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  • 迷い出た若者
    ものみの塔 1965 | 11月1日
    • の正しい見方を知り,それを離れない者もあります。サムエルを初め,こうした例は聖書にも見られます。規則とか年齢の制限などを設けることはできません。同じ家族の中でも,一人一人が別々に扱われねばなりません。同時に,私たちは放とう息子を生み出すような事をも避けたいと思います。

      23 迷い出る人々についてどんな疑問がありますか。

      23 迷い出る者たちについては多くの質問が起こります。彼らは意識的な敵対者ではありません。これらの者たちの立ちかえる望みはありますか。もしそうならどのようにして? 放とう息子のたとえ話はこれらの問題の理解にどう役立ちますか。放とう息子の級だけでなく,神の組織に固く従う人々の取るべき道と態度について,たとえ話を調べることからどんな理解が得られますか。こうした問題は次号の「ものみの塔」誌上に取り上げられます。

  • バビロンは倒れてもその宗教は生き延びて諸国民を支配する
    ものみの塔 1965 | 11月1日
    • バビロンは倒れてもその宗教は生き延びて諸国民を支配する

      1 世界強国バビロンが倒れたことに関連して何が問われますか。

      前号までは,紀元前539年,バビロンがペルシャ人クロスの手に陥ったことを述べました。その時からバビロンは政治的に見てもはや世界強国ではありません。しかしバビロンの宗教はどうなりましたか。バビロンの政治的な命数がつきて,世界支配がセム人の手からアーリア人の手に移ると共に,バビロンの宗教も死に絶えましたか。決してそうではありません。なぜですか。

      2 (イ)国々がバビロンの宗教を実践する基礎は,以前からどのように据えられていましたか。(ロ)バビロンが政治上の優越性を失ったとき,その祭司職はどうなりましたか。祭司たちは何を決意していましたか。(ハ)彼らはどの方角に目を向けましたか。それは遂にどんな結果を生みましたか。

      2 まず第一に,セムの忠実なる子孫は別としてあらゆる国の人々がバビロンの宗教を行なう基礎は,ニムロデの時代に人々がバベルの塔を建てた時に据えられました。言語が奇跡的に乱されたとき散らされた人々は,自分たちの間違った宗教観念を携えて行きました。a 後代においてバビロンは異教の国々から宗教の中心地と見なされています。第二に,紀元前539年にバビロンが倒れてのち,その祭司たちはペルシャ人の手でバビロンを追われましたが,バビロンの宗教が伝統的に持つ権威と優越性は祭司たちによって保持されました。バビロンの政治的な優越性が失われても,ニムロデの始めたバビロンの宗教は宗教の世界帝国となり,エルサレムにおいてエホバの真の崇拝を守った人々は別として他のあらゆる人を支配するようになりました。サタン悪魔の巧妙な導きによって,それは西の地平線に直ちに目を留め,祭司職の新しい中心地とベルシャザルの後継者を西方に求めました。事実,のちに見るように,その真随はやがて背教のキリスト教に入り込んで,キリスト教国と呼ばれる世界を支配するに至りました。

      バビロンの宗教はヨーロッパにひろまる

      3 (イ)エトルリア人とはどんな人々ですか。彼らはローマの歴史とどんな関係がありますか。(ロ)エトルリア人の王が倒されたとき,エトルリア人の影響は消滅しましたか。説明しなさい。

      3 バビロンの倒れるずっと前に,バビロン的な宗教をイタリアに移植する道が作り始められていました。歴史家J・H・ブレステッドの「古代 ― 初期の世界の歴史」によれば,おそらく小アジアから来た海洋民族であるエトルリア人は,紀元前1000年頃イタリアに定着しています。紀元前800年以後,彼らは遠くイタリア北部に勢力を伸ばし,ローマはカプアから北のゼノアの港までに及んだエトルリア人の諸都市と同じく,エトルリア人の王を持つ都市国家となりました。これらの王たちの支配は2世紀半に及び,従って紀元前750年から500年頃のローマは,エトルリア人の王に支配されたことになります。紀元前750年より余り古くないとされる伝統的なローマ建設の時期は,従ってエトルリア人のローマ占領および都市建設の時期と一致します。初期ローマのこの時代から伝わる記録はありませんが,考古学上の証拠はそのことを裏づけています。エトルリア人の王たちはローマ人の文明に大きな影響を与えましたが,その残酷さと圧制は遂に反逆を招き,ローマにおける王の支配は紀元前500年頃に終わりました。しかしブレステッド博士の指摘するように,2世紀半にわたるエトルリア人の支配の影響は,ローマの建築,宗教,部族制度その他にはっきり認められます。

