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あなたは生きる道を選んでいますものみの塔 1981 | 9月1日
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あなたは生きる道を選んでいます
あなたはどうして今,呼吸をしているのですか。生き続けたいからです。今日,あなたはいくらかの水を飲まれるでしょう。それも,生き続けたいからです。物を食べるのも,生き続けたいからです。同じ理由から,夜には眠り,翌日生きてゆくための新たな活力を得ます。仕事が好きかどうかにかかわりなく,朝,目を覚ますと,働きに出掛けます。こうして,生活の必要物を備えるのです。
しかし,自分が選んでいる現在の人生に目を向けてください。人種間の対立に目を向けると,自分たちは他の人種より優れていると考えて,劣っていると思う人種を抑圧する人々が見られます。皮膚の色が違うという理由で差別や暴力行為,果ては戦争までが起きています。
地上の人々を引き裂くナショナリズム,国民を分裂させ,おびただしい数の難民を生み出す革命,論戦や取っ組み合いをして互いに争う政党,国民を搾取し政治家の懐を肥やす汚職が目に映ります。
一般の諸宗教が果たしてきた役割も見逃せません。人々を分裂させ,政治に干渉し,繰り返し戦争気運をあおり,しばしばエホバ神の真の崇拝者たちを迫害してきました。いわゆる“クリスチャン”は多くいますが,キリスト教の精神はごくわずかしか見られないのが実情です。
世界に見られるこうした大きな失敗に目を向けるだけでは不十分です。どの大都市にもあるスラム街,貧困,不衛生,いまわしい病気,暗い借家にひしめき合い,冬には寒さに凍え夏には暑さにうだっている人々も見過ごしてはなりません。犯罪に満ちた街路,赤線地帯,麻薬中毒,悲痛な経験をした人々であふれている精神病院にも目を向けてください。
世界のいたるところで道徳が崩壊し,人類社会が毒されています。どこに目を向けようと,無数の人々の顔からあきらめと絶望が読み取れます。このすべてが,ストレスと呼ばれる世界的流行病を生み出しています。これは“20世紀の殺し屋”と呼ばれています。ウォール・ストリート・ジャーナル紙は,「ストレスが激しかったり長期間続いたりすると,体は病気にかかりやすくなることがある。そうした病気は,皮膚の発疹や風邪から心臓発作やガンにまで至る」と伝えています。トゥー・ザ・ポイント誌は,「[ストレス]に起因する体の病気で,今や毎年おびただしい数の人が入院したり死亡したりしている。その数は少なくとも数千万人に上っている」と伝えています。
現在のこうしたストレスの高まりは,幾世紀も昔にイエスが予告された,「地上では……逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう」という言葉を成就するものです。イエスはさらに次のように言葉を加えられました。「人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失(うでしょう)」― ルカ 21:25,26。
2ページにわたる次の記事では,多くの人が,食べたり,眠ったり,働いたりして,自ら選んでいる,ストレスを伴う現在の人生の特定の面に一層細かい注意が向けられています。
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あなたが選んでいる人生ものみの塔 1981 | 9月1日
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あなたが選んでいる人生
飲食という身体的必要を満たしつつあなたが自ら選んでいる現在の人生は,聖書筆記者が遠い昔に述べたように,「日が短く,悩みに満ちて」います。(ヨブ 14:1,2,口)現在の人生の悩みの幾つかが次に挙げられています。こうした人生を送る以外に選択の余地はないのでしょうか。現在,もっと優れた選択をすることはできないのでしょうか。食べたり飲んだり呼吸をしたりしてわたしたちが支えている現在の人生に伴う災いすべてから解放された人生はないのでしょうか。
自分が第一
