし彼らは支配権を受けてはおらず,天で千年統治にあずかるのを待ち望んでいるに過ぎないのです。

      「邪悪で無精な奴隷」

      15,16 (イ)一タラント預かった奴隷は自分の「能力」をどのように用いようとはしませんでしたか。どんな結果を招きましたか。(ロ)また,自分の受け取ったものだけを手渡して返すために,どんな言い訳を述べましたか。

      15 さて,イエスのたとえ話の中でただ一タラントを受け取った奴隷がどうなったかを知るのは興味深いことです。その奴隷についてはこう言われています。「しかし,ただ一タラントを受けた者は,出かけて行って地面を掘り,主人の銀子を隠しておきました」。(マタイ 25:15,18)この三番目の奴隷は五タラント預かった奴隷や,二タラント預かった奴隷のように,自ら努力し,勇気を出して「商売をし」なかったので,主人の銀のタラントを増やすことは期待できませんでした。その銀一タラントを取り扱い,それを用いて殖やす相応の「能力」は持っていましたが,その能力を示しませんでした。主人が来て,臨在つまりパルーシアの期間中に勘定が清算されることになっても,彼は何も増やしてはおらず,見せるものを持っていませんでした。それで,増やしたものを主人に差し出せないどんな言い訳をしましたか。たとえ話の中でイエスはこう告げています。

      16 「最後に,一タラントを受けていた者が進み出て言いました,『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しいかたで,まかなかった所で刈り取り,簸なかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。さあ,これはあなた様のものです』」― マタイ 25:24,25。

      17 (イ)この奴隷は自分の説明した,農業を営む地主のような主人のことをよしとしましたか。(ロ)その奴隷はどうして,自分の主人には増加が得られないからと言って不平を言う権利はないと考えましたか。

      17 この奴隷は,増加が期待されていることを知っていました。しかし,主人の銀のタラントで「商売をして」危険を冒す勇気は欠けていました。心配をものともせず,危険を冒しても主人の「持ち物」を殖やすべく行動するほどの愛を主人に対して抱いてはいませんでした。彼は主人を農業を営む地主に,つまり自分の土地から作物を得るだけでなく,自分の所有せぬ,耕しもしない土地からも産物を収穫し,自分でもみがらをきれいに簸たわけでもない穀物をも集める地主にたとえました。その奴隷は主人がそうした仕方でものを殖やすのをよしとせず,少なくとも,そのようにして物を殖やす主人をとがめました。それで,自分の明らかにした考えや態度と一致して,その奴隷は主人から委託されていた銀一タラントただそれだけを手渡して返しました。では,彼が考えたように,主人は何も損失をこうむらなかった以上,どうして不平を言えるでしょうか。主人はほかならぬ自分のものを取り戻したのです。お金は流通させて,利子を得るような仕方で運用すべきものであることを,その奴隷は十分認めていませんでした。

      18 主人はどんな考え方に従ってその奴隷に答えましたか。それで,主人はなぜその奴隷のことをほかならぬそうした仕方で呼びましたか。

      18 奴隷の主人は当人の論法に従って彼に答えました。こう記されています。「主人は答えて言いました,『邪悪で無精な奴隷よ,わたしが自分のまかなかった所で刈り取り,簸なかった所で集めることを知っていたというのか。それならあなたは,わたしの銀子を銀行屋に預けておくべきだった。そうすればわたしは,到着してすぐに[字義訳,来たときに],自分のものを利息といっしょに受け取っていただろうに』」― マタイ 25:26,27。

      19 その奴隷はなぜ『邪悪な』者と呼ばれて然るべきでしたか。彼はその気になれば,主人の要求に答えるためにどのように「安易な道」を取ることができましたか。

      19 その無益な奴隷は,主人に対して計画的に,つまり故意に増加をもたらそうとしなかった点で「邪悪」でした。主人の持ち物を増やすことに無関心でした。増加を図るよう主人が要求していたことを知らなかったのではありません。確かに知っていましたし,安易な道を取って,自分に委ねられた銀のタラントを銀行家に預けることもできました。そうすれば,銀行家はそれを用いて投資を行ない,利益を得,その結果預かった元金に対する相応の利子を支払えるでしょう。そうなれば,奴隷の主人は帰って来たとき,その銀のタラントだけでなく,銀行家に預けられたお金に対して支払われる利子をも受け取ったでしょう。その奴隷は五タラント預かった奴隷や二タラント預かった奴隷に見倣わなかったばかりか,彼らと協力もしませんでした。自分にゆだねられた元の銀のタラントは返したものの,実際には主人に損失をこうむらせました。主人にあえてそうした損失をこうむらせたので,「邪悪」な者とされたのです。

      20 この奴隷はどんな点で「無精」でしたか。そのためにどんな結果を招きましたか。

      20 その無益な奴隷はまた,「無精」でした。彼は怠惰で,仲間の奴隷たちのように機敏に『商売をする』ことを好みませんでした。働いて儲けるだけの能力はありました。さもなければ,主人は少なくとも一タラントを彼に委託しなかったでしょう。一タラント与えられた彼は三人の奴隷の中では責任が一番少なかったとはいえ,その最少額のお金は『その能力』で世話し得る以上のものではありませんでした。ところが,自分の能力を有利な方向に振り向ける代わりに,土を掘って主人のタラントを隠し,役にたたないようにしました。あまりにも無精だったので,主人のことを「手厳しいかた」だと品定めしておきながら,主人が去ってから長い間,貴重なタラントを用いて仕事に取りかかろうとさえしませんでした。その奴隷には都合の良い時間は十分あったのですが,増加をもたらさなかったので悲惨な事態を招きました。

      21 現代に見られるたとえ話の成就の最高潮において,その奴隷の相対物となっているのは何ですか。

      21 この「邪悪で無精な奴隷」には,わたしたちの時代に最高潮を迎えているそのたとえ話の成就において現代的な相対物があります。二人の仲間の奴隷たちの場合と同様,この無益な奴隷もやはり,天の主人,つまり主イエス・キリストへの奉仕を実際に行なっている,あるいはそうした奉仕をゆだねられているクリスチャンの奴隷たちの一つの級もしくはグループを表わしています。この無益な級は,大戦後のあの最初の年つまり西暦1919年に勘定の清算が始まった後に現われました。

      22 ほかにだれが,天の主人への奉仕に携わっていると主張しましたか。しかし,彼らは第一次世界大戦が終わった後,主人の「持ち物」をどのようにないがしろにしましたか。

      22 もちろん,キリスト教世界の教会諸派の成員は天の主イエス・キリストへの奉仕を行なっていると唱えました。それでは,彼らは出かけて行って,第一次世界大戦が終結した1918年11月11日当時,自分たちの前に大きく開かれていた畑を耕し,今やパルーシアを開始した統治する王イエス・キリストに代わって弟子を産み出しましたか。いいえ,彼らはこの世の政治家や軍国主義者と妥協する道を取りました。君としての支配が限りなく増大することになっている王の王国にかかわる「持ち物」をないがしろにしたのです。そして,自分たちの関心と注意を,提唱された国際連盟に向けました。アメリカ・キリスト教会連邦協議会は同連盟を「地上における神の王国の政治的表現」と呼びました。(イザヤ 9:6,7,新)彼らは世界の平和と安全のための人間の立てたその国際機構の支持者や崇拝者の数を増やすことに努めました。今では,キリスト教世界の教会諸分派および諸教派は,連盟の後身である国際連合を擁護しています。

      23 彼らは神のメシアによる王国の益のために世界の畑を耕そうとはしなかったため,どんな結果を招きましたか。

      23 戻られた主イエス・キリストによる検査の行なわれるこの時期に勘定を清算するにさいして,キリスト教世界のそれら自称「奴隷たち」は,イエスの持ち物で増えたものを何一つ彼に差し出すことができません。彼らは神のメシアによる王国の利益のために世界の畑を耕してはきませんでした。というのは,自らその王国に背を向け,エホバのメシアによる樹立された王国のことを人びとに知らせぬままにしてきたからです。

      24 「新しい名称」に関する決議の3節に述べられている人びとは,「無精な奴隷」にどのようによく似ていますか。

      24 とはいえ,戻って統治しておられる王イエス・キリストの忠実な「奴隷たち」と接触を持っていた人たちの中にさえ,「邪悪で無精な奴隷」によく似た油そそがれたクリスチャンの一つの級が現われました。オハイオ州コロンバスで開かれた,ものみの塔聖書冊子協会主催の国際大会で1931年7月26日,日曜日,午後採択された,「新しい名称」と題する決議の3節で,明らかにこの級のことが言及されています。その節をここに引用します。

      ところが,チャールズ・T・ラッセルの死後まもなく,そうしたわざでラッセルと提携していた人たちの間に分裂が生じ,その結果そのような人たちが何人かものみの塔聖書冊子協会から脱退し,以来彼らは当協会とその仕事に協力することを断わり,「ものみの塔」誌および前記諸法人の発行した最近の他の出版物の中でものみの塔聖書冊子協会が発表した真理に同意することを拒み,神の王国に関する現行の音信およびサタンの組織のあらゆる部分に対する私たちの神の復讐の日を宣明する点で,当協会の仕事にこれまでも反対しており,今も正しく反対しています。また,前述の反対者たちは種々雑多な集団を組織し,「聖書研究者」「合同聖書研究者」「ラッセル師の説く真理を教えるラッセル信奉者」「堅く立つ者たち」その他同様の名称をこれまでも,また今も用いていますが,それらはすべて,とかく混乱や誤解を招くものとなります。……」

      25 したがって,前述の者たちは,「新しい名称」を担う人たちのどんな経験や業績にはあずかりませんでしたか。

      25 事実,非協力的で反対さえした前述の人びとは,エホバの証人というその「新しい名称」を採用しなかったので,エホバのクリスチャン証人として知られることにはなりませんでした。彼らは,その「新しい名称」を担った人たちがそれ以来経験してきたひどい苦しみにあずかってはいませんし,またメシアの所有する樹立されたエホバの王国を地上のあらゆる場所で告げ知らせるわざにもあずかってはいません。そうした理由のゆえに,現在208の土地や島々あるいは諸群島を含め,王国の音信を載せた出版物を160以上の言語で発行するまでに,キリストの弟子を育成して産み出す畑を拡張するに至った驚くべきわざに,彼らはあずかりませんでした。さまざまの土地でひどい迫害が生じているにもかかわらず,さらに多くのキリストの弟子を産み出すべく畑(つまり人類の世)を耕すこのわざは,正にその最高潮に向かって進展しています! それは現在,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の95の支部組織の監督のもとで遂行されています。

      26 油そそがれた「奴隷たち」の残れる者は,世界の畑を耕して主人の「タラント」を用いるという点で天からの祝福を得ていますが,そのことを示すどんな証拠がありますか。

      26 それで明らかに,メシアなる王の「持ち物」,つまりその「タラント」をこうして増やすわざは,いと高き神エホバとそのみ子イエス・キリストの是認と祝福を得ています。王の「タラント」を運用している油そそがれた「奴隷たち」は,それが喜ばしい責務であることを知り,自分たちの天の主人の見地から見て「善良で忠実な奴隷」としての資格にかなうよう努力しています。彼らは「邪悪で無精な奴隷」級のだれとも交わりを持ちたいとは思いません。むしろ彼らは,聖書の定める資格にかなう人たちすべてが自分たちと交わり,神のみことばの産出的な奉仕者になるのを援助するよう努力しています。彼らの愛の努力が神からの祝福を受けていることを示す証拠として,去る1972奉仕年度には教えを受けた16万3,123人もの人たちが主イエス・キリストの弟子として水のバプテスマを受けました。1968-1972奉仕年度までの過去5年間に,50万人以上の人びと,実際には68万871人もの人びとが全地の至る所でそのようにしてバプテスマを受けました。ゆえに,主の「持ち物」を増やしている油そそがれた「奴隷たち」の残れる者は,主が自ら地上におられた当時何も蒔かなかった所で今不当にも収穫を行なっているなどと考えてはいません。

      用いられなかった「一タラント」は取り上げられる

      27 無益な奴隷に関して主人はどんな決定を下しましたか。

      27 たとえ話の中で,主人に属するものを「利息といっしょに」主人に差し出しかねた奴隷に関して,主人はどのように裁断を下しましたか。憤慨した主人は,無益な者となった「邪悪で無精な奴隷」に関してこう言います。「それだから,彼からその一タラントを取り上げて,十タラントを持つ者に与えよ。すべて持つ者にはさらに与えられ,その者は満ちあふれるようになるのである。しかし,持たない者は,その持っているものまで取り上げられるのである。それで,このなんの役にもたたない奴隷を外のやみに投げ出しなさい。そこで[彼は]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするであろう」― マタイ 25:28-30。

      28 有益な奴隷たちに与えられたどんな報酬がこの奴隷には与えられませんでしたか。外の暗やみの中に追い出されたことは,その奴隷にとって何を意味しましたか。

      28 この奴隷は主人の喜びにあずかるよう招かれてはいません。また,わずかなものに関して忠実であったゆえに多くのものの支配者として任命されてもいません。彼は「善良で忠実な奴隷」とは呼ばれず,「なんの役にもたたない奴隷」と言われています。そして,主人に仕える奴隷としてその家に留められるどころか,家から「外のやみ」の中に放り出されます。戻った主人は明らかに夜分奴隷たちと勘定を清算しました。ですから,外は暗「やみ」に包まれており,その奴隷はそこに放り出されたのです。そこで主人の喜びを見いだす代わりに,その奴隷は追い出された自分の状態のゆえに泣いて歯ぎしりしました。

      29 暗さを増す世界情勢のもとで今忠実を保っている油そそがれた「奴隷たち」にとって,なぜこれは重大な教訓を述べるものとなりますか。

      29 これは今日の油そそがれた「奴隷たち」の残れる者に対する重大な教訓となります。彼らは自分たちの天の主人の「持ち物」を増やすために働き続けなければなりません。さもないと,主人から委託されたそのなにがしかの貴重なものは取り上げられてしまうでしょう。そうなれば,彼らもまた,「外のやみ」の中に放り出され,そこで「邪悪で無精な奴隷」級に仲間入りすることになります。1914年における異邦人の時の終結以来ずっと,天の主人イエス・キリストの明りのともった家の外の人類の世は夜のとばりに包まれており,キリスト教世界すらそうした夜の暗やみに覆われてきました。しかし,その暗やみは,人類のこの世代に突如として「大患難」が襲う神の予定の時が到来するとき,暗さを極度に増します。(マタイ 24:21,22。ルカ 21:34-36)「邪悪で無精な奴隷」級は,死をもたらすようなその暗やみの中に放り出され,そこで宗教上の偽善者たちとともに泣いて歯ぎしりし,ついには滅んでゆきます。

      30 その「一タラント」は「無精な奴隷」からどのように取り上げられていますか。それはだれに与えられていますか。なぜですか。

      30 主人のパルーシアが始まり,死んでゆく個々の人びと,あるいはなお地上にいるそれぞれの奴隷級のいずれを問わず,主人がその「奴隷たち」と勘定を清算しておられる時代である今日,一つの事がらが既に明らかにされています。つまり,「邪悪で無精な奴隷」級は自分たちの「一タラント」を用いて商売をして主人の『お金』の利子を主人のもとに持ってきてはいません。したがって,今日まで一つの級として生存しているその不忠実な奴隷から主人は既にその「一タラント」を取り上げています。主人はその奴隷級の人びとに,耕してさらに多くのキリストの弟子たちを産み出させるようにすべき区域の点で,何ら割当てを得させてはいません。彼らはもはや主人の奴隷として扱われてはいません。主人は彼らの宗教活動を認めてはおらず,受け入れてもいません。また,ご自分の家の喜ばしい光に彼らをあずからせてはいません。彼らの「一タラント」は取り上げられ,弟子を作る可能性のある割当てられた畑は「善良で忠実な奴隷」級に与えられています。後者の奴隷は弟子を作る畑で最大の能力を行使して,王の「持ち物」を「十タラント」に増やしました。あるいは,増やしています。―マタイ 28:19,20。詩篇 2:8。

      31 (イ)こうして,物事を処置する上での主人のどんな規則が例証されていますか。(ロ)「無精な奴隷」級は,「能力」を別にして,ほかのどんなものを持ってはいませんでしたか。それで,その級の者はどうされましたか。

      31 こうして今日,「すべて持つ者にはさらに与えられ,その者は満ちあふれるようになるのである。しかし,持たない者は,その持っているものまで取り上げられるのである」という天与の原則もしくは物事を処置する規則が例証されています。(マタイ 25:29)たとえ話の中では,「邪悪で無精な奴隷」は「一タラント」を持ってはいましたが,その「一タラント」を所持することによって奮いたたされ,表明されるべきものを持ってはいませんでした。その余分の何ものかとは,自分の主人に忠節を尽くそうとする熱意,自分にゆだねられた委託物に対する正しい認識,また活用できる力つまり利益を上げる力のある「一タラント」を増やして主人に渡すのは当然であるという信仰と言えるでしょう。勘定が清算されたとき,増えたものを差し出せなかったことは,当人の言い訳とあいまって,自分がその余分の何ものかを持ってはいないことを雄弁に物語る証拠となりました。ですから,その「一タラント」は,「なんの役にもたたない奴隷」から取り上げられました。彼は主人の信頼に背き,主人に仕える務めを解かれ,主人の家から締め出されました。

      32 「無精な奴隷」級が1919年以来持ち合わせていないその余分の何ものかとは何ですか。それで,彼らから何が取り上げられていますか。

      32 同じ原則は,現代の「邪悪で無精な奴隷」級にも当てはまります。その級の人たちには,「一タラント」に対応するものがゆだねられました。それは彼らの天の主人から,特に大戦後の最初の年である1919年以降与えられました。しかし,彼らはその「一タラント」を補足する,もしくはそれと相応しく対をなすものを自ら持っていなければなりませんでした。「一タラント」を所持することによって自分たちの内に奮いたたせていて然るべき,そうした補足物とは,エホバのメシアによる王国に対する熱意や専心の念,彼らの天の主人は弟子を産み出す畑を増やしてもらって受け取るに値する方であるという信仰,また神のメシアによる樹立された王国をふれ告げ,単に地上でイエス・キリストが公私両方の奉仕の務めを局限されたユダヤ国民だけでなく,すべての国の人びとを弟子とするわざにできるだけ多くあずかりたいという果敢で愛のある動機などでした。彼らは主人の「一タラント」を用いるにさいして自ら働かせるべきものを持ってはいないゆえに,今日の諸事実が示すように,その「タラント」は彼らから取り上げられているのです。

      33 (イ)それで,「善良で忠実な奴隷」級の人たちはだれを犠牲にして「あふれる」ほど受けていますか。(ロ)彼らはどんな喜びを経験していますか。また,どんな支配権を期待していますか。

      33 一方,それら「善良で忠実な奴隷」級は,天上の主人から「タラント」を委託された自分たちを補足すべきものを確かに持っています。たとえ話の描写どおり,彼らには「邪悪で無精な奴隷」級を犠牲にしてさらに多く与えられ,また責任感のある,信頼できる,有益な「奴隷たち」である彼らには,好機と特権が加えられています。その結果,弟子を作る畑を増やす点で確かに彼らは「あふれる」ほど持っています。彼らは主人の心を喜ばせているので,自らも喜びに満ちあふれており,今や樹立された王国で自分たちの主人が抱いている喜びを前もって味わっています。彼らはその喜びに強められて,地上における自分たちの生涯の終わりに至るまで主人に対する奉仕を一生懸命に続けて行きます。そして,地上での生涯を閉じるとき,彼らは死人の中から復活させられて主人の喜びに存分にあずかり,その千年王国で多くのものを治める支配者になることを期待します。その時,彼らは「第一の復活」にあずかるそれら「奴隷たち」の幸を十分に知ることになります。―啓示 20:6。

      34 イエスのたとえ話のこうした最高潮を成す部分の事がらが成就し,観察できるということは,何が進行していることを証明しますか。なぜですか。

      34 「タラント」のたとえ話の最高潮を成す部分の事がらは,前述のような仕方で西暦1919年以来進展してきました。人の住む全地の国々の人びとはこのことを観察してきました。特に,「善良で忠実な奴隷」級はそのことを知っています。それはすべて,1914年に異邦人の時が終わって以来,王イエス・キリストのパルーシアつまり目に見えない臨在が進行してきたことを証明するのに役だちます。ですから,それはキリストの「臨在」と「事物の体制の終結」との主要な「しるし」の一部です。「タラント」のこのたとえ話はその「しるし」に関してキリストが詳しく述べた預言の一部だからです。―マタイ 24:3。

      35 わたしたちはなぜキリストの預言をさらに考慮したいと願いますか。どんな事がらを証明するためですか。

      35 しかし,霊によるキリストの見えない臨在の「しるし」は,すでに考慮した「十人の処女」や「タラント」のたとえ話のほかにもまだあります。さらに別のたとえ話は「しるし」に関するキリストの預言の重要な部分を成しており,驚くべき時代である現代におけるその成就は,「主イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアが今や進行しており,すばらしい事がらがこれから生ずることを示す証拠を増し加えるものとなっています。では,わたしたちの主の偉大な預言をさらに考慮してみましょう。

  • 神の王国の地上の臣民
    神の千年王国は近づいた
    • 14章

      神の王国の地上の臣民

      1,2 (イ)西暦1914年当時,世界人口はどれほどと推定されましたか。それはどのように細分されましたか。(ロ)それらの国家や帝国は世界の舞台ではどんな存在として映じましたか。しかし,創造者にとってはどのように見えましたか。

      目ざましい年となった西暦1914年当時,世界人口は10億人を優に上回るものと推定されました。a その人口は引き続き増え,第一次世界大戦やスペイン風邪のために何百万もの人びとが倒れたにもかかわらず,1920年までには18億5,989万2,000人に達しました。その世界人口は数多くの国家や帝国の人口に細分されました。1914年当時の最大の帝国は,地表面および世界人口の四分の一を包含した大英帝国でしたが,当時,ほかにもトルコ帝国,シナ帝国,オランダ帝国,フランス帝国,ドイツ帝国,オーストリア-ハンガリー帝国,ポルトガル帝国などの他の帝国がありました。それらの国家や帝国は世界の舞台では非常に印象的な存在として映じましたが,地の所有者で,偉大な創造者である,いと高き神にとってはどのように見えましたか。神は一瞥しただけでそれらの諸国家すべてを検分することができましたか。預言者イザヤは創造者の超人的能力をたたえて,こう述べました。

      2 『誰かエホバの霊をみちびきその議士となりて教えしや エホバは誰とともに議りたまいしや たれかエホバを聡くしこれに公平の道をまなばせ知識をあたえ明通のみちを示したりしや 見よもろもろの国民は桶のひとしずくのごとく 権衡のちりのごとくに思いたもう……エホバは地球のはるか上にすわり地にすむものをいなごのごとく見たもう』― イザヤ 40:13-15,22。

      3,4 (イ)神の代理審判者,イエス・キリストにとって諸国民すべてをご自分の前に集めるのは難しいことですか。どんなたとえ話の中でそのような事が予告されていますか。(ロ)そのたとえ話は,どんな見込みを持つ人びとに対する要求を示していますか。

      3 したがって当然,創造者なる神にとってそれら諸国民すべてをご自分の前に集め,彼らを裁いて刑を執行するのはきわめて簡単なことです。同様に,エホバがご自分の代理審判者として行動するよう任命された,強力な神のみ子,イエス・キリストによってそれを行なわせるのも容易なことです。(使徒 17:31)神のみ子はご自分が正にそのことを行なうという事を羊とやぎのたとえ話の中で自ら予告されました。使徒マタイは,主イエス・キリストがご自分の臨在(パルーシア)と「事物の体制の終結」との「しるし」についてオリーブ山で述べた預言を,そのたとえ話をもって結んでいます。(マタイ 24:3)そのすぐ前のたとえ話,つまり「タラント」のたとえ話の中で主イエスは,天の王国でご自分と一緒に統治する忠実な弟子たちはその「持ち物」を増やすべくこの地上にいる時に働かねばならないことを例を用いて示されました。次いで,いみじくも主は,それに続く次のたとえ話の中で,ご自分の天の王国の臣民となる今日生きている人たちに何が要求されているかを例を用いて示しておられます。イエスは次のようなことばでそのたとえ話を始めておられます。

      4 「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼とともに到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座にすわります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう」― マタイ 25:31-33。

      5,6 (イ)イエスはご自分の述べた預言の中で,ご自身のことをどのように呼びましたか。(ロ)それはなぜダニエル書 7章のダニエルの預言をわたしたちに思い起こさせますか。

      5 このたとえ話を述べる前にイエスはすでにご自分のことを7回「人の子」と言われました。(マタイ 24:27,30,37,39,44; 25:13,欽)この名称はメシアによる王国に関連して用いられた以上,それをここで用いるのはたいへん適切なことでした。それがここで用いられたのは,ダニエル書 7章9,10,13,14節を思い起こさせるものとなりました。そこにはこう記されています。

      6 『宝座を置き列ぶるありて日の老いたる者座を占めたりしが……彼に仕うる者は千々彼の前に侍る者は万々審判すなわち始まりて書を開けり 我また夜の異象のうちに観てありけるに人の子のごとき者雲に乗りて来たり日の老いたる者の許に至りたればすなわちその前に導きけるに これに権と栄えと〔王国〕とを賜いて諸民 諸族 諸音をしてこれにつかえしむ その権は永遠の権にして移りさらずまたその〔王国〕は亡ぶることなし』〔新〕。

      7 イエス・キリストはいつみ使いたちを伴って到来し,『ご自分の栄光の座に』座しましたか。そうすることによって,何が回復されましたか。

      7 それは天で人間の目には見えない仕方で起きたとはいえ,「人の子」が日の老いたる者であられるエホバ神の許に至り,その『権と栄えと王国』すべてが「人の子」に与えられたのは,「異邦人の時」(つまり「諸国民の定められた時」)の終結した1914年のことでした。それで,人の子としての主イエスがすべてのみ使いを伴って来て,「栄光の座」にすわられたのは,異邦人の時の終わった1914年でした。こうして,メシアによる神の王国は天で誕生しました。(啓示 12:5,10)それはかつてエルサレムで支配権を行使したにもかかわらず,西暦前607年にバビロンのネブカデネザル王によって覆されてしまったダビデの王国が回復されたことを意味しています。それで,西暦1914年に起きた事がらは,西暦前607年に起きたのとは逆の事がらでした。今や再び,ダビデの子孫が統治することになりました。

      8 西暦前607年に起きたことを考えれば,西暦1914年に異邦諸国民すべてが,即位した人の子の前に集められるのはなぜ適切なことでしたか。

      8 その時,主イエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアが始まりました。ですから,羊とやぎのたとえ話の中で述べられている事がらは,イエスのパルーシアの期間中に起こります。それには,王座についた王としてのイエスの前に諸国民すべてが集められることも含まれています。それは正に当然起きて然るべき事がらでした。なぜですか。なぜなら,『異邦諸国民の定められた時』が終わったからです。(ルカ 21:24)預言的な七つの「時」の間,それら異邦諸国民はメシアによる神の王国によって妨げられることなく全地を支配していました。聖書的にいえば,預言的な一時は360日,象徴的には360年を意味します。さて,そのような預言的な「時」は七つを数えることになっていました。それは合計2,520年(7×360年)を意味しました。異邦諸国民はその長い期間中,全地を支配しました。その全期間にわたり,異邦諸国民は,神のメシアによる王国が世界に対する支配権を行使する権利を踏みにじっていました。西暦1914年から逆算すると,2,520年の始まりは西暦前607年になります。それはバビロンの王ネブカデネザルが,エルサレムで統治するダビデ王の王家を覆した時でした。―エゼキエル 21:27。

      9 (イ)「七つの時」に関するネブカデネザルの夢は彼が世界強国の支配者となって1年余の後に生じた以上,その夢が模型的な仕方で成就されるまでは異邦人の時は始まり得なかったことをそれは意味していますか。(ロ)もし「七つの時」をバビロンがメディア人とペルシア人の手で倒された時から数えるとすれば,それはいつ終わることになりますか。その時には当然何が起きることになりますか。

      9 こうして,異邦人の支配する「七つの時」は西暦前607年に始まりましたが,バビロンの王ネブカデネザルがその「七つの時」に関する夢を見たのはそれから1年以上経った後のことでした。(ダニエル 4:16,23,25,32)もう一つの点として,その夢は文字どおり七つの「時」(年)の間狂気に陥って雄牛のように原野で草を食んだネブカデネザルの身の上に模型的な成就を見ました。これは異邦人の支配する「七つの時」がその預言的な夢の生ずる前の西暦前607年に始まったとは考えられないことを意味するのでしょうか。まず第一に,その異邦人の時は,王が七年間狂気に陥って回復した時に始まったに違いないと考えるべきですか。いいえ,そうではありません! それで,彼が回復した年はわからないのですから,異邦人が世界を支配した「七つの時」はまず最初に,ネブカデネザルの王朝が倒れた西暦前539年に始まったに違いないと考える必要はありません。預言的な「七つの時」(2,520年)を,バビロンがメディア人とペルシア人の手で倒された西暦前539年から数えるとすれば,その「七つの時」はなお将来に訪れる西暦1982年の秋に終わることになります。そうした計算に従うとすれば,そのきたるべき年には当然何を期待すべきでしょうか。それは西暦前539年に起きたのとは逆の事がら,すなわちネブカデネザル王朝の王座の回復,ネブカデネザルの子孫が王座につくバビロニア帝国の回復なのです!

      10 (イ)古代バビロンやネブカデネザルの王朝,またバビロニア帝国の回復について聖書は何と述べていますか。(ロ)そのようなわけで,「七つの時」はいつ始まりましたか。回復されることになっていたのは何ですか。

      10 しかし,それは霊感を受けた神のみことばが予告することとは全く正反対の事がらです。ユーフラテス河畔の古代バビロンは永遠に滅び去りました! ネブカデネザル王の王朝は永遠に覆されてしまったのです。バビロニア帝国は第三世界強国としては永久に消滅してしまいました。しかし,エルサレムに代表的な王座を有したエホバ神が回復させることを約束されたのは何でしたか。天の神が回復させることを約束なさったのは,ダビデの子孫の治めるメシアによる王国です。(エゼキエル 21:27。ルカ 1:30-33)西暦前607年にバビロニア人がエルサレムとユダの地を荒廃させたことは,メシアによるダビデの王国の滅亡を印づけるものとなりました。したがって,それは異邦人が人類の世界を支配した「七つの時」の始まりを印づけるものでした。それで,2,520年にわたる異邦人の時はまぎれもなくその年に始まり,またその時に始まったゆえに,それは西暦1914年の初秋に終わりました。

      11 ネブカデネザルがダビデの王座を覆した後に七年間狂気に陥ったことは,異邦人の時に関して何を示すものとなりましたか。

      11 それで,ネブカデネザル王が西暦前607年にエルサレムのダビデの王座を覆した後に七年間狂気に陥った事実は,既に始まっていた異邦人の時がどれほど長く続くかを示すのに役だちました。世界のできごとは,その時が西暦1914年まで続いたことを示しました。

      12 「七つの時」が1914年に終わったとき,それはイエス・キリストが天与のどんな招待に答え応じて行動を起こすべき時となりましたか。

      12 その年に異邦人が妨げられずに世界を支配する「七つの時」が終わり,次いで「人の子」が日の老いたる者の前に導かれるに及んで,天の人の子が詩篇 2篇7-9節に次のように述べられている預言的な招待のことばに答え応じて行動を起こすべき予定の時が来ました。『われ詔命をのべん エホバわれに宣まえり なんじはわが子なり今日われなんじを生めり われに求めよ さらば汝にもろもろの国を嗣業としてあたえ地の極をなんじの有としてあたえん 汝くろがねの杖をもて彼らをうちやぶり陶工のうつわもののごとくに打ち砕かんと』。―また,啓示 12:5をも見てください。

      「羊飼いが羊をやぎから分けるように」

      13 国々の人びとを分けるわざは「大患難」に関連していつ始まりますか。それで,そのわざには何が含まれてはいませんか。

      13 統治する「人の子」は大いなる「艱難の時」にさいして諸国民を打ち砕いた後に,国々の人びとを「羊」や「やぎ」のように分けるのではありません。彼は大多数が地上の墓場から復活させられる地上の住民をそのようにして分けるわざにご自分の至福千年統治の全期間を当てるわけではありません。(ダニエル 12:1)その分けるわざは「大患難」の勃発に先立ってなされる活動であって,その「大患難」の壮大な最高潮にさいして諸国民はハルマゲドンで粉々に打ち砕かれるのです。(マタイ 24:21,22。啓示 16:14,16; 19:15)それで,人の子は分けるわざを開始すべく諸国民すべてをご自分の前に集めますが,それには地上の死人を復活させることは含まれていません。

      14 分けるわざを行なうために,諸国民は地上のある集合場所に集められるのでしょうか。それとも,天の人の子はどのように諸国民を扱うのでしょうか。

      14 諸国民を集めるとはいっても,地上のある集合場所に彼らを皆寄せ集めるという意味ではありません。それは不可能なことです。天と地の創造者が諸国民すべてを継承物として,また全地をその果てまで持ち物として人の子に引き渡されるとき,集めるわざが成し遂げられます。人の子はそれらの諸国民すべてを治める権威を神のみ手から受け,彼らすべてにご自分の注意を向け,そしてそれら諸国民を扱うにさいしては『彼とともに到来するすべてのみ使い』を用います。こうして,すべての国々の『人びと』は,比喩的な意味で人の子の所有する羊の群れとなりますが,ただしそれは羊とやぎの入り混じった群れに似ています。そうした入り混じった羊の群れは,中東地方では珍しいことではありません。

      15 (イ)分けるわざが羊とやぎを分けるものとして描かれているということは,やぎは不評を買った動物であるという意味ですか。(ロ)その分けるわざはどんな期間中になされますか。

      15 やぎを羊から分けるとはいえ,やぎの類の動物が何らかの不評を買っているからそうされるのではありません。イエスがおられた当時,地上では若い雄やぎは年ごとの過ぎ越しの食事の祝いにさいして子羊と全く同様に用いることができました。(出エジプト 12:1-5)また,年ごとの贖罪の日に,「イスラエルの全会衆のために贖罪を」行なうため神殿の至聖所の幕の内側に携え入れられたのもエホバのやぎの血でした。(レビ 16:7-9,15-17)それで,たとえ話の中では,やぎは単に一方の部類の人びとを表わすために用いられているに過ぎず,羊は他方の部類の人びとを表わすのに用いられており,羊飼いがその二種類の動物を分ける時が来るように,人の子のパルーシアの期間中,それも「大患難」以前に二つの級の人びとを分ける時が到来します。

      16 たとえ話の成就における分けるわざからして,パルーシアは何を意味していると言わねばなりませんか。

      16 もちろん,文字どおりの羊の群れの羊とやぎを分けることは,その気になれば一日のうちの少しの時間内に仕終えることができるでしょうが,自由な道徳的行為者である人びとを羊ややぎのように分けるには,世界的な規模で,ずっと長い時間が要ることでしょう。この事からしても,ギリシャ語のパルーシアは「到来」とか「到着」というよりもむしろ「臨在」を意味していると言わねばなりません。

      17 (イ)羊とやぎを分けるわざはどんな相違点に基づいてなされますか。(ロ)自由な道徳的行為者である人びとを分けるには,実際の動物を分ける場合よりも,なぜより長い時間がかかるのでしょうか。

      17 たとえ話の中では,それらの動物は二種類の別々の動物なので,羊飼いはやぎの乳と羊のそれとを混ぜて家の者たちの用に供したくはないという考えに基づいて分けることが行なわれます。一方の級の動物の毛は他方の級のそれとは異なっているので,それらを混ぜ合わせてはなりませんでした。(レビ 19:19。申命 22:11。出エジプト 36:14。箴言 27:27)たとえ話の成就においては,人びとを分けるわざは,人格や行動の仕方の相違に基づいてなされます。人格を十分に形成するには時間がかかりますし,行動の仕方は,ある人がいつもするようになる一連の行為によって作り上げられるものです。ですから,ある人の固定した人格や一定の習慣的な行為に関して裁きを下せるようになるまでには,より長い時間がかかります。そのため,ある人に対して取り消すことのできない正しい判決を言い渡し,それを執行できるようになるには,時間的猶予が必要です。それは24時間の1日の問題ではありません。

      18 (イ)その右と左がそれぞれ何を意味するものとなるかが示されていることを考えれば,各人はどんな問題でおのおの決定を下さねばなりませんか。(ロ)人の子のパルーシアが目に見えないからといって,言い訳できる人がいますか。それはなぜですか。あるいは,なぜいませんか。

      18 たとえ話の中で,羊飼いに似た人の子は,羊のような者たちをご自分の右に,やぎのような者たちを左に置きます。その右側は有利な判決を受ける側となり,左側は不利な判決を受ける側となります。その結果,今日のすべての国の人びとは重大な立場に立たされています。各自決定を下さねばならない問題は,今や輝かしい天の王座に座し,すべてのみ使いを同伴しておられる人の子の好意を自分は得ているだろうか,それとも不興を買っているだろうかということです。各自申し開きをするよう求められるのは必至です。統治しておられる人の子はそのパルーシアの期間中,人びとの目に見えないとはいえ,「私は知りませんでした」と弁解して言い訳できる人はいません。人の子の見えないパルーシアについては世界中でふれ告げられてきたのですから,各自自分は果たして,王で審判者であられる方の好意を受けることを,あるいは不興を買うことをしているか,それともしていないかを真剣に深く考慮しなければなりません。

      19 1923年にロサンゼルスで開かれた国際聖書研究者協会主催の大会におけるラザフォード会長の話は,羊とやぎのたとえ話の成就をどの時期の事がらとして位置づけましたか。

      19 とはいえ,その象徴的な羊,また象徴的なやぎとはだれのことですか。1923年8月25日,土曜日,それがおのおのだれを意味するかという驚くべき説明が,クリスチャンである聖書の研究者たちに与えられました。それはアメリカ,カリフォルニア州ロサンゼルスで開かれた国際聖書研究者協会主催の9日間にわたる地域大会の8日目のことでした。その日,同協会の会長J・F・ラザフォードは2,500人の聴衆を前にして,「羊とやぎのたとえ話」と題する講演を行ないました。聖書に基づくその説明は,マタイ 25章31-46節のたとえ話の成就を,現在の事物の体制の終わる「艱難の時」の後,またキリストの千年統治の期間中の事がらとして位置づけたりはしませんでした。そのたとえ話の成就は今,つまり西暦1919年以降,そしてこの事物の体制の滅亡までの,統治する人の子の見えないパルーシアもしくは「臨在」の期間中の事がらとして位置づけられたのです。同大会のその話の資料全文は,「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,1923年10月15日号の307-314ページに発表されました。―前述の記事の「時」と題する見出しのもとの17-21節をご覧ください。

      20 それゆえに,自分がどんな人格を形成しているかを各自考慮するのは,なぜ賢明な事がらとなりましたか。

      20 このようにして,「ものみの塔」誌の読者および国際聖書研究者協会の会員は,そのたとえ話が既に成就の途上にあり,現在の人類の世代が重大な立場に立たされて関係しているという事実に注意を喚起されました。その結果,自分はどんな人格を形成しているか,また自分の行動の仕方は統治している人の子のどちらの側に自らを置くものとなるかについて各自調べるのが賢明な道となりました。

      21 象徴的な「羊」になるようユダヤ人を助けるどんな努力が払われましたか。ユダヤ人に対するそうした特別の関心はいつまで持続されましたか。

      21 何年かの期間にわたって,世界の生来の割礼を受けたユダヤ人が,統治しておられるメシアの右の象徴的な「羊」になれるよう助ける特別の努力が払われました。1925年中,国際聖書研究者協会の会長J・F・ラザフォードが各地で多数の聴衆を前にして行なった「パレスチナに帰るユダヤ人」と題する公開講演の形で,そうした努力がなされました。また,その一環として1926年5月31日,月曜日,夜,同会長は1万人を収容する英国ロンドンの有名なロイヤル・アルバート・ホールで,ユダヤ人聴衆をも含め,会場を大方埋めた聴衆を前にして「ユダヤ人のためのパレスチナ ― それはなぜか」と題する公開講演を行ないました。そうした公開講演のほかに,1925年10月の発行年月を付した「ユダヤ人のための慰め」と題する本が出版されました。その後,1929年8月25日にはニューヨーク市スタテン島のWBBR放送局から一連の放送局を通じて行なわれた全国的な規模のラジオ放送による,「人びとのための健康と命」と題する講演の終了後,「命」(英文)と題する360ページの本が発表され,公に頒布されました。割礼を受けたユダヤ人に対するこうした特別の関心は,イスラエルに関するエゼキエルの預言が今日の霊的なイスラエルに適用されることを示した「立証」と題する本の第二巻(英文)が1932年に発表される時まで持続されました。

      22 1931年のコロンバス大会で発表された情報によって,羊のような人たちに対する関心はどのようにいっそう大々的な規模で引き起こされましたか。

      22 とはいえ,1931年には「羊」級に対する関心がいっそう大々的な規模で引き起こされました。同年7月30日,オハイオ州コロンバスにおける国際聖書研究者協会の国際大会で,同協会の会長は「筆記人の墨いれをおびた者」と題する講演を行ない,その直後ロバート・J・マーチンは,「立証」と題する新しい本の第一巻(英文)を発表しました。それは,筆記人の墨いれをおびたその布の衣を着た者に関する幻について述べたエゼキエルの預言の第9章を1節1節詳しく論じた本でした。その話とその本はともに,印を付けるわざは単に生来のイスラエル人だけでなく,すべての国の人たちで成る羊のような人びとのために,キリストの弟子たちの油そそがれた残れる者によって行なわれねばならないということに注意を向けさせました。印を付けられた者たちだけが,きたるべき「大患難」を通過して,油そそがれた残れる者とともに生き残ることを聖書は示しているのですから,それは命を救うわざです。彼らは王国の地上の臣民となるのです。

      23 多年,黙示録 7章の「大いなる群衆」に関してどんな関心が寄せられていましたか。1934年には「エホバ」と題する本が発表されたにもかかわらず,どうしてこの問題は明らかにされませんでしたか。

      23 それまで何十年もの間,ジェームズ王による欽定訳聖書の黙示録 7章9節のいわゆる「大いなる群衆」は非常な関心の的とされてきました。その大いなる群衆を構成している人たちとはいったいだれでしょうか。1934年11月19日のこと,ニューヨーク市ブルックリンで,「エホバ」(英文)と題する本が献身的な神の民のために発表されました。384ページのその本は,あの「大いなる群衆」と羊とやぎのたとえ話の両方について述べました。(159ページの「大いなる群衆」の項と,「羊」に関しては354および359ページをご覧ください。)しかし,当時最新のその出版物も,たとえ話の「羊」はあの「大いなる群衆」と同一であるとか,布の衣を着て,からだの脇に筆記人の墨いれを帯びた象徴的な人によって額に印を付けられた人たちと同一であるとはみなしませんでした。また,「大いなる群衆」は王なるイエス・キリストの14万4,000人の共同相続者の一部ではないにしても,天的な命を受ける,霊によって生み出されたクリスチャンの殉教者たちの一団であるという長年抱いていた間違った考えを聖書研究者たちの念頭から捨てさせもしませんでした。「大いなる群衆」に属する人たちは大いなるバビロン,つまり偽りの宗教の世界帝国になお束縛されている「俘囚」であろうと考えられていました。

      24 「大いなる群衆」に関する,納得のゆく,事実に即した説明はどんな大会で与えられましたか。その大会には特にだれが出席するよう招かれましたか。

      24 では,「大いなる群衆」の幻に関する,納得のゆく,また進展している諸事実とも合致する説明は,それを知りたいと切に願っている人たちにいつ与えられましたか。それは1935年で,「エホバ」と題する本が発表された6か月後のことで,1935年5月30日から6月3日にわたって開かれた,エホバの証人のワシントン(特別区)大会の折でした。1935年4月15日号の「ものみの塔」誌の127ページに一ページ全部をさいて掲載された同大会に関する発表は,はっきりとこう述べました。「エホバとその王国の側にいる人たちすべてを歓迎いたします」。そして,こう続けています。「これは奉仕の大会であって,残れる者とヨナダブすべてが奉仕に携わるものと期待されています。……聖別されたことを水の浸礼によって象徴したいと願う人すべてに対しては,そのための取決めが設けられています」。同大会に関するその後の発表はこう述べました。「これまで多くのヨナダブは大会に出席する特権にあずかっては来なかったので,ワシントンにおける大会は彼らにとって真の慰めと益を与えるものとなるでしょう」。

      25 (イ)いわゆるヨナダブたちはワシントン大会に招かれた特別の理由をいつ悟りましたか。(ロ)「大いなる群衆」と題する話をした講演者は,それがだれであることを明らかにしましたか。

      25 レカブの子である昔のヨナダブと自分たちが似ていることを認めていたそれらの人たちが,そのワシントン大会に出席するよう特に招待された理由を悟ったのは5月31日,金曜日,午後のことでした。それはどうしてですか。なぜなら,その時,同大会の主要な講演者J・F・ラザフォードが,そこワシントン公会堂内の眼前の聴衆と,WBBRおよびWHPH(バージニア州ピーターズバーグ)両ラジオ放送局を通じて,同時に耳を傾けている数え切れない見えない聴衆に向かって,「大いなる群衆」と題する講演を行なったからです。啓示 7章9-15節に関するその説明は,「大いなる群衆」(欽)は霊的復活にあずかって天に行くよう定められている一団の崇拝者たちの群衆ではないことを明らかにしました。むしろそれは,イエス・キリストの天の王国と栄光を受けたその教会つまり会衆の治める楽園の地上で永遠の命を受ける希望を神のみことばの中で差し伸べられている,エホバの崇拝者たちの地的な級をさしています。当時,地的希望を持つそうした崇拝者たちは,レカブの子ヨナダブにたとえられ,「ヨナダブ」と呼ばれました。「ものみの塔」誌が後に述べたとおりです。

      これらの人たちはほかには「ヨナダブ」と呼ばれています。彼らは象徴的な意味を持つバプテスマを受けており,そのようにして,神の意志を行なうべく聖別され,エホバの側に立ち,エホバとその王に仕えているということを公言しています。こうして彼らは清くなり,今や「白き衣を著」ているのです。このようなわけで,確かにその大いなる群衆は,天の場所に対する希望を抱く,霊によって生み出された人たちの級ではないことがわかります。むしろ……彼らは「大いなる患難より出」て来るのです。…… ― 1935年8月15日号,「ものみの塔」誌,248ページ,21節。

