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「神は愛」エホバに近づきなさい
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セクション4
「神は愛」
エホバには良いところがたくさんありますが,最も際立っていて魅力的なのは愛です。エホバの愛には,ダイヤモンドのように幾つもの美しい面があります。エホバが愛をどのように表しているかを考えると,聖書に「神は愛……です」と書かれている理由がよく分かります。(ヨハネ第一 4:8)
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「神がまず愛してくださった」エホバに近づきなさい
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第23章
「神がまず愛してくださった」
1-3. イエスの死はどんな点で特別でしたか。
約2000年前のある春の日,無実の男性が裁判にかけられ,ぬれぎぬを着せられて有罪とされ,ひどく苦しめられて処刑されました。歴史を通じて,不正で残酷な死刑の犠牲になった人はほかにも大勢いますが,この男性の死は特別でした。
2 その人が苦しんで力尽きようとしていた時,空に異変が生じて,皆がただごとではないと感じます。真昼なのに,辺り一面が闇に覆われ,「日の光がなくなった」のです。(ルカ 23:44,45)その後,男性は息を引き取る直前に,「成し遂げられた!」という印象的な言葉を残しました。この人は自分の命を差し出すことによって,確かに素晴らしいことを成し遂げました。この人ほど大きな犠牲を払って人々への深い愛を示した人は,ほかに誰もいません。(ヨハネ 15:13; 19:30)
3 これはもちろんイエス・キリストのことです。西暦33年ニサン14日に起きた悲惨な出来事,つまりイエスが苦しんで死んだことはよく知られていますが,あるとても大切な事実はあまり知られていません。ひどく苦しんだイエスよりももっと苦しんで,もっと大きな犠牲を払った方がいるということです。その方は,宇宙で誰よりも大きくて深い愛を示しました。何をしたのでしょうか。まずそのことを考えて,最も重要なテーマであるエホバの愛について学んでいきましょう。
愛の最大の表明
4. あるローマの士官はイエスについて何と言いましたか。どうしてですか。
4 イエスの処刑を指揮したローマの百人隊長は,イエスが死ぬ前に闇が垂れ込め,死後に激しい地震が起きたことにとても驚き,「確かにこの人は神の子だった」と言いました。(マタイ 27:54)この士官が見守る中で処刑されたのは,至高の神の独り子でした。その子は天の父にとってどれほど大切な存在だったのでしょうか。
5. エホバとイエスはどれほど長い間,天で一緒にいましたか。
5 聖書の中でイエスは「全創造物の中の初子」と呼ばれています。(コロサイ 1:15)ですから,宇宙が存在するようになる前からいたことになります。では,エホバとイエスはどれほど長い間一緒にいたのでしょうか。科学者たちの推定によると,宇宙の年齢は130億年を超えています。気が遠くなるような長さです。それをイメージする助けとして,あるプラネタリウムには長さ110㍍の年表があります。それに沿って歩くと,1歩が約7500万年に相当します。年表の最後には人類史の全期間が示されていますが,その線は髪の毛1本ほどの太さしかありません。宇宙の年齢の推定が正しいとして,イエスはこの年表で表されている途方もない年月よりもさらに長い間エホバと一緒にいたのです。それほどの期間に何を行っていたのでしょうか。
6. (ア)イエスは天で何をしていましたか。(イ)エホバとイエスはどんな絆で結ばれていますか。
6 イエスは「優れた働き手」としてエホバのために喜んで働きました。(格言 8:30)聖書には「[イエス]を通さずに存在するようになったものは一つもない」と書かれています。(ヨハネ 1:3)エホバとイエスが一緒に働いて,他の全てのものを造ったのです。楽しく幸せな時間を過ごしたことでしょう。親と子は,「完全な絆」である強い愛で結ばれているものです。(コロサイ 3:14)そうであれば,計り知れない時間を一緒に過ごしたエホバとイエスの愛の絆は,私たちには想像もつかないほど強いのではないでしょうか。
7. イエスがバプテスマを受けた時,エホバは自分の子に対する気持ちをどのように表しましたか。
7 エホバは,そのように宇宙で最も強い絆で結ばれた子を地球に遣わし,人間の赤ちゃんとして生まれるようにしました。最愛の子と何十年か天で一緒にいられなくなりますが,そうしたのです。天の父が見守る中,イエスは完全な人として成長し,およそ30歳の時にバプテスマを受けました。その時エホバが天から語った次の言葉に,子を思うエホバの気持ちがはっきり表れています。「これは私の愛する子,私はこの子のことを喜んでいる」。(マタイ 3:17)その後もイエスは預言されていた通りに行動し,エホバが期待していたことを全て忠実に行いました。それを見て,エホバは本当にうれしく思ったに違いありません。(ヨハネ 5:36; 17:4)
8-9. (ア)西暦33年ニサン14日,イエスはどんな苦痛を味わいましたか。エホバはどう感じたと思いますか。(イ)エホバはどうしてイエスが苦しんで死ぬようにしましたか。
8 では,西暦33年ニサン14日にエホバはどう感じたと思いますか。イエスが裏切られ,夜遅くに武器を持った人たちに捕らえられた時,また,友たちに見捨てられ,不正な裁判にかけられた時はどうでしょうか。あざけられ,唾を掛けられ,こぶしで殴られた時,そしてむち打たれ,背中がずたずたに裂けた時はどうでしょうか。手足にくぎを打たれて木の杭に掛けられ,人々からののしられ,激痛にもだえながら天の父に向かって叫んだ時はどうでしょうか。イエスが息を引き取り,創造の始まり以来初めて愛する子が存在しなくなった時,エホバはどう感じたでしょうか。(マタイ 26:14-16,46,47,56,59,67; 27:38-44,46。ヨハネ 19:1)
9 私たちは言葉を失います。愛する子が死んだ時にエホバがどれほどの苦しみや悲しみを感じたかは,私たちには到底分かりません。分かるのは,エホバが非常に大きな苦痛を感じてまでもイエスが死ぬようにしたのはなぜかということです。エホバはヨハネ 3章16節で,その素晴らしい理由を明らかにしています。福音書の要約とも言えるそのとても大切な聖句には,こう書かれています。「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました」。エホバは人類を愛しているからこそ,自分の子を贈り物として与え,イエスが私たちのために苦しんで死ぬようにしたのです。それは史上最高の愛の表明でした。
「神は,自分の独り子を与え」た
神の愛とはどういうものか
10. 人間にとって愛はどういうものですか。愛という言葉の意味は一般によく理解されていますか。
10 愛とは何でしょうか。愛は人間にとって最も必要なものだと言われてきました。生まれてから死ぬまで,人は愛されることを願い,愛されていると感じると幸せな気持ちになります。逆に愛がないとふさぎ込んだり,死んでしまったりすることさえあります。愛はよく話題に上り,愛を題材にした本や歌や詩なども数え切れないほどあります。とはいえ,愛とは何かを説明するのは簡単ではありません。愛という言葉があまりにも乱用されているので,その本当の意味はますますあいまいになっています。
11-12. (ア)聖書から愛について多くのことを学べるのはどうしてですか。(イ)古代ギリシャ語には「愛」に相当するどんな言葉がありましたか。ギリシャ語聖書に一番たくさん出てくるのはどの言葉ですか。(脚注も参照。)(ウ)聖書の中でアガペーは多くの場合どんな愛を指して使われていますか。
11 しかし,聖書は愛とは何かをはっきり教えています。バインの「新約聖書用語解説辞典」(英語)によると,愛は行動に表れたときに初めて分かるものです。聖書に書かれているエホバの行動から,人間や天使へのエホバの優しい愛情について多くのことが分かります。特に際立った例は,私たちのためにイエスを与えてくれたという最高の愛の表明です。この本の続く幾つかの章では,エホバの愛がほかにもどんな行動に表れているかを取り上げます。聖書の中で「愛」と訳されている言葉からも,愛について学べることがあります。古代ギリシャ語には,「愛」に相当する言葉が4つありました。a そのうち,ギリシャ語聖書に一番たくさん出てくるのは「アガペー」です。ある聖書辞典によると,それは「愛を表す言葉として考え得る最も力強い言葉」です。どうしてそう言えるのでしょうか。
12 聖書の中でアガペーは多くの場合,何が正しいかの基準に沿った愛を指して使われています。単なる好意ではなく,よく考えた上で意識的に表す利他的な愛です。一例として,もう一度ヨハネ 3章16節を見てみましょう。この聖句に出てくる,神が自分の独り子を与えるほどに愛している「人類」には,罪深い生き方をしている大勢の人が含まれています。エホバはその一人一人を,忠実なアブラハムと同じように友として愛しているのでしょうか。(ヤコブ 2:23)そうではありません。でもエホバは,大きな犠牲を払ってまでも全ての人に愛を示しています。それが正しくて善いことであり,皆に悔い改めて生き方を変えてほしいと思っているからです。(ペテロ第二 3:9)そして,良い生き方をするようになった人たちを友として迎え入れています。
13-14. 多くの場合アガペーには温かい愛情がこもっていると,どうして分かりますか。
13 ある人たちは,聖書で使われているアガペーについて誤解しています。それは冷たくて感情の伴わない愛だと思っているのです。でも実のところ,アガペーには温かい愛情がこもっていることが少なくありません。例えば,ヨハネは「父は子を愛してい[る]」と書いた時,アガペーの変化形を使いました。その愛に温かい愛情が伴っていないはずがありません。そのことは,イエスが「父は子に愛情を抱いてい[る]」と言ったことからも分かります。その言葉にはフィレオーの変化形が使われています。(ヨハネ 3:35; 5:20)エホバの愛は多くの場合,優しい愛情の表れなのです。とはいえ,単に感情に左右されるものではなく,いつも神の公正で適切な原則に沿って表されます。
14 これまで考えてきたように,エホバには良いところがたくさんありますが,特に魅力的なのは愛です。私たちはエホバの愛に最も引き付けられます。では,愛がエホバの最大の特徴だと言えるのはどうしてでしょうか。
「神は愛」
15. エホバの愛について聖書に何と書かれていますか。その表現が特別だと言えるのはどうしてですか。(脚注も参照。)
15 エホバの4つの主な性質である力,公正,知恵,愛の中でも,愛は特別です。聖書には,神は力,神は公正,神は知恵とは書かれていません。神はその3つの性質を持っていて,それらの究極の源であり,ほかの誰よりもそれらをよく表しています。でも4つ目の愛については意味深くも,「神は愛」だと書かれています。b (ヨハネ第一 4:8)これはどういうことなのでしょうか。
16-18. (ア)聖書によると「神は愛」です。これはどういうことですか。(イ)地球上の生き物の中で,人間がエホバの愛の象徴にふさわしいのはどうしてですか。
16 「神は愛」とは,単に“神イコール愛”ということではありません。前後を入れ替えて「愛は神」と言うことはできません。神は単なる抽象的な概念ではなく,意思や感情を持つ方で,愛以外にも魅力的なところがたくさんあります。では,なぜ「神は愛」かというと,愛がエホバの根幹だからです。ある聖書辞典にはこの聖句について,「神の真髄あるいは本質は愛である」と説明されています。次のように考えることができるでしょう。エホバは,力があるので行動できます。公正で知恵があるので,正しくて良い行動ができます。それに対し,愛はあらゆる行動のベースになっているのです。力や公正さや知恵を表す時にも,常に愛が根底にあります。
17 エホバはまさしく愛を体現しています。ですから,正しさの基準に沿った愛とはどういうものかを学ぶには,エホバについて学ぶ必要があります。では,そもそも人間がそのような愛を表せるのはどうしてでしょうか。エホバは地球を創造した時,独り子にこう言いました。「私たちに似た者として人を造ろう」。(創世記 1:26)地球上の生き物の中で,人間だけが天の父に倣って意識的に愛を表せます。エホバは自分の主な性質を象徴する動物を選びましたが,特に大事な愛の象徴として選んだのは,地球で最高の創造物である人間でした。(エゼキエル 1:10)
18 私たちは,何が正しいかを考えて私心のない愛を表す時,エホバの一番魅力的なところである愛に倣っていることになります。使徒ヨハネが書いた通り,「私たちが愛するのは,神がまず愛してくださったからです」。(ヨハネ第一 4:19)では,エホバがまず愛してくれたというのはどういうことでしょうか。
エホバは自分の方から愛を示した
19. エホバが天使や人間を創造したのはどうしてですか。
19 そもそもエホバが天使や人間を創造しようと思ったのはどうしてでしょうか。寂しくて友達が必要だったからではありません。エホバは完全で何にも不足していないので,誰かから何かを与えてもらう必要はありません。ではなぜ創造したかというと,愛の気持ちから命という素晴らしい贈り物を与えたいと思ったからです。生きる喜びを味わってほしかったのです。「神に最初に創造された者」は,独り子イエスでした。(啓示 3:14)それからエホバはその優れた働き手に手伝ってもらい,他の全てのものを造りました。まずは天使たちです。(ヨブ 38:4,7。コロサイ 1:16)天使たちは,自分で考えて自由に行動できる,感情を持つ者として造られたので,互いに友情を育み,何よりもエホバ神と愛の絆を結ぶことができました。(コリント第二 3:17)ですから,天使たちが愛を示せるのは,まずエホバから愛を示されたからです。
20-21. アダムとエバはどんなことからエホバの愛を感じられたはずですか。しかし,どうしましたか。
20 人類についても同じことが言えます。アダムとエバは最初から愛に包まれていました。自分たちが暮らしていたエデンの楽園のどこを見ても,天の父の愛を感じることができました。聖書にはこう書かれています。「エホバ神は東方のエデンに庭園を造り,自分が形作った人をそこに置いた」。(創世記 2:8)あなたはとても美しい庭園や公園に行ったことがありますか。何が一番良かったですか。木漏れ日や,咲き誇る色とりどりの花でしょうか。耳に心地よい小川のせせらぎ,鳥のさえずり,虫の鳴き声ですか。木々や果物や花の香りでしょうか。いずれにしても,現代のどんな公園よりもエデンの園の方がはるかに素晴らしかったことでしょう。どうしてそう言えるのでしょうか。
21 エデンの園は,エホバ自身が造った楽園でした。言葉にできないほど魅力的な所だったに違いありません。あらゆる種類の美しい草木や,おいしい果物がなる木々がありました。水が豊富にあり,広々としていて,いろいろな動物が生き生きと暮らしていました。アダムとエバには,やりがいのある仕事や最高の伴侶など,充実した幸せな生活を送るのに必要なものが全てそろっていました。そのようにエホバがまず愛してくれたので,2人も当然エホバを愛するべきでした。しかし,そうしませんでした。愛の気持ちから天の父に従うどころか,身勝手に反逆しました。(創世記 2章)
22. エデンでの反逆の後,エホバは揺るぎない愛の表れとしてどんなことをしましたか。
22 それはエホバにとって非常につらいことだったでしょう。とはいえ,愛情が冷めて苦々しい気持ちになったりはしませんでした。「神の揺るぎない愛は永遠に続く」のです。(詩編 136:1)エホバはすぐに,アダムとエバの子孫のうち正しい心を持つ人たちを救うための方法を考え出しました。すでに取り上げたように,それには愛する子を贖いとすることが関係しており,エホバが大きな犠牲を払うことを意味していました。(ヨハネ第一 4:10)
23. エホバが「幸福な神」だと言えるのはどうしてですか。次の章ではどんなことを考えますか。
23 このように,エホバは自分の方から人類に愛を示してきました。人類史の初めから「神がまず愛してくださった」のであり,人間のために数え切れないほどたくさんの良いことをしてくれました。愛を表すと自分自身も周りの人も幸せになるので,聖書が言う通りエホバは「幸福な神」であるに違いありません。(テモテ第一 1:11)では,エホバは本当に私たち一人一人を愛しているのでしょうか。次の章でそのことを考えます。
a 「愛情を抱いている」,「愛着がある」,「(親友や兄弟に対して感じるように)好きである」といった意味がある「フィレオー」という動詞も,ギリシャ語聖書によく出てきます。テモテ第二 3章3節では,家族間の愛である「ストルゲー」の変化形が使われていて,終わりの時代にそのような愛を持たない人が増えることが示されています。異性間の愛を表す「エロース」はギリシャ語聖書には出てきませんが,そうした愛についても聖書の中で取り上げられています。(格言 5:15-20)
b 聖書には似たような表現がほかにもあります。例えば,「神は光」とか「神は,焼き尽くす火」と書かれています。(ヨハネ第一 1:5。ヘブライ 12:29)しかし,これらは「神は愛」とは違い,神を別のものに例えている隠喩です。エホバは清くて真っすぐな方で,「闇」つまり汚れが全くないので,光のようです。また,破壊する力があるという意味で火のようです。
