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  • 独立200年
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 独立200年

      アメリカ合衆国は,北アメリカの13の植民地が,大英帝国からの独立を宣言した1776年7月4日に“誕生”しました。

      1976年の7月4日は,その200周年記念日に当たります。この行事は,英語で“Bicentennial(200年祭)”と呼ばれてきました。それは“2”を意味するbiと,“100年祭”を意味するcentennialから成る語です。

      この200年間に,米国は人口および面積の点で,世界第四位の大国にのし上がりました。同国の人口は,現在約2億1,500万人を数えます。

      しかし,他の国々と比べると,この国にはまだ若さが感じられます。ヨーロッパ人の最初の植民地は,1607年,英国人によって,バージニアのジェームズタウンに設立されました。それら初期の入植者の大半は,宗教や政治上の自由を求めて,あるいは経済状態を改善しようとしてやって来た人々でした。

      革命が始まる

      1776年までには,260万の人口を擁する,13の植民地が存在するようになりました。しかし,その年よりもずっと前から,ジョージ3世の英国政府と植民地人の間には敵対関係が生まれていました。植民地人の大半は,より大きな政治および経済上の自由を求めました。それが与えられないと見ると,彼らは反逆し,自分たちで大陸会議を設置しました。

      アメリカの革命分子が軍事面で初めて成功を収めたのは,1775年5月のことでした。バーモントのエサン・アレンの率いる“グリーン山脈義勇軍”が,ニューヨークのタイコンデローガにある英軍のとりでを攻撃したのです。アレンは,「偉大なるエホバおよび大陸会議の名において」英軍に降伏するよう求め,遂に降伏させました。

      翌年,大陸会議がフィラデルフィアのインディペンデンス・ホールで開かれ,1776年7月4日,その場所で独立宣言が採択されました。

      望まれた自由

      独立宣言には,望まれていた自由がはっきりと説明されていました。それは気高く,崇高な理想を具体的に言い表わしたもので,一部次のように述べられています。「我々は以下のことを自明の真理なりと信ずるものである。すなわち,すべての人は生まれながらにして平等であり,譲ることのできない一定の権利を創造者から与えられており,その中には生命,自由,および幸福の追求が含まれている。人類はこれらの権利を確保するために政府を組織する。その政府の正当な権力の根源は被治者の同意にある。したがって,いかなる形態の政府といえども,もし以上の目的を阻害するに至った場合,これを改廃し,新たな政府を組織することは人民の権利とされる」。

      独立宣言にはまた,英国が『人民の権利を尊重する法案を通過させず,公正の執行を妨害し,多くの場合に陪審員による裁判の恩恵を与えず,我々の領海で略奪を行ない,我々の沿岸を荒らし,町々を焼き,人民の命を奪い,王のための強制徴用と称して市民を捕らえた』ことに対する抗議が含まれていました。

      八年に及ぶ激しい戦闘の末,1783年にようやく平和条約が締結されました。英国軍は完全に撤退し,米国は今や自由になったのです。

      それ以来,どんなことが起きてきましたか。宣言された自由に基づく200年間は,同国に何をもたらしましたか。その将来は明るいものですか。“300年祭”に対する見込みはどんなものですか。

  • 自由は長続きしたか
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 自由は長続きしたか

      独立宣言が1776年に発せられて以来,人間の政府に関して,類例をみない大規模な実験が行なわれてきました。それは近代的な民主主義の実験です。当時,他の国々の大半は,王制あるいはその他の形の独裁政体の下に置かれていました。

      しかし米国では,宿願の自由を守れるのは『人民の同意を得た政府』だけである,と考えられていました。そうした自由の中には,言論,信教,出版,および集会の自由などが含まれます。

      そのような自由は,「譲ることのできない権利」であると宣言されました。そして,1787年,そうした権利は,米国の基礎ともなる公式文書,すなわち合衆国憲法の中に組み込まれました。

      記録は何を示しているか

      言明された理想の真価は,それがどれほど実行されるかによって明らかになります。崇高な言葉を文書に著わすことはそれほど難しくはありません。しかし,それを守るとなると,別問題です。

      この点に関する歴史の記録には矛盾するものがあります。多くの場合,言明された自由は,かなりよく守られてきました。しかし一方,基本的な自由の乱用や軽視が悲惨な結果を招いた場合もありました。

      良い面を取り上げれば,言論,信教,出版,および集会の自由にかかわる基本的な理念は,おおかた守られてきました。しかし時としてそれを守ることは,憲法の定める自由を確保するための,法廷での難しい闘争を意味しました。