      4 大英百科事典は,エトルリア人に関する歴史家ブレステッドの記述をどのように裏づけていますか。

      4 大英百科事典も歴史家ヘロドトスに言及してこれを裏づけています。ヘロドトスによれば,マネスの子アテスの治世のとき,リデア全土に18年のあいだききんがあり,遂に王のはからいによって,国民の半数は王子テイレナスにひきいられ,スミルナに下って船を建造しました。食物と住む土地を求めて海に乗り出した彼らは,多くの国々の人と共に住んでのち,イタリアのオムブリシに来て都市を建設しました。(ヘロドトスによれば)もはや自らをリデア人と呼ばず,テイレニア人と呼んだこれらの人々について,大英百科事典は更に次のことを述べています。「初期の遺跡の特色から見て,彼らがはじめて恒久的に定住したのは9世紀末のことであろう」。テイレニア人はどんな宗教を持っていましたか。大英百科事典に次のことが出ています。

      5 (イ)エトルリア人はどんな宗教を持っていましたか。(ロ)例をあげなさい。

      5 エトルリア人が東洋人ないし準東洋人であることは,初期の芸術の特色,宗教と崇拝の様式から証明される。その芸術は一方においてメソポタミヤ,シリヤ,キプロスとの密接な交渉を示し,他方においてエジプトとの接触を物語る。7世紀のエトルリア人の黄金細工,装飾に見られる神話中の人物また神々は,明らかにアジヤの神話の英雄と神々である。……儀式と宗教の面においても,メソポタミアから直接に採用されたものが多い。全体的に見て純粋に東洋的な情緒と雰囲気がそこに感じられる。最も著しい共通点が見られるのはうらないである。羊の肝臓や鳥の飛び方によってうらなう事は,カルデヤ人が始めた。(うらないの項を見よ)楔状文字を刻んだメソポタミヤ出土の粘土の肝臓の模型は,〔イタリア,エミリアの〕ピアセンザで発見された青銅製の肝臓の模型ときわめて類似している。その各部分には各部を司る神の名がエトルリア文字でしるされていた。b

      6 (イ)紀元前6世紀までの発展のあとをたどりなさい。(ロ)(注を含む)エトルリアはどこにありましたか。それから出たどんな名前が今日に残っていますか。

      6 それでエトリア人が小アジヤのどこからか海を渡ってトスカニーの海岸に上陸したことは,考古学から見ても明らかです。ローマの北,エトルリアcのヴェイは彼らのおもだった都市の一つとなりました。エトルリアは最後にローマに征服されました。6世紀には12の都市の同盟が存在し,ラカス・ボルシニエンシイス(ボルセナ湖)の北にあったボルタンマの神殿に毎年集まりを開きました。これは宗教的な同盟に過ぎなかったようです。d これはすべて6世紀(紀元前539年)にバビロンが倒れる前の出来事です。

      7 (イ)ローマの受け継いだ宗教は,当時の他の国々が実践した宗教より,もっと直接にバビロン的でしたか。(ロ)バビロンの祭司は何に関心を持っていましたか。彼らはバビロンを追われてのち,何をしましたか。(ハ)聖書はペルガモについて何を述べていますか。

      7 こうしてバビロンの宗教はヨーロッパに強力な足場を築きました。それはバベルの時にさかのぼる遠い関係ではなく,直接の遺産です。しかしここで私たちのおもな関心はバビロンの祭司職です。真の崇拝に反対するため,サタン悪魔がニムロデによってバビロンの宗教を始めたのと同じく,サタンの霊に動かされたバビロンの祭司は,首都バビロンの消滅後も,祭司職とベルシャザルの宗教的な後継者の温存をはかりました。バビロンの敗北後のことについて,バーカー,アインスワース共著「シシリアの家庭の守護神」第8章232頁によれば,「敗れたカルデヤ人は小アジヤに逃げ,パーガモスに枢機院を設立」しました。これはずっと後の西暦1世紀になって,クリスチャン会衆の所在地として黙示録 2章12,13節にしるされているペルガモのことです。カルデヤ人の中心地が移ったことについて,アレキサンダー・ヒスロップ博士の言葉を見ましょう。

      8 ペルガモ王国は何から成り立っていましたか。

      8 フィルギィアはパーガモス王国の一部を成した。ミシイアも同様である。パスカル年代記によれば,ミシイア人はニムロデの子孫とされている。いわく「巨人の狩りうどネブロド〔ニムロデのギリシャ語形〕からミシイア人が出た。(パスカル年代記第1巻50頁)〔歴史家〕リビィとヘロドトスによれば〔イタリアの〕エトルリア人の原住地であったリディアも,同じ王国の一部を成した。ミシイア,リディア,フィルギアは,パーガモス王国の構成国であった。スミスの古典辞典542頁eを見よ。