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どんなものも「神の愛から私たちを引き離す」ことはできないエホバに近づきなさい
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第24章
どんなものも「神の愛から私たちを引き離す」ことはできない
1. ある人たちは神についてどのように考えますか。
あなたはエホバ神に愛されていると感じますか。ある人たちは,ヨハネ 3章16節にあるように神が人類全体を愛していることは分かっていても,「自分のことなんて愛してくれるわけがない」と考えます。エホバに仕える人であっても,そういう気持ちになることがあるかもしれません。気落ちして,「神が私のことを気に掛けてくれているなんてとても思えません」と言った人もいます。あなたもそんな風に感じることがありますか。
2-3. 自分なんてエホバに愛してもらえないと,私たちに思い込ませようとしているのは誰ですか。ネガティブな気持ちに負けないように,何ができますか。
2 サタンは,エホバ神が個人を愛したり大切に思ったりすることはないと,私たちに信じ込ませようとしています。サタンはいろいろな方法で人を惑わそうとします。(コリント第二 11:3)得意なのは誇りや虚栄心に訴えることですが,自分に自信がない人の自尊心を打ち砕こうとすることもよくあります。(ヨハネ 7:47-49; 8:13,44)この危機的な「終わりの時代」には特にその方法をよく使っています。現代の多くの人は,「自然な愛情」がない家庭で育ち,乱暴で自己中心的で強情な人たちに囲まれています。(テモテ第二 3:1-5)長年にわたって虐待や差別を受けてきたために,自分は役立たずで誰からも愛されないと思い込んでいる場合があります。
3 そういう気持ちになることがあっても,がっかりしないでください。自分に厳しくなり過ぎて,ネガティブに考えてしまうことはあるものです。しかし,神の言葉は人の考え方を「矯正し」,「要塞のように強固なものを打ち砕」くことができます。(テモテ第二 3:16。コリント第二 10:4)聖書にはこう書かれています。「私たちは……神の前で安心できます。心に責められることがあっても安心できるのです。神は私たちの心より大きく,全てのことを知っているからです」。(ヨハネ第一 3:19,20)聖書を学ぶと,エホバが愛してくれていることを確信して「安心」できます。では,私たちを力づける聖書の教えを4つ考えてみましょう。
エホバは私たちのことを大切に思っている
4-5. スズメについてのイエスの例えから,エホバが私たちを大切に思ってくれていることがどのように分かりますか。
4 1つ目の点として,聖書によれば神は自分に仕える一人一人のことを大切に思っています。例えば,イエスはこう言いました。「スズメ2羽は小額の硬貨1枚で売っていませんか。それでも,その1羽でさえ,天の父が知らないうちに地面に落ちることはありません。ところが,あなたたちは髪の毛まで全て数えられています。ですから,恐れることはありません。あなたたちはたくさんのスズメより価値があるのです」。(マタイ 10:29-31)このイエスの言葉を聞いた1世紀の人たちはどう思ったでしょうか。
「あなたたちはたくさんのスズメより価値があるのです」
5 当時,スズメは食用の鳥の中で最も安く,少額の硬貨1枚で2羽買えました。さらに,イエスが後に語ったように,硬貨を2枚支払うと,4羽ではなく5羽買えました。1羽がおまけで添えられるほど,大した価値がないと思われていたようです。でも,創造者はスズメをどう見ていたでしょうか。「その[おまけの]1羽でさえ神に忘れられることはありません」とイエスは言いました。(ルカ 12:6,7)エホバは1羽のスズメをそのように大切に思っているのですから,なおのこと1人の人間をとても大切に思ってくれていると分かります。イエスが説明した通り,エホバは私たち一人一人のことを,髪の毛の数まで全て知っています。
6. 私たちの髪の毛が数えられているというイエスの言葉は大げさではないと確信できるのはどうしてですか。
6 髪の毛が数えられているなんて,イエスは大げさなことを言っている,と思う人もいるかもしれません。しかし,復活の希望について考えてみてください。亡くなった人を再び造るため,エホバは一人一人のことを細かいところまで詳しく知っているに違いありません。私たちのことを本当に大切に思っているので,私たちの遺伝情報や一生の記憶など,ありとあらゆることを覚えてくれています。a ですから当然,エホバは1人平均10万本ほどの髪の毛の数も知っているはずです。
エホバは私たちを高く評価してくれる
7-8. (ア)人の心を探っているエホバは,どんな人を見つけるとうれしく思いますか。(イ)エホバはどんな行いを高く評価しますか。
7 2つ目に,聖書によるとエホバは私たちの良いところや払っている努力を高く評価してくれます。ダビデ王は息子ソロモンに,「エホバは全ての心を探り,考えの傾向を全て見極める方だ」と言いました。(歴代第一 28:9)エホバは世界中の何十億もの人の心を探っています。暴力や憎しみに満ちた世の中で,平和や真理や正しいことを愛する心を持つ人を見つけると,本当にうれしく思うに違いありません。心が神への愛であふれていて,神について知りたい,学んだことを他の人にも伝えたいと思っている人を,エホバは温かく見守っています。そして,「エホバを畏れる人と神の名について思い巡らす人」を愛し,そういう人の名前を「記録の書」に記します。(マラキ 3:16)
8 エホバはどんな良い行いを高く評価するのでしょうか。例えば,イエス・キリストに見習おうとする私たちの努力です。(ペテロ第一 2:21)それには,神の王国の良い知らせを伝えるという重要な活動も含まれます。ローマ 10章15節には,「良い事柄についての良い知らせを広める者たちの足は何と美しいのでしょう!」と書かれています。私たちは自分の足が美しいなどとは思わないかもしれませんが,この聖句の「足」はエホバに仕える人が良い知らせを伝えるために払う努力を表しています。そうした努力全てはエホバから見て美しく,宝のようです。(マタイ 24:14; 28:19,20)
9-10. (ア)いろいろ大変な中で忍耐する私たちをエホバが高く評価してくれると確信できるのはどうしてですか。(イ)エホバは私たちに対してどんな見方はしませんか。
9 エホバは私たちの忍耐も高く評価します。(マタイ 24:13)サタンはあなたがエホバに背を向けることを願っていますが,あなたはエホバから離れないように日々頑張っていることでしょう。そうすることにより,神をあざけるサタンが間違っていることを示しています。(格言 27:11)忍耐するのは決して簡単ではありません。健康上の問題,お金の心配,悩みやストレスなどのせいで,生きていくのが大変だと感じることがあります。期待がなかなか実現しないために落ち込むこともあるでしょう。(格言 13:12)そういう大変な中で忍耐する私たちの姿は,エホバから見ていとおしいものです。そのエホバの見方を知っていたダビデ王は,「私の涙をあなたの革袋に集めてください」とエホバにお願いし,その涙は「あなたの書に記されている」と確信を込めて言いました。(詩編 56:8)その言葉の通り,エホバは私たちが忠誠を貫くために忍耐して流す涙を全て大切に心にしまっておいてくれます。その涙はエホバから見て宝石のように輝いているからです。
大変な中で忍耐する私たちを,エホバはいとおしく思っている
10 しかし,神が高く評価してくれることを知っても,自分は駄目だと思ってしまうことがあるかもしれません。「私より立派な人がたくさんいる。そのような人たちと私を比べて,エホバはがっかりしているに違いない」と考えてしまうのです。でも,エホバは私たちを他の人と比べたりはしません。人を厳しく見たり,できないことを求めたりもしません。(ガラテア 6:4)私たちの心を注意深く見て,わずかでも良いところがあればそれを高く評価してくれます。
エホバは私たちの良いところを見つけ出してくれる
11. アビヤの例から,エホバについてどんなことが分かりますか。
11 3つ目に,エホバは私たちの短所や欠点も全て知っていますが,それでも良いところを見つけ出してくれます。アビヤの例を考えてみましょう。エホバは背教したヤラベアム王家を滅ぼすことにしましたが,王の息子の1人アビヤだけはきちんと葬られるようにしました。なぜなら,「イスラエルの神エホバは,……その子の内に良いことを見つけ出したからです」。(列王第一 14:1,10-13)エホバはいわばその若者の心をふるいにかけ,「良いこと」を見つけました。そして,それが微々たるものだったとしても聖書に記録する価値があると考えました。さらに,その良いことに対する報いとして,背教した王家の一員だったアビヤにある程度の憐れみを示しました。
12-13. (ア)私たちが罪を犯しても,エホバは良いところに注目してくれます。そのことがエホシャファト王の例からどのように分かりますか。(イ)エホバはどんな点で愛情深い親のようですか。
12 良い王だったエホシャファトの例も,とても励みになります。この王が愚かなことをした時,エホバの預言者は「今回のことで,エホバはあなたに憤っています」と言いました。どきっとするような言葉ですが,エホバからのメッセージはそれで終わりではありませんでした。預言者は続けて,「それでも,あなたに良い点があります」と言いました。(歴代第二 19:1-3)エホバは正当な怒りを感じましたが,エホシャファトの良い点が見えなくなることはありませんでした。不完全な人間である私たちは,誰かに腹を立てるとその人の良いところが見えなくなりがちです。また,自分が罪を犯してしまったときには,がっかりしたり恥ずかしさや後ろめたさを感じたりして,自分には良いところなんてないと思うことがあります。でも,エホバは決してそのような見方をしません。私たちが悔い改め,同じ過ちを繰り返さないように努力するなら,許してくれます。
13 エホバは,金を探す人が無価値な砂利をふるい落とすように,いわば私たちをふるいにかけて罪をふるい落としてくれます。金塊を見つけるように,私たちの良いところを見つけてくれるのです。また,エホバは愛情深い親のようでもあります。親は,子供がとっくの昔に忘れてしまっている絵や作文などを何十年も大切に取っておくことがあります。エホバも,忠実な人たちの良い行いを記憶の中にいつまでも大切にしまっておいてくれます。不公正なところがない方なので,そうした行いを忘れるような不公正なことは決してしません。(ヘブライ 6:10)
14-15. (ア)エホバが不完全な私たちを高く評価してくれるのはどうしてですか。(イ)エホバは私たちの良いところを見つけて何をしてくれますか。私たちはエホバにとってどんな存在ですか。
14 エホバは別の面でも私たちをいわばふるいにかけます。私たちの不完全さに埋もれてしまっている素質を見つけてくれるのです。それは,ひどく傷ついた芸術作品に対する愛好家の見方に似ています。例えば,英国ロンドンのナショナル・ギャラリーで,ある人がショットガンを撃ってレオナルド・ダ・ビンチの約3000万㌦相当の絵を傷つけるという事件が起きた時,その絵はもう処分しようなどと言う人は誰もいませんでした。絵の修復作業がすぐに始まりました。なぜでしょうか。芸術の愛好家たちにとって,その500年近く前の傑作はとても貴重だったからです。私たちは,チョークと木炭で描かれた絵よりもはるかに価値があるのではないでしょうか。受け継いだ不完全さのせいでどれほど傷ついていても,神にとってかけがえのない存在です。(詩編 72:12-14)人間を造った素晴らしい創造者であるエホバ神は,罪のせいで人間が負ったダメージを修復し,エホバの愛に応える人たちを本来の完全な状態にします。(使徒 3:21。ローマ 8:20-22)
15 ここまでで考えてきたように,私たちが自分でも気付いていないような良いところを,エホバは見つけ出してくれます。エホバに仕え続けるなら,エホバは私たちの良いところを伸ばし,やがて完全な人間になれるようにしてくれます。神に仕える私たちは,サタンが支配する世の中でどんな扱いを受けてきたとしても,エホバにとっては貴重な存在だということを確信できます。(ハガイ 2:7)
エホバは私たちへの愛を行動で示している
16. エホバの私たちへの愛が一番よく表れている贈り物は何ですか。その贈り物が私たち一人一人のためのものだとどうして分かりますか。
16 4つ目の点として,エホバは私たちを愛しているのでたくさんのことをしてくれています。何よりも,キリストの贖いの犠牲という贈り物を与えてくれました。そのようにして,人間は神に愛されてなどいないというサタンの主張が間違っていることをはっきり示しました。イエスが杭に掛けられて苦しみながら死んでくれたのも,エホバが愛する子の死を見るというさらに大きな苦しみに耐えてくれたのも,エホバとイエスが私たちを愛しているからだということを決して忘れないようにしましょう。エホバが自分なんかのために贖いを与えてくれたとは思えないと言う人たちもいますが,キリストの弟子たちを迫害していたパウロがこう書いています。「神の子は私を愛し,私のために自分を差し出してくださいました」。(ガラテア 1:13; 2:20)
17. エホバは自分とイエスのもとに一人一人を引き寄せるため,どんなことをしていますか。
17 エホバはキリストの犠牲の恩恵を受けられるよう一人一人を助けることによって,私たちを愛していることをはっきり示しています。イエスは,「私を遣わした父が引き寄せてくださらない限り,誰も私のもとに来ることはできません」と言いました。(ヨハネ 6:44)この言葉から分かるように,イエスのもとに行って永遠の命の希望を持つことができるのは,エホバが引き寄せてくれるおかげです。エホバは伝道活動を導いて,良い知らせが一人一人に伝わるようにしています。また,不完全で限界がある私たちが真理を理解し,真理に沿って生きられるように,聖なる力で助けてくれています。それで,エホバがイスラエル国民に語った次の言葉は,私たちにも当てはまります。「私は永遠の愛をもってあなたを愛してきた。そのため,揺るぎない愛をもってあなたを引き寄せたのである」。(エレミヤ 31:3)
18-19. (ア)エホバの愛を一番実感できるのはどんな時ですか。エホバ自身が祈りを聞いてくれることがどうして分かりますか。(イ)エホバが感情移入してくれることが,聖書のどんな言葉から分かりますか。
18 エホバが自分のことを愛してくれていると一番実感できるのは,エホバに祈る時でしょう。聖書は,「絶えず祈ってください」と勧めています。(テサロニケ第一 5:17)神は必ず聞いてくれます。「祈りを聞く方」と呼ばれている通りです。(詩編 65:2)エホバはほかの誰にも,独り子イエスにさえ,祈りを聞くことを任せていません。宇宙を創造した方が,自分に祈ってほしい,何でも自由に話してほしいと思ってくれているのです。そして,あまり関心のない冷めた態度で聞くようなことは決してありません。どんなふうに聞いてくれるのでしょうか。
19 エホバは感情移入してくれます。感情移入とはどういうことでしょうか。長年エホバに仕えたある兄弟はこう言いました。「感情移入とは,わたしの心の内であなたの苦痛を感じることです」。では,エホバは本当に私たちの苦痛を感じてくれるのでしょうか。神の民イスラエルが苦しんだ時のことについて,聖書にはこう書かれています。「彼らが苦しんでいたどの時にも,神も苦しみを味わった」。(イザヤ 63:9)エホバは大変な状況にある民をただ見ていたのではなく,彼らの苦しみを自分のことのように感じました。エホバが自分に仕える人たちの痛みをどれほど敏感に感じ取るかが,次の言葉によく表れています。「あなたたちに触れる者たちは私の瞳に触れているのである」。b (ゼカリヤ 2:8)瞳に触れられたら,とても痛いことでしょう。エホバはそれほど強く共感してくれるのです。私たちが傷つくと,エホバの心も痛みます。
20. ローマ 12章3節によると,バランスの欠けたどんな考え方をするべきではありませんか。
20 神から愛され高く評価されているからといって,誇りやうぬぼれの気持ちを持つべきではありません。使徒パウロはこう書いています。「私は,示していただいた惜しみない親切に基づき,皆さんに言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。各自が神から与えられた信仰に応じて,健全な考え方をしましょう」。(ローマ 12:3)別の翻訳ではこうなっています。「あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ,……慎み深く評価すべきです」。(「新共同訳」,日本聖書協会)ですから,天の父の温かい愛を存分に感じつつ,バランスの取れた健全な考え方をしましょう。私たちは神から愛されて当然というわけではないことを覚えておく必要があります。(ルカ 17:10)
21. サタンのうそから来るどんな間違った考えをはねのける必要がありますか。どんな真理を心に留めておくとよいですか。