      26 (イ)その講演内容はさらにどのようにして公表されましたか。その講演の後に,どれほどの人びとがバプテスマを受けましたか。(ロ)それらのバプテスマ希望者はいずれかの級に自ら入りましたか。彼らは自分がどちらの級に属するかをどのようにして知るようになったのでしょうか。

      26 この注目すべき演説の資料全文は全地のエホバの崇拝者たちのための知らせとして,1935年8月1日および15日号の「ものみの塔」誌上に「大いなる群衆」と題する二部から成る記事として発表されました。その演説の行なわれた翌日,840人の人びとが自らを捧げて水の浸礼を受け,主イエス・キリストの弟子になったことを象徴しました。b (マタイ 28:19,20)それら840人のバプテスマ希望者は聖書的に言って,キリストの共同相続者の天的な級か,「大いなる群衆」で表わされている地的な級のいずれかに自ら加わる権限は与えられませんでした。なされねばならなかったのは彼らの意志ではなくて,エホバの意志でした。エホバこそご自分の欲するままに彼らをそのいずれかの級に入れて,ご自身の至上の意志を表明する方だったのです。バプテスマを受けた後,彼らのうちのだれかを,神の霊的な子になるようエホバがご自分の聖霊をもって生み出されたのであれば,そうすることによってエホバはその人を天的な相続物を持つ霊的な級の中に入れられました。また,もしだれかを霊的な子として生み出さず,霊的な子たちを扱う場合のようにその人を扱わなかったとすれば,霊によって生み出されなかった人は,地的な大いなる群衆の者とされたのです。

      27 「大いなる群衆」に関するより新しいこの情報は,羊とやぎのたとえ話に関して何を供するものとなりましたか。

      27 「大いなる群衆」に関するワシントン(特別区)における講演,およびその後同じ題で発表された資料は,羊とやぎのたとえ話をそれに照らして考える新たな背景を供するものとなりました。それは「羊」級の成員に対する要求を,12年前の1923年にカリフォルニア州ロサンゼルスで行なわれた羊とやぎのたとえ話に関する講演による説明よりもさらに明白に,また十分に際だたせました。

      28 「羊」級に対する要求は1923年に明らかにされたものよりもいっそう大きいものであることがどのように示されましたか。

      28 たとえば,「羊」級の人たちは,単に親切な気質を持つ,義を好む人道主義者で,キリストの弟子たちの油そそがれた残れる者に多少の親切を示した人以上の者でなければなりません。彼ら自身,「父と子と聖霊との名」によってバプテスマを受け,またエホバのクリスチャン証人として行動しているキリストの弟子でなければなりません。啓示 7章9-17節(欽定訳)の「大いなる群衆」は,マタイ 25章31-46節のイエスのたとえ話の「羊」級と同一だったのです。c

      「さあ,わたしの父に祝福された者たちよ」

      29 王の右側に入るためのきわめて重要な要求は,王が「羊」に述べた事がらの中でどんなことばで明らかにされていますか。

      29 羊飼いである王が象徴的な「羊」に対して祝福された将来を指定する理由として述べた事がらは,「羊」級を構成する人たちがかなうよう期待されている,きわめて重要な要求を示しています。たとえ話の中で,「羊」級は王なる人の子の右にいて人の子から次のように話しかけられる様子が描写されています。「それから王は自分の右にいる者たちにこう言います。『さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい。わたしが飢えると,あなたがたは食べる物を与え,わたしが渇くと,飲む物を与えてくれたからです。わたしがよそからの者として来ると,あなたがたはあたたかく迎え,裸でいると,衣を与えてくれました。わたしが病気になると,世話をし,獄にいると,わたしのところに来てくれました』」― マタイ 25:34-36。

      30 その指摘された事がらをそれらの「羊」がイエスに対して行なったとはいえ,それはどうして間接的に行なわれたにすぎないと言えますか。

      30 「すべての国の民」の中の羊のような人びとは主イエス・キリストに対してそうした事がらをしたとはいえ,間接的にそうしたに過ぎません。地上におられた当時,イエスは3年と何か月かにわたる教えたり宣べ伝えたりするわざを遠い中東の地のイスラエル国民とサマリア人に局限したことを忘れてはなりません。(マタイ 15:24; 10:6。ヨハネ 1:11; 4:3-43。ルカ 17:15-18)それで,それら羊のような人びとは,小アジアの各地のローマ州にいた1世紀当時のクリスチャンに似ています。使徒ペテロは彼らにこう書き送りました。「あなたがたは彼を見たことはありませんが,彼を愛しています。現在彼を見ていませんが,彼に信仰を働かせ(ています)」。(ペテロ第一 1:8)地上におられたイエスを見ることなど決してできなかったとはいえ,イエスの右に分けられている羊のような人びとは,確かにイエスのために何かをしたいと思い,間接的にそうすべく努力しました。

      31 たとえ話の中で描写されている王と「羊」との会話は,直接交されますか。テモテ第一 6章14-16節はこの点でどんな関係を持っていますか。

      31 預言的なたとえ話のこの部分が成就するさい,それら羊のような人びとは,輝かしい天の王座に座しておられる人の子を見るわけではありません。また,人の子は肉眼に見える様で彼らに現われ,彼らの持って生まれた耳に聞こえるように話しかけ,感謝のことばを述べたりするわけでもありません。霊者としての彼の臨在もしくはパルーシアの期間中,それらの人びとはただ信仰の目によってのみ,王座に就いた人の子を見るので,彼がそうした人たちに有利な裁定を下すとき,好意を示すそのことばは,彼が選定する何らかの経路を通して伝達されるでしょう。たとえ話の中で即位した人の子と「羊」が交す会話の成就に関しては,テモテ第一 6章14-16節で次のように述べられていることを考慮に入れなければなりません。「わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで……その顕現は,幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。彼は王として支配する者たちの王,主として支配する者たちの主であり,[王として人びとから仕えられる者たちの中で]ただひとり不滅性を持ち,近づきがたい光の中に住み,人はだれも見たことがなく,また見ることのできないかたです」。それで,この王の王と「羊」の交す会話は間接的なものです。

      32,33 (イ)王が「羊」に対して『来る』よう招くのは,天に来るよう招くという意味かどうかについては,何と言わねばなりませんか。(ロ)イエスはなぜそれらの人たちのことを「ほかの羊」と言われましたか。

      32 彼はご自分の右にいるそれら羊のような人びとを『来る』よう招くにあたり,天に来て,その王座にともに座すよう彼らを招いているのではありません。それら象徴的な「羊」は,「第一の復活」を経験してイエスとともに千年の間人類を統治する,イエス・キリストの14万4,000人の霊によって生み出された共同相続者の成員ではありません。(啓示 14:1-3; 20:4-6)彼らはイエスの霊者としての臨在もしくはパルーシアの期間中に集められる「すべての国の民」に属する人びとなので,14万4,000人よりもずっと多くなり,実際のところその何倍もの大勢の個々の人びとで構成されるようになります。彼らは『すべての国民と部族と民と国語の中から来る,だれも数えつくすことのできない大群衆』を構成します。(啓示 7:9,10)この「大群衆」に属する人たちは,さらに次のように言われており,「羊」にたとえられています。「み座の中央におられる子羊(は),彼らを牧し,命の水の泉に彼らを導かれる(の)である」。(啓示 7:17)事実,彼らは,イエスが次のように述べて,14万4,000人の共同相続者の「小さな群れ」から区別した「ほかの羊」の一部なのです。

      33 「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,ひとりの羊飼いとなるのです」― ヨハネ 10:16。ルカ 12:32。

      34 即位した人の子は「ほかの羊」の「大群衆」にいつ『来る』よう命じますか。彼らはどうして天の父に「祝福された」人たちといえますか。

      34 そうした「ほかの羊」の「大群衆」に対して,即位された人の子は,ご自分のもとに来るよう,すなわち彼らに報いを与える時にさいしてご自分のもとに近寄るよう命じます。そして,彼らのことを「わたしの父に祝福された者たち」と呼びます。(マタイ 25:34)それらの人たちは主イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアの時期であるこの時代にさいしてイエスに対して良いこと,また助けになることをしようと努めたので,それゆえに確かに天の父から祝福されました。しかし,天の父がそうした尊い報いを彼らのために蓄えておかれたという点で特に彼らは天の父に「祝福され」ています。天の父はみ子の臨在もしくはパルーシアの時期である今の時代のこの羊のような人びとの級を予見されたので,それに応じて彼らのために尊い報いを蓄えられたのです。彼らが既に受けた数々の祝福も,これから受ける祝福とは比べものになりません。彼らのために蓄えられているその特異な報いとは何ですか。

      35 (イ)イエスの示されたところによれば,「ほかの羊」の「大群衆」のために蓄えられている特別の祝福とは何ですか。(ロ)彼らが受け継ぐ「王国」は特に何をさしていますか。彼らはどこでそれを受け継ぎますか。

      35 それは彼らに対するイエスのことばに示されています。「世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」。(マタイ 25:34)このことばの中で,「ほかの羊」の「大群衆」はイエスの天の王座にともに座すべくイエス・キリストにより招かれたのではありません。彼らは14万4,000人の共同相続者ではないからです。では,その招待のことばはどう解すべきですか。リデルとスコットの「希英辞典」第一巻はその309ページで,「王国」という意味の原語のギリシャ語(バスィレイア)の項に,このギリシャ語にはまた受身の意味,すなわち人が「王に支配されている」という意味があり,さらに「治世」という意味もあると考えられる旨述べています。それでまさしく,そうした「ほかの羊」の「大群衆」は「王に支配されている」状態,すなわちメシアなる王イエス・キリストに支配される状態を受け継ぎます。王の王,イエス・キリストの千年にわたる「治世」を受け継ぐのです。彼らは栄光を受けた人の子に支配されるその千年期をどこで享受しますか。「肉と血」を持つ被造物である彼らが入り得ない天においてではなくて(コリント第一 15:50),キリストの王国の地的領域である,ほかならぬこの地上で享受します。―詩篇 2:8。ダニエル 2:35-45。

      36 どんな「世」の基が置かれて以来,この「王国」は「ほかの羊」の「大群衆」のために備えられましたか。どのようにしてですか。

      36 この地は主イエス・キリストのような王と,栄光を受けたその14万4,000人の共同統治者のもとで生活するすばらしい場所となります。それにしても,そうした意味での「王国」はどのようにして遠い昔,「世の基が置かれて以来」羊のような人たちの「大群衆」のために「備えられ」たのでしょうか。「世の基が置かれて以来」天の父なる創造者が彼らのためにそれを念頭に置かれたという意味においてです。これは地球という惑星の基を置くという意味ではありません。それは人類の世を意味しています。それはエデンの園で完全なアダムとエバが創造された後のことでした。アダムは王とされませんでしたし,エバもその女王とはされませんでした。アダムは陸生動物,水陸両生動物,魚類そして鳥類などの生物すべてを支配する王とはされませんでした。ヨブ記 41章34節(新)でエホバはレビヤタンのことを「すべての堂々たる野獣を治める王」と呼んでいます。さらに,アダムは人間としてその子孫すべてを治める王になるとも言われていません。ノアの日の洪水の後,メソポタミア渓谷にバベルもしくはバビロンを創設した厚かましい狩人ニムロデを皮切りに,初めて地上に王が存在するようになりました。(創世 10:8-10)アダムの子孫はアダムの王国で生まれたわけではありません。アダムとエバ自身は「世」を構成してはいませんでした。

      37 (イ)その世の基はいつ,またどのようにして置かれましたか。(ロ)その基が置かれて以来,「王国」が備えられたといえるのはどうしてですか。

      37 しかし,滅びの宣告を受けてエデンの園から追い出されたアダムとエバがその外で子供を設け始めたとき,「世」つまり人類の世の基が置かれました。それらの子供たちは罪や不完全さを宿し,死に定められた状態のもとに生まれましたが,それでも彼らはエデンでアダムとエバを罪に誘ったへびに対するエホバの次のようなことばに表わされている機会を捉え得る状態に入りました。「わたしはおまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に敵意をおく。彼[女の胤]はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く」。(創世 3:14,15,新)時が経つにつれて,エホバ神は,象徴的なへびである悪魔サタンに対して勝利を得るその神秘的な胤に関する情報をさらにお与えになりました。勝利を収めるその胤は,全人類を治める王となることになりました。したがって,その胤の設立される王国の支配下に入る機会を持つ子供たちが生まれ始めたとき,エホバの約束は,基が置かれたばかりの人類の世に対して効力を発しました。こうして,その「王国」は,「世の基が置かれて以来」地上の住民のために蓄えられ,「備えられ」ました。―ルカ 11:50,51と比べてください。

      「これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとり」に対して行なわれた

      38 羊のような人たちの「大群衆」は王の招きのことばに驚きましたが,王のことばはそれをどのように説明していますか。

      38 預言的なたとえ話の中で,世の基が置かれて以来彼らのために『備えられた王国を受け継ぐ』よう,王がそれら「羊」を招いたところ,彼らは驚いてしまいました。イエスはこう告げています。「その時,義なる者たちはこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢えておられるのを見て食べ物を与えたり,渇いておられるのを見て飲む物をさし上げたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたがよそからの人であるのを見てあたたかく迎えたり,裸なのを見て衣をあげたりしたでしょうか。いつわたしたちは,あなたが病気であったり獄におられたりするのを見てみもとに参りましたか』。すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:37-40。

      39 彼らは王に対して行なった思いやりのある行為に基づいて「義なる」者と呼ばれているのでしょうか。それとも,何に基づいてそう呼ばれていますか。

      39 イエスがそれら羊のような人たちのことを「義なる者たち」と述べているのは注目に値します。彼らはイエスの指摘している思いやりのある事がらすべてを彼に対して行なったというただそれだけの理由で,イエスの前で義にかなった外見を保っていたのではありません。それら羊のような人たちは,キリストの14万4,000人の共同相続者と同様,自分自身のわざに基づいて義とされ,あるいは義と認められてはいません。考慮に値する主要な事がらは,事情が許すかぎりキリストのためになし得ることを努めて行なうことによって表わしたもの,すなわち神のメシアつまりキリストに対する彼らの信仰でした。彼らは神にとって全く申し分のない義が自分自身のうちに宿ってはいないことを認めました。そのことと調和して,彼らは犠牲にされた神の子羊イエス・キリストのなだめの血を利用しました。(ヨハネ 1:29,36)エホバ神のみ前で義にかなった外見を備えるため,彼らはいわば自分たちの象徴的な衣を洗いました。「大群衆」に関するヨハネの幻の中ではそのことに対して注意が喚起されています。

      40 「ほかの羊」の「大群衆」の人たちは神のみ前における自分たちの不快な外見をどのようにして清めますか。彼らはどこで,またどのようにして神聖な奉仕をささげますか。

      40 羊のような人たちのその「大群衆」が子羊イエス・キリストの弟子たちであり,エホバ神の霊的な神殿にいる崇拝者であることを明らかにするものとして,使徒ヨハネは「大群衆」の幻に関して交された次のような会話を伝えています。「すると,長老のひとりがこれに応じてわたしに言った,『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか』。それでわたしはすぐ彼に言った,『わたしの主よ,あなたが知っておられます』。すると彼はわたしに言った,『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている』」。(啓示 7:13-15)それで,彼らが信仰を働かせて,キリストの流された血によって神のみ前における自分たちの不快な外見を洗い清めるのは肝要なことです。そのようにして信仰を働かせるほかに,機会が開かれて勧められる事がらを彼らは子羊イエス・キリストのために行なうことにより,霊的な神殿で神聖な奉仕を神にささげるのです。したがって当然,イエスは彼らのことを「義なる者たち」と言うことができました。

      41 (イ)義にかなったそれら「羊」は,『いつわたしはあなた……を見ましたか』と繰り返し尋ねることによって,パルーシアに関して何を示していますか。(ロ)この点で,そのパルーシアはなぜ長期間にわたるものでなければなりませんでしたか。

      41 イエスに対して種々の事がらを行なったと王イエス・キリストから言われた,義にかなった,羊のような人たちは,それらの事がらについて尋ねたとき,『いつわたしはあなた……を見ましたか』と繰り返し述べて,肉身のイエスを見たのではないことを明らかにしていますが,それはもっともなことです。というのは,今やイエスは「人はだれも見たことがなく,また見ることのできない」方なので,王としてのその臨在もしくはパルーシアは人の目には見えないからです。彼らがイエスの挙げた事がらすべてを間接的な仕方でイエスに対して行なうためには,そのパルーシアは長期間にわたる見えない臨在でなければなりませんでした。ではどうして彼らが行なった愛ある事がらはすべて彼に対して行なわれたのでしょうか。イエスはこう説明しています。

      42 王は,それらの「羊」がそうした事がらをどんな仕方で間接的にご自分に対して行なったと彼らに告げていますか。

      42 「すると,王は答えて言うでしょう,『あなたがたに真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者のひとりにしたのは,それだけわたしに対してしたのです』」― マタイ 25:40。

      43 王イエス・キリストはそのパルーシアの期間中,だれの残れる者を地上にお持ちになりますか。イエスはその預言を述べた日,またその復活当日,彼らについてどのように言われましたか。

      43 即位した王としてのその見えないパルーシアつまり臨在の期間中,人の子であるイエス・キリストはご自分の霊的な兄弟たちの,肉身を備えた残れる者を目に見える仕方でこの地上に持っておられます。かねて,羊とやぎのたとえ話を述べたその同じ日にイエスは次のように述べて,それらの『兄弟たち』に言及されました。「あなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです」。(マタイ 23:8-10)そのたとえ話を述べてから五日後,よみがえった主イエスは,その復活の当日,何人かの婦人たちの所に現われて,彼女たちにこう言われました。「恐れてはなりません! 行って,わたしの兄弟たちに報告し,彼らがガリラヤに行くようにしなさい。彼らはそこでわたしを見るでしょう」― マタイ 28:9,10。

      44 (イ)イエスは復活させられた日に,もう一人の女性に向かってそれら兄弟たちについてどのように言われましたか。(ロ)それら兄弟たちに対するイエスの態度に関して,ヘブライ 2章10-12節は何と述べていますか。

      44 イエスはまたその復活の当日,マリア・マグダレネにも現われて,ご自分の霊的な兄弟たちについて話し,彼女にこう言われました。「わたしの兄弟たちのところに行き,『わたしは,わたしの父またあなたがたの父のもとへ,わたしの神またあなたがたの神のもとへ上る』と言いなさい」。(ヨハネ 20:17)彼らの最年長の霊的な兄弟であるイエス・キリストとともに天的な栄光にあずかるそれら霊的な兄弟たちは,ついには14万4,000人になります。キリストのそうした霊的な兄弟たちがいるという事実に関しては,霊感を受けた一筆者がヘブライ 2章10-12節に詳しく書いています。「多くの子らを栄光に導くにあたり,彼らの救いの主要な代理者を苦しみを通して完全にすることは,すべてのものがそれによってあるかたにとってふさわしいことであったのです。神聖にしている者も神聖にされている者たちも,みなひとりのかた[父]から出るのであり,このゆえに彼は,彼らを『兄弟たち』と呼ぶことを恥としません。彼がこう述べるとおりです。『わたしはあなたの名を自分の兄弟たちに告げ知らせます。会衆の中でわたしは歌をもってあなたを賛美します』」。それらの「兄弟たち」はヘブライ人アブラハムの「胤」の成員であり,天的な栄光にあずかるよう彼らを助けるために神の天的なみ子は彼らと同様の人間になられました。したがって,こう記されています。

      45 イエスはその霊的な兄弟たちと同様の人間になりましたが,それは何のためでしたか。

      45 「実に,彼はみ使いたちを助けているのではなく,アブラハムの胤を助けているのです。そのために,彼はすべての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。神にかかわる事がらにおいてあわれみ深い忠実な大祭司となり,民の罪のためになだめの犠牲をささげるためでした」― ヘブライ 2:16,17。

      46 王イエス・キリストは,特にだれを援助する人たちを正しく評価されますか。なぜですか。

      46 完全な人間として地上におられたとき,王イエス・キリストは自ら努めてご自分の霊的な兄弟たちを援助したとおり,彼はご自分の天的な共同相続者になるその霊的な兄弟たちを援助すべく幾らかの努力を払う人たちすべてを高く評価されます。そうした優しい援助者たちがイエスの「兄弟たち」に対して行なう事をイエスは,ご自分に対して個人的に行なわれた事とみなされます。そうした援助を差し伸べる人たちをイエスは羊にたとえておられるのです。彼らはだれかれを問わず,無差別にだれかに,またあらゆる人に善を行なう,大ざっぱな意味での単なる博愛主義者または人道主義者だからといって賞賛されるのではありません。そのような博愛主義者や人道主義者は往々にして,それも特に地上で苦難のただ中にあるキリストの霊的な兄弟たちに対しては恐れて善を行ないません。だれかがキリストの「兄弟たち」に少しでも同情を示そうものなら,キリストの「兄弟たち」に敵対する人たちや,キリストのそれら「兄弟たち」に多大の苦しみをなめさせ,投獄させることさえする人たちは,まゆをひそめて非難したり,批判したりします。

      47 イエスが述べたように,義にかなった「羊」が援助の手を差し伸べる行為にはなぜ特別の価値がありますか。

      47 むしろ,たとえ話の語り手であるイエスから「羊」また「義なる」者と呼ばれる人たちは,確かに恐れることなく物を見分けます。そして,知的また積極的にキリストの「兄弟たち」に対して善を行ないます。なぜなら,そうした人たちをそれと認めているからです。また,それら「兄弟たち」がイエス・キリストに見倣っており,行なうようイエスから命じられたわざを行なっているということをも信じています。それゆえにこそ,キリストの兄弟たちを援助する彼らの行為は,イエスの目に特に価値あるものなのです。その種の行為は真のキリスト教に即した動機付けを持っているからです。次のように述べたイエスはそうした物の見方を明らかにされました。「わたしたちに敵していない者は,わたしたちに味方しているのです。あなたがたがキリストのものであるという理由であなたがたに一杯の飲み水を与える者がだれであっても,あなたがたに真実に言いますが,その者は決して自分の報いを失いません」。(マルコ 9:40,41)「そして,弟子であるということでこれら小さな者のひとりにほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなたがたに真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」― マタイ 10:42。

      王の「兄弟たち」の側に立つ

      48 (イ)西暦1935年以前,またそれ以後,地上のキリストの霊的な兄弟たちは,キリストが説明しておられるようなそうした経験をしてきましたか。(ロ)援助を差し伸べた「羊」は,何を知り,また何を認識した上でそうしましたか。

      48 歴史の記録からも明らかなように,神の王国の良いたよりを宣べ伝え,すべての国の人びとを弟子とするわざを西暦1935年に至るまで続けた期間中,またその後もキリストの霊的な「兄弟たち」は文字どおり飢え渇き,衣服に事欠き,見知らぬ人また寄るべなき人となり,病気になったり,不当にも投獄されたりさえしました。また,彼ら自身の霊的な「兄弟たち」だけでなく,キリストの「兄弟たち」のように神の霊によって生み出されてはいない他の人たちもやって来て彼らを援助しました。後者の人びとは,それら苦しめられ,困っているクリスチャンがいったいだれなのかを,またそれら迫害されている人たちが人気のない人であることをも知らずにそのように行動したのではありません。それとは逆に,彼らはそれらの人たちが神のメシアによる王国の「大使」であることを認め,また自分たちも神の王国の側に立っている具体的な証拠を示したいと思ったのです。

      49,50 (イ)霊的なイスラエル人ではない,それらの「羊」は,王国を宣べ伝えるわざにどのように答え応じますか。彼らはだれに加わりますか。(ロ)したがって,それらの人たちはだれの名によってバプテスマを受け,そうすることによって,だれに結びつきますか。

      49 そうすることによって,それら羊のような人たちは,統治する王としてのイエス・キリストに対する信仰を表明しました。今や樹立された神の王国の良いたよりを宣べ伝えることを喜びとし,またその王国を十分支持したいと願ったのです。また,王国の「大使」たちの,弟子を作るわざに答え応じて,自らもキリストの弟子として水のバプテスマを受け,その教えに従いました。(コリント第二 5:20。マタイ 24:14; 28:19,20)こうして,それも今日に至るまで,霊的なイスラエル人ではないそれら羊のような人たちが取ってきたその行動のうちに,ゼカリヤ書 2章11節の次のような預言が今日成就を見ています。「その日には,多くの国の人びとが確かにエホバに加えられる[あるいは,加わる]ようになり,彼らは実際にわたしの民となり,わたしはあなたのただ中に住む」― 新世界訳,アメリカ標準訳。

      50 「多くの国」つまりこれまでの報告によれば,208の国々や島々から来たそれら羊のような人びとはみ子と聖霊との名だけでなく,父つまりみ子の父であるエホバの名によってバプテスマを受けました。彼らは単にみ子だけを信じて,み父を無視したりはしません。救われるためには,単に「主イエスを信じ」るだけでなく,「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われる」ことをも認める必要があります。(使徒 16:31; 2:21。ローマ 10:13)それで,彼らは正しくエホバのみ名を呼び求め,その名によってバプテスマを受けるのです。彼らはエホバの民になるためエホバに「加わる」,つまり献身します。以前献身の対象にしていた偽りの神々を捨てます。(ホセア 9:10)そして,イエス・キリストを通して,取り消しがたい仕方でエホバ神に結びつくようになります。

      51,52 (イ)そのようにしてバプテスマを受ける点で,それらの「羊」はゼカリヤ書 8章20-23節の中でだれにたとえられていますか。(ロ)彼らにそのすそをつかまえられる「ユダヤ人」とはだれですか。

      51 キリストを通して献身する点で,それら羊のような人たちは,さらにゼカリヤの預言の中で次のようなことばで描かれています。「万軍のエホバは,こう仰せられる。『そのうちに,諸民族と多くの都市の住民がやって来る。一つの都市の住民は正しく別の都市の住民のところへ行き,「わたしたちはぜひ行って,エホバのみ顔を和らげ,万軍のエホバを尋ね求めよう。私も行こう」と言う。そして,多くの民族と強力な諸国民が実際に,エルサレムで万軍のエホバを尋ね求め,エホバのみ顔を和らげるために来よう』。万軍のエホバは,こう仰せられる。『その日には,諸国民のあらゆる言語のうちから十人の者が,ひとりのユダヤ人のすそをつかみ,まさしく,実際につかみ,「わたしたちもあなたがたと一緒に行きたい。神があなたがたとともにおられる,と聞いたからです」と言う』」― ゼカリヤ 8:20-23,新。

      52 この預言の成就において,「諸国民のあらゆる言語」からのそれらの人たちにすそをつかまえられる人とは霊的なユダヤ人です。すなわち,「すべての国民と部族と民と国語の中から」来る,数え切れないほどの「大群衆」に関する使徒ヨハネの幻のすぐ前の啓示 7章4-8節で述べられている,14万4,000人の霊的なイスラエル人です。

      53 (イ)多くの国々の民の言語を話すそれら「十人の者」は,特に何年以来,霊的なユダヤ人のすそをつかまえてきましたか。(ロ)その年までに,それら霊的なユダヤ人はどんな顕著な名称を持っていましたか。

      53 西暦1914年以降,王イエス・キリストの臨在もしくはパルーシアの期間中,わずかにそのような霊的なユダヤ人の残れる者が肉のからだで留まっているにすぎません。多くの国々の民の国語を話す「十人の者」が,あたかもひとりの人のすそをつかまえて,その霊的なユダヤ人とともに万軍のエホバの崇拝の中心地に自発的に上るかのように自らを低くし始めたのは,特に1935年以降,つまり神とその子羊の賛美者たちの「大群衆」の実体が明らかにされた後のことです。その1935年までには,それら霊的なユダヤ人は「エホバの証人」という聖書に基づく名称をすでに4年間用いていましたから,彼らがどんな種類のクリスチャンかを見まちがえる恐れはありませんでした。

      54 それら「羊」がエホバに加わり,エホバを崇拝しようと努力することは,イザヤ書 2章2-4節にどのように予告されていましたか。

      54 また,この終わりの日に,霊的なユダヤ人つまりイスラエル人の残れる者の一部ではない多くの人たちが献身して,神なるエホバに加わり,その霊的な神殿でエホバを崇拝しようと努めることは,預言者イザヤの次のような美しいことばの中で予告されていました。『すえの日にエホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ちもろもろの嶺よりもたかくあがり すべての国は流れのごとく これにつかん おおくの民ゆきて相語りいわん いざわれらエホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん 神われらにその道をおしえ給わん われらその路をあゆむべしと そは律法はシオンよりいでエホバの言はエルサレムよりいずべければなり エホバはもろもろの国のあいだをさばき おおくの民をせめたまわん かくてかれらはその剣をうちかえて鋤となし その槍をうちかえて鎌となし 国は国にむかいて剣をあげず 戦闘のことを再びまなばざるべし』― イザヤ 2:2-4。

      55 (イ)前述の預言に照らしてみると,人を神とキリストの前で「義」にかなった立場を持つ「羊」にするのは何であるということがわかりますか。(ロ)彼らはエホバの崇拝をどれほど高めますか。

      55 現代,つまりキリストの臨在もしくはパルーシアの時代に適用されるこうした聖書の預言や,羊とやぎに関するイエスのたとえ話などすべてを考慮すると,何がわかりますか。それはキリストの霊的な兄弟たちのひとりに対して,それとは知らずに偶然に善を行なったからといって人は神とそのメシアなる王のみ前で「義」にかなった立場を持つ「羊」になるわけではないということです。「羊」級の人たちは統治する王なる人の子をたとえ文字どおりの肉眼で見ないとはいえ,自分たちのしていることを承知しています。また,王の霊的な『兄弟たち』の,しかも『これら[彼の]兄弟たちのうち最も小さな者のひとり』の労をさえ正しく認めます。そうした特別の理由があるからこそ,物質や身体面だけでなく,「王国のこの良いたより」を宣べ伝えて,キリストの弟子を作ることになる,聖書を教えるわざに一緒に加わることによって,霊的な面でも彼らを助けるよう努めているのです。彼らはキリストの『兄弟たち』がエホバの崇拝を他の何ものにもまして高めていることを知っているので,それらの兄弟たちと一緒にエホバの霊的な神殿に上って崇拝を行ない,またそのための高度の要求にも答え応じています。

      56 (イ)対立を引き起こすさまざまの理由でキリストの『弟子たち』と戦うという点で,それらの「羊」はどんな立場を取っていますか。(ロ)彼らはだれの友になることを選びますか。また,自分たちの「長い衣」をどのように守りますか。

      56 羊のような人たちはキリストの霊的な『兄弟たち』を助けて彼らに善を行ないたいと願うゆえに,国家・人種・部族・政治・皮膚の色・文化・言語などのいかなる理由によってであれ,彼らと戦ったりはしません。かえって,キリストの『兄弟たち』とともに,大量の軍備を擁するこの世界の激烈で,壊滅的で,血なまぐさい闘争や論争に対して厳正中立の立場を取ります。また,「世との交友」を享受するよりもむしろ,「世のものではない」キリストの『兄弟たち』との友でありたいと願っています。(ヨハネ 17:14,16。ヤコブ 4:4)それで,神に対するクリスチャンとしての誠実さを保ち,自分たちもキリストの真の弟子であることを実証できるよう,敵対するこの世の人びとの手でキリストの兄弟たちとともに苦しむことを選んでいるのです。そして,キリストの血で洗われた自分たちの「長い衣」を清く保ちます。

      57 (イ)ゼカリヤ書 8章23節はユダヤ人と非ユダヤ人崇拝者たちとの割合をどんな数字で示していますか。(ロ)西暦1935年当時,世界の宗教人口は推定何人でしたか。それに比べて,エホバの証人は何人でしたか。

      57 ゼカリヤ書 8章23節の「諸国民のあらゆる言語のうちから十人の者」が一人の霊的なユダヤ人もしくはイスラエル人のすそをつかむという預言は,すべての国々の民の中の自らを低くするそうした人たちが,霊的なユダヤ人もしくはイスラエル人の残れる者に数で勝るようになることを示唆しています。その割合は十対一に似るものとなります。西暦1935年以来,実際そのとおりになってきました。キリスト教を奉ずるか否かを別にすると,その画期的な年における世界中の宗教諸団体の人口は18億4,918万5,359人と推定されています。(ニューヨーク・ワールド-テレグラム社編,「世界年鑑および諸事実の書」1936年版,419ページ)同年,野外の奉仕の務めに携わって活動を報告していたエホバの証人は,世界中で6万人足らずでした。以来,世界人口はどれほど増大しましたか。

      58 1935年以来,世界の宗教人口はどの程度増えましたか。また,一般の世界人口はどうですか。

      58 「1973年世界年鑑および諸事実の書」の343ページによれば,世界の宗教人口は26億6,112万100人であると発表されています。これは1935年から1973年までに世界の宗教人口は2倍にはならなかったことを意味しています。さて,一般の世界人口は1935年には,1927年当時のそれと変わりがなく,すなわち19億6,000万人と見積られました。「1973年世界年鑑および諸事実の書」の206ページによれば,推定世界人口は36億3,179万7,000人でした。したがって,1935年から1973年までに世界人口は倍増するまでには至りませんでした。

      59 1971から1972奉仕年度にはエホバの証人の人数はどの程度増えましたか。

      59 しかし,エホバの証人の人数の増加についてはどうですか。証人たちの奉仕年度は暦年の9月1日に始まります。それで,1971から1972奉仕年度の間に,野外の奉仕の務めに定期的に活発に携わってエホバの証人と交わった人びとの数は,報告によれば平均159万6,442人でした。もっとも,同奉仕年度中,王国布告者は165万8,990人の最高数に達しました。これは1935年当時のエホバの証人の人数と比べて何という増加を示すものでしょう。

      60 (イ)それら証人たちの中に霊的なユダヤ人が何人いるかはどのようにして確定されましたか。(ロ)こうした事がらすべてから,わたしたちは,人びとがエホバの霊的な神殿に上って崇拝を行なうことに関して,どんな事に気づきますか。(ハ)したがって,わたしたちはどんな重大な時代に生活しているに違いありませんか。

      60 とはいえ,それらエホバのクリスチャン証人の中のどれほどの人たちが霊的なユダヤ人でしょうか。わずか1万350人だけです。それらの人びとは1972年3月29日の主の夕食の例年の祝いのさい,象徴物であるパンとぶどう酒にあずかって,自分たちが霊的なイスラエル人であることを明らかにしました。全世界におけるその祝いの出席者数は合計366万2,407人でした。エホバのクリスチャン証人が活動している208の土地や島々では2万8,407の会衆が機能を営んでいました。こうした事がらすべてから,わたしたちは何に気づきますか。それはキリストの見えないパルーシア(臨在)の期間中,あらゆる国民・部族・民族そして言語のうちから羊のような人たちの「大群衆」が王の右に集められ,霊的なイスラエル人の少数の残れる者に加わってエホバの霊的な神殿に上り,エホバを神として崇拝しているということです。これは主イエスの「臨在」もしくはパルーシアが進行しており,わたしたちが「事物の体制の終結」の時に生活していることを証明する「しるし」の注目すべき特色をなしています。―マタイ 24:3。

      [脚注]

      a 1915年の「世界年鑑」はその494ページの「世界各国の統計」という見出しのもとに世界の異なった64か国を列挙し,その人口の総合計を16億9,174万1,383人としています。

      b 1935年7月17日号,「黄金時代」誌(英文)の660ページ,第2欄を見てください。

      c この点に気づいたことを示すものとして,1936年5月1日付の「ものみの塔」誌は,「ハルマゲドンの生存者たち」と題する記事の140ページ,47,48節で,「羊」級を「大いなる群衆」と同一のものとみなしました。

  • やぎのような人たちが王国を受け継げない理由
    神の千年王国は近づいた
    • 15章

      やぎのような人たちが王国を受け継げない理由

      1 羊とやぎのたとえ話の中で,王はその左に分けられた人たちに対してどのように話しかけますか。

      それにしても,「すべての国の民」の中でも,「やぎ」にたとえられ,王の左に分けられる人たちは,どんな性向の持ち主と考えられるのでしょうか。イエスはその羊とやぎのたとえ話の中で,さらにこう続けています。「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に行きなさい。わたしが飢えても,あなたがたは食べる物を与えず,渇いても,飲む物を与えてくれなかったからです。わたしがよそからの者として来ても,あなたがたはあたたかく迎えず,裸でいても,衣を与えてくれませんでした。病気であったり獄にいたりしても,世話をしてくれませんでした』」― マタイ 25:41-43。

      2 「のろい」のもとにあるということは,やぎのような人たちにとって何を意味していますか。

      2 「やぎ」のような人びとは,「羊」級の人たちの行なったことをしませんでした。王イエス・キリストはそのことを指摘しています。彼らがそうしなかったゆえに,王は彼らに,ご自分の所から去るよう命じます。王は千年にわたるその統治期間中,彼らを地上の臣民にしたいとは欲しておられません。彼らは「のろわれた」人たちです。彼らは羊のような人たちが王の天の父から得た祝福のもとにあるよりはむしろ,神からののろいのもとにあります。それは聖書の預言の中で予告されているように,凶事が彼らに臨むという神の裁きの宣告が下されることを意味します。彼らは神からののろいのもとにあり,しかもエホバの律法契約ののろいのもとにあった割礼を受けた生来のユダヤ人の場合のように,そののろいを彼らから除き去る備えは何もありません。(ガラテア 3:13)彼らはサタン悪魔とその使いたちである悪霊と全く同様にのろわれており,したがって悪魔とその使いたちの場合と同様の永遠の将来,つまり「悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火」に直面するのは当然です。

      3 (イ)キリスト教世界の諸教会は,「悪魔とその使いたちのために備えられた火」は「やぎ」にとって何を意味していると主張していますか。(ロ)ヨハネへの啓示それ自体,「火といおうで燃える湖」は何を意味していると説明していますか。

      3 それはサタンとその使いたちである悪霊のいる見えない領域(霊界)で永遠の責め苦を意識するという意味ですか。それこそキリスト教世界の諸教会が何世紀にもわたって教えてきた事がらです。教会はその教えを支持するものとして啓示 20章10節を引き合いに出します。聖書のその一節にはこう記されているからです。「そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方が[すでにいる]ところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。しかし,サタンとその使いたちである悪霊のいる霊界には硫黄は存在しません。これは明らかに,「野獣」や「偽預言者」と全く同様,比喩的な言い回しです。では,「火といおうとの湖」は何を比喩的に述べているのでしょうか。同章の14節はこう説明しています。「そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている」。啓示 21章8節は「火といおうで燃える湖」に関するこうした説明を繰り返して,「これは第二の死を表わしている」と述べています。

      4 このことは,悪魔に対してなされようとしている事がらに関してヘブライ 2章14節とどのように合致しますか。

      4 これはヘブライ 2章14節のわかりやすい正確なことばと合致します。その句は比喩を用いずにこう述べています。「そこで,『幼子たち』が血と肉を持つ者なので,彼[イエス]も同様にその同じものにあずかりました。それは,自分の死によって,死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめるためでした」。一度死にましたが,今や復活させられて栄光を与えられたイエスは,神のご予定の時に悪魔サタンを「無に」帰せしめます。すなわち,その邪悪で残虐な者を滅ぼします。悪魔の滅びをもたらします。もともと神の「女」の「胤」である,かつて砕かれたイエスは,へびの頭を砕くべく神により任命された方なのです。―創世 3:15,新。ローマ 16:20。

      5 (イ)それでは,悪魔とその使いたちのために蓄えられていて,やぎ級の人々がその中に入れられる「永遠の火」とは何ですか。(ロ)やぎのような人たちはキリストの兄弟たちを直接傷つけてはいないのに,どうして中立の側に立てないのですか。

      5 したがって,悪魔とその使いたちのために蓄えられているのは「第二の死」ですから,怠慢な「やぎ」級の人びとが王イエス・キリストのもとを離れ去って陥るのは,「永遠の火」で象徴されているその同じ永遠の滅びです。それらの人たちを有罪と定めるにさいして,王は彼らが王の霊的な『兄弟たち』を直接迫害したとか,直接傷つけたなどと述べてはいません。しかしたとえ彼らがキリストの『兄弟たち』に対して消極的な態度を取っていたにしても,悪魔とその使いたちの側についていたのです。完全な人間として地上でメシアによる神の王国の良いたよりを宣べ伝えたイエスはこう言われました。「わたしの側にいない者はわたしに敵しており,わたしとともに集めない者は散らすのです」。(マタイ 12:30)悪魔はイエスの側にはついていません。したがって,統治しておられる王イエス・キリストに対して助けになることを何も行なわないやぎのような人びとは,キリストに逆らっており,悪魔の側についているのです。キリストの臨在もしくはパルーシアの時代には中立の側はありません。

      6 「やぎ」級が王イエスに口答えすることは,どんな自己弁護を試みることを暗示していますか。

      6 やぎのような人たちは自分の立場を弁明しようとして,イエス・キリストがご自分の述べるとおりのそうした窮境に自ら陥っておられるのを,もし自分が見ていたなら,行ってイエスを助けていたものを,と言うかもしれません。王に対する彼らの次のような返答は,そうした自己弁護の試みがなされることを暗示しています。「その時,彼らもこう答えるでしょう。『主よ,いつわたしたちは,あなたが飢え,渇き,よそからの人であり,裸であり,病気であり,あるいは獄におられるのを見て,あなたに仕えませんでしたか』」― マタイ 25:44。

      7 やぎのような者たちはイエスを見,それがだれであるかを見分けたなら,有用な仕方で彼に仕えていただろうと断言できるものではありません。なぜですか。

      7 しかし,彼らは肉身のイエスを個人的に見て,それとわかったなら,有用な仕方でイエスに仕えただろうと断言できるものではありません。19世紀前,イエス・キリストは実際に目に見える肉のからだで地上におられ,メシアのために神があらかじめ定めておかれたわざに携わりました。ところが,イエスご自身の民,つまり生来のユダヤ人の大多数はイエスにも,またその十二使徒にも仕えませんでした。かえって,彼らはローマ総督ポンテオ・ピラトの前で怒号し,イエスを苦しみの杭にかけて殺させました。あるいは,そうした激しい苦しみを伴う仕方でイエスを殺させる直接の責任を負った人たちにくみしました。したがって,現代のやぎのような人びとは,イエスに関して助けるのを拒んださい,自分たちはイエスを直接見たわけではないのだから,何も知らなかったという理由で弁解できるものではありません。

      8 他の人が自らは居合わせずに,見える代表者をその場に臨ませている場合,どうすれば自分にとって有利,あるいは不利になりますか。

      8 他の人を助けるべきか否かを決めるには,必ずしもその個人に直接親しく会わねばならないというわけではありません。他の人に好意を示すべきか否かを決するには,その人を眼前で直接眺める必要があるわけではありません。その人の見える代表者として行動する人を取り扱う仕方によって,その人に関してどういう立場を取るかを決め,またそのことを示せます。その代表者は,自分が話を交している,もしくは交渉している相手の目の前に見える様で居合わせてはいない人に代わって行動する者であることを明らかにしています。その結果,人は自分の前にいる見える代表者を遣わした個人を助けるべきか否か,その個人に好意を示すべきか否か,その人の側につくべきか,それとも反対すべきかに関して決定を下すことができます。このようにして人は自分の態度を表わすので,その場に居合わせていない見えない個人にとっては,あたかも実際にそこに居合わせている場合と同様,それこそ重要なことなのです。

      9,10 イエスは正にその点をたとえ話の中で,王が自分の左にいるやぎのような者たちに答えるその仕方によって,どのように強調されましたか。

      9 王がその左にいる弁解がましい「やぎ」にどのように答えるかを,イエスが次のように述べて強調しておられるのは,その点なのです。

      10 「その時,彼はこう答えるでしょう。『あなたがたに真実に言いますが,これら最も小さな者のひとりにしなかったのは,それだけわたしに対してしなかったのです』」― マタイ 25:45。

      11 キリストの霊的な兄弟たちのうち重要さの点で最も劣る者に対してでさえ,彼らに接触する人たちは不敬な態度を取るべきではありません。なぜですか。

      11 したがって,キリストの霊的な『兄弟たち』のひとりがどんなに取るに足りないかは問題ではありません。その人は重要さの点では最も劣る者であれ,それでもなお王イエス・キリストの「兄弟」であり,霊によって生み出された神の子,それどころか神の相続者で,キリストとともになる共同相続者なのです。(ローマ 8:17)これこそその事態の容易ならぬ事がらなのです。キリストの霊的な『兄弟たち』はひとりとして,政治上の分野でも,キリスト教世界の僧職関係の分野でも,この世の偉大で,重要な,傑出した人物ではありません。というのは,キリスト自身この世のものではなかったのと全く同様,キリストの真の『兄弟たち』はこの世のものではないからです。(コリント第一 1:26-31。ヨハネ 15:19; 17:14,16)しかし,これはそれらやぎのような人びとが彼らを軽べつしてもよいという理由にはなりません。彼らが代表している方,またふれ告げている聖書の音信を考えれば,尊敬されて然るべきです。そうした重大な理由があっても彼らを尊敬しないとすれば,それら不敬な者たちは,前者の天の兄弟をも尊敬してはいないことを明らかにしています。

      12 (イ)王に「主よ」と言って呼びかける点で,「やぎ」はなぜ偽善的ですか。(ロ)第一次世界大戦の終結以来,王の『兄弟たち』のことを見まちがえたとして言い訳を述べるわけにはゆかなくなりました。なぜですか。

      12 そうです,やぎのような言い訳がましい人びとは,王イエス・キリストを「主」と呼ぶかもしれませんが,それは単なる偽善的な呼びかけにすぎません。もしほんとうにイエスを自分たちの「主」として正しく評価したのであれば,その霊的な『兄弟たち』に,それもそうした『兄弟たち』の最も謙そんな者に対してでさえ,何らかの援助を差し伸べるのを拒まなかったでしょう。それらの『兄弟たち』はスパイ,あるいは人びとを犠牲にして一杯食わせようとする人たちのようにお忍びで歩き回ったわけではありません。特に,1918年に第一次世界大戦が終わり,1919年に彼らが公の活動を再開して以来キリストの霊的な兄弟たちの残れる者は,次のようなその預言的な命令に従ってきました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)彼らは樹立された天の王国におけるキリストの見えない臨在もしくはパルーシアを公に知らせてきました。特に1926年以来,それも1931年には「エホバの証人」という名称をさえ採用するに至るほど,王イエス・キリストの天の父のみ名を知らせて来ました。ゆえに,彼らを見まちがえたとして言い訳を述べるわけにはゆかなくなりました。