      ローマに及んだ宗教的影響

      9 ローマは宗教の面でエトルリア人からどんな影響を受けましたか。

      9 これはローマに甚大な影響を及ぼしました。エトルリア人の諸都市が征服されてローマに共和制が確立されると(紀元前509年),ローマ人はエトルリア人の神々,ジュピター,ジュノー,ミネルバその他の神々を採用しました。これらの神々を人体によって表現し,またその神殿を建てることを始めたのもローマ人です。これらの神はギリシャの神々と同一視されました。エトルリア人の空の父ジュピターは,ギリシャ人のゼウス・ペーターのローマ版となり,軍神マースは征服者ローマ人の好んだ神でした。サターンの祭は後にクリスチャンに採用されてクリスマスとなり,あらたな意義を持つようになりました。現代の一歴史書はローマ人の行事とカルデヤ人とに直接の関連を認めています。f

      10 (イ)バビロニア人はどんな間違ったことに天文学の知識を用いましたか。(ロ)ローマ人がカルデアの占星術を取り入れたことを説明しなさい。

      10 カルデヤ人は星によって将来を予測しようとしたことから,天文学に長足の進歩を遂げた。すなわち占星学である。バビロニア人は多くの知識を組織的に収集し,これが後の天文学の初めとなった。十二宮に属する星を区分することが初めて行なわれ,水星,金星,火星,木星,土星の惑星が知られていた。これらの星は人間の生活を支配する特別な力を持つと考えられていたので,5人のおもな神々の名がそれにつけられた。我々はローマ人の呼び方に従ってそれを呼ぶが,ローマ人はこれらの星の名称をバビロニア人から借りて,ローマ化したに過ぎない。愛の女神イシュタルの星はこうしてビーナス(金星)となり,マルドゥク神の星はジュピター(木星)に変わった。

      11 (イ)ペルガモはどのようにローマ領となりましたか。(ロ)アッタルス王は宗教上のどんな地位を占めていましたか。

      11 紀元前133年,王アッタルス3世は臨終の遺言でペルガモンとその領土をローマに譲り,後にその全部はローマの一州となってアジアと呼ばれました。このアッタルス王は,ヒスロップ博士が更に述べているように,ベルシャザルの後継者としてカルデヤのマギの選んだ人物です。

      12 (イ)ペルガモ歴代の王はその宗教上の地位をどのように得ましたか。(ロ)それによってどんな継承の制度が復活しましたか。

      12 ペルガモの王たちは,その領土に避難所を求めたカルデヤのマギ,および彼らに同調した異教一般の声によって,ベルシャザルとそれ以前の支配者が占めていた地位に祭り上げられた。彼らは古いバビロニアの神の代表者として尊ばれた。これはパウサニウスの言葉から明らかである。……その領土内にマギの主要な座を有したアクラスは,マギのかしらバッカスと同様に認められた。それでベルシャザルの空席は満たされ,とぎれたカルデヤ人の継承が再びつづいた。―「二つのバビロン」240,241頁。

      教皇の地位の由来

      13 私たちは教皇の地位の由来を調べることに,なぜ大きな関心を持っていますか。

      13 ローマカトリック教会を先頭に世界の諸宗教が自らを世界平和実現のにない手としている現在,私たちはここでローマ最高僧院の教皇職の起源を率直にしらべてみなければなりません。ヒスロップ博士は「二つのバビロン」の239,240頁に次のような由来を述べています。

      14 ローマ人は科学と宗教に関して,エトルリア人をどのように見ましたか。

      14 カルデヤの偶像崇拝に熱心なエトルリア人の植民者は,一説によれば〔ペルガモにある〕小アジヤから,別の説によればギリシャから移ってきてローマの周辺に住みついた。最後にはローマの支配下におかれたものの,彼らは政治的に併合されるずっと前からローマ人の宗教に甚大な影響を及ぼした。占い,預言,真実と見せかけを問わずあらゆる科学における彼らの技術は,はじめからローマ人の尊敬の的であった。ローマ人が占いの知識をおもにタスカニー人すなわちエトルリアの人々から学んだことは,一般に認められている。犠牲をともなう儀式一切を司る腸卜僧の職は,はじめエトルリア人に限られていた……。ローマの優秀な若者は,エトルリアで栄えた神聖な科学を学ぶため,そこに派遣された。

      15 (イ)最高僧院を創立したのはだれですか。(ロ)僧院の長である教皇はどんな権力をふるいましたか。その由来や実践の面から見て,教皇はローマ的であると言えますか。

      15 ローマ最高僧団(カレッジg・オブ・ポンティフス)は,ローマの第二の伝説的王ヌマ・ポンピリウスによって創立されました。ヌマに関してヒスロップはこう述べています。「この神はバビロンでネボと呼ばれ,エジプトでナブまたナムと呼ばれた。ローマ人のヌマは偉大な祭司の王であり,バビロニア人のネボと全く同じ地位を占めていた。」h 最高僧団を司り,公私にわたってローマ人の宗教活動を支配した教皇は,精神の面でも実践の面でもエトルリアの教皇となりました。これについてヒスロップ博士は次のように述べています。