21 人間には価値がなく神に愛されていないという主張を含む,サタンのどんなうそにもだまされないようにしましょう。あなたはこれまでに経験したことが原因で,大きな愛を持つ神でも自分のことなんて愛してくれるわけがないと感じていますか。あるいは,自分の良い行いなんて,全てを見ている神でも見過ごすほど微々たるものだとか,自分の罪は大き過ぎて,神の大切な独り子の死でも覆い切れないと思っていますか。それは全て,真実ではありません。そうした間違った考えをはねのけてください。パウロが聖なる力に導かれて書いた次の真理を心に留めましょう。「私は確信しています。死も,生も,天使も,政府も,今あるものも,これから来るものも,力も,高さも,深さも,ほかのどんな創造物も,主であるキリスト・イエスを通して示される神の愛から私たちを引き離すことはできません」。(ローマ 8:38,39)
a 聖書の中で,復活の希望はエホバの記憶と何度も結び付けられています。忠実なヨブはエホバにこう言いました。「私のために期限を定め,時が来たら私を思い出してください」。(ヨブ 14:13)イエスは「記憶にとどめられる」という意味合いのギリシャ語を使って,「記念の墓の中にいる人が皆」復活すると言いました。エホバは,生き返らせたいと思っている人たちのことを完璧に覚えているのです。(ヨハネ 5:28,29)
b 幾つかの聖書ではこの聖句が,神の民に触れる者は自分自身の瞳もしくはイスラエルの瞳に触れている,と訳されています。その間違いが入り込んだのは,神の瞳とすると不敬だと考えた写字生たちが本文を変えたためです。彼らが余計なことをしたせいで,聖書によってはエホバの感情移入の強さが伝わりにくくなっています。
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「神の温かい思いやり」エホバに近づきなさい
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第25章
「神の温かい思いやり」
1-2. (ア)赤ちゃんが泣くと,母親はどうするものですか。(イ)母親が自分の子を思いやる気持ちよりも強いのは,誰のどんな感情ですか。
真夜中に赤ちゃんが泣くと,母親はすぐに目を覚まします。赤ちゃんが生まれてから,以前のようにぐっすりとは眠っていません。今ではいろいろな泣き声を聞き分けることができます。おなかがすいたのか,抱っこしてほしいのか,だいたい分かります。赤ちゃんがどんな理由で泣いていても,母親はすぐに駆け付けます。子供を深く愛しているので,放っておけないのです。
2 母親が自分の子を思いやる気持ちは,人間が抱く感情の中でも特に優しくて温かいものです。しかし,私たちの神エホバの温かい思いやりは,それよりもはるかに強い感情だと言えます。エホバの素晴らしい思いやりについて知ると,いっそうエホバに引き付けられます。では,思いやりとはどういうものか,神がどのようにそれを示しているかを考えましょう。
思いやりとはどういうものか
3. 「憐れみを示す」とか「哀れに思う」と訳されるヘブライ語動詞にはどんな意味がありますか。
3 聖書で言う思いやりは,憐れみと深いつながりがあります。温かい思いやりという意味合いのあるヘブライ語やギリシャ語の言葉はいろいろあります。その1つは,「憐れみを示す」とか「哀れに思う」と訳されることが多い「ラーハム」というヘブライ語動詞です。ある文献によるとラーハムという動詞は,「わたしたちにとって大切な人,もしくはわたしたちの助けを必要としている人の弱さや苦しみを見た時に生じるような,深い優しい同情心を表わす」言葉です。エホバの感情を指して使われることもあるこのヘブライ語は,「胎」と訳される言葉と関連があり,「母親のような思いやり」と表現することもできます。a (出エジプト記 33:19。エレミヤ 33:26)
「女性が……自分が産んだ子を思いやらなかったりするだろうか」
4-5. 母親が赤ちゃんに対して抱く気持ちと比較して,エホバの思いやりはどういうものですか。
4 聖書は,母親が赤ちゃんに対して抱く気持ちを引き合いに出して,エホバの思いやりがどういうものかを教えています。イザヤ 49章15節にはこう書かれています。「女性が自分の乳を飲ませている子を忘れたり,自分が産んだ子を思いやらなかったりする[ここでラーハムが使われている]だろうか。たとえ女性たちが忘れたとしても,私があなたを忘れることは決してない」。この感動的な言葉から,エホバが自分の民をどれほど深く思いやっているかが分かります。
5 母親は普通,自分の赤ちゃんのことを忘れたりしません。無力で一日中母親の愛情深い世話を必要としている赤ちゃんを放っておくというのは,考えにくいことです。しかし,悲しいことに,今は「危機的な時」で「自然な愛情」を持たない人が多く,育児を放棄してしまう母親もいます。(テモテ第二 3:1,3)でもエホバは,「私があなたを忘れることは決してない」と断言しています。エホバが自分に仕える人たちに対して抱く温かい思いやりは,決して薄れることがありません。大抵の母親が赤ちゃんに対して自然に感じる優しい感情よりも,はるかに深くて温かいものです。そのため,ある聖書学者はイザヤ 49章15節についてこう書きました。「これは,旧約聖書の中で神の愛が最も力強く表明されている例と言っても過言ではない」。
6. 不完全な人間は温かい思いやりについてどういう見方をしがちですか。でも,エホバはどんな方ですか。
6 温かい思いやりがある人は,軟弱なのでしょうか。不完全な人間はそういう見方をしがちです。一例として,イエスと同時代の人で,ローマでも有数の知識人だった哲学者セネカは,「人を哀れに思うことは……精神の弱さである」と教えました。セネカは,感情の伴わない平静さを重視するストア主義という哲学を支持していました。セネカによれば,賢人は困っている人を助けることはあっても,その人に同情すべきではありませんでした。そうした感情を持つと心が平安ではなくなるからです。そのような自己中心的な考え方をする人は,心からの思いやりを持つことはありません。それとは全く対照的に,エホバは聖書に書かれている通り「思いやりにあふれ,憐れみ深い方」です。(ヤコブ 5:11,脚注)後でまた考えますが,思いやりは弱さではなく強さの表れです。では,エホバが愛情深い親のように思いやりを示してきた例を見てみましょう。
エホバはイスラエル国民に思いやりを示した
7-8. イスラエル人はエジプトでどんな苦しみを味わっていましたか。それを見てエホバはどうしましたか。
7 エホバの思いやりは,イスラエル国民のためにしたことにはっきり表れています。紀元前16世紀の終わりごろ,何百万人ものイスラエル人がエジプトで奴隷にされ,虐げられていました。エジプト人は「重労働を課して彼らの生活をつらいものにし,粘土モルタルやれんがを作らせたり,野原でのあらゆる奴隷労働をさせたり」しました。(出エジプト記 1:11,14)苦しんでいたイスラエル人は,エホバに助けを求めました。温かい思いやりのある神は,それを聞いてどうしたでしょうか。
8 エホバは心を動かされ,こう言いました。「私は,エジプトにいる私の民の苦悩を確かに見た。強制労働をさせる者たちのことで叫ぶ彼らの声を聞いた。彼らの苦痛をよく知っている」。(出エジプト記 3:7)エホバは自分の民の苦しみを見て,叫び声を聞いて,感情をかき立てられました。この本の第24章で取り上げた通り,エホバは感情移入をする神です。しかも,自分の民の苦痛を自分のことのように感じただけでなく,民のために行動したいと思いました。イザヤ 63章9節によれば,「神は愛と思いやりをもって彼らを救い」ました。「力強い手」でイスラエル人をエジプトから救出したのです。(申命記 4:34)そして,奇跡によって食べ物を与え,肥沃な土地に導いてそこに定住させました。
9-10. (ア)約束の地で暮らすようになったイスラエル人をエホバが何度も救ったのはどうしてですか。(イ)エフタの時代に,エホバはイスラエル人をどんな状況から救い出しましたか。そうしようと思ったのはどうしてですか。
9 エホバはイスラエル人が約束の地で暮らすようになった後も思いやりを示し続けました。民は繰り返し神に背き,その結果として苦しみましたが,彼らが本心に立ち返ってエホバに助けを求めるたびに,エホバは民を救いました。「ご自分の民……のことを思いやって」いたからです。(歴代第二 36:15。裁き人 2:11-16)
10 エフタの時代に起きたことを考えてみましょう。イスラエル人が偽の神々に仕えるようになったため,エホバは彼らが18年間アンモン人に虐げられるままにしました。その後,イスラエル人はようやく悔い改めます。聖書にこう書かれています。「イスラエル人は……自分たちの中から外国の神々を除き去って,エホバに仕えた。そのためイスラエルの苦しみは神にとって耐え難いものとなった」。(裁き人 10:6-16)民が本当に悔い改めたので,温かい思いやりのあるエホバは彼らの苦しみを見ていられなくなりました。それで,エフタに力を与え,敵の手からイスラエル人を救い出させました。(裁き人 11:30-33)
11. エホバがイスラエル人のためにしたことから,思いやりについてどんなことが分かりますか。
11 エホバがイスラエル国民のためにしたことから,温かい思いやりについてどんなことが分かるでしょうか。まず,それは単に人の不幸や苦しみを見て同情するだけのものではないということです。子供を思いやる母親は,赤ちゃんの泣き声を聞くと駆け付けて世話をします。同じように,温かい思いやりのあるエホバは,助けを求める民の声を聞くと,苦しみを和らげてあげたいと思って行動します。イスラエル人の例からさらに分かるのは,思いやりは弱さの表れではないということです。エホバは思いやりがあるからこそ,自分の民を救うために力強く戦ったからです。では,エホバは自分の民全体だけではなく,個々の人にも思いやりを示すのでしょうか。
エホバは個々の人を思いやる
12. 律法には,個々の人へのエホバの思いやりがどのように表れていますか。
12 神がイスラエル国民に与えた律法には,個々の人への思いやりが表れています。一例として,貧しい人に関するおきてについて考えてみましょう。エホバは,予期しない状況が生じて誰かが貧しくなってしまう場合もあることを踏まえて,イスラエル人に次のように命じていました。「その貧しい兄弟に冷淡になったり出し惜しみしたりしてはなりません。兄弟に気前よく与えるべきであり,嫌々与えるべきではありません。このような理由で,あなたの神エホバは,あなたの全ての行いと働きを祝福してくださるのです」。(申命記 15:7,10)エホバはさらに,畑の端まで刈り尽くすことや,収穫の後に残った物を拾うことを禁じました。恵まれない人たちが落ち穂を拾えるようにするためです。(レビ記 23:22。ルツ 2:2-7)この規定をイスラエル国民が守っている限り,貧しい人たちは物乞いをする必要がありませんでした。まさにエホバの温かい思いやりの表れと言えます。
13-14. (ア)ダビデの言葉から,エホバが私たち一人一人を深く気遣っていることがどのように分かりますか。(イ)どんな実話から,エホバが「心が傷ついた人」や「打ちのめされた人」のそばにいてくれると確信できますか。
13 愛情深い神は今でも私たち一人一人を深く気遣っています。私たちはどんな大変なことがあっても,エホバが寄り添ってくれることを確信できます。ダビデはこう書きました。「エホバは正しい人に目を留め,助けを求める彼らの叫びに耳を傾ける。エホバは心が傷ついた人のそばにいる。打ちのめされた人を救ってくださる」。(詩編 34:15,18)この聖句に出てくる人たちについて,ある聖書学者はこう述べています。「彼らは心が傷つき,悔恨の情を抱いている。罪のゆえに謙虚になり,むなしさを感じているのである。自分は卑しい人間だと考え,自分の価値に自信を持てないでいる」。そのような人は,エホバを遠くに感じ,自分のようなちっぽけな人間を神が気に掛けてくれるはずがないと考えるかもしれません。でも,決してそんなことはありません。ダビデの言葉から,自分は駄目だと思っている人をエホバが見捨てることはないと確信できます。思いやり深い神は,そういう時こそ私たちが助けを必要としていることをよく理解していて,そばにいてくれます。
14 1つの実話を考えてみましょう。米国のある母親が,2歳の息子を急いで病院に連れていきました。ひどい気管支炎で苦しんでいたからです。その子を診察した医師は,1晩入院させる必要があると母親に告げました。その晩,母親はどこで過ごしたでしょうか。病室で,息子のベッドのすぐ隣に置いた椅子にずっと座っていました。幼いわが子が病気なので,離れたくなかったのです。神に似た者として造られた人間がそのような思いやりを示すのですから,まして私たちの愛情深い天の父はそれ以上のことをしてくれるに違いありません。(創世記 1:26)詩編 34編18節の感動的な言葉の通り,私たちが傷ついたり打ちのめされたりするとき,エホバは愛情深い親のように「そばに」いてくれます。いつも私たちを思いやり,すぐに助けてくれるのです。
15. エホバは私たち一人一人をどのように助けてくれますか。
15 では,エホバは私たち一人一人をどのように助けてくれるのでしょうか。必ずしも苦しみの原因を取り除くわけではありませんが,いろいろな方法で支えてくれます。例えば,聖書の中に役立つアドバイスを収めてくれています。また,信頼できるクリスチャンの監督たちに会衆を見守らせています。その監督たちは,エホバに倣って思いやり深く仲間を助けるように努力しています。(ヤコブ 5:14,15)「祈りを聞く方」であるエホバは,「ご自分に求めている人に聖なる力を与えて」くれます。(詩編 65:2。ルカ 11:13)そのおかげで,神の王国があらゆる問題を解決するまで忍耐するための「普通を超えた力」を持てます。(コリント第二 4:7)こうしたエホバの助けに本当に感謝したいと思うのではないでしょうか。それらは全て,エホバの温かい思いやりの表れです。
16. エホバの思いやりはどんなことに一番よく表れていますか。あなたがそれに感謝しているのはどうしてですか。
16 もちろん,エホバの思いやりは,最愛の子を私たちのための贖いとして与えてくれたことに一番よく表れています。エホバは私たちを深く愛してそれほどの犠牲を払ってくれたのであり,そのおかげで私たちは救われるという希望を持てます。贖いは,私たち一人一人へのエホバからの贈り物です。バプテストのヨハネの父親であるゼカリヤによれば,贖いによって「神の温かい思いやり」がはっきり示されることになっていました。(ルカ 1:78)
エホバはどこまで思いやるか
17-19. (ア)エホバはどんな場合でも思いやりを示しますか。(イ)エホバがイスラエル人にもう思いやりを示せないと感じたのはどうしてですか。
17 エホバはどんな場合にも温かい思いやりを示すのでしょうか。そうではありません。聖書にはっきり示されているように,神から見て正しくないことを行い続ける人をエホバがいつまでも思いやることはありません。(ヘブライ 10:28)もう一度イスラエル国民の例を考えてみましょう。
18 エホバは何度もイスラエル人を敵から救いましたが,不従順な民をいつまでも思いやることはしませんでした。彼らが偶像崇拝をやめようとせず,汚らわしい偶像をエホバの神殿に持ち込むことまでしていたからです。(エゼキエル 5:11; 8:17,18)聖書にはこうも書かれています。「彼らは真の神の使者たちをばかにし続け,神の言葉を侮り,預言者たちをあざけったので,ついには矯正しようがないほどになった。エホバはご自分の民に激怒した」。(歴代第二 36:16)イスラエル人があまりにも悪かったので,もはやエホバが思いやりを示すのは正しいこととは言えませんでした。エホバは正当な怒りを感じました。その後どうなったでしょうか。
19 エホバはこう言いました。「私はいたわらず,悲しまず,憐れみも示さない。私が彼らを滅ぼすのを阻むものは何もない」。(エレミヤ 13:14)結果として,エルサレムは神殿もろとも滅ぼされ,イスラエル人は捕らわれてバビロンに連れていかれました。罪深い人間が神に背き,もう思いやりを示せないとエホバに感じさせるほど悪くなってしまうのは,本当に悲しいことです。(哀歌 2:21)
20-21. (ア)エホバは間もなく,悪い人々をこれ以上思いやることはできないというタイミングで何をしますか。(イ)次の章では,エホバの思いやりが特によく表れているどんなことについて取り上げますか。
20 現代ではどうでしょうか。エホバは変わっていません。思いやり深くも,自分の証人たちによって「王国の良い知らせ」が世界中に伝わるようにしています。(マタイ 24:14)誠実な人たちが耳を傾けると,エホバはその人たちが王国についての真理を理解できるように助けます。(使徒 16:14)しかし,この伝道活動はいつまでも続くわけではありません。苦しみや悲しみでいっぱいの悪い世の中をずっとこのままにしておくのは,思いやりのあることではありません。エホバは自分に従おうとしない人々をこれ以上思いやることはできないというタイミングで,この体制を滅ぼすために行動を起こします。そうするのも,エホバが自分の「聖なる名」を気に掛けていて,自分に献身的に仕える人たちを思いやるからこそです。(エゼキエル 36:20-23)エホバは全ての悪をなくし,正しいことが行き渡る新しい世界をつくります。悪い人々についてエホバはこう言っています。「私の目は彼らを惜しまず,私は同情しない。彼らに自分たちの歩みの報いを受けさせる」。(エゼキエル 9:10)