      闘争

      信教の自由を行使しようとする際,少数者の信仰が圧迫を受けたことがありました。例えば,1930年代の後半から1940年代の前半にかけて,米国ではエホバの証人が迫害されました。暴徒たちだけでなく,偏見を持った特定の役人も,彼らの憲法上の権利を認めようとしませんでした。

      その結果,エホバの証人は,米国の最高裁判所に数多くの訴訟を持ち込まねばなりませんでした。喜ぶべきことに,同最高裁判所の判決は,圧制的な勢力を次々に敗退させました。信教の自由は擁護されたのです。

      エホバの証人の世界本部は米国に置かれているため,そうした自由は,エホバの証人の世界的な宣べ伝える業に確かに益を及ぼしてきました。そして,憲法の保証する,信教,集会,言論,および出版の基本的な自由は,米国内のすべての宗教団体にとって重要なものであったことに疑問の余地はありません。

      こうした状況は他の国々と著しい対照をなしています。この点は,ヒトラー支配下のドイツで,そうした宣べ伝える業がどのように抑圧されたかを考えるだけでも分かります。また,今日,神を自由に崇拝することが禁じられている他の多くの独裁主義国と同様,共産主義の国々でもそのような業を公に行なうことはできません。

      このように,人々の求める基本的な自由を守るため,幾多の熾烈な闘争が繰り返されてきました。そして,現在でも米国では,そのような闘争が依然として行なわれているのです。

      自由がないよりはまし

      自由が乱用されてもそれを耐えるほうが,自由の全然ないよりはましです。アメリカ建国200年祭の祝いがその良い例です。建国200年にちなんで,品位ある仕方で集まった団体も少なくはありませんが,この機会を利己的な目的のために利用した団体もあります。

      USニューズ・アンド・ワールド・リポート誌はこう述べています。「もし一人一人がよく注意しないなら,今年はアメリカの押売り200周年記念として記憶に残るだろう。建国200年祭で一もうけしようとする大騒ぎの中には,あきれるほど大掛かりなものもある」。

      同ニュース誌は,買おうと思えば,建国200年を記念した,「Tシャツ,氷入れ,ジョン・ハンコックの椅子の複製,元々のインディペンデンス・ホールの建材の切れ端,ジョージ・ワシントンのピストルの複製,建国200年記念ボールペン,赤,白,青の便座,および自由の鐘の描かれているごみ袋など」の品物が手に入ることを伝えています。

      ウォール・ストリート・ジャーナル紙もこう論評しています。「悲しいことではあるが,建国200年祭は,関係のないものまで引き寄せてしまった……それは愛国色で飾られた俗悪な商業主義である」。

      建国200年祭は,観光客を由緒ある土地に引き寄せました。しかし,観光客がその土地の住民の権利を尊重しないようなこともありました。例えばフィラデルフィア市の近辺では,観光客が群れをなして歴史的な街路をかっ歩し,個人の家の窓をのぞき込んだり,歩道や街路にごみを散らしたりしました。

      がまんできなくなった一人の婦人は,物見高い観光客を寄せ付けない方法をついに見いだしたと語りました。その婦人は,昔の出来事を再現し,植民地時代の先祖のある者たちがしたような方法でごみを処分するようになったと述べています。つまり二階の窓からごみを放り出すようにしたのです。彼女は,「これでも観光客を追い払えないなら,ほかに打つ手はないわ」と言いました。

      中には,建国200年祭を祝うために,特定の色の服を着たり,特定な身繕いをするよう使用人に要求するところもありました。しかし,そうしたことを人々に無理やりさせようとすることは,建国200年祭が記念しているはずの自由そのものに反する行為となります。

      もちろん,自由の乱用が許し難いほどのものになれば,国の法廷に訴えるという道があります。そうした法廷には,憲法上の自由を守る責務があります。しかしここでも,自由が全くないよりは,自由が乱用されるほうがましである,と言えます。

      同国の多くの人々は,基本的な自由を享受してきました。それは事実です。しかし,ある人々にとって,独立宣言や憲法にうたわれている崇高な自由の理想は,極めてうつろな響きしか持っていませんでした。だれにとって,そしてどのようにですか。

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      ある人々は自由の恩恵にあずかったが,自由の乱用は他の人々に悲惨な結果をもたらした

  • 過去に存在した痛ましい問題
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 過去に存在した痛ましい問題

      独立宣言や憲法にうたわれている約束された自由を守ることには,深刻な問題が伴いました。そうした問題の中には,極めて痛ましいもの,そしてある歴史家の目から見れば米国史に悲劇的な汚点を残したものもあります。