      13 (イ)「やぎ」が援助を差し控えるのは,キリストの『兄弟たち』が個々の人間として本来どのような人かということのためですか。(ロ)「やぎ」が神の祝福どころか神ののろいを受けるのはどうしてでしょうか。

      13 したがって,彼らが文字どおり飢え渇き,裸でいたり,宿る所がなかったり,病気をしたり,投獄されたりしているとき,象徴的な「やぎ」が援助をしようとしないのは,それらキリストの霊的な『兄弟たち』が個人的にいって本来どんな人かという問題のためではありません。いいえ,そうではなくて,たとえ積極的に迫害しないにしても,援助を差し控えるのは,それら『兄弟たち』が代表しているもののためなのです。一つの問題が関係しており,「やぎ」はその問題に関してそれと知って決定を下しているのです! キリストの『兄弟たち』のこの残れる者の携わっている,宣べ伝えて弟子を作るわざによって「やぎ」が直面させられているその問題とは,見えない様で臨在している王イエス・キリストが今日,特に1935年以降やぎを羊から分けるのに用いておられる手だてのことです。その宇宙的な問題に関しては中間的あるいは中立的な級はありません。彼らの立場は主イエス・キリストに託されている,メシアによるエホバの王国を支持するか,それともそれに反対するかのどちらかです。その王国に対して「やぎ」は反対の立場を取ります。それゆえに彼らはキリストの天の父の祝福を得ることができません。彼らの受ける唯一のものは神の祝福の逆である,神ののろいです。

      「やぎ」が去って処罰をこうむる時

      14,15 (イ)「やぎ」が「悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火」に陥るのはいつですか。(ロ)それと同じ要素によってもたらされる滅びをパウロはテサロニケ第二 1章7-10節でどのように描いていますか。

      14 イエスは,のろわれた状態を意味する左にいるそれら象徴的な「やぎ」を待ち受けているのは『悪魔とその使いたちのために備えられた火』である旨宣言します。彼らはメシアによる神の王国に精神的支持を与えませんでした。また,そうした態度によって彼らは悪魔サタンを見えない支配者とするこの世のものであることを明らかにしてきました。(ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11)悪魔サタンの配下にあるこの邪悪な世は,間近に迫った「大患難」における滅びに定められています。「やぎ」は,『世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないようなその大患難』に遭遇するとき,滅びを意味するその「火」に陥ります。(マタイ 24:21。マルコ 13:19)彼らは神を,霊感を受けて記されたヘブライ語聖書中に幾千回となくそのみ名の出てくるエホバとして認めたり,認識したりするのを拒み,また主イエス・キリストに関する良いたよりに従う,つまりそれに一致して行動することを拒みます。「大患難」のさいに,見えない様で臨在しておられるキリストの力と権威が顕わされるとき,「やぎ」は使徒パウロがテサロニケ第二 1章7-10節で次のように予告した事がらを経験します。

      15 「主イエスがその強力な使いたちを伴い,燃える火のうちに天から表わし示される時,……彼は…神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。この同じ者たちは,主のみまえから,またその力の栄光から離れて永遠の滅びという司法上の処罰を受けます。それは彼が来て,その聖なる者たち」― つまりその霊的な『兄弟たち』―「との関係で栄光を受ける時……のことです」。

      16 たとえ話を結ぶにさいして,「やぎ」は去って何をこうむり,「羊」は何にあずかるとイエスは述べていますか。

      16 こうして,「羊」と「やぎ」のたとえ話の結びのことばの中でイエスの予告した事がらが,象徴的な「やぎ」の上に成就します。そのうえ,マタイの記述によれば,イエスの臨在もしくはパルーシアの「しるし」に関するイエスご自身の預言は,その結びのことばをもって終わっています。「かくて,これらの者は去りて永遠の刑罰にいり,義人はとこしえの命にいらん」― マタイ 25:46,欽定訳。

      17 「やぎ」は永遠の処罰を受けるとはいえ,それは目に見えない霊界で意識を保ちながら永遠の責め苦に遭うという意味ではありません。なぜですか。

      17 たとえ話の象徴的な「やぎ」に降りかかる事がらに関し,あわてて誤った結論を出さないようにしましょう。「これらの者は去りて」見えない霊界で意識を保って永遠の責め苦に遭うなどとイエスは言っていません。意識を保って何らかの形で永遠に責めさいなまれるのであれば,彼らは永遠の命を得ていなければなりません。命なくしては,責め苦も楽しみも意識できないからです。「とこしえの命に」あずかるのは象徴的な「羊」つまり「義人」だけであることをイエスははっきりと述べておられます。それで,不義の「やぎ」が去ってこうむる「永遠の処罰」は,義にかなった「羊」の受ける「とこしえの命」の正反対,すなわち永遠の死です。その死は永久に続くゆえに,それは「永遠の処罰」です。同様に,今日の地上の裁判所が,有罪を立証された罪人に死刑を宣告して処罰する場合,有罪宣告を受けた罪人に執行される死刑は一種の「永遠の処罰」です。それは処刑された罪人にとって永遠の責め苦を意味してはいません。ただ全能の神だけが,正しくない者たちを復活させることによって,その永遠の処罰を終結させることができます。地上の法廷ではそうすることはできません。―使徒 24:15。

      18 ダイアグロット訳と新世界訳は,「処罰」という意味のギリシャ語をどう訳出していますか。この翻訳はどうして適切ですか。

      18 この問題に関するそうした論理的で,聖書にかなった理解と合致するものとして,ベンジャミン・ウィルソンのエンファチック・ダイアグロット訳(1864年版)は,マタイ 25章46節を次のように訳出しています。「かくて,これらの者は永久<アイオニアン>の切断をこうむり,義人は永久<アイオニアン>の命に至らん」。新世界訳聖書(1971年版,英文)は同様にこう訳しています。「そして,これらの者は去って永遠の切断にはいり,義なる者たちは永遠の命にはいります」。この「切断」ということばについて,その新世界訳は脚注でこう述べています。「文字どおりには,切り取ること,したがって,切り詰める,抑制すること。ヨハネ第一 4:18を見よ」。この翻訳は何と適切でしょう。というのは,不義の「やぎ」は永遠の死をこうむることにより,いかなる領域における命からも永遠に切り断たれるからです。ですから,彼らの場合,意識を保ったまま永遠に責めさいなまれるということは不可能です。彼らは滅ぼしつくされます。それは悪魔とその使いたちである悪霊がついにはそうされるのと同く同様です。「大患難」の後,悪魔とその使いたちは「底知れぬ深み」に投げ込まれます。しかし,キリストの千年統治が終わった後,回復された人類を実際に試みるため,しばらくの間解き放たれ,その後永遠に滅ぼされます。

      19 啓示 7章14節に示されているように,義にかなった「羊」級はどのように報われますか。

      19 「大患難」が突然起こるまで,キリストの霊的な『兄弟たち』に対してずっと善を行なう,「義」にかなった羊のような人たちはどうかと言えば,その時,統治する王イエス・キリストは彼らを是認した旨を明らかにします。(マタイ 25:34)愛のある羊飼いが自分の「羊」に対するように,彼らが祝福された千年統治の期間に入れるよう,イエスは「大患難」の間じゅう彼らを保護します。啓示 7章14節で「大群衆」に関してかつて述べられたように,「大患難」を生き残るそれら羊のような人たちについても,『これは大患難から出て来る者たちである』と言われることでしょう。

      20 キリストの千年統治は,どんなできごとが生じた後直ちに始まりますか。生き残る「羊」にとっては,それは何の始まりを印づけるものとなりますか。

      20 「大患難」の直後,「悪魔とその使いたち」は鎖でなされるかのように縛られ,「底知れぬ深み」に投げ込まれて幽閉されます。次いで,羊飼いで王なるイエス・キリストの輝かしい千年統治が始まります。「義」にかなった羊のような生存者たちは,キリストの千年期王国の従順な地的臣民となります。彼らは今やキリストの王国の及ぼす回復をもたらす力を,身体的また精神的に経験し始めるとともに,それは完全な人間としての永遠の命に至る道を歩み始める時を印づけるものとなります。

      21 このたとえ話は特にだれを励ますものとして,「しるし」に関するイエスの預言の中に含められましたか。それは彼らにどんな見込みを差し伸べていますか。

      21 「義」にかなった羊級を特に励ますものとして,主イエス・キリストはご自分の臨在と事物の体制との「しるし」に関するその預言の中にこのたとえ話を含めてくださいました。このたとえ話は,キリストの霊的な『兄弟たち』に対して善を行なうそれら現代の人びとの前に,喜びを抱かせる何とすばらしい見込みを差し伸べているのでしょう。彼らが動ずることなく,そうした善行を続けてゆくなら,王の次のような喜ばしいことばを聞く道が開かれるでしょう。「さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を受け継ぎなさい」― マタイ 25:34。

  • 予告された「しるし」の成就は近づく
    神の千年王国は近づいた
    • 16章

      予告された「しるし」の成就は近づく

      1 わたしたちは,イエスの使徒たちがマタイ 24章3節にあるような質問をしたことを感謝できます。なぜですか。

      わたしたちは今日,イエス・キリストの使徒たちがイエスに次のように質問したことを感謝できます。「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:3)こうした質問を受けたイエスは長い詳細な預言を述べましたが,波乱に富むこの二十世紀におけるその成就の進展を見るにつけ,わたしたちはその正確さに驚嘆させられます。その預言は,苦悩する人類に対する神の目的達成の過程のどの時点にわたしたちが位置しているかを確定するのに助けとなります。わたしたちはキリストの予告した「しるし」を確かに見ているのですから,キリストの霊者としての見えない「臨在」の期間および「事物の体制の終結」の時に実際に生活しているという信仰の面でわたしたちは強められています。

      2 その「しるし」の特色すべてはどんな箇所で説明されていますか。今度は,その記述のどの部分を考慮しますか。

      2 その「しるし」はあらゆる詳細な点で,注意深い観察者ならだれも考え違いをする余地のないほど全く明確に見える段階に近づいています。マタイの記述の24章と25章,マルコの記述の13章そしてルカの記述の21章に述べられているように,その「しるし」には数多くの特色があるので,そのすべてが十分明白に現われるまでには人類の一世代のほとんど一生涯の期間が経過しました。これまでの章では,マタイの記述の25章に説明されているしるしのそうした特色を考慮しました。今度は,それに対応するマルコとルカの著わした記述とともに,マタイの記述の24章に著わされているそうした特色を考慮しましょう。

      3,4 「そうしたことはいつあるのでしょうか」とイエスに尋ねた弟子たちは,どんな事がらを指していたのでしょうか。

      3 「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか」と言って質問を開始したキリストの使徒たちは,西暦33年ニサン11日,火曜日のその同じ日にイエスが既に預言的に述べた事がらを指して言っていました。エルサレムの神殿で宗教上の偽善的な書士やパリサイ人を公然と非難したイエスは,次いでこう言いました。「わたしはここで,預言者と賢い者と公に諭す者たちをあなたがたのところに遣わします。あなたがたはそのある者を殺して杭につけ,ある者を会堂でむち打ち,都市から都市へと迫害するでしょう。こうして,義なるアベルの血から,あなたがたが聖所と祭壇の間で殺害した,バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで,地上で流された義の血すべてがあなたがたに臨むのです。あなたがたに真実に言いますが,これらのことすべてはこの世代に臨むでしょう。エルサレム,エルサレム,預言者たちを殺し,自分に遣わされた人びとに石を投げつける者よ ― わたしは幾たびあなたの子どもたちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるがごとくに。しかし,あなたがたはそれを望みませんでした。見よ,あなたがたの家はあなたがたのもとに見捨てられています。あなたがたに言いますが,『エホバの名によって来るのは祝福された者!』と言うときまで,あなたがたは今後決してわたしを見ないでしょう」。

      4 イエスは神殿つまり崇拝の家を去る前に,さらに厳粛な預言のことばを付け加えました。それについてはこう記されています。「さて,イエスがそこを立って神殿から去って行かれるところであったが,弟子たちが神殿の建物を示そうとして近づいて来た。イエスはそれにこたえてこう言われた。『あなたがたはこれらのすべてをながめないのですか。あなたがたに真実に言いますが,石がこのまま石の上に残されて崩されないでいることは決してありません』」― マタイ 23:34から24:2。

      5 エルサレムへの勝利の入城にさいし,イエスはその都に関して何と言われましたか。

      5 その二日ばかり前のニサン9日,日曜日のこと,イエスはエルサレムへの勝利の入場にさいして立ち止まり,そのきたるべき滅びのゆえにエルサレムのために泣きました。そして,西暦70年におけるその都の恐るべき滅びを預言して,こう言われました。「あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに塁を築き,取り囲んで四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり,彼らは,あなたとあなたの中にいるあなたの子らを地面にたたきつけ,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです」― ルカ 19:41-44。

      6 割礼を受けたそれら生来のユダヤ人の弟子たちにとって,それはどんな種類の預言のことばでしたか。彼らにとってはどんな精神的問題が生じましたか。

      6 キリストの使徒たちのように割礼を受けた生来のユダヤ人にとって,それは憂慮すべき預言のことばでした。彼らが一部を成していた世代は,ユダヤ人の歴史の流れの中で,またそれ以前に流された無実の人びとの血の報復を受けようとしていました。厳密にいってそれらの事がらはいつ成就するのでしょうか。使徒たちはそれを知りたかったのです。彼らはイエスがメシアもしくは油そそがれた者つまりキリストであると信じ,また告白しました。しかし,予告されたエルサレムの滅びは,イエスがメシアによる王国をその滅びに定められた都に建てるのではないことを暗示しました。イエスはご自分が「今後」人びとには見えなくなること,また「エホバの名によって」到来することについて語りました。では,いつ再び臨在してメシアの役割を果たされるのでしょうか。エルサレムとその神殿のきたるべき滅びは,必ずやユダヤ教の事物の体制の終わりをもたらすに違いありません。聖なる都や聖なる神殿がなくなるのですから,レビ人アロンの家系のユダヤ人の祭司は,「地面に」たたきつけられるエルサレムの「子ら」の中に含まれるか,あるいは少なくともその神殿で奉仕をする立場から追われることでしょう。してみれば,使徒たちがエルサレムとその神殿の滅亡に関してだけでなく,さらに「あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」と尋ねたのは少しも不思議なことではありません。

      7 「事物の体制の終結」について尋ねた使徒たちの質問はどうして当を得たものといえますか

      7 使徒たちの質問は当を得たものでした。というのは,イエスはユダヤ教の事物の体制の「終結」の時期に到来したからです。他の聖句もその事情を同様の意味で指摘しています。ヘブライ 9章26-28節は,イエスがご自身を繰り返し犠牲にする必要がなかったことを示してこう述べています。「そうでなければ,彼は世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けねばならないでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。……キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました」。さらに,コリント第一 10章11節はこう述べています。「そこで,これらの事は例として彼らに降りかかったのであり,それが書かれたのは,事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたちに対する警告のためです」。この問題についてイエスが預言を述べた年から数えると,ユダヤ教の事物の体制はなお37年間,つまり40歳の寿命の一世代以下の期間もつことになっていました。エルサレムはローマ軍によってエルルの7日(つまりグレゴリウス暦の西暦70年8月30日)に攻略され,滅ぼされました。キリストの使徒たちのうち何人が殉教の死を免れて,その恐ろしいできごとの生じた時まで生存していたかについては聖書の記録は何も述べていません。

      試みと災難の時

      8 使徒たちに答えるにさいして,イエスはまず最初にどんな事がらを述べましたか。

      8 使徒たちの問いに答えたイエスは,まず最初に,その世代のうちに生ずるエルサレムの滅びに至るまで徐々に進展してゆくできごとを述べました。「そこでイエスは答えて言われた,『だれにも惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,「わたしがキリストだ」と言って多くの者を惑わすからです。あなたがたは戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです』」― マタイ 24:4-6。

      9 自らメシアと唱えるユダヤ人が現われたところで,それは何が進行していることを示すものではありませんか。それはどんな望ましいできごとをもたらすものではありませんか。

      9 自分は肉身を備えて戻ったイエスであると唱えるのではなく,約束のメシアつまりキリストであると唱えるユダヤ人が現われるでしょう。しかし,使徒たちも,また彼らの仲間の弟子たちもそうした自称メシアもしくは自称キリストに惑わされてはなりませんでした。そのような者たちの働きはイエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアを示すものでも,ユダヤ国民の救出をもたらすものでもないからです。西暦66年に起きたローマ人に対するユダヤ人の反乱は,そうしたメシアによる努力の現われとなるはずでしたが,かえってそれはエルサレムの滅びとユダヤ国民の離散を招きました。メシアに関する,それら惑わされた人びとの希望は無惨にもついえてしまいました。

      10 戦争についてはどうですか。弟子たちはどうしてそうした事がらでおびえてはなりませんでしたか。

      10 その37年の期間中,弟子たちのすぐ近くで起きたり,あるいは単にニュースとして伝えられたりした戦争が幾つかありました。しかし,それらの戦争はユダヤ国民の境遇に影響を及ぼしはしたものの,ユダヤ教の事物の体制の終わりを直接もたらすものではありませんでした。それで,弟子たちは恐怖に陥って早まった行動を起こしてはなりませんでした。「終わりはまだ」だったのです。

      11 イエスの預言したどんな事がらが,「苦しみの激痛のはじまり」となりますか。

      11 イエスはちょっと前に触れた戦争や戦争のうわさについて次のように詳しく述べました。「というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの激痛のはじまりです」― マタイ 24:7,8。また,マルコ 13:8。

      12,13 (イ)「苦しみの激痛のはじまり」となるそれらの事がらは,特定の人びとに降りかかることになっていましたか。(ロ)メシアについて知らせ,その追随者として歩むゆえに,弟子たちにはどんな事がらが降りかかろうとしていましたか。

      12 そうした悲惨な災いは「苦しみの激痛のはじまり」に過ぎなかったので,終わりは「まだ」来ませんでした。それら悲惨な災いは単なる徴候であって,最終的な死の苦悶ではありませんでした。それは一般の人びとに影響を及ぼすものでしたが,特にイエスの弟子たちに降りかかる事がらもありました。なぜなら,彼らは真のメシアつまりキリストについて知らせ,その足跡に従ったからです。したがってイエスは次のように続けて言いました。

      13 「その時,人びとはあなたがたを患難に渡し,あなたがたを殺すでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう。またその時,多くの者がつまずき,互いに裏切り,互いに憎み合うでしょう。そして多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう。しかし終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です。そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:9-14。マルコ 13:9-13と比べてください。

      14 (イ)それらの事がらが当時の人びとの世代のうちに起きたことを何が確証していますか。(ロ)何が成し遂げられるまでは,エルサレムとユダヤ教の体制に終わりは臨み得ませんでしたか。

      14 聖書の「使徒たちの活動」と題する書は,イエス・キリストのそれら預言的なことばが当時のその世代内においてさえ成就したことを証明しています。というのは,その書は西暦61年ごろ医師ルカによって著わされたものだからです。聖書中の他の書,つまり西暦70年におけるエルサレム滅亡以前に使徒や他の弟子たちが霊感を受けて記した手紙類も,使徒たちの活動と題する前述の書の記述を確証しており,また迫害やキリスト教に対する国際的な憎しみを受けて苦しんだクリスチャンに関する記録を増し加えるものとなっています。神の王国の良いたよりは中東を越えて小アジア,アジア大陸,アフリカ,ヨーロッパそして地中海諸島などの各地に浸透していました。王国の音信を宣べ伝えるわざは,人の住む全地で遂行されていました。その結果,あらゆる国の民に対する証しが行なわれました。とはいえ,世界中の人びとをキリスト教に改宗させたわけではありません。それを成し遂げることは決して意図されてはいなかったからです。しかし,その結果として,あらゆる国々の民に対して証しが行なわれました。(コロサイ 1:6,23)率直に語るクリスチャン証人によってその賞賛すべき偉業が成し遂げられるまでは,エルサレムとユダヤ教の事物の体制には悲惨な終わりは臨み得ませんでした。

      エルサレムの二度目の滅亡の近いことが示される

      15 エルサレムとユダヤ教の体制の滅亡が非常に近いことを示すのは何であるとイエスは言われましたか。また,その後には何をすべきであると言われましたか。

      15 「終わり」に先だって生ずることになっていた事がらをかなり詳しく示したイエスは,今度はエルサレムと,その都とそこにある神殿を中心とした事物の体制との終わりが非常に近いことを示す特別の事がらを詳細に述べて,こう言われました。「それゆえ,荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に立っているのを見かけるなら,(読者は識別力を働かせなさい,)その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,野にいる人は,外衣を取ろうとして家に帰ってはなりません。その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! あなたがたの逃げるのが冬期または安息日にならないように祈っていなさい」。

      16 イエスが忠告したように,クリスチャンのユダヤ人と改宗者たちはどうしてそんなに急いでエルサレムやユダヤを去るべきでしたか。

      16 ローマ領ユダヤ州にいたクリスチャンのユダヤ人と改宗者たちは不必要な重荷を携えずに,適切な時機を見て,まっすぐな道を通って同州外の山地に全速力でぜひとも避難しなければなりませんでした。なぜなら,イエスはこう続けて言われたからです。「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があるからです。事実,その日が短くされないとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」― マタイ 24:15-22。

      17 (イ)使徒たちやその仲間のクリスチャンはなぜイエスのこの助言を無視してはなりませんでしたか。(ロ)それで,今やどんな重大な質問が持ち上がりますか。

      17 使徒たちや他の弟子たちはイエスのこの助言を忘れたり,無視したりしてはなりませんでした。嫌悪すべきものが聖なる所に立つのを見た後,ユダヤから逃れるのを遅らせるなら,命を失う恐れがありました。そのような人は患難の日が短くされるゆえにかろうじて救われる「肉なるもの」として言及されている比較的少数の人たちの中に入れなかったでしょう。それにしても,その「嫌悪すべきもの」とは何ですか。それが聖なる所に立っているのが見えたなら,それは壊滅的な「大患難」が正に迫っていて,今や時間があまり残されていないことを確証するものなのです。

      18,19 (イ)荒廃を引き起こすこの嫌悪すべきものは,既にだれによって,またどこで予告されていましたか。(ロ)イエスの預言に関するルカの記述によれば,イエスはその嫌悪すべきものが何であるかをどのように示されましたか。

      18 イエスはそれが何かをあいまいにはせず,それは「預言者ダニエルを通して語られた」嫌悪すべきものであると言われました。(マタイ 24:15)エルサレムの二度目の滅亡に関連して預言者ダニエルによって予告された「嫌悪すべきもの」とは,ダニエル書 9章26,27節(特に,ヘブライ語聖書本文のギリシャ語七十人訳のその箇所)に説明されているものです。a 一般の歴史は,その「嫌悪すべきもの」が「君」の率いる異教のローマ軍であることを明らかにしています。これがその預言の正しい解釈であることは,マタイの記述の中のイエスの預言のその箇所を,ルカの記述の中のイエスの預言のそれに対応する箇所と比較すると,確証されます。ルカ 21章20-24節はこう述べています。

      19 「また,エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。都の中にいる者はそこを出なさい。町外れにいる者は都の中に入ってはなりません。なぜなら,これは処罰の日[あるいは復讐の日]であり,それによって,書かれていることの[ダニエル書 9章26,27節を含め]すべてが成就するのです。その日,妊娠している女と赤子に乳を飲ませている者にとっては災いになります! その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。そして人びとは剣の刃に倒れ,捕われとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」。―また,マルコ 13:14-20と比較してください。

      20,21 (イ)ユダヤにいたクリスチャンのユダヤ人が,嫌悪すべきものが「聖なる所」に立つのを見たのはいつですか。(ロ)その嫌悪すべきものはこうしてどれほどの期間そこに立ちましたか。

      20 エルサレムやユダヤにいたクリスチャンのユダヤ人が,「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に」,すなわちエルサレムとその周辺に立つのを見始めたのは西暦66年のことでした。その年のこと,キリスト教に帰依しなかったユダヤ人が,ローマ帝国による支配をそれ以上許すまいとしてメシアにかかわる夢を抱いて反乱を起こしました。それに対する反応としてローマの将軍ケスチウス・ガルスがシリアから下って来て,「野営を張った軍勢」によりエルサレムを包囲しました。おりしもユダヤ人はチスリ15日から21日まで仮庵(または幕屋)の祭りを祝っていました。同年のその時期は(グレゴリウス暦の)10月22-28日までの七日間に相当しました。ケスチウス・ガルス将軍は祭りを祝うその都から「五十ファーロング」(約10㌔)以内の地点に軍勢を進めました。十分に武装したユダヤ人は勢いよく攻撃して,ローマ軍に幾らかの損害を与えました。

      21 次いで今度は「三日間待った」後,ガルス将軍はユダヤ人をいやおうなくエルサレムに引き上げさせ,軍隊を都の近くに進めました。しかし,彼が初めて軍隊をエルサレムの都の中に入れたのは,チスリの月も最後の日(11月5日ごろ)のことでした。今や彼は正しく,ユダヤ人にとって「聖なる」所とみなされていた場所に入りました。ローマ軍は五日間神殿の壁に対して攻撃を行ない,六日目にはその壁の基部を崩しました。それは確かに,ユダヤ人が最も聖なるものとみなしていた事物に対する攻撃でした。今やローマ軍はしようと思えば容易にその都全域を攻略できました。ところがその時,突然,何らもっともな理由がないにもかかわらず,ガルス将軍は都から引き上げ,撤退しました。得意になったユダヤ人は激しく追跡し,撤退するローマ軍を悩まして相当の損害をこうむらせたため,ローマ軍は敗走させられました。b それは世界制覇を目ざす誇り高いローマ人に痛烈な打撃を与えるものとなりました。エルサレムは解放されたのです! そこでユダヤ人はそれを記念して,片面に「聖なるエルサレム」と刻んだ新しいシケル銀貨を少し鋳造しました。

      22 そのようにしてエルサレムが独立を回復したからといって,キリスト教に帰依したユダヤ人は欺かれませんでした。どうしてですか。彼らはどのようにして身を守りましたか。

      22 ユダヤ人のその地がこうして独立を回復したことにより,エルサレムおよびユダヤ州にいたキリスト教に帰依したユダヤ人は欺かれましたか。イエスの預言と助言を心に銘記していた人たちは欺かれませんでした。彼らは聖都エルサレムが野営を張った軍隊で包囲されるのを実際に見たのです。「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が,兵士により神々として偶像視された軍旗を伴って,「立ってはならない」「聖なる所に」立っているのを見ました。(マルコ 13:14)そのことから,『その[つまりエルサレムの]荒廃が近づいたことを知ら』ねばなりませんでした。(ルカ 21:20)今やエルサレムから出て,あるいはその都に入らずにユダヤ州全域から逃れて,同州外の山地に,たとえばヨルダン川を渡って東方のペレヤ州に行くべき潮時でした。キリスト教に帰依したそれらユダヤ人は,滅びに定められた地域の外のそうした場所に行けば,滅びに定められた不信仰なユダヤ人とともに朽ち果てるかわりに,真のメシアによる神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざを続行できました。

      23,24 (イ)ユダヤの独立はなぜ長続きしませんでしたか。(ロ)エルサレムの攻囲はどうして重大な恐ろしい事態をもたらすものとなりましたか。

      23 ユダヤにいたユダヤ人の得た独立は,短期間のそれとなりました。ローマのヴェスパシアヌス将軍はガルス将軍の跡を継ぎ,翌年の西暦67年の初頭にはパレスチナに着きました。彼はその地方の残りの部分を支配下に収めるべく努力を払ったので,その間にユダヤ人は自分たちの防備を強化しました。西暦68年に皇帝ネロが亡くなった後,ヴェスパシアヌスは帝位に推されてパレスチナを去り,西暦70年の半ばごろローマに着きました。彼は息子ティツス将軍を後に残し,シリアに駐在したローマの軍勢を同将軍に託しました。やがて西暦70年のユダヤ人の過ぎ越しが近づき,クリスチャンではないユダヤ人は祭りを祝うためエルサレムの都に群れをなしてやって来ました。ティツス将軍が四軍団を率いて来て,祭りを祝うユダヤ人を都の中に閉じ込めたのはその時でした。反抗的なユダヤ人を飢え死にさせるため,彼はイエスが予告したことを行ない,ユダヤ人の逃亡を防ぐため,都の周囲に全長8㌔に及ぶ堅固な防御さく,つまり『先のとがった杭の塁』を築きました。

      24 エルサレムの中に閉じ込められたユダヤ人の窮状はすさまじいものになりました。第一世紀のユダヤ人の史家フラビウス・ヨセフスはその著書の中で,ローマ軍の攻囲のもたらした恐るべき結果をなまなましく描写しています。ユダヤ人の死者の数はいよいよ増大してゆきました。もしその攻囲があまり長く続いたなら,包囲された都の中の「肉なるものはだれも」救われないように思えました。それはイエスがエルサレムとユダヤに臨むその「大患難」に関して予告したとおりでした。「事実,エホバがその日を短くされなかったとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに,彼はその日を短くされたのです」― マルコ 13:19,20。

      25 (イ)エルサレムに臨んだその患難の日は,どのようにして短くされましたか。(ロ)生き残ったユダヤ人は,イエスがその預言の中で述べた「選ばれた者たち」でしたか。

      25 神意によるものでしたが,その攻囲の期間は比較的短く,ニサン14日からエルル7日にわたる142日間,つまり陰暦のあしかけ6か月間だけでした。それはつまり,グレゴリウス暦によれば西暦70年8月30日まで続きました。ヨセフスの計算によれば,幾ばくかのユダヤ人の肉なる者,つまり9万7,000人ほどのユダヤ人が生き残り得ましたが,彼はその攻囲下で110万人が滅びたことを伝えています。それら9万7,000人の生存者は,エホバがそのためにその日を短くした「選ばれた者たち」でしたか。囚われや奴隷の身として選ばれた者とでも言うのでないかぎりそうではありませんでした。というのは,イエスの言われたとおりだったからです。「その土地に非常な窮乏が,そしてこの民に憤りが臨むからです。そして人びとは剣の刃に倒れ,捕われとなってあらゆる国民の中へ引かれてゆくでしょう。そして,エルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」― ルカ 21:23,24。

      26 (イ)ではだれが,その預言の中でイエスの述べた「選ばれた者たち」でしたか。(ロ)エルサレムの患難の日数は彼らのゆえにどのようにして少なくされましたか。

      26 いいえ,エルサレムの「大患難」の日数がそのために少なくされた「選ばれた者たち」とは,その「処罰の日」にエホバの大いなる「憤り」をこうむったそれら9万7,000人ものみじめなユダヤ人の囚われ人ではありません。エホバの「選ばれた者たち」とは,首都エルサレムを含め,ユダヤ全域から即刻逃れるよう,エホバから合図を与えられた,キリスト教に帰依したユダヤ人のことでした。「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる所に立」つのを見たなら,すばやく逃れるようにとのイエスの助言を信じて行動することにより,彼らすべてが危険地帯の外に無事に出ることをエホバは望んでおられました。エホバはご自分のみ子イエス・キリストのそれら「選ばれた」弟子たちすべてを,天与の処罰を受けることになっていた場所から出した後,反抗的なユダヤ人に対する復讐を短期間で執行させることができました。こう記されているとおりです。『エホバは地上で決済をして結末をつけ,しかもそれを短くされるのである』。(ローマ 9:28。イザヤ 10:23)それで,エルサレムに臨んだ大患難の日が「選ばれた者たちのために」短くされたのはもっともなことでした。

      27 (イ)イエスはエルサレムの滅亡に関する描写をもってその預言をとどめましたか。それとも,それよりも先のことを見通しましたか。(ロ)エルサレムが異邦諸国民によって踏みにじられることは,どうして1914年に終わったと言えますか。

      27 一般の歴史の記録は,イエスの預言の正確さを示しています。しかし,イエスの預言は,地上のエルサレムの滅亡に関するそうした記述をもって終わっているのではありません。というのは,イエスの臨在と「事物の体制の終結」との「しるし」に関しては論ずべきことがさらに多くあるからです。彼は西暦70年におけるエルサレムの滅亡よりさらに先のことを見通しておられました。というのは,ルカ 21章24節で,「そしてエルサレムは,諸国民の定められた時が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」と言っておられるからです。イエスは,普通異邦人の時と呼ばれる,その諸国民の定められた時が満ちる「終わり」の時に注目しておられたのです。つまり,イエスは西暦1914年を待ち望んでおられました。なぜなら,その年に,ダビデ王の永久相続者に託されるメシアの王国を保持する,エルサレムの権利が諸国民によって踏みにじられることが終わったからです。1914年当時,中東の地に再建されたエルサレムの都はなお回教徒のトルコ人の支配下にあった以上,どうしてそう言えるのですか。なぜなら,その年には異邦人の時の終わりにさいしてエホバ神は,トルコ人の支配する地上のエルサレムではなく,天のエルサレムでダビデ王の永久相続者を即位させられたからです。―ヘブライ 12:22。

      対型的な不忠実なエルサレムに臨む成就

      28 エルサレムの滅亡をそれほど恐るべきものとして語ったイエスは,どんな意味でエルサレムに言及しておられたに違いありませんか。

      28 イエスがその預言の中でエルサレムの都を単に文字どおりの意味だけでなく,より巨大な他の何ものかを予表するものとして模型的な意味で用いておられたことは明らかです。さもなければ,西暦70年におけるその滅亡に関して,「その時,世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があ(ります)」とは言わなかったでしょう。(マタイ 24:21。マルコ 13:19)事情に通じている人ならだれでも,西暦70年のエルサレムの滅亡は世界の始まり以来最悪の大惨事ではなかったことを知っています。というのは,ノアの日の世界的な大洪水についてはどうですか。それに,西暦70年以後,ローマ人によるエルサレム滅亡に匹敵する事件が起きなかったとしても,この二十世紀の第一次および第二次世界大戦についてはどうですか。イエスの言い回しは誇張ではありませんでした。かえって彼は明らかに,エルサレムのことを預言的模型として,つまり同様の滅びをもって全世界を包含するある事がらを警告する実例として考えておられたのです。彼は対型的な不忠実なエルサレム,すなわち現代の対型物を考えておられました。では,それは何ですか。それは対立する幾百もの宗派を擁するキリスト教世界です。―コリント第一 10:11。

      29 (イ)イエスの預言はキリスト教世界の滅亡に加えて,ほかにどんな事がらにも当てはまりますか。(ロ)したがって,イエスが預言を述べてからエルサレムの滅亡までの時期に対応するのはどんな期間ですか。

      29 イエスの預言のこうした適用の仕方は,キリスト教世界の政治・商業・軍事および司法上の情夫すべてとともに同世界に迫っている滅びに関してだけでなく,直接同世界の絶滅をもたらすに至る世界のできごとに関しても当てはまります。キリスト教世界は今やこの二十世紀における経験の点で,イエスがオリーブ山上で預言を述べて以来,西暦70年にローマによりエルサレムとその神殿が滅ぼされるまでの期間に似た一時期に存在しています。キリスト教世界に定められた,この特定の対応する期間は,1914年における「諸国民の定められた時」の終わりに始まりました。それ以来の世界のできごとを考えてみてください。

      30 1914年以来,キリスト教世界は,イエスの述べた「苦しみの劇痛のはじまり」となるどんな事がらを経験してきましたか。

      30 「苦しみの劇痛のはじまり」となるのはどんな事がらであるとイエスは言われましたか。それは戦争,食糧不足,地震,疫病などではありませんでしたか。(マタイ 24:7,8。マルコ 13:8。ルカ 21:10,11)一世紀のキリストの使徒たちの時代のどんな「戦争」が,西暦1945年における第二次世界大戦終結以後の他の戦争すべてをさておき,第一次および第二次世界大戦に匹敵し得るでしょうか。西暦33年から同70年までに生じた飢饉や地震や疫病などは,1914年における異邦人の時の終わり以来キリスト教世界および世界の残りの部分すべてが遭遇してきた食糧不足や地震や疫病をしのぐものでしたか。

      31 (イ)エルサレムが滅びる前に弟子たちの身の上に何が起こるとイエスは言われましたか。(ロ)今日,だれの受けている苦しみは,その時期の弟子たちの受けた苦しみに対応していますか。

      31 イエスはまた使徒たちに,弟子たちがひどく迫害され,艱難に遭わされ,殺されることを述べました。そうです,弟子たちはあらゆる国々の民の憎悪の的となります。また,偽預言者や偽りのメシアが現われ,神に対する不法行為が増大し,その結果,宗教家と称する者たちの大多数の愛が冷えます。また,そのような期間中,クリスチャンにふさわしい忍耐が必要となります。(マタイ 24:9-13。マルコ 13:9-13。ルカ 21:12-19)そうした種々のできごとは一世紀の使徒時代を特色づけました。では,1914年に異邦人の時が終わって以来の世界のできごとについてはどうですか。世界の人びとはキリスト教にすっかり改宗させられたので,キリストの真の弟子たちに対する迫害はやみましたか。エホバのクリスチャン証人以上に,「わたしの[つまりキリストの]名のゆえにあらゆる国民の憎しみ」の的となっている宗教上の少数者がいますか。1914年の昔から現代に至るまでそれらエホバのクリスチャン証人に加えられてきた迫害以上におびただしいものがありますか。記録があるので,だれでも調べられます。

      32 ほかのどんな特徴が,西暦70年に至るまでのその使徒時代を際立たせることになっていましたか。その特徴は当時だれによって成就されましたか。

      32 西暦70年前の一世紀のその使徒時代に関してはもう一つの際立った特徴がありました。イエスはエルサレムにいたユダヤ教徒の反対者たちにこう言いました。『神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられます』。(マタイ 21:43)偽のメシアを擁していながらも,ユダヤ人は神の王国を異邦人にふれ告げることによってその実を結んでいたわけではありませんでした。エルサレムの滅亡以前に彼らはバプテストのヨハネの音信を取り上げて,天の王国が近づいたことをふれ告げたりもしませんでした。それどころか,エルサレムの神殿に最後に訪れたイエスは,宗教上の書士やパリサイ人に言いました。「あなたがたは人の前で天の王国を閉ざ(していま)す。あなたがた自身がはいらず,またはいる途中の者がはいることをも許さないのです」。(マタイ 23:13)では,「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」というイエスの力強いことばが西暦70年前に成就したことは,だれの名誉となりましたか。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)それは,「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」となった人たち,つまりイエスの弟子たちの名誉となりました。

      33 それに対応するものとして,1914年以来,神の王国の良いたよりをだれが国際的に宣べ伝えてきましたか。宣べ伝えられているこの王国は,キリスト教世界によって告げ知らされたそれとはどのように異なっていますか。

      33 同様に,それに対応する,西暦1914年における異邦人の時の終わり以後のこの期間に,神の王国の良いたよりに関するイエスの預言の現代的成就をもたらしているのは,「[キリストの]名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」として際立っている人たちです。彼らこそ,憎悪や迫害をものともせずに,神のメシアの王国の良いたよりをあらゆる国々の民に対する証しとして全地に十分宣べ伝えてきました。これはキリスト教世界が四世紀のコンスタンチヌス皇帝の時代に存在し始めて以来説いてきたような神の王国,つまり同世界の何億人もの教会員の内にある,その心の中の王国,すなわち世界の人びとがキリスト教世界の諸教会の信仰に改宗させられることによって最後に実現する王国の音信ではありません。それとは全く違って,1914年における異邦人の時の終わり以来エホバのクリスチャン証人が宣べ伝えてきた王国とは,その年に天で誕生した現実の政府です。それはダビデ王の永久相続者に託された樹立された神の王国です。しかもそれは,この地の政治上の政府すべてを終わらせて,永遠の命と平和と幸福とをもって地の住民を祝福します。

      34 (イ)国際的になされている王国を宣べ伝えるこのわざは,どんな事がらの「しるし」の一部となることになっていましたか。(ロ)どんな大惨事に先立って,王国を宣べ伝えるそのわざが成し遂げられることになっていましたか。

      34 そのわざが驚くべき仕方で成し遂げられていること,つまりエホバのクリスチャン証人が人の住む全地で国際的な証しのためにこうした良いたよりを宣べ伝えているのは,重大な意義のある事がらです。それは統治する王イエス・キリストの霊における「臨在」もしくはパルーシアを特徴づけることになっていた「しるし」の明るい輝かしい特色をなしています。天においてイエスが神の右で即位したその年以来,エホバのクリスチャン証人は,世界大戦その他の世界的な規模の災難にもめげず,戸別訪問や現代の他のあらゆる通信機関によりその宣べ伝えるわざを優に半世紀余にわたって遂行してきました。人類の事がらすべてを今や引き継ごうとしている神のメシアの王国に関してあらゆる国々の民に対してなされている証しのわざは明らかに,ごく近い将来完了するに違いありません。王国を宣べ伝えるこの世界的なわざは,「終わり」に先立ってなされることになっていました。全地の人びとは今や,王国が宣べ伝えられるのを聞いています。「あらゆる国民」はもはや証しを受けないままでおれるものではありません。「それから」この事物の体制の「終わりが来るのです」とイエスは言われました!

      「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」

      35 (イ)「しるし」のどんな特徴は,エルサレムの滅亡が正に迫っていることを明示しましたか。(ロ)一世紀当時のその世界強国がもはや存在しないので,どんな質問が生じますか。

      35 「しるし」のもう一つの特徴は,待望久しい「終わり」が近いことを確実に示しています。他の驚くべき事がらが危機的な期間内に起きても,なお終わりはそのとき直ちに臨むわけではありませんが,イエスは,災難の時が正に臨もうとしていること,つまり避難するのを遅らせる人たちすべてに荒廃をもたらす終わりが今や突如襲おうとしていることを明示するある不吉な事がらを予告されました。一世紀当時のローマ領ユダヤ州の住民の場合,それは野営を張った軍隊によってエルサレムが包囲されること,つまり「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が立ってはならない「聖なる所」に立つことでした。そうなれば,それは時も時,イエスをメシアとして信ずるユダヤ人がユダヤから完全に逃れ去るべき時でした。しかし今日,荒廃者である「嫌悪すべきもの」に似た何ものかが見えますか。その出現はキリスト教世界にとっては不吉な前兆です。同世界は一世紀の不忠実なエルサレムの現代的対型物だからです。ユダヤ教の礼拝の行なわれたその聖なる首都は,聖書の歴史上の第六世界強国つまり異教のローマ帝国の軍隊によって荒廃させられました。しかし,その世界帝国は今や存在していません!