21 とはいえ,その時までは,エホバは全ての人に思いやりを示します。罪深い人間は悪い生き方をやめないなら滅ぼされますが,誠実に悔い改めるならエホバに許してもらえます。そのような許しには,エホバの思いやりが特によく表れています。次の章では,エホバが完全に許してくれることが聖書の中でどのように美しく表現されているかを取り上げます。
a ラーハムというヘブライ語動詞は,父親が子供に抱く憐れみや思いやりの気持ちを指して使われることもあります。詩編 103編13節がその例です。
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神は「快く許してくださいます」エホバに近づきなさい
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第26章
神は「快く許してくださいます」
1-3. (ア)ダビデが苦しんでいたのはどうしてですか。どんなことを理解して気持ちが楽になりましたか。(イ)私たちも罪を犯すとどんな気持ちになるかもしれませんか。でも聖書によると,エホバは何をしてくれますか。
ダビデはかつてこう書きました。「私の過ちは頭の上に高く積み重なる。負い切れない重い荷物のように。私は感覚を失い,完全に打ちのめされ[た]」。(詩編 38:4,8)ダビデは,罪の意識が心に重くのしかかり,とても苦しんでいました。でも,あることを理解して気持ちが楽になりました。エホバは罪を憎んでいるものの,罪を犯した人が本当に悔い改めて罪深い生き方をやめるなら,その人を憎んだりはしない,ということです。ダビデは,悔い改めた人にエホバが憐れみを示してくれることを確信し,「エホバ,あなたは……快く許してくださいます」と言いました。(詩編 86:5)
2 私たちも,罪を犯してしまって良心が痛み,とてもつらい気持ちになることがあるかもしれません。後悔し反省するのは良いことです。何とかして自分の過ちを正そうという気持ちになるからです。でも,罪の意識に押しつぶされてしまう危険もあります。自分は駄目だ,どんなに悔い改めてもエホバは許してくれない,と思い込んでしまうかもしれません。もし「あまりの悲しみに打ちのめされて」,自分にはエホバに仕える資格なんてないと考えて諦めてしまうなら,サタンの思うつぼです。(コリント第二 2:5-11)
3 エホバは,罪を犯した人を見限ったりするでしょうか。決してそんなことはありません。エホバは私たちを深く愛しているので,許してくれます。聖書に書かれている通り,私たちが心から悔い改めるなら,快く許してくれるのです。(格言 28:13)では,自分はエホバから許してもらえないなどと考えてしまうことがないように,エホバがなぜ,どのように許すのかを調べてみましょう。
エホバが「快く許して」くれるのはなぜか
4. エホバは私たちについてどんなことを分かっていますか。そのため私たちをどのように扱ってくれますか。
4 エホバは私たちに限界があることをよく分かっています。詩編 103編14節にはこう書かれています。「神は私たちの造りをよく知っている。私たちが土でできているにすぎないことを覚えている」。私たちが土でできていて,不完全でいろいろな欠点や弱点があることを,神は思いやってくれます。「私たちの造り」を知っているという表現から,聖書の中でエホバが陶芸家に例えられていることが思い出されます。私たちは,エホバが粘土で作る器のようです。(エレミヤ 18:2-6)素晴らしい陶芸家であるエホバは,私たちが罪深くて弱いことや,神の導きにうまく応えられないときもあることを理解していて,優しく扱ってくれます。
5. ローマのクリスチャンへの手紙の中で,罪の強い影響力がどのように表現されていますか。
5 エホバは罪の影響力の強さもよく分かっています。聖書によれば,罪はいわば人間をがっちりとつかんで死へと引きずり込みます。その力はどれほど強いのでしょうか。ローマのクリスチャンへの手紙の中で,使徒パウロはこのように説明しています。私たちは,司令官への絶対服従を要求される兵士のように,「罪の支配下に」あります。(ローマ 3:9)罪は王のように人類を「支配」してきました。(ローマ 5:21)罪は私たちの「内に」宿っています。(ローマ 7:17,20)罪の「律法」は常に私たちの生き方をコントロールしようとしています。(ローマ 7:23,25)確かに不完全な人間は,罪の大きな力に束縛されています。(ローマ 7:21,24)
6-7. (ア)心から悔い改めて許しを求める人のことをエホバはどう思いますか。(イ)何をしても神に許されると考えるべきでないのはどうしてですか。
6 私たちは,エホバに従いたいとどれほど強く願っていても,完全に従順であることはできません。エホバはそのことをよく理解していて,心から悔い改めるなら許すと優しく言ってくれています。詩編 51編17節にはこう書かれています。「神に喜ばれる犠牲は,悔いる気持ち。後悔し,打ちのめされた心を,神よ,あなたは退けません」。罪の意識に苦しみ,「後悔し,打ちのめされた」人に,エホバは決して背を向けたりしません。
7 だからといって私たちは,自分は罪深いのだから仕方ない,何をしても神は許してくれる,と考えるべきではありません。エホバは憐れみ深いとはいえ,情に流されて罪を大目に見たりはしません。悪いことだと分かっていながら罪を犯し続け,悔い改めようとしない人は,決してエホバに許されません。(ヘブライ 10:26)一方,心から悔い改める人は,快く許してもらえます。聖書には,エホバの愛の素晴らしい一面である許しについての美しい表現がちりばめられています。その幾つかに注目してみましょう。
エホバの許しはどれほどのものか
8. エホバは私たちの罪を許す時,いわばどんなことをしてくれますか。私たちは何を確信できますか。
8 罪を悔い改めたダビデはこう言いました。「私はついに自分の罪をあなたに告白した。過ちを隠さなかった。……すると,あなたは過ちと罪を許してくださった」。(詩編 32:5)ここで「許し[た]」と訳されているヘブライ語には,「持ち上げる」とか「運ぶ」という意味があります。この聖句では,罪や違反を取り去るという意味で使われています。ですからエホバは,ダビデの罪をいわば持ち上げて運び去ったのです。そのおかげで,ダビデにとって重荷のようだった罪悪感が和らいだことでしょう。(詩編 32:3)私たちも,イエスの贖いの犠牲に信仰を持って許しを求めるなら神が罪を運び去ってくれる,と確信できます。(マタイ 20:28)
9. エホバは私たちの罪を私たちからどれほど遠くに離してくれますか。
9 ダビデはイメージしやすい言葉を使って,エホバによる許しを次のようにも表現しています。「日の出は日の入りから遠く離れている。同じように,神は私たちの違反を私たちから遠くに離してくださった」。(詩編 103:12)日が昇る東と,日が沈む西は,どれほど遠く離れているでしょうか。東と西は対極にあり,決して交わることがないので,限りなく遠く離れていると言えます。ある学者によると,この聖句の表現は「最大限遠く離れている」とか「想像し得る最も遠い所にある」という意味です。ダビデが聖なる力に導かれて書いた言葉から分かる通り,エホバは私たちを許す時,罪を私たちから限りなく遠くに離してくれるのです。
「あなたたちの罪は……雪のように白くされる」
10. エホバに罪を許してもらうと,罪という染みが消えずにずっと残るということはありません。どうしてそう言えますか。
10 あなたは,白い服から染みを抜こうとしたことがありますか。いくらやっても染みが完全には消えなかったかもしれません。では,エホバは私たちを許す時,罪という染みをどれほどきれいに抜いてくれるのでしょうか。聖書にこう書かれています。「あなたたちの罪は緋のようだが,雪のように白くされる。紅の布のように赤いが,羊毛のようになる」。(イザヤ 1:18)「緋」は明るい赤でa,「紅」はよく布を染めるのに使われた濃い赤です。(ナホム 2:3)私たちはどんなに頑張っても,自分の力で罪という染みを抜くことはできません。しかしエホバは,緋や紅のような罪を,雪や染めていない羊毛のように白くすることができます。エホバに罪を許してもらうと,罪という染みが消えずにずっと残るということはないのです。
11. エホバが私たちの罪を自分の後ろに投げ捨てるとは,どういうことですか。
11 ヒゼキヤは,致命的な病気を癒やしてもらった後に作った感謝の歌の中で,エホバにこう言いました。「あなたは……私の全ての罪をご自分の後ろに投げ捨ててくださいました」。(イザヤ 38:17)この言葉から分かるように,エホバは悔い改めた人の罪をいわば自分の後ろに投げ捨て,もうそれを見ることも思い出すこともしません。ある聖書辞典によると,この聖句の表現は「あなたは[私の罪を]まるで生じなかったかのようにされた」と言い換えられます。エホバがそのようにしてくれると思うと,ほっとするのではないでしょうか。
12. 預言者ミカの言葉から,エホバの許しについてどんなことが分かりますか。
12 預言者ミカは,悔い改めた民をエホバが許してくれるという確信を次のような言葉で表現しました。「あなたのような神がいるでしょうか。あなたはご自分の財産である民の残りの者の……違反を見過ごす方。……全ての罪を深い海の中に投げ込んでくださる」。(ミカ 7:18,19)当時の人たちがこの言葉を聞いてどう思ったか,想像してみてください。「深い海の中に」投げ込まれたものは,もう二度と戻ってこなかったことでしょう。ですからミカの言葉は,エホバは許す時に私たちの罪を永久に捨て去ってくれるということを示しています。
13. イエスによると,エホバはどのように罪を許してくれますか。
13 イエスは,「私たちの罪をお許しください」と祈るよう教えました。「罪」と訳されているギリシャ語には「負債」という意味があります。(マタイ 6:12,脚注)イエスは罪を負債になぞらえていたのです。(ルカ 11:4,脚注)私たちは罪を犯すと,いわばエホバに対して負債を負います。ある聖書辞典によると,「許す」と訳されているギリシャ語動詞には「返済を請求せずに債権を手放す」という意味があります。エホバは許す時に,いわば私たちの負債を帳消しにしてくれます。そして,一度帳消しにした負債を蒸し返したりはしないので,罪を悔い改めた人は安心できます。(詩編 32:1,2)
14. エホバが「罪を消し去って」くれるというのはどういうことですか。
14 使徒 3章19節には,エホバの許しについてこう書かれています。「罪を消し去っていただくために,悔い改めて生き方を変えなさい」。「消し去って」と訳されているギリシャ語動詞には,拭い去るとか抹消するという意味があります。手書きの文字を消すというイメージだと説明する学者たちもいます。聖書時代,文字はどのように消したのでしょうか。当時よく使われていたインクは,すすと樹脂と水を混ぜて作られました。そのようなインクで書いた後,水を含んだ海綿で拭えば,文字を消すことができました。エホバは私たちの罪を許す時,いわば海綿で罪を拭い去ってくれるのです。エホバの憐れみの深さがよく分かる,素晴らしい表現です。
15. エホバは私たちにどんなことを知ってほしいと思っていますか。
15 聖書に出てくるこうしたいろいろな美しい表現について考えると,どんなことがはっきり分かるでしょうか。私たちが誠実に悔い改めるならエホバは快く許してくれる,ということです。エホバはそのことを私たちに知ってほしいと思っているのです。私たちは一度許されたなら,過去の過ちのことで再びとがめられる心配はありません。聖書によれば,エホバは大きな憐れみにより,罪を許すだけでなく忘れてくれるからです。そのことについても考えましょう。
エホバは自分が「快く許[す]」ことを私たちに知ってほしいと思っている
「彼らの罪をもはや思い出さない」
16-17. エホバが私たちの罪を忘れるとはどういう意味ですか。どうしてそう言えますか。
16 エホバは,新しい契約の当事者たちについてこう約束しました。「私は彼らの過ちを許し,彼らの罪をもはや思い出さない」。(エレミヤ 31:34)これは,エホバが許した人たちの罪を思い出せなくなるということではありません。聖書には,ダビデなどエホバに許された大勢の人の罪について書かれています。(サムエル第二 11:1-17; 12:13)エホバがその人たちの罪を覚えていることは明らかです。エホバは私たちを教えるために,その人たちがどんな罪を犯し,どのように悔い改めて許されたかを記録させました。(ローマ 15:4)では,エホバが許した人たちの罪を「思い出さない」とはどういうことでしょうか。
17 「思い出す」と訳されるヘブライ語の動詞には,単に過去を思い起こす以上の意味があります。「旧約聖書の神学用語集」(英語)によると,その言葉には「適切な行動を取るという付加的な意味合い」が含まれています。ですから,神が罪を「覚えてい[る]」ことには,罪を犯した人を処罰することが伴います。(ホセア 9:9)逆に,神が罪を「思い出さない」というのは,悔い改めた人を一度許したなら,もうその罪のことでその人を処罰したりはしない,ということです。(エゼキエル 18:21,22)エホバは,何かにつけて私たちの過去の罪を持ち出したりはしないという意味で,罪を忘れてくれるのです。神が私たちの罪を許し,なおかつ忘れてくれるということが分かると,気持ちが楽になるのではないでしょうか。
罪の報いについてはどうか
18. 罪を悔い改めて許されても,罪の報いを全く受けずに済むわけではありません。どうしてそう言えますか。
18 エホバが快く許してくれるということは,悔い改めた人は自分の犯した罪の報いを全く受けずに済むということでしょうか。そうではありません。パウロは,「人は自分がまいているものを必ず刈り取ることになります」と書きました。(ガラテア 6:7)間違った行動には,何らかの代償が伴うものです。これは,エホバが私たちを許しておきながら苦しい目に遭わせる,ということではありません。クリスチャンは問題が起きたとき,「これはエホバからの罰かもしれない」と考えるべきではありません。(ヤコブ 1:13)とはいえエホバは,私たちの間違った行いのせいで起きる悪い事柄全てから私たちを守るわけではありません。罪を犯した人は,離婚することになったり,望まない妊娠をしたり,性感染症にかかったり,信頼や敬意を失ったりするかもしれません。バテ・シバと姦淫をしてウリヤを殺したダビデは,エホバに許されましたが,罪のせいで悲惨な経験をすることになりました。(サムエル第二 12:9-12)
19-21. (ア)レビ記 6章1-7節に書かれている規定は,どのように被害者と加害者双方のためになりましたか。(イ)罪を犯して人を傷つけてしまった場合,どうするならエホバに喜ばれますか。
19 罪を犯して人を傷つけてしまった場合には,罪を償う必要もあることでしょう。一例として,レビ記 6章に書かれていることを考えてみましょう。モーセの律法のその部分では,人が仲間の物を盗んだり,脅し取ったり,だまし取ったりするという重大な過ちを犯した場合のことが取り上げられています。その人は,何の罪も犯していないといううその誓いさえします。証拠不十分で無罪になりますが,後に良心の呵責を感じて罪を告白します。罪を神に許してもらうには,3つのことを行わなければなりません。取った物を返し,さらにその物の価値の20%分を支払い,有罪の捧げ物として雄羊を差し出します。その後,「祭司はその人のためにエホバの前で贖罪を行い,その人は……許され」ます。(レビ記 6:1-7)
20 この規定には神の憐れみが表れていました。被害者と加害者双方のためになったからです。被害者は持ち物を取り戻せましたし,加害者が罪を認めた時にはほっとしたことでしょう。悔い改めて罪を告白した加害者は,自分の罪を償うことができ,神に許してもらえました。
21 現代ではモーセの律法は無効ですが,私たちはその律法から,許すことについてのエホバの考えをよく知ることができます。(コロサイ 2:13,14)罪を犯して人を傷つけてしまった場合,問題を解決するためにできる限りのことをするなら,神に喜ばれます。(マタイ 5:23,24)自分の罪を認め,被害者に謝罪する必要があるでしょう。そして,イエスの犠牲に基づいてエホバに許しを求めます。そうすれば,許してもらえたことを確信し,安心できます。(ヘブライ 10:21,22)
22. エホバは許した人にどんなことをする場合もありますか。
22 子供を思う親のように,エホバは許した人を矯正したり戒めたりすることもあります。(格言 3:11,12)例えば,クリスチャンは悔い改めたとしても,長老や援助奉仕者や開拓者として奉仕できなくなるかもしれません。自分が大切に思っていた奉仕がしばらくできなくなるのはつらいことでしょう。しかし,そのような形で矯正が与えられたとしても,エホバに許してもらえていないわけではありません。エホバは私たちを愛しているからこそ矯正してくれる,ということを覚えておきましょう。矯正を受け入れることは,必ず私たちのためになります。(ヘブライ 12:5-11)
23. エホバが許してくれるはずはないと考えるべきでないのはどうしてですか。エホバに倣って人を許すべきなのはどうしてですか。