自己主義の哲学を奉じる人たちが語るところでは,自分第一主義者の信条は次のようなものです。「自分の利益を求める」。「自分の行動の是非を判断する権利は自分にある」。「罪悪妄想を捨て去れ」。神の言葉は,自己崇拝は今日の偶像礼拝であると述べています。聖書にはこう記されています。「彼らの神はその肉体の欲望である」。「貪りは偶像礼拝の一形態である」。(フィリピ 3:19; コロサイ 3:5,今日の英語聖書)この新しい“自分教”がわたしたちの時代に興ることは,『人びとは自分を愛する者となる』という言葉によって予告されていました。(テモテ第二 3:1,2)自己愛は人に対する愛つまり隣人愛を脇へ押しやってしまいます。
家族制度の崩壊
自己主義の高まりとともに,結婚は軽視され,離婚は急増し,子供たちが苦しみを味わうようになっています。「“自己<ミー>の”哲学が今日の高い離婚率の一因となって」います。(ロバート・テイラー博士)現代の親は,「今では自己の願望を達成する自分の権利を優先させて」います。(ニューズウィーク誌)家族の絆が損なわれています。この自己の世代<ミー・ゼネレーション>は歴史の与える教訓を無視し,愚かにも同じことを繰り返しています。「文明全体の存続は家族生活が堅実かどうかにかかっていた」― ワールド・ブック百科事典,1978年版。
犯罪
イエスは,「不法が増す」ことを予告されました。(マタイ 24:12)現在の世代はイエスの予告が間違っていなかったことを示しています。米国では,1979年に,「殺人は10%,暴力行為は10%,強姦は13%,強盗は12%増加し,1980年の最初の6か月間に重大な犯罪は10%も急増」しました。(US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌)他の国々でも事情は同じです。経営者の多くは正直に事業を行なっていますが,詐欺や帳簿の改ざん,脱税,ごまかしを働く経営者も少なくありません。一方,経営者から盗みを働く者も多くいます。ある報告によると,「アメリカで最も機知に富み成功している泥棒はホワイトカラーを身に着けて」います。この泥棒は作業服<ブルーカラー>を着ていることもあります。
飢え
『食糧不足があるでしょう』とイエスは予告されました。(マタイ 24:7)昨年のこと,ロサンゼルス・タイムズ紙は次のように伝えました。「世界の食糧供給問題の専門家の推定では,世界中でほぼ4億5,000万人が飢餓状態にあり,8億ないし10億人が飢餓線上にある」。地球には十分な食糧生産能力があるのですが,食糧を均等に分配しようにも,「しっかりと守りを固めた利害関係がその前に立ちはだかって」います。
テロ行為
1979年11月25日付のニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は,「テロ行為,つまり暗殺,誘拐,爆弾事件,計画的襲撃などの件数は,1972年の206件から,1975年の572件,1977年の1,256件,1978年の1,511件,そして今年[1979年]の最初の9か月間の2,662件と増加の一途をたどっている」と伝え,危険が増大しつつあることを明らかにしました。金持ちはますます富を蓄え,貧しい人はますます貧しくなってゆくにつれ,テロ行為も増加の一途をたどるでしょう。
戦争と絶滅の危機
「軍事面の科学技術の進歩は勢い余って超大国を不可避の核戦争へと追いやっている」。(ストックホルム国際平和問題研究所所長,フランク・バーナビー博士)「核戦争はだれの益にもならず,文明の終焉をもたらす恐れさえあるものと我々は考えている」。(ソ連の軍事専門家)「神に対する愛のゆえに,子供たちに対する愛のゆえに,自分の属する文明に対する愛のゆえに,この狂気を終わらせよ!」―前駐ソ米国大使,ジョージ・F・ケナン。
汚染と絶滅の危機
「地球は汚染によって次第に死の惑星と化しつつある」。(ザ・グローブ・アンド・メール紙)「人類は,今や汚染によって自らの存在を地の表からぬぐい去るという危機に瀕している」。(ザ・ガーディアン紙)「汚染はもはや一国の問題ではない。地球という村全体の問題である。……この問題にふさわしい対応ができなければ,我々人類はやがて絶滅という事態を必ず迎えることになる」。(ザ・トロント・スター紙)米国のカーター前大統領は,退任演説の中で,汚染が「時限爆弾」的要素を秘めており,「核戦争による絶滅の脅威と同じほど地球の生存を脅かすもの」になっていることを指摘しました。『地を破滅させている者たちを[神が]破滅させる』時がきたとはいえないでしょうか。―啓示 11:18。
現在のこうした人生は決して満足のいく選択とは言えません。それでも人々は生きようとしています。手足の自由が利かなくても生きることを望んでいます。目が見えなくても死ぬことを恐れます。耳が聞こえず,物が言えなくても生きる道を選んでいます。年老いて体が弱っても生に対する執着を抱いています。ヨブは次のように語りました。「女から生まれる人は日が短く,悩みに満ちている。彼は花のように咲き出て枯れ,影のように飛び去って,とどまらない」― ヨブ 14:1,2,口。