      36 今日の第七世界強国は,嫌悪すべき荒廃者のもたらす影響を思い知らされることになっています。なぜですか。

      36 今日,それも1914年以来,世界の舞台は依然として第七世界強国つまり英米二重世界強国によって支配されています。英国王あるいはその女王は英国国教会系教会また英国国教会のかしらと称しており,アメリカ合衆国は同最高裁判所により「キリスト教国」であると宣言されていますから,この第七世界強国はキリスト教世界の顕著な部分であり,同世界の頑強な擁護者です。ゆえにそれは宗教的な面で,あの嫌悪すべき荒廃者のもたらす影響を幾らか感ずるはずです。

      37 啓示 17章9-11節は,第七世界強国が最後の世界強国かどうかを示すどんな事がらを述べていますか。

      37 とはいえ,聖書巻末の書は第八世界強国を暴露しています。興味深いことに,啓示 17章9-11節は,七つの頭と十本の角を持ち,宗教上の娼婦,「大いなるバビロン」を乗せた緋色の野獣に関する幻の中で使徒ヨハネに告げられた事がらを,わたしたちに知らせています。その節はこう述べています。「ここが知恵の伴うそう明さの関係しているところである。七つの頭は七つの山を表わしており,その上にこの女が座っている。そして七人の王がいる。五人はすでに倒れ,ひとりはいまおり,他のひとりはまだ到来していない。しかし到来したなら,少しの間とどまらなければならない。そして,かつていたがいまはいない野獣,それ自身は八人めの王でもあるが,[その七人]cから出,去って滅びに至る」。

      38 使徒ヨハネの時代には,どの世界強国は既に倒れており,どれが当時存在しており,またどれが来ることになっていましたか。それはどれほどの期間存続しますか。

      38 使徒ヨハネの時代,つまり一世紀においては,第六世界強国が彼を囚人として流刑地パトモス島に拘留しました。第七世界強国はまだ来ていませんでした。歴史は,十八世紀になって初めてそれが来たことを確証しているからです。同世紀には大英帝国が商業および海軍の点で海上の覇者となりました。したがって,この第七世界強国は今日までに2世紀余を経ているに過ぎないので,この期間は,およそ18世紀にわたった第六世界強国の支配期間に比べれば「少しの間」といえます。それで,緋色の野獣の七番目の頭はこの第七世界強国を表わしていましたが,他の頭は先の六つの世界強国,つまりエジプト,アッシリア,バビロニア,メディア-ペルシア,ギリシャそしてローマを表わしています。これら七つの世界強国はすべて,偽りの宗教の世界帝国である宗教上の娼婦,「大いなるバビロン」と関係を持ってきました。―啓示 17:1-6,18。

      39 共産主義のソ連あるいは共産圏諸国家は第八世界強国ではありません。どうしてですか。

      39 その野獣「それ自身は八人めの王である」ゆえ,それは第八世界強国を表わしています。それは共産主義のソ連あるいは共産圏諸国家のことではありません。ソ連や共産圏諸国は「その七人から出」たのではないからです。すなわち,先の七つの世界強国から出たのではありません。共産圏諸国に関しては,『その野獣はかつてはいたが,いまはおらず,のちに現われる』などとは言えません。―啓示 17:8。

      40 (イ)では,第八世界強国とは何ですか。(ロ)その世界強国はいつ存在しなくなりましたか。また,それはいつ現われるようになりましたか。

      40 それでは,偽りの宗教のバビロン的な世界帝国が,使徒ヨハネの幻に現われた緋色の野獣に乗った娼婦,大いなるバビロンとしてその上に今日まで乗ってきた第八世界強国とは何ですか。それは世界の平和と安全のための国際機構です。第二次世界大戦前,それは国際連盟と呼ばれ,第二次大戦後は国際連合と呼ばれてきました。この「世界の平和と安全のための」機関は第一次大戦後の1919年に設立されましたが,1939年に第二次世界大戦が勃発するに及んで,底知れぬ所同様の不活動と無力の状態に陥りました。第二次世界大戦中,それは世界平和の守り手としては実際上『いません』でしたが,1945年に第二次世界大戦が終わった後,この度は国際連合という新しい名称のもとに,底知れぬ所から上ってきました。その時以来,それは「現われ」ています。今日,国連の成員国は世界の132か国に達しています。それらの諸国家はすべて軍備を有しており,そのうちの5か国は既に核爆弾で武装を整えています。

      41 国際連合はキリスト教に則した機構ではありません。なぜですか。それはどうして神にとって嫌悪すべきものとなっていますか。

      41 それにしても,象徴的な野獣である第八世界強国つまり今日の国際連合はどうして「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」と同一視されているのでしょうか。それが娼婦を背中に乗せた,七つの頭を持った野獣にたとえられていることは,それが神の前に汚れたもの,神にとって「嫌悪すべきもの」であることを示しています。また,「その七人」つまり七つの非キリスト教の世界強国「から出」ているので,それはキリスト教に則した機構ではありません。国際連合の成員国の半数はキリスト教を奉じているとは唱えてさえいませんが,同機構のもとでキリスト教世界の諸国家が非キリスト教の,つまり異教の諸国家と政治的に結合していることに気づきます。国際連合はこの世のものであり,「世の友」です。したがって,それは「神の敵」です。(ヤコブ 4:4。ヨハネ 8:23; 18:36)国連を偶像視する者たちはメシアにかかわる希望を国連に託しており,キリスト教世界は国連を,樹立されたメシアによる神の王国の代用物として受け入れています。正に嫌悪すべきことです。

      42 国際連合は『荒廃をもたらすもの』になる点で,どんな軍隊に似ていますか。

      42 国際連合は数多くの良い事がらを行なってきたと考えられています。では,どうして国連を荒廃者,つまり『荒廃をもたらすもの』と呼び得るのでしょうか。第六世界強国であったローマ帝国は地上の至る所でローマの平和なるものの維持に努め,中東で平和を保とうとしましたが,後にその軍隊は一変して宗教上の聖都エルサレムの荒廃者となりました。同様に,第八世界強国つまり国際連合はこれからその予告された世界的な役割を仕遂げて,「去って滅びに至る」のです。(啓示 17:11)それはやがて,「荒廃をもたらすもの」となります。だれに荒廃をもたらすのですか。啓示 17章15-18節はそのことを明らかに示しています。そこにはこう書かれています。

      43 啓示 17章15-18節は荒廃させるわざをどのように象徴的に描写していますか。

      43 「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている。そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。すなわち,彼らの王国を野獣に与えて彼らの一つの考えを遂行し,神のことばの成し遂げられるに至ることである。そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市なのである」。

      44 では,国際連合は何の荒廃者になりますか。神の民となるためには,荒廃させられるものに関して今何を行なうのは分別のある行為ですか。

      44 それで,第八世界強国である国際連合は,象徴的な国際的娼婦つまり大いなるバビロンに荒廃をもたらすさい,『荒廃をもたらすもの』と化します。ユーフラテス河畔の古代バビロンは一つの都市でしたから,したがって「大いなるバビロン」は「大いなる都市」にたとえられています。それに,大いなるバビロンは「地の王たちの上に王国」を有していますから,偽りの宗教の世界帝国を意味しています。分別のある人の今なすべきことは,偽りの宗教のそのバビロン的な世界帝国とともに滅ぼされないよう,その滅びが臨まないうちに同帝国から出ることです。これこそ,霊感を受けた天からの声が,神の民になりたいと願う人たちに対して,次のように行なうよう命じている事がらにほかなりません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」― 啓示 18:1-4。

      45 (イ)キリスト教世界の教会に所属している人びとが既にバビロンから出たかどうかについては何と言うべきですか。なぜですか。(ロ)それで,キリスト教世界が大いなるバビロンとともに滅ぼされるのは必至です。なぜですか。

      45 今は欺かれるままになっているべき時ではありません。キリスト教世界がキリスト教を奉じていると唱えているからといって,同世界の幾百もの宗派に属している教会員は,自分たちは既に大いなるバビロンを出たと考えてはなりません。依然キリスト教世界の一部であるかぎり,大いなるバビロンとともに留まって,同世界の罪にあずかっているのです。それはどうしてですか。なぜなら,キリスト教世界はそれ自体大いなるバビロンの一部であり,事実,偽りの宗教のその世界帝国の最も有力な部分だからです。そのうえ,戦争の罪のある血だらけのキリスト教世界は現代の対型的な不忠実なエルサレムであり,イエスの真の弟子たちはすべてそこから避難して身の安全を図らねばならないからです。第八世界強国(つまり国際連合)が大いなるバビロンを荒廃させるとき,同強国は大いなるバビロンの最も責むべき部分,すなわちキリスト教世界をも滅ぼすからです。ユダヤ人にとって非常に神聖な所とみなされた場所に『荒廃をもたらす嫌悪すべきものが……立つ』のを見た後,イエス・キリストのユダヤ人の弟子たちがユダヤとエルサレムから逃れたとおり,真の神と一致して命を愛する人たちは,即刻キリスト教世界から逃れなければなりません。

      46 早くも1917年には,神を恐れる人びとに対して大いなるバビロンから出るようにとの警告がどのようにして発せられましたか。

      46 統治する王イエス・キリストの「臨在」もしくはパルーシアの時である,西暦1914年以来今日まで,神を恐れる人びとは,大いなるバビロンの滅びに巻き込まれないよう,そこから逃れるよう警告されてきました。早くも,アメリカ合衆国が第一次世界大戦に突入した後,1917年7月に発表された,一般人伝道者協会の「完成された奥義」と題する出版物によって警告が発せられました。それはヨハネへの啓示の書全体を,同書の17,18章を含め一節一節注解した本でした。その本は翌年の初め,政府により発禁処分を受けました。しかしそうなる前,1917年12月30日,日曜日のこと,その初期の警告は広く知らされました。それはその日の朝,「バビロンの倒壊」と題する4ページの冊子,「聖書研究者月刊」第9巻,第9号を米全土で一斉に頒布することによって行なわれました。強烈なことばで著わされたその冊子をそのように時を同じくして全国で頒布した後,その日の午後,今度はバビロンのことを主題として取り上げた公開講演が各地で行なわれました。―「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,1917年12月15日号の370ページの「自発奉仕者の日 ― 12月30日」と題する見出しの箇所を見てください。

      47 (イ)第一次世界大戦後,早くも聖書研究者たちの考えは,何の実体を明らかにすることに向けられましたか。(ロ)1921年1月1日号の「ものみの塔」誌はそれについて何と述べましたか。

      47 現代の(キリスト教世界を含む)大いなるバビロンは『荒廃をもたらす嫌悪すべきもの』によって滅ぼされることになっているため,聖書研究者たちの考えは大戦後早くも,二十世紀の諸般のできごとの中でその嫌悪すべきもの,もしくは悪むべきものの実体を明らかにすることに向けられました。国際連盟が設立され,パレスチナが大英帝国の委任統治下に置かれた後,「ものみの塔」誌,1921年1月1日号はその12ページの「預言者ダニエルによって言われた」という見出しのもとにこう述べました。

      「……地はエホバのものであるゆえ,当然問題の[つまり黙示録 13章の]獣はパレスチナの地を支配する権威を持ってはいないことになります。人間の立てたものである,彼らの国際連盟(その権威のもとでパレスチナは大英帝国の委任統治を受けている)は主にとって悪むべきものです。従って,この悪むべきものは,立つべきではない所に立っています。……

      ゆえに,すなわち荒らす悪むべきものが立ってはならない所に立っており,つまり聖地,神ご自身の地,『聖なる所に立って』おり,またエルサレムが『軍勢に囲まれる』,つまりほかの獣の軍勢に囲まれるのを見ているゆえに,わたしたちが世の終わりの時に達したことをさらに確証する証拠に注目してください。また,ものを読み得る人は,わたしたちが世の終わりの時に達したことを確と知るべきです。……

      48 1926年には,世界の平和と安全のためのその国際機構はどんなものであることが明らかにされましたか。どんなできごとに際して明らかにされましたか。

      48 マタイ 24章15節やマルコ 13章14節(欽定訳,文)の字義どおりの適用に基づいて解釈したとはいえ,『荒らす悪むべきもの』(つまり「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」)とは当時の国際連盟であるとする結論は正確でした。何年かの後,世界の平和と安全のためのその国際機構は聖書預言の中の第八世界強国であることが明らかにされました。そのことは1926年5月30日の日曜日の夜,英国,ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで行なわれた,「世界の諸強国がよろめいている理由 ― 真の解決策」と題する公開講演の中で明らかにされました。その講演者である,ものみの塔聖書冊子協会の会長J・F・ラザフォードは,「予告された連盟」というテーマを取り上げて,次のように述べました。

      神は七つの世界強国のことを予告しました。それはすなわちエジプト,アッシリア,バビロン,メディア-ペルシア,ギリシャ,ローマそして大英帝国です。また,その七つの強国から第八のそれが生ずることをも予告されました。後者はまた,「獣」として象徴されています。なぜなら,その目的は地の諸民族を支配し,統御することだからです。主はその獣の誕生,その短い存在期間およびその永遠の滅亡をも予告しました。―黙示 17:10,11。イザヤ 8:9,10。―1926年7月15日号の「ものみの塔」誌の215ページをご覧ください。

      49 「選ばれた」者たちの残れる者は,大いなるバビロンが野営を張った軍勢で取り巻かれるのを見るまで,そこから出ることを遅らせたりはしませんでした。なぜですか。

      49 こうして,第一次世界大戦が1918年に終わった後,エホバの「選ばれた」者たちの生き残っている油そそがれた残れる者は,「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」を認め,それについての,また世界の舞台におけるその出現の意味に関する理解を得はじめました。彼らは第一次世界大戦中,大いなるバビロンとその政治および軍事上の情夫のとりこになりましたが,今や大いなるバビロンから出るようにとの天からの声に答え応じました。神の「選ばれた」者たちのその残れる者に後に加えられた,神を恐れる人たちもまた,神命に服して,(キリスト教世界を含む)大いなるバビロンを去りました。対型的な不忠実なエルサレムすなわちキリスト教世界は地上のエルサレムやパレスチナの地に局限されてはおらず,世界的なものですから,同世界から逃れる人たちは,キリスト教世界が第八世界強国(世界の平和と安全のための国際機構)の軍隊で包囲されるのを見るまで待つ必要はありません。「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」というみ使いの命令は,そうしたできごとが生ずるまで延ばされていたのではありません。

      50 (イ)エホバの「選ばれた」者たちがそのように早くも逃れたことは,何を示すものとなりましたか。また,それはだれにとって良い模範となりますか。(ロ)「嫌悪すべきもの」が何を経験した後に,大いなるバビロンは滅ぼされることになっていますか。

      50 それにしても,エホバの油そそがれた「選ばれた」者たちが,そうしたできごとの生ずる前に逃れたのは,不忠実なキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分の荒廃が近づいたことを,しかもこの世代のうちに,つまりあたかも「一時」のごとくに短い,第八世界強国の存続期間中に起こることを示す注目すべき事がらでした。こうして早くもエホバの「選ばれた」者たちがすぐさま逃れたことは,キリストの「ほかの羊」の「大群衆」が西暦1935年以来今日まで従うべき確かな模範となりました。対型的な不忠実なエルサレムであるキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分が「嫌悪すべきもの」の軍隊によって荒廃させられるのは,今や遠い将来の事がらではあり得ません。「嫌悪すべきもの」は第八世界強国として「底知れぬ深み」から上った後に大いなるバビロンを荒廃させるという点に留意すべきです。国際連盟という形を取った第八世界強国は,第二次世界大戦が1939年に勃発するとともに倒れて,「底知れぬ深み」同様の死同然の無力な状態に陥り,1945年に国際連合という形を取って「底知れぬ深み」から出てきました。(啓示 17:8,11,12)それはおよそ30年前のことです。逃れるのをもっと遅らせるのは確かに危険です!

      「大患難」が類例のないものとなる理由

      51 (イ)対型的な不忠実なエルサレムに臨む患難はどうして「大」患難となりますか。(ロ)大いなるバビロンから逃れるのを遅らせた人びとはどうなりますか。

      51 現代の対型的な不忠実なエルサレムであるキリスト教世界の荒廃は,正に「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」の一部となります。(マタイ 24:21)キリスト教世界の領域は世界的なもので,地上のエルサレム市が首都として位置しているイスラエルの地よりもずっと広大です。「地の王たちの上に王国を持つ」大いなるバビロンの領域は,単なるキリスト教世界のそれよりもなおいっそう広大です。従って,象徴的な「十本の角」と緋色の「野獣」の残りの部分が,娼婦のような宗教上の大いなるバビロンを憎み始め,荒廃させるとき,その荒廃はこの地球全体を包含する,類例のない宗教上の大惨事となるでしょう。キリスト教世界は,流血の罪を負う不倫な大いなるバビロンの残りの部分すべてと同様,もはや神の保護を受けません。西暦70年におけるエルサレムの滅びが恐ろしいものであって,またそれが預言的な描写であったとすれば,この度の世界的な宗教上の大惨事もまた恐ろしいものでしょう。それで,天来の声に留意せず,大いなるバビロンの中に利己的にも留まってきた宗教家たちは,彼女の罪にあずかる者とみなされ,当然のこととして,彼女のこうむる災厄の一部を味わわされます。

      52 (イ)大いなるバビロンの滅びはどうして「大患難」のほんの一部にすぎないのですか。(ロ)第八世界強国は荒廃者として行動した後,何を行ないますか。

      52 大いなるバビロンの滅びは,きたるべき「大患難」のすべてではありません。その最初の部分にすぎないのです。この世の政治的・経済的・社会的分子は宗教上の大いなるバビロンと,快楽を求め,物質面で自らを富ませる,汚れた関係を持ってきました。彼らは大いなるバビロンの流血の罪,エホバ神に対する反対,イエス・キリストの真の弟子に対する迫害,また「王国のこの良いたより」を証しとして宣べ伝えるそれら弟子たちのわざに対する妨害行為などに彼女とともにあずかってきました。そのために彼らは神との貸借を清算しなければなりません。政治的分子はまた,第八世界強国つまり国際連合を支持しており,その諸国家は国連の成員国となっています。キリスト教的精神に反するこの第八世界強国は,メシアによるエホバの王国にふてぶてしい態度で抵抗しています。キリスト教世界の僧職者の協賛を得た同世界強国は,神のお用いになるキリストの正当な王国の占めるべき場所を地上で占めています。同強国は自分の以前の恋人である大いなるバビロンを荒廃させた後,エホバのお用いになる統治する王,子羊イエス・キリストに対して不敬にも全攻撃力を揮って戦います。

      53 啓示 17章12-14節に述べられている事がらはどうして「大患難」の最高潮を成すものとなりますか。

      53 使徒ヨハネはその最終的対決となる戦いを次のような象徴的な言い回しを用いて描写しています。「また,あなたが見た十本の角は十人の王を表わしている。彼らはまだ王国を受けていないが,[第八世界強国の成員国になることにより]一時のあいだ野獣とともに王としての権威を受けるのである。……これらの者は子羊と戦うであろう。しかし子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する。また,召され,選ばれた忠実な者たちも彼とともに征服する」。(啓示 17:12-14)これは「大患難」の最高潮,すなわちハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を意味します。その宇宙的な戦いについては啓示 19章11-21節にいっそう十分に説明されています。

      54 それで,全能の神は地上のどれほどの多くの敵を相手取って戦われますか。その時になされる殺りくは,それ以前の何らかの例とどのように比べられますか。

      54 この戦いには地球上の30億以上の住民が関係します。人間の創造以来1,656年ほど経た後の族長ノアの日の大洪水でさえ,全地球的な災害だったとはいえ,それほど多くの人間が関係したわけではありません。全能者であられる神はその「大いなる日の戦争」にさいして,地上の諸国家すべての核爆弾の全威力を凌駕できますし,地上の敵すべてを一緒にして相手取って戦うことができます。(啓示 16:13-16)それはこの地球がいまだかつて経験したこともない,また決して再び起こらないような大殺りくを予示しています。ですから,イエスが西暦70年における古代エルサレムの荒廃よりもはるか後代のことを見越して次のように評したのも何ら驚くにはあたりません。「事実,エホバがその日を短くされなかったとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに,彼はその日を短くされたのです」― マルコ 13:20。

      55 (イ)どうして患難の日は「選ばれた者たちのゆえに」短くされるのですか。(ロ)だれがこの取決めを利用しますか。

      55 奇跡的な事がらとならざるを得ないとはいえ,ある肉なる人びとは「救われ」ます。それはエホバが,「そのお選びになった,選ばれた者たちのゆえに」「大患難」の日数を少なくされるからです。ご自分の「選ばれた者たち」を地の表から取り去るのではなく,滅びに定められたこの事物の体制との協力関係から彼らを離れさせ,しかも「大患難」の始まる予定の時以前にそうさせることによって,エホバは患難の日数を少なくするのをよしとされます。また,ご自分の油そそがれた「選ばれた者たち」だけを保護に浴せる安全な状態のもとに助け出すのではなく,キリストの霊的な兄弟たちの最も小さな者たちに対してさえ善を行なう「義」にかなった羊のような人たちの「大群衆」をも同様に助け出してくださるのです。(マタイ 25:31-40)エホバ神はご自分の「選ばれた者たち」と「大群衆」の双方をやぎのような人びとから分けたなら,子羊イエス・キリストを用いて,この世界的な事物の体制のものとして留まる敵すべてに対して行なわれるご自身の復讐を「短」期間に手早く済ませることができます。―ローマ 9:28。

      56 西暦70年におけるエルサレムの滅びのさい,救われた「肉なるもの」となったのはだれですか。どんな点で不興をこうむっていたにもかかわらず救われましたか。

      56 これは「肉なるもの」が正しくこの地上で救われることを保証しています。創造者であるエホバ神は,人間の作った核爆弾か,刑を執行するご自分の天の軍勢のいずれかによって人類を地から一掃させようなどとはしておられません。西暦70年におけるエルサレムの滅びにさいしては9万7,000人のユダヤ人という形で「肉なるもの」が救われました。それら9万7,000人のユダヤ人はエルサレムが西暦66年に野営を張ったローマの軍隊で包囲されるのを見ました。しかし,その短期間の攻囲や「嫌悪すべきもの」が立ってはならない所,つまり聖なる場所に立ったことは,彼らのこうむった「大患難」の一部ではありません。その「患難」は二部に分かれてはいませんでした。ケスチウス・ガルス将軍によるその攻囲は不意に解かれ,ローマ軍の撤退は敗走と化し,ユダヤ人は勝利を博しました。しかし,「大患難」が西暦70年の春に正しく始まったとき,それら9万7,000人のユダヤ人が辛うじて生き残れたのは,患難の日数が少なくされたからにほかなりません。それら9万7,000人の人びとはエホバの「選ばれた者たち」ではなかったにもかかわらず救われて生き残りました。しかし,命は助かったものの,ローマ帝国内の至る所で奴隷として残りの人生を送ったにすぎません。

      57 きたるべき「大患難」のさいに救われる「肉なるもの」を構成するのはだれですか。彼らについては何と言えるようになりますか。

      57 迫り来る「大患難」の日数が少なくされることは,「肉なるもの」が再び救われる保証となります。とはいえ,この度のその「肉なるもの」とは,昔のエルサレムに閉じ込められた反抗的なそれら非キリスト教徒のユダヤ人同様の神の敵の一部ではありません。この度は神の敵はすべて刑を執行されて滅びます。神の「選ばれた者たち」のほかに,その「肉なるもの」となるのは,神のおきてに従い,滅びに定められた(キリスト教世界を含む)事物の体制を捨てて神の側に立っている従順な羊のような人たちの「大群衆」です。「肉なるもの」のその「大群衆」は,キリストの千年統治下の神の新秩序に救われて生き残るので,彼らについては,『これは大患難から出て来る者たちである』と言えるようになります。(啓示 7:14)その時,それら生存者の「大群衆」は何と幸いでしょう。また,患難を短くしてくださるエホバは何と恵み深い方でしょう。

      偽メシアに対するメシアの警告

      58,59 (イ)イエスが予告した偽キリストはどのように人を失望させるものとなりましたか。それら偽キリストはエルサレムの滅亡後,ユダヤ人にだれを待ち望ませましたか。(ロ)偽キリストに関連して用いられた策略についてイエスはさらに何と言いましたか。

      58 イエスはご自身の「臨在」(パルーシア)と「事物の体制の終結」との「しるし」に関するご自分の預言の中で,西暦70年にエルサレムが荒廃する以前に偽キリストが来ることを指摘しました。イエスは不審に思う使徒たちに次のように言って,その特徴に関する預言を語りはじめました。「だれにも惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て,『わたしがキリストだ』と言って多くの者を惑わすからです」。(マタイ 24:4,5)しかし,彼らはにせ者,ぺてん師でした。というのは,彼らはエルサレムの何らかの解放も,またいかなる解放も全然もたらさなかったからです。エルサレムの滅亡後,メシアとしてのイエスを信じなかったユダヤ人は,肉身のメシアを引き続き待ち望まねばなりませんでした。一方,ユダヤ人および非ユダヤ人のクリスチャンは,真のメシアである神のみ子イエスの約束の「臨在」(パルーシア)を引き続き待ち望まねばなりませんでした。イエスは,ローマの軍団によるエルサレムの文字どおりの荒廃を予告した後,詐欺師らが関心のある者たちを誘って偽称メシアのあとを追わせようとして講ずる策略を説明し,次のようにことばを続けました。

      59 「その時,『見よ,ここにキリストがいる』とか,『あそこに!』とか言う者がいても,それを信じてはなりません。偽キリストや偽預言者が起こり,できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして,大きなしるしや不思議を行なうからです。ご覧なさい,わたしはあなたがたにあらかじめ警告しました。それゆえ,人びとが,『見よ,彼は荒野にいる』と言っても,出て行ってはなりません。『見よ,奥の間にいる』と言っても,それを信じてはなりません。いなずまが東のほうから来て西のほうに輝き渡るように,人の子の臨在[パルーシア]もそのようだからです。どこでも死がいのある所,そこには鷲が集まっているのです」― マタイ 24:23-28。

      60 偽キリストが「荒野に」,あるいは「奥の間に」現われるのはどういうわけですか。

      60 地上の他のだれよりも「人の子」イエスは,ご自身の到来と臨在をどのようにして成し遂げるかをよくご存じでした。彼は「ここ」とか「あそこ」,あるいは地上のどこか特定の場所に居を構えるわけではありません。イエスがある孤立した場所,つまり「荒野に」現われて,メシアを求める人びとがその地の政府当局者の目を逃れてそうした場所に出かけて行って彼の助けを求め,そこで彼の指導のもとに訓練を受け,政治的な思いきった攻撃つまりクーデターを敢行するよう準備し,イエスを世界のメシアなる支配者に仕立てるわけではありません。(使徒 5:36,37。サムエル前 22:1,2と比べてください。)また,イエスは選ばれた少数の者にしかご自身の所在のわからない,ある「奥の間」に隠れて,人に気づかれないよう,そこでひそかに陰謀を企て,共謀者と一緒に世界の政府を転覆させる秘密計画を立てて,自らを約束のメシアとして任ずるわけてもありません。(列王下 9:4-14と比べてください。)それとは反対に,イエスが王として到来し,王として臨在を開始することに関しては,隠すべき事がらは何もないことになっていました。

      61,62 (イ)キリストのパルーシアはどんな点でいなずまのようになることになっていましたか。(ロ)公にされることに関し,使徒たちに話されたイエスのどんなことばが今日のその弟子たちに当てはまりますか。

      61 イエスの臨在もしくはパルーシアはその影響の点ではいなずまに似ることになっていました。そのパルーシアは,突如として不意に,しかも一瞬のうちにきらめく点でではないのですが,いなずまのようになることになっていました。ここではいなずまが突然立ちどころにきらめくことではなく,東の方から西の方へと広範囲に輝き渡る点が強調されています。(ルカ 17:24)いなずまには詩篇 97篇4節で,『エホバのいなびかりは世界をてらす 地これを見てふるえり』と述べられているような照明力があります。同様に,地の住民は人の子のパルーシアに関して暗闇のうちに放置されたままにはされないことになっていました。地平線の果てから果てに至るまであらゆる人びとがイエスの王としてのパルーシアについて啓発されるのです。それはいなずまの照明力,つまり遙かかなたにきらめき渡る力による閃光のように公にされることになっていました。19世紀前にイエスが使徒たちに語った次のようなことばは,その見えないパルーシアについて精通している今日のキリストの弟子たちに当てはまります。

      62 「それゆえ,彼らを恐れてはなりません。覆われているもので,おおいをはずされないものはなく,知られないで終わる秘密はないからです。わたしがやみの中で話すことを,明るい所で言いなさい。また,ささやかれて聞くことを,屋上から宣べ伝えなさい」― マタイ 10:26,27。

      63 (イ)それら予告された偽キリストや偽預言者が起こるのは何のためですか。(ロ)忠実な「選ばれた者たち」は,実際に死がいがある所に集まる鷲にどのように似ていますか。

      63 偽キリストや偽預言者が起こるのは,『できれば選ばれた者をさえ惑わす』ためです。(マタイ 24:23-25。マルコ 13:21-23)しかし,忠実な「選ばれた者たち」は「当てもなく探し回る」ことはしません。見える肉身の詐称者を求めて,さまざまな方面に導かれるようなことはありません。また,自らキリストと称して,自分がそうであることを示そうとして大々的な宣伝を行なう見える肉身の人間に引きつけられることもありません。(ルカ 17:22,23)どこに目を向けるべきかを聖書から学んで知っています。はるかかなたの眼下の地上にあるごく小さなものを拡大して的確に見分けられる遠目のきく鷲のようです。(ヨブ 39:27-29)したがって,偽キリストのもとに集まって,霊的に養われぬままに終わることはありません。えさになる死がいを遙かかなたから見つけることができ,そこに寄り集まって一緒に食べる鷲のように,「選ばれた者たち」は真の霊的な食物の見いだせる所を,すなわち見えない仕方でパルーシアの進行している真のキリストのもとに見いだせることを識別し,そこに一緒に集まって霊的な栄養物を見いだしています。―ルカ 17:37。

      64 (イ)偽キリストはどこにだけ現われることができますか。それはなぜですか。(ロ)そこでイエスが述べたように,それらの日の患難の後,イエスのしるしはどこに現われますか。

      64 王イエス・キリストはパルーシアにさいして地球の表面のいずれかの場所に肉体の形で現われることは決してありません。単なる血肉の人間にすぎない偽キリストが行ない得るのはただそれだけです。しかし,復活させられて栄光を受け,統治しておられる主イエス・キリストの場合は異なります。(テモテ第一 6:14-16)ご自分の預言をさらに発展させて次のように述べたイエスは,そのことに対して使徒たちの注意を喚起したのです。「それらの日の患難のすぐのちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天の諸勢力は揺り動かされるでしょう。その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:29-31。マルコ 13:24-27。

      「すぐのちに」生ずる天界の諸現象

      65 そこでイエスが指摘しておられた「それらの日の患難」とはどんな患難のことですか。イエスの予告した事がらは,そうした「患難」の「すぐのちに」,つまりその「のち続いて」起きましたか。

      65 「それらの日の患難のすぐのちに」という表現によってイエスは明らかに,西暦70年にローマ人の手で中東のエルサレムにもたらされた「大患難」の日のことを指しておられました。とはいえ,歴史上の記録をどんなに調べてみても,のち立ち所に,のち続いて,つまり一連のできごとのように途切れずに続くという意味で「すぐのちに」起こるものとしてイエスが説明したような事がらは見いだせません。エルサレムの滅びをもって終わったその「大患難」ののち立ち所に「人の子のしるし」が「天に現われて」,ローマの攻囲軍や他の『地の部族』が,「力と大いなる栄光」を帯びて雲に乗って来る人の子の姿を見て,「悲嘆のあまり身を打ち」たたいたりしたわけではありません。信頼できる歴史の記録によれば,ローマ軍団は聖都エルサレムを滅ぼした後,ユダヤ人の最後の砦,死海西岸のマサダ山頂の要塞を攻囲して西暦73年に攻略し,それでユダヤ州全土の征服を完了しました。では,この点でイエスは間違っていましたか。

      66 それで,この点でイエスは偽預言者でしたか。それとも,この点では「すぐに」ということばに関して,明らかに何が間違っていますか。

      66 いいえ,イエスはその点で偽預言者ではありませんでした。神の聖霊による霊感を受けていた以上,間違えることはあり得ませんでした。では,ここで何が間違っているのでしょうか。それは明らかに,「すぐのちに」という表現に関する一般的な理解です。明らかにこの箇所の「すぐ」という意味は,ヨハネ 6章21節(欽定訳)のそれと同様です。その箇所では,イエスがガリラヤの海の水の上を歩いて行って,弟子たちの乗っていた船に乗り込んだ後のことがこう記されています。「船は直ちに,彼らの行かんとする地に着けり」。彼らがその地に着くまでには確かに一瞬間以上の時間が経過しました。そのことばは次のように記されている啓示 1章1節の「ほどなくして」ということばに似ています。「イエス・キリストによる啓示,これは,ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである」。この「ほどなくして」ということばは時間の点で,使徒ヨハネが西暦96年ごろその啓示を得た時から,二十世紀の現代におけるその啓示の成就する時までの期間を指すものとしてその意味が広げられています。(ローマ 16章20節の「まもなく」ということばで表わされている時間の長さと比べてください。)

      67 では,「すぐのちに」というイエスのことばはどう解すべきですか。

      67 マタイ 24章29節のイエスの預言と知り得る諸事実とを調和させるためには,イエスの用いた「すぐのちに」という表現は,二十世紀の現代に至るまでの何世紀もの期間を飛び越すものと解さねばなりません。d 西暦1914年以来,人の子のパルーシアの期間の経過している今日,その節でイエスが予告したことに正しく相当する事がらや事件が確かに起きています。

      68,69 (イ)1914年以来の世界情勢は,天体に関してイエスが予告した事がらの影響とどのように似ていますか。(ロ)自助能力に欠けているゆえに,人間はイザヤ書 59章9,10節およびゼパニヤ書 1章17,18節に描かれている人たちにどのように似ていますか。

      68 歴史家は人類が西暦1914年以来その生存期間の中でも最も暗たんたる時期に入ったことを認めます。それはあたかも日中に太陽が「暗くなり」,夜には月が「その光を放たず」,また月の光が照らないその同じ夜に,星が天から落ちて夜の暗闇の中に消えてしまったかの観を呈しています。キリスト教世界を含め,滅びに定められている事物の体制にとって,日中でも夜でも,将来に対する明るい見通しはありません。キリスト教世界においてさえ,人間は独自の人為的手段で世界情勢を切り抜ける道を見つけることはできません。このことはいみじくも昔の聖書預言の中で次のように言い表わされています。

      69 『われら光をのぞめど暗きをみ 光輝をのぞめど闇をゆく われらはめしいのごとくかきをさぐりゆき 目なき者のごとくさぐりゆき 正午にても日暮のごとくにつまずき 強壮なる者のなかにありても死ぬるもののごとし』。(イザヤ 59:9,10)『われ[エホバ]人々に患難をこうむらせて盲者のごとくに惑いあるかしめん彼らエホバにむかいて罪を犯したればなり彼らの血は流されて塵のごとくになり彼らの肉は捨てられて糞土のごとくになるべし かれらの銀も金もエホバの烈き怒りの日にはかれらを救うことあたわず全地その嫉妬の火に呑まるべし すなわちエホバ地の民をことごとく滅したまわん その事まことに速やかなるべし』― ゼパニヤ 1:17,18。

      70 (イ)科学的観察に照らして考えると,天はその恵み深い様相をどのように失ってきたことがわかりますか。(ロ)天の諸勢力はどんな仕方で揺り動かされてきましたか。

      70 天はその恵み深い様相を失ったように思えます。現代科学は太陽の表面から何千㌔もの高空に噴射される原子エネルギーの巨大な火焔について教えています。それは太陽黒点のように見えますが,地球に到達して影響を与える粒子の膨大な嵐を放つのです。地球は宇宙空間の未知の領域から飛来する見えない核エネルギーの放射線を絶えず浴びています。電波望遠鏡は最も強力な天体望遠鏡を用いても見えない恒星から届く電波による信号を捕えますが,そのような電波はその種の恒星が宇宙空間に同様に存在する証拠となっています。宇宙飛行士たちはこれまでに六回月面に降り立ちましたが,中にはその月を地上の敵に対して行なわれる戦いを指揮する軍事基地に変えたいと考える軍事専門家もいます。また,超音速の軍用機や恐るべき破壊力を有する核爆弾を装備した弾頭を持つ大陸間ミサイルのことを考えると,「天の諸勢力は揺り動かされるでしょう」と述べたイエスのことばの重大な意味をいっそう正しく評価できます。(マタイ 24:29)人間は天空や宇宙空間に侵入し,事物の正常な均衡を乱してきました。

      71 (イ)海洋はどのように脅威をもたらすものと化しましたか。大気はどのように悪影響を受けてきましたか。(ロ)1970年に発行されたロンドンのメディカル・ニューズ-トリビューン誌は,どんな警告を掲げましたか。

      71 かつて神秘な領界とされていた海洋さえ今や脅威をもたらす領域と化しました。海洋には,陸上の無防備な住民に恐るべき破壊をもたらすミサイルを海底から発射できる最新式の近代装備を整えた,人間の作った潜水艦が群れをなしています。それに加えて,命を脅かす老廃物を深海に投棄するため,海は汚染されています。海は地上最低の場所である中東の死海のように死に陥いる脅威にさらされています。同時に,陸上はもとより海上の大気も工場や自動車,大陸や大洋を横断する飛行機などが出す,増大する危険な排気ガスで汚染されています。ロンドン(英国)のメディカル・ニューズ-トリビューン誌,1970年3月27日号が,「1984年までに地球は死に絶える恐れがある」と題する大見出しの警告を掲げたのは,事の成り行きを多少でも正しく見通したうえでのことでした。

      「人の子のしるしが天に……」

      72,73 (イ)地球という惑星そのものが滅びるのでないとすれば,何が,またどのようにして滅ぼされることになっていますか。(ロ)19世紀前にはメシアに関するどんなしるしが与えられましたか。しかし,イエスはそのパルーシアの期間に何が与えられると述べましたか。

      72 しかし,惑星であるこの地球は,人間が引き起こす核戦争によって滅ぼされることは決してありません。それが「かつての偉大な惑星であった地球」などと称されることは決してありません。その創造者は地球が人間を含めてあらゆる生物のいない所と化すようなことは決して許されません。滅ぼされるのは,今この地上で存続している事物の国際的な体制です。その滅びは,神のメシアなる王イエス・キリストとその配下の聖なるみ使いたちすべてにより神からもたらされます。イエスが人の子と呼ばれて,肉身の姿で地上におられたときのこと,彼が正しく約束のメシアであることを示す証拠として「天からのしるしを見せてくれるよう」,懐疑的なユダヤ人はイエスに頼みました。しかしイエスは,地的なしるし,つまり「ヨナのしるし」以外は何も与えられないと彼らに告げました。イエスが死んで地のただ中であしかけ3日を経,ついで死人の中から3日目によみがえらされたとき,そのしるしが与えられました。(マタイ 16:1-4; 12:39,40)しかし,霊の様によるイエスの見えないパルーシアの期間である今,地上の住民には「天に」現われる「しるし」が与えられます。天の諸勢力がどのように揺り動かされるかを述べた後,イエスはさらにこう言いました。

      73 「その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう」― マタイ 24:30。

      74,75 (イ)マタイ 24章30節の「来る」というイエスのことばは何を指していますか。その「来る」ということは,どのようにして成し遂げられていますか。(ロ)「天に」現われる「しるし」に関するこの預言は,ダニエルのどんな預言と関係していますか。

      74 これは霊の様によるイエスのパルーシアの始まり,つまりその到着ではなく,「世のはじめから[まだ]起きたことが……ないような大患難」にさいしてイエスが「来る」(ギリシャ語: エルコーメノン)ことを指しています。それも,「天の雲に乗って」来るものとして描写されていますが,それはイエスが長期間にわたる注意をこの地に向け,また壊滅的な威力を伴うその力をこの地に及ぼすことによって見えない様で来ることをはっきり示しています。人びとはそうした威力が人間からではなく,天から,つまり神の代表者として行動する,栄光を受けた人の子からもたらされるものであることを思い知らされます。これは預言者ダニエルが見た天のしるしと関係しています。彼はそれを次のように描写しています。

      75 『我また夜のまぼろしのうちに観てありけるに人の子のごとき者 雲に乗りて来たり日の老いたる者のもとにいたりたれば すなわちその前に導きけるに これに権と栄えと〔王国〕とを賜いて諸民 諸族 諸音をしてこれに事えしむ その権は永遠の権にして移りさらず またその〔王国〕はほろぶることなし』― ダニエル 7:13,14〔新〕。

      76 (イ)ダニエルの幻はいつ成就し始めましたか。(ロ)あらゆる部族は人の子が「来る」のをどのようにして見ますか。その時,どんな人びとは,彼らとともに自己本位の態度を取って嘆き悲しむようなことはしませんか。

      76 ダニエルのその幻は西暦1914年以降,霊的な天で成就しましたが,目には見えませんでした。それで,神のご予定の時に,栄光を受けた人の子は大いなるバビロン(キリスト教世界を含む)とこの地の敵対する諸国民に対してご自分の権威と力をもって処置をとります。人の子が彼らに対して処置をとっていることを示す証拠を,彼らは見たり感じたりすることができますが,それが彼らにとって「天に」現われる「しるし」となります。差し迫った自分たちの絶滅に直面して,「地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき」ます。しかし,神の「選ばれた者たち」の残れる者と羊のような人たちの「大群衆」はすべて,大いなるバビロンとその情夫たちから離れているので,おびえるそれら地の諸部族とともに自己本位の態度を取って嘆き悲しむようなことはしません。彼らはすべて,統治する王イエス・キリストの右側に集められているのです。―啓示 7:9-17。マタイ 25:31-40。

      「選ばれた者たち」がみ使いによって集められる

      77 (イ)その時までには,何を集めることが成し遂げられていますか。それはいつから行なわれてきましたか。(ロ)そのようにして集めることは,「大きなラッパ」の音によってなされるように成し遂げられてきました。どのようにしてですか。

      77 その時までには,イエスが次に述べておられる事がらが成し遂げられています。すなわち,こう記されています。「そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」。(マタイ 24:31)「選ばれた者たち」をみ使いがこうして集めることは,イエスのパルーシアの期間であるこれまでに行なわれてきました。西暦前537年にユダヤ人の残れる者がバビロンから故国に戻ったように,「選ばれた者たち」が大いなるバビロンに囚われた状態から去って,地上における神から与えられた霊的な状態に戻り始めたのは大戦後の1919年のことでした。メシアによる神の王国は天で樹立されており,彼らは天のその王国の側に堅く立って,「王国のこの良いたより」を世界中に宣べ伝えるべきであるという宣言はそれ以来,「大きなラッパの音」のように鳴り響いてきました。良いたよりに関するその発表はラッパによってなされるように大声で「四方の風」の方向に向かって行なわれ,天の一方の果てから他方の果てにまで鳴り響き,聞こえてきました。

      78 (イ)「選ばれた者たち」がこうしてみ使いによって集められてきたことは,すべての人に,それも特にどんなできごとによって明らかにされてきましたか。(ロ)とりわけだれが,そうした集めるわざに気づいて行動を起こしてきましたか。

      78 その「大きなラッパの音」の人を引きつけるような響きと一致して,パルーシアを開始した人の子に付き添っている天のみ使いたちは,その「選ばれた者たち」を地球上の四方八方から集めてきました。こうして集められてきたことは,特に1919年9月1-8日にわたって開かれた国際聖書研究者協会の大会を皮切りに,1973年中,地球の至る所でエホバの証人の催した「神の勝利」と題する主題に基づく国際大会に至るまでの一連の大規模な大会において,あらゆる人びとの目にはっきりと示されてきました。(「ものみの塔」誌,1973年5月1日号の284,285ページに載せられた国際大会に関する発表をご覧ください。)とりわけ「大群衆」に属する人びとは,キリストのパルーシアの期間中に「選ばれた者たち」がみ使いによって集められていることに気づいており,彼らもメシアによるエホバの王国の側に立ち,集められた「選ばれた者たち」とともに集まり,また一緒に働いています。

      79 イエスの預言のこれまでの成就から見て,明らかに地上の諸部族がどんな感情を表わす時が近づいていますか。

      79 「事物の体制の終結」に関するイエスの預言のこれまでの成就からしてその弟子たちは,地のすべての部族が,栄光を受けた人の子の手によってもたらされる自分たちを脅かすものを見て『悲嘆のあまり身を打ちたたく』ようになる時が非常に近いことを知っています。

      それが近いことを確定するものとなる例え

      80 「大患難」が危機的なほどに近いことを知るには,イエスがご自分の預言のこの重大な時点で行なったどんな発言に留意する必要がありますか。

      80 わたしたちは,この「事物の体制」全体に対する「大患難」が勃発する正確な年とその日,またその時刻を知る必要はありません。今やそれが危機的なほどに近いことを知るには,イエスがご自分の預言の中で,それもこの重大な時点で次のように述べたことに留意しさえすればよいのです。「では,いちじくの木から例えとしてこの点を学びなさい。その若枝が柔らかくなり,それが葉を出すと,あなたがたはすぐに,夏の近いことを知ります。同じようにあなたがたは,これらのすべてのことを見たなら,彼が近づいて戸口にいることを知りなさい。あなたがたに真実に言いますが,これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません。天と地は過ぎ去るでしょう。しかしわたしのことばは決して過ぎ去らないのです」― マタイ 24:32-35。

      81 この世代のわたしたちはどんな証拠から,イエスの予告した「しるし」の成就が近いことを知り得ますか。

      81 1914年における第一次世界大戦の勃発を目撃したこの世代のわたしたちは,「彼が近づいて戸口にいる」ことを知るには,イエスの預言の成就に関してさらにどれほど多くの事を見なければならないのでしょうか。証拠という点でさらに何を求め得るでしょうか。わたしたちは,1914年における異邦人の時の終結以来,地上で起きてきた種々の事がらに関して不安な無知の状態に放置されてはいません。聖書を研究する,理知的で,理解力のある者としてわたしたちは,「[キリストの]臨在と事物の体制の終結のしるし」の成就が近いことを確信しています。―マタイ 24:3。

      82 イエスのパルーシアの期間中の世界のできごとに対してわたしたちはどのように行動すべきであるとイエスは述べましたか。

      82 そのためにわたしたちは意気阻喪しますか。それは現在の生活からすべての喜びを奪いますか。奪うようであってはなりませんし,また奪ってはいません。なぜなら,イエスは見えない様でなされるご自分のパルーシアの期間中の世界のできごとに対してどのように行動すべきかを弟子たちにこう告げられたからです。「また,太陽と月と星にしるしがあり,地上では,海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います。天の諸勢力が揺り動かされるからです。そのとき彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,雲のうちにあって来るのを見るでしょう。しかし,これらの事が起こり始めたなら,あなたがたは身を起こし,頭を上げなさい。あなたがたの救出が近づいているからです」― ルカ 21:25-28。

      83 それで今は,「選ばれた者たち」や「大群衆」に属する人びとは何をすべき時ではありませんか。その救出は彼らにとって何をあらかじめ示すものですか。

      83 この世代のわたしたちは「これらの事が起こり始め」るのを見てきましたか。「これらの事」が西暦1914年以来の何十年間かにわたってずっと起きてきたのを見てきましたか。わたしたちはそれを見てきたのですから,国際的な「苦もん」のために頭を垂れる理由はありません。わたしたちは,キリスト教世界を含む大いなるバビロンの強いる奴隷状態のもとで身をこごめる理由はもはやありません。今は,いと高き神で,主権者なる主エホバの自由な崇拝者らしく,身をまっすぐ起こすべき時です。今はもはや,絶望して下を向き,地面に視線を落とすべき時ではありません。今は頭を起こして天を見上げ,イエスの預言の収められている聖書の明るく輝く光のうちに,人類のための極めて心強い将来を指し示す証拠を認めるべき時です。そうした証拠の意味には間違える余地はありません。救出は近づきました! このことは神の「選ばれた者たち」とその仲間の崇拝者たちの「大群衆」が目前に迫った「大患難」を生き残れることをあらかじめ示しています。神の保護のもとにその「大患難」から出て来るとき,わたしたちは,死をもたらす現在のこの事物の体制の回復不能な廃虚をあとにします。わたしたちの前には神の新しい事物の体制が堂々と開けてゆくのです!