23 神が「快く許して」くれることが分かると,とても心強く感じます。自分はとても悪いことをしてしまった,エホバが許してくれるはずはない,と考える必要はありません。私たちが本当に悔い改め,できる限りのことをして罪を償い,イエスの犠牲に基づいて真剣に許しを祈り求めるなら,エホバに許してもらえると確信できます。(ヨハネ第一 1:9)ぜひエホバに倣って,私たちも人を許しましょう。決して罪を犯すことがないエホバがこれほどまでに愛情深く許してくれるのですから,罪深い私たちはなおのこと許し合うべきではないでしょうか。
a ある学者は緋についてこう述べています。「緋はあせない色,落ちない色だった。緋色の布は,露や雨にぬれても,洗濯しても,長く使っても,色が抜けることはなかった」。
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「神は何と善い方なのだろう」エホバに近づきなさい
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第27章
「神は何と善い方なのだろう」
1-2. 善い方であるエホバのおかげでどんな幸せを感じられますか。聖書は神が善い方であることをどのように強調していますか。
昔からの友人たちが,夕日に染まった美しい景色を見ながら屋外で一緒に食事をし,楽しく語り合っています。別の場所では,農家の人が自分の畑を見渡し,うれしそうにほほ笑んでいます。空に厚い雲が広がり,待ちわびていた恵みの雨が畑を潤し始めたからです。さらにほかの場所では,夫婦が自分たちの赤ちゃんが初めて何歩か歩くのを見て,大喜びしています。
2 この人たちは気付いていないかもしれませんが,人がそのような幸せを感じられるのは,善い方であるエホバのおかげです。聖書にははっきりと,「神は何と善い方なのだろう」と書かれています。(ゼカリヤ 9:17)今の世の中で,この言葉の意味を本当に理解している人はほとんどいないでしょう。では,エホバ神が善い方であるとは,具体的にどういうことなのでしょうか。エホバは私たちのためにどんな善いことをしてくれているでしょうか。
神の愛の際立った一面
3-4. 「善い」とはどういうことですか。エホバが善い方なのは愛があるからこそだと言えるのはどうしてですか。
3 多くの言語で「善い(良い)」という言葉には広い意味がありますが,聖書の中では主に道徳的に優れていることを指します。そのような意味で,エホバは限りなく善い方です。力,公正さ,知恵など,エホバのあらゆる面が善いのです。そして,覚えておきたい大切なこととして,エホバが善い方なのは愛があるからこそです。どうしてそう言えるのでしょうか。
4 それは,善い人とはどんな人かを考えると分かります。使徒パウロが書いているように,人は正しい人よりも善い人に強く引かれます。(ローマ 5:7)正しい人は律法で求められていることを固く守りますが,善い人はそれ以上のことを行います。他の人のためになることを積極的に行うのです。この章で考えますが,エホバはまさにそういう意味で善い方です。無限の愛があるからこそ,常に善いことを行うのです。
5-7. イエスが「善い先生」と呼ばれることを拒んだのはどうしてですか。イエスはどんな重要な真理を教えましたか。
5 エホバは特別な意味で善い方です。イエスが亡くなる少し前の出来事について考えてみましょう。ある男性が質問しようとしてやって来て,イエスを「善い先生」と呼びました。するとイエスはこう言いました。「なぜ私のことを善いと呼ぶのですか。神以外に善い者は誰もいません」。(マルコ 10:17,18)一体どうしてイエスはそのように言ったのでしょうか。男性が言った通り,イエスは「善い先生」だったのではないでしょうか。
6 その男性は「善い先生」という言葉を,個人をたたえる特別な呼称として使っていたようです。慎み深いイエスは,そのようにたたえられるべきなのは誰よりも善い方であるエホバだけだと言っていたのです。(格言 11:2)イエスはさらに,1つの重要な真理を教えていました。至高者であり主権者であるエホバだけが,何が善で何が悪かを決める権利を持っている,ということです。アダムとエバは,神に反逆して善悪の知識の木の実を食べることにより,自分たちで善悪を決めたいという態度を表しました。その2人とは違って,イエスは天の父だけに善悪の基準を定める権利があることを謙遜に認めていました。
7 加えてイエスは,全ての良いものの源がエホバであることを知っていました。「良い贈り物,完全な贈り物は全て」エホバから与えられるのです。(ヤコブ 1:17)では,エホバがどんな良いものを惜しみなく与えてくれているかを考えてみましょう。
善い神エホバからのたくさんの贈り物
8. エホバは全ての人に対してどんな善いことを行ってきましたか。
8 例外なく全ての人が,善い神であるエホバのおかげで生きています。詩編 145編9節には,「エホバは全てのものに対して善いことを行う」と書かれています。そのことを示すどんな例があるでしょうか。聖書はこう述べています。「[神は]善いことを行って,ご自分のことを明らかにしていました。天からの雨と実りの季節を与え,食物を豊かに供給して人々の心を喜びで満たしたのです」。(使徒 14:17)おいしい物を食べると,幸せな気持ちになるものです。私たちが食事を楽しめるのは,善い神であるエホバが地球を素晴らしく造ってくれたおかげです。水が循環していつも豊富にあり,「実りの季節」が巡ってくるので,たくさんの食物が生産できるようになっています。エホバは自分に従う人たちだけでなく全ての人に,そのような良いものを与えています。イエスはこう言いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるのです」。(マタイ 5:45)
9. リンゴのどんなところから,エホバが善い神だと分かりますか。
9 多くの人は,太陽や雨や実りの季節を当たり前のものだと思っているので,エホバのおかげでたくさんの良いものを味わえていることに感謝していません。良いものの一例として,リンゴについて考えてみましょう。リンゴは温帯地域でなじみ深い果物で,美しく,食べておいしく,みずみずしい果汁や大切な栄養素をいっぱいに含んでいます。世界には約7500種類ものリンゴがあります。色は赤,黄色,緑などいろいろで,サイズもサクランボぐらい小さなものからグレープフルーツぐらい大きなものまでさまざまです。リンゴの種は小さくて地味ですが,その種から芽が出て成長すると立派な木になります。(ソロモンの歌 2:3)春になると美しい花が咲き乱れ,秋には実がなります。70年以上にわたって毎年400㌔もの実を付けるリンゴの木もあります。
エホバは「天からの雨と実りの季節を与え」てくれる
この小さな種が立派な木になり,何十年も実を付けて私たちを楽しませてくれる
10-11. 五感が,善い神エホバからの贈り物だと言えるのはどうしてですか。
10 私たちの体のことを考えると,エホバがどこまでも善い方であることをいっそう実感できます。人体は「素晴らしく造られて」いて,さまざまな感覚があるのでエホバが造ったものを楽しむことができます。(詩編 139:14)この章の冒頭で取り上げた幾つかの状況を思い起こしてみましょう。そういう場面で,視覚によってどんな喜びを感じられるでしょうか。真っ赤なほっぺの赤ちゃんの笑顔,畑に優しく降り注ぐ雨のシャワー,赤やオレンジや紫に染まった夕焼け空などを見ることができます。人間の目は,数百万色を見分けられるといわれています。聴覚はどうでしょうか。家族や友達のいろいろな声のトーンや,木立を抜ける風のささやき,赤ちゃんのうれしそうな笑い声などを聞き取ることができます。私たちがそうした光景や音を楽しめるのは,エホバのおかげです。聖書に書かれている通り,「聞く耳と見る目はどちらもエホバが造った」のです。(格言 20:12)エホバはほかにもどんな感覚を与えてくれているでしょうか。
11 嗅覚も,善い神であるエホバからの贈り物です。人間の鼻が嗅ぎ分けられる匂いは1兆種類に上るともいわれています。好きな料理や,花,落ち葉,暖かいたき火の煙の匂いなどは,心地よいものです。また,触覚があるおかげで,優しく頰をなでるそよ風,温かい抱擁,果物の手触りなどを感じることができます。果物を一口食べると,味覚が働きます。果物の複雑で繊細な味わいを味蕾が感じ取り,口いっぱいに味のシンフォニーが広がります。こうした感覚について考えると,確かに次のようにエホバをたたえたくなります。「あなたは何と善い方なのだろう。あなたはご自分が善い方であることを,あなたを畏れる人に進んで表[す]」。(詩編 31:19)では,エホバは自分を畏れる人たちのために,さらにどんな善いことを行ってきたでしょうか。
エホバからの良いものは永遠の幸福につながる
12. エホバが与えてくれる文字通りの食物よりも大事なものは何ですか。どうしてですか。
12 イエスはこう言いました。「『人は,パンだけではなく,エホバの口から出る全ての言葉によって生きなければならない』と書いてあります」。(マタイ 4:4)文字通りの食物は私たちが生きていくのに欠かせませんが,エホバからの教えという食物はもっと大事です。それによって永遠に生きられるようになるからです。この本の第8章で考えたように,エホバがこの終わりの時代に清い崇拝を回復させたおかげで,私たちは比喩的なパラダイスの中にいられるようになりました。そのパラダイスの特徴の一つは,信仰を強める食物がふんだんにあることです。
13-14. (ア)預言者エゼキエルは幻の中で何を見ましたか。その幻はどんなことを表していましたか。(イ)エホバは自分に忠実に仕える人たちが永遠に生きられるよう,どんなものを与えてくれていますか。
13 預言者エゼキエルは,回復に関する重要な預言を与えられ,幻の中で美しい神殿を見ました。その神殿からは水が流れ出ていて,流れの幅や深さがどんどん増していき,やがて深い川になります。この川の流れは大きな祝福をもたらします。川の両岸にはたくさんの木が生え,人々を養って癒やします。川が死海に流れ込むと,塩分濃度が高くて生物がいなかった海に魚があふれ,漁業が盛んになります。(エゼキエル 47:1-12)この預言にはどんな意味があるのでしょうか。
14 この神殿の幻は,エホバが清い崇拝を回復させることを表していました。再びエホバの正しい基準に沿った崇拝が行われるようになるのです。幻の中の川がどんどん深く大きくなったように,エホバは自分の民が永遠に生きられるよう助けるためにますますたくさんの良いものを与えてくれています。1919年に清い崇拝が回復されて以来,エホバはどんなものを与えてきてくれたでしょうか。聖書,聖書に基づく出版物,集会や大会などによって,何百万もの人たちが重要な真理を学べるようにしてきました。そのような方法で,人間に永遠の命を与えるための一番の贈り物であるキリストの贖いの犠牲についても教えてきました。神を本当に愛して畏れる人たちは,キリストの犠牲に信仰を持つならエホバから清い人と見ていただくことができ,永遠に生きるという希望を持てるのです。a この終わりの時代に,世の中の大勢の人は神について知らずに苦しんでいますが,エホバの民は信仰を強める食物で豊かに養われています。(イザヤ 65:13)
15. キリストの千年統治の間,エホバは忠実な人たちのためにどんな善いことをしますか。
15 エゼキエルが幻の中で見た川は,今の体制が終わったらもう流れなくなるというわけではありません。キリストの千年統治の間,いっそう豊かに流れます。その時,エホバはメシア王国によって,忠実な人たちがイエスの犠牲の恩恵を最大限に受けて徐々に完全な人間になるようにします。私たちはエホバがどれほど善い方であるかを実感し,喜びにあふれることでしょう。
善い神であるエホバのいろいろな面
16. 聖書によると,エホバが善い方であることはどんな面にも表れていますか。
16 エホバが善い方だと言えるのは,惜しみなく与えてくれるからだけではありません。エホバはモーセにこう言いました。「私は,私がどれほど善いかをあなたに見せ,あなたの前でエホバという名を宣言する」。その少し後にはこう書かれています。「エホバはモーセの前を通り過ぎつつ,こう宣言した。『エホバ,エホバ,憐れみ深く,慈しみがある神,すぐに怒らず,揺るぎない愛に満ち,常に真実を語る』」。(出エジプト記 33:19; 34:6,脚注)ですから,エホバが善い方であることはいろいろな面に表れていると言えます。そのうちの2つを考えてみましょう。
17. 慈しみがあることは,人へのどんな接し方に表れますか。エホバがそのように人間に接したどんな例がありますか。
17 「慈しみがある」。「思いやりがある」とも訳されるこの表現から,エホバがどのように人間に接するかが分かります。権力者は偉そうだったり冷たかったりすることがよくありますが,エホバは誰に対しても優しく,親切で,丁寧です。例えば,ある時アブラムに,「目を上げ,東と西,北と南をご覧なさい」と言いました。(創世記 13:14)多くの翻訳では,ここが「見なさい」という命令口調になっています。しかし,聖書学者たちによると元のヘブライ語の表現は文法上,命令ではなく丁寧な依頼を表す形になっています。同様の表現が「どうか……[し]てほしい」と訳されていることもあります。(創世記 22:2。エゼキエル 8:5)宇宙の主権者である方が,人間に「どうか」と頼んでいるのです。世の中では思いやりに欠けた失礼な態度がよく見られますが,エホバがいつも慈しみ深く接してくれることを考えると,爽やかな気持ちになるのではないでしょうか。
18. エホバはどんな神ですか。安心してエホバに従えるのはどうしてですか。
18 「常に真実を語る」。世の中では不正直な言動が広く見られます。一方,聖書によると「神は,偽りを語る人間のようでは」ありません。(民数記 23:19)テトス 1章2節にある通り,「神は偽ることができません」。どこまでも善い方だからです。だからこそ,エホバの約束は100%信頼できます。エホバが語ったことは必ずその通りになります。エホバは真実だけを語る「真理の神」なのです。(詩編 31:5)うそを言わないだけでなく,惜しみなく真理を知らせます。何でも秘密にしておいたりはせず,忠実に従う人たちを無限の知恵によって啓発します。b 「真理に従って歩[む]」にはどうしたらいいかを教えてくれます。(ヨハネ第三 3)では,エホバがそのような善い方だと知って,私たちはどんな気持ちになるでしょうか。
「エホバからの良いもののゆえに顔を輝かせる」
19-20. (ア)サタンはどのようにして,エホバが善い神であることへの疑いをエバに持たせようとしましたか。どんな結果になりましたか。(イ)エホバが善い方であることを考えると,どんな気持ちになりますか。
19 サタンは,エデンの園でエバを誘惑した時,巧妙な手口を使って,エホバが善い神だということへの疑いを持たせようとしました。エホバはアダムに,「庭園の全ての木の実を満足するまで食べてよい」と伝えていました。エデンの園に数え切れないほどあったに違いない木々の中で,エホバが実を食べてはならないと言ったのは1本の木だけでした。しかし,サタンは最初にエバにこう尋ねました。「あなたたちは庭園の全ての木の実を食べてはならない,と神が言ったのは本当ですか」。(創世記 2:9,16; 3:1)サタンはエホバの言葉をねじ曲げ,エホバは良いものを出し惜しみしているとエバが考えるように仕向けました。残念なことに,エバはサタンを信じてしまいました。神から全てのものを与えてもらったにもかかわらず,神は善い方ではないかもしれないと思い始めました。後の時代の大勢の人たちも,同じように考えるようになりました。
20 そのように神を疑った結果,人類は深い悲しみや苦しみを味わってきました。私たちはそういう疑いの気持ちを持ちたいとは思いません。エレミヤ 31章12節には,「人々は……エホバからの良いもののゆえに顔を輝かせる」と書かれています。私たちはエホバがどこまでも善い方だと確信し,喜びで顔を輝かせていたいものです。いつも私たちの幸せを願ってくれているエホバを100%信頼しましょう。
21-22. (ア)エホバがどれほど善い方かを考えると,あなたはどんなことをしたいと思いますか。(イ)次の章では何を取り上げますか。それはどんな人たちだけに示されますか。
21 エホバがどれほど善い方かを考えて喜びを感じると,他の人にそのことを話したくなります。詩編 145編7節にはエホバの民について,「人々はあなたがいかに善い方かを思い起こし,生き生きと語る」と書かれています。私たちは毎日,善い神であるエホバに支えられています。その日その日にエホバがしてくれたことについて,できるだけ具体的に感謝することを習慣にしましょう。エホバがどれほど善い方かを考え,毎日エホバに感謝し,他の人に話すと,自分も善い神に倣いたいという気持ちが強くなります。そして,エホバのように善いことをしようと努力すると,エホバとの絆が強まります。使徒ヨハネは晩年にこう書きました。「愛する兄弟,悪いことではなく,善いことに倣いなさい。善いことを行う人は神から出ています」。(ヨハネ第三 11)
22 善い方であるエホバは,「揺るぎない愛に満ち」ている方でもあります。(出エジプト記 34:6)エホバは全ての人に善いことを行いますが,揺るぎない愛は忠実に仕える人たちだけに示します。次の章では,その揺るぎない愛について詳しく取り上げます。
