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    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第1章

      神の預言者は人類のために光をもたらす

      1,2 今の時代のどんな状態のために,多くの人は深刻な不安を抱いていますか。

      今は,人間に不可能なことなど事実上何もないかに見える時代です。宇宙旅行,コンピューターテクノロジー,遺伝子工学など,科学上の革新は人類に新たな可能性を開き,人々は,より良い人生を,もっと長く楽しめるようになるだろうと期待しています。

      2 そうした進歩によって,あなたの家には鍵が不要になりましたか。戦争の脅威が一掃されたでしょうか。病気がなくなり,愛する家族を亡くす悲しみが消え去りましたか。とてもそうは言えません。人間の進歩は,いかに目ざましかろうとも,限られたものです。ワールドウォッチ研究所の報告はこう述べています。「我々は月へ行く方法を考案し,より高性能のシリコンチップを次々に作り出し,人間の遺伝子移植を行なっている。しかしいまだに,10億人にきれいな水を供給することも,何千種もの生物の絶滅に歯止めをかけることも,大気を乱さずにエネルギー需要にこたえることもできていない」。多くの人が,どこに慰めや希望を求めたらよいのか分からないまま将来に不安を抱いているのも無理はありません。

      3 西暦前8世紀のユダはどんな状況にありましたか。

      3 今日わたしたちが直面している状況は,西暦前8世紀の神の民の状況と似ています。当時,神はご自分の僕イザヤを任命し,ユダの住民に慰めの音信を伝えさせました。住民はまさに慰めを必要としていました。ユダの国民は数々の不穏な事件に揺り動かされていました。残虐なアッシリア帝国は今にもユダの地を脅かそうとしており,多くの人は怖れに満たされていました。神の民はどこに救いを求めればよいのでしょうか。民は,唇ではエホバの名を唱えていましたが,実際には人間に頼ることを好みました。―列王第二 16:7; 18:21。

      闇に輝く光

      4 イザヤは,どんな二つの面を持つ音信をふれ告げるよう任命されましたか。

      4 ユダの反逆的な歩みのゆえに,エルサレムは滅ぼされ,ユダの住民はバビロンでの捕囚に処されることになっていました。そうです,闇の時代が訪れようとしていました。エホバは預言者イザヤを任命して,その不気味な時期について予告させますが,それとともに,良いたよりをふれ告げるようにとも指示しました。70年間の流刑の後,ユダヤ人はバビロンから解放されるのです。喜びに満ちた残りの者はシオンに戻り,そこに真の崇拝を復興するという特権にあずかります。この喜ばしい音信を伝えさせることにより,エホバはご自分の預言者を通して,闇の中で光を輝かせました。

      5 エホバがずっと前もってご自分の目的を啓示されたのはなぜですか。

      5 ユダが荒廃したのは,イザヤが預言を記してから1世紀以上後のことです。なぜエホバはそれほど前もってご自分の目的を啓示されたのでしょうか。イザヤのふれ告げる事柄を自分の耳で聞いた人たちは,預言が成就するよりもずっと前に死んでしまったのではないでしょうか。そのとおりです。しかし,エホバがイザヤに啓示を与えておられるので,西暦前607年のエルサレムの滅びの時に生きている人々はイザヤの預言的な音信を書き記したものを持っていることになります。それは,エホバが「終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者」であることの,反駁の余地のない証拠となるでしょう。―イザヤ 46:10; 55:10,11。

      6 どんな点でエホバは,将来を予告するいかなる人間よりも優れていますか。

      6 そのような者であると正当に主張できるのはエホバだけです。政治あるいは社会の現状に関する自分の理解に基づいて近い将来を予言できる人もいるかもしれません。しかし,遠い将来も含め,いかなる時代に生じる事柄も絶対の確実性をもって予見できるのは,エホバだけです。さらにエホバは,ご自分の僕たちに力を与えて,実際に起きるずっと前に物事を予告させることもできます。聖書は,「主権者なる主エホバは,内密の事柄を自分の僕である預言者たちに啓示してからでなければ何一つ事を行なわないのである」と述べています。―アモス 3:7。

      “イザヤ”は何人いるか

      7 多くの学者は,イザヤ書を書いたのはだれかという点に関してどんな疑問を投げかけてきましたか。なぜですか。

      7 預言に関連して,多くの学者が,イザヤ書を書いたのはだれかという点に疑問を投げかけてきました。それら批評家たちは,イザヤ書の後の部分を書いたのは,西暦前6世紀,つまりバビロン流刑の期間中かそれ以後の人物に違いないと主張します。ユダの荒廃に関する預言は成就の後に書かれた,したがって実際には予言などではない,と言うのです。さらに,それら批評家たちは,イザヤ書の40章以降はまるでバビロンが優勢な強国であるかのような,またイスラエル人がバビロンで捕囚状態にあるかのような書き方をしている,と指摘します。したがって,だれが書いたにせよ,イザヤ書の後の部分はその時代,つまり西暦前6世紀に書かれたに違いない,というのです。そうした論議には確たる根拠があるのでしょうか。全くありません。

      8 イザヤ書を書いたのはだれかという点に関する懐疑的な見方が生まれたのはいつのことですか。その見方はどのように広まりましたか。

      8 イザヤ書を書いたのはだれかという点に関して最初に疑問が提出されたのは,西暦12世紀のことです。提出したのは,ユダヤ人の注解者アブラハム・イブン・エズラでした。ユダヤ大百科事典(英語)にはこうあります。「[アブラハム・イブン・エズラは]イザヤ書に関する注解の中で,後半部分の40章以降は,バビロン流刑中とシオンへの帰還の初期に生存した預言者の作である,と述べている」。18世紀と19世紀には,多くの学者がイブン・エズラの見解を取り入れました。その中に,ドイツの神学者ヨハン・クリストフ・デーダラインがいます。彼は,イザヤ書に関する自分の釈義書を1775年に,そしてその第2版を1789年に発表しました。「ニュー・センチュリー聖書注解」(英語)はこう述べています。「現在では,極めて保守的な学者以外はみな,……デーダラインが提唱した,イザヤ書の40-66章に収められている預言は8世紀の預言者イザヤの言葉ではなく,後代のものである,という説を受け入れている」。

      9 (イ)イザヤ書はどのように分断されてきましたか。(ロ)ある聖書注解者は,イザヤ書を書いたのはだれかという点をめぐる議論をどのように要約していますか。

      9 しかし,イザヤ書を書いたのはだれかという点に関する疑問はそれだけでは終わりませんでした。第2のイザヤ ― あるいは第二<デウテロ>イザヤ ― についての推測を元にして,第3の筆者もいたのではないかという考えが生まれました。a その後,イザヤ書はさらに分断されて,15章と16章を名の知られていない預言者によるものとする学者や,23章から27章をだれが書いたかは疑問であるとする学者も現われています。さらに別の学者は,34章と35章の言葉をイザヤが書いたはずはないと言います。なぜでしょうか。その部分が,すでに8世紀のイザヤ以外の人物によるものとされている40章から66章の部分とよく似ている,というのがその理由です。聖書注解者チャールズ・C・トリーは,こうした論議の結末を簡潔に要約しています。「かつては偉大な『流刑の預言者』とされていた人物が,全く取るに足りない人物へと格下げされ,断片の寄せ集めの山に埋もれたも同然になっている」。とはいえ,こうしてイザヤ書を分断することに,すべての学者が賛成しているわけではありません。

      筆者が一人であることの証拠

      10 イザヤ書の筆者が一人であることが表現の一貫性によってどのように証明されるかを示す例を一つ挙げてください。

      10 イザヤ書はただ一人の筆者によるものであると断言すべき強力な理由があります。一つの証拠は,表現の一貫性に関するものです。一例として,「イスラエルの聖なる方(者)」という句は,イザヤ 1章から39章に12回,イザヤ 40章から66章に13回ありますが,エホバを表わすこの句は,ヘブライ語聖書の残りの部分には6回しか出てきません。他の書ではあまり使われていないこの表現が繰り返し使われていることは,イザヤ書を書いた人物が一人であることの根拠となります。

      11 イザヤ書の1章から39章と40章から66章にはどんな類似点がありますか。

      11 イザヤ 1章から39章と40章から66章には,ほかにも類似点があります。どちらの部分でも,産みの苦しみを経験する女や,「道」もしくは「街道」など,同じ独特な比喩表現が何度も使われています。b 「シオン」にも繰り返し言及されており,この語は1章から39章で29回,40章から66章で18回使われています。実のところ,イザヤ書は聖書の他のどの書よりも多くシオンに言及しているのです。国際標準聖書百科事典(英語)は,こうした証拠により「この書には個体性が付される」とし,それは,もしこの書が二人か三人,あるいはそれ以上の筆者によって書かれたとすれば「説明しがたい特徴である」と指摘しています。

      12,13 クリスチャン・ギリシャ語聖書は,イザヤ書が一人の筆者によるものであることをどのように示していますか。

      12 イザヤ書の筆者がただ一人であることを示す最も強力な証拠は,霊感を受けたクリスチャン・ギリシャ語聖書にあります。その記述は,1世紀のクリスチャンがイザヤ書は一人の筆者によるものであると信じていたことを示しています。例えば,ルカは,現在のイザヤ 53章に相当する部分を読んでいたエチオピアの役人について述べています。そこはまさに,現代の批評家たちがデウテロ・イザヤによるものとしている部分です。しかしルカは,そのエチオピア人は「預言者イザヤの書を声を出して読んでいるところ」であったと書いています。―使徒 8:26-28。

      13 さらに,福音書筆者マタイについても考えてみましょう。マタイは,バプテスマを施す人ヨハネの宣教が現在のイザヤ 40章3節にある預言の言葉の成就となったことを説明しています。その預言をだれが述べたとしているでしょうか。名前の知られていないデウテロ・イザヤでしょうか。いいえ,単純明快に,「預言者イザヤ」であるとしています。c (マタイ 3:1-3)別の事例として,イエスが現在のイザヤ 61章1,2節にある言葉を巻き物から読んだことがあります。ルカはその時のことを記述して,「預言者イザヤの巻き物が彼に手渡された」と書いています。(ルカ 4:17)パウロは,ローマ人にあてた手紙の中でイザヤ書の前の部分にも後の部分にも言及していますが,筆者がイザヤという一人の人物以外のだれかであったとは,ほのめかすことさえしていません。(ローマ 10:16,20; 15:12)明らかに,1世紀のクリスチャンは,イザヤ書が二人か三人,あるいはそれ以上の筆記者によるものとは考えていませんでした。

      14 死海文書は,イザヤが筆者かという問題に,どのように光を投げかけていますか。

      14 死海文書による証拠も考えてみましょう。その古代文書の中には,イエスの時代以前に書かれたものが少なくありません。「イザヤ書写本」として知られるイザヤの巻き物は西暦前2世紀のもので,40章以降を書いたのはデウテロ・イザヤであるという批評家たちの主張を退ける証拠を提出しています。どのようにでしょうか。この古代文書の中で,現在第40章として知られる部分は,ある欄の最後の行から始まっており,その最初の一文は次の欄で終わっています。明らかに写字生は,唱えられている筆者の交替や,イザヤ書の分断がその箇所で生じていることなどは,意識していませんでした。

      15 1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスは,キュロスに関するイザヤの預言について何と述べていますか。

      15 最後に,1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスの証言を考えてみましょう。ヨセフスによると,イザヤ書にあるキュロスに関する預言は西暦前8世紀に書かれただけでなく,キュロスもそれらの預言を知っていました。ヨセフスは,「キュロスは,[イザヤ]が210年前に残した預言の書を読んでこれらのことを知った」と書いています。ヨセフスによれば,キュロスはそうした預言を知っていたので,快くユダヤ人を故国に帰還させることまでしたのかもしれません。キュロスは「書かれたことをぜひ自分の力で実現させたいという思いにかられた」,とヨセフスは書いています。―「ユダヤ古代誌」(秦 剛平訳),第XI巻,i章,2節。

      16 イザヤ書の後の部分でバビロンが優勢な強国として描かれているという批評家たちの主張について,どんなことが言えますか。

      16 すでに取り上げたとおり,多くの批評家は,イザヤ 40章以降でバビロンは優勢な強国として,またイスラエル人はすでに流刑に処されているものとして描かれている,と指摘します。そのような描写は,筆者が西暦前6世紀の人であることを示しているのではないでしょうか。そうとは限りません。実のところ,イザヤ 40章より前の部分にも,バビロンが優勢な世界強国として描かれている箇所が幾つかあるのです。例えば,イザヤ 13章19節で,バビロンは「もろもろの王国の飾り」,あるいは「今日の英語訳」によれば,「すべての王国の中で最も美しい王国」と呼ばれています。この言葉は明らかに預言的なものです。バビロンが世界強国となったのは1世紀以上後のことだからです。ある批評家は,問題となるこの点を「解決」するため,イザヤ 13章を別の筆者によるものとして片付けています。しかし実際には,将来の物事をあたかもすでに生じたかのように述べるのは,聖書の預言においてごく普通に見られることなのです。そうした語法により,預言の成就の確実性が効果的に強調されているのです。(啓示 21:5,6)確かに,真の預言の神だけが次のように言うことができます。「わたしは新しいことを告げているのである。それらが起こり始める前に,わたしはあなた方にそれを聞かせる」。―イザヤ 42:9。

      信頼できる預言の書

      17 イザヤ 40章以降の文体の変化をどのように説明できますか。

      17 では,こうした証拠からどんな結論を導き出せますか。イザヤ書は霊感を受けた一人の筆者によるものである,という結論です。この書全体は,何十世紀にもわたり,二つあるいはそれ以上ではなく,一つの書として伝えられてきました。確かに,イザヤ書の文体は40章以降で幾らか変化していると言う人もいます。しかし,イザヤが神の預言者として少なくとも46年間奉仕したことを忘れてはなりません。その期間中にイザヤの音信の内容が変化し,それと共に音信の表現方法も変化したということは十分考えられます。実際,イザヤが神から与えられた任務は,痛烈な裁きの警告を与えることだけではありませんでした。「慰めよ,わたしの民を慰めよ」というエホバの言葉も伝えなければならなかったのです。(イザヤ 40:1)神の契約の民は,ユダヤ人を70年間の流刑の後に故国に帰還させるという神の約束によって大いに慰められたことでしょう。

      18 本書では,イザヤ書のどんなテーマを取り上げますか。

      18 ユダヤ人がバビロン捕囚から解かれることは,本書で取り上げるイザヤ書の多くの章のテーマとなっています。d 後に扱われるとおり,そうした預言の多くには現代における成就があります。さらにイザヤ書には,神の独り子の生涯 ― および死 ― において成就した興奮を誘う預言も含まれています。確かに,イザヤ書に収められている重要な預言を研究することは,世界中の神の僕や他の人々にとって益となります。それらの預言は,まさに全人類のための光なのです。

  • 今日にかかわる,慰めとなる預言の言葉
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第2章

      今日にかかわる,慰めとなる預言の言葉

      イザヤ 41:1-29

      1 イザヤの預言に関心を抱くべきなのはなぜですか。

      イザヤが自分の名の付された書を記したのは3,000年ほど昔のことですが,その書は今日のわたしたちにとっても真に価値があります。わたしたちは,イザヤが記録した歴史上の出来事から重要な原則を学ぶことができます。また,イザヤがエホバの名において書き記した預言の研究は,わたしたちの信仰を築き上げます。確かに,イザヤは生ける神の預言者でした。エホバはイザヤに霊感を与え,歴史を事前に記録させました。出来事が起きる前に,それについて記述させたのです。そのようにしてエホバは,ご自分が将来を予告することも,将来を形作ることもできる,という点を実証されました。イザヤ書を研究する真のクリスチャンは,エホバが約束をすべて果たす方であることを確信するようになります。

      2 イザヤが預言の書を記した時のエルサレムはどんな状況でしたか。どんな変化が生じることになっていましたか。

      2 イザヤが預言を書き終えたころ,エルサレムはすでにアッシリアの脅威を切り抜けていました。神殿はまだ立っており,人々はそれまで長年行なってきたとおりの生活を日々送っていました。しかし,そうした状況は変化することになっていました。ユダヤ人の王たちの富がバビロンへ運び去られ,ユダヤ人の若者たちがその都市で廷臣となる時が来るのです。a (イザヤ 39:6,7)実際にそのとおりになるのは,100年以上後のことでした。―列王第二 24:12-17。ダニエル 1:19。

      3 イザヤ 41章にはどんな音信が収められていますか。

      3 とはいえ,イザヤを通して与えられた神の音信は,単なる破滅の音信ではありません。イザヤ 40章は,「慰めよ」という言葉で始まっています。b ユダヤ人は,自分たちが,あるいは自分の子供たちが故国に帰還できるという保証によって慰められるのです。続く41章もその慰めの音信を伝えており,エホバがご自分の意志を果たすために強力な王を起こされることを予告しています。そして,安心感を抱かせる事柄を述べ,神に依り頼むよう励ましています。また,諸国の人々が信頼を置く偽りの神々が無力であることを暴いています。このすべてには,イザヤの時代にもわたしたちの時代にも,大いに信仰を強めさせるものがあります。

      エホバは諸国民に挑む

      4 エホバは何と述べて諸国民に挑んでおられますか。

      4 エホバはご自分の預言者を通して,こう言われます。「島々よ,あなた方は静かにしてわたしのことばに留意せよ。国たみも力を取り戻せ。彼らを近寄らせよ。その時には,彼らに話させよ。我々は裁きのために共に集まろう」。(イザヤ 41:1)エホバはこう述べて,ご自分の民に敵対する諸国民に挑んでおられます。諸国民を神の前に立たせ,話をする心構えをさせなさい! 後ほど取り上げるとおり,エホバは法廷における裁判官のように,それら諸国民に対して,自分たちの偶像が本物の神々であることの証拠を提出するよう求めておられます。そうした神々は,崇拝者を救う行為や敵に対する裁きを予告することができるでしょうか。仮に予告できるとしても,そうした預言を成就させることができるでしょうか。答えは「いいえ」です。そうしたことを行なえるのはエホバだけです。

      5 イザヤの預言の成就は一度だけではない,と言える理由を説明してください。

      5 イザヤの預言を考察する際,聖書の多くの預言と同様,イザヤの言葉も成就は一度だけではない,ということを念頭に置いてください。西暦前607年,ユダはバビロンでの流刑に処されます。しかし,イザヤの預言は,バビロンで捕囚となっているイスラエル人をエホバが救出することを明らかにしています。その言葉どおりになったのは西暦前537年のことです。その解放に対応する出来事が20世紀初めに生じました。最初の世界大戦中,地上にいるエホバの油そそがれた僕たちは患難の時期を経験していました。1918年には,大いなるバビロンの主要部分であるキリスト教世界に扇動されたサタンの世からの圧力により,良いたよりを宣べ伝える組織的な業は事実上停止しました。(啓示 11:5-10)ものみの塔協会の主だった役員の幾人かは,事実無根の罪状で刑務所に送られました。どこから見ても,世は神の僕たちに対する戦いに勝利を収めたかのようでした。ところが,かつて西暦前537年に生じたとおり,予想外のこととしてエホバは突然,僕たちの解放をもたらされました。1919年,投獄されていた役員たちは釈放され,その後,訴えは取り下げられました。1919年9月,オハイオ州シーダーポイントでの大会で,エホバの僕たちは,王国の良いたよりを宣べ伝える業を再開するよう活気づけられました。(啓示 11:11,12)以来,今に至るまで,その宣べ伝える業の規模は目ざましく拡大してきました。さらに,イザヤの言葉の多くは,来たるべきパラダイスの地ですばらしい成就を見ます。ですから,遠い昔のイザヤの言葉は,今日のすべての国民や民ともかかわりがあるのです。

      救出者が呼び出される

      6 イザヤは将来の征服者をどのように描写していますか。

      6 エホバはイザヤを通して,一人の征服者のことを予告しておられます。その者は,神の民をバビロンから救うと同時に,民に敵する者たちに裁きを下します。エホバは,こう質問しておられます。「だれがある者を日の昇る方から奮い立たせたか。だれが義をもってその者を神の足もとに呼び寄せ,その前に諸国民を渡し,これに王たちをも従えるようにさせたか。だれが彼らを塵のようにその剣に渡しつづけたので,彼らはその弓でただの刈りわらのように追い回されたのか。だれが彼らを追いつづけ,自分の通って来なかった道筋をその足で平和に通って行ったのか。だれが活動し,これを行ない,始めから代々の人々を呼び出したのか。わたし,エホバは,第一なる者であり,最後の者たちに対しても同じ者である」。―イザヤ 41:2-4。

      7 来たるべき征服者とはだれですか。その者は何を成し遂げますか。

      7 日の昇る方,つまり東の地方から奮い立たされる者とはだれですか。メディア-ペルシャとエラムの両国はバビロンの東方に位置しています。ペルシャ人キュロスはその地方から,強大な軍隊を伴って進軍してきます。(イザヤ 41:25; 44:28; 45:1-4,13; 46:11)キュロスはエホバの崇拝者ではありませんが,義の神であるエホバのご意志に沿って行動します。キュロスは王たちを従わせ,その王たちは彼の前にあって塵のように散らされます。征服を進めるキュロスは,障害となるものをすべて乗り越え,普段は人の通らない道筋を「平和に」,つまり安全に通って行きます。キュロスは西暦前539年までに強大な都市バビロンに達し,それを覆します。その結果,神の民は解放され,清い崇拝を再興するためにエルサレムに戻ることが可能になります。―エズラ 1:1-7。c

      8 エホバだけが,どんなことを行なえますか。

      8 このようにエホバは,イザヤを通して,キュロスが生まれるよりずっと前にキュロス王の台頭を予告しておられます。そうした事柄を正確に預言できるのはまことの神だけです。諸国民の偽りの神々の中にエホバに匹敵する者はひとりもいません。エホバが,『わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えない』と言われるのももっともなことです。「わたしは最初であり,わたしは最後であり,わたしのほかに神はいない」と正当に言えるのはエホバだけです。―イザヤ 42:8; 44:6,7。

      恐れ驚いた人々は偶像に依り頼む

      9-11 諸国民は,キュロスの進軍にどう反応しますか。

      9 次にイザヤは,この将来の征服者に対する諸国民の反応をこう描写しています。「島々は見て,恐れはじめた。地の果てもおののき始めた。それらは近づき,来つづけた。彼らは各々その仲間を助けるようになり,自分の友に,『強くあれ』と言うのであった。それで,職人は金属細工人を強め,金づちで打ち延ばす者は金床で打ち鍛える者を強め,そのはんだ付けについて,『良い』と言うのであった。最後に,人はそれをくぎで留め,よろめかされることのないようにした」。―イザヤ 41:5-7。

      10 エホバは200年ほど先の将来を見通し,世界情勢を概観しておられます。キュロス配下の強大な軍隊は迅速に移動し,手向かう者をすべて征服します。人々は ― 島々の住民,最果ての地に住む人々でさえ ― 近づいてくるキュロスにおののきます。恐れの気持ちに駆られて結束し,エホバが裁きを執行するために東から呼び寄せた者に敵対しようとします。互いに励まし合おうとして,「強くあれ」と言います。

      11 職人たちは協力して働き,民を救出してくれる偶像の神々を作ろうとします。大工は木製の骨組みを作り,次いで,それに金属板を,恐らく金の板をかぶせるよう金細工人を激励します。成形する者はその金属板を打ち延ばし,はんだ付けのできを良しとします。エホバの箱の前にひっくり返ったダゴンの像のようによろめいたり弱さを露呈したりしないためにくぎで留めることは,皮肉として述べられているのかもしれません。―サムエル第一 5:4。

      恐れることはない!

      12 エホバはイスラエルに,安心感を抱かせるどんな言葉を語られますか。

      12 次いでエホバは,ご自分の民に注意を向けます。命のない偶像に依り頼む諸国民とは違い,まことの神に依り頼む人々は少しも恐れる必要がありません。エホバは,安心感を抱かせる言葉の冒頭で,イスラエルはご自分の友アブラハムの子孫であるということを思い起こさせます。イザヤはたいへん優しさのこもった文章で,エホバの言葉をこう伝えています。「イスラエルよ,あなたはわたしの僕であり,ヤコブよ,わたしが選んだあなたは,わたしの友アブラハムの胤である。あなたはわたしが地の果てからとらえた者。あなたはわたしが地の最果てから呼んだ者。それゆえにわたしはあなたに言った,『あなたはわたしの僕である。わたしはあなたを選び,あなたを退けなかった。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいるからである。周りを見回すな。わたしはあなたの神だからである。わたしはあなたを強くする。わたしはあなたを本当に助ける。わたしはわたしの義の右手であなたを本当にしっかりととらえておく』と」。―イザヤ 41:8-10。

      13 エホバの言葉が,捕らわれの身のユダヤ人にとって慰めとなるのはなぜですか。

      13 これは,異国で捕らわれの身となっている忠実なユダヤ人にとって本当に大きな慰めとなることでしょう。流刑にされ,バビロンの王の僕となっている時に,エホバから「わたしの僕」と呼びかけられるなら,どれほど力強く感じることでしょう。(歴代第二 36:20)エホバはそれらユダヤ人を不忠実さのゆえに懲らしめますが,退けることはされません。イスラエルは,バビロンにではなく,エホバに属しているのです。神の僕たちには,征服を続けるキュロスが近づいてくることにおののく理由はありません。エホバはご自分の民と共にいて,助けてくださるのです。

      14 イスラエルに対するエホバの言葉は,どのように今日の神の僕とっても慰めとなりますか。

      14 この言葉は,今の時代に至るまでずっと,神の僕たちを安心させ,強めるものとなってきました。1918年当時,神の僕たちは自分たちに対するエホバのご意志を知りたいと切望し,霊的な捕らわれの状態からの救出を待ち望んでいました。今日のわたしたちは,サタンと世と自分自身の不完全さとによって加えられる様々な圧力が取り除かれることを切望しています。とはいえわたしたちは,エホバが,ご自分の民のために行動する時と方法を的確にご存じであることをよく理解しています。幼子のように,神の力強いみ手をしっかり握り,神が切り抜けさせてくださるという確信を抱いています。(詩編 63:7,8)エホバはご自分に仕える人々を大切にされます。1918年から1919年にかけての困難な時期にご自分の民を支え,遠い昔にも忠実なイスラエル人を支えたのと同様,今日もわたしたちを支えてくださっています。

      15,16 (イ)イスラエルに敵する者たちはどうなりますか。イスラエルはどんな点で虫に似ていますか。(ロ)今日,差し迫っているどんな攻撃を考えると,エホバの言葉を特に心強く感じますか。

      15 エホバがイザヤを通して次に述べておられる事柄を考察しましょう。「『見よ,あなたに向かって激こうする者はみな恥をかき,辱めを受ける。あなたと言い争う者たちは無きもののようになり,滅びうせる。あなたは彼らを尋ね求めるが,彼らを,すなわちあなたと闘う者たちを見いださない。彼らは,すなわちあなたと戦う者たちは,存在しないもの,無きもののようになる。わたし,あなたの神エホバは,あなたの右手をつかんでいる。あなたに,「恐れてはならない。わたし自らあなたを助ける」と言うその方が。恐れてはならない,虫であるヤコブよ,イスラエルの者たちよ。わたし自身があなたを助ける』と,エホバは,すなわち,あなたを買い戻す方,イスラエルの聖なる方はお告げになる」。―イザヤ 41:11-14。

      16 イスラエルに敵する者たちが打ち勝つことはありません。イスラエルに向かって激こうする者たちは恥をかき,イスラエルと戦う者たちは滅びうせます。捕らわれの身のイスラエル人は,塵の中でのたうつ虫のように弱く,無防備に見えますが,エホバが助けてくださいます。このことは,真のクリスチャンが世の非常に多くの人の執拗な敵意に面する「終わりの日」を通じて,非常に大きな励ましとなってきました。(テモテ第二 3:1)また,預言の中で「マゴグの地のゴグ」と呼ばれているサタンの攻撃が差し迫っていることを考えると,エホバの約束は何と心強いのでしょう。ゴグの猛烈な襲撃を受けるとき,エホバの民は虫けらのように無防備に,また「城壁もなく住んでおり,かんぬきも扉もない」民のように見えるでしょう。しかし,エホバを待ち望む人々は恐れおののく必要がありません。全能者が自ら戦い,救出してくださるのです。―エゼキエル 38:2,11,14-16,21-23。コリント第二 1:3。

      イスラエルに対する慰め

      17,18 イスラエルに力が与えられる様子をイザヤはどのように描写していますか。わたしたちはどんな成就を確信できますか。

      17 エホバは引き続きご自分の民を慰め,こう言われます。「見よ,わたしはあなたを脱穀そり,もろ刃のついた新しい脱穀機とした。あなたは山々を踏みつぶして打ち砕き,丘をもみがらのようにするであろう。あなたはそれをあおり分け,風がそれを運び去り,風あらしがそれを吹き散らす。そして,あなた自身はエホバにあって喜びに満ちるであろう。あなたはイスラエルの聖なる方にあって自らを誇るであろう」。―イザヤ 41:15,16。

      18 攻勢に出て,山のような敵勢を霊的な意味で従えるために,イスラエルには強さが与えられます。イスラエルは流刑から帰還し,神殿とエルサレムの城壁の再建を阻止しようとする敵たちに対して勝利を収めます。(エズラ 6:12。ネヘミヤ 6:16)とはいえ,エホバの言葉は「神のイスラエル」に関して壮大な成就を見ます。(ガラテア 6:16)イエスは,油そそがれたクリスチャンたちにこう約束しています。「征服する者,わたしの行ないを終わりまで守り通す者には,わたしは諸国民に対する権威を与え,その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれるであろう。それは,わたしが自分の父から受けたのと同様であ(る)」。(啓示 2:26,27)天の栄光へと復活したキリストの兄弟たちがエホバ神に敵する者たちを滅ぼすことに加わる時は必ず到来します。―テサロニケ第二 1:7,8。啓示 20:4,6。

      19,20 イスラエルが回復されて美しい場所になることについて,イザヤは何と書いていますか。その言葉はどのように成就しますか。

      19 次にエホバは比喩的な表現を用いて,ご自分の民を支援するという約束をいっそう確かなものとされます。イザヤはこう書いています。「苦しむ者や貧しい者たちは水を探し求めているが,それは全くない。彼らの舌は渇きのために乾いてしまった。わたし自ら,エホバが彼らに答えるであろう。わたし,イスラエルの神は,彼らを捨てない。わたしは裸の丘に川を,谷あいの平地の中に泉を開く。わたしは荒野を葦の茂る池とし,水なき地を水の源とする。わたしは荒野に杉,アカシア,ぎんばいか,油の木を据える。砂漠平原には,ねずの木,とねりこ,いとすぎを同時に置くであろう。それは,エホバのみ手がこれを行ない,イスラエルの聖なる方が自らそれを創造されたことを,人々が同時に見て知り,注意を払い,洞察力を得るためである」。―イザヤ 41:17-20。

      20 流刑の身のイスラエル人は裕福な世界強国の首都に住んでいますが,そこは彼らにとっては水のない砂漠のようです。彼らは,サウル王から身を隠していた時のダビデのように感じています。西暦前537年にエホバは道を開き,この民がユダに帰還し,エルサレムに神殿を再建して清い崇拝を回復できるようにされます。そしてエホバは彼らを祝福されます。イザヤは預言の中で,後にこう予告しています。「エホバは必ずシオンを慰めてくださる……。そのすべての荒れ廃れた所を必ず慰め,その荒野をエデンのように,その砂漠平原をエホバの園のようにされる」。(イザヤ 51:3)この言葉は,ユダヤ人が故国へ帰還した後に確かに実現します。

      21 現代において,どんな回復が生じましたか。将来にはどんなことが起きますか。

      21 それに類似した事柄が現代にも生じました。それは,大いなるキュロスであるキリスト・イエスが,ご自分の油そそがれた追随者たちを霊的な捕らわれから自由にし,清い崇拝の回復のために働けるようにした時のことです。それら忠実な者たちは祝福され,豊かな霊的なパラダイス,比喩的なエデンの園を与えられました。(イザヤ 11:6-9; 35:1-7)やがて,敵する者たちを神が滅ぼされる時,全地は文字どおりのパラダイスに変えられます。それは,イエスが杭の上で悪行者に約束したとおりです。―ルカ 23:43。

      イスラエルに敵する者たちに対する挑戦

      22 エホバは何と述べて,再び諸国民に挑んでおられますか。

      22 次にエホバは,諸国民やその偶像の神々との論争に話を戻されます。「『あなた方の論争問題を持ち出せ』と,エホバは言われる。『あなた方の論議を提出せよ』と,ヤコブの王は言われる。『提出し,起ころうとしていることを我々に告げよ。最初のことを ― それが何であったかを告げてみよ。我々が心を用いて,その将来を知るためである。または,来ようとしていることを我々に聞かせよ。後に来ることを告げよ。あなた方が神であることを我々が知るためである。そうだ,あなた方は善を行なうか,さもなければ悪を行なうべきである。我々が同時に見回して,それを見るためである。見よ,あなた方は存在しないものであり,あなた方の業績は無である。あなた方を選ぶ者は忌むべきものである』」。(イザヤ 41:21-24)諸国民の神々は,正確な預言をすることによって,超自然的な知識を有していることを証明できるでしょうか。もしできるのであれば,その主張を裏付ける,善あるいは悪の何らかの成果があるはずです。しかし実際には,偶像の神々は何も成し遂げることができず,まさに存在しないもののようになっています。

      23 エホバが預言者たちを通して何度も偶像を非難されたのはなぜですか。

      23 今の時代の人は,エホバはなぜこれほど多くの時間を費やし,イザヤをはじめとする預言者たちを通して偶像礼拝という愚行を非難されたのだろう,と不思議に思うかもしれません。今日の多くの人は,人間のこしらえた偶像が無用な物であることは分かりきっている,と考えることでしょう。しかし,ひとたび偽りの信条体系が確立されて広く受け入れられるようになると,信じる人たちの思いからそれを根こぎにするのは困難です。命のない像を本物の神とみなす信条と同様に,現代の多くの信条も分別の欠けたものです。それでも人々は,説得力のある反論に耳を貸さず,そうした信条に固執します。ある人たちは,真理を何度も何度も聞いてようやく,エホバに依り頼むほうが賢明であることを悟ります。

      24,25 エホバはどのように再びキュロスに言及しておられますか。このことから,他のどんな預言が思い出されますか。

      24 エホバは再びキュロスに言及されます。「わたしはある者を北から奮い立たせた。彼は来る。彼は日の昇る方からわたしの名を呼び求める。そして,彼は代理支配者たちを襲う。彼らが粘土であるかのように,また,湿った材料を踏みつける陶器師のように」。(イザヤ 41:25)d 諸国民の神々とは対照的に,エホバは物事を成し遂げることができます。エホバ神はキュロスを東から,「日の昇る方」から連れ出す時に,予言する能力と,予言した事柄を成就させるために将来を形作る能力とを実証されます。

      25 この言葉から思い出されるのは,わたしたちの時代に行動へと奮い立つ王たちに関する使徒ヨハネの預言的な描写です。啓示 16章12節は,「日の昇る方角から来る王たちのために」道が備えられると述べています。その王たちとは,ほかならぬエホバ神とイエス・キリストです。遠い昔にキュロスが神の民を救出したのと同様,これらはるかに強大な王たちは,エホバに敵する者たちを絶ち滅ぼし,神の民を牧して大患難を通過させ,義の新しい世へと導き入れます。―詩編 2:8,9。ペテロ第二 3:13。啓示 7:14-17。

      エホバは至上の方!

      26 エホバはどんな質問を突きつけておられますか。その質問に答える者がいますか。

      26 エホバは再び,ご自分だけがまことの神であるという真理を宣言されます。こう質問しておられます。「だれが始めから何かを告げて,我々が知ることができるようにしたか。あるいは,過ぎ去った時から何かを告げて,『彼は正しい』と,我々が言えるようにしたか。告げる者は実際だれもいない。聞かせ得る者は実際だれもいない。あなた方の言うことを聞いている者は実際だれもいない」。(イザヤ 41:26)偶像の神々の中に,自分に依り頼んでいる人々を自由にする征服者の到来を告げた者はいません。そうした神々はみな命がなく,口がきけません。とうてい神と呼べるようなものではないのです。

      27,28 イザヤ 41章の結びの部分は,どんな肝要な真理を強調していますか。そのことをふれ告げるのはだれだけですか。

      27 イザヤは,エホバのこうした感動的な預言の言葉を伝えた後,一つの肝要な真理を際立たせています。「最初の者がおり,シオンに,『見よ,彼らはここにいる!』と言い,わたしはエルサレムに良いたよりを携えて来る者を与えるであろう。そして,わたしはずっと見ていたが,人はだれもいなかった。また,それらの者のうちには,助言を与えている者もだれもいなかった。そして,わたしは彼らに尋ねつづけて,彼らに返答させようとした。見よ,彼らはみな存在しないものである。その業は無である。その鋳像は風であり,実在しないものなのである」。―イザヤ 41:27-29。

      28 エホバは最初の方です。至上の方なのです。まことの神であり,ご自分の民の救出を告げ,良いたよりを携えて来られる方です。そして,その神の証人たちだけが,その方の偉大さを諸国民にふれ告げます。エホバはあざけりをこめて,偶像崇拝に依り頼む者たちを糾弾し,彼らの偶像を「風であり,実在しないもの」として退けておられます。これは,まことの神に固く付くべき何と強力な理由なのでしょう。わたしたちが揺るぎない信頼を置くにふさわしい方はエホバだけです。

      [脚注]

      a 「イザヤの預言 ― 全人類のための光 I」の29章をご覧ください。

      b 「イザヤの預言 ― 全人類のための光 I」の30章をご覧ください。

      c 1919年に「神のイスラエル」を霊的な捕らわれから自由にした大いなるキュロスは,ほかならぬイエス・キリストです。イエスは1914年以来,神の天の王国の王として座に着いています。―ガラテア 6:16。

      d キュロスの祖国はバビロンの東方にありましたが,バビロンに対する最後の攻撃の際,キュロスは小アジア方面から,北から下って来ました。

      [19ページの図版]

      キュロスは異教徒であるが,神の業を行なうよう選ばれる

      [21ページの図版]

      諸国民は,命のない偶像に依り頼む

      [27ページの図版]

      イスラエルは「脱穀そり」のように『山々を打ち砕く』

  • 『わたしの魂が是認したわたしの選んだ者!』
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第3章

      『わたしの魂が是認したわたしの選んだ者!』

      イザヤ 42:1-25

      1,2 今日のクリスチャンがイザヤ 42章に関心を抱くのはなぜですか。

      「『あなた方はわたしの証人である』と,エホバはお告げになる,『すなわち,わたしが選んだわたしの僕である』」。(イザヤ 43:10)預言者イザヤにより西暦前8世紀に記録されたこのエホバの宣言は,古代のエホバの契約の民が証人たちから成る国民であったことを示しています。その民は,神が選んだ僕でした。それから2,600年ほど後の1931年に,油そそがれたクリスチャンたちは,この言葉が自分たちに当てはまることを公に宣言しました。そして,エホバの証人という名称を採用し,地上における神の僕であることに伴う責任を心から受け入れました。

      2 エホバの証人は神を喜ばせたいと真剣に願っています。それゆえ,証人たち一人一人はイザヤ 42章に熱烈な関心を抱いています。なぜならそこには,エホバに是認される僕と退けられる僕とが描写されているからです。その預言と成就を調べるなら,神の是認に至る事柄と神の不興に至る事柄について洞察が得られます。

      「わたしは彼のうちにわたしの霊を置いた」

      3 エホバはイザヤを通して,「わたしの僕」についてどんなことを預言しておられますか。

      3 エホバはイザヤを通して,ご自分の選ぶ僕の到来を預言しておられます。「見よ,わたしがしっかりととらえているわたしの僕を! わたしの魂が是認したわたしの選んだ者を! わたしは彼のうちにわたしの霊を置いた。彼は諸国の民への公正をもたらすであろう。彼は叫びもせず,声を上げもせず,ちまたでその声を聞こえさせもしない。彼は砕かれた葦を折らず,薄暗い亜麻の灯心については,それを消すこともない。彼は真実のうちに公正をもたらす。彼は地に公正を定めるまで,薄暗くなることもなく,打ち砕かれることもない。島々もその律法を待ち望むのである」。―イザヤ 42:1-4。

      4 予告された「選んだ者」とはだれですか。なぜそう言えますか。

      4 ここで言及されている僕とはだれですか。その点は答えのないままにはされていません。この言葉はマタイによる福音書に引用され,イエス・キリストに適用されています。(マタイ 12:15-21)イエスが,その愛される僕,神の「選んだ者」なのです。エホバはいつイエスの上にご自分の霊を置いたでしょうか。西暦29年,イエスのバプテスマの時です。霊感を受けた記録はそのバプテスマの様子を説明し,イエスが水から上がった後の出来事をこう記しています。「天が開け,聖霊がはとのような形をとって彼の上に下り,また天から声があった。『あなたはわたしの子,わたしの愛する者である。わたしはあなたを是認した』」。こうしてエホバは自ら,ご自分の愛する僕がだれであるかを明らかにされました。イエスのその後の宣教と奇跡的な業は,エホバの霊が確かにイエスの上にあることの証拠となりました。―ルカ 3:21,22; 4:14-21。マタイ 3:16,17。

      「彼は諸国の民への公正をもたらすであろう」

      5 1世紀において,公正とは何かを明りょうにすることが必要だったのはなぜですか。

      5 エホバの選んだ者は,真の公正を「もたらす」,つまり,それを際立たせることになっていました。「彼は,公正とは何かを諸国民に明りょうにする」のです。(マタイ 12:18)そうすることは,1世紀において是非とも必要でした。ユダヤ人の宗教指導者たちは公正と義に関するゆがんだ見方を教えていました。厳格な法典 ― その多くは彼ら自身が作り上げたもの ― に従うことによって義に達しようとしていたのです。しゃくし定規な彼らの公正は憐れみと同情心に欠けていました。

      6 イエスはどのように真の公正を知らせましたか。

      6 それとは対照的に,イエスは公正に関する神の見方を明らかにしました。イエスは自分の教えと生き方によって,真の公正は同情心と憐れみに富むものであることを示しました。有名な山上の垂訓はその一例です。(マタイ 5-7章)公正と義をどのように実践すべきかが,実に見事に説明されています。福音書の記述を読むと,貧しくて苦しんでいる人たちに対するイエスの同情心に感動を覚えるのではないでしょうか。(マタイ 20:34。マルコ 1:41; 6:34。ルカ 7:13)イエスは,打ち傷のついた葦のように抑圧され虐待された多くの人々に,慰めとなる音信を伝えました。その人々はくすぶる亜麻の灯心のようであり,命の最後の火が今にも消えそうになっていました。イエスは,「砕かれた葦」を折ることも,「薄暗い亜麻の灯心」を消すこともしませんでした。むしろ,愛と同情心にあふれた言葉と行動によって,柔和な人々の心を元気づけました。―マタイ 11:28-30。

      7 預言が,イエスは『叫びもせず,ちまたで声を上げもしない』と述べているのはなぜですか。

      7 しかし預言が,イエスは「叫びもせず,声を上げもせず,ちまたでその声を聞こえさせもしない」と述べているのはなぜですか。それは,イエスが当時の多くの人のように自分を目立たせようとはしなかったからです。(マタイ 6:5)らい病の人をいやした時には,その人に,「だれにも何も言わないようにしなさい」と命じました。(マルコ 1:40-44)イエスが望んだのは,うわさになったり,又聞きの情報に基づいて人々に結論を出させたりすることではなく,むしろご自分がエホバの油そそがれた僕キリストであることを人々が確たる証拠に基づいて自分で見分けることでした。

      8 (イ)イエスはどのように「諸国の民への公正」をもたらしましたか。(ロ)隣人愛に富むサマリア人に関するイエスの例えから,公正について何を学べますか。

      8 その選ばれた僕は「諸国の民への公正」をもたらすことになっており,イエスはそれも行ないました。イエスは,神の公正の,同情心にあふれた性質を強調しただけでなく,その公正がすべての人を包含することを教えました。ある時イエスは,律法に通じたある人に,神と隣人を愛さなければならないことを思い出させました。その人は,「わたしの隣人とはいったいだれでしょうか」とイエスに質問しました。「あなたの仲間のユダヤ人です」とイエスが答えることを期待していたのかもしれません。しかしイエスは,隣人愛に富むサマリア人のたとえ話を語りました。そのたとえ話に登場するサマリア人は強盗に襲われた人を介抱しましたが,レビ人と祭司は助けようとしませんでした。質問をした人は,この場合,レビ人や祭司ではなく,さげすまれているサマリア人が隣人である,ということを認めざるを得ませんでした。イエスは例えの結びに,「あなたも同じようにしてゆきなさい」と諭しました。―ルカ 10:25-37。レビ記 19:18。

      『彼は薄暗くなることもなく,打ち砕かれることもない』

      9 わたしたちは,真の公正がどのようなものであるかを理解しているなら,何をするはずですか。

      9 真の公正がどのようなものであるかがイエスによって明りょうにされたので,弟子たちはその特質を発揮できるようになりました。わたしたちもそうでなければなりません。まず,善悪に関する神の規準を受け入れることが必要です。何が公正であり義であるかを決定する権利は神のものだからです。エホバの方法で物事を行なおうと努めるなら,わたしたちの廉直な行状は,真の公正とは何であるかをはっきり示すものとなるでしょう。―ペテロ第一 2:12。

      10 公正を発揮するには宣べ伝えて教える業に参加することが求められる,と言えるのはなぜですか。

      10 わたしたちは,宣べ伝えて教える活動に勤勉に携わることによっても真の公正を発揮することができます。エホバは寛大にも,ご自身とみ子とご自分の目的とに関する,命を救う知識を与えてくださっています。(ヨハネ 17:3)その知識を自分だけのものにしておくのは,義にかなったことでも公正なことでもありません。「あなたの手に善を行なう力があるのに,それを受けるべき人から控えてはならない」とソロモンは述べています。(箴言 3:27)神について自分の知っている事柄を,人種,民族,出身国を問わず,すべての人に心を込めて伝えましょう。―使徒 10:34,35。

      11 イエスに見倣い,どのように他の人と接するべきですか。

      11 さらに,正真正銘のクリスチャンはイエスと同じ仕方で他の人に接します。今日の多くの人は,数々の問題のために気落ちし,同情や励ましを必要としています。献身したクリスチャンの中にも,自分の境遇に打ちのめされ,砕かれた葦やくすぶる灯心のようになる人たちがいます。そうした人たちも,支えを必要としているのではないでしょうか。(ルカ 22:32。使徒 11:23)イエスに見倣って公正を実践しようと努める真のクリスチャンを仲間に持つのは,何と心地よいことなのでしょう。

      12 近い将来,すべての人が公正に扱われる日が本当に来る,と確信できるのはなぜですか。

      12 すべての人が公正に扱われる日が来るのでしょうか。そのとおりです。エホバの選んだ者は,「地に公正を定めるまで,薄暗くなることもなく,打ち砕かれることもない」のです。王位に就いた王である復活したキリスト・イエスは,間もなく,『神を知らない者に報復をする』ことになっています。(テサロニケ第二 1:6-9。啓示 16:14-16)人間による支配に代わって神の王国が据えられ,公正と義が満ちるでしょう。(箴言 2:21,22。イザヤ 11:3-5。ダニエル 2:44。ペテロ第二 3:13)遠く離れた土地である「島々」に住む人たちも含め,全地のエホバの僕たちは熱烈な期待を抱いてその日を心待ちにしています。

      『わたしは彼を諸国民の光として与えるであろう』

      13 エホバはご自分の選んだ僕についてどんなことを預言しておられますか。

      13 続いて,イザヤはこう述べます。「天の創造者,それを張り伸ばす偉大な方,地とその産物を張り広げる方,地上の民に息を,地を歩む者たちに霊を与える方,まことの神エホバはこのように言われた」。(イザヤ 42:5)創造者エホバに関する何と力強い描写なのでしょう。エホバの強大な力を銘記させるこの言葉によって,エホバのお告げになる事柄が強調されます。エホバはこう言われます。「わたし自ら,エホバが,義をもってあなたを呼び,あなたの手を取った。そして,わたしはあなたを安全に守り,あなたを民の契約,諸国民の光として与えるであろう。あなたが盲人の目を開き,捕らわれ人を牢から,闇の中に座っている者たちを留置場から連れ出すためである」。―イザヤ 42:6,7。

      14 (イ)エホバがご自分の是認した僕の手を取ることは何を意味していますか。(ロ)選ばれた僕はどんな役割を果たしますか。

      14 宇宙の偉大な創造者,命を与え,かつ維持する方は,ご自分の選んだ僕の手を取り,全面的な支持を与え続けると約束しておられます。何と心強いことでしょう。それだけでなくエホバは,その僕を「民の契約」として与えるために,安全に守られます。契約とは,約定,協約,厳粛な約束,また揺るぎない規定のことです。言い換えれば,エホバはご自分の僕を「民に対する誓約」とされたのです。―アメリカ訳。

      15,16 イエスはどのように「諸国民の光」としての役割を果たしましたか。

      15 「諸国民の光」である約束の僕は「盲人の目」を開き,「闇の中に座っている者たち」を解放します。イエスはまさにそうしました。真理について証しすることにより,イエスは天の父のみ名に栄光を帰しました。(ヨハネ 17:4,6)また,宗教上の偽りを暴き,王国の良いたよりを宣べ伝え,宗教的に束縛されている人々のために霊的な自由への扉を開きました。(マタイ 15:3-9。ルカ 4:43。ヨハネ 18:37)そして,闇に属する業を行なわないよう警告し,サタンが「偽りの父」また「この世の支配者」であることを暴露しました。―ヨハネ 3:19-21; 8:44; 16:11。

      16 イエスは,「わたしは世の光です」と言いました。(ヨハネ 8:12)そして,自らの人間としての完全な命を贖いとして差し出すという際立った仕方で,世の光であることを実証しました。こうしてイエスは,信仰を働かせる人々が,罪の許し,神との是認された関係,およびとこしえの命の見込みを得るための道を開きました。(マタイ 20:28。ヨハネ 3:16)生涯を通じて全き敬虔な専心を保つことにより,イエスはエホバの主権を擁護し,悪魔が偽り者であることを証明しました。イエスは確かに盲人に視力を与える方であり,霊的な闇に捕らわれている人たちを解放する方でした。

      17 わたしたちは光を掲げる者としての役割をどのように果たしますか。

      17 山上の垂訓の中で,イエスは弟子たちに,「あなた方は世の光です」と言いました。(マタイ 5:14)わたしたちも光を掲げる者なのではないでしょうか。自分の生き方と宣べ伝える業によって他の人をエホバに,真の啓発の源である方に導くことは特権です。わたしたちはイエスに見倣い,エホバのみ名を知らせ,神の主権を擁護し,人類の唯一の希望として神の王国をふれ告げます。さらに,光を掲げる者として,宗教上の偽りを暴露し,闇に属する汚れた業を避けるよう警告し,邪悪な者サタンの正体を明らかにします。―使徒 1:8。ヨハネ第一 5:19。

      『エホバに新しい歌を歌え』

      18 エホバはご自分の民に何を知らせますか。

      18 次に,エホバはご自分の民に注意を向け,こう言われます。「わたしはエホバである。それがわたしの名である。わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えず,わたしの賛美を彫像に与えることもしない。最初のこと ― それらはいまや到来した。しかし,わたしは新しいことを告げているのである。それらが起こり始める前に,わたしはあなた方にそれを聞かせる」。(イザヤ 42:8,9)「わたしの僕」に関する預言を語ったのは,無価値な神々などではなく,唯一の生けるまことの神です。その預言は必ず果たされるものであり,確かに果たされました。エホバ神はまさに新しいことを著わす方であり,そのことが起きる前にそれをご自分の民に知らせます。では,わたしたちはどのように答え応じるべきでしょうか。

      19,20 (イ)どんな歌を歌わなければなりませんか。(ロ)今日だれがエホバに賛美の歌を歌っていますか。

      19 イザヤはこう書いています。「エホバに新しい歌を,地の果てからその賛美を歌え。海とそれに満ちるものとに下って行く者たちよ。もろもろの島とそこに住む者たちよ。荒野とその諸都市は声を上げよ。ケダルが住む集落も。大岩の住民は喜んで叫べ。山々の頂から人々は大声で叫べ。栄光をエホバに帰し,島々でその賛美を告げ知らせよ」。―イザヤ 42:10-12。

      20 諸都市や荒野の村々や島々の住民も,さらには「ケダル」すなわち砂漠の野営地の住民も,つまりあらゆる場所の人々が,エホバに賛美の歌を歌うよう促されています。わたしたちの時代に何百万もの人々がこの預言的な訴えにこたえ応じてきたことを考えると,本当に胸が躍ります。その人々は神の言葉の真理を喜んで受け入れ,エホバを自分の神としました。エホバの民は230以上の国や地域でこの新しい歌を歌い,エホバに栄光を帰しています。そうした様々な文化,言語,人種の人々と共にこの歌に加わることは,本当に感動的な経験です。

      21 神の民に敵する者たちは,なぜエホバへの賛美の歌を沈黙させることができませんか。

      21 反対者たちは,エホバに逆らって,この賛美の歌を沈黙させることができるでしょうか。それは不可能です。「エホバは力ある者のように自ら出て行かれる。戦士のように熱心を呼び起こされる。叫びを上げ,そうだ,ときの声を上げられる。敵に対して,ご自分のほうが力の大いなることを示される」。(イザヤ 42:13)エホバに逆らえる力を持つ者などいるでしょうか。3,500年ほど昔のこと,預言者モーセとイスラエルの子らはこう歌いました。「エホバは雄々しい戦人。エホバがその方のみ名。ファラオの兵車とその軍勢を海の中に投げ込まれ,そのえり抜きの戦士は紅海の中に沈められた」。(出エジプト記 15:3,4)エホバは当時の最強の軍勢に対して勝利を収めました。エホバが力ある戦士として出て行かれるとき,神の民に敵する者たちの企てはみな失敗します。

      「わたしは久しく静かにしていた」

      22,23 エホバが『久しく静かにする』のはなぜですか。

      22 エホバは公平かつ公正な方であり,それは敵する者たちに裁きを執行するときも同じです。エホバはこう言われます。「わたしは久しく静かにしていた。沈黙していた。ずっと自制心を働かせていた。子を産む女のように,わたしは同時にうめき,あえぎ,息を切らす。わたしは山や丘を荒れ廃れさせ,その草木をみな干上がらせる。そして川を島に変え,葦の茂る池を干上がらせる」。―イザヤ 42:14,15。

      23 エホバは法的な行動に移る前に時間を取り,悪い歩みをやめる機会を悪行者たちにお与えになります。(エレミヤ 18:7-10。ペテロ第二 3:9)バビロニア人の場合を考えてみましょう。彼らは優勢な世界強国として,西暦前607年にエルサレムを荒廃させます。エホバがそれを許すのは,不忠実さのゆえにイスラエル人を懲らしめるためです。しかし,バビロニア人は自分たちが果たしている役割を正しく認識しません。神の裁きが求めるよりはるかに厳しく神の民を扱います。(イザヤ 47:6,7。ゼカリヤ 1:15)まことの神はご自分の民が苦しみに遭うのを見て,大いに心を痛めるに違いありません。とはいえ,神は予定の時まで行動を差し控えます。そしてその時が来ると,出産する女のように力を込めて,ご自分の契約の民を解き放ち,独立した国民として生み出します。そうしたことを成し遂げるため,西暦前539年,神はバビロンとその防御物を干上がらせて荒れ廃れさせます。

      24 神はご自分の民イスラエルにどんな見込みをお与えになりますか。

      24 神の民はそのように長年にわたって流刑となるので,故国に戻る道がついに開かれる時には大いに胸が躍るに違いありません。(歴代第二 36:22,23)次のようなエホバの約束の成就を経験して喜びに満たされるはずです。「わたしは盲人に彼らの知らなかった道を歩かせ,彼らの知らなかった通り道を踏み行かせる。わたしは彼らの前の暗い場所を光に,高低のある地を平たんな地に変えるであろう。これらはわたしが彼らのために行なうことであり,わたしは彼らを捨てない」。―イザヤ 42:16。

      25 (イ)今日のエホバの民は何を確信できますか。(ロ)わたしたちはどんな決意を抱くべきですか。

      25 この言葉は今日どのように当てはまりますか。エホバはこれまで何世紀もの長い間,諸国民が思いどおりの歩みをすることを許してこられました。しかし,物事に決着を付けるための神の定めの時が来ようとしています。現代,神はみ名について証しする民を起こされました。神は,その民に対するあらゆる反対を排除し,彼らが「霊と真理をもって」神を崇拝するための道を平らにしておられます。(ヨハネ 4:24)「わたしは彼らを捨てない」と約束し,その言葉どおりにしてこられました。では,偽りの神々の崇拝に固執する人々についてはどうでしょうか。エホバはこう言われます。「彼らは必ず引き戻され,大いに恥じるであろう。彫刻像に頼っている者たち,鋳像に向かって,『あなた方はわたしたちの神です』と言っている者たちは」。(イザヤ 42:17)神の選んだ者と同様,わたしたちにとっても,エホバに対する忠実を保つことは何と肝要なのでしょう。

      『耳の聞こえない盲目の僕』

      26,27 イスラエルは『耳の聞こえない盲目の僕』であることをどのように明らかにしますか。どんな結末になりますか。

      26 神の選んだ僕,イエス・キリストは死に至るまで忠実を保ちました。しかし,神の民イスラエルは,不忠実な僕,霊的な意味で耳の聞こえない盲目の僕であることを明らかにします。彼らに対してエホバはこう言われます。「耳の聞こえない者たちよ,聞け。盲目の者たちよ,見るためにじっと見つめよ。わたしの僕でなければ,だれが盲人であろうか。だれが,わたしの遣わすわたしの使者のように耳の聞こえない者であろうか。だれが,報われる者のように盲人であろうか。だれが,エホバの僕のように盲人であろうか。多くのものが見えるのに,あなたは見つづけなかったのである。耳を開けていながら,あなたは聴いていなかったのである。エホバご自身がご自分の義のために,律法を大いなるものとし,それを威光あるものとすることを喜ばれた」。―イザヤ 42:18-21。

      27 イスラエルは何と嘆かわしい失敗を犯すのでしょう。その民は再三にわたって諸国民の悪霊的な神々の崇拝に陥ります。エホバは何度も何度も使者たちを遣わしますが,民は注意を払いません。(歴代第二 36:14-16)イザヤは結末をこう予告しています。「それは強奪され,略奪された民であり,彼らはみな穴に捕らえられて,留置場に隠された。彼らは救出する者のいないまま強奪され,『連れ戻せ!』と言う者もいないまま略奪されることになった。あなた方のうちだれがこれに耳を向けるだろうか。だれが後のために注意を払い,聴くだろうか。だれがただ略奪のためにヤコブを渡し,強奪する者たちにイスラエルを渡したのか。それはエホバではないか。わたしたちはその方に対して罪をおかしたのだ。彼らはその道を歩もうとはせず,その律法に聴き従わなかった。それで,神は激しい怒りを,み怒りを,戦いの強さを,絶えず彼の上に注ぎ出されたのだ。そして,それは彼の周りを焼き尽くしていったが,彼は気に留めなかった。それは彼に向かって絶えず燃え上がったが,彼は全く心にとどめようとしなかった」。―イザヤ 42:22-25。

      28 (イ)ユダの住民の実例からどんなことを学べますか。(ロ)どうすればエホバの是認を求めることができますか。

      28 ユダの住民の不忠実さのゆえに,エホバはその地が西暦前607年に強奪と略奪に遭うことを許されます。バビロニア人はエホバの神殿を焼き,エルサレムを荒廃させ,ユダヤ人をとりこにします。(歴代第二 36:17-21)わたしたちは警告となるこの実例を心に留め,エホバの諭しに耳をふさいだり,書き記されたみ言葉に目を閉じたりすることが決してないようにしたいと思います。むしろ,エホバご自身に是認された僕であるキリスト・イエスに見倣うことによって,エホバの是認を求めましょう。イエスのように,自分の言動によって真の公正を知らせましょう。そのようにして,神の民の中にとどまり,まことの神を賛美してその栄光となる光を掲げる者として仕えてゆくのです。

      [33ページの図版]

      真の公正は同情心と憐れみに富む

      [34ページの図版]

      隣人愛に富むサマリア人のたとえ話の中で,イエスは真の公正がすべての人を包含することを示した

      [36ページの図版]

      人を励まし,親切であることにより,神のような公正を実践する

      [39ページの図版]

      宣べ伝える活動により,神のような公正を発揮する

      [40ページの図版]

      是認された僕は「諸国民の光」として与えられた

  • 「あなた方はわたしの証人である」!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第4章

      「あなた方はわたしの証人である」!

      イザヤ 43:1-28

      1 エホバはどのように預言を用いられますか。神の民は,預言が成就するとき,どのように反応すべきですか。

      将来を予言する能力は,まことの神を偽りの神々すべてから区別する一つの特徴です。しかしエホバは,預言する際,ご自分の神性を証明する以上のことを念頭に置いておられます。イザヤ 43章からはっきり分かるとおり,エホバは預言によって,ご自分の神性と,契約の民に対する愛とを証明されます。一方,神の民は,預言の成就を見分けたなら黙しているべきではなく,見た事柄を証ししなければなりません。そうです,エホバの証し人となるべきなのです。

      2 (イ)イザヤの時代のイスラエルはどんな霊的状態にありますか。(ロ)エホバはどのようにご自分の民の目を開かれますか。

      2 残念なことに,イザヤの時代には,イスラエルはあまりに嘆かわしい状態に陥っているため,エホバはその民に霊的な障害があると判断されます。「目があるのに盲目の民を,耳を持っているのに耳の聞こえない者たちを連れ出せ」。(イザヤ 43:8)霊的に盲目で耳の聞こえない民が活発な証人としてエホバに仕えるにはどうしたらよいのでしょうか。方法はただ一つです。目と耳が奇跡的に開かれなければなりません。エホバはまさにそれらを開かれます。どのようにでしょうか。まず,エホバは厳しい懲らしめを与えます。北のイスラエル王国の住民は西暦前740年に,そしてユダの住民は西暦前607年に,それぞれ流刑に処されます。その後,エホバはご自分の民のために力を行使してその民を解放し,霊的に活力を取り戻して悔い改めた残りの者を西暦前537年に故国へ帰還させます。実のところ,エホバは,この点に関するご自分の目的が阻まれることはあり得ないと確信しているので,200年ほど後に生じるイスラエルの解放を,あたかもすでに起きた事柄であるかのように述べておられます。

      3 エホバは,将来の流刑者たちにどんな励ましを与えておられますか。

      3 「ヤコブよ,あなたを創造された方は,イスラエルよ,あなたを形造られた方,エホバはこのように言われた。『恐れてはならない。わたしはあなたを買い戻したからである。わたしはあなたの名であなたを呼んだ。あなたはわたしのものである。あなたが水の中を通って行こうとも,わたしはあなたと共におり,川の中を通って行こうとも,それがあなたの上にみなぎりあふれることはない。あなたが火の中を歩こうとも,あなたは焼き焦がされることなく,炎があなたを焦がすこともない。わたしはあなたの神エホバ,あなたの救い主なるイスラエルの聖なる者だからである』」。―イザヤ 43:1-3前半。

      4 エホバはイスラエルを創造した方であるとどうして言えますか。エホバはご自分の民に,故国への帰還についてどんな保証を与えておられますか。

      4 エホバがイスラエルに特別な関心を抱くのは,その国民がご自分のものだからです。イスラエルは,アブラハム契約を履行するため,神が自ら創造されたものです。(創世記 12:1-3)それゆえ詩編 100編3節は,こう述べています。「エホバが神であることを知れ。わたしたちを造ったのは神であって,わたしたち自身ではない。わたしたちはその民,その放牧地の羊である」。イスラエルを創造した方,また買い戻す方であるエホバは,ご自分の民を故国に無事帰還させます。民は,水,みなぎりあふれる川,火のように熱い砂漠などの障害物によって妨げられることも害されることもありません。それは,1,000年前に,約束の地へ向かう父祖たちの歩みが同様の障害物によって鈍らされなかったのと同じです。

      5 (イ)エホバの言葉は,霊的なイスラエルにとってどのように慰めとなりますか。(ロ)だれが霊的なイスラエルの仲間となっていますか。その人々を予表していたのはだれですか。

      5 エホバの言葉は,現代の霊的なイスラエルの残りの者にとっても慰めとなります。そのイスラエルの成員は,霊によって生み出された「新しい創造物」です。(コリント第二 5:17)残りの者は,人類という「水」の前に大胆に進み出て,神からの愛ある保護を受け,比喩的なみなぎる水を切り抜けてきました。敵たちが発する火も,彼らを害するどころか,精錬する役目を果たしました。(ゼカリヤ 13:9。啓示 12:15-17)さらにエホバは,神の霊的な国民と共に歩むようになった「ほかの羊」の「大群衆」にも世話の手を差し伸べてこられました。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9)その大群衆を予表していたのは,イスラエル人と共にエジプトを脱出した「入り混じった大集団」,および自由になった流刑者たちと共にバビロンから帰還した非ユダヤ人です。―出エジプト記 12:38。エズラ 2:1,43,55,58。

      6 エホバは,(イ)肉のイスラエルの,(ロ)霊的イスラエルの贖いに関連して,ご自分が公正の神であることをどのように示されますか。

      6 エホバは,メディアとペルシャの軍隊を用いてご自分の民をバビロンから救出することを約束しておられます。(イザヤ 13:17-19; 21:2,9; 44:28。ダニエル 5:28)公正の神であるエホバは,“雇い人”であるメディア人とペルシャ人に,イスラエルの代わりとなるふさわしい贖いを支払います。「わたしはあなたのための贖いとしてエジプトを,あなたの代わりにエチオピアとセバを与えた。あなたはわたしの目に貴重だったので,誉れある者とみなされ,わたし自らあなたを愛した。そして,わたしはあなたの代わりに人々を,あなたの魂の代わりに国たみを与えるであろう」。(イザヤ 43:3後半,4)ペルシャ帝国がエジプト,エチオピア,および近隣のセバを征服したことは歴史上の事実であり,それは神の予告どおりでした。(箴言 21:18)同様に,1919年にエホバは,イエス・キリストを用いて,霊的なイスラエルの残りの者を捕らわれから解き放ちました。しかしイエスは,自分の働きに対する報いを必要としませんでした。イエスは異教を奉じる支配者ではありませんでした。そして,イエスが解放したのは自分の霊的な兄弟たちでした。さらにエホバは,すでに1914年に,「諸国の民を[イエスの]相続物として,地の果てを[イエスの]所有物として」与えておられました。―詩編 2:8。

      7 古代においても現代においても,エホバはご自分の民に対してどんな気持ちを抱いておられますか。

      7 買い戻された流刑者たちに対する優しい気持ちを,エホバがどのように率直に表現しておられるかに注目してください。ご自分にとってその人たちが「貴重」であり,「誉れある者」である,そしてその人たちを『愛している』と告げておられます。(エレミヤ 31:3)今日の忠節な僕たちに対しても,同様の,あるいはそれ以上の気持ちを抱いておられます。油そそがれたクリスチャンたちが神との関係に導き入れられたのは,生まれによるのではなく,その人々自身が創造者に献身した後に生じる神の聖霊の働きによります。エホバはその人々をみ子とご自分に引き寄せ,受容性に富むその人々の心にご自分の律法と原則を書き記してこられました。―エレミヤ 31:31-34。ヨハネ 6:44。

      8 エホバは流刑者たちにどんな保証の言葉を述べておられますか。その人々は自分たちの救出に関してどう感じますか。

      8 エホバは流刑者たちに対する保証の言葉をさらに続け,こう言われます。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいるからである。わたしは日の昇る方からあなたの胤を連れて来る。日の沈む方からあなたを集める。わたしは北に向かって,『引き渡せ!』と言い,南に向かって,『引きとどめるな。わたしの息子たちを遠くから,わたしの娘たちを地の果てから連れて来るように。すべてわたしの名で呼ばれている,わたしがわたしの栄光のために創造し,わたしが形造り,そうだ,わたしが造った者を』と言うであろう」。(イザヤ 43:5-7)エホバの息子や娘たちを自由にして,愛する故国へ連れ戻す時,地の最果ての場所でさえエホバの手が届かないところではありません。(エレミヤ 30:10,11)その人たちの目には,こうして解き放たれることは,かつてのイスラエル国民のエジプトからの救出をもしのぐものと映るに違いありません。―エレミヤ 16:14,15。

      9 エホバはどんな二つの点で,ご自分の救出の行為とみ名とを関連づけておられますか。

      9 エホバはご自分の民に,その民が神のみ名によって呼ばれていることを思い出させ,イスラエルを救出するという約束を裏付けておられます。(イザヤ 54:5,6)それだけでなくエホバは,解き放つというご自分の約束にもみ名を付しておられます。そうすることによって,預言の言葉が成就するときに必ずご自分に栄光が帰されるようにしておられるのです。バビロンを征服する者でさえ,唯一の生ける神に帰されるべき誉れを受けることはありません。

      神々が審理を受ける

      10 エホバは諸国民とその神々に対してどんな挑戦を投げかけておられますか。

      10 次いでエホバは,イスラエルを自由にするというご自分の約束を宇宙的な訴訟の根拠とし,諸国民の神々に審理を受けさせます。こう書かれています。「諸国の民をみな一つの場所に集め,国たみを共に集めよ。彼らのうちにこのことを告げ得る[神たる]者がだれかいるか。また,彼らは最初のことでさえわたしたちに聞かせることができるか。彼ら[彼らの神々]にその証人を出させ,彼らが義と宣せられるようにしてみよ。また,彼らに聞かせて,『それは真実だ!』と言わせてみよ」。(イザヤ 43:9)エホバは世界の諸国民に対して,身のすくむような挑戦を投げかけておられます。事実上,『あなた方の神々に将来を正確に予告させ,それによって神であることを証明させてみよ』と言っておられるのです。まことの神以外には的確に預言できる者はいないので,この試験によって詐称者はすべて正体を暴かれます。(イザヤ 48:5)さらに,全能者は法的条項をもう一つ付け加えておられます。つまり,まことの神であると主張する者はみな,自らの予言とその成就に関して証人を出さなければならない,という条項です。もちろん,エホバはご自分をこの法的要件の例外とはしておられません。

      11 エホバはご自分の僕にどんな任務をお与えになりますか。ご自分の神性についてどんなことを明らかにされますか。

      11 偽りの神々は無力なので,証人を出すことができません。そのため,情けないことに,証言台は空のままです。さて,いよいよエホバがご自分の神性を裏付ける番になります。エホバはご自分の民のほうを見ながら,こう言われます。「あなた方はわたしの証人である,……すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。わたしが ― わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない。あなた方のうちにほかの神がいなかったときに,わたし自ら告げ知らせ,救いを施し,それを聞かせた。それで,あなた方はわたしの証人である,……そして,わたしは神である。また,わたしはいつでも同じ者である。わたしの手から救い出し得る者はだれもいない。わたしは活動する。すると,だれが[わたしの手]を引き戻すことができようか」。―イザヤ 43:10-13。

      12,13 (イ)エホバの民は,どんな証言をいくらでも行なうことができますか。(ロ)現代,どのようにエホバのみ名は前面に出されてきましたか。

      12 エホバの言葉が述べられるとすぐに,証言台は,喜びにあふれた大勢の証人たちでいっぱいになります。その者たちの証言は明確であり,反論の余地がありません。証人たちはヨシュアのように,『エホバの話された事柄はすべてそのとおりになった。一言といえ果たされなかったものはない』と証言します。(ヨシュア 23:14)エホバの民の耳には今でも,イザヤ,エレミヤ,エゼキエルをはじめとする預言者たちの言葉が鳴り響いています。それら預言者たちは声をそろえて,ユダの流刑と,流刑からの奇跡的な救出を予告していました。(エレミヤ 25:11,12)ユダの救出者となるキュロスの名も,当人の誕生よりずっと以前に告げられていました。―イザヤ 44:26–45:1。

      13 このように膨大な量の証拠があるのですから,エホバが唯一まことの神であることをだれが否定できるでしょうか。異教の神々とは違い,ただエホバだけが,他のものによって創造されたのではない方,まことの神です。a したがって,エホバのみ名を担う民には,将来の世代に,また神について尋ねる人々に神のくすしい行ないを語り伝えるという,ユニークで胸の躍る特権があります。(詩編 78:5-7)同様に,現代のエホバの証人たちには,エホバのみ名を全地で宣明する特権があります。1920年代に,聖書研究者たちは,神のみ名エホバの持つ奥深い意味をいよいよ強く意識するようになりました。次いで,1931年7月26日,オハイオ州コロンバスで開かれた大会で,協会の会長ジョセフ・F・ラザフォードが「新しい名称」と題する決議を提出しました。大会出席者は,「わたしたちは,エホバの証人という名称で知られ,また呼ばれることを欲するものです」という言葉を聞いて胸を躍らせ,響き渡る声で「はい!」と応じて,その決議を採択しました。その時以来,エホバのみ名は世界じゅうで注目の的となっています。―詩編 83:18。

      14 エホバはイスラエル人に何を思い出させておられますか。そのように思い出させることは,なぜ時宜にかなっていましたか。

      14 エホバは,み名を立派に担う人々を「ご自分のひとみ」のようにみなして顧みる方です。イスラエル人にその点を思い出させるため,神は,彼らをエジプトから救出し,荒野を通って安全に導いたときのことを述べておられます。(申命記 32:10,12)当時,イスラエル人のうちにほかの神はいませんでした。イスラエル人は,エジプトのすべての神々が徹底的に辱められるのを目の当たりにしたからです。そうです,エジプトの神々は束になっても,エジプトを守ることもイスラエルの出発を阻止することもできませんでした。(出エジプト記 12:12)同様に,市内に偽りの神々の神殿が50以上も林立する強大なバビロンも,全能者がご自分の民を自由にする時,その手を押しとどめることはできません。まさに,エホバのほかに「救う者はいない」のです。

      軍馬は倒れ,獄の扉は開かれる

      15 エホバはバビロンに関してどんなことを預言しておられますか。

      15 「あなた方を買い戻す方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。『わたしはあなた方のためにバビロンに人を遣わして,獄のかんぬきを下ろさせる。そして,船の中のカルデア人はすすり泣く。わたしはあなた方の聖なる者エホバ,イスラエルの創造者,あなた方の王である』。エホバはこのように言われた。海の中に道を,強い水の中に通り道を作る方,戦車と馬,軍勢と強い者たちを同時に連れ出す方が言われたのである。『彼らは横たわる。彼らは起き上がらない。彼らは確かに消し去られる。亜麻の灯心のように必ず消される』」。―イザヤ 43:14-17。

      16 バビロン,カルデア人の商人たち,またバビロンの防御を試みるすべての者たちはどうなりますか。

      16 流刑者たちにとってバビロンは,エルサレムへの帰還を阻むという意味で獄のようなものでした。しかし,バビロンの防御物といえども,「[紅海]の中に道を」,ヨルダンの水と思われる「強い水の中に通り道を」作ったことのある全能者にとっては,障害となりません。(出エジプト記 14:16。ヨシュア 3:13)同様にエホバの代理者キュロスは,強大なユーフラテスの水位を下げ,自軍の戦士たちがバビロンに進入できるようにします。バビロンには,無数の大型の商船やバビロニアの神々の像をつけたはしけの水路となる運河が幾つもありますが,その運河を行き来しているカルデア人の商人たちは,自国の強大な首都が陥落する時,悲嘆してすすり泣きます。紅海におけるファラオの軍の兵車と同じく,バビロンの敏速な兵車も役に立ちません。バビロンを救うことができないのです。侵入軍は,ともしび皿の亜麻の灯心の火を吹き消すかのようにたやすく,防御を試みるすべての者の息の根を止めます。

      エホバはご自分の民を無事帰還させる

      17,18 (イ)エホバはどんな「新しい」ことを預言しておられますか。(ロ)どんな意味で,民は以前のことを思い出すべきではありませんか。なぜですか。

      17 エホバは,ご自分の過去の救出の行為とこれから行なおうとしている事柄とを比べて,こう言われます。「最初のことを思い出すな。以前のことを考えるな。見よ,わたしは新しいことを行なおうとしている。今にそれは起こる。あなた方はそれを知ることにならないだろうか。実際,わたしは荒野に道を,砂漠に川を設けるであろう。野の野獣,ジャッカルやだちょうがわたしの栄光をたたえるであろう。なぜなら,わたしは荒野にさえ水を,砂漠に川を与えて,わたしの民,わたしの選んだ者に飲ませるからである。それは,わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民なのである」。―イザヤ 43:18-21。

      18 エホバは,「最初のことを思い出すな」と述べておられますが,これは,僕たちが過去における神の救いの行為を記憶から消し去るべきだという意味ではありません。実のところ,そうした行為の多くは,神の霊感を受けたイスラエルの歴史書の一部となっており,エホバご自身,年ごとの過ぎ越しの祝いの際にエジプトからの脱出を思い出すよう命じておられます。(レビ記 23:5。申命記 16:1-4)とはいえエホバは,ここで民に,「新しいこと」,つまりこれから身をもって経験することに基づいて神の栄光をたたえるよう求めておられます。そうした事柄には,バビロンからの救出だけでなく,砂漠の直行ルートを行くと思われる奇跡的な帰還の旅も含まれます。その不毛の地において,エホバは民のために「道」を設け,モーセの時代のイスラエル人のために行なった事柄を思い起こさせる強力な業を行なわれます。砂漠で帰還者たちに食物を与え,渇きを本物の川でいやさせるのです。エホバの備えがあまりにも豊かなので,野獣も神の栄光をたたえ,民を襲うことを控えます。

      19 霊的なイスラエルの残りの者とその仲間たちは,どのように「神聖の道」を歩んでいますか。

      19 同様に,1919年,霊的なイスラエルの残りの者もバビロンへの捕らわれから自由にされ,エホバが整えてくださった道筋である「神聖の道」を歩み始めました。(イザヤ 35:8)イスラエル人の場合とは違い,残りの者は,焼け付くような砂漠を通って地理的に移動する必要はなく,その旅も,数か月後にエルサレムに到着して終わるようなものではありませんでした。むしろ,「神聖の道」を歩む油そそがれたクリスチャンの残りの者が到達したのは,霊的なパラダイスでした。それら残りの者は,その「神聖の道」にとどまります。この事物の体制の終わりに至るまで,なおも旅を続けなければならないからです。彼らは,この街道にとどまる限り,つまり清さと神聖さに関する神の規準を守り行なっている限り,霊的なパラダイスにもとどまります。さらに,たいへん喜ばしいことに,“イスラエル人でない”仲間たちの大群衆が加わっています。サタンの体制に頼る人々とは全く対照的に,残りの者もその仲間たちも,エホバのみ手による豊かな霊的な宴に引き続きあずかっています。(イザヤ 25:6; 65:13,14)獣のようであった大勢の人々も,神の民に注がれているエホバの祝福に気づき,自分の歩みを改めて,まことの神の栄光をたたえるようになっています。―イザヤ 11:6-9。

      エホバはご自分の苦痛を明らかにされる

      20 イザヤの時代のイスラエルは,どのようにエホバの期待を裏切りましたか。

      20 古代の回復したイスラエルの残りの者は,イザヤの時代の邪悪な世代と比べると,変化した民であると言えます。イザヤの時代の世代について,エホバはこう述べておられます。「ヤコブよ,あなたはこのわたしを呼ばなかった。イスラエルよ,あなたはわたしにうみ疲れたからである。あなたはわたしにあなたの全焼燔の捧げ物の羊を携えて来なかったし,あなたの犠牲をもってわたしの栄光をたたえることもしなかった。わたしは供え物をもってわたしに仕えるようあなたを強要したこともなく,乳香であなたをうみ疲れさせたこともない。あなたはわたしのために,芳香を放つ籐を金を払って買うこともしなかった。あなたの犠牲の脂肪でわたしを飽かさなかった。実際には,あなたはあなたの罪ゆえに仕えるようわたしを強要し,あなたの誤りでわたしをうみ疲れさせたのだ」。―イザヤ 43:22-24。

      21,22 (イ)エホバの要求は重荷ではないとなぜ言えますか。(ロ)どんな点で,民はあたかもエホバを自分たちに仕えさせているかのようですか。

      21 エホバは,「わたしは供え物をもってわたしに仕えるようあなたを強要したこともなく,乳香であなたをうみ疲れさせたこともない」と述べておられますが,これは犠牲や乳香(聖なる香の成分)が不要であるという意味ではありません。むしろ,犠牲と乳香は律法契約のもとで,真の崇拝に不可欠な要素です。「籐」についても同じことが言えます。この「籐」とは,聖なるそそぎ油の甘い香りの成分である,芳香性のしょうぶのことです。イスラエル人は神殿での奉仕においてこれらの物を使うことを怠っています。しかし,こうした要求は重荷なのでしょうか。決してそうではありません。エホバの要求は,偽りの神々の要求と比べれば軽いものです。例えば,偽りの神モレクは子どものいけにえを要求しましたが,エホバはそのような要求をしたことは一度もありません。―申命記 30:11。ミカ 6:3,4,8。

      22 イスラエル人は,霊的な知覚力を持ってさえいれば,『エホバにうみ疲れる』ことなどないはずです。律法から自分たちに対する神の深い愛を読み取り,喜んで神に「脂肪」を,つまり犠牲の最良の部分をささげるはずです。ところが,貪欲にも脂肪をわがものとしています。(レビ記 3:9-11,16)この邪悪な国民は自分たちの罪という重荷をエホバにのしかからせており,あたかも神を自分たちに仕えさせているかのようです。―ネヘミヤ 9:28-30。

      懲らしめは実を結ぶ

      23 (イ)エホバの懲らしめが全く正当であると言えるのはなぜですか。(ロ)イスラエルに与えられる神の懲らしめには,どんなことが含まれていますか。

      23 エホバの懲らしめは,たとえ厳しいもの ― もちろん正当な厳しさのもの ― であっても,望ましい結果を生み,憐れみを示すことを可能にします。「わたしが ― わたし自身のためにあなたの違犯をぬぐい去っている者なのである。わたしはあなたの罪を思い出さない。わたしに思い起こさせよ。わたしたちを共に裁きに掛けよう。あなたが正しいとされるために,それに関する自分の主張を行なえ。あなたの父,最初の者は罪をおかし,あなたの代弁者たち[「通訳たち」,脚注]はわたしに対して違犯をおかした。それで,わたしは聖なる場所の君たちを汚し,ヤコブを滅びのためにささげられた者として渡し,イスラエルをののしりの言葉に渡す」。(イザヤ 43:25-28)世界の諸国民すべてと同様,イスラエルは,「最初の者」アダムの子孫です。それゆえ,イスラエル人はだれ一人として,自分が「正しい」ことを証明できません。イスラエルの「代弁者たち」― 律法の教師あるいは通訳たち ― も,エホバに対して罪をおかし,偽りを教えてきました。それでエホバはご自分の国民をそっくり「滅び」に,また「ののしりの言葉に」引き渡します。さらに,ご自分の「聖なる場所」で職務を行なっている者たちをみな汚します。

      24 古代でも現代でも,エホバがご自分の民を許されるのは,おもにどんな理由によりますか。それでも,民に対してどんな気持ちを持っておられますか。

      24 とはいえ,結果として神が憐れみを示すのは,単にイスラエルが悔恨の情を抱くからではなく,エホバご自身のためである,という点に注目してください。そうです,エホバのみ名が関係しているのです。神がイスラエルを永久に流刑状態に捨ておくなら,それを見る者たちは神ご自身のみ名を非難するでしょう。(詩編 79:9。エゼキエル 20:8-10)同様に今日でも,人間の救いより,エホバのみ名が神聖にされること,また神の主権の正しさが立証されることのほうが重要です。とはいえエホバは,素直に懲らしめを受け入れ,霊と真理をもって神を崇拝する人々を愛しておられます。そして,イエス・キリストの犠牲に基づいてそうした人々 ― 油そそがれた者たちも,ほかの羊も ― の違犯をぬぐい去ることにより,その人々に対する愛を実証されます。―ヨハネ 3:16; 4:23,24。