      [脚注]

      a ダニエル書 9章26,27節にはこう書かれています。「その六十二週の後,メシアは断たれる。彼のうちに悪事はないが。そして,彼はやって来る支配者とともに,その都と聖所とを破壊する。それらは洪水で破壊され,ついには定められた戦いの終わりに至って荒廃をこうむる。さて,一週,多くの者のために契約を堅く結び,その週の半ばにわたしの犠牲と献酒は取り去られる。神殿の上には荒廃させる忌むべきものが現われる。そして,ついに終わりがその荒廃させるものにふりかかる」― チャールズ・トムソン訳,七十人訳聖書(英文)。

      b ヨセフス著,「ユダヤ戦記」第二巻,第十九章1-7節をご覧ください。

      c 英文新世界訳から翻訳されたものです。

      d 「ものみの塔」誌,1971年3月1日号,151ページの30,31節と比べてください。イエスはその同じ預言のマタイ 24章36節で,ご自分がこの事物の体制を滅ぼすために来る「その日と時刻」についてはいかなる被造物も知らないと言われたので,「すぐのちに」という表現がエルサレムの滅亡後どれほど間もない時期を意味しているかをうんぬんできる人はいませんでした。19世紀後に生きている私たちは,その短い表現がそうした長い期間をどのように橋渡ししているかを正しく評価できます。マルコの記述の中の対応する節では,「のち」という前置詞の前に「すぐ」という副詞が用いられていない点にも注目できます。―マルコ 13:24。

  • 生き長らえて「しるし」を見た「奴隷」
    神の千年王国は近づいた
    • 17章

      生き長らえて「しるし」を見た「奴隷」

      1 天の光の創造に関する記述によれば,神は人間がどんな点でご自分に似ることを望まれましたか。

      人間の創造者は時間厳守者であって,人間にもやはり時間を厳守させるつもりでおられました。霊感を受けたそのみことば聖書巻頭の第一章に収められている創造の記述には,次のように書かれています。『神いいたまいけるは天のおおぞらに光明ありて昼と夜とを分ち また天象のため時節のため日のため年のためになるべし また天のおおぞらにありて地を照らす光となるべしと すなわちかくなりぬ 神二つの巨なる光を造り大いなる光に昼を司どらしめ小さき光に夜を司どらしめたもう また星を造りたまえり』。(創世 1:14-16)それで,聖書は人間の存在期間に関して間違いなく時を数えており,しかも季節や日や年を用いてそうしています。

      2,3 (イ)聖書はどのようにして時の計算を西暦1914年もの後代に至るまで進めてきましたか。(ロ)イエスはご自分のパルーシアの期間中に起こる「大患難」にさいしてご自身が来るその時について何と言われましたか。

      2 聖書は,エデンの園で人間が創造されて以来,聖書の年代表が一般の歴史の確証された年代と結びつく時点に至るまでの時を数えています。年代的特徴を含む聖書預言はさらにずっと後代に至るまで,実に,天からの干渉を受けずに人類に対する異邦人支配の続いた「七つの時」の終わり,つまり西暦1914年に至るまで時の計算を進めています。(ダニエル 4:16,23,25,32。ルカ 21:24)その年は,栄光を受けたイエス・キリストの天におけるパルーシアつまり「臨在」が始まった時です。イエスはそのパルーシアの期間に起こることになっている類例のない「大患難」について預言しましたが,その空前の苦難の時が人類の世全体に突如として臨む特定の日,また特定の時刻を正確に示したりはなさいませんでした。イエスはこう言われました。

      3 「その日と時刻についてはだれも知りません。天の使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます。人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです。洪水のまえのそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人びとは食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです。その時ふたりの男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。ふたりの女がひきうすをひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなたがたは,自分たちの主がどの日に来る[ギリシャ語: エルケータイ]かを知らないからです」― マタイ 24:36-42。マルコ 13:32,33。

      4 イエスのパルーシアの期間中人類の間に見られる社会的事情は,だれの日のようになることになっていましたか。それはどの特定の日ですか。

      4 この預言によれば,主イエス・キリストのその見えないパルーシアの期間の地上の男女の間に見られる社会的事情は,世界的な大洪水前のノアの日のそれに類似するはずです。「ノアの日」として時に言及したイエスは明らかに,建造するよう神から命じられた箱船をノアが準備していた「洪水のまえのそれらの日」を指していました。さもなければ,ノアの大洪水前の人びとの世代のうちに大洪水が生じようとしていることを示す,注目に値する特別なものは何もなかったでしょう。こうして箱船が準備されたことからすれば,その特定の「ノアの日」は大洪水前のノアの生涯の最後の百年の期間内に位置づけられることになります。というのは,その大洪水はノアが六百歳の時に始まったからです。それに,こう書かれています。『ノア五百歳なりき ノア,セム,ハム,ヤペテを生めり』― 創世 5:32; 7:11。

      5 (イ)また,箱船が建造された「ノアの日」が限られた期間であることは,どんな事実によって示されていますか。(ロ)パルーシアが「ノアの日」に比べられているということは,パルーシアの意味に関して何を証明しますか。

      5 時に関するもう一つの限りを示しているのは,ノアが自分の妻と三人の息子と自分の『子らの妻たち』を一緒に箱船に入れるよう命じられたことです。(創世 6:18)これは箱船を造る仕事が始まる以前にノアの三人の息子が結婚していたことを示しています。それで,ある異常な事がらが進行していることに人びとが気づいた,大洪水前のその期間は,世界的なその大災難以前のおよそ50年間に狭められると考えられます。いずれにしても,当時の人びとがその気になれば真剣な態度で注意を払い得たその「日」は,かなり長い期間でした。「人の子の臨在[パルーシア]の時もそのようになるのです」とありますから,これはキリストの見えない様による臨在が長期間にわたるものであって,単に特定の日のある時刻における「大患難」の開始時を印づけるだけの事がらではないことを示しています。パルーシアに関するそうした見方と調和して,イエスの類似した説明が記されているルカ 17章26節はこう述べています。「また,ノアの日に起きたとおり,人の子の日にもまたそうなるでしょう」。しかし,ノアが箱船を建造した時代は徐々に経過し,ついにノアとその一番近い家族がその巨大な建造物に入ったのと全く同様,見えない様によるパルーシアもある期間を経過して,世界的な「大患難」に際して最高潮に達します。

      6 (イ)イエスが述べたように,ノアの日はどんな点でイエスのパルーシアの時代と似ていますか。(ロ)では,当時の人びとはどんな点で間違っていましたか。

      6 ノアの日には地は暴虐で満たされ,だいなしにされていました。(創世 6:11,12)もちろんそれは悪いことで,間違ったことでした! ところがイエスは,ご自分のパルーシアつまり「臨在」の日とノアの日との類似点を示すのにそのことは指摘されませんでした。イエスはこう言われました。「人びとは食べたり,飲んだり,めとったり,嫁いだりしていて,ついにノアが箱船の中に入る日となり,洪水が来て彼らをみな滅ぼしたのです」。(ルカ 17:27)ここで言及されている事がらそれ自体は正しくて,適正なことでした。では,当時の人びとはどんな点で間違っていましたか。それは日常一般の事がらにかまけて,神から与えられたノアの音信に対する不信の念を表わし,しかもノアが信仰の表明として箱船を建造し,自分の音信を絶対に真実なものとして支持したことを人びとは真剣に考えなかったことです。(ヘブライ 11:7)その点で人びとが間違っていたことを示してイエスはこう言われました。「そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで[彼らは]注意しませんでした」― マタイ 24:39。

      7 (イ)大洪水で滅ぼされた人びとはどんな事がらのゆえに有罪とされましたか。その原因は何でしたか。(ロ)1914年以来,人びとは同様の特徴をどのように表わしてきましたか。

      7 世界的な大洪水で滅ぼされた人びとは,信仰の欠如という不義のゆえに有罪とされました。彼らは不敬虔な人間でした。従って,神は,「古代の世を罰することを差し控えず,不敬虔な人びとの世に大洪水をもたらした時に義の宣明者ノアをほかの七人とともに安全に守られた」のです。(ペテロ第二 2:5)「人の子の臨在の時もそのようになるのです」というイエスの預言を考えると,そのパルーシア,つまり目に見えない「臨在」の期間である今日の人びとの行状や態度を吟味せずにはおられません。エホバ神は信仰の同様に欠如した状態を人びとのうちに見いだしておられますか。つまり,日常生活の普通の行為に同様にかまけて,食べたり,飲んだり,めとったり,嫁いだりして,ノアとその七人の家族と比較できる少数グループの述べたり行なったりしていることに対して取っている同様の無関心な態度を,神は見いだしておられますか。西暦1914年にキリストがパルーシアを開始して以来今日まで約60年の間,エホバの「選ばれた者たち」は,また近ごろは羊のような他の人たちの「大群衆」も,樹立された神の王国と近づく「大患難」のことをふれ告げてきましたが,一般の人びとはまじめな関心を示してはきませんでした。

      8 (イ)ノアとその家族は最後の週のどの日に箱船に入ってその中に留まりましたか。次いで,何が物事を決しましたか。(ロ)これは今日のわたしたちに何を戒めるものとなっていますか。

      8 ノアの時代には,保存されることになっていた動物や鳥の代表例となるものが大洪水前の最後の一週間に箱船に入れられました。そのきわめて重大な週の最後の日,つまり西暦前2370年の第二の月(ノアの暦)の第17日にノアとその七人の家族は箱船に入りました。その後,『エホバはすなわち彼を閉じこめ』られました。(創世 7:1-16)そうした処置によりノアとその家族は救いにあずかるよう閉じ込められましたが,気を取られていた人びとは滅びをこうむるよう締め出されました。イエスはこのことを,ご自身のパルーシアつまり「臨在」の時期である今日生きている弟子たちすべてを戒める実例としておられます。ですから,わたしたちは,利己的で無頓着な,また不信仰で無関心な不敬虔な人びとで成るこの世に倣うつもりはさらさらありません! イエスの預言の成就に注意せず,それに従って行動しないとすれば,わたしたちは不信仰な世とともに滅びる以外にありません。壊滅的な「大患難」は不注意な人びとを,予告されていない,今なお知られざる日,また知られざる時刻に不意に襲うでしょう。

      命に,あるいは滅びにあずかるよう選択される

      9 (イ)救いも,また滅びも選択力を示すものとなることをイエスはどのように示されましたか。(ロ)鷲のように鋭い視力を持つのは,どんな点で重要なことですか。

      9 その時,野で耕作をしたり,あるいは家で穀物をひいたりするような世俗の事がらに従事する親しい仲間に関してでさえ,救いも,また滅びも選択力を示すものとなります。イエスはこう言われました。「その時ふたりの男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。ふたりの女がひきうすをひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです」。(マタイ 24:40,41)この預言を述べる何週間か前のこと,イエスが同様のことを説明したところ,聴いていた人たちは,「主よ,どこでですか」と尋ねました。イエスはこう答えました。「死体のあるところ,そこには鷲も集まっているでしょう」。(ルカ 17:34-37)それで,救いにあずかるよう「連れて行かれる」者たちとは,エホバがその安全な場所の中に備えてくださる霊的な宴に集まる,霊的な鋭い視力を持った,鷲のような人たちです。捨てられて滅びをこうむる者たちとは,イエスの預言の成就を霊的に意識し続けず,自分本位の生き方を平気で追い求める人びとです。この世的な手段で自己の人間の魂を生き長らえさせようとする人たちは,突然襲う「大患難」にさいして自分の魂を失います。

      10 わたしたちは世の人びとのように自分の事に夢中になるべきではないことを,イエスはここでどのように強調されましたか。

      10 わたしたちはあえて世の人びと,それもノアの日の,自分の事に夢中になっていた人びとに似ているキリスト教世界の人たちのようになりたいとは思いません。イエスはわたしたちのためにご自分の用いた実例の教訓を強調して,「それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなたがたは,自分たちの主がどの日に来る[ギリシャ語: エルケータイ]かを知らないからです」と言われました。(マタイ 24:42)西暦1914年以来進行している主のパルーシアを信ずるのであれば,間違った事がらに夢中になって「大患難」に不意に襲われないよう,いよいよ目ざめて警戒すべきです。

      11,12 (イ)イエスは「大患難」にさいしてエホバの刑執行官としてご自分が来る正確な時をなぜ弟子たちに知らせませんでしたか。(ロ)イエスの用いた実例が示すように,盗人に夜襲われるように「大患難」に不意に襲われるとすれば,それはわたしたちにとって何を意味しますか。

      11 主イエスは「世のはじめから[かつて]起きたことが…ないような大患難」にさいしてエホバの刑執行官として来る(ギリシャ語: エルケータイ)特定の年の特定の月の厳密なその日やその時刻を弟子たちに知らせませんでした。イエスは弟子たちが不注意になって,いよいよという時まで世の事がらを夢中になって追求し,次いで既に知っているその時の直前に敬虔の形を取り,神に命じられた奉仕を忙しく行なえるよう,その正確な時を弟子たちのだれかに知らせておられるわけではありません。そうではありません! ただし,その正確な日時が知らされていないのですから,絶えず警戒していなければなりません。神の清い崇拝に活発に携わらないで,盗人の場合のように「大患難」に不意に襲われるなら,永遠の損失をこうむることになります。したがって,イエスはこう言われました。

      12 「しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの夜警時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなたがたも用意のできていることを示しなさい。あなたがたの思わぬ時刻に人の子は来る[ギリシャ語: エルケータイ]からです」― マタイ 24:43,44。

      13 (イ)主がエホバの復讐を果たすために来るその正確な時について弟子たちがはっきり知らされていないのは何のためですか。(ロ)それで,わたしたちはこのことのゆえに,その点に関して何をしなければなりませんか。

      13 このように主がエホバの復讐を果たすべく,つまり宗教・政治・社会上のこの事物の体制に賞罰を与えるために来るその正確な時が弟子たちにはっきり知らされていないのは何のためですか。それはキリストの弟子と称する人すべてに,自分は日々いつも正真正銘のクリスチャンとして歩み,メシアによる神の王国の良いたよりを宣べ伝えるわざに絶えず従事し,「すべての国の人びとを弟子」とすべく絶えず努力しているか,それとも自分は単なる日和見主義者に過ぎないかを示させるためです。つまり,ぐずぐずしている時間がもはやなくなり,ついに今度こそはまるでそれまで常に全面的に携わってでもいたかのように,神の是認されるわざに忙しく従事せざるを得ないことがわかるまで待ちますか。「人の子が来る」のは,「あなたがたの思わぬ時刻」である以上,わたしたちはいつでも目ざめていて,わたしたちの主の是認される崇拝と奉仕に活発に携わっていなければなりません。

      「忠実で思慮深い奴隷」

      14 ここでイエスはどんな質問を提起しましたか。その話を聴いていた人たちは,自分が何でありたいと願っているかを確かめさせられましたか。

      14 ここで主イエスは,ご自分の弟子たちに要求される注意深さと準備という問題に触れました。そこでイエスは今や,エホバのメシアのために個人的に尽力する点で,またメシアのための奉仕において思慮分別や先見また洞察力を働かせる点でご自分の弟子たちのおのおのに挑戦となる一つの質問を提起しました。弟子たちはおのおの主人が次のように問うのを聞いたとき,自分はどんな奴隷でありたいと願っているかを自ら確めかることができました。「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか」― マタイ 24:45。

      15 (イ)忠実を示す奴隷に関するその質問をイエスが提起したのはなぜですか。(ロ)その奴隷の実体に関してどんな質問が生じますか。メイヤーのマタイ福音書の便覧はそのことについて何と述べていますか。

      15 イエスは真のキリスト教の信仰と奉仕からの反抗的な背教が生ずることを,み父のみことばに記されている霊感を受けた預言からご存じだったので,いみじくも弟子たち各人に影響を及ぼすこの質問を提起されたのです。それにしても,そのような形式の質問をしたイエスは,ある特定の人,つまりご自分の弟子の一個人のことを話しておられたのでしょうか。それとも,弟子たちの一つの級に言及しておられたのでしょうか。H・A・W・メイヤー神学博士著,「マタイ福音書の批判および解釈便覧」(1884年)はある提議を行なっています。つまり,その429ページで,「然れば…誰なるか」(欽)という表現に関してこう述べています。「こうして示唆されている準備の必要性を考慮す[べきである]。こうした推測はそれ自体,主がご自分の教会の教導者として任じた弟子たちを表わすドウロス[奴隷]という一種の比喩の形式のうちに示されている。その教会の中で彼らは自ら忠実で(コリント前 4:1から),思慮分別があることを示すよう要求されている……」。とはいえ,その「奴隷」を十二使徒に限定するこの見解は,使徒承伝,つまり監督職継承,聖職叙任手続きによる主教(監督)職継承の教義を認めるものと考えられます。

      16 その「奴隷」級が単に監督たちだけでなく,弟子たちの集合体全体を包含するかどうかに関して,マルコ 13章34-36節は何と述べていますか。

      16 しかし,「忠実で思慮深い奴隷」を弟子たち(霊的な意味での監督たちを含む)の集合体全体と考えるとき,歴史が示すようにキリスト教世界で非常な害と圧制をもたらしてきた「監督職継承」のようなものは排除されます。弟子マルコがこの問題に関するイエスの論議を記したことば遣いは,弟子たちの全集合体が関係していることを示しています。マルコ 13章34-36節はこう述べています。「それは,自分の家を離れ,自分の奴隷たちに権威を与え,おのおのにその仕事をゆだね,戸口番には,ずっと見張っているようにと命じた人が,外国に旅行に出るのに似ているのです。それで,あなたがたは,家の主人がいつ来る[ギリシャ語: エルケータイ]か,一日も遅くなってからか,真夜中か,おんどりの鳴くころか,あるいは朝早くかを知らないのですから,ずっと見張っていなさい。彼が突然に到着して,あなたがたの眠っているところを見つけることがないようにです」。

      17 イエスがご自分の弟子たちを「奴隷」にたとえたのはどうして過酷なことではありませんでしたか。弟子たちの奴隷の身分は何を義務づけるものとなりましたか。

      17 イエスが弟子たちを「奴隷」にたとえているのは多少過酷なことのように響くかもしれませんが,弟子たちをそのように類別できる正当な根拠がありました。というのは,コリント第一 6章20節と7章23節にはこう書かれているからです。「あなたがたは代価をもって買われた(の)です。どうあっても,あなたがたの体によって神の栄光を表わしなさい」。「あなたがたは代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません」。使徒パウロのこうしたことばのほかに,使徒ペテロはクリスチャンに次のように書き送りました。「あなたがたの知っているように,あなたがたが父祖より受け継いだむなしい行状から救い出されたのは,朽ちるもの,つまり銀や金によるのではな(いの)です。それは,きずも汚点もない子羊の血のような貴重な血,すなわちキリストの血によるのです」。(ペテロ第一 1:18,19)このことと一致して,キリストのこの弟子はその第二の手紙を,「イエス・キリストの奴隷また使徒であるシモン・ペテロ」という紹介のことばで書き出しています。また,パウロは「キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテ」と記して自己紹介をしても不面目に感じたりはしませんでした。(フィリピ 1:1)また,主の肉身の異父兄弟は,「イエス・キリストの奴隷,しかしヤコブの兄弟であるユダ」と記して,その手紙を書き起こしています。(ユダ 1)こうした根拠に基づく奴隷の身分は,忠実を保つことをいよいよクリスチャンに義務づけるものとなります。

      18 昔のイスラエルはエホバに仕えるしもべたちで成る国民でした。なぜですか。エホバはそれらのしもべたちすべてをどのように一個人にたとえられましたか。

      18 イスラエル国民が受けた虐待に関して,「イスラエルは奴隷であるか。家に生まれたしもべであるか。それならなぜ捕われの身となったのか」といって異議を唱えた場合のように,キリストの弟子たちは何らかの虐待ゆえにクリスチャンの奴隷状態の立場に対して異議を唱えたりはしませんでした。(エレミヤ 2:14,口語)昔のイスラエル国民は異邦人により「捕われの身」とされましたが,それはイスラエル人がいと高き神エホバの忠実なしもべとして行動しなかったからです。エホバは彼らを古代エジプトから贖ったので,イスラエル民族全体は,エホバのしもべたちで成る国民でした。エホバはイスラエル国民に対して持っている特別の権利に関してエジプトのファラオに告げるさい,その選民を一個人にたとえて,『イスラエルはわが子わがうい子なり 我なんじにいう 我が子を去らしめて我に事うることをえせしめよ』と言われました。―出エジプト 4:22,23。

      19 エホバはイザヤを通して,ご自分のただひとりの奴隷としてのイスラエル国民にどのように語りかけましたか。

      19 17世紀余の後,エホバはイスラエル国民全体をあたかもご自分のただひとりのしもべのごとくにみなして語りかけ,こう言われました。『然れどわが僕イスラエルよ わが選めるヤコブわが友アブラハムの裔よ われ地のはてより汝をたずさえきたり地のはしよりなんじを召し かくて汝にいえり 汝はわが僕われ汝をえらみて棄てざりきと』。(イザヤ 41:8,9)この複合の『しもべ』が多数の個人で構成されていることを明らかにするために,創造者はイスラエル国民にこう言われました。『エホバ宣給く なんじらはわが証人 わがえらみし僕なり……されどわが僕ヤコブよ わがえらみたるイスラエルよ今きけ……我いにしえより聞かせたるにあらずや告げしにあらずや なんじらはわが証人なり』― イザヤ 43:10; 44:1-8。また,42:19; 44:21; 48:20; 49:3。エレミヤ 30:10。

      20 生来のイスラエルはいつ捨てられましたか。だれが霊的なイスラエル人となりましたか。イザヤ書 43章10節のことばはなぜそのしもべに適用されますか。

      20 イエス・キリストが死人の中から復活させられてから五十日後の西暦33年のペンテコステの祭りにさいして,割礼を受けた生来のイスラエル国民はエホバ神により捨てられてしまいました。ところが,西暦50-52年ごろ,クリスチャンの使徒パウロはローマ領ガラテア州のクリスチャンの兄弟たちにこう書き送りました。「割礼も無割礼も重要ではなく,ただ新しく創造されることが重要なのです。そして,この行動の規準にしたがって整然と歩むすべての人,その人たちの上に,そうです神のイスラエルの上に,平和とあわれみとがありますように」。(ガラテア 6:15,16)真のクリスチャン会衆は,「新しく創造されること」に関するその規準に従って整然と歩む組織でした。それに今や生来のイスラエルは捨てられたのですから,キリストの追随者の会衆は「神のイスラエル」でした。それは霊的なイスラエルでした。一致結束した会衆として,それはエホバ神とそのキリストの『しもべ』でした。『エホバ宣給く なんじらはわが証人 わが僕なり』というイザヤ書 43章10節のことばは霊的な意味でそのしもべに当てられたものと言えるでしょう。

      21 (イ)その奴隷に関して質問を提起したイエスは,その複合の「奴隷」がだれかをご存じでしたか。(ロ)その「奴隷」級がいつ存在し始めたかについてどんな質問が提起されますか。

      21 「忠実で思慮深い奴隷」に関して質問を提起したとはいえ,イエスはその「奴隷」がだれかについて迷っておられたわけではありません。イエスはおそらくエホバ神のあの『しもべ』,あの「神のイスラエル」のことを考えておられたと思われます。あの複合の『しもべ』を選定されたに相違ありません。イエスはその神のイスラエルをご自分の血の代価をもってご自身の奴隷として買い取られたのですから,ご自身の預言の中で述べた例えの中で,複合の「奴隷」つまり「忠実で思慮深い」ことを示す奴隷としてそのしもべに言及できたことでしょう。イエスは「[ご自分の]臨在と事物の体制の終結のしるし」に関する預言の中でこの「奴隷」について述べておられる以上,その複合の「忠実で思慮深い奴隷」は1914年以後のイエスの「臨在」もしくはパルーシアの期間中に初めて存在するようになったのでしょうか。

      22 (イ)「忠実で思慮深い奴隷」級はキリストのパルーシアの期間中に初めて存在するようになったとは言えません。なぜですか。(ロ)その「奴隷」が養わねばならなかった「召使いたち」とはだれでしたか。

      22 そうではありません。というのは,イエスの例えは,その「奴隷」の主のことを旅に出る人,つまり「自分の家を離れ,自分の奴隷たちに権威を与え…外国に旅行に出る」人として描いているからです。(マルコ 13:34)それで,その「忠実で思慮深い奴隷」とは,「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した」者です。(マタイ 24:45)その複合の「奴隷」の「主人」が,「召使いたち」を養うようにとの指図を「奴隷」に残して旅に出たのは,1,900年余の昔,イエスが昇天された時のことでした。(マタイ 28:16-20)その「召使いたち」とは主人の家族ではなく,主人の「家事奉公人たち」(H・A・W・メイヤー),あるいは「家の雇い人」(新英語聖書)でした。彼らは,彼らを養う任務を託された「忠実で思慮深い奴隷」と全く同様に奴隷でした。このようなわけで,彼ら全員は奴隷の集合体を成しており,すべて同じ主人に服していました。彼らは皆,「忠実で思慮深い」者であるよう義務づけられていました。

      23 (イ)それで,その複合の「奴隷」はいつ存在し始めましたか。(ロ)そうした「奴隷」は生き長らえて,その主人のパルーシアの「しるし」を見てきましたが,何がこのことを示していますか。

      23 イエスの例えは西暦33年にご自分が立ち去ったとき成就し始めたので,複合の「奴隷」すなわち「神のイスラエル」,つまり霊によって生み出され,油そそがれた,キリストの会衆はその時以来存在してきました。その成員は最終的には14万4,000人に達します。(啓示 7:4-8; 14:1-3)1914年における異邦人の時の終わりにさいして「主人」の見えないパルーシアが始まった時,地上には依然としてこの「奴隷」の残れる者がいたことを歴史上の記録は示しています。従って,その複合の「奴隷」は生き長らえて,主人のパルーシアつまり「臨在の」「しるし」を見てきました。

      『時に応じてその召使いたちに食物を与え』なさい

      24 その「奴隷」は何を行なうよう任命されましたか。それを行なうさい,「召使いたち」が用いられたかもしれません。なぜですか。

      24 このたとえ話の中の「奴隷」は商売をするよう銀の「タラント」を与えられたわけではありません。それで,ここでは霊的な「タラント」のことをうんぬんしているのではありません。任命されたその「奴隷」は,特に仲間の「召使いたち」に時に応じて食物を与える責任を負わされました。彼らは任命された「奴隷」と同様,主人の家における自分たちの仕事をする力をつけるには定期的に食物を取る必要がありました。もし主人の奴隷が大勢であれば,任命された「奴隷」は彼らすべてのもとに個人的に行って,各人に食事を直接供したりはしないでしょう。もっと分別のあるやり方として,その「奴隷」は食物を入手できるようにし,「召使いたち」つまり「家の雇い人」すべてに供するよう取り計らったでしょう。「召使いたち」の中には,仲間の召使いたちに食事を供するのを助ける者もいたでしょう。ですから,召使いたちが助け合って互いに養い合ったところで,それは別に奇妙なことではありません。

      25 どんな「時に応じて」その「奴隷」級は「食物」をだれに供し始めましたか。その日,どんな結果がもたらされましたか。

      25 西暦33年のペンテコステの祭りの日に「時に応じて」霊的な「食物」が入手できるようになるや否や,任命された「奴隷」級は注がれた神の霊による霊感を受けて「食物」を分かち与えることにより,自ら「忠実で思慮深い」ことを示しました。約120人の弟子たちの会衆は「神の壮大な事がら」について自分たちの間で語り始めました。しかし,その小さな最初の会衆はそれらの「事がら」を人に知らさずにおいたりはしませんでした。エホバ神のしもべと称した,霊的に飢えた何千人もの人びとが集まって,それらの「事がら」を聴いたのです。使徒ペテロは,今や時代遅れのペンテコステの祭りをエルサレムで祝っていた,それら霊的に飢えたユダヤ人や改宗者たちを養う面で率先しました。彼らは内心メシアなる「主人」の「召使い」になりたいと願っていたので,そうなるには養われねばなりませんでした。「忠実で思慮深い奴隷」級は当時まさしく「時に応じて」彼らを養いました。その結果,彼らのうちの約三千人が信者となってバプテスマを受け,聖霊の賜物を受けました。今や彼らは正しく主人の「召使いたち」となりましたが,依然としてさらに食物を必要としていました。―使徒 2:1-42。

      26,27 (イ)養うわざを進める計画が広げられた時,「召使いたち」になる見込みのある人びとを養うわざを行なうためにだれが用いられましたか。(ロ)これは主人が出かける前に与えたどんな命令と調和しましたか。

      26 その後三年半足らずのうちに,「忠実で思慮深い奴隷」級の行なう養う努力は,「召使いたち」となる見込みのある他の人たちにも差し伸べられました。それらの人たちは「すべての国の人びと」つまり非ユダヤ人である異邦人の中から来ることになっていました。このことで率先するよう用いられた使徒ペテロは,天与の導きのもとに地中海東岸の都市カエサレアに派遣されました。それはイタリア人の百卒長コルネリオと彼が自分の家に集めた関心のある人たちとを改宗させるためでした。(使徒 10:1から11:18)こうして,異邦人がメシアなる主人イエス・キリストの「召使いたち」になる扉は大きく開かれました。「忠実で思慮深い奴隷」は,「召使いたち」になる見込みのあるそれらの人びとが神のイスラエルの成員である霊的なイスラエル人になれるよう,彼らのもとに霊的な食物を携えて行って養わねばなりませんでした。それらの人びとは霊的な意味で「召使いたち」になった後,彼らもその養うわざに加わらねばなりませんでした。それは主人が去る少し前に与えた次のような命令に従順に従うことを意味しました。

      27 「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい。そして,見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなたがたとともにいるのです」― マタイ 28:19,20。

      28 (イ)今日でもなお利用されている霊的な食物の永続するどんな部分が西暦一世紀に整えられましたか。(ロ)その「奴隷」級が最初に用いて養分を取った霊的な食物を,今日のわたしたちは必要としていますか。

      28 霊的な養うわざの永続する助けを与えるため,イエス・キリストの使徒や弟子たちは神の霊による霊感を受け,マタイの福音書からヨハネへの啓示に至るクリスチャン・ギリシャ語聖書の信頼できる27冊の書を著わしました。一世紀の「忠実で思慮深い奴隷」級によってクリスチャンの「召使いたち」に供された霊的な食物のこの甘美な部分は,この二十世紀のクリスチャンの「召使いたち」にも相変わらず利用されています。この部分が加わって,霊感を受けた66冊の書,つまりヘブライ語やアラム語による39冊と一世紀の一般ギリシャ語による27冊の書で成る1冊の完全な聖書が生まれました。聖書は霊感を受けたクリスチャン・ギリシャ語聖書の部分だけでなく,その全部が必要です。第一世紀に現われた「忠実で思慮深い奴隷」級は当時,養分を取り入れられる,書き物の形を取った霊的な食物としては霊感を受けたヘブライ-アラム語聖書しか持ってはいませんでした。クリスチャンの「召使いたち」が当時最初に用いて養分を取ったものから,今日のわたしたちもなお養分を取らねばなりません。エルサレムの最初の会衆はヘブライ語を話し,また読みました。今日のわたしたちにはヘブライ語聖書を翻訳したものが必要です。

      29 (イ)西暦一世紀の後,「奴隷」級による養うわざはどのようにして継続されましたか。(ロ)十九世紀の後半に,養うわざはどのようにして開始されましたか。

      29 主人イエス・キリストの使徒たちの死後,何世紀にもわたって「忠実で思慮深い奴隷」級がいったいどのようにして存続し,仕えてきたかに関しては,歴史上の明確な記述がありません。おそらく「奴隷」級の一つの世代が後続の次の世代を養ったと考えられます。(テモテ第二 2:2)しかし,十九世紀後半には,聖書の霊的な食物を愛好し,単に聖書を神聖な文学書として読んで楽しむのではなく,聖書から養分を得たいと願う,神を恐れる人たちがいました。そして,キリスト教世界の日曜学校や教会とは別個に聖書研究の会が各地で組織され,聖書の基本的な真理の理解の点で進歩しました。それら聖書研究者たちの中の誠実で利他的な人たちは,霊的な食物のそうした肝要な部分を熱心に他の人びとと分かち合いました。彼らは,「時に応じて」必要とする霊的な「食物」を「召使いたち」に与えるために任命された「奴隷」の忠実な精神を抱いていました。彼らは当時が然るべき適切な時であること,また食物を供する最善の方法は何かを見分ける点で「思慮深い」者たちでした。そして,食物を供すべく努力しました。

      30 (イ)当時,「すべての人のための贖い」の教理に関してどんな危険が存在していましたか。しかし,「時に応じて」そのどんな擁護者が現われましたか。(ロ)「ものみの塔」誌の編集者は1881年当時,「忠実にして賢き僕」についてどんな見解を発表しましたか。

      30 『すべての人のための贖い』は,聖書のそうした基本的な教理の一つでしたが,神を恐れる人たちの霊的な食卓に供されるそのような肝要な食物が高等批評や進化論の信奉者によって奪い去られる危険が不気味に迫り始めました。今になってそれは『適当な時』だったと正しく評価できる時期に,キリストの『すべての人のための贖い』の断固とした擁護者が出現しました。聖書愛好者のための全く新しい雑誌,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌という形で登場したのです。その1879年7月の創刊号は6,000部発行されました。同誌の編集兼発行者はペンシルバニア州ピッツバーグの聖書研究グループの一会員すなわちチャールズ・テイズ・ラッセルでした。この学究的なクリスチャンは「忠実にして賢き僕」(マタイ 24:45,欽定訳)に関するイエスの例えに注目し,それについて理解した事がらを「ものみの塔」誌,1881年11月号の5ページに発表しました。「ぶどう園にて」と題するその記事の4,5節で彼はこう述べました。

      キリストのこの体の成員はすべて,信仰を同じくする者の集まりに然るべき時期に食事を与える祝福されたわざに直接あるいは間接的にであれ携わっていると,わたしたちは考えています。「では,主がその家の者の上に支配者としてお立てになり」,然るべき時期に彼らに食事を与えさせる「あの忠実にして賢い僕とはだれでしょうか」。それは聖別の誓いを忠実に果たしている聖別されたあの「小さき群れ」― キリストの体 ― 信仰を同じくする者の集まりに然るべき時期に食事を個人的に,また集団として与えるその体全体 ― 信者の大いなる一団ではありませんか。

      主が来た(ギリシャ語: エルトーン)とき,そうしているのを見られるその僕(キリストの体全体)は幸いです。「誠にあなたがたに告げます,主は彼をご自分の所有物すべてをつかさどる支配者にするであろう」。「彼はすべての物を受け継ぐであろう」。

      31 (イ)C・T・ラッセルが自ら「忠実にして賢き僕」であると主張したかどうかについては何と言わねばなりませんか。(ロ)彼がその「僕」級の忠実な一員として仕えたことは,どんな記録が証明していますか。

      31 この事から,「シオンのものみの塔」の編集兼発行者は,彼個人がその「忠実にして賢き僕」であるとする一切の主張を否定したことがはっきりわかります。彼は自分がそうであるなどとは決して主張しませんでした。a とはいえ,1916年10月31日に亡くなるまで,「ものみの塔」誌の編集を続行しました。また,1881年にはシオンのものみの塔冊子協会を設立し,1884年12月に同協会をペンシルバニア州の法律に準じて法人組織にしました。さらに,1886-1904年にわたり「聖書研究」全六巻を著わして発行するとともに,聖書の種々のテーマに関する多数の小冊子を発行し,また1914年1月に上映を開始した後,世界中で上映された世界的に有名な創造の写真-劇を製作しました。そのうえ,世界各地で数えきれないほど公開講演を行ないました。そして,最後のアメリカ合衆国横断講演旅行の途中で死去しました。1916年に亡くなるまで,「忠実で思慮深い奴隷」級の一員としての彼が,主人の召使いたちに『時に応じて食物』を与えるべく愛をこめて仕えたことは,首尾よく反駁できるものではありません。

      32 ラッセルの死後,彼を中心とする一種の派閥主義的傾向がどのようにして現われましたか。しかし,その傾向はいつ,どのようにして抑えられましたか。

      32 イエスの例えの「奴隷」はただひとりのクリスチャン男子ではなく,キリストの弟子たちの油そそがれた会衆なのですから,「忠実で思慮深い奴隷」級はC・T・ラッセルの死去後も奉仕し続けました。とはいえ,ラッセルに対する感謝の念やその恩義を受けているという気持ちに動かされた彼の仲間の多くは,ラッセルを「忠実で思慮深い奴隷」の成就と考えました。この見方はニューヨーク市ブルックリンの一般人伝道者協会が1917年7月に発行した本の顕著な特徴となりました。「完成された奥義」(英文)と呼ばれたその本には,聖書のヨハネへの啓示とエゼキエル書およびソロモンの雅歌に関する注解が載せられました。その発行者のページの中で同書は「ラッセル師の遺著」と呼ばれました。こうした書物や宗教上の態度は,一個人を中心とする宗派を興そうとする傾向を招きました。しかし,派閥主義へのこうした傾向は,1927年2月1日および15日号の「ものみの塔」誌(英文)の「息子と僕」および「良き僕と悪しき僕」と題する記事が1927年の初めに発表されることによって抑えられました。それらの記事は,マタイ伝 24章45節の「僕」が複合のしもべであることを説明しました。―イザヤ 43:10-12。

      33 ラッセルの著書や「完成された奥義」の残っている在庫文書が処分されたため,キリストの「召使いたち」は「食物」を与えられぬままにされましたか。

      33 1927年の後期になって,ラッセルの著わした「聖書研究」全六巻および「完成された奥義」の残っている在庫文書は一般の人びとの間で配布され,処分されました。しかし,そのために主の「召使いたち」つまり「家の雇い人」たちは,霊的な「食物」を「時に応じて」与えられぬままにされましたか。決してそうではありませんでした! もう少し先に行けばその理由がわかります。

      「幸い」な奴隷

      34 「忠実で思慮深い奴隷」に関して質問を提起したのはだれですか。その質問にだれが,どのように答えましたか。

      34 イエスはマタイ 24章45節で,主人の「召使いたち」を養うべくその上に任命された「奴隷」に関し,またその「奴隷」がどのようにして忠実さや思慮深さを示すかに関して質問を提起しませんでしたか。イエスはまた,まさしく次の節(マタイ 24:46)でその質問に答えて,こう言われました。「主人が到着して[ギリシャ語: エルトーン],そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです」。その奴隷は主人から行なうよう任された事がら,すなわち「時に応じてその召使いたちに食物を与え」ることを主人が帰る時まで続行して,主人に対する忠実さや思慮分別があることを示したので,主人が帰る時,その「奴隷」は大いに幸いな者となるはずでした。

      35 (イ)一世紀当時,その「奴隷」級はイエスの預言の中で予告されていたどんな不穏な時代を生き残りましたか。一世紀の終わりごろ,ヨハネは何を書き記しましたか。(ロ)それに対応するものとして,1914年に異邦人の時が終わったとき,その「奴隷」級に関してどんな疑問が生じましたか。

      35 19世紀前に最初に形成された「忠実で思慮深い奴隷」級は,マタイ 24章4-22節,マルコ 13章5-20節またルカ 21章8-24節でイエスが預言的に述べた不穏な時期を生き残りました。西暦70年にエルサレムがローマ人により滅ぼされて25年余の後,使徒ヨハネは,ヨハネへの啓示や福音書そしてヨハネの三通の手紙を書きましたが,それらすべては「忠実で思慮深い奴隷」級の益のため,また天の主人の「召使いたち」を養うために書き記されました。西暦1914年,「忠実で思慮深い奴隷」級の残れる者は,「[イエスの]臨在と事物の体制の終結のしるし」に関するイエスの預言の完全な,つまり最終的な成就を見る時代に入りました。西暦33年から同70年までの典型的な時期を特徴づけるものとしてイエスが予告したできごとは,やはり西暦1914年にも起こり始めました。今や「忠実で思慮深い奴隷」級は,西暦33年から同70年にかけてその「奴隷」級に降りかかった事がらに対応するものとして起ころうとしていた難事に生き残れるかどうかという疑問が生じました。

      36 第一次世界大戦中,その「奴隷」級にとって「召使いたち」を養うことはどうして困難な事がらとなりましたか。「ものみの塔」誌についてはどうでしたか。

      36 1914年10月4,5日ごろに異邦人の時が終わった当時,第一次世界大戦はすでに2か月余を経て進展していました。その大戦は人類世界のみならず,主人の「奴隷」級にとっても新しい事がらでした。暴虐と破壊の点で第一次世界大戦は,西暦33年におけるイエスの昇天以後の何年かの時期を印づけるものとなった,予告された「戦争のこと,また戦争の知らせ」や国民は国民に,また王国は王国に敵対して立ち上がった事件をはるかに凌駕するものでした。(マタイ 24:6,7)また,同世界大戦下の種々の事情や制約のため,「忠実で思慮深い奴隷」級にとって,天の主人の「召使いたち」に『時に応じて食物』を与え続けるのは非常な難事となりました。その奴隷級にとって事態は悪化の一途をたどり,ついに召使いたちの多くが投獄されたり,兵営に入れられたりするようになり,またものみの塔聖書冊子協会の役員や「ものみの塔」誌の編集陣の成員は西暦1918年の夏には重い判決を言い渡され,米連邦刑務所に入れられる事態が生じました。それにもかかわらず,「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌は,ブルックリンからではありませんが,同誌が最初に刊行されたペンシルバニア州ピッツバーグから引き続き発行されました。

      37 第一次世界大戦が終わった時,その「奴隷」級はどんな悲惨な状態にありましたか。そうした事態に関してどんな疑問が生じましたか。

      37 それは第一次世界大戦が1918年11月11日に終わった当時の悲惨な事情でした。ものみの塔協会の本部とその諸外国の支部との間の容易な国際的通信連絡は絶たれたり,妨げられたりしていました。聖書文書は政府の手で発禁処分に付されたり,あるいは人びとの間で頒布することが差し控えられたりしていましたし,聖書の冊子を発行するのに用いられていた印刷業者の金属版はどういうわけか破棄されたり,紛失したりしていました。さて,主人の「奴隷」級の前途にはどんな見込みがありましたか。その「奴隷」級は当時開かれつつあった大戦後の時期に何を行なうことを決意していましたか。

      その奴隷の主人による検閲の時

      38 当時まさに始まろうとしていた検閲の時にふさわしく,キリスト教世界の諸教派および国際的に憎まれていたクリスチャンに関してどんな疑問が生じましたか。

      38 当時はまさしく主人の「奴隷」級の検閲を行なうべき時であったことに疑問の余地はありません。そのことに関するすべての事実は,当時主人がそうした検閲を行なうために来たことを示しています。マラキ書 3章1-5節の預言によれば,それは予期すべき事がらでした。もちろん,キリスト教世界の諸宗派の教会は自ら戦時下の記録を,つまりイエス・キリストの弟子また奴隷であるとするその主張に重大な関係を持つ公然とした記録を作っていました。それら諸教会は1919年に至るまでの当時最新の記録によってであれ,諸教会そのものが天の主また主人イエス・キリストの複合の「忠実で思慮深い奴隷」級であることを証明し得たでしょうか。審判者であられるイエスは,それ以後キリスト教世界の何百もの宗派を取り扱う仕方によって,ご自分が何を見いだしたかを示すことになりました。それで今や,第一次世界大戦中キリストに対する従順ゆえに迫害され,キリストの名のゆえに「あらゆる国民の憎しみの的」となった,聖書を研究するそれら誠実なクリスチャンに注目するのは適切なことです。それに彼らは神の検閲を受けることになった以上,主人は彼らに関してどんな裁断を下したことを示しましたか。

      39 イエスのたとえ話によれば,主人はどんな気持ちをいだいて家に帰って来ましたか。どんな目的を持っていましたか。

      39 イエスの例えによれば,奴隷を任命した主人はどんな様子をして家に帰って来ましたか。ひどく憤って,わが家を壊さんばかりの様子でしたか。それとも,帰宅を喜び,留守中の経過を知りたいといった様子でしたか。主人は穏やかにその家に帰って来ました。ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を行なうためにやって来たのではありません。(啓示 16:13-16)むしろ,家庭内の事がらが正しい状態に保たれているかどうかを確かめたいと考えていました。主人の任命した奴隷は,行なうよう割り当てられたとおりに,すなわち「召使いたち」に『時に応じて食物』を与えていましたか。主人は検閲を行なう必要がありました。

      40 食物を,それも正しい種類の食物を供するというのが問題であって,それに基づいて裁断を下すことになっていたので,帰って来た主人は,迫害され,憎まれていたクリスチャンに関して何を見ましたか。

      40 食物,それも正しい種類の食物を時に応じて供することが問題でした。帰って来た主人は,そのことに基づいて裁断を下さねばなりませんでした。それでは,国際的に憎まれ,迫害されたクリスチャンのその団体についてはどうですか。(マタイ 24:9)彼らは西暦1919年に至るまで,「信仰を同じくする者の集まり」つまり天の主人の「召使いたち」に『時に応じて食物』を与えていました。迫害者たちや戦い合う諸国民による妨害にもめげず,そのことを行ないました。霊的な食物を定期的に供することが問題だっただけでなく,食物そのものの質も考慮しなければなりませんでした。イエス・キリストの忠実な奴隷になろうと常に努めた,それら憎まれ,迫害されたクリスチャンの団体はこの点で試みに遭いました。世界大戦中,彼らは政府の提供する戦争政策を宣伝する言辞を唱える点でキリスト教世界にも異教世界にも加わりませんでした。終始一貫,その時代に対する聖書の音信を宣べ伝え,あらゆる人びとに対して聖書の原則をキリストのように固守することを唱道しました。

      41 そうしたクリスチャンを検閲するさい,主人は何によって左右されたりはしませんでしたか。以来,主人の下した裁断はどのようにして明らかになりましたか。

      41 では,天の主人はご自分の従順な奴隷たちに関してどんな裁断を下しましたか。主人は戦争に夢中になった世界で迫害を受け不評を買ったそれら奴隷たちの境遇によって左右されたりはしませんでした。ご自分の見えないパルーシアつまり「臨在」の期間に彼らがそうした苦しい経験をすることを予告しておられたからです。クリスチャンの奴隷たちのその団体が世の不評を顧みず,主人の留守中に任されたことを行なって自分たちの主人を喜ばせようと努めているのを主人は見ましたか。1919年に始まった検閲がそれ以来主人の裁断に影響を及ぼしたいきさつからすれば,彼らがそうしているのを見たに違いありません。主人の行動,つまりクリスチャンの奴隷たちに対する取扱い方は,そのことを言葉以上にはっきり示しています。

      42,43 (イ)裏切られた夜,イエスはどんな預言をご自分の使徒たちに適用されましたか。それはどのように成就しましたか。(ロ)1914年にイエスが即位して三年半を経た後,ゼカリヤ書 13章7節の同じ預言はどのように成就しましたか。

      42 ちょっとの間,イエスの使徒たちの場合を考慮してみましょう。ヨルダン川でバプテスマを受けてから三年半の後,イエス・キリストはゲッセマネの園で敵に売り渡されました。イエスはゼカリヤ書 13章7節の預言を引用し,ご自分の使徒たちに降りかかる事がらを予告してこう言われました。「今夜,あなたがたはみなわたしに関してつまずくでしょう。『わたしは牧者を打つ。すると,群れの羊はちりぢりになるであろう』と書いてあるからです。しかし,よみがえらされたのち,わたしはあなたがたに先だってガリラヤに行きます」。(マタイ 26:31,32)西暦33年ニサン14日のその同じ夜,イエスがゼカリヤの預言をご自分の使徒たちに適用したことの正しさが判明しました。マタイ 26章56節の記録はイエスが裏切られた後に起きた事がらをこう述べているからです。「その時,弟子たちはみな彼を捨てて逃げた」。イエスの「羊」は確かに散らされました。