a エホバが善い方であることは,キリストを贖いとして与えてくれたことに一番よく表れています。エホバは何億もの天使の中からあえて愛する独り子を選び,私たちのために死ぬようにしてくれました。
b 聖書の中で,真理は光と結び付けられています。ある詩編作者は,「あなたの光と真理を送り出してください」と言いました。(詩編 43:3)この闇の世の中で,エホバは学ぶ意欲のある人たちを真理の光で明るく照らし,啓発します。(コリント第二 4:6。ヨハネ第一 1:5)
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「あなただけが揺るぎない愛に満ちる方です」エホバに近づきなさい
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第28章
「あなただけが揺るぎない愛に満ちる方です」
1-2. ダビデ王は,揺るぎなく支持してくれるはずの人たちにどのように裏切られましたか。
ダビデ王は,揺るぎなく支持してくれるはずの人たちに裏切られました。一部のイスラエル人が謀反を起こしたこともあり,ダビデの治世は波乱に満ちていました。ダビデに背いた人たちの中には,家族や友人もいました。例えば,ダビデの最初の妻だったミカルです。当初,ミカルは「ダビデを愛して」いました。王としての務めを果たそうとするダビデを支えていたに違いありません。しかし後に,「心の中でダビデのことを軽蔑し」,「まるで愚か者」のようだと非難することさえしました。(サムエル第一 18:20。サムエル第二 6:16,20)
2 ダビデの顧問官アヒトフェルも,裏切った人の1人です。アヒトフェルはダビデが信頼していた友人で,この人の助言はあたかもエホバが語ったものであるかのように見なされていました。(サムエル第二 16:23)しかしやがて,アヒトフェルはダビデに対する反逆に加わりました。その陰謀の首謀者は,何とダビデの息子アブサロムでした。アブサロムは策略を巡らして「イスラエルの人たちの心を盗んで」いき,機が熟した時に自分が王だと宣言しました。アブサロムの反乱の勢いに押され,ダビデ王は命からがら逃げました。(サムエル第二 15:1-6,12-17)
3. ダビデはどんなことを確信していましたか。
3 そういう中で,決してダビデから離れなかった方がいます。それはエホバ神です。ダビデはそのことをよく分かっていたので,エホバについてこう言いました。「あなたは,揺るぎない愛を示す人に,揺るぎない愛を示す」。(サムエル第二 22:26)揺るぎない愛とはどういうものでしょうか。揺るぎない愛を示す点で,エホバが最高の手本だと言えるのはどうしてでしょうか。
揺るぎない愛とはどういうものか
4-5. (ア)「揺るぎない愛」とはどういうものですか。(イ)「揺るぎない愛」と「忠実」にはどんな違いがありますか。
4 ヘブライ語聖書で「揺るぎない愛」と訳されている言葉には,対象から離れることなく一貫して支持する,変わらない深い愛情という意味があります。「忠実」という言葉にも変わらずに対象を支持するという意味合いがありますが,揺るぎない愛はそれ以上のものです。忠実だといわれる人が単なる義務感や習慣によって行動している場合もありますが,揺るぎない愛はそういうものではありません。また,「忠実」という言葉は無生物について使われることもあり,例えば「詩編」では月が「忠実な証人」と呼ばれています。毎晩必ず,規則正しく空に姿を現すからです。(詩編 89:37,脚注)しかし,当然ながら月が揺るぎない愛を示すことはありません。
月は忠実な証人と呼ばれているが,エホバに倣って揺るぎない愛を示せるのは天使や人間だけ
5 誰かが揺るぎない愛を示す場合,示す相手との間に温かくて強い絆があります。ですから揺るぎない愛は,状況によって簡単に変化するようなものではありません。吹き荒れる風に翻弄される海の波のようではないのです。どんな問題や障害も物ともしないほど強く,安定しています。
6. (ア)世の中では揺るぎない愛に欠けたどんな行いが広く見られますか。そういう状況について聖書に何と書かれていますか。(イ)揺るぎない愛について学ぶ一番の方法は何ですか。どうしてそう言えますか。
6 現代では,そのような揺るぎない愛を示す人はますます少なくなっています。家族や友人が「互いを傷つける」こともよくあります。夫が妻を,妻が夫を捨てることも増えています。(格言 18:24。マラキ 2:14-16)不誠実な行いがあまりにも多いので,預言者ミカのように,「揺るぎない愛を示す人は地上から消え[た]」と言いたくなるほどです。(ミカ 7:2)対照的に,エホバは揺るぎない愛に満ちています。ですから,揺るぎない愛について学ぶ一番の方法は,エホバがそれをどのように表してきたかを調べることです。
エホバだけが揺るぎない愛に満ちている
7-8. エホバだけが揺るぎない愛に満ちているとはどういうことですか。
7 聖書によれば,「[エホバ]だけが揺るぎない愛に満ちる方です」。(啓示 15:4)どうしてそう言えるのでしょうか。神に尽くし,そのような愛を示した人間や天使もいるのではないでしょうか。(ヨブ 1:1。啓示 4:8)イエス・キリストも,神を誰よりも「揺るぎなく支持」してきました。(詩編 16:10,脚注)そうであれば,エホバだけが揺るぎない愛に満ちているとはどういうことでしょうか。
8 「神は愛」であり,まさしく愛を体現しているので,エホバ以上に揺るぎない愛を示すことができる者は誰もいません。(ヨハネ第一 4:8)天使や人間も神に倣うことはできますが,最高の愛を示せるのは,「年月を経た方」として誰よりも長く揺るぎない愛を実証してきたエホバだけです。(ダニエル 7:9)エホバが誰も及ばないほどの揺るぎない愛をどのように表してきたか,幾つかの例を考えてみましょう。
9. エホバは「揺るぎない愛に基づいて」どんなことをしますか。
9 エホバは「揺るぎない愛に基づいて物事を行う」方です。(詩編 145:17)詩編 136編を読むと,そのことがよく分かります。その詩には,エホバがイスラエル人を救った例が幾つか挙げられていて,劇的な奇跡によって紅海を渡らせた時のことも書かれています。どの節も,「神の揺るぎない愛は永遠に続く」という言葉で終わっています。289ページの「じっくり考えたいこと」にも挙げられているこの詩を読むと,エホバが自分の民のために行ったさまざまな事柄に揺るぎない愛が表れていることが分かって,感動を覚えるに違いありません。エホバは,自分に忠実に仕える人たちが助けを求めるときにその祈りを聞き,一番良いタイミングで助けることにより,揺るぎない愛を示します。(詩編 34:6)私たちがエホバを揺るぎなく愛し続ける限り,エホバも揺るぎない愛を示し続けてくれます。
10. どんなことにもエホバの揺るぎない愛が表れていますか。
10 エホバの善悪の基準が変わらずに一貫していることも,自分に仕える人たちへの揺るぎない愛の表れです。その場の思い付きや感情に左右されがちな人間の見方とは違って,善悪についてのエホバの見方は決して揺れ動くことがありません。何千年も前から,心霊術,偶像崇拝,殺人などに対するエホバの見方は変わっていません。預言者イザヤが書いている通り,エホバは「あなたが年を取っても私は変わらない」と言いました。(イザヤ 46:4)ですから私たちは,何が善で何が悪かに関する聖書のはっきりとした指針に従うなら必ず自分のためになる,と確信できます。(イザヤ 48:17-19)
11. エホバが約束を守ると確信できるのはどうしてですか。
11 エホバが必ず約束を守ることについても考えてみましょう。エホバが予告したことは全てその通りになるので,エホバはこう言っています。「私の口から出る言葉も,成果を収めずに私のもとに戻ることはない。必ず私の望むことを成し遂げ,私が託した使命を確実に果たす」。(イザヤ 55:11)エホバがそのように約束を守ることも,自分の民に対する揺るぎない愛の表れです。行うつもりのないことを約束して,むなしい希望を持たせたりはしません。エホバは完全に信頼できるので,ヨシュアはこう言いました。「エホバがイスラエル国民にした全ての良い約束のうち,果たされない約束は一つもなかった。全てその通りになった」。(ヨシュア 21:45)それで,エホバが約束を破って私たちをがっかりさせるようなことは絶対にないと確信できます。(イザヤ 49:23。ローマ 5:5)
12-13. エホバの揺るぎない愛が永遠に続くと言えるのはどうしてですか。
12 エホバの揺るぎない愛が「永遠に続く」と聖書に書かれていることにもう一度注目しましょう。(詩編 136:1)どうして永遠に続くと言えるのでしょうか。1つの点として,エホバが一度許した罪は永遠に許されたままだからです。第26章で考えた通り,エホバは人を許した後に過去の罪を再び持ち出したりはしません。「全ての人は罪人」であり,「神の栄光に達することができ[ない]」ので,エホバの揺るぎない愛が永遠に続くというのは私たち皆にとって本当にありがたいことです。(ローマ 3:23)
13 エホバの揺るぎない愛が永遠に続くと言える別の理由は,エホバが自分に忠実に仕える人たちを永遠に祝福するということです。聖書によると,正しい人は「水の流れのほとりに植えられた木のようになり,時期が来ると実を結び,その葉は枯れ」ません。そして,「行うことは全て成功」します。(詩編 1:3)葉が決して枯れない,青々と茂った木を想像してみてください。私たちも,神の言葉を愛してよく学ぶなら,そういう木のように実り豊かで平和な人生をいつまでも楽しむことができます。エホバが間もなく実現させる,正しいことが行き渡る新しい世界で,従順な人たちは永遠にわたってエホバの揺るぎない愛を味わうことになるのです。(啓示 21:3,4)
エホバが「ご自分に尽くす人を見捨てることはない」
14. エホバは自分に尽くす人たちを大切に思っていることをどのように示しますか。
14 エホバはこれまでずっと,忠実な人たちに揺るぎない愛を示してきました。そして,それはこれからも変わりません。ある詩編作者はこう書きました。「若かった私も,今は年老いた。だが,正しい人が見捨てられるのを見たことも,その子供たちがパンを探すのを見たこともない。エホバは公正を愛する方。ご自分に尽くす人を見捨てることはない」。(詩編 37:25,28)エホバは,自分は創造者なのだから人間が自分に尽くすのは当然だ,などと考えたりはしません。(啓示 4:11)揺るぎない愛があるので,私たちの忠実な行いを大切に思ってくれます。(マラキ 3:16,17)
15. エホバはイスラエル人にどのように揺るぎない愛を示しましたか。
15 揺るぎない愛に満ちるエホバは,自分の民が苦しんでいると必ず助けます。「詩編」にはこう書かれています。「神はご自分に尽くす人たちの命を守っている。その人たちを悪人の手から助け出す」。(詩編 97:10)神がイスラエル国民を助けた例をもう一度思い起こしてみましょう。イスラエル人は,奇跡によって紅海を渡って救われた後,エホバに向かってこう歌いました。「あなたは,救い出した民を揺るぎない愛を示して導いた」。(出エジプト記 15:13)紅海での救出はまさしくエホバの揺るぎない愛の表れだったので,モーセはイスラエル人にこう言いました。「エホバが愛情を示して皆さんを選ばれたのは,皆さんが全ての民の中で最も数が多い民だったからではありません。皆さんは全ての民の中で一番少なかったのです。ただ,エホバは皆さんを愛し,父祖たちにした誓いを守るために,エホバは力強い手で皆さんを連れ出し,奴隷となっていた土地から,エジプトの王ファラオの手から救い出したのです」。(申命記 7:7,8)
16-17. (ア)イスラエル人がエホバに全く感謝していなかったことは,どんなことから明らかでしたか。それでもエホバはどうしましたか。(イ)大半のイスラエル人が「矯正しようがないほどになった」ことは,どんなことに表れていましたか。彼らの例から何を学べますか。
16 残念なことに,イスラエル国民は全体として,エホバの揺るぎない愛に感謝しませんでした。救出された後,「神に対して罪を犯し続け……至高者に反逆」しました。(詩編 78:17)何世紀もの間,繰り返し反逆し,エホバから離れて偽の神々を崇拝し,異教の慣習に従って自分たちを汚しました。それでもエホバはイスラエル人との契約を守りました。そして,預言者エレミヤを通して民にこう訴え掛けました。「背信のイスラエルよ,戻りなさい。……私は怒ってあなたたちを見下げることはしない。揺るぎない愛を抱いているからである」。(エレミヤ 3:12)しかし,第25章で取り上げた通り,大半のイスラエル人は悔い改めませんでした。「真の神の使者たちをばかにし続け,神の言葉を侮り,預言者たちをあざけった」のです。「ついには矯正しようがないほどになった」ので,「エホバはご自分の民に激怒」しました。(歴代第二 36:15,16)
17 このことから何を学べるでしょうか。エホバの揺るぎない愛は盲目的なものではないということです。エホバは「揺るぎない愛に満ち」ていて,もっともな理由がある場合には喜んで憐れみを示しますが,罪深い行いをやめようとしない人をいつまでも許すことはしません。自分の正しい基準に基づいて処罰します。モーセに対して語った通り,「罪がある人を処罰しないことは決して」ありません。(出エジプト記 34:6,7)
18-19. (ア)エホバが悪い人たちを処罰することも揺るぎない愛の表れだと言えるのはどうしてですか。(イ)エホバは,迫害を受けて命を落とした忠実な人たちへの揺るぎない愛をどのように示しますか。
18 神が悪い人たちを処罰することも,揺るぎない愛の表れだと言えます。どうしてでしょうか。「啓示」の書に書かれていることに注目してみましょう。エホバが7人の天使に,「行って,神の怒りの7つの鉢の中身を地に注ぎ出しなさい」と命じた時のことです。第3の天使が自分の鉢の中身を「川と泉に」注ぎ出すと,それらは血になります。その後,天使はエホバにこう言います。「今おられ,かつておられた方,揺るぎない愛に満ちる方,あなたは正しい方です。このような裁きをなさったからです。聖なる人たちと預言者たちの血を流した者たちに,あなたは血を与えて飲ませました。彼らはそうされて当然です」。(啓示 16:1-6)
19 処罰についてのこのメッセージの中で,天使がエホバを「揺るぎない愛に満ちる方」と呼んでいるのはどうしてでしょうか。エホバは悪い人たちを滅ぼすことにより,自分に仕える人たちへの揺るぎない愛を示すからです。エホバに仕えた人たちの中には,迫害を受けて命を落とした人も少なくありません。エホバはその人たちを心から愛していて,忘れたりせず鮮明に覚えています。忠誠を貫いたそのような人たちに再び会いたいと願っていて,聖書に書かれている通り必ず生き返らせます。(ヨブ 14:14,15)亡くなった忠実な人たちは「皆,神にとっては生きているのです」。(ルカ 20:37,38)エホバが自分の記憶の中にいる人たちを生き返らせるというのは,揺るぎない愛を抱いていることの紛れもない証拠です。
揺るぎない愛に満ちるエホバは,命を懸けて忠誠を貫いた人たちを覚えていて,生き返らせる
ベルナルト・ルイメス(左)とウォルフガング・クセロウ(中央)はナチスによって処刑された
モーセス・ニャムスア(右)はある政治団体によって,やりで刺し殺された
エホバの揺るぎない愛のおかげで私たちは救われる
20. 「憐れみの器」とは誰のことですか。エホバはその人たちに揺るぎない愛をどのように示していますか。
20 エホバはこれまでずっと,忠実な人たちに揺るぎない愛を示してきました。その一環として何千年もの間,「滅ぼされても当然な憤りの器を辛抱強く容赦して」きました。それは,「憐れみの器に対してご自分の豊かな栄光を示すためでした。その憐れみの器は,神が栄光を与えるために前もって用意したもの」です。(ローマ 9:22,23)この「憐れみの器」とは,聖なる力によって選ばれて神の王国でキリストと共に統治するクリスチャンたちのことです。(マタイ 19:28)エホバはその人たちが救われるようにしました。そうすることにより,アブラハムへの揺るぎない愛も実証しました。アブラハムに語った次の約束が実現するようにしたのです。「あなたの子孫によって地上の全ての国民が祝福を受ける。あなたが私の言ったことに従ったからである」。(創世記 22:18)
揺るぎない愛に満ちるエホバは,自分に忠実に仕える人たち全てに素晴らしい将来を約束している
21. (ア)エホバは「大群衆」に揺るぎない愛をどのように示していますか。(イ)エホバの揺るぎない愛について考えると,あなたはどうしたいと思いますか。
21 エホバは,「大患難」を生き残ることになる「大群衆」にも揺るぎない愛を示しています。(啓示 7:9,10,14)その人たちが不完全であるにもかかわらず,パラダイスとなる地球で永遠に生きるという希望を与えています。忠実な人たちがそのような希望を持てるのは,エホバの揺るぎない愛の最大の表れである贖いのおかげです。(ヨハネ 3:16。ローマ 5:8)正しいことを愛する人たちは,エホバの揺るぎない愛に引き寄せられます。(エレミヤ 31:3)あなたも,エホバがこれまで揺るぎない愛を示してくれたことや,これからも示してくれることを考えると,エホバをとても身近に感じるのではないでしょうか。私たちは神にいっそう近づいて絆を強めたいと思っていますから,何があっても神から離れず揺るぎない愛を示し続けることを決意しましょう。