多くの人が選んでいる現在の人生は短く,悩みに満ちています。これは決して満足な選択とは言えません。しかし,これよりも好ましい選択ができるというのでしょうか。
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あなたが選ぶことのできる人生ものみの塔 1981 | 9月1日
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あなたが選ぶことのできる人生
あなたが今,選ぶことのできるもう一つの人生があります。春の終わりの花のようにしおれることも,夏の終わりの草のように枯れることもない人生です。失望と苦痛に満ち,非行や犯罪,戦争や飢きん,疫病や死に悩まされる人生ではありません。その人生は短いものではなく,いつまでも尽きることがありません。その日は悩みに満ちているどころか,言い尽くせぬ喜びで満ちあふれています。それは,エホバ神が当初,人間のために意図された人生です。
それはどんな人生のことですか。雲の上に広がる天国で,空中に漂いながらハープをつまびく天の至福のことでしょうか。決してそのようなものではありません。怠惰な者たちが天上の生活として夢見心地に思いに描く無意味でむなしい存在ではありません。あなたが今選ぶことのできるこの人生がどのようなものかをはっきり理解するため,神の言葉をひもといて,人間男女を創造した際の神の目的を調べてみることにしましょう。
最初の人間夫婦には一つの命令が与えられましたが,それは天に関するものではなく,地に関するものでした。神は二人にこう告げられました。「子を生んで,多くなって,地に満ち,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。地を従わせるというのは,地を破滅させることではなく,その世話をすることを意味しています。そのことはエデンで人間に与えられた務めからも明らかです。次のように記されています。「エホバ神は人を取ってエデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせた」。―創世 1:28; 2:15,新。
人間家族が殖えて,エデンが小さくなったなら,殖え続ける人類が園の境界の外に殖え広がることが神の目的でした。エデンの完全な植物の種子や苗木を携えて行き,それらをエデンで最初の家族が行なっていたと同じように新しい地域に植え,新しい土地を耕してゆくのです。人類が地上に殖え広がってゆくにつれて,地は楽園に変えられ,エデンと同じ状態が広がっていって最後には神の園が全地に及ぶことになっていました。このようにして人間は地を従わせるのです。
その全地球的な楽園では,人間は愛ある世話と相互の信頼関係に基づいて動物を治めることになっていました。そうした支配の下では,調教師が動物に向かっていすを突き出すことも鞭を鳴らすこともなく,動物が動物園のおりに閉じ込められることも現代のニムロデたちの使う恐ろしい銃で撃ち殺されることもありませんでした。従順な人類による動物に対するこうした愛に満ちた支配はいつまでも続くことになっていました。
しかし,そうした支配は長く続きませんでした。罪がのどかなエデンの園をかき乱すことになったのです。エホバは人間に次の命令を与えておられました。「園のどの木からでも,あなたは満ち足りるまで食べてよい。しかし,善悪の知識の木については,あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」。(創世 2:16,17,新)最初の人間夫婦は不従順になってそれを食べ,自らとその子孫に死をもたらしました。エホバは二人を園から追放し,男に向かってこう言われました。
「地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない。あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」― 創世 3:17-19,新。