      25 近い将来,畏怖の念を起こさせるどんなことをエホバは行なわれますか。わたしたちは今,どうすれば感謝の気持ちを実証できますか。

      25 さらに,間もなくエホバは,忠節な崇拝者たちの大群衆を救い出して「大患難」を通過させ,清められた「新しい地」へと導き入れることによって新しいことを行ない,その者たちに対する愛を実証されます。(啓示 7:14。ペテロ第二 3:13)その大群衆は,人類史上最も畏怖の念を抱かせるエホバの力の顕現の証人となります。そうした事柄が確かに起きると期待できるからこそ,油そそがれた残りの者と,大群衆を構成するすべての人は,歓び,「あなた方はわたしの証人である」という言葉によって与えられた崇高な任務を果たしつつ日々生きてゆくのです。―イザヤ 43:10。

      [脚注]

      a 世界各地の様々な神話の中では,多くの神々が“生み出され”たり,“子供”をもうけたりしています。

      [48,49ページの図版]

      エホバは,エルサレムに帰還するユダヤ人を支える

      [52ページの図版]

      エホバは諸国民に向かって,自分たちの神々のために証人を連れて来るよう挑戦する

      1. バアルのブロンズ像 2. アシュトレテの粘土製小立像 3. ホルス,オシリス,イシスから成るエジプトの三つ組 4. ギリシャの神アテナ(左)とアフロディテ

      [58ページの図版]

      「あなた方はわたしの証人である」。―イザヤ 43:10

  • まことの神が救出を予告する
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第5章

      まことの神が救出を予告する

      イザヤ 44:1-28

      1,2 (イ)エホバはどんな問いを提起しておられますか。(ロ)エホバは,ご自分だけがまことの神であることをどのように証明されますか。

      『だれがまことの神か』。これは,はるか昔から問われてきた点です。それで,イザヤ書の中で,エホバご自身がその問いを提起しておられるのはいかにも意外に思えます。人間に対して,『エホバは唯一まことの神か。それとも,エホバと張り合える者がいるのか』という点を考察するよう勧めておられるのです。エホバは,論議の口火を切った後,神性をめぐる論争に決着をつけるための,理にかなった基準を提供しておられます。提出されている筋道だった考えは,正直な心を持つ人々を反駁の余地のない結論へと導きます。

      2 イザヤの時代には,像の崇拝が広く行なわれています。イザヤの預言の書の44章に記録されている率直で明快な論議が示すとおり,像の崇拝はなんと無益なものなのでしょう。それなのに,神ご自身の民が偶像崇拝のわなに陥ってしまいました。そのため,イザヤ書のここまでの部分に書かれていたように,イスラエル人は強い懲らしめを受けることになっています。しかし,エホバは愛に動かされ,その国民に保証の言葉をお与えになります。エホバはバビロニア人がご自分の民を捕囚にすることを許しますが,ご予定の時にその民を救出するのです。捕囚からの救出と清い崇拝の回復とに関する預言の成就によって,エホバだけがまことの神であることが疑問の余地なく証明され,諸国民の命のない神々を崇拝する者すべては恥を被ることになります。

      3 今日のクリスチャンはイザヤの予言の言葉からどんな益を得ますか。

      3 イザヤ書のこの部分の預言と,古代におけるその成就は,今日のクリスチャンの信仰を強めます。それだけでなく,イザヤの預言の言葉はわたしたちの時代にも,さらには将来にも成就します。そして,そうした成就には,古代の神の民のために予言されたものよりも壮大な救出者と救出が関係しています。

      エホバのものである人々のための希望

      4 エホバはどのようにイスラエルを励ましておられますか。

      4 44章は積極的な調子で始まり,イスラエルが神によって選ばれ,神の僕となるために周囲の諸国民から分けられたことを思い出させています。預言はこう述べます。「今,わたしの僕ヤコブよ,わたしの選んだイスラエルよ,あなたは聴け。あなたを造った方,あなたを形造った方,あなたを腹の時から助けたエホバはこのように言われた。『わたしの僕ヤコブよ,わたしの選んだエシュルンよ,あなたは恐れてはならない』」。(イザヤ 44:1,2)エホバはイスラエルを,いわば母胎内にいる時から,つまりエジプトを出て一つの国民となった時から,ずっと世話してこられました。神はご自分の民を集合的に「エシュルン」と呼んでおられます。これは,愛情と優しさを表わす称号であり,「廉直な者」という意味です。さらにこの名は,イスラエル人が廉直さを保たなければならないことを思い出させています。彼らはしばしば廉直さを保ちませんでした。

      5,6 エホバはイスラエルのために,さわやかさを与えるどんな備えを設けられますか。それはどんな結果を生みますか。

      5 次に語られるエホバの言葉は,なんと快く,さわやかなものなのでしょう。こう述べておられます。「わたしは渇いた者に水を,滴り出る流れを乾いた場所に注ぎ出す……。わたしはあなたの胤にわたしの霊を,あなたの末孫にわたしの祝福を注ぎ出す。そして,彼らは青草の中から出るかのように,掘り割りのほとりにあるポプラのように生え出る」。(イザヤ 44:3,4)暑くて乾いた土地でも,水源のほとりには木々の生い茂ることがあります。エホバが,命を与える真理の水を供給し,聖霊を注ぎ出される時,イスラエルは,かんがい用の水路沿いにある木のように力強く栄えるでしょう。(詩編 1:3。エレミヤ 17:7,8)エホバはご自分の民に,ご自分の神性の証人としての役割を果たすための強さをお与えになるのです。

      6 こうして聖霊が注ぎ出されることの一つの結果として,一部の人々は,イスラエルとエホバとの関係について認識を新たにします。それゆえ,こう書かれています。「この者は,『わたしはエホバのもの』と言う。また,かの者は自分をヤコブの名で呼び,別の者は自分の手に『エホバのもの』と書くであろう。そして,人は自分をイスラエルの名で呼ぶであろう」。(イザヤ 44:5)そうです,エホバのみ名を担うことは誉れです。エホバが唯一まことの神とみなされるようになるからです。

      神々に対する挑戦

      7,8 エホバはどのように諸国民の神々に挑戦しておられますか。

      7 律法契約のもとでは,買い戻す者 ― 通常は最近親の男子 ― が代金をもって人を束縛のもとから買い取ることができました。(レビ記 25:47-54。ルツ 2:20)エホバはここで,ご自分がイスラエルを買い戻す者であること,つまりその国民を請け戻して,バビロンとそのすべての神々に気恥ずかしく思わせる者であることを明らかにされます。(エレミヤ 50:34)偽りの神々とその崇拝者たちに向かって,エホバはこう言われます。「イスラエルの王,これを買い戻す方,万軍のエホバ,エホバはこのように言われた。『わたしは最初であり,わたしは最後であり,わたしのほかに神はいない。また,わたしのような者がだれかいるであろうか。その者は呼ばわって,それを告げ,それをわたしに提出するがよい。わたしが昔の民を定めたときから,来ようとしていることと入って来ることとを共に彼らに告げさせよ。あなた方は怖れてはならない。動転してはならない。わたしはその時からあなたに個人的に聞かせ,それを告げ知らせなかったか。そして,あなた方はわたしの証人なのである。わたしのほかに神が存在するであろうか。いや,岩はいない。わたしは何ものをもそれと認めたことはない』」。―イザヤ 44:6-8。

      8 エホバは神々に対して,言い分があれば提出してみよと挑戦しておられます。それら神々は,無い物を有るかのように呼び,将来の物事を正確に,あたかもすでに起きているかのように予言することができるでしょうか。それができるのは,『最初であり,最後である』方だけ,つまり,どの偽りの神が考案されるよりも前から存在し,それらの神々が忘れ去られた後も存在しつづける方だけです。その方の民は,この真理に関して証しすることを恐れる必要はありません。巨大な岩のように堅固で安定した方であるエホバの支えがあるからです。―申命記 32:4。サムエル第二 22:31,32。

      像を崇拝することのむなしさ

      9 イスラエル人にとって,どんなものであれ,命あるものをかたどった物を作ることは悪でしたか。説明してください。

      9 偽りの神々に対するエホバの挑戦は,十戒の第2のおきてを思い起こさせます。そのおきては明確にこう述べていました。「あなたは自分のために,上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水の中にあるものに似せたいかなる彫刻像や形も作ってはならない。それに身をかがめてはならず,さそわれてそれに仕えてもならない」。(出エジプト記 20:4,5)言うまでもないことですが,この禁止命令は,イスラエル人が装飾用に何かをかたどった物を作ることを禁じていたわけではありません。エホバご自身も,植物やケルブをかたどった物を幕屋に置くよう指示しておられます。(出エジプト記 25:18,33; 26:31)とはいえ,それらの物は,あがめたり崇拝したりするためのものではありませんでした。いかなる人も,そうした物に向かって祈ったり,犠牲をささげたりすべきではありませんでした。神の霊感によるおきては,崇拝の対象として用いるどんな種類の像を作ることも禁じていました。像を崇拝したり,崇敬の念をこめて像に身をかがめたりすることは,偶像礼拝なのです。―ヨハネ第一 5:21。

      10,11 エホバが像を恥ずべきものと見ておられるのはなぜですか。

      10 次にイザヤは,命のない像が役に立たないことと,そうした像を作る者たちが恥を被ることについて,こう述べています。「彫刻像を形造る者はみな実在しないものであり,彼らのお気に入りの物も何の益にもならない。それらは彼らの証人として何も見ず,何も知らない。それは彼らが恥をかくためである。だれが神を形造ったり,単なる鋳像を鋳たりしたのか。それは全く何の益にもならなかった。見よ,その仲間もみな恥をかくであろう。職人たちは地の人から出たのである。彼らはみな共に集まり合う。彼らは立ち止まる。彼らは怖れる。彼らは同時に恥をかく」。―イザヤ 44:9-11。

      11 神が,そうした像を極めて恥ずべきものとみなしておられるのはなぜでしょうか。第一に,物質的なものによって全能者を正確にかたどることは不可能です。(使徒 17:29)さらに,創造者の代わりに,創造されたものを崇拝することは,エホバの神性に対する侮辱となります。また,そうした崇拝は,「神の像に」創造された人間の尊厳にそぐわないのではないでしょうか。―創世記 1:27。ローマ 1:23,25。

      12,13 人間には崇拝に値する像を巧みに作ることができないのはなぜですか。

      12 物質的なものが,崇拝用のものとして巧みに作られると,何らかの神聖さを獲得するのでしょうか。イザヤは,像を作ることは人間の労苦にすぎない,ということを思い出させています。像を作る者が用いる道具や技巧は,他の熟練工が用いるものと同じです。「かぎなたで鉄を彫る者は,炭火を使って忙しく働いた。彼はつちでそれを形造ってゆき,その力強い腕で忙しく働く。また,彼は空腹になった。そのために力が出ない。彼は水を飲まなかった。そのために疲れる。木を彫る者は測り綱を張り伸ばした。彼は朱墨でそれを描き,木を削る道具でそれを作り上げ,コンパスでそれを描いてゆき,徐々にそれを人にかたどった物に似せ,人間の美しさのように造り,家の中に座らせる」。―イザヤ 44:12,13。

      13 まことの神は,人間も含め,この地球上の生き物すべてを作られました。感覚を有する生物はエホバの神性の見事な証拠となっています。しかし,当然のことながら,エホバが創造したすべてのものはエホバより劣っています。では,人間はそれに勝ることを行なえるでしょうか。自分自身より優れたもの,専心的帰依の対象とするに値するほど優れたものを作ることができるでしょうか。人間は,像を作るとき,疲れたり,空腹になったり,渇きを覚えたりします。そうしたことは人間の持つ制約であるとはいえ,少なくとも当人が生きていることを示しています。その人が作る像は,見た目は人間に似ているかもしれず,その上,美しいかもしれません。しかし,その像には命がありません。像は決して神のようなものではありません。さらに,彫刻像が,死すべき人間以上のものを源とするかのように,「天から降ってきた」というようなことは一度もありません。―使徒 19:35。

      14 像を作る者たちはどのようにエホバに全く依存していますか。

      14 次いでイザヤは,像を作る者たちが,エホバの創造による自然の過程や物質に全く依存していることを明らかにして,こう述べます。「杉を切り倒すことを業とする者がいる。彼はある種類の木,それも巨木を取り,それを森林の木々の中で自分のために強くする。彼は月桂樹を植えた。降り注ぐ雨がそれを大きくしてゆく。そして,それは人が火を燃やしつづけるためのものとなった。すなわち,彼はその一部を取って身を暖めようとする。事実,彼は火を起こし,実際にパンを焼く。また,自分が身をかがめるための神を作る。彼はそれを彫刻像に作り,それに平伏する。彼はその半分を火の中で実際に燃やす。その半分で自分の食べる肉をよく焼いて満ち足りる。また,彼は自分の身を暖めて言う,『ははあ,暖まった。火明かりを見た』と。しかし,彼はその残りを実際に神に作り,自分のための彫刻像とする。彼はそれに平伏し,身をかがめ,それに向かって祈って言う,『わたしを救い出してください。あなたはわたしの神だからです』と」。―イザヤ 44:14-17。

      15 像を作る者は,どんな理解が全く欠けていることを示していますか。

      15 燃やされなかった薪は,だれかを救い出せるのでしょうか。もちろんできません。救出をもたらせるのは,まことの神だけです。どうして人は無生の物をあがめまつることができるのでしょうか。イザヤは問題の核心が人の心にあることを示して,こう言います。「彼らは知るようにならなかった。また,理解することもない。彼らの目は塗料にまみれて見えず,その心もそうなっていて洞察力がないからである。そして,だれも,『わたしはその半分を火の中で燃やした。わたしはまた,そのおき火でパンを焼いた。わたしは肉を焼いて食べる。それなのに,わたしはその残りでただの忌むべきものを作ったりするものか。乾き切った材木に平伏したりするものか』と言って,その心に思い起こすことも,知識または理解を持つこともない。彼は灰を食っているのである。もてあそばれたその心が彼を迷わせたのだ。そして,彼はその魂を救い出さず,『わたしの右手に偽りがあるのではないか』と言いもしない」。(イザヤ 44:18-20)そうです,偶像礼拝から霊的に良いものが得られるだろうと考えるのは,栄養豊富な食物の代わりに灰を食べるようなものです。

      16 偶像礼拝はどのように始まりましたか。どんな場合に,偶像礼拝に至りかねませんか。

      16 そもそも偶像礼拝が始まったのは天においてであり,それは,サタンとなった強力な霊の被造物が,強欲にも,エホバだけに向けられるべき崇拝を自分のものとして欲した時のことです。サタンの欲望は非常に強く,サタンを神から疎外させるまでになりました。それが偶像礼拝の実際の始まりであると言えるのは,使徒パウロが,強欲は偶像礼拝と同じであると述べているからです。(イザヤ 14:12-14。エゼキエル 28:13-15,17。コロサイ 3:5)サタンは最初の人間の夫婦を唆し,利己的な考えを抱かせました。エバは強欲にも,サタンが,「あなた方の目(は)必ず開け,あなた方(は)必ず神のようになって善悪を知るようになる」と述べて差し伸べたものを欲しがりました。イエスは,貪りは心から出ると述べました。(創世記 3:5。マルコ 7:20-23)心が腐敗していると,偶像礼拝に至りかねません。ですから,わたしたちすべてにとって,『自分の心を守り』,心の中でエホバの占めるべき場所を,決して何ものにも占めさせないようにすることは,なんと重要なのでしょう。―箴言 4:23。ヤコブ 1:14。

      エホバは心に訴えかける

      17 イスラエルはどんなことを心に留めるべきですか。

      17 次にエホバは,イスラエル人が,特権と責任の伴う立場にあることを思い起こすよう訴えかけておられます。この民は神の証人なのです。エホバはこう言われます。「ヤコブよ,そしてイスラエルよ,あなたはこれらのことを覚えておくように。あなたはわたしの僕だからである。わたしはあなたを形造った。あなたはわたしに属する僕なのである。イスラエルよ,あなたはわたしから忘れられることはない。わたしはあなたの違犯を雲によるかのように,あなたの罪を雲塊によるかのようにぬぐい去る。わたしのもとにぜひ帰れ。わたしはあなたを買い戻すからである。天よ,喜びの叫びを上げよ。エホバは行動を起こされたからである! 地の最も低い所はみな勝ちどきをあげよ! 山々よ,快活になって喜びの叫びを上げよ,森林よ,その中のすべての木々よ! エホバはヤコブを買い戻されたからである。そしてイスラエルの上にその美を示される」。―イザヤ 44:21-23。

      18 (イ)イスラエルが歓ぶべきなのはなぜですか。(ロ)今日,エホバの僕たちは,どうすれば神の憐れみの模範に見倣えますか。

      18 イスラエルがエホバを形造ったのではありません。エホバは,人間の作った神ではないのです。それどころか,エホバがイスラエルを形造り,ご自分の選んだ僕とされました。そして,その国民を救出する時に,再びご自分の神性を証明されます。神はご自分の民に優しく語りかけ,民が悔い改めるなら,その罪を完全に覆い,見通すことのできない雲の向こうに置くかのようにしてその違反を覆い隠す,と確約しておられます。イスラエルにとって,なんと歓ぶべきことなのでしょう。現代の神の僕たちはエホバの模範に動かされ,神の憐れみを見倣おうとします。過ちを犯している人を助けようとし,可能ならその人を霊的に再びしっかり立たせようと努めることによって,見倣えるのです。―ガラテア 6:1,2。

      神性に関する試験の最高潮

      19,20 (イ)エホバはご自分の陳述をどのように最高潮へ持ってゆかれますか。(ロ)エホバはご自分の民のために,どんな心温まる事柄を預言しておられますか。神の代理としてそうした事柄を遂行するのはだれですか。

      19 次いでエホバは,ご自分の法的論議を力強い最高潮へ持ってゆかれます。神性に関する最も厳しい試験,つまり将来を正確に予告する能力に関してご自分の答えを提出しようとしておられるのです。ある聖書学者は,イザヤ 44章のこれ以降の五つの節を,「イスラエルの神の卓抜さに関する詩」と呼んでいます。この神は,ただひとりの創造者であり,将来とイスラエルの救出の希望とを啓示する唯一の方なのです。その五つの節はドラマチックに,次第に強さを増してゆき,ついには,イスラエル国民をバビロンから解き放つ者の名が告示されます。

      20 「あなたを買い戻す方,あなたを腹の時から形造った方,エホバはこのように言われた。『わたし,エホバは,すべてのことを行ない,独りで天を張り伸ばし,地を張り広げている。だれがわたしと共にいたか。わたしは無意味な話をする者たちのしるしをくじいている。わたしは占い師に気違いのような振る舞いをさせる者,賢人を後戻りさせる者,彼らの知識をも愚かなものに変える者,自分の僕の言葉を真実とならせる者,自分の使者の計り事を完全に成し遂げる者,エルサレムについて,「そこに人が住むようになる」,ユダの諸都市について,「それは建て直され,わたしはその荒廃した場所を興すであろう」と言う者,水の深みに,「蒸発せよ。わたしはあなたのすべての川を干上がらせるであろう」と言う者,キュロスについてこのように言う者,「彼はわたしの牧者であり,わたしの喜ぶことをすべて完全に成し遂げるであろう」と。すなわち,エルサレムについて,「彼女は建て直されるであろう」,神殿について,「あなたはその基を据えられるであろう」と言うわたしのことばをも』」。―イザヤ 44:24-28。

      21 エホバの言葉はどんな保証を与えていますか。

      21 そうです,エホバは,将来の物事を予告する能力だけでなく,啓示したご自分の目的を完全に成し遂げる力も持っておられます。この宣言はイスラエルにとって希望の源となることでしょう。これは,バビロニアの軍勢によって国は荒廃させられても,エルサレムとそれに依存する諸都市は再興され,そこに真の崇拝が再確立されるという保証なのです。しかし,それはどのようになされるのでしょうか。

      22 ユーフラテス川がどのように蒸発するかを説明してください。

      22 霊感を受けていない占い師たちはたいてい,時の経過によって自分たちの間違いが明らかになることを恐れて,具体的に予言することをしり込みします。それとは対照的に,エホバはイザヤを通して,故国へ戻ってエルサレムと神殿を建て直せるようご自分の民を捕らわれから自由にするためにお用いになる者の名までも啓示しておられます。その者の名はキュロスであり,ペルシャのキュロス大王として知られています。さらにエホバは,バビロンの巨大で手の込んだ防衛体制をくぐって突入するためにキュロスが用いる戦術についても詳細に告げておられます。バビロンは,高い城壁によって,また市を貫き,市の周囲にも巡らされた水路によって守られています。キュロスは,自分に有利なように,防衛体制のかなめの一つであるユーフラテス川を曲げます。古代の歴史家であるヘロドトスとクセノフォンによれば,バビロンより上流のある地点で,キュロスはユーフラテスの水をよそに流して川の水位を下げ,ついには自軍の兵士たちが歩いて通れるようにしました。バビロンを守る能力に関する限り,強大なユーフラテスも蒸発してしまいます。

      23 キュロスがイスラエルを解き放つという預言の成就に関して,どんな記録がありますか。

      23 では,キュロスが神の民を解放し,エルサレムと神殿を建て直せるよう取り計らう,という約束については何と言えますか。聖書に保存されている公式の布告の中で,キュロス自身がこう宣言しています。「ペルシャの王キュロスはこのように言う。『地のすべての王国を天の神エホバはわたしに賜わり,この方が,ユダにあるエルサレムにご自分のために家を建てることをわたしにゆだねられた。すべてその民の者で,あなた方の中にいる者はだれでも,その神がその人と共にいてくださるように。それゆえ,その人はユダにあるエルサレムに上って行き,エルサレムにあったイスラエルの神エホバ ― この方はまことの神であられる ― の家を建て直すように』」。(エズラ 1:2,3)イザヤを通して語られたエホバの言葉は完全に成就するのです。

      イザヤ,キュロス,そして今日のクリスチャン

      24 「エルサレムを修復して建て直せ」というアルタクセルクセスの命令が発せられることと,メシアの到来とには,どんな関係がありますか。

      24 イザヤ 44章は,唯一まことの神,また古代の神の民の救出者として,エホバを大いなるものとしています。さらに,今日のわたしたちすべてにとっても,その預言は意味深いものです。西暦前538年から537年にかけて出された,エルサレムの神殿を建て直すようにとのキュロスの布告がきっかけとなって幾つかの出来事が生じ,その結果,もう一つの目ざましい預言が成就しました。キュロスが布告を出した後,別の支配者アルタクセルクセスがエルサレムの都を建て直せという布告を出しました。ダニエル書が明らかにしたところによれば,「エルサレムを修復して建て直せという言葉が[西暦前455年に]発せられてから指導者であるメシアまでに」,1「週」を7年とする69「週」があります。(ダニエル 9:24,25)この預言もそのとおりになりました。まさに予定どおり,アルタクセルクセスの布告が約束の地で実施されてから483年後の西暦29年に,イエスはバプテスマを受け,地上での宣教を開始したのです。a

      25 キュロスの手によってバビロンが倒されたことは,現代におけるどんなことを指し示していますか。

      25 バビロンの陥落によって可能になった忠節なユダヤ人の流刑からの解放は,油そそがれたクリスチャンたちが1919年に霊的な流刑から解放されることを予表していました。その解放は,娼婦として描かれている別のバビロン,つまり大いなるバビロン ― 世界の偽りの宗教すべての集合的象徴 ― が倒壊を経験したことの証拠となりました。「啓示」の書に記録されているとおり,使徒ヨハネはその倒壊を予見していました。(啓示 14:8)さらに,その突然の滅びも予見しています。その偶像に満ちた世界帝国の滅びに関するヨハネの記述は,幾つかの点で,キュロスが古代都市バビロンを見事に征服することに関するイザヤの記述に似ています。バビロンの防衛用の水路が同市をキュロスの手から救えなかったのと同様,大いなるバビロンが当然の滅びを被る前に,そのバビロンを支持し防衛している人類という「水」は『かれてしまう』でしょう。―啓示 16:12。b

      26 イザヤの預言とその成就はどのようにわたしたちの信仰を強めますか。

      26 イザヤが預言を語ってから2,500年以上後の時代に生きているわたしたちは,神が確かに「自分の使者の計り事を完全に成し遂げる」方であることを理解できます。(イザヤ 44:26)このように,イザヤの預言の成就は,聖書中の預言すべてが信頼できるものであることを示す際立った実例なのです。

      [脚注]

      a ものみの塔聖書冊子協会発行の「ダニエルの預言に注意を払いなさい」という本の11章をご覧ください。

      b ものみの塔聖書冊子協会発行の「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の35章と36章をご覧ください。

      [63ページの図版]

      燃やされなかった薪は,だれかを救い出せるだろうか

      [75ページの図版]

      キュロスはユーフラテスの流れを変えることにより,預言を成就する

  • エホバ ―「義なる神,救い主」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第6章

      エホバ ―「義なる神,救い主」

      イザヤ 45:1-25

      1,2 イザヤ 45章にはどんな保証の言葉が述べられていますか。これからどんな質問を取り上げますか。

      エホバの約束は信頼できます。エホバは啓示の神であり,創造の神です。義の神であり,すべての国の民の救い主であることを,これまで幾度も証明してこられました。イザヤ 45章には,そのことを示す数々の心温まる保証の言葉が収められています。

      2 それに加えてイザヤ 45章には,エホバの預言の能力に関する,一つの特筆すべき事例が記されています。イザヤは神の霊の助けにより,遠方の国々に目を凝らし,何世紀も先に起きる事柄を概観します。そして,神の霊に動かされて一つの出来事を記述します。それは,真の預言の神であるエホバにしかできない正確さをもって予告されています。どんな出来事でしょうか。それはイザヤの時代の神の民にどのように影響しますか。今日のわたしたちにはどんな意義があるのでしょうか。では,預言者イザヤの言葉を調べてみましょう。

      バビロンに対するエホバの宣告

      3 イザヤ 45章1-3節前半は,キュロスによる征服をどのように生き生きと描写していますか。

      3 「エホバは,その油そそがれた者キュロスにこのように言われた。わたしはその右手を取った。それは,彼の前に諸国の民を従えるため,わたしが王たちの腰の帯を解くためである。彼の前に二枚扉を開いて,門が閉じられないようにするためである。わたし自らあなたの前を行き,地盤の高みをまっすぐにする。わたしは銅の扉を粉々に砕き,鉄のかんぬきを切り落とす。そして,わたしは闇の中の財宝と,隠れ場所の隠された財宝とをあなたに与える」。―イザヤ 45:1-3前半。

      4 (イ)エホバがキュロスをご自分の「油そそがれた者」と呼んでおられるのはなぜですか。(ロ)エホバはどのようにキュロスの勝利を確実なものとされますか。

      4 エホバはイザヤを通して,イザヤの時代にはまだ生まれていなかったキュロスに,あたかもキュロスがすでに生きているかのように語りかけておられます。(ローマ 4:17)エホバが事前にキュロスを任命して特定の仕事を成し遂げさせるので,キュロスは神の「油そそがれた者」であると言えます。神に導かれて諸国の民を従え,王たちを,弱々しくて抵抗する力のない者とするのです。そして,キュロスがバビロンを攻撃する時,エホバは,その都の扉が開け放たれたままで,打ち壊された門と同じほど役に立たなくなるよう取り計らいます。神はキュロスの前を行き,障害物すべてを平らにします。最終的に,キュロスの軍隊はバビロンを征服し,その都の「隠された財宝」,暗い部屋に蓄えられた富を手に入れます。イザヤはそう予告しています。その言葉どおりになるでしょうか。

      5,6 バビロンの倒壊に関する預言どおりのことが,いつ,どのように生じましたか。

      5 西暦前539年,つまりイザヤがこの預言を記してから200年ほど後に,キュロスはまさしくバビロンの城壁に到達し,その都を攻撃しようとします。(エレミヤ 51:11,12)しかし,バビロニア人は心配しません。都は難攻不落だと思っているのです。そそり立つ城壁の下には,都の防衛システムの一部であるユーフラテス川の水をたたえた深い堀があります。それまでの100年以上にわたって,いかなる敵軍もバビロンを急襲して攻め取ることはできませんでした。事実,そこに住んでいるバビロンの支配者ベルシャザルは安心しきって,廷臣たちと宴会を開いているほどです。(ダニエル 5:1)その夜,つまり10月5日から6日にかけての夜,キュロスは見事な軍事作戦をやってのけます。

      6 バビロンの上流で,キュロスの工兵はユーフラテス川の土手を切り崩して流れを変え,都に向かって南に流れないようにしました。やがて,バビロンの中と周囲を流れる川の水位が下がり,キュロスの軍隊は都の中心部を目指し,川床の水をかき分けて歩いてゆけるようになります。(イザヤ 44:27。エレミヤ 50:38)驚くべきことに,イザヤの予告どおり,川に沿って並ぶ門は開け放たれたままです。キュロスの軍勢はバビロンになだれ込み,王宮を占拠してベルシャザル王を殺します。(ダニエル 5:30)征服は一夜にして完了します。バビロンは倒壊し,預言は一字一句に至るまで成就します。

      7 クリスチャンは,キュロスに関するイザヤの預言が驚くべき成就を遂げたことにより,どのように強められますか。

      7 この預言が詳細な点に至るまで成就したことは,今日のクリスチャンの信仰を強めます。まだ成就していない聖書預言も全面的に信頼できる,と信じる強力な理由となるのです。(ペテロ第二 1:20,21)エホバの崇拝者は,西暦前539年のバビロンの倒壊によって予表された出来事,つまり「大いなるバビロン」の倒壊がすでに1919年に生じたことを知っています。さらに,その現代の宗教組織が滅ぼされ,サタンの支配下にある政治体制が約束どおり取り除かれ,サタンが底知れぬ深みに入れられ,新しい天と新しい地が到来することを待ち望んでいます。(啓示 18:2,21; 19:19-21; 20:1-3,12,13; 21:1-4)エホバの預言が空約束などではなく,具体的な将来の物事の記述であることを知っているのです。真のクリスチャンは,バビロンの倒壊に関するイザヤの預言がすべての詳細な点に至るまで成就したことを思い出し,確信を強めます。エホバがご自分の言葉を必ず果たされることを知っているのです。

      エホバがキュロスに好意を示す理由

      8 エホバがバビロンに対する勝利をキュロスに与える一つの理由は何ですか。

      8 エホバは,だれがどのようにバビロンを征服するかについて述べた後,言葉を続け,キュロスに勝利が与えられる一つの理由を説明なさいます。預言として,キュロスに向かってこう語っておられます。「それは,わたしがあなたをあなたの名によって呼ぶ者,イスラエルの神,エホバであることをあなたが知るためである」。(イザヤ 45:3後半)聖書の歴史における第四世界強国の支配者が,自分の大勝利は,自分より偉大な方,つまり宇宙主権者エホバの力添えによる,ということを認識するのはふさわしいことです。キュロスは,自分を呼ぶ方,つまり任命する方がイスラエルの神エホバであることを認めるべきなのです。聖書の記録によれば,キュロスは自分の大勝利がエホバのおかげであることを確かに認めました。―エズラ 1:2,3。

      9 エホバがキュロスにバビロンを征服させる2番目の理由は何ですか。

      9 エホバは,キュロスにバビロンを征服させる2番目の理由を説明しておられます。「わたしの僕ヤコブとわたしの選んだ者イスラエルのために,わたしはあなたをあなたの名によって呼ぶようになった。あなたはわたしを知らなかったが,わたしはあなたに誉れある名を与えるようになった」。(イザヤ 45:4)バビロンに対するキュロスの勝利は世界を揺るがします。その勝利は,一つの世界強国の没落と別の世界強国の勃興とをはっきり示し,その後,何世代にもわたる歴史に影響を残すのです。とはいえ,事態を不安げに見守る近隣諸国の人々は,このすべてが,バビロンにいる万を数える程度の“取るに足りない”流刑囚のために,つまりヤコブの子孫であるユダヤ人のために起きるということを知るなら,恐らく仰天するでしょう。しかしエホバの目から見ると,それら古代イスラエル国民の生存者は取るに足りない者などではありません。ご自分の「僕」なのです。地上に数ある国民の中で,その民こそがご自分の「選んだ者」なのです。キュロスは,以前はエホバを知らなかったとはいえ,このたびはエホバによって油そそがれた者として用いられ,捕らわれ人を手離そうとしないこの都を覆します。ご自分の選んだ民が異国の地でいつまでも意気消沈していることは,神の意図するところではありません。

      10 エホバがキュロスを用いてバビロニア世界強国に終わりをもたらす最も重要な理由は何ですか。

      10 エホバがキュロスを用いてバビロンを覆すことには,3番目の,いっそう重要な理由があります。エホバはこう言われます。「わたしはエホバであり,ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知ってはいないが,わたしはあなたに固く帯を締める。それは,日の昇る方から,またその沈む方から,わたしのほかにはだれもいないことを人々が知るためである。わたしはエホバであり,ほかにはいない」。(イザヤ 45:5,6)そうです,バビロニア世界強国の倒壊はエホバの神性の表明であり,崇拝に値するのはエホバだけであることを万人に示す証拠となるのです。神の民が解放されることにより,東から西までの多くの国の人々は,エホバが唯一まことの神であることを認めるようになるでしょう。―マラキ 1:11。

      11 エホバは,バビロンに関する目的を成し遂げる力を持っていることを,どのように例示しておられますか。

      11 このイザヤの預言が記されたのは実際に出来事が生じる200年ほど前であったことを思い出してください。その預言を聞いた人たちは,『エホバにはこれを成就する力が本当にあるのだろうか』と考えたかもしれません。歴史上の証拠によれば,『エホバにはその力がある』と言えます。エホバがご自分の言葉を果たせる方であると信じることは道理にかなっています。エホバはその理由を説明し,こう言われます。「光を形造り,闇を創造し,平和を作り,災いを創造すること,これらのことすべてを,わたし,エホバは行なっているのである」。(イザヤ 45:7)光から闇に至るまで創造されたものすべて,また平和から災いに至るまで歴史上の物事すべては,エホバの制御下にあります。エホバは,昼の光と夜の闇を創造するのと同様に,イスラエルのために平和を,バビロンのために災いを作ります。エホバは,宇宙を創造する力も,自分の預言を成就する力も持っておられるのです。このことは,神の預言の言葉を入念に研究する今日のクリスチャンに安心感を抱かせます。

      12 (イ)エホバは,比喩的な天と地に何を生み出させますか。(ロ)イザヤ 45章8節の言葉には,今日のクリスチャンを元気づけるどんな約束が含まれていますか。

      12 適切にもエホバは,創造物に普通に生じる現象を例えに用いて,捕らわれの身のユダヤ人の前途に待ち受ける事柄を示し,こう述べます。「天よ,上から滴らせよ。雲のかかった空も義をもって滴れ。地は開き,救いの実を豊かに結び,同時に義を生え出させよ。わたし自ら,エホバがこれを創造したのである」。(イザヤ 45:8)文字どおりの天が,命を与える雨を降らせるのと同じく,エホバは比喩的な天からご自分の民に,義にかなった影響力を降り注がせます。そして,文字どおりの地が開いて豊作をもたらすのと同じく,エホバは比喩的な地に命じて,ご自分の義の目的に調和した出来事を,とりわけバビロンに捕らわれているご自分の民の救いを生み出させます。1919年にエホバは,ご自分の民を解き放つため,「天」と「地」に同様の幾つかの出来事を生み出させました。今日のクリスチャンは,そうした事柄を見て歓びます。なぜでしょうか。なぜなら,それらの出来事により,比喩的な天である神の王国が義の満ちる地に祝福をもたらす時代を待ち望むクリスチャンの信仰は強められるからです。その時代に,比喩的な天と地は,古代バビロンが覆された時よりはるかに壮大なスケールで義と救いを生み出すことでしょう。それはイザヤの言葉の実に輝かしい最終的な成就となるのです。―ペテロ第二 3:13。啓示 21:1。

      エホバの主権を認めるなら祝福を受ける

      13 人間がエホバの目的に異議を申し立てるのはばかげている,と言えるのはなぜですか。

      13 こうして将来の喜ばしい祝福について述べた後,預言の調子は急に変わり,イザヤは二重の災いを宣告します。「土器のかけらが土の他の土器のかけらと争うかのように,自分を形造った方と争った者は災いだ! 粘土がそれを形造る者に向かって,『あなたは何を作るのか』と言ってよいだろうか。また,あなたの作り上げたものが,『彼には手がない』と言ってよいだろうか。父に向かって,『あなたは何の父となるのか』と言い,その妻に向かって,『あなたは何によって産みの苦しみをしているのか』と言う者は災いだ」。(イザヤ 45:9,10)イスラエルの子らはエホバの予告に異議を唱えているものと思われます。ご自分の民が流刑に処されるのをエホバがお許しになる,ということを信じていないのでしょう。あるいは,イスラエルが,ダビデの家系の王によってではなく,異教の国の王によって解放される,という考えに承服できないのかもしれません。そうした反対意見が不合理であることを示すため,イザヤは反対者たちを,ずうずうしくも自分たちの作者の知恵に疑問を唱える,捨てられた粘土のかたまりや陶器の小片に例えています。陶器師によって形造られた物が,ほかならぬその陶器師には手も物を形造る力もないと唱えているのです。なんと愚かなことでしょう。反対者たちは,親の権威に文句をつける幼い子供のようです。

      14,15 「聖なる方」および「形造った方」という表現は,エホバに関して何を明らかにしていますか。

      14 イザヤは,そうした反対者たちにエホバからの返答を伝えます。「イスラエルの聖なる方,これを形造った方,エホバはこのように言われた。『わたしの子らに関して来ようとしている事柄についてわたしに尋ねよ。わたしの手の働きに関してあなた方はわたしに命ずべきである。わたし自身が地を造り,その上に人をも創造した。わたしが,わたしの手が天を張り伸ばし,わたしはその全軍に命じたのである。わたし自身がある者を義のうちに奮い立たせた。わたしは彼のすべての道をまっすぐにする。彼がわたしの都市を建てる者である。彼は流刑に処せられているわたしの者たちを釈放するが,それは代価のためでも,わいろのためでもない』と,万軍のエホバは言われた」。―イザヤ 45:11-13。

      15 エホバを「聖なる方」と呼ぶことにより,その方の神聖さが際立たせられています。また,「形造った方」と呼ぶことにより,物事の成り行きを定める,創造者としての神の権利が強調されています。エホバは,イスラエルの子らに将来の事柄を告げることも,ご自分の手の業である民を世話することもできます。ここでも,創造と啓示の原理が,語り伝えるべきものとして示されています。全宇宙の創造者であるエホバは,ご自分の決定どおりに物事を導く権利を有しておられます。(歴代第一 29:11,12)議論の的となっている事例について言えば,主権者なる支配者は,イスラエルを解放する者として異教徒のキュロスを奮い立たせることを決定なさいました。キュロスの到来は,まだ将来のこととはいえ,天と地が存在するのと同じほど確実です。ですから,イスラエルの子らのうちの一体だれが,「万軍のエホバ」であるみ父をあえて批判しようなどと思うでしょうか。

      16 エホバの僕たちがエホバに服すべきなのはなぜですか。

      16 イザヤ書の同じ部分には,神の僕たちが神に服すべきもう一つの理由も記されています。神の決定は,常に僕たちの最善の益を図って下されます。(ヨブ 36:3)神は,ご自分の民が自らを益するのに役立つ律法を制定されました。(イザヤ 48:17)キュロスの時代の,エホバの主権を認めるユダヤ人は,そのとおりであることを理解します。キュロスはエホバの義と調和した行動を取り,ユダヤ人をバビロンから故国へ帰還させ,神殿を建て直せるようにします。(エズラ 6:3-5)同様に今日でも,日常生活で神の律法を適用し,神の主権に服する人たちは,祝福を経験しています。―詩編 1:1-3; 19:7; 119:105。ヨハネ 8:31,32。

      他の国民の受ける祝福

      17 イスラエルのほかに,だれがエホバの救いの行為から益を受けますか。どのようにですか。

      17 バビロンの倒壊から益を受ける国民はイスラエルだけではありません。イザヤはこう述べています。「エホバはこのように言われた。『エジプトの無給労働者,エチオピアの商人,背の高い者であるシバ人,彼らは自らあなたのもとにやって来て,あなたのものとなる。彼らはあなたの後ろについて歩き,足かせをはめられてやって来て,あなたに身をかがめる。彼らはあなたに祈って,言うであろう,「本当に,神はあなたと共におられます。ほかにはいません。ほかの神はいません」』」。(イザヤ 45:14)モーセの時代,エジプトから脱出するイスラエル人に,非イスラエル人の「入り混じった大集団」が同行しました。(出エジプト記 12:37,38)同様に,バビロンから故国に帰還するユダヤ人流刑者にも異国の者たちが同行します。それら非ユダヤ人は行くよう強制されるのではなく,『自らやって来る』のです。「彼らは……あなたに身をかがめる」,また『彼らはあなたに祈る』というエホバの言葉は,それら異国の者たちがイスラエルに対して進んで示す服従と忠誠について述べています。足かせをはめられているとしても,それは自発的なものであり,進んで神の契約の民に仕えることを意味しています。その契約の民に向かって「神はあなたと共におられます」と言うのです。神がイスラエルと結んだ契約の規定に従い,異国の者たちは改宗者としてエホバを崇拝します。―イザヤ 56:6。

      18 エホバが「神のイスラエル」を解き放つことから,今日のどんな人々が益を受けてきましたか。どのようにですか。

      18 「神のイスラエル」が霊的な捕らわれから解放された1919年以来,イザヤの言葉はキュロスの時代より壮大な成就を見てきました。全地の何百万もの人々が,進んでエホバに仕える態度を示しているのです。(ガラテア 6:16。ゼカリヤ 8:23)その人々は,イザヤが述べている「労働者」や「商人」のように自分の体力や資産を快く提供し,真の崇拝を支持しています。(マタイ 25:34-40。マルコ 12:30)神に献身してその道筋を歩み,喜んで神の僕となっています。(ルカ 9:23)エホバだけを崇拝し,神との特別な契約関係にあるエホバの「忠実で思慮深い奴隷」と交わることから益を受けています。(マタイ 24:45-47; 26:28。ヘブライ 8:8-13)それら「労働者」や「商人」たちはその契約の当事者ではないものの,その契約から益を受け,その契約に伴う律法を遵守し,「ほかの神はいません」と大胆にふれ告げています。今日,真の崇拝を進んで支持するそうした人々の数が大いに増加しているのを目の当たりにできるので,本当に胸が躍ります。―イザヤ 60:22。

      19 偶像崇拝をやめようとしない人々はどうなりますか。

      19 預言者イザヤは,諸国の民がエホバの崇拝に加わることを明らかにした後,声を大にしてこう言います。「まことに,イスラエルの神,救い主であるあなたは,ご自身を覆い隠す神です」。(イザヤ 45:15)エホバは,現在は自分の力を示すことを差し控えておられますが,将来においては,ご自身を隠すことはもうありません。自分がイスラエルの神,自分の民の救い主であることを示されます。しかし,エホバは偶像に依り頼む人々の救い主とはなりません。そうした人々について,イザヤはこう述べています。「彼らはひとり残らず必ず恥をかき,辱めを受ける。偶像の形を作り上げる者たちは,共に辱めのうちに歩むことを余儀なくされる」。(イザヤ 45:16)彼らの受ける辱めは,一時的な不名誉や恥といった程度のものではありません。死を意味するのです。それは,エホバが次にイスラエルに約束しておられる事柄とは正反対です。

      20 イスラエルはどのように『定めのない時にわたる救い』を経験しますか。

      20 「一方イスラエルは,エホバと共にあって,定めのない時にわたり必ず救いをもって救われる。あなた方は恥じることなく,とこしえの定めのない時にわたって辱めを受けることもない」。(イザヤ 45:17)エホバはイスラエルにとこしえの救いを約束しておられます。しかし,それには条件があります。イスラエルは『エホバと共にあり』続けなければならないのです。イスラエルは,メシアであるイエスを退けることによってエホバとのこの結びつきを断つとき,国民として『定めのない時にわたる救い』を受ける見込みを失うことになります。しかし,イスラエルの一部の人々はイエスに信仰を働かせ,肉のイスラエルに代わって立てられる神のイスラエルの中核となります。(マタイ 21:43。ガラテア 3:28,29。ペテロ第一 2:9)霊的なイスラエルが辱めを受けることは決してありません。そのイスラエルは「永遠の契約」に入れられるのです。―ヘブライ 13:20。

      創造の面でも啓示の面でも,エホバは信頼に値する

      21 エホバは,創造の面でも啓示の面でもご自分が全き信頼に値することをどのように示しておられますか。

      21 ユダヤ人は,イスラエルにとこしえの救いを与えるというエホバの約束を信頼してよいのでしょうか。イザヤはこう答えます。「天の創造者,まことの神,地を形造られた方,それを造られた方,それを堅く立て,それをいたずらに創造せず,人が住むために形造られた方,エホバはこのように言われた……。『わたしはエホバであり,ほかにはだれもいない。わたしは,隠れ場所で,地の暗い場所で語ったのではない。また,ヤコブの胤に,「あなた方はただいたずらにわたしを求めよ」と言いもしなかった。わたしはエホバであり,義なることを語り,廉直なことを告げるのである』」。(イザヤ 45:18,19)この章の中で,イザヤが「エホバはこのように言われた」と述べて重要な預言の言葉を語り始めるのは,これが4度目であり,最後です。(イザヤ 45:1,11,14)エホバは何と述べておられますか。創造と啓示の両面においてご自分は信頼に値する,と述べておられます。神は地を「いたずらに」創造したのではありません。それと同様,ご自分の民であるイスラエルにも,「ただいたずらに」ご自分を求めよとは言われません。地に対する神の目的が果たされるのと同じく,ご自分の選んだ民に対する神の目的も果たされます。偽りの神々に仕える者たちが述べる不明瞭な言葉とは対照的に,エホバの言葉は公然と語られます。神の言葉は正しいものであり,実現します。神に仕える者の奉仕が無駄になることはありません。

      22 (イ)バビロンで流刑になっているユダヤ人はどんなことを確信できますか。(ロ)今日のクリスチャンにはどんな保証の言葉がありますか。

      22 バビロンで流刑になっている神の民にとって,この言葉は,約束の地が荒廃したまま放置されることはないという保証です。その地には再び人が住むようになるのです。そして,その民に対するエホバの数々の約束は実現します。広義には,イザヤの言葉は今日の神の民に対する保証の言葉でもあると言えます。地は,一部の人たちが信じているような焼け焦げた廃墟になるのでも,他の人たちが恐れているように核爆弾で破壊された廃墟になるのでもありません。神の目的は,地が楽園としての美をまとい,義にかなった人々の住む場所として永久に存続することです。(詩編 37:11,29; 115:16。マタイ 6:9,10。啓示 21:3,4)そうです,イスラエルの場合と同様,エホバの言葉が信頼に値するものであることが証明されるのです。

      エホバは憐れみを差し伸べる

      23 偶像を崇拝する人々はどうなりますか。一方,エホバを崇拝する人々はどうなりますか。

      23 続くエホバの言葉は,イスラエルの救いを強調しています。「集まって,来るがよい。諸国民から逃れてきた者たちよ,共に近寄れ。彫刻像の木を運ぶ者たちは何も知るようにはならなかった。救うことのできない神に祈る者たちもそうである。あなた方は報告し,提出せよ。そうだ,彼らは一緒に協議するがよい。だれがこれを昔から聞かせたか。だれがまさにその時からこれを報告したか。それはわたし,エホバではないか。わたしを別にしてほかに神はいない。義なる神,救い主はわたしを別にしてはいない」。(イザヤ 45:20,21)エホバは「逃れてきた者たち」を呼び寄せ,自分たちの救いを,偶像を崇拝する人々に生じる事柄と比較するよう命じておられます。(申命記 30:3。エレミヤ 29:14; 50:28)偶像礼拝者たちは,救うことのできない無力な神々に祈り,仕えているゆえに,『何も知るようにはならない』のです。その者たちの崇拝は無駄であり,何の役にも立ちません。しかしエホバを崇拝する人々は,神には「昔」に予告した物事を成し遂げる力があることを理解します。予告の中には,バビロンで流刑になっている神の民を救うことが含まれています。そうした力と先見のゆえに,エホバは他のすべての神々と一線を画しています。まさに「義なる神,救い主」なのです。

      『救いはわたしたちの神による』

      24,25 (イ)エホバは,どんな招きの言葉を述べておられますか。神の約束が確かに成就すると言えるのはなぜですか。(ロ)エホバは何を求める権利を有しておられますか。

      24 エホバは憐れみの気持ちから,こう招いておられます。「地の果てにいるすべての者よ,わたしの方を向き,救われよ。わたしは神であり,ほかにはいない。わたしは自分自身にかけて誓った ― わたしの口から,義のうちに言葉が出て行った。それゆえに,それは帰って来ない。―すなわち,すべてのひざはわたしに向かってかがみ,すべての舌は誓って,言うであろう,『確かに,エホバのうちには義と強さが余すところなく宿っている。この方に向かって激こうする者は,皆まっすぐそのもとに来て,恥をかく。イスラエルの胤は皆エホバにあって正しい者とされ,自分たちのことを誇るであろう』」。―イザヤ 45:22-25。

      25 エホバはイスラエルに,バビロンにいながらもご自分の方を向く者たちを救うと約束しておられます。エホバの預言が成就し損なうことはあり得ません。エホバはご自分の民を救出したいという意志も,そうする能力もお持ちだからです。(イザヤ 55:11)神の言葉はそれ自体で信頼できるものですが,エホバが自ら誓いを付け加えて確証をお与えになる場合は,なおのこと信頼できます。(ヘブライ 6:13)神は,神の恵みを求める者たちに,服従(『すべてのひざはかがむ』)と確約(『すべての舌は誓う』)を求める権利を有しておられます。たゆまずエホバを崇拝するイスラエル人は救われ,エホバがしてくださる事柄を誇ることができます。―コリント第二 10:17。

      26 すべての国民から来た「大群衆」は,ご自分の方を向くようにというエホバの招きにどのようにこたえ応じていますか。

      26 ご自分の方を向くようにという神の招きは,古代バビロンにいた流刑者だけに差し伸べられているのではありません。(使徒 14:14,15; 15:19。テモテ第一 2:3,4)その招きは今でも差し伸べられており,『すべての国民の中から来た大群衆』がこたえ応じ,「救いは,……わたしたちの神と,子羊[イエス]とによります」と公言しています。(啓示 7:9,10; 15:4)毎年,何十万もの人々が神の方を向いて神の主権を全面的に認め,神に対する忠誠を公に宣言するにつれ,大群衆の人数はいよいよ増しています。そして,「アブラハムの胤」である霊的イスラエルを忠節に支持しています。(ガラテア 3:29)また,「確かに,エホバのうちには義と強さが余すところなく宿っている」と世界中でふれ告げることにより,エホバの義の支配に対する愛を表明しています。a 使徒パウロはローマ人への手紙の中で「セプトゥアギンタ訳」のイザヤ 45章23節を引用し,最終的に,生きているすべての者が神の主権を認め,神のみ名を絶えず賛美するようになることを示しています。―ローマ 14:11。フィリピ 2:9-11。啓示 21:22-27。

      27 今日のクリスチャンがエホバの約束に絶対の信頼を抱けるのはなぜですか。

      27 神の方を向くなら救われるということを,大群衆に属する人々が信頼できるのはなぜですか。イザヤ 45章の預言の言葉がはっきり示しているとおり,エホバの約束は信頼に値するからです。エホバは,天と地を創造するのに必要な力と知恵を有しておられるのと同様,預言を実現させるのに必要な力と知恵もお持ちです。そして,キュロスに関する預言を実現させたのと同様,これから成就する他の聖書預言もすべて成就させてゆかれます。だからこそエホバの崇拝者は,エホバが「義なる神,救い主」であることが間もなく再び証明されることを確信できるのです。

      [脚注]

      a 「新世界訳」は,「義……が余すところなく」という表現を用いています。それは,ヘブライ語本文で「義」という語が複数形になっているからです。この場合,複数形は,エホバの義の豊かさを表現するために用いられています。

      [80,81ページの図版]

      光を形造り,闇を創造する方であるエホバは,平和を作り,災いを創造することもできる

      [83ページの図版]

      エホバは,「天」が雨のように祝福を注ぎ,「地」が救いを生み出すようにされる

      [84ページの図版]

      捨てられた陶器の小片が,自分を作った者の知恵に疑問を唱えてよいだろうか

      [89ページの図版]

      エホバは地をいたずらに創造したのではない

  • エホバの崇拝へ戻れ
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第7章

      エホバの崇拝へ戻れ

      イザヤ 46:1-13

      1 バビロンのおもだった神々のうちの二つは,どんな名前で呼ばれていますか。それら二つの神に関して,どんなことが予告されていますか。

      イスラエルは,バビロンへの流刑に処されると,偽りの崇拝に囲まれることになります。イザヤの時代,エホバの民はまだ自国で暮らしており,神殿と祭司職を有しています。それにもかかわらず,神に献身した国民の中には偶像礼拝に陥っている人が大勢います。そのため,バビロンの偽りの神々に圧倒されたり,それらに仕えたいという気持ちになったりしないよう,事前に備えさせておくことがどうしても必要です。そこでイザヤは,バビロニアの主要な神々のうちの二つについて預言的に語り,こう言います。「ベルは身をかがめた。ネボは体を曲げている。彼らの偶像は野獣のため,家畜のためのものとなり,彼らの荷,荷物は,疲れた動物のための重荷となった」。(イザヤ 46:1)ベルは,カルデア人の偶像神の中の主神です。ネボは知恵と学問の神としてあがめられています。これら二つの神が崇敬を集めていることは,その名がバビロニア人の数多くの人名に取り込まれていることからも分かります。例えば,ベルシャザル,ナボポラッサル,ネブカドネザル,ネブザラダンなどです。

      2 バビロンの神々の無力さがどのように強調されていますか。

      2 ベルは「身をかがめた」,ネボは「体を曲げている」とイザヤは述べています。これら偽りの神々は低められるのです。エホバがバビロンに対する裁きを実行するとき,この神々は崇拝者たちを助けに来ることができません。自らを救うことすらできないのです。バビロニアの新年の祭りなどの際に,ベルとネボが行列の中の栄誉ある位置で運ばれることはなくなります。それどころか,崇拝者によって単なる荷物として運搬されることに甘んじなければなりません。賛美や敬愛の代わりに,嘲笑や侮べつを受けるようになります。

      3 (イ)バビロニア人はなぜショックを受けますか。(ロ)バビロンの神々に生じた事柄から,今日どんなことが分かりますか。

      3 バビロニア人は,自分たちの大切にしている偶像が,疲れた獣の運んでゆく重荷にすぎないことを知って,ひどいショックを受けます。同様に今日でも,世の神々,つまり人々が信頼を置き,自分の体力や命さえもささげているものは,さながら幻影のようです。財産,軍備,快楽,支配者,祖国あるいはその象徴など,多くのものが専心的な帰依の対象とされてきました。そうした神々のむなしさは,エホバの定めの時にあらわにされます。―ダニエル 11:38。マタイ 6:24。使徒 12:22。フィリピ 3:19。コロサイ 3:5。啓示 13:14,15。

      4 バビロンの神々はどんな意味で「体を曲げ」,「身をかがめ」ますか。

      4 預言はさらに,バビロンの神々の甚だしい衰退をいっそう際立たせ,こう述べます。「それらは必ず体を曲げ,各々同じように身をかがめる。それらはその重荷を到底逃れさせることはできず,彼ら自身の魂は必ず捕らわれの身となって行く」。(イザヤ 46:2)バビロンの神々は,まるで戦闘で傷を負ったか,老いぼれてしまったかのように,「体を曲げ」,「身をかがめ」ているように見えます。自分たちを運んでくれている哀れな獣の荷を軽くしてやることも,その獣を逃れさせてやることもできません。ですから,バビロンで捕らわれの身になろうとも,エホバの契約の民がそのような神々をあがめてよいでしょうか。よいはずがありません。同様に,エホバの油そそがれた僕たちは,霊的な捕らわれにある時にも,「大いなるバビロン」の偽りの神々をあがめたりはしませんでした。その神々は,そのバビロンの1919年の倒壊を阻止できませんでしたし,そのバビロンを,「大患難」の際に臨む災いから救うこともできません。―啓示 18:2,21。マタイ 24:21。

      5 今日のクリスチャンは,どんな点で,偶像を崇拝するバビロニア人と同じ間違いを犯さないようにしますか。

      5 今日の真のクリスチャンは,いかなる偶像にも身をかがめません。(ヨハネ第一 5:21)十字架,祈とう用の数珠,聖人の像などは,創造者に近づく助けにはなりません。それらの物には,わたしたちのために執り成しをする力はないのです。1世紀に,イエスは弟子たちに,神を崇拝する正しい方法をこう教えました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方がわたしの名によって何か求めるなら,わたしはそれを行ないます」。―ヨハネ 14:6,14。

      『胎の時から運ばれる』

      6 エホバは諸国民の神々とどのように異なっていますか。

      6 エホバは,バビロンの偶像の神々を崇拝することのむなしさを明らかにした後,ご自分の民にこう言われます。「わたしに聴け。ヤコブの家よ,イスラエルの家の残ったすべての者よ,腹の時からわたしに担われた者たち,胎の時から運ばれた者たちよ」。(イザヤ 46:3)エホバとバビロンの彫像とでは,なんと異なっているのでしょう。バビロンの神々は,自らの崇拝者たちのために何も行なえません。自分が移動する時には,駄獣に運んでもらわなければなりません。それとは対照的に,エホバはご自分の民をずっと運んでこられました。その民を「胎の時から」,つまり国民として形成された時から支えてこられたのです。ユダヤ人は,エホバに運んでいただいたという心温まる思い出に元気づけられて,偶像崇拝を退け,父また友であるエホバに信頼を置くべきです。

      7 ご自分の崇拝者に対するエホバの優しい世話は,子供に対する人間の親の世話よりどのように勝っていますか。

      7 エホバはさらに,ご自分の民に優しい言葉をおかけになります。「人の老齢に至るまでもわたしは同じ者であり,人の白髪に至るまでわたしが負いつづける。わたしが必ず行動するであろう。わたしが運び,わたしが負って,逃れさせるためである」。(イザヤ 46:4)ご自分の民に対するエホバの世話は,人間の親のどんな行き届いた世話をもしのぎます。子供の成長につれ,親の側の責任感は弱まることがあり,多くの親は年を取ると子供に世話をしてもらいます。エホバの場合,そのようなことは決してありません。エホバは,子供である人間が年老いても,世話をやめたりはしないのです。今日の神の崇拝者は創造者を信頼し,愛しており,イザヤの預言のこの言葉に大いに力づけられています。この事物の体制のもとで過ごさなければならない残りの年月について心配しなくてよいのです。エホバは,高齢に達した人々を「負いつづける」,忍耐して忠実を保つのに必要な強さを与える,と約束しておられます。そうした人々を運び,強め,逃れさせてくださるのです。―ヘブライ 6:10。

      現代の偶像に用心する

      8 イザヤの同国人の中には,弁解の余地のないどんな罪を犯した人々がいますか。

      8 偶像に信頼を置くバビロニア人が感じることになる失望を想像してみてください。それらの偶像は全く役に立たないことが証明されるのです。イスラエルは,そうした神々をエホバと比べることができるなどと考えてよいでしょうか。よいはずがありません。エホバは適切にも,「あなた方はわたしをだれに例え,だれにたぐえ,だれに比べて,我々は互いに似ているというのか」と質問しておられます。(イザヤ 46:5)イザヤの同国人の中には,口がきけず,命もない,無力な像の崇拝に陥った人々がいますが,その人々には弁解の余地は全くありません。エホバを知っている国民が,人間の手による,命もなく,身を守るすべも持たない像に頼るのは,全くもって愚かなことです。

      9 一部の偶像崇拝者は,どんな浅はかな考え方をしていますか。

      9 偶像崇拝者は,実に浅はかな考え方をしています。預言はこう続きます。「金を財布から惜しまずに出している者たちがおり,彼らははかりざおで銀を量り出す。彼らは金属細工人を雇い,その者はそれを神に作る。彼らは平伏する。そうだ,身をかがめるのだ」。(イザヤ 46:6)崇拝者たちは,木製の偶像よりも高価な偶像のほうが救う力が強いとでも言わんばかりに,金に糸目をつけずに神々を作ります。しかし,どれだけ労力をつぎ込もうとも,いかに高価な材料を用いようとも,命のない偶像は命のない偶像でしかありません。

      10 偶像崇拝が全く無益であることは,どのように描写されていますか。

      10 預言は,偶像崇拝の愚かさをさらに際立たせ,こう続けます。「彼らはそれを肩に載せて運び,それを負い,それが動かずに立っているようにその場所に安置する。それは自分の立っている場所から離れて行かない。人はこれに向かって叫びさえするが,それは答えず,人をその苦難から救うこともしない」。(イザヤ 46:7)聞く力も,何かを行なう力もない像に祈るのは,なんと愚かしいことなのでしょう。詩編作者は,そうした崇拝の対象物が役に立たないことを見事に描写し,こう書いています。「彼らの偶像は銀や金であり地の人の手の業である。口はあっても,話すことはできない。目はあっても,見ることはできない。耳はあっても,聞くことはできない。鼻はあっても,かぐことはできない。手を持ってはいても,触ることはできない。足を持ってはいても,歩くことはできない。のどを使って声を出すわけでもない。これを作る者たちはまさしくこれと同じようになる。すべてこれに依り頼んでいる者たちは」。―詩編 115:4-8。

      『勇気を奮い起こせ』

      11 ふらついている人々は,どうすれば「勇気を奮い起こす」ことができますか。

      11 エホバは偶像崇拝が無益であることを明らかにした後,今度はご自分の民に,ご自分に仕えるべき理由を教えてこう言われます。「このことを思い出せ。あなた方が勇気を奮い起こすためである。違犯をおかす者たちよ,それを心に留めよ。昔の最初のことを思い出せ。わたしは神たる者であり,ほかに神もわたしのような者もいないことを」。(イザヤ 46:8,9)真の崇拝と偶像礼拝の間でふらついている人々は,歴史上の出来事を思い出すべきです。エホバが行なわれた事柄を銘記すべきなのです。そうすれば,勇気を奮い起こして正しい事を行ない,エホバの崇拝に戻ることができるでしょう。

      12,13 クリスチャンはどんな苦闘を経験しますか。どうすれば勝利を収められますか。

      12 この励ましの言葉は今日でも必要です。イスラエル人と同様,誠実なクリスチャンは様々な誘惑や自分自身の不完全さと闘わなければなりません。(ローマ 7:21-24)その上,目に見えない非常に強力な敵との霊的な闘いも避けられません。使徒パウロはこう述べています。「わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこの闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するもの……です」。―エフェソス 6:12。

      13 サタンと配下の悪霊はあらゆる手段を講じて,クリスチャンを真の崇拝からそらせようとします。クリスチャンが闘いに勝つには,エホバの助言に従い,勇気を奮い起こさなければなりません。どのようにでしょうか。使徒パウロは,「悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からの武具を身に着けなさい」と教えています。エホバはご自分の僕たちを不十分な装備のまま闘いに送り出すようなことはされません。クリスチャンの霊的な武具には「信仰の大盾」が含まれており,「それをもって,邪悪な者の火矢をみな消すことができます」。(エフェソス 6:11,16)イスラエル人は違犯をおかす者たちでした。エホバが与えてくださった霊的な備えを無視したからです。エホバが幾度も行なってくださった力強い行為を熟考していたなら,嫌悪すべき偶像崇拝に陥ることなどなかったはずです。わたしたちは,イスラエル人の例から教訓を学び,正しい事を行なうための闘いにおいて決してふらつくまいと決意したいものです。―コリント第一 10:11。

      14 エホバは,ご自分が唯一まことの神であることを示すため,どんな能力に言及しておられますか。

      14 エホバは,「終わりのことを初めから,また,まだ行なわれていなかったことを昔から告げる者。『わたしの計り事は立ち,わたしは自分の喜びとすることをみな行なう』と言う者」です。(イザヤ 46:10)この点でエホバに匹敵する神がいるでしょうか。将来を予言する能力は,創造者の神性を示す際立った証拠です。とはいえ,先見する力があるだけで,予告した事柄を必ず果たせるわけではありません。『わたしの計り事は立つ』という宣言は,神の確立された目的が不変であることを強調しています。エホバは無限の力をお持ちなので,宇宙のいかなるものも,エホバがご意志を成し遂げるのを阻むことはできません。(ダニエル 4:35)それゆえ,まだ成就していないどんな預言も,神の定めの時に間違いなく実現することを確信できます。―イザヤ 55:11。

      15 将来を予告するエホバの能力を示すどんな驚くべき実例に注意が向けられていますか。

      15 次にイザヤの預言が注意を向けているのは,将来の物事を予告してからご自分の言葉を成就させるエホバの能力を示す顕著な実例です。「猛きんを日の昇る方から,わたしの計り事を遂行する人を遠い地から呼ぶ者。わたしはそれを話したのである。わたしはまた,それをもたらすであろう。わたしはそれを形造ったのであり,また,それを行なうであろう」。(イザヤ 46:11)『終わりのことを初めから告げる者』であるエホバ神は,ご自分の計り事を成し遂げるために人間社会の物事を操作なさいます。「日の昇る方から」,つまり東方のペルシャから,キュロスを呼びます。そこには,キュロスのお気に入りの首都パサルガダエがあります。キュロスは「猛きん」のように,不意をついて突如バビロンに襲いかかります。

      16 エホバはバビロンに関するご自分の予言の確実性をどのように裏付けておられますか。

      16 バビロンに関するエホバの予言の確実性は,「わたしはそれを話したのである。わたしはまた,それをもたらすであろう」という言葉によって裏付けられています。不完全な人間は衝動的な約束をしてしまうことがよくありますが,創造者は決してご自分の言葉をたがえません。エホバは「偽ることのできない」神なので,わたしたちは,神が「形造った」のであれば,神が「また,それを行なう」はずであると確信できます。―テトス 1:2。

      不信仰な心

      17,18 (イ)古代において,(ロ)今日において,どんな人々を「心の強力な者たち」と呼べますか。

      17 エホバは再びバビロニア人に預言的に注目し,こう言われます。「心の強力な者たちよ,義から遠く離れている者たちよ。わたしに聴け」。(イザヤ 46:12)「心の強力な者たち」と呼ばれているのは,頑固なまでに執拗に神のご意志に逆らう人々です。バビロニア人が神から遠く離れていることは確かです。エホバとその民に対する敵意に動かされてエルサレムとその神殿を滅ぼし,エルサレムの住民を流刑に処すのです。

      18 今日,疑い深くて何も信じようとしない心の持ち主は,人の住む全地で宣べ伝えられている王国の音信を聴くことを頑固に拒みます。(マタイ 24:14)エホバを正当な主権者として認めようとしません。(詩編 83:18。啓示 4:11)心が「義から遠く離れている」ので,神のご意志に抵抗し,逆らいます。(テモテ第二 3:1-5)バビロニア人のように,エホバに聴き従うことを拒むのです。

      神の救いは遅れはしない

      19 エホバはイスラエルのために,義にかなった行為をどのように行なわれますか。

      19 イザヤ 46章の結びの言葉は,エホバのご性格の幾つかの面を際立たせています。「わたしはわたしの義を近くにもたらした。それは遠くにあるのではない。わたしの救いは遅れはしない。そして,わたしはシオンの中に救いを,イスラエルにわたしの美を与える」。(イザヤ 46:13)神がイスラエルを解放するのは,義にかなった行為です。神はご自分の民をいつまでも流刑の身のままにしてはおかれません。シオンの救いはしかるべき時に到来し,「遅れはしない」のです。イスラエル人は,捕らわれから解放された後,近隣の諸国民の注目を浴びるようになります。エホバがご自分の国民を救出することは,エホバの救いの力の証拠となります。バビロンの神であるベルとネボが役に立たないことは衆目にさらされ,その無能さも露呈します。―列王第一 18:39,40。

      20 クリスチャンが,エホバの「救いは遅れはしない」と確信できるのはなぜですか。

      20 1919年,エホバはご自分の民を霊的な捕らわれから解放されました。エホバは遅れませんでした。その出来事,およびバビロンがキュロスの手に落ちた昔の時代の数々の出来事は,今日のわたしたちを元気づけてくれます。エホバは,この邪悪な事物の体制をその偽りの崇拝もろとも終わらせると約束しておられます。(啓示 19:1,2,17-21)クリスチャンの中にも,物事を人間の観点から見て,救いが遅れていると感じる人がいるかもしれません。しかし,エホバがこの約束を果たす定めの時まで辛抱しておられるのは,まさに義にかなった行為です。なぜなら,エホバは,「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望(ん)で」おられるからです。(ペテロ第二 3:9)それゆえ,古代イスラエルの時代と同様に「救いは遅れはしない」,ということを確信してください。実のところ,救いの日がいっそう近づいた今,エホバは愛をもってこう招きつづけておられるのです。「あなた方は見いだせるうちにエホバを尋ね求めよ。近くにおられるうちに呼びかけよ。邪悪な者はその道を,害を加えようとする者はその考えを捨て,エホバのもとに帰れ。神はその者を憐れんでくださる。わたしたちの神のもとに帰れ。神は豊かに許してくださるからである」。―イザヤ 55:6,7。

      [94ページの図版]

      バビロンの神々がバビロンを滅びから守ることはない

      [98ページの図版]

      今日のクリスチャンは現代の偶像に用心しなければならない

      [101ページの図版]

      正しい事を行なうために勇気を奮い起こしなさい

  • 偽りの宗教 ― その劇的な終わりが予見される
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第8章

      偽りの宗教 ― その劇的な終わりが予見される

      イザヤ 47:1-15

      1,2 (イ)世界の宗教界に激変が生じようとしているとは思えない,と感じる人たちがいるのはなぜですか。(ロ)イザヤ 47章の言葉には将来の適用があるとどうして分かりますか。(ハ)偽りの宗教全体を「大いなるバビロン」と呼ぶのがふさわしいのはなぜですか。

      「宗教が盛り返す」。これは「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」(英語)の記事が掲げた言葉です。その記事によると,宗教は依然として多くの人の心と思いをしっかりつかんでいるようです。そのため,世界の宗教界に激変が生じようとしているとはとても思えないかもしれません。しかし,イザヤ 47章は,そうした変化について述べています。

      2 イザヤの言葉は今から2,500年ほど前に成就しました。とはいえ,イザヤ 47章8節の言葉は「啓示」の書に引用され,将来に適用されています。その箇所で聖書は,「大いなるバビロン」と呼ばれる,娼婦に似た組織 ― 偽りの宗教の世界帝国 ― の終わりを予告しています。(啓示 16:19)世界の偽りの宗教をひとまとめにして「バビロン」と呼ぶのはふさわしいことです。偽りの宗教の発祥地は古代のバビロンだからです。偽りの宗教はそこから地の隅々に広がってゆきました。(創世記 11:1-9)魂の不滅,地獄の火,三位一体の神の崇拝といったバビロンに由来する教理は,キリスト教の諸宗派を含め,ほとんどすべての宗教が教えています。a イザヤの預言は宗教の将来に関して何かを明らかにしているでしょうか。

      バビロンは低められて塵にまみれる

      3 バビロニア世界強国の偉大さを説明してください。

      3 神の強烈な宣言に注目してください。「バビロンの処女なる娘よ,下って塵の中に座れ。カルデア人たちの娘よ,王座のない地に座れ。あなたは人々に繊細で優美だと呼ばれることを二度と経験しないからだ」。(イザヤ 47:1)多年にわたり,バビロンは支配的な世界強国として君臨してきました。「もろもろの王国の飾り」,つまり宗教と商業と軍事の栄える中心地だったのです。(イザヤ 13:19)バビロンの最盛期に,その帝国の領土は,はるか南方のエジプト国境にまで及びます。そして,西暦前607年にエルサレムを倒した際には,神でさえその征服を止められないかに見えます。そのためバビロンは,自分は「処女なる娘」である,すなわち異国に侵略されることなどあり得ないと考えます。b

      4 バビロンはどんなことを経験しますか。

      4 しかし,このごう慢な「処女」は,だれもが認める世界強国としての王座からたたき落とされ,『塵の中に座る』という辱めを受けることになります。(イザヤ 26:5)気ままに振る舞う女王のように「繊細で優美だ」とみなされることはもはやありません。それゆえ,エホバはこう命じます。「手臼を取って麦粉をひけ。ベールをはぎ取れ。長く垂れたすそを脱ぎ捨てよ。足 [英文字義,脚]をあらわにせよ。川を渡れ」。(イザヤ 47:2)ユダの国民全体を奴隷にしたバビロン自身が,今度は奴隷として扱われるのです。メディア人とペルシャ人はバビロンを権力の座から引きずり降ろし,無理やり屈辱的な労働をさせるでしょう。

      5 (イ)バビロンはどのように『ベールと長く垂れたすそ』を脱がされますか。(ロ)バビロンに対する「川を渡れ」という命令は,どんなことを示しているのかもしれませんか。

      5 こうしてバビロンは『ベールと長く垂れたすそ』を脱がされ,かつての偉大さと威厳は跡形もなくなります。「川を渡れ」と職長たちが命じます。バビロニア人の一部は,実際に戸外での奴隷労働を命じられるのかもしれません。あるいはこの預言は,文字どおりに川を渡って流刑先に引かれてゆく人たちがいるという意味かもしれません。いずれにせよバビロンが,いすや輿に乗って川を渡る女王のような豪奢な旅をすることはもうありません。それどころか,歩いて川を渡るために慎みをかなぐり捨ててすそを持ち上げ,脚を人目にさらさなければならない奴隷のようになるのです。なんという屈辱でしょう。

      6 (イ)どんな意味でバビロンの裸はあらわにされますか。(ロ)神が「どんな人にも親切な仕方で会うことはない」とはどういうことですか。(脚注をご覧ください。)

      6 エホバはあざけりの言葉を続け,こう言われます。「あなたの裸をあらわにすべきである。また,あなたのそしりも見られるべきだ。わたしがするのは復しゅうであり,わたしはどんな人にも親切な仕方で会うことはない」。(イザヤ 47:3)c そうです,バビロンは恥と不名誉を被るのです。バビロンが神の民に対して働いた邪悪で残虐な行為は,白日のもとにさらされます。いかなる人間も,神の復しゅうを阻むことはできません。

      7 (イ)ユダヤ人流刑者は,バビロン倒壊の知らせを聞き,どう反応しますか。(ロ)エホバはどのようにご自分の民を買い戻されますか。

      7 強大なバビロンで70年間捕らわれていた神の民は,バビロンの倒壊を大いに歓び,こう叫ぶでしょう。「わたしたちを買い戻される方がいる。その名は万軍のエホバ,イスラエルの聖なる方である」。(イザヤ 47:4)モーセの律法のもとでは,イスラエル人が負債を返済するために奴隷として身を売った場合には,買い戻し人(血縁の者)がその人を奴隷状態から買い取る,つまり買い戻すことができました。(レビ記 25:47-54)ユダヤ人は奴隷としてバビロンへ売られるので,買い戻してもらう,つまり自由にしてもらうことが必要になります。通常,奴隷にとっては,征服が行なわれても主人が代わるだけのことです。しかしエホバは,征服者のキュロス王を動かしてユダヤ人を奴隷状態から解放します。ユダヤ人に代わる「贖い」として,エジプト,エチオピア,セバがキュロスに与えられます。(イザヤ 43:3)イスラエルを請け戻す方が「万軍のエホバ」と呼ばれるのはふさわしいことです。強力に見えるバビロンの軍勢でさえ,目に見えないエホバのみ使いの大軍に比べれば取るに足りないのです。

      残虐さの代償

      8 バビロンはどんな意味で『闇の中に入り』ますか。

      8 エホバは,バビロンに関する預言的な糾弾を再び開始されます。「カルデア人たちの娘よ,黙って座り,闇の中に入れ。あなたは,人々に“もろもろの王国の女主人”と呼ばれることを二度と経験しないからだ」。(イザヤ 47:5)バビロンには,闇と暗がりしかありません。残虐な女主人として他の王国を支配することはもはやないのです。―イザヤ 14:4。

      9 エホバがユダヤ人に対して憤るのはなぜですか。

      9 そもそも,バビロンが神の民に危害を加えることが許されるのはなぜでしょうか。エホバはこう説明しておられます。「わたしはわたしの民に対して憤った。わたしはわたしの相続物を汚し,彼らをあなたの手に渡した」。(イザヤ 47:6前半)エホバがユダヤ人に対して憤ることには十分な理由があります。エホバは彼らに,律法に不従順になるなら,住んでいる土地から追放されるであろう,と警告しておられました。(申命記 28:64)彼らが偶像礼拝と性の不道徳に陥った時には,エホバは彼らが清い崇拝に戻れるよう,愛をもって預言者たちをお遣わしになりました。ところが,「彼らは絶えずまことの神の使者たちを笑い物にし,そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでにな(り)」ました。(歴代第二 36:16)そのため神は,バビロンがユダの地に侵入して聖なる神殿を汚す時,ご自分の相続物であるユダが汚されることを許されるのです。―詩編 79:1。エゼキエル 24:21。

      10,11 バビロンが神の民を征服することが神のご意志であったにもかかわらず,エホバがバビロンに怒りを感じておられるのはなぜですか。

      10 そうであれば,バビロンはユダヤ人を奴隷にする時,神のご意志を果たしているにすぎないのではありませんか。いいえ,そうではありません。神はこう述べておられます。「あなたは彼らに憐れみを示さなかった。老人の上にあなたのくびきを非常に重くした。そしてあなたは言いつづけた,『わたしは定めのない時に至るまで,永久に“女主人”でいる』と。あなたはこれらのことを心にとどめず,事の終わりを覚えておかなかった」。(イザヤ 47:6後半,7)神がバビロンに,「老人に対しても」決して恵みを示さずに残虐の限りを尽くせ,と命じたことはありません。(哀歌 4:16; 5:12)また,捕らわれの身のユダヤ人をあざけってサディスト的な快感を得るよう,けしかけたこともありません。―詩編 137:3。

      11 バビロンは,ユダヤ人を我が物としておけるのがつかの間である,ということを理解していません。エホバがやがてご自分の民を自由にされる,というイザヤの預言を無視しています。ユダヤ人を恒久的に支配する権利と,永久に数々の属国の女主人であり続ける権利とを得ているかのように振る舞っています。自らの圧制的な支配に「終わり」が訪れる,という音信に留意していないのです。

      バビロンの倒壊が予告される

      12 バビロンが「歓楽を尽くす女」と呼ばれているのはなぜですか。

      12 エホバはこう宣言されます。「今,あなたはこのことを聞け,歓楽を尽くす女よ。安らかに座している者,心の中で,『わたしはいる。ほかにはだれもいない。わたしはやもめとして座ることはない。子供を失うことを知ることもない』と言う者よ」。(イザヤ 47:8)バビロンが歓楽追求で有名であったことはよく知られています。西暦前5世紀の歴史家ヘロドトスは,バビロニア人の「いとも恥ずべき習慣」,つまり愛の女神に対する崇敬の表明としての売春がすべての女性に求められていたことに言及しています。古代史家クルティウスも,「その都の風紀は乱れに乱れ,制度的な腐敗は極みに達し,人々を放とうへといざない,駆り立てていた」と述べています。

      13 バビロンが歓楽追求に溺れることは,どのように自らの倒壊を早める結果になりますか。

      13 バビロンが歓楽追求に溺れることは,自らの倒壊を早める結果になります。バビロンがまさに倒れようとしている夜,王と大官たちは宴会を催し,酔いつぶれています。そのため,メディア-ペルシャの軍隊が都に侵入して来ることに注意しません。(ダニエル 5:1-4)「安らかに座している」バビロンは,堅固に見える城壁と堀が侵入者から守ってくれるだろうと思い込みます。覇者としてのわたしの地位を奪い取る者など「だれもいない」,と独り言を言っています。自分が帝国の支配者を失って「やもめ」になり,その上,民衆という「子供」までも失うとは想像だにしません。しかし,どんな城壁も,復しゅうを行なうエホバ神の腕からバビロンを守ることはできません。エホバは後にこう言われます。「たとえバビロンが天に昇ろうとも,たとえその強さの高みを近寄り難いものにしようとも,わたしのもとから奪略を行なう者たちが彼女のところに行くであろう」。―エレミヤ 51:53。

      14 バビロンはどのように「子供を失うことと,やもめになること」を経験しますか。

      14 バビロンはどうなるでしょうか。エホバはこう続けておられます。「しかし,これら二つのことが突然,一日のうちにあなたに臨む。子供を失うことと,やもめになることとが。それは必ず余すところなくあなたに臨む。あなたのおびただしい呪術のために,あなたのまじないのみなぎる偉力のために ― 甚だしく」。(イザヤ 47:9)そうです,世界強国であるバビロンの覇者たる立場は,突然終わりを迎えます。古代の東洋の国々において,やもめになること,また子供を失うことは,女性にとって最も痛ましい経験でした。バビロンが倒壊した夜,バビロンが何人の「子供」を失ったかは分かりません。d しかし遅かれ早かれ,その都は全く見捨てられます。(エレミヤ 51:29)バビロンは,自らの王たちが退位させられるという意味でも,やもめになります。

      15 ユダヤ人への残虐行為に加えて,どんな理由でエホバはバビロンに対して憤っておられますか。

      15 しかし,エホバを激怒させる理由となっているのは,バビロンのユダヤ人虐待だけではありません。「おびただしい呪術」もエホバを怒らせています。イスラエルに与えられた神の律法は心霊術の行ないを非としていますが,バビロンはオカルトに夢中になっています。(申命記 18:10-12。エゼキエル 21:21)「アッシリア人とバビロニア人の社会生活」(英語)という本によれば,バビロニア人は「非常に多くの悪霊たちに取り囲まれていると信じ,終始それらにおびえながら暮らして」いました。

      悪に依り頼む

      16,17 (イ)バビロンはどのように『自分の悪に依り頼んで』いますか。(ロ)バビロンの終わりは避けられない,と言えるのはなぜですか。

      16 バビロンの占い師たちはバビロンを救えるでしょうか。エホバはこうお答えになります。「あなたは絶えず自分の悪に依り頼んだ。あなたは言った,『わたしを見ている者はだれもいない』と。あなたの知恵とあなたの知識 ― それがあなたを誘い出したのである。あなたは心の中で言いつづける,『わたしはいる。ほかにはだれもいない』と」。(イザヤ 47:10)バビロンは,自らの世俗的また宗教的な知恵,軍事力,抜け目のない冷酷さなどによって世界強国としての地位を保てる,と考えています。自分はだれにも『見られる』ことはない,つまり,邪悪な行動の言い開きを求められることはないと思っています。ライバルが迫っていることにも気づきません。「わたしはいる。ほかにはだれもいない」と独り言を言っています。

      17 しかしエホバは,別の預言者を通してこう警告しておられます。「人は隠れ場所に身を隠して,わたしがこれを見ないようにすることができるのか」。(エレミヤ 23:24。ヘブライ 4:13)それゆえ,エホバはこう宣言されます。「災いが必ずあなたに臨む。あなたはそれに対する呪文を知らない。そして逆境があなたを襲う。あなたはそれを転じさせることができない。そして,あなたの平素知ることのなかった滅びが,突然あなたに臨むのである」。(イザヤ 47:11)バビロンの神々も,心霊術師が唱える魔術の「呪文」も,臨もうとしている災いをそらすことはできません。それは,バビロンがこれまでに経験した災いとは比べものにならないのです。

      バビロンの助言者たちは期待はずれに終わる

      18,19 バビロンは自らの助言者たちに頼る結果,どのような災難を身に招きますか。

      18 エホバは痛烈な皮肉を込めて,こう命じます。「さあ,あなたのまじないと,あなたが若い時から労してきたそのおびただしい呪術とをもってじっと立て。あるいはそれがあなたの益になるかもしれない。あるいは,あなたは人々に畏敬の念を起こさせることができるかもしれない」。(イザヤ 47:12)バビロンは,魔術に頼って『じっと立つ』よう,つまり矯正を拒みつづけるよう挑まれています。何と言ってもバビロンは,「若い時」からオカルト学の発展に労力をつぎ込んできた国なのです。