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「キリストの愛を知る」エホバに近づきなさい
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第29章
「キリストの愛を知る」
1-3. (ア)イエスがお父さんのようでありたいと願っているのはどうしてですか。(イ)これからイエスの愛のどんな面について考えますか。
何でもお父さんと同じようにしようとする男の子を見たことがありますか。その子はお父さんの歩き方や話し方,しぐさなどをまねるかもしれません。やがて,父親と同じ道徳観や信仰心も持つようになることでしょう。お父さんのことが大好きで,尊敬しているので,自分もお父さんのようになりたいと思うのです。
2 では,イエスは天の父についてどう思っているでしょうか。イエスは「父を愛している」と言いました。(ヨハネ 14:31)エホバに最初に創造され,非常に長い間ずっとエホバと一緒に過ごしてきたイエスは,誰よりもエホバを愛しています。だからこそ,いつでもお父さんのようでありたいと強く願っています。(ヨハネ 14:9)
3 この本の中でこれまでに取り上げたように,イエスはエホバの力,公正,知恵に完璧に倣いました。では,愛についてはどうでしょうか。イエスの愛の3つの面を考えましょう。イエスはエホバの愛に倣って自己犠牲を払い,優しい思いやりを示し,人を快く許しました。
「これより大きな愛はありません」
4. イエスが行ったどんなことに,自己犠牲的な愛が一番よく表れていますか。
4 イエスは,自己犠牲的な愛の際立った手本です。自己犠牲的な愛がある人は,人を心から気遣い,自分のことを後回しにして人のためになることをします。イエスはそういう愛をどのように示したでしょうか。自分で語った,「友のために自分の命をなげうつこと,これより大きな愛はありません」という言葉の通りにしました。(ヨハネ 15:13)イエスは全人類のために自分の完全な命を快く差し出しました。それよりも大きな愛を表した人は誰もいません。そして,イエスが自己犠牲的な愛を表したのはその時だけではありませんでした。
5. 神の独り子が天を離れることによって大きな犠牲を払ったと言えるのはどうしてですか。
5 神の独り子は人間になる前,天で特別な高い立場にいました。エホバや大勢の天使たちといつも一緒に過ごしていました。しかし,そのような居心地の良い環境を後にし,「全てを捨てて奴隷のようになり,人間になりました」。(フィリピ 2:7)「邪悪な者の支配下に」ある世界で罪深い人間に囲まれて生活することになるにもかかわらず,喜んでやって来たのです。(ヨハネ第一 5:19)神の子は人間を深く愛していたので,そのような大きな犠牲を払いました。
6-7. (ア)イエスが地上で伝道を行っていた間,生き方のどんな面に自己犠牲的な愛が表れていましたか。(イ)イエスの自己犠牲的な愛のどんな感動的な例がヨハネ 19章25-27節に書かれていますか。
6 地上で伝道を行っていた間のイエスの生き方にも自己犠牲的な愛が表れていました。イエスはいつも自分のことより人のことを考え,ひたすら伝道を行いました。人並みの暮らしをしたいとさえ考えませんでした。「キツネには穴があり,鳥には巣がありますが,人の子には自分の家がありません」と言っています。(マタイ 8:20)イエスは腕の良い大工だったので,少し伝道を休んで自分のために快適な家を建てたり,質の良い家具を作ってお金を稼いだりすることもできたはずです。でも,良い生活を送るために自分の技術を使うことはしませんでした。
7 イエスの自己犠牲的な愛の感動的な例が,ヨハネ 19章25-27節に書かれています。イエスは亡くなる直前,気掛かりなことがたくさんあったに違いありません。杭に掛けられて苦しみながら,弟子たちのことや伝道活動のこと,また特に,自分が忠誠を貫けるか,天の父の名誉が傷つかないか,ということを心配していました。人類全体の将来が自分に懸かっていることも知っていました。そういう中で,イエスは母親のマリアのことを気遣いました。その時マリアはすでに夫を亡くしていたようです。イエスはマリアの世話を使徒ヨハネに託し,マリアを実の母親のように大切にしてほしいと頼みました。ヨハネはそれに応えてマリアを自分の家に引き取りました。そのようにしてイエスは,母親が生活面や信仰面でのケアを受けられるようにしたのです。人のことを思いやる優しい愛がよく伝わってきます。
「かわいそうに思った」
8. 「かわいそうに思った」と訳されているギリシャ語から,イエスの思いやりについてどんなことが分かりますか。
8 イエスは天の父と同じように思いやりにあふれていました。聖書によると,イエスは苦しんでいる人たちを見て「かわいそうに思い」,何としても助けたいと思いました。「かわいそうに思った」と訳されているギリシャ語について,ある聖書学者はこう述べています。「その言葉は……人をその存在のまさに最奥まで動かす感情を描写している。ギリシャ語で,同情心を意味する最も強い言葉である」。では,イエスが人を深く思いやって行動した例を幾つか考えてみましょう。
9-10. (ア)イエスと使徒たちが静かな場所に行きたいと思ったのはどうしてですか。(イ)待ち構えていた群衆にイエスはどう接しましたか。どうしてですか。
9 神の導きを必要としている人たちを教えた。マルコ 6章30-34節を読むと,イエスが特にどんな人たちをかわいそうに思ったかが分かります。その時のことを想像してみましょう。使徒たちは伝道旅行を終えたばかりで興奮しています。イエスの所に戻り,見聞きしたことを生き生きと報告します。ところが,大勢の人が集まってきたので,イエスと使徒たちは食事をする時間もありません。イエスは使徒たちが疲れていることに目ざとく気付き,「さあ,一緒に静かな場所に行って,少し休みなさい」と言います。一行は舟に乗り,ガリラヤ湖の北部を渡って静かな場所に向かいます。しかし,それを見ていた群衆がほかの人たちにも知らせ,皆で湖の北岸に沿って走り,舟より先に対岸に着いてしまいます。
10 イエスは,これでは休めないと考えていら立ったでしょうか。そのようなことは全くありませんでした。自分を待っている何千人もの人たちを見て,深い同情を覚えました。マルコはこう書いています。「イエスは……大勢の人を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のようだったからである。そして,多くのことを教え始めた」。イエスはそこに集まっていた一人一人が神の導きを必要としていることを見て取りました。その人たちは,導いたり守ったりしてくれる羊飼いがいないためにさまよう羊のようでした。本来は優しい牧者になってくれるはずの宗教指導者たちから,冷たくあしらわれていたのです。(ヨハネ 7:47-49)それでイエスはぜひとも助けになりたいと思い,「神の王国について」教え始めました。(ルカ 9:11)イエスが人々を教える前から思いやっていたことに注目できます。教えに耳を傾ける人たちだけに優しい思いやりを示したのではなく,最初から深い同情心があったことがよく分かります。
「イエスは手を伸ばして男性に触[った]」
11-12. (ア)1世紀のユダヤで,重い皮膚病の人はどのような扱いを受けていましたか。でもイエスは,「全身重い皮膚病の」男性が近づいてきた時,どうしましたか。(イ)ある博士の経験について考えると,イエスに触れてもらった人はどう感じたに違いありませんか。
11 苦しんでいる人たちを癒やした。いろいろな病気の人たちが,イエスが思いやり深いことを感じ取り,イエスのそばに行きたいと思いました。ある時には,「全身重い皮膚病の」男性が,群衆に囲まれているイエスに近づきました。(ルカ 5:12)モーセの律法の下では,病気が伝染しないように,そのような人は隔離されることになっていました。(民数記 5:1-4)後に,ラビと呼ばれる指導者たちが独自の厳しい規則を設けたため,その病気の人たちへの偏見や差別が広まりました。a しかし,イエスは病気の男性にどう接したでしょうか。こう書かれています。「重い皮膚病の男性がイエスの所に来て,ひざまずいて嘆願し,『あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます』と言った。イエスはかわいそうに思い,手を伸ばして男性に触り,『そう望みます。良くなりなさい』と言った。すぐに病気は消え,男性は良くなった」。(マルコ 1:40-42)イエスは,律法によればその人はそこにいるべきではないと知っていました。それでも,その人を去らせたりせず,深い同情の気持ちから,当時では考えられないようなことをしました。その人に触れたのです。
12 イエスに触れてもらった人はどう感じたと思いますか。それをイメージするのに役立つ現代の例があります。ハンセン病の専門家であるポール・ブランド博士が,インドである患者を治療した時のことです。診察の時,博士は患者の若い男性の肩に手を置き,通訳を介して,その人が受けることになる治療について説明しました。すると突然,その患者は泣き出しました。博士は,「何か悪いことを言ったかな」と尋ねます。通訳者は患者と話し,こう答えました。「いいえ,先生。この人が泣いているのは,先生がこの人の肩に手を置いたからです。もう何年もの間,誰も触れてくれなかったそうです」。イエスに近づいた人にとって,触れてもらったことにはもっと大きな意味がありました。一度触れられただけで,みんなから避けられる原因となっていた病気から解放されたのです。
13-14. (ア)イエスはナインという町に着いた時,どんな行列を目にしましたか。それが特に気の毒な状況だったのはどうしてですか。(イ)イエスはやもめに深く同情して何をしましたか。
13 悲しみに暮れる人たちを慰めた。イエスは悲しんでいる人に深く同情しました。一例として,ルカ 7章11-15節に書かれている出来事について考えましょう。イエスが伝道を始めて1年半ほどたち,ガリラヤ地方のナインという町に着いた時のことです。町の門の近くで,イエスは葬式の行列を目にします。亡くなったのはやもめの女性の一人息子という,特に気の毒な状況でした。その女性は,以前に夫が亡くなった時にもそのような葬式をしたはずです。そして今度は,おそらく唯一頼りにしていたであろう息子を失ってしまいました。行列には,雇われて嘆き悲しむ人たちや,物悲しい曲を演奏する人たちも加わっていたかもしれません。(エレミヤ 9:17,18。マタイ 9:23)イエスは,悲しみに打ちのめされている母親に目を留めます。母親は息子の遺体を載せた台の隣を歩いていたことでしょう。
14 イエスは,息子に先立たれた母親を「かわいそうに思い」,優しい口調で「泣くことはありません」と言います。そして,遺体を載せた台に近づいて触ります。台を担いでいた人たちは立ち止まり,おそらく行列全体も止まったことでしょう。イエスは遺体に向かって威厳のある声で,「若者よ,さあ,起き上がりなさい!」と言います。すると,死んでいた若者は,まるで深い眠りから覚めたかのように「体を起こして話し始め,イエスは息子を母親に渡し」ます。本当に感動的な場面だったに違いありません。
15. (ア)イエスの手本から,思いやりと行動にはどんな関係があることが分かりますか。(イ)私たちはどうすればイエスの手本に見習えますか。
15 これらの出来事から,どんなことが分かるでしょうか。どの場合にも,イエスは思いやりの気持ちから行動しました。つらい思いをしている人を見るとかわいそうに思い,何かをせずにはいられなかったのです。私たちはどうすればイエスの手本に見習えるでしょうか。クリスチャンには,良い知らせを伝えて人々を弟子とするという責任があります。私たちがその務めを果たすのは,主に神を愛しているからですが,人々を思いやっているからでもあります。イエスのように人を深く思いやると,できる限りのことをして良い知らせを伝えたくなります。(マタイ 22:37-39)つらい経験をしている兄弟姉妹には,どのように思いやりを示せるでしょうか。当然,奇跡によって病気を治したり亡くなった人を生き返らせたりすることはできませんが,仲間のために行えることはいろいろあります。気に掛けていることを伝えたり,助けになることをしてあげたりできるでしょう。(エフェソス 4:32)
「父よ,彼らをお許しください」
16. イエスは苦しみの杭に掛けられた時でさえ,どのように人を快く許しましたか。
16 イエスは,人を「快く許[す]」という面でもエホバの愛に完璧に倣いました。(詩編 86:5)苦しみの杭に掛けられた時でさえそうでした。屈辱的な刑に処され,手足にくぎを打ち込まれたイエスは,何と言ったでしょうか。刑執行人たちを罰してくださいとエホバに頼みましたか。全くその逆で,死を目前にしてもこう言いました。「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」。(ルカ 23:34)b
17-19. イエスなど知らないと3回言ったペテロを許していることを,イエスはどのように示しましたか。
17 イエスが人を快く許したさらに感動的な例として,使徒ペテロのことを考えてみましょう。ペテロはイエスを深く愛していました。ニサン14日,イエスが亡くなる前の最後の晩に,ペテロはイエスにこう言いました。「主よ,私はあなたと牢屋に入ることも死ぬことも覚悟しています」。ところが,わずか数時間後に,ペテロは3回もイエスなど知らないと言ってしまいました。聖書によれば,ペテロが3回目にそう言った時,「主イエスが振り向いてペテロを真っすぐに見」ました。ペテロは重大な罪を犯してしまったことに気付いて打ちのめされ,「外に出て激しく泣」きます。その日の後刻にイエスが亡くなった時,ペテロは「主は私を許してくださっただろうか」と考えたことでしょう。(ルカ 22:33,61,62)
18 ペテロの心のもやもやは,間もなく晴れることになります。イエスはニサン16日の朝に生き返らされ,おそらくその日のうちにペテロに会いに行きました。(ルカ 24:34。コリント第一 15:4-8)イエスなど知らないと言い切ったこの使徒を,イエスが特別に気遣ったのはどうしてでしょうか。悔い改めたペテロに,今でも愛し大切に思っているということを伝えたかったのでしょう。イエスがペテロを安心させるために行ったことは,ほかにもあります。
19 しばらく後に,ガリラヤ湖で弟子たちの前に現れた時のことです。イエスなど知らないと3回言ったペテロに対して,イエスは「私を愛していますか」と3回尋ねました。3回目に,ペテロはこう答えました。「主よ,あなたは全て分かっています。私があなたに愛情を抱いていることを知っています」。確かに,イエスはペテロの心を読むことができたので,自分への愛情があることはよく分かっていました。それでもペテロに,イエスを愛しているとはっきり言う機会を与えたのです。それだけでなくイエスは,自分の「小さな羊」を「養い」,「世話」するという務めも与えました。(ヨハネ 21:15-17)それより前に,伝道するという仕事をすでにペテロに与えていました。(ルカ 5:10)でもこのたびは,深い信頼の表れとして,キリストの弟子になる人たちを世話するといういっそう重い責任を委ねたのです。少し後には,ペテロが弟子たちの中で重要な役割を果たすようにもしました。(使徒 2:1-41)ペテロは,自分がイエスに許され,変わらず信頼してもらえていることが分かって,どんなにかほっとしたことでしょう。
「キリストの愛を知る」にはどうしたらよいか
20-21. キリストの愛を十分に知るにはどうしたらいいですか。
20 聖書を読むと,キリストの愛の素晴らしさに感動します。では,私たちはどうしたらよいでしょうか。聖書は,「知識以上のものであるキリストの愛を知る」ようにと勧めています。(エフェソス 3:19)すでに考えた通り,イエスの生涯や伝道について書かれている福音書を読むと,キリストの愛について多くのことが分かります。でも,キリストの愛を十分に知るには,イエスについて聖書に書かれていることを学ぶ以上のことが必要です。
21 「知る」と訳されているギリシャ語には,「経験を通して」知るとか,「実践することによって」知るという意味があります。ですから,私たちはイエスと同じように愛を示す必要があります。自己犠牲を払って人のためになることをし,つらい思いをしている人に優しい思いやりを示し,人を快く許しましょう。そうすれば,イエスがどんな気持ちで愛を表したかを,身をもって理解できます。そのようにして自分の経験を通して,「知識以上のものであるキリストの愛を知る」ことができるのです。そして,私たちがキリストのようになればなるほど,イエスが完璧に見習った愛情深い神エホバとの絆が強まっていきます。
a ラビたちが作った規則によると,重い皮膚病の人からは少なくとも2㍍ほど離れていなければなりませんでした。風が吹いているときには,最低でも50㍍ほど離れることが求められていました。「ミドラシュ・ラバ」という書物には,この病気の人から身を隠したラビや,石を投げて追い払おうとしたラビがいたと書かれています。重い皮膚病の人たちはそのように嫌われてのけ者にされ,つらく感じていました。