      16 教皇の権威の座の所在について,ヒスロップ博士はなんと述べていますか。

      16 バビロンの正当な大祭司の座は,〔南部メソポタミヤすなわちカルデヤ〕を征服したことのないローマ帝国の領土内にはなかった。ベルシャザルの死後そしてカルデヤ人の祭司がメディアペルシャの王によってバビロンを追われて後,それはペルガモにあった。後にアジヤの七つの教会の一つがペルガモにあった。i

      17 ローマ法王の職に関して,どんな結論に達しますか。

      17 紀元前1世紀に第六世界強国となったローマとペルガモとの宗教的関連を示すよい例は,教皇の職です。いま歴史的にこれを簡単にしらべてみるのは興味のあることです。ローマ法王の教皇の職はバビロン的な宗教に起源を持つことが明瞭になるでしょう。「二つのバビロン」に次のことが出ています。

      18 (イ)バビロン的な教皇の権威と職能は,何時ローマの支配者に授けられましたか。(ロ)ジュリアス・シーザーは,バビロン的な教皇の権威を主張したことをどのように示しましたか。

      18 ローマ教皇は初めペルガモおよびその聖職階級制度と無関係であった。しかしやがてローマの教皇とペルガモの教皇は同一のものになった。紀元前133年に死んだペルガモ最後の王アッタルス3世が遺言によってその領土をローマに譲ったため,ペルガモはローマ帝国の肝要な部分となった。……すでに教皇に選ばれていたジュリアス・シーザーが皇帝としてローマ人の最高支配者になると,ローマの国家元首またローマの宗教の最高権威者として,バビロンの祭司の正統な継承者にふさわしい権能が彼に授けられた。彼の地位はこの権力をふるうことのできる地位であった。ついで彼はアタラスの神聖な尊厳およびアタラスがローマに遺贈した国を要求したようである……高位にある教皇として行動するとき,彼は衣裳をこらして現われた。紫の衣をまとい,手にはニムロデの笏杖を持ち,ダゴン〔魚の神〕の冠をかぶり,ジェイナス〔二つの顔を持つ神〕とシビリー〔母なる女神〕のかぎを身につけたさまは,ベルシャザルと見まがうほどであったろう……。

      19 教皇の地位につくことを拒絶した最初のローマ皇帝はだれですか。

      19 これは〔西ローマ帝国の〕グラチアン皇帝の治世においてやむまで続いた。〔歴史家〕ギボンによれば,グラチアンは偶像崇拝に似た教皇の衣裳を着ること,すなわち教皇の地位につくことを拒絶した最初の人であった……。

      20 グラチアンが教皇の地位を拒絶したとき,その地位は空白になりましたか。それともどうなりましたか。

      20 異教の称号である教皇は,廃止されてから数年を経ずして復活した……そしてそれに伴う異教の風習もろともローマの司教に授けられた。それ以後ローマの司教は,古代バビロンに根ざした異教のあらゆる教えを自称キリスト教国にそそぎ込む代理人と化したのである……。

      21 この称号を得た最初のローマ法王はだれですか。当時のローマはキリスト教の町でしたか。

      21 ……この異教の称号が法王ダマサスに授けられた事情を考えると,彼より数等まさった人間にとってはそれは信仰と忠節の少なからぬ試練であったに相違ない。西ローマ帝国において法律上廃止されたとはいえ,七つの丘の都市において異教はなお盛んであった。そのことにくわしい〔ラテンバルガタの訳者〕ジエロームは,当時のローマを評してあらゆる迷信の掃きだめと書いている。異教廃止の勅令はローマを除いて帝国のあらゆる処で尊重されたが,ローマにおいては空文に等しかった……。

      22 法王ダマサス1世の人格について何が言えますか。

      22 ……100人以上の敵を殺して強盗のようにローマの司祭となった法王ダマサス1世は,選択に迷うはずがなかった。結果を見ると,彼はいかにも彼らしいやり方をした。由緒ある異教の教皇の正統な継承者として異教徒の目に認められるためには,真理を如何に犠牲にしようとも,はばかることがなかった……。j

      23 (イ)西暦4世紀においてさえ,異教徒は法王をどのように見ていましたか。(ロ)西暦606年,ローマ法王の地位に関して,何が起きましたか。

      23 ……今日の如き法王は4世紀末に存在した。彼はベルシャザルまたニムロデを地上において代表する唯一の者として,異教徒に認められた……西暦606年,荒海にほんろうされたような諸国家の混乱の最中に,ローマ法王は絶大な権力を持つ大司教とされ,ヨーロッパの10大国は法王をキリストの代理者,統一の絆,彼らの王権の安泰を保証する者として認めた。k

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