      43 これに対応するものとして,西暦1914年に異邦人の時が終結し,キリストが天で即位して三年半の後,1918年3月26日,火曜日,主の夕食の例年の祝いの時が訪れました。その時,天の牧者の「羊」の散らされた状態は最高潮に近づいていました。1918年3月1日号の「ものみの塔」誌は,「わたしたちの主を記念して」と題する主要な記事の第一節でこう述べました。「今度の記念式が地上での最後のものとなるかどうかは,もちろんわかりませんが,わたしたちの希望の完全に成就する時がまた1年近づいたことは確かです。この記念式をなお他の年にも祝うことを主が喜ばれるのであれば,わたしたちは喜んでそうします」。天の牧者の「羊」を養うことに関係していた,ものみの塔協会の重だった人たちが逮捕され,不当な裁きを受け,長年月の懲役に処せられて米連邦刑務所に入れられたため,前途の見込みは暗たんたるものでした。当時,ゼカリヤ書 13章7節が成就していたことは十分知られてはいませんでした。

      44 (イ)ゼカリヤの預言の明るい面は,どんなことを述べ,また何を意味していましたか。(ロ)その預言のこの部分はイエスの使徒たちの上にどのように成就しましたか。

      44 とはいえ,この預言には明るい面もありました。それは牧者を打って羊を散らすことを予告しただけでなく,エホバの約束を次のように加えていました。『我また我が手を小さき者どもの上に伸ぶべし』。それは散らされた羊の上にエホバが恵みをもってそのみ手を戻すことを意味しました。そこでイエスは羊が散らされることに関する預言を引用した後,「しかし,よみがえらされたのち,わたしはあなたがたに先だってガリラヤに行きます」とつけ加えて使徒たちを元気づけました。(マタイ 26:32)これはイエスが死人の中から復活させられた後,使徒たちを再び集められることを意味しました。そのことは実際に生じました。それについてはこう書かれています。「十一人の弟子はガリラヤにおもむき,イエスが彼らのために取り決めた山に行った。そして,彼を見ると,彼らは敬意をささげた。しかし,ある者たちは疑った。すると,イエスは近づいて来て,彼らにこう語られた。『わたしは天と地におけるすべての権威を与えられています。それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい』」― マタイ 28:16-20。

      45 この同じ預言は1919年にその忠実な「奴隷」級の上にどのように成就しましたか。その「奴隷」はどうして「幸い」な者となりましたか。

      45 同様に,1919年のこと,エホバはまさしく『[ご自分の]手を小さき者どもの上に伸べ』ました。(ゼカリヤ 13:7)エホバの牧者なる王,イエス・キリストはまさしく,散らされた「羊」を再び集め始めました。例えの中の奴隷の主人のように,主イエスは確かにご自分の家に帰り,その中の状態を検閲しました。そして,そこで,世界の状態にもめげず,命じられたとおり時に応じて霊的な食物を,つまり霊感を受けた神のみことばから取られた食物を主の「召使いたち」に与えるよう努力している「忠実で思慮深い奴隷」級を見いだされました。それで主は彼らをご自分の家の「召使いたち」のよく組織された一団ともいうべき状態に再び集めることによって恵みを示されました。1919年9月1日から8日にわたる8日間オハイオ州シーダー・ポイントで開催された一般大会は,見えない様で臨在している主イエス・キリストがその忠実な「羊」を再び集めておられることを全世界に知らせるできごとでした。それは帰って来られた主イエスの見いだした「忠実で思慮深い奴隷」級とはだれかを示すものとなり,こうしてその「奴隷」級は幸いな者となりました。それは彼らが自分たちの天の主人への奉仕に雇われていることを意味しました。

      46 その忠実な「奴隷」はどんな報いのゆえに「幸い」であると,イエスは説明されましたか。

      46 主イエスはその「忠実で思慮深い奴隷」がなぜ幸福な状態にあるかを説明されました。というのは,こう言われたからです。「主人が到着して[ギリシャ語: エルトーン],そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。あなたがたに真実に言いますが,主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう」― マタイ 24:46,47。ルカ 12:42-44。

      主人の持ち物すべてをつかさどるよう任命される

      47 昇進する忠実な「奴隷」には何が課されますか。このことはその主人の新しい資格とどのように合致しますか。

      47 主イエスはその「忠実で思慮深い奴隷」は幸いであると断言されましたが,それは主人から任されたことを行なった報いとしてその奴隷を待ち受けている事がらのゆえでした。その奴隷は昇進し,自分が非常に忠実に仕えている主人に対するいっそう大きな責任を委ねられます。それは疑いもなく,その主人もまた,より大きな責任を与えられているからです。確かにその主人は単なる観光旅行者として,あるいは単に保養目的で家をあとにし,旅行に出るわけではありません。もっと重大な目的,つまり自分の立場を高め,権能や権威を増大するものとなる目的を念頭に置いていました。また,イエスがここで,父の右で長い間待った後に王国を引き受けるため天に去って行くことに適用される例えを述べておられたことを考えると,その例えは主人の責任がそのように増大するのを示唆していることがわかります。その主人は新しい,より大きな資格を備えて家に帰って来る者と解すべきです。(ヘブライ 10:12,13)従って,その「すべての持ち物」はより大きな価値を帯びます。ゆえに,昇進する「奴隷」はその主と誉れを分かち合います。

      48 帰って来た主人が「奴隷」級に委ねた奉仕は以前のそれよりもなぜもっと重要で,誉れあるものとなりましたか。

      48 預言的なこの例えの成就において,「主人」である主イエス・キリストは,「諸国民の定められた時」が終わった西暦1914年にまさしく天の王国を取得しました。それで,イエスはその年に,天の王座で統治する王冠を載いた王として,見えない様によるご自分のパルーシアつまり「臨在」を開始されました。1919年にはご自分の「召使いたち」すべてを検閲するため,「家の雇い人」たちのもとに帰って来ましたが,この地上におられた一世紀当時持ってはいなかった王としての資格を備えて帰還したのです。それで,「忠実で思慮深い奴隷」級はそれまで仕えた方以上にさらに偉大な位や権威や権能を持っておられる貴い方に仕えることになり,またその奉仕は今やずっと重要なものとなりました。今やその奉仕にあずかるのは,いっそう誉れあることとなりました。その方により昇進させられ,またそれゆえにいっそう重い責任を委ねられるのはほんとうにすばらしい報いでした。

      49 帰還した主人がその「奴隷」を任命して「自分のすべての持ち物」を任せたことは,その奴隷にとって何を意味しましたか。その奴隷にはどんな機会がもたらされましたか。

      49 例えの中の主人は出発する前に,「忠実で思慮深い奴隷」になるよう期待されている者に限られた責任を与えます。主人はその奴隷をご自分の召使いたち,つまり家の雇い人たちの上だけに立てて,時に応じて彼らに適当な食物を与える責務を課します。従って,主人がその帰還に際して是認された奴隷を任命し,「自分のすべての持ち物」を任せるのは,昇進した奴隷にさらに大きな責務が委ねられることを意味しています。今やその奴隷は忠実さや思慮深さをより大々的な仕方で実証できます。というのは,さらに多くの事がらを監督するからです。彼は貴重な奴隷となります。

      50 「自分のすべての持ち物」とはどこにあるものを指しますか。それは何ですか。

      50 この例えの成就において,主人がふさわしい奴隷を任命して委ねる「自分のすべての持ち物」は,天におけるその持ち物すべてを表わしてはいません。天および地における「すべての権威」を与えられた栄光を受けた主人,イエス・キリストは,聖なるみ使いたちの奉仕を受ける見えない天におけるご自分の「持ち物」すべてを世話しきれないわけではありません。任命された「忠実で思慮深い奴隷」級に委ねられた「自分のすべての持ち物」とは,樹立された天の王国に関連してイエスに属する地上の霊的な事がらすべてを指しているに違いありません。それはあたかも王イエス・キリストが今人間の立てた政治上の諸制度すべてを管理運営してでもいるかのように,この世の諸政府の何らかの部分を意味しているわけではありません。それら諸制度は滅びに定められています。従って,「自分のすべての持ち物」とは,西暦1914年に天で王国が樹立されて以来適用される数々の預言の成就において地上で一役演じることを意味しています。

      51 忠実な「奴隷」級の大使としての務めは以前のそれよりも今やどのようにいっそう大きなものとなりましたか。彼らは今,預言にかかわるどんな特権や責任を持っていますか。

      51 統治する王イエス・キリストは西暦1919年にご自分の油そそがれた弟子たちの残れる者を検閲するや,任命された「奴隷」が「召使いたち」を忠実に,また思慮深く養っているのを正しく見ました。従って,イエスはその「奴隷」級を任命してご自分の持ち物すべてを委ねました。今や責任範囲の広げられた彼らの立場とは,今こそ満期を迎えた王国の預言の成就にあずかって奉仕する立場だったのです。これまでの幾世紀もの時代を通じて「忠実で思慮深い奴隷」級は,「キリストの代理をする大使」で構成されてきました。それらの大使は,キリストを通して神と和解するよう人びとに懇願しています。(コリント第二 5:19,20)しかし1919年に任命されて以来,彼らは創始されたメシアの王国の大使であり,新たな意味や影響力を帯びた王国の音信を携えています。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)西暦1914年以来最終的成就を見ている王国の預言を成し遂げる器として尽力することが彼らの特権であり,また責任です。ヨハネへの啓示の書がその驚くべき象徴的表現を用い,またキリストの千年統治に関する輝かしい知らせを述べて予告している事がらを達成するのに用いられるのは彼らにとって何という名誉でしょう。

      52 それはどのように「奴隷」級の立場を高めるものとなりましたか。このことはヨハネへの啓示の書の中でどのように表わされていましたか。

      52 こうした特権や責任,顕職や誉れはすべて,「忠実で思慮深い奴隷」級の残れる者のために保留されていたものであって,残れる者はその天の主人である統治する王イエス・キリストからそれを授けられるのです。残れる者のことを「幸い」な者と断言できるのも何ら不思議ではありません! そうした貴重なものを託されるということは,確かに彼らが高められることを表わしています。それは敵によって殺された「ふたりの証人」に関して啓示 11章11,12節に述べられている光景に似ています。その死体はソドムに似た「大いなる都市」の大通りに三日半の間さらされました。「それから三日半ののち,神からの命の霊が彼らに入り,彼らは自分の足で立ち上がった。そのため,大いなる恐れが彼らを見ている者たちに臨んだ。そして彼らは,天から出る大きな声が,『ここに上って来なさい』と自分たちに言うのを聞いた。それで彼らは,雲のうちにあって天へ上って行き,敵たちは彼らを見た」。

      53 (イ)その「奴隷」級の特権や責任は今やなぜいっそう大きなものとなりましたか。(ロ)初期の出版物は処分されたにもかかわらず,「召使いたち」を養うわざはどのように続行されましたか。

      53 そうした高貴な特権や責任が託されていることは,「忠実で思慮深い」複合の「奴隷」を構成する人たちにさらに多くの仕事が課せられてきたことを意味します。つまり,さらに多くの時間を費やし,いっそうの注意を払うことが要求され,また地上におけるこの王国のわざに関する聖書預言が実現するためには,さらに大規模な施設を用いてそのわざを成し遂げることが必要となりました。また,より広大な畑,つまり人の住む全地のあらゆる所で働かねばなりませんでした。(啓示 14:6,7; 10:11)もちろん,主の「召使いたち」を養う計画も続行されねばなりませんでした。しかも彼らは,聖書に基づく食物の何と優れた霊的な食事で養われてきたのでしょう。C・T・ラッセルの著わした「聖書研究」や,「完成された奥義」の残った在庫文書が1927年に処分されたからといって,それら「召使いたち」の霊的な食物が欠乏したわけではありません。1921年に「神の立琴」と題する本が発表されて以来,新たな最新の書籍や小冊子また冊子が引き続き発行されました。そうです,1919年10月には「ものみの塔」誌の姉妹誌が「黄金時代」(現在の「目ざめよ!」)と題する雑誌の形で発行されました。

      54 その「奴隷」級にはヨハネへの啓示の中で描かれているどんな事がらの実現のために努力する特権が付け加えられてきましたか。その結果,さらに大きな責任が課されましたが,また助けももたらされました。どのようにしてですか。

      54 特権や責任をもって報われた「忠実で思慮深い奴隷」級はそのうえ,霊感のもとで使徒ヨハネが見て,啓示 7章9-17節で描写している美しい幻の実現のために努力しました。そうです,1935年以来,「奴隷」級はその幻が実現するのを見てきました。彼らの祝福された目は,地上のあらゆる場所から来る数限りない「大群衆」が霊的な神殿でエホバ神を賛美崇拝し,救いを神とその子羊イエス・キリストに帰するのを見ています。増加し続けるその「大群衆」を世話することは,霊的なイスラエル人の「忠実で思慮深い奴隷」級にとって大きな責任を意味しました。しかし,その「奴隷」級は「すべての国民と部族と民と国語の中から」の羊のような人たちが主人の「すべての持ち物」の貴重な部分であることを理解しているので,それら「ほかの羊」の霊的な必要物を喜んで世話しています。次いで,その「大群衆」は主の地上の「持ち物」すべてを世話する点で,「忠実で思慮深い奴隷」を援助しています。

      「もしそのよこしまな奴隷が」

      55,56 この「奴隷」級の成員はなぜ各自忠実さや思慮深さを保たねばなりませんか。イエスのどんな警告に照らしてみればそれがわかりますか。

      55 主イエス・キリストは「忠実で思慮深い奴隷」の一つの級を地上におけるその喜ばしい奉仕が終わるまで引き続き所有されます。とはいえ,その「奴隷」級を成す霊によって生み出された油そそがれた成員各自は今日,その大いに恵まれた級のうちに留まるのにふさわしくない者とならないよう,自分の行状に注意しなければなりません。自分自身忠実さや思慮深さを保たない人は,「よこしまな奴隷」になる人に似る者となります。イエスはその例えを次のように続けて述べ,こうした危険性について警告しました。

      56 「しかし,もし[も]そのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたち[文字どおりには,酔う者(たち)]とともに食べたり飲んだりするようなことがあるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て[ギリシャ語: ヘクセイ],最も厳しく彼を罰し[文字どおりには,彼を切り離し],その受け分を偽善者たちといっしょにするでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです」― マタイ 24:48-51。ルカ 12:45,46,行間。

      57 (イ)ここでイエスは,主人が最初に「よこしまな奴隷」を確かに任命すると言っていますか。それとも,任命された奴隷が悪くなると言っていますか。(ロ)この問題を提起した仕方からすれば,イエスは何を示しておられましたか。

      57 ここでイエスが述べておられることを注意深く調べてみると,イエスはここで,出発する主人がまず第一に「よこしまな奴隷」を確かに任命するなどと言ってはいませんし,また「忠実で思慮深い奴隷」が悪くなる,「よこしま」になるとも言ってはいないことがわかります。イエスは単に疑問を提起して,「もしも」(ルカ 12章45節および行間訳のマタイ 24章48節のように)召使いたちの上に任命された奴隷が心の中で「よこしま」になってしまい,主人が帰って来るまではまだ長い時間がかかると言って,不当な行ないをし始めようものなら,主人は帰って来るなり,その奴隷をこう扱うであろうと,イエスは述べておられるに過ぎません。それは奴隷が主人の持ち物すべてをつかさどるよう立てられるのとは全く逆です。それで,イエスはここで,任命された奴隷が悪い者になって,不忠実で無分別な仕方で行動するとしたら,主人が突然帰って来るとき,その奴隷はどうなるであろうかということをそれとなく述べておられるのです。それはイエスが説明したとおりになるでしょう。イエスは任命された最初の奴隷が必ず,あるいは恐らく悪い者になると言っておられるのではありません。

      58 (イ)他の現代の翻訳はこの箇所を意訳して,どう訳出していますか。(ロ)もし,イエスの任命した「奴隷」級が悪くなるとすれば,その結果イエスはどのような状態に陥りますか。

      58 イエスのこのことばに関する幾つかの現代訳は多少意訳して,こうした見解をもっとはっきり示しています。アメリカ訳は,「ところが,それが悪いしもべで,『主人は長い間留まっているだろう』と自分で考えて,ほかの奴隷たちをたたき始め,のんだくれと一緒に食べたり飲んだりしていると」と訳しています。(マタイ 24:48,49)新英語聖書も同様に訳出しています。新アメリカ聖書は,「ところが,そのしもべが無益な者で……と自分に言い聞かせて」と訳しています。R・F・ウェイマウス訳,「現代語による新約聖書」は,「ところが,もしその人が悪いしもべであるため……と心の中で言うなら」と訳しています。イエスは「よこしまな奴隷」が存在するようになることを明確に預言しておられるのではありません。単に,不忠実で思慮のない奴隷がどのように考え,話し,そして行動するか,また突然帰って来る主人からその奴隷が受ける罰について述べておられるに過ぎません。もし,主イエスの任命した「奴隷」が悪くなるなら,忠誠さのゆえに報われる「奴隷」をイエスは持てないことになるのです。イエスは二つの奴隷級を任命しておられるのではありません。

      59 (イ)イエスはどんな種類の「奴隷」のための土台を据えましたか。(ロ)預言はその「奴隷」級が悪くなると考えられること,あるいは悪くなることを示していましたか。それとも,別のことを示していましたか。

      59 イエスは19世紀前に出発する以前,よこしまで無益な悪い「奴隷」をご自分の「召使いたち」の上に任命することのないよう用心されました。クリスチャン・ギリシャ語聖書の記録は任命されたその「奴隷」が悪くはならなかったことを証明していますし,同書の預言はその「奴隷」級が悪くなるとは予想されていないこと,またそうはならないことを示しています。イエスは試みられ,吟味された使徒たちのうちに,忠実な奴隷たちの一団を築き上げる土台を据えました。啓示 7章3-8節は14万4,000人の霊的なイスラエル人全員が「わたしたちの神の奴隷たち」として印を押されることを予告しています。啓示 12章17節は,悪魔サタンなる龍が天から放逐された後,「神のおきてを守り,イエスについての証しの業を持つ」神の「女」の「胤」の残れる者と戦うことを予告しています。また,啓示 14章1-4節は,「子羊の行くところにはどこへでも従って行く」14万4,000人全員が子羊とともにシオンの山に立つことを予告しています。彼らは「地から買い取られた」者で,「神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られた」のです。

      60 (イ)「そのよこしまな奴隷」のように行動する個々の人たちは,主人イエスによりそのような者として任命されたのですか。(ロ)その種の個々の人びとは一般的に言って何を形成しますか。

      60 もし,「そのよこしまな奴隷」に関する説明どおりに行動する,霊によって生み出され,油そそがれたクリスチャンの級があるとすれば,彼らを任命し,ご自分の召使いたち,つまり「家の雇い人」たちを委ねたのは主イエスではありません。かつては「忠実で思慮深い奴隷」の成員でありながら,個人的な野望,他の人びとを支配する権力,または放縦などの利己的な理由で離れ去る人がいるかもしれません。その種の自己本位な人たちは自分たちの目標を追求して種々のグループを組織するかもしれません。とはいえ,そうした人びとは「忠実で思慮深い奴隷」級とは別個の,明確に異なる一般的な一つの級を形成しています。

      61 イエスが「よこしまな奴隷」に関して述べた事がらを例証するのに用い得る事例があるかどうかについては何と言って然るべきですか。

      61 行為やその結果に関するかぎり,主イエスはご自分の意図したことの実例となる幾つかの,あるいはある一般的な事例を伴わない例えはお用いにはならないと考えて然るべきです。これはイエスが「そのよこしまな奴隷」級もしくは同型のクリスチャンを任命したのではなく,その見えないパルーシアつまり臨在の期間中,イエスの説明どおり,不忠実で信頼や信用の置けない無思慮なクリスチャンが実際にそのようになることを示したものと言えます。

      62 この事を示すどんな事例が特に第一次世界大戦中に生じましたか。それは「忠実で思慮深い奴隷」級にどのように影響しましたか。

      62 ものみの塔聖書冊子協会を設立した「ものみの塔」誌の編集者が西暦1916年に死去した直後,そのことを示す事例が国際聖書研究者協会の成員の隊伍の中に生じました。ある人びとは当協会の定款に反して支配権を奪い取ることを企てました。主の是認を受けた組織を構成しているのはだれかに関して意見の不一致が見られました。権力を求める者たちや,合法的な定款と聖書の原則に従って事を運ぼうとする誠実な努力に満足しない人たちの企ては失敗しました。それらの人たちは印刷された文書を用いて,また口頭のことばで,さらには法廷でほしいままに,したたか「仲間の奴隷たちをたたき」ました。彼らは霊的に言って,特に第一次世界大戦中,この世の常習的な「のんだくれたち」にくみしました。このすべては当時増大する宗教上の迫害をこうむっていた組織の安定性を大いに試みるものとなりました。それは「忠実で思慮深い奴隷」級に重大な試練をもたらしました。

      63 (イ)イエスはそのような「よこしまな奴隷」のグループがご自分の「召使いたち」の家を分裂させるようなことはないというどんな保証を与えましたか。(ロ)予告されたその処置はどのように講じられましたか。

      63 イエスのパルーシアつまり臨在の期間中,「そのよこしまな奴隷」の特徴を持つ不誠実な者たちが「信仰を同じくする者の集まり」を分裂させたり,あるいはその集まりを支配して,「時に応じて」霊的な「食物」をイエスの「召使いたち」に与える任務を行なわせないようにしたりするのをイエスは許されません。イエスの例えはそれを保証するものでした。イエスは検閲の時に際して,気質のよこしまなそのような級を最大の厳しさをもって罰しました。あるいは,マタイ 24章51節で用いられているギリシャ語の動詞の文字どおりの意味に従えば,「彼を二つに切り裂くでしょう」。(英文脚注)イエスは不行跡を働く者たちのその級を「忠実で思慮深い奴隷」級から「切り離し」ました。このことは独立要求のストライキのような彼らの行動や,脱退して自分たちの好む頭を立てて独自の宗教グループを組織することとなって表われました。そうした行動の結果を調べたい人はだれでも調べることができます。

      64 主人は「そのよこしまな奴隷」のような者たちがその分をだれと同じくするように決めますか。しかし,彼らがだれとともになることを主人は欲しませんでしたか。

      64 「切り離され」たそうした級はその特徴を示し,イエスの述べた「そのよこしまな奴隷」同様の結果に陥ったので,少なくともある限られた意味では「よこしまな奴隷」級と呼び得るでしょう。主人はその奴隷の受ける「分を偽善者たちといっしょにするでしょう」と,イエスは例えの中で述べました。(マタイ 24:51)「奴隷」のことが「家令」と呼ばれている,これに対応する例えの中ではイエスは,「[主人は]……その分を不忠実な者たちといっしょにするでしょう」と述べています。(ルカ 12:46)主イエスはご自分のパルーシアつまり臨在の期間に,「そのよこしまな奴隷」もしくは「家令」の特徴を帯びる自称クリスチャンを所有したいとは全然考えておられません。そのような者たちのキリスト教は結局偽善的なものであることがわかります。彼らはキリスト教世界の宗教上の偽善者と同類であって,不忠実であること,つまり行なうよう主から任された事がらに関して忠実さに欠け,信頼や信用の置けない者であることを示しています。キリスト教世界の不忠実な自称クリスチャンと同類なのです。

      65 「そのよこしまな奴隷」のような人たちが泣いて歯ぎしりするのはなぜですか。

      65 「よこしまな奴隷」の特徴を示す人たちは,偽善者や不忠実な者たちの間では真の霊的な喜びを少しも見いださないので,それら偽善者や不忠実な宗教家たちの経験にあずからねばなりません。「そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです」。(マタイ 24:51)彼らは悔い改めるゆえにそうするのではありません。それは「悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせる」ような「敬神の悲しみ」ではありません。(コリント第二 7:10)彼らの述べることばは,苦悩や激しい失望のそれです。依然宗教上の営みを続けてはいるかもしれませんが,「[主人の]すべての持ち物」をつかさどる是認された奴隷の任務を遂行する喜びや祝福にはあずかりそこなっています。

      わなに陥らないよう,わたしたちを戒める警告

      66 ルカの記録によれば,「しるし」に関する預言の結びの中でイエスは弟子たちにどんな警告を与えましたか。

      66 「[ご自分の]臨在と事物の体制の終結のしるし」に関する預言の中でイエスは,「よこしまな奴隷」がどうなるかを示したこの例えだけでなく,それ以上に多くの警告を与えました。そのような「よこしまな奴隷」の歩む道を取らないよう弟子たちすべてを率直に戒める警告のことばを使徒たちに述べました。イエスの驚くべき預言の結びのことばに関するルカの記録によれば,イエスはこう言われました。「しかし,食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。

      67 忠実な「奴隷」級の人たちは今や,帰還した主人の「持ち物」すべてをつかさどるよう立てられているので,その主人の警告に留意するのはきわめて重要なことです。なぜですか。

      67 見えない様で臨在しておられる主イエスの「忠実で思慮深い奴隷」はその「すべての持ち物」をつかさどるべく任命されているので,前述のことばに留意するのは個々の人にとって今やきわめて重要なことです。空前絶後の「大患難」が対型的な不忠実なエルサレムであるキリスト教世界に突如臨む日は非常に近づいています。一瞬のうちに仕掛けが働くわなのように,その日は全地の表に住む人たちの上に臨むので,不注意な人たちはみな,食べ過ぎや飲み過ぎ,また生活上の利己的な事がらにかまけているうちに捕えられてしまいます。わなのようなその「日」は彼らの滅びをもたらします。「忠実で思慮深い奴隷」級の成員は,「そのよこしまな奴隷」のような者たちや,利己的で不注意な人たちと歩みをともにしたいとは思いません。

      68 (イ)単に「忠実で思慮深い奴隷」が存在するだけでなく,それ以上のどんな事がらが,「しるし」の示すようにわたしたちがどんな時期に生活しているかを示す証拠となっていますか。(ロ)従って,わたしたちは各自何を首尾よく行なえるよう祈願をささげるべきでしょうか。

      68 わたしたちの生きているこの時代の意味が自分にはよくわからないなどと言える理由はありません。わたしたちは「いちじくの木やほかのすべての木」に関するイエスの例えの勧めのことばどおりにしてきたので,自分たちはどこにいるか,また何が近いかを知っています。「忠実で思慮深い奴隷」の例えはその成就の最高潮に達しています。単にその「忠実で思慮深い奴隷」級が存在しているだけでなく,その級が任命され,主の持ち物すべてをつかさどり,世話していること ― こうした事がらは,わたしたちが即位した王イエス・キリストのパルーシア,つまり見えない様による臨在の時期に生活しており,また同時に「事物の体制の終結」の時期に生活していることを証明する「しるし」の顕著な特徴となっています。(マタイ 24:3)この「事物の体制」とキリスト教世界およびすべてのものの滅びの日は,間もなくわなのように臨もうとしています。このことにこそ「いつも目ざめて」いなければなりません。「起きることが定まっているこれらのすべての事を[首尾よく]のがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう」,わたしたちが「常に祈願」をささげるのは緊急に必要なことです。―ルカ 21:36。

      [脚注]

      a 1897年に発行された「ハルマゲドンの戦い」と題する本(英文)の613ページの「家の者に食物を分配する ― マタイ伝 24章45-51節; ルカ伝 12章42-46節」と題する見出しの箇所をご覧ください。

  • 「不法の人」を無に帰させる
    神の千年王国は近づいた
    • 18章

      「不法の人」を無に帰させる

      1 これほど多くの人びとが諸国家間の平和を求めたことはいまだかつてありませんでした。それはなぜですか。

      これほど多くの人びとが諸国家間の平和を求めたことはいまだかつてありませんでした。それは明らかにわたしたちが「核時代」に住んでいるためです。主要五大国は既に核爆弾を所有していますし,しかもその秘密が広く知られ,利用されるようになるにつれ,間もなくさらに多くの国家が核爆弾を所有するに至ると見られています。今や人類は陸上のミサイル基地だけでなく,海底の戦略的要所に潜むミサイル発射装置を持つ潜水艦による核攻撃の脅威にさらされています。

      2 従って今日,国際平和のためのどんな並はずれた運動がまのあたりで展開されていますか。

      2 従って,政治支配者が最初の核戦争を防止しようとして一見誠実そうな努力を払うのを見ても驚くには当たりません。核による全滅という現実の脅威に直面している世の支配者は互いに対していっそう慎重な態度を取る傾向を示しています。これまで妥協を排した敵対者同士も,平和を指向する妥協策を講じています。平和な将来を保証するためには,あらゆる事を行なわねばならないという感情がいよいよ高まっています。「一世代にわたる平和」への期待が高まっています。34か国で成る1973年ヨーロッパ安全協力会議はこの問題に関する国際感情を明示しています。その目標は国際的不法行為を制御することなのです!

      3 (イ)世界の物事は人びとが自己満悦してどんな叫び声を上げる事態に近づいているかに見えますか。(ロ)その時にはだれの日が近づきますか。それはそのように叫ぶ人たちをなぜ驚かしますか。

      3 世界のできごとは,諸般の物事を管理する人たちが自己満悦し,「平和だ,安全だ!」と叫んで喜ぶ事態に向かって動いているかに見えます。国際連合の満足げな優しい微笑のもとで事態がそうした状況に達したなら,「人類のための一世代にわたる平和」が始まることになるでしょうか。聖書の預言はこの問題に関して一言述べています。それは物事の起きる時や時期について多くを述べています。なぜなら,聖書の著者で,人間の創造者であられる方は時間厳守者であられるからです。その方の日は必ず訪れます! 国際的な政治運動がついに「平和と安全」を確立するかに見えても,その日を延期させるものとはなりません。人間がその日を定めるのではありません。人びとが国際的一致を図る取決めを設けて,これで「平和だ,安全だ!」と叫ぶことができると感ずる事態こそ,その日がまさに始まることを示す,予告されたしるしとなるのです。その日がもたらすものに人類は驚かされるでしょう。人間の創造者がそのみことばの中で預言したこと,またご自分の証人たちによってふれ告げさせてこられた事がらを人類は信じなかったゆえに驚かされるのです。

      4 「平和だ,安全だ!」と叫ぶ時に関してパウロはテサロニケのクリスチャンにどんなことを書き送りましたか。

      4 幾世紀もの昔になりますが,その日の到来を待ち望みつつ,霊感を受けて記されたみことばを調べた人たちがいました。19世紀の昔,使徒パウロはマケドニアのテサロニケに新しく設立されたクリスチャン会衆に手紙を送り,聖書を綿密に研究していたそれらの人たちにこう述べました。「さて,兄弟たち,時と時期については,あなたがたは何も書き送ってもらう必要がありません。エホバの日aがまさに夜の盗人のように来ることを,あなたがた自身がよく知っているからです。人びとが,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが,ちょうど妊娠している女に苦しみの激痛が臨むように,彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません。しかし,兄弟たち,あなたがたはやみにいるのではありませんから,盗人たちに対するように,その日が不意にあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな光の子であり,昼の子なのです。わたしたちは夜にもやみにも属していません。ですからわたしたちは,ほかの人びとのように眠ったままでいないようにしましょう。むしろ目ざめており,冷静さを保ちましょう」― テサロニケ第一 5:1-6。

      5 (イ)パウロはイエスが何を預言した期間の半ばごろ,その最初の手紙をテサロニケのクリスチャンに書き送りましたか。(ロ)ところが,一部の人たちは何が近いと考えましたか。何を願う傾向がありましたか。

      5 使徒パウロはマケドニアのテサロニケの会衆にあてたその最初の手紙を西暦50年ごろに書きました。それはイエスがオリーブ山で述べた預言の中で指摘された,『戦争や,戦争の知らせ』でしるしづけられる西暦33年から同70年までの期間の半ばごろでした。その期間には,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がる』ことになっていたのです。平和な時代どころではありませんでした。(マタイ 24:4-7)にもかかわらず,パウロがその最初の手紙を書いた翌年,テサロニケの一部のクリスチャンは『エホバの日はすでに来た』という考えに従うようになりました。けれども,その時分,つまり西暦50年か51年当時,実務家が「平和だ,安全だ!」と言っていたとする証拠はありません。そうした言説はパウロがその手紙の中で書いていたように,世の平和調停者に「突然の滅び」が訪れる直前に出ることになっていました。テサロニケのクリスチャンは宗教上の反対者たちのもたらす迫害ゆえに患難の時期を経ていたので,直ちに天に集められて主イエス・キリストと一緒になり,悩みから解放されることを願う傾向がありました。

      6,7 彼らはさらに患難をこうむりながら信仰を示さねばならなかったので,パウロはそれらテサロニケの人たちに何と書き送りましたか。

      6 従って,西暦51年ごろ使徒パウロはテサロニケのクリスチャンにもう一通の手紙を書いて,その霊的な均衡を回復させるのは当を得たことであると考えました。パウロは迫害と患難のもとで彼らが忍耐と信仰を保っていることに対する喜びを言い表わしてこう述べました。「これは,神の義の裁きの証拠であり,それによってあなたがたは,神の王国にふさわしい者とされるのです。まさにその王国のために,あなたがたは苦しみを受けているのです」。パウロは悶着を引き起こす者たちから彼らが間もなく解放されることを保証はしませんでしたが,「主イエスがその強力な使いたちを伴い……天から表わし示される」将来のことを指摘しました。彼らが困難な状況のもとでクリスチャンとしての信仰を示さねばならないことをよく知っていたパウロはこう述べました。

      7 「このためにこそ,わたしたちは常にあなたがたのために祈っています。わたしたちの神が,あなたがたをご自分の召しにふさわしい者とみなし,そのよみせられる善良な事がらと信仰の業のすべてを,力をもってことごとく成し遂げてくださるようにとです。それは,わたしたちの神および主イエス・キリストの過分のご親切にしたがって,わたしたちの主イエスの名があなたがたの中で栄光を受け,またあなたがたも彼との結びつきのもとに栄光を受けるためです」― テサロニケ第二 1:5-12。

      8 エルサレムのきたるべき滅びに関連して彼らの期待がむなしくならないよう,パウロはどんな考えのために興奮したりなどしないよう彼らに求めましたか。

      8 地上のエルサレムの滅亡(西暦70年)はその当時の人びとの世代内で近づいていたので,使徒パウロはテサロニケのクリスチャンが根拠のない期待のため,ユダヤ人のあの国家的大災難の生ずる以前,あるいはその直後に失望することがないよう願っていました。彼らの考え方を再調整する必要を見て取ったパウロは,今度はこう続けて書いています。「しかし,兄弟たち,わたしたちの主イエス・キリストの臨在[ギリシャ語: パルーシア],またわたしたちが彼のもとに集められることに関して,あなたがたにお願いします。エホバの日が来ているという趣旨の霊感の表現や口伝えの音信によって,またわたしたちから出たかのような手紙によって,すぐに動揺して理性を失ったり,興奮したりすることのないようにしてください」― テサロニケ第二 2:1,2。

      9 パウロはその最初の手紙の中で,キリストの臨在やクリスチャンがキリストのもとに集められることについて,テサロニケの人たちに何と語りましたか。

      9 仲間の宣教者であったシルワノ(シラス)やテモテとともに働いて,テサロニケに会衆を設立した使徒パウロは,やむを得ずその会衆を去った後に書き送った最初の手紙に,彼の言う「わたしたちの主イエス・キリストの臨在,またわたしたちが彼のもとに集められること」について書きました。テサロニケ第一 4章14-18節にこう記しています。「イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼とともにやはり連れ出してくださるからです。主の臨在の時まで生き残るわたしたち生きている者は死んで眠っている者たちに決して先んじないということ,これが,エホバのことばによってわたしたちがあなたがたに伝えるところなのです。主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパとともに天から下ると,キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。そののち,生き残っているわたしたち生きている者が,彼らとともに,雲のうちに取り去られて空中で主に会い,こうしてわたしたちは,常に主とともにいることになるのです。それで,このことばをもって互いに慰め合ってゆきなさい」。

      10,11 キリストの生涯に関する使徒マタイの記述からすれば,彼らはイエスの預言のどんな特徴に注意するよう促されていたと考えられますか。

      10 パウロがもたらしたこうした情報のほかに,その時分までにはマタイの福音書が流布されていました。同福音書は西暦一世紀の一般ギリシャ語はもとよりヘブライ語で西暦41年ごろ書かれたからです。それでテサロニケの会衆は,オリーブ山で話されたイエスの預言について使徒マタイが記録した事がらに注意するよう促されていたと考えられます。マタイの記述によれば,イエスはエルサレムの(西暦70年の)滅びを予告した後,さらにこう述べました。

      11 「それらの日の患難のすぐのちに,太陽は暗くなり,月はその光を放たず,星は天から落ち,天の諸勢力は揺り動かされるでしょう。その時,人の子のしるしが天に現われます。またその時,地のすべての部族は悲嘆のあまり身を打ちたたき,彼らは,人の子が力と大いなる栄光を伴い,天の雲に乗って来るのを見るでしょう。そして彼は,大きなラッパの音とともに自分の使いたちを遣わし,彼らは,四方の風から,天の一つの果てから他の果てにまで,その選ばれた者たちを集めるでしょう」― マタイ 24:29-31。

      12 (イ)パウロは,エルサレムが滅びたのち直ちにクリスチャンが天のキリストのもとに集められるものと期待していましたか。(ロ)壊滅的なエホバの日の訪れる前にまず何が起こらねばならないということを彼らに思い起こさせましたか。

      12 さて,エルサレムの滅亡の直後,その世代のうちに,栄光を受けた人の子のもとでみ使いたちによって神の選ばれた者たちが集められる事態が生じ,ついにはテサロニケのクリスチャンが主イエス・キリストのもとに一緒に集められるわけではないことを使徒パウロは知っていました。パウロは壊滅的な「エホバの日」が到来する前に,ローマ人によるエルサレムの滅びや政治支配者が口にする「平和だ,安全だ!」という欺瞞的な叫び声以上のものが生じなければならないことを知っていました。この特別の予備的なものについて使徒パウロはテサロニケのクリスチャンに次のようなことばで思い起こさせました。「だれにも,またどんな方法によってもたぶらかされてはなりません。なぜなら,まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わされてからでなければ,それは来ないからです」― テサロニケ第二 2:3。

      13 (イ)パウロの言う「背教」とは何を意味してはいませんでしたか。(ロ)パウロは背教の罪で非難されていたので,この言葉がどういう意味かをどのように自分自身知っていましたか。

      13 そのとおりです! まず,背教が起こらなければなりません。使徒パウロの言う「背教」とはどういう意味ですか。パウロは,単に注意を怠って離れ去ること,つまりキリスト教の信仰や実践の点でキリストの弟子たちが無関心になって落伍することを言っていたのでしょうか。そうではありません! その言葉ははるかに強烈なものを意味しています。使徒パウロはそれを知っていました。彼自身背教の罪で非難されましたが,その非難は割礼のある不信仰なユダヤ人によりもたらされました。パウロが最後にエルサレムを訪れたさい,クリスチャン会衆の統治体から次のように明言された理由で助言を与えられたのはそのためでした。すなわち,こう記されています。「兄弟,あなたが見るとおり,ユダヤ人の中には幾万もの信者がいます。そして彼らはみな律法に対して熱心です。しかし,彼らはあなたについて,あなたが諸国民の中にいるすべてのユダヤ人に対してモーセからの背教を説き,子どもに割礼を施すことも,厳粛な習慣に従って歩むこともしないように告げている,とのうわさを聞いています。それで,この点をどうすべきでしょうか。いずれにしても彼らは,あなたが到着した[ギリシャ語: エレリタース]ことを聞くでしょう」。(使徒 21:18-23)パウロがモーセに背を向けるのは,ユダヤ人の考えからすれば,背教を意味したのです。

      14 その元のギリシャ語そのものは文字どおりには何を意味しますか。それはどんな意味を帯びてきましたか。

      14 「背教」という語はそのギリシャ語の用法によれば,文字どおりには「遠ざかること」「それること」「退くこと」を意味しています。たとえば,ルカ 8章13節はこう述べています。「試みの時になると,身を引いてしまいます」。(新英)また,テモテ第一 4章1節にはこう記されています。「後の時代になると,ある人たちは信仰から離れるようになります」。(新英,エ)「ある人びとは信仰に背くようになります」。(モ)また,ヘブライ 3章12節はこう述べています。「兄弟たち,あなたがたの中では,だれも生ける神から離れる者のよこしまで不信仰な心をいだくことがないよう気をつけなさい」。(新英)「兄弟たち,あなたがたのうちのだれも,よこしまで不信仰な心に動かされ,生ける神に背く背教者にならないよう注意しなさい」。(モ)「永遠に生きておられる神から人を離れ去らせる,よこしまで不信な心」。(ア訳,エ)それで,今日の「背教」という言葉の生じた元の語は昔のギリシャ人にとって「背反,失踪」はもとより,「背信」あるいは「反逆」を意味しました。現代のある翻訳がテサロニケ第二 2章3節で「反抗」という意味を伝えているのはそのためです。

      15 「背教」という言葉に関して強烈な見方が取られていることを現代の翻訳はどのように示していますか。

      15 たとえば,ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこう述べています。「大いなる反逆が生じ,反抗者つまり救われぬ者が現われなければ,それは起こり得ないからです」。アメリカ訳はこう訳しています。「反抗が生じ,不従順の化身 ― 滅びに定められている者 ― が現われるまでそうはならないからです」。改訂標準訳はこう述べています。「まず反抗が生じ,不法の人,破滅の子が明らかにされなければ,その日は来ないからです」。モファット訳はこう訳出しています。「まず第一に反抗が生じ,不法な者,滅びに定められている者が明らかにされるまでは,それは来ないからです」。新英語聖書はこう訳しています。「悪が人の,つまり破滅に定められた人間の形を取って明らかにされる,神に対する最後の反抗の時よりも前には,その日は到来し得ないからです」。テサロニケ第二 2章3節のこうした種々の翻訳から,「背教」という言葉については強烈な見方が取られていることがわかります。

      だれに対するものか

      16 (イ)そうした背教もしくは離脱が何から生ずるものであるかはどうしてわかりますか。(ロ)この「不法の人」がひとりの人間かどうか,またその「人」が単なる反キリストかどうかを何が示していますか。

      16 では,こうした背教,こうした反逆,こうした反抗,こうした背信はだれに対するものですか。そうした反抗の発展に関するさらに詳しい説明は,それがエホバ神に対するものであることを明らかにしており,その背教はエホバ神の日に先行することになっています。その背教はついには,「不法の人つまり滅びの子」を明らかにするものとなります。それは文字どおりのひとりの人間ですか。いいえ,そうではありません。というのは,ただひとりの人間では,この預言の成就に包含される長い期間生き長らえ得るものではないからです。「不従順の化身 ― 滅びに定められている者」という表現を用いているアメリカ訳の訳し方はこの説明とよく合致します。その者が「反キリスト」と呼ばれていないことも注目に値します。確かにその者は結局は反キリストになります。西暦98年ごろ,自分の時代に関して使徒ヨハネが書き著わしたとおりです。「今でも多くの反キリストが現われています。……イエスがキリストであることを否定する者でなければ,いったいだれが偽り者でしょうか。父とみ子を否定する者,それが反キリストです」。(ヨハネ第一 2:18,22)神のみ子だけでなく,父なる神をも否定するのです。

      17 この神の反対者は「滅びの子」と呼ばれていますが,これは何を意味していますか。その滅びはいつ到来しますか。

      17 そのようなわけで,「不法の人」を神の反対者と呼ぶのはいっそう適切です。この神の反対者は神に対して不法な者であって,父なる神に反対しているので,神のみ子イエス・キリストにも反対しています。この「不法の人」は現われる前から「滅びの子」という名で呼ばれています。この比喩的な表現は,滅びを受け継ぐ者,有罪の宣告を受けて滅ぼされる,つまり「滅びに定められている」者を意味しています。「不法の人」は滅びに値します。その滅びは必至です。その正当な滅びは「エホバの日」にさいしてその者に臨みます。その日が来る前にこの神の反対者は明らかにされます。

      18 (イ)その不法な者は「背教」と関係している以上,これはその者と神との関係に関して何を示していますか。(ロ)パウロの時代の生来のユダヤ人は神との平和な関係にあったのに,後に変節してその関係から離れたのでしょうか。

      18 あらかじめ滅びに定められているこの「不法の人」は,予告された「背教」つまり反逆,神に対する反抗と関係しています。この事実は確かにその「不法の人」が元は神との交わりを持ち,神との平和な関係にあったことを示しています。使徒パウロがテサロニケのクリスチャンに手紙を書き送った当時,神と平和状態にあり,神と和合した関係にあったのは割礼を受けた生来のユダヤ人ではありませんでした。テサロニケで暴徒を扇動して立ち上がらせ,使徒パウロを同市から,また後にはベレアから逃れざるを得ないようにさせたのはそうしたユダヤ人でした。(使徒 17:5-15)テサロニケの人たちにあてた最初の手紙の中でパウロはこう書いています。「彼ら[ユダヤの諸会衆](も)ユダヤ人の手で(苦しめられていますが)……ユダヤ人は主イエスをも預言者たちをも殺し,そしてわたしたちを迫害したのです。さらに,彼らは神を喜ばせてはおらず,むしろすべての人の利益に逆らっています。諸国の人たちが救われるようにとわたしたちがその人たちに語りかけるのを,彼らは妨げようとしているからです。その結果,彼らは常に自分たちの罪の限りを満たしています。しかし,神の憤りはついに彼らの上に臨んでいるのです」― テサロニケ第一 2:14-16。

      19 では,だれから背教が始まると予想し得ましたか。それはどうしてですか。

      19 では,クリスチャン会衆以外のどこから背教が始まると予想し得たでしょうか。「パウロとシルワノとテモテから,わたしたちの父なる神および主イエス・キリストと結ばれたテサロニケの人たちの会衆へ: 父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなたがたにありますように」と同使徒が書き送ったのは,テサロニケの会衆で代表されるクリスチャンに対してでした。(テサロニケ第二 1:1,2)それらクリスチャンは変節して神から離れる,つまり神に反逆し,反抗することがあり得ました。なぜなら,彼らは神と,また神のメシアとともにあって,天の父なる神から,そのみ子イエス・キリストを通して過分の親切と平安を受けていたからです。それでは,クリスチャン会衆から出るそうした反抗者とはだれでしょうか。

      20,21 (イ)背教はユダヤ国民の内部からではなく,クリスチャン会衆の内部から始まることになったのはなぜですか。(ロ)パウロはきたるべき背教についてどんな言葉を用いてエフェソスの長老会に警告しましたか。

      20 神はご自分の選民としてのユダヤ国民を既に退けておられたので,今や神に属するものとなった会衆のただ中から背教,つまり宗教上の反逆もしくは反抗が起きることを使徒パウロは自ら警告しました。神の会衆は今や霊的なイスラエル人,つまり霊的なユダヤ人で構成されており,割礼を受けた生来のユダヤ国民はもはや神の会衆ではありませんでした。テサロニケの人たちにあてて第二の手紙を書き送ってから何年かの後,パウロはエルサレムへの最後の旅行の途中,たまたま小アジアの都市ミレトスに立ち寄り,そこで近くのエフェソスの会衆の長老会つまり「長老たちの一団」に話をしました。背教のことをあらかじめ指摘したパウロはそれら長老つまり監督たちにこう語りました。

