-
台湾における現代のエホバの証人の活動目ざめよ! 1973 | 1月8日
-
-
間,彼女の教師となり,伴侶ともなりました。やがて彼女が自分も宣べ伝えることをしなければいけないと気がついたのは言うまでもありません。出井夫人は,当時日本語で燈台社と呼ばれていたものみの塔協会に150冊ほどの小冊子を注文し,1930年代の初めにそれらを配布しました。彼女の活動は当局の目を免れずにはすみませんでした。彼女はそれについて次のように述べています。「わたしが伝道を始めて2,3か月したころ,日本の支部のしもべが逮捕されたことが新聞で報道されました。その影響はすぐに感じられました。なぜなら,文書を求めた人びとを再び訪問すると,わたしが配布した文書を刑事に押収されたと知らされたからです。やがて4人の刑事が来てわたしの家を捜索し,書籍や雑誌はすべて押収されました。わたしは,近くの派出所でその刑事のうちのひとりに尋問されました。しかし彼はわたしが何も悪いことをしているのではないことを認めて釈放してくれました」。
一方,落合兄弟とユエー・クオ・ユインは引き続き南へと宣教を進め,山を越えて,島の東側にあるふたつの山脈を二分する谷間まで行きました。その地域では,クアン・シャンという小さな町でささやかな代書屋を営むツー・チン・テングという名の台湾人が音信をすぐに受け入れ,他の人々に話しはじめました。落合兄弟とその仲間は,日本に帰ってからもしばらくの間,台湾にいるそれら関心を持つ人たちと文通しました。しかし,まもなくツー・チン・テングさんらの消息は全くわからなくなりました。世界情勢が悪化し,日本の中国征服が激しくなるにつれ,台湾の人々は大きな圧力を受け,日本の天皇を天照大神の直系として崇拝することを強いられました。
しかし,台湾の羊のような人々が忘れられていたわけではありません。いくらか自由になるとすぐ,大江頼一と香坂吉内というふたりの日本人の全時間奉仕者が,台湾で王国の関心事を再建するために台北にやって来ました。ふたりは自分たちが到着したことを出井家族に知らせました。出井家族はたいへん喜んで,ただちに「ぜひ来てください」と返事をしました。ふたりの青年が自転車でチアイに着いた1937年12月のその日は,その家族にとって忘れられない日となりました。ふたりは古い自転車に持ち物を積んで台北から240キロほどの道程をやって来たのです。ふたりのワイシャツのポケットから食事に使うはしが突き出ていました。出井夫人が「どうしてはしを持っているのですか」と尋ねると,ふたりは,旅行中いちばん安い店で食事をするが,店のはしはとても不潔だからと答えました。2日間の聖書研究のあと,喜ばしいことがありました。出井夫妻がバプテスマを受けて兄弟姉妹になったのです。
数日後,ふたりの開拓者は新しい兄弟と姉妹に別れを惜しみながら,台湾を1周する自転車旅行を続けました。自転車には文書や持ち物が積まれていましたし,山を越えたり山のまわりを行く道の多くは狭くてぬかるんでいましたから,その旅行はたいへんつらいものだったに違いありません。大江兄弟が出井姉妹にあてた手紙には,ふたりが関心のある,アミ族の人数名に会ったと書かれていました。実際,1938年1月には,台湾人の代書,ツー・チン・テングとアミ族の人数名がそのふたりの開拓奉仕者によってバプテスマを受けました。
タイツング郡のふたりのバプテスマを受けたエホバの証人が出井家族に合流するためチアイに移ったのはこのころのようです。そのことを聞くと,大江・香坂両兄弟は,出井家に帰って10日ほどのあいだその人たちを援助し,それから,協会の小さな倉庫の管理を続けるために台北へ行きました。台湾における王国のわざは,台北市,チアイ,タイツング郡の3か所でより強固な土台の上に築かれているように思われました。しかし,問題が起ころうとしていたのです。
-
-
妻のうるわしい行ないは夫を真理に導く目ざめよ! 1973 | 1月8日
-
-
妻のうるわしい行ないは夫を真理に導く