エホバ神は人類に完全な出発をさせてくださいました。神に落ち度はありませんでしたが,人類はいよいよ悪に進んでゆきました。こう記されています。「岩なる方[エホバ],そのみ業は完全,そのすべての道は公正である。忠実の神,不正なところは全くない。義であり,方正であられる。彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。曲がってねじけた世代よ!」(申命 32:4,5,新)伝道之書 7章29節(新)にも同様の陳述が見られます。「真の神は人間を廉潔な者として造られたが,彼らは多くの計画を探り出したのである」。あるいは,聖書翻訳者ジェームズ・モファットがこの節の後半で訳出しているように,「多くのこうかつな策略を彼らは考え出した」のです。
今日,人間は相変わらず破滅をもたらす行動を取り,これまでにないほどの災いを引き起こしています。今や人間は地上の動植物を利己的な目的に利用し,資源や環境を損なっています。こうして,居住に適した環境を備えた地球を破滅させつつあるのです。「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」と言明されたエホバは,そうした行為に終止符を打たれます。―啓示 11:18。
エホバの目的は成し遂げられる
地が永久に存続することはエホバの目的です。「それは定めのない時に至るまで,すなわち永久に揺るぐことがありません」。そこに人が住まなくなることはありません。こう記されているからです。「エホバはこのように言われたからである。それは天の創造者,真の神であり,地を形作り,それを造り,それを堅く立て,それをいたずらに創造せず,人が住むために形作った方である。すなわち,『わたしはエホバであり,外にはいない』」。―詩 104:5; イザヤ 45:18,新。
地が楽園となり,ご自分に全く従う人々,地とその上の動植物を世話し,健全な環境を維持してゆく人々で地を満たすのが,エホバの当初の目的でした。これは今でもエホバの目的であり,それが必ず成し遂げられることをエホバは次のように保証しておられます。「わたしの口から出て行くわたしの言葉も,それと全く同じようになるのである。それは成果を収めずにわたしのもとに帰って来ることはない。それは必ずわたしの喜びとしたことを行ない,わたしがそれを送り出したことに関して確かな成功を収める」― イザヤ 55:11,新。
2ページにわたる次の記事は,あなたが今選ぶことのできる楽園の地での生活に伴う数々の喜びを説明しています。
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より良い選択 ― 楽園の地での人生ものみの塔 1981 | 9月1日
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より良い選択 ― 楽園の地での人生
問題に満ちたこの時代のことを考えると,現在のこうした人生は満足のいく選択とは言えないでしょう。それでも多くの人が生に執着します。どんなに問題があろうと,死ぬよりはましだ,と考えています。しかし人々は今,問題から解放された地上の楽園で生活する道を選べるのです。
すばらしい仕事
地を管理して,そこを食物を産する畑や美しい景色を作り出す公園に変えたいと思われますか。砂漠を花咲く所に変え,いばらやおどろが草原や森林に変わるのを見たいと思われますか。密林や山などの一部の地域に保護の手を加え,そこを野生生物の生息地として,また創造者を無言のうちにたたえる場所として保護したいと思われますか。地球を美化するこうした仕事にあずかることを望む人は,楽園の地で生活したいと思われるでしょう。こうした働きの望ましい結果を目にするのは「神の賜物」です。―伝道 3:13,新。
動物との平和な関係
銃や鞭や鉄格子ではなく,愛と相互の信頼によって動物を治めてゆきたいと望まれますか。クマと子牛が共に伏し,ヒョウと子やぎが共に草をはみ,ライオンが雄牛のようにわらを食べる時が訪れたらよいと思われますか。こうした動物すべてが幼い子供におとなしく従ってゆくようになる日が訪れるのを見たいと思われますか。もしそうなら,楽園の地で生活したいと思われるでしょう。「それらはわたしの聖なる山のどこにおいても害をもたらすことなく,損なうこともない」とエホバは約束しておられます。―イザヤ 11:9,新。
健康と命
足の悪い人が雄鹿のように跳びはねる日が訪れるのを見たいと心から願っておられますか。口の利けない人の舌が歌をうたうのを聞きたいと思われますか。盲人の目が開かれるのを見,耳の不自由な人が自由に音を聞くようになるのを目にしたいと思われますか。嘆息と叫びがほほえみに変わり,涙と嘆きが笑顔に変わり,苦痛と死が健康と命に変わるのを目撃したいと思われますか。もしそうであれば,こうした状態が永遠に見られる祝福された楽園の地に至る道にどんな障害物が立ちはだかることも許さないでしょう。これも,やはり神のお約束なのです。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」― 啓示 21:4。