      21 「あなたがた自身と群れのすべてに注意を払いなさい。神がご自身のみ子の血をもって買い取られた神の会衆を牧させるため,聖霊があなたがたをその群れの中に監督として任命したのです。わたしが去ったのちに,圧制的なおおかみがあなたがたの中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。そして,あなたがた自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事がらを言う者たちが起こるでしょう」― 使徒 20:28-30。

      22,23 (イ)ペテロもまた,そのどの手紙の中で,まただれに対してきたるべき背教に気をつけるよう警告しましたか。(ロ)ペテロがその手紙の中で述べた事がらは,不法な「滅びの子」がだれかを見きわめるのにどのように助けとなりましたか。

      22 使徒パウロと同様,その仲間の使徒ペテロもやはりきたるべき背教について気づいていました。西暦64年ごろに記されたその第二の,そして最後の手紙の中でペテロは,「わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義により,わたしたちと同じ特権としての信仰を得ている人びと」に語りかけました。

      23 それらの人たちに対する手紙の中でペテロはさらに言葉を続けてこう述べました。「預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく,人が聖霊に導かれつつ,神によって語ったものだからです。しかしながら,民の間に偽預言者も現われました。それは,あなたがたの間に偽教師が現われるのと同じです。実にこれらの者は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった主人のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです。さらに,多くの者が彼らの不品行に従い,そうした者たちのために真理の道があしざまに言われるでしょう。また,彼らは強欲にもまことらしいことばであなたがたを利用するでしょう。しかし彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのでもなければ,その滅びはまどろんでいるのでもありません」。(ペテロ第二 1:1,21から2:3)このことばはあの不法な「滅びの子」がだれかを見きわめるのに助けとなります。

      24,25 パウロやペテロが述べた前述の事がらから考えて,「不法の人」とは何かを見きわめるのに役だつどんな質問が生じますか。

      24 使徒パウロやペテロが背教について述べる事がらから考えて,「不法の人……滅びの子」とはいったいだれでしょうか。「長老たち」つまりエフェソスの会衆を代表する「監督たち」に対して使徒パウロは,宗教上の分野で「曲がった事がらを言う」者たちが起こるであろうと語りました。これで問題はクリスチャン会衆の宗教上の指導者たち,つまり『神の会衆を牧す』べくその職に任じられた,もしくは任命された人たちに局限されます。では,神の会衆の者と称しながら,「圧制的なおおかみ」に似た宗教上の指導者たちとはだれでしょうか。「群れを優しく扱わ」なかった,クリスチャンと称する指導者たちとはだれでしたか。会衆の中で「弟子たちを引き離して自分につかせ」ようとして「曲がった事がら」を話す者として起こった有力な宗教家たちとはだれでしたか。昔のイスラエルの民の中に現われた偽預言者のように,霊的なイスラエル人の中で「偽教師」であることを示してきた人たちとはだれですか。

      25 そうです,自ら神の会衆を成す者と考えている人たちの中に「破壊的な分派」を持ち込んだ宗教指導者たちとはだれでしょうか。自分たちの宗教上の教えや行為によって実際には,「自分たちを買い取ってくださった」天の所有主を否認してきた,そうした派閥的な指導者たちとはだれですか。どんな宗教指導者たちは一般世俗の権威との関係において「不品行」の罪を持つ者であることを示してきましたか。どんな宗教指導者たちは自分たちの群れに見倣わせるには悪い手本を残し,そのために「真理の道」は「あしざまに言われる」ようになりましたか。どんな宗教指導者たちは自分たちの会衆の人びとの持ち物をむさぼり,そのうえ「まことらしいことばで」彼らを食い物にしてきましたか。

      「不法の人」の正体を見きわめる

      26 証拠はだれを指し示していますか。アメリカナ百科事典は,それと見分けられている者をどのように説明していますか。

      26 過去千六百年にわたる人類史の証拠はキリスト教世界の僧職者を指し示しています。キリスト教世界の「僧職者」とはどういう意味かはっきりわからない方がもしおられるなら,アメリカナ百科事典(1929年版)第7巻,90ページの次のような説明を読んで,その点をはっきりさせてください。

      キリスト教の教会における僧職者(ラテン語クレリカスで,身分を意味するギリシャ語クレロスに由来する),つまり僧職につくよう聖別された信者のあの部分。聖務や称号,特典,権利,特異な服装および慣習が増し加わることにより,俗人からの分離はいっそう顕著になった。ローマ・カトリック教会の僧職には八つの階級つまり区別がある。すなわち,単なる僧,四つの下級聖品級,および副助祭・助祭・司祭の三つの聖品級のそれである。……最後の三階級は聖職叙任を受けたものとみなされている。単なる僧は教会の剃髪式を受けた者であり,その儀式により当人は教会書記あるいは僧とされ,またそうした身分の者として特定の権利や特典また免除を受け,俗人には課せられていない特定の義務を負う。プロテスタント諸教会における僧職と俗人との相違はそれほど大きくはない。

      27 (イ)会衆を僧職者と俗人に二分することは,イエスのどんな言葉に反していますか。(ロ)啓示の書の中でヨハネは会衆の成員すべてをどのように類別していますか。

      27 クリスチャン会衆のかしら,イエス・キリストは,弟子たちを僧職者と俗人に分けるよう指図を与えましたか。弟子たちを二つの概括的な級に分けるようにとの指図は,マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書,あるいは使徒たちの活動の書,またはヨハネへの啓示の書のどこにもありません。イエスの指図はそれとは全く逆のものです。エルサレムの神殿でのこと,イエスはご自分の弟子たちとユダヤ人の群衆にこう言われました。「しかしあなたがたは,ラビと呼ばれてはなりません。あなたがたの教師はただひとりであり,あなたがたはみな兄弟だからです。また,地上のだれをも父と呼んではなりません。あなたがたの父はただひとり,天におられるかただからです。また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなたがたの指導者はひとり,キリストだからです。あなたがたの間でいちばん偉い者は,あなたがたの奉仕者でなければなりません」。(マタイ 23:8-11)イエス・キリストを通して与えられた啓示の書の中で使徒ヨハネは,キリストの弟子たちすべてのことを祭司として指摘して,こう述べています。「彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである……」。「(あなたは)彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対して王として支配するのです」― 啓示 1:6; 5:10。

      28 同様に,ペテロの最初の手紙の中でもやはり会衆のそれら成員はすべてどのように類別されていましたか。

      28 同様に使徒ペテロは,それらクリスチャンはすべて祭司であるということを指摘して彼らにこう書き送っています。「あなた方もまた,生ける石として霊的な家,聖なる司祭職として築き上げられなさい。イエス・キリストにより,神に受け入れられる霊的な犠牲を捧げるためである。しかし,あなた方は選ばれた世代,王の司祭職,聖なる国民,買い取られた民である。それは暗闇からご自分の驚くべき光にあなた方を呼び入れてくださったお方の徳を明らかにするためである」― ペテロ第一 2:5,9,ローマ・カトリック,ドウェー訳。

      29,30 (イ)ドウェー訳聖書はペテロ第一 5章1-3節で「僧職者」という語をどのように適用していますか。(ロ)現代の種々のカトリック訳はここで関係しているギリシャ語をどう訳出していますか。

      29 「僧職者」という意味の英語の用語はドウェー訳聖書にはペテロの最初の手紙の中に次のように確かに一回出てきます。「それゆえ,私は,あなた方の中の老齢者たちに,同じく老齢者のひとり,キリストの苦難の証人,またやがて現われるあの栄光にあずかる者として勧める。あなた方のうちにいる,神の羊の群れを牧しなさい。強いられてではなく,進んでその世話をし,卑しい利得のためではなく,自発的にそうしなさい。また,僧職者の上に権力をふるうのではなく,むしろ心から群れの手本となるべきである」。(ペテロ第一 5:1-3,ド)しかし,聖書のこの翻訳の中でさえ,神の霊的な羊の群れ全体が「僧職者」と呼ばれており,使徒ペテロと同様な「老齢者たち」はその「僧職者」の上に権力をふるってはならないと戒められているのです。とはいえ,ペテロ第一 5章3節のギリシャ語の言葉クレロス(複数形)のそうしたドウェー訳の訳し方には満足できなかったので,現代のローマ・カトリックの聖書翻訳はギリシャ語のその言葉を英語で別の仕方で訳しています。例えば次のとおりです。

      30 「また,あなた方に委ねられている団体の独裁者になるのではなく,群れ全体が従い得る模範となりなさい」。(エルサレム聖書)「あなた方に割り当てられた人たちの上に権力をふるうのではなく,群れの模範となりなさい」。(新アメリカ聖書)「それでも,託された人たちの上に権力をふるうのではなく,群れの模範となりなさい」― ウエストミンスター訳新約聖書。

      31 イエスがマタイ 23章10-12,14,33節で言われたことから考えて,自らを「俗人」とは別個の「僧職者」として目立たせる人びとの動機についてわたしたちが尋ねるのはどういう訳ですか。

      31 霊感を受けた,イエスの使徒たちが「司祭職」や「僧職者」(ドウェー訳)という語を神の羊の群れ全体に適用し,それらの語を使徒ペテロと同様な「老齢者たち」つまり「長老たち」に局限していない以上,ここで次のように問うのは差し出がましいことではありません。自らを「司祭」と称し,また霊感を受けた聖書に出ていない,いわゆる「俗人」という用語で呼ばれる人たちとは別個の異なった者として自分たちのことを「僧職者」と呼ぶ,キリスト教世界の宗教指導者は何者なのでしょう。それら宗教指導者はどんな動機でそのように自らを目立たせているのでしょうか。自らを何に仕立てようとしているのでしょうか。ユダヤ人の律法学者やパリサイ人のことを「偽善者」また「蛇よ,まむしの族よ」と言って公然と非難したイエス・キリストが次のように言われたのをわたしたちは思い起こします。「また,師と呼ばれてはいけない。あなた方の師はただひとり,キリストだからである。あなた方の中で一番偉大な者は,あなた方に仕える者でなければならない。だれでも自分を高める者は低くされ,自分を低くする者は高められるであろう」― マタイ 23:10-12,14,33,ドウェー訳。

      32 キリスト教世界の宗教指導者は,自分たちのことを「俗人」とは異なった者として「僧職者」と呼び始めたのはいつでしたか。

      32 実際のところ,キリスト教世界の宗教指導者はいつ自らを僧職者と呼び,「司祭」という称号を自分たちのために確保し始めましたか。マクリントクとストロング共編,「百科事典」はその第二巻,386ページで,「2. 僧職者と俗人の区別」という見出しのもとに,僧職者と俗人の「対比」つまり対照についてこう述べています。

      僧職者と俗人とのユダヤ人特有の対比は最初クリスチャンの間では知られてはいなかった。信者すべてがキリスト教の一般司祭職にあずかるという考え方が,特別司祭職つまり特別僧職という考え方にほとんど完全に取って代わられたのは,「人々が福音主義的な見方からユダヤ人特有のそれに戻ってからのことである。……ゆえに,テルツリアヌスさえ(モンタニストになる以前の著書,「バプテスマに関して」の17章で)[こう述べた]。「俗人もやはり秘跡を執行し,地域共同体内で教える権利を持っている。神のみ言葉と秘跡は神の恩寵によってすべての人に伝えられたのであって,それゆえに神恩を伝える手だてとしてのそうしたものにクリスチャンはすべてあずかることができよう。しかし,ここで問題は,単に何が一般に許されているかという点だけでなく,現状では何が適当かという点にも関係しているのである。ここでわれわれもまた,聖パウロの述べた,『一切のもの我によからざるなし,されど一切のもの益あるにあらず』という言葉を用いることができよう。もし,教会内で維持される必要のある秩序に着目するとすれば,従って俗人は時と事情が要求する場合にのみ,秘跡を執行する司祭としての権利を行使できるであろう」。教階制度の教父……キプリアヌスの時代以来,僧職者と俗人との区別が顕著になり,ほどなくして一般的に認められるようになった。実際,クレルス(クレロス,オルド)という用語は三世紀以後,僧職者と俗人を区別するためほとんど独占的に僧職に適用された。ローマ教階制が発達するにつれて,僧職者は単に(使徒伝承の規定や教義すべてとあるいは合致するかもしれぬ)明確な階級となっただけでなく,唯一の司祭職,また人間と神との意思伝達の主要な機関として認められるに至った。

      33 そのキプリアヌスとはどんな人でしたか。三世紀当時の会衆で彼はどんな職務に就きましたか。

      33 アメリカナ百科事典,第8巻,368ページによれば,前述のタスキウス・カエキリウス・キプリアヌスは西暦200年ころに生まれ,同258年9月14日,アフリカのカルタゴで死にました。「バプテスマを受けた(246年)後まもなく,彼は司祭として叙任され,次いでカルタゴのクリスチャンにより彼らの司教に選ばれた(248年)。……彼は自分の司教区の救済強化に大いに尽力し,彼のもとで宗教会議が七回開かれ,その最後の会議は256年に催された」と記されています。このアフリカの司教は教会の「教父」のひとりとみなされ,ローマ・カトリック教会によって聖列に加えられたとはいえ,僧職団のひとりであったこと,つまりイエス・キリストの使徒たちやその一番近い仲間たちの死去後存在するようになった僧職者のひとりであったことには変わりありません。

      34 「不法の人」という表現により聖書はどんな人のことを意味していますか。どうしてそう言えますか。

      34 問題の「背教」つまり「反逆」もしくは「反抗」に関連して「不法の人……滅びの子」であることを自ら明らかにしたのは,このいわゆる「クリスチャン」と称する僧職者です。明らかに聖書はこうした表現を用いることによって,それが長期間にわたって存続し,時の経過とともにその構造あるいは構成員の変わる複合の「人」であることを意味しています。そのようなわけで,この「不法の人」の成員は三世紀当時のそれとは異なっています。

      神性を有するという主張

      35 その「不法の人」が神性を切望しても驚くには当たりません。なぜですか。「不法の人」はそれをどれほど切望しますか。

      35 僧職者で成るこの「不法の人」の「背教」もしくは「反抗」はエホバ神に対するものであってみれば,その複合の「人」が神性を切望し,自らをある種の神に仕立てようとしても驚くには当たりません。エホバ神に背いた最初の反抗者すなわち悪魔サタンは自らをある種の神に仕立てたので,使徒パウロは彼のことを「この事物の体制の神」と呼んでいます。(コリント第二 4:4)異教の古代バビロンの王は悪魔サタンの影響を受けて自らを,エルサレムに神殿を持っておられたエホバ神に匹敵する者に見せかけようとしました。イザヤ書 14章14節によれば古代バビロンのその王は,『たかき雲漢にのぼり至上者のごとくなるべし』と心の中で言いました。そして,西暦前607年にエルサレムとエホバ神の神殿を滅ぼしたとき,自分の野望を遂げたと考えました。エホバ神と同等の者になりたいとの野望を抱いたそのバビロニア人がもたらしたエルサレムとその神殿の滅びは,僧職者で成るこの「不法の人」によって引き起こされた,エホバ神と関係のある事物の破壊のすべてと比べれば,取るに足りない事がらとなります。

      36 その複合の「人」はあたかもエホバに対して責任を負ってはいないかのようにどのように行動していますか。その「人」についてパウロはテサロニケの人たちに常に何を告げていましたか。

      36 宗教上の事がらの面で反抗者であるこの「不法の人」は,あたかもいと高き全能の神エホバに対して責任を負ってはいないかのように,つまりあたかも生ける唯一真の神の法の及ばない者でもあるかのように行動してきました。使徒パウロはこの複合の「不法の人」について次のような驚くべき事を預言的に述べたからといって極端なことを言っているわけではありません。「彼は,すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるものに逆らい,自分をその上に高め,こうして神の神殿に座し,自分を神として公に示します。まだあなたがたとともにいた時,わたしが常々こうしたことをあなたがたに話したのを覚えていないでしょうか」― テサロニケ第二 2:4,5。

      37 パウロの預言がどのように成就したかを確証するものとして,ある人はどんな著名な宗教家のことを指摘しますか。それはなぜですか。

      37 もちろん,僧職者で成る「不法の人」がこの預言を成就してきたことを確証するものとして,いわゆる「クリスチャン」と称する僧職者の一成員の言行を,あるいはその成員に神性があるとする主張を指摘する人がいるかもしれません。例えば,ローマ・カトリック教会の教皇のことを指摘し,フェラリスの教会辞典bがそうしたローマ教皇について述べることを引用するかもしれません。すなわち,同辞典はこう述べています。

      教皇はかくも尊厳で,位が高いがゆえに,単なる人間ではなくて,いわば神であり,神の代理者である。……従って,教皇は天と地と地獄の王として三重冠を載いているのである。……それのみならず,教皇の卓越性と権能は単に天上,地上および地獄の事物にかかわるものであるだけでなく,教皇はまた天使よりも位が高く,その上級者である。……ゆえに,もし天使が信仰に背いたり,あるいは信仰に反する意見を抱くことがあるとすれば,教皇はそのような天使を裁いて破門に付すことができよう。……かくも偉大な尊厳さと権能を有するがゆえに,教皇はキリストと全く同一の審判者席を占めているのである。……ゆえに,教皇が行なうことはすべて,神の御口から出る事がらと考えられる。……教皇はいわば地上における神,キリストの忠実な信者たちの唯一の君主,最高の権能を有する,あらゆる王の中の最大の王であって,地と天の王国の統治権を委託された者である。……教皇はかくも大いなる権威と権能を有するがゆえに,神の法の修正,布告もしくは解釈を行なうことができる。……場合によっては,限定したり,解釈したりして神の法を無効にすることもできる,云々。

      38 しかし僧職者一個人のことを指摘するさい,何を忘れてはなりませんか。それで,「不法の人」に関するこの預言は実際にはどのようにして成就されてきましたか。

      38 とはいえ,「不法の人」とはローマの教皇あるいはアテネのギリシャ正教の主教,コンスタンチノープル(イスタンブール)のギリシャ正教の主教その他の教会の主教のようなただ一人の宗教指導者ではないことを忘れてはなりません。予告された「不法の」者は複合の「人」つまり教会の自称「クリスチャン」の僧職者全体なのです。もちろん,僧職者で成るその「人」の顕著な一成員の行なうことは,僧職者級の他の成員全員に非難をもたらすものとなります。というのは,それら他の成員は行なわれていることに同意し,あるいは反対せず,つまりそれを黙認し,僧職組織とともに留まっているからです。僧職者級の一成員がその団体全体を代表して話したり行なったりする場合のように代表的な仕方でなす事がらに対して僧職者全員は連帯過失責任を問われます。僧職者級が全体として何世紀もの時代を通じて行なってきたこと,あるいはそれに加担してきたことが,「不法の人」に関する預言を成就するものとなっているのです。

      39 「不法の人」級はエホバに『逆らって』立っていることをどのように示してきましたか。

      39 その「不法の人」級は霊感を受けた弟子ヤコブがその手紙の中で次のように述べた法則どおり,自らを世の「友」とすることによって『逆らって』立ち上がっていることを示してきました。「この世との友交は神に敵するものである。それゆえ,だれであれ,この世の友となる者は神の敵となるのである」。(ヤコブ 4:4,ドウェー)反抗し,霊感のもとに記された神のみことばを無効にしようとしたり,あまつさえ教会を支持する成員から聖書を奪ったり,あるいは遠ざけさせたりしようとする者はエホバ神に反抗しているのです。霊と真理をもってイエス・キリストを通してエホバ神を崇拝しているキリストの弟子たちに反抗し,彼らを迫害する者はエホバ神に反抗しています。(ヨハネ 4:24)その者は生ける唯一真の神に対するものである崇拝や崇敬の念を奪い,それを一段と高められた僧職者級に向けさせることによって真の神に反抗しているのです。

      40 「不法の人」級は教会と国家の問題に見られるように,地上の唯一の神として活躍すべくどのように努力してきましたか。

      40 「不法の人」級は地上の舞台における唯一の神,実際のところ地上の神々の中の神となることを欲しています。このことはキリスト教世界の教会が政治上の国家と結んできた諸関係を通じて実際に明らかにされてきました。教会と国家のそうした結合関係において僧職者は常に優勢な当事者となり,命令する側に立つべく努力してきました。教会と国家はコンスタンチヌスの時代以来そうした結合関係を持ってきました。が,実際のところそれは,権威,名声,保護,免除,支持その他の利己的な恩典という形で僧職者が利得を得られる打算的な結合関係となってきました。アメリカナ百科事典,第6巻はその657,658ページで「教会と国家」に関して次のように述べています。

      近代においてこの二つの制度間の完全な一致はたとえ存在したにせよ極めてまれなことであった。この闘争は非常に長引いたものであるだけに,何らかの驚くべき大変動でも起こらない限り,果てしなく続く見込みが十分にある。それは激しい闘争であって,それには大きな権益が関係し,またそれは重大な論議に世の注目を引くものとなってきた。それはさまざまの暴動を誘発し,政治上の論争を別にすれば無類の罵り雑言を弄する著作を生み出すものとなった。それは往々にして単なる政治的論争であった。……コンスタンチヌスのもとで教会は諸民族を教化する仕事の協力者として世界的な活動舞台に登場し,精神的支配者として認められるにつれ,徐々に現世の主権者としての具体的存在場所と名前を取得し,ある種の世界強国となったのである。こうした点での成功は,教会のさまざまな災難すべての発端となった。……コンスタンチヌス以後シャルルマーニュの時代に至るまでは世俗の勢力は教会を適法と認めたものの,その統治権には干渉した。シャルルマーニュ以後宗教改革時代の迫った時期までは,教会と国家は密接に結合し,世俗の権威が教法上のそれに服する状態が一般的に認められた。

      41 (イ)歴代のローマ皇帝は,「不法の人」が自らその上位に立たねばならなかった宗教上のどんな身分を有していましたか。(ロ)ローマ皇帝は宗教上のどんな職に就いていましたか。その職は背教した教会に関してどのように用いられましたか。

      41 異教のローマ帝国歴代の皇帝が神々として列され,神々あるいは神人として皇帝に対し香が供されたのは歴史の事実です。四世紀のコンスタンチヌス大帝の時以来,「背教」者であった司教たちは国家と結び付いて,神格化されたローマ皇帝に対する支配権を獲得しようとしました。コンスタンチヌス帝は異教とキリスト教を一緒にして融合宗教を作り出すことに努め,背教した司教たちの奉ずる宗教を国教として制定しました。彼は西暦337年に死にましたが,その最期まで宗教上の首長である最高僧院長という異教の称号を帯びていました。しかも,西暦325年に教会の司教たちの宗教上の論争に決着をつけるために開かれたニケア公会議は,当時まだバプテスマを受けていなかったコンスタンチヌスが最高僧院長として召集したものでした。そのとき彼は教会の司教の大多数によって教えられていた三位一体(三位における唯一の神)という異教の教理に有利な決定を下しました。

      42 好機が到来するや,「不法の人」はどのようにして,まただれを通して,「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの」以上に自らを高めましたか。

      42 379年cにはローマの司教である教皇にとってまたとない好機が到来しました。それはクリスチャンと称したグラチアヌス帝が最高僧院長という異教の称号とその職を放棄した時のことでした。時の教皇ダマスカスは,それがもたらす全住民に対する宗教上の権力,権威,影響力および支配権のすべてを掌握するため,良心の呵責を感ずることもなくそれを拾い上げました。しかも,住民の大半は依然異教徒であり,それが異教の称号であることを知っていたのです。こうして宗教上の事がらにおいては,ローマの司教である教皇はローマ皇帝以上に高められました。ローマ・カトリック教会の教皇は今日に至るまで引き続きその異教の称号を有すると主張し,それを用いてきました。僧職者級の中でも最も著名な成員である教皇によって代表されているように,「不法の人」は「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの」の上に自らを高めました。キリスト教世界の司祭や伝道師は,「師」「尊師」その他の尊称を付して呼ばれたり,そうした称号を受けたりするのを好んでいることは周知のとおりです。彼らは教区民あるいは教会員に対し,自分たちのことを敬称を付して呼ぶよう命じ,また要求しています。

      43 「不法の人」級はどんな神殿に自らある種の「神」として座しますか。また,自分たちの権力をだれに強制的に認めさせますか。

      43 「不法の人」は「神の神殿」に座し,「自分を神として示し」,その「神殿」は神の教会と称されています。使徒パウロは一世紀当時の真のクリスチャンにこう書き送りました。「あなたがたは,自分たちが神の神殿であり,神の霊が自分たちの中に宿っていることを知らないのですか。もしだれかが神の神殿を滅ぼすなら,神はその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからであり,あなたがたはその神殿なのです」。(コリント第一 3:16,17。また,コリント第二 6:16)「背教」を引き起こした者たちは最初,ほかならぬこの霊的な「神殿」級から離れたのです。彼らは最初の真の「神殿」級を認めようとはしません。それどころか,それら背教者は自分たちの設立する背教した会衆を「神の神殿」と称します。彼らはその背教的な「神殿」に座し,その中でいわゆる「俗人」とは明確に異なった「僧職者」としての自分たちの座を維持しているのです。その神殿でキリスト教世界の僧職者級は自らがある種の「神」であることを示しています。僧職者級は自分たちの権力を政治家,実業家また軍の高官に強制的に認めさせ,また戦時にさいしては決まって政治運動により僧職者の権力と支持が求められます。

      一世紀当時働いていた「抑制力」

      44,45 (イ)一世紀当時,「不法の人」の発生および形成を食い止める「抑制力」として働いたのは何でしたか。(ロ)使徒ヨハネはその第三の手紙の中で述べているように,抑制の働きをするそうした影響力のことをどのように例証しましたか。

      44 たいへん長い時代を経た今となっては,「不法の人」は何世紀にもわたって明らかにされてきましたが,一世紀,つまりイエス・キリストの正真正銘の使徒たちの時代においてはそうではありませんでした。当時それはまだ明らかにされてはいませんでした。それで使徒パウロは西暦51年ころ記した手紙の中でテサロニケのクリスチャンに対して次のように書きました。「それで今あなたがたは,抑制力となっているものについて知っています。それは,彼がその定めの時に表わされることを見越しているのです」。(テサロニケ第二 2:6)それら一世紀当時のクリスチャンはその「抑制力」とは何かを知っていました。というのは,パウロがそれを彼らに知らせたからです。事実,それを彼らに明らかに示したからです。では,当時,「抑制力」として働いていたものとは何ですか。それは使徒パウロを含む,イエス・キリストの正真正銘の使徒たちの一団でした。使徒たちは一致結束して,「不法の人……滅びの子」の発生および形成を食い止めました。そのことを示す一例として,西暦98年ころクリスチャンにあてて記した第三および最後の手紙の中で使徒ヨハネが述べたことを次に挙げましょう。

      45 「わたしは会衆にいくらかのことを書き送りましたが,デオトレフェスは,彼らの中で第一の地位を占めたがって,わたしたちからは何事をも敬意をもって受け入れません。だからわたしは自分が行ったら,彼が行ないつづけている業,わたしたちのことをよこしまなことばでしゃべっているのを思い出します。また,彼はこうしたことで満足せず,自分が兄弟たちを敬意をもって受け入れもしなければ,受け入れようとする者たちを妨害し,会衆から追い出そうとします」。(ヨハネ第三 9,10)そのデオトレフェスはまさしく「不法の人」の特徴を表わしていました。使徒ヨハネは彼の言動を食い止める,つまり適当に「抑制」する努力を払いました。他の使徒たちも同じような事例において同様の働きをしました。

      46 パウロは当時でさえ「不法の人」級を形成しようとする傾向があったことをテサロニケの人たちにどのように指摘しましたか。

      46 西暦33年のペンテコステの日にクリスチャンの「神殿」級が設けられてから二十年も経っていなかった当時でさえ,「不法の人……滅びの子」を形成しようとする傾向を示す証拠があることに使徒パウロは気づいていました。パウロがテサロニケの会衆に対してさらにこう続けて述べたのはそのためでした。「たしかに,この不法の秘事はすでに作用しています。しかしそれが秘められているのは,今のところ抑制力となっている者が除かれるまでのことなのです」― テサロニケ第二 2:7。

      47 パウロはなぜ,「この不法の秘事」として既に働いていたものに言及しましたか。

      47 きたるべきその「不法の人」の正体には,秘事,もしくは宗教上の秘密めいたところがありました。今日でもキリスト教世界の聖書解説者の中には,その「人」とはあるひとりの男子であると論じ,その者を反キリストと呼ぶ人たちがいます。しかし,アメリカ訳は適切にも,この不思議な人物の名称を「不従順の化身」と訳出しています。(テサロニケ第二 2:3)これは,「不法の人」とは複合の人,つまりエホバ神に対して不法を働き,何世紀もの時代にわたって存続してきた僧職者級のことであるという事実と合致します。使徒パウロが,「この不法の秘事」は当時すでに働いていたと言い得たのも十分の根拠があってのことでした。それはまだ,人という象徴によって指摘されるほど明確な形を取ってはいませんでした。しかしクリスチャン会衆内には,明確に立てられて,正体を見分けられ得るその級をやがて生み出すものとなるある種の働きが進行していました。とはいえ,パウロの時代にはその「秘事」は依然として「不法の者」の到来と関係がありました。

      48 「この不法の秘事」が既に働いていることを示す証拠として,パウロはコリント人のクリスチャンにどんな事を書き送ることが必要になりましたか。

      48 「この不法の秘事」が既にクリスチャン会衆内で働いていることを示すにあたって,使徒パウロはこの問題に関する前述の論議を述べてからわずか数年後のこと,ギリシャのコリントの会衆に次のように書き送る必要のあることに気づきました。「さて,わたしは,自分が行なっていることをこれからも行なってゆきます。その誇る職務においてわたしたちと同等に見られる口実を欲している者たちからその口実を断つためです。そのような人たちは偽使徒,欺瞞に満ちた働き人で,自分をキリストの使徒に変様させているのです。それも不思議ではありません。サタン自身が自分をいつも光の使いに変様させているからです。したがって,彼の奉仕者たちが自分を義の奉仕者に変様させているとしても,別にたいしたことではありません。しかし,彼らの終わりはその業に応じたものとなります」― コリント第二 11:12-15。

      49 「この不法の秘事」の働きが一世紀当時の最後の十年間の時期にも依然として続いていたことは,ヨハネを通してどのように指摘されましたか。

      49 偽指導者つまり「偽使徒」を生み出すこうした宗教上の働きは,西暦一世紀の,それも最後の十年間の時期に至るまで持続しました。その証拠に,年老いた使徒ヨハネは西暦96年ころ啓示を受け,その中で彼は栄光を受けたイエス・キリストから,小アジアのエフェソスにある会衆の「長老たちの一団」に書き送るよう命じられました。その幻の中でイエスから行なうよう命じられた事がらを告げるにさいして,ヨハネはこう述べています。「エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。右手に七つの星をしっかりと持つ者,七つの黄金の燭台の中央を歩く者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするがそうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを知っている。……とはいえ,わたしにはあなたを責めるべきことがある。それは,あなたが,最初にいだいていた愛を離れたことである」― 啓示 2:1-4。テモテ第一 4:14,英文脚注。

      50 使徒たちの時代においてさえ「この不法の秘事」が働いていたことを示す証拠として,ヨハネはその第一の手紙の中で反キリストについて何と書きましたか。

      50 年老いた使徒ヨハネは,その地上での生涯の歩みを終える前に,クリスチャンにあてて三通の手紙を書きました。キリストの使徒たちの時代においてさえ「この不法の秘事」が働いていたことを示す証拠として,ヨハネはその最初の手紙にこう書きました。「幼子たちよ,いまは終わりの時です。そして,あなたがたは反キリストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります。彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし彼らが出て行ったのは,すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです。そして,あなたがたには聖なるかたからのそそぎの油があります。あなたがたはみな知識を持っています。愛する者たちよ,霊感の表現すべてを信じてはなりません。むしろ,その霊感の表現を試して,それが神から出ているかどうかを知りなさい。多くの偽預言者が世に出たからです」。(ヨハネ第一 2:18-20; 4:1。これは西暦98年ころに書かれました。)それら反キリストは神のみ子をもはやメシアまたはキリストとして持たなかったので,父なる神をも持ってはいませんでした。―ヨハネ第一 2:22-24。

      51 「今のところ抑制力となっている者」という表現は何を意味するものでしたか。それはいつ取り「除かれ」ましたか。

      51 諸会衆のあちこちで表面化していた悪い状態を暴露した使徒たちのこうした著述からすれば,使徒パウロが「今のところ抑制力となっている者」という表現でだれのことを言っていたのか,わたしたちは見きわめることができます。(テサロニケ第二 2:7)パウロは地上の神の会衆全体のあるひとりの男子成員,彼自身のようなひとりの使徒のことではなく,一世紀当時のイエス・キリストの真の使徒たちの一団全体のことを言っていたのです。複合の人に似た,使徒たちのその一団は当時,つまりパウロの時の計り方によれば「今のところ」,クリスチャン会衆全体の内部で,しかもそれを支配しようとする集合的な「不法の人」を組織する動きの前に立ちはだかっていました。従って,キリストの真の使徒の最後の人が死んで取り去られたとき,「今のところ抑制力」として働いていたものが,「この不法の秘事」の進展する道から取り「除かれ」ました。その最後の人とは西暦一世紀の終わり近くに亡くなった使徒ヨハネだったと言えるでしょう。

      52 「滅びの子」に対する滅びはだれによって,またいつもたらされますか。

      52 その複合の「不法の人」は「滅びの子」とも呼ばれました。このことからも,その不法な者はエホバ神により滅びに定められていると言うことができます。その不法な者に対する滅びの刑を執行するにさいしてエホバ神は栄光を受けたみ子イエス・キリストをお用いになります。それでパウロは,使徒たち全員が死んで,使徒的な「抑制力」が除かれた後に起きることを告げてこう言いました。「その時になると,不法の者が表わされますが,主イエスはその者を,ご自分の口の霊によって除き去り,その臨在の顕現によって彼を無に至らせるのです」― テサロニケ第二 2:8,新; 新ア。

      53 (イ)では,なぜわたしたちの時代は,「不法の人」が除き去られる時代もしくは世代と言えますか。(ロ)一方,その「人」を無に帰させることは,どんな事実の証拠となりますか。

      53 主イエスは,「不法の人」がそれと見分け得る姿を完全に表わして「神の神殿」に座し,「自分を公に神と示し」たのち直ちにその「不法の人」を除き去るわけではありません。使徒パウロは,「不法の人」を無に帰させる時を主イエスの「臨在」もしくはパルーシアの期間中と定めています。ということは,それは今,つまりわたしたちの世代内という意味です。というのは,主イエスの王としての「臨在」もしくはパルーシアは,異邦人の時の終わった西暦1914年に始まったからです。わたしたちはその証拠となる「しるし」を見ているので,今が「事物の体制の終結」の時であることを知っています。(マタイ 24:3から25:46)従ってわたしたちの時代は,「不法の人」が主イエスのみ口の「霊」によって除き去られ,その「不法の人」が主イエスの臨在,そのパルーシアの顕現によって無に帰させられるのをこの世代の人びとが目撃する時代なのです! 滅びをもたらすそのわざは,主イエスが見えない様で臨在しておられること,つまりそのパルーシアは現実の事がらであるという事実の「顕現」となります。そのみ口から発する「霊」つまり動かす力は,「不法の人」を完全に滅ぼすものとなります。

      不法な者の「存在」を示す証拠

      54 (イ)主イエスの臨在に比べて,「不法の者」の存在はいつ始まりましたか。(ロ)「不法の者」のパルーシアは何によってしるしづけられることになっていますか。

      54 こうした論議のこの時点で使徒パウロは,主イエスの「臨在」に言及してきた論議の方向を変え,「不法の人」の「存在」もしくはパルーシアのことを考察します。この不法な者の存在もしくはパルーシアは,王国の支配権を行使する主イエスの「臨在」に先行する,あるいはそれ以前に始まるものです。その不法な者の存在を示す証拠をパウロがどのように呈示しているかに注目してください。彼はこう書いています。「しかし,不法の者が存在するのは[ギリシャ語: パルーシア]サタンの働きによるのであり,それはあらゆる強力な業と偽りのしるしと異兆を伴い,また,滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています」― テサロニケ第二 2:9,10前半。

      55 テサロニケ第二 2章9節で述べられているパルーシアはどうして,イエスのパルーシアというよりはむしろ「不法の者」のそれを指していることがわかりますか。

      55 ローマ・カトリックのエルサレム聖書のその箇所は次のとおりです。「しかし,反抗者が来るとき,サタンは本気で働き,あらゆる種類の奇跡や,しるしや不思議の欺瞞的な現われ,また滅びに定められている人たちを欺くものとなるあらゆる悪事があるであろう」。(テサロニケ第二 2:9,10。また,新アメリカ聖書; 新英語聖書; マードック訳,シリア語新約聖書をも見てください。)9節冒頭のギリシャ語本文は文字どおりに訳せば,「その者の存在は」となります。とはいえ,これは単に「不法の者」という言葉がこの9節に出ていないからといって,その「存在」もしくはパルーシアという言葉が前節(8節)で指摘されたばかりの主イエスの「臨在」(パルーシア)に適用されるという意味ではありません。むしろ,この句は目下論議中のその他方の者,すなわち不法な者の「存在」に言及しているのです。アメリカ訳が9節の冒頭を,「サタンのたくらみによるその他方の者の出現」と訳しているのはそのためです。ウエストミンスター訳「新約聖書」も同様に,「しかし,その他方の者の到来はサタンの働きによるのであって」と訳しています。それで,9節にあるギリシャ語の「その者の」という(英語の)関係代名詞の句は,不法な者に適用される8節の「その者」と同列の関係にあります。その関係は,「不法な者が現われますが,主イエスはその者を除き去り……その者の存在は」という具合になります。

      56 「不法の人」の公の「存在」はだれのみに起因すると言えますか。なぜですか。

      56 神の反対者である「不法の人」の,キリストの使徒たちの死後今日に至るまでの公の存在もしくはパルーシアは,ほかならぬ悪魔サタンに起因するものであると言えます。なぜなら,この複合の「不法の人」は自ら「神の神殿」に座したので,この「不法の者」はエホバ神に由来するなどとは主張し得ないからです。この「不従順の化身」の長期間にわたる「存在」は,「サタンの働き」のせいである,あるいはそれによることを示すあらゆる特徴を帯びてきました。サタンという名は「抵抗者」という意味であって,彼はいと高き神に対する「不法の者」の抵抗を含め,エホバ神に対する天と地におけるあらゆる抵抗の扇動者です。「背教」もしくは反抗の醸成者たちが自らを「僧職者」の階級に高め,そうすることによって,彼らが「俗人」と呼ぶ,会衆の他の成員から自分たちを区別したのは,確かにエホバ神から出たことではありませんでした。それはキリストの弟子たちの会衆全体をエホバ神に背かせようとする悪魔サタンの策略でした。

      57 僧職者を権力を持つ地位につかせ,そのような地位に留まらせるためどんな方法が取られましたか。そうした方法は何を目的とするものでしたか。

      57 いわゆる「クリスチャン」の僧職者に権力を得させ,権力の座に留まらせるには,サタンの働きや活動は「あらゆる強力な業[奇跡,エ]と偽りのしるしと異兆を伴い,また……あらゆる不義の欺きを伴って」いなければなりませんでした。「僧職者」が超自然的な支持を得ていることを示そうとするそうした偽りの欺瞞的な証拠なるものすべての目的は,僧職者は真の神を代表し,その任命と是認と支持とを受けており,その地上における代理人であるということを会衆の成員に信じさせることです。僧職者は身分の低い「俗人」のあずかり得ない特別の力や特典,権利や免除,階級や称号を受けて神のみことばの奉仕に専属的に携わるべく聖別任命された者としての外見を付与されています。

      58 僧職者によって行なわれた強力なわざやしるしや不思議その他の事がらは,使徒たちとの関係によるのではなく,サタンの働きによるものと考えられます。なぜですか。

      58 従って,それら強力な業あるいは奇跡,しるしや不思議や不義の欺き事は利己的な目的のためのものであって,エホバ神の栄光と称賛のためのものではありません。サタンの働きや活動のそうした現われは,キリストの使徒たちの死後生じました。それら使徒たちはまさしく奇跡やしるしや不思議を現出させました。なぜなら,彼らはキリストを通して神の霊を得ていたからです。それらの使徒たちは,外国語や預言を話したり,通訳や癒しその他を行なったりするような奇跡的な事がらをする霊のさまざまな賜物を伴う霊を,バプテスマを受けた信者に授ける力と権威を持っていました。キリストの使徒たちが亡くなるとともに,そうした奇跡的な賜物を伴う霊を授けることはやみました。同様に,そのようにして使徒たちを通して賜物を授けられた人たちが亡くなるとともに,遅くとも西暦二世紀中にはそれら奇跡的な賜物は存在しなくなり,もはやそうしたものは,神の真のしもべたちとはだれか,また真のクリスチャン会衆を構成するのはだれかを証明する証拠ではなくなってしまいました。(使徒 8:14-18。コリント第一 13:8)従って,それ以後そうした「賜物」を誇示するようなことがあるとすれば,それは神からではなく,サタンから出るものとなりました。

      59 (イ)僧職者のために指摘されている印象的な事がらは,それら僧職者が神の奉仕者であることを証明しますか。(ロ)真の奉仕者は神により任命されていることを示す証拠として何を引合いに出しますか。

      59 それでは,キリスト教世界の僧職者に支配されながら,諸教会が僧職者のために指摘したいのであれば,幾世紀にもわたって行なわれてきた強力なわざや奇跡,しるしや不思議のすべてを指摘させなさい。この世における僧職者の仰々しい身分,僧職者に与えられてきた高い評価や著しい尊崇の念,目もまばゆいばかりの壮麗な僧服,大げさな称号,壮大な教会建造物や大聖堂,教会における荘厳な儀式,「ミサ」におけるパンとぶどう酒の化体,僧職者の受けた高等教育,政治上の国家および軍事当局者にかかわる僧職者の立場や影響力を指し示させなさい。しかし,そうした事がらはすべて,またそれがいわゆる「俗人」に及ぼす影響は,キリスト教世界の自らを高める僧職者は神に由来してはおらず,また神の奉仕者でもないことを証明しています。自らを『光のみ使い』に変容させるサタンは,配下の地上の教会の僧職者を動かして,「自分を義の奉仕者に変様させている」のです。(コリント第二 11:14,15)エホバ神の真のクリスチャンの奉仕者はそうした外面的なものによってではなく,書き記された神の真理のみことばによって,自分たちが任命され,是認された神の奉仕者であることを実証します。

      60 僧職者で成る「不法の人」級の世界的な数字上の割合には大いに印象的なものがありましたが,それはどの程度のものでしたか。

      60 僧職者で成る「不法の人」級の全世界で見られた数字上の割合には大いに印象的なものがありました。キリスト教世界の教会員の数が9億8,536万3,400人という空前の最高数に達した西暦1971年には教会の僧職者の数は何十万人にも増えました。ローマ・カトリック教会だけを取ってみても,発表された数字は同1971年には世界中の同教会員5億6,677万1,600人に対して41万9,611人の僧職者がいたことを示しています。

      61 ひそかに働くサタンがそうした欺瞞的な事がらを企てたのはだれのためであるとパウロは述べましたか。それはどうして神の許しによるものと言えますか。

      61 こうした外面的で印象的な事がらのために容易にだまされているのはだれですか。そうした非聖書的な「強力な業と偽りのしるしと異兆」を見て好感を抱き,欺かれているのはだれですか。ひそかに働いているサタンはそのような事がらをだれのために企てているのでしょうか。僧職者で成る「不法の者」が存在する間,その「サタンの働き」は「滅びゆく者たちに対するあらゆる不義の欺きを伴っています。彼らがこうして滅びゆくのは,真理への愛を受け入れず,救われようとしなかったことに対する応報としてなのです。そのゆえに神は,誤りの働きを彼らのもとに至らせて,彼らが偽りを信じるようにするのであり,それは,彼らすべてが,真理を信じないで不義を好んだことに対して裁きを受けるためです」と使徒パウロは述べています。―テサロニケ第二 2:10-12。

      62 神は欺かれた人たちに「誤りの働き」を直接送りますか。神はその「誤りの働き」によって何を確かめますか。

      62 神は「誤りの働き」をそれら欺かれた人たちに直接送るわけではありません。神はそれを彼らのもとに赴かせるのです。それは彼らが何を欲しているかを示させるためであって,またそれこそ彼らが欲していることだからです。これこそ使徒パウロが仲間の宣教者テモテに宛てた最後の手紙の中でテモテに指摘した事がらだったのです。パウロは,会衆内でどんな時期にもあくまで神のみことばを宣べ伝えるようテモテに求めた理由を説明してこう言いました。「人びとが健全な教えに堪えられなくなり,自分たちの欲望にしたがい,耳をくすぐるような話をしてもらうため,自分たちのために教え手を寄せ集める時期が来るからです。彼らは耳を真理から背け,一方では作り話にそれてゆくでしょう」。(テモテ第二 4:2-4)「不法の者」の存在する間,人は霊感を受けた神のみことばによって「誤りの働き」から自分を守ることができます。しかし,エホバ神はサタンに「誤りの働き」を続けさせ,またそうすることによってその働きを自称クリスチャンのもとに赴かせることにより,『真理への愛を受け入れる』か,それとも虚偽を愛するかどうかに関して彼らを試すのです。

      63 何が迫っているゆえに世界情勢は全人類にとって非常に重大なものとなっていますか。わたしたちは今何を選択しなければなりませんか。

      63 僧職者で成る「不法の人」の「存在」の残りの期間,また主イエスの臨在もしくはパルーシアの期間中,「誤りの働き」は神の許しによりかつてないほど人びとのもとに赴いてゆきました。「真理への愛を受け入れ」ず,『不義を好む』人たちに対する不利な裁きの執行が迫っているゆえに世界情勢はすべての人にとって極めて重大なものとなっています。が,聖書研究者たちは西暦1914年以来長年にわたってキリストの見えない臨在もしくはパルーシアの「しるし」を見てきたので,僧職者で成る「不法の人……滅びの子」に敵する「その臨在の顕現」の時が突如わたしたちに臨むであろうことを察知しています。(テサロニケ第二 2:8)では,わたしたちは何を願いますか。「不法の者」とともに滅びをこうむることですか。それとも,真理を愛する人たちとともに救いを体験することですか。