      ある人の意見によれば,アメリカ人の大半は,建国200年祭の間,自国の歴史に関する体裁をよくした改訂版を与えられてきました。その人はこう述べています。「要するに,それ以外にも語られねばならない真実の他の面があるということです」。200年におよぶ歴史を正直に評価するには,そのような真実をも含めて考えねばなりません。

      その一つは,1776年7月4日に宣せられた自由と関係があります。独立宣言はこう述べていました。「すべての人は生まれながらにして平等であり,譲ることのできない一定の権利を創造者から与えられているが,その中には生命,自由,および幸福の追求が含まれている」。合衆国憲法は,言論,集会,出版,および信教などの基本的な自由を保証していました。憲法修正第4条もこう述べています。「不当な捜査および差し押さえを受けずに,身体,家屋,文書,および財産の安全を図る,人民の権利は,これを犯してはならない」。

      これらは崇高な原則です。そして,こうした原則は大勢の人々のために,かなりの程度まで守られてきました。しかし,歴史家の示すところによれば,そのことはすべての人について言えるわけではありません。

      暴力的であった過去

      例えば,ヨーロッパの植民者が後に米国となった土地に入植した際,これらの優れた原則のほとんどすべてが踏みにじられました。ヨーロッパ人の植民者は,自分たちのためにそうした理想を求めましたが,自分たちよりもずっと前からその地に住んでいた人々にはそうした権利を認めませんでした。

      『身体および家屋の安全を図り,捜査および差し押さえを受けない,という人民の権利』は,植民者よりも幾世紀も前からその地に住んでいたインディアンには適用されませんでした。インディアンの住民の大半がひどく圧迫されたというのは歴史上の事実です。彼らの土地や家は没収され,多くの人が殺されて人口の少なくなった部族は特別保留地に追いやられました。その上,すべての州でインディアンに選挙権が与えられるようになったのは,何と1948年になってからのことです。

      確かにインディアンは,“野蛮人”とみなされてきました。実際に彼らは,互いに戦い合い,一部族が他の部族を征服するようなことをしてきました。また,白人に激しく抵抗しました。しかし,もし1861年から1865年までの南北戦争の期間中,外国の勢力が北部と南部の間の“部族間戦争”を“野蛮である”とし,国を教化するために米国に侵入したとすれば,アメリカ人は武力をもって,インディアンと同じほど野蛮な仕方でそれに抵抗したのではないだろうか,という疑問が起きるかもしれません。

      今日,インディアンの代表者の中には,依然として非常に苦々しい気持ちを抱いている人もいます。アメリカ・インディアン運動の一指導者バーノン・ベレコートはこう論じています。『アメリカ人は,自分たちの政府の200年の歴史を,偽りと恥辱の200年とみなすべきである』。彼は,アメリカのインディアンは建国200年祭を祝うべきではないと言明しています。それは,『白人の入植者がアメリカ原住民の主権と土地を奪い始めて以来……我々には何ら祝うべきことはない』からです。

      暴力的であった,アメリカの過去は,現在にまで影響を及ぼしていると考える権威者もいます。デンバー・ポスト紙はこう述べています。「最も重大な点と思われるのは,アメリカ社会の本質に関する疑問である。それは開拓者の時代以来,多大の暴力を伴ってきた。幾世紀にも及ぶ,アメリカのインディアンに対する“戦争”そのものは,恐るべき仕方でそうした状態への条件を作っていった。ヨーロッパ人は侵略者としてやって来て,往々にして戦いによって他人の土地を取り上げ,その人々の社会を破壊していった。こうした暴力的要素は後を絶たなかった」。

      アメリカの過去には,苦痛をもたらし,汚点を残した,もう一つの出来事があります。それは奴隷制度と関係があります。

      奴隷が必要とされた理由

      初期の入植者たちがインディアンの土地を取り上げたとき,彼らは自分たちが豊かな可能性を秘めた広大な土地を所有していることに気付きました。南部植民地の気候と土壌は,たばこ,米,砂糖きび,そして綿花などを栽培するのに適していました。

      しかし,そうした広大な土地で,一体だれがすべての仕事を行なうのでしょうか。比較的少数であったヨーロッパ人だけでは,十分ではありませんでした。また仕事も,その性質上余り望ましいものではありませんでした。どんな解決策がありますか。アフリカからさらわれて来た黒人奴隷です。