      19 しかしエホバは,バビロンをあざけってこう言われます。「あなたはその大勢の助言者にうみ疲れた。天を崇拝する者たち,星を見る者たち,新月の時にあなたに臨むことに関する知識を授ける者たち,さあ,彼らを立ち上がらせよ,あなたを救わせてみよ」。(イザヤ 47:13)e バビロンは,自らの助言者たちが全く期待はずれであることを痛感させられます。何世紀にも及ぶ天体観測により,バビロニアの占星術は発展を遂げていることでしょう。しかし,バビロンが倒される夜,占星術者たちは惨めなまでに期待はずれに終わり,占いの無益さが暴露されるでしょう。―ダニエル 5:7,8。

      20 バビロンの助言者たちはどんな運命にありますか。

      20 エホバは,預言のこの部分の結びとしてこう言われます。「見よ,彼らは刈り株のようになった。火が必ず彼らを焼き尽くす。彼らは炎の力から自分の魂を救い出せないであろう。人々が身を暖めるための炭火の盛んな熱もなく,その前に座るための火明かりもないであろう。彼らはあなたにとって必ずこのようになる。あなたが若い時から共に労してきたあなたのまじない師は。彼らは各々自分の地方へ実際にさまよって行く。あなたを救う者はだれもいないであろう」。(イザヤ 47:14,15)そうです,これら偽りの助言者たちには,火のような時期が訪れようとしています。それは,人々が周りで身を暖められるような心地よい火ではなく,破壊的な焼き尽くす火であり,偽りの助言者たちが役に立たない刈り株であることを暴露するでしょう。ですから,バビロンの助言者たちが慌てふためいて逃げ出すのも無理はありません。最後の支えを失ったバビロンには,救ってくれる者はもういません。自分がエルサレムに味わわせるのと同じ結末を味わうことになるのです。―エレミヤ 11:12。

      21 イザヤの預言の言葉の正しさは,いつ,どのように証明されますか。

      21 霊感によるこの言葉は,西暦前539年に成就し始めます。キュロスに率いられたメディア人とペルシャ人の軍隊がバビロンの都を攻略し,そこに住んでいた王ベルシャザルを殺します。(ダニエル 5:1-4,30)一夜にして,バビロンは世界支配者の地位から転落します。こうして,何世紀にもわたったセム系優位の時代は終わりを告げ,世界はアーリア系の支配下に置かれます。バビロン自体は,何世紀にもわたる衰退期に入ります。そして西暦4世紀までには,ただの「石の山」になってしまいます。(エレミヤ 51:37)そのようにして,イザヤの預言は完全に成就します。

      現代のバビロン

      22 バビロンの倒壊から,誇りに関するどんな教訓を学べますか。

      22 イザヤの預言は,考えるべき多くの点を提供しています。まず,誇りとごう慢さの危険性が強調されています。誇り高いバビロンの倒壊は,「誇りは崩壊に先立ち,ごう慢な霊はつまずきに先立つ」という聖書の格言の例証となっています。(箴言 16:18)わたしたちの不完全な性質の中で時おり誇りが優勢になることもあるとはいえ,『誇りのために思い上がる』なら,「非難と悪魔のわな」に陥ってしまうでしょう。(テモテ第一 3:6,7)ですから,次のヤコブの助言に留意するのは良いことです。「エホバのみ前にあって謙遜になりなさい。そうすれば,あなた方を高めてくださるでしょう」。―ヤコブ 4:10。

      23 イザヤの預言はどんな確信を抱く助けとなりますか。

      23 また,この預言の言葉は,いかなる反対者よりも強力な方であるエホバに確信を置く助けともなります。(詩編 24:8; 34:7; 50:15; 91:14,15)今の厳しい時代において慰めとなる諭しなのです。エホバに対する確信は,神の目にとがめのない状態を保とうという決意を強めてくれます。「[とがめのない]人の将来は平安」だからです。(詩編 37:37,38)サタンの「ずる賢い行為」に直面する時はいつでも,自分の力に頼るのではなく,エホバに頼るのが賢明です。―エフェソス 6:10-13,脚注。

      24,25 (イ)占星術が不合理であると言えるのはなぜですか。それにもかかわらず多くの人が占星術に頼るのはなぜですか。(ロ)クリスチャンが迷信を退けるのはどんな理由によりますか。

      24 心霊術の行ない,特に占星術に対する警告が与えられていることも注目に値します。(ガラテア 5:20,21)バビロンが倒れたとはいえ,占星術は人々を捕らえて放しませんでした。興味深いことに,「古代世界の大都市」(英語)という本によれば,バビロニア人が天体図に描き出した様々な星座は昔の位置から「ずれて」しまったので,「[占星術という]概念そのものがナンセンスになっている」とのことです。それでも占星術はいまだに盛んで,多くの新聞には,読者が簡単に使えるホロスコープの欄があります。

      25 なぜ人々は,それも十分な教育を受けた多くの人が,星に伺いを立てたり,様々の不合理で迷信的な慣行にとらわれたりするのでしょうか。ワールドブック百科事典は,「迷信は,人々が互いを恐れ,将来に不安を抱いている限り,生活の一部を占めることだろう」と述べています。人は,恐れと不安に追い詰められて迷信深くなることがあります。しかし,クリスチャンは迷信を退けます。人を恐れません。エホバが支えてくださるからです。(詩編 6:4-10)さらに,クリスチャンは将来に不安を抱いてはいません。啓示されたエホバの目的を知っており,『エホバの計り事が定めのない時に至るまで立つ』ことを固く信じているからです。(詩編 33:11)自分の生活をエホバの計り事と調和させるなら,長期にわたる幸福な将来が保証されます。

      26 「賢い人たちの論議が無駄」であることは,どのように証明されてきましたか。

      26 近年では,もっと“科学的な”方法で将来を見極めようとする人たちもいます。未来学と呼ばれる学問分野さえあります。未来学は,「現在の動向に基づいて将来の可能性を研究する学問」と定義されています。その一例として,1972年に,学者や財界人で構成されるローマ・クラブという団体は,1992年までに世界の金,水銀,亜鉛,石油の埋蔵資源は枯渇すると予言しました。なるほど,世界が1972年以来,様々な恐ろしい問題に直面してきたのは確かです。しかし,その予言は全くはずれました。地球には,金,水銀,亜鉛,石油がまだ埋蔵されています。人間は,まさに全力を尽くして将来を予言しようとしてきました。それでも,人間の推測は常に当てになりません。確かに,『賢い人たちの論議は無駄』なのです。―コリント第一 3:20。

      大いなるバビロンの来たるべき終わり

      27 大いなるバビロンは,西暦前539年のバビロンに似た倒壊をいつ,どのように経験しましたか。

      27 現代の諸宗教は,古代バビロンの教理をいまだに保持しています。それゆえ,偽りの宗教の世界帝国を大いなるバビロンと呼ぶのはふさわしいことです。(啓示 17:5)その国際的な宗教集合体は,西暦前539年の古代バビロンと同様の倒壊をすでに経験しています。(啓示 14:8; 18:2)1919年,キリストの兄弟たちの残りの者は霊的な捕らわれから出て来て,大いなるバビロンの有力な部分であるキリスト教世界の宗教的な影響を振り捨てました。その時以来,キリスト教世界は,かつて権勢を振るった多くの土地で,少なからず影響力を失っています。

      28 大いなるバビロンは誇って何と言いますか。しかし,その前途には何が待ち受けていますか。

      28 しかしその倒壊は,偽りの宗教の最終的な滅びの前兆にすぎません。興味深いことに,大いなるバビロンの滅びに関する「啓示」の書の預言は,イザヤ 47章8,9節の預言の言葉を思い起こさせます。古代バビロンと同様,現代の大いなるバビロンも,「わたしは女王として座す。やもめなどではない。嘆きを見ることは決してない」と言います。しかし,「彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。彼女を裁いたエホバ神は強い方だからである」と書かれています。ですから,イザヤ 47章の預言の言葉は,いまだに偽りの宗教に属している人々に対する警告となっているのです。大いなるバビロンの滅びに巻き込まれたくないなら,「彼女から出なさい」という霊感による命令に是非とも留意しなければなりません。―啓示 18:4,7,8。

      [脚注]

      a 偽りの教理の発達について詳しくは,ものみの塔聖書冊子協会発行の「神を探求する人類の歩み」という本をご覧ください。

      b ヘブライ語では,「バビロンの処女なる娘」という慣用句は,バビロン,あるいはバビロンの住民を指します。バビロンは,世界強国となった後,征服者による略奪を受けたことがないので,「処女」であると言えます。

      c 「わたしはどんな人にも親切な仕方で会うことはない」と訳されているヘブライ語の表現は,学者たちによると,翻訳するのが「極めて難しい句」です。「新世界訳」は,第三者がバビロンを救出しに来ることは許されないという考えを伝えるため,「親切な仕方で」という語句を挿入しています。ユダヤ人出版協会による翻訳は,この部分を,「わたしは……どんな人にも執り成しをさせない」と訳しています。

      d レイモンド・フィリップ・ドーアティー著,「ナボニドスとベルシャザル」(英語)という本によると,ナボニドス年代記はバビロンへの侵入が「戦わずして」なされたと述べていますが,ギリシャの歴史家クセノフォンはかなりの流血があったかもしれないことを示唆しています。

      e 「天を崇拝する者たち」と訳されているヘブライ語の表現は,幾つかの訳では「天を分ける者たち」となっています。これは,ホロスコープで占うために天を区分する慣行に言及しているのでしょう。

      [111ページの図版]

      歓楽を追求するバビロンは,低められて塵にまみれる

      [114ページの図版]

      バビロンの占星術者たちは,その倒壊を予言できない

      [116ページの図版]

      バビロニアの占星術用の暦,西暦前1千年紀

      [119ページの図版]

      現代のバビロンは間もなく存在しなくなる

  • エホバはわたしたちの益のために教えを与えてくださる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第9章

      エホバはわたしたちの益のために教えを与えてくださる

      イザヤ 48:1-22

      1 賢い人はどのようにエホバの言葉にこたえ応じますか。

      エホバが語るとき,賢い人は深い敬意を抱いて耳を傾け,その言葉にこたえ応じます。何であれエホバが話される事はわたしたちの益のためであり,エホバはわたしたちの福祉に強い関心を抱いておられます。例えば,エホバは古代のご自分の契約の民に,「ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!」と,実に心温まる言葉遣いで語りかけておられます。(イザヤ 48:18)神の教えの価値は実証されているので,わたしたちは神に耳を傾け,その導きに従いたいと思うはずです。成就した預言の記録に示されているとおり,エホバが約束を果たす決意を抱いておられることに疑問の余地はありません。

      2 イザヤ 48章の言葉は,だれのために記録されましたか。ほかにもだれが,その言葉から益を得られますか。

      2 イザヤ 48章の言葉は,バビロンに流刑になるユダヤ人のために書かれたものと思われます。しかしその言葉には,今日のクリスチャンにとって無視できない音信も含まれています。イザヤ 47章で聖書はバビロンの倒壊を予告していましたが,ここでエホバは,バビロンの都にいるユダヤ人流刑者に関するご自分の意図を説明しておられます。エホバは,ご自分の選んだ民が偽善的であり,ご自分の約束をかたくななまでに信じようとしないことを憂えておられます。それでも,民の益のために教訓を与えることを望んでおられます。忠実な残りの者の故国への回復に先立つ精錬の時期を予見しておられるのです。

      3 ユダの崇拝は,どこが間違っていましたか。

      3 エホバの民は,清い崇拝からなんと大きく逸脱してしまったのでしょう。イザヤの言葉の冒頭部分を読むと,身の引き締まる思いがします。「ヤコブの家よ,これを聞け。自分をイスラエルの名で呼んでいる者,まさにユダの水から出て来た者たちよ,エホバの名にかけて誓っている者,イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たちよ。彼らは自分を聖なる都市からの者と呼び,イスラエルの神に寄り掛かったからである。その方の名は万軍のエホバという」。(イザヤ 48:1,2)なんと偽善的なのでしょう。「エホバの名にかけて誓っている」とはいえ,神のみ名を形式的に用いているにすぎないことは明らかです。(ゼパニヤ 1:5)バビロンに流刑になる前,ユダヤ人は「聖なる都市」エルサレムでエホバを崇拝していました。しかし,それは不誠実な崇拝でした。彼らの心は神から遠く離れ,崇拝行為は「真実によらず義によらずに」なされていました。族長たちのような信仰を抱いていなかったのです。―マラキ 3:7。

      4 エホバを喜ばせるのはどんな崇拝ですか。

      4 エホバの言葉から,崇拝がうわべだけのものであってはならないことを銘記させられます。心からのものでなければならないのです。単に人を喜ばせよう,感銘を与えようとしてするような形ばかりの奉仕は,「敬虔な専心」とは言えません。(ペテロ第二 3:11)自分をクリスチャンと呼ぶだけで,その人の崇拝が神に受け入れられるわけではありません。(テモテ第二 3:5)エホバが実在することを認めるのは肝要ですが,それはほんの始まりにすぎません。エホバは,深い愛と感謝を動機とする,魂のこもった崇拝を望んでおられます。―コロサイ 3:23。

      新しいことを予告する

      5 エホバが予告した「最初のこと」にはどんな事柄が含まれますか。

      5 それらバビロンにいるユダヤ人は,記憶を呼び覚ましてもらわなければならないようです。そのためエホバは,もう一度彼らに,ご自分が真の預言の神であることを思い起こさせます。「わたしは最初のことをまさにその時から告げた。それはわたしの口から出て行き,わたしはそれを聞かせつづけた。突然わたしは行動した。そして事は到来した」。(イザヤ 48:3)「最初のこと」とは,イスラエル人をエジプトから解放し,約束の地を相続物として与えるなど,神がすでに成し遂げた事柄を指しています。(創世記 13:14,15; 15:13,14)そうした予言は,神の口から出て行く,つまり神を源としています。神は人間にご自分の布告を聞かせ,人間は聞いた事柄のゆえに従順になるべきです。(申命記 28:15)神は突然に行動して,予告していた事柄を実行します。エホバは全能者なので,その目的の達成は保証されています。―ヨシュア 21:45; 23:14。

      6 ユダヤ人は,どの程度まで「強情で,反逆の」民となりましたか。

      6 エホバの民は,「強情で,反逆の」民となりました。(詩編 78:8)エホバは民に向かって,率直にこう言われます。「あなた(は)かたくなで,あなたの首(は)鉄の筋,あなたの額(は)銅である」。(イザヤ 48:4)ユダヤ人は,金属のように曲げにくい,つまり頑固です。エホバが物事を事前に明らかにするのは,そのためでもあります。さもなければ,神の民は,エホバが行なった事柄に関してこう言うでしょう。「わたしの偶像がそれらのことを行なった。わたしの彫刻像とわたしの鋳像がそれらのことを命じたのだ」。(イザヤ 48:5)ここでエホバが述べておられる事柄は,不忠実なユダヤ人に何らかの影響を与えるでしょうか。神はそれらユダヤ人に向かって,こう言われます。「あなたは聞いた。それをすべて見よ。あなた方としては,それを告げないのか。わたしはあなたに新しいことを,あなたが知らなかった,取って置かれていたことを,今この時から聞かせた。その時からではなく,今この時にそれは必ず創造される。すなわち,それは今日まであなたが聞いたことのなかったことである。あなたが,『見よ,わたしはそれを既に知っていた』と言うことのないためである」。―イザヤ 48:6,7。

      7 流刑の身のユダヤ人は何を認めなければなりませんか。どんなことを期待できますか。

      7 イザヤはずっと前もって,バビロンの倒壊に関する予言を記録しています。それゆえ,バビロンで流刑の身のユダヤ人は,その予言の成就についてじっくり考えてみるよう預言的に命じられています。それらユダヤ人は,エホバが,成就した預言の神であることを否定できるでしょうか。またユダの住民は,エホバが真理の神であることを見聞きしてきたのですから,その真理を他の人に宣明する義務があるのではないでしょうか。エホバの啓示された言葉は,キュロスのバビロン征服やユダヤ人の解放など,これから生じる新しいことを予告しています。(イザヤ 48:14-16)そうした驚くべき出来事は,一見,不意に生じます。世界情勢の進展を考察するだけで先見できるような事柄ではないのです。まるで無から創造されたかのように起こります。そうした出来事を生じさせるのはだれでしょうか。200年ほど前もってエホバが予告しておられるのですから,答えはおのずと明らかです。

      8 今日のクリスチャンは,どんな新しいことを望み見ていますか。彼らがエホバの預言の言葉に全き確信を抱いているのはなぜですか。

      8 それに加えて,エホバはご自分の言葉を予定表どおりに果たされます。成就した預言は,古代のユダヤ人だけでなく,今日のクリスチャンにとっても,エホバの神性の証拠となっています。過去に成就した非常に多くの預言に関する記録 ―「最初のこと」― は,エホバの約束した新しいこと ― 来たるべき「大患難」や,その大患難を「大群衆」が生き残ること,さらに「新しい地」といった多くの事柄 ― が実際に生じるということの保証です。(啓示 7:9,14,15; 21:4,5。ペテロ第二 3:13)今日の,義にかなった心の持ち主は,その保証に促され,神について熱心に語っています。次のように述べた詩編作者と同じ気持ちを抱いているのです。「わたしは大きな会衆の中で義の良いたよりを告げました。ご覧ください,わたしは自分の唇をとどめません」。―詩編 40:9。

      エホバは自制を働かせる

      9 イスラエル国民はどのように「腹の時からの違犯者」となっていますか。

      9 ユダヤ人はエホバの預言を信じないので,神の警告に留意しません。そのため,エホバは続けて,彼らにこう言われます。「しかも,あなたは聞いたこともなく,知ってもいなかった。また,その時以来,あなたの耳は開かれてもいなかった。わたしは,あなたが絶えず不実な行ないをしつづけたこと,あなたが『腹の時からの違犯者』と呼ばれてきたことをよく知っているからである」。(イザヤ 48:8)ユダは耳をふさぎ,エホバの喜ばしいおとずれを聞こうとしません。(イザヤ 29:10)神の契約の民のこれまでの行状を見れば,その国民が「腹の時からの違犯者」であることは明らかです。イスラエル国民は,誕生の時から,その歴史を通じて,反逆の記録を積み上げてきました。この民の違犯と不実さは,単にたまたま犯した罪ではなく,常習的な過ちなのです。―詩編 95:10。マラキ 2:11。

      10 エホバがご自分を制するのはなぜですか。

      10 いちるの望みもないのでしょうか。そうではありません。ユダがこれまで反逆的で不実であったとはいえ,エホバは常に真実かつ忠実な方です。エホバは,ご自身の偉大なみ名の誉れのために,憤りの表明に制限を設けられます。こう述べておられます。「わたしはわたしの名のために怒りをとどめ,わたしの賛美のためにあなたに対して自分を制し,あなたが断ち滅ぼされることのないようにする」。(イザヤ 48:9)なんと対照的なのでしょう。エホバの民であるイスラエルとユダは,どちらも神に不忠実な歩みをしてきました。しかしエホバは,み名に賛美と誉れが帰されるように行動し,み名を神聖なものとされます。それゆえ,ご自分の選んだ民を断ち滅ぼすことをなさらないのです。―ヨエル 2:13,14。

      11 なぜ神は,ご自分の民が徹底的に滅ぼされることをお許しになりませんか。

      11 流刑の身のユダヤ人のうち正しい心の持ち主は,神の譴責によって目が覚め,神の教えに留意しようと決意します。そうした人々に,次の宣言は深い安心感を与えることでしょう。「見よ,わたしはあなたを精錬した。しかし銀としてではない。わたしは苦悩の溶鉱炉であなたを選んだ。わたしはわたしのために,わたし自身のために行動する。というのは,だれが自分自身を汚させるであろうか。そして,わたしはわたしの栄光をほかのだれにも与えない」。(イザヤ 48:10,11)エホバがご自分の民に臨むのを許された,『苦悩の炉』にいるかのような厳しい試練は,その民を試みて精錬し,彼らの心のうちにあるものを明らかにしました。これより幾世紀か前にも,同様のことが生じました。その時,モーセは,この民の先祖にこう言いました。「あなたの神エホバ(は)この四十年のあいだ荒野であなた(を)歩ませた……。それはあなたを謙遜にならせるため,あなたを試みて,……あなたの心のうちにあるものを知るためであった」。(申命記 8:2)それらの人々の反逆的な態度にもかかわらず,エホバは当時のその国民を滅ぼしませんでした。今度も,その国民を徹底的に滅ぼすことはなさいません。そのことによって,神のみ名と誉れが高く保たれます。神の民がバビロニア人の手にかかって消滅するなら,神はご自分の契約をたがえたことになり,み名は汚されてしまうでしょう。イスラエルの神には自分の民を救う力がないかのように見えてしまうのです。―エゼキエル 20:9。

      12 最初の世界大戦中,真のクリスチャンはどのように精錬されましたか。

      12 現代でも,エホバの民には精錬が必要でした。20世紀初頭,聖書研究者の小さなグループにおいて,多くの人は神を喜ばせたいという誠実な願いを抱いて神に仕えていましたが,中には,目立つ立場を求めるといった,間違った動機を持つ人たちもいました。その小さなグループが,終わりの時に関して預言されていた良いたよりの世界的な伝道の先頭に立つには,まず清められる必要がありました。(マタイ 24:14)預言者マラキの預言によると,エホバがご自分の神殿に来られることに関連して,まさにそうした精錬の業が成し遂げられることになっていました。(マラキ 3:1-4)マラキの言葉は1918年に成就しました。その時までに,真のクリスチャンは,最初の世界大戦のさなかに生じた火のような試みの時期を経験しており,その試みの最高潮として,ものみの塔協会の当時の会長ジョセフ・F・ラザフォードと主要な役員数名が投獄されました。それら誠実なクリスチャンは精錬の過程から益を受けました。第一次世界大戦が終わったとき,何であれ偉大な神の指示どおりに仕えてゆこうという決意をいっそう強くしていたのです。

      13 最初の世界大戦以降の年月,エホバの民はどのように迫害に対応してきましたか。

      13 その時以来,エホバの証人は極めて残酷な迫害に幾度も直面してきました。しかし,そのために創造者の言葉を疑うことはありませんでした。むしろ,使徒ペテロが自分の時代の迫害下のクリスチャンに書き送った次の言葉を思いに留めてきました。「あなた方はさまざまな試練によって悲嘆させられてきました。それは,……あなた方の信仰の試された質が,イエス・キリストの表わし示される時に,賛美と栄光と誉れのいわれとなるためなのです」。(ペテロ第一 1:6,7)火のような迫害も,真のクリスチャンの忠誠を打ち砕くことはできません。むしろ,動機の純粋さを明らかにします。迫害は,試された質を信仰に付与し,専心の思いと愛の深さを示すのです。―箴言 17:3。

      『わたしは最初であり,最後である』

      14 (イ)エホバはどのように「最初」であり「最後」ですか。(ロ)エホバはご自分の「手」を用いて,どんな力強い業を成し遂げられましたか。

      14 次いで,エホバはご自分の契約の民に温かく訴えかけ,こう言われます。「ヤコブよ,わたしが呼んだ者イスラエルよ,あなたはわたしに聴け。わたしは同じ者である。わたしは最初である。しかも,わたしは最後である。しかも,わたしの手が地の基を据え,わたしの右手が天を延べ広げたのである。わたしはそれらに呼びかけている。それらが共に立ちつづけるためである」。(イザヤ 48:12,13)人間とは異なり,神はとこしえの存在であり,変わることがありません。(マラキ 3:6)「啓示」の書の中でエホバは,「わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである」と宣言しておられます。(啓示 22:13)エホバの前に全能の神はなく,後にもありません。エホバはとこしえの至上者,創造者です。その「手」― 行使された力 ― が地を定め,星の輝く大空を張り伸ばしました。(ヨブ 38:4。詩編 102:25)神が創造物に呼びかけると,創造物は神に仕える準備をして立ち構えます。―詩編 147:4。

      15 どのように,また何のために,エホバはキュロスを「愛され」ましたか。

      15 ユダヤ人と非ユダヤ人の双方に対して,次の厳粛な招きの言葉が述べられています。「あなた方はみな共に集まって,聞け。彼らのうちのだれがこれらのことを告げたか。エホバご自身が彼を愛された。彼は神の喜ばれることをバビロンに行ない,彼自身の腕がカルデア人の上に臨むのである。わたしが ― わたし自身が語った。しかも,わたしは彼を呼んだ。わたしは彼を携え入れた。彼の道は成功させられるであろう」。(イザヤ 48:14,15)全き力を持ち,物事を正確に予告できるのはエホバだけです。「彼ら」,つまり無価値な偶像のうちに,これらのことを告げ得る者はいません。偶像の神々ではなく,エホバが「彼を」,キュロスを「愛され」ました。つまり,エホバは具体的な目的をもって彼を選ばれたのです。(イザヤ 41:2; 44:28; 45:1,13; 46:11)エホバは,キュロスが世界の舞台に登場することを予見し,将来のバビロン征服者として選び出しておられます。

      16,17 (イ)神がひそかに予告を語ったことはない,と言えるのはなぜですか。(ロ)今日エホバは,ご自身の目的をどのように告げ知らせてこられましたか。

      16 さらにエホバは,招くような口調でこう言われます。「あなた方はわたしに近づけ。これを聞け。始めから,わたしは隠れ場所で話したことは全くない。それが生じる時からわたしはそこにいた」。(イザヤ 48:16前半)エホバからの予告がひそかに語られたり,秘伝を授けられた少数者だけに知らされたりしたことはありません。エホバの預言者たちは,神の代理として,率直に語りました。(イザヤ 61:1)神のご意志を公然と宣明したのです。例えば,キュロスに関する事柄は,神にとっては唐突でも不測の出来事でもありませんでした。その200年ほど前に,神はイザヤを通して,そうした事柄をはっきりと予告しておられました。

      17 同様に今日でも,エホバはご自分の目的を秘密にしたりはなさいません。何百もの国や地域や海洋の島々の幾百万もの人々が,家から家や街路など至る所で,この事物の体制の来たるべき終わりに関する警告と,神の王国のもとで実現する祝福に関する良いたよりとをふれ告げています。まさにエホバは,ご自身の目的を知らせる神なのです。

      『わたしのおきてに注意を払え!』

      18 エホバはご自分の民がどうすることを願っておられますか。

      18 預言者イザヤはエホバの霊によって力づけられ,こう宣言します。「主権者なる主エホバご自身が,実にその霊がわたしを遣わされた。あなたを買い戻される方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。『わたし,エホバは,あなたの神,あなたに自分を益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者である』」。(イザヤ 48:16後半,17)イスラエル国民は,エホバの気遣いを示すこの愛ある言葉を聞き,神が自分たちをバビロンから救出しようとしておられることを確信するはずです。神は彼らを買い戻す方なのです。(イザヤ 54:5)エホバは,イスラエル人がご自分との関係を回復し,おきてに注意を払うことを心から願っておられます。真の崇拝の土台は,神の指示に従うことです。イスラエル人は,「歩むべき道」を教えていただかない限り,正しい道を歩むことができません。

      19 エホバは心からどのように訴えかけておられますか。

      19 ご自分の民が災いを避けて生活を楽しむようにというエホバの願いは,美しい言葉遣いでこう表現されています。「ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば! そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに」。(イザヤ 48:18)全能の創造者が,まさに心から訴えかけておられます。(申命記 5:29。詩編 81:13)イスラエル人は,捕囚になるどころか,川を流れる水のような,あふれんばかりの平和を楽しめるのです。(詩編 119:165)彼らの義の行ないは,海の波のように,数え切れないほどになり得るのです。(アモス 5:24)エホバはイスラエル人のことを大いに気にかけておられるので,彼らに訴えかけ,歩むべき道を愛をもって示しておられます。彼らは耳を傾けさえすればよいのです。

      20 (イ)イスラエルの反逆的な態度にもかかわらず,エホバは彼らがどうなることを願っておられますか。(ロ)ご自分の民へのエホバの接し方から,エホバについてどんなことを学べますか。(133ページの囲み記事をご覧ください。)

      20 イスラエルは,悔い改めるならどんな祝福を受けるでしょうか。エホバはこう言われます。「あなたの子孫は砂のように,あなたの内なる所から出る末孫は砂粒のようになるであろうに。人の名がわたしの前から断ち滅ぼされることも,滅ぼし尽くされることもないであろうに」。(イザヤ 48:19)エホバは民に,アブラハムの胤を「天の星のように,海辺の砂の粒のように」多くするというご自分の約束を思い出させておられます。(創世記 22:17; 32:12)しかしながら,これらアブラハムの子孫は反逆的であり,約束の成就にあずかる権利がありません。実のところ,彼らはあまりにも悪い歩みをしてきたので,ほかならぬエホバの律法によれば,国民としての名を消し去られて当然です。(申命記 28:45)それでもエホバは,ご自分の民が滅ぼし尽くされることを望んではおられません。彼らを全く捨て去りたいとは思われないのです。

      21 今日わたしたちは,エホバに教え諭していただこうとするなら,どんな祝福を経験できますか。

      21 この力強い言葉に明白に示されている数々の原則は,今日のエホバの崇拝者にも当てはまります。エホバは命の源であり,人間が自分の命をどう用いるべきかについて,だれよりもよくご存じです。(詩編 36:9)わたしたちから楽しみを奪い取るためではなく,益を得させるために導きを与えてくださっています。真のクリスチャンは,エホバに教え諭していただこうとします。(ミカ 4:2)エホバの指示は,わたしたちの霊性およびエホバとの関係を守り,腐敗をもたらすサタンの影響力から保護してくれます。神の律法の背後にある様々な原則の価値を認めるなら,エホバがわたしたちの益のために教えを与えてくださっている,ということを理解できます。『神のおきては重荷ではない』ことを実感できるのです。そして,断ち滅ぼされることはありません。―ヨハネ第一 2:17; 5:3。

      「バビロンから出よ!」

      22 忠実なユダヤ人は何をするよう促されていますか。どんな保証が与えられていますか。

      22 バビロンが倒壊する時,ユダヤ人の中に,正しい心の状態をはっきり示す人たちがいるでしょうか。神の救出にあずかって故国に帰還し,清い崇拝を回復する人たちがいるでしょうか。確かにいます。エホバの続きの言葉は,エホバがそう確信しておられることを示しています。「あなた方はバビロンから出よ! カルデア人のところから走り去れ。歓呼の声を上げて告げ知らせ,これを聞かせよ。それを地の果てにまで届かせよ。言え,『エホバはその僕ヤコブを買い戻された。そして,神が彼らを荒れ廃れた場所を通って行かせたときにも,彼らは渇きを覚えなかった。神は彼らのために岩から水を流れ出させ,岩を裂いて水が流れ出るようにされた』と」。(イザヤ 48:20,21)エホバの民は,直ちにバビロンから立ち去るよう預言的に促されています。(エレミヤ 50:8)彼らが請け戻されたことは,地の最果てにまで知らされなければなりません。(エレミヤ 31:10)エジプトからの脱出の後,エホバは,砂漠地帯を徒歩で旅するご自分の民に必要物を供給なさいました。同様に,ご自分の民がバビロンから故国へ戻る時にも,必要物を供給なさいます。―申命記 8:15,16。

      23 どんな人は,神から与えられる平安を楽しむことがありませんか。

      23 エホバが行なわれる救いに関して,ユダヤ人が銘記しなければならない肝要な原則がもう一つあります。義を行なおうとする人は,自分の罪ゆえに苦しみを経験することがあるとしても,滅ぼされることはありません。しかし,不義者の場合はそうではありません。こう書かれています。「エホバは言われた,『邪悪な者たちに平安はない』と」。(イザヤ 48:22)悔い改めない罪人が,神を愛する人のために用意されている平安を受けることはありません。救いは,頑固なまでに邪悪な人や,不信心な人のためのものではありません。信仰を抱く人のためだけのものです。(テトス 1:15,16。啓示 22:14,15)邪悪な者たちが神からの平安を持つことはありません。

      24 現代の神の民は何のゆえに歓びましたか。

      24 西暦前537年,バビロンを去ることができるようになった時,忠実なイスラエル人は大いに喜びました。1919年にも,神の民はバビロン的な捕らわれから解放されて歓びました。(啓示 11:11,12)彼らは希望に満たされ,活動を拡大する機会をとらえました。その少人数のクリスチャンのグループが,敵意に満ちた世界で宣べ伝える新たな機会を活用するには,確かに勇気が求められました。しかし彼らは,エホバの助けを得て,良いたよりを宣べ伝える業に取りかかりました。その後の記録は,エホバの祝福があったことを物語っています。

      25 義にかなった神の定めにしっかり注意を払うことが重要なのはなぜですか。

      25 イザヤの預言のこの部分は,エホバがわたしたちの益のために教えを与えてくださる,ということを強調しています。義にかなった神の定めにしっかり注意を払うことは非常に重要です。(啓示 15:2-4)神の知恵と愛を思いに留めるなら,エホバが正しいと言われる事柄に従いやすくなります。エホバのおきてはすべて,わたしたちの益のためのものなのです。―イザヤ 48:17,18。

      [133ページの囲み記事/図版]

      全能の神はご自分を制する

      エホバは,背教したイスラエル人に対して,『わたしは怒りをとどめ,自分を制する』と言われました。(イザヤ 48:9)こうした言葉から分かるとおり,神は,力を決して濫用しないという点で完全な模範を示しておられます。実際,神より強い力を持つ者はいません。だからこそ,神は全き力を持つ方,全能者と呼ばれるのです。神は自ら「全能」と名乗っておられ,それはふさわしいことです。(創世記 17:1)神は,ご自分が創造した宇宙の主権者なる主という立場のゆえに,無限の強さだけでなく,あらゆる権能を有しておられます。それゆえ,差し出がましく神の手をとどめたり,「あなたは何をしてきたのか」と神に言ったりできる者はいません。―ダニエル 4:35。

      しかし神は,敵する者に対して力を表明しなければならない時にも,怒ることに遅い方です。(ナホム 1:3)エホバは『怒りをとどめる』ことができ,適切にも『怒ることに遅い』方であると述べられていますが,それはエホバの支配的な特質が怒りではなく,愛だからです。怒りが表明される場合,それはいつでも義にかなっており,いつでも正当で,いつでも制御されています。―出エジプト記 34:6。ヨハネ第一 4:8。

      エホバはどうしてそのように行動されるのでしょうか。全能の力を,他の三つの主要な属性 ― 知恵,公正,愛 ― と完全に釣り合わせておられるからです。神の力の用い方は,常にこれら三つの特質と調和しています。

      [122ページの図版]

      回復に関するイザヤの音信は,流刑の身の忠実なユダヤ人に希望の光を与える

      [124ページの図版]

      ユダヤ人は,エホバのなさった事柄を,偶像の神々が行なったものとみなす傾向があった

      1. イシュタル 2. バビロンの行列道路の,釉薬れんがの帯状装飾(フリーズ)3. マルドゥクの象徴である龍

      [127ページの図版]

      『苦悩の炉』は,エホバに仕えるわたしたちの動機が純粋かどうかを明らかにすることがある

      [128ページの図版]

      真のクリスチャンは,極めて残酷な迫害に直面してきた

  • 「善意の時」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第10章

      「善意の時」

      イザヤ 49:1-26

      1,2 (イ)イザヤはどんな祝福を享受しましたか。(ロ)イザヤ 49章の前半に記録されている預言の言葉は,だれに当てはまりますか。

      歴史を通じて,忠実な人は皆,神の是認と保護を享受してきました。とはいえ,エホバはご自分の善意をだれかれかまわず差し伸べることはなさいません。そうした比類のない祝福を受けるには,それなりの資格が求められるのです。イザヤはその資格にかなっていました。そして,神の恵みを享受し,神のご意志を人々に知らせる経路としてエホバに用いられました。そのようにして知らされた事柄の一例が,イザヤの預言の49章前半に記録されています。

      2 その言葉は,アブラハムの胤に向けて預言的に語りかけられています。初めの成就において,その胤とは,アブラハムの子孫であるイスラエル国民のことです。しかし,言い回しの多くは,明らかに,待望久しいアブラハムの胤である約束のメシアに適用されます。霊感を受けたその言葉は,メシアの霊的な兄弟たちにも適用されます。その兄弟たちは,霊的なアブラハムの胤の一部,また「神のイスラエル」の一部となります。(ガラテア 3:7,16,29; 6:16)とはいえ,イザヤの預言のこの部分では特に,エホバとその最愛のみ子イエス・キリストとの間に存在する特別な関係が描かれています。―イザヤ 49:26。

      エホバによって任命され,保護される

      3,4 (イ)メシアはどんな支持を与えられていますか。(ロ)メシアはだれに向かって語っていますか。

      3 メシアは,神の善意つまり是認を受けます。エホバは彼に,任務を果たすのに必要な権威と信用証明を与えます。そのため,将来のメシアは適切にもこう述べます。「島々よ,わたしに聴け。遠くにいる国たみよ,注意を払え。エホバご自身がわたしをまさに腹の時から呼ばれた。わたしの母の内なる所から,わたしの名を語り告げられた」。―イザヤ 49:1。

      4 ここでメシアは,「遠く」にいるもろもろの民に語りかけています。メシアの到来はユダヤの民に約束されましたが,メシアの奉仕は諸国民すべてを祝福するものとなります。(マタイ 25:31-33)「島々」や「国たみ」は,エホバとの契約に入ってはいなくても,イスラエルのメシアの述べることを心して聞くべきです。なぜなら,メシアは全人類に救いをもたらすために遣わされているからです。

      5 メシアは,人間として生まれる前から,どんな名で呼ばれていますか。

      5 この預言によると,メシアが人間として生まれる前から,エホバはその者を名で呼ばれます。(マタイ 1:21。ルカ 1:31)イエスは,誕生よりもはるか前から,「“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”」という名で呼ばれています。(イザヤ 9:6)イザヤの息子の名であると思われるインマヌエルも,メシアの預言的な名であることが明らかになります。(イザヤ 7:14。マタイ 1:21-23)メシアのよく知られた名となる「イエス」も,メシアの誕生前に予告されています。(ルカ 1:30,31)その名は,「エホバは救い」という意味のヘブライ語に由来しています。イエスが勝手にキリストと称しているのでないことは明らかです。

      6 メシアの口はどんな点で鋭い剣に似ていますか。メシアはどのように隠され,覆い隠されますか。

      6 メシアの預言的な言葉はこう続きます。「それから,わたしの口を鋭い剣のようにされた。そのみ手の陰にわたしを隠された。そして,徐々にわたしを磨かれた矢とされた。わたしをご自分の矢筒の中に覆い隠された」。(イザヤ 49:2)西暦29年,エホバのメシアが地上での宣教を開始する時が到来すると,イエスの言葉や行動は,まさに磨かれた鋭い武器のように聴き手の心を貫くものとなります。(ルカ 4:31,32)イエスの言葉と行動は,エホバの大敵対者サタンとその手先を憤らせます。イエスの誕生以後,サタンはイエスの命を付けねらいます。しかしイエスは,エホバご自身の矢筒の中に覆い隠された矢のようです。a 確信を抱いて,み父の保護に頼ることができます。(詩編 91:1。ルカ 1:35)定めの時が来ると,イエスは人類のためにご自分の命を与えます。とはいえ,イエスが,別の意味で武装した力強い天の戦士として,口から鋭い剣を出して歩を進める時が到来します。その場合の鋭い剣は,エホバに敵する者たちに対する裁きを宣告して執行するイエスの権威を表わします。―啓示 1:16。

      神の僕の労苦は無駄ではない

      7 イザヤ 49章3節のエホバの言葉はだれに適用されますか。なぜですか。

      7 次いで,エホバはこのような預言の言葉を語られます。「イスラエルよ,あなたはわたしの僕である。わたしはあなたのうちにわたしの美を示す」。(イザヤ 49:3)エホバは,イスラエル国民をご自分の僕と呼んでおられます。(イザヤ 41:8)しかし,イエス・キリストは神の僕として卓越した者です。(使徒 3:13)神の創造物のうち,エホバの「美」を反映する点でイエスに勝る者はいません。ですからこの言葉は,イスラエルに語りかける形を取ってはいますが,実際にはイエスに適用されるのです。―ヨハネ 14:9。コロサイ 1:15。

      8 メシアは自分の民からどんな反応を受けますか。しかしメシアは,成功したかどうかの判定をだれに仰ぎますか。

      8 しかし現実には,イエスは自分の民の大半から軽んじられ,退けられるのではないでしょうか。そのとおりです。全般的に言って,イスラエル国民はイエスを,神の油そそがれた僕として受け入れません。(ヨハネ 1:11)イエスが地上にいる間に成し遂げる事柄すべては,同時代の人々から見れば,ほとんど価値のない,取るに足りないものかもしれません。そのようにイエスの宣教が失敗したかに見えることは,次のメシアの言葉に暗示されています。「わたしが労したのは無駄であった。実在しないもの,むなしいもののためにわたしは自分の力を使い果たした」。(イザヤ 49:4前半)こう述べてはいても,メシアは落胆しているわけではありません。続いて述べるメシアの言葉に注目してください。「確かに,わたしの裁きはエホバのもとにあり,わたしの賃金はわたしの神のもとにある」。(イザヤ 49:4後半)メシアが成功したかどうかを判定するのは,人間ではなく,神なのです。

      9,10 (イ)メシアは,エホバからどんな任務を与えられていますか。メシアはどんな成果を上げますか。(ロ)今日のクリスチャンは,メシアの経験からどのように励みを得られますか。

      9 イエスがおもに気にかけているのは,神の是認すなわち善意です。預言の中でメシアはこう述べています。「今,わたしを腹の時からご自分の僕として形造られる方エホバは,わたしがヤコブをご自分のもとに連れ戻して,イスラエルがご自分のもとに集められるようにせよと言われた。そして,わたしはエホバの目に栄光ある者とされ,わたしの神はわたしの力となってくださるであろう」。(イザヤ 49:5)メシアは,イスラエルの子らの心を天の父に向け直すために来ます。大半の人はこたえ応じませんが,一部の人は応じます。とはいえ,メシアの本当の賃金はエホバ神のもとにあります。成功したかどうかは,人間の定めた条件によってではなく,エホバご自身の基準に沿って評価されます。

      10 今日,イエスの追随者たちも,自分が無駄に労しているかのように感じることがあるかもしれません。場所によっては,費やした労力に比べると宣教の成果は取るに足りないと思えることもあるでしょう。しかし,それら追随者たちは,イエスの模範から励みを得て忍耐しています。また,次の使徒パウロの言葉からも力づけられています。「こうして,わたしの愛する兄弟たち,あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」。―コリント第一 15:58。

      「諸国民の光」

      11,12 メシアはどのように「諸国民の光」となってきましたか。

      11 イザヤの預言の中で,エホバはメシアを励ますため,神の僕であるのは「ささいなこと」ではないという点を思い起こさせておられます。イエスは,「ヤコブの各部族を起こし,イスラエルの保護された者たちを連れ戻す」ことになっているのです。エホバはさらに説明を加え,「わたしはまた,諸国民の光のためにあなたを与え,わたしの救いが地の果てに至るようにさせた」と述べておられます。(イザヤ 49:6)イエスの場合,地上での宣教の対象がイスラエルに限られているのに,どのようにして「地の果て」まで人々を啓発するのでしょうか。

      12 聖書の記録によれば,神の「諸国民の光」は,イエスが地上から去るとともに消えてしまったわけではありません。イエスの死から15年ほど後,宣教者のパウロとバルナバはイザヤ 49章6節の預言を引用し,イエスの霊的な兄弟である弟子たちに適用しました。こう説明しています。「エホバは次のような言葉でわたしたちに命令を課しておられます。『わたしはあなたを任命して諸国民の光とした。地の果てにまであなたが救いとなるためである』」。(使徒 13:47)パウロ自身,死ぬ前に,救いの良いたよりが,ユダヤ人だけでなく「天下の全創造物」にまで達したのを見届けました。(コロサイ 1:6,23)今日,キリストの油そそがれた兄弟の残っている者たちは,その業を続行しています。数百万を数えるようになった「大群衆」の支援を受け,全世界の230を超える国や地域で「諸国民の光」としての役目を果たしているのです。―啓示 7:9。

      13,14 (イ)メシアとその追随者たちは,伝道活動に対するどんな反応を経験してきましたか。(ロ)どんな事態の逆転が生じましたか。

      13 エホバは,メシアなる僕と,メシアの油そそがれた兄弟たち,およびその兄弟たちと共に良いたよりの伝道活動を続ける大群衆の成員すべてを支える力となっていることを,確かに実証してこられました。イエスの弟子たちがイエスと同様に侮辱や反対を受けてきたのは事実です。(ヨハネ 15:20)しかし,エホバは必ず定めの時に事態を逆転させ,忠節な僕たちを救出して報いを与えます。「魂の軽んじられる者」,「国民に憎み嫌われる者」とされるメシアに関して,エホバはこう約束しておられます。「王たちは自ら見て,必ず立ち上がる。君たちもである。忠実な者であるエホバ,あなたを選ぶイスラエルの聖なる者ゆえに,彼らは身をかがめるであろう」。―イザヤ 49:7。

      14 後に使徒パウロは,フィリピのクリスチャンにあてた手紙の中で,予告された,この事態の逆転に言及しました。パウロはイエスのことを,苦しみの杭の上で辱められはしたが,そののち神によって高められた方として述べています。エホバはご自分の僕に「さらに上の地位」を与え,「他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えに」なりました。それは『すべてのひざがイエスの名によってかがむ』ためでした。(フィリピ 2:8-11)キリストの忠実な追随者たちは,自分たちも迫害に遭うことを告げられています。それでも,メシアと同じようにエホバの善意を受けることを確信しています。―マタイ 5:10-12; 24:9-13。マルコ 10:29,30。

      「特に受け入れられる時」

      15 イザヤの預言はどんな特別な「時」に言及していますか。それは何を示唆していますか。

      15 イザヤの預言の続きの部分には,非常に意義深い言葉が収められています。エホバはメシアにこう語っておられます。「わたしは善意の時にあなたに答え,救いの日にあなたを助けた。わたしは絶えずあなたを保護した。あなたを民のための契約として与えるためであった」。(イザヤ 49:8前半)同様の預言が,詩編 69編13-18節にも記録されています。詩編作者は,「善意の時」と言う代わりに,「受け入れていただける時」という表現を使っています。こうした語句は,エホバの善意と保護が特別な仕方で,限られた特定の期間にだけ差し伸べられることを示唆しています。

      16 古代イスラエルにとって,エホバの善意の時とはいつのことでしたか。

      16 その善意の時はいつだったのでしょうか。本来,この言葉は回復の預言の一部であり,ユダヤ人の流刑からの帰還を予告するものでした。イスラエル国民は,「土地を復興させ」,「荒廃した世襲所有地」を再び所有できるようになった時,善意の時を経験しました。(イザヤ 49:8後半)彼らはもはやバビロンの「捕らわれ人」ではありませんでした。故国への帰還の途上,エホバは彼らが「飢えることも,渇くことも」ないよう,また,「焼けつくような熱や太陽が彼らを打つことも」決してないよう見届けました。散らされていたイスラエル人は,「遠い所から……北から,西から」,再び故国へと群れ集まりました。(イザヤ 49:9-12)この最初の成就が劇的なものであったとはいえ,聖書によれば,この預言には幾つかの広範な適用があります。

      17,18 1世紀にエホバはどんな善意の時をお定めになりましたか。

      17 まず,イエスの誕生の際,み使いたちは,平和と,人間に対する神の善意つまり恵みとをふれ告げました。(ルカ 2:13,14)この善意は,人間全般にではなく,イエスに信仰を働かせる人々だけに差し伸べられていました。後にイエスは,イザヤ 61章1,2節の預言を公の場で読み,その預言を,「エホバの受け入れられる年」をふれ告げる者である自分自身に適用しました。(ルカ 4:17-21)使徒パウロは,キリストが肉体でいた間にエホバから特別な保護を受けたということを述べています。(ヘブライ 5:7-9)ですからこの善意の時は,イエスが人間としての生涯中に受けた神からの恵みに適用されます。

      18 とはいえ,この預言にはそれ以上の適用があります。パウロは,善意の時に関するイザヤの言葉を引用した後,続けて,「見よ,今こそ特に受け入れられる時です。見よ,今こそ救いの日なのです」と述べました。(コリント第二 6:2)パウロはこの言葉を,イエスの死の22年後に書いています。西暦33年のペンテコステの日にクリスチャン会衆が誕生した時,エホバはご自分の善意の年をさらに延ばして,キリストの油そそがれた追随者たちも包含されるようになさったようです。

      19 今日のクリスチャンはどのようにエホバの善意の時から益を得ることができますか。

      19 では,今日のイエスの追随者のうち,神の天の王国の相続人として油そそがれていない人たちについては何と言えますか。地的な希望を持つその人たちも,この受け入れられる時から益を得られるのでしょうか。そのとおりです。聖書の「啓示」の書によれば,今は,「大患難から」出て来て楽園となった地上での生活を楽しむ大群衆に対する,エホバの側の善意の時です。(啓示 7:13-17)ですから,クリスチャンは皆,不完全な人間にエホバが善意を差し伸べているこの限られた期間を活用することができるのです。

      20 エホバの過分のご親切の目的を逸することがないよう,クリスチャンは何をしなければなりませんか。

      20 使徒パウロは,エホバの受け入れられる時を布告する前に警告を与えました。「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないようにしてください」とクリスチャンに懇願しています。(コリント第二 6:1)それゆえ,クリスチャンはあらゆる機会をとらえて,神を喜ばせ,神のご意志を行なおうとします。(エフェソス 5:15,16)クリスチャンがパウロの次の訓戒に従うのは良いことです。「兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい。むしろ,『今日』ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,人を欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい」。―ヘブライ 3:12,13。

      21 イザヤ 49章の前半の結びに,どんな喜ばしい声明が行なわれていますか。

      21 エホバとそのメシアが交わした預言的な会話は終わり,イザヤは次のような喜ばしい声明を行ないます。「天よ,喜びの叫びを上げよ。地よ,喜びに満ちあふれよ。山々は快活になって喜びの叫びを上げよ。エホバはご自分の民を慰めてくださった。そしてご自分の苦しむ者たちに哀れみを示してくださるからである」。(イザヤ 49:13)昔のイスラエル人と,エホバの偉大な僕イエス・キリストにとって,またエホバの油そそがれた僕たちと,その今日の仲間である「ほかの羊」にとって,なんと素晴らしい慰めの言葉なのでしょう。―ヨハネ 10:16。

      エホバはご自分の民を忘れない

      22 エホバは,ご自分の民を決して忘れないことをどのように強調しておられますか。

      22 次いでイザヤは,エホバの宣言を伝えつつ,流刑の身のイスラエル人がうみ疲れ,希望を失いがちになることをこう予告しています。「シオンは言いつづけた,『エホバはわたしを捨て,エホバ自らわたしをお忘れになった』と」。(イザヤ 49:14)これは真実でしょうか。エホバはご自分の民を見捨て,お忘れになったのでしょうか。イザヤはエホバの代弁者として語り,こう続けます。「妻が自分の乳飲み子を忘れて,自分の腹の子を哀れまないことがあろうか。こうした女たちでさえ,忘れることもあり得る。しかし,わたしがあなたを忘れることはない」。(イザヤ 49:15)エホバはなんと愛のこもった返答をしておられるのでしょう。ご自分の民に対する神の愛は,我が子に対する母親の愛をもしのぎます。神はご自分の忠節な者たちのことを常に気にかけておられます。あたかもご自分の手に彼らの名が刻まれているかのように,彼らを覚えておられます。「見よ,わたしは自分のたなごころにあなたを刻んだ。あなたの城壁は常にわたしの前にある」とあるとおりです。―イザヤ 49:16。

      23 パウロは,エホバが忘れたりはされないことを確信するよう,どのようにクリスチャンを励ましましたか。

      23 使徒パウロはガラテアの人々にあてた手紙の中で,クリスチャンに,「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」と説き勧めました。(ガラテア 6:9)また,ヘブライ人には,「神は不義な方ではないので,あなた方……の働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです」という励ましの言葉を書き送っています。(ヘブライ 6:10)わたしたちは,エホバがご自分の民を忘れてしまわれたなどとは,ゆめゆめ考えるべきではありません。古代のシオンと同じく,クリスチャンには,歓び,かつ辛抱強くエホバを待つべき十分の理由があるのです。エホバはご自分の契約の条項と約束を厳守する方です。

      24 シオンはどのように回復しますか。シオンは何と質問しますか。

      24 エホバはイザヤを通して,さらに慰めを与えておられます。バビロニア人であろうと,背教したユダヤ人であろうと,「[シオン]を打ち壊し」ている者たちはもはや脅威ではありません。シオンの「子ら」,つまりエホバに忠節を保つ流刑の身のユダヤ人は『急ぎ』ました。彼らは『集まり』ます。急いでエルサレムに戻るユダヤ人帰還者たちは,「花嫁」が身に着ける「飾り物」のように,自分たちの首都の飾りとなります。(イザヤ 49:17,18)シオンの地は『荒れ廃れて』います。では,居住地が狭苦しく思えるほど大勢の人がにわかに住むようになる時にシオンが感じる驚きを想像してみてください。(イザヤ 49:19,20をお読みください。)この子らすべてはどこから来たのか,とシオンが尋ねるのも無理はありません。こう書かれています。「あなたは心の中で必ず言うであろう,『だれがわたしのためにこれらの者の父となってくれたのか。わたしは子供を亡くした女,うまずめであり,流刑に処せられ,捕らわれ人となったのだから。これらの者を一体だれが養ったのか。見よ,わたしはただ独り取り残されていたのに。これらの者 ― 彼らはどこにいたのか』と」。(イザヤ 49:21)それまで不妊だったシオンにとって,なんという幸せでしょう。

      25 現代において,霊的なイスラエルはどんな回復を経験しましたか。

      25 これらの言葉には現代の成就があります。最初の世界大戦中のつらい年月の間,霊的なイスラエルは荒廃と捕囚の時期を経験しました。しかしそのイスラエルは回復し,霊的なパラダイスに入りました。(イザヤ 35:1-10)イザヤが描写しているかつて荒廃していた都市と同様,霊的なイスラエルは,いわば自分が,喜びに満ちた活発なエホバの崇拝者たちでいっぱいになっていることに気づき,大いに喜びました。

      「もろもろの民のための旗じるし」

      26 エホバは,解放されたご自分の民にどんな導きをお与えになりますか。

      26 次にエホバはイザヤを,神の民がバビロンから解き放たれる時代へと預言的に連れて行かれます。その民には,神から何らかの導きが与えられるのでしょうか。エホバはこうお答えになります。「見よ,わたしは諸国の民に向かって手を上げ,もろもろの民に向かって旗じるしを掲げる。すると,彼らは懐にあなたの息子たちを携え,肩にあなたの娘たちを載せて運んで来るであろう」。(イザヤ 49:22)当初の成就においては,かつて政治の中心地でありエホバの神殿の所在地でもあったエルサレムが,エホバの「旗じるし」となります。「王たち」や「王妃たち」など,他の諸国民の主立った有力者たちでさえ,エルサレムに戻る旅をしているイスラエル人を支援します。(イザヤ 49:23前半)ペルシャの王であるキュロスとアルタクセルクセス・ロンギマヌス,およびその王家の人々は,実際にそうした援助を行ないました。(エズラ 5:13; 7:11-26)とはいえ,イザヤの言葉にはさらに別の適用があります。

      27 (イ)より大規模な成就において,もろもろの民はどんな「旗じるし」に群れ集まりますか。(ロ)諸国民すべてがメシアの支配権に身をかがめざるを得なくなる時,結果はどうなりますか。

      27 イザヤ 11章10節は,「もろもろの民のための旗じるし」について述べています。使徒パウロはその言葉をキリスト・イエスに適用しました。(ローマ 15:8-12)ですから,より大規模な成就においては,イエス,および霊によって油そそがれたイエスの共同支配者たちが,もろもろの民の群れ集まるエホバの「旗じるし」です。(啓示 14:1)定めの時に,今日の支配階級も含め,地のすべての民は,メシアの支配権に身をかがめなければならなくなります。(詩編 2:10,11。ダニエル 2:44)それは,どんな結果になりますか。エホバはこう言われます。「あなたはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる。わたしを待ち望む者たちが恥をかくことはない」。―イザヤ 49:23後半。

      『今や,わたしたちの救いは近づいている』

      28 (イ)エホバは何と述べて,ご自分の民が解き放たれることを再び保証しておられますか。(ロ)ご自分の民に関するエホバのどんな確約は今でも有効ですか。

      28 バビロンで流刑になっている人たちは,『イスラエルが解き放たれることなど本当にあるのだろうか』と考えるかもしれません。エホバはそうした疑問を考慮に入れ,こう質問なさいます。「既に奪い取られた者たちが力ある者のもとから奪い取られるだろうか。圧制者に捕らわれた者たちの一団が逃げ出せるだろうか」。(イザヤ 49:24)「それは可能である」というのが答えです。エホバはこう保証しておられます。「力ある者に捕らわれた者たちの一団といえども奪い去られ,既に圧制者のもとに奪い取られた者たちも逃げ出すであろう」。(イザヤ 49:25前半)なんと慰めとなる保証なのでしょう。そのうえ,ご自分の民に対するエホバの善意には,彼らを保護するという確約が伴っています。エホバは,あいまいな言い方をせず,「そしてあなたと争う者に対しては,わたしが争い,あなたの子らについては,わたしがこれを救うであろう」と述べておられます。(イザヤ 49:25後半)この確約は今でも有効です。ゼカリヤ 2章8節に記録されているとおり,エホバはご自分の民に向かって,「あなた方に触れる者はわたしの目の玉に触れているのである」と言われます。わたしたちは確かに善意の期間を楽しんでおり,その期間中,全地のもろもろの民には霊的なシオンに群れ集まる機会が開かれています。しかし,その善意の期間もやがて終わりを迎えます。

      29 エホバに従うことを拒む人々の前途には,どんな陰うつな見通しがありますか。

      29 エホバに従うことをかたくなに拒む人々,さらには神の崇拝者を迫害までする人々はどうなるでしょうか。エホバはこう述べておられます。「わたしはあなたを虐待する者たちに自らの肉を食らわせる。彼らは甘いぶどう酒に酔うかのように自分の血に酔うであろう」。(イザヤ 49:26前半)なんとも陰うつな見通しです。こうしたかたくなな反対者たちに,長く続く将来はありません。滅ぼされてしまうのです。このようにエホバは,ご自分の民を救うことと,その民の敵たちを滅ぼすことの両方のゆえに,救い主とみなされるのです。「すべての肉なる者は,わたし,エホバがあなたの救い主であり,あなたを買い戻す者,ヤコブの強力な者であることを知らなければならなくなる」。―イザヤ 49:26後半。

      30 エホバは,ご自分の民のためにどんな救いを実行してこられましたか。さらに,これから何を行なわれますか。

      30 こうした言葉が最初に現実のものとなったのは,エホバがキュロスを用いてご自分の民をバビロンの束縛から自由にした時のことです。同様に,1919年にも現実のものとなりました。その年,エホバは,即位したみ子イエス・キリストを用いてご自分の民を霊的な奴隷状態から解き放ったのです。それゆえ,聖書はエホバとイエスの両方を救い主と呼んでいます。(テトス 2:11-13; 3:4-6)エホバはわたしたちの救い主であられ,メシアであるイエスは神の「主要な代理者」です。(使徒 5:31)イエス・キリストを通してなされる神の救いは,まさに驚くべきものです。エホバは良いたよりによって,心の正しい人々を偽りの宗教の束縛から自由にされます。また,贖いの犠牲によって,その人々を罪と死の束縛から救出されます。1919年には,イエスの兄弟たちを霊的な束縛から救出なさいました。そして,足早に近づくハルマゲドンの戦いにおいては,忠実な人々の大群衆を,罪人に臨む滅びから救出なさいます。

      31 クリスチャンは,神の善意を受ける者となることにどう反応すべきですか。

      31 ですから,神の善意を受ける者となるのはなんと素晴らしい特権なのでしょう。わたしたちすべてが,この受け入れられる時を賢明に活用できますように。そして,ローマ人にあてたパウロの次の言葉に留意し,今の時代の緊急性に調和した行動を取れますように。「あなた方は時節を,すなわち今がすでに眠りから覚めるべき時であることを知っているのです……。今や,わたしたちの救いは,わたしたちが信者になった時よりも近づいているのです。夜は更け,昼が近づきました。それゆえ,闇に属する業を捨て去り,光の武器を身に着けましょう。浮かれ騒ぎや酔酒,不義の関係やみだらな行ない,また闘争やねたみのうちを歩むのではなく,昼間のように正しく歩みましょう。そして,主イエス・キリストを身に着けなさい。肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」。―ローマ 13:11-14。

      32 神の民にはどんな保証がありますか。

      32 エホバは今後も,ご自分の諭しに留意する人々に恵みを示してくださいます。良いたよりの伝道を遂行するのに必要な強さと能力を与えてくださるのです。(コリント第二 4:7)エホバはご自分の僕たちを用いてゆかれます。それは,彼らの指導者イエスを用いておられるのと同様です。エホバは僕たちの口を「鋭い剣のように」して,良いたよりの音信が温和な人々の心に達するようになさいます。(マタイ 28:19,20)そして,ご自分の民を「そのみ手の陰に」入れて,保護してくださいます。民を,「磨かれた矢」のように,「ご自分の矢筒の中に」覆い隠されます。そうです,エホバはご自分の民を見捨てたりはされないのです。―詩編 94:14。イザヤ 49:2,15。

      [脚注]

      a 「サタンは,イエスが神のみ子であり,サタンの頭を砕く者として預言されていた方であることを見分けていたことでしょう。(創 3:15)そのため,彼はイエスを滅ぼそうと自分にできる限りのことをしました。しかし,み使いガブリエルはイエスを身ごもることについてマリアに伝えた時,こう告げました。『聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたを覆うのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます』。(ルカ 1:35)エホバはご自分のみ子を安全に保護されました。イエスを幼児の時に滅ぼそうとする努力は成功しませんでした」。―ものみの塔聖書冊子協会発行,「聖書に対する洞察」,第1巻,997ページ。

      [139ページの図版]

      メシアは,エホバの矢筒の中にある「磨かれた矢」のようである

      [141ページの図版]

      メシアは「諸国民の光」となってきた

      [147ページの図版]

      ご自分の民に対する神の愛は我が子に対する母親の愛をもしのぐ

  • 『高貴な者に信頼を置いてはならない』
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第11章

      『高貴な者に信頼を置いてはならない』

      イザヤ 50:1-11

      1,2 (イ)ユダヤ人は,霊感によるどんな助言に留意しませんか。その結果,どうなりますか。(ロ)エホバが,「離婚証明書はどこにあるのか」とお尋ねになるのはなぜですか。

      「高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。……ヤコブの神を自分の助けとする者は幸いだ。彼の望みはその神エホバにある。神は,天と地……の造り主」。(詩編 146:3-6)イザヤと同時代のユダヤ人は,この詩編作者の助言どおりに行動すればよいのです。エジプトや他の異教の国にではなく,「ヤコブの神」に確信を置きさえすればよいのです。そうすれば,ユダの敵が攻め寄せてきても,エホバはユダを保護するために行動してくださるはずです。しかし,ユダはエホバに助けを求めることを拒みました。そのためエホバは,エルサレムが滅ぼされ,ユダの住民が捕囚としてバビロンに送られることをお許しになります。

      2 ユダは自分の責任をだれかに転嫁することはできません。我々が滅びを被るのはエホバが不実に行動したからだ,我々との契約を履行しなかったからだ,などと主張することはできません。創造者は契約を破るような方ではありません。(エレミヤ 31:32。ダニエル 9:27。啓示 15:4)エホバはその点を強調し,ユダヤ人にこう尋ねておられます。「では,わたしが追い出したあなた方の母の離婚証明書はどこにあるのか」。(イザヤ 50:1前)モーセの律法のもとでは,夫は妻を離婚する際,離婚証書を与えなければなりません。それにより,彼女は別の男の妻になる自由を持つことになります。(申命記 24:1,2)比喩的な意味でエホバは,ユダの姉妹王国であるイスラエルに,そのような証書をお渡しになりました。しかし,ユダに対してはそうしておられません。a エホバは依然としてユダの「夫たる所有者」なのです。(エレミヤ 3:8,14)ユダには,異教諸国家と交際する自由は全くありません。エホバとユダとの関係は,『シロ[メシア]が来るときまで』存続します。―創世記 49:10。

      3 エホバがご自分の民を『売る』のは,どんな理由によりますか。

      3 さらにエホバはユダにこう尋ねておられます。「わたしはわたしの債権者のうちのだれにあなた方を売ったのか」。(イザヤ 50:1中)ユダヤ人が捕囚としてバビロンに送られるのは,エホバが負った何か債務のようなものを穴埋めするためではありません。エホバは,勘定を清算するために我が子を債権者に売らざるを得ない貧しいイスラエル人の場合とは違います。(出エジプト記 21:7)それどころか,エホバはご自分の民が奴隷となる本当の理由を指摘して,こう言われます。「見よ,あなた方は自分のとがのために売られ,あなた方の母はあなた方の違犯のために追い出されたのだ」。(イザヤ 50:1後)ユダヤ人のほうがエホバを捨てたのです。エホバが彼らを捨てたのではありません。

      4,5 エホバはどのようにご自分の民に対する愛を示しておられますか。しかし,ユダはどう反応しますか。

      4 それに続くエホバの問いかけは,ご自分の民に対するエホバの愛をはっきり際立たせています。「わたしが入って来たとき,だれもいなかったのはどうしてか。わたしが呼んだとき,答える者がだれもいなかったのはどうしてか」。(イザヤ 50:2前半)エホバはご自身の僕である預言者たちを用いて,いわばご自分の民の家に入って来られ,心をつくしてご自分のもとに戻るようにと懇願なさったのです。しかし,答えは返ってきません。ユダヤ人は地の人に支援を求めるほうを好み,エジプトに頼ることまでします。―イザヤ 30:2; 31:1-3。エレミヤ 37:5-7。

      5 エジプトは,エホバよりも頼れる救済者でしょうか。これら不忠実なユダヤ人は,何世紀も前に国民としての自分たちの誕生に先立って生じた数々の出来事を忘れてしまっているようです。エホバは彼らにこうお尋ねになります。「わたしの手は請け戻すことができないほど短くなったのか。それとも,わたしには救い出す力がないとでもいうのか。見よ,わたしはわたしの叱責によって海を干上がらせる。わたしは川を荒野にする。その魚は水がないために悪臭を放ち,渇きのために死ぬ。わたしは薄暗さを天に着せ,粗布をもってその覆いとする」。―イザヤ 50:2後半,3。

      6,7 エホバはエジプト人からの脅威に面しても,どのように救いの力をお示しになりましたか。

      6 西暦前1513年当時,エジプトは,神の民の待望の救出者であるどころか,圧制者でした。イスラエル人はその異教の地で奴隷となっていました。しかし,エホバはイスラエル人を救出なさいました。それは,まさに胸の躍るような救出でした。まず,神はエジプトに十の災厄を下します。ひときわ壊滅的な10番目の災厄の後,エジプトのファラオは追い立てるようにしてイスラエル人を国から去らせます。(出エジプト記 7:14–12:31)ところが,イスラエル人が去るとすぐに,ファラオは心変わりします。イスラエル人をエジプトに連れ戻すため,軍隊を召集して出撃します。(出エジプト記 14:5-9)イスラエル人は,後ろにはエジプトの大軍,前には紅海という,抜き差しならない状況に追い込まれます。しかし,エホバが彼らのために戦ってくださいました。

      7 エホバは,エジプト人とイスラエル人との間に雲の柱を置き,エジプト人を足止めします。その雲塊のエジプト人の側には薄暗がりが,イスラエル人の側には光があります。(出エジプト記 14:20)そしてエホバは,エジプトの軍隊をくぎづけにしたまま,「強い東風によって夜通し海を退かせ,その海を乾いた地面に変えてゆかれ」ます。(出エジプト記 14:21)水が分かれると,民は全員 ― 男も女も子供たちも ― 安全な所へと紅海を渡ることができます。民が対岸に向かってかなり進んだころ,エホバは雲を持ち上げます。エジプト人はしゃにむに後を追い,海底へ突っ込んで行きます。民が無事に岸に上がると,エホバは水を解き放ち,ファラオとその軍隊を溺死させます。そのようにして,エホバはご自分の民のために戦われたのです。これは,今日のクリスチャンにとっても大いに励みになるのではないでしょうか。―出エジプト記 14:23-28。

      8 ユダの住民は,どんな警告を無視したゆえに,最終的に流刑に処されますか。

      8 イザヤの時代までに,神のこの勝利から700年の年月が流れています。今ユダは,独自の国家となっています。ユダは時折,アッシリアやエジプトといった異国の政府と外交交渉を行ないます。しかし,そうした異教諸国家の指導者たちは信用できません。ユダと結んだどんな契約よりも自国の利益を常に優先させるからです。預言者たちはエホバのみ名によって民に語り,そうした人間に信頼を置いてはいけないと警告します。しかし,民は預言者たちの言葉に耳を貸しません。最終的に,ユダヤ人はバビロンへ流刑にされ,70年の間,隷属の身となります。(エレミヤ 25:11)それでもエホバは,ご自分の民を忘れたり,いつまでも捨て置いたりはされません。定めの時に思い出し,彼らが故国へ帰還して清い崇拝を回復するための道を開かれます。何のためにでしょうか。シロの到来に備えるためです。民すべての従順はそのシロのものとなります。

      シロが来る

      9 シロとはだれですか。その方はどんな教え手ですか。

      9 幾世紀もの時が経過します。「時の限りが満ち」,シロと呼ばれる方である主イエス・キリストが地上に姿を現わします。(ガラテア 4:4。ヘブライ 1:1,2)エホバが自分にとって最も身近な方をユダヤ人への代弁者として選任されたことは,その民に対する愛の深さを示しています。イエスはどんな代弁者になるのでしょうか。最高位の代弁者です。イエスは単なる代弁者ではなく,教え手,それも優れた教え手です。それもそのはずです。イエスには,卓越した教訓者として,ほかならぬエホバ神がおられるのです。(ヨハネ 5:30; 6:45; 7:15,16,46; 8:26)そのことは,イエスが預言的にイザヤを通して語っている言葉によって裏付けられています。「主権者なる主エホバご自身が教えられた者たちの舌をわたしに与えてくださった。疲れた者にどのように言葉を用いて答えるかをわたしが知るためである。神は朝ごとに目覚めさせてくださる。教えられた者たちのように聞くためにわたしの耳を目覚めさせてくださる」。―イザヤ 50:4。b

      10 イエスは,神の民に対するエホバの愛をどのように反映しますか。イエスはどんな反応を受けますか。

      10 イエスは地に来る前,天のみ父の傍らで働いておられました。み父とみ子の間のほのぼのとした関係は,箴言 8章30節で,「わたしは優れた働き手として神の傍らにあり,……その前で常に喜(んだ)」と詩的に描写されています。イエスにとって,み父に聴き従うことは大きな喜びでした。み父と同様,イエスは「人の子ら」に愛を抱いていました。(箴言 8:31)地に来たイエスは,「疲れた者」に「言葉を用いて」答えます。宣教を開始するに当たり,慰めとなる次のようなイザヤの預言を朗読します。「エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,……打ちひしがれた者を解き放して去らせ……るために,わたしを遣わしてくださったからである」。(ルカ 4:18,19。イザヤ 61:1)貧しい者にとって実に良いたよりです。疲れ果てた者はさわやかにされるのです。この発表は,民に非常に大きな喜びをもたらすはずではないでしょうか。確かに一部の人は歓びます。しかし,歓ばない人もいます。結局のところ,多くの人は,エホバに教えられた者であることを示すイエスの信用証明を受け入れようとしません。

      11 だれがイエスと共にくびきを負いますか。その人たちはどんな経験をしますか。

      11 とはいえ,もっと聞きたいと思う人たちもいます。その人たちは,次のような心温まるイエスの招待に喜んで応じます。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」。(マタイ 11:28,29)イエスのもとに来た人々の中には,その後イエスの使徒となる人たちがいます。その人たちは,イエスと共にくびきを負うのは自分たちにとって決してたやすいことではない,という点をわきまえています。その仕事には,特に,地の果てにまで王国の良いたよりを宣べ伝えることが含まれます。(マタイ 24:14)その仕事に携わる使徒や他の弟子たちは,それが本当に魂にさわやかなものをもたらすことに気づきます。同じ仕事が今日の忠実なクリスチャンによって遂行されており,参加する人々に同様の喜びをもたらしています。

      その者は反抗的ではない

      12 イエスはどんな点で天の父に対する従順を示しますか。

      12 イエスは,自分が地に来た目的,つまり神のご意志を行なうという目的を片時も見失いません。イエスの物の見方はこう予告されています。「主権者なる主エホバがわたしの耳を開いてくださった。そして,わたしは反抗的ではなかった。わたしは反対の方に向かなかった」。(イザヤ 50:5)イエスは常に神に従順です。実際,イエスは,「子は,自分からは何一つ行なうことができず,ただ父がしておられて,自分が目にする事柄を行なえるにすぎません」とさえ言います。(ヨハネ 5:19)イエスは,人間になる前,幾百万年あるいは幾十億年もの長い間,み父のそばで働いておられたことでしょう。地に来た後も,引き続きエホバの指示に従います。キリストの不完全な追随者であるわたしたちは,なおのこと注意深くエホバの指導に従って行動すべきではないでしょうか。

      13 イエスの前途には何が待ち受けていますか。しかし,イエスはどのように勇気を示しますか。

      13 エホバの独り子を退けるだけでなく,迫害までする人たちもいます。そのことも,こう予告されています。「わたしは打つ者たちに背を与え,髪を引き抜く者たちにほほを与えた。わたしは屈辱的なことやつばから顔を覆い隠さなかった」。(イザヤ 50:6)この預言によると,メシアは反対者たちの手に掛かって苦痛と屈辱を味わうことになります。イエスはそのことをご存じです。また,この迫害がどれほどひどいものになるかもご存じです。それでも,地上での生涯の終わりに近づく時,イエスは恐れを見せません。火打ち石のように固い決意を抱いてエルサレムに向かいます。イエスの人間としての命は,そこで終わることになっています。エルサレムに行く途中,イエスは弟子たちにこう言います。「さあ,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長と書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定めて諸国の人々に引き渡します。ついで彼らはこれを愚弄し,つばをかけ,むち打ち,そして殺します。しかし三日後に彼はよみがえるのです」。(マルコ 10:33,34)こうしたむごい虐待を扇動するのは,そのような事をすべきでないと知っているはずの人々,つまり祭司長と書士たちです。

      14,15 イエスが打たれたり辱められたりするというイザヤの言葉は,どのように成就しますか。

      14 西暦33年ニサン14日の夜,イエスは幾人かの追随者と共にゲッセマネの園にいます。イエスが祈っておられると,突然,暴徒が現われてイエスを拘引します。しかし,イエスは恐れません。エホバが共にいてくださることをご存じなのです。おびえる使徒たちを安心させるためイエスは,もし自分が望むなら,み父にお願いして,12軍団以上のみ使いを遣わして救い出していただくこともできる,と述べます。しかし,言葉を続けて,「そのようにしたなら,……聖書はどうして成就するでしょうか」と言われます。―マタイ 26:36,47,53,54。

      15 裁判とメシアの死に関する事柄はすべて予告どおりに起こります。サンヘドリンの前での形ばかりの裁判の後,イエスはポンテオ・ピラトの取り調べを受け,むちで打たれます。ローマの兵士たちは「葦で彼の頭をたたいたり,つばをかけたり」します。こうして,イザヤの言葉が成就します。(マルコ 14:65; 15:19。マタイ 26:67,68)聖書は,イエスのあごひげの一部が文字どおり引き抜かれること ― ひどい侮べつを表現する行動 ― は述べていませんが,イザヤの予告どおり,そうしたことが行なわれたに違いありません。c ―ネヘミヤ 13:25。

      16 イエスは,極度に緊迫した状況にどのように応じますか。イエスが恥じないのはなぜですか。

      16 ピラトの前に立ったイエスは,命ごいをせず,威厳に満ちた態度で黙っておられます。聖書が成就するには自分が死ななければならないことをご存じなのです。ローマ総督が,自分にはイエスに死刑を宣告する力も釈放する力もあると言うと,イエスは恐れることなく,「上から与えられたのでない限り,あなたはわたしに対して何の権限もないでしょう」と返答します。(ヨハネ 19:11)ピラトの兵士たちはイエスに冷酷な仕打ちを加えますが,イエスに恥をかかせることはできません。そもそも,イエスにはどうして恥じる理由などあるでしょうか。何かの違犯に対する当然の処罰を受けているのではありません。それどころか,義のために迫害されているのです。この点で,イザヤの別の預言の言葉が成就します。「主権者なる主エホバご自身がわたしを助けてくださる。それゆえに,わたしは屈辱を感じる必要はない。それゆえに,わたしは顔を火打ち石のようにした。わたしは自分が恥をかくことがないことを知っている」。―イザヤ 50:7。

      17 イエスの宣教期間中ずっと,エホバはどのようにイエスのそばに立っておられますか。

      17 イエスの勇気の根底にあるのは,エホバに対する全き確信です。イエスの態度は,イエスが全くイザヤの言葉どおりの方であることを示しています。こうあります。「わたしを義なる者と宣する方が近くにいてくださる。だれがわたしと争い得るであろうか。共に立とう。わたしの司法上の相手はだれか。その者をわたしに近寄らせよ。見よ,主権者なる主エホバご自身がわたしを助けてくださる。わたしが邪悪であると宣告し得る者がだれかいるか。見よ,彼らは皆,衣のように古びる。ただの蛾が彼らを食い尽くすのである」。(イザヤ 50:8,9)イエスがバプテスマを受けた日に,エホバはイエスを神の霊的な子として義と宣します。事実,その時,神ご自身の声がこう言うのが聞こえます。「これはわたしの子,わたしの愛する者である。この者をわたしは是認した」。(マタイ 3:17)地上での生涯の終わりごろ,イエスがゲッセマネの園でひざまずいて祈っていると,「ひとりのみ使いが天から現われて彼を強め」ます。(ルカ 22:41-43)ですからイエスは,自分の生き方がみ父に是認されていることをご存じです。神のこの完全なみ子は罪を犯したことがありません。(ペテロ第一 2:22)敵する者たちは,イエスが安息日を破る者,飲んだくれ,悪霊に取りつかれた者であるという偽りの非難を浴びせますが,そうしたうそによってイエスの名誉が汚されるわけではありません。神が共におられるのですから,だれがイエスに敵し得るでしょうか。―ルカ 7:34。ヨハネ 5:18; 7:20。ローマ 8:31。ヘブライ 12:3。

      18,19 油そそがれたクリスチャンは,イエスと同様のどんな経験をしてきましたか。

      18 イエスは弟子たちに,「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」と警告しておられます。(ヨハネ 15:20)ほどなくして,まさにそのとおりのことが生じます。西暦33年のペンテコステの日,イエスの忠実な弟子たちに聖霊が下り,クリスチャン会衆が誕生します。するとすぐに,今や「アブラハムの胤」の一部としてイエスに結び付き,神の霊的な子として養子にされたこれら忠実な男女の宣べ伝える業は,宗教指導者たちからの圧迫を受けます。(ガラテア 3:26,29; 4:5,6)1世紀から今に至るまで,油そそがれたクリスチャンは義のために確固とした立場を取り,それと共に,イエスに敵する者たちによる虚偽の宣伝や情け容赦ない迫害に立ち向かわなければなりませんでした。

      19 それでも,それらクリスチャンは次のイエスの激励の言葉を思いに留めています。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです。歓び,かつ喜び躍りなさい。天においてあなた方の報いは大きいからです」。(マタイ 5:11,12)それゆえ,油そそがれたクリスチャンは,情け容赦のない攻撃を受けても動じません。反対者たちが何と言おうと,自分たちは神によって義と宣せられている,ということを知っています。神の目から見て,「きずがなく,何ら訴えられるところのない者」なのです。―コロサイ 1:21,22。

      20 (イ)だれが,油そそがれたクリスチャンを支援していますか。その人たちはどんな経験をしてきましたか。(ロ)油そそがれたクリスチャンと「ほかの羊」は,どのようにして,教えられた者たちの舌を持つようになりますか。

      20 現代において,油そそがれたクリスチャンは「ほかの羊」の「大群衆」の支援を受けています。その「大群衆」も義のためにはっきりとした立場を取っています。それゆえに,油そそがれた兄弟たちと共に苦しみを忍び,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白く」してきました。エホバは,「大群衆」が「大患難」を生き残れるよう,その人々を義と宣しておられます。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9,14,15。ヤコブ 2:23)現時点で反対者たちが強そうに見えようとも,神の定めの時に,それら反対者たちは,衣蛾に食われて捨てるしかない衣のようになる,とイザヤの預言は述べています。それまでの間,油そそがれたクリスチャンも「ほかの羊」も,絶えず祈り,神の言葉を研究し,崇拝のための集会に出席することによって,強さを保ちます。そのようにしてエホバに教えられ,教えられた者たちの舌をもって語るようになるのです。

      エホバのみ名に依り頼む

      21 (イ)どんな人たちが光の中を歩みますか。その人たちはどうなりますか。(ロ)闇の中を歩む人たちはどうなりますか。

      21 さて,次の著しい対照に注目してください。「あなた方のうちだれがエホバを恐れ,その僕の声に聴き従っているか。絶えざる闇の中を歩み,輝きを得なかった僕の声に。その者はエホバのみ名に依り頼み,自分の神に寄り掛かれ」。(イザヤ 50:10)神の僕イエス・キリストの声に聴き従う人たちは光の中を歩みます。(ヨハネ 3:21)エホバという神の名を用いるだけでなく,その名を持つ方に信頼を置きます。かつては闇の中を歩んでいたとしても,今では人を恐れません。神に寄り掛かっているのです。一方,いつまでも闇の中を歩もうとする人たちは,人への恐れにとらわれています。ポンテオ・ピラトがそうでした。ローマの役人であったピラトは,イエスに対する告発が根拠のない偽りであることを知っていましたが,恐れに負け,イエスを釈放しませんでした。神のみ子はローマの兵士たちに殺されましたが,エホバはその方を復活させ,栄光と誉れを授けました。ピラトはどうなったでしょうか。ユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスによると,イエスの死のわずか4年後にピラトはローマ総督の任を解かれ,ローマに戻って重大な悪事の告発に対する弁明をするよう命じられました。では,イエスを死に追いやったユダヤ人はどうなったでしょうか。40年もたたないうちに,エルサレムはローマ軍に滅ぼされ,住民は殺されるか奴隷にされました。闇を好む人々には輝かしい未来はありません。―ヨハネ 3:19。

      22 救いを求めて人間に頼るのは愚の骨頂である,と言えるのはなぜですか。

      22 救いを求めて人間に頼るのは愚の骨頂です。イザヤの預言は,そう言える理由を説明しています。「見よ,火を発し,火花を生じさせている者たちよ,あなた方はみな自分の火の光のうちを,自分が燃え立たせた火花の中を歩め。あなた方はわたしの手から必ずこのことを受けることになろう。あなた方は全き痛みのうちに横たわるのだ」。(イザヤ 50:11)人間の指導者たちは,現われたかと思うと消えてゆきます。カリスマ的な人たちは,しばしの間,人々を魅了するかもしれません。しかし,いかに誠実な人物であろうと,達成できることは限られています。支持者たちの期待どおりに燃えさかる火を生じさせることはできず,できることと言えば,「火花」を幾らか発することだけです。そのような「火花」はわずかな光と熱を放ちますが,すぐに消えてしまいます。それとは逆に,神の約束されたメシアであるシロに信頼を置く人々は決して失望することがないでしょう。

      [脚注]

      a イザヤ 50章の最初の三つの節で,エホバはユダ国民全体をご自分の妻として,また個々の住民をその妻の子供たちとして語っておられます。

      b 4節から章の終わりまでのところでは,筆者が自分自身のことを書いているような印象を受けます。イザヤは,その部分で言及している試練の幾つかを経験したのかもしれません。とはいえ,この預言はあらゆる点でイエス・キリストに成就します。

      c 興味深いことに,セプトゥアギンタ訳のイザヤ 50章6節は,「わたしは背をむちに与え,ほほを殴打に与えた」となっています。

      [155ページの図版]

      ユダヤ人は,エホバよりも人間の支配者たちに頼る

      [156,157ページの図版]

      紅海においてエホバは,ご自分の民とエジプト人との間に雲の柱を置いて,その民を保護された

  • 神の民に対する慰め
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第12章

      神の民に対する慰め

      イザヤ 51:1-23

      1 エルサレムとその住民の前途には,どんな陰うつな見込みがありますか。しかし,どんな希望がありますか。

      人間の一般的な寿命である70年 ― それが,ユダ国民がバビロンで捕囚となる期間です。(詩編 90:10。エレミヤ 25:11; 29:10)捕囚となるイスラエル人の大半は,バビロンで年を取って死にます。敵たちから嘲弄されたり,からかわれたりする時の屈辱感はいかばかりでしょう。また,彼らの神エホバに浴びせられる非難についてはどうでしょうか。神がみ名を置かれた都市が,それほど長いあいだ荒廃しているのです。(ネヘミヤ 1:9。詩編 132:13; 137:1-3)ソロモンが献納した時には神の栄光に満たされていた,愛された神殿も,もはや存在しなくなります。(歴代第二 7:1-3)なんと陰うつな見込みなのでしょう。しかしエホバは,イザヤを通して復興を預言なさいます。(イザヤ 43:14; 44:26-28)イザヤ 51章には,そのような,慰めと保証というテーマに基づく幾つかの預言が収められています。

      2 (イ)エホバは,イザヤを通してだれに慰めの音信を語っておられますか。(ロ)忠実なユダヤ人はどのように「義を追い求め」ますか。

      2 エホバに心を向けているユダの人々に対して,エホバはこう言われます。「義を追い求めている者たちよ,エホバを見いだそうと努めている者たちよ,わたしに聴け」。(イザヤ 51:1前半)「義を追い求めている」ということは,行動を意味します。「義を追い求めている」人たちは,単に神の民ととなえるだけの人々ではありません。義なる者であれるよう,また神のご意志にかなった生き方ができるよう熱心に努力します。(詩編 34:15。箴言 21:21)義の唯一の源であるエホバに頼り,「エホバを見いだそうと努め」ます。(詩編 11:7; 145:17)エホバとはだれか,祈りでその方に近づくにはどうすればよいかをまだ知らない,というのではありません。むしろ,神に近づこうと努め,神を崇拝し,神に祈り,行なう事柄すべてにおいて神の導きを求めようとするのです。

      3,4 (イ)ユダヤ人が切り出された「岩」とはだれのことですか。ユダヤ人が掘り出された「坑のくぼみ」とはだれのことですか。(ロ)ユダヤ人が,自分たちのルーツを思い出すと慰められるのはなぜですか。

      3 しかし,ユダで本当に義を追い求める人は比較的少数であり,それが理由で弱気になったり,落胆したりするかもしれません。それでエホバは,石切り場の例えを用いて,こう励ましておられます。「あなた方は自分が切り出された岩を,自分が掘り出された坑のくぼみを思い見よ。あなた方の父アブラハムを,また,子を産む苦しみをもって,しだいにあなた方を産んだサラを思い見よ。わたしが呼んだとき,彼は一人であったが,わたしは彼を祝福し,多くの者としていったからである」。(イザヤ 51:1後半,2)ユダヤ人が切り出された「岩」とは,イスラエル国民が大いに誇りとする歴史上の人物アブラハムです。(マタイ 3:9。ヨハネ 8:33,39)アブラハムは同国民の始祖,つまり大もととなる人です。「坑のくぼみ」とはサラのことです。サラの胎から,イスラエルの先祖であるイサクが生まれました。

      4 アブラハムとサラは,生殖可能な年齢を越えても子供がいませんでした。ところがエホバは,アブラハムを祝福して『多くの者とする』ことを約束なさいました。(創世記 17:1-6,15-17)神によって生殖力を回復したアブラハムとサラは,高齢にもかかわらず一人の子供をもうけ,その子から神の契約の国民が生まれ出ました。そのようにしてエホバは,その一人の男性を大きな国民の父とし,その国民は天の星のように,数えることができないほど多くなりました。(創世記 15:5。使徒 7:5)こうしてエホバは,遠くの地からアブラハムを連れて来て強大な国民とすることができたのですから,忠実な残りの者をバビロンでの束縛から自由にして故国に連れ戻し,再び大きな国民とするという約束も必ず果たせるはずです。アブラハムに対する神の約束が成就したように,それら捕らわれのユダヤ人に対する神の約束も遂行されます。

      5 (イ)アブラハムとサラはだれを表わしていますか。説明してください。(ロ)最終的な成就において,「岩」に源を発しているのはだれですか。

      5 イザヤ 51章1,2節の述べる象徴的な石切りには,別の適用もあるようです。申命記 32章18節はエホバのことを,イスラエルの父となった「岩なる方」,『子を産む苦しみをもって[イスラエル]を産み出された方』と呼んでいます。後者の表現には,イスラエルを産んだサラに関してイザヤ 51章2節で使われているのと同じヘブライ語の動詞が用いられています。ですからアブラハムは,大いなるアブラハムであるエホバの預言的な型となっているのです。アブラハムの妻サラは,全宇宙に及ぶ,霊者で成るエホバの天的な組織を見事に表わしています。その組織は,聖書の中で,神の妻あるいは女として描かれています。(創世記 3:15。啓示 12:1,5)このイザヤの預言の言葉の最終的な成就において,「岩」から生まれ出る国民とは「神のイスラエル」,霊によって油そそがれたクリスチャンの会衆のことであり,その会衆は西暦33年のペンテコステに誕生しました。本書のこれまでの章で取り上げたとおり,その国民は1918年にバビロン的な捕らわれを経験したものの,1919年には霊的な繁栄状態に回復しました。―ガラテア 3:26-29; 4:28; 6:16。

      6 (イ)ユダの地は将来どうなりますか。どんな回復が必要となりますか。(ロ)イザヤ 51章3節を読むと,現代におけるどんな回復が思い出されますか。

      6 シオンすなわちエルサレムに対するエホバの慰めの言葉に含まれているのは,人数の多い国民を生み出すという約束だけではありません。こう書かれています。「エホバは必ずシオンを慰めてくださる……。そのすべての荒れ廃れた所を必ず慰め,その荒野をエデンのように,その砂漠平原をエホバの園のようにされる。歓喜と歓びがその中に見いだされるであろう。感謝の表明と調べの声が」。(イザヤ 51:3)70年の荒廃の間にユダの地は荒野に逆戻りし,いばらの茂みや野いばらなど野生の草木がはびこります。(イザヤ 64:10。エレミヤ 4:26; 9:10-12)ですからこの回復には,人々が再びユダに住み着くことだけでなく,その地の回復も含まれることになります。その地は,よく潤った産出的な畑と実り豊かな果樹園のある,エデンのような園へと変えられます。地面も,さながら歓んでいるかのように見えるでしょう。流刑期間中に荒廃していた地が,パラダイスのようになります。神のイスラエルの油そそがれた残りの者も,1919年に霊的な意味で,まさにそのようなパラダイスに入りました。―イザヤ 11:6-9; 35:1-7。

      エホバに対する確信を抱ける理由

      7,8 (イ)わたしに耳を向けよというエホバの呼びかけは,どういう意味ですか。(ロ)ユダがエホバの言葉に留意しなければならないのはなぜですか。

      7 エホバは再び注意を喚起し,こう言われます。「わたしの民よ,わたしに注意を払え。わたしの国たみよ,わたしに耳を向けよ。律法がわたしから出て行き,わたしはわたしの司法上の定めをもろもろの民の光として置くからである。わたしの義は近くにある。わたしの救いは必ず出て行き,わたしの腕がもろもろの民をも裁くであろう。島々もわたしを待ち望み,わたしの腕を待つであろう」。―イザヤ 51:4,5。

      8 わたしに耳を向けよというエホバの呼びかけは,単に音信を聞けという意味ではありません。聞いた事柄に基づいて行動できるよう注意を払え,ということです。(詩編 49:1; 78:1)ユダ国民は,エホバが教えと公正と救いの源となる方であることを認識しなければなりません。エホバのほかに,霊的な啓発の源となる方はいません。(コリント第二 4:6)エホバは人類の究極の裁き主です。エホバから発する律法や司法上の定めは,それを自分の導きにしようとする人々にとって光となります。―詩編 43:3; 119:105。箴言 6:23。

      9 神の契約の民のほかに,どんな人々もエホバの施される救いから益を受けますか。

      9 このすべては,神の契約の民だけでなく,はるか遠方の海洋の島々も含むあらゆる場所の,正しく整えられた人々にも当てはまることになります。そうした人々が,神に対して,またご自分の忠実な僕たちのために行動して救いを施す神の能力に対して抱く確信は,失望に至りません。腕によって表わされる神の強大な力は確実であり,だれもそれを押しとどめることはできません。(イザヤ 40:10。ルカ 1:51,52)今日でも同様に,神のイスラエルの残っている成員が伝道活動を熱心に行なうことにより,遠く離れた海洋の島々に住む大勢の人々も含め,幾百万もの人々がエホバに頼り,信仰を抱くようになっています。

      10 (イ)ネブカドネザル王はどんな現実を思い知らされますか。(ロ)どんな「天」と「地」が終わりに至りますか。

      10 次いでエホバは,バビロンのネブカドネザル王が思い知ることになる真実に言及なさいます。天にあるものも地にあるものも,エホバがご意志を遂行するのをとどめることはできません。(ダニエル 4:34,35)こう書かれています。「あなた方の目を天に上げよ。下の地を見よ。その天も煙のように必ず散り散りになり,地も衣のように古び,その住民もただのぶよのように死んでゆく。しかしわたしの救いは,定めのない時に至るまで存続し,わたしの義が打ち砕かれることはない」。(イザヤ 51:6)捕らわれ人の帰還を許すのはバビロニアの君主たちの政策に反することですが,ご自分の民を救おうとするエホバが妨げられることはありません。(イザヤ 14:16,17)バビロニアの「天」つまり支配者たちは砕かれます。バビロニアの「地」,つまりそれら支配者たちのもとにある臣民は,徐々に終わりに至ります。そうです,その時代最大の強国でさえ,エホバの強大な力に対抗することも,その救いの行為を阻むこともできないのです。

      11 バビロニアの「天」と「地」が終わりに至るという預言の完全な成就を考えるとき,今日のクリスチャンが力づけられるのはなぜですか。

      11 今日のクリスチャンは,こうした預言の言葉が完全に成就したことを知ると,大いに励みを得ます。なぜでしょうか。使徒ペテロが,さらに将来に生じる事柄に関して同様の表現を用いているからです。ペテロは,急速に近づくエホバの日に言及し,「その日に天は燃えて溶解し,諸要素は極度に熱して溶けるのです」と述べています。そして,「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」と付け加えています。(ペテロ第二 3:12,13。イザヤ 34:4。啓示 6:12-14)強大な諸国家と,星のような高ぶる支配者たちは,エホバに逆らって立ったとしても,神の定めの時に無に帰せしめられます。ただのぶよのように,いとも簡単につぶされるのです。(詩編 2:1-9)神の義の政府だけが,義にかなった人々の社会を永久に支配します。―ダニエル 2:44。啓示 21:1-4。

      12 神の僕たちが,敵対する人々からひぼうされても恐れるべきでないのはなぜですか。

      12 次いでエホバは,「義を追い求めている者たち」にこう語りかけます。「義を知る者たち,心にわたしの律法を保つ民よ,わたしに聴け。死すべき人間のそしりを恐れてはならない。彼らの単なるののしりの言葉のために恐怖に襲われてはならない。蛾が彼らを衣のように食い尽くし,衣蛾が彼らを羊毛のように食い尽くすからである。しかしわたしの義は,定めのない時に至るまで存続し,わたしの救いは数えきれない代々に至る」。(イザヤ 51:7,8)エホバに依り頼む人々は,勇気ある態度を保つがゆえにひぼうされ,そしられます。しかし,恐れる必要はありません。そしる者たちは死すべき人間にすぎず,羊毛の衣が蛾に食われるように『食い尽くされる』のです。a 昔の忠実なユダヤ人と同様,今日の真のクリスチャンも,いかなる反対者をも恐れるべきではありません。とこしえの神であるエホバが救いとなってくださるのです。(詩編 37:1,2)神に敵する者たちから浴びせられるそしりは,エホバの民が神の霊を有していることの証拠となります。―マタイ 5:11,12; 10:24-31。

      13,14 「ラハブ」および「海の巨獣」という表現は何を表わしていますか。そのものは,どのように『打ち砕かれ』,『刺し通され』ますか。

      13 イザヤは,捕らわれの身の神の民のために行動を起こすようエホバに呼びかけるかのように,こう言います。「エホバの腕よ,覚めよ,覚めよ,力を身に着けよ! 覚めよ,昔の日のように,過ぎ去った代々のように。ラハブを打ち砕き,海の巨獣を刺し通したのは,あなたではないか。海を,広大な深みの水を干上がらせたのは,あなたではないか。海の深みを道とし,買い戻された者たちが渡れるようにしたのも」。―イザヤ 51:9,10。

      14 イザヤは,選び抜いた歴史上の事例に言及しています。イスラエル人であればだれでも,自国民のエジプトからの救出と紅海を渡ったことを知っています。(出エジプト記 12:24-27; 14:26-31)「ラハブ」および「海の巨獣」という表現は,イスラエルのエジプト脱出を阻もうとしたファラオの配下のエジプトを指しています。(詩編 74:13; 87:4。イザヤ 30:7)古代エジプトは,頭をナイル川の三角州に置き,長い胴体を肥沃なナイル流域に長々と横たえている巨大な蛇に似ていました。(エゼキエル 29:3)しかしこの巨獣は,エホバが十の災厄を下した時に切り砕かれました。そして,紅海の水によって軍隊が壊滅させられた時に,刺し通され,ひどい傷を負い,弱体化しました。そうです,エホバはエジプトを扱う際にご自分の腕の力をお示しになったのです。では,バビロンで流刑となっている自分の民のためにも戦おうとされるのではないでしょうか。

      15 (イ)シオンの悲嘆と溜め息は,いつ,どのように逃げ去りますか。(ロ)現代の神のイスラエルの場合,悲嘆と溜め息はいつ逃げ去りましたか。

      15 次いで預言は,イスラエルのバビロンからの救出を見越し,こう続けています。「それで,エホバの請け戻される者たちが帰って来て,必ず歓呼の声を上げつつシオンに来る。そして,定めのない時まで続く歓びが彼らの頭にあるであろう。彼らは歓喜と歓びに至る。悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るであろう」。(イザヤ 51:11)バビロンでいかに惨めな境遇に置かれようとも,エホバの義を求める人々には輝かしい見込みがあります。悲嘆と溜め息のなくなる時が来るのです。請け戻される者たち,つまり贖われる者たちの唇からは,歓呼の声,歓びや歓喜の声が上がります。この預言の言葉の現代における成就として,神のイスラエルは1919年にバビロン的な捕らわれから解き放たれました。彼らは大きな歓びを抱いて自分たちの霊的な地所に戻り,その歓びは今に至るまでずっと続いています。

      16 ユダヤ人を請け戻すために,どんな代価が支払われますか。

      16 ユダヤ人の請け戻しの代価となるのは何でしょうか。イザヤの預言がすでに明らかにしているとおり,エホバは,「あなたのための贖いとしてエジプトを,あなたの代わりにエチオピアとセバを」与える,と述べておられます。(イザヤ 43:1-4)そうなるのは後の時代のことです。ペルシャ帝国は,バビロンを征服して,捕らわれのユダヤ人を解き放った後,エジプトとエチオピアとセバを征服します。それらの国は,イスラエルの人々の魂の代わりとして与えられます。そのことは,箴言 21章18節にある次の原則と調和しています。「邪悪な者は義なる者のための贖いである。不実な行ないをしている者は廉直な者たちの代わりとなる」。

      さらに保証が与えられる

      17 ユダヤ人にとって,バビロンの激しい怒りを恐れる必要がないのはなぜですか。

      17 エホバはご自分の民に,さらに保証をお与えになります。「わたしが ― わたしがあなた方を慰めている者なのである。死んでゆく死すべき人間を恐れ,ただの青草のようにされる人間の子を恐れるとは,あなたはだれなのか。また,天を張り伸ばし,地の基を据える方,あなたの造り主エホバを忘れて,あなたを囲み込む者が今にもあなたを滅ぼしでもするかのように,その激しい怒りのために終日怖れていたとは。それで,あなたを囲み込む者の激しい怒りはどこにあるのか」。(イザヤ 51:12,13)前途には,長年にわたる流刑が控えています。それでも,バビロンの激しい怒りを恐れるべきではありません。聖書の系譜における第三世界強国であるその国は,神の民を征服し,その民を『囲い込もう』,つまり逃れられないようにしようとしますが,忠実なユダヤ人は,キュロスの手によるバビロンの倒壊をエホバが予告しておられることを知っています。(イザヤ 44:8,24-28)永遠の神である創造者エホバとは対照的に,バビロンの住民は,乾期の強烈な日射によって枯れてしまう草のように消滅します。その時,彼らの脅しや激しい怒りはどこにあるというのでしょうか。人を恐れて,天と地の造り主であるエホバを忘れるのは,なんと愚かなことでしょう。

      18 神の民は,しばらくのあいだ捕らわれ人となるとはいえ,エホバからどんな保証を与えられていますか。

      18 エホバの民はしばらくのあいだ捕囚となり,いわば『鎖につながれてかがみ』ますが,にわかに解放の時が訪れます。バビロンで絶滅させられることも,捕らわれ人のまま餓死することもありません。命を失って,坑つまりシェオルに行くことはないのです。(詩編 30:3; 88:3-5)エホバはこう保証しておられます。「鎖につながれてかがむ者は必ず速やかに解き放たれる。死んで坑に行ったり,自分のパンに事欠いたりすることのないためである」。―イザヤ 51:14。

      19 忠実なユダヤ人がエホバの言葉に全き確信を抱けるのはなぜですか。

      19 エホバは引き続きシオンを慰め,こう言われます。「しかし,わたし,エホバは,あなたの神であり,海をかき立ててその波を騒ぎ立たせる者。その名を万軍のエホバという。そして,わたしはわたしの言葉をあなたの口に置き,わたしの手の陰で必ずあなたを覆うであろう。それは,天を植え,地の基を据え,シオンに向かって『あなたはわたしの民である』と言うためである」。(イザヤ 51:15,16)聖書は,力を及ぼして海を制御する神の能力に何度も言及しています。(ヨブ 26:12。詩編 89:9。エレミヤ 31:35)ご自分の民をエジプトから救出した際に示されたとおり,神は自然界の力を完全に制御することができます。「万軍のエホバ」にいささかでも並び得る者がいるでしょうか。―詩編 24:10。

      20 エホバがシオンを回復させる時,どんな「天」と「地」が生まれますか。その時,エホバはどんな慰めの言葉を語られますか。

      20 ユダヤ人は依然として神の契約の民であり,エホバは,彼らが故国に戻って,もう一度神の律法のもとで暮らすことを保証しておられます。彼らはその地でエルサレムと神殿を再建し,神がモーセを通して結ばれた契約のもとでの各種の務めを再び果たせるようになります。帰還するイスラエル人が家畜を連れて再びその地に住み着いてゆく時,「新しい地」が生まれます。そして,その上には,新しい統治機構である「新しい天」が置かれます。(イザヤ 65:17-19。ハガイ 1:1,14)エホバは再びシオンに向かって,「あなたはわたしの民である」と言われるでしょう。

      行動を促す呼びかけ

      21 エホバは行動を促して,どのように呼びかけておられますか。

      21 エホバはシオンに保証の言葉を述べた後,行動を促す呼びかけを行ない,あたかもシオンの苦しみがすでに過ぎたかのように,こう述べておられます。「エルサレムよ,エホバのみ手よりその激しい怒りの杯を飲んだ者よ,起きよ,起きよ,立ち上がれ。あなたは酒杯を,人をふらつかせる杯を飲み,飲み干した」。(イザヤ 51:17)そうです,エルサレムは,痛ましい状態から立ち上がり,かつての立場と光輝を取り戻さなければなりません。それは,エルサレムが神の応報という象徴的な杯を飲み干した後に生じます。その時,エルサレムに対する神の怒りは全く残っていないでしょう。

      22,23 エルサレムは,エホバの怒りの杯を飲む時,どんな経験をしますか。

      22 とはいえ,エルサレムが処罰を受けている期間中,その住民つまりその「子ら」のうち,生じている事柄を阻止できる者はだれもいません。(イザヤ 43:5-7。エレミヤ 3:14)預言にはこうあります。「彼女の産んだすべての子らのうち,これを導く者はだれもいなかった。彼女の養い育てたすべての子らのうち,その手を取る者はだれもいなかった」。(イザヤ 51:18)エルサレムはバビロニア人の手に掛かって,なんとひどく苦しめられるのでしょう。「これら二つのことがあなたに降り懸かるのであった。だれがあなたに同情するだろうか。奪略と崩壊,飢えと剣! だれがあなたを慰めるだろうか。あなたの子らは気絶して倒れた。彼らは網にかかった野羊のように,エホバの激しい怒り,あなたの神の叱責に満ちた者のように,すべての街頭に横たわった」。―イザヤ 51:19,20。

      23 哀れなエルサレム! 彼女は「奪略と崩壊」,そして「飢えと剣」を味わうのです。エルサレムの「子ら」は,手を引いてやることも,しっかり立たせておいてやることもできず,侵入するバビロニア人を追い払う力もない衰弱した状態で,なすすべもなくそばにたたずみます。そして,街頭,つまりあちらこちらの街路の角など目立つ場所に,疲れ切って気を失った弱々しい姿で横たわります。(哀歌 2:19; 4:1,2)神の激しい怒りの杯を飲み,網にかかった動物のように無力になります。

      24,25 (イ)エルサレムに関して,どんなことは繰り返されませんか。(ロ)エルサレムの次に,だれがエホバの怒りの杯を飲みますか。

      24 しかし,そうした悲しむべき状況は終わりを迎えます。イザヤは慰めとなる事柄をこう述べます。「それゆえ,苦しんで,ぶどう酒によらずに酔っている女よ,どうか,このことを聴くように。あなたの主エホバ,ご自分の民のために争われるあなたの神はこのように言われた。『見よ,わたしは人をふらつかせる杯をあなたの手から取り去る。あなたは酒杯を,わたしの激しい怒りの杯を繰り返し飲むことはもうない。そして,わたしはそれをあなたをいら立たせる者たちの手に置く。彼らはあなたの魂に向かって,「身をかがめよ。我々が越えて行くためだ」と言ったので,あなたは越えて行く者たちのために自分の背を地のように,また街路のようにしたものだった』」。(イザヤ 51:21-23)エホバはエルサレムに懲らしめを与えた後,哀れみをもって行動し,快く許す精神を示そうとしておられます。

      25 エホバは,エルサレムに向けられていたご自分の怒りを,今度はバビロンに向けます。バビロンはエルサレムを破壊し尽くし,辱めました。(詩編 137:7-9)しかし,エルサレムがそのような杯を,バビロンやその同盟国の手から無理やり飲まされることはもうありません。それどころか,その杯はエルサレムの手から取り除かれ,彼女の恥辱を歓びとした者たちに与えられます。(哀歌 4:21,22)バビロンは泥酔してくずおれます。(エレミヤ 51:6-8)一方,シオンは起き上がります。なんという逆転でしょう。シオンはそうした見込みにより,大いに慰められるに違いありません。そして,エホバの僕たちは,エホバの施す救いによってみ名が神聖なものとされることを確信できます。

      [脚注]

      a ここで言及されている蛾は,イガ,それも特に,大きな害をもたらす幼虫の段階のものであると思われます。

      [167ページの図版]

      大いなるアブラハムであるエホバは「岩」であり,神の民はそこから「切り出された」

      [170ページの図版]

      神の民に敵対する者たちは,蛾に食われた衣のように消え去る

      [176,177ページの図版]

      エホバは,自然力を制御する力のあることをお示しになった

      [178ページの図版]

      エルサレムが飲んだ杯は,バビロンとその同盟国に渡される

  • 「一斉に喜び叫べ」!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第13章

      「一斉に喜び叫べ」!

      イザヤ 52:1-12

      1 イザヤ 52章の預言の言葉が喜びの源であると言えるのはなぜですか。その言葉には,どんな二つの成就がありますか。

      解放! 捕らわれの民にとって,それ以上に喜ばしい見込みがあるでしょうか。イザヤ書の大きなテーマは解放と回復なので,この書に喜びの表現が,「詩編」を別にすれば聖書のどの書よりも多く収められているのも意外なことではありません。とりわけイザヤ 52章は,神の民が歓ぶべき理由を提供しています。その章の預言の言葉は,西暦前537年にエルサレムに成就します。さらに,「上なるエルサレム」,つまり霊者で成るエホバの天の組織にかかわる,より大規模な成就もあります。その組織は,母あるいは妻とも呼ばれています。―ガラテア 4:26。啓示 12:1。

      『シオンよ,あなたの力を着よ!』

      2 シオンはいつ覚めますか。それはどのように生じますか。

      2 エホバはイザヤを通して,ご自分の愛する都市シオンにこう呼びかけておられます。「シオンよ,覚めよ,覚めよ,あなたの力を着よ! エルサレム,聖なる都市よ,あなたの美しい衣を着よ! 割礼を受けていない汚れた者は,もはや再びあなたのもとに入って来ないからである。エルサレムよ,塵を払い落とせ,立ち上がれ,座に着け。シオンの捕らわれの娘よ,自分のために首の縛り縄を解け」。(イザヤ 52:1,2)エルサレムは,住民がエホバの怒りを引き起こしたために,70年のあいだ荒廃していました。(列王第二 24:4。歴代第二 36:15-21。エレミヤ 25:8-11。ダニエル 9:2)しかし今,長きにわたった無活動状態から覚め,解放という美しい衣を身に着ける時が来ました。エホバは,「シオンの捕らわれの娘」を自由にするようキュロスの心を動かし,かつてエルサレムに住んでいた人々が子や孫と共にバビロンを出てエルサレムに戻り,真の崇拝を回復できるようにされたのです。エルサレムに,割礼を受けていない汚れた者がいてはなりません。―エズラ 1:1-4。

      3 油そそがれたクリスチャンの会衆を『シオンの娘』と呼べるのはなぜですか。それらクリスチャンは,どんな意味で解放されていますか。

      3 イザヤのこの言葉は,クリスチャン会衆に関しても成就します。油そそがれたクリスチャンの会衆を現代の『シオンの娘』と呼ぶことができます。「上なるエルサレム」がそれらクリスチャンの母だからです。a 異教の教えや背教的な教理から自由にされた油そそがれた者たちは,エホバのみ前で清い立場を保たなければなりません。肉体の割礼によってではなく,心に割礼を受けることによってそうしなければならないのです。(エレミヤ 31:33。ローマ 2:25-29)それには,エホバのみ前で,霊的,精神的,道徳的な清さを保つことが含まれます。―コリント第一 7:19。エフェソス 2:3。

      4 「上なるエルサレム」がエホバに不従順だったことは一度もないとはいえ,地上にいるその代表者たちは,古代のエルサレムの住民に似たどんな経験をしましたか。

      4 言うまでもなく,「上なるエルサレム」がエホバに不従順だったことは一度もありません。とはいえ,最初の世界大戦中,地上にいるその代表者である油そそがれたクリスチャンは,意図せずしてエホバの律法を犯してしまいました。クリスチャンの真の中立を正しく理解していなかったからです。神の恵みを失った彼らは,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」への霊的な捕らわれに陥りました。(啓示 17:5)彼らの奴隷状態は1918年6月に極みに達し,ものみの塔協会の責任者8人が,共同謀議などの虚偽の告発を受けて投獄されました。その時点で,良いたよりを宣べ伝える組織的な業は事実上停止しました。しかし1919年,霊的に目覚めるようにとの呼びかけがラッパのように鳴り響き,油そそがれたクリスチャンは,大いなるバビロンの道徳的また霊的な汚れから,より徹底的に離れるようになりました。彼らは捕囚状態の塵から立ち上がり,「上なるエルサレム」は「聖なる都市」の光輝を帯びるようになりました。その都市において,霊的な汚れは容認されません。

      5 エホバには,ご自分の民を捕らえている者たちに補償を行なうことなく,その民を買い戻す全き権利がある,と言えるのはなぜですか。

      5 西暦前537年と西暦1919年,そのいずれの場合にも,エホバは,ご自分の民を解放する全き権利を有しておられました。イザヤはこう説明しています。「エホバはこのように言われた……。『あなた方はただで売られた。だから,あなた方は金なしに買い戻される』」。(イザヤ 52:3)古代バビロンも大いなるバビロンも,神の契約の民を奴隷として我がものにした際,何も支払いませんでした。金銭の授受を伴う取り引きなどは全く行なわれなかったので,エホバが依然としてご自分の民の法律上の所有者でした。エホバはだれかに負い目を感じるべきだったでしょうか。もとより,そのようなことはありません。いずれの場合にもエホバには,捕らえていた者たちに補償など行なうことなく,ご自分の崇拝者たちを買い戻す権利がありました。―イザヤ 45:13。

      6 エホバに敵する者たちは,歴史から学べるどんな教訓に留意しませんでしたか。

      6 エホバに敵する者たちは,歴史から一つも教訓を学んでいませんでした。こう書かれています。「主権者なる主エホバはこのように言われた……。『わたしの民は最初エジプトに下って行って,そこで外国人としてとどまった。そして,アッシリアもいわれなく彼らを虐げた』」。(イザヤ 52:4)エジプトのファラオは,その地に客として住むよう招かれたイスラエル人を奴隷にしました。しかしエホバは,ファラオとその軍隊を紅海で溺れさせました。(出エジプト記 1:11-14; 14:27,28)アッシリアのセナケリブ王がエルサレムを脅かした時には,エホバのみ使いがセナケリブの兵士18万5,000人を討ち倒しました。(イザヤ 37:33-37)同じように,古代バビロンも大いなるバビロンも,神の民を虐げたことの結果を免れるわけにはゆきません。

      『わたしの民はわたしの名を知るであろう』

      7 エホバの民の捕囚状態は,エホバのみ名にどんな影響を及ぼしましたか。

      7 エホバの民の捕囚状態は,エホバのみ名に影響を及ぼします。その点を,預言はこう述べています。「『今,わたしはここにどんな関心があるのか』と,エホバはお告げになる。『わたしの民はただで取られたからである。彼らを支配する者たちがわめき続けた』と,エホバはお告げになる,『そして,わたしの名は絶えず,一日じゅう不敬な仕方で扱われた。それゆえに,わたしの民はまさにそれゆえに,その日にわたしの名を知るであろう。話しているのは,このわたしだからである。見よ,それはわたしである』」。(イザヤ 52:5,6)エホバはその事態にどんな関心を抱いておられるでしょうか。イスラエルがバビロンで奴隷になっていることを,どのように気にかけておられるのでしょうか。エホバは行動を起こされるに違いありません。バビロンがエホバの民を捕囚にし,勝ち誇ってわめき立てたからです。バビロンは,そのように自慢するあまり,エホバのみ名を不敬に扱うことさえしました。(エゼキエル 36:20,21)バビロンは,エルサレムが荒廃しているのはご自分の民に対するエホバの不興のゆえである,ということを理解していません。それどころか,ユダヤ人の奴隷状態はその民の神の弱さを証明している,と考えています。バビロニアの共同統治者ベルシャザルに至っては,バビロニアの神々をたたえる宴会の最中に,エホバの神殿から取ってきた器を用いることによってエホバをあざけることまでします。―ダニエル 5:1-4。

      8 使徒たちの死後,エホバのみ名はどのように扱われてきましたか。

      8 こうしたことすべては,どのように「上なるエルサレム」に当てはまるでしょうか。クリスチャンととなえる人々の間に背教が根を下ろしたとき以降,「神の名は[その人々]のために諸国民の間で冒とくされている」と言えます。(ローマ 2:24。使徒 20:29,30)その点に関して言えば,ユダヤ人は迷信にとらわれて,神の名を用いないようになりました。使徒たちの死後ほどなくして,背教したクリスチャンもその先例に倣い,神の固有の名を用いなくなりました。背教によってキリスト教世界が出現し,大いなるバビロンの主要な部分となりました。(テサロニケ第二 2:3,7。啓示 17:5)キリスト教世界の放縦な不道徳と恥知らずな血の罪は,エホバのみ名に非難をもたらしてきました。―ペテロ第二 2:1,2。

      9,10 現代の神の契約の民は,エホバの規準とみ名に関する理解をどのように深めてきましたか。

      9 1919年,大いなるキュロスであるイエス・キリストが神の契約の民を大いなるバビロンへの捕らわれから自由にした時,その民はエホバの要求をさらに深く理解するようになりました。彼らはすでに,三位一体,魂の不滅,火の燃える地獄でのとこしえの責め苦など,キリスト以前の異教に起源を持つ,キリスト教世界の多くの教えから身を清めていましたが,今度は,バビロン的な影響の名残すべてを身から除くことに取りかかりました。また,この世の党派的紛争に関して厳正中立の立場を貫くことの重要性も理解するようになりました。そして,一部の人が何らかの血の罪を負っていたとすれば,その罪からも自分たちを浄めたいとさえ願いました。

      10 さらに,現代の神の僕たちは,エホバのみ名の重要性に関する理解も深めてきました。1931年には,エホバの証人という名称を採択し,自分たちがエホバとそのみ名を支持していることを公に宣言しました。それに加えて,エホバの証人は1950年以降「新世界訳」を刊行することにより,聖書中のふさわしい箇所に神の名を復元してきました。そうです,エホバのみ名を正しく評価するようになり,今ではその名を地の果てにまで知らせているのです。

      「良いたよりを携えて来る者」

      11 西暦前537年の出来事に関連して,「あなたの神は王となった!」と叫ぶのがふさわしいと言えるのはなぜですか。

      11 さて,依然として荒廃状態にあるシオンに再び注意が向けられます。良いたよりを携えた使者が近づいて来ます。「良いたよりを携えて来る者,平和を言い広める者,より良いことについての良いたよりを携えて来る者,救いを言い広める者,『あなたの神は王となった!』とシオンに言う者の足は,山々の上にあって何と麗しいのだろう」。(イザヤ 52:7)西暦前537年の時点で,どうしてシオンの神が王となったと言えるのでしょうか。エホバはそれまで常に王であられたのではないでしょうか。確かに,神は「とこしえの王」です。(啓示 15:3)しかし,「あなたの神は王となった!」という叫びはふさわしいと言えます。なぜなら,バビロンの倒壊,またエルサレムに神殿を再建してそこに清い崇拝を回復するようにという王の布告は,エホバの王権の新たな表明となるからです。―詩編 97:1。

      12 「良いたよりを携えて来る」点で指導的な役割を果たしたのはだれですか。どのようにそうしましたか。

      12 イザヤの時代には,いずれかの個人あるいはグループが,「良いたよりを携えて来る者」であると特定されることはありませんでした。しかし今日では,良いたよりを携えている者がだれであるかは明らかになっています。イエス・キリストはエホバの最も偉大な平和の使者です。地上にいた時には,病気や死といったアダムから受け継いだ罪の影響すべてから放免されるという良いたよりを宣べ伝えました。(マタイ 9:35)イエスは,より良いことについてのこの良いたよりを熱心に言い広める点で模範を示し,あらゆる機会をとらえて神の王国について人々に教えました。(マタイ 5:1,2。マルコ 6:34。ルカ 19:1-10。ヨハネ 4:5-26)そして,弟子たちはその模範に倣いました。

      13 (イ)使徒パウロは,『良いたよりを携えて来る者の足は,山々の上にあって何と麗しいのだろう』という表現の意味をどのように拡大していますか。(ロ)使者たちの足が「麗しい」と言えるのはなぜですか。

      13 使徒パウロは,ローマ人にあてた手紙の中でイザヤ 52章7節を引用し,良いたよりを宣べ伝える業の重要性を際立たせています。そして,「宣べ伝える者がいなければ,どうして聞くでしょうか」という問いを含む,考えさせる一連の質問を提起した後,こう述べています。「『良い事柄についての良いたよりを宣明する者[英文字義,者たち]の足は何と麗しいのだろう』と書かれているとおりです」。(ローマ 10:14,15)ここでパウロは,イザヤ書の原文にある単数形の「者」の代わりに複数形の『者たち』を用いて,イザヤ 52章7節の適用を拡大しています。イエス・キリストに見倣うクリスチャンは皆,平和の良いたよりの使者なのです。それらクリスチャンの足はどのように「麗しい」のでしょうか。イザヤは,あたかも伝令官が,近くのユダの山々からエルサレムに近づいて来るかのような言い回しをしています。遠くからは,使者の足は見えません。足は使者自身を表わしており,ここで焦点が当てられているのは使者のほうです。イエスと弟子たちが1世紀の柔和な人々の目に美しいものとして映ったのと同様,今の時代のエホバの証人も,良いたよりという命を救う音信に耳を傾ける謙遜な人々の目には喜ばしいものとして映っています。

      14 現代において,エホバはどのように王となられましたか。そのことは,いつから人類に告げ知らされてきましたか。

      14 現代において,「あなたの神は王となった!」という叫びはいつから聞こえるようになったのでしょうか。1919年からです。その年,オハイオ州シーダーポイントで開かれた大会で,当時のものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,「同労者への話」と題する講話を行なって聴衆を奮い立たせました。その話はイザヤ 52章7節と啓示 15章2節に基づいており,宣べ伝える業に取りかかるよう出席者全員を鼓舞しました。その結果,『麗しい足』が「山々」の上に現われるようになりました。まず,油そそがれたクリスチャンが,次いで,その仲間である「ほかの羊」が,エホバは王となったという良いたよりを熱心に宣べ伝えてゆきました。(ヨハネ 10:16)エホバはどのように王となっておられたのでしょうか。エホバは,新たに設立された天の王国の王としてみ子イエス・キリストを即位させた1914年に,新たな仕方でご自分の王権を表明されたのです。また,「神のイスラエル」を大いなるバビロンから解放した1919年にも,ご自分の王権を表明なさいました。―ガラテア 6:16。詩編 47:8。啓示 11:15,17; 19:6。

      「あなたの見張りの者たちが声を上げた」

      15 西暦前537年に声を上げる「見張りの者たち」とはだれのことですか。

      15 「あなたの神は王となった!」という叫びに対する反応はあるのでしょうか。あります。イザヤはこう記録しています。「聴け,あなたの見張りの者たちが声を上げた。彼らは一斉に喜び叫んでいる。エホバがシオンを連れ戻すとき,彼らは目と目を合わせて見ることになるからである」。(イザヤ 52:8)西暦前537年に流刑者の最初のグループが帰還するとき,エルサレムで持ち場について帰還者を歓迎する文字どおりの見張りの者はいません。その都は,それまで70年のあいだ荒廃していました。(エレミヤ 25:11,12)ですから,声を上げる「見張りの者たち」とは,シオンの復興に関する知らせを事前に受け,シオンの残りの子らにその知らせを伝える責任を負うようになるイスラエル人のことであるに違いありません。それら見張りの者たちは,西暦前539年にエホバがバビロンをキュロスの手に渡されるのを見て,エホバがご自分の民を解放されることに少しの疑念も抱きません。見張りの者たちは,呼びかけにこたえ応じる人々と共に一斉に喜びの叫びを上げ続け,他の人たちに良いたよりを聞かせます。

      16 見張りの者たちは「目と目を合わせて」だれを見ますか。どのようにそうしますか。

      16 注意を怠らない見張りの者たちは,エホバとの密接な個人的関係を築き,いわば「目と目を合わせて」,あるいは顔と顔を合わせてエホバを見ます。(民数記 14:14)見張りの者たちがエホバと,また互いに密接に結びついていることは,彼らが一致しており,その音信が喜ばしいものであることを際立たせます。―コリント第一 1:10。

      17,18 (イ)現代の見張りの者級はどのように声を上げてきましたか。(ロ)見張りの者級はどのように一斉に呼びかけを行なってきましたか。

      17 現代の成就において,見張りの者級である「忠実で思慮深い奴隷」は,目に見える神の組織の成員となっている人々に対してだけでなく,外部の人々に対しても声を上げます。(マタイ 24:45-47)1919年には,油そそがれた者の残っている者たちを集め入れるために呼びかけが発せられました。そしてその呼びかけは,1922年のオハイオ州シーダーポイントでの大会において,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」という激励の言葉によって強化されました。1935年以降は,羊のような人々の大群衆を集め入れることに注意が向けられています。(啓示 7:9,10)近年,エホバの王権を告げ知らせる業は勢いを増しています。どのようにでしょうか。2000年には約600万人が,230を超える国や地域でエホバの王権を語り告げる業に携わっていました。さらに,見張りの者級の最も主要な道具である「ものみの塔」誌は,喜ばしい音信を130余りの言語で鳴り響かせています。

      18 一致をもたらすそうした業に携わるには,謙遜さと兄弟愛が求められます。呼びかけを効果的に行なうには,参加する人すべてが同じ音信を宣べ伝え,エホバのみ名と贖いの備え,およびエホバの知恵と愛と王国を前面に出さなければなりません。全世界のクリスチャンは,肩を並べて働くときに,エホバとの個人的な結びつきが強まり,喜びのおとずれを一斉に鳴り響かせることができます。

      19 (イ)「エルサレムの荒れ廃れた所」はどのようにして快活になりますか。(ロ)どんな意味で,エホバは「その聖なる腕をむき出しに」しておられますか。

      19 神の民が喜びの叫びを上げるので,彼らが住んでいる場所までもが快活になっているかに見えます。預言はこう続けています。「エルサレムの荒れ廃れた所よ,快活になって,一斉に喜び叫べ。エホバはその民を慰め,エルサレムを買い戻されたからである。エホバはすべての国の民の目の前にその聖なる腕をむき出しにされた。地の果てはみな必ずわたしたちの神の救いを見る」。(イザヤ 52:9,10)バビロンからの帰還者が到着すると,荒廃したエルサレムの悲しげな場所は快活な様相を呈します。今や,エホバの清い崇拝を回復できるからです。(イザヤ 35:1,2)そのことにエホバが関与しておられるのは明らかです。エホバは「その聖なる腕をむき出しに」しておられます。ご自分の民を救う仕事に打ちこむため,あたかも腕まくりをしておられるかのようです。―エズラ 1:2,3。

      20 現代において,エホバが聖なる腕をむき出しにしておられる結果として,どんなことが生じてきましたか。また,今後どんなことが生じますか。

      20 今の「終わりの日」にエホバは,「啓示」の書に「二人の証人」として登場する油そそがれた残りの者を再び活気づけるために,ご自分の聖なる腕をむき出しにしてこられました。(テモテ第二 3:1。啓示 11:3,7-13)1919年以来,残りの者は,霊的パラダイスという霊的な地所に導き入れられています。そして今では,仲間である幾百万ものほかの羊と,その地所を共有しています。最終的にエホバは,「ハルマゲドン」でご自分の民に救いをもたらすために,聖なる腕をむき出しになさいます。(啓示 16:14,16)その時,「地の果てはみな必ずわたしたちの神の救いを見る」でしょう。

      緊急に満たすべき要求

      21 (イ)「エホバの器具を運んでいる」者たちにはどんな要求が課されていますか。(ロ)バビロンから旅立つユダヤ人に,恐れ慌てる理由がないのはなぜですか。

      21 バビロンから出てエルサレムに帰還する人々は,ある要求を満たさなければなりません。イザヤはこう書いています。「立ち去れ。立ち去れ。そこから出よ。汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,彼女の中から出て,身を清く保て。あなた方は恐れ慌てることなく出て行き,逃げ走ることなく行くからである。エホバは実にあなた方の前を行き,イスラエルの神はあなた方の後衛となられるからである」。(イザヤ 52:11,12)旅立つイスラエル人は,バビロンの偽りの崇拝に染まったものをすべてバビロンに残してゆかなければなりません。かつてエルサレムの神殿にあったエホバの器具を運ぶので,清くなければなりません。単なる外面的な儀式上の清さではなく,何よりも心の清さが必要なのです。(列王第二 24:11-13。エズラ 1:7)さらに,エホバが前を行ってくださるので,血に飢えた追跡者に付けねらわれているかのように恐れ慌てたり,死に物狂いで逃げたりする必要はありません。イスラエルの神は後衛ともなってくださいます。―エズラ 8:21-23。

      22 パウロは,油そそがれたクリスチャンが清くなければならないことを,どのように強調していますか。

      22 清さを保つことについてのイザヤの言葉は,「上なるエルサレム」の子らに関して主要な成就を見ます。パウロは,不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはならないとコリントのクリスチャンに訓戒した際,イザヤ 52章11節の言葉を引用して,こう述べました。「『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』と,エホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」。(コリント第二 6:14-17)バビロンから故国に向かうイスラエル人と同様,クリスチャンもバビロン的な偽りの崇拝をいっさい避けなければならないのです。

      23 今日のエホバの僕たちは,身を清く保つためにどのように努力していますか。

      23 このことは特に,1919年に大いなるバビロンから逃れた,イエス・キリストの油そそがれた追随者たちに当てはまりました。彼らは漸進的に,偽りの崇拝のすべての名残から身を清めていきました。(イザヤ 8:19,20。ローマ 15:4)また,道徳的な清さの重要性もいっそう深く意識するようになりました。エホバの証人は常に高い道徳規準を守ってきましたが,1952年の「ものみの塔」誌(日本語版では1953年)には,会衆を清く保つために不道徳な人々を懲らしめることの必要性を強調する記事が掲載されました。そうした懲らしめの処置は,悪行者本人に誠実な悔い改めの必要性を悟らせるものともなります。―コリント第一 5:6,7,9-13。コリント第二 7:8-10。ヨハネ第二 10,11。

      24 (イ)現代において,「エホバの器具」とは何ですか。(ロ)エホバが今後も前を行くと同時に後衛にもなってくださると,今日のクリスチャンが確信しているのはなぜですか。

      24 油そそがれたクリスチャンも,ほかの羊の大群衆も,霊的に汚れたものには何にも触れまいと決意しています。彼らは清められて汚れのない状態にあるので,「エホバの器具」― 家から家や聖書研究による宣教奉仕,その他の形のクリスチャンの活動における神聖な奉仕のために神が設けておられる貴重な備え ― を運ぶ者としての資格を有しています。今日の神の民は,清い立場を維持することにより,エホバが今後も自分たちの前を行き,同時に後衛にもなってくださると確信できます。神の清い民である彼らには,『一斉に喜び叫ぶ』理由が大いにあるのです。

      [脚注]

      a 「上なるエルサレム」と,地上にいるその油そそがれた子たちとの関係についてのさらに詳しい情報は,本書の15章をご覧ください。

      [183ページの図版]

      シオンは捕らわれから自由にされる

      [186ページの図版]

      1919年以降,『麗しい足』が再び「山々」の上に現われるようになった

      [189ページの図版]

      エホバの証人は一斉に語っている

      [192ページの図版]

      「エホバの器具を運んでいる」者たちは,道徳的にも霊的にも清くなければならない

  • エホバはご自分のメシアなる僕を高める
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第14章

      エホバはご自分のメシアなる僕を高める

      イザヤ 52:13–53:12

      1,2 (イ)西暦1世紀の初めごろに多くのユダヤ人が直面した状況を,例えで説明してください。(ロ)エホバは,忠実なユダヤ人がメシアを見分ける助けとして,どんな備えを設けておられましたか。

      あなたが,要職にある高官と会見することになっているとしましょう。会見の日時と場所は決まっています。ところが,一つ問題があります。あなたはその人の容姿を知らず,しかもその人は人目を引かない控えめなかたちでやって来ます。どうしたら見分けられるでしょうか。その人に関する詳細な情報があれば助かるでしょう。

      2 西暦1世紀の初めごろ,多くのユダヤ人はそれと似た状況に直面しました。メシアを,つまり歴史上最も重要な人物を待ち設けていたのです。(ダニエル 9:24-27。ルカ 3:15)しかし,忠実なユダヤ人はどのようにしてメシアを見分ければよいのでしょうか。エホバは,ヘブライ人の預言者たちを用いて,メシアに関する物事を詳細に記述した文書を用意しておられました。それによって,明敏な人々は間違いなくメシアを特定することができるのです。

      3 イザヤ 52章13節から53章12節までには,メシアに関するどんな記述が収められていますか。

      3 メシアに関するヘブライ語の預言のうち,イザヤ 52章13節から53章12節までに記録されているものほど明確な描写はほかにないと言えます。イザヤは700年以上も前もって,メシアの身体的な外見ではなく,もっと重要な詳細を記述しました。すなわち,メシアの苦しみの目的とその様子,また死と埋葬,および高められることについての細かな記述です。その預言と成就について考察するなら,心が温まるとともに,信仰も強められるでしょう。

      「わたしの僕」― それはだれか

      4 「僕」の実体に関して,ユダヤ人の学者たちはどんな説を唱えてきましたか。しかし,そうした説はイザヤの預言と合致しない,と言えるのはなぜですか。

      4 イザヤは,ユダヤ人がバビロンでの流刑から解き放たれることについて述べたばかりですが,今度は,それよりはるかに大きな物事が生じることを見越し,エホバの言葉をこう記録しています。「見よ,わたしの僕は洞察力をもって行動する。彼は高い地位に就き,必ず上げられ,大いに高められる」。(イザヤ 52:13)この「僕」とは一体だれでしょうか。長年にわたり,ユダヤ人の学者たちは様々な意見を唱えてきました。例えば,その僕はバビロンでの流刑期間中のイスラエル国民全体を表わしている,という説があります。しかし,そのような説明はこの預言と合致しません。神の“僕”は,苦しみを甘んじて受けます。自らは罪がないのに,他の人々の罪のために苦しみを忍ぶのです。これが,自らの罪深い歩みのゆえに流刑に処されたユダヤ国民に当てはまる,と考えるのは無理があります。(列王第二 21:11-15。エレミヤ 25:8-11)一方,この“僕”はイスラエルの信心深いエリート集団を表わしており,その人たちは罪深いイスラエル人の身代わりとなって苦しんだ,という説もあります。しかし,イスラエルの苦悩の時期に,特定のグループが別のグループの代わりに苦しむことはありませんでした。

      5 (イ)一部のユダヤ人学者は,イザヤの預言をどのように適用しましたか。(脚注をご覧ください。)(ロ)聖書の「使徒たちの活動」の書は,“僕”の実体をどのように明確にしていますか。

      5 キリスト教の誕生前,そしてある程度は西暦紀元後の幾世紀かにわたり,一部のユダヤ人学者は,この預言をメシアに適用しました。その適用が正しいことは,クリスチャン・ギリシャ語聖書から分かります。「使徒たちの活動」の書によれば,エチオピアの宦官が,イザヤの預言した“僕”がだれなのか分からないと言った時,フィリポは「イエスについての良いたよりを彼に告げ知らせ」ました。(使徒 8:26-40。イザヤ 53:7,8)同様に聖書の他の書も,イエス・キリストがイザヤの預言したメシアなる“僕”であることを示しています。a この預言を調べてゆくと,エホバが「わたしの僕」と呼んでいる者とナザレのイエスとの紛れもない類似点を認めることができます。

      6 イザヤの預言は,メシアが神のご意志を遂行する点で成功を収めることをどのように示していますか。

      6 この預言はまず,神のご意志を遂行する点でメシアが最終的に成功を収めることを述べています。「僕」という語が示すとおり,メシアは,僕が主人の意志に服すのと同じように,神のご意志に服します。そうする際,メシアは「洞察力をもって行動」します。洞察力とは,事態を見通す能力のことです。洞察力をもって行動するとは,思慮深く行動することです。ここで用いられているヘブライ語動詞について,ある参考文献は,「この語の核心をなしているのは,慎重な思考と賢明な対処である。賢明に対処する者は成功を収める」と述べています。メシアが確かに成功を収めることは,彼が「必ず上げられ,大いに高められる」と預言が述べていることからも分かります。

      7 イエス・キリストはどのように「洞察力をもって行動」しましたか。どのように『上げられ,大いに高められて』きましたか。

      7 イエスはまさに「洞察力をもって行動」しました。自分に当てはまる聖書預言を理解していることを示し,またそれに導かれて,み父のご意志を行なったのです。(ヨハネ 17:4; 19:30)その結果,どうなったでしょうか。イエスの復活と昇天の後,「神は彼をさらに上の地位に高め,他のあらゆる名に勝る名を進んでお与えに」なりました。(フィリピ 2:9。使徒 2:34-36)そして1914年,栄光に輝くイエスはさらに高く上げられました。エホバによって高められ,メシア王国の王座に就けられたのです。(啓示 12:1-5)そうです,イエスは『上げられ,大いに高められた』のです。

      『驚いて彼を見つめる』

      8,9 高められたイエスが裁きを執行するために来る時,地上の支配者たちはどう反応しますか。なぜですか。

      8 諸国民とその支配者たちは,高められたメシアに対してどう反応するでしょうか。14節後半の注釈的挿入句は後で取り上げるので飛ばして読むと,預言にはこうあります。「多くの者が驚いて彼を見つめたように……彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならないからである」。(イザヤ 52:14前半,15)イザヤがこう述べて描写しているのは,メシアが最初に登場する時のことではなく,地上の支配者たちと最終的に対決する時のことです。

      9 高められたイエスがこの不敬虔な事物の体制に裁きを執行するために来る時,地上の支配者たちは「驚いて彼を見つめ」ます。もちろん,単なる人間にすぎない支配者たちが,栄光に輝くイエスを文字どおりに見ることはありません。しかし彼らは,エホバの天の戦士であるイエスの力を示す,肉眼で見える証拠を見るでしょう。(マタイ 24:30)イエスが神の裁きの執行者であるという,宗教指導者からは詳しく聞かされていなかった事柄を考慮しなければならなくなるのです。彼らが遭遇する高められた“僕”は,彼らの予期しなかった仕方で行動します。

      10,11 1世紀においてイエスはどのように醜くされたと言えますか。同様のことが,今日でもどのように行なわれていますか。

      10 14節の注釈的挿入の箇所で,イザヤはこう述べています。「その外見の点では他のだれよりも,その堂々たる姿の点では人間の子らよりもはるかに醜いものとされた」。(イザヤ 52:14後半)イエスは身体的に何らかの点で醜かったのでしょうか。そうではありません。聖書はイエスの容姿について詳細を述べてはいませんが,神の完全なみ子が好ましい外見と容貌の持ち主だったことは間違いありません。イザヤの言葉は,イエスが経験した恥辱について述べているものと思われます。イエスは,当時の宗教指導者たちが偽善者,偽り者,殺人者であることを大胆に暴き,それに対して宗教指導者たちはイエスをののしりました。(ペテロ第一 2:22,23)イエスを,律法違反者,冒とく者,詐欺師,ローマに対する反乱を扇動する者として訴えたのです。こうして,それら偽りの訴えを行なう者たちは,イエスの人物像を全く醜いものとしました。

      11 今日でも,イエスは誤り伝えられています。大半の人は,イエスと言えば,飼い葉おけの中の赤子か,十字架にくぎづけにされ,いばらの冠をかぶせられて苦痛に顔をゆがめる悲劇の主人公を思い浮かべます。キリスト教世界の僧職者は,そのようなイメージを広めてきました。イエスを,諸国民がやがて言い開きをしなければならない強大な天の王としては示してこなかったのです。人間である支配者たちは,近い将来,高められたイエスと対決する時,「天と地におけるすべての権威」を有するメシアを相手にしなければならないのです。―マタイ 28:18。

      この良いたよりにだれが信仰を置くか

      12 イザヤ 53章1節の言葉から,興味をそそるどんな質問が生じますか。

      12 イザヤは,「醜い」者から『大いに高められた』者へとメシアが驚くべき変容を遂げることについて述べた後,こう問いかけています。「わたしたちの聞いたことにだれが信仰を置いたか。そしてエホバの腕,それは一体だれに表わし示されたか」。(イザヤ 53:1)イザヤのこの言葉から,興味をそそる次の質問が生じます。この預言は成就するのだろうか。力を行使する神の能力を表わす「エホバの腕」は現われ出て,この言葉を実現させるのだろうか。

      13 パウロは,イザヤの預言がイエスに成就したことをどのように示しましたか。当時の人々はどう反応しましたか。

      13 そうなることに疑問の余地はない,というのが答えです。パウロは,ローマ人にあてた手紙の中でイザヤの言葉を引用し,イザヤが聞いて記録した預言がイエスに実現したことを示しています。イエスが地上で苦しみを忍んだ後に栄光を受けたことは良いたよりでした。「しかしながら」とパウロは述べ,不信者のユダヤ人に関してこう言います。「すべての人が良いたよりに従ったのではありません。イザヤは,『エホバよ,わたしたちから聞いた事柄にだれが信仰を置いたでしょうか』と言っているからです。ですから,信仰は聞く事柄から生じるのです。一方,聞く事柄はキリストについての言葉によるのです」。(ローマ 10:16,17)とはいえ残念ながら,パウロの時代に神の“僕”に関する良いたよりに信仰を置いた人はごく少数でした。なぜでしょうか。

      14,15 メシアは,背景となるどんな状況のもとで地上に登場しますか。

      14 次いで預言は,1節に記されている質問の理由をイスラエル人に説明するとともに,多くの人がメシアを受け入れない理由に光を投じています。「彼は[観察者]の前に小枝のように,水なき地から出る根のように生じる。彼には堂々たる姿もなければ,光輝もない。わたしたちが彼を見るとき,わたしたちに彼を望ましく思わせるような外見はない」。(イザヤ 53:2)ここでは,地上に登場するメシアの背景となる状況が描写されています。立場の低い者として生まれ育つことになっており,観察者の目から見れば,たいした人物になるとは思えないでしょう。さらにメシアは,木の幹や枝から生えるただの小枝,またはか弱い若木のようになります。また,乾いてやせた土の中で水がなければ枯れてしまう根のようでもあります。王族の長い衣やきらめく冠など,王者たる華やかさと光輝を帯びて到来するわけではありません。むしろ,つつましく,派手なところのない者として生まれ育つことになっています。

      15 こうして,イエスが立場の低い人間として生活を始めることが実に的確に描写されています。ユダヤ人の処女マリアは,ベツレヘムという小さな町の馬小屋でイエスを産みました。b (ルカ 2:7。ヨハネ 7:42)マリアと夫のヨセフは裕福ではありませんでした。二人はイエスの誕生から40日ほど後に,「やまばと一組もしくは若いいえばと二羽」という,貧しい人に許された罪の捧げ物を携えて来ました。(ルカ 2:24。レビ記 12:6-8)やがて,マリアとヨセフはナザレに居を定め,イエスはそこで大家族の一員として成長しました。暮らし向きは質素なものだったことでしょう。―マタイ 13:55,56。

      16 イエスには「堂々たる姿」も「光輝」もなかったと,どうして言えますか。

      16 人間としてのイエスは,ふさわしい土に根を下ろしたようには見えませんでした。(ヨハネ 1:46; 7:41,52)完全な人間であり,ダビデ王の子孫であったにもかかわらず,つつましい暮らしをしていたイエスには,「堂々たる姿」も「光輝」もありませんでした。少なくとも,メシアにもっと印象的な背景を期待していた人々の目にはそう見えたのです。ユダヤ人の宗教指導者に扇動された多くの人はイエスを見過ごし,さげすむまでになりました。結局のところ,群衆は神の完全なみ子に,望ましいところを何も見いだせなかったのです。―マタイ 27:11-26。

      『さげすまれ,人々に避けられる』

      17 (イ)イザヤは何を記述し始めますか。完了したかたちで書いているのはなぜですか。(ロ)イエスを『さげすみ』,『避けた』のはだれですか。どのようにそうしましたか。

      17 次いでイザヤは,メシアがどうみなされ,どう扱われるかを詳細に記述し,こう述べます。「彼はさげすまれ,人々に避けられ,痛みと病を親しく知ることとに定められた人であった。そして,わたしたちから顔を覆い隠すことがなされているかのようであった。彼はさげすまれ,わたしたちは彼を取るに足りない者とみなした」。(イザヤ 53:3)イザヤは自分の言葉が実現することを確信しているので,あたかもすでに成就したかのように完了したかたちで書いています。イエス・キリストは本当にさげすまれ,人々に避けられたでしょうか。確かにそうです。独善的な宗教指導者とその追随者たちは,イエスを最もいとうべき人間とみなし,収税人や娼婦たちの友と呼びました。(ルカ 7:34,37-39)イエスの顔につばをかけ,こぶしで殴りつけてあざけり,ばかにして冷笑を浴びせました。(マタイ 26:67)これら真理の敵たちの影響を受け,イエスの「民は彼を迎え入れ」ませんでした。―ヨハネ 1:10,11。

      18 イエスは病気になることがなかったのに,どうして「痛みと病を親しく知ることとに定められた人」であったと言えますか。

      18 完全な人間であったイエスは,病気になることはありませんでした。それでもイエスは,「痛みと病を親しく知ることとに定められた人」でした。そうした痛みと病はイエス自身のものではありません。イエスは天から,病に満ちた世界にやって来ました。苦しみと痛みに囲まれて生活しましたが,身体的あるいは霊的に病んでいる人々を退けたりはしませんでした。思いやりのある医者のように,周囲の人々の苦しみを非常に親しく知るようになりました。その上,普通の人間の医者には不可能な事まで行なえました。―ルカ 5:27-32。

      19 だれの顔が『覆い隠され』ましたか。イエスに敵する者たちは,イエスを『取るに足りない者とみなしている』ことをどのように表わしましたか。

      19 それにもかかわらず,イエスに敵する者たちはイエスを病んでいる者とみなし,好意的に見ようとはしませんでした。イエスの顔は見えないように『覆い隠され』ましたが,それはイエスが自分の顔を隠したからではありません。「新英訳聖書」はイザヤ 53章3節を訳すにあたり,「人々が目をそむけるもの」という言い回しをしています。イエスの反対者たちはイエスを嫌うあまり,事実上,見るも忌まわしいかのように顔をそむけたのです。イエスには奴隷の代価ほどの価値しかないとみなしました。(出エジプト記 21:32。マタイ 26:14-16)イエスを,殺人者バラバよりも軽く見ました。(ルカ 23:18-25)イエスを見下げていたことの表われとして,それよりひどい仕打ちが考えられるでしょうか。

      20 イザヤの言葉から,今日のエホバの民はどのように力づけられますか。

      20 今日のエホバの僕たちは,イザヤの言葉から大いに力づけられます。時折,反対者たちがエホバの忠実な崇拝者を軽んじたり,取るに足りない者のように扱ったりすることがあります。それでも,イエスの場合と同様,本当に重要なのはエホバ神がどう評価してくださるかです。結局のところ,人々が『イエスを取るに足りない者とみなした』からといって,神の目にイエスが高く評価されていることには変わりがなかったのです。

      『わたしたちの違犯のために刺し通された』

      21,22 (イ)メシアは人々の代わりに何を担い,何を負いましたか。(ロ)多くの人はメシアをどうみなしましたか。苦しみが頂点に達した時,メシアはどうなりましたか。

      21 メシアはなぜ苦しみを受け,死ななければならなかったのでしょうか。イザヤはこう説明しています。「まことに,わたしたちの病は彼が担い,わたしたちの痛みは彼が負ったのである。しかし,わたしたちは彼を災厄に遭い,神に撃たれ,苦しみを受けた者とみなした。しかし,彼はわたしたちの違犯のために刺し通され,わたしたちのとがのために打ち砕かれるのであった。わたしたちの平安のための懲罰が彼に臨み,彼の傷ゆえにわたしたちのためのいやしがあった。わたしたちは羊のように皆さまよい,それぞれ自分の道に向かった。エホバは,わたしたちすべての者のとががその者に出会うようにされた」。―イザヤ 53:4-6。

      22 メシアは人々の病を担い,人々の痛みを負いました。いわば,人々の重荷を持ち上げ,自分の肩に載せて担ったのです。さらに,病と痛みは人類の罪ある状態の結果ですから,メシアは人々の罪も担ったのです。多くの人はイエスの苦しむ理由を理解せず,神がイエスを罰し,忌まわしい疾患をもって災厄に遭わせているのだと考えました。c 苦しみが頂点に達した時,メシアは刺し通され,打ち砕かれ,傷つきました。これらの強烈な表現は,残酷で苦痛の伴う死を示唆しています。とはいえ,メシアの死には贖いの効力があります。その死は,とがと罪のうちにさまよう人々を回復させ,神との平和を見いだすよう助けるための根拠となるのです。

      23 イエスはどのように人々の苦しみを負いましたか。

      23 イエスはどのように人々の苦しみを負ったのでしょうか。マタイの福音書はイザヤ 53章4節を引用し,こう述べています。「人々は悪霊に取りつかれた者を大ぜい彼のところに連れて来た。それでイエスは言葉で霊たちを追い出し,具合いの悪い者すべてを治された。これは,預言者イザヤを通して,『彼は自らわたしたちの病を取り去り,わたしたちの疾患を担った』と語られたことが成就するためであった」。(マタイ 8:16,17)イエスは,様々な疾患をかかえて自分のもとに来た人たちを治すことにより,事実上,その人たちの苦しみを背負いました。そして,そうしたいやしはイエスの活力を消耗しました。(ルカ 8:43-48)イエスが,身体的また霊的なあらゆる病気をいやす力を持っていたことは,人々を罪から清める力も与えられていることの証拠でした。―マタイ 9:2-8。

      24 (イ)多くの人の目に,イエスが神からの『災厄に遭って』いるかのように見えたのはなぜですか。(ロ)イエスが苦しみを受けて死んだのはなぜですか。

      24 ところが多くの人の目には,イエスが神からの『災厄に遭って』いるかのように見えました。なにしろイエスは,尊敬を集めている宗教指導者たちの扇動のゆえに苦しみに遭ったのです。とはいえ,イエスが自分自身の罪のせいで苦しんだのではない,という点を忘れてはなりません。ペテロはこう述べています。「キリスト(は)あなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残され(ました)。彼は罪を犯さず,またその口に欺きは見いだされませんでした。杭の上でわたしたちの罪をご自身の体に負い,わたしたちが罪を断ち,義に対して生きるようにしてくださったのです。そして,『彼の打ち傷によってあなた方はいやされました』」。(ペテロ第一 2:21,22,24)わたしたちは皆,かつては罪のうちに迷い,「さまよっていて,羊のよう」でした。(ペテロ第一 2:25)しかし,エホバはイエスを通して,罪深い状態から請け戻してくださいました。わたしたちのとががイエスと「出会う」ように,つまりイエスにかぶせられるようにしてくださったのです。罪のないイエスは,自ら進んでわたしたちの罪に対する刑を身に受けました。杭の上での恥ずべき死という不相応の苦しみを経験することにより,わたしたちが神と和解できるようにしてくださったのです。

      『彼は苦しめられるままに任せた』

      25 メシアが自ら進んで苦しみを受け,死んだということは,どうして分かりますか。

      25 メシアは自ら進んで苦しみを受け,死んだのでしょうか。イザヤはこう述べています。「彼は激しい圧迫を受け,苦しめられるままに任せていた。彼はそれでも口を開こうとはしなかった。彼はほふり場に向かう羊のように連れて行かれ,毛を刈る者たちの前で黙っている雌羊のように,自分も口を開こうとはしなかった」。(イザヤ 53:7)生涯最後の夜にイエスは,望むなら「十二軍団以上のみ使い」を援軍として呼び寄せることもできました。しかし,「そのようにしたなら,必ずこうなると述べる聖書はどうして成就するでしょうか」と言いました。(マタイ 26:53,54)それだけでなく,「神の子羊」は全く抵抗しませんでした。(ヨハネ 1:29)ピラトの前で祭司長と年長者たちが虚偽の訴えを行なった時にも,イエスは「何の答えも」しませんでした。(マタイ 27:11-14)自分に対する神のご意志を果たす妨げになりかねない事柄は何も言いたくない,と考えていたのです。イエスは,自分の死によって従順な人々が罪と病と死から請け戻されることを十分承知しており,犠牲の子羊として死ぬ覚悟を決めていました。

      26 イエスの反対者たちはどのように「拘束」を加えましたか。

      26 次にイザヤは,メシアの苦しみと辱めに関するさらに詳細な点を挙げ,こう書いています。「拘束と裁きのゆえに彼は取り去られた。だれが彼の世代の詳細を思いに留めるだろうか。彼は生ける者たちの地から断たれたからである。彼はわたしの民の違犯のゆえにむち打たれた」。(イザヤ 53:8)イエスがついに敵たちに捕らえられた時,それら宗教上の反対者たちは,イエスを扱う際に「拘束」を加えました。憎しみを表わすのを控えたというのではなく,公正を拘束,つまり差し控えたのです。ギリシャ語「セプトゥアギンタ訳」はイザヤ 53章8節を訳すにあたり,「拘束」の代わりに「辱め」という語を用いています。イエスの敵たちは,普通の犯罪人にも与えられる公明正大な扱いを差し控えることにより,イエスを辱めました。イエスの審理は公正をあざ笑うかのようなものでした。どうしてそう言えますか。

      27 ユダヤ人の宗教指導者たちは,イエスの審理を行なった時,どんな規定を無視しましたか。どんな点で神の律法を破りましたか。

      27 イエスを除き去ろうと決めていたユダヤ人の宗教指導者たちは,自分たちの規定を破りました。伝承によると,死刑に値する事件の場合,サンヘドリンは,大祭司の家ではなく,神殿境内にある切り石の広間で審理を行なわなければなりませんでした。そうした審理は日中に開かねばならず,日没後には開けませんでした。そして,死刑に値する事件の場合,有罪の裁定は審問終了の翌日に発表しなければならず,そのため,安息日の前日や祭りの前日には審理を開けませんでした。こうした規定すべてが,イエスの審理の場合には無視されたのです。(マタイ 26:57-68)さらに悪質なことに,宗教指導者たちはイエスの件を扱う際に,甚だしい仕方で神の律法を破りました。例えば,わいろを用いてイエスをわなにかけようとしました。(申命記 16:19。ルカ 22:2-6)偽証を行なう者の言葉を聞き入れました。(出エジプト記 20:16。マルコ 14:55,56)そして,一人の殺人犯の釈放を企てることにより,自分たちと自分たちの土地に血の罪をもたらしました。(民数記 35:31-34。申命記 19:11-13。ルカ 23:16-25)このように,「裁き」,つまり正当で公平な判決を下す公明正大な審理は行なわれなかったのです。

      28 イエスに敵対した者たちは何を考慮しませんでしたか。

      28 イエスに敵対した者たちは,自分たちの前で審理にかけられている人の本当の人物像を知るために調査を行なったでしょうか。イザヤも同様の問いかけをし,「だれが彼の世代の詳細を思いに留めるだろうか」と述べています。この「世代」という語は,人の系譜あるいは背景を指しているようです。イエスがサンヘドリンの前で審理にかけられた時,サンヘドリンの成員は,イエスの背景,つまりイエスが約束のメシアの必要条件を満たしているということを考慮しませんでした。それどころか,冒とくの罪でイエスを告発し,死に服すべき者という判決を下しました。(マルコ 14:64)後に,ローマ総督ポンテオ・ピラトは圧力に屈し,イエスを杭につけるという宣告を下しました。(ルカ 23:13-25)こうしてイエスは,わずか33歳半という人生の半ばで「断たれた」,つまり命を絶たれたのです。

      29 イエスの埋葬はどのように「邪悪な者たちと共に」なり,「富んだ階級の者と共に」なりましたか。

      29 次にイザヤは,メシアの死と埋葬に関してこう書いています。「暴虐を行なったこともなく,その口に欺きがなかったにもかかわらず,彼は自分の埋葬所を邪悪な者たちと共にし,死に際しては富んだ階級の者と共になる」。(イザヤ 53:9)死と埋葬に際して,イエスはどのように邪悪な者や富んだ者たちと共になったのでしょうか。西暦33年のニサン14日,イエスはエルサレムの城壁外の刑柱上で亡くなりました。イエスは二人の悪行者に挟まれる形で杭につけれらたので,埋葬所は邪悪な者たちと共になったと言えます。(ルカ 23:33)しかし,イエスの死後,アリマタヤの裕福な人ヨセフが勇気を奮い起こし,イエスの体を下ろして埋葬する許可をピラトに願い出ました。ヨセフは,ニコデモと共にイエスの体を埋葬のために整えた後,自分の所有する新しく掘り抜かれた墓に遺体を納めました。(マタイ 27:57-60。ヨハネ 19:38-42)こうして,イエスの埋葬所は富んだ階級の者と共にもなりました。

      『エホバは彼を打ち砕くことを喜んだ』

      30 どんな意味で,エホバはイエスを打ち砕くことを喜びとされましたか。

      30 次にイザヤは,驚くべき事柄を述べます。「エホバご自身が彼を打ち砕くことを喜び,彼を病める者とされた。もしあなたが彼の魂を罪科の捧げ物として置くならば,彼は自分の子孫を見,その日を長くするであろう。その手にあって,エホバの喜ばれることは成功を収める。その魂の難儀のゆえに,彼は見て,満ち足りる。義なる者,わたしの僕は,その知識のゆえに多くの人に義なる立場をもたらし,彼らのとがを自ら負うのである」。(イザヤ 53:10,11)この忠実な僕の打ち砕かれるのを見てエホバが喜ぶなどということが,どうしてあり得るのでしょうか。エホバが自ら,愛するみ子に苦しみをお与えになったのでないことは明らかです。イエスに行なった事柄について全面的に責任を負うべきなのは,イエスに敵対した者たち自身です。とはいえエホバは,彼らが残虐に行動するのをお許しになりました。(ヨハネ 19:11)なぜでしょうか。感情移入と優しい同情心に富む神は,罪のないみ子が苦しみに遭うのを見て痛みをお感じになったに違いありません。(イザヤ 63:9。ルカ 1:77,78)エホバが何らかの点でイエスに不興を覚えられたはずはありません。それでもエホバは,み子が自ら進んで苦しみに遭うことの結果としてもたらされるすべての祝福のゆえに,み子のその態度を喜びとされました。

      31 (イ)エホバはどうしてイエスの魂を「罪科の捧げ物」として置きましたか。(ロ)人間として様々な難儀を経験したイエスは,特にどんなことに満ち足りているに違いありませんか。

      31 祝福の一つとして,エホバはイエスの魂を「罪科の捧げ物」として置かれました。それゆえイエスは,天に戻った時,犠牲にした自らの人間の命の価値を罪科の捧げ物として携えてエホバのみ前に入り,エホバはその価値を全人類のために喜んで受け入れました。(ヘブライ 9:24; 10:5-14)イエスはその罪科の捧げ物により,「子孫」を得ました。「とこしえの父」であるイエスは,ご自分の流した血に信仰を働かせる人々に命を,それもとこしえの命を与えることができます。(イザヤ 9:6)人間なる魂として様々な難儀を味わったイエスは,人類を罪と死から救出できるという見込みに深く満ち足りているに違いありません。当然ながら,自分の忠誠によって,敵対者である悪魔サタンの嘲弄に対する答えを天の父に提出できることには,いっそう満ち足りているに違いありません。―箴言 27:11。

      32 イエスはどんな「知識」のゆえに「多くの人に義なる立場を」もたらしますか。その立場を得るのはだれですか。

      32 イエスの死の結果として得られる別の祝福は,イエスが「多くの人に義なる立場を」もたらすことであり,イエスは今でさえそうしています。イザヤは,イエスが「その知識のゆえに」そうすると述べています。この知識とは,イエスが人間となり,神への従順のゆえに不当な苦しみを忍んだことから学んだ知識であると思われます。(ヘブライ 4:15)死に至るまで苦しみを忍んだイエスは,それによって,人々に義なる立場を得させるのに必要な犠牲を備えることができました。その義なる立場を得るのはだれでしょうか。まず,イエスの油そそがれた追随者たちです。イエスの犠牲に信仰を働かせるがゆえに,エホバは,その人々を養子,またイエスと共同の相続人とするために義と宣します。(ローマ 5:19; 8:16,17)そして,「ほかの羊」の「大群衆」もイエスの流した血に信仰を働かせ,神の友またハルマゲドンの生存者となるために義なる立場を享受します。―啓示 7:9; 16:14,16。ヨハネ 10:16。ヤコブ 2:23,25。

      33,34 (イ)エホバに関する,どんな心温まる事柄を学べますか。(ロ)メシアなる“僕”は,どんな「多くの者」の中で「受け分」を受けますか。

      33 最後にイザヤは,メシアの勝利を描写しています。「それゆえに,わたしは多くの者の中で彼に受け分を与え,彼は力ある者たちと共に分捕り物を分け与えるであろう。それは彼が自分の魂を死に至るまでも注ぎ出したためであり,彼は違犯者と共に数えられた。彼は多くの人々の罪を自ら担い,違犯をおかす者たちのために仲裁に入ったのである」。―イザヤ 53:12。

      34 イザヤの預言のこの部分の結びの言葉から,エホバに関する心温まる事柄を学べます。エホバはご自分に対して忠節を保つ者たちを高く評価されます。そのことは,メシアなる“僕”に『多くの者の中で受け分を与える』という約束に示されています。この言葉は,戦争の分捕り物を分配する習慣に由来しているようです。エホバは,ノアやアブラハムやヨブなど古代の「多くの」忠実な人々の忠節を認め,その人々のために,来たるべき新しい世における「受け分」を用意しておられます。(ヘブライ 11:13-16)同様に,メシアなる“僕”にも受け分をお与えになります。そうです,エホバはメシアの忠誠が報われないままにはしておかれません。わたしたちも,エホバが『わたしたちの働きと,み名に示した愛とを忘れたりは』されないことを確信できます。―ヘブライ 6:10。

      35 イエスが分捕り物を分け合う「力ある者たち」とはだれですか。分捕り物とは何ですか。

      35 神の“僕”は,敵対する者たちに対する勝利によっても戦争の分捕り物を得ます。そして,そうした分捕り物を「力ある者たち」と分け合います。成就において,「力ある者たち」とはだれでしょうか。それは,イエスと同じく世を征服する最初の弟子たち,つまり「神のイスラエル」の14万4,000人の市民です。(ガラテア 6:16。ヨハネ 16:33。啓示 3:21; 14:1)では,分捕り物とは何でしょうか。その中には,「人々の賜物」,つまりイエスがいわばサタンの配下からもぎ取ってクリスチャン会衆に与える人々も含まれるようです。(エフェソス 4:8-12)14万4,000人の「力ある者たち」には,別の分捕り物の受け分も与えられます。彼らは世に対して勝利を収めるので,神を嘲弄するいっさいの根拠をサタンから奪い取っているのです。エホバに対する彼らの破れることのない献身はエホバを高め,その心を歓ばせます。

      36 イエスは,自分が神の“僕”に関する預言を成就していることを意識していましたか。説明してください。

      36 イエスは,自分が神の“僕”に関する預言を成就していることを意識していました。捕縛された夜,イエスはイザヤ 53章12節の言葉を引用し,自分自身にこう適用しました。「あなた方に言いますが,書かれているこのこと,すなわち,『そして彼は不法な者たちと共に数えられた』ということは,わたしに成し遂げられねばならない(の)です。わたしに関することは成し遂げられてゆくのです」。(ルカ 22:36,37)痛ましいことに,イエスはまさに不法な者が受けるような仕打ちを受けました。二人の強盗に挟まれる形で杭につけられ,律法違反者として処刑されたのです。(マルコ 15:27)それでも,自分が人々のために執り成しをしていることを深く認識していたイエスは,そうした非難を甘んじて受けました。いわば,罪人たちと災厄的な死の刑罰との間に立ち,その死の打撃を身に受けたのです。

      37 (イ)イエスの生涯と死に関する歴史の記録により,どんなことが証明されますか。(ロ)わたしたちが,エホバ神と,その高められた“僕”イエス・キリストに感謝すべきなのはなぜですか。

      37 イエスの生涯と死に関する歴史の記録により,イエス・キリストがイザヤの預言のメシアなる“僕”であることが,疑問の余地なく証明されます。わたしたちが罪と死から請け戻されるよう,み子が“僕”という預言的な役割を果たして苦しみを受けて死ぬのをエホバがお許しになったことに,わたしたちは心から感謝すべきではないでしょうか。エホバはそのようにして,わたしたちに対する深い愛を示してくださったのです。ローマ 5章8節は,「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」と述べています。さらにわたしたちは,死に至るまでも進んでご自分の魂を注ぎ出してくださった,高められた“僕”イエス・キリストにも心から感謝すべきです。

      [脚注]

      a J・F・ステニングの訳によると,ヨナタン・ベン・ウジエルのタルグム(西暦1世紀)はイザヤ 52章13節を,「見よ,わが僕,油そそがれた者(つまりメシア)は栄えん」と訳しています。バビロニア・タルムード(西暦3世紀ごろ)も同様に,「メシア ― その者の名は何か。……ラビの家の[者たちいわく],『彼まさしく我らの病を負えり』とあるごとく,[病みたる者なり]」と述べています。―サンヘドリン 98b; イザヤ 53:4。

      b 預言者ミカはベツレヘムを,「ユダの幾千の中に入るには小さすぎる者」と呼んでいます。(ミカ 5:2)とはいえ,小さなベツレヘムが,メシアの生まれた町となる異例の誉れを受けました。

      c 「災厄に遭い」と訳されているヘブライ語は,らい病に関連しても用いられています。(列王第二 15:5)ある学者たちによれば,一部のユダヤ人はイザヤ 53章4節から,メシアはらい病人であろうという考えを引き出しました。バビロニア・タルムードはこの節をメシアに適用して,メシアを「らい病人である学者」と呼んでいます。カトリックの「ドウェー訳」は,ラテン語「ウルガタ訳」を反映して,この節を,「我らは彼をらい病人のごとく……思えり」と訳しています。

      [212ページの図表]

      エホバの僕

      イエスはどのように役割を果たしたか

      預言

      出来事

      成就

      イザ 52:13

      上げられ,高められる

      使徒 2:34-36。フィリ 2:8-11。ペテ一 3:22

      イザ 52:14

      誤り伝えられ,信用を落とされる

      マタ 11:19; 27:39-44,63,64。ヨハ 8:48; 10:20

      イザ 52:15

      多くの国の民を驚かす

      マタ 24:30。テサ二 1:6-10。啓 1:7

      イザ 53:1

      人々は信じない

      ヨハ 12:37,38。ロマ 10:11,16,17

      イザ 53:2

      つつましく,派手なところのない人間として生活を始める

      ルカ 2:7。ヨハ 1:46

      イザ 53:3

      さげすまれ,退けられる

      マタ 26:67。ルカ 23:18-25。ヨハ 1:10,11

      イザ 53:4

      わたしたちの病を担う

      マタ 8:16,17。ルカ 8:43-48

      イザ 53:5

      刺し通される

      ヨハ 19:34

      イザ 53:6

      人々のとがのために苦しみに遭う

      ペテ一 2:21-25

      イザ 53:7

      訴える者たちの前で黙し,苦情を言わない

      マタ 27:11-14。マル 14:60,61。使徒 8:32,35

      イザ 53:8

      不公正な裁判を受け,有罪を宣告される

      マタ 26:57-68; 27:1,2,11-26。ヨハ 18:12-14,19-24,28-40

      イザ 53:9

      富んだ者たちと共に埋葬される

      マタ 27:57-60。ヨハ 19:38-42

      イザ 53:10

      魂が罪科の捧げ物として置かれる

      ヘブ 9:24; 10:5-14

      イザ 53:11

      義なる立場を得る道を多くの人に開く

      ロマ 5:18,19。ペテ一 2:24。啓 7:14

      イザ 53:12

      罪人たちと共に数えられる

      マタ 26:55,56; 27:38。ルカ 22:36,37

      [203ページの図版]

      『彼は人々にさげすまれた』

      [206ページの図版]

      『彼は口を開こうとはしなかった』

      [クレジット]

      Detail from "Ecce Homo" by Antonio Ciseri

      [211ページの図版]

      『彼は自分の魂を死に至るまでも注ぎ出した』

  • うまずめであった女は歓ぶ
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第15章

      うまずめであった女は歓ぶ

      イザヤ 54:1-17

      1 サラが子供を産みたいと切望していたのはなぜですか。それに関して,どんな経験をしましたか。

      サラは子供を産みたいと切望していましたが,悲しいことにうまずめであったため,深い心痛を味わっていました。その時代,うまずめであるのは不面目なこととみなされていました。しかし,サラの心痛には別の理由もありました。自分の夫に対する神の約束の成就を,何としても見たいと願っていたのです。アブラハムは,地の全家族に祝福となる胤の父祖となることになっていました。(創世記 12:1-3)ところが,神がその約束をなさってから幾十年かたっているのに,まだ子供ができませんでした。サラは年を取り,子供のないままでした。かなわぬ希望だったのだろうか,と思案することもあったかもしれません。しかしある日,彼女の落胆は喜びに変わりました!

      2 イザヤ 54章の預言に興味をそそられるのはなぜですか。

      2 サラの経験したつらい状況は,イザヤ 54章に記されている預言を理解する助けになります。この章は,多くの子供を持つ深い喜びを知るようになるうまずめに対するかのように,エルサレムに語りかけています。エホバは,古代のご自分の民を集合的に自分の妻として描写することによって,その民に対する優しい気持ちを表わしておられます。加えて,イザヤのこの章は,聖書が「神聖な奥義」と呼ぶものの極めて重要な一面を明らかにしてくれます。(ローマ 16:25,26)その「女」の実体,およびこの預言の中で予告されている彼女の経験は,今日の清い崇拝の重要な点を明らかにしています。

      「女」の実体が明らかになる

      3 うまずめである「女」が歓びの理由を持つようになるのはなぜですか。

      3 54章は喜ばしい調子で始まります。「『子を産まなかったうまずめよ,喜び叫べ! 子を産む苦しみを味わったことのない者よ,歓呼して快活になれ。甲高く叫べ。荒廃させられた者の子らは,夫たる所有者を持つ女の子らよりも多いからである』と,エホバは言われた」。(イザヤ 54:1)イザヤは,この言葉を語るときに大きな興奮を覚えるに違いありません。そして,この言葉が成就する時,バビロンで流刑になっているユダヤ人は大いに慰められることでしょう。その時,エルサレムは依然として荒廃しています。人間の観点からすれば,エルサレムに再び人が住む望みはなさそうに見えるでしょう。それは,老齢になったうまずめが,子供を産むことを普通は望めないのと同様です。しかし,この「女」はやがて大きな祝福を受けます。多くの子を産むのです。エルサレムは喜びに我を忘れるほどになります。再び「子ら」つまり住民で満ちるようになるのです。

      4 (イ)使徒パウロは,イザヤ 54章に西暦前537年の成就より大規模な成就があるに違いないことを,どのように理解させてくれますか。(ロ)「上なるエルサレム」とは何ですか。

      4 本人は知らないかもしれませんが,イザヤの預言の成就は一度だけではありません。使徒パウロはイザヤ 54章を引用して,この「女」が,地上の都市エルサレムよりはるかに重要なものを意味することを説明し,「上なるエルサレムは自由であって,それがわたしたちの母です」と書いています。(ガラテア 4:26)この「上なるエルサレム」とは何でしょうか。約束の地にある都市エルサレムの都のことでないのは明らかです。その都市は地的なものであり,天の領域にある「上なる」ものではありません。「上なるエルサレム」とは,神の天的な「女」,つまり強大な霊の被造物で成る神の組織のことです。

      5 ガラテア 4章22-31節に概説されている象徴的なドラマにおいて,(イ)アブラハム,(ロ)サラ,(ハ)イサク,(ニ)ハガル,(ホ)イシュマエルは,それぞれだれ,または何を表わしていますか。

      5 それにしても,エホバが二人の象徴的な女を ― 一方は天に,他方は地上に ― 有するということはどうして可能なのでしょうか。矛盾があるのではないでしょうか。決してそうではありません。使徒パウロが示すとおり,その答えは,アブラハムの家族が預言的に描写した事柄から得られます。(ガラテア 4:22-31。218ページの「アブラハムの家族 ― 預言的な描写」をご覧ください。)アブラハムの妻である「自由の女」サラは,霊の被造物で成るエホバの妻のような組織を表わしています。アブラハムの第二の妻もしくはそばめである下女ハガルは,地上のエルサレムを表わしています。

      6 どんな意味で,神の天の組織には長いあいだ子ができませんでしたか。

      6 では,こうした背景に基づき,イザヤ 54章1節の奥深い意味を調べてゆきましょう。幾十年も子ができなかったサラは,90歳になってイサクを産みました。同様に,エホバの天の組織も長いあいだ子ができませんでした。はるか昔,エデンにおいてエホバは,ご自分の「女」が「胤」を産み出すと約束なさいました。(創世記 3:15)それから2,000年以上のち,エホバは約束の胤に関する契約をアブラハムと結ばれました。しかし,神の天的な「女」は,その胤を産み出すまで,さらに幾世紀もの間ずっと待たなければなりませんでした。とはいえ,このかつては「うまずめ」であった女の子供が,肉のイスラエルの子供よりも多くなる時が来たのです。このうまずめの例えから,予告された胤の到来をみ使いたちが是非とも目撃したいと思っていた理由も理解できます。(ペテロ第一 1:12)では,それがついに実現したのはいつのことでしょうか。

      7 イザヤ 54章1節で予告されている「上なるエルサレム」の歓びの時は,いつ到来しましたか。そう言えるのはなぜですか。

      7 人間の子供としてのイエスの誕生は,み使いたちにとってまさに歓びの時となりました。(ルカ 2:9-14)しかしそれは,イザヤ 54章1節で予告されていた出来事ではありませんでした。イエスは,西暦29年,聖霊によって生み出された時に初めて,「上なるエルサレム」の霊的な子となり,神ご自身によって,「わたしの子,わたしの愛する者」として公に認められました。(マルコ 1:10,11。ヘブライ 1:5; 5:4,5)イザヤ 54章1節の成就として神の天的な「女」が歓びのいわれを持ったのは,その時のことでした。彼女はついに,約束の胤を,メシアを産み出していたのです。幾世紀にもわたる,子のいない状態は過ぎ去りました。とはいえ,彼女の歓びはそれだけで終わりませんでした。

      うまずめであった女の多くの子ら

      8 神の天的な「女」には約束の胤を産み出した後も歓びのいわれがあった,と言えるのはなぜですか。

      8 イエスの死と,それに続く復活の後,神の天的な「女」は,「死人の中からの初子」として戻ってきた,このいとし子を迎えて歓びました。(コロサイ 1:18)次いで彼女は,ほかにも霊的な子らを産み出し始めました。西暦33年のペンテコステの時に,120人ほどのイエスの追随者たちは聖霊で油そそがれ,それにより,キリストと共同の相続人として養子にされました。その日の後刻,さらに3,000人が加えられました。(ヨハネ 1:12。使徒 1:13-15; 2:1-4,41。ローマ 8:14-16)子らのこの集合体は増大してゆきました。背教したキリスト教世界が誕生してからしばらくすると,増大の速度は落ちて,ほんのわずかになりました。しかし,そうした状況は20世紀において変化することになっていました。

      9,10 古代の天幕生活者の女性にとって,「天幕の場所をもっと広くせよ」という指示は何を意味しますか。それが,そのような女性にとって喜びの時であるのはなぜですか。

      9 イザヤは続けて,驚くべき増大の時期についてこう預言しています。「あなたの天幕の場所をもっと広くせよ。そして,彼らにあなたの壮大な幕屋の天幕布を張り伸ばさせよ。ためらうな。あなたの天幕の綱を長くし,あなたのその天幕用留め杭を強くせよ。あなたは右に左に突き進み,あなたの子孫は諸国の民をも所有し,荒廃した諸都市の中にさえ住むようになるからである。恐れてはならない。あなたが恥をかくことはないからである。屈辱を感じるな。あなたが失望させられることはないからである。あなたは自分の若い時の恥をも忘れ,ずっとやもめの身でいた時のそしりを思い出すことももはやないからである」。―イザヤ 54:2-4。

      10 ここでエルサレムは,天幕生活をしている,サラのような妻また母親であるかのように語りかけられています。そのような母親は,祝福されて家族が増えると,我が家を広げます。もっと長い天幕布と綱を張り,天幕用留め杭を新たな場所に固定しなければなりません。それは母親にとっては喜ばしい仕事であり,忙しさのあまり,家系を絶やさないよう子供を産めるだろうかと思い悩んだ過去の年月もつい忘れてしまうほどです。

      11 (イ)神の天的な「女」は,1914年にどんな祝福を受けましたか。(脚注をご覧ください。)(ロ)1919年以来,地上にいる油そそがれた者たちはどんな祝福を経験してきましたか。

      11 地上のエルサレムはバビロンへの流刑が終わった後に祝福を受け,そうした再生の時を迎えました。「上なるエルサレム」のほうは,それを上回る祝福を受けてきました。a とりわけ1919年以降,そのエルサレムの油そそがれた「子孫」は,新たに回復した霊的な状態の中で繁栄しています。(イザヤ 61:4; 66:8)それら「子孫」は,霊的な家族に加わる人々すべてを探し出すために多くの国々に広がるという意味で,『諸国の民を所有』しました。その結果,油そそがれた子らを集める面で急激な増大が見られました。最終的に14万4,000人を数えるこの子らは,1930年代半ばには集め終えられたものと思われます。(啓示 14:3)その時,宣べ伝える業の焦点は,油そそがれた者たちを集めることではなくなりました。しかし,油そそがれた者たちを集めることが終わったからといって,拡張が終わったわけではありませんでした。

      12 1930年代以来,油そそがれた者たちに加えて,どんな人々がクリスチャン会衆に集め入れられてきましたか。

      12 イエス自身,自分が,油そそがれた兄弟たちの「小さな群れ」だけでなく,真のクリスチャンの羊の囲いへと導かれるべき「ほかの羊」も持つようになることを予告しました。(ルカ 12:32。ヨハネ 10:16)油そそがれた者たちの仲間である,それら忠実な人々は,「上なるエルサレム」の油そそがれた子らではありませんが,ずっと昔に預言された重要な役割を果たします。(ゼカリヤ 8:23)1930年代以降,今日に至るまで,それらの人々で成る「大群衆」が集められており,その結果,クリスチャン会衆は空前の規模で拡張しています。(啓示 7:9,10)今日,その大群衆は優に数百万という人数に達しています。そうした拡張により,もっと多くの王国会館,大会ホール,支部施設が緊急に必要とされています。いよいよイザヤの言葉どおりであると感じられます。予告されたこうした拡張の一端にあずかれるのは,なんと素晴らしい特権でしょう。

      子孫を気遣う母親

      13,14 (イ)神の天的な「女」に対して述べられている表現に関して,どんな点が理解しにくく思えるかもしれませんか。(ロ)神が家族関係を例として用いておられることから,どんな洞察が得られますか。

      13 より大規模な成就において,この預言の「女」はエホバの天の組織を表わす,という点はすでに考慮しました。しかし,イザヤ 54章4節を読むと,霊の被造物で成るその組織が一体どのような意味で恥やそしりを味わったのだろうか,と疑問に思えるかもしれません。続きの幾つかの節は,神の「女」が退けられ,苦しみに遭い,攻撃にさらされると述べています。彼女は神の憤りをさえ引き起こしてしまいます。そうした事柄は,一度も罪をおかしたことのない完全な霊の被造物で成る組織にどのように当てはまるのでしょうか。家族とはどういうものかを考えると,答えが得られます。

      14 エホバは,深遠な霊的真理を知らせるために,家族関係 ― 夫と妻,母親と子供 ― を用いておられます。そうした象徴は人間にとって意味の深いものだからです。わたしたちは,自分自身の家族体験の質や程度にかかわりなく,健全な結婚関係や親子関係のあるべき姿を知っているものです。ですからエホバは,ご自分が,おびただしい数の霊的な僕たちとの温かで親密な信頼関係を持っていることを,実に生き生きとした仕方でわたしたちに教えておられるのです。また,ご自分の天の組織が,地上にいる霊によって油そそがれた子らを気遣っていることも,実に印象的な仕方で教えておられるのです。僕である人々が苦しみに遭うとき,忠実な天の僕たち,つまり「上なるエルサレム」も苦しみます。イエスも同様のことを述べ,「これら[霊によって油そそがれた]わたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです」と言いました。―マタイ 25:40。

      15,16 イザヤ 54章5,6節の最初の成就はどのようなものですか。より大規模な成就はどのようなものですか。

      15 ですから,エホバの天的な「女」に対して述べられている事柄の多くが,その「女」の地上の子供たちの経験する事柄を表わしているのも意外なことではありません。次の言葉に注目してください。「『あなたの偉大な造り主はあなたの夫たる所有者,その名は万軍のエホバである。イスラエルの聖なる方はあなたを買い戻す方。その方は全地の神と呼ばれるであろう。エホバはあなたを,あたかも完全に捨てられ,霊の傷ついた妻であるかのように,また,若い時の妻でありながら,やがて退けられた者のように呼ばれたからである』と,あなたの神は言われた」。―イザヤ 54:5,6。

      16 ここで語りかけられている妻とはだれですか。最初の成就においては,それはエルサレムであり,神の民を表わしています。バビロンでの70年間の流刑期間中,その民は,あたかもエホバから退けられ,完全に捨てられたかのように感じます。より大規模な成就においては,この言葉は「上なるエルサレム」に,またそのエルサレムが創世記 3章15節の成就として,ついに「胤」を産み出すという経験をすることに関連があります。

      一時的な懲らしめ,とこしえの祝福

      17 (イ)地上のエルサレムはどのように,神の「あふれる」憤りを経験しますか。(ロ)「上なるエルサレム」の子らは,「あふれる」ほどの何を経験しましたか。

      17 預言はこう続きます。「『わたしは少しの間あなたを完全に捨てたが,大いなる憐れみをもってあなたを集める。わたしはしばしの間,あふれる憤りをもってあなたから顔を覆い隠した。しかし,定めのない時まで続く愛ある親切をもってあなたを憐れむであろう』と,あなたを買い戻す方,エホバは言われた」。(イザヤ 54:7,8)西暦前607年にバビロニアの軍勢の攻撃を受ける時,地上のエルサレムは神の「あふれる」憤りに覆い尽くされます。70年間の流刑は長いと思えるかもしれません。それでも,そのような試練は,懲らしめに正しく反応する人々のために用意されているとこしえの祝福に比べるなら,「しばしの間」続くにすぎません。同様に,「上なるエルサレム」の油そそがれた子らも,大いなるバビロンに扇動された政治勢力から自分たちが攻撃を受けるのをエホバがお許しになった時,神の「あふれる」憤りに圧倒されたように感じました。しかし,そうした懲らしめも,後に,1919年以降の霊的な祝福の時期と比べると,全く短期間のことと思えたのです。

      18 ご自分の民に対するエホバの憤りに関して,どんな重要な原則を理解できますか。そのことは,わたしたち一人一人にどう当てはまるかもしれませんか。

      18 この聖句には,別の重要な真理も含まれています。神の憤りはつかの間のものであるのに対して,その憐れみはいつまでも続く,という真理です。神の怒りは悪行に対して燃えますが,それは常に制御されており,常に目的を有しています。そして,わたしたちがエホバの懲らしめを受け入れるなら,神の怒りは「しばしの間」続くにすぎず,やがて静まります。怒りに代わって,「大いなる憐れみ」が,つまり許しや愛ある親切が示されます。それらは「定めのない時まで」続きます。ですから,罪を犯した人は,少しもためらうことなく悔い改め,神に償いをしようと努めるべきです。重大な罪である場合は,直ちに会衆の長老に近づくべきです。(ヤコブ 5:14)確かに,懲らしめの必要なときがあり,それに服するのは楽ではないかもしれません。(ヘブライ 12:11)それでも,エホバ神に許していただくことから来るとこしえの祝福と比べるなら,懲らしめは短期間なのです。

      19,20 (イ)虹の契約とは何ですか。その契約は,バビロンにいる流刑者たちとどんな関連がありますか。(ロ)「平和の契約」は,今日の油そそがれたクリスチャンにどんな保証を与えますか。

      19 次にエホバは,ご自分の民に,慰めとなる保証を与えておられます。「『これはわたしにとってノアの日のようである。わたしはノアの水が地を通り越すことはもはやないと誓ったが,それと同じように,わたしがあなたに対して憤ったり,あなたを叱責したりすることはないと誓った。山は取り除かれ,丘はよろめくかもしれない。しかし,わたしの愛ある親切があなたから取り除かれること,また,わたしの平和の契約がよろめくことはないからである』と,あなたに憐れみを抱く方エホバは言われた」。(イザヤ 54:9,10)大洪水の後,神は,ノアをはじめとするすべての生きた魂と契約 ― 虹の契約と呼ばれることもある ― を結ばれました。エホバは,地球的規模の洪水によって地に滅びをもたらすことはもはやない,と約束なさいました。(創世記 9:8-17)そのことはイザヤとその民にとって何を意味しているでしょうか。

      20 民が忍ばねばならない処罰 ― バビロンでの70年間の流刑 ― は一度限りである,ということを知ると慰められます。ひとたび終わると,もはや生じることはないのです。その後は,神の「平和の契約」が有効になります。「平和」に相当するヘブライ語は,単に戦争のないことではなく,あらゆる種類の良い状態を意味します。神の側からすれば,この契約は恒久的なものです。丘や山が消滅しようとも,忠実な民に対する神の愛ある親切が終わることはありません。残念なことに,神の地上の国民は,最終的に,契約における自分たちの務めを履行せず,メシアを退けることによって自らの平和を打ち砕いてしまいます。しかし,「上なるエルサレム」の子らに関しては,事ははるかに良く運びました。懲らしめを受ける困難な時期が終わると,彼らには神の保護が保証されたのです。

      神の民の霊的な安全

      21,22 (イ)「上なるエルサレム」が苦しみに遭い,大あらしに翻弄されると言えるのはなぜですか。(ロ)神の天的な「女」が祝福された状態にある場合,それは,地上にいる「子孫」に関して何を意味しますか。

      21 エホバは続けて,ご自分の忠実な民の得る安全を予告しておられます。「苦しみに遭い,大あらしに翻弄され,慰めを得ていない女よ,わたしはいま硬いしっくいであなたの石を敷こうとしており,サファイアであなたの基を据えるであろう。また,わたしはルビーであなたの胸壁を,火のように輝く石であなたの門を,見事な石であなたのすべての境界を作る。そして,あなたの子らは皆エホバに教えられる者となり,あなたの子らの平安は豊かであろう。あなたは義のうちに堅く据えられた者となる。あなたは虐げから遠く離れる ― あなたは何も恐れないからである ― また,恐れおののかせるものからも遠く離れている。それがあなたに近づくことはないからである。もしもだれかが攻撃するとしても,それはわたしの命令によるのではない。あなたを攻撃している者はだれであれ,まさにあなたのゆえに倒れるであろう」。―イザヤ 54:11-15。

      22 言うまでもなく,霊の領域にいるエホバの「女」が直接,苦しみに遭ったり,大あらしに翻弄されたりしたことはありません。しかし彼女は,地上にいる自分の油そそがれた「子孫」が苦しんだ時,特に1918年から1919年にかけてその者たちが霊的な捕らわれ状態にあった時,苦しみを経験しました。それとは逆に,天的な「女」が高められるとき,それは彼女の子孫の間にも同様の状態が行き渡っていることを表わします。では,「上なるエルサレム」に関する輝くばかりの描写に注目してください。門や高価な「硬いしっくい」や基に,そして境界にまでも用いられている宝石は,ある参考文献の言葉を借りれば,「美,荘厳さ,浄さ,力強さ,堅牢さ」を示唆しています。油そそがれたクリスチャンは,何によって,そのような安全で祝福された状態へ導き入れられるのでしょうか。

      23 (イ)「エホバに教えられる」ことは,終わりの日にいる油そそがれたクリスチャンにどんな影響を与えてきましたか。(ロ)どんな意味で,神の民は『見事な石でできた境界』という祝福を受けてきましたか。

      23 イザヤ 54章13節に手がかりがあります。皆が「エホバに教えられる」のです。ほかならぬイエスが,その節の言葉を,ご自分の油そそがれた追随者たちに適用しておられます。(ヨハネ 6:45)預言者ダニエルも,油そそがれた者たちがこの「終わりの時」に祝福を受け,真の知識と霊的な洞察力に満ちあふれる,と予告しています。(ダニエル 12:3,4)そうした洞察力に支えられ,油そそがれた者たちは史上最大の教育活動の先頭に立ち,全地で神の教えを告げ知らせてきました。(マタイ 24:14)同時に,そうした洞察力に助けられ,真の宗教と偽りの宗教の違いを理解することもできました。イザヤ 54章12節は『見事な石でできた境界』について述べています。1919年以来エホバは,油そそがれた者たちに,幾つかの境界 ― 霊的な区分線 ― とも言うべき理解をいよいよ明確に与え,彼らを偽りの宗教や世の不敬虔な人々から分けてこられました。(エゼキエル 44:23。ヨハネ 17:14。ヤコブ 1:27)そのようにして,油そそがれた者たちは神ご自身の民として分けられているのです。―ペテロ第一 2:9。

      24 どうすれば自分がエホバに教えられていることを確かめられますか。

      24 ですから,わたしたち各人は,『自分はエホバに教えられているだろうか』と自問すべきです。そうした教えは自動的に得られるものではありません。わたしたちが努力を払わなければなりません。神の言葉を定期的に読み,読んだ事柄を黙想するなら,そして「忠実で思慮深い奴隷」が発行する,聖書に基づく出版物を読み,準備をしてクリスチャンの集会に出席することによって教訓を取り入れるなら,まさにエホバに教えられていることになります。(マタイ 24:45-47)学んだ事柄を適用するよう努め,霊的に目覚めていて油断なく見張り続けるなら,神の教えによって,この不敬虔な世の人々とは異なる者として分けられるでしょう。(ペテロ第一 5:8,9)さらに喜ばしいこととして,『神に近づく』こともできます。―ヤコブ 1:22-25; 4:8。

      25 平安に関する神の約束は,現代の神の民にとって何を意味しますか。

      25 イザヤの預言は,油そそがれた者たちが豊かな平安という祝福を受けることも示しています。それは,その者たちが決して攻撃を受けないということでしょうか。そうではありません。とはいえ神は,ご自分がそうした攻撃を命じることも,それが功を奏するのを許すこともないと保証しておられます。こう書かれています。「『見よ,炭火の上に風を送り,武器を自分の細工として作り出す職人を,このわたしが創造した。破壊の業のための滅びの人をもまた,わたしが創造した。あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう。これはエホバの僕たちの世襲財産であり,彼らの義はわたしからのものである』と,エホバはお告げになる」。―イザヤ 54:16,17。

      26 エホバが全人類の創造者であられることを考えると安心感を抱けるのはなぜですか。

      26 イザヤ書のこの章で,ご自分が創造者であることをエホバが僕たちに思い出させておられるのは,これで二度目です。一度目の時は,象徴的な妻に,ご自分は彼女の「偉大な造り主」であると告げておられます。今回は,ご自分は全人類の創造者であると述べておられます。16節には,かじ場の炭の上に風を送って破壊的な武器を造る金属細工人と,「破壊の業のための滅びの人」である戦士が登場します。そうした者たちは,仲間の人間に恐怖を感じさせることはあっても,自分たちの創造者に打ち勝つことなどどうして望めるでしょうか。同様に今日,たとえこの世の最強の軍勢がエホバの民を攻撃しようとも,最終的に功を奏する見込みは全くありません。あろうはずがないのです。

      27,28 今の困難な時代にあって,どんな確信を抱けますか。わたしたちに対するサタンの攻撃が成果を上げることはないと言えるのはなぜですか。

      27 神の民と,霊と真理をもってなされるその民の崇拝とを滅ぼそうとする,攻撃の時期は過ぎ去りました。(ヨハネ 4:23,24)エホバは,大いなるバビロンが一度攻撃を行ない,一時的に成功を収めるのをお許しになりました。「上なるエルサレム」は,しばらくの間,自らの子孫がほとんど沈黙させられ,地上での宣べ伝える業が事実上の停止状態に陥るのを見ました。しかし,そのようなことは二度と生じません。彼女は今や自らの子らに関して歓喜しています。子らが霊的な意味で征服されることはないからです。(ヨハネ 16:33。ヨハネ第一 5:4)確かに,その子らを攻撃するための武器が形造られることはありましたし,今後もあるでしょう。(啓示 12:17)しかし,それらの武器が功を奏することはありませんでしたし,今後もありません。サタンの有するいかなる武器も,油そそがれた者たちとその仲間の持つ,信仰と燃えるような熱意を抑えつけることはできません。この霊的な平安は「エホバの僕たちの世襲財産」なので,それを力ずくで取り上げることはだれにもできないのです。―詩編 118:6。ローマ 8:38,39。

      28 そうです,サタンの世が何を行なおうとも,神の献身した僕たちの業と,永続する清い崇拝とをとどめることは決してできません。「上なるエルサレム」の油そそがれた子孫は,この保証から大きな慰めを得てきました。大群衆に属する人々についても同じことが言えます。エホバの天の組織について,またその組織がどのように地上の崇拝者たちを扱うかについて知れば知るほど,わたしたちの信仰は強まります。わたしたちが強い信仰を抱く限り,サタンの武器がわたしたちとの戦いにおいて役に立つことはないのです。

      [脚注]

      a 啓示 12章1-17節によると,神の「女」は,最も重要な「子孫」― 個々の霊的な子ではなく,天のメシア王国 ― を産み出すことにより,大いに祝福されました。その誕生は1914年に生じました。(「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の177-186ページをご覧ください。)イザヤの預言は,地上にいる油そそがれた子らに注がれる神の祝福の結果としてその「女」が感じる喜びに焦点を合わせています。

      [218,219ページの囲み記事]

      アブラハムの家族 ― 預言的な描写

      使徒パウロの説明によると,アブラハムの家族は一種の象徴的なドラマを演じています。つまり,エホバと,その天の組織,またモーセの律法契約下にあった地上のイスラエル国民との関係を預言的に描写しているのです。―ガラテア 4:22-31。

      家族の頭であるアブラハムは,エホバ神を表わしています。アブラハムが,愛する我が子イサクを犠牲として進んで差し出したことは,エホバが最愛のみ子を人類の罪のための犠牲として進んで差し出すことを予表していました。―創世記 22:1-13。ヨハネ 3:16。

      サラは,神の天的な「妻」,つまり霊者で成る神の組織を表わしています。その天の組織をエホバの妻と呼ぶのは適切なことです。エホバと密接な関係にあり,その頭の権に服し,その目的の遂行に全面的に協力しているからです。この組織は「上なるエルサレム」とも呼ばれています。(ガラテア 4:26)この同じ「女」のことが,創世記 3章15節で述べられており,啓示 12章1-6節と13-17節の幻でも描かれています。

      イサクは神の女の霊的な胤の予型となっています。その胤とは,第一にイエス・キリストです。とはいえその胤には,キリストの油そそがれた兄弟たちも含まれるようになりました。その人たちは霊的な子として養子にされ,キリストと共同の相続人となります。―ローマ 8:15-17。ガラテア 3:16,29。

      アブラハムの第二の妻もしくはそばめのハガルは奴隷でした。ハガルは地上のエルサレムを的確に表わしています。そのエルサレムではモーセの律法体系が支配力を有し,律法下にある人すべてが罪と死の奴隷であることを明らかにしました。パウロは,『ハガルは,アラビアにある山シナイを表わす』と言いました。律法契約がそこで結ばれたからです。―ガラテア 3:10,13; 4:25。

      ハガルの息子イシュマエルは,1世紀のユダヤ人,つまり依然としてモーセの律法の奴隷であったエルサレムの子らを表わしています。イシュマエルがイサクを迫害したのと同様,それらのユダヤ人も,象徴的なサラである「上なるエルサレム」の油そそがれた子らであるクリスチャンを迫害しました。そして,アブラハムがハガルとイシュマエルを去らせたのと同様に,エホバも最終的にエルサレムとその反逆的な子らを振り捨てました。―マタイ 23:37,38。

      [220ページの図版]

      イエスはバプテスマを受けた後に聖霊によって油そそがれ,イザヤ 54章1節の最も重要な成就が始まった

      [225ページの図版]

      エホバは「しばしの間」,エルサレムから顔を覆い隠された

      [231ページの図版]

      戦士や金属細工人は自分たちの創造者に打ち勝つことができるだろうか

  • 落胆した捕らわれ人のための希望の音信
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第16章

      落胆した捕らわれ人のための希望の音信

      イザヤ 55:1-13

      1 バビロンのユダヤ人流刑者の境遇を説明してください。

      ユダは,暗い時代を経験していました。神の契約の民は強制的に故国から連行され,今やバビロンで捕囚の身にあえいでいました。もっとも,日常的な物事を行なう程度の自由は与えられていました。(エレミヤ 29:4-7)専門技術を身に着ける人や,商売を営む人たちもいました。a (ネヘミヤ 3:8,31,32)それでも,捕らわれの身のユダヤ人の生活は楽ではありませんでした。身体的にも霊的にも束縛されていたのです。どのようにでしょうか。

      2,3 流刑は,ユダヤ人の行なうエホバへの崇拝にどんな影響を与えましたか。

      2 バビロンの軍隊は,西暦前607年にエルサレムを破壊した時,一つの国を荒廃させる以上のことを行ないました。真の崇拝に打撃を加えたのです。一切のものをはぎ取った上でエホバの神殿を破壊し,レビ族の人々を捕囚あるいは死に処して祭司職を機能不全にしました。崇拝の家も,祭壇も,組織された祭司職も失ったユダヤ人にとって,律法の規定どおりにまことの神に犠牲をささげることは不可能になりました。

      3 それでも,忠実なユダヤ人は割礼を励行し,可能な限り律法に従って,自分たちの宗教的独自性を保つことができました。例えば,禁じられた食物を避け,安息日を守ることは可能でした。しかし,そうする際には,自分たちをとりこにしている人々からのあざけりを覚悟しなければなりませんでした。バビロニア人はユダヤ人の宗教上のしきたりをばかにしていたからです。流刑者たちの落胆した様子は,次の詩編作者の言葉に表われています。「バビロンの川のほとり ― そこにわたしたちは座った。わたしたちはまた,シオンを思い出して泣いた。わたしたちはその中のポプラの木にたて琴を掛けた。わたしたちをとりこにしている者たちが,その場所で歌の言葉をわたしたちに求めたからである。わたしたちをあざける者たちが ― 興を求めて,『我々のためにシオンの歌を一つ歌え』と」。―詩編 137:1-3。

      4 ユダヤ人が救出を求めて他の国々に頼っても無駄だったのはなぜですか。しかし,助けを求めてだれに頼ることができましたか。

      4 では,捕らわれのユダヤ人は,慰めを求めてだれに頼ることができたでしょうか。救いはどこから来るのでしょうか。近隣のいずれかの国からであるはずはありません。それらの国はすべてバビロンの軍隊に対して無力であり,その多くはユダヤ人を敵視していました。しかし,望みがなかったわけではありません。ユダヤ人は自由な民であった時に反逆しましたが,それでもエホバは慈しみを示し,励みとなる招きを差し伸べました。流刑の民にそうなさったのです。

      「水のあるところに来い」

      5 「水のあるところに来い」という言葉にはどんな意味がありますか。

      5 エホバはイザヤを通して,バビロンにいる捕らわれのユダヤ人に対して預言的にこう言われます。「おーい,渇いているすべての者よ! 水のあるところに来い。そして,金のない者たちよ! 来て,買って,食べよ。そうだ,来て,金も払わずに,代価も払わずに,ぶどう酒と乳を買え」。(イザヤ 55:1)この言葉には,数多くの象徴的表現が用いられています。例えば,「水のあるところに来い」という招きに注目してください。水がなければ,生物は生きてゆけません。貴重な水がなければ,人間は1週間ほどしか生きられません。ですからエホバが,捕らわれのユダヤ人にみ言葉が及ぼす影響を表わす隠喩として水を用いておられるのは適切なことです。神からの音信は,暑い日の冷たい飲み物のように,ユダヤ人をさわやかにします。意気消沈した状態から引き上げ,真理と義に対する渇きをいやします。そして,捕らわれから自由になる希望を吹き込みます。とはいえ,益を得るために,ユダヤ人流刑者たちは神からの音信を飲み,それに注意を払い,それに基づいて行動しなければなりません。

      6 ユダヤ人は「ぶどう酒と乳」を買うなら,どんな益を得ますか。

      6 エホバは「ぶどう酒と乳」も差し伸べておられます。乳は幼子の体を強くし,子供の成長を促します。同様に,エホバの言葉は神の民を霊的に強くし,その民が神との関係を強化するのを可能にします。では,ぶどう酒はどうでしょうか。ぶどう酒はしばしば祝祭の時に用いられます。聖書中では,繁栄や歓びと結びつけられています。(詩編 104:15)エホバは,『ぶどう酒を買う』よう民に命じることにより,心をこめて真の崇拝に戻るなら「ただ喜びに満ちる」であろう,と保証しておられるのです。―申命記 16:15。詩編 19:8。箴言 10:22。

      7 流刑者に対するエホバの同情心は注目すべきものである,と言えるのはなぜですか。そのことから,エホバについて何を学べますか。

      7 流刑のユダヤ人にそのような霊的飲み物を差し伸べるエホバは,なんと憐れみ深いのでしょう。ユダヤ人がわがままで反逆的な歩みをしてきたことを考えると,エホバの同情心の深さはいよいよ注目すべきものです。彼らはエホバの是認に値するわけではありません。それでも,詩編作者ダビデは幾世紀か前にこう書いています。「エホバは憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切に満ちておられる。神はいつまでも過ちを捜しつづけることも,定めのない時に至るまで憤慨しつづけることもない」。(詩編 103:8,9)エホバは,ご自分の民との関係を断つどころか,和解のための第一歩を踏み出しておられるのです。確かに,エホバは「愛ある親切を喜びとされる」神です。―ミカ 7:18。

      依り頼むべきでないものに依り頼む

      8 ユダヤ人の多くは何に依り頼んできましたか。どんな警告にもかかわらず,そうしましたか。

      8 この時まで,多くのユダヤ人は,救いを求めてエホバに全面的に依り頼んではいません。例えば,エルサレムが陥落する前,支配者たちは支援を求めて有力な国々に頼り,エジプトともバビロンとも,いわば売春を行ないました。(エゼキエル 16:26-29; 23:14)エレミヤがこう警告したのも当然です。「地の人に依り頼み,しかも肉を自分の腕とし,その心がエホバからそれて行く強健な者はのろわれる」。(エレミヤ 17:5)そうです,神の民がまさにそうしたことを行なったのです。

      9 多くのユダヤ人は,どのように『パンでないもののために支払いをしつづけて』いるようですか。

      9 今やユダヤ人は,自分たちが依り頼んだ国の一つに奴隷となっています。教訓を学んだでしょうか。多くの人は学んでいないようです。というのは,エホバがこう質問しておられるからです。「あなた方はなぜパンでないもののために支払いをしつづけるのか。なぜ満足をもたらさないもののために労しているのか」。(イザヤ 55:2前半)捕らわれのユダヤ人は,エホバ以外のだれかに依り頼んでいるのであれば,『パンでないもののために支払いをしつづけている』ことになります。捕らわれ人を絶対に帰還させない政策を取るバビロンからは決して解き放たれない,ということにもなるでしょう。確かに,帝国主義と商業主義と偽りの崇拝を奉じるバビロンには,流刑のユダヤ人に与え得るものは何もありません。

      10 (イ)流刑のユダヤ人は,エホバの述べることを聴くなら,どんな報いを受けますか。(ロ)エホバはダビデとどんな契約を結んでおられましたか。

      10 エホバはご自分の民に,哀願するかのようにこう語りかけておられます。「わたしの言うことを一心に聴き,良いものを食べ,あなた方の魂が肥えたものに無上の喜びを見いだすようにせよ。あなた方の耳を傾け,わたしのもとに来い。聴け。そうすれば,あなた方の魂は生きつづけ,わたしは,ダビデに対する忠実な愛ある親切に関して定めなく存続する契約を進んであなた方と結ぶであろう」。(イザヤ 55:2後半,3)霊的な栄養失調になっているこの民が希望を託せる相手は,ここでイザヤを通して預言的に語りかけておられるエホバ以外にありません。民の命そのものが,神からの音信を聴くことにかかっています。エホバは,そうするなら彼らの『魂は生きつづける』と述べておられるからです。それにしても,エホバが,こたえ応じる者たちと結ぶ「定めなく存続する契約」とは何でしょうか。その契約は,『ダビデに対する愛ある親切に関する』ものです。幾世紀か前に,エホバはダビデに,あなたの王座は『定めのない時までも堅く立てられる』と約束なさいました。(サムエル第二 7:16)ですから,ここで言及されている「定めなく存続する契約」は,支配権と関係があります。

      永遠の王国の恒久的な相続者

      11 バビロンにいる流刑者たちが,ダビデに対する神の約束の成就は望み得ないと思うかもしれないのはなぜですか。

      11 それらユダヤ人流刑者が,ダビデの家系の支配権など望み得ないと思うとしても無理はありません。国土だけでなく,国家としての独自性も失ってしまったのです。しかし,それは一時的なことにすぎません。エホバはダビデとの契約を忘れてはおられません。人間の観点からはいかにあり得ないことに見えようとも,ダビデの家系の永遠の王国に関する神の目的は必ず達成されます。では,いつ,どのようにでしょうか。西暦前537年,エホバはご自分の民をバビロンでの捕らわれから解き放ち,故国へ帰還させます。その結果として,定めなく存続する王国が設立されるのでしょうか。いいえ,民は依然として異教の帝国 ― 今度はメディア-ペルシャ ― の支配下にあります。諸国民が自分たちで支配を行なう「定められた時」はまだ満了していないのです。(ルカ 21:24)いまイスラエルには王がいませんから,エホバがダビデにお与えになった約束が果たされるのは幾世紀も先のことです。

      12 エホバは,ダビデと結んだ王国契約の成就に向けて,どのように踏み出されましたか。

      12 イスラエルがバビロンでの捕らわれから解き放たれてから500年余り後,エホバは王国契約の成就に向けて大きく踏み出されました。ご自分の創造の業の初め,初子であるみ子の命を,栄光に満ちた天からユダヤ人の処女マリアの胎内に移されたのです。(コロサイ 1:15-17)エホバのみ使いは,そのことをマリアに告げた際,こう言いました。「これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:32,33)ですから,イエスはダビデの王統に生まれ,王権を受け継いでいました。王座についた後は,「定めのない時に至るまで」支配することになります。(イザヤ 9:7。ダニエル 7:14)こうして,ダビデ王に恒久的な相続者を与えるという,幾世紀も前にエホバのなさった約束が成就するための道が今や開かれたのです。

      『国たみに対する司令官』

      13 イエスは,宣教期間中も昇天後も,どのように「国たみに対する証人」でしたか。

      13 この将来の王は何を行なうのでしょうか。エホバはこう述べておられます。「見よ,わたしは彼を国たみに対する証人,国たみに対する指導者また司令官として与えたのである」。(イザヤ 55:4)成人したイエスは,地上におけるエホバの代表者,諸国民に対する神の証人となりました。人間としての生涯を通じて,イエスの宣教は,「イスラエルの家の失われた羊」を対象としていました。しかし,昇天する少し前に,イエスは追随者たちにこう言いました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし……なさい。……見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。(マタイ 10:5,6; 15:24; 28:19,20)その言葉どおり,やがて王国の音信は非ユダヤ人にも伝えられ,その中から,ダビデと結ばれた契約の成就にあずかる人々が現われました。(使徒 13:46)このようにしてイエスは,死と復活と昇天の後もなお,「国たみに対する[エホバの]証人」でした。

      14,15 (イ)イエスは,自分が「指導者また司令官」であることをどのように実証しましたか。(ロ)1世紀のイエスの追随者たちはどんな見込みを抱いていましたか。

      14 イエスは,「指導者また司令官」ともなることになっていました。この預言的な描写にたがわず,イエスは地上にいたとき,頭としての立場に伴う責任をすべて引き受け,あらゆる面で率先しました。大勢の群衆の注意を引きつけ,真理の言葉を教え,ご自分の指導に従う人々にもたらされる益を指し示したのです。(マタイ 4:24; 7:28,29; 11:5)また,弟子たちを巧みに訓練し,前途にある伝道活動を遂行できるよう備えさせました。(ルカ 10:1-12。使徒 1:8。コロサイ 1:23)わずか3年半の間に,多くの人種の大勢の人々で成る一致した国際的な会衆の基礎を据えたのです。真の「指導者また司令官」でなければ,そのような膨大な仕事を成し遂げることはできなかったでしょう。b

      15 1世紀のクリスチャン会衆へ集められた人々は,神の聖霊によって油そそがれ,天の王国においてイエスと共同の支配者となる見込みを有していました。(啓示 14:1)しかしイザヤの預言は,初期キリスト教の時代より先に目を向けています。証拠の示すところによると,イエス・キリストが神の王国の王として支配を始めたのは1914年になってからのことでした。その後まもなく,地上にいる油そそがれたクリスチャンは,西暦前6世紀に流刑のユダヤ人が経験したのと多くの点で似通った状況を経験するようになりました。実のところ,それらクリスチャンに生じた事柄は,イザヤの預言のいっそう大規模な成就となるのです。

      現代の捕らわれと解き放ち

      16 イエスが1914年に即位した後,どんな苦難が生じましたか。

      16 イエスが1914年に王として即位したことは,空前の世界的な苦難によって明らかになりました。なぜでしょうか。イエスが,王となってすぐ,サタンをはじめとする邪悪な霊の被造物を天から追い出したからです。サタンは,地に拘束されるとすぐに,残っている聖なる者たち,つまり油そそがれたクリスチャンの残りの者と戦い始めました。(啓示 12:7-12,17)それは1918年に頂点に達して,公に宣べ伝える業は事実上停止し,ものみの塔協会の責任ある役員たちは,扇動という虚偽の告発を受けて投獄されました。こうして,現代のエホバの僕たちは,古代ユダヤ人の身体的な捕らわれを思わせる霊的な捕らわれに陥り,大きなそしりを受けました。

      17 1919年,油そそがれた者たちの状態はどのように逆転しましたか。その時,彼らはどのように強化されましたか。

      17 しかし,神の油そそがれた僕たちの捕らわれの状態は長くは続きませんでした。1919年3月26日,投獄されていた役員たちは釈放され,後日,その人たちに対する告発はすべて取り下げられました。エホバは,自由になったご自分の民に聖霊を注ぎ,前途にある業のために活力をお与えになりました。民は喜びに満ちて,「命の水を価なくして受けなさい」という招きにこたえ応じました。(啓示 22:17)そして,「金も払わずに,代価も払わずに,ぶどう酒と乳を」買い,間もなく生じようとしていた驚嘆すべき拡大に備えて霊的に強化されました。それは,油そそがれた残りの者が予想もしなかったほどの拡大でした。

      大群衆が神の油そそがれた者たちのもとに走って来る

      18 イエス・キリストの弟子たちは,どんな二つのグループになっていますか。今日,それらのグループは何を構成していますか。

      18 イエスの弟子たちは,二つの希望のうちのいずれかを抱いています。まず,14万4,000人を数える「小さな群れ」が集められてきました。それらユダヤ人と異邦人の両方から成る油そそがれたクリスチャンは「神のイスラエル」であり,天の王国でイエスと共に支配する希望を抱いています。(ルカ 12:32。ガラテア 6:16。啓示 14:1)次いで,終わりの日に,「ほかの羊」の「大群衆」が姿を現わしてきました。この人々は,楽園となった地で永久に生きる希望を抱いています。あらかじめ数の定められていないこの大勢の人々は,大患難が勃発する前に小さな群れと共になって仕え,それら二つのグループは「一人の羊飼い」のもとにある「一つの群れ」を構成します。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9,10。

      19 神のイスラエルが知らなかった「国民」は,その霊的な国民の呼びかけにどのようにこたえ応じてきましたか。

      19 この大群衆を集め入れる業は,次のイザヤの預言の言葉の中に読み取れます。「見よ,あなたは自分の知らない国民を呼び,あなたを知らなかった国の者たちがまさにあなたのもとに走って来る。あなたの神エホバゆえに,イスラエルの聖なる方のためにである。その方があなたを美しくされるからである」。(イザヤ 55:5)油そそがれた残りの者は,霊的な捕らわれから解き放たれた後の幾年かの間,ハルマゲドン前に大きな「国民」をエホバの崇拝に呼び入れるため自分たちが用いられるということを理解していませんでした。しかし,時の経過とともに,天的な希望を抱かない,心の正直な多くの人々が,油そそがれた者たちと交わり,油そそがれた者たちと同じ熱心さをもってエホバに仕えるようになりました。それら新たに加わった人々は,神の民の美しくされた状態に注目し,エホバがその民の中におられることを悟りました。(ゼカリヤ 8:23)1930年代になると,油そそがれた者たちは,自分たちの中で数を増すそのグループの実体を理解するようになりました。そして,前途にまだ壮大な取り入れの業が控えていることを認識するようになりました。大群衆は急いで神の契約の民と交わろうとしていましたが,それにはもっともな理由がありました。

      20 (イ)わたしたちの時代において,『エホバを尋ね求める』ことが急を要するのはなぜですか。どうすればそうできますか。(ロ)ご自分を尋ね求める人々に,エホバはどのようにおこたえになりますか。

      20 イザヤの時代に,次のような呼びかけがなされました。「あなた方は見いだせるうちにエホバを尋ね求めよ。近くにおられるうちに呼びかけよ」。(イザヤ 55:6)これは,わたしたちの時代において,神のイスラエルを構成する人々にとっても,増大する大群衆にとっても適切な言葉です。エホバの祝福は無条件のものではなく,招待もいつまでも差し伸べられているわけではありません。今こそ,神の恵みを求めるべき時です。エホバの裁きのための定めの時が到来してからでは遅すぎます。それで,イザヤはこう言います。「邪悪な者はその道を,害を加えようとする者はその考えを捨て,エホバのもとに帰れ。神はその者を憐れんでくださる。わたしたちの神のもとに帰れ。神は豊かに許してくださるからである」。―イザヤ 55:7。

      21 イスラエル国民は,父祖たちの宣言した事柄に不忠実であることをどのように示してきましたか。

      21 「エホバのもとに帰れ」という言い回しは,悔い改める必要のある人々がかつては神との関係を有していたことを示唆しています。その表現から思い出されるのは,イザヤの預言のこの部分が,多くの面で,バビロンに捕らわれているユダヤ人にまず適用されるということです。幾世紀も前に,それら捕らわれ人の父祖たちはエホバに従うという決意を宣言し,「エホバを離れて他の神々に仕えるなど,わたしたちには考えられないことです」と言いました。(ヨシュア 24:16)しかし,歴史も示すとおり,その「考えられないこと」が,一度ならず幾度も生じたのです。神の民は,自分たちの側に信仰が欠けていたゆえにバビロンで流刑者となっているのです。

      22 エホバが,ご自分の考えと道は人間の考えと道より高いと言われるのはなぜですか。

      22 民が悔い改めるならどうなるのでしょうか。エホバはイザヤを通して,『豊かに許す』と約束しておられます。そして,こう付け加えておられます。「『あなた方の考えはわたしの考えではなく,わたしの道はあなた方の道ではないからである』と,エホバはお告げになる。『天が地より高いように,わたしの道はあなたの道より高く,わたしの考えはあなたの考えより高いからである』」。(イザヤ 55:8,9)エホバは完全な方であり,その考えと道は達しがたいまでに高いものです。神の憐れみも,わたしたち人間には到底達し得ないレベルにあります。考えてみてください。わたしたちが仲間の人間を許すとしても,それは罪人が罪人を許しているにすぎません。いずれ自分も仲間の人間から許してもらわなければならなくなることを承知しています。(マタイ 6:12)しかしエホバは,ご自身は全く許しを必要としないにもかかわらず,「豊かに」許してくださるのです。まさに,偉大な愛ある親切の神です。そして,エホバは憐れみに動かされて天の水門を開き,心から神のもとに帰る人々に祝福を注がれます。―マラキ 3:10。

      エホバのもとに帰る者たちへの祝福

      23 エホバはどんな例を用いて,ご自分の言葉が必ず成就することを示しておられますか。

      23 エホバはご自分の民にこう約束しておられます。「降り注ぐ雨,また雪は,天から下り,実際に地にしみ込み,ものを生じさせ,芽を出させ,そして,種が種をまく者に,パンがそれを食べる者に実際に与えられなければ,その場所に帰らない。わたしの口から出て行くわたしの言葉も,それと全く同じようになる。それは成果を収めずにわたしのもとに帰って来ることはない。それは必ずわたしの喜びとしたことを行ない,わたしがそれを送り出したことに関して確かな成功を収める」。(イザヤ 55:10,11)エホバの語られる事柄は,すべて必ず成就します。空から降る雨や雪が,地にしみ込んで実りを産み出すという目的を達成するのと全く同じく,エホバの口から出て行く言葉も全面的に頼ることのできるものです。エホバは,約束した事を果たされます。それは絶対確実です。―民数記 23:19。

      24,25 イザヤを通して与えられたエホバの音信に基づいて行動するユダヤ人流刑者たちのために,どんな祝福が用意されていますか。

      24 ですからユダヤ人は,自分たちのためにイザヤを通して預言的に語られた言葉に留意するなら,エホバが約束しておられる救いを必ず得ることになるのです。その結果,大きな喜びを経験することでしょう。エホバはこう述べておられます。「あなた方は歓びをもって出て行き,平安をもって導き入れられる……。山も丘も歓呼の声を上げてあなた方の前で快活になり,野の木もみな手をたたく。いばらのやぶの代わりに,ねずの木が生え出る。刺毛のあるいらくさの代わりに,ぎんばいかが生え出る。そして,それはエホバにとって必ず名高いもの,定めのない時に至るまで存続する,切り断たれることのないしるしとなる」。―イザヤ 55:12,13。

      25 西暦前537年,ユダヤ人流刑者たちは歓びをもって確かにバビロンから出て行きます。(詩編 126:1,2)エルサレムに到着すると,地にいばらのやぶや刺毛のあるいらくさが密生しているのを見ます。そうです,その地は何十年ものあいだ荒廃していたのです。しかし,帰還した神の民は今,喜ばしい変容をもたらす仕事に加われます。ねずの木やぎんばいかのようなそびえ立つ木々が,いばらやいらくさに取って代わります。神の民が「歓呼の声を上げて」仕えるとき,エホバの祝福はだれの目にも明らかになります。あたかも地そのものが歓んでいるかのようになるのです。

      26 今日,神の民はどんな祝福された状態を楽しんでいますか。

      26 1919年,油そそがれたクリスチャンの残りの者は霊的な捕らわれから解放されました。(イザヤ 66:8)今や彼らは,ほかの羊の大群衆と共に,霊的パラダイスで歓びをもって神に仕えています。そして,バビロン的な影響に汚されることなく,恵まれた状態を楽しんでいます。その状態は,エホバにとって「名高いもの」となってきました。残りの者の霊的な繁栄は神のみ名に栄光をもたらし,真の預言の神であるエホバを高めています。エホバが残りの者のために成し遂げた事柄はエホバの神性を実証するとともに,ご自身の言葉に対する神の忠実さ,および悔い改めた人々に対する神の憐れみの証拠となっています。引き続き『金も払わずに,代価も払わずに,ぶどう酒と乳を買う』人々すべてが,いつまでも神に仕えることを歓びとできますように。

      [脚注]

      a 古代バビロンの商取引の記録には,数多くのユダヤ人の名前が残されています。

      b イエスは今でも,弟子を作る業を監督しておられます。(啓示 14:14-16)今日,クリスチャンの男女はイエスを会衆の頭とみなしています。(コリント第一 11:3)そして神の定めの時に,イエスは別の仕方で「指導者また司令官」として行動します。ハルマゲドンの戦いにおいて,神に敵する者たちとの決定的な戦いを指揮するのです。―啓示 19:19-21。

      [234ページの図版]

      霊的に渇いているユダヤ人は,『水のあるところに来て』,『ぶどう酒と乳を買う』よう招かれている

      [239ページの図版]

      イエスは,自分が国たみに対する「指導者また司令官」であることを実証した

      [244,245ページの図版]

      『邪悪な者はその道を捨てよ』

  • 神の祈りの家に集められる異国の者たち
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第17章

      神の祈りの家に集められる異国の者たち

      イザヤ 56:1-12

      1,2 1935年に,興奮を誘うどんな発表が行なわれましたか。それは何の一部をなしていましたか。

      ジョセフ・F・ラザフォードは,1935年5月31日,金曜日,ワシントンDCの大会に集まった大勢の人々を前にして講演を行ないました。ラザフォード兄弟は,使徒ヨハネの幻に登場する「大群衆」あるいは「大いなる群衆」の実体について論じ,話の最高潮でこう言いました。「地上で永遠に生きる希望を抱いておられる皆さんは,ご起立いただけますか」。出席していたある人によると,「聴衆の半数以上が起立しました」。それから話し手は,「ご覧ください! 大いなる群衆です!」と述べました。その場にいた別の人はこう述懐しています。「最初は静まり返りましたが,それから喜びの叫びや歓声がどっとわき上がり,なかなか静まりませんでした」。―啓示 7:9; ジェームズ王欽定訳。

      2 それは,2,700年ほど前に書き記され,現在の聖書でイザヤ 56章にある,一つの預言の継続的な成就における,際立ったひとときでした。イザヤ書の他の多くの預言と同様,この預言も,慰めとなる約束と厳しい警告の両面を含んでいます。この預言は,最初の適用においてはイザヤ自身の時代の神の契約の民に語られていますが,その成就は,幾世紀も後のわたしたちの時代にまで及んでいます。

      救いのための条件

      3 神からの救いを求めるユダヤ人は何をしなければなりませんか。

      3 イザヤ 56章の冒頭には,ユダヤ人に対する訓戒が述べられています。とはいえ,真の崇拝者すべては,イザヤが書いている事柄に留意すべきです。こう書かれています。「エホバはこのように言われた。『あなた方は公正を守り,義にかなったことを行なえ。わたしの救いは今にも到来し,わたしの義は今にも表わし示されるからである。死すべき人間でこれを行なう者は幸いである。それをとらえ,安息日を守ってこれを汚さないようにし,自分の手を守ってどんな悪をも行なわないようにする人間の子は幸いである』」。(イザヤ 56:1,2)神からの救いを求めるユダの住民は,モーセの律法に従い,公正を守り行ない,義にかなった生活を送らなければなりません。なぜでしょうか。エホバご自身が義にかなった方だからです。義を追い求める人は,エホバの恵みを受けるので幸福になります。―詩編 144:15後半。

      4 安息日の遵守がイスラエルにおいて重要なのはなぜですか。

      4 この預言は,安息日の遵守を強調しています。安息日はモーセの律法の重要な条項だからです。実のところ,ユダの住民がついに流刑に処されることになったのは,一つには安息日を軽視したためでした。(レビ記 26:34,35。歴代第二 36:20,21)安息日はエホバとユダヤ人との特別な関係のしるしであり,人は安息日を遵守することによって,その関係を尊重していることを示せます。(出エジプト記 31:13)さらに,イザヤと同時代の人々は,安息日を遵守するなら,エホバが創造者であることを思い出せます。また,自分たちに対する神の憐れみを銘記することもできます。(出エジプト記 20:8-11。申命記 5:12-15)そして,安息日を守ることにより,エホバを崇拝するための,定期的で体系化された取り決めが設けられます。ユダの住民にとって,週に一度,普段の仕事を休むことは,祈りと研究と黙想の機会となるのです。

      5 原則として,クリスチャンは,安息日を守るようにとの助言をどのように当てはめることができますか。

      5 では,クリスチャンの場合はどうでしょうか。安息日を遵守するようにとの励ましは,クリスチャンにも当てはまるのでしょうか。直接には当てはまりません。クリスチャンは律法のもとにはおらず,それゆえ安息日を遵守するよう要求されてはいないからです。(コロサイ 2:16,17)とはいえ,使徒パウロは,忠実なクリスチャンのための「安息の休み」があると説明しています。その「安息の休み」には,救いのためのイエスの贖いの犠牲に信仰を抱くことや,業だけに頼るのをやめることが含まれます。(ヘブライ 4:6-10)ですから,安息日に関するイザヤの預言の言葉は,今日のエホバの僕たちに,救いのための神の取り決めに信仰を抱くことの肝要さを思い起こさせるものとなっています。また,エホバとの親密な関係を培うことや,一貫した崇拝を絶えず行ない続けることの必要性を思い起こさせる良い諭しともなっています。

      異国人と宦官のための慰め

      6 ここでは,どんな二つのグループに注意が向けられていますか。

      6 次にエホバは,エホバに仕えたいと願いながらも,モーセの律法下ではユダヤ人の会衆に加わる資格がない二つのグループに語りかけておられます。こう書かれています。「エホバに連なった異国人は,『エホバはきっとご自分の民からわたしを取り分けるであろう』と言ってはならない。宦官も,『見よ,わたしは乾いた木だ』と言ってはならない」。(イザヤ 56:3)異国人は,イスラエルから断たれることを恐れています。宦官は,自分の名を保つための子供を持てないことを心配しています。どちらのグループも元気を出すべきです。その理由を考える前に,この人々が律法下でイスラエル国民との関係においてどんな立場を有しているかを調べてみましょう。

      7 律法は,イスラエルにいる異国人にどんな制限を課していますか。

      7 無割礼の異国人は,イスラエルの崇拝に加わることから締め出されています。例えば,過ぎ越しにあずかることは許されていません。(出エジプト記 12:43)その土地の法律を甚だしく破らない異国人は公平な扱いを受け,厚遇されますが,イスラエル国民と永続的なきずなを結ぶことはできません。もちろん律法に全面的に従う異国人もおり,そのしるしとして男子は割礼を受けます。そのようにして改宗者となった人は,エホバの家の中庭で崇拝を行なう特権を与えられ,イスラエルの会衆の一員とみなされます。(レビ記 17:10-14; 20:2; 24:22)とはいえ,改宗者にはなっても,エホバがイスラエルと結ばれた契約の正式な当事者ではなく,約束の地に相続地はありません。改宗者でない異国人も,神殿に向かって祈ることができますし,律法にかなった犠牲であれば祭司を通してささげることができるようです。(レビ記 22:25。列王第一 8:41-43)しかしイスラエル人は,そのような異国人と親しく交わるべきではありません。

      宦官は定めのない時に至る名を与えられる

      8 (イ)律法下では,宦官はどうみなされていましたか。(ロ)異教諸国家では,宦官はどのように用いられましたか。「宦官」という語は何を指すことがありますか。

      8 宦官は,ユダヤ人の両親から生まれたとしても,イスラエル国民の正式な一員となることはできません。a (申命記 23:1)聖書時代の一部の異教諸国家では,宦官が特別な地位を占めることがあり,戦争で捕虜となった子供を去勢する習慣もありました。宦官は宮廷の役人に任じられました。「女たちの守護者」,「そばめたちの守護者」,あるいは王妃の従者となることもありました。(エステル 2:3,12-15; 4:4-6,9)イスラエル人がそうした習わしに従ったことを示す証拠や,イスラエルの王に仕えさせるためにそうした宦官が特に求められたことを示す証拠はありません。b

      9 エホバは,身体的な意味での宦官たちに,悲しみを和らげるどんな言葉をかけておられますか。

      9 イスラエルにいる身体的な意味での宦官たちは,まことの神の崇拝への参加を制限されているだけでなく,子をもうけて家名を継がせることができないという大きな屈辱も味わっています。ですから,次の預言の言葉はなんと大きな慰めとなるのでしょう。こう書かれています。「わたしの安息日を守り,わたしの喜びとしたことを選び,わたしの契約をとらえている宦官に,エホバはこのように言われた……。『わたしはわたしの家で,わたしの壁の内側で,彼らに記念物と名を,すなわち息子や娘たちに勝ったものを与えよう。わたしは定めのない時に至る名を,断ち滅ぼされることのない名を彼らに与えるであろう』」。―イザヤ 56:4,5。

      10 宦官の境遇はいつ変化しましたか。その時以降,その人たちにはどんな特権が開かれていますか。

      10 そうです,身体的な意味で宦官であっても,エホバの僕として全面的に受け入れられる妨げとはならない時が来るのです。宦官は,従順であるなら,エホバの家における「記念物」となる場所と,名を持つことになります。それらは,息子や娘たちより勝ったものです。いつそうなるのでしょうか。イエス・キリストの死の後まで待たなければなりません。その時,古い律法契約は新しい契約に,そして肉のイスラエルは「神のイスラエル」に取って代わられました。(ガラテア 6:16)その時以降,信仰を働かせる人々は皆,受け入れられる崇拝を神にささげることができるようになりました。肉体的な優越性や身体的な状態は,もはや重要ではありません。身体的な状態がどうであれ,忠実に忍耐する人々は,「定めのない時に至る名」,「断ち滅ぼされることのない名」を持つようになります。エホバは,そのような人々をお忘れになりません。その名は神の「覚えの書」に記され,その人々は神の定めの時に永遠の命を受けます。―マラキ 3:16。箴言 22:1。ヨハネ第一 2:17。

      異国の者たちが神の民と共に崇拝する

      11 異国の者たちは,祝福を受けるために何をするよう励まされていますか。

      11 では,異国人はどうなのでしょうか。預言はここで再び異国人に注意を向け,エホバは彼らを大いに慰める言葉をかけておられます。イザヤはこう書いています。「エホバに連なって,これに仕え,エホバの名を愛し,その僕になろうとする異国の者たち,安息日を守ってこれを汚さないようにし,わたしの契約をとらえているすべての者,それらの者をわたしはまた,わたしの聖なる山に連れて来て,わたしの祈りの家の中で歓ばせる。彼らの全焼燔の捧げ物とその犠牲は,わたしの祭壇の上で受け入れられるためのものとなる。わたしの家はすべての民のための祈りの家とも呼ばれるからである」。―イザヤ 56:6,7。

      12 かつて,「ほかの羊」に関するイエスの預言はどのように理解されていましたか。

      12 わたしたちの時代に,「異国の者たち」は徐々に姿を現わしてきました。最初の世界大戦より前に,イエスと共に天で支配する希望を抱く人々 ― 今日では神のイスラエルとして識別されている人々 ― を数の点で上回る人々が救いを受ける,ということは理解されていました。聖書の研究者たちは,ヨハネ 10章16節にあるイエスの次の言葉を知っていました。「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」。この「ほかの羊」が地的な級であることは理解されていました。とはいえ,聖書の研究者の大半は,ほかの羊はイエス・キリストの千年統治期間中に姿を現わす,と考えていました。

      13 どんな理由に基づいて,マタイ 25章の羊はこの事物の体制の終結の日に姿を現わすに違いないと結論づけられましたか。

      13 やがて,羊について述べる,関連のある一つの聖句の理解が深まりました。マタイ 25章には,羊とやぎに関するイエスのたとえ話が記録されています。そのたとえ話によると,羊は,イエスの兄弟たちを支持するゆえに永遠の命を受けます。ですから,羊は,キリストの油そそがれた兄弟たちとは異なる別個の級なのです。1923年,米国カリフォルニア州ロサンゼルスの大会で,その羊は,千年期にではなく,この事物の体制の終結の日に姿を現わすに違いない,ということが説明されました。なぜそう言えるのでしょうか。イエスはそのたとえ話を,次のような質問に対する答えの一部として述べておられるからです。「そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。―マタイ 24:3。

      14,15 終わりの時におけるほかの羊の立場に関する理解はどのように深まってゆきましたか。

      14 1920年代,聖書研究者と交わっていた一部の人たちは,自分たちは天への召しを受けていることを示すエホバの霊の証しは得ていないと感じるようになりました。そうではあっても,彼らは至高の神の熱心な僕でした。1931年,「証明」(Vindication)という本が発行され,その人たちの立場がより良く理解されるようになりました。その本は,聖書のエゼキエル書を節ごとに論じた中で,筆記者のインク入れを帯びた「人」の幻を説明しました。(エゼキエル 9:1-11)その幻の中で,この「人」はエルサレムをくまなく回り,そこで行なわれている憎むべき事のために嘆息して泣いている人々の額に印を付けています。この「人」は,イエスの兄弟たち,つまり対型的なエルサレムであるキリスト教世界の裁きの時に地上に生存している油そそがれたクリスチャンの残りの者を表わしています。印を付けられるのは,その時に生きているほかの羊です。幻の中で,その人々は,この背教した都にエホバの刑執行者たちが復しゅうをもたらす際に,死を免れます。

      15 1932年,イスラエルのエヒウ王と,イスラエル人でない支持者エホナダブとが演じた預言的なドラマに関する理解が深まりました。エホナダブがエヒウと共に行ってバアル崇拝の一掃を支持したのと同じく,これらほかの羊がどのようにキリストの油そそがれた兄弟たちを支持して行動するのかが分かるようになったのです。そして最後に,1935年,この事物の体制の終わりの時に生きているほかの羊が,使徒ヨハネの幻に登場する大群衆である,ということが理解されました。この理解は前述のワシントンDCの大会で初めて説明され,ジョセフ・F・ラザフォードは,地的な希望を抱く人々が「大いなる群衆」であると指摘しました。

      16 「異国の者たち」にはどんな特権と責任が与えられますか。

      16 こうして,「異国の者たち」がこの終わりの日にエホバの目的に関して大きな役割を果たす,ということが徐々に明らかになりました。その者たちは,エホバを崇拝するために神のイスラエルのもとにやって来ます。(ゼカリヤ 8:23)そして,その霊的な国民と共に,受け入れられる犠牲を神にささげ,安息の休みに入ります。(ヘブライ 13:15,16)さらに,エルサレムの神殿のように「あらゆる国民のための祈りの家」である,神の霊的な神殿で,崇拝を行ないます。(マルコ 11:17)イエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白く」します。そして,エホバに絶えず仕え,「昼も夜も神に神聖な奉仕をささげ」ます。―啓示 7:14,15。

      17 現代の異国の者たちは,どのようにして新しい契約をとらえますか。

      17 それら現代の異国の者たちは新しい契約をとらえますが,それは,神のイスラエルと交わることによって,新しい契約を通してもたらされる益や祝福にあずかる,という意味です。その契約の当事者ではありませんが,契約に付随する律法に心から従います。そのようにして,エホバの律法を心の内に置かれ,その者たちは,天の父また至上の主権者であるエホバを知るようになります。―エレミヤ 31:33,34。マタイ 6:9。ヨハネ 17:3。

      18 終わりの時に,どんな集める業が成し遂げられつつありますか。

      18 イザヤの預言はさらにこう述べています。「イスラエルの追い散らされた者たちを集めている,主権者なる主エホバのお告げになったことはこうである。『わたしは彼の既に集められた者たちに加えて,他の者たちをも彼のもとに集めるであろう』」。(イザヤ 56:8)終わりの時に,エホバは,「イスラエルの追い散らされた者たち」,つまり油そそがれた残りの者に属する人々を集めてこられました。それに加えて,他の者たち,つまり大群衆に属する人々も集めておられます。それらの人たちは共に,エホバと,その即位した王キリスト・イエスの監督のもとで,平和と調和のうちに崇拝を行なっています。キリストの治めるエホバの政府に対する忠節のゆえに,りっぱな羊飼いはその人たちを,喜びに満ちる一致した群れとしてこられました。

      盲目の見張り,声を上げない犬

      19 野や森林の野生動物に,どんな招待が差し伸べられていますか。

      19 ここまでは励みを与える温かな言葉でしたが,今度は印象的で,ショッキングとも言える言葉に変わっています。エホバは異国人や宦官に対して憐れみ深く行動しようとしておられます。それに対し,神の会衆の成員ととなえる多くの人が有罪を宣告されており,裁きを受けることになっています。それどころか,まともな埋葬にさえ値せず,飢えた獣にむさぼり食われるしかありません。それゆえ,こう書かれています。「原野のすべての野生動物よ,森林にいるすべての野生動物よ,食べに来い」。(イザヤ 56:9)これらの野生動物はどんな宴にあずかろうとしているのでしょうか。その点は,預言が説明しています。同時に,その預言は,来たるべきハルマゲドンの戦いにおいて神に敵対する者に臨む結末も連想させているのかもしれません。その死体は放置されて,天の鳥たちにむさぼり食われます。―啓示 19:17,18。

      20,21 宗教指導者たちは,どんな欠陥のゆえに,霊的な導き手としての用をなしませんか。

      20 預言はこう続けています。「彼の見張りの者たちは盲目である。彼らはだれひとり気づかなかった。彼らは皆,口のきけない犬である。ほえることもできずに,あえぎ,身を横たえ,まどろむことを愛する。しかも,魂の願望の強い犬であり,満足することを知ってはいない。彼らはまた,理解することを知らないでいる羊飼いである。彼らはみな自分の道に向かった。各々自分の境界から不当な利得を求めて。『さあ,みんな! わたしにぶどう酒を取らせよ。酔わせる酒をたっぷり我々に飲ませよ。そして明日は必ず今日と同じようになる。しかも,はるかに大いなるものとなる』」。―イザヤ 56:10-12。

      21 ユダの宗教指導者たちは,エホバを崇拝していると公言します。神の「見張りの者」であるととなえているのです。しかし,彼らは霊的に盲目で,声を上げず,眠気を催しています。見張りを続けて危険に対する警告を発することができないのであれば,何の役に立つでしょうか。そうした宗教上の見張りの者たちは理解力がなく,羊のような人々に霊的な導きを与えることができません。その上,彼らは腐敗しています。飽くことのない利己的な願望を抱いています。エホバの導きに従う代わりに,自分の道を求め,不正な利得を追求し,酔わせる酒にふけり,他の人にも同じことをさせようとしています。何も心配しなくてよいと人々に言うほど,迫り来る神の裁きにむとんちゃくです。

      22 イエスの時代の宗教指導者たちは,どのように古代ユダの宗教指導者たちと似ていますか。

      22 イザヤは,自分の預言の中ですでに同様の比喩的表現を用いて,ユダの不忠実な宗教指導者たちが霊的に酔い,うとうとし,理解に欠けている様子を描写しています。彼らは,人間の伝統という重荷を民に課し,宗教的な偽りを語り,神に目を向ける代わりに,助けを求めてアッシリアに依り頼みました。(列王第二 16:5-9。イザヤ 29:1,9-14)明らかに,何も学んでいません。悲しいことに,1世紀にも,同じような指導者たちがいました。神ご自身のみ子によって伝えられた良いたよりを受け入れるどころか,そのイエスを退け,死に至らせるための陰謀を巡らしました。イエスは,公然と彼らを「盲目の案内人」と呼び,「盲人が盲人を案内するなら,二人とも穴に落ち込むのです」と言われました。―マタイ 15:14。

      今日の見張りの者たち

      23 宗教指導者に関するペテロのどんな預言が成就してきましたか。

      23 使徒ペテロは,偽教師も現われてクリスチャンを惑わすであろうと警告しました。こう書いています。「[イスラエルの]民の間には偽預言者も現われました。あなた方の間に偽教師が現われるのもそれと同じです。実にこれらの人々は,破壊的な分派をひそかに持ち込み,自分たちを買い取ってくださった所有者のことをさえ否認し,自らに速やかな滅びをもたらすのです」。(ペテロ第二 2:1)そうした偽教師の偽りの教えや分派主義はどんな結果を生んできたでしょうか。キリスト教世界です。同世界の今日の宗教指導者たちは,自分たちの政治上の友に神の祝福を祈るとともに,明るい将来を約束します。キリスト教世界の宗教指導者たちが霊的な事柄に関して盲目で,声を上げず,眠っていることは明らかになっています。

      24 霊的イスラエルと異国の者たちの間にはどんな一致が存在しますか。

      24 しかしエホバは,幾百万という数の異国の者を連れて来て,大いなる霊的な祈りの家で神のイスラエルの最後の者たちと共に崇拝を行なわせておられます。それら異国の者たちは,国も人種も言語も様々ですが,互いに,また神のイスラエルと一致しています。また,イエス・キリストを通してエホバから来る救い以外に救いはないことを確信し,エホバへの愛を動機として,油そそがれたキリストの兄弟たちに加わり,声を上げて信仰を表明しています。そして,霊感を受けた使徒が記した次の言葉に大きな慰めを見いだしています。「その『あなたの口の中にある言葉』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです」。―ローマ 10:9。

      [脚注]

      a 「宦官」という語は,去勢したかどうかにかかわりなく,廷臣を指すようにもなりました。フィリポがバプテスマを施したエチオピア人は,改宗者であった ― 無割礼の非ユダヤ人に道が開かれる前にバプテスマを受けた ― ようですから,この意味での宦官であったに違いありません。―使徒 8:27-39。

      b エレミヤを助け出し,ゼデキヤ王に直接近づくことのできたエベド・メレクも,宦官と呼ばれています。その呼び名は,彼が体の一部を切り取られていたというより,廷臣であったことを示しているようです。―エレミヤ 38:7-13。

      [250ページの図版]

      安息日は,祈りと研究と黙想の機会となった

      [256ページの図版]

      ほかの羊の立場は,1935年のワシントンDCでの大会において明確に説明された(下はバプテスマの様子,右はプログラム)

      [259ページの図版]

      野生動物は宴に招かれている

      [261ページの図版]

      異国の者たちと神のイスラエルは互いに一致している

  • エホバは,へりくだった者たちの霊を生き返らせる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第18章

      エホバは,へりくだった者たちの霊を生き返らせる

      イザヤ 57:1-21

      1 エホバはどんな保証をお与えになりましたか。その言葉から,どんな質問が生じますか。

      「高く高大な方,永久に住んでおられ,その名の聖なる方はこのように言われた。『わたしは高みに,聖なる場所に住み,また,霊の打ちひしがれた,へりくだった者と共に住み,へりくだった者たちの霊を生き返らせ,打ちひしがれた者たちの心を生き返らせる』」。(イザヤ 57:15)預言者イザヤは西暦前8世紀にこのように書きました。ユダでどんなことが起きていたために,この音信が大きな励みとなったのでしょうか。霊感によるこの言葉は,今日のクリスチャンにとってどのように助けとなりますか。イザヤ 57章を考察すると,そうした質問の答えが得られます。

      「あなた方は,ここに近寄れ」

      2 (イ)イザヤ 57章の言葉はどの時代に当てはまるようですか。(ロ)イザヤの時代の義なる者たちはどんな状況にありますか。

      2 イザヤの預言のこの部分は,イザヤ自身の時代に当てはまるようです。その時代に,悪がどれほどはびこっていたかに注目してください。「義なる者が滅びうせても,それを心に留める者はだれもいない。また,愛ある親切の人々が死者のもとに集められているのに,義なる者が集め取られたのが災いのためであることをだれも悟らない。彼は平安に入り,彼らは自分の寝床で休む。正直に歩んでいる者はだれもが」。(イザヤ 57:1,2)義人が倒れても,だれも気にしません。その人の時ならぬ死にだれも気づきません。その人は死の眠りに就くことによってようやく平安を得,不敬虔な人々によって加えられる苦しみから解放され,災いを免れるのです。神の選ばれた国民が,嘆かわしい状態に陥っています。とはいえ,忠実を保つ人々は,エホバが事態をご覧になるだけでなく,自分たちを支えてくださる,ということを知って,大いに励まされるに違いありません。

      3 エホバはユダの邪悪な世代に向かって何と述べておられますか。なぜですか。

      3 エホバは次のように述べて,ユダのこの邪悪な世代を呼び寄せておられます。「あなた方は,ここに近寄れ。女予言術者の子ら,姦淫をする者や売春を行なう女の胤よ」。(イザヤ 57:3)彼らは,予言術者の子ら,姦淫する者や売春婦の子孫などという,恥ずべき呼び名に値することをしてきました。彼らが奉じる偽りの崇拝には,偶像礼拝や心霊術といった嫌悪すべき行為,および種々の不道徳な性的慣行が含まれています。それゆえエホバは,それら罪人たちにこう問いかけておられます。「あなた方はだれのことに関して陽気に時を過ごすのか。だれに向かって口を大きく開け,舌を突き出しているのか。あなた方は違犯の子供,偽りの胤ではないか。大きな木々の間で,生い茂ったすべての木の下で情欲をあおり,大岩の裂け目の下の奔流の谷で子供をほふる者たちではないか」。―イザヤ 57:4,5。

      4 ユダの邪悪な者たちは,どんな罪を負っていますか。

      4 ユダの邪悪な者たちは,衝撃的な異教の崇拝を公然と行ない,『陽気に時を過ごして』います。自分たちを正すために遣わされた神の預言者たちを軽蔑してあざけり,舌を突き出すという恥知らずで不敬な身振りをします。アブラハムの子供であるにもかかわらず,反逆的な歩みをするゆえに,違犯の子供,偽りの胤となっています。(イザヤ 1:4; 30:9。ヨハネ 8:39,44)田園地帯の大きな木々の間に出て行き,偶像礼拝的な崇拝をして宗教的熱情を燃え上がらせています。しかも,なんと残虐な崇拝なのでしょう。忌むべき歩みのゆえにエホバによってその地から追われた諸国民のように,我が子をほふることまでしています。―列王第一 14:23。列王第二 16:3,4。イザヤ 1:29。

      石に飲み物の捧げ物を注ぎ出す

      5,6 (イ)ユダの住民は,エホバを崇拝するよりも何をすることを選びましたか。(ロ)ユダでは偶像崇拝が,どれほど露骨に,また広範に行なわれていますか。

      5 ユダの住民がいかに深く偶像礼拝に陥っているかに注目してください。「あなたの受け分は奔流の谷の滑らかな石と共にあった。それらが ― それらがあなたに割り当てられた分であった。しかも,あなたはそれらに飲み物の捧げ物を注ぎ出し,供え物をささげたのだ。それらのものによってわたしは自分を慰めるであろうか」。(イザヤ 57:6)ユダヤ人は,神の契約の民であるにもかかわらず,神を崇拝する代わりに,川床から拾ってきた石で神々をこしらえています。ダビデはエホバが自分の受け分であると言明しましたが,これら罪人たちは,自分たちに割り当てられた分として,命のない石の偶像のほうを選び,それらに飲み物の捧げ物を注ぎ出しています。(詩編 16:5。ハバクク 2:19)神のみ名を負う民の行なうそのようなゆがんだ崇拝に,エホバがどんな慰めを見いだせるというのでしょう。

      6 ユダは,大きな木々の下や奔流の谷,丘や都市など,至る所で偶像礼拝を行なっています。とはいえ,エホバはすべてをご覧になっており,イザヤを通してユダの堕落を暴き,こう言われます。「高く,そびえ立つ山の上にあなたは寝床を据えた。あなたはそこにも犠牲をささげるために上って行った。そして,扉と戸柱の後ろにあなたの記念を据える」。(イザヤ 57:7,8前半)ユダは,霊的に汚れた寝床を高き所に設け,そこで異国の神々に犠牲をささげています。a 個人の家にも,扉と戸柱の後ろに偶像があります。

      7 ユダはどれほど熱心に不道徳な崇拝を行なっていますか。

      7 どうしてユダは汚れた崇拝にそこまでのめり込んでしまったのか,と不思議に思えるかもしれません。何かの強い力によって,無理やりエホバを捨てさせられたのでしょうか。そうではありません。自ら進んで,いそいそとそうしたのです。エホバはこう述べておられます。「あなたはわたしから離れて,自分をあらわにしては上って行った。あなたは自分の寝床を広くした。そして自分のために彼らと契約を結ぶようになった。あなたは彼らと寝床を共にすることを愛した。あなたは男根を見た」。(イザヤ 57:8後半)ユダは偽りの神々と契約を結び,それらの神々との不義の関係を愛しています。とりわけ,それらの神々の崇拝の特色となっている不道徳な性的慣行 ― 恐らく陰茎像の使用も含まれる ― を愛しているのです。

      8 特にどの王の治世中,偶像礼拝がユダにはびこりましたか。

      8 この甚だしく不道徳で残虐な偶像崇拝の描写は,ユダの幾人かの邪悪な王たちについてわたしたちが知っていることと符合します。例えばマナセは,高き所を築き,バアルのための祭壇を設け,神殿の二つの中庭に偽りの宗教の祭壇を設置しました。自分の息子たちに火の中を通らせ,魔術を行ない,占いを用い,心霊術的な慣行を奨励しました。マナセ王はさらに,自分の造った聖木の彫像をエホバの神殿の中に置きました。b 『エホバが滅ぼし尽くされた諸国民に勝って悪いこと』を行なうようユダをたぶらかしたのです。(列王第二 21:2-9)イザヤ 1章1節にはマナセの名は挙げられていませんが,一説によれば,マナセはイザヤを死に処しました。

      『あなたは使節を送りつづけた』

      9 ユダが使節を「遠くに」送るのはなぜですか。

      9 ユダの違犯は,偽りの神々に仕えることだけにとどまりません。エホバはイザヤを代弁者として用い,こう言われます。「あなたは油を携えてメレクの方に下って行き,あなたの塗り油を満ちあふれさせていった。そして使節を遠くに送りつづけて,物をシェオルに低めた」。(イザヤ 57:9)不忠実なユダ王国は,ヘブライ語で「王」を意味する「メレク」― 強大な異国の王と思われる ― のもとへ下って行き,油と香りの良い塗り油で象徴されている高価で魅力的な贈り物を献上します。ユダは,遠方の地へも特使を送ります。なぜでしょうか。異邦諸国民を説得して,自分と政治同盟を結ばせるためです。エホバに背を向け,異国の王たちに依り頼んでいるのです。

      10 (イ)アハズ王はアッシリア王と同盟を結ぼうとして,どうしますか。(ロ)ユダはどのように「物をシェオルに低め」ますか。

      10 アハズ王の時代に,そうしたことが生じました。ユダの不忠実な王アハズはイスラエルとシリアの同盟に脅威を感じ,アッシリアのティグラト・ピレセル3世に使者を送り,こう言います。「私はあなたの僕で,あなたの子です。上って来て,私に向かって立ち上がっているシリアの王のたなごころと,イスラエルの王のたなごころから私を救ってください」。アハズはわいろとして銀と金を送り,それにこたえてアッシリア王はシリアへの猛攻撃を開始します。(列王第二 16:7-9)異邦諸国民と取り引きする際,ユダは「シェオルの深み」(アメリカ訳)にまで身をかがめます。そうした取り引きのゆえに,ユダはやがて死ぬ,つまり王をいただく独立国家としては存在しなくなるのです。

      11 ユダは,根拠のないどんな安心感を抱いていることを表わしていますか。

      11 エホバはユダに向かって,さらにこう言われます。「あなたは自分の多くの道で労した。あなたは,『望みはない!』とは言わなかった。あなたは自分の力が回復するのを見いだした。それゆえに,あなたは病気にならなかったのである」。(イザヤ 57:10)そうです,ユダ国民は,自らの背教的な道において大いに労苦してきましたが,努力しても望みがないことを理解していません。それどころか,勘違いをして,自分自身の力で成功を収めていると信じ込んでいます。自分は活力にあふれ,健康であると感じています。なんと愚かなのでしょう。

      12 キリスト教世界には,ユダと似たどんな状況が見られますか。

      12 今日,イザヤの時代のユダを連想させるような行ないをしている組織があります。キリスト教世界は,イエスの名を用いながらも諸国家との同盟を追い求め,自らの崇拝の場所を偶像で満たしてきました。その信奉者たちは,偶像礼拝に関係した像を自宅に置くことさえしています。キリスト教世界は,国家間の戦争において若者たちを犠牲としてきました。こうしたことすべては,まことの神にとって極めて不快なことであるに違いありません。その方はクリスチャンに,「偶像礼拝から逃げ去りなさい」と命じておられるのです。(コリント第一 10:14)キリスト教世界は,政治に関与することにより,『地の王たちと淫行を犯して』きました。(啓示 17:1,2)そのうえ,国際連合の主要な支持者ともなっています。この宗教上の娼婦の前途には何が待ち受けているでしょうか。では,その娼婦の原型である,とりわけ首都エルサレムに代表されるような不忠実なユダに対して,エホバは何と言われるでしょうか。

      「あなたの集めたものがあなたを救い出すことはない」

      13 ユダはどんな「うそ」をついていますか。ユダはエホバの辛抱にどう反応していますか。

      13 「あなたはだれを怖がり,恐れはじめたので,うそをつくようになったのか」とエホバは問いかけておられます。まさに当を得た質問です。ユダは,エホバに対する健全で敬虔な恐れを全く示していません。もしそうした恐れがあったなら,うそをつく者の国家,偽りの神々の崇拝者とはならなかったことでしょう。エホバは続けてこう言われます。「あなたが思い起こしたのはわたしではなかった。あなたは何も心に留めなかった。わたしは沈黙を守り,事を隠していなかったか。それで,あなたはこのわたしをも恐れなかったのである」。(イザヤ 57:11)エホバは沈黙を守り,すぐさまユダに処罰を与えたりはなさいませんでした。ユダはそのことを感謝しているでしょうか。いいえ,それどころか,神の堪忍を無関心さの表われとみなしています。神への恐れの気持ちを全く失っているのです。

      14,15 エホバは,ユダの業と「集めたもの」について何と述べておられますか。

      14 しかし,神が辛抱強さを示す期間はやがて終わります。その時を見越して,エホバはこう言明しておられます。「わたしがあなたの義とあなたの業を,それらがあなたを益することがないことを告げ知らせるであろう。あなたが助けを求めて叫ぶとき,あなたの集めたものがあなたを救い出すことはない。かえって,風がそれらをことごとく運び去るであろう。呼気がそれらを取り去るのである」。(イザヤ 57:12,13前半)エホバは,ユダの見せかけの義を暴かれます。ユダの偽善的な業は何の益にもなりません。「集めたもの」,つまり取りそろえた偶像がユダを救い出すことはありません。災いが臨む時,ユダの依り頼む神々は,風の一吹きで吹き飛ばされてしまいます。

      15 エホバの言葉は西暦前607年に成就します。その時,バビロニアの王ネブカドネザルはエルサレムを破壊し,神殿を焼き,住民の大半をとりこにします。「こうしてユダはその地から流刑の身となって去って行(きまし)た」。―列王第二 25:1-21。

      16 キリスト教世界および「大いなるバビロン」の残りの部分はどうなりますか。

      16 同様に,キリスト教世界が取りそろえた多くの偶像も,エホバの怒りの日に同世界を救い出すことはありません。(イザヤ 2:19-22。テサロニケ第二 1:6-10)キリスト教世界は,偽りの宗教の世界的集合体である「大いなるバビロン」の残りの部分と共に滅ぼし尽くされます。象徴的な緋色の野獣とその十本の角は,大いなるバビロンを「荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くす」でしょう。(啓示 17:3,16,17)わたしたちは,「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい」という命令に従って本当によかったのではないでしょうか。(啓示 18:4,5)大いなるバビロンとその道に戻ることなど決してありませんように。

      『わたしのもとに避難する者は土地を受け継ぐ』

      17 『エホバのもとに避難する者』には何が約束されていますか。その約束はいつ実現しますか。

      17 では,イザヤの預言の続きの言葉については何と言えますか。「わたしのもとに避難する者は土地を受け継ぎ,わたしの聖なる山を所有する」。(イザヤ 57:13後半)ここでエホバはだれに向かって語っておられるのでしょうか。来たるべき大変動の先を見通し,ご自分の民のバビロンからの解放と,ご自分の聖なる山エルサレムにおける清い崇拝の復興とを予告しておられるのです。(イザヤ 66:20。ダニエル 9:16)忠実を保っているユダヤ人は皆,この言葉から大いに元気づけられるに違いありません。さらに,エホバはこう言われます。「人は必ず言うであろう,『土を盛り上げよ,あなた方は土を盛り上げよ! 道を整えよ。わたしの民の道から障害物を取り除け』と」。(イザヤ 57:14)神がご自分の民を救出する時には,道は整備され,障害物もすべて取り除かれているでしょう。―歴代第二 36:22,23。

      18 エホバが高大な方であることは,どのように描写されていますか。とはいえ,エホバはどんな愛ある関心を示しておられますか。

      18 預言者イザヤは,ここでいよいよ,この章の冒頭に引用されている言葉を述べます。「高く高大な方,永久に住んでおられ,その名の聖なる方はこのように言われた。『わたしは高みに,聖なる場所に住み,また,霊の打ちひしがれた,へりくだった者と共に住み,へりくだった者たちの霊を生き返らせ,打ちひしがれた者たちの心を生き返らせる』」。(イザヤ 57:15)エホバの王座は天の最も高いところにあります。それより高い,あるいは高大なところはありません。エホバがそこからすべてのことを見ておられる,すなわち,邪悪な者たちの罪だけでなく,神に仕えようとする者たちの義の行為も見ておられるということを考えると,本当に慰められます。(詩編 102:19; 103:6)そのうえエホバは,抑圧された人々のうめきを聞き,打ちひしがれた人々の心を生き返らせてくださいます。この言葉に,悔い改めた古代のユダヤ人は心を動かされたに違いありません。今日のわたしたちも心を動かされるはずです。

      19 エホバの義憤はいつやみますか。

      19 エホバがさらに述べておられる事柄からも慰めを得られます。「わたしは定めのない時に至るまで争うのでもなく,果てしなく憤るのでもない……。わたしゆえに霊も弱まる。わたしが造った息ある創造物が」。(イザヤ 57:16)仮に,エホバの憤りが果てしなくいつまでも続くとしたら,神の創造物はひとつとして生き延びることができないでしょう。しかし,幸いなことに,神の義憤は限りなく続くわけではありません。目的を遂げると,やむのです。霊感によるこの洞察は,創造物に対するエホバの愛をわたしたちが深く認識する助けになります。

      20 (イ)エホバは,悔い改めない悪行者をどのように扱われますか。(ロ)エホバは,悔恨の情を抱いている人をどのように慰めてくださいますか。

      20 続くエホバの言葉から,さらに多くの洞察を得ることができます。エホバはまず,こう述べておられます。「わたしは彼の不当な利得の非道さに憤り,彼を打ち,わたしの顔を覆い隠していった。その間,わたしは憤っていた。しかし,彼は背信の者としてその心の道を歩みつづけた」。(イザヤ 57:17)貪欲のゆえに犯された悪は,必ず神の憤りを招きます。人が心の中で背信の者であり続ける限り,エホバの憤りも続きます。では,背信の者が懲らしめにこたえ応じるならどうなるでしょうか。エホバは,ご自分が愛と同情心に動かされてどのように行動するかを,こう述べておられます。「わたしは彼の道を見た。わたしは彼をいやし,導き,彼と彼の嘆き悲しむ者たちとに慰めをもって償いはじめた」。(イザヤ 57:18)エホバは懲らしめを施した後,悔恨の情を抱いている人をいやし,その人,およびその人と共に嘆き悲しむ人々を慰めてくださいます。それゆえにこそ,西暦前537年にユダヤ人は帰還できたのです。ユダが二度と再び,ダビデの家系の王のもとにある独立王国になれなかったのは事実です。それでも,エルサレムの神殿は再建され,真の崇拝も復興しました。

      21 (イ)エホバは1919年に,油そそがれたクリスチャンの霊をどのように生き返らせましたか。(ロ)わたしたち一人一人は,どんな特質を培うべきですか。

      21 「高く高大な方」エホバは,1919年,油そそがれた残りの者の福祉にも気遣いをお示しになりました。残りの者が,悔恨の情の伴う謙遜な霊を抱いていたので,大いなる神エホバは,その者たちの苦悩に優しく目を留め,バビロン的な捕らわれから救出なさいました。つまずきのもととなるものをすべて取り除き,残りの者を自由にして,神に清い崇拝をささげることができるようにされました。こうして,イザヤを通して語られたエホバの言葉が,その時に成就しました。また,その言葉には,わたしたち各自に当てはまるとこしえの原則が含まれています。エホバに受け入れられるのは,思いのへりくだった人々のささげる崇拝だけなのです。そして,神の僕が罪をおかすようなことがあるなら,その人はすぐに自分のとがを認め,戒めを受け入れ,歩みを正さなければなりません。エホバは謙遜な者はいやして慰めるが,『ごう慢な者には敵する』方である,ということを決して忘れないようにしましょう。―ヤコブ 4:6。

      『遠くにいる者にも近くにいる者にも平和がある』

      22 エホバは,(イ)悔い改めた者たちの,(ロ)また邪悪な者たちの,どんな将来を予告しておられますか。

      22 エホバは,悔い改めた者たちの将来と,邪悪な歩みをやめようとしない者たちの将来とを対比させて,こう断言されます。「わたしは唇の実を創造しているのである。遠くにいる者にも近くにいる者にも長く続く平和があり,わたしは彼をいやす……。しかし,邪悪な者たちは,静まることのできないときの,激しく揺れ動いている海のようであり,その水は絶えず海草や泥を打ち上げる。邪悪な者たちに平和はない」。―イザヤ 57:19-21。

      23 唇の実とは何ですか。エホバは,その実をどのように「創造して」おられますか。

      23 唇の実とは,神にささげられる賛美の犠牲,つまりみ名の公の宣明です。(ヘブライ 13:15)エホバは,その公の宣明をどのように「創造して」おられるのでしょうか。賛美の犠牲をささげるには,人はまず神について学び,次いで神に信仰を持たなければなりません。神の霊の実である信仰は,聞いた事柄を他の人に語るようその人を動かします。言い換えると,その人は公の宣言を行なうのです。(ローマ 10:13-15。ガラテア 5:22)とはいえ,結局のところ神の賛美を語り告げる任務を僕たちに与えておられるのはエホバである,という点も忘れてはなりません。そして,ご自分の民を解放し,その民がそうした賛美の犠牲をささげられるようになさったのはエホバです。(ペテロ第一 2:9)だからこそ,エホバがこの唇の実を創造なさると言えるのです。

      24 (イ)だれが神の平和を知るようになりますか。その結果,どうなりますか。(ロ)だれは平和を知るようになりませんか。結果として,その者たちはどうなりますか。

      24 ユダヤ人は,エホバへの賛美を歌いながら故国に帰還する時,まさに感動的な唇の実をささげることになるに違いありません。「遠くに」― いまだ帰還を待ちつつ,ユダから遠く離れた地に ― いようと,「近くに」― すでに故国に ― いようと,神の平和を知って喜びに満たされるに違いありません。全く対照的に,邪悪な者たちの状況はそれとは大きく異なっています。エホバの施される懲らしめにこたえ応じない者すべてには,つまり,だれであろうと,どこにいようと,邪悪な者には全く平和がありません。ざわめく海のように常に動揺し,唇の実ではなく,「海草や泥」を,つまりあらゆる汚れたものを絶えず生み出すのです。

      25 遠くや近くにいる大勢の人々が,どのように平和を知るようになっていますか。

      25 今日でも,エホバの崇拝者たちは至る所で神の王国の良いたよりを宣明しています。遠くや近くの230を超える国や地域にいるクリスチャンは,唇の実をささげ,唯一まことの神の賛美を鳴り響かせています。その賛美の歌声は「地の果てから」聞こえます。(イザヤ 42:10-12)その声を聞いてこたえ応じる人々は,神の言葉 聖書の真理を受け入れています。そのような人々は,「平和を与えてくださる神」に仕えることから得られる平和を知るようになっています。―ローマ 16:20。

      26 (イ)邪悪な者の前途には何が待ち受けていますか。(ロ)柔和な者たちにはどんな壮大な約束が与えられていますか。わたしたちはどんな決意を抱くべきですか。

      26 邪悪な者たちが王国の音信に留意しないのは事実です。しかし,やがて,義なる者たちの平和を乱すことはできなくなります。「ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる」とエホバは約束しておられます。エホバを避難所とする人々は,すばらしい仕方で地を受け継ぎます。「柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだす」のです。(詩編 37:10,11,29)その時,この地球はなんと魅力的な場所となるのでしょう。わたしたち皆が,神の平和を決して失うまいと決意し,神への賛美をとこしえに歌うことができますように。

      [脚注]

      a 「寝床」という語は,祭壇,あるいは異教の崇拝の場所を指しているようです。寝床という呼び方は,そうした崇拝が霊的な売春であることを連想させます。

      b 聖木は女性の本質を表わし,聖柱は陰茎像であったようです。不忠実なユダの住民は,その両方を用いました。―列王第二 18:4; 23:14。

      [263ページの図版]

      ユダは,生い茂ったすべての木の下で不道徳な崇拝を行なう

      [267ページの図版]

      ユダは国中に祭壇を築く

      [275ページの図版]

      「わたしは唇の実を創造している」

  • 偽善が暴かれる!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第19章

      偽善が暴かれる!

      イザヤ 58:1-14

      1 イエスとエホバは偽善をどうみなされますか。イザヤの時代に,どんな偽善が見られますか。

      「確かに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」。イエスは,当時の宗教指導者たちにそう言いました。(マタイ 23:28)イエスが偽善を断罪したことは,天のみ父の見方を反映するものでした。イザヤ 58章の預言は,特にユダではびこっている偽善に注意を向けています。闘争,抑圧,暴力行為はごく日常的であり,安息日を守ることは,無意味な儀式と化しています。民はエホバにしるしばかりの奉仕を行ない,不誠実な断食によって信心深さを見せつけています。エホバが民の実態を暴かれるのも当然です。

      『民にその罪を告げよ』

      2 イザヤは,エホバの音信を宣明する際,どんな精神を示しますか。今日,イザヤに似ているのはだれですか。

      2 エホバはユダの行状に嫌悪を感じてはおられますが,ユダ国民の悔い改めを促す,心からの訴えかけも行なっておられます。とはいえ,ご自分の戒めが不明瞭になることは望まれません。それで,イザヤにこうお命じになります。「のどの限りに叫べ。差し控えるな。あなたの声を角笛のように上げ,わたしの民にその反乱を,ヤコブの家にその罪を告げよ」。(イザヤ 58:1)イザヤは,エホバの言葉を大胆にふれ告げるなら民の敵意を受けるかもしれませんが,しりごみしません。「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と述べた時に示したのと同じ献身の精神を,今でも抱いているのです。(イザヤ 6:8)神の言葉を宣べ伝え,宗教上の偽善を暴くという,同様の任務を帯びている現代のエホバの証人にとって,イザヤはなんと立派な忍耐の模範なのでしょう。―詩編 118:6。テモテ第二 4:1-5。

      3,4 (イ)イザヤの時代の民は,どのように外見を取り繕っていますか。(ロ)ユダは現実にはどんな状況にありますか。

      3 イザヤの時代の民は,表向きはエホバを求め,義にかなった神の裁きに喜びを言い表わしています。エホバの言葉はこう述べています。「日ごとに彼らが求めたのはわたしであり,彼らはわたしの道についての知識に喜びを言い表わすのであった。義を行ない,自分たちの神の公正を捨てたことのない国民のように。すなわち,彼らは義にかなった裁きを終始わたしに求め,自分たちが喜びを抱いた神に近づいたのである」。(イザヤ 58:2)民がエホバの道に対して抱いていると唱えるこの喜びは,純粋なものでしょうか。いいえ,違います。民は『義を行なった国民のよう』ではありますが,その類似点は表面的なものにすぎません。この国民は,実際には『自分たちの神の公正を捨てて』いるのです。

      4 この状況は,後に預言者エゼキエルに啓示された状況とよく似ています。エホバがエゼキエルにお告げになったところによると,ユダヤ人は互いに,「どうか,来て欲しい。エホバから出る言葉がどんなものか聞きなさい」と言い合っていました。しかし,神はエゼキエルに,その人々の不誠実さをこう警告なさいました。「彼らは……あなたのもとに入って来(る)であろう。彼らは確かにあなたの言葉を聞くが,これを行なわないであろう。彼らは口でみだらな欲望を言い表わし,その心は不当な利得を慕って行くからである。そして,見よ,あなたは彼らにとって官能的な愛の歌のようであり,声がきれいで,上手に弦楽器を奏でる者のようだ。そして彼らは確かにあなたの言葉を聞くが,これを行なう者はだれもいない」。(エゼキエル 33:30-32)イザヤと同時代の人々は,常にエホバを求めているとも主張しますが,神の言葉に従ってはいません。

      偽善的な断食

      5 ユダヤ人は神の恵みを得ようとして何を行ないますか。それに対して,エホバはどう反応されますか。

      5 ユダヤ人は,神の恵みを得ようとして形式的な断食を行ないますが,かえって,その上辺だけの信心深さによってエホバに疎んじられます。彼らは,当惑したかのように,こう尋ねます。「わたしたちが断食したのに,どうしてあなたはご覧にならなかったのですか。わたしたちが魂を苦しめたのに,どうしてあなたは気に留めようとはなさらなかったのですか」。それに対してエホバは,率直にこうお答えになります。「実際,あなた方は自分の断食の日に喜びを見いだしていた。そのとき,あなた方が仕事に追い立てるあなた方の労するすべての者がいた。実際,あなた方は言い争いや闘いのために,邪悪のこぶしで打つために断食をするのであった。あなた方は自分の声を高みに聞こえさせる日のように断食を行ないつづけなかったか。わたしの選ぶ断食がこのように,すなわち地の人がその魂を苦しめる日のようになってよいだろうか。頭をいぐさのように垂れ,ただの粗布と灰を自分の寝いすとして延べるためのものに。これがあなたの断食と呼ぶもの,エホバに受け入れられる日と呼ぶものなのか」。―イザヤ 58:3-5。

      6 ユダヤ人のどんな行動は,彼らの断食が偽善的なものであることを露呈していますか。

      6 民は,断食し,義を装い,義にかなったエホバの裁きを求めさえする一方で,ただ利己的な快楽と商売上の営利を追求し,闘争,抑圧,暴力行為にふけっています。そうした品行を取り繕うため,いぐさのようにうなだれ,粗布をまとって灰の中に座し,罪を悔い改めているかのように嘆き悲しんで見せます。しかし,反逆し続けるのであれば,このすべてにどんな価値があるのでしょう。民は,誠実な断食に伴うはずの敬虔な悲しみと悔い改めを少しも示していません。慟哭の声を張り上げても,その声は天に届きません。

      7 イエスの時代のユダヤ人は,どのように偽善的に行動しましたか。今日の多くの人たちも,同じことをどのように行なっていますか。

      7 イエスの時代のユダヤ人も,同様の儀式的な断食をこれ見よがしに行ない,中には週に2回そうする者たちまでいました。(マタイ 6:16-18。ルカ 18:11,12)宗教指導者の多くは,過酷で横暴であるという点でもイザヤの世代の人々に似ていました。それゆえイエスは,そうした宗教上の偽善を勇敢に暴き,あなた方の崇拝の方式は無益であると告げました。(マタイ 15:7-9)今日でも,非常に大勢の人は「神を知っていると公言しますが,その業では神を否認して」います。その人たちは,「忌むべき者,不従順な者であり,どんな良い業に対しても是認を受けていない」のです。(テトス 1:16)そうした人たちは神の憐れみを望んでいるかもしれませんが,行ないが不誠実さを露呈しています。それとは対照的に,エホバの証人は,真の敬虔な専心と純粋な兄弟愛を示しています。―ヨハネ 13:35。

      真の悔い改めに関係する事柄

      8,9 誠実な悔い改めには,どんな積極的な行動が伴わなければなりませんか。

      8 エホバがご自分の民に望んでおられるのは,単に罪に関して断食することではなく,悔い改めることです。そうするなら,民は神の恵みを得ることができます。(エゼキエル 18:23,32)神は,断食が意味あるものとなるためには,過去の罪を正すことが伴わなければならない,と説明しておられます。心を探るエホバの問いかけに注目してください。「これがわたしの選ぶ断食ではないか。邪悪のかせを解き,くびき棒の縛りひもを解き,打ちひしがれた者たちを自由の身にして送り出すこと,また,あなた方がすべてのくびき棒を断ち切ることではないか」。―イザヤ 58:6。

      9 かせとくびき棒は,過酷な束縛の適切な象徴です。ですから民は,断食しながら仲間の信者を抑圧するのではなく,「あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない」という命令に従わなければなりません。(レビ記 19:18)自分たちが抑圧し,不当に奴隷としてきた人々すべてを解き放つべきなのです。a これ見よがしな宗教行為としての断食などは,純粋の敬虔な専心や,兄弟愛を実証する行為の代わりとはなりません。イザヤと同時代の預言者ミカはこう書いています。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。―ミカ 6:8。

      10,11 (イ)ユダヤ人にとって,断食をするより,何を行なうほうが勝っていますか。(ロ)今日のクリスチャンは,ユダヤ人に対するエホバの助言をどのように適用できますか。

      10 公正,親切,慎みは,他の人に良いことを行なうよう人を動かします。それがエホバの律法の真髄です。(マタイ 7:12)断食をするより,自分たちが豊かに持つ物を困窮した人々に分かつほうが,はるかに勝っています。エホバはこう問いかけておられます。「[わたしの選ぶ断食]は,あなたのパンを飢えた者に分け与えること,また,苦しんでいる,家のない者たちを自分の家に入れることではないか。裸でいる者を見るなら,あなたはその者を覆わなければならないということ,自分の肉身から自分を隠すべきではないということではないか」。(イザヤ 58:7)そうです,資力が許すなら,これ見よがしの断食を行なうより,むしろ仲間である困窮したユダの住民に,つまり自分の肉身に衣食住を与えるべきなのです。

      11 兄弟愛に関する,またエホバの示される同情心に関するこうした優れた原則は,イザヤの時代のユダヤ人だけに適用されるのではありません。クリスチャンにとっても導きとなります。それで,使徒パウロはこう書いています。「ですから,時に恵まれている限り,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)クリスチャン会衆は,愛と兄弟の愛情の満ちる安全な場所でなければなりません。特に,今の時代がますます危機的になっていることを考えると,そう言えます。―テモテ第二 3:1。ヤコブ 1:27。

      従順は豊かな祝福をもたらす

      12 民が従うなら,エホバは何をされますか。

      12 エホバの民は,洞察力をもって,神の愛ある戒めに留意しさえすればよいのです。エホバはこう言われます。「そうすれば,あなたの光は夜明けのように差しいで,あなたのために速やかに健康の回復が生ずるであろう。そしてあなたの義は必ずあなたの前を歩み,エホバの栄光があなたの後衛となるであろう。そうすれば,あなたが呼ぶと,エホバは自ら答えてくださり,あなたが助けを求めて叫ぶと,『わたしはここにいる!』と言われる」。(イザヤ 58:8,9前半)なんと温かい,胸を打つ言葉なのでしょう。エホバは,愛ある親切と義に喜びを感じる人々を祝福し,保護されます。エホバの民が自分たちの過酷な態度と偽善を悔い改め,神に従うなら,事態はもっと明るくなるでしょう。エホバはこの国民のために「健康の回復」を,つまり,霊的また物理的な面での再生を与えてくださいます。また,エジプトを出た父祖たちを守ったのと同じように,この民を守ってくださいます。そして,助けを求める叫びに直ちにこたえてくださるでしょう。―出エジプト記 14:19,20,31。

      13 ユダヤ人は,エホバの勧告にこたえ応じるなら,どんな祝福を受けることになりますか。

      13 次にエホバは,先ほどの勧告に付け加えて,こう言われます。「もしあなたが自分の中から [過酷で不当な奴隷状態という]くびき棒,[恐らく,あざけって,または偽りの告発をして]指を突き出すこと,有害なことを話すことを除き,飢えた者にあなた自身の魂の願望をかなえてやり,苦しんでいる魂を満足させるなら,あなたの光もまた,闇の中にあっても必ずきらめき,あなたの暗闇も真昼のようになる」。(イザヤ 58:9後半,10)利己的な態度や過酷さは自滅的であり,エホバの憤りを招きます。一方,親切さや寛大さは,飢えた人や苦しんでいる人に対して示される場合は特に,神の豊かな祝福をもたらします。ユダヤ人は,こうした真理を心に留めさえすればよいのです。そうすれば,霊的な光輝と繁栄によって真昼の太陽のように輝き,暗闇をすべて払い去ることができます。何よりも,栄光と祝福の源である方エホバに誉れと賛美をもたらすことができるでしょう。―列王第一 8:41-43。

      国が復興する

      14 (イ)イザヤの言葉に,同時代の人々はどう反応しますか。(ロ)エホバは引き続き何を差し伸べておられますか。

      14 残念なことに,この国民はエホバの訴えかけを無視し,ますます深く悪に沈んでゆきます。そのため,最終的にエホバは,やむなく,警告したとおりの流刑に彼らを処します。(申命記 28:15,36,37,64,65)それでも,イザヤを通して次に語られるエホバの言葉は,引き続き希望を差し伸べています。懲らしめを受けて悔恨の情を抱く残りの者が,荒廃しているとはいえユダの地に喜びながら帰還することを,神は予言しておられます。

      15 エホバは,喜びに満ちたどんな復興を予告しておられますか。

      15 エホバは,西暦前537年の神の民の復興をあらかじめ指し示し,イザヤを通してこう述べておられます。「エホバは必ずあなたを常に導き,焼けつく地においてもあなたの魂を満足させ,あなたの骨をも活気づけてくださる。あなたは必ず,よく潤っている園のようになり,その水がうそをつく[「かれる」,新英訳聖書]ことのない水の源[「泉」,新英]のようになる」。(イザヤ 58:11)エホバは,イスラエルの故国の焼けつくような土地を,草木の茂る産出的な地へと復興させてくださいます。さらにすばらしいことに,悔い改めた民を祝福し,その「骨をも」活気づけ,霊的に命のない状態から活力にあふれた状態へと移してくださいます。(エゼキエル 37:1-14)民そのものが,霊的な実で満ちた,「よく潤っている園」のようになるのです。

      16 ユダの地はどのように復興しますか。

      16 復興には,西暦前607年にバビロニアの侵入軍によって破壊された諸都市の再建も含まれます。「あなたの勧めで,人々は久しく荒れ廃れていた所を必ず築き直し,あなたは長く続く代々の基を興すであろう。そしてあなたは,その割れ目を修繕する者,そのほとりに人の住む通り道を修復する者,と実際に呼ばれるであろう」。(イザヤ 58:12)「久しく荒れ廃れていた所」および「長く続く代々の基」(すなわち,代々にわたって廃墟の中に横たわっていた基)という並行的な表現は,帰還した残りの者が,廃墟となったユダの諸都市,とりわけエルサレムを建て直すことを示しています。(ネヘミヤ 2:5; 12:27。イザヤ 44:28)残りの者は,「割れ目」を修繕します。これは,エルサレムの城壁の数々の破れ目を指す集合的な表現であり,他の都市の破れ目も指すに違いありません。―エレミヤ 31:38-40。アモス 9:14。

      安息日を忠実に守ることからもたらされる祝福

      17 エホバはご自分の民に,安息日の律法を守るよう,どのように訴えかけておられますか。

      17 安息日は,民の身体的また霊的な福祉に対する神の深い気遣いの表われでした。イエスは,「安息日は人のために存在するようになったのであ(る)」と言いました。(マルコ 2:27)エホバによって神聖なものとされたこの日は,イスラエル人に神への愛を示す特別な機会を提供しました。しかし残念なことに,イザヤの時代にはすでに,むなしい儀式を行なって利己的な欲望にふける日となってしまっています。ですから,この点に関しても,エホバはご自分の民をとがめる根拠をお持ちです。そして,このたびも民の心を動かそうとして,こう言われます。「安息日であるがゆえに,あなたがわたしの聖なる日に自分の喜びとすることを行なう点で自分の足を引き戻し,安息日を無上の喜び,エホバの聖日,栄光を与えられる日と実際に呼び,自分の道を行なうよりも,また,自分を喜ばせることを見いだしたり,言葉を話したりするよりも,これに実際に栄光を与えるなら,そうするなら,あなたはエホバに無上の喜びを見いだし,わたしはあなたに地の高い所を乗り進ませ,あなたの父祖ヤコブの世襲所有地から食べさせるであろう。エホバの口がこれを語ったからである」。―イザヤ 58:13,14。

      18 ユダが安息日を尊重しないことは,どんな結果をもたらしますか。

      18 安息日は,霊的な熟考と祈りと家族での崇拝を行なうための日です。ユダヤ人が,自分たちのためのエホバのすばらしい行ないについて,また律法に明示されている公正や愛について,じっくり考えるのに助けとなるはずの日です。ですから,この聖なる日を忠実に守るなら,民は神にいっそう近づけるはずです。ところが民は,安息日を悪用しており,それゆえにエホバの祝福から切り断たれる恐れがあります。―レビ記 26:34。歴代第二 36:21。

      19 神の民は,安息日を守るようになるなら,どんな豊かな祝福を受けることができますか。

      19 とはいえ,ユダヤ人が懲らしめから教訓を学び,安息日の取り決めを尊重するようになるなら,豊かな祝福が待っています。真の崇拝を行ない,安息日に敬意を払うなら,生活のあらゆる面に,良い影響があふれるほどに及ぶでしょう。(申命記 28:1-13。詩編 19:7-11)例えば,エホバはご自分の民に「地の高い所を乗り進ませ」ます。この表現は,安全と,敵を征服することを意味します。だれであれ,高い所つまり丘や山を支配する者は,国をも支配します。(申命記 32:13; 33:29)かつてイスラエルはエホバに従い,その国民は神の保護を受け,他の国民から尊敬され,恐れられてもいました。(ヨシュア 2:9-11。列王第一 4:20,21)もう一度エホバに従順になって頼るなら,そうした過去の栄光の幾らかを取り戻せるでしょう。エホバは,ご自分の民が「ヤコブの世襲所有地」に十分あずかれるようにしてくださいます。つまり,父祖たちとの神の契約によって約束された祝福,特に,約束の地を確実に所有するという祝福にあずかれるのです。―詩編 105:8-11。

      20 クリスチャンにはどんな「安息の休み」がありますか。

      20 こうしたことには,クリスチャンのための教訓が含まれているでしょうか。イエス・キリストの死をもって,安息日の要求を含むモーセの律法は廃止されました。(コロサイ 2:16,17)しかし,ユダにおいて安息日を守ることによって鼓舞されたはずの精神態度 ― 霊的な関心事を第一にすることと,エホバに近づくこと ― は,エホバの崇拝者にとって今でも肝要です。(マタイ 6:33。ヤコブ 4:8)さらに,パウロはヘブライ人にあてた手紙の中で,「神の民のために安息の休みが残っています」と述べています。クリスチャンは,エホバに従順であることにより,またイエス・キリストの流した血に対する信仰に基づいて義を追い求めることにより,この「安息の休み」に入ります。(ヘブライ 3:12,18,19; 4:6,9-11,14-16)クリスチャンは,このようにして安息日を守ることを,週に1日だけではなく,毎日行ないます。―コロサイ 3:23,24。

      霊的イスラエルは『地の高い所を乗り進む』

      21,22 エホバはどのように,神のイスラエルに「地の高い所を乗り進ませ」てこられましたか。

      21 油そそがれたクリスチャンは,1919年にバビロン的な捕らわれから解き放たれた時以来,安息日が予表していた事柄を忠実に守り行なってきました。その結果,エホバは彼らに「地の高い所を乗り進ませ」てこられました。どんな意味においてでしょうか。西暦前1513年,エホバはアブラハムの子孫に対し,従順であるなら祭司の王国,聖なる国民となるであろう,という契約を結ばれました。(出エジプト記 19:5,6)そして,荒野での40年の間ずっと,ひなたちを運ぶ鷲のようにしてその民を安全に運び,豊かな備えをもって祝福なさいました。(申命記 32:10-12)しかし,その国民は信仰に欠け,結局,得られるはずだった特権をすべて失ってしまいました。とはいえ,エホバは今日,祭司の王国を確かに有しておられます。それは,神の霊的なイスラエルです。―ガラテア 6:16。ペテロ第一 2:9。

      22 「終わりの時」に,この霊的な国民は,古代イスラエルが果たせなかったことを行なってきました。エホバへの信仰を保っているのです。(ダニエル 8:17)この国民の成員が断固としてエホバの高い規準と高遠な道を守り行なうので,エホバは霊的な意味で彼らを高く上げておられます。(箴言 4:4,5,8。啓示 11:12)彼らは周囲の汚れから保護され,高められた生き方を楽しんでおり,自分自身の道に固執する代わりに,エホバとそのみ言葉に「無上の喜び」を見いだしています。(詩編 37:4)全世界における強硬な反対にもかかわらず,エホバはこの国民の霊的な安全を守ってこられました。1919年以降,その民の霊的な「地」が侵害されたことはありません。(イザヤ 66:8)この国民は,神の崇高なみ名のための民であり続け,喜びに満ちてそのみ名を全世界でふれ告げています。(申命記 32:3。使徒 15:14)さらに今では,すべての国から来た柔和な人々が,数を増しつつ,エホバの道を教えられてその道筋を歩むよう助けられるという壮大な特権に,この国民と共にあずかっています。

      23 エホバはどのように,油そそがれた僕たちに「ヤコブの世襲所有地から食べさせ」てこられましたか。

      23 エホバは,ご自分の油そそがれた僕たちに「ヤコブの世襲所有地から食べさせ」てこられました。族長イサクはエサウではなくヤコブを祝福しましたが,その時のイサクの言葉は,約束のアブラハムの胤に信仰を働かせる人すべてのための祝福を予告していました。(創世記 27:27-29。ガラテア 3:16,17)油そそがれたクリスチャンとその友たちは,エサウとは違い,ヤコブのように『神聖な物事の価値を認識して』おり,とりわけ神が豊かに供給してくださる霊的食物の価値を認識しています。(ヘブライ 12:16,17。マタイ 4:4)この霊的食物 ― エホバが約束の胤とその胤の仲間を通して成し遂げておられる事柄に関する知識も含まれる ― は,人を強め,活気づけるものであり,霊的に生きてゆくために不可欠です。ですから,神のみ言葉を読んで黙想することにより,絶えず霊的な滋養物を取り入れることは非常に大切です。(詩編 1:1-3)クリスチャンの集会で仲間の信者と交わることも肝要です。また,喜びに満ちてそうした滋養物を他の人に分かつと同時に,清い崇拝の高い規準を擁護することも欠かせません。

      24 今日の真のクリスチャンはどのように行動しますか。

      24 真のクリスチャンが,エホバの約束の成就を切に待ち望みつつ,引き続きあらゆる種類の偽善を退けてゆけますように。そして,「ヤコブの世襲所有地」によって養われ,引き続き「地の高い所」における霊的な安全を享受してゆけますように。

      [脚注]

      a エホバは,神の民のうち負債を抱えるようになった人が負債を返済するために自らを奴隷として売る ― 事実上は,雇われた労働者のようになる ― という規定を設けられました。(レビ記 25:39-43)とはいえ律法は,奴隷を親切に扱うことを要求していました。残忍な扱いを受けた奴隷は自由にされることになっていました。―出エジプト記 21:2,3,26,27。申命記 15:12-15。

      [278ページの図版]

      ユダヤ人は断食し,見せかけの悔い改めをして頭を垂れた ― しかし,歩みを改めてはいなかった

      [283ページの図版]

      資力の許す人は,困窮している人たちに衣食住を与える

      [286ページの図版]

      ユダは,悔い改めるなら,荒廃した諸都市を建て直せる

  • エホバの手は短くなったのではない
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第20章

      エホバの手は短くなったのではない

      イザヤ 59:1-21

      1 ユダではどんな状況が見られますか。多くの人はどんな疑問を抱いていますか。

      ユダ国民は,エホバとの契約関係にあると唱えています。しかし,至る所で難儀が起きています。公正が行なわれることはまれで,犯罪と虐げが横行し,改善の望みもついえています。何かがひどく間違っています。多くの人は,エホバはいつか事態を正されるのだろうか,と疑問に思っています。イザヤの時代には,そのような状況が見られます。しかし,その時代に関するイザヤの記述は,単なる古代の歴史ではありません。その言葉には,神を崇拝すると唱えながら神の律法を無視する人すべてに対する預言的な警告が含まれています。また,イザヤ 59章に記録されている霊感による預言には,困難で危険な時代に生きていてもエホバに仕えようと努めるすべての人に対する,温かな励ましも収められています。

      まことの神からの孤立

      2,3 エホバがユダを保護しておられないのはなぜですか。

      2 考えてもみてください。エホバの契約の民が背教に陥っているのです。民は,造り主に背を向け,そうすることによって神の保護の手のもとから離れ,そのため厳しい苦難を経験しています。自分たちが苦しい時期を迎えているのはエホバのせいだ,とでも言うのでしょうか。イザヤは彼らにこう言います。「見よ,エホバの手は救いを施すことができないほど短くなったのではない。また,その耳は聞くことができないほど重くなったのではない。ただ,あなた方のとががあなた方とあなた方の神との間に分裂を生じさせるものとなり,あなた方の罪が神のみ顔をあなた方から覆い隠させたので,神は聞くことをされなかったのである」。―イザヤ 59:1,2。

      3 この言葉は率直であり,真実です。エホバは依然として救いの神です。「祈りを聞かれる方」として,忠実な僕たちの祈りに耳を傾けておられます。(詩編 65:2)とはいえ,悪行者を祝福なさることはありません。民がエホバから疎外されていることの責任を負うべきなのは,民自身です。民の邪悪さのゆえに,神は民から顔を覆い隠しておられるのです。

      4 ユダのどんな罪が告発されていますか。

      4 実のところ,ユダは甚だしく悪い歩みをしてきました。イザヤの預言は,告発されているユダの罪を幾つか挙げ,こう述べています。「あなた方のたなごころは血で汚れ,あなた方の指はとがで汚れてしまった……。あなた方の唇は偽りを語った。あなた方の舌は全くの不義をつぶやきつづけた」。(イザヤ 59:3)民はうそをつき,不義な事柄を語っています。『血で汚れたたなごころ』に関する言及は,殺人を犯した者たちさえいることを示しています。神にとってなんと不名誉なことなのでしょう。その方の律法は,殺人だけでなく,『心の中で自分の兄弟を憎む』ことをさえ禁じているのです。(レビ記 19:17)今日のわたしたち各人は,ユダの住民の底なしの罪深さと,その必然的な帰結とを考えるとき,自分も,罪深い考えや気持ちを抑制する必要のあることを銘記させられます。そうしないなら,やがて邪悪な事柄を行ない,神から引き離されてしまいかねないのです。―ローマ 12:9。ガラテア 5:15。ヤコブ 1:14,15。

      5 ユダの堕落はどの程度まで進んでいますか。

      5 国民全体が,罪という病に冒されています。預言はこう述べています。「義をもって叫ぶ者はだれもいない。だれひとり忠実さをもって法廷に行かなかった。実在しないものに依り頼み,無価値なことを語った。難儀を宿し,有害なことを産むのであった」。(イザヤ 59:4)義を語る者は一人もいません。法廷においてさえ,信頼できる,あるいは忠実な人はめったにいません。ユダはエホバに背を向け,諸国家との同盟や,命のない偶像にまで依り頼んでいます。それらはすべて「実在しないもの」であり,全く用をなしません。(イザヤ 40:17,23; 41:29)そのため,多くの話し合いはなされても,それはすべて無価値です。計画が立案されても,難儀と有害なことを生み出すだけです。

      6 キリスト教世界はどのように,ユダに似た歩みをしてきましたか。

      6 不義と暴虐の点でユダと非常によく似ているのは,キリスト教世界です。(294ページの「背教したエルサレム ― キリスト教世界と類似するもの」をご覧ください。)恐るべき二つの世界大戦には,いわゆるキリスト教国も参戦しました。現在に至るまで,キリスト教世界の宗教の方式には,同世界の成員同士による民族浄化や部族間の大虐殺を抑止する力のないことが明らかになってきました。(テモテ第二 3:5)イエスは神の王国に依り頼むよう追随者に教えましたが,キリスト教世界の諸国家は依然として,安全を求めて軍備や政治同盟に頼っています。(マタイ 6:10)実のところ,世界の主要な兵器生産国の大半はキリスト教世界の国々です。そうです,キリスト教世界も,安全な将来を求めて人間の努力や様々な機構に依り頼むことにより,「実在しないもの」に依り頼んでいるのです。

      苦い実を刈り取る

      7 ユダの企てから,害になるものしか生じないのはなぜですか。

      7 偶像礼拝や不正直さが健全な社会を生み出すことはありません。不忠実なユダヤ人は,そうした手段に訴えるゆえに,今や自分のまいた難儀を刈り取っています。こう書かれています。「彼らがかえしたのは毒へびの卵であり,彼らはただのくもの巣を織りつづけた。その卵を食べる者は死に,打ち砕かれた卵はかえって,まむしになるのであった」。(イザヤ 59:5)ユダの企ては,立案から実行に至るまで,実質的なものを何も生み出しません。彼らの間違った考えからは,悪いものしか生じません。毒へびの卵から毒へびしか生まれないのと同じです。そのため,ユダの国民は苦しみます。

      8 ユダの考え方に欠陥のあることを,何が示していますか。

      8 ユダの住民の中には,身を守ろうとして暴力に訴える人もいるかもしれませんが,それは失敗に終わります。腕力は,保護という点で,エホバに依り頼むことや義の業の代わりとはなりません。くもの巣が,悪天候からの保護という点で,本物の織物の代わりとはならないのと同じです。イザヤはこう言明します。「そのただのくもの巣は衣の用をなさず,彼らはその業で身を覆うこともしない。その業は有害な業であり,暴虐の働きがそのたなごころにある。彼らの足はひたすら悪に向かって走り,彼らは罪のない血を流そうと急ぐ。その考えは有害な考えであり,奪略と崩壊がその街道にある」。(イザヤ 59:6,7)ユダの考え方には欠陥があります。難儀を解決しようとして暴力に訴えることにより,不敬虔な態度を示しています。罪のない大勢の人を犠牲にしようが,その中に神の真の僕たちがいようが,おかまいなしなのです。

      9 キリスト教世界の指導者たちが真の平和を実現できないのはなぜですか。

      9 霊感によるこの言葉から連想されるのは,キリスト教世界の流血の記録です。エホバは同世界に,嘆かわしいまでにキリスト教を誤り伝えたことの責任を問われるに違いありません。イザヤの時代のユダヤ人のように,キリスト教世界は道徳的にゆがんだ道を歩み続けてきました。同世界の指導者たちが,それ以外には実際的な道はないと思い込んでいるからです。彼らは平和について語りながら,不公正な行ないをしています。なんという二面性でしょう。キリスト教世界の指導者たちはこの方策を用い続けるので,いつになっても真の平和を実現できません。預言の続きの部分が述べるとおりです。「彼らは平和の道を無視した。彼らの進路に公正はない。彼らはその通り道を自分のために曲げた。それを踏んで行く者には,真実に平和を知る者はだれひとりいない」。―イザヤ 59:8。

      霊的な闇の中でさまよう

      10 イザヤはユダを代表して,どんな告白を行なっていますか。

      10 エホバが,ユダの,正道をはずれた破滅的な歩みを祝福なさるはずはありません。(詩編 11:5)それでイザヤは,国民全体を代表して,ユダの罪科を告白します。「公正はわたしたちから遠く離れてしまい,義はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を待ち望むが,見よ,闇があり,輝きを待ち望むが,わたしたちは絶えざる暗闇の中を歩みつづけた。わたしたちは盲人のように手探りで壁を捜し,目のない者のように手探りを続ける。真昼なのに夕闇の中にいるときのようにつまずいた。頑強な者たちの中にあって,わたしたちは死者のようだ。わたしたちは皆,熊のようにうめき,はとのように悲しげにくーくーと鳴きつづける」。(イザヤ 59:9-11前半)ユダヤ人は神のみ言葉を,自分たちの足のともしび,通り道の光としていません。(詩編 119:105)そのため,暗くて物が見えません。真昼でも,夜のように手探りして歩き回ります。まるで死んだかのようです。救助を求めて,飢えた,あるいは手負いの熊のように,大きなうめきを上げます。寂しげなはとのように,哀れっぽく,くーくーと鳴く者たちもいます。

      11 ユダが公正と救いを待ち望んでも無駄なのはなぜですか。

      11 イザヤは,ユダが窮状に陥っているのは神に対する反抗のゆえであることを痛感し,こう述べています。「わたしたちは公正を待ち望んだが,それはなかった。救いを待ち望んだが,それはわたしたちから遠く離れてしまった。わたしたちの反抗はあなたの前に多くなり,わたしたちの罪は,その各々がわたしたちに不利な証言をしたからです。わたしたちの反抗はわたしたちと共にあり,わたしたちのとがについては,わたしたちがそれをよく知っているからです。違犯をおかすことと,エホバを否むこととがあった。わたしたちの神から退くこと,虐げと反抗を語ること,心からの偽りの言葉を宿すこととつぶやくこととがあった」。(イザヤ 59:11後半-13)ユダの住民は,悔い改めていないので,依然として罪を問われます。公正はこの地から離れました。民がエホバから離れたためです。民は偽りに染まりきっていることを示し,兄弟たちを虐げることさえしています。今日のキリスト教世界の人々になんとよく似ているのでしょう。多くの人は,単に公正を無視するだけでなく,神のご意志を行なおうと努める忠実なエホバの証人たちを積極的に迫害することまでしています。

      エホバは裁きを執行される

      12 ユダで公正を施行する責任を持つ人々は,どんな態度を示していますか。

      12 ユダには,公正も義も真実もないようです。「公正は後ろに退くことを余儀なくされ,義もただ遠く離れて立ちつづけた。真実はほかならぬ公共広場でつまずき,正直なことは入ることができないからである」。(イザヤ 59:14)ユダの都市の門の内側には公共広場があり,年長者たちがそこに集まって法的な訴えを取り上げます。(ルツ 4:1,2,11)そうした男子は,義をもって裁き,公正を追い求めるべきであり,わいろを受け取ってはなりません。(申命記 16:18-20)しかし実際には,自分勝手な考えに基づいて裁いています。さらに悪いことに,誠実に善を行なおうとする人々を,格好の獲物とみなしています。こう書かれています。「真実はうせ,悪から離れて行く者は奪略を受けている」。―イザヤ 59:15前半。

      13 ユダの裁き人たちが職務に怠慢であるため,エホバはどうなさいますか。

      13 道徳的な退廃に異を唱えない人々は,神が盲目でも無知でも無力でもないことを忘れています。イザヤはこう書いています。「エホバはご覧になったが,公正のないことはその目に悪いことであった。そして,人がだれもいないのをご覧になると,仲裁に入る者がいないことに非常な驚きを表わされた。そして,その腕がご自身のために救いを施すようになり,その義がご自身を支えるものとなった」。(イザヤ 59:15後半,16)任命された裁き人たちが職務に怠慢であるため,エホバは事態に介入なさいます。その際,神は義と力をもって行動されます。

      14 (イ)今日,多くの人はどんな態度を取っていますか。(ロ)エホバは,行動を起こす準備をどのように整えておられますか。

      14 今日でも同様の状況が見られます。今の世で,多くの人は「いっさいの道徳感覚を通り越し」ています。(エフェソス 4:19)地から悪を根絶するためにエホバがいつか介入なさることを信じる人はほとんどいません。しかしイザヤの預言によると,エホバは人間の営みを注意深く観察しておられます。裁きを行ない,ご自分の定めの時に,その裁きに基づいて行動されます。神の裁きは公明正大でしょうか。イザヤは,そうであると述べています。ユダ国民に関して,こう書いています。「それから,[エホバは]義を小札かたびらのように身に着け,救いのかぶとを頭にかぶられた。さらに,復しゅうの衣を衣服として身に着け,熱心をそでなしの上着であるかのようにして身を包まれた」。(イザヤ 59:17)この預言的な言葉はエホバを,戦いの用意をしている戦士として描いています。エホバは,ご自分の大義の救いに注意を集中しておられます。絶対的かつ非難の余地のない,ご自分の義に確信を抱いておられます。そして,裁きを行動に移す際には,何ものをも恐れない熱心さを示されます。義が行き渡ることに疑問の余地はありません。

      15 (イ)エホバが裁きを執行なさる時,真のクリスチャンはどのように行動しますか。(ロ)エホバの裁きに関して,どんなことが言えますか。

      15 今日,幾つかの国では,真理に敵する人々がエホバの僕たちの業を妨害しようとして,名誉を棄損する虚偽の宣伝を行なっています。真のクリスチャンはためらうことなく真理のために立ち上がりますが,決して個人的に復しゅうしようとはしません。(ローマ 12:19)背教したキリスト教世界との勘定をエホバが清算なさる時にも,地上にいる神の崇拝者たちは同世界の滅びに全く関与しません。エホバが復しゅうをご自分のものとしておられ,時が来れば適切な行動を起こされることを知っているのです。預言はこう保証しています。「神はその仕打ちに応じて,それに相応する報いを施される。敵対者には激しい怒りを,敵には当然の仕打ちを。島々には当然の仕打ちをもって返報される」。(イザヤ 59:18)イザヤの時代と同じく,神の裁きは,公明正大であるだけでなく,徹底的でもあります。裁きは,「島々に」つまり遠方の地にまで及ぶでしょう。いかにへんぴな,あるいは孤立した場所にいようとも,エホバの裁きの行為を免れることはできません。

      16 だれがエホバの裁きの行為を生き残りますか。その人々は,生き残るという経験から,どんなことを学びますか。

      16 正しいことを行なおうと懸命に励む人々は,エホバから義にかなった者として裁かれます。イザヤは,地の一方の果てから他方の果てまで,つまり全地において,そうした人々が生き残ることを予告しています。その人々は,エホバの保護を経験することにより,その方に対する崇敬の念と敬意をいよいよ深くするでしょう。(マラキ 1:11)こう書かれています。「彼らは日の沈む方からエホバのみ名を恐れ,日の昇る方からその栄光を恐れはじめる。神は,エホバの霊が駆り立てた苦難の川のように入って来られるからである」。(イザヤ 59:19)強烈な風あらしが破壊的な水の壁を前方に押して,行く手にあるものすべてを流し去るのと同じように,エホバの霊は,神のご意志の成就を妨げるいっさいのものをぬぐい去るでしょう。神の霊は,人間の持ついかなる力よりも強力です。神は,その霊を用いて人々と諸国家に裁きを執行なさる時,確実で徹底的な成功を収めます。

      悔い改めた者たちのための希望と祝福

      17 シオンを買い戻す方はどなたですか。その方はいつシオンを買い戻しますか。

      17 モーセの律法のもとでは,奴隷として身を売ったイスラエル人は,買い戻し人に奴隷状態から買い戻してもらうことができました。イザヤの預言の書のこれより前の部分で,エホバは,悔い改めた人々を買い戻す方として描写されていました。(イザヤ 48:17)ここでも,悔い改めた者たちを買い戻す方として描かれています。イザヤは,エホバの約束をこう記録しています。「『買い戻す方はシオンに,ヤコブの中の違犯から離れる者たちのもとに必ず来られる』と,エホバはお告げになる」。(イザヤ 59:20)保証となるこの約束は,西暦前537年に成就します。しかし,別の成就もあります。使徒パウロはこの言葉をセプトゥアギンタ訳から引用し,クリスチャンに適用しました。こう書いています。「こうして全イスラエルが救われることです。まさに書かれているとおりです。『救出者がシオンから出て,不敬虔な習わしをヤコブから遠ざける。そして,わたしが彼らの罪を取り去る時,これが彼らに対するわたしの契約である』」。(ローマ 11:26,27)実のところ,イザヤの預言には,非常に広範な適用,つまり現代やそれ以後にまで及ぶ適用があります。どんな適用でしょうか。

      18 エホバはいつ,どのように,「神のイスラエル」を誕生させましたか。

      18 1世紀に,イスラエル国民の少数の残りの者はイエスをメシアとして受け入れました。(ローマ 9:27; 11:5)西暦33年のペンテコステの日に,エホバは,そうした信者120人ほどの上にご自分の聖霊を注ぎ出し,イエス・キリストを仲介者とするご自分の新しい契約に導き入れました。(エレミヤ 31:31-33。ヘブライ 9:15)その日,「神のイスラエル」という新しい国民が誕生しました。その国民の成員を特徴づけるのは,肉によるアブラハムの子孫であることではなく,神の霊によって生まれていることです。(ガラテア 6:16)その新しい国民には,コルネリオを筆頭に,無割礼の異邦人も含まれるようになりました。(使徒 10:24-48。啓示 5:9,10)そのようにして,彼らはエホバ神の養子とされ,神の霊的な子供,またイエスの仲間の相続人となりました。―ローマ 8:16,17。

      19 エホバは,神のイスラエルとどんな契約を結ばれますか。

      19 次にエホバは,神のイスラエルと契約を結んでおられます。こう書かれています。「『そしてわたしとしては,これが彼らとのわたしの契約である』と,エホバは言われた。『あなたの上にあるわたしの霊とわたしがあなたの口に入れたわたしの言葉 ― それはあなたの口からも,あなたの子孫の口からも,あなたの子孫の子孫の口からも,今より定めのない時に至るまで取り除かれることはない』と,エホバは言われた」。(イザヤ 59:21)イザヤ自身に適用されたかどうかはともかく,この言葉は確かにイエスに成就しました。イエスには,『彼は自分の子孫を見るであろう』という保証が与えられています。(イザヤ 53:10)イエスはエホバから学んだ言葉を語り,イエスの上にはエホバの霊がとどまりました。(ヨハネ 1:18; 7:16)イエスの兄弟であり仲間の相続人である神のイスラエルの成員も,エホバの聖霊を受け,天の父から学んだ音信を宣べ伝えますが,それはふさわしいことです。彼らは皆,「エホバに教えられる者」なのです。(イザヤ 54:13。ルカ 12:12。使徒 2:38)ここでエホバは,イザヤ,あるいはイザヤが預言的に表わしていたイエスを通して契約を結び,その成員の代わりにだれかを立てることは決してせず,その成員を定めのない時までご自分の証人として用いる,という契約を結んでおられます。(イザヤ 43:10)では,同様にこの契約から益を得る,その人々の「子孫」とはだれのことでしょうか。

      20 アブラハムに対するエホバの約束は,1世紀にどのように成就しましたか。

      20 昔,エホバはアブラハムに,「あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」と約束なさいました。(創世記 22:18)その約束と調和して,メシアを受け入れた生来のイスラエル人の少数の残りの者は多くの国へ出かけて行き,キリストに関する良いたよりを宣べ伝えました。コルネリオを筆頭に,大勢の無割礼の異邦人が,アブラハムの胤であるイエスによって「自らを祝福」しました。それらの人は,神のイスラエルの一部,アブラハムの胤の副次的な部分となりました。彼らは,エホバの「聖なる国民」の一部であり,その国民は「闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の卓越性を広く宣明する」任務を帯びています。―ペテロ第一 2:9。ガラテア 3:7-9,14,26-29。

      21 (イ)現代において,神のイスラエルはどんな「子孫」を生み出してきましたか。(ロ)その「子孫」は,エホバが神のイスラエルと結ばれた契約によって,どのように力づけられていますか。

      21 今日,神のイスラエルは集められ,数が満ちていると思われます。とはいえ,国々の民は引き続き壮大な規模で祝福されています。どのようにでしょうか。神のイスラエルには,「子孫」,つまり楽園となる地上での永遠の命という希望を抱くイエスの弟子たちがいる,という点においてです。(詩編 37:11,29)それらの「子孫」もエホバに教えられ,神の道を教え諭されています。(イザヤ 2:2-4)その人々は聖霊でバプテスマを施されてはおらず,新しい契約の当事者とみなされてもいませんが,エホバの聖霊によって強められているので,宣べ伝える業を阻もうとするサタンの妨害すべてを克服することができます。(イザヤ 40:28-31)そして,現在では数百万という人数に達しており,自らの子孫を生み出して,増加を続けています。エホバと油そそがれた者たちとの契約は,これらの「子孫」に,自分たちも定めのない時までずっとエホバの代弁者として用いていただけるという確信を与えます。―啓示 21:3,4,7。

      22 わたしたちはエホバに関してどんな確信を抱けますか。そのことから,何をするよう動かされるはずですか。

      22 それゆえ,わたしたちすべてがエホバに対する信仰を保てますように。神は救うことを望んでおられ,そうする力もお持ちです。神の手が短くなることは決してありません。いつでも,忠実な民を救出してくださいます。神に依り頼むすべての人の口は,「今より定めのない時に至るまで」,神の良い言葉を語り続けるでしょう。

      [294ページの囲み記事]

      背教したエルサレム ― キリスト教世界と類似するもの

      神の選ばれた国の首都エルサレムは,霊の被造物で成る神の天的な組織,およびキリストの花嫁として天に復活した油そそがれたクリスチャンの一団を表わします。(ガラテア 4:25,26。啓示 21:2)しかし,エルサレムの住民は往々にしてエホバに不忠実であったため,その都は売春婦や姦婦として描かれました。(エゼキエル 16:3,15,30-42)その点で,エルサレムは,背教したキリスト教世界に適合する型となっています。

      イエスはエルサレムを,「預言者たちを殺し,自分に遣わされた人々を石打ちにする者」と呼びました。(ルカ 13:34。マタイ 16:21)不忠実なエルサレムと同じく,キリスト教世界も,まことの神に仕えていると主張しますが,神の義の道から大きく逸脱しています。わたしたちは,エホバが,背教したエルサレムを裁いた時と同じ義の規準によってキリスト教世界を裁かれる,ということを確信できます。

      [296ページの図版]

      裁き人は義をもって裁き,公正を求めるべきであり,わいろを受け取ってはならない

      [298ページの図版]

      洪水時の川のように,エホバの裁きは,神のご意志を行なう妨げとなるものすべてをぬぐい去る

      [302ページの図版]

      エホバは契約によって,ご自分の民が,神の証人である特権を決して失わないことを約束しておられる

  • 真の崇拝は世界的に拡大する
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第21章

      真の崇拝は世界的に拡大する

      イザヤ 60:1-22

      1 イザヤ 60章には,励みを与えるどんな音信が収められていますか。

      イザヤ 60章は,魂を揺さぶるドラマの形で書かれています。冒頭の部分を読むと,感動的な場面に引き込まれます。一連の出来事が急速に展開し,興奮に満ちたフィナーレに至ります。この章は,変化に富んだ絵画的表現を用い,古代エルサレムにおける真の崇拝の回復と,今日における真の崇拝の世界的な拡大について述べています。さらに,神の忠節な崇拝者すべてに与えられるとこしえの祝福も指し示しています。わたしたち各自は,イザヤの預言のこの非常に興味深い部分の成就の一端にあずかることができます。では,詳しく調べてみましょう。

      闇の中で光が輝く

      2 闇の中に横たわる女は,何をするよう命じられていますか。女が急いでその命令に従うべきなのはなぜですか。

      2 イザヤのこの章の冒頭の言葉は,悲しい境遇にある一人の女に向かって語られています。彼女は闇の中で地面にうつぶしているようです。突然,光が暗闇を貫き,エホバがイザヤを通してこう呼びかけます。「女よ,起きよ,光を放て。あなたの光が到来し,あなたの上にエホバの栄光が輝き出たからである」。(イザヤ 60:1)そうです,この「女」は自分の足で立ち,神の栄光を反映すべきなのです。急いでそうしなければならないのはなぜでしょうか。預言は続けてこう述べています。「見よ,闇が地を,濃い暗闇が国たみを覆うからである。しかし,あなたの上にはエホバが輝き出て,あなたの上にその栄光が見られるようになる」。(イザヤ 60:2)「女」は,依然として闇の中で手探りをしている周囲の人々のために,『光を放た』なければならないのです。その結果,どうなるでしょうか。「諸国民は必ずあなたの光のもとに,王たちはあなたの輝き出るその輝きのもとに行くであろう」。(イザヤ 60:3)この冒頭の言葉は,続く部分でもっと詳細に説明される事柄の要旨を述べています。真の崇拝は必ず世界的に拡大するのです。

      3 (イ)「女」とは何ですか。(ロ)「女」が闇の中に横たわっているのはなぜですか。

      3 エホバは,将来の物事について述べているにもかかわらず,「女」に,彼女の光は『到来した』と告げておられます。そのようにして,この預言が確実に成就することを強調しておられるのです。ここで言及されている「女」とは,シオン,つまりユダの首都エルサレムです。(イザヤ 52:1,2; 60:14)その都市は,ユダの国全体を表わしています。この預言が最初に成就する時,「女」は闇の中に,つまり西暦前607年に滅びた時のままの闇の中に横たわっています。しかし西暦前537年,流刑になっていたユダヤ人の忠実な残りの者がエルサレムに帰還し,清い崇拝を復興します。ついにエホバは,ご自分の「女」の上に光を輝かせ,回復した民を,霊的な闇に包まれた諸国民の間での啓発の源とされるのです。

      より大規模な成就

      4 今日,地上において「女」を代表しているのはだれですか。拡大して考えると,この預言の言葉はどんな人たちにも当てはまりますか。

      4 わたしたちは,この預言の言葉について,昔のエルサレムに臨んだ成就以上のものに関心を抱いています。今日,エホバの天的な「女」を地上で代表しているのは,「神のイスラエル」です。(ガラテア 6:16)その霊的な国民は,西暦33年のペンテコステから現在に至るまで存続しており,その期間中に,合計14万4,000人の,霊によって油そそがれた成員を有するようになりました。それら成員は「地から買い取られた」者たちであり,キリストと共に天で支配する見込みを持っています。(啓示 14:1,3)現代におけるイザヤ 60章の成就の中心となっているのは,その14万4,000人のうち,「終わりの日」に地上で生きている人々です。(テモテ第二 3:1)また,この預言には,それら油そそがれたクリスチャンの仲間である,「ほかの羊」の「大群衆」も関係しています。―ヨハネ 10:11,16。啓示 7:9。

      5 神のイスラエルのうち生存していた成員は,自分たちが闇の中に横たわっていることに,いつ気づきましたか。エホバの光が彼らの上に輝き出たのはいつですか。

      5 1900年代初期のしばらくの間,神のイスラエルのうちまだ地上にいた人々は,いわば闇の中にうつぶしていました。最初の世界大戦が終わろうとしていたころ,その人々は,「啓示」の書の中で象徴的に描かれている状況にあり,彼らの遺体は,「霊的な意味でソドムまたエジプトと呼ばれる大いなる都市の大通りに」横たわっていたのです。(啓示 11:8)しかし1919年に,エホバは彼らの上に光を放たれました。すると,彼らは立ち上がり,神の光を反射し,恐れることなく神の王国の良いたよりをふれ告げるようになりました。―マタイ 5:14-16; 24:14。

      6 世間一般は,イエスの王としての臨在の布告にどのように反応してきましたか。しかし,だれがエホバの光に引き寄せられてきましたか。

      6 人類一般は,「この闇の世の支配者たち」の首領であるサタンの影響を受け,「世の光」であるイエス・キリストの王としての臨在の告知を退けてきました。(エフェソス 6:12。ヨハネ 8:12。コリント第二 4:3,4)それでも,「王たち」(天の王国の油そそがれた相続者となる人々)と「諸国民」(ほかの羊の大群衆)から成る幾百万という人々がエホバの光に引き寄せられてきました。

      拡大は心からの喜びをもたらす

      7 「女」は,心温まるどんな光景を目にしますか。

      7 エホバは,イザヤ 60章3節で提示された主題を展開し,「女」に別の命令を下して,「あなたの目を周囲に上げて,見よ!」と言われます。「女」がそのとおりにすると,心温まる光景が目に入ります。彼女の子供たちが帰って来るのです。「彼らはみな集められた。彼らはあなたのもとに来た。あなたの息子たちは遠くからやって来る。脇腹に抱えられて世話を受けるあなたの娘たちも」。(イザヤ 60:4)1919年に始まった国際的な王国宣明の業の結果,さらに幾千人もの油そそがれた「息子たち」や「娘たち」が神のイスラエルに加えられました。そのようにして,エホバは段階を踏んで,14万4,000人という予告された数を満たされました。それは,キリストと共に支配する人々です。―啓示 5:9,10。

      8 1919年以降,神のイスラエルには幸福のどんないわれがありますか。

      8 この増加は歓びをもたらしました。「その時,あなたは見て,必ず光り輝き,あなたの心臓は実際にわなないて広がるであろう。海の富があなたのもとに向かうからである。諸国民の資産もあなたのもとに来る」。(イザヤ 60:5)1920年代と1930年代に行なわれた油そそがれた者を集め入れる業により,神のイスラエルは大きな幸福に包まれました。とはいえ,喜びの理由はもう一つありました。特に1930年代半ば以降,かつて神から疎外された人類の「海」の一部であった人々が,神のイスラエルと共に崇拝を行なうために,あらゆる国民の中からやって来たのです。(イザヤ 57:20。ハガイ 2:7)その人々は,それぞれ自分の方法で神に仕えようとして去って行ったりはしません。むしろ,神の「女」のもとに来て,一致した神の羊の群れの一部となります。その結果,神の僕すべては真の崇拝の拡大にあずかることになります。

      諸国民がエルサレムに集まって来る

      9,10 だれがエルサレムに集まって来るのが見えますか。エホバはどのように彼らをお迎えになりますか。

      9 エホバは,イザヤと同時代の人々にとって身近な例えを用い,その拡大を描写しておられます。「女」は,見晴らしのよい所から,まず東の地平線を見渡します。何が見えますか。「波打つらくだの大群があなたを覆う。ミディアンとエファの若い雄のらくだが。シェバからのものすべて ― 彼らはやって来る。金と乳香を運んで来る。そして,エホバの賛美を告げ知らせる」。(イザヤ 60:6)様々な部族の旅商人の用いるらくだの隊列が,エルサレムに通じる道を進みます。(創世記 37:25,28。裁き人 6:1,5。列王第一 10:1,2)地を覆う洪水のように,至る所にらくだがいます。その隊列は高価な贈り物を運んでいるので,貿易商たちが平和な目的で来たことが分かります。エホバを崇拝し,最良のものをささげたいと思っているのです。

      10 行進しているのは,それら商人たちだけではありません。「ケダルの羊のすべての群れ ― それらもあなたのもとに集められる。ネバヨトの雄羊 ― それらもあなたに仕える」。そうです,牧畜部族も,旅をしてエルサレムにやって来るのです。彼らは,自分たちの最も高価な所有物である羊の群れを贈り物として携えて来て,さらに自らをも,仕える者として差し出します。エホバはどのように彼らをお迎えになるでしょうか。こう述べておられます。「それらは是認を得てわたしの祭壇に上り,わたしはわたしの美の家を美しくするであろう」。(イザヤ 60:7)エホバは彼らの贈り物を快く受け取り,それらは清い崇拝で用いられます。―イザヤ 56:7。エレミヤ 49:28,29。

      11,12 (イ)「女」が西の方に目を凝らすと,どんな光景が目に入りますか。(ロ)非常に多くの人がエルサレムに向かって急いでいるのはなぜですか。

      11 次いでエホバは,「女」に西の水平線を見させ,「雲のように,巣箱の穴に向かうはとのように飛んで来るこれらの者はだれか」とお尋ねになります。そして,ご自身でこうお答えになります。「島々はわたしを待ち望む……。タルシシュの船もまた,初めの時のように。それは,遠くからあなたの子らを,彼らと共にその銀と金を,あなたの神エホバの名のもとに,イスラエルの聖なる方のもとに携えて来るためである。その方があなたを美しくされるからである」。―イザヤ 60:8,9。

      12 あなたが「女」と並んで立ち,大海のかなたの西の方に目を凝らしているところを想像してみてください。何が見えますか。遠くに,おびただしい数の小さな白い点が見え,海面を滑るように進んでいます。鳥のように見えますが,近づいて来ると,帆を広げた船であることが分かります。「遠い所から」来た船です。a (イザヤ 49:12)非常に多くの船がシオンに向かって飛ぶように走っているので,巣に向かうはとの群れのように見えます。船隊は,なぜそれほど急いでいるのでしょうか。遠くの港から乗せて来たエホバの崇拝者たちを早く送り届けたいのです。実際,新たに到着する人たちはみな ― イスラエル人も異国人も,東方からの人も西方からの人も,近くの国からの人も遠くの国からの人も ― 自分の持つすべてを神エホバの名のもとに献じるため,エルサレムに向かって急いでいます。―イザヤ 55:5。

      13 現代において,「息子たち」や「娘たち」とはだれですか。「諸国民の資産」とはだれのことですか。

      13 イザヤ 60章4-9節は,エホバの「女」がこの世の闇のただ中で光を放ち始めた時から生じている世界的な拡大を,なんと生き生きと描写しているのでしょう。まず,天のシオンの「息子たち」や「娘たち」,すなわち油そそがれたクリスチャンとなった人々がやって来ました。1931年,その人々は,自分たちが“エホバの証人”であることを公にしました。次いで,大勢の柔和な者たち,つまり「諸国民の資産」と「海の富」が,キリストの兄弟たちの残っている者たちと共になるために急いでやって来ました。b 今日,地の四隅から来た,様々な背景を持つそうしたエホバの僕たちは皆,神のイスラエルと共になって,主権者なる主エホバを賛美し,そのみ名を全宇宙で最も大いなる名として高めています。

      14 新たに到着する人たちは,どのように『神の祭壇に上り』ますか。

      14 では,諸国民の中から新たに到着するこれらの人たちが『神の祭壇に上る』とはどういう意味でしょうか。祭壇の上には犠牲が置かれます。使徒パウロは,犠牲と関連のある表現を用いて,こう書きました。「わたしは……あなた方に懇願します。あなた方の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出しなさい。これがあなた方の理性による神聖な奉仕です」。(ローマ 12:1)真のクリスチャンは進んで自らを与えます。(ルカ 9:23,24)清い崇拝を促進することに,自分の時間,体力,技能を注ぎ込むのです。(ローマ 6:13)そうすることにより,受け入れられる賛美の犠牲を神にささげます。(ヘブライ 13:15)今日,幾百万ものエホバの崇拝者たちが,老いも若きも,個人的な願望より神の王国の関心事を優先させているのを見るのは,なんと心温まることでしょう。その人たちは,純粋な自己犠牲の精神を示しているのです。―マタイ 6:33。コリント第二 5:15。

      新たに到着する人たちも拡大にあずかる

      15 (イ)古代において,異国の者たちに関連して,エホバの憐れみはどのように表明されましたか。(ロ)現代において,「異国の者たち」は真の崇拝を築き上げることにどのようにあずかってきましたか。

      15 新たに到着する人たちは,エホバの「女」を支援して,自分の所有物をささげ,自らも仕えます。「異国の者たちは実際にあなたの城壁を築き,その王たちはあなたに仕えるであろう。わたしは憤りをもってあなたを打つが,必ず善意をもってあなたを憐れむからである」。(イザヤ 60:10)エホバの憐れみは,西暦前6世紀,異国の者たちがエルサレムでの建設工事を手伝った時に表明されました。(エズラ 3:7。ネヘミヤ 3:26)今日の,より大規模な成就においては,「異国の者たち」である大群衆が,真の崇拝を築き上げる面で,油そそがれた残りの者を支援しています。聖書研究生の内にクリスチャンの特質を築くのを助けることにより,クリスチャン会衆を築き上げ,「城壁」で囲まれた都市のようなエホバの組織を強固にしているのです。(コリント第一 3:10-15)また,文字どおりの建築も行ない,王国会館,大会ホール,ベテルの施設などの建設において熱心に働いています。そのように,油そそがれた兄弟たちと共になって,拡大するエホバの組織の必要にこたえています。―イザヤ 61:5。

      16,17 (イ)神の組織の「門」はどのように,開かれたままにされてきましたか。(ロ)「王たち」はどのようにシオンに仕えてきましたか。(ハ)エホバが開いておこうとされる「門」を閉ざそうとする者たちはどうなりますか。

      16 霊的な建築プログラムの結果として,毎年,何十万もの「異国の者たち」がエホバの組織と交わるようになっています。そして,いっそう多くの人々のために道が開かれています。エホバはこう言われます。「あなたの門は常に実際に開かれていて,昼も夜も閉じられることがない。それはあなたのもとに諸国民の資産を携えて来るためである。そして彼らの王たちは率先するであろう」。(イザヤ 60:11)では,諸国民の資産をシオンに携えて来る点で率先する「王たち」とはだれでしょうか。古代においてエホバは,支配者たちの心を動かしてシオンに「仕え」させたことがあります。例えばキュロスは,自ら進んで行動し,神殿再建のためにユダヤ人をエルサレムに帰還させました。後に,アルタクセルクセスは資産を寄付し,エルサレムの城壁を建て直すためにネヘミヤを遣わしました。(エズラ 1:2,3。ネヘミヤ 2:1-8)まさに,「王の心はエホバの手にある水の流れのよう」です。(箴言 21:1)わたしたちの神は,強力な支配者たちをさえ動かして,ご意志のとおりに行動させることができるのです。

      17 現代において,多くの「王たち」つまり世俗の権威は,エホバの組織の「門」を閉ざそうとしてきました。しかしそれとは逆に,そうした「門」を開いておくのに役立つ決定を下して,シオンに仕えた「王たち」もいます。(ローマ 13:4)1919年,世俗の権威は,不当に投獄されていたジョセフ・F・ラザフォードと仲間たちを釈放しました。(啓示 11:13)人間の政府は,サタンが天から落とされた後に放った洪水のような迫害を『呑み込み』ました。(啓示 12:16)宗教的に寛容な態度を ― 場合によっては特にエホバの証人のために ― 奨励した政府もあります。こうした奉仕により,大勢の柔和な者たちが,開かれた「門」を通ってエホバの組織に入るのが容易になりました。では,そうした「門」を閉ざそうとする反対者たちについては何と言えるでしょうか。その者たちは決して成功しません。彼らについて,エホバはこう述べておられます。「あなたに仕えない国民や王国は滅びうせ,諸国民は必ず荒廃に帰する」。(イザヤ 60:12)神の「女」に敵して戦う者は皆,個人であれ組織であれ,遅くとも,来たるべきハルマゲドンの戦いで滅びを被ります。―啓示 16:14,16。

      18 (イ)イスラエルで木々が茂るという約束は何を意味していますか。(ロ)今日において,『エホバの足を置く場所』とは何ですか。

      18 この裁きの警告に続き,預言は再び,高められて繁栄することに関する約束を述べています。エホバは,ご自分の「女」に向かってこう言われます。「レバノンの栄光があなたのもとに来る。ねずの木,とねりこ,いとすぎも時を同じくして。わたしの聖なる所の場所を美しくするために。わたしはわたしの足を置くその場所に栄光を与えるであろう」。(イザヤ 60:13)生い茂った木々は,美と豊かな実りの象徴です。(イザヤ 41:19; 55:13)この節の「聖なる所」および『わたしの足を置く場所』という表現は,エルサレムの神殿を指しています。(歴代第一 28:2。詩編 99:5)とはいえ,使徒パウロの説明によると,エルサレムの神殿は,より偉大な霊的神殿を予表する模型的な表現でした。その霊的神殿とは,キリストの犠牲に基づき崇拝においてエホバに近づくための取り決めです。(ヘブライ 8:1-5; 9:2-10,23)今日エホバは,『ご自分の足を置く場所』,つまりその偉大な霊的神殿の地上の中庭に栄光を与えておられます。その中庭は非常に魅力的なので,あらゆる国民から来た人々がそこに引き寄せられ,真の崇拝に加わります。―イザヤ 2:1-4。ハガイ 2:7。

      19 反対者たちは何を認めざるを得なくなりますか。遅くとも,いつそうなりますか。

      19 次にエホバは,再び反対者たちに注意を向け,こう言われます。「あなたを苦しめる者たちの子らは,身をかがめてあなたのもとに行かなければならない。あなたを不敬な仕方で扱う者たちは皆,必ずあなたの足の裏に身をかがめ,あなたをエホバの都市,イスラエルの聖なる方のシオンと呼ばなければならなくなる」。(イザヤ 60:14)そうです,反対者の中のある人々は,神の祝福がその民にもたらしている豊かな増加や優れた生き方を見て,身をかがめ,「女」に呼びかけざるを得なくなります。つまり,油そそがれた残りの者とその仲間たちが神の天的な組織である「エホバの都市,イスラエルの聖なる方のシオン」を確かに代表しているということを ― 遅くとも,ハルマゲドンにおいて ― 認めざるを得なくなるのです。

      利用可能な資産を用いる

      20 「女」は,どんな大きな状況の変化を経験しますか。

      20 エホバの「女」は,なんと大きな状況の変化を経験するのでしょう。エホバはこう言われます。「あなたは,その中を通る者がだれもいない,完全に捨てられ,憎まれるものとなる代わりに,わたしはあなたを定めのない時に至るまで存続する誇るべき物,代々にわたる歓喜として据えるであろう。そして,あなたは実際に諸国民の乳を吸い,王たちの乳房を吸うのである。あなたは必ず,わたし,エホバがあなたの救い主であり,ヤコブの強力な者があなたを買い戻す者であることを知るであろう」。―イザヤ 60:15,16。

      21 (イ)古代エルサレムはどのようにして「誇るべき物」となりますか。(ロ)エホバの油そそがれた僕たちは,1919年以来,どんな祝福を享受してきましたか。どのように「諸国民の乳」を吸ってきましたか。

      21 古代エルサレムは70年にわたって地図から消え,いわば「その中を通る者がだれもいない」状態にあります。しかし西暦前537年以降,エホバはその都市に再び人々を住まわせ,そこを「誇るべき物」とされます。同様に,最初の世界大戦の終わりごろ,神のイスラエルは荒廃の期間を経験し,『完全に捨てられた』ように感じました。しかしエホバは,1919年にご自分の油そそがれた僕たちを捕らわれから買い戻し,その年以来,彼らを祝福し,空前の拡大と霊的な繁栄を与えてこられました。神の民は「諸国民の乳」を吸い,諸国民から得た資産を用いて真の崇拝を前進させてきました。例えば,最新技術を賢明に用いて聖書や聖書文書を幾百もの言語に翻訳し,出版しています。その結果,毎年,何十万もの人々がエホバの証人と聖書を学び,エホバはキリストを通して救い,買い戻してくださる方である,ということを知るようになっています。―使徒 5:31。ヨハネ第一 4:14。

      組織上の進展

      22 エホバは,どんな特別な種類の進展を約束しておられますか。

      22 エホバの民の数の増加には,組織上の進展も伴っています。エホバはこう述べておられます。「わたしは銅の代わりに金を携え入れ,鉄の代わりに銀を,木の代わりに銅を,石の代わりに鉄を携え入れる。わたしは平和をあなたの監督たちとして任命し,義をあなたに労働を割り当てる者たちとして任命する」。(イザヤ 60:17)銅の代わりに金を用いることは改善を意味します。ここに挙げられている他の物質についても同様です。その点と調和して,エホバの民は,終わりの日を通じて,組織上の取り決めの改善を経験してきました。

      23,24 1919年以来,エホバの民は組織上の取り決めのどんな改善を経験してきましたか。

      23 1919年まで,個々の会衆には,民主的な方法で選出された長老と執事がいました。その年以降,会衆での野外奉仕活動を監督する奉仕の主事が神権的に任命されるようになりましたが,選出された長老たちがこの奉仕の主事に協力しないことがありました。1932年,変化が生じました。「ものみの塔」誌を通して会衆に,長老と執事の選出をやめるよう指示が与えられたのです。それに代わって,会衆は,奉仕の主事と協力して働く奉仕委員会を選出するようになりました。それは大きな改善でした。

      24 1938年,もっと多くの「金」が携え入れられ,会衆内の僕全員を神権的に任命することが確立されました。会衆の管理は,会の僕(後の,会衆の僕)とそれを援助する様々な僕たちの手にゆだねられ,全員が「忠実で思慮深い奴隷」の監督のもとに任命されるようになりました。c (マタイ 24:45-47)さらに1972年には,会衆が,一人の男子ではなく,長老たちの一団によって監督されるのが聖書的な方法である,ということが理解されました。(フィリピ 1:1)ほかにも,会衆のレベルと統治体のレベルの両方で,変更が加えられました。後者の一例として,2000年10月7日になされた事柄を挙げることができます。その日,ペンシルバニア州のものみの塔協会および関連する法人の理事として奉仕してきた統治体の成員が自発的にその職を辞した,ということが発表されました。忠実で思慮深い奴隷を代表する統治体は,そうすることにより,「神の会衆」とその仲間であるほかの羊に対する霊的な監督の仕事にいっそう多くの注意を向けることができるようになりました。(使徒 20:28)こうした取り決めすべては,改善となってきました。エホバの組織を強め,崇拝者たちに祝福となってきたのです。

      25 エホバの民の組織上の進展を生じさせたのはだれですか。どんな益がもたらされていますか。

      25 こうした改善をもたらしたのはだれでしょうか。組織力のある人々,あるいは頭脳明晰な人々が成し遂げたのでしょうか。そうではありません。エホバが,『わたしは金を携え入れる』と述べておられるからです。こうした進展すべては,神の導きの結果です。エホバの民は,神の導きに服して調整を行なうとき,益を得ます。民の間には平和が行き渡り,民は義に対する愛に動かされて神に仕えます。

      26 反対者たちでさえ,真のクリスチャンを見分けるどんな特徴に気づいていますか。

      26 神から与えられた平和には,変化を生じさせる効果があります。エホバはこう約束しておられます。「あなたの地で暴虐が聞かれることも,あなたの境界内で奪略や崩壊が聞かれることももはやない。そして,あなたは必ず自分の城壁を“救い”,自分の門を“賛美”と呼ぶであろう」。(イザヤ 60:18)まさにそのとおりです。反対者たちでさえ,真のクリスチャンの際立った特徴は豊かな平和であることを認めています。(ミカ 4:3)神とのこの平和,およびエホバの証人相互の平和のゆえに,クリスチャンの集会場所はどこも,暴虐に満ちた世界にあってさわやかなオアシスとなっています。(ペテロ第一 2:17)それは,全地の住民が「エホバに教えられる者」となる時に実現する豊かな平和の前触れなのです。―イザヤ 11:9; 54:13。

      神の是認の輝かしい光

      27 どんな絶えざる光が,エホバの「女」の上に輝いていますか。

      27 エホバは,エルサレムの上に輝く光の強さを描写し,こう述べておられます。「太陽はもはやあなたにとって昼の光とならず,月ももはや輝きのためにあなたに光を与えない。そして,エホバはあなたにとって必ず定めなく続く光となり,あなたの神はあなたの美となる。あなたの太陽はもはや沈むことなく,あなたの月も欠けることはない。エホバがあなたのために定めなく続く光となり,あなたの嘆きの日々は終了するからである」。(イザヤ 60:19,20)エホバは,ご自分の「女」のために,今後ずっと「定めなく続く光」となられます。太陽のように「沈む」ことも,月のように「欠ける」ことも決してありません。d 神の絶えざる是認の光は,神の「女」を代表する人々である油そそがれたクリスチャンの上に輝いています。彼らが大群衆と共に享受している霊的な光は非常に強く輝いているので,世の政治的あるいは経済的な情勢を覆ういかなる闇も,その光を弱めることはできません。そして,それらクリスチャンは,エホバが備えてくださっている輝かしい将来に確信を抱いています。―ローマ 2:7。啓示 21:3-5。

      28 (イ)帰還するエルサレムの住民に関して,何が約束されていますか。(ロ)1919年,油そそがれたクリスチャンは何を所有するようになりましたか。(ハ)義なる者たちは,どれほどの期間にわたって地を所有しますか。

      28 次いでエホバは,エルサレムの住民に関してこう言われます。「そしてあなたの民は,皆が義なる者となり,定めのない時に至るまで土地を所有するであろう。彼らはわたしの植える新芽,わたしの手の業であり,それはわたしが美しくされるためなのである」。(イザヤ 60:21)生来のイスラエルは,バビロンから帰還した時,「土地を所有」するようになりました。しかしその場合,「定めのない時に至るまで」とは,ローマ軍がエルサレムとユダヤ人国家を滅ぼした西暦1世紀までのことでした。1919年,油そそがれたクリスチャンの残りの者は霊的な捕らわれから出て来て,霊的な土地を所有するようになりました。(イザヤ 66:8)その土地,つまり活動の領域は,廃れることのない,パラダイスのような霊的繁栄を特徴としています。古代イスラエルとは違い,霊的なイスラエルは一団として不忠実になることはありません。さらにイザヤの預言は,地が,「豊かな平和」を特色とする文字どおりのパラダイスとなる時に,物質的な成就を見ます。その時,地的な希望を抱く義なる者たちは永久に地を所有することになるでしょう。―詩編 37:11,29。

      29,30 「小さな者」はどのように「千」となりましたか。

      29 イザヤ 60章の結びの部分には,エホバがご自身の名にかけて保証しておられる厳粛な約束があります。こう述べておられます。「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」。(イザヤ 60:22)散らされていた油そそがれた者たちは,1919年に活動を再開した時,「小さな者」でした。e しかし彼らは,霊的イスラエル人の残っている者たちが加えられるにつれ,数を増してゆきました。そして,大群衆を集める業が始まると,驚異的な増加が見られるようになりました。

      30 やがて,非常に多くの心の正直な人たちが,神の民の中に存在する平和と義に引き寄せられたので,「小さな者」は文字どおり「強大な国民」へと成長しました。現在では,世界のかなり多くの主権国家の人口を上回るまでになっています。エホバがイエス・キリストを通して王国の業を導き,その速度を速めてこられたことは明らかです。真の崇拝の世界的な拡大を目の当たりにしつつ,それにあずかれるのは,なんと胸の躍ることなのでしょう。そうです,この増加が,こうした事柄をはるか昔に預言されたエホバに栄光をもたらしていることを実感できるのは,喜ばしいことなのです。

      [脚注]

      a タルシシュは,現在スペインと呼ばれている地域の中に位置していたようです。しかし,参考文献によると,「タルシシュの船」という表現は,「タルシシュへの航海に向いた」船である「マストの高い外洋船」,つまり遠方の港への長い航海に適するとみなされた船の型を指しています。―列王第一 22:48。

      b 1930年より前にも,地的な希望を抱く活動的で熱心なクリスチャンが神のイスラエルと交わっていましたが,その人数が目に見えて増加し始めたのは1930年代になってからでした。

      c 当時,各地の会衆は会(company)と呼ばれていました。

      d 使徒ヨハネも,天的な栄光を受けた14万4,000人である「新しいエルサレム」を描写する際に,同様の言い回しを用いています。(啓示 3:12; 21:10,22-26)それはふさわしいことです。「新しいエルサレム」が表わしているのは,天的な報いを受け,イエス・キリストと共に,神の「女」である「上なるエルサレム」の主要な部分となった後の,神のイスラエルの成員すべてだからです。―ガラテア 4:26。

      e 1918年,み言葉を宣べ伝える業に参加している人の月ごとの平均は4,000人足らずでした。

      [305ページの図版]

      「女」は,「起きよ」と命じられる

      [312,313ページの図版]

      「タルシシュの船」はエホバの崇拝者を運んでいる

  • シオンに義が芽生える
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第22章

      シオンに義が芽生える

      イザヤ 61:1-11

      1,2 イスラエルには,どんな変化が生じようとしていますか。それをもたらすのはだれですか。

      自由をふれ告げよ! エホバは,ご自分の民を自由にして,先祖伝来の土地に復帰させることを決意しておられます。静かな雨が上がって種が芽を出すのと同様,真の崇拝が再び姿を現わします。その日が来ると,失意は,喜びにあふれる賛美へと変わり,悲嘆の灰に覆われていた頭には,神の是認という冠がかぶせられます。

      2 こうした驚嘆すべき変容をもたらすのはだれでしょうか。そうしたことを行なえるのはエホバだけです。(詩編 9:19,20。イザヤ 40:25)預言者ゼパニヤは,次のような預言的な命令を述べました。「シオンの娘よ,喜びの叫びを上げよ。イスラエルよ,歓呼せよ。エルサレムの娘よ,心のかぎり歓びかつ歓喜せよ。エホバはあなたに対する裁きを取り除かれた」。(ゼパニヤ 3:14,15)それはなんと喜ばしい時なのでしょう。西暦前537年にエホバが,バビロンから復帰した残りの者を集める時,人々は夢がかなったと感じることでしょう。―詩編 126:1。

      3 イザヤ 61章の預言の言葉にはどんな成就がありますか。

      3 この回復は,イザヤ 61章で予告されています。その預言が西暦前537年に成就したのは事実ですが,後の時代に,いっそう詳細な点まで成就します。そのいっそう詳細な成就には,1世紀においてはイエスと追随者たちが,そして現代においてはエホバの民が関係しています。そのため,霊感によるこの言葉は実に意味深いものとなっています。

      「善意の年」

      4 イザヤ 61章1節の最初の成就において,良いたよりを告げるよう任命されたのはだれですか。2番目の成就においては,だれですか。

      4 イザヤはこう書いています。「主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある。それは,エホバがわたしに油をそそぎ,柔和な者たちに良いたよりを告げるようにされたからである。神はわたしを遣わして,心の打ち砕かれた者を包帯で包み,とりこにされた者たちに自由を,捕らわれ人たちには目が大きく開かれることをふれ告げ(るようにされた)」。(イザヤ 61:1)良いたよりを告げるよう任命された,この者はだれでしょうか。最初の適用では,イザヤであると思われます。イザヤは神の霊感を受け,バビロンにいる捕らわれ人に対する良いたよりを記録しています。しかしイエスは最も重要な成就を指し示し,イザヤの言葉をご自身に適用されました。(ルカ 4:16-21)そうです,イエスは,柔和な者に良いたよりを告げるために遣わされ,その目的のために,バプテスマの際,聖霊によって油そそがれたのです。―マタイ 3:16,17。

      5 どんな人たちが,2,000年ほどにわたって良いたよりを宣べ伝えてきましたか。

      5 さらにイエスは,ご自分の追随者たちを教えて,福音宣明者つまり良いたよりを宣べ伝える者としました。西暦33年のペンテコステの時,それらの人たち約120人は聖霊で油そそがれ,神の霊的な子となりました。(使徒 2:1-4,14-42。ローマ 8:14-16)それらの人も,柔和な人や心の打ち砕かれた人に良いたよりを告げるよう任命されたのです。その120人は,そのように油そそがれる14万4,000人のうちの最初の者たちとなりました。そのグループの最後の者たちは,今でも地上で活動しています。このようにして,イエスの油そそがれた追随者たちは,約2,000年にわたり,「神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について」証しをしてきました。―使徒 20:21。

      6 古代において宣べ伝えられた良いたよりを聞くことから,だれが安らぎを得ましたか。今日においてはどうですか。

      6 霊感によるイザヤの音信は,バビロンにいる悔い改めたユダヤ人に安らぎをもたらします。そして,イエスとその弟子たちの時代にも,イスラエルにおける悪のゆえに心が打ち砕かれ,1世紀のユダヤ教の間違った宗教的伝統にとらわれて意気阻喪していたユダヤ人に,安らぎをもたらしました。(マタイ 15:3-6)今日でも,キリスト教世界の異教的な習慣や神を辱める伝統に陥っている無数の人々が,その宗教体制の中で行なわれている忌むべきことのゆえに「嘆息し,うめいて」います。(エゼキエル 9:4)良いたよりにこたえ応じる人々は,そうした哀れな状態から解放されます。(マタイ 9:35-38)理解の目が大きく開かれ,「霊と真理をもって」エホバを崇拝することを学ぶのです。―ヨハネ 4:24。

      7,8 (イ)どんな二つの「善意の年」がありますか。(ロ)エホバのどんな「復しゅうの日」がありますか。

      7 良いたよりを宣べ伝える業には,時刻表とも呼べるものがあります。イエスとその追随者たちは,次のような任務を与えられました。「エホバの側の善意の年とわたしたちの神の側の復しゅうの日とをふれ告げ,嘆き悲しむすべての者を慰め(よ)」。(イザヤ 61:2)1年は長い期間ではありますが,始まりと終わりがあります。エホバの「善意の年」とは,神が柔和な者たちに,自由をふれ告げる業にこたえ応じる機会を与える期間のことです。

      8 1世紀において,ユダヤ国民のための善意の年は,イエスが地上で宣教を開始した西暦29年に始まりました。イエスはユダヤ人に,「あなた方は悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と告げました。(マタイ 4:17)その善意の年はエホバの「復しゅうの日」が来るまで続き,その「日」が頂点に達した西暦70年,エホバはローマ軍がエルサレムとその神殿を滅ぼすのをお許しになりました。(マタイ 24:3-22)今日のわたしたちは,1914年に神の王国が天に設立された時に始まった,別の善意の年に生きています。この善意の年が終わると,もっと広範に及ぶ別の復しゅうの日が到来し,エホバは「大患難」において,この世界的な事物の体制全体に滅びをもたらします。―マタイ 24:21。

      9 今日,エホバの善意の年から益を受けるのはだれですか。

      9 今日,神の善意の年から益を受けるのはだれでしょうか。音信を受け入れ,柔和さを実証し,「あらゆる国民」の中で神の王国をふれ告げる業を熱心に支持する人々です。(マルコ 13:10)そのような人々は,良いたよりが本当の慰めをもたらすことに気づきます。一方,音信を退け,エホバの善意の年を活用することを拒む人々は,やがて神の復しゅうの日という現実に直面しなければならなくなります。―テサロニケ第二 1:6-9。

      神に栄光をもたらす霊的な実

      10 バビロンから帰還するユダヤ人は,エホバが自分たちのためにしてくださった大いなる事柄のゆえに,どのように感じますか。

      10 バビロンから帰還するユダヤ人は,エホバが自分たちのために大いなる事柄をしてくださった,と実感します。捕らわれ人としての悲嘆は,歓喜と賛美に変わります。ついに自由になったからです。こうしてイザヤは,「シオンについて嘆き悲しむ者たちに割り当てて,彼らに灰の代わりに頭飾りを,悲しみの代わりに歓喜の油を,落胆した霊の代わりに賛美のマントを与える」という預言的な任務を果たします。そして,「彼らは必ず義の大木,エホバの植えたものと呼ばれる。それは神が美しくされるためである」と書かれています。―イザヤ 61:3。

      11 1世紀のどんな人々には,大いなる事柄のゆえにエホバを賛美する十分の理由がありましたか。

      11 1世紀に,偽りの宗教への束縛からの解放を受け入れたユダヤ人も,自分たちのためにしてくださった大いなる事柄のゆえに神を賛美しました。霊的に死んだ国民から救い出され,落胆した霊の代わりに「賛美のマント」が与えられたのです。最初にそうした変化を経験したのはイエスの弟子たちでした。イエスの死に対する悲嘆は,復活した主により聖霊をもって油そそがれたことに対する歓びに変わりました。そのすぐ後,3,000人の柔和な者たちも同様の変化を経験しました。西暦33年のペンテコステの時に,それら油そそぎを受けたばかりのクリスチャンの伝道にこたえ応じて,バプテスマを受けたのです。(使徒 2:41)エホバに祝福されていると確信できるのは,なんと素晴らしいことだったのでしょう。「シオンについて嘆き悲しむ」代わりに聖霊を受け,「歓喜の油」でさわやかにされたのです。その油は,エホバに豊かに祝福されている人々の歓喜を象徴しています。―ヘブライ 1:9。

      12,13 (イ)西暦前537年に帰還したユダヤ人の間で「義の大木」となったのは,どんな人々でしたか。(ロ)西暦33年のペンテコステ以降,だれが「義の大木」となってきましたか。

      12 エホバはご自分の民を祝福し,「義の大木」をお与えになります。この大木とは,どんな人々のことでしょうか。西暦前537年より後の時期に,神の言葉を研究して黙想し,エホバの義の規準を身に付けた人々です。(詩編 1:1-3。イザヤ 44:2-4。エレミヤ 17:7,8)エズラ,ハガイ,ゼカリヤ,大祭司ヨシュアといった人々は,際立った「大木」であり,国民の中で真理を擁護し,霊的な汚染を食い止めるたくましい人々でした。

      13 西暦33年のペンテコステ以降,神は,新しい国民である「神のイスラエル」の霊的な地所に,同様の「義の大木」を,すなわち油そそがれた勇気あるクリスチャンを植えてこられました。(ガラテア 6:16)幾世紀も経て,それらの「木」は14万4,000本を数えるようになり,義にかなった実を生み出して,エホバ神を美しくする,つまり神に栄光をもたらしています。(啓示 14:3)エホバが,神のイスラエルの残っている者たちを一時的な無活動状態から生き返らせた1919年以来,こうした堂々たる「木」の最後の者たちが生い茂っています。エホバは,その者たちに霊的な水を豊かに供給して,実を結ぶ義なる木々の森とも言うべきものを生み出してこられました。―イザヤ 27:6。

      14,15 エホバによって解き放たれた崇拝者たちは,(イ)西暦前537年,(ロ)西暦33年,(ハ)そして1919年に,どんな仕事に着手しましたか。

      14 次いでイザヤは,こうした「木」の働きを際立たせ,こう述べています。「彼らは久しく荒れ廃れたままであった場所を必ず建て直し,先の時代の荒廃した場所をも興し,荒れ廃れた都市,代々にわたって荒廃している所を必ず新しくするであろう」。(イザヤ 61:4)バビロンから帰還した忠実なユダヤ人は,ペルシャのキュロス王の布告により,荒廃したまま長きにわたって放置されていたエルサレムとその神殿を建て直しました。西暦33年以降,また1919年以降の期間も,復興の仕事が特色となります。

      15 西暦33年,イエスの弟子たちは,イエスの捕縛と審理と死のゆえに,深く悲しんでいました。(マタイ 26:31)しかし,復活したイエスが現われると,弟子たちの見方は変化しました。そして,聖霊を注がれると,「エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで」,良いたよりを宣べ伝える業に忙しく携わるようになりました。(使徒 1:8)そのようにして,清い崇拝を復興し始めたのです。同様に,1919年以降,イエス・キリストは,油そそがれた兄弟たちの残りの者を用いて,「代々にわたって荒廃している所」を建て直してこられました。キリスト教世界の僧職者は,十数世紀にわたり,エホバの知識を分け与えることをせず,代わりに,人間の作った伝統や非聖書的な教理を教えていました。油そそがれたクリスチャンは,真の崇拝の復興を進められるよう,偽りの宗教に汚された習わしを会衆からぬぐい去りました。そして,世界が経験したことのないほど大々的なものとなる証言活動を開始しました。―マルコ 13:10。

      16 復興の業を行なう油そそがれたクリスチャンを手伝っているのはだれですか。その人たちにはどんな仕事がゆだねられてきましたか。

      16 それは壮大な任務でした。神のイスラエルの比較的少数の残っている者たちが,一体どうしてそれほどの大仕事を成し遂げられるのでしょうか。エホバはイザヤに霊感を与え,こう宣言させておられます。「よそからの者たちが実際に立って,あなた方の羊の群れを牧し,異国の者たちはあなた方の農夫やぶどう栽培者となる」。(イザヤ 61:5)この比喩的な,よそからの者と異国の者たちとは,イエスの「ほかの羊」の「大群衆」であることが明らかになりました。a (ヨハネ 10:11,16。啓示 7:9)その人たちは,天的な相続財産を受ける者として聖霊によって油そそがれてはいません。むしろ,地上の楽園での永遠の命という希望を抱いています。(啓示 21:3,4)それでもやはりエホバを愛しており,霊的な牧羊や農耕やぶどう栽培の務めをゆだねられてきました。そうした活動は,卑しい仕事ではありません。この働き人たちは,神のイスラエルの残っている者たちの指導のもとで,人々を牧し,養い,収穫する業を手伝っています。―ルカ 10:2。使徒 20:28。ペテロ第一 5:2。啓示 14:15,16。

      17 (イ)神のイスラエルの成員は何と呼ばれるようになりますか。(ロ)罪の許しのために必要な唯一の犠牲とは何ですか。

      17 神のイスラエルはどうでしょうか。エホバはイザヤを通して,こう告げておられます。「あなた方は,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう。あなた方は諸国民の資産を食べ,彼らの栄光を受けつつ自分のことを意気盛んに話すであろう」。(イザヤ 61:6)古代イスラエルにおいて,エホバはレビ族の祭司団を設け,祭司たち自身と仲間のイスラエル人のために犠牲をささげるようにされました。しかし,西暦33年にエホバは,レビ族の祭司団を用いることをやめ,それより勝った取り決めを実施なさいました。神は人類の罪のための犠牲としてイエスの完全な命を受け入れ,その時以来,もはや犠牲は必要でなくなりました。イエスの犠牲はいつまでも有効なのです。―ヨハネ 14:6。コロサイ 2:13,14。ヘブライ 9:11-14,24。

      18 神のイスラエルはどんな祭司団を構成しますか。どんな任務を帯びていますか。

      18 では,神のイスラエルの成員はどんな意味で「エホバの祭司」なのでしょうか。使徒ペテロは,仲間の油そそがれたクリスチャンに手紙を書いた際,こう述べています。「あなた方は,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の『卓越性を広く宣明するため』なのです」。(ペテロ第一 2:9)ですから,油そそがれたクリスチャンは,一つのグループとして祭司団を構成しており,エホバの栄光について諸国民に語るという明確な任務を帯びています。その人々は,神の証人となるのです。(イザヤ 43:10-12)終わりの日を通じて,油そそがれたクリスチャンは,この極めて重要な任務を忠実に遂行してきました。その結果,今では幾百万もの人々が加わり,共にエホバの王国に関する証しの業を行なっています。

      19 油そそがれたクリスチャンは,どんな奉仕を行なう特権を得ますか。

      19 さらに,神のイスラエルの成員には,別の仕方で祭司として奉仕する見込みがあります。死んだ後,天での不滅の霊の命へと復活し,イエスと共に王国で支配する者として,また神の祭司として仕えるのです。(啓示 5:10; 20:6)そのような者として,イエスの贖いの犠牲の恩恵を地上の忠実な人々に適用するという特権を得ます。啓示 22章に記録されている使徒ヨハネの幻の中でも,これらの成員は「木」として描かれています。その幻では,14万4,000本の「木」すべては天にあって,『月ごとに実を生じ,実を十二回生み出し,その木の葉は諸国民をいやすためのもの』となっています。(啓示 22:1,2)なんと素晴らしい,祭司としての奉仕なのでしょう。

      恥と屈辱,そして歓び

      20 反対にもかかわらず,王なる祭司たちにはどんな祝福がありますか。

      20 エホバの善意の年が始まった1914年以来,それら王なる祭司は,キリスト教世界の僧職者からの絶え間ない反対に遭ってきました。(啓示 12:17)しかし,良いたよりの伝道をやめさせようとする試みはすべて失敗に終わりました。イザヤの預言はそのことを予告し,こう述べています。「あなた方の恥の代わりに,二倍の受け分があり,屈辱の代わりに,彼らは自分の分け前について喜び叫ぶであろう。それゆえ,彼らは自分の地で二倍の受け分をも所有することになる。定めのない時まで続く歓びが彼らのものとなる」。―イザヤ 61:7。

      21 油そそがれたクリスチャンは,どのようにして祝福の二倍の受け分を享受するようになりましたか。

      21 第一次世界大戦中,油そそがれた残りの者は,国家主義的なキリスト教世界の手にかかって,恥と屈辱を被りました。僧職者を含む人々は,ブルックリンの本部で働く8人の忠実な兄弟たちを事実無根の扇動罪で告発し,8人は不当にも9か月間投獄されました。やがて,1919年の春にそれらの兄弟たちは自由になり,後日,すべての告発が取り下げられました。こうして,宣べ伝える業をやめさせようとする企ては裏目に出ました。エホバは,ご自分の崇拝者たちがいつまでも恥を被るままにはせず,その者たちを解放し,霊的な地所つまり「地」に戻されたのです。その地で,祝福の二倍の受け分が与えられました。経験した苦しみすべてを補って余りあるほどの祝福をエホバから受けたのです。確かに,喜び叫ぶのも当然ではないでしょうか。

      22,23 油そそがれたクリスチャンは,どのようにしてエホバに倣ってきましたか。エホバはどのように報いてこられましたか。

      22 エホバが次に述べておられる事柄も,今日のクリスチャンにとって歓びの理由となります。「わたし,エホバは,公正を愛し,強奪を不義と共に憎んでいる……。そして,わたしは彼らの賃金を真実をもって与え,定めなく存続する契約を彼らに対して結ぶであろう」。(イザヤ 61:8)油そそがれた残りの者は,聖書を研究することにより,公正を愛し,邪悪さを憎むことを学びました。(箴言 6:12-19; 11:20)『剣をすきの刃に打ち変え』,人間の戦争や政治上の動乱などに関して中立を保つことも学びました。(イザヤ 2:4)そして,中傷,姦淫,盗み,酩酊など,神を辱める習わしも捨てました。―ガラテア 5:19-21。

      23 油そそがれたクリスチャンが創造者と同じように公正を愛しているので,エホバは彼らに「賃金を真実をもって」与えてこられました。そうした「賃金」の一つは,定めなく存続する契約,つまりイエスが亡くなる前の晩に追随者たちに発表した新しい契約です。追随者たちは,まさにこの契約を基盤として,霊的な国民,神の特別な民となりました。(エレミヤ 31:31-34。ルカ 22:20)その契約のもとで,エホバはイエスの贖いの犠牲の恩恵すべてを適用なさいます。その中には,油そそがれた者および他の忠実な人々すべてのための罪の許しが含まれます。

      エホバの祝福にあって歓喜する

      24 諸国の民の中から来たどんな人々が「子孫」となり,来て,祝福を受けていますか。どのようにして「子孫」となりましたか。

      24 諸国民の中にも,エホバがご自分の民を祝福しておられることを認めている人たちがいます。エホバはその点を予告し,こう約束しておられます。「彼らの子孫は諸国の民の中においても実際に知られるようになり,彼らの末孫はもろもろの民の中で知られるようになる。彼らを見る者は皆,彼らがエホバの祝福された子孫であることを彼らについて認めるであろう」。(イザヤ 61:9)神のイスラエルの成員である油そそがれたクリスチャンは,エホバの善意の年の期間中,諸国の民の中で活動を続けてきました。今では,それらクリスチャンの宣教奉仕にこたえ応じた人々は数百万を数えます。諸国の民から来たその人々は,神のイスラエルと密接に協力して働くことにより,「エホバの祝福された子孫」になるという特権を得ています。その人々が幸福であることは,全人類の見るところとなっています。

      25,26 クリスチャンは皆,イザヤ 61章10節で言い表わされている心情に同感であることをどのように示しますか。

      25 油そそがれた者もほかの羊も,クリスチャンは皆,とこしえにエホバを賛美することを待ち望んでいます。そして,霊感のもとに次のように述べた預言者イザヤに心から賛同します。「わたしは必ずエホバにあって歓喜する。わたしの魂はわたしの神にあって喜びに満ちる。神は救いの衣をわたしに着せてくださった。義のそでなしの上着でわたしを包んでくださった。それは祭司にならって頭飾りを着ける花婿のようであり,飾り物で美しく装う花嫁のようだ」。―イザヤ 61:10。

      26 「義のそでなしの上着」を身に着けた油そそがれたクリスチャンは,エホバの目から見て浄く汚れのない状態を保とうと決意しています。(コリント第二 11:1,2)天的な命を受け継ぐ者としてエホバから義と宣せられているので,大いなるバビロンの荒廃した地所に戻ることは決してありません。そこから解放されたのです。(ローマ 5:9; 8:30)この人々にとって,救いの衣は極めて貴重なものです。同様に,仲間であるほかの羊も,清い崇拝に関するエホバ神の高潔な規準を遵守しようと決意しています。「自分の長い衣を子羊の血で洗って白く」したので,義と宣せられており,「大患難」を生き残ることになっています。(啓示 7:14。ヤコブ 2:23,25)その時まで,仲間である油そそがれた者たちに倣い,大いなるバビロンによるいかなる汚染も避けてゆきます。

      27 (イ)千年統治の期間中,注目に値するどんなものが「芽生え」ますか。(ロ)すでに義は,人類の中にどのように芽生えていますか。

      27 今日,エホバの崇拝者たちは霊的パラダイスにいることを喜びとしています。まもなく,物質的な意味でもパラダイスを楽しむようになるでしょう。わたしたちは,その時をまさに心から待ち望んでいます。イザヤ 61章の結びの言葉は,その時のことを生き生きと描写し,こう述べています。「地が新芽を生じさせるように,園がそこに種をまかれるものを芽生えさせるように,主権者なる主エホバも同じように義と賛美を諸国民すべての前に芽生えさせられる」。(イザヤ 61:11)キリストの千年統治の期間中,地には『義が芽生え』ます。人々は意気揚々と叫び,義は地の果てにまで広がります。(イザヤ 26:9)とはいえ,諸国民すべての前で賛美の声を上げるのに,その輝かしい日を待つ必要はありません。天の神に栄光を帰し,神の王国に関する良いたよりを告げ知らせている幾百万もの人々の間に,すでに義が芽生えています。今でさえ,信仰と希望を抱くわたしたちには,神の祝福にあって歓喜する十分すぎるほどの理由があるのです。

      [脚注]

      a イザヤ 61章5節は,古代においても成就を見たかもしれません。エルサレムに帰還する生来のユダヤ人に同行した非ユダヤ人が,その地を復興する仕事を手伝ったと思われるからです。(エズラ 2:43-58)しかし,この預言の6節以降は,神のイスラエルだけに適用されるようです。

      [323ページの図版]

      イザヤには,捕らわれのユダヤ人にふれ告げるべき良いたよりがある

      [331ページの図版]

      西暦33年以降,エホバは14万4,000本の「義の大木」を植えてこられた

      [334ページの図版]

      地には義が芽生える

  • 「新しい名」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第23章

      「新しい名」

      イザヤ 62:1-12

      1 イザヤ 62章にはどんな保証が記録されていますか。

      保証,慰め,回復の希望 ― バビロンで意気消沈しているユダヤ人は,まさにそうしたものを必要としています。エルサレムとその神殿が破壊されてから,数十年が経過しています。バビロンから800㌔ほど離れたユダは荒廃したままであり,ユダヤ人はエホバに忘れられたかのように見えます。何が,この民の状況を好転させ得るでしょうか。あなた方を故国へ連れ戻し,清い崇拝の復興を許すというエホバからの約束です。そのとおりになれば,「完全に捨てられた」とか「荒廃している」などと言われることはなくなり,その代わりに,神の是認を意味する名で呼ばれることでしょう。(イザヤ 62:4。ゼカリヤ 2:12)イザヤ 62章には,そうした約束がたくさん収められています。とはいえ,回復に関する他の預言と同様,この章も,ユダヤ人のバビロン捕囚からの解放をはるかに超える幾つもの論点を取り上げています。イザヤ 62章は,その主要な成就において,エホバの霊的な国民である「神のイスラエル」の救いが確実であることを保証しています。―ガラテア 6:16。

      エホバは静かにしてはいない

      2 エホバはどのように再びシオンに好意を示されますか。

      2 バビロンは西暦前539年に覆されます。その後,ペルシャのキュロス王は布告を出し,神に恐れを抱くユダヤ人がエルサレムに戻ってエホバの崇拝を復興できるようにします。(エズラ 1:2-4)西暦前537年,ユダヤ人帰還者の第一陣が故国に到着し,エホバは以前のようにエルサレムに好意を示されます。次のような温かい預言的な宣言に表わされているとおりです。「わたしはシオンのために黙っていない。エルサレムのために静かにしていない。その義が輝きのように,その救いが燃えるたいまつのように出て行くまでは」。―イザヤ 62:1。

      3 (イ)地的なシオンが最終的にエホバに退けられたのはなぜですか。だれがその代わりとなりましたか。(ロ)どんな逸脱が,いつ生じましたか。今日,わたしたちはどんな時期に生活していますか。

      3 西暦前537年,エホバは,シオンつまりエルサレムを復興するというご自身の約束を果たされました。住民は神による救いを経験し,その者たちの義は明るく輝きました。しかし後に,彼らは再び清い崇拝から離れてゆき,メシアであるイエスを退けるまでになりました。そのため,選ばれた国民としての彼らを,エホバは最終的にお見捨てになりました。(マタイ 21:43; 23:38。ヨハネ 1:9-13)エホバは,「神のイスラエル」という新しい国民を誕生させ,その新しい国民が神の特別な民となりました。1世紀に,その国民の成員は,当時知られていた世界の各地で熱心に良いたよりを宣べ伝えました。(ガラテア 6:16。コロサイ 1:23)残念なことに,使徒たちの死後,真の宗教からの逸脱が生じ,その結果,今日のキリスト教世界に見られるような背教したキリスト教が生まれました。(マタイ 13:24-30,36-43。使徒 20:29,30)幾世紀もの間,キリスト教世界は,エホバの名に大きなそしりをもたらすことを許されていました。しかしついに1914年,エホバの「善意の年」が始まり,それとともにイザヤの預言のこの部分が主要な成就を見るようになりました。―イザヤ 61:2。

      4,5 (イ)シオンとその子たちは,今日の何,またはだれの象徴ですか。(ロ)エホバはどのようにシオンを用いて,『その救いを燃えるたいまつのように』してこられましたか。

      4 今日,シオンを復興するというエホバの約束は,神の天の組織である「上なるエルサレム」に成就しています。地上においてその組織を代表しているのは,その子たちである,霊によって油そそがれたクリスチャンです。(ガラテア 4:26)エホバの天の組織は,献身的な助け手,すなわち,油断なく見張り,愛があり,勤勉な者として仕えています。その組織が1914年にメシア王国を産んだのは,なんと興奮を呼ぶ出来事だったのでしょう。(啓示 12:1-5)とりわけ1919年以降,その組織の地的な子らは,義と救いについて諸国民に宣べ伝えてきました。イザヤが予告しているとおり,その子たちは自分たちの光を輝かせ,たいまつのように闇を照らしてきたのです。―マタイ 5:15,16。フィリピ 2:15。

      5 エホバはご自分の崇拝者たちに深い関心を抱いておられ,シオンとその子たちに約束した事柄すべてを果たすまでは,休むことも静かにしていることもありません。油そそがれた者の残っている者たちと,その仲間である「ほかの羊」も,沈黙を守ろうとはしません。(ヨハネ 10:16)まさに大きな声を上げて,救いに至る唯一の道を人々に指し示しています。―ローマ 10:10。

      エホバから与えられた「新しい名」

      6 エホバはシオンに関して,どんな考えをお持ちですか。

      6 エホバは,古代エルサレムが表わしていたご自分の天的な「女」であるシオンに関して,どんな考えをお持ちでしょうか。こう述べておられます。「女よ,諸国の民は必ずあなたの義を見,王たちは皆あなたの栄光を見るであろう。そして,あなたはエホバの口が定める新しい名で実際に呼ばれるであろう」。(イザヤ 62:2)イスラエル人が義にかなった行ないをするとき,諸国の民は注意深く観察せざるを得ません。王たちでさえ,エホバがエルサレムを用いておられること,そして自分たちが行使するいかなる支配権もエホバの王国と比べるなら取るに足りないということを認めざるを得ないのです。―イザヤ 49:23。

      7 シオンの新しい名は何を意味していますか。

      7 ここでエホバは,新しい名を与えることにより,シオンの状態が変化したことを裏付けておられます。その新しい名は,西暦前537年以降,シオンの地的な子たちが享受している祝福された状態と誉れある身分を意味しています。a また,エホバがシオンをご自分に属するものとして認めておられることも示しています。今日,神のイスラエルは,そのようにしてエホバに喜んでいただいていることに胸を躍らせており,ほかの羊も共に歓びを抱いています。

      8 エホバはどのようにシオンに誉れを与えてこられましたか。

      8 エホバは,シオンに新しい名を与えた後,こう約束しておられます。「あなたは必ずエホバのみ手にある美の冠となり,あなたの神のたなごころにある王者のターバンとなる」。(イザヤ 62:3)エホバは,ご自分の象徴的な妻である天的なシオンを掲げ,見る者がそれを称賛するようにされます。(詩編 48:2; 50:2)美の冠と「王者のターバン」は,シオンが誉れと権威を身に着けていることを示しています。(ゼカリヤ 9:16)天的なシオンである「上なるエルサレム」を代表する神のイスラエルは,活動する神のみ手 ― 神が行使された力 ― の生み出した驚くべき結果です。(ガラテア 4:26)その霊的な国民はエホバの助けを受け,忠誠と専心の目ざましい記録を樹立してきました。油そそがれた者とほかの羊から成る幾百万もの人々は強められ,際立った信仰と愛を実証しています。油そそがれた者は,栄光ある天的な報いを受けた後,キリストの千年統治期間中,うめいている創造物を永遠の命へと引き上げるための,エホバのみ手にある道具となります。―ローマ 8:21,22。啓示 22:2。

      『エホバはあなたを喜びとされた』

      9 シオンの変容について説明してください。

      9 新しい名を授けられることは,地的な子たちが代表する天的なシオンの喜ばしい変容の一部をなしています。こう書かれています。「あなたはもはや完全に捨てられた女とは言われず,あなたの地も,もはや荒廃しているとは言われない。かえって,あなたは,“わたしの喜びは彼女にある”と呼ばれ,あなたの地は,“妻として所有される”と呼ばれるであろう。エホバはあなたを喜びとし,あなたの地は妻として所有されるからである」。(イザヤ 62:4)地的なシオンは,西暦前607年に滅びて以来ずっと荒廃しています。しかし,エホバの言葉はシオンに,その地が復興して,そこに再び人が住むようになることを保証しています。荒れ果てていたシオンはもはや完全に捨てられた女ではなくなり,その地ももはや荒廃した所ではなくなるのです。西暦前537年のエルサレムの復興は,かつての廃墟の状況とは全く対照的な新たな状態を意味します。エホバは,シオンが「わたしの喜びは彼女にある」と呼ばれ,その地が「妻として所有される」と呼ばれると宣言しておられます。―イザヤ 54:1,5,6; 66:8。エレミヤ 23:5-8; 30:17。ガラテア 4:27-31。

      10 (イ)神のイスラエルはどんな変容を遂げましたか。(ロ)神のイスラエルの「地」とは何ですか。

      10 1919年以降,神のイスラエルも同様の変化を経験しました。最初の世界大戦中,油そそがれたクリスチャンは神に離縁されて所有者がいないように見えました。しかし1919年,恵まれた身分に戻され,崇拝の方法も浄められました。その影響は,教える事柄,組織,活動に及びました。神のイスラエルは,自らの「地」である霊的な地所,つまり活動の領域に入ったのです。―イザヤ 66:7,8,20-22。

      11 どのような意味で,ユダヤ人は自分たちの母を妻として所有しますか。

      11 エホバは,ご自分の民の新たな恵まれた立場をさらに際立たせ,こう宣言しておられます。「若い男が処女を妻として所有するように,あなたの子らもあなたを妻として所有するであろう。そして,あなたの神は花婿が花嫁に抱く歓喜をもって,まさにあなたのことを歓喜されるであろう」。(イザヤ 62:5)シオンの「子ら」であるユダヤ人は,どのようにして自分たちの母を妻として所有するのでしょうか。バビロンでの流刑から解き放たれて帰還するシオンの子らが自分たちのかつての首都を取得し,再びそこに住み着く,という意味においてです。そうなる時,シオンはもはや荒廃してはおらず,子らで満ちることになります。―エレミヤ 3:14。

      12 (イ)エホバは,油そそがれたクリスチャンが,結婚関係によってご自身と結ばれている組織の一部であるということを,どのようにはっきり示してこられましたか。(ロ)エホバがご自分の民を扱われる仕方は,どんな点で,今日の結婚生活の崇高な模範となっていますか。(342ページの囲み記事をご覧ください。)

      12 それと対応して,1919年以来,天的なシオンの子たちは自分たちの地である霊的な地所を取得してきました。その地には,「妻として所有される」という預言的な名があります。それら油そそがれたクリスチャンは,その地においてクリスチャンとして活動してきたので,「[エホバの]み名のための民」であることは明らかです。(使徒 15:14)また,王国の実を生み出し,エホバのみ名を告げ知らせてきたので,エホバがそれらのクリスチャンを喜びとしておられることも明白です。神は,その人々が,破れることのない一致のうちにご自分と結ばれた組織の一部である,ということをはっきり示してこられました。エホバは,それらのクリスチャンに聖霊をもって油そそぎ,霊的な捕らわれから解放し,全人類に王国の希望を宣べ伝えるために用いることにより,花婿が花嫁に抱く喜びをもってその人々に歓びを感じていることを実証してこられました。―エレミヤ 32:41。

      「あなた方の側に沈黙があってはならない」

      13,14 (イ)古代において,どのようにエルサレムは人々を安全に守る都市となりますか。(ロ)現代において,どのようにシオンは『地における賛美』となってきましたか。

      13 神の民は,エホバから比喩的な意味のある新しい名を与えられて,安心感を覚えます。神に認められ,神に所有されていることが分かるからです。次にエホバは別の例えを用い,城壁に囲まれた都市に対するかのようにして,ご自分の民にこう語りかけておられます。「エルサレムよ,あなたの城壁の上にわたしは見張りの者たちを配置した。一日じゅう,そして夜通し,絶えず,彼らが黙っていることがあってはならない。エホバのことを語り告げている者よ,あなた方の側に沈黙があってはならない。神が固く定めてくださるまで,エルサレムを地に賛美として置いてくださるまで,神に対して沈黙してはならない」。(イザヤ 62:6,7)忠実な残りの者がバビロンから帰還した後,エホバの定めの時に,エルサレムは確かに『地における賛美』― 住民を安全に守る,城壁に囲まれた都市 ― となります。そうした城壁の上に立つ見張りの者たちは,昼も夜も油断なく都市の安全を確保し,市民に警報を伝えます。―ネヘミヤ 6:15; 7:3。イザヤ 52:8。

      14 現代において,エホバはご自分の油そそがれた見張りの者たちを用いて,柔和な人々に偽りの宗教の束縛から自由を得るための道を示してこられました。そうした人々は,神の組織に入って来るよう招かれており,その組織の中で,霊的な汚染や不敬虔な影響力からの保護を見いだし,エホバの不興を受けることがないように守られています。(エレミヤ 33:9。ゼパニヤ 3:19)そうした保護の点で肝要な役割を果たしているのは,見張りの者級,つまり『時に応じた[霊的な]食物』を供給する「忠実で思慮深い奴隷」です。(マタイ 24:45-47)見張りの者級と共に働く「大群衆」も,シオンを『地における賛美』とする面で重要な役割を果たしています。―啓示 7:9。

      15 見張りの者級とその仲間たちはどのように絶えずエホバに仕えていますか。

      15 見張りの者級とその仲間たちは引き続き奉仕しています。彼らが魂のこもった態度を持っていることは,幾百万もの忠実な人々が熱心に活動し,それを,旅行する監督と妻たち,エホバの証人の各地のベテル・ホームや印刷施設の自発奉仕者たち,宣教者,特別・正規・補助開拓者たちが支えていることから分かります。さらに,新しい王国会館を建設し,病気の人を見舞い,医療上の難しい状況に直面している人を援助し,災害や事故の被害者に時宜を得た救援を差し伸べる,といった面でも骨折って働いています。そうした自己犠牲的な人々の中には,時に文字どおり「昼も夜も」奉仕する人も少なくありません。―啓示 7:14,15。

      16 エホバの僕たちは,どんな意味で『神に対して沈黙しない』ようにしますか。

      16 エホバの僕たちは,たゆまず祈り,神の「ご意志が天におけると同じように,地上においてもなされ(る)」ことを願い求めるよう励まされています。(マタイ 6:9,10。テサロニケ第一 5:17)真の崇拝の復興に関する願いや希望が聞き届けられるまで「[エホバ]に対して沈黙してはならない」と説き勧められているのです。イエスも,絶えず祈ることの必要性を強調して,追随者たちが『日夜神に向かって叫ぶ』ことを強く促しておられます。―ルカ 18:1-8。

      神に対する奉仕は報われる

      17,18 (イ)シオンの住民は,自分たちの労苦の実をどのように楽しむことを期待できますか。(ロ)今日のエホバの民は,自分たちの労苦の実をどのように楽しんでいますか。

      17 エホバがご自分の民にお与えになる新しい名は,その民の努力が無駄ではないことの保証となります。「エホバはその右手とその強い腕とをもって誓われた。『わたしはあなたの穀物をもはやあなたの敵に食物として与えない。また,あなたが労したあなたの新しいぶどう酒を異国の者たちが飲むこともない。そうではなく,それを集める者たちがそれを食べ,彼らは必ずエホバを賛美するであろう。それを取り集める者たちが,わたしの聖なる中庭でそれを飲むのである』」。(イザヤ 62:8,9)エホバの右手と強い腕は,神の力と強さの象徴です。(申命記 32:40。エゼキエル 20:5)神は,右手と強い腕をもって誓うことにより,シオンの状況を変化させようと決意していることを示しておられます。西暦前607年,エホバは,シオンが敵たちによる略奪を受けて,所有物を強奪されることをお許しになります。(申命記 28:33,51)しかし今後,シオンの持ち物を楽しむのは,それに対する正当な権利のある者たちだけです。―申命記 14:22-27。

      18 この約束の現代の成就において,回復したエホバの民は素晴らしい霊的繁栄を経験しています。自分の労苦の実 ― 数を増すクリスチャンの弟子たち,および豊かな霊的食物 ― を存分に楽しんでいるのです。(イザヤ 55:1,2; 65:14)エホバは,ご自分の民が忠実であるので,敵の勢力がその民の霊的繁栄をかき乱したり,魂をこめた奉仕の成果を奪い取ったりすることを許されません。エホバへの奉仕として行なわれる働きは何一つ無駄ではありません。―マラキ 3:10-12。ヘブライ 6:10。

      19,20 (イ)ユダヤ人がエルサレムに帰還できるよう,どのように道が整えられますか。(ロ)現代において,柔和な人々がエホバの組織に入って来られるよう,どのように道が整えられてきましたか。

      19 この新しい名により,エホバの組織は心の正直な人々にとっても魅力的なものとなっています。大勢の人々が群れ集まっており,その人々のための道は開かれています。イザヤの預言はこう述べています。「あなた方は出よ,門を通って出よ。民の道を整えよ。土を盛り上げよ,土を盛り上げて街道を作れ。石を取り除け。もろもろの民のために旗じるしを掲げよ」。(イザヤ 62:10)この呼びかけは,最初の成就において,エルサレムに帰還するためにバビロニアの諸都市の門から出ることについて述べているようです。帰還する人々は,旅を容易にするために道から石を除き,道を示すために旗じるしを掲げることになっています。―イザヤ 11:12。

      20 1919年以来,油そそがれたクリスチャンは神への奉仕のために取り分けられ,「神聖の道」を歩んできました。(イザヤ 35:8)大いなるバビロンから出て霊的な街道を歩く最初の者たちとなったのです。(イザヤ 40:3; 48:20)神の力ある業を宣明する面で,またこの街道に至る道を他の人々に知らせる面で先頭に立つ特権を,神はそれらクリスチャンにお与えになりました。石を取り除く,つまりつまずきのもとを除き去ることは,おもにそれらクリスチャン自身の益のためでした。(イザヤ 57:14)神の目的と教えを見極める必要があったのです。偽りの信条は命に至る通り道においてつまずきの石となるのに対し,エホバのみ言葉は「大岩を打ち砕くかじ場のハンマーのよう」です。油そそがれたクリスチャンは,そのみ言葉をもって,エホバに仕えようとする人々を転ばせかねない数々の石を砕きました。―エレミヤ 23:29。

      21,22 エホバは,偽りの宗教から離れる人々のために,どんな旗じるしを立てておられますか。どうしてそう言えますか。

      21 西暦前537年,エルサレムは,帰還して神殿を再建するようユダヤ人の残りの者を差し招く旗じるしとなりました。(イザヤ 49:22)油そそがれた残りの者は,1919年に偽りの宗教への束縛から救出された時,当てもなくさまよったりはしませんでした。行き先を知っていたのです。エホバが旗じるしを立てておられたからです。どんな旗じるしでしょうか。イザヤ 11章10節が次のように予告しているのと同じ旗じるしです。「その日には,もろもろの民のための旗じるしとして立ち上がるエッサイの根がある」。使徒パウロはこの言葉をイエスに適用しています。(ローマ 15:8,12)そうです,この旗じるしとは,天のシオンの山で王として統治しておられるキリスト・イエスのことなのです。―ヘブライ 12:22。啓示 14:1。

      22 油そそがれたクリスチャンとほかの羊はイエス・キリストを中心として集められ,一致して至高の神を崇拝しています。イエスの支配権は,エホバの宇宙主権を立証し,地上のすべての国民から来た心の正直な人々を祝福するという役割を果たします。そのことを考えると,わたしたちは皆,賛美をもってイエスをほめたたえることに加わりたいと思うのではないでしょうか。

      「あなたの救いは来る」!

      23,24 神に信仰を抱く人々に,どのように救いがもたらされていますか。

      23 エホバがご自分の妻のような組織にお与えになる新しい名は,その組織の子たちのとこしえの救いとも関係があります。イザヤはこう書いています。「見よ,エホバご自身がそれを地の最も遠い所にまで聞こえさせた。『あなた方はシオンの娘に言え,「見よ,あなたの救いは来る。見よ,神が与えられる報いは神と共にあり,その払ってくださる賃金はそのみ前にある」と』」。(イザヤ 62:11)バビロンが倒れ,ユダヤ人が故国に帰還した時,ユダヤ人に救いが来ました。しかしこの言葉は,もっと壮大な事柄を指し示しています。エホバの宣言は,エルサレムに関する次のゼカリヤの預言を思い起こさせます。「シオンの娘よ,大いに喜べ。エルサレムの娘よ,勝利の叫びを上げよ。見よ,あなたの王があなたのもとに来る。義にかなった者,救われた者である。謙遜であり,ろばに,しかも成熟した,雌ろばの子に乗っている」。―ゼカリヤ 9:9。

      24 イエスは,水のバプテスマを受けて神の霊をもって油そそがれてから3年半後,ろばに乗ってエルサレムに入り,神殿を清めました。(マタイ 21:1-5。ヨハネ 12:14-16)今日,イエス・キリストは,神に信仰を抱くすべての人にエホバからの救いをもたらしています。イエスは,1914年に即位して以来,エホバに任命された裁き主また刑執行者ともなっています。即位から3年半後の1918年には,油そそがれたクリスチャンの会衆が地上で代表しているエホバの霊的神殿を清めました。(マラキ 3:1-5)イエスが旗じるしとして掲げられたことは,メシア王国を支持する人々を全地から集める壮大な業の始まりをはっきり示すものとなりました。古代の型と同様,1919年に神のイスラエルが大いなるバビロンから解放された時,そのイスラエルに「救い」が来ました。自己犠牲的な収穫の働き人が受けることになっている「報い」あるいは「賃金」とは,天での不滅の命もしくは地上でのとこしえの命です。忠実を保つ人は皆,自分の「労苦が主にあって無駄でない」ことを確信できます。―コリント第一 15:58。

      25 エホバの民には,どんな保証が与えられていますか。

      25 エホバの天の組織には,またその組織をこの地上で代表している油そそがれた者たち,およびそれと活発に交わるすべての人には,なんと明るい見通しがあるのでしょう。(申命記 26:19)イザヤはこう預言しています。「人々は必ず彼らを聖なる民,エホバによって買い戻された者と呼ぶであろう。あなた自身も,“尋ね求められる者”,“完全に捨てられることのない都市”と呼ばれるであろう」。(イザヤ 62:12)ある時点で,神のイスラエルが代表する「上なるエルサレム」は,捨てられたと感じたことがありました。しかし,そう感じることは二度とありません。エホバの民は永久に神の保護や世話の対象となり,神の是認のほほえみを受けつづけてゆくのです。

      [脚注]

      a 聖書預言において,「新しい名」は,新しい立場や特権を意味する場合があります。―啓示 2:17; 3:12。

      [342ページの囲み記事]

      結婚生活の崇高な模範

      結婚する人は,その結婚の結びつきに様々な期待を抱きます。では神は,どんな期待を抱かれるのでしょうか。結婚の取り決めを創始なさったのは神です。どんな目的を持っておられたのでしょうか。

      神の見方は,神とイスラエル国民との関係からうかがえます。イザヤは,それを結婚の関係として描いています。(イザヤ 62:1-5)“夫”であるエホバ神が“花嫁”のために行なわれる事柄に注目してください。エホバは彼女を保護し,神聖なものとされます。(イザヤ 62:6,7,12)誉れを与え,高く評価なさいます。(イザヤ 62:3,8,9)そして,自ら与えた新しい名にも示されているとおり,彼女に喜びを見いだされます。―イザヤ 62:4,5,12。

      クリスチャン・ギリシャ語聖書の中でパウロは,エホバとイスラエルの関係についてのイザヤの記述と似た事柄を述べ,夫と妻の関係を,キリストと,油そそがれたクリスチャンの会衆との関係になぞらえています。―エフェソス 5:21-27。

      パウロはクリスチャンに,結婚生活においてイエスと会衆との関係に見倣うよう励ましています。エホバがイスラエルに示す愛,またキリストが会衆に示す愛より大きな愛はありません。こうした象徴的な関係は,クリスチャンどうしの円満で幸福な結婚生活の崇高な模範となっています。―エフェソス 5:28-33。

      [339ページの図版]

      エホバは天的なシオンを新しい名で呼ばれる

      [347ページの図版]

      現代において,エホバの見張りの者級が沈黙を守ることはなかった

  • エホバはご自分のために美しい名を得る
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第24章

      エホバはご自分のために美しい名を得る

      イザヤ 63:1-14

      1,2 (イ)クリスチャンは,来たるべき「エホバの日」に対して,どんな個人的な関心を抱いていますか。(ロ)エホバの日の到来には,どんな崇高な論争点が関係していますか。

      これまで2,000年近くのあいだ,クリスチャンは「エホバの日の臨在を待ち,それをしっかりと思いに留め(て)」きました。(ペテロ第二 3:12。テトス 2:13)その日の到来を切望するのはもっともなことです。何と言っても,その日は,不完全さによる害悪からの救済の始まりをはっきり示すものとなるのです。(ローマ 8:22)また,この「対処しにくい危機の時代」にあって経験する様々な圧力がなくなることも意味します。―テモテ第二 3:1。

      2 とはいえエホバの日は,義にかなった人々に救済をもたらす一方で,「神を知らない者と,わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者」にとっては滅びを意味します。(テサロニケ第二 1:7,8)この点を熟考すると,身の引き締まる思いがします。神は本当に,ご自分の民を苦境から救い出すだけのために,邪悪な人々の滅びをもたらされるのでしょうか。イザヤ 63章は,はるかに崇高な論争点,つまり神のみ名を神聖なものとすることが関係していることを示しています。

      勝利を収めた戦士が進む

      3,4 (イ)イザヤ 63章の預言にはどんな背景がありますか。(ロ)イザヤは,だれがエルサレムに向かって進んでいるのを見ますか。一部の学者は,その者がだれであると述べていますか。

      3 イザヤ 62章には,ユダヤ人がバビロンでの捕らわれから解放されて故国へ戻ることが記されています。当然ながら,次のような質問が生じます。戻ったユダヤ人の残りの者は,別の敵国による新たな荒廃を恐れなければならないのでしょうか。イザヤの幻は,そうした恐れを大いに和らげてくれます。預言はこう始まっています。「エドムからやって来るこの者,燃え立つ色の衣を着てボツラから来る者,その衣服には誉れがあり,大いなる力のうちに進んで来るこの者はだれか」。―イザヤ 63:1前半。

      4 イザヤが見ている戦士は活力に満ち,意気揚々とエルサレムに向かって進んでいます。華麗な衣装は,非常に高位の者であることを物語っています。エドムの最も著名な都市ボツラのほうからやって来ることからすると,敵国であるエドムに対する大勝利を収めたようです。この戦士は一体だれでしょうか。学者の中には,イエス・キリストであると言う人もいれば,ユダヤ人の軍事指導者ユダ・マカバイオスであると考える人もいます。しかし,その戦士自身が前述の質問に答えて,自分がだれであるかをこう示しています。「義をもって語り,救う力に満ちあふれる,わたしである」。―イザヤ 63:1後半。

      5 イザヤの見た戦士はだれですか。なぜそう言えますか。

      5 この戦士がエホバ神ご自身であることはほぼ間違いありません。ほかの箇所でエホバは,「満ちあふれる活動力」を持つ者,『義なることを語る』者として描かれています。(イザヤ 40:26; 45:19,23)この戦士の華麗な衣は,次のような詩編作者の言葉を思い起こさせます。「わたしの神エホバよ,あなたはご自分が非常に大いなる方であることを明らかにされました。あなたは尊厳と光輝を身に着け(られました)」。(詩編 104:1)エホバは愛の神ですが,聖書によれば,必要なときには戦士のマントを身にまとわれます。―イザヤ 34:2。ヨハネ第一 4:16。

      6 エホバがエドムでの戦闘から戻ってこられるのはなぜですか。

      6 では,エホバがエドムでの戦闘から戻ってこられるのはなぜでしょうか。エドム人は,父祖のエサウから受け継いだ敵がい心に凝り固まっており,長年にわたり神の契約の民の敵となっています。(創世記 25:24-34。民数記 20:14-21)ユダに対するエドムの憎しみの深さは,とりわけエルサレムの荒廃期間中に明らかになりました。エドム人はバビロンの兵士たちに声援を送ったのです。(詩編 137:7)エホバは,そうした敵がい心を,ご自身に対するとがとみなされます。エドムに対する復しゅうの剣を抜こうと決意されたのも,もっともなことではないでしょうか。―イザヤ 34:5-15。エレミヤ 49:7-22。

      7 (イ)エドムに対する預言は,まずどのように成就しましたか。(ロ)エドムは何を象徴していますか。

      7 それゆえ,イザヤの幻は,エルサレムに帰還するユダヤ人にとって大きな励ましとなります。新たな住みかで安全に暮らせることを保証しているのです。事実,預言者マラキの時代までに,神はエドムの「山々を荒れ果てた所とし,その相続分を荒野のジャッカルのための場所と」されました。(マラキ 1:3)では,イザヤの預言はマラキの時代までにすっかり成就したということでしょうか。そうではありません。エドムは荒廃しているとはいえ,自らの荒れ果てた場所の再建を決意しており,マラキも依然としてエドムを「邪悪の領地」,「エホバが定めのない時に至るまでも糾弾した民」と呼んでいるからです。a (マラキ 1:4,5)とはいえ,預言的な意味において,エドムはエサウの子孫以外のものも包含しています。エホバの崇拝者たちの敵であることを自ら示す諸国民すべての象徴となっているのです。キリスト教世界の諸国民は,この点で特に顕著なものとなってきました。この現代のエドムはどうなるのでしょうか。

      ぶどう搾り場

      8,9 (イ)イザヤの見た戦士は何を行ないましたか。(ロ)象徴的なぶどう搾り場はいつ,またどのように踏まれますか。

      8 イザヤは,戻ってくる戦士に,「あなたの衣服が赤く,あなたの衣がぶどう搾り場を踏む者の衣に似ているのはなぜか」と尋ねます。エホバはこうお答えになります。「わたしは独りで酒ぶねを踏んだが,その間,もろもろの民のうちからわたしと共にいた者はいなかった。そして,わたしは怒りをもって彼らを踏み,激しい怒りをもって彼らを踏みつけた。それで,彼らから吹き出る血がわたしの衣に跳ね掛かり,わたしは自分の衣服をみな汚してしまった」。―イザヤ 63:2,3。

      9 この描写的な言葉は,大規模な流血について述べています。なんと,神の優美な衣までも,ぶどう搾り場を踏む者の衣のように染まっています。ぶどう搾り場は,エホバ神が,敵する者たちを滅ぼす行動を取る時に,その者たちが陥る抜き差しならない状況の適切な象徴です。この象徴的なぶどう搾り場は,いつ踏まれるのでしょうか。ヨエルと使徒ヨハネの預言も,象徴的なぶどう搾り場に言及しています。それらの預言に出てくるぶどう搾り場は,ハルマゲドンにおいてエホバが敵たちを踏みつぶして滅ぼす時に踏まれることになっています。(ヨエル 3:13。啓示 14:18-20; 16:16)イザヤ書に出てくる預言的なぶどう搾り場も,将来の同じ時を指し示しています。

      10 エホバが,自分は独りでぶどう搾り場を踏んだ,と述べておられるのはなぜですか。

      10 ではエホバが,自分は独りでこのぶどう搾り場を踏んだが,その間,もろもろの民のうちから自分と共にいた者はいなかった,と述べておられるのはなぜでしょうか。神の代表者であるイエス・キリストは,先頭に立ってぶどう搾り場を踏むのではないのでしょうか。(啓示 19:11-16)確かにそうです。しかし,ここでエホバが言及しておられるのは人間であり,霊の被造物ではありません。地からサタンの追随者たちを除き去る仕事を行ない得る人間は一人もいない,と述べておられるのです。(イザヤ 59:15,16)その者たちが完全に粉砕されるまで怒りをもって踏み続けることは,全能の神に任されています。

      11 (イ)エホバが「復しゅうの日」をもたらすのはなぜですか。(ロ)古代において,「買い戻される者たち」とはだれでしたか。今日ではだれですか。

      11 エホバは,ご自分がその仕事を自ら行なう理由をさらに説明し,こう言われます。「復しゅうの日はわたしの心のうちにあり,わたしに買い戻される者たちのその年が到来した」。(イザヤ 63:4)b 神の民に危害を加える者たちに復しゅうを行なう権利を有しておられるのはエホバだけです。(申命記 32:35)古代において,「買い戻される者たち」とは,バビロニア人の手にかかって苦しんだユダヤ人でした。(イザヤ 35:10; 43:1; 48:20)現代においては,油そそがれた残りの者です。(啓示 12:17)古代の対応する人々と同様,残りの者も宗教的な捕らわれから買い戻されました。さらに,それらユダヤ人と同様,油そそがれた者たちも,仲間である「ほかの羊」と共に,迫害や反対の被害者となってきました。(ヨハネ 10:16)それゆえ,イザヤの預言は今日のクリスチャンに,神はご自分の定めの時に介入してくださる,と保証しているのです。

      12,13 (イ)エホバを助ける者はいない,と言えるのはなぜですか。(ロ)エホバの腕はどのように救いを施しますか。激しい怒りはどのように神を支えますか。

      12 エホバは続けてこう言われます。「わたしは見つづけたが,助ける者はいなかった。わたしは非常な驚きを表わしたが,支える者はいなかった。そのため,わたしの腕がわたしに救いを施し,わたしの激しい怒りがわたしを支えるものとなった。そして,わたしはわたしの怒りをもってもろもろの民を踏みつけ,彼らをわたしの激しい怒りで酔わせ,彼らから吹き出る血を地に下らせるのであった」。―イザヤ 63:5,6。

      13 いかなる人間も,助ける者となって,エホバの大いなる復しゅうの日を自分の手柄とすることはできません。エホバは,ご意志を遂行するためにいかなる人間の支えも必要としておられません。c 計り知れない力を持つ,強いみ腕だけで,その仕事を行なうには十分です。(詩編 44:3; 98:1。エレミヤ 27:5)さらに,激しい怒りがエホバを支えます。どのようにでしょうか。神の激しい怒りが,制御されない感情ではなく義憤である,という点においてです。エホバはいつも義の原則に基づいて行動されるので,敵する者たちの「吹き出る血」を「地に下らせ」,彼らに恥辱と敗北を被らせるという面において,その激しい怒りが支えや動機づけとなるのです。―詩編 75:8。イザヤ 25:10; 26:5。

      神の愛ある親切

      14 ここでイザヤは,どんな適切な点を思い起こさせていますか。

      14 昔,ユダヤ人はエホバがしてくださった事柄に対する感謝の気持ちをすぐに失ってしまいました。ですから,イザヤが彼らに,エホバがそうした事柄を行なわれた理由を思い起こさせているのは適切なことです。はっきり,こう述べています。「わたしは,エホバがわたしのためにしてくださったすべてのことにしたがって,エホバの愛ある親切,エホバの賛美を,すなわち,その憐れみとその豊かな愛ある親切とにしたがって施してくださった,イスラエルの家に対する満ちあふれる善良さを語り告げるであろう。そして,神はさらにこう言われた。『確かに,彼らはわたしの民,偽らない子らである』。こうして,神は彼らに対して救い主となってくださった。彼らが苦難に遭っているとき,どの苦難も神に苦難を与えるものであった。そして,神ご自身の使者が彼らを救った。神はその愛と同情をもって自ら彼らを買い戻し,彼らをもたげ,昔のいつの日にも彼らを担ってくださった」。―イザヤ 63:7-9。

      15 エホバは,エジプトにいたアブラハムの子孫にどのように,またなぜ,愛ある親切を示されましたか。

      15 愛ある親切,つまり忠節な愛を実証する面で,エホバはなんと際立った模範なのでしょう。(詩編 36:7; 62:12)エホバは,アブラハムに愛着を抱くようになりました。(ミカ 7:20)そして族長アブラハムに,あなたの胤つまり子孫によって地のすべての国の民は自らを祝福するであろう,と約束なさいました。(創世記 22:17,18)エホバはその約束を固く守り,イスラエルの家に,満ちあふれる善良さを示されました。神の数々の忠節な行為の中で際立っているのは,アブラハムの子孫をエジプトでの奴隷状態から救い出したことです。―出エジプト記 14:30。

      16 (イ)エホバは,イスラエルと契約を結ぶ際,どんな見方をなさいましたか。(ロ)神はご自分の民をどのように扱われますか。

      16 エジプト脱出の後,エホバはイスラエルをシナイ山に連れて行き,こう約束されました。「もしわたしの声に固く従い,わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方は……必ずわたしの特別な所有物となる。……そしてあなた方は,わたしに対して祭司の王国,聖なる国民となる」。(出エジプト記 19:5,6)エホバのこの申し出は,欺きだったのでしょうか。そうではありません。イザヤは,エホバがご自身のうちで,「確かに,彼らはわたしの民,偽らない子らである」と言われたことを明らかにしています。ある学者は,「この『確かに』という言葉が意味するのは,主権や予知力に基づく布告ではない。愛に基づく希望と確信である」と述べています。そうです,エホバはご自分の民が成功を収めることを心から願い,信実をもって契約を結ばれたのです。民には明らかに不足の点があったにもかかわらず,その民に対する確信を示されたのです。崇拝者たちにそのような信頼を置く神を崇拝できるのは,なんと素晴らしいことでしょう。今日の長老たちも,神の民の基本的な善良さに対する同様の確信を表わすなら,自分たちにゆだねられた人々を大いに強めることができます。―テサロニケ第二 3:4。ヘブライ 6:9,10。

      17 (イ)神は,イスラエル人に対する愛のどんな証拠を示されましたか。(ロ)今日のわたしたちも,どんな確信を抱けますか。

      17 しかし,詩編作者はイスラエル人に関して,「彼らは自分たちの救い主である神を忘れたのです。エジプトで大いなることを……行なわれた方を」と述べています。(詩編 106:21,22)イスラエル人は,不従順でうなじのこわい態度をとった結果,しばしば深刻な状況に陥りました。(申命記 9:6)ではエホバは,愛ある親切を示すのをやめてしまわれたでしょうか。いいえ,それどころか,イザヤは,「彼らが苦難に遭っているとき,どの苦難も神に苦難を与えるものであった」と語っています。エホバはなんと感情移入に富む方なのでしょう。愛ある父親ならだれでもそうであるように,子たちが苦しむのを見ることは,それがその者たち自身の愚かさゆえの当然の苦しみであっても,神に痛みを感じさせるのです。予告どおり,またご自身の愛の証拠として,神は「ご自身の使者」を,おそらくは人間となる前のイエスを遣わし,子たちを約束の地へと導き入れました。(出エジプト記 23:20)そのようにしてエホバは,その国民をもたげ,「人がその子を負うようにして」担われました。(申命記 1:31。詩編 106:10)今日でも,エホバが同じようにわたしたちの苦しみを気にかけ,窮境にあるときには自分のことのように感じてくださる,ということを確信できます。わたしたちは確信をもって,『自分の思い煩いをすべて神にゆだねる』ことができます。『神はわたしたちを顧みてくださるから』です。―ペテロ第一 5:7。

      神が敵となる

      18 エホバがご自分の民の敵となられたのはなぜですか。

      18 しかし決して,神の愛ある親切に付け込んではなりません。イザヤは続けてこう述べています。「彼らは反逆し,その聖霊に痛みを覚えさせた。そこで,神は彼らの敵に変じ,自ら彼らと戦われた」。(イザヤ 63:10)エホバは,自分は憐れみと慈しみに富む神ではあるが,『処罰を免れさせることは決してしない』と警告しておられました。(出エジプト記 34:6,7)イスラエル人は何度も繰り返し反逆したため,処罰を受けずには済まなくなりました。モーセは,「あなたが荒野でいかにあなたの神エホバを怒らせたかを忘れてはいけない」と思い出させ,さらにこう言いました。「エジプトの地を出た日からこの場所に来るまでの間,あなた方はエホバに対して反逆の振る舞いをしてきた」。(申命記 9:7)民は,神の霊の健全な影響に逆らうことにより,その霊に痛みを与える,あるいはそれを悲しませることをしてきました。(エフェソス 4:30)エホバが敵とならざるを得ないようにしてきたのです。―レビ記 26:17。申命記 28:63。

      19,20 ユダヤ人はどんなことを思い出していますか。なぜですか。

      19 一部のユダヤ人は,苦悩のさなかで心を動かされ,過去を振り返りました。イザヤはこう述べています。「人は昔の日を,その僕モーセを思い出した。『その羊の群れの牧者たちと共に,彼らを海から連れ上った方はどこにおられるのか。彼のうちにご自分の聖霊を置いた方はどこにおられるのか。その美しいみ腕をモーセの右に行かせる方,ご自分のために定めなく続く名を得ようとして彼らの前から水を裂く方,彼らに逆巻く水の間を通らせ,荒野の馬のように,つまずかずに行かせた方はどこにいるのか。獣が谷あいの平原に下るときのように,エホバの霊が彼らを休ませたのである』」。―イザヤ 63:11-14前半。d

      20 そうです,不従順のゆえに苦しんでいるユダヤ人は,エホバが自分たちの敵ではなく救出者であった日々を切に懐かしんでいます。「牧者たち」であるモーセとアロンが民を導き,無事に紅海を渡ったときの様子を回想しています。(詩編 77:20。イザヤ 51:10)神の霊に痛みを与えるどころか,モーセをはじめ,霊によって任命された年長者たちの指導を通して神の霊に導かれていた時のことを回想しています。(民数記 11:16,17)エホバの強くて「美しいみ腕」がモーセを通して自分たちのために用いられるのを見たことも思い出しているのです。そののち神は,広大で畏怖の念を抱かせる荒野から民を連れ出し,乳と蜜の流れる地という休み場に導き入れてくださいました。(申命記 1:19。ヨシュア 5:6; 22:4)しかし今,イスラエル人は苦しんでいます。神との恵まれた関係を失ってしまったからです。

      『ご自分のための美しい名』

      21 (イ)神のみ名に関して,イスラエルはどんな大きな特権を持てたはずですか。(ロ)神がアブラハムの子孫をエジプトから解放した主要な理由は何ですか。

      21 とはいえ,イスラエル人の物質面での損失は,特権の喪失,つまり神のみ名に栄光をもたらすことに加わる特権を手放したことと比べると,取るに足りません。モーセはイスラエル人にこう約束しました。「あなたがあなたの神エホバのおきてを守り続け,その道を歩んでいるゆえに,エホバもその誓いのとおりにあなたをご自分の聖なる民として確立させてくださるのである。そして,地のすべての民は,あなたの上にエホバの名がとなえられているのを必ず見,あなたについてまさに恐れを持つであろう」。(申命記 28:9,10)エホバは,アブラハムの子孫を守るために行動し,エジプトでの奴隷状態から救い出した時,単にその人々の生活をもっと楽で心地よいものとするためにそうなさったわけではありません。それよりはるかに重要なもの,つまりご自身のみ名のために行動しておられました。み名が『全地で宣明される』よう取り計らっておられたのです。(出エジプト記 9:15,16)また,荒野でイスラエルが反逆した後に憐れみを示された時も,単なる感情にまかせてそうなさったわけではありません。エホバご自身,「わたしはわたしの名のため,それが諸国民の目の前で汚されることのないよう行動を起こした」と述べておられます。―エゼキエル 20:8-10。

      22 (イ)将来,神がご自分の民のために再び戦われるのはなぜですか。(ロ)神の名に対する愛は,わたしたちの行動にどのような影響を与えますか。

      22 次いでイザヤは,この預言の結びとして,実に強力な結論をこう述べています。「こうして,あなたはご自分のために美しい名を得ようとして,あなたの民を導かれました」。(イザヤ 63:14後半)ここで,エホバがご自分の民の益のために力強く戦われる理由がはっきり分かります。ご自身のために美しい名を得るためなのです。こうしてイザヤの預言は,エホバの名を負うことが,畏敬の念を起こさせるほどの特権であると同時に大きな責任でもある,という点を強く銘記させています。今日の真のクリスチャンは,自分の命以上にエホバの名を愛しています。(イザヤ 56:6。ヘブライ 6:10)その神聖な名にそしりをもたらしかねない行ないすべてを忌み嫌います。神に忠節を保つことにより,神の忠節な愛にこたえます。そして,エホバの美しい名を愛するがゆえに,神がご自分の怒りのぶどう搾り場で敵たちを踏みつける日を切望しています。その日が自分たちに益をもたらすだけでなく,愛する神の名に栄光をもたらす結果になるからです。―マタイ 6:9。

      [脚注]

      a 西暦1世紀のヘロデ家はエドム人でした。

      b 『買い戻される者たちの年』という表現は,「復しゅうの日」という言い回しと同じ時期を指すのかもしれません。同様の並行的な言い回しがイザヤ 34章8節でどのように用いられているかに注目してください。

      c エホバは,支える者が一人もいなかったことに対する非常な驚きを表明しておられます。イエスの死から2,000年近くたった今でも,人類の中の強力な者たちが依然として神のご意志に逆らっている,という事実は非常に驚くべきことと言えるでしょう。―詩編 2:2-12。イザヤ 59:16。

      d この聖句の冒頭は,「彼は……思い出した」と読むこともできます。(イザヤ 63:11,脚注)しかし,だからといって,ここで昔を思い出しているのがエホバであるとは限りません。続く部分は,エホバご自身ではなく,神の民の気持ちを言い表わしているからです。それゆえ,ソンキノ版聖書はこの箇所を,「その時,彼[神]の民はいにしえの日を思い出した」と訳しています。

      [359ページの図版]

      エホバはご自分の民に大きな期待をかけておられた

  • 悔い改めの祈り
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第25章

      悔い改めの祈り

      イザヤ 63:15–64:12

      1,2 (イ)神の懲らしめにはどんな目的がありますか。(ロ)ユダヤ人は,エホバから懲らしめを受けた後,どんな選択をしなければなりませんか。

      西暦前607年のエルサレムとその神殿の滅びは,エホバからの懲らしめであり,神の極度の不興の表明でした。不従順なユダ国民は,厳しい処罰を受けて当然でした。しかしエホバは,ユダヤ人の絶滅を意図してはおられませんでした。使徒パウロは次のように述べて,エホバの懲らしめの目的を示唆しています。「確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに思えます。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」。―ヘブライ 12:11。

      2 ユダヤ人は,そのつらい経験にどう反応するでしょうか。エホバからの懲らしめを憎むでしょうか。(詩編 50:16,17)それとも,訓練として受け入れるでしょうか。悔い改めて,いやされるでしょうか。(イザヤ 57:18。エゼキエル 18:23)イザヤの預言によると,ユダのかつての住民の少なくとも一部は懲らしめに正しくこたえ応じるようです。63章の最後の数節から64章全体にかけて,ユダ国民は,悔恨の情を抱いて心から祈願しながらエホバに近づく人々として描かれています。預言者イザヤは,流刑になる将来の同国人に代わって悔い改めの祈りをしています。それとともに,前途の事柄についても,あたかも眼前で生じているかのように述べています。

      同情心に富む父

      3 (イ)イザヤは預言的な祈りの中で,どのようにエホバを高めていますか。(ロ)バビロンにいる悔い改めたユダヤ人の考えをイザヤの預言的な祈りが代弁していることは,ダニエルの祈りからもどのように分かりますか。(362ページの囲み記事をご覧ください。)

      3 イザヤはエホバに向かって,「天から見てください,あなたの神聖さと美との高大な住まいからご覧ください」と祈ります。ここで述べているのは霊的な天のことであり,そこにはエホバが,目に見えない霊の被造物と共に住んでおられます。イザヤは流刑の身のユダヤ人の考えを言葉にして,こう続けます。「あなたの熱心とみなぎる偉力,あなたの内なる所の騒ぎ,そしてあなたの憐れみはどこにあるのですか。それらはわたしに対して自らをとどめてしまいました」。(イザヤ 63:15)エホバは,ご自分の民に対して力を引きとどめ,ご自分の民に対する深い感情である『内なる所の騒ぎ,そして憐れみ』を制御してこられました。何と言っても,エホバはユダヤ国民の「父」です。アブラハムとイスラエル(ヤコブ)はこの国民の実の父祖ですが,その二人でさえ,もし生き返ってきたなら,背教的な子孫を退けたいと思うことでしょう。エホバは並外れた同情心をお持ちなのです。(詩編 27:10)イザヤは感謝の気持ちをこめてこう言います。「エホバよ,あなたはわたしたちの父なのです。あなたの名は,昔わたしたちを買い戻した方です」。―イザヤ 63:16。

      4,5 (イ)どんな意味で,エホバは民をご自分の道からさまよわせておられますか。(ロ)エホバはどんな崇拝を望まれますか。

      4 イザヤは続けて,心情をこう吐露します。「エホバよ,なぜあなたはわたしたちをあなたの道からさまよわせておられるのですか。なぜわたしたちの心をあなたへの恐れに対してかたくなにされるのですか。あなたの僕たちのために,あなたの世襲所有物である諸部族のために帰って来てください」。(イザヤ 63:17)そうです,イザヤは,エホバがご自分の僕に再び注意を向けてくださるよう祈っています。とはいえ,エホバはどんな意味でユダヤ人をご自分の道からさまよわせているのでしょうか。ユダヤ人が心をかたくなにして,神に恐れを抱かなくなっているのは,エホバの責任なのでしょうか。そうではありません。しかし,エホバはそうなることを確かに許しておられます。そして,絶望に打ちのめされたユダヤ人は,そのような自由をエホバがお与えになったことを嘆いています。(出エジプト記 4:21。ネヘミヤ 9:16)エホバが介入し,自分たちが悪を行なわないようにしてくださればよかったのに,と思っているのです。

      5 当然ながら,エホバは人間をそのようには扱われません。わたしたちは倫理的に自由な行為者であり,エホバは,ご自分に従うか否かをわたしたちが自分で決定することを許しておられます。(申命記 30:15-19)純粋の愛に動かされた心と思いから生じる崇拝を望まれます。だからこそ,ユダヤ人がご自分に反逆する結果になっても,彼らが自由意志を行使するのを許されたのです。エホバがユダヤ人の心をかたくなにされたというのは,そのような意味においてです。―歴代第二 36:14-21。

      6,7 (イ)ユダヤ人がエホバの道を離れた結果,どうなっていますか。(ロ)かなわぬどんな願いが言い表わされていますか。しかし,ユダヤ人には何を期待する権利はありませんか。

      6 その結果,どうなるでしょうか。イザヤは預言的にこう述べています。「ほんの少しの間,あなたの聖なる民は所有物を持っていました。わたしたちに敵対する者たちがあなたの聖なる所を踏みつけました。わたしたちは長い間,あなたが支配しなかった者,あなたの名をもってとなえられたことのない者のようになりました」。(イザヤ 63:18,19)エホバの民は,少しの間,神の聖なる所を所有していました。しかしエホバは,それが破壊され,ご自分の国民が流刑に処されるのを許されました。そうしたことが生じた時,神とアブラハムの子孫との間には契約がないかのように,またその者たちが神のみ名をもってとなえられたことがないかのようになりました。今やバビロンに捕らわれとなったユダヤ人は,希望を失ってこう叫びます。「ああ,あなたが天を引き裂かれたなら! あなたが下って来られたなら! 火が茂ったやぶを燃え立たせ,火がまさに水をも沸き上がらせるときのように,あなたのゆえに山々が震い動いたなら! そうすれば,あなたに敵対する者たちにあなたのみ名を知らせることになり,あなたのゆえに諸国民が動揺するものを」。(イザヤ 64:1,2)エホバが救う力を持っておられることは間違いありません。下って来て,ご自分の民のために戦い,天のような統治機構を引き裂き,山のような帝国を打ち砕くこともできたに違いありません。ご自分の民のために火のような熱心さを示して,み名を知らせることもできたはずです。

      7 過去において,エホバはそのようなことを行なわれました。イザヤはこう言います。「あなたは,わたしたちの望みえなかった,畏怖の念を起こすことを行なわれたとき,下って来られました。あなたのゆえに山々は震い動きました」。(イザヤ 64:3)そうした大いなる行動は,エホバの力と神性を実証するものとなりました。しかし,イザヤの時代の不忠実なユダヤ人には,エホバが自分たちのためにそのように行動してくださると期待する権利はありません。

      救える者はエホバしかいない

      8 (イ)エホバは,一つにはどんな面で,諸国民の偽りの神々と異なっていますか。(ロ)エホバが,ご自分の民を救うことが可能であるのに,そのように行動されないのはなぜですか。(ハ)パウロはイザヤ 64章4節をどのように引用し,適用していますか。(366ページの囲み記事をご覧ください。)

      8 偽りの神々が,崇拝者たちのために力強い救いの行動を取ることはありません。イザヤはこう書いています。「待ち望む者のために行動してくださる神は,あなた以外には,昔からだれも聞いたこともなければ,耳を向けたこともなく,それを見た目もありません。あなたは,歓喜し義を行なう者に,あなたをあなたの道において覚えている者たちに会ってくださいました」。(イザヤ 64:4,5前半)「ご自分を切に求める者に報いてくださる」のはエホバだけです。(ヘブライ 11:6)エホバは,義を行なう人々や,ご自分を覚えている人々を保護するために行動されます。(イザヤ 30:18)ユダヤ人はそのようにしてきたでしょうか。いいえ,イザヤはエホバにこう言います。「ご覧ください,わたしたちが罪をおかしつづけていたとき,あなたご自身が憤られました ― わたしたちはそれらのなかに長い間いたのに,それでも救われることがあり得るでしょうか」。(イザヤ 64:5後半)神の民は長年にわたって頑固なまでに罪深いことを示してきたので,エホバが憤りを差し控え,彼らの救いのために行動すべき理由はありません。

      9 悔い改めたユダヤ人は何に望みをかけることができますか。そのことから,わたしたちは何を学べますか。

      9 ユダヤ人は,過去に戻ってやり直すことはできません。しかし,悔い改めて,清い崇拝に戻るなら,許しと将来の祝福に望みをかけることができます。エホバはご自分の定めの時に,悔い改めた者たちに報いをお与えになります。バビロンでの捕らわれから解き放つことによってそうなさいます。とはいえ,その者たちは辛抱しなければなりません。悔い改めたからといって,エホバがご自分の時刻表を変更なさるわけではないからです。それでも,引き続きエホバのご意志に注意を払い,こたえ応じるなら,最終的な解放を確信できます。同様に今日のクリスチャンも,辛抱強くエホバを待ち望みます。(ペテロ第二 3:11,12)わたしたちは,次のような使徒パウロの言葉を心に留めます。「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」。―ガラテア 6:9。

      10 イザヤの祈りは,どんな力がないことを率直に告白していますか。

      10 イザヤの預言的な祈りは,単なる形式的な罪の告白ではありません。この国民には自らを救う力がないということを誠実に認めています。イザヤはこう述べています。「わたしたちは皆,汚れた者のようになり,わたしたちの義の行為も皆,月経の時のための衣のようです。わたしたちは皆,葉のように衰え,わたしたちのとががわたしたちを風のように運び去ることでしょう」。(イザヤ 64:6)流刑の終わりまでに,悔い改めたユダヤ人は背教的な習わしをやめ,義の行為をもってエホバに頼っているかもしれませんが,依然として不完全であることに変わりはありません。その人々の良い行ないは称賛に値するとはいえ,贖罪という観点からすると,汚れた衣も同然です。エホバからの許しは,憐れみを動機とする過分の賜物です。獲得できるようなものではないのです。―ローマ 3:23,24。

      11 (イ)流刑のユダヤ人の大半は,霊的にどんな不健全な状態にありますか。なぜそうなっているのかもしれませんか。(ロ)流刑期間中,どんな人々が信仰の優れた手本となっていましたか。

      11 イザヤは前途に何を見ているでしょうか。こう祈っています。「あなたのみ名を呼び求める者も,あなたをとらえようとして身を起こす者もいません。あなたはわたしたちから顔を覆い隠されたからです。あなたはわたしたちのとがの力によってわたしたちを溶かされるのです」。(イザヤ 64:7)この国民の霊的な状態は,底知れぬほど低くなっています。民は祈りのうちに神のみ名を呼び求めてきませんでした。偶像礼拝という由々しい罪の点ではもはや有罪ではありませんが,崇拝を怠っているようであり,エホバを「とらえようとして身を起こす者」はいません。創造者との健全な関係を楽しんでいないことは明らかです。自分は祈りのうちにエホバに話しかける資格がないと感じている人がいる一方で,エホバについて考えることなく日常の事柄にかまけている人もいるのかもしれません。もちろん,流刑囚の中には,ダニエル,ハナニヤ,ミシャエル,アザリヤ,エゼキエルといった人たちもおり,信仰の立派な手本となっています。(ヘブライ 11:33,34)70年の捕囚期間の終わりが近づいたころには,ハガイ,ゼカリヤ,ゼルバベル,大祭司ヨシュアといった人たちが,エホバのみ名を呼び求める点で優れた指導を行なう用意を整えています。とはいえ,イザヤの預言的な祈りは,大多数の流刑囚の状態について述べているようです。

      『従うことは犠牲に勝る』

      12 悔い改めたユダヤ人が行ないを変化させたいと思っていることを,イザヤはどのように言い表わしていますか。

      12 悔い改めたユダヤ人は変化したいと思っています。そうした人々を代表して,イザヤはエホバにこう祈ります。「今,エホバよ,あなたはわたしたちの父です。わたしたちは粘土で,あなたはわたしたちの陶器師です。わたしたちは皆,あなたのみ手の業なのです」。(イザヤ 64:8)この言葉によって再び,父また命の与え主としてのエホバの権威が認められています。(ヨブ 10:9)悔い改めたユダヤ人は,形を変え得る粘土になぞらえられています。エホバからの懲らしめにこたえ応じる人々は,神の規準に沿って比喩的な意味で成形される,つまり形造られることが可能です。もっともそれは,陶器師であるエホバが許しを差し伸べてくださる場合にのみ成し遂げられます。それでイザヤはエホバに,ユダヤ人がご自分の民であることを思い出してくださるよう,次のように二度,懇願しています。「エホバよ,甚だしく憤らないでください。永久にわたしたちのとがを覚えておかないでください。それで,どうか,ご覧ください。わたしたちが皆あなたの民であるということを」。―イザヤ 64:9。

      13 神の民が流刑となっている間,イスラエルの地はどんな状態にありますか。

      13 ユダヤ人が流刑期間中に耐え忍ぶのは,単なる異教の地での捕らわれだけではありません。エルサレムとその神殿の荒廃は,ユダヤ人とその神にそしりをもたらします。イザヤの悔い改めの祈りは,そうしたそしりの原因となる事柄を幾つか挙げています。「あなたの聖なる諸都市は荒野となりました。シオンも全くの荒野となり,エルサレムは荒れ果てた所となりました。わたしたちの父祖たちがあなたを賛美した所である,わたしたちの神聖さと美の家も,火で燃やすためのものとなり,わたしたちの望ましいものはどれも荒れ廃れました」。―イザヤ 64:10,11。

      14 (イ)エホバは,この時の事態について何と警告しておられましたか。(ロ)神殿とそこでささげられる犠牲をエホバが喜びとしておられたとはいえ,それ以上に重要なのは何ですか。

      14 もとよりエホバは,ユダヤ人の先祖伝来の地がどうなっているかをよくご存じです。エルサレムの滅びより420年ほど前,ご自分の民に,もしわたしのおきてにそむいて他の神々に仕えるなら,わたしはあなた方を『土地の表から断ち』,美しい神殿は「廃虚の山」となるであろう,と警告しておられました。(列王第一 9:6-9)ご自分の民に与えた地,ご自分の誉れとして建てられた壮麗な神殿,またご自分にささげられる犠牲を,エホバが喜びとしておられたことは確かです。しかし,忠節と従順は,物質的なものより,さらには犠牲より重要です。預言者サムエルはサウル王に向かって適切にもこう言いました。「エホバは,エホバの声に従うことほどに焼燔の捧げ物や犠牲を喜ばれるでしょうか。ご覧なさい,従うことは犠牲に勝り,注意を払うことは雄羊の脂肪に勝ります」。―サムエル第一 15:22。

      15 (イ)イザヤはエホバに向かって,どんな預言的な哀願をしていますか。それはどのように聞き届けられますか。(ロ)どんな出来事のゆえに,エホバは国民としてのイスラエルを最終的に退けましたか。

      15 とはいえ,イスラエルの神が,悔い改めた民の災いを見ながら哀れに思わないということがあり得るでしょうか。イザヤは預言的な祈りを終えるにあたり,そのような問いかけをします。流刑のユダヤ人に代わって,こう哀願しています。「エホバよ,これらのことを前にして,あなたはなおもご自分を制しておられるのですか。あなたはじっとして動かずに,わたしたちに甚だしい苦しみを受けさせるのですか」。(イザヤ 64:12)後にエホバはご自分の民を確かに許し,西暦前537年には故国へ帰還させ,そこで清い崇拝を再開させます。(ヨエル 2:13)しかし,その数世紀のちには,エルサレムとその神殿は再び破壊され,神の契約の国民は最終的に神から退けられます。なぜでしょうか。エホバの民が神のおきてからそれ,メシアを退けたからです。(ヨハネ 1:11; 3:19,20)そうしたことが起きた時,エホバはイスラエルを取り除き,代わりに,新しい国民である霊的な国民を据えました。すなわち,「神のイスラエル」です。―ガラテア 6:16。ペテロ第一 2:9。

      エホバ,「祈りを聞かれる方」

      16 聖書は,エホバの許しについてどんなことを教えていますか。

      16 イスラエルに生じた事柄から,幾つかの重要な教訓を学べます。まず,エホバが「善良で,進んで許してくださる」ことが分かります。(詩編 86:5)不完全な者であるわたしたちは,神の憐れみと許しがなければ救いを受けることはできません。自分でどんな業を行なっても,そうした祝福を獲得することはできないのです。とはいえ,エホバは見境なく許しを差し伸べることはされません。自分の罪を悔い改めて身を転じる人だけが,神の赦しを受ける立場にあります。―使徒 3:19。

      17,18 (イ)エホバがわたしたちの考えや感情に純粋の関心を抱いておられることは,どうして分かりますか。(ロ)罪深い人間に対してエホバが辛抱されるのはなぜですか。

      17 また,わたしたちが祈りの中で言い表わす考えや感情にエホバが深い関心を抱いておられる,ということも学べます。神は「祈りを聞かれる方」なのです。(詩編 65:2,3)使徒ペテロは,「エホバの目は義にかなった者たちの上にあり,その耳は彼らの祈願に向けられる」と保証しています。(ペテロ第一 3:12)さらに,悔い改めの祈りには,謙遜に罪を告白することが含まれていなければならない,ということも学べます。(箴言 28:13)とはいえ,神の憐れみに付け込んでよいわけではありません。聖書はクリスチャンに,「神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないように」と警告しています。―コリント第二 6:1。

      18 最後に,ご自分の罪深い民に対する神の辛抱の目的も学べます。使徒ペテロは,エホバは「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので」辛抱しておられる,と説明しています。(ペテロ第二 3:9)もっとも,執拗に神の辛抱を悪用する人々はやがて処罰を受けます。その点については,こう書かれています。「神は各々にその業に応じて報います。良い業における忍耐によって栄光と誉れと不朽性とを求めている者には永遠の命です。一方,争いを好み,真理に従わないで不義に従う者に対しては,憤りと怒り……があります」。―ローマ 2:6-9。

      19 エホバは,今後も常に,変わることのないどんな特質を示されますか。

      19 神は古代イスラエルをこのように扱われました。今日のわたしたちとエホバとの関係にも同じ諸原則が適用されます。神は変わらない方だからです。神は相応の処罰を差し控えることはなさいませんが,今後も常に,「エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,愛ある親切を幾千代までも保ち,とがと違犯と罪とを赦す者」であられるのです。―出エジプト記 34:6,7。

      [362ページの囲み記事/図版]

      ダニエルの悔い改めの祈り

      預言者ダニエルは,70年にわたるユダヤ人の捕囚期間中ずっとバビロンで暮らしました。流刑の68年目のある時,ダニエルはエレミヤの預言から,イスラエルの寄留が終わりに近づいていることを理解しました。(エレミヤ 25:11; 29:10。ダニエル 9:1,2)ダニエルは祈りのうちにエホバに語りかけます。それは,ユダヤ国民全体を代表する悔い改めの祈りです。こう述べています。「それでわたしは自分の顔をまことの神エホバに向けた。祈りと懇願により,断食と粗布と灰のうちにあって神を求めるためであった。そしてわたしは,わたしの神エホバに祈り,告白し(た)」。―ダニエル 9:3,4。

      ダニエルがこの祈りをささげたのは,イザヤ 63章と64章にある預言的な祈りが書き記されてから200年ほど後のことです。流刑の困難な年月のあいだ,多くの誠実なユダヤ人がエホバに祈ったに違いありません。しかし聖書は,ダニエルの祈りを際立たせています。その祈りが,多くの忠実なユダヤ人の感情をよく表わしていたからでしょう。ですから,ダニエルの祈りを考慮すると,イザヤの預言的な祈りに含まれる心情がまさに,バビロンにいる忠実なユダヤ人の心情であったことが分かります。

      ダニエルの祈りとイザヤの祈りの類似点に注目してください。

      イザヤ 63:16 ダニエル 9:15

      イザヤ 63:18 ダニエル 9:17

      イザヤ 64:1-3 ダニエル 9:15

      イザヤ 64:4-7 ダニエル 9:4-7

      イザヤ 64:6 ダニエル 9:9,10

      イザヤ 64:10,11 ダニエル 9:16-18

      [366ページの囲み記事]

      『目も見たことがない』

      使徒パウロはコリント人にあてた手紙の中で,イザヤ書を引用し,こう書いています。「『神がご自分を愛する者たちのために備えられた事柄は,目も見ず,耳も聞かず,人の心に上ったこともない』と書かれているとおりです」。(コリント第一 2:9)a パウロもイザヤも,エホバがご自分の民のために天的な相続財産あるいは将来の地上の楽園として備えておられるものについて述べているのではありません。パウロはイザヤの言葉を,神に関するより奥深い事柄を理解していることやエホバから霊的な啓発を受けていることなど,1世紀のクリスチャンがすでに享受していた祝福に適用しています。

      奥深い霊的な事柄は,それを啓示するエホバの定めの時が来た時に初めて理解できます。さらに,その時が来ても,エホバとの密接な関係を持つ霊的な民でなければ理解できません。パウロの言葉は,霊性がほとんど,あるいは全くない人々に当てはまります。その人々の目は霊的な真理を見たり識別したりできず,耳もそうした事柄を聞いたり理解したりできません。神がご自分を愛する者たちのために備えられた事柄に関する知識は,そのような人々の心に浮かぶことすらありません。しかし神は,パウロのように神に献身した者たちに,そうした事柄をご自分の霊によって啓示してこられました。―コリント第一 2:1-16。

      [脚注]

      a パウロが引用したとおりの言葉はヘブライ語聖書中にはありません。パウロは,イザヤ 52章15節,64章4節,65章17節の述べている考えを結び合わせたようです。

      [367ページの図版]

      神の民は,「ほんの少しの間」エルサレムとその神殿を所有した

  • 『わたしが創造しているものを永久に喜べ』
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第26章

      『わたしが創造しているものを永久に喜べ』

      イザヤ 65:1-25

      1 使徒ペテロは,どんな保証の言葉を書き記しましたか。どんな質問が生じますか。

      不公正と苦しみのなくなる時代は来るのでしょうか。1,900年以上前,使徒ペテロは,次のような保証の言葉を書きました。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)様々な時代の大勢の忠実な神の僕たちと同様,ペテロも,不法,抑圧,暴虐などのない,義の行き渡る素晴らしい時代を心待ちにしていました。この約束は果たされると確信してよいのでしょうか。

      2 どの預言者が「新しい天と新しい地」について述べていましたか。その古代の預言にはどんな成就がありますか。

      2 そのとおりです。「新しい天と新しい地」について述べたペテロは,耳新しい考えを持ち出したわけではありません。それより800年ほど前,エホバは預言者イザヤを通して同様の言葉を述べておられました。その時の約束は西暦前537年に小規模に成就し,ユダヤ人はバビロンでの捕らわれから解き放たれ,故国に帰還することができました。とはいえ今日,イザヤの預言は壮大な成就を見ており,わたしたちは,来たるべき神の新しい世における,さらに感動的な成就をも心待ちにしています。そうです,イザヤを通して与えられた心温まる預言は,神がご自分を愛する人々のために用意しておられる祝福をかいま見せてくれるのです。

      エホバは「強情な民」に手を差し伸べる

      3 イザヤ 65章では,どんな質問に対する答えが与えられていますか。

      3 イザヤ 63章15節から64章12節までの部分には,バビロンにいるユダヤ人流刑囚の代わりにささげられたイザヤの預言的な祈りが収められている,ということを思い出してください。イザヤの言葉が明らかにしているとおり,多くのユダヤ人は魂をこめてエホバを崇拝していませんが,一部のユダヤ人は悔い改め,エホバに目を向けています。ではエホバは,それら悔恨の情を抱く残りの者のために,その国民を回復させるのでしょうか。答えはイザヤ 65章にあります。とはいえエホバは,少数の忠実な人々の救出に関する約束を述べる前に,信仰のない多くの者たちを待ち受ける裁きについて説明しておられます。

      4 (イ)反逆的な神の民とは対照的に,どんな者たちはエホバを尋ね求めますか。(ロ)使徒パウロはイザヤ 65章1,2節をどのように適用していますか。

      4 エホバは,ご自分の民の側の頑固なまでに反逆的な態度を忍んでこられました。しかし,神がその民を敵たちに引き渡し,他の者たちを優しくご自分の恵みへと導き入れる時が来ます。イザヤを通して,エホバはこう述べておられます。「わたしは,わたしを求めたことのない者たちにわたしを尋ね求めさせた。わたしは,わたしを探し求めたことのない者たちにわたしを見いださせた。わたしは,わたしの名を呼び求めていなかった国民に,『わたしはここにいる,わたしはここにいる!』と言った」。(イザヤ 65:1)エホバの契約の民にとって悲しむべきことが述べられています。諸国の者たちがエホバのもとに来る一方で,強情なユダは概してそうすることを拒むのです。神が最終的に,かつては認知されていなかった民をお選びになる,ということを予告している預言者はイザヤだけではありません。(ホセア 1:10; 2:23)使徒パウロはイザヤ 65章1,2節を「セプトゥアギンタ訳」から引用し,諸国の民が「信仰の結果である義」を得るのに対し,生来のユダヤ人はそうするのを拒んだということを示しています。―ローマ 9:30; 10:20,21。

      5,6 (イ)エホバはどんな切なる願いを表わしてこられましたか。しかし,神の民はどのように反応してきましたか。(ロ)ユダに対するエホバの扱いから,どんなことを学べますか。

      5 エホバは,ご自分の民が災いに遭うのを許す理由をこう説明しておられます。「わたしは強情な民に,自分の考えにしたがって良くない道を歩んでいる者たちに一日じゅう手を伸べた」。(イザヤ 65:2)手を伸べることは,招きあるいは懇願を意味します。エホバは,少しの間だけではなく,一日じゅう手を伸べてこられました。ユダがご自分の元に戻ってくることを心から願っておられるのです。それにもかかわらず,この強情な民はこたえ応じませんでした。

      6 エホバの言葉から,なんと心温まる教訓を学べるのでしょう。神は近づきやすい方であり,わたしたちが近づくことを望んでおられるのです。(ヤコブ 4:8)さらにこの言葉は,エホバが謙遜な方であることも示しています。(詩編 113:5,6)何と言っても神は,民の強情さのゆえに『痛みを覚えた』にもかかわらず,引き続き比喩的な意味で手を伸べ,戻ってくるよう民に懇願しておられるのです。(詩編 78:40,41)神は,幾世紀にもわたって民に訴えかけた後,ついに民を敵たちに引き渡します。その時でさえ,民の中の謙遜な人々に扉を閉ざすことはなさいません。

      7,8 強情な民は,どのようにエホバをいきり立たせてきましたか。

      7 強情なユダヤ人は,恥ずべき行ないによって幾度もエホバをいきり立たせてきました。エホバは彼らの不快な行為をこのように描写しておられます。「それは,面と向かって絶えずわたしを怒らせ,園で犠牲をささげ,れんがの上で犠牲の煙を立ち上らせ,埋葬所の中に座る者たちからなる民である。彼らはまた,見張り小屋で夜を過ごし,豚の肉を食べる者たちであり,汚らわしいものの肉汁さえその器の中にある。彼らは,『あなたは自分のところにいよ。わたしに近寄るな。わたしは必ずあなたに神聖さを伝えることになるからである』と言っている者たちである。これらはわたしの鼻の煙,一日じゅう燃える火である」。(イザヤ 65:3-5)これら信心深げな人々は,「面と向かって」― 厚顔さや不敬を指すことのある表現 ― エホバを怒らせています。自分たちの忌まわしい点を隠そうともしません。誉れと従順を受けるべき方のまさにその前で罪を犯すとは,実に言語道断ではないでしょうか。

      8 実のところ,これら独り善がりの罪人たちは他のユダヤ人に,『こっちに来るな。わたしはお前たちより神聖なのだから』と言っているのです。なんという偽善でしょう。それら“信心深い”者たちは,偽りの神々に犠牲をささげ,香をたいています。それは神の律法が非としている行為です。(出エジプト記 20:2-6)埋葬所の中に座ってもいるので,律法によれば汚れた者となっています。(民数記 19:14-16)汚れた食物とされた豚の肉も食べています。a (レビ記 11:7)それにもかかわらず,自分たちは宗教的な活動を行なっているゆえに他のユダヤ人より神聖な者であると感じています。そして,他の人々が単なる交わりによっていわば神聖に,あるいは清くなることがあってはいけないので,自分たちに近づかないでほしいと思っています。しかし,「全き専心」を要求する神は,決してそのような物の見方はされません。―申命記 4:24。

      9 エホバは,独り善がりの罪人たちをどうみなされますか。

      9 エホバは,こうした独り善がりな者たちを神聖とみなすどころか,『これらはわたしの鼻の煙である』と述べておられます。「鼻」を指すヘブライ語は,しばしば怒りを指して比喩的に用いられています。煙も,エホバの燃える怒りと結び付けられています。(申命記 29:20)神の民が陥った嫌悪すべき偶像礼拝は,エホバの燃える怒りを引き起こしました。

      10 エホバは,罪を犯したユダの人々にどのように返報なさいますか。

      10 エホバはご自身の公正のゆえに,これら故意の罪人たちを処罰せずにはおかれません。イザヤはこう書いています。「『見よ,それはわたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。わたしは報いを返す。彼らの懐に報いを返す。彼らのとがと彼らの父祖たちのとがとに対して,同時に』と,エホバは言われた。『彼らは山の上で犠牲の煙を立ち上らせ,丘の上でわたしをそしったので,わたしもまた,まず彼らの懐にその賃金を量り出す』」。(イザヤ 65:6,7)これらユダヤ人は,偽りの崇拝を行なうことにより,エホバにそしりをもたらしてきました。真の神の崇拝が周囲の諸国民の崇拝と同程度のものであるかのような印象を与えてきたのです。偶像礼拝と心霊術を含む『彼らのとがに対して』,エホバは「彼らの懐に」返報を行なわれます。「懐」という表現は,上着の袋状のひだを指していると思われます。物売りは,産物を量ってそこに注ぎ入れることがあったようです。(ルカ 6:38)背教したユダヤ人に関して,これが何を意味するかは明らかです。エホバは彼らの「報い」つまり処罰を量り出されるのです。公正の神は応報を要求されます。(詩編 79:12。エレミヤ 32:18)エホバは変わることのない方なので,わたしたちは,神が定めの時にこの邪悪な事物の体制にも同様に処罰を量り出されることを確信できます。―マラキ 3:6。

      「わたしの僕たちのために」

      11 エホバは,忠実な残りの者を救うことをどのように示唆しておられますか。

      11 エホバは,ご自分の民の中の忠実な人々に憐れみを示されるでしょうか。イザヤはこう説明しています。「エホバはこのように言われた。『新しいぶどう酒が房の中に見いだされると,だれかが決まって,「それを損なうな。その中には祝福があるからだ」と言うが,わたしもわたしの僕たちのためにそれと同じようにし,すべての者を損なうことのないようにする。そして,わたしはヤコブから子孫を,ユダからわたしの山々の世襲所有者を出す。わたしの選んだ者たちは必ずそれを所有し,わたしの僕たちがそこに住むであろう』」。(イザヤ 65:8,9)エホバはご自分の民が容易に理解できる例えを用い,彼らをぶどうの房になぞらえておられます。ぶどうはユダの地にたくさんあり,ぶどう酒は人間にとって祝福です。(詩編 104:15)ここで描かれているのは一房のぶどうで,そのすべてではなく,一部が良いぶどうである,ということかもしれません。あるいは,一房は良く,他の房はどれも熟していないか腐っている,ということかもしれません。いずれにせよ,ぶどう栽培人が良いぶどうを打ち捨てることはありません。ですから,エホバはご自分の民に,その国民を全滅させることはなく,忠実な残りの者は生き残らせる,と保証しておられるのです。そして,この恵まれた残りの者にはわたしの「山々」を所有させる,と述べておられます。その「山々」とは,エホバがご自分のものとしておられたエルサレムおよび丘陵の多いユダの地です。

      12 忠実な残りの者の前途にはどんな祝福が待ち受けていますか。

      12 それら忠実な残りの者の前途にはどんな祝福が待ち受けているのでしょうか。エホバはこう説明しておられます。「わたしを捜し求めるわたしの民のために,シャロンは必ず羊の牧草地となり,アコルの低地平原は牛のための休み場となる」。(イザヤ 65:10)多くのユダヤ人の生活において羊の群れは重要な役割を果たしています。豊かな放牧地は平和な時期に繁栄をもたらします。エホバは,平和と繁栄の情景を描写するため,この地の端のほうにある二つの場所について述べておられます。西方には,美しくて肥沃なことで有名なシャロンの平野が地中海沿いに広がっています。アコルの谷は,この地の北東の境界の一部を成しています。(ヨシュア 15:7)やがて来る流刑の時期には,それらの地域も,この地の他の場所と共に荒廃してしまいます。しかしエホバの約束によれば,流刑が終わると,それらの地域は,帰還する残りの者のための美しい牧草地となります。―イザヤ 35:2。ホセア 2:15。

      「幸運の神」に依り頼む

      13,14 民がエホバを捨てたことは,どんな習わしから明らかですか。その結果,民には何が臨みますか。

      13 次にイザヤの預言は,エホバを捨てて偶像礼拝に凝り固まっている者たちに再び注意を向け,こう述べています。「しかしあなた方は,エホバを捨てる者,わたしの聖なる山を忘れる者,幸運の神のために食卓を整える者,また,運命の神のために,混ぜ合わせたぶどう酒を一杯に満たす者である」。(イザヤ 65:11)それら悪に堕するユダヤ人は,「幸運の神」と「運命の神」の前に飲食物を載せた食卓を整えることにより,異教諸国民の偶像礼拝的な習わしに陥っています。b たわいもなくそれらの神々を信じて依り頼む人は皆,どうなるでしょうか。

      14 エホバは率直にこう警告しておられます。「わたしはあなた方を剣に定め,あなた方は皆ほふられるために身をかがめる。わたしが呼んだが,あなた方は答えず,わたしが話したが,あなた方は聴かず,あなた方はわたしの目に悪いことを行ないつづけ,わたしの喜ばないことを選んだからである」。(イザヤ 65:12)エホバは,原語のヘブライ語の,運命[定め]の神の名でごろ合わせをし,その偽りの神を崇拝している人々は『剣に[つまり,滅びに]定められる』であろうと述べておられます。エホバは何度も,ご自分の預言者たちを通して悔い改めを呼びかけてこられましたが,この人々はそれを無視し,強情にも,エホバの目に悪であると分かっている事柄を行なうことを選んできました。神に対するなんという侮蔑でしょう。神の警告の成就として,この国民は西暦前607年に大変災を経験することになります。エホバはバビロニア人がエルサレムとその神殿を破壊することをお許しになるのです。その時,「幸運の神」は,ユダとエルサレムにいる信奉者たちを保護することができません。―歴代第二 36:17。

      15 今日の真のクリスチャンは,イザヤ 65章11,12節の警告にどのように留意していますか。

      15 今日,真のクリスチャンはイザヤ 65章11,12節の警告に留意しています。恵みを施してくれる超自然のものでもあるかのように「幸運」の力を信じることはしません。「幸運の神」を和めようとして自分の資産を浪費するようなことを決してせず,いかなる種類のかけ事も避けます。その神に身をささげる人は結局すべてを失ってしまう,ということを確信しているのです。そのような人たちにエホバが,『わたしはあなた方を剣に定める』と述べておられるとおりです。

      「見よ,わたしの僕たちは歓ぶ」

      16 エホバは,忠実な僕たちをどのように祝福なさいますか。一方,エホバを捨てた人々はどうなりますか。

      16 預言は,エホバを捨て去った人々を戒めるとともに,神を誠実に崇拝する人たちと偽善的な崇拝を行なう人たちの前途にある対照的な受け分について,こう述べています。「主権者なる主エホバはこのように言われた。『見よ,わたしの僕たちは食べるが,あなた方は飢える。見よ,わたしの僕たちは飲むが,あなた方は渇く。見よ,わたしの僕たちは歓ぶが,あなた方は恥をかく。見よ,わたしの僕たちは心の良い状態のゆえに喜び叫ぶが,あなた方は心の痛みのゆえに叫び声を上げ,霊の全き崩壊のゆえに泣きわめく』」。(イザヤ 65:13,14)エホバはご自分の忠実な僕たちを祝福なさいます。その僕たちは,喜びにあふれた心で叫びます。食べる,飲む,歓ぶという表現は,エホバがご自分の崇拝者たちの必要を豊かに満たされることを意味しています。それとは対照的に,エホバを捨てることを選んだ人々は霊的に飢え,渇きます。その人々の必要は満たされません。身に臨む苦悩と苦難のゆえに叫び,泣きわめきます。

      17 今日の神の民には喜び叫ぶべき理由がある,と言えるのはなぜですか。

      17 エホバの言葉は,神に仕えると唱えるだけの人々の今日の霊的な状態をよく表わしています。キリスト教世界の大勢の人々が霊的な崩壊を経験しているのに対し,エホバの崇拝者たちは喜び叫んでいます。現に,歓ぶべき理由があります。霊的によく養われているのです。エホバは,聖書に基づく出版物やクリスチャンの集まりを通して,霊的な食物を豊かに供給しておられます。築き上げる真理と,慰めを与える神の言葉の約束とにより,わたしたちは確かに「心の良い状態」を得ています。

      18 エホバを捨てた人々については何が残りますか。誓いの際にその人々の名が用いられることは,何を示唆しているかもしれませんか。

      18 エホバは続けて,ご自分を捨てた人々に向かってこう言われます。「あなた方は自分の名をわたしの選んだ者たちによる誓いのために蓄えることになる。主権者なる主エホバはあなた方各人を実際に死に至らせるが,ご自分の僕たちについては,別の名でこれを呼ばれるであろう。それゆえ,地で自らを祝福する者は信仰の神によって自らを祝福し,地で誓いのことばを述べる者は信仰の神によって誓う。以前の苦難は実際に忘れられ,それらはわたしの目から実際に覆い隠されるからである」。(イザヤ 65:15,16)エホバを捨てた人々のもので残るのは,名だけです。しかもその名は,誓い,もしくはのろいの際にしか用いられません。これは,厳粛な誓いをしたいと思う人が,『わたしがこの約束を果たさない場合は,それら背教者たちの受けた処罰がわたしにも臨むように』という主旨のことを述べる,という意味かもしれません。あるいは,その人々の名が,ソドムとゴモラのように,邪悪な者たちに対する神の処罰の象徴として例証的に用いられる,という意味かもしれません。

      19 神の僕たちはどのように別の名で呼ばれますか。その僕たちが忠実の神に確信を抱けるのはなぜですか。(脚注もご覧ください。)

      19 神ご自身の僕たちの分はなんと異なっているのでしょう。別の名で呼ばれるのです。これは,故国に戻って享受する祝福された状態と誉れを意味します。その僕たちは,いかなる偽りの神々の祝福を求めることも,命のない偶像によって誓うこともありません。むしろ,自らを祝福したり誓ったりする際には,忠実の神によってそうします。(イザヤ 65:16,脚注)その地の住民には,神に対する全き確信の理由があることになります。神はご自分の約束に関して偽らない方であることを実証してこられたからです。c ユダヤ人は故国で安らかに暮らし,やがて以前の苦難を忘れるでしょう。

      「わたしは新しい天と新しい地を創造している」

      20 「新しい天と新しい地」に関するエホバの約束は,西暦前537年にどのように成就しましたか。

      20 次にエホバは,悔い改めた残りの者をバビロンでの流刑から帰還した後に回復させるという約束についてさらに詳しく説明し,イザヤを通してこう言われます。「いまわたしは新しい天と新しい地を創造している……。以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない」。(イザヤ 65:17)回復に関するエホバの約束は必ず成就するので,エホバはその将来の回復がすでに生じているかのように述べておられます。この預言はまず,西暦前537年,ユダヤ人の残りの者がエルサレムに戻った時に成就しました。その時の「新しい天」となっていたのは何でしょうか。エルサレムに中心を置き,大祭司ヨシュアによって支えられた,ゼルバベルの総督職です。回復したユダヤ人の残りの者は,「新しい地」を構成しました。つまり,そのような支配に服し,その地での清い崇拝の再興を助けた,清められた社会です。(エズラ 5:1,2)そうした回復の喜びによって,それまでの苦しみはすべて覆い隠されました。以前の苦難は思い出されることもありませんでした。―詩編 126:1,2。

      21 1914年,どんな新しい天が存在するようになりましたか。

      21 とはいえ,使徒ペテロがイザヤの預言と同様のことを述べ,その預言に将来の成就があることを示した,という点を思い起こしてください。こう書いています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)1914年,待望久しい新しい天が存在するようになりました。その年に誕生したメシア王国は天そのものから支配しており,エホバはその王国に,全地に対する権威を授けておられます。(詩編 2:6-8)キリストおよび14万4,000人の共同支配者のもとにあるその王国政府が,新しい天です。―啓示 14:1。

      22 新しい地を構成するのはどんな人々ですか。今でさえ,人々はその取り決めの中核となるため,どのように準備を整えていますか。

      22 新しい地についてはどうでしょうか。古代の成就の場合と同様,新しい地は,新しい天的な政府の支配に喜んで服する人々で構成されることになっています。今でさえ,正しく整えられた幾百万もの人々がその政府に服し,聖書に収められているその政府の法律に従おうと努力しています。その人々は,あらゆる国,言語,人種から来ており,統治している王イエス・キリストに仕えるため,共に働いています。(ミカ 4:1-4)現在の邪悪な事物の体制が過ぎ去った後,このグループは新しい地の中核となります。新しい地は最終的に,神を恐れる人々で成る全地球的な社会となり,その人々は神の王国の地的領域を受け継ぎます。―マタイ 25:34。

      23 「新しい天と新しい地」に関して,「啓示」の書にはどんな情報が収められていますか。この預言は,どのように成就しますか。

      23 「啓示」の書は,来たるべきエホバの日に関して使徒ヨハネが見た幻を記述しています。その日に,この事物の体制は除き去られます。その後,サタンが底知れぬ深みに入れられます。(啓示 19:11–20:3)そうした記述の後,ヨハネはイザヤの預言の言葉と似た事柄を述べ,「それからわたしは,新しい天と新しい地を見た」と書いています。この栄光に満ちた幻の説明の続きの部分には,エホバ神がこの地の状態を根本的に改善なさる時のことが述べられています。(啓示 21:1,3-5)「新しい天と新しい地」に関するイザヤの約束が,神の新しい世で素晴らしい成就を見ることに疑いの余地はありません。新しい政府である天のもとで,新しい地的な社会は,霊的にも物質的にもパラダイスを楽しみます。「以前のこと[病気や苦しみなど,人間が直面している数多くの災い]は思い出されることも,心の中に上ることもない」という約束は,本当に慰めとなります。何であれわたしたちがその時に思い出すものが,現在多くの人の心に重くのしかかっているような深いきずや痛みを引き起こすことはありません。

      24 エホバがエルサレムの復興を歓ばれるのはなぜですか。その都市のちまたで何が聞かれることはもはやありませんか。

      24 イザヤの預言はこう続いています。「あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,それを喜べ。いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造しているからである。そして,わたしはエルサレムを喜び,わたしの民に歓喜する。その中で泣き声や,悲しげな叫び声が聞かれることはもはやない」。(イザヤ 65:18,19)故国に戻れることを歓ぶユダヤ人だけでなく,神ご自身も歓ばれます。エルサレムを美しくし,再び地における真の崇拝の中心地となさるからです。何十年か前にその都市のちまたで聞かれた,災いについて泣く声が聞かれることはもはやありません。

      25,26 (イ)わたしたちの時代に,エホバはどのようにエルサレムを「喜びのいわれ」としておられますか。(ロ)エホバは新しいエルサレムをどのようにお用いになりますか。今日のわたしたちが歓喜できるのはなぜですか。

      25 今日でもエホバは,エルサレムを「喜びのいわれ」としておられます。どのようにでしょうか。すでに考慮したように,1914年に存在するようになった新しい天には,最終的に14万4,000人の共同支配者が含まれます。その人々は天的な政府の一員となります。「新しいエルサレム」と預言的に呼ばれている人々です。(啓示 21:2)神はその新しいエルサレムに関して,「いまわたしは,エルサレムを喜びのいわれ,その民を歓喜のいわれとして創造している」と述べておられるのです。新しいエルサレムは神によって用いられ,従順な人類に計り知れない祝福を注ぎます。泣き声や悲しげな叫び声が聞かれることはもはやありません。エホバがわたしたちの「心の願い」を満たしてくださるからです。―詩編 37:3,4。

      26 今日のわたしたちには,まさに歓喜すべき理由がそろっています。まもなくエホバは,反対する者すべてを滅ぼすことにより,ご自分の輝かしいみ名を神聖なものとされます。(詩編 83:17,18)そして,新しい天は全面的な支配を行ないます。こうしたことは,神の創造しておられるものに関して永久に歓喜し,喜ぶ,なんと素晴らしい理由なのでしょう。

      安全な将来の約束

      27 イザヤは,帰還するユダヤ人が故国で享受する安全をどのように描写していますか。

      27 最初の成就において,帰還するユダヤ人の新しい天のもとでの生活はどのようなものでしょうか。エホバはこう述べておられます。「数日しか生きない乳飲み子も,自分の日を全うしない老人も,その場所からはもはや出ない。人は百歳であっても,ほんの少年として死ぬからである。罪人については,その者が百歳であっても,その身の上に災いを呼び求められるであろう」。(イザヤ 65:20)流刑から帰還する人々が復興した故国で享受する安全が,なんと美しく描かれているのでしょう。生後わずか数日の新生児が,時ならず死ぬというようなことはありません。老人が寿命を全うせずにそのような死を迎えることもありません。d ユダに帰還するユダヤ人にとって,イザヤの言葉はなんと大きな励みとなるのでしょう。敵に赤子を奪われたり夫や息子を殺されたりする心配をせずに,自分の土地で安らかに暮らせるのです。

      28 神の王国のもとでの新しい世の生活に関するエホバの言葉から,どんなことを学べますか。

      28 エホバの言葉は,来たるべき新しい世での生活について何と述べているでしょうか。神の王国のもとでは,すべての子供に安全な将来の見込みがあります。神を恐れる男性が人生の盛りに死を遂げることは決してありません。それどころか,従順な人類は安らかに,安全に暮らし,人生を謳歌することができます。神に反逆する道を選ぶ人はどうなるでしょうか。そのような人は,命の特権を失います。反逆的な罪人は,「百歳」になっていたとしても死にます。そのような場合,終わりのない命を持ち得たことを考えると,「ほんの少年」ということになります。

      29 (イ)神の従順な民は,復興したユダの地でどんな喜びを味わいますか。(ロ)木が長い命の適切な例えであるのはなぜですか。(脚注をご覧ください。)

      29 エホバは,復興したユダの地に行き渡る状態の描写を続け,こう言われます。「彼らは必ず家を建てて住み,必ずぶどう園を設けてその実を食べる。彼らが建てて,だれかほかの者が住むことはない。彼らが植えて,だれかほかの者が食べることはない。わたしの民の日数は木の日数のようになり,わたしの選ぶ者たちは自分の手の業を存分に用いるからである」。(イザヤ 65:21,22)神の従順な民は,ユダの荒廃した地,恐らく家もぶどう園もない地に帰還した後,自分の家で暮らして自分のぶどう園の実を食べるという喜びを味わいます。神は民の業を祝福なさり,民は木の日数のように長く生き,自分の労働の成果を楽しみます。e

      30 今日,エホバの僕たちはどんな幸福な状態を楽しんでいますか。新しい世においては,何を楽しみますか。

      30 わたしたちの時代にも,この預言が成就してきました。1919年,エホバの民は霊的な流刑から出て来て,自分たちの“土地”,つまり活動と崇拝の領域を復興し始めました。各地に会衆を築き,霊的に実り豊かな畑を耕しました。その結果,今でさえ,エホバの民は霊的パラダイスと神から与えられた平和とを楽しんでいます。そうした平和が,物質的なパラダイスにも引き継がれてゆくことを確信できます。崇拝者たちの進んで働く心と手をもってエホバが新しい世で成し遂げられる事柄は,わたしたちの想像をはるかに超えています。自分の家を建ててそこに住めるのは,なんという喜びでしょう。王国の支配のもとで,満足のいく仕事が不足することはありません。常に自分の労働の成果によって「良いことを見る」というのは,なんと報いの多いことなのでしょう。(伝道の書 3:13)自分の手の業を存分に楽しむ十分の時間があるのでしょうか。あります。忠実な人々の終わりのない命は,「木の日数のように」,つまり幾千年も,いえ,それ以上になるのです。

      31,32 (イ)流刑から帰還する人々はどんな祝福を享受しますか。(ロ)新しい世において,忠実な人々にはどんな見込みがありますか。

      31 エホバは,流刑から帰還する人々の前途にある別の祝福について,こう述べておられます。「彼らはいたずらに労することなく,騒乱のために産み出すこともない。彼らはエホバの祝福された者たちからなる子孫であり,彼らと共にいるその末孫もそうだからである」。(イザヤ 65:23)それら回復したユダヤ人はエホバから祝福されるので,その労働が無駄になることはありません。自分の生んだ子供が結局若くして死んでしまう,ということもありません。かつて流刑の身にあった人々は,復興という祝福を自分たちだけで享受するのではありません。子孫もそれに加わります。神は,ご自分の民の必要を満たしたいと強く願っておられるので,こう約束なさいます。「彼らが呼ばわる前に,わたし自身が答え,彼らがまだ話しているうちに,わたし自身が聞くことになる」。―イザヤ 65:24。

      32 エホバは,来たるべき新しい世で,これらの約束をどのように果たされるのでしょうか。今のわたしたちには分かりません。エホバは詳細な点すべてを明らかにしてはおられないからです。しかし,忠実な人々が「いたずらに労する」ことは二度とない,ということは確信できます。ハルマゲドンを生き残る大群衆と,その人たちから生まれるであろう子供たちには,非常に長くて満足のいく命,つまり永遠の命の見込みがあるのです。復活によって生き返り,神の規準と調和した生き方を選ぶ人々も,新しい世で喜びを見いだします。エホバは,そうした人々が必要とするものについて聞き,それに応じるだけでなく,前もって必要を見越すことさえなさいます。まさにエホバはみ手を開いて,「すべての生きているものの[本来の]願い」を満たされるのです。―詩編 145:16。

      33 ユダヤ人が故国に帰還する時,動物はどんな意味で穏やかに過ごしますか。

      33 約束されている平和と安全は,どれほど広範囲に及ぶのでしょうか。エホバは,預言のこの部分の結びとしてこう言われます。「『おおかみと子羊が一つになって食べ,ライオンは雄牛のようにわらを食べる。蛇に関しては,その食物は塵となる。これらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない』と,エホバは言われた」。(イザヤ 65:25)忠実なユダヤ人の残りの者は,故国に帰還する時,エホバの庇護を受けるようになります。ライオンは,ユダヤ人やその家畜に害を及ぼすことはないという意味において,いわば雄牛のようにわらを食べます。これは確かな約束です。「エホバは言われた」という言葉で結ばれているからです。神の言葉は必ず実現します。―イザヤ 55:10,11。

      34 エホバの言葉は,今日どんな感動的な成就を見ていますか。新しい世においてはどうですか。

      34 エホバの言葉は,今日,真の崇拝者の間で感動的な成就を見ています。1919年以来,神はご自分の民の霊的な土地を祝福し,それを霊的パラダイスに変容させてこられました。その霊的パラダイスに入って来る人々は,注目に値する生活上の変化を遂げます。(エフェソス 4:22-24)仲間の人間を食い物に,あるいは犠牲にしていた人など,かつて獣のような性格を持っていた人たちが,神の霊の助けを得て,望ましくない特性を抑制する点で進歩しています。その結果,仲間の信者との平和と崇拝における一致とを楽しんでいます。エホバの民がいま霊的パラダイスで享受している祝福は,物理的なパラダイスにも引き継がれてゆきます。そのパラダイスにおいては,人々の間に行き渡る平和に加えて,動物との平和も見られることでしょう。わたしたちは,神の定めの時に,次のような人類の当初の任務がふさわしく遂行されることを確信できます。「地……を従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。―創世記 1:28。

      35 わたしたちには『永久に喜ぶ』べき理由がそろっている,と言えるのはなぜですか。

      35 「新しい天と新しい地」を創造するというエホバの約束に,わたしたちは本当に感謝しているのではないでしょうか。その約束は西暦前537年に成就し,今日,いっそうの成就を見ています。これら二つの成就は,従順な人類の輝かしい将来に至る道を指し示しています。エホバはご親切にも,イザヤの預言を通して,ご自分を愛する人々のために用意しておられる物事をかいま見させてくださいました。確かにわたしたちには,『わたしが創造しているものを永久に喜べ』というエホバの言葉に留意すべき理由がそろっているのです。―イザヤ 65:18。

      [脚注]

      a 多くの人は,この罪人たちが埋葬所にいたのは死者と交信するためである,と考えています。豚の肉を食べることは,偶像崇拝とつながりがあったのかもしれません。

      b 聖書翻訳者のヒエロニムス(西暦4世紀生まれ)は,この聖句について注解し,1年の最後の月の末日に偶像礼拝者たちが行なった古代の習慣について,こう書いています。「人々は食卓に様々な種類の食物を所狭しと並べ,甘いぶどう酒を混ぜ合わせた杯を調えて,行く年来る年の豊饒のために幸運を確実にしようとした」。

      c ヘブライ語マソラ本文のイザヤ 65章16節によると,エホバは「アーメンの神」であられます。「アーメン」とは,「そうなるように」もしくは「確かに」という意味であり,ある事柄が真実であることや必ず実現することの確認あるいは保証です。エホバは,ご自分の約束すべてを果たすことにより,ご自分のことばが真実であることを示しておられます。

      d 「エルサレム聖書」は,イザヤ 65章20節をこう訳しています。「数日しか生きない幼子も,自分の日の終わりまで生きない老人も,もはや見いだされることはない」。

      e 木は長い命の適切な例えです。既知の生物の中で特に長生きするものだからです。例えば,オリーブの木は幾百年も実を結び続け,1,000年も生きることさえあります。

      [389ページの図版]

      神の新しい世においては,自分の手の業を楽しむ十分の時間がある

  • エホバは清い崇拝を祝福される
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第27章

      エホバは清い崇拝を祝福される

      イザヤ 66:1-14

      1 イザヤ書の最後の章では,どんなテーマに焦点が当てられますか。どんな質問に答えが与えられますか。

      イザヤ書の最後の章で,この預言の書の主要なテーマの幾つかが劇的なクライマックスを迎え,数々の重要な質問に答えが与えられます。焦点の当てられているテーマは,エホバの持たれる崇高さ,偽善に対する憎しみ,邪悪な者を処罰する決意,忠実な者に対する愛と気遣いなどです。さらに,次のような質問に答えが与えられます。何によって,真の崇拝と偽りの崇拝を見分けられますか。神の民を抑圧しながら聖なる者ととなえる偽善者たちにエホバが応報なさることを,どうして確信できますか。エホバは,ご自分への忠実を保つ者たちをどのように祝福なさいますか。

      清い崇拝のかなめ

      2 エホバはご自分の雄大さに関連して,どんな宣言をしておられますか。この宣言に,どんな含みはありませんか。

      2 この預言は最初に,エホバの雄大さを強調しています。「エホバはこのように言われた。『天はわたしの王座,地はわたしの足台である。では,あなた方がわたしのために建てることのできる家はどこにあるのか。では,わたしのための休み場としての場所はどこにあるのか』」。(イザヤ 66:1)ここで預言者イザヤは,故国に復帰したユダヤ人がエホバの神殿を再建するのを思いとどまらせようとしている,と考える人たちもいます。しかし,そうではありません。エホバご自身が,神殿の再建をお命じになるからです。(エズラ 1:1-6。イザヤ 60:13。ハガイ 1:7,8)では,この聖句はどういう意味でしょうか。

      3 地がエホバの「足台」と描写されるのはふさわしい,と言えるのはなぜですか。

      3 まず,地がエホバの「足台」と描写されている理由を考えるとよいでしょう。これは,見下した表現ではありません。宇宙の無数の天体すべての中で地球だけが,この特別の名称を与えられているのです。この地球は,独特な存在として永久に存続します。エホバの独り子が贖いを支払った所も,エホバがご自身の主権の正当性をメシア王国によって立証なさる所も,地球だからです。地球がエホバの足台と呼ばれるのは,なんとふさわしいことなのでしょう。王は,高い王座に上るために,そしてその後,足の休み場として,そのような台を用いることがあります。

      4 (イ)地上のどんな建物もエホバ神の休み場となれないのはなぜですか。(ロ)「これらすべてのもの」という言い回しは何を意味していますか。エホバへの崇拝について,どのように結論すべきですか。

      4 言うまでもなく,王が足台の上に住むことがないのと同じく,エホバもこの地球上に住まわれるわけではありません。なにしろ,広大な物質の天でさえ,エホバを入れることはできないのです。まして,地上の単なる建物がエホバを収め入れ,文字どおりの神の家となることなどあり得ません。(列王第一 8:27)エホバの王座と休み場は霊の領域にあり,そこを指して,イザヤ 66章1節は「天」という表現を用いています。続く節は要点を強調し,こう述べています。「『さあ,これらすべてのものはわたしの手が造った。それでこれらすべてはあるようになった』と,エホバはお告げになる」。(イザヤ 66:2前半)エホバが大きく手を動かし,「これらすべてのもの」,つまり天と地のあらゆるものを指さしておられるところを思い描いてください。(イザヤ 40:26。啓示 10:6)全宇宙の偉大な創造者であるエホバは,ご自分にささげられた単なる建物以上のものを持つに値する方です。単なるうわべの崇拝以上のものに値する方なのです。

      5 『苦しんで,霊において深く悔いて』いることを,どのように示せますか。

      5 宇宙主権者にはどんな崇拝がふさわしいのでしょうか。ご自身がこう述べておられます。「それで,わたしはこの者に注目する。苦しんで,霊において深く悔い,わたしの言葉におののいている者に」。(イザヤ 66:2後半)そうです,清い崇拝に不可欠なのは,崇拝者の側の正しい心の態度です。(啓示 4:11)エホバの崇拝者は,『苦しんで,霊において深く悔いて』いなければなりません。これは,エホバはわたしたちが不幸であることを望んでおられる,という意味でしょうか。そうではありません。エホバは「幸福な神」であり,ご自分の崇拝者たちも喜びにあふれていることを望んでおられます。(テモテ第一 1:11。フィリピ 4:4)とはいえ,わたしたちは皆しばしば罪をおかします。自分の罪を軽くみなしてはなりません。罪のゆえに『苦しみ』,エホバの義の規準に達していないことを悲しむべきです。(詩編 51:17)悔い改め,罪の傾向と闘い,エホバに許しを祈り求めることにより,『霊において深く悔いて』いることを示す必要があります。―ルカ 11:4。ヨハネ第一 1:8-10。

      6 真の崇拝者たちはどんな意味で『神の言葉におののく』べきですか。

      6 さらにエホバは,『神の言葉におののいている』者たちに注目なさいます。これは,わたしたちが神の宣言を読むたびに恐れで身を震わせることを望んでおられる,という意味でしょうか。そうではありません。むしろ,わたしたちが畏敬と崇敬の念をもって神のことばを考察することを望んでおられるのです。わたしたちは神の助言を誠実に求め,生活のすべての面でそれを導きとします。(詩編 119:105)また,神に対して不従順になることや,神の真理を人間の伝統で汚したり,軽く扱ったりすることを考えるだけで恐れを感じる,という意味で『おののく』こともあるでしょう。そうした謙遜な態度は,清い崇拝に不可欠です。しかし残念ながら,そのような態度は今日の世界にほとんど見られません。

      エホバは偽善的な崇拝を憎まれる

      7,8 エホバは,宗教上の偽善者たちの表面的な崇拝をどうご覧になりますか。

      7 イザヤは,自分と同時代の人々を注意深く観察し,エホバがご自分の崇拝者に求めておられる性向を持つ人がほとんどいないことをよく知っています。そのような状態ゆえに,背教したエルサレムは,差し迫った裁きを受けて当然なのです。エルサレムで行なわれている崇拝をエホバがどうご覧になっているかに注目してください。「牛をほふる者は人を討ち倒す者のようである。羊を犠牲としてささげる者は犬の首を折る者のようである。供え物をささげる者は ― 豚の血を! 乳香の記念をささげる者は,怪異な言葉をもって祝福を述べる者のようである。彼らはまた,自分の道を選んだ者であり,その嫌悪すべきものを彼らの魂は喜びとした」。―イザヤ 66:3。

      8 この言葉は,イザヤ書の最初の章に記録されているエホバの言葉を思い出させます。その章でエホバは,ご自分の民である片意地な人々に対して,あなた方の表面的な崇拝行為はわたしを喜ばせないだけでなく,実際にはますます義憤を感じさせている,と述べておられます。それら崇拝者たちが偽善的だからです。(イザヤ 1:11-17)それと同様に,ここでエホバは,その人々の捧げ物を凶悪な犯罪になぞらえておられます。その人々のささげる高価な雄牛の犠牲は,人を殺すことと同様に,決してエホバを和めることはないのです。他の犠牲は,犬や豚をささげることになぞらえられています。そうした動物は,モーセの律法の規定によれば汚れており,犠牲には全くふさわしくありません。(レビ記 11:7,27)エホバは,そうした宗教上の偽善を処罰せずにおかれるでしょうか。

      9 ユダヤ人の大半は,イザヤを通してエホバから与えられた諭しにどのように反応してきましたか。どんな結末を免れられませんか。

      9 エホバはこう言われます。「それに対して,わたしは彼らを虐待する道を選び,彼らにとって怖ろしいものを彼らにもたらすであろう。それは,わたしが呼んでも答える者はおらず,わたしが語ってもだれも聴く者はおらず,彼らはわたしの目に悪いことを行ないつづけ,わたしの喜ばないことを選んだからである」。(イザヤ 66:4)イザヤはこの言葉を,心からの確信を込めて語れるに違いありません。エホバに用いられる者として,長年にわたり神の民に『呼び』かけ,『語り』かけてきたからです。この預言者は,人々がおしなべて耳を傾けてこなかったことを,十分すぎるほど知っています。人々は悪いことを行ないつづけてきたので,応報を免れられません。エホバはまさに,その人々を処罰することを選び,背教した民の上に怖ろしい事を臨ませます。

      10 ユダに対するエホバの処置から,キリスト教世界に対する神の見方についてどんなことが分かりますか。

      10 同様に,現代のキリスト教世界も,エホバの喜ばれない事柄を習わしとしてきました。教会では偶像礼拝が盛んに行なわれ,説教壇では非聖書的な哲学や伝統がたたえられています。キリスト教世界は政治的な権力を求めるあまり,世の諸国家との霊的な姦淫関係にますます深入りしてきました。(マルコ 7:13。啓示 18:4,5,9)古代エルサレムの場合と同じく,キリスト教世界にも,当然の応報 ―「怖ろしい」もの ― が確実に臨もうとしています。同世界は,神の民に加えてきた仕打ちのゆえにも,必ず処罰を受けます。

      11 (イ)イザヤの時代の背教者たちの罪は,何によっていっそう重くなっていますか。(ロ)イザヤと同時代の人々は,どんな意味で,忠実な人たちを『神の名のゆえに』除外していますか。

      11 イザヤはこう続けます。「エホバの言葉を聞け,その言葉におののく者たちよ。『あなた方を憎み,わたしの名のゆえにあなた方を除外しているあなた方の兄弟たちは言った,「エホバの栄光がたたえられますように!」と。神はまた,あなた方の側の歓びをもって必ず現われ,彼らは恥をかく者となる』」。(イザヤ 66:5)イザヤの「兄弟たち」,つまり同国人は,エホバ神を代表し,その主権に服するという,神から与えられた責任を負っています。それを怠ったことは,非常にゆゆしい罪です。しかも,イザヤのような忠実で謙遜な人たちを憎むことにより,その罪はいっそう重くなっています。これら背教者たちは,忠実な人たちを憎み,除外します。その人たちがエホバ神を実直に代表しているからです。その意味で,『神の名のゆえに』除外していると言えます。その一方で,これらエホバの偽りの僕たちは,エホバを代表していると唱え,「エホバの栄光がたたえられますように!」といった宗教的な響きのある文句を信心深げに唱えています。a

      12 エホバの忠実な僕たちが宗教上の偽善者たちから迫害を受けた,どんな例がありますか。

      12 清い崇拝を固守する人々に対する偽りの宗教の憎しみは,耳新しい事柄ではありません。創世記 3章15節の預言のいっそうの成就なのです。その預言は,サタンの胤と神の女の胤との間の長年にわたる敵意を予告していました。イエスは,1世紀の油そそがれた追随者たちに,あなた方も,仲間である同国人の手によって苦しみに遭い,会堂から除外され,死に至るまでの迫害を受けるでしょう,と言われました。(ヨハネ 16:2)現代ではどうでしょうか。「終わりの日」の初めに,神の民は,同様の迫害が前途にあるのを見越しました。(テモテ第二 3:1)1914年,「ものみの塔」誌はイザヤ 66章5節を引用し,「これまで神の民に加えられた迫害のほぼすべては,クリスチャンを自任する人たちからのものであった」と注解しました。同じ記事はさらに,こう述べています。「我々は,この時代にその人たちが極端に走るかもしれないということだけは知っている。つまり,人を社会的に殺し,キリスト教組織として殺し,さらには実際の殺害も行なうかもしれない,ということである」。まさに,その言葉どおりになりました。その記事が出てからすぐ後の第一次世界大戦中,僧職者にあおられた迫害の熱は頂点に達しました。しかし,予告どおり,キリスト教世界は恥をかくことになりました。どのようにでしょうか。

      迅速かつ突然に生じる回復

      13 最初の成就において,『都からのどよめきの音』とは何ですか。

      13 イザヤはこう預言しています。「都からどよめきの音がする! 神殿から音がする! それは,エホバがその敵に当然の返報をする音である」。(イザヤ 66:6)この言葉の最初の成就において,「都」とはエルサレムのことであり,そこにはエホバの神殿があります。「どよめきの音」は,西暦前607年,バビロニアの侵入軍の攻撃を受ける時に都の中で聞こえる,戦いの騒ぎを示唆しています。では,現代の成就については何と言えますか。

      14 (イ)マラキは,エホバがご自分の神殿に来られることについて,どんなことを予告しましたか。(ロ)エゼキエルの預言どおり,エホバがご自分の神殿に来られた時,どんな結果が生じましたか。(ハ)エホバとイエスは,いつ霊的な神殿を検分なさいましたか。清い崇拝を代表すると唱える人々はどんな影響を受けましたか。

      14 イザヤ書のこの言葉は,他の二つの預言的な陳述と調和しています。その一つはエゼキエル 43章4節と6-9節に,もう一つはマラキ 3章1-5節に記録されています。エゼキエルもマラキも,エホバ神がご自分の神殿に来られる時について予告しています。マラキの預言によると,エホバは,ご自分の清い崇拝の家を検分し,ご自分を誤り伝える者たちを退ける精錬者として行動するために来られます。エゼキエルの幻の描写によれば,エホバは神殿に入り,不道徳と偶像礼拝の痕跡をすべて取り除くよう要求なさいます。b これらの預言の現代の成就として,1918年,エホバの崇拝と関連して,重要な霊的進展がありました。エホバとイエスは,清い崇拝を代表すると唱える人すべてを検分なさったようです。その検分の後,腐敗したキリスト教世界はついに捨て去られました。キリストの油そそがれた追随者たちにとって,その検分は短期間の精錬となり,それに続いて1919年に迅速な霊的回復が生じました。―ペテロ第一 4:17。

      15 どんな出産が予告されていますか。その予告は,西暦前537年にどのように成就しますか。

      15 その回復は,イザヤ書の続きの部分で,適切にもこう描写されています。「彼女は陣痛の起こる前に子を産んだ。産みの苦しみが始まる前に彼女は男の子を出産したのだ。だれがこのようなことを聞いただろうか。だれがこのような事柄を見ただろうか。地が一日のうちに陣痛と共に産み出されるだろうか。あるいは,国民が一時に生まれるだろうか。というのは,シオンには陣痛が起こり,また子らの出産もあったからである」。(イザヤ 66:7,8)バビロンで流刑になっているユダヤ人に関して,この言葉は感動的な最初の成就を見ます。シオンすなわちエルサレムは,再び,出産する女として描かれています。とはいえ,なんと異例な出産なのでしょう。あまりに迅速かつ突然であるため,産みの苦しみが始まる前に出産してしまうのです。これは適切な描写です。西暦前537年に神の民が紛れもない国民として再び誕生するとき,それはあまりに迅速かつ突然であるため,奇跡のように見えます。なにしろ,キュロスがユダヤ人を捕らわれから自由にした後,忠実な残りの者が故国に帰り着くまでは,わずか数か月なのです。イスラエル国民の最初の誕生に先だつ数々の出来事と比べると,なんと対照的なのでしょう。西暦前537年には,頑固な君主に自由を請願する必要はなく,敵意に満ちた軍隊から逃げることも,荒野に40年間とどまることも必要ありません。

      16 イザヤ 66章7,8節の現代の成就において,シオンは何を表わしますか。シオンの子たちはどのように再誕生を経験しましたか。

      16 現代の成就において,シオンは,エホバの天的な「女」,つまり霊者で成るエホバの天の組織を表わします。1919年,この「女」は,地上にいる油そそがれた子らが,組織された民すなわち「国民」として誕生するのを見て歓びました。その再誕生は,迅速かつ突然に生じました。c 油そそがれた者たちは,グループとしてわずか数か月のうちに,死んだような無活動状態から,神によって与えられた霊的活動領域という「地」における,生気あふれた活動的な命へと移ったのです。(啓示 11:8-12)その者たちは1919年の秋に,「ものみの塔」誌を補う新しい雑誌の刊行も発表しました。「黄金時代」と呼ばれたその新しい出版物(現在の「目ざめよ!」誌)は,神の民が生き返り,奉仕のために再び組織されたことの証拠となりました。

      17 エホバは,霊的イスラエルに関する目的を遂行する点で何ものにも阻止されないことを,どのようにご自分の民に保証しておられますか。

      17 宇宙のいかなる力も,この霊的な再誕生を阻止することはできません。次の節は,そのことを生き生きと述べています。「『わたしは,破れを生じさせながら,出産を生じさせないようにするだろうか』と,エホバは言われる。『あるいは,出産を生じさせながら,実際には閉ざすだろうか』と,あなたの神は言われた」。(イザヤ 66:9)出産の過程がひとたび始まると中断できないのと同じように,霊的イスラエルの再誕生も,ひとたび始まると止めることはできませんでした。確かに反対はありました。今後も多くの反対があるでしょう。しかし,エホバが始めた物事をとどめ得るのはエホバだけです。そして,エホバは決してそうなさいません。では,エホバは,生き返ったご自分の民をどのように扱われるでしょうか。

      エホバの優しい世話

      18,19 (イ)エホバは,心に触れるどんな例えを用いておられますか。その例えは,流刑中の神の民にどのように当てはまりますか。(ロ)今日の油そそがれた残りの者は,愛ある養育と世話からどのように益を得てきましたか。

      18 続く四つの節は,エホバの優しい世話について,心に触れる描写をしています。まず,イザヤはこう言います。「エルサレムを愛する者たちよ,あなた方は皆,彼女と共に歓び,彼女と共に喜び楽しめ。彼女のことで嘆き悲しんでいる者たちよ,あなた方は皆,彼女と共に大いに歓喜せよ。あなた方はその十分の慰めの乳房から乳を飲み,必ず満ち足りるからである。あなた方はその栄光の乳首から吸い,無上の喜びを経験するからである」。(イザヤ 66:10,11)ここでエホバは,幼子に乳を与える女性の例えを用いておられます。赤子は,おなかがすくとしきりに泣きます。しかし,母親の胸に引き寄せられて乳を飲むと,悲しさは,幸せな満足感に変わります。それと同じく,バビロンにいる忠実なユダヤ人の残りの者は,解放と回復の時が来ると,嘆き悲しんでいる状態から,幸福で満足した状態へと速やかに移ります。喜び楽しむようになるのです。エルサレムは,再建されて再び人が住むようになると,栄光を取り戻します。次いで,その都市の栄光は,忠実な住民を包み込みます。住民は以前のように,活動的な祭司団によって霊的に養われるでしょう。―エゼキエル 44:15,23。

      19 霊的イスラエルも,1919年の回復の後,祝福され,豊かに養われました。それ以来,「忠実で思慮深い奴隷」を通して分配される霊的食物の流れは安定しています。(マタイ 24:45-47)確かに,油そそがれた残りの者は,慰めと喜びの時を経験しています。とはいえ,さらに別の祝福もありました。

      20 古代と現代において,エルサレムはどのように,「奔流」という祝福を受けましたか。

      20 預言はこう続きます。「エホバはこのように言われたからである。『いまわたしは,平和を川のように,諸国民の栄光をみなぎりあふれる奔流のように彼女に差し伸べる。そしてあなた方は必ず乳を飲むであろう。あなた方は脇腹に抱えられて運ばれ,ひざの上で愛ぶされるであろう』」。(イザヤ 66:12)ここでは,乳を与える情景と,祝福の豊かな流れ ―「川」と「奔流」― の光景とが結びつけられています。エルサレムは,エホバから与えられる豊かな平和という祝福だけでなく,「諸国民の栄光」という祝福も受けます。その栄光は,神の民に向かって流れ,その民にとって祝福となります。これは,諸国の民がエホバの民に向かって,流れのように押し寄せることを意味しています。(ハガイ 2:7)古代の成就において,様々な国から来た大勢の人々が実際にイスラエルに付き従い,ユダヤ人の宗教に改宗しました。とはいえ,わたしたちの時代には,はるかに大規模な成就が生じてきました。「すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆」が,まさに人間の奔流となって,霊的ユダヤ人の残りの者に付き従うようになったのです。―啓示 7:9。ゼカリヤ 8:23。

      21 胸に訴える描写的表現を用いて,どんな慰めが予告されていますか。

      21 イザヤ 66章12節は,子供をひざの上で愛ぶし,脇腹に抱えて運ぶという,母性愛の表現についても述べています。次の節も同様の考えを表現していますが,興味深いことに,別の観点から述べています。「自分の母に絶えず慰められる人のように,わたしもあなた方を絶えず慰めるであろう。エルサレムに関してあなた方は慰められるであろう」。(イザヤ 66:13)先ほどの子供は,ここでは「人」つまり大人になっています。それでも母親は,苦難の時に我が子を慰めてやりたいという気持ちを失っていません。

      22 エホバは,ご自分の愛の優しさと強さをどのように示しておられますか。

      22 エホバは,こうした胸に訴える例えを用いて,ご自分の民に対する愛の強さと優しさを示しておられます。最も強い母性愛も,忠実な民に対するエホバの深い愛のささやかな反映でしかありません。(イザヤ 49:15)クリスチャンすべてが天の父のこの特質を反映することは,なんと肝要なのでしょう。使徒パウロはそうしました。それゆえ,クリスチャン会衆の長老たちの立派な模範となっています。(テサロニケ第一 2:7)イエスは,兄弟愛が,わたしの追随者を見分けるおもな特色となる,と言われました。―ヨハネ 13:34,35。

      23 復帰したエホバの民の幸福な状態を説明してください。

      23 エホバは行動によって愛を表明されます。それゆえ,こう続けておられます。「そして,あなた方は必ず見て,あなた方の心は必ず歓喜し,あなた方の骨も柔らかい草のように芽生えるであろう。そして,エホバのみ手は必ずその僕たちに知らされるが,神はその敵たちを実際に糾弾される」。(イザヤ 66:14)あるヘブライ語文法学者によると,『あなた方は必ず見るであろう』という表現には,流刑から帰還する人たちが復興した故国のどこを見ても,「その目に今や映るものは喜びである」という意味合いがあるようです。その人たちはまさに歓喜し,愛する故国に復帰できたことに,言い表わせないほどの感動を覚えるでしょう。あたかも骨が再び強くなっていくかのように,若返った気持ちになり,春の草のように活力にあふれます。すべての人は,この祝福された状態が人間の努力によってではなく,「エホバのみ手」によってもたらされたことを知るでしょう。

      24 (イ)今日のエホバの民に影響を与えている物事を考察して,あなたはどのように結論しますか。(ロ)わたしたちは何を決意すべきですか。

      24 あなたは,今日,神の民の間でエホバのみ手が働いていることを認めていますか。人間がいかに試みようとも,清い崇拝の回復をもたらすことは不可能だったはずです。すべての国民から来た幾百万もの貴重な人々を,霊的な地にいる忠実な残りの者に流れのように加わらせることも,到底できなかったに違いありません。そのようなことができるのはエホバ神だけです。こうしたエホバの愛の表明は,わたしたちにとって深い喜びの理由となります。神の愛を当たり前のものとみなすようなことが決してありませんように。今後も,『神の言葉に対するおののき』を持ちつづけましょう。聖書の原則に従って生き,エホバへの奉仕に喜びを見いだすことを決意しましょう。

      [脚注]

      a 今日,キリスト教世界の多くの人はエホバの固有名を用いようとせず,非常に多くの聖書翻訳からその名を取り除いてさえいます。その固有名を用いる神の民をあざける人たちもいます。ところが,そうした人たちの多くは,「ヤハを賛美せよ」という意味の「ハレルヤ」という表現を信心深げに用いています。

      b エゼキエル 43章7,9節で用いられている『その王たちの死がい』という表現は,偶像を指しています。エルサレムの反逆的な指導者たちと民は,偶像によって神の神殿を汚し,それらの偶像をいわば王としていました。

      c ここで預言されている誕生は,啓示 12章1,2,5節が述べる誕生と同じものではありません。「啓示」の書のその章において,『子,男子』はメシア王国を表わしており,その王国は1914年に機能し始めました。とはいえ,両方の預言の「女」は同じものです。

      [395ページの図版]

      「これらすべてのものはわたしの手が造った」

      [402ページの図版]

      エホバはシオンに「諸国民の栄光」を差し伸べる

  • 諸国民のための光
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 II
    • 第28章

      諸国民のための光

      イザヤ 66:15-24

      1,2 光が不可欠であるのはなぜですか。今日,どんな闇が地を覆っていますか。

      エホバは光の源であり,「昼の光のために太陽を,夜の光のために月と星の法令を与える方」です。(エレミヤ 31:35)この点だけからしても,命の源と認められるべき方です。光は命を意味するからです。もし地球が太陽の暖かさと光を絶えず浴びていなかったなら,わたしたちの知っているような生命は存在しなかったことでしょう。この地球は,生息に適さない場所となってしまうのです。

      2 ですから,エホバが今の時代を先見して,光ではなく闇の時代を予告しておられることに,わたしたちは大いに関心を抱きます。イザヤは霊感を受け,「見よ,闇が地を,濃い暗闇が国たみを覆う」と書きました。(イザヤ 60:2)もちろん,この言葉は,物理的な闇ではなく,霊的な闇について述べています。しかし,この言葉の重大さを過小評価してはなりません。霊的な光を持たない人々は,いずれ生きてゆけなくなります。それは,太陽の光に恵まれない人の場合と同様です。

      3 この闇の時代において,どこから光を得られますか。

      3 この闇の時代にあって,エホバが備えてくださる霊的な光を無視することなどできません。自分の通り道を明るくするため,神の言葉に注意を向けることは肝要であり,できれば毎日聖書を読むべきです。(詩編 119:105)クリスチャンの集会は,「義なる者たちの道筋」にとどまるよう互いに励まし合う機会となります。(箴言 4:18。ヘブライ 10:23-25)勤勉な聖書研究や健全なクリスチャンの交わりから力を得るなら,この「終わりの日」の闇に呑み込まれないようにすることができます。「終わりの日」は,大いなる「エホバの怒りの日」に最高潮を迎えます。(テモテ第二 3:1。ゼパニヤ 2:3)その「怒りの日」は足早に近づいています。同様の日が古代エルサレムの住民に確かに臨んだように,それは必ず来るのです。

      エホバは『論争を取り上げる』

      4,5 (イ)エホバはどのようにエルサレムに攻め寄せますか。(ロ)西暦前607年のエルサレムの滅びを生き残るのは比較的少数の人々だけである,と結論できるのはなぜですか。(脚注をご覧ください。)

      4 感動的なイザヤの預言の結びの部分で,エホバは,ご自分の怒りの日に至るまでの物事を生き生きと描写しておられます。こう書かれています。「エホバご自身がまさに火のように来られる……。その兵車は暴風のようである。それは,その怒りを激しい怒りをもって,その叱責を火の炎をもって報いるためである。エホバご自身が火のようにまさしくその論争を取り上げられるからである。そうだ,その剣をもって,すべての肉なる者を攻める。エホバに打ち殺される者は必ず多くなる」。―イザヤ 66:15,16。

      5 イザヤと同時代の人々は,この言葉から,自分たちの状況の深刻さを悟れるはずです。バビロニア人がエホバの刑執行者としてエルサレムに攻め寄せ,その兵車が暴風のように砂じんをまき上げる時が来ようとしています。なんと恐ろしい光景でしょう。エホバは,それら侵入者を用いて,不忠実なユダヤ人の「肉なる者」すべてに対する火のような裁きを遂行されます。あたかもエホバ自ら,ご自分の民と戦っておられるかのようになるでしょう。神の「激しい怒り」が引き戻されることはありません。多くのユダヤ人が,「エホバに打ち殺される者」として倒れます。西暦前607年,この預言は成就します。a

      6 ユダでは,とがめるべきどんな習わしが行なわれていますか。

      6 エホバがご自分の民に対する『論争を取り上げる』のは,正当なことでしょうか。そのとおりです。イザヤ書の討議の中でこれまでに幾度も考慮した点ですが,ユダヤ人は,エホバに献身していたはずなのに,偽りの崇拝にすっかり染まっています。そしてエホバは,その者たちの行ないに盲目であったわけではありません。預言の続きの部分では,その点が再び示されています。「『中央の一つのものの後ろで園のために身を神聖にし,身を清め,豚の肉や忌み嫌うべきものを,跳びねずみをも食べる者たち,彼らはみな共にその終わりを迎える』と,エホバはお告げになる」。(イザヤ 66:17)これらのユダヤ人は,清い崇拝を行なう支度として『身を神聖にし,身を清めて』いるのでしょうか。明らかに,そうではありません。それどころか,特別な園で異教の浄めの儀式を行なっています。その後,豚の肉や,モーセの律法下で汚れたものとみなされている他の生き物の肉を貪欲にむさぼり食うのです。―レビ記 11:7,21-23。

      7 キリスト教世界は,偶像礼拝にふけったユダとどのように似ていますか。

      7 唯一まことの神との契約関係にある国民が,なんと嫌悪すべき状況に陥っているのでしょう。とはいえ,考えてみてください。今日でも,キリスト教世界の諸宗派に,これに匹敵する嫌悪すべき状況が見られます。それらも神に仕えていると唱え,その指導者の多くは信心深さを装っています。しかし実際には,異教の教えや伝統によって身を汚しており,霊的な闇の中にいることを露呈しています。その闇はなんとひどいのでしょう。―マタイ 6:23。ヨハネ 3:19,20。

      『彼らはわたしの栄光を見ることになろう』

      8 (イ)ユダとキリスト教世界には何が臨みますか。(ロ)諸国民は,どんな意味で『エホバの栄光を見る』ことになりますか。

      8 エホバは,キリスト教世界のとがめるべき行動と偽りの教えに目を留めておられるのでしょうか。イザヤの記したエホバの言葉を読み,どんな結論を引き出せるか考えてください。こうあります。「彼らの業と考えに関してであるが,わたしはすべての国民と国語を共に集めるために来る。彼らは必ず来て,わたしの栄光を見ることになろう」。(イザヤ 66:18)エホバは,神の僕ととなえる人々の業だけでなく,その人々の考えもご存じであり,その両方を裁く用意をしておられます。ユダはエホバを信じていると唱えていますが,偶像礼拝の業と異教の習わしにより,その主張が偽りであることをさらけ出しています。ユダの市民が異教の儀式にのっとって身を“浄め”ても,何の益にもなりません。その国民は切り倒されます。そうなる時,偶像を崇拝する近隣の民もまざまざとそれを見ることでしょう。それらの民は,そうした出来事を目撃し,エホバの言葉が実現したことを認めざるを得ないという意味で,『エホバの栄光を見る』のです。こうしたことすべては,どのようにキリスト教世界に当てはまるでしょうか。同世界が終わりを迎える時,かつての友や取り引き相手の多くは,離れたところに立って,エホバの言葉が成就するのをなすすべもなく見守らざるを得ないでしょう。―エレミヤ 25:31-33。啓示 17:15-18; 18:9-19。

      9 エホバはどんな良いたよりを布告しておられますか。

      9 西暦前607年のエルサレムの滅びは,エホバがもはや地上に証人たちをお持ちにならない,ということを意味するのでしょうか。そうではありません。ダニエルとその3人の仲間のような,立派に忠誠を保つ人々は,バビロンに流刑になろうとも,エホバに仕えつづけます。(ダニエル 1:6,7)そうです,エホバの忠実な証人たちの系譜は途絶えることなく続き,70年の期間が終わると,忠実な男女はバビロンを去ってユダに戻り,そこで清い崇拝を復興します。それこそ,エホバが次に触れておられる事柄です。「わたしは彼らの中にしるしを置き,逃れた者たちのある者を諸国民のもとに遣わす。タルシシュ,プル,およびルド,弓を引く者たち,トバルとヤワン,遠くの島々に。それはわたしについての報告を聞いたことも,わたしの栄光を見たこともない者たちである。彼らは必ず諸国民の中でわたしの栄光について告げるようになるであろう」。―イザヤ 66:19。

      10 (イ)バビロンから解放された忠実なユダヤ人は,どんな意味でしるしとなりますか。(ロ)今日,だれがしるしとなっていますか。

      10 西暦前537年にエルサレムに帰還する大勢の忠実な男女は,驚くべきしるし,つまりエホバがご自分の民を救出されたことの証拠となります。捕らわれのユダヤ人がいつの日か自由になって,エホバの神殿で清い崇拝を推し進めるなどということを,いったいだれが考えたでしょうか。同様に,1世紀において『しるしとなり,奇跡となった』のは油そそがれたクリスチャンであり,その人たちのところに,エホバに仕えることを望む柔和な人々が群れ集まりました。(イザヤ 8:18。ヘブライ 2:13)今日,油そそがれたクリスチャンは,復興した自分たちの地で繁栄し,地上における驚くべきしるしとなっています。(イザヤ 66:8)それらの人は,エホバの霊の力の生きた証拠であり,心からエホバに仕えたいと願う柔和な人々を引きつけています。

      11 (イ)復興の後,諸国の人々はどのようにしてエホバについて学ぶようになりますか。(ロ)ゼカリヤ 8章23節は,まずどのように成就しましたか。

      11 では,西暦前537年の復興の後,エホバについての報告を聞いたことのない諸国の人々は,どのようにしてエホバを知るようになるのでしょうか。以下の点を考えてみましょう。バビロンでの捕らわれが終わっても,忠実なユダヤ人すべてがエルサレムに戻るわけではありません。ダニエルのようにバビロンにとどまる人もいれば,地の隅々に散って行く人たちもいます。遅くとも西暦前5世紀には,ペルシャ帝国全土にユダヤ人が住んでいました。(エステル 1:1; 3:8)そうした人々の中には,異教徒である隣人にエホバについて語った人たちがいたに違いありません。そうした諸国民の中には,ユダヤ教の改宗者となる人も大勢いたからです。1世紀にクリスチャンの弟子フィリポが伝道したエチオピアの宦官の場合もそうだったのでしょう。(使徒 8:26-40)こうしたことすべては,次のような預言者ゼカリヤの言葉の最初の成就として生じました。「その日には,諸国のあらゆる言語から来た十人の者が,ユダヤ人である一人の者のすそをとらえ,まさしくとらえてこう言う。『わたしたちはあなた方と共に行きます。神があなた方と共におられることを聞いたからです』」。(ゼカリヤ 8:23)確かにエホバは,諸国民に光を送り出されたのです。―詩編 43:3。

      「エホバへの供え物」を携えて来る

      12,13 西暦前537年以降,どのように「兄弟たち」がエルサレムに連れて来られますか。

      12 エルサレムが再建された後,故国から遠く離れた土地に散っているユダヤ人は,その都と,そこに回復された祭司団とを,清い崇拝の中心とみなすでしょう。そうした人々の中には,長距離の旅をして,エルサレムでの年ごとの祭りに出席する人も大勢いることでしょう。イザヤは,霊感のもとにこう書いています。「『彼らはすべての国の民の中から,あなた方の兄弟を皆エホバへの供え物として,馬,兵車,覆いの付いた車,らば,速足の雌のらくだに載せて,わたしの聖なる山,エルサレムに実際に連れて来るであろう』と,エホバは言われた,『イスラエルの子らが清い器に供え物を入れて,エホバの家に携えて来るように。そして,彼らからもまた,わたしはある者を祭司のため,レビ人のために取るであろう』」。―イザヤ 66:20,21。

      13 ペンテコステの日にイエスの弟子たちの上に聖霊が注ぎ出された時,この『すべての国の民の中から来た兄弟たち』に属する人々が,その場に居合わせました。こう記録されています。「エルサレムには,天下のあらゆる国から来たユダヤ人で,敬虔な人々が住んでいた」。(使徒 2:5)その人々はユダヤ人の習慣に従って崇拝を行なうためにエルサレムに来ていましたが,イエス・キリストに関する良いたよりを聞いた時,多くの人はイエスに信仰を働かせ,バプテスマを受けました。

      14,15 (イ)第一次世界大戦後,油そそがれたクリスチャンはどのように,霊的な「兄弟たち」をいっそう多く集めましたか。そうした「兄弟たち」はどのように,『清い器に入った供え物』としてエホバのもとに携えて来られましたか。(ロ)エホバはどんな意味で,『ある者を祭司のために取る』ことを行なわれましたか。(ハ)霊的な兄弟たちを集める業に加わった油そそがれたクリスチャンとして,どんな人たちがいますか。(このページの囲み記事をご覧ください。)

      14 この預言は,現代にも成就するのでしょうか。そのとおりです。第一次世界大戦後,油そそがれたエホバの僕たちは,神の王国が1914年に天で設立されたことを聖書から理解しました。そして,注意深い聖書研究により,王国相続者たち,つまり「兄弟たち」をさらに集めるべきことを悟りました。恐れを知らない奉仕者たちが,油そそがれた残りの者の成員となる見込みのある人々を探して,あらゆる交通手段を用い,「地の最も遠い所」にまで出かけて行きました。そうした見込みのある人々の大半は,キリスト教世界の諸教会から出て来ました。そして,見いだされると,エホバへの供え物として携えて来られました。―使徒 1:8。

      15 早い時期に集め入れられた油そそがれた者たちは,聖書の真理の知識を得る前の状態のままでエホバに受け入れていただけるとは期待しませんでした。『清い器に入った供え物』として,あるいは使徒パウロが述べるところの『キリストへの貞潔な処女』として自らを差し出せるよう,霊的また道徳的な汚れから身を清めるための手段を講じました。(コリント第二 11:2)油そそがれた者たちは,教理上の誤りを退けることに加え,この世の政治に関して厳正な中立の立場を保つ方法を学ぶ必要もありました。1931年,ご自分の僕たちがふさわしい程度に清められた時,エホバは慈しみ深くもその僕たちに,“エホバの証人”としてみ名を負う特権をお与えになりました。(イザヤ 43:10-12)では,エホバはどんな意味で,『ある者を祭司のために取る』ことを行なわれたのでしょうか。これら油そそがれた者たちは,グループとして,神に賛美の犠牲をささげる「王なる祭司,聖なる国民」の一部となったのです。―ペテロ第一 2:9。イザヤ 54:1。ヘブライ 13:15。

      取り入れの業は続く

      16,17 第一次世界大戦後において,「あなた方の子孫」とはだれのことですか。

      16 その「王なる祭司」は全員で14万4,000人であり,その人々を集める業はやがて完了しました。(啓示 7:1-8; 14:1)では,取り入れの業はそれで終わったのでしょうか。そうではありません。イザヤの預言の続きにはこうあります。「『わたしの造っている新しい天と新しい地がわたしの前に立っているのと同じように』と,エホバはお告げになる,『あなた方の子孫とあなた方の名も立ちつづけるからである』」。(イザヤ 66:22)この言葉の最初の成就として,バビロンでの捕らわれから帰還するユダヤ人は子を育てることを始めます。そのようにして,回復したユダヤ人の残りの者(「新しい地」)は,ユダヤ人の新しい管理機関(「新しい天」)のもとにしっかりと据えられるのです。とはいえ,この預言は今の時代に,特に顕著な成就を見てきました。

      17 霊的な兄弟たちで成る国民が産み出す「子孫」とは,地上で永遠に生きる希望を抱く「大群衆」のことです。その人々は,「すべての国民と部族と民と国語の中から」来て,「み座の前と子羊の前に」立ちます。「自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」人々です。(啓示 7:9-14; 22:17)今日,この「大群衆」は,霊的な闇から離れ,エホバが備えておられる光へ移っています。イエス・キリストに信仰を働かせ,油そそがれた兄弟姉妹と同じく霊的にも道徳的にも清さを保とうと努めています。グループとして,キリストの指導のもとで奉仕を続け,永久に「立ちつづける」のです。―詩編 37:11,29。

      18 (イ)大群衆の成員はどんな点で,油そそがれた兄弟たちと同じように行動してきましたか。(ロ)油そそがれた者とその仲間はどのように,「新月から新月,安息日から安息日へと」エホバを崇拝しますか。

      18 これら地的な希望を抱く,骨折って働く男女は,道徳的また霊的に清さを保つことの肝要さを認めつつも,エホバを喜ばせるにはそれだけでは十分でない,ということを知っています。取り入れの業は真っ盛りであり,これらの男女はその業に参加したいと願っています。この人々について,「啓示」の書はこう預言しています。「[彼らは]神のみ座の前にいる……。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」。(啓示 7:15)この言葉は,イザヤの預言の,最後から2番目の節を思い起こさせます。そこにはこうあります。「『必ず新月から新月,安息日から安息日へと,すべての肉なる者がわたしの前で身をかがめるために入って来るであろう』と,エホバは言われた」。(イザヤ 66:23)今日,そのとおりのことが生じています。「新月から新月,安息日から安息日へと」,つまり,毎月,毎週,定期的に,油そそがれたクリスチャンとその仲間である大群衆は,エホバを崇拝するためにやって来ます。とりわけ,クリスチャンの集会に出席し,公の宣教奉仕を行なうことによって,そうします。あなたも,定期的に『来て,エホバの前で身をかがめる』人たちの一人となっておられますか。エホバの民はそうすることに大きな喜びを見いだしており,大群衆に属する人たちは,「すべての肉なる者」― 生きているすべての人 ― がとこしえにわたって「新月から新月,安息日から安息日へと」エホバに仕える時代を待ち望んでいます。

      神に敵する者たちの最期

      19,20 聖書時代に,ゲヘナは何のために用いられましたか。ゲヘナは何の象徴ですか。

      19 これまで学んできたイザヤの預言も,残すところあと1節です。イザヤ書は,次のような言葉で結ばれています。「彼らは実際に出て行き,わたしに対して違犯をおかしていた者たちの死がいを見つめるであろう。それらについた虫は死なず,その火は消されず,それらはすべての肉なる者にとって必ず嫌悪の情を起こさせるものとなるからである」。(イザヤ 66:24)イエス・キリストは,生活を簡素にして王国の関心事を第一にするよう弟子たちを励ました際,この預言を念頭に置いておられたようです。こう述べておられます。「もしあなたの目があなたをつまずかせるなら,それを捨て去りなさい。あなたにとっては,片目で神の王国に入るほうが,二つの目をつけてゲヘナに投げ込まれるよりは良いのです。そこでは,うじは死なず,火は消されないのです」。―マルコ 9:47,48。マタイ 5:29,30; 6:33。

      20 このゲヘナとは,どんな場所ですか。幾世紀も前に,ユダヤ人の学者ダーウィード・キムヒはこう書きました。「それはエルサレムに隣接した……場所で,胸の悪くなるような所であり,人々は汚れたものや死がいをそこへ投げ捨てる。そこではまた,汚れたものや死がいの骨を燃やすために絶えず火が燃やされていた。したがって,邪悪な者の裁きは寓話的意味でゲーヒンノームと呼ばれている」。ゲヘナが,このユダヤ人の学者の言うように,廃棄物や埋葬に値しないとみなされた人々の死がいなどの処理に用いられていたのであれば,火は,そうした廃棄物を処分するのに適した手段だったでしょう。火が焼き尽くさなかった物は,うじが食い尽くします。神に敵する者すべての最期を示す,なんと適切な描写なのでしょう。b

      21 どんな人々にとって,イザヤ書は積極的な調子をもって終わっていますか。なぜそう言えますか。

      21 こうした死体や火や虫への言及を考えると,イザヤの感動的な預言は陰うつな調子をもって終わっている,と言えるのではないでしょうか。神に公然と敵する人々は,そう思うに違いありません。しかし,神の友である人々は,邪悪な者の永遠の滅びに関するイザヤの記述から大いに力づけられます。エホバの民は,敵が優位に立つことは二度とないという,この保証の言葉を必要としています。神の崇拝者に多大の苦悩を味わわせ,神のみ名に多大のそしりをもたらしてきたそれらの敵は,永遠の滅びを被ります。それゆえ,「苦難は二度と生じない」のです。―ナホム 1:9。

      22,23 (イ)イザヤ書の研究からどんな面で益を受けたか,幾つか説明してください。(ロ)イザヤ書の研究を終えた今,あなたはどんな決意を抱いていますか。どんな希望も抱いていますか。

      22 わたしたちは,イザヤ書の研究を終えるにあたり,聖書のこの書が,死んだような歴史ではないことを本当にうれしく思います。それどころか,この書は今日のわたしたちに対する音信を含んでいるのです。イザヤが生きた暗い時代について考えるとき,その時代と今の時代との類似点に気づきます。政情の不安,宗教上の偽善,司法上の腐敗,そして忠実な人や貧しい人に対する抑圧などが,イザヤの時代の特徴となっていました。それは今の時代の特徴ともなっています。西暦前6世紀の忠実なユダヤ人は,イザヤの預言に感謝したに違いありません。今日のわたしたちも,その預言を研究して,慰めを得ます。

      23 闇が地を,甚だしい闇が国たみを覆っているこの危機の時代に,わたしたちは皆,エホバがイザヤを通して全人類のための光を備えてくださったことに深く感謝します。その霊的な光は,それを心から受け入れるすべての人にとって,まさに永遠の命を意味します。出身国や民族的な背景は関係ありません。(使徒 10:34,35)ですから,神の言葉の光のうちを歩みつづけ,み言葉を毎日読み,それを黙想し,その音信を大切にしてゆきましょう。そうすることは,わたしたち自身のとこしえの祝福となり,エホバの聖なるみ名の賛美となるのです。

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