もはや戦争はない
剣が鋤の刃に,槍が刈り込みばさみに打ち変えられる時を心待ちにしておられますか。士官学校がなくなり,戦争を学ぶことも,爆弾を製造することも,戦争気運をあおることもなくなる時を待ち望んでおられますか。もしそうなら,そのすべてが現実となる新しい事物の体制を神がもたらしてくださることに感謝できるでしょう。エホバは次のような保証の言葉を与えてくださっています。「神は地の果てに至るまで戦いをやめさせる」― 詩 46:9,新。
圧制は終わりを告げる
圧制がなくなり,貪欲な商業主義が姿を消す時を待ち望んでおられますか。人々が家を建ててそこに住み,平安に過ごせる時が訪れるのを願っておられますか。地が喜びの笑い声で満ち,鳥の盛んなさえずりで震える時を,そして清らかな空気が花の香りでふくらむ時を待ち望んでおられますか。もしそうなら,楽園の地における生活に胸をときめかすことでしょう。神の民には次のような約束が与えられています。「わたしの選ぶ者たちは,自分の手の業を存分に用いる」― イザヤ 65:22,新。
夢のようで信じられない話ではない
これに対して懐疑的な反応を示したり,あからさまに嘲笑したりする読者がいますか。こうした楽園の地は夢のようで信じられない話でしょうか。読者はそのように考えているでしょうか。問題に満ちた現在のこうした生活しかわたしたちは経験したことがないのですから,それも無理からぬことです。「罪の報いは死」であり,人類はこれまで罪を犯してはその報いを刈り取ってきました。(ローマ 6:23)しかし,神の言葉は次のように約束しています。「世は過ぎ去りつつあり」ますが,「神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。―ヨハネ第一 2:17。
信頼の置ける約束
楽園の地に関するこれらの約束は,「偽ることのできない」エホバ神からのものです。(テトス 1:2)イスラエル国民はこの点を思い起こさせられました。「あなた方の神エホバがあなた方に語られたすべての良い言葉のうち,一つとして果たされない言葉はありませんでした」。(ヨシュア 23:14,新)神に反対する者でさえ次のように言わざるを得ませんでした。「神は人でないゆえに偽りを語ることはな(い)……自ら語ってそれを果たさないことがあろうか」― 民数 23:19,新。
楽園の地における永遠の命 ― これは地球とそこに住む人間に対する神の初めの目的でした。そしてこれこそ読者が今選ぶことのできる人生なのです。エホバ神はそれを夢のようで信じられない事柄とはみなしておられません。ですから読者もそう考えるべきではありません。エホバは,現在のこの体制があまりにも悪く,存続するに値しないと考えておられます。読者もきっとそのことには同意されるでしょう。神はすでに,楽園におけるとこしえの命か,この古い世と共に味わう永遠の死のいずれかを人々に選択させておられます。
人はどのように自分の選択を明らかにするのでしょうか。どうすればあなたの決定を表わせますか。次の記事でこの点を考慮しましょう。
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あなたの選択を明らかにする方法ものみの塔 1981 | 9月1日
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あなたの選択を明らかにする方法
人は,神が約束してくださった楽園の地での生活をどのように選ぶのでしょうか。手を挙げて,『はい』と声を上げ,『主よ,私はそこで生活したいと思います』と言うのでしょうか。そうではありません。現在の人生を選んでいるのとほとんど同じ方法でそれを選びます。あなたは今,生きる道をどのように選んでいますか。行動,それもとりわけ呼吸,飲食,睡眠,労働などでそうしています。それが自分の指図つまり決定による行動ではなく,体の命じる行動である点に注目なさってください。体が条件を定め,その要求を満たさねばならなくなるのです。