      「すべての人は生まれながらにして平等であり」,すべての人が「生命,自由,および幸福の追求」という『譲ることのできない権利』そして「不当な捜査および差し押さえ」からの自由を有するとの原則に基づく国が,どうして奴隷制を黙認できたのか不思議に思う人は少なくありません。独立宣言の中に記された苦情の一つは,英国が,『王のための徴用と称して,強制的に市民を捕らえた』ことでした。ところが,そうした崇高な言葉を書き記した人々自身,黒人を捕らえて無理やりに奴隷とすることを黙認していたのです。

      この問題は,すべての人間の中に利己的な欲望がどれほど根強いかを示しています。そして,他の人々を犠牲にしてまで,多額の金銭を手に入れようとするのも,そうした欲望の一つの表われです。昔アメリカでは,大抵そうした欲望のほうが崇高な原則よりも力のあることが示されてきました。それは今日でも全く同じです。

      もちろん,奴隷制は1776年に始まったわけではありません。最初の黒人奴隷がアメリカの土を踏んだのは,それよりも約150年前ジェームズタウンでのことでした。しかし,1776年に独立宣言が出されたころまでに,260万人の人口のうち,黒人は約50万人を数え,しかも黒人の九割有余は,南部に住んでいました。

      独立宣言を起草したトマス・ジェファーソンは,年若い弁護士であったころ,奴隷制に反対していました。しかし,彼自身は奴隷を所有していました。この点に関して,エボニー誌はこう述べています。「奴隷制の恩恵に浴しながら,なおかつそのようなことができたのは,当時の若くて利発な革命家たちの特徴であった」。史料によると,ジェファーソンは,バージニアにある幾千エーカーもの所有地,モンテセロで,200人余りの奴隷を使っていました。

      パトリック・ヘンリーは,奴隷制に反感を抱いていると言いながらも,こう述べています。「わたしは,自分で買った奴隷を所有している」。奴隷を持つ理由は,彼が続いて述べた言葉から分かるかもしれません。「この土地で奴隷のいない生活は,概して不便である」。

      二年後,パトリック・ヘンリーは,英国のなわめから解放されることに関して,有名な演説をし,こう言明しました。「我に自由を与えよ,しからずんば死を」。大勢の黒人の奴隷たちも,同様の感情を抱いていたに違いありません。

      遂に廃止される

      奴隷制に関する論争は高まり,自由の闘士を自認する国において,奴隷制が根本的に不当なものであることに気付いた人は少なくありませんでした。

      イエス・キリストの追随者であると唱える,アメリカ人の多くは,仲間の人間を一生涯奴隷にすることと,イエスの有名な「黄金律」とを調和させるのは困難であると感じました。「黄金律」はこう述べています。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。

      1861年に南北戦争が起きたころ,米国には34の州があり,そのうちの15州は奴隷州でした。その中の11州は連邦から脱退し,南部盟邦を形成しました。奴隷州の中でも4州は北側に付きました。

      1863年,大統領であったアブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を行ないました。それは,南部盟邦諸州にいる奴隷は自由であるとみなされることを宣言したものです。しかし,すべての州で奴隷制が法的に完全に廃止されたのは,憲法修正第13条が批准された1865年になってからのことです。

      1870年の修正15条は,黒人に選挙権を賦与しました。しかし,そうした権利は多くの黒人にとってほとんど無意味でした。例えば,州によっては,人頭税を要求するところがあり,その税金を支払わなければ選挙はできませんでした。もちろん,貧しい黒人,さらには貧しい白人も,大抵そうした税金を支払うことはできませんでした。1964年に修正24条が採択されて初めて,国政レベルの選挙に人頭税の支払いによる制限を設けることが禁じられました。そして,1966年に,最高裁判所は,すべての選挙に関してそのような税金による制限を設けることを違法としました。

      また,読み書きの能力検査に合格した人だけに,選挙権を与えていた州も少なくありませんでした。多くの黒人,そして白人も,そのような検査に合格しませんでした。投票資格としてそうした検査を課すことを政府が禁じたのは,1970年になってからのことです。

      奴隷制が認められていた350年余りにわたってなされた不当な仕打ちは,アメリカの歴史に深いきず跡を残しました。今日に至るまで,同国は,その影響すべてから抜け切ってはいません。

      ある婦人たちの異論

      数多くの婦人たちは,国の誕生当初宣言された自由が,自分たちに長い間与えられなかった分野があると唱えています。そうした婦人たちは,ほとんど一世紀半もの間,婦人に選挙権が与えられなかった事実を指摘します。

      そうした婦人たちは,もしリンカーンの述べたとおり,同国が「人民の,人民による,人民のための政府」を有しているとすれば,そのような形態の民主政治は婦人の選挙権を認めて然るべきである,と論じました。それを認めないなら,建国の父たちの意味していた権利を,全住民,すなわち「人民」の半分から奪うことになるのです。やがて政府もその主張を認め,1920年に婦人に選挙権を与えました。