b 古い写本の中には,このイエスの言葉が省かれているものもあります。しかし,他の多くの信頼できる写本には書かれているので,「新世界訳」を含む多くの翻訳聖書はこの言葉を訳出しています。イエスは,自分を杭に掛けたローマ兵のことを言っていたようです。その兵士たちはイエスがどういう人物なのかを分かっておらず,自分たちがしていることの重大さを理解していませんでした。イエスが許したいと思った人たちの中には,イエスの処刑を求めたものの,後にイエスに信仰を持ったユダヤ人たちもいたかもしれません。(使徒 2:36-38)一方,イエスの処刑をたくらんだ宗教指導者たちのほとんどは,許される余地がありませんでした。イエスがメシアだと気付いていながら,悪意を抱いて行動していたからです。(ヨハネ 11:45-53)
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「愛を抱いて歩んでいきましょう」エホバに近づきなさい
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第30章
「愛を抱いて歩んでいきましょう」
1-3. エホバの手本に倣って愛を示すと,どんな良いことがありますか。
「受けるより与える方が幸福である」。(使徒 20:35)このイエスの言葉から,利他的な愛は報われるという重要な真理を学べます。愛を受けるのももちろん幸せなことですが,人に愛を与える,つまり示すと,さらに幸せになります。
2 そのことを一番よく知っているのは,天の父です。このセクションでこれまで学んできたように,エホバは愛の究極の手本です。誰よりも大きな愛を,誰よりも長く示してきました。だからこそ,エホバは「幸福な神」と呼ばれているのです。(テモテ第一 1:11)
3 愛情深い神は私たちに,自分に倣って愛を示してほしいと思っています。エフェソス 5章1,2節にはこう書かれています。「皆さんは子供として神に愛されているのですから,神に倣ってください。愛を抱いて歩んでいきましょう」。エホバの手本に倣って愛を示すと,大きな幸せを味わえます。また,「愛し合う」ようにと勧めているエホバに喜ばれているという満足感も味わえます。(ローマ 13:8)ほかにも,私たちが「愛を抱いて歩んでい[く]」べきどんな理由があるでしょうか。
愛が重要なのはなぜか
仲間を愛している人は,信頼していることを伝える
4-5. 仲間のクリスチャンに自己犠牲的な愛を示すことが大事なのはどうしてですか。
4 仲間のクリスチャンに愛を示すことが大事なのはどうしてでしょうか。簡単に言うと,愛はキリスト教の本質だからです。愛がなければ,兄弟姉妹との強い絆を育めませんし,さらに悪いことにエホバから見て価値がない者になってしまいます。そうした点が聖書の中でどのように強調されているか,考えてみましょう。
5 イエスは,地上で過ごした最後の晩に,弟子たちにこう言いました。「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。それは,互いに愛し合うことです。私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ 13:34,35)「私があなたたちを愛した通りに」とありますから,私たちはイエスと同じように愛を示すことが期待されています。第29章で考えたように,イエスは自分のことを後回しにして人のためになることをし,自己犠牲的な愛の素晴らしい手本を残しました。私たちも利他的な愛を表す必要があります。クリスチャン会衆外の人たちが見ても,私たちが愛し合っていることがはっきり分かるようでなければなりません。自己犠牲的な兄弟愛は,私たちが本当にキリストの弟子であることを示す証拠なのです。
6-7. (ア)私たちが愛を示すことがエホバにとって大事だとどうして分かりますか。(イ)コリント第一 13章4-8節でパウロは主にどんな愛のことを言っていますか。
6 愛が欠けるとどうなるかについて,使徒パウロはこう言っています。「たとえ私が人間や天使のさまざまな言語を話しても,愛がなければ,うるさく鳴るどらや,やかましく響くシンバルのようです」。(コリント第一 13:1)ぴったりの例えです。愛がない人は,不快な騒音を出す楽器のように,人を引き付けるどころか遠ざけてしまいます。人と良い関係を築くことはできません。パウロは,「たとえ山を動かすほどの強い信仰を持っていても,愛がなければ無価値です」とも言っています。(コリント第一 13:2)愛がない人は,どんなに良いことを行ったとしても,「役立たずの無用者」なのです。(「アンプリファイド・バイブル」[英語])私たちが愛を示すことがエホバにとってどれほど大事かがよく分かるのではないでしょうか。
7 では,どのように愛を示したらいいのでしょうか。コリント第一 13章4-8節でパウロが何と言っているか調べてみましょう。そこで主に言われているのは,神が示してくれる愛のことでも,私たちが神に示す愛のことでもなく,私たちが互いに示すべき愛のことです。パウロは,愛とはどういうもので,どういうものではないかを説明しています。
愛とはどういうものか
8. 辛抱強さは仲間との関係にどう役立ちますか。
8 「愛は辛抱強[い]」。愛がある人は辛抱強いので,人のことを我慢できます。(コロサイ 3:13)そういう人になりたいと思いませんか。不完全な人間同士が肩を並べて神に仕えているので,兄弟姉妹にいらいらさせられたり,逆に仲間をいら立たせてしまったりすることが時々あるでしょう。でも,辛抱強さがあれば,少し腹が立つようなことがあっても相手の落ち度を見過ごせます。皆がそのようにすると,会衆の平和が守られます。
9. 例えばどのように親切を示せますか。
9 「愛は……親切です」。人を助けたり,思いやりのある言葉を掛けたりすることによって,親切を示せます。愛がある人は,人のために何かできないかいつも考えます。特に,大変そうな人たちに目ざとく親切を示します。例えばどんな人がいるでしょうか。年配の兄弟や姉妹が寂しく感じていて,誰かに元気づけてほしいと思っているかもしれません。シングルマザーの姉妹や,夫がエホバの証人ではない姉妹が,何か助けを必要としていることもあります。病気の人や,つらい状況にある人は,友達から温かい言葉を掛けてもらいたいことでしょう。(格言 12:25; 17:17)いろいろな人に親切を示すよう努力する人は,本当に純粋な愛があると言えます。(コリント第二 8:8)
10. 真実を語って正しいことを行うのが簡単でない場合もありますが,愛がある人はどうしますか。
10 「愛は……真実を喜びます」。愛があると,真実を曲げたりせずに正しいことを行い,「真実を語り合い」たいという気持ちになります。(ゼカリヤ 8:16)例えば,親しい人が重大な罪を犯してしまった場合,その人やエホバを愛しているなら,神から見て正しいことをしたいと思うはずです。その罪を隠したり,正当化したり,何もなかったとうそをついたりはしません。事実を受け入れるのはつらいことですが,本当にその人のためを思っているので,その人が神の愛情深い矯正を受け入れて生き方を正すことを願います。(格言 3:11,12)私たちは愛を抱くクリスチャンとして,「何事においても正直に行動したい」ものです。(ヘブライ 13:18)
11. 「愛は全てのことに耐え」るので,私たちは仲間に欠点があってもどうすべきですか。
11 「愛は全てのことに耐え」ます。この表現を直訳すると,「すべてのことをそれは覆っている」となります。(「王国行間逐語訳」[英語])ペテロ第一 4章8節には,「愛は多くの罪を覆う」と書かれています。愛を大切にしているクリスチャンは,兄弟姉妹の欠点や失敗ばかりに注目して感情を害したり,それについて言い触らしたりはしません。多くの場合,仲間の落ち度はささいなもので,愛で覆うことができます。(格言 10:12; 17:9,脚注)
12. パウロはフィレモンを信頼していることをどのように伝えましたか。パウロの手本からどんなことを学べますか。
12 「愛は……全てのことを信じ」ます。愛があれば,すぐに不信感を抱いたり,兄弟姉妹の善意を疑ったりしません。仲間を信頼するように努めます。a その点でパウロがどんな手本を示しているか,フィレモンに宛てた手紙に注目してみましょう。パウロがその手紙を書いたのは,クリスチャンになった逃亡奴隷のオネシモを優しく迎えるようフィレモンに勧めるためでした。手紙の中でパウロは,フィレモンに圧力をかけるのではなく,愛情を込めてお願いしました。そして,フィレモンが正しいことをするに違いないと信じていることを次のように伝えました。「私はあなたが応じてくれることを確信して書いています。あなたは私が言う以上のことをしてくれるに違いありません」。(21節)私たちも仲間を信頼していることを愛情を込めて伝えるなら,相手の良いところを最大限に引き出すことができます。
13. 愛がある人は仲間についてどんなことを願いますか。
13 「愛は……全てのことを希望し」ます。愛がある人は,仲間を信頼するだけでなく,仲間に良いことがあるように願います。兄弟が「気付かず」に「道を踏み外した」場合には,優しく正そうとする長老たちのアドバイスをその人が受け入れることを願います。(ガラテア 6:1)信仰が弱くなっている人がいたら,その人が再び強い信仰を持てるようになることを願い,できる限りのことをして辛抱強く助けます。(ローマ 15:1。テサロニケ第一 5:14)家族や友人がエホバから離れていったとしても,その人がいつの日かイエスの例え話の放蕩息子のように本心に立ち返り,エホバのもとに帰ってくるという希望を捨てません。(ルカ 15:17,18)
14. 会衆内でどのように忍耐が試されることがありますか。愛がある人はどうしますか。
14 「愛は……全てのことを忍耐します」。忍耐力があれば,がっかりするようなことやつらいことがあってもエホバへの信仰をしっかりと持っていられます。試練は会衆の外から来るとは限りません。会衆の中で試練となる状況が生じることもあります。みんな不完全なので,兄弟姉妹に期待を裏切られることもあるでしょう。心ない言葉に傷つくこともあるかもしれません。(格言 12:18)長老たちの判断や決定が,自分が思っていたのと違うということもあり得ます。尊敬されている兄弟の行動が気に障り,「クリスチャンなのにどうしてあんなことをするんだろう」と考えてしまうこともあるかもしれません。そういうことがあったら,会衆から離れてエホバに仕えるのをやめてしまいますか。愛があれば,そんなことはしないでしょう。愛がある人は,兄弟姉妹の短所ばかりを見て,その人や会衆全体の良いところが見えなくなってしまう,ということはありません。不完全な仲間たちの言動がどうであれ,会衆の中で忠実に神に仕え続けます。(詩編 119:165)
愛はどういうものではないか
15. 嫉妬とはどういうものですか。そのネガティブな感情を持たないために愛が大切なのはどうしてですか。
15 「愛は嫉妬しません」。嫉妬する人は,他の人の持ち物や能力や受けている祝福をねたましく思います。それは自己中心的な感情で,自分自身や他の人を傷つけ,そのままにしておくと会衆の平和を乱しかねません。どうすれば人をねたまずにいられるでしょうか。(ヤコブ 4:5)大切なのは,愛です。愛があれば,自分より恵まれているように見える人たちと一緒に喜ぶことができます。(ローマ 12:15)誰かが何かのことで注目されたり褒められたりしても,自分と比較して苦々しい気持ちになったりはしません。
16. 兄弟姉妹を本当に愛しているなら,自分がエホバへの奉仕で行っていることを自慢したりはしないはずです。どうしてですか。
16 「愛は自慢せず,思い上が」りません。愛がある人は,自分の能力や行ったことをひけらかしません。兄弟姉妹を本当に愛しているなら,伝道でこれだけのことをしてきたとか会衆で特別な務めを与えられているなどと,何かにつけて自慢することはしないでしょう。そういう話は聞く人をいらいらさせたりがっかりさせたりするものです。どんな奉仕も神が行わせてくれるからこそできる,ということを忘れるべきではありません。(コリント第一 3:5-9)愛は「思い上がら」ないという表現は,「現代英語による新約聖書」では「自分の重要性に関してうぬぼれた考えを抱く」ことがないと訳されています。愛がある人は,自分は他の人より優れているといった見方はしません。(ローマ 12:3)
17. 愛がある人は,どのように人の気持ちを思いやりますか。どんなことはしませんか。
17 「愛は……下品な振る舞いを」しません。下品な振る舞いは人を不快にさせます。そういう振る舞いをする人は,他の人がどう感じるかを全く気に留めておらず,愛に欠けています。対照的に,愛がある人は,人の気持ちを思いやります。マナーを守り,神に喜ばれる振る舞いをし,兄弟姉妹に敬意を払います。仲間のクリスチャンにショックを与えるような「恥ずべき行い」をすることはありません。(エフェソス 5:3,4)
18. 愛がある人は自分のやり方を押し通そうとはしません。どうしてですか。
18 「愛は……自分のことばかり考え」ません。「改訂標準訳」(英語)ではこの部分が,「愛は自分の方法に固執しない」と訳されています。愛がある人は,自分の意見が常に正しいと言わんばかりに,自分のやり方を押し通そうとはしません。異なる見方をする人をねじ伏せて,無理やり従わせようともしません。そのような強引な態度は誇りの気持ちから出るもので,聖書によれば「誇りは崩壊につながり」ます。(格言 16:18)兄弟姉妹を本当に愛していれば,相手の意見を尊重し,できるだけ聞き入れるようにするでしょう。そのようにすることを,パウロも次のように勧めています。「各自,自分のためになることではなく,人のためになることをいつも優先しましょう」。(コリント第一 10:24)
19. 誰かに嫌なことを言われたりされたりしても,愛があればどうしますか。
19 「愛は……いら立ちません。……傷つけられても根に持ちません」。愛がある人は,人の言動にすぐにいら立ったりしません。誰かに嫌なことを言われたりされたりすると腹が立つものですが,愛があればずっといら立ったままでいることはありません。(エフェソス 4:26,27)傷つけられたことを事あるごとに思い出し,いつまでも忘れないというようなこともありません。愛情深い神に倣って,相手を許そうと努力します。第26章で考えたように,エホバは十分な理由がある場合に許してくれて,一度許したらその罪を忘れてくれます。再びその罪を持ち出したりはしないのです。エホバが傷つけられても根に持たない方であることに,私たちは本当に感謝しているのではないでしょうか。
20. 兄弟姉妹が罪を犯してしまってつらい経験をしている場合,愛がある人はどうしますか。
20 「愛は不正を喜」びません。「新英訳聖書」ではこの部分が「愛は……他の人の罪を見てほくそえんだり[しない]」と訳されており,モファット訳(英語)では「愛は他の人が過ちを犯しても決して喜ばない」となっています。愛がある人は不正を喜ばないので,どんな不道徳も大目に見たりしません。では,兄弟姉妹が罪を犯してしまってつらい経験をしている場合はどうでしょうか。愛があれば,「いい気味だ」などと考えて喜んだりはしません。(格言 17:5)一方,罪を犯した仲間が神との絆を取り戻そうと努力するとき,私たちは喜びます。
「何よりも勝った道」
21-23. (ア)パウロが書いたように,愛は決して絶えません。どうしてそう言えますか。(イ)最後の章ではどんなことを考えますか。
21 「愛は決して絶えません」。この言葉の文脈でパウロは,聖なる力によって1世紀のクリスチャンに与えられた能力について語っていました。神からのそうした贈り物は,設立されたばかりのクリスチャン会衆を神が導いていることの証拠でした。とはいえ,クリスチャン全員が病気を癒やしたり,預言したり,さまざまな言語を話したりできたわけではなく,そうした能力はいずれなくなることになっていました。しかし,全てのクリスチャンが身に付けられるあるものは,ずっと残ります。それは奇跡によって与えられるどんな能力よりも大事なので,パウロはそれを「何よりも勝った道」と呼びました。(コリント第一 12:31)それは,愛のことです。
22 パウロが説明した通り,クリスチャンの愛は「決して絶えません」。今でも,自己犠牲的な兄弟愛は,イエスに本当に従っている人たちの特徴です。世界中のエホバの証人の会衆で,そのような愛が見られるのではないでしょうか。その愛は永遠になくなりません。エホバは自分に忠実に仕える人たちに永遠の命を与えると約束しているからです。(詩編 37:9-11,29)では,自分にできる限りのことをして,「愛を抱いて歩んでいきましょう」。そうすれば,「受けるより与える方が幸福である」という言葉の通りだと実感できます。そして,いつまでも生き続け,愛情深い神エホバのように永遠に愛を示し続けることができるのです。
エホバの民は互いへの温かい愛にあふれている
23 この本のここまでの部分で,エホバのたくさんの良いところについて学んできました。エホバの力,公正,知恵,そして特に愛がどれほど素晴らしいかがよく分かりました。この章ではどのように仲間に愛を示せるかを考えましたが,私たちは誰よりもまずエホバに深い愛を示したいと思います。どのようにそうできるか,最後の章で考えましょう。
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