神の新しい体制で生きる道を選ぶのも同じです。そこで生活したいという言葉ではなく,自分の取る行動によってその選択が明らかになります。そして,この場合も,行動は各自が決めるのではありません。エホバ神が楽園の地における命を与えてくださり,それを得るための条件を定められます。わたしたちはその要求を満たさなければなりません。それを拒むことは,現在のこの邪悪な世と共に死ぬ道を選んでいることになります。体の求めに応じて呼吸するのを拒めば肉体に死が臨むのと同じ程,それは確実なことなのです。
自分が正しいと信じることを行ない,他の人を公平に扱えばそれで十分だと考えている人は少なくありません。昔,善行に富み,清い生活を送り,隣人に愛を示していると思われたひとりの富んだ若い支配者がいました。ところが,永遠の命を得る方法についてその人がイエスに尋ねたところ,持っている多くの物質を処分してイエスに従うよう告げられました。「完全でありたいと思うなら」このすべてを行なうように,とイエスは言われたのです。―マタイ 19:16-22。ルカ 18:18-23。
わたしたちの主イエス・キリストの神また父を愛することは単なる感傷的な感情ではありません。「そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛」なのです。(ヨハネ第一 5:3)昔,命と死の選択を迫られた古代イスラエルは,エホバを愛するとはエホバに従うことであると告げられました。こう記されています。「わたしは……あなたの前に命と死,祝福と呪いを置いた。あなたは命を選び,あなたもあなたの子孫も共に生きつづけるようにしなければならない。すなわち,あなたの神エホバを愛し,その声に聴き従い,これに堅く付くのである。神はあなたの命,あなたの長い日々なのであ(る)」― 申命 30:19,20,新。
宗教を持っていれば十分か
しかし,ここで次のように言う人もいることでしょう。『私は自分勝手な考えで行動してはいません。きちんとした宗教団体に所属しています。沢山あるキリスト教の宗派のどれかに誠実に従っているなら,その人は救われるはずです』。こうした態度は正しいでしょうか。神のみ子に答えていただきましょう。イエス・キリストはこう言われました。「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父のご意志を行なう者が入るのです」。人でも宗教でも,神のみ名を口にしたり,宗教行事を守り行なったり,慈善事業を行なったりするだけでは不十分です。神のご意志を教えてそれを実践していないなら,その宗教もそれに付き従う人々も,いかに誠実であれ,目的を逸していることになります。―マタイ 7:21-23。
ユダヤ教の宗教家について述べたローマ 10章2,3節の次の言葉は,ある宗教組織に対して誠意や熱意を示すだけでは不十分であることをはっきり示しています。『彼らは神に対する熱心さをいだいています。しかし,それは正確な知識によるものではありません。彼らは神の義を知らないで,自分たち自身の義を確立しようと努めたために,神の義に服さなかったからです』。しかし,大勢の祭司やパリサイ人を含む多数の誠実なユダヤ人が,それまでの形式主義的な宗教を捨てて,クリスチャンになり,神の義に服しました。―使徒 6:7; 15:5。
誠実さだけでは不十分であるというこの見解を裏付ける聖句は数多くあります。「人が正しい進路と考えるものでも,終わりには死に至る道にたどりつくことがある。道を誤る者はその結果を甘受しなければならない」。「愚かな者は自分の道が正しいと思い込んでいる。分別のある者は忠告を聴く」。「人は多くの計画を考え出す。しかし,永遠者の目的が遂げられる」。「人の道は自分の目に常に正しいと見えるが,永遠者がその人生を判断される」。(箴 14:12,14; 12:15; 19:21; 21:2,モファット訳)誠実さにはそれなりの価値があります。誠実な人は神の憐れみを受けるかもしれないからです。タルソスのサウロ(後の使徒パウロ)はクリスチャンを迫害しましたが,自分は神に奉仕していると誠実に考えていました。パウロは知らずに行動していたため,憐れみを受けました。―ヨハネ 16:2。テモテ第一 1:13。
命に通じるただ一つの道
正確な知識が必要です。正確な知識に欠けていたゆえに,エホバの僕と称する者たちの身に破滅の臨んだことがあります。こう記されています。「知識をあなたが退けたので,わたしもあなたを退け(る)」。自らを導く能力は本来人間に備わっていません。そこでエホバはわたしたちのための導きとして聖書を備えてくださいました。「あなたのみ言葉はわたしの足のともしび,わたしの通る道の光です」。(ホセア 4:6; エレミヤ 10:23; 詩 119:105,新)人間や宗教組織の光ではなく,神の光と述べられている点に注目してください。よく言われるように,どの道を通っても一つの場所に行き着く,つまりどんな宗教でも救いに至る,というわけではないのです。イエスは二つの道しかないと言われました。それぞれが別の所に通じています。狭い方の道は命に,広い方の道は滅びに通じています。―マタイ 7:13,14。