      それに加えて,自分たちが雇用者から男性と同等の配慮と待遇を受けておらず,自分独りで家族を養っている場合でも,同じ仕事に対して同じ額の手当てを与えられないと言う婦人もいます。一人の婦人は,婦人の雇用状態について「最後に採用され,最初に首を切られる」場合が多いと述べています。

      もちろん,米国内のすべての婦人がそのような考え方に同調しているわけではありません。しかし大抵の女性は,労働上の酷使や不公平から婦人を守る法律のお陰で実現した,労働条件の向上を歓迎しています。

      ですから,過去200年間の自由の歩みは,一貫したものではありませんでした。その歩みは,ある人々にとって高度の自由を意味し,それは感謝され,大切にされてきました。しかし,他の人々にとって,程度の差こそあれ,圧制があったことは否定できません。そして,これまでに過去の不当な仕打ちの多くが正されてきたとはいえ,それらの不当な仕打ちの悪い実は,依然としてこの国に影響を及ぼしているのです。

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      当初ヨーロッパ人は,自分たちの欲するものを手に入れるため,平和裏に物々交換を行なった。しかし,やがて彼らの増大する要求は武力を伴うようになった

      [8ページの図版]

      自由と平等に関する優れた原則も,奴隷たちには適用されなかった

  • より良い将来を待ち望む根拠があるか
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • より良い将来を待ち望む根拠があるか

      二百年の歴史を経た米国の今の発展状態は,より良い将来を築くためのしっかりとした土台となっていますか。確かに,強大な経済力を背景にした米国には,良い方向へ進む要素が少なからず見られます。

      しかし,経済,教育,社会問題,および政治のすう勢を研究する権威者たちは,厳粛な結論に到達しています。同国は多大の力と長所を有しているとはいえ,否定的な傾向が逆転されない限り,近い将来に深刻な問題に直面し得る,とそうした人々は考えています。

      彼らは,多くの家庭で犠牲となったものの一つとして,“アメリカの夢”を挙げています。それは,進歩がいつまでも続き,より良い職,より多くの収入,より高度な生活水準,安全,心の平安,そして若者には明るい将来があるという信念です。

      しかし,多くの人々にとって,実際にはそのようになりませんでした。ニューヨーク・タイムズ紙はこう伝えています。「多くのアメリカ人の間に,宴会のような時期は終わったのかもしれない,という不安が広まっている。偉大なアメリカの夢は……どうやら多くの人にとって得難いもののようである」。

      増大する問題

      主な問題の一つは,過去数十年間に,アメリカ人がその繁栄の大半をもたらしてきた方法と関係があります。それは,借り入れ金,つまり借金,それも法外な額の借金によって成し遂げられてきました。現在豊かな生活をするために,将来を抵当に入れたのです。しかし,借金が多過ぎれば,破産の憂き目を見ることになります。

      膨大で累積する借金を抱えているため,多数の人々,少なからぬ企業,市や州政府の幾つか,さらには連邦政府でさえ,それぞれの支出を賄ってゆく能力が重大な危険にさらされています。USニューズ・アンド・ワールド・リポート誌はこう述べています。「借金は,それを支えてゆかねばならない米国経済よりも早い速度で伸びている。現在,公債および個人の債務の総額は,国の物資およびサービスの年間生産高の二倍を上回るほどになっている」。負債の総額は,今や3兆㌦(約900兆円)を超えているのです。

      同誌の観察によると,「今日,法人の負債総額は,各社の税引利益の約17倍に上っており」,それは増え続けています。連邦政府の負債は優に6,000億㌦(約180兆円)に上り,やはり増大しています。過去17年間に,米国政府が年度予算で多少とも剰余金があったことは一度だけでした。1975会計年度の赤字は,430億㌦(約12兆9,000億円)でした。1976会計年度の赤字は,750億㌦(約22兆5,000億円)と予想されており,それは空前の記録となります。

      1939年当時,公債に対して支払われる利子は,年間10億㌦(約3,000億円)でした。しかし,1977会計年度には,それが約450億㌦(約13兆5,000億円)に達するものと予想されています。その一年間の利子だけでも,建国当初から第二次世界大戦までの間の公債の総額を上回ります。