それはとても魅力のある仕事でしたから一心不乱に励みました。私は記録映画のカメラマンとして約18年間,全国をかけ巡りました。皆さんの記憶にあるたいていの大事件やさまざまのドキュメンタリーを描きましたが,当時得意になって胸を張った映画,「東京オリンピック」の製作にも参加しました。おもしろくて家庭を忘れてしまい,子どもたちのことは妻にまかせっきりでした。職務に忠実だったため,よりよい地位が与えられました。大阪へ,札幌へと転任が続き,ますます忙しくなり,わが家をかえりみる余裕を失ってしまいました。その間,妻は伝道で訪れたエホバの証人の奉仕者と聖書研究を続け,おりにふれては学んだことを私に聞かせてくれていたようです。「…ようです」というのは,右の耳で聞いたことが左の耳へ通り抜けていたからです。さて私が忙しくなるにつれて,妻はますます私を大切にしてくれました。時には好物の箱詰をつくりその中に手紙を忍ばせてありました。その心づかいに旅先で,ほろりとしたことがよくありました。それもその時だけで自分の職務に無我無中でしたから,疲労が重なって暴言を吐くようになりました。「別れたっていいじゃないか」。でも妻はいつも冷静で穏やかでユーモアさえ見せるゆとりがありました。妻は「じゃあ別れる前にもう一回集会につき合ってちょうだい」と言い,私は巡回監督の公開講演に誘われました。その講演の中で,テモテ前書 5章8節が引用されました。『人もしその親族,ことにおのが家族を顧りみずば,信仰を棄てたる者にて不信者よりもさらに悪しきなり』。そのことばが私の心を打ち,あとは聞こえなくなりました。いつも変わらず務めを果たす妻,何日も家をあけても私が帰宅した時には子どもとともに5人全員が玄関に並んで迎えてくれました。あるときは,早く帰ってきてね,と泣きながら抱きついてさえきた娘たちでした。旅先にも必ず手紙を書いて送ってくる妻と子どもたちでした。大切にしなくてはならないのは仕事ばかりではなく,こうした家族のほうなのである。私は聖書研究に身を入れ始めました。大好きだった職業をやめ,全部の集会に出席できるような仕事に変えたのです。そして妻に内緒で準備を始めました。宣べ伝える奉仕に参加する心がまえを固めたのです。
1971年8月6日,東京後楽園競輪場における「神のお名前」地域大会で,私はバプテスマを受け,兄弟となることができました。ふりかえって見ると,妻は聖書の真理を学んで以来,妻として,また母親としての役目をいっそう忠実に果たしてくれました。私が新しい人格を着ることができたのもエホバの導きはもちろんのこと,妻の「うるわしい行状」がその一助となったことを心から喜んでおり,感謝しています。
-
-
装いを新しくした雑誌目ざめよ! 1973 | 1月8日
-
-
装いを新しくした雑誌
● 最新号の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は,すべて左横書きになりました。当発行者は,それが読者に多くの益をもたらすものと確信しています。横書きと縦書きという釣り合わない記事の組み合わせはもはやなくなります。左横書きになっているさし絵の見出しは回りの文章と調和します。「ものみの塔」の研究記事に鉛筆で傍線を引き,書き込む人たちは,集会の準備をもっと効果的に行なえるようになります。左横書きの利点はさらに多くあります。
この点に関して,元文部省国語課長,白石大二氏著,「当用漢字」の中で述べられていることは興味深いものです。「左横書きの利点については,(1)書きやすい,(2)書いた跡をこすらないですむ,(3)書き終わった部分が見える,(4)数式・ローマ字の書き方と一致する,(5)用紙の節約になる……,(6)つづり込みを統一することができる……,(7)書類を参照するとき,めくりやすい(右手にペンを持ちながら左手で書類をめくることができるので,能率的である。)(8)検出しやすい,(9)読みやすいなどの点があげられている。…一般実業界方面はもちろんのこと銀行方面の実施も目だってきた。これは数字を扱うからだといえばそれまでであるが,辞典類の左横書きの実施,新聞の左横書き紙面の多くなっていること,特に広告に著しいことなども注意するべきであろう」。
また,「編集・出版マニュアル」の中に述べられていることも興味深いものです。「また,目が左右に並び,上下の視野よりも,左右の視野のほうが広い点からも,横書きが縦書きにまさるとされている。公文書の横書化が進められ教科書を先頭に,多くの刊行物が横書形式をとるようになってきている」。
当誌の読者も慣れるにつれ,左横書きの印刷物の多くの利点を認識されるものと当発行者は確信しています。そのようなわけで,世界中でそれぞれ74か国語および28か国語で発行されている「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の日本語版は,1973年1月以後,外国語版と同じ装い,そして形式をとることになりました。
-