聖書が神の道路地図なのですが,“自分の宗教”の地図の方を好む人が少なくありません。例えば,そうした人々の持っている聖書を開いて,『罪を犯せる魂は死ぬべし』と書かれている箇所を読むとしましょう。それでもやはり,魂は不滅であるという自派の教えを捨てようとしません。次の聖句を読むとします。『その息いでゆけばかれ土にかえる その日かれがもろもろの企てはほろびん』。「死ねる者は何事をも知らず」。そうするとかえって,死者には意識があるという自分の宗派の教えに固執するようになります。『罪の払う価は死なり』という言葉を示しても,自分の宗派の道をわき目も振らずに進み,罪の払う価は永ごうの責め苦であるという教えにしがみつきます。次に,『地は永久に保つなり』という聖句を読んでも,相変わらず,地球は火で焼き滅ぼされる定めにあるという僧職者の教えを決して捨てようとしません。―エゼキエル 18:4; 詩 146:4; 伝道 9:5; 1:4; ローマ 6:23,文。
では,どのようにして取るべき行動を確かめればよいのでしょうか。エホバが備えてくださる楽園の地で生きたいという自分の選択を明らかにするにはどのように行動すればよいのでしょうか。カトリックの司祭の言葉でも,プロテスタントの牧師の言葉でもユダヤ教のラビや東洋の導師の言葉でもありません。その教えに聖書の言葉の裏付けがない限り,人間の言葉を導きにすべきではありません。み言葉,聖書を通して,神に語っていただくのです。「すべての人が偽り者であったとしても,神の真実さが知られるように」。神の言葉を教えると主張する人すべてが実際にみ言葉を教えているわけではないのです。イエスの時代にもそうしたことが見られました。『彼らは人間の命令を教理として教えている』とイエスは言われました。エレミヤの時代にも同じことが言えました。エレミヤはこう書いています。「彼らはエホバの言葉を退けた。では,彼らにはどんな知恵があるのか」。今日でも事情は同じです。―ローマ 3:4。マタイ 15:9。エレミヤ 8:9,新。
とこしえの命を選ぶ方法
キリストの王国の支配下にある地上の新しい事物の体制の下で生活したいという願いを表わす最初の行動は研究することです。次のように記されています。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。そして,神のご意志を行なうべく献身し,イエスがバプテスマを受けられたように,水のバプテスマによってその献身を表わすのです。イエスは現在のわたしたちが従うべき手本となられる方だからです。(ヨハネ 17:3。マタイ 3:13。ペテロ第一 2:21)次のガラテア 5章19-23節に示されているように,肉の業を避け,霊の実を結ぶことが求められます。
「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がらです。こうした事がらについてわたしはあなたがたにあらかじめ警告しましたが,今また警告しておきます。そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」。
そして,エホバの賛美者となります。生活の仕方と言葉の両方でエホバを賛美するのです。人類のための唯一の希望を他の人に語ってください。同様の信仰を持つ他の人々と一緒にそれを行ない,イエスの次の預言の成就にあずかるのです。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。その終わりは現在のこの邪悪な事物の体制を排除する「大患難」となります。それは,『神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる,義が宿る新しい天と新しい地』への道を開くものとなります。―マタイ 24:14,21。ペテロ第二 3:13。
こうした行動によって,エホバの約束してくださった楽園の地で生活したいという自分の選択を明らかにするのです。
「みことばを行なう者となり,ただ聞くだけで,虚偽の推論によって自分を欺く者となってはなりません」― ヤコブ 1:22。
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