      バード上院議員はこう述べています。「この種の赤字支出が続くなら,国が破局に向かうのは当然である」。

      しかし,ここ数か月間,景気の見通しは明るくなっているのではありませんか。その通りです。大抵の経済学者は,つい最近までの悪性の景気後退は終わったと考えています。しかし多くの場合,事態を改善するための資金は,借入金によって賄われてきました。750億㌦(約22兆5,000億円)を借りて,それを国の経済につぎ込めば,一時的に事態は改善されるでしょう。しかし,負債は積もる一方です。ある人はこうした事態を,体が受け付けなくなるまで麻薬を吸い,最後には身を滅ぼしてしまう,ヘロイン中毒者のようなものだ,と言って懸念を表明しています。

      生活水準の低下

      ニューヨーク市はすでに,収入以上のお金を使い続けるなら,どんなことになるかを痛感させられています。市当局の抱える負債は非常な重荷となり,現在の支出を賄うためにさらに借金をすることが極めて困難になりました。まして借金を返済することなど及びもつきません。

      そこで同市は公益事業を縮小しました。それは,職員を一時的に解雇することをも意味していました。しかし,そのような思い切った処置をもってしても,赤字はなくなりません。そして,市当局にとって,今でもすでに高い税金をこれ以上引き上げることは,いよいよ困難になってきています。

      支出が多すぎて,十分の収入がないなら,都市の生活水準が低下するのと同様,国にも同じことが起こり得ると考える専門家は少なくありません。すでにそうした兆候が見られると考えている人もいます。ラトガーズ大学のジョージ・スターンリエブ教授はこう述べています。「我々の見守っているものは,アメリカの生活水準の低下にほかならない」。

      税金も,人々の生活水準を低下させています。税金は,インフレの渦中にあって,最も急速に値上がりしている主要項目です。すでに,労働者の賃金の三分の一余りは,各種の税金として差し引かれているのです。サイモン財務長官が次のように述べたのももっともなことです。「共和国の発足当初から徐々に発展してきた連邦税制は,今日窮地に陥っている」。“反税一揆”とでも呼ぶべきものが起きる恐れがあります。独立戦争が起きた理由の一つは,確かに,植民地人がある種の課税を不当なものとみなした点にありました。

      豊かさの中の貧困

      多くの人々が富んでいるにもかかわらず,貧困はなくなりません。ニューヨーク・ポスト紙はこう述べています。「貧困線を下回る生活をしているアメリカ人の数は,推定1,000万人から3,000万人に及ぶ」。貧困線ぎりぎり,あるいは貧困線をわずかに上回る程度の生活をしている人は,ほかにも大勢います。

      特別欄寄稿家ジャック・アンダーソンは,作男に変装して,季節農業労働者として働いた仲間の記者について述べています。その記者にあてがわれた宿舎は,「とても人間の住めるようなところではありません」でした。全体的に見た状態は,「20世紀の住居というよりは,19世紀の奴隷小屋をしのばせるものであった」と彼は述べています。

      アンダーソンはこう結論を下しています。「世界でも特に実りの豊かな農地で働く人々が多くの場合赤貧に甘んじて生活し,かろうじて生きて行けるほどしかかせげないということは,皮肉としか言いようがない。中には,上前の半分以上を着服するような,作男の頭領に縛られている者もいる。大抵の者にとって,作男としての絶え間ない貧困から逃れる道はないように見える」。

      貧困生活を余儀なくさせられる老人の数が,国辱とも言えるほどになっていることは衆知の事実です。また,多くの大都市における生活環境は悪化しています。再建計画があっても,老朽化し,また人の住まなくなった建物が後を断たないため,それに追い付けない状態です。

      ですから,200年を経た今日,生活状態の非常に恵まれている人は少なくありませんが,他の幾百万もの人々は貧困生活を強いられています。長年にわたる繁栄,および善意による尽力すべてをもってしても,その事実は変わっていません。こうしてみると,より良い将来を築き上げるのに求められる,しっかりした土台があるとは言えません。

      他の病弊

      また,相当先進的な教育制度が200年間続いたにもかかわらず,幾百万もの人々は“半文盲”の状態にあります。米国教育局は,大人の人口の約五分の一(2,300万のアメリカ人)が,買物をしたり,運転免許を取得したり,保険の契約書を読んだりすることなど日常の雑事に必要とされる読解力にも事欠くという事実を,「衝撃的」であるとしています。そのほかにも3,900万人ほどのアメリカ人は,自分の受けた教育で「かろうじて生活」していることが伝えられています。

      アメリカの多くの学校の実状を見ると,全般的に教育程度が著しく向上するとは期待できません。同国の新聞の報道によると,学校では暴力が幅をきかせており,暴行殴打,追いはぎ,蛮行,そして非行少年の抗争などが増加しています。一出版物は,それを「事実上,学校での恐怖の支配」と評しています。ある大都市では,五か月の間に,教師および職員に対する暴行が474件もありました。

      こうした傾向は,犯罪の増加と合致します。現在では,毎年1,100万件余りの犯罪が発生し,さらに通報されないものは幾百万件にも上ります。

      家庭生活も崩壊しつつあります。ボストン市の社会学者たちは,『典型的なアメリカ人家庭で,暴力は少なくとも愛と同じほど一般的なものとなっている』ことを調査の結果知りました。調査の対象となった夫婦の半数は,それまでの一年間に家庭内で実際に暴力がふるわれたことを認めました。そして,少なくとも毎年100万件の小児虐待が起きていると考えられています。

      確信を失う

      ニューヨーク・タイムズ紙はこう述べています。「ここ数年の間に,我々は一国民として行く手が分からなくなり,不安のうちに惑い,互い同志また世の中全体に対する自分たちの関係に確信を抱けなくなっている。幾十年にもわたって見られた,アメリカの楽観主義と道徳に導かれた特性は,大方,根深い冷笑的な態度や幻滅に取って代わられた」。

      チャーチ上院議員も次の点に気付いています。「今日アメリカの直面している主要かつ根本的な問題は,信頼の欠如,冷笑的な態度のまん延,そして心からの悲観論などである」。連邦政府機関の悪弊に関する調査を指揮したチャーチ上院議員はこう述べてもいます。「連邦政府に至るまで,アメリカの社会のあらゆる階層に不法がはびこっている」。さらに,次の点にも注目しています。「もし政府が法に従おうとしないなら,自由な政府の存在そのものが脅かされる」。

      将来

      米国は現在の形のまま,その300周年,つまり「建国300年祭」を祝うまで存続するでしょうか。

      民主主義が“これからの潮流”ではないと考える人は少なくありません。そうした人々は,世界で民主主義的な政府の数が減少の一途をたどっていることを指摘します。それに対して,全体主義的な支配は増大しています。

      西ドイツ最大のさし絵入り雑誌スターンは,『アメリカの優勢な時代は過ぎ去った』と結論づけながらも,それに代わる別の種類のアメリカ時代の到来を望んでいます。英国ロンドンの親米的なエコノミスト誌は,アメリカ「帝国」にとっての「退場曲」について,次のような結論を述べています。『世界の指導権は,1976年から2076年までに及ぶ一世紀間のごく早い時期に,新たな担い手にゆだねられることになろう』。

      しかし,「建国300年祭」を迎えるよりもずっと以前に,非常に大きな変化が生じると期待できる,もっと根本的な理由があります。しかもそれは,米国が別の世界強国の手で征服されるからではないのです。

  • 国家主義よりも良いもの
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 国家主義よりも良いもの

      どの国の人であっても,自分たちと自分たちの子孫にはより良い将来があると考えがちです。しかし,それはどのように実現されますか。各国の努力によって実現されるのでしょうか。

      今日では,かつてないほど多くの国家が存在しています。各国の政府は自国民により良い時代を約束し,その政策に従うよう求めます。しかしこれまでに,一国家,あるいは国家集団が,人類全体の向上への先達となったことがありましたか。そのための時間がなかったなどとは言えません。にもかかわらず,今世紀に入ってから悲惨な失敗が至る所で見られます。

      地球上の住民がこれほど多くの国家に分断されてきたことが,だれの利益にもならなかったという事実を無視することはできません。『分裂した家』が世界の複雑な諸問題を解決するとはとても思えません。

      例えば,パレード誌はこう述べています。「世界人口の四分の一は慢性的に飢えており,十分の一は食糧が極めて乏しいため死にひんしている」。ところが食糧問題専門家は,地球は十分の食糧生産能力を秘めているので,地球そのものに問題があるわけではないと述べています。そして,協力や合理的な分配を妨げているのは,分裂した政治および経済体制である,とも述べています。

      また,国家的な誇り,すなわち国家主義のゆえに,分裂した諸国家は互いに恐れを抱いています。ですから,世界の諸国家は,軍備のために今や毎年3,000億㌦(約90兆円)もの資金を使っているのです。その資金が生産的な目的のために使われたなら,人類はどれだけのことを成し遂げられるか考えてみてください。

      実際,いかなる国家も,いかなるイデオロギーも,人々が切に求め,必要としているものを与えることはできません。そして,大抵の人々が求めているのは,真の平和,恒久的な安全,繁栄,そして幸福などです。

      もしすべての人が愛のある家族として,忠節で信頼の置ける兄弟として仲よく暮らしてゆけるなら,どの国家集団の間にも見られる望ましい特質を楽しめることについて考えてみてください。様々な人々の食べる多種多様な食べ物を試食してみるのは興味深いことではありませんか。民族衣装や民族音楽の多くは楽しいものです。現在の国家間の分裂さえなければ,それぞれの文化の多くの優れた特色によって,生活を大いに楽しいものとすることができるのです。

      道理に合わない

      わたしたちは共通の先祖から生まれてきたのですから,国家や人種が対立するのは道理に合いません。英国の歴史家故アーノルド・トインビーは,国家主義について次のように語りました。「それは,他国に住む人類の大多数にどんな影響を及ぼそうと……我々が人類の一部分に対して至上の政治的忠節を示す精神状態のことである」。

      国家主義が非常に分裂的で,破壊的であるために,トインビーは,「国家主義は精神病である」と述べました。また,ウ・タント前国連事務総長も次のように述べたことがあります。「我々が今日直面している問題の中には,間違った態度によるもの,あるいは間違った態度の結果起こるものが実に多い。その中には,ほとんど無意識のうちに培われるものもある。その一つは,『正しくても間違っていても,祖国は祖国』という狭量な国家主義の概念である」。

      神のみ言葉は,人類の創造者エホバ神は『不公平なかたではない』と述べています。(使徒 10:34)そして神は,『ひとりの人からすべての国の人を作った』のですから,国家間の分裂をそのままにしておくことは,人間の創造者にとっても道理に合わないことと言えます。―使徒 17:26。

      しかし,すべての国がいつの日か国家的な偏見を克服して,すべての人の益のために働く国際的な兄弟関係のうちに結ばれるという,現実的な希望がありますか。

      今や押し進められる一致

      そうです,現実的な希望があるのです。事実,神ご自身の言葉は,今日の分裂した人類の状態が間もなく終わることを保証しています。国家間の有害な分裂はもはやなくなるのです。―ダニエル 2:28,44。

      聖書の預言の示すところによると,わたしたちは今や,神が人間の物事に介入して,人間の支配する現在の分裂した体制に終わりをもたらす時を目前に控えた,「末の日」に住んでいます。しかし,まさにその同じ時期に,イザヤ 2章に予告されているとおり,真の崇拝は高く揚げられ,「すべての諸国民は必ずや流れをなしてそこに向か(い)」ます。

      それはどんな結果をもたらしますか。神は,「諸国民の間で必ず裁きを行ない,多くの民に関して物事を正される。また,彼らは自分の剣を鋤の刃に,槍を刈り込みばさみに打ち変えねばならなくなる。国民は国民に向かって剣を揚げず,彼らが戦争を学ぶことももはやない」― イザヤ 2:4,新。

      そうです,全能の神は,今まさに,正直な心の持ち主を国際的な兄弟関係の中に集め,ご自分が天から支配する義の新秩序でどのように生活したらよいかを教えておられます。そして,現在の邪悪な事物の体制を滅ぼした後,神は,ご自分の『正された』生存者たちを,新秩序での永続する平和と繁栄へと導き入れるのです。

      啓示 7章9節は,そうした生存者たちが,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」になることを示しています。これらの人々は,神の支配に服する人たちです。彼らは,いかなる国家がどんな恩恵を提供しようとも,神の新秩序における命の希望に比べ得るものは何もないことを認識しています。そうした極めて望ましい目標に,自発的な民を導くことができるのは,人間ではなく,神だけです。

  • 戦いを求める聖職者
    目ざめよ! 1976 | 9月22日
    • 戦いを求める聖職者

      ● ガーナ・タイムズ紙が伝えるところによると,ガーナの英国人カトリック司祭トーマス・トライアーは,「ゲリラ戦が,『アフリカの完全な解放を得るための,最も手速く確実な,また安全な方法』であるとタマレで語った。同紙は,トライアーが「教育と宣教の業に貢献したとして,最近大勲章を授与された」と述べている。

      同様に,「解放の戦いを飽くまで遂行する」と誓った,メソジスト派教会のアフリカ人一主教は,最近開かれたメソジスト主教連盟の世界会議に欠席する口実として,差し迫った「解放」の仕事を挙げた。会議の指導者たちは,自分たちの同僚が暴力的行為へ転じたのは,恐らく「キリスト教の信仰に対する公約と従順のため」だろうと慎重に述べた。神学上の反対にもかかわらず,「抑圧された人々」を解放するための「武力闘争がもはや避けられなくなる時」が来る,と一指導者は述べた。これは,イエス・キリストの取った方法だろうか。

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