      「不法の人」を除き去る

      64 その「不法の人」級はどのようにして自ら大いなるバビロンの重要な要素となりましたか。

      64 僧職者で成る「不法の人」級は古代バビロンに由来する異教の教理を幾世紀にもわたって教え,またそうした異教の教理や人間の伝承を霊感を受けた聖書以上に高めてきました。キリスト教世界の僧職者たちは,聖書の真理を愛する人たちに反対し,そうした人たちを迫害してきました。それらの人たちはその真理を他の人たちに宣べ伝え,またそれに従って生活してきたのです。僧職者たちは自ら世と親しくして,政治支配者や大企業の要人たちと霊的淫行(不道徳行為)を犯し,また戦争画策者や軍事分子の侍女として仕えてきました。そうすることによって僧職者たちは自ら,偽りの宗教の世界帝国を象徴する大いなるバビロンの強力な要素となりました。そうです,その「不法の人」級は,宗教上の「大娼婦」である大いなるバビロンの重要な要素,それも最も責められて然るべき要素です。そして,「地の王たちは彼女と淫行を犯し,地に住む者たちは彼女の淫行のぶどう酒に酔わされた」のです。―啓示 17:1,2。

      65 「不法の人」である僧職者はどうして「緋色の野獣」に乗っているといえますか。僧職者はその野獣に対して何を願っていますか。

      65 僧職者で成る「不法の人」級は宗教上の大いなるバビロンに含まれているのですから,「冒とく的な名で満ちた,七つの頭と十本の角を持つ」象徴的な「緋色の野獣」に乗っています。その象徴的な野獣とは,国際平和と安全のための人間の立てた現代の世界機構つまり国際連合のことです。これは聖書の預言に出てくる「八人めの王」つまり第八世界強国です。(啓示 17:1-11)世界平和と安全のための人間の立てた国際機構に好評と推賞のことばを与え,キリスト教的精神に反するその機構にメシア的な役割をさえ委託するのは,「不法の人」級であるキリスト教世界の僧職者に似つかわしいことです。「不法の人」である僧職者はそうした国際機構によって世界が三度目の世界大戦つまり核戦争から救われることを願っているのです。

      66 「不法の人」である僧職者が今やそれに長く乗っているわけにはゆきません。なぜですか。それが終わるとき,それは僧職者にとって何を意味しますか。

      66 今やその象徴的な「緋色の野獣」の背にあまり長く乗っているわけにはゆきません。宗教上の娼婦,大いなるバビロンが取り除かれるように,「不法の人」もまた取り除かれます。ヨハネへの啓示の幻が予告しているとおり,象徴的な野獣の政治上の十本の「角」は,汚れた乗り手である大いなるバビロンに憎しみを抱いて歯向かいます。そうです,その野獣のからだの動きを指示する七つの頭はこの国際的私通者を憎みます。それら七つの頭はそのからだを動かして彼女に対して敵対行動を取ります。そのからだと頭と角は彼女に対して何を行ないますか。「これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつく」します。(啓示 17:16)彼女は荒廃させられ,裸にされ,また食い尽くされ,火で完全に焼き尽くされるのですから,「不法の人」である僧職者は荒廃させられ,裸にされ,食い尽くされ,灰じんに帰させられます。

      67 それは「不法の人」である僧職者にとって確かに「大」きな「患難」を意味します。なぜですか。

      67 それは「不法の人」である僧職者にとって「大患難」を意味します。というのは,僧職者は現代の対型的不忠実なエルサレムつまりキリスト教世界の有力な部分だからです。西暦70年におけるローマ人による地上のエルサレムの滅びは,キリスト教世界とその宗教上の支配者つまり「クリスチャン」と称する僧職者に臨もうとしている滅びの型を成すものでした。古代エルサレムになお神殿があって,祭司職の務めが執り行なわれていた当時その都に臨んだ患難は確かに「大」きなものでした。しかし,キリスト教世界および同世界の「不法の人」である僧職者を間もなく襲おうとしている患難についてはどうですか。それは人類を襲う最悪の患難となるでしょう。その患難にさいして,僧職者で成るあの「滅びの子」は完全に滅ぼされて無に帰させられます。―マタイ 24:15-22。マルコ 13:14-20。

      68 それが宗教上のキリスト教世界にとって何を意味するかは,予告された歴史上のどんな実例から考えて想像できますか。

      68 それが何を意味するかを想像できますか。キリスト教世界の叙任された僧職者に対してなお畏敬の念を抱いている人たちは,それら神聖ぶった「牧師」が大いなるバビロンもろとも悲惨な滅びをこうむることなど想像できません。そういうことは考えるだけでも冒涜的なことと思えるからです。そうした人びとは,宗教上の神のように尊崇を受けるに値するかに見える僧職者の座した教会建造物が廃虚と化すということをあえて想像しようものなら縮み上がってしまいます。彼らにとってそのようなことは,聖別された神聖なものを汚すことのように思えるのです。しかし,それこそ,信心深かったにもかかわらずキリスト教に帰依しなかった一世紀当時のユダヤ人がエルサレムの都とその聖なる神殿の滅亡に関する預言に対して取った見方でした。それにもかかわらず,オリーブ山に座して述べた預言の中でイエス・キリストが予告した事がらは,ことごとく恐るべき現実となって適中しました。―マタイ 24:1,2。

      69 (イ)「不法の人」級はどんなものとして崇敬を受けているゆえに,その滅びは熱心な信心家を仰天させるものとなりますか。(ロ)その級はだれのように倒れ,だれによって殺されますか。

      69 キリスト教世界の熱烈な信奉者にとって僧職者で成る「不法の人」級を無に帰させることは,彼らの宗教感情に衝撃を与える仰天すべきこととなります。それはある種の神の死をしるしづけるものとなります。というのは,「不法の人」級は「神の神殿に座し,自分を神として公に示」す者だからです。(テサロニケ第二 2:4)イエス・キリストご自身,『神々』つまり強力な者たちとして類別される人間が地上にいることを述べた霊感を受けたヘブライ語聖書と同じ考えを抱いておられました。この点を示すものとして,ヨハネ 10章34-36節によれば,イエスは詩篇 82篇を引用しました。その句はこう述べています。

      『かみは神のつどいの中にたちたまう 神はもろもろの神のなかに審判をなしたもう なんじらは正しからざる審判をなし あしきものの身をかたよりみて幾その時をへんとするや……弱きものと貧しきものとをすくい彼らをあしきものの手よりたすけいだせ

      『かれら[それら審判能力のある神々]は知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり

      『我いえらく なんじらは神なり なんじらはみな至上者の子なりと されどなんじらは人のごとくに死に もろもろの侯のなかの一人のごとくたおれん』。

      僧職者で成る「不法の人」級は不滅の神ではなく,普通の人間同様,つまり裏切り者となってやはり「滅びの子」と呼ばれたユダ・イスカリオテのように死にます。(ヨハネ 17:12)自らを「すべて『神』と呼ばれる者また崇敬の対象とされるもの……の上に」高めるにもかかわらず,君のようなその「不法の人」は不忠実な人間の君たち同様の者となって倒れ,エホバのメシアによって殺されてしまいます。―詩 82:1-7。

      70 そうした事がらを考えると,「誤りの働き」についてパウロが書き記したどんな事がらのゆえに,わたしたちは各自どのように自問してみなければなりませんか。

      70 そうした事がらを考えると,今や直ちに各自次のように自問してみなければなりません。キリスト教世界の「不法の人」級に関連してサタンが作り出した「不義の欺き」のもとにわたしはなお留まっているのだろうか。滅びゆく人たちのもとに神が赴かせてきた「誤りの働き」の影響を受け,またそれゆえにわたしは依然として偽りを信じているのだろうか。わたしは「真理への愛を受け入れ」ることを拒み,そのために偽りを好み,キリスト教世界の僧職者の犯した不義を喜んできただろうか。

      71 この点で今自分に対して不正直な態度を取るなら,それはわたしたちにとって,しかも今や間近に迫ったどんな「日」に何をもたらすものとなりますか。

      71 こうした質問に答えるさい自分に対して不正直な態度を取り,自らを欺いたところで何の益にもなりません。自分自身に対して公明正大でない人は滅びに陥る道を故意に歩みます。というのは使徒パウロが述べたように,「不義の欺き」は「滅びゆく者たち」のために企てられているものだからです。欺かれた者たちに対して神からの不利な裁きが執行されるとき,思慮分別のあるどんな人が滅びることを欲するでしょうか。うそを信じて滅びてゆく人たちに対するそうした裁きの執行は今や迫っています。「不法の人……滅びの子」は明らかにされ,暴露されてきたので,そのことについては間違いはありません。また,主イエスのパルーシアつまり「臨在」の期間も相当経過しました。予告された「背教」はその最高潮に達しています。これらは壊滅的な結果をもたらす「エホバの日」の到来に先行することになっていた事がらです。その日は「不法の人」に臨む,「滅びの子」というその名称で表わされている非業の最期の成就を意味しています。

      72 その「不法の人」との関係を今断つなら,何をこうむらずに済みますか。

      72 これは決して単なる「人騒がせ」のための話ではありません。今やキリスト教世界の諸情勢やできごとを反響板代わりにして厳重な警告を増幅させながら発しているのは神ご自身のみことばなのです! では,今は神の律法を愛する人すべてにとって,明らかにされたその「不法の人」との関係を断つべき潮時ではありませんか。そうするなら,近づいた世界の「大患難」にさいして,その「不法の人」とともに滅ぼされずに済むでしょう。―啓示 7:14,15。

      [脚注]

      a テサロニケ人への第一の手紙のヘブライ語による七つの異なった翻訳はこの箇所を「エホバの日」としていますが,四,五世紀のギリシャ語の写本およびラテン語のウルガタ訳は,「主の日」としています。

      b 1746年,イタリア,ボローニャのエミリア-ロマーニャ地区でルキオ・フェラリスが編さんした,ニューヨーク市コロンビア大学所蔵,「教会法,道徳律,神学便覧。禁欲思想,論証法,赤題目,歴史を含む」第六巻,31-35ページ。

      c 新カトリック百科事典,第6巻,706ページの「グラチアヌス」の項を見てください。

  • 神の千年王国のために保護される
    神の千年王国は近づいた
    • 19章

      神の千年王国のために保護される

      1 神のメシアによる千年期王国が近づいたということは,人間の建てた政治上の諸政府にとって何を意味しますか。

      千年にわたってメシアの治める神の王国は近づきました! この良いたよりを発表する根拠は霊感を受けた聖書および西暦1914年以来の世界のできごとにより信頼できる,まさしく確証されたものとなっています。その千年期王国が近づいているということは,死んでゆく不完全な人間の支配者たちの治める政治上の諸政府の終わりが近づいていることを意味しています。霊感を受けた預言者ダニエルはバビロンの王ネブカデネザルにこう述べました。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。そして,その王国はほかのどんな民族にも渡されることはありません。それはこれらの王国すべてを打ち砕いて終わらせ,それ自体は不定の時まで立ちつづけるでしょう」― ダニエル 2:44,新。

      2 (イ)世の諸王国がこうして打ち砕かれるとき,どんなできごとが最高潮を迎えますか。(ロ)その時,問題があるにもかかわらず,地上では何が「救われ」ますか。

      2 人間の立てたそれら世の諸王国が打ち砕かれるとき,メシアなるイエスが,「そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」という質問に答えて,その預言の中で予告された「大患難」が最高潮を迎えます。(マタイ 24:3)千年にわたるその王国が発足する前に,人間の治める現在の王国や共和国はすべて打ち砕かれなければならない以上,近づいたその患難を大いなる患難つまり「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」と呼んだからといってイエスは物事を大げさに言われた訳ではありません。その患難はそれほど大いなるものなので,人間が生き残れるかどうか,人類が保護されて生きて通過できるかどうかは一つの問題となるでしょう。「事実,その日が短くされないとすれば,肉なるものはだれも救われないでしょう。しかし,選ばれた者たちのゆえに,その日は短くされるのです」。(マタイ 24:21,22)単に「選ばれた者たち」だけが救われるのではありません。ほかの「肉なるもの」もやはり救われます。

      3 (イ)残れる者はどうなる前に,「肉なるもの」が地上でそのようにして保護されて生き残るのを目撃しますか。(ロ)「大患難」を生き残るそれらの人たちはどんな手段によって保護されますか。

      3 そうです! 前代未聞の「大患難」が近づいたとはいえ,地上の人類は保護されます。それはノアの時代の世界的な大洪水にさいして人類が保護され,大洪水を通過したのと全く同様です。(マタイ 24:37-39)「選ばれた者たち」の残れる者は地上の活動舞台を去って天の王国にはいる前に,「肉なるもの」が地上でそのようにして保護されるのを目撃します。それら残れる者はその王国のために召され,イエス・キリストとともになるよう選ばれたのです。(啓示 17:14; 20:4-6)僧職者で成るあの「不法の人」級の成員はだれも保護されません。また,政治,軍事および商業の面でそれら僧職者と交わってきた人たちも保護されません。「選ばれた者たち」の忠実な残れる者と,メシアの治める神の王国の側に妥協せずに立つ羊のような人たちの「大群衆」は保護されて,宗教上の大いなるバビロンの滅びとハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」を無事に通過します。(啓示 7:9-17; 16:13-16; 17:1-16。マタイ 25:31-46)彼らは人間的手段によってではなく,ひとえに神の力によって保護されるのです。

      4,5 (イ)そうした保護があることにわたしたちの注意を促しているのはどの詩篇ですか。その詩篇作者はどれほどの多くの人に代わって感情を表現していますか。(ロ)「選ばれた者たち」と「大群衆」は保護された後,詩篇作者のように感動して自分たちの保護者に対するどんな気持ちを述べますか。

      4 使徒パウロ自身コリント第二 4章13節で引用している霊感を受けた詩篇 116篇のことばは,そうした保護があることを明らかに示してわたしたちの注意を引いています。その詩篇の作者は自分の国民全体を代表して語っていたと考えられます。なぜなら,その作者のみならず,その民,つまりエホバの選民も死の,絶滅の脅威にさらされていたからです。近い将来,イエス・キリストの治めるエホバの王国をあくまでも固守する人たちはすべて,神のメシアの王国の宗教および政治上の敵対者の手により死の脅威にさらされることになります。神の王国の確固とした忠節な擁護者で,支持者であるそれらの人たちは肉の武器を取って抵抗するのではなく,全能の神とそのメシアによって守っていただくようひたすら頼って,自分たちの保護を全能の神に帰さねばなりません。それゆえに彼らは神を愛しますか。命が脅かされる世界的な危機の時にさいして救いを求める彼らの叫びに神が答えてくださるゆえに,心を動かされる彼らは,同様の理由で詩篇作者が次のように述べたとおり,自分たちの神聖な救い主に対する愛情を表明します。

      5 「わたしはたしかにエホバを愛する。彼はわたしの声,わたしの願いを聞いてくださるから。彼はわたしに耳を傾けられたので,わたしは一生涯にわたって彼を呼び求めよう。死の綱がわたしを取り巻き,シェオールの苦しい状況がわたしに臨み,わたしは苦しみと悲しみをいつも見いだした。しかし,わたしはエホバのみ名を呼び求めた。『ああ,エホバよ,どうかわたしの魂に逃げ道を備えてください』。エホバは情け深く,義にかなっておられる。わたしたちの神は憐みを示す方である。エホバは経験のない者たちを守られる。わたしが衰えたとき,わたしをさえお救いになった」― 詩 116:1-6,新。

      6 (イ)一見避けられないように見えた死に直面した詩篇作者は,その描写によればどのように感じていましたか。(ロ)彼は思わずどんな言葉をほとばしらせましたか。なぜですか。

      6 この詩篇作者は死を望みませんでしたが,彼にとって死は必至のように見えました。それはすでに,あたかも死の綱で身をがんじがらめに縛られて,逃げ道を求めようにも身動き一つできないような状態でした。あたかも既にシェオール(人類共通の墓)に入り,墓穴の狭い壁で押しつぶされる苦しい状況にあるのを感じてでもいるかのようでした。彼は命を短くされたために悲しみ,また苦しみました。世の道の点では経験がないため,人間的助けに訴えることもできず,地的な助けをことごとく失って衰えを感じました。しかし,待ってください! 彼の境遇は絶望のそれではありませんでした。彼とその国民の崇拝した神がおられたのです。その方は彼を死またシェオールから守ることができました。その方は情け深く,義にかなっており,憐みを示し,逃げ道を備え,救うことができます。そのみ名は,救いを求めて呼び求めるべき名です。そのような神の真価を認めて,危険にさらされた詩篇作者は神に向かって声を上げたのです。そして,神に願い求めました。しかも,何と喜ばしいことでしょう。エホバはたしかに耳を傾けてくださったのです。必死の叫び声,魂をこめた願いを確かに聞いてくださいました。確かに ―「わたしをさえ」救ってくださいました,と謙遜な詩篇作者は叫びました。詩篇作者は,『わたしはたしかにエホバを愛します』と思わず叫び声を上げずにはおれませんでした!

      7 「選ばれた者たち」と「大群衆」がさながら死寸前の事態に直面するとき,エホバはなぜ彼らの叫びを聞き届けてくださいますか。彼らはどうして,『わたしはたしかにエホバを愛します』と叫びますか。

      7 最後に,しかもわたしたちの世代のうちに,予告された「全能者なる神の大いなる日の戦争」の騒音が徐々に静まり,ハルマゲドンの戦場に平穏な静けさがゆき渡るとき,「選ばれた者たち」の残れる者と仲間の生存者たちの「大群衆」は以前のことを回顧して,全能の神が彼らのためにもたらした救いがどんなものであるかをまさしく十分に認識することでしょう。それは彼らにとってさながら死寸前の経験となりました。非業の死以外予測し得ないような状況のもとにあって ― エホバのみ名以外には,聞き届けていただけるという確信を抱いていったいだれの名を呼び求め得たでしょう。彼らがそのみ名を呼び求めたのはむなしいことではありませんでした。というのは,それはエホバが彼らを放置して,彼らが倒れて死に,シェオールの狭い場所に下るままにすべき時ではなかったからです。実際,脅迫的な敵こそ滅びに陥らせるべきであって,敵の侮辱やあざけりにもめげずエホバのみ名を呼び求めるその崇拝者たちを見捨てるべきではありません。神からの奇跡的な逃げ道はまさしく備えられました! 世のよこしまな道の点では経験のない人たち,つまりイエス同様この世のものではなかった人たちは守られました。情け深くて義にかなった憐み深いエホバが確かに彼らを救われたのです! それら救われた人たちはエホバに向かって,『わたしはたしかにエホバを愛します』とどうして言わずにおれるでしょうか。

      「生ける者の地」を歩む

      8 詩篇作者はその魂を死から救い出していただいたので,自分の歩みに関して何を決意しましたか。

      8 かつて非常な不安に襲われた詩篇作者は今やこのうえない安心感を抱いて次のように言うことができました。「わたしの魂よ,おまえの憩の場に戻れ。エホバは自らおまえに対してふさわしく行動されたからだ。まことに,あなたはわたしの魂を死から,わたしの目を涙から,わたしの足をつまずきから救い出されました。わたしは,生ける者の地で,エホバのみ前を歩もう。わたしは信じていた。わたしは語ったからである。わたしは大いに悩まされた。わたしは,あわてふためいたときに言った,『人はみな偽りを言う者だ』と」― 詩 116:7-11,新。

      9 (イ)詩篇作者はどういう意味で,「人はみな偽りを言う者だ」と言いましたか。(ロ)その時,何ゆえに彼は語りましたか。その言葉はむなしくなりましたか。

      9 自分の魂の死からの救出を経験し,生ける者たちの中にあって地上で歩んでいる自分に気づいた詩篇作者は,くつろいで自分の魂,つまり自分自身に向かって憩の場に戻れと言い聞かせることができました。失意の涙を流す必要はもはやありませんでした。その足はつまずきませんでしたし,彼は死に陥らずに済みました。かつて確かに彼はあわてふためきました。人間的な助けはすべて役に立たないことに気づいたからです。罪に定められたかに見えた詩篇作者を助けることができると言ったり,あるいは彼を救い出そうと試みたりさえした人はみな,偽りを言う者であることが判明しました。彼にとって人は一種の妄想のように思えました。しかし,差し迫った死から自分を救ってくれる人の力に対する信頼感は失ったものの,神に対する信仰を依然として固守しました。ゆえに信仰を抱いて,自分の信仰の表明として語りました。たとえだれひとり彼を助けられなくても,彼の神は助けることができました。彼は信仰を表明し,神による救出について語りました。その言葉は偽りとはならず,むなしくはなりませんでした。彼はつまずいて倒れ,死に陥ることがないよう守られました。それで今や,『生ける者の地で,エホバのみ前を歩む』よう決意しました。

      10 コリント第二 4章12-14節によれば,パウロはどうして詩篇 116篇を思い起こして引用しましたか。どんな特質が明示されましたか。

      10 神に対する信仰は決してむだにはなりません! 使徒パウロはそのことを知っていました。パウロは宣教者としての自分のたゆまぬ努力が音信を聞いた人びとの命に資するだけでなく,自らの死をも早めるものとなることを知っていましたが,それでもなお励みを与える神の力を信じていました。彼は単にこの地上においてだけでなく,キリストの「臨在」つまりパルーシアの期間に死人の中から復活させられて生き続けることについて語りました。パウロは詩篇 116篇を思い起こして,ギリシャのコリントの会衆にこう書き送りました。「こうして,わたしたちの中には死が働いていますが,あなたがたの中には命が働いています。さて,わたしたちは,『わたしは信仰を働かせた。ゆえに語った』と書かれているのと同じ信仰の霊を持っているので,わたしたちも信仰を働かせ,そのゆえに語ります。イエスをよみがえらせたかたがイエスとともにわたしたちをもよみがえらせ,[今やまさに死が働いているわたしたちを,現在命が働いている]あなたがたとともに立たせてくださることを知っているからです」― コリント第二 4:12-14。詩 116:10,新。

      11 (イ)「選ばれた者たち」や「大群衆」については,彼らもいつ,「人はみな偽りを言う者だ」と言えるようになりますか。(ロ)その時,コリント第二 4章8-10節のパウロのことばを思い出すのはなぜ適切なこととなりますか。

      11 間近な将来,一見免れられないように思える死に直面する場合でさえ,「選ばれた者たち」の残れる者およびその忠節な仲間の「大群衆」にとって神に対する信仰は絶対に不可欠なものとなります。確かにそれらの人たちは,僧職者で成る「不法の人」が除き去られ,宗教上の大いなるバビロンの残りの部分すべてが火で焼かれるように焼き尽くされた後,結束した反宗教的な世俗の諸勢力から最後の攻撃を受けるとき,信仰を働かさねばなりません。その時,頼り得る人間的助けは何もありませんから,「人はみな偽りを言う者だ」と言えるでしょう。そうです,人間的援助はすべて手の届かないもの,用をなさないものとなり,妄想のたぐいとなるでしょう。しかし彼らは全能の神に対する信仰を強めるため,自分自身の信仰について語る前に次のように述べた使徒パウロについて考えることができます。「わたしたちは,あらゆる面で圧迫されながらも,動きがとれないほど締めつけられているわけではなく,困惑させられながらも,のがれ道が全くないわけではなく,迫害されながらも,見捨てられているわけではなく,倒されながらも,滅ぼされているわけではありません。わたしたちは常に,イエスに加えられた致死的なしうちを,自分たちの体のいたるところで耐え忍んでいます。わたしたちの体の中でイエスの命もまた明らかになるためです」― コリント第二 4:8-10。

      12 「大患難」の最終部分にさいして彼らは,詩篇 116篇を引用したパウロにどのように見倣いますか。その後,詩篇作者のように,彼らは自分自身に向かって何と言いますか。

      12 「大患難」の最終部分の経過中,「選ばれた者たち」と「大群衆」は同様の状況のもとでパウロに見倣い,「『わたしは信仰を働かせた。ゆえに語った』と書かれているのと同じ信仰の霊」を持つことができます。彼らもまた,信仰を働かせ,またそれゆえに,物事が自分たちにとって非常に暗たんたる様相を呈していることを認めながらも,神に対する信仰を捨てることなく語ることができます。(コリント第二 4:13)悪魔サタンの代理者によって行なわれるように,彼らの存在を脅かす最終的攻撃がなされたのち間もなく,それら「選ばれた者たち」と「大群衆」が,「わたしの魂よ,おまえの憩の場に戻れ。エホバは自らおまえに対してふさわしく行動されたからだ」と言える時機が訪れます。―詩 116:7,新。

      13 「全能者なる神の大いなる日の戦争」中,エホバはご自分の崇拝者たちに対して,その地上の敵に対するのとは対照的にどのようにふさわしく行動されますか。

      13 「ふさわしく行動された」とありますが,それはどのような仕方によってですか。すさまじい苦しみのうちにある忠実な崇拝者たちにふさわしい仕方でエホバが行動することによってです。「全能者なる神の大いなる日の戦争」のさい,神は聖なるみことばに記されているご自分の貴い約束と完全に調和した仕方で,ご自分の従順なしもべたちの益と安全のために行動されます。「エホバはご自分を愛する者すべてを守られる。しかし,邪悪な者たちすべてを滅ぼし尽くされる」のです。(詩 145:20,新)「選ばれた者たち」や「大群衆」が絶望的な状況に臨むさい,エホバはご自分に対する彼らの信仰,従順,忠節および専心にふさわしい仕方で行動を起こされます。そして,「ご自分をせつに求める者に報い」を与える方となられます。(ヘブライ 11:6)それでエホバは,地上の敵が彼らにこうむらせようとする死からその魂を救い出されます。エホバは彼らを涙を流す原因となる一切の事がらから救い出します。敵が彼らを倒して死に陥らせようとして引き起こす一切のつまずきから,エホバは彼らを救い出されます。ご自分のみことばとみ名を立証し,悪意のある敵の企てを完全に覆すためにエホバがそうなさる以上にふさわしいことがあり得るでしょうか。いいえ,あり得ません!

      14 (イ)エホバにより保護される者たちはどんな地に脱出しますか。しかし,ほかにどこも清められることになりますか。どのようにしてですか。(ロ)エホバにより保護される者たちは,自分たちの救出された目的を逸しないため,何を行なうことを決意しますか。

      14 それは「選ばれた者たち」の残れる者と「大群衆」にとって,現在の『事物の全体制』が一掃される「大患難」を肉身のままで生きて脱出することを意味しています。彼らの前には清められた全地が広がってゆきます。「大患難」によって地から悪人が一掃されて清められるだけでなく,地の一番近くの見えない霊界も清められます。どのようにしてですか。「龍……初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれる者」とその使いである悪霊すべてが捕えられ,鎖で縛られ,「底知れぬ深み」に投げ込まれることによってです。彼らはエホバのメシアと14万4,000人の「選ばれた」者たち全員による千年統治の期間中,そこから地上の諸国民を欺いたり,惑わしたりすることはできません。それは感謝を表わすべき何と比類のない時機となることでしょう。エホバの崇拝者は殺されて死人の間に横たわる恐れがあったのに,ご覧なさい,彼らは生き長らえています! ゆえに今や彼らは死を免れさせられた目的を逸しまいとの決意を表明できます。詩篇作者と全く同様に救い出されたので,詩篇作者のように,「わたしは,生ける者の地で,エホバのみ前を歩もう」と言うことができます。(詩 116:9,新)今や,騒乱から解放され,自らの魂を憩わせながら,そう言うことができるのです。

      「偉大な救いの杯」をかかげる

      15 こうしてキリストの千年統治が始まるとき,地上ではどんな救いが既にもたらされていますか。神に仕える忠節な者たちはどんな「杯」をかかげますか。

      15 こうして,全地に対するメシアの統治が行なわれる輝かしい千年がまさに始まろうとする時には,神は地上の忠節な者たちのために「偉大な救い」を確かに既にもたらしておられるのです! そのことをちょっと考えてみてください! それら忠節な者たちにとっては,地上および地の周辺の見えない領域のあらゆる邪悪な者たちの一掃された時代が訪れているのです。今やそれら忠節な者たちは神のメシアの王国の治める千年の全期間中保護されます。「大群衆」のそれら忠節な者たちは,清められた地上で永遠に生き続ける人たちです。そのことを感謝するそれら保護された忠節な者たちは感動して,詩篇作者が言ったとおりのことを述べるでしょう。「わたしに対するその恩恵のすべてについて,わたしはエホバに何をお返ししようか。わたしは偉大な救いの杯をかかげ,エホバのみ名を呼び求めよう。わたしは,自分の誓いをエホバに果たそう。ああ,その民すべての前で」― 詩 116:12-14,新。

      16 (イ)「偉大な救いの杯」を忠節な者たちに供するのはだれですか。どのようにしてそうしますか。(ロ)彼らはその「杯」からどのようにして飲みますか。彼らは何を呼び求めますか。

      16 杯には飲み干したり,あるいはエホバ神への飲物の供物として注ぎ出したりさえするための飲物を入れます。その「偉大な救いの杯」を地上の忠節な者たちに供されたのはエホバ神です。どのようにしてそうされたのですか。彼らを保護して「大患難」を通過させることによってです。彼らの飲むべき分は,その「偉大な救い」です。救いをもたらすエホバの行為はすべて,天のメシアを通して彼らのためになされたのです。それら忠節な者たちは自分たちの寿命を延長させて,自分たちをメシアが全地を支配する祝福された千年の時代に入らせるものとなる「偉大な救い」のこの賜物を拒みはしません。彼らは感謝してそれを飲み,「生ける者の地で」命を享受します。しかし,そうするとき,エホバのみ名を呼び求めます。そのみ名を用いる彼らは,地上での命を今後エホバの意志と全く調和した仕方で用いようとする自分たちの努力に祝福と導きを願って,メシアを通してエホバを呼び求めます。そして,エホバを自分たちの神として公に堂々と名指して呼びます。

      17 エホバの忠節な者たちの命が危険にさらされた時期に何らかの「誓い」が立てられたとすれば,それはどうなりますか。

      17 彼らにはお返しとして当然エホバに対してすべきことがありますか。すなわち,自分たちの魂が危険にさらされ,死が差し迫ったかに思えた時期にイエス・キリストを通して何らかの誓い,つまり誓約をエホバ神に立てましたか。もし神による救出を願ってそうしたのであれば,自分たちの誓いにのっとって行動してくださり,自分たちを保護し,引き続き地上で生活できるようにしてくださったエホバに対して彼らはそうした「誓い」を正しく,また喜んで果たします。彼らは自分たちの誓った事を「その民すべての前で」行なうのですから,エホバの霊的な神殿でそうします。

      18 「選ばれた者たち」の保護された残れる者は地上でいつまでそうしますか。

      18 神の「選ばれた者たち」の残れる者のそれら霊によって生み出された人たちでさえ,地上の活動舞台を去って,天の王座でキリストの14万4,000人の共同相続者のほかの者たちすべてと栄光のうちに結ばれる時までなお地上に留められている間はそれがいつまでであれ同様に誓いを果たします。―伝道 5:2-6。a

      「その忠節な者たちの死」― きわめて貴いもの!

      19 死を招くひもから解き放っていただくため,詩篇作者はどんな関係を根拠にして神に訴えましたか。そうするのはどうして正しいことでしたか。

      19 救い出された詩篇作者は神を感動させるものを高く評価して,次のように感嘆の声を上げました。「その忠節な者たちの死は,エホバの目に貴い。ああ,エホバよ,わたしはまことにあなたのはしための子です。あなたはわたしのひもを解かれました」。(詩 116:15,16,新)詩篇作者は嘆願し,お願いするような仕方で,「ああ,エホバよ」と感嘆の声を上げました。死の危険にさらされていたとき,まさしく彼が取ったのはこうした懇願する態度でした。その時,彼はさながらひもで縛られて死にそうだったので,そのひもを解いてもらい,死から解放させていただきたいと神に訴えました。そして,自分はエホバのしもべ,そうです,二代目のエホバのしもべであるとの根拠に基づいて,そうしていただきたいと神の恵みにすがりました。というのは,彼はエホバの「はしため」の子だったからです。いわば詩篇作者はエホバにそのしもべたちを保護して生き長らえさせる責任があることを思い起こさせました。そして,死と対決した後の今,詩篇作者は,エホバが愛をこめてその責任を果たしてくださったと言うことができたのです。

      20 (イ)詩篇作者は自分自身をどんな人間として類別しましたか。それはどうしてせん越なことではありませんでしたか。(ロ)詩篇作者はエホバの「忠節な者たち」のひとりの死をエホバにとってどれほど貴重なものと評価しましたか。

      20 深い感謝の念に動かされて,「その忠節な者たちの死はエホバの目に貴い」と述べた詩篇作者は,自らをエホバの「忠節な者たち」の部類に入れましたが,せん越にも自らをそのように類別したのではありません。というのは,エホバは詩篇作者に死を免れさせたので,彼を忠節な者とみなしていることを示されたからです。エホバは詩篇作者を死なせ,その後,レビ族の祭司に告別の話をさせ,彼の死を悼んで,「その忠節な者たちの死はエホバの目に貴い」と言わせるどころか,詩篇作者の死を引き起こさせるままにするのはあまりにも犠牲の大きすぎる事がらとみなされました。それで,神は詩篇作者の「魂を死から」救い出しました。従って,詩篇作者は今や忠節な者の死がエホバにとってどれほど貴重かを正しく評価できました。いわば,その忠節なしもべの死はエホバが支払うにはあまりにも高すぎる代償でした。死を引き起こさせるままにすれば,エホバにとってはあまりにも多くの事が関係することになるのです。

      21 (イ)「大患難」の後,正しい価値評価を行なう忠節な人たちは自分たちが保護されたゆえに感動して何と言いますか。(ロ)神の主権に関して言えば,そのような人たちの死を許すのはどうしてあまりにも犠牲の大きすぎる事がらとなりますか。

      21 「選ばれた者たち」と「大群衆」は「大患難」を完全に切り抜けて生き長らえさせられた後,彼らもまた正しい価値評価を行なって感動し,「その忠節な者たちの死はエホバの目に貴い」と言って感嘆の声を上げることでしょう。(詩篇 116:15,新)エホバは「大患難」にさいして彼らを宗教上また一般の敵の手で死なせるままにするのはやはりあまりにも犠牲が大きすぎると考えられますが,彼らはそのことに感謝するでしょう。彼らに対する勝利を敵に得させ,彼らを地の表から一掃させるとすれば,エホバの宇宙主権つまり天と地に対するその支配権に汚点が付されるでしょう。神に逆らう敵の最も激しい,最も卑劣な攻撃のもとでご自分の地上の忠節な者たちを保護し得ないとすれば,まるで神よりもその敵のほうがいっそう強力で,だれが地上で永遠に生きるかを決める権利をさえ持っていることになるでしょう。「大患難」のさいに神の忠節な者たちが神の敵によって一掃されようものなら,地に対する神の支配権,実際には神の宇宙主権そのものに疑義がさしはさまれるでしょう。ゆえに神は忠節な者たちの死を,それも敵に強いられようと,引き起こさせるわけにはゆきません!

      22 エホバの崇拝や「新しい地」の基を置くことを考えると,「その忠節な者たち」が「死」を強いられるのを許すのはエホバにとってなぜあまりにも大きな犠牲となりますか。

      22 その上,万一エホバが「大患難」のさいにご自分の「選ばれた者たち」の残れる者と「大群衆」を地上の敵に無惨にも滅ぼさせるとしたら,単に敵側に一時的な勝利を得させ,傍観するサタンとその使いたちである悪霊に大喜びをさせるだけでは済みません。ほかに何がもたらされますか。エホバの忠節な者たちすべてが「死」を強いられて地上からいなくなったなら,地はエホバを生ける唯一の真の神として崇拝する人たちのいない所と化してしまいます。そうなれば,地上にあるその偉大な霊的な神殿の中庭は,賛美と感謝と聖なる奉仕の犠牲をエホバに捧げる人たちのいない所となってしまうでしょう。また,エホバのメシアなるイエスの治める千年が時を計って開始される前に,「新しい天」のもとに存在する「新しい地」の基礎が除かれてしまうことになります! いと高き全能の神エホバは「その忠節な者たち」が「死」を強いられるのを許して,それほど重大な事態を引き起こさせるままになさるでしょうか。そうはなさいません! 宇宙的な論争の関係するそうした状況のもとでの彼らの死はエホバにとっては「貴い」大きな犠牲です。それを許すのはご自分の自尊心からしてあまりにも犠牲が大きすぎるのです。

      23 「大患難」はエホバの主権やみ名,また宇宙的な論争の処理という点でどんな時となりますか。どのようにしてそうなりますか。

      23 きたるべき「大患難」は全能の神エホバがその宇宙主権の正しさを立証し,その尊いみ名を神聖にし,ご自分こそ天与の霊感のもとに記されたみことば聖書のエホバであることをあらゆる敵対者にいや応なく思い知らせる時となります。このことを完全に支持し,裏づけるものとして神はその不変のみことばの中で厳かに約束したとおりに物事を行ないます。すなわち,宇宙的な論争がついにこれを限りに結着をつけられる「大患難」のさい,地上の忠節な者たちの魂を死から救い出してくださいます! 破れることのない忠誠のゆえにエホバに命を保護していただいた辛抱強いヨブの場合のように,悪魔サタンの最も厳しい試みを受けてもエホバに対する愛ある忠誠を固守する忠節な人をエホバは地上に持ち得ることをもう一度実証されるのです。

      24 エホバはどんな理由でそれら「忠節な者たち」をご自分のしもべと認められますか。危機的な時にさいしてエホバは彼らのためにどんな「ひも」を解いてくださいますか。

      24 エホバの「選ばれた者たち」の残れる者と「大群衆」はエホバを自分たちの神とすることに決め,またエホバはご自分の大祭司でメシアなるイエスの贖罪の血によって彼らを買い取ったゆえに,確かにエホバは彼らをご自分のしもべとして認めてくださいます。重大な時機にさいしてはエホバはご自分に対する彼らの真剣な訴えを聞き,ご自分とそのメシアの王国に逆らう敵対者が彼らを縛って非業の死を遂げさせようとして用いる「ひも」を解いてくださいます。これは彼らにとって,自分たちの天の所有者で最高の主人であるエホバのしもべとしての自分たちの身分を決して忘れることのできない何と優れた不変の理由となるのでしょう。

      ハレルヤ!

      25 詩篇作者はエホバに恩義を負っているという意味で,詩篇 116篇をどんなことばで結びましたか。

      25 こうした天与の過分の親切すべてに対して,死を免れさせてくださる偉大な保護者で救助者であられる方に感謝を捧げるのは正に当然です。感謝の念に圧倒された詩篇作者は,その美しい詩篇を次のように結びました。「わたしはあなたに感謝の犠牲をささげ,エホバのみ名を呼び求めます。わたしは自分の誓いをエホバに果たそう。ああ,その民すべての前で。エホバの家の中庭で。エルサレムよ,あなたのただ中で。ヤハを賛美せよ!」―詩 116:17-19,新。

      26 (イ)詩篇 116篇の作者は自分の崇拝した神を知られぬままにはしませんでした。どうしてそう言えますか。(ロ)この詩篇作者は自分の神に対する感謝を表わすことや,賛美をささげるよう民に勧めることをどのように願っていましたか。

      26 この詩篇作者はだれであるにせよ,彼は真の神の崇拝者でした。霊感を受けた彼はその詩篇の中で神のみ名をその正式の語形のまま十五回用い,最後にはヘブライ語で「ハレルヤ!」つまり「ヤハを賛美せよ!」という結びの感嘆のことばをほとばしらせました。詩篇作者は聖都エルサレムの神殿でその神を崇拝しました。その神殿がソロモン王の建立したものか,あるいはイスラエルのバビロン幽囚後,総督ゼルバベルによって後に建てられたものであったかは問題ではありません。その無名の詩篇作者は聖なる救助者に単に個人的な感謝のことばをささげる以上のことを願いました。神殿の中庭にある神の祭壇に犠牲をささげ,そこにいる神の民すべての聞こえる所でエホバのみ名を呼び求めて公に感謝をささげることを願ったのです。恐らくこの詩篇作者は自作のその詩篇を初めて詠唱し,こうしてそれがユダヤ人の特別の祭典で用いられるようになったハレル(「賛美せよ」の意)賛歌の一部となったものと思われます。(詩篇 113–118,136篇)感謝の念に満たされた彼は,その詩篇を「ハレルヤ」ということばで結んで,神殿の中庭にいた崇拝者すべてに「ヤハを賛美せよ」とどうして勧めずにおれたでしょうか。

      27 (イ)むかし感謝をこめてささげられたどんな犠牲のことを考えると,死からの救助に対する感謝を表わす犠牲をささげたのは詩篇 116篇の作者だけではないことがわかりますか。(ロ)この事物の体制の終わりを生き残る人たちは,どのようにしてその手本に従って行動しますか。

      27 死から救助されたことでエホバに感謝の犠牲をささげたのはこの詩篇作者ひとりだけではありません。何世紀も前のこと,大洪水の生存者だったノアとその家族がいます。彼らには崇拝を行なうための神殿の中庭はありませんでしたが,それでもアララテ山上で箱船から出た後,まず最初に何を行ないましたか。彼らは自分たちが保護されて世界的な大洪水を切り抜けられたことに対するエホバへの感謝のすばらしい犠牲を新しく築いた祭壇にささげました。(創世 8:18-22)こうして,全能の神に守られて当時の「古代の世」とともに滅ぼされずに済んだそれら八人の人間の魂は見倣うべき何と優れた手本を残したのでしょう。その預言的な手本に従って,現在の暴虐な事物の体制が近い将来に劇的な終わりを見た後,その終わりを生き残るエホバの「選ばれた者たち」の残れる者とその仲間である「大群衆」は,エホバへの感謝を犠牲のようにささげるでしょう。なぜなら,エホバは救いを施す奇跡的な力によって彼らを保護してくださるからです。―詩 116:17,新。

      28 (イ)この体制の終わりを生き残る人たちは,自分たちの犠牲をどこでささげますか。どんな叫びを上げて地をどよめかせますか。(ロ)霊的な「選ばれた者たち」と「大群衆」は清められた地上でいつまで一緒に働きますか。

      28 人類のこうむった史上最大の大患難のそれら生存者は,キリストの統治の行なわれる祝福された千年期に入るとき,エホバの霊的な神殿の地上の中庭で感謝の犠牲をささげます。歓喜の極みに達する彼らは,「ハレルヤ!」という抑えがたい叫びを上げて全地をどよめかすことでしょう。その時,とりわけ死地から救われた後,その地上で生き長らえるのはどんなにか喜ばしいことでしょう。エホバの「選ばれた者たち」の残れる者と忠節な「大群衆」はダビデとその忠節な友ヨナタンの間に見られたような愛を互いに懐き合って,神のメシアの王国の「新しい天」のもとで一緒に,そして平和裏に仕事を開始します。(ペテロ第二 3:13)彼らは霊によって生み出された「選ばれた者たち」のそれら残れる者が「天のエルサレム」で王イエス・キリストとともに王座に着くよう召される神の予定の時まで,清められた地上でともに一致協力して働き続けます。それら霊的な残れる者がどのようにして去るのかは今のところ聖書からはわかりません。しかし,「選ばれた者たち」は天的な復活の希望を抱いて肉身の死に至るまで忠実を保たねばならないことを知っています。―啓示 2:10。ローマ 6:5。ヘブライ 12:22。

      29 (イ)霊的な残れる者が去った後,「大群衆」は清められた地のために引き続き何を行ないますか。(ロ)だれが戻って来るとき,彼らの喜びはその極みに達しますか。

      29 それにしても,エホバの祝福は,地上に残ってその霊的な神殿の中にいる崇拝者たちの「大群衆」から取り去られることはありません。彼らは天のメシアの政府のもとで,清められた地に喜びのパラダイスの麗しさをまとわせる仕事を続行します。地上の死者の復活が進行するにつれ,墓から出てくる人たちにエホバの宇宙主権の行使されるパラダイスの地上でとこしえの命を得る貴重な機会を供する彼らの喜びはどんなにか大きなものでしょう。

      30 (イ)わたしたちは今何によってその輝かしい光景を見ていますか。その光景の中に自分もはいれるという見込みは,どんなわざによって地上の住民の前に置かれていますか。(ロ)各自自分自身の立場でそうした見込みの成就にあずかれるよう,新たな確信を抱いて最善の努力を払うべき十分の根拠があります。なぜですか。

      30 今や神の預言的なみことばから流れ出るさん然と煌めく光に照らされて,わたしたちは信仰の目をもってその輝かしい光景を見ることができます。しかも,考えてみてください。今,イエス・キリストを通してエホバを崇拝し,エホバに仕えることを追い求める人たちの「大群衆」は,きたるべき「大患難」にさいして保護され,生きてそれを通過し,その輝かしい光景のただ中にいるのです! 何と人を奮い立たせる見込みなのでしょう。この事物の体制の終わりが来る前に「王国のこの良いたより」を「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」宣べ伝えるわざにより今やその見込みは地上の住民の前に置かれています。(マタイ 24:14)その魅惑的な見込みを差し伸べておられるエホバ神に対する信仰と感謝の念を抱いて,各人が胸をときめかせるようなその見込みの成就に自分自身の立場であずかれるよう今最善の努力を払うのは,何と価値のある事がらでしょう。「神の千年王国は近づいた」ので,幸福のうちに享受する永遠の命を追い求める人すべてには,今や新たな確信を抱いてそうした努力を払うべき十分の理由があります。

      [脚注]

      a 王国相続者の残れる者がなお地上に留まっているにもかかわらず,キリストの千年統治は先に始まります。患難の後の地上におけるわざを一時的に行なった後,彼らは天でキリストとともにその統治にあずかるため天の王国に招じ入れられますが,イエス・キリストご自身の場合,その統治は丸千年間にわたります。そのようなわけで,それら残れる者が千年にわたるキリストの統治に天で少しもあずからずに終わってしまうというようなことはありません。

  • 聖書の基本的な真理を学んでください
    神の千年王国は近づいた
    • 聖書の基本的な真理を学んでください

      「とこしえの命に導く真理」と「真の平和と安全 ― どこから得られるか」と題する各192ページの本は,どこに住んでおられる方でも,郵送料を込めて2冊1組200円でお求めになれます。108 東京都港区三田五丁目5番8号 ものみの塔聖書冊子協会にお申し込みください。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする