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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2020
塔研20 02月号 26–30ページ

ライフ・ストーリー

良い手本から学び,豊かに祝福されました

レオンス・クレポーの語った経験

若い頃のレオンス・クレポー

若い頃は伝道に行くのが苦手でした。大人になると,自分に果たせるか不安になるような思いがけない割り当てを受けました。それでも恐れを乗り越え,全時間奉仕者として58年働き,素晴らしい経験をしてきました。どんな人の手本が励みになったか,お話ししたいと思います。

私はカナダのケベック市で生まれました。フランス語が話されるケベック州の都市です。父ルイと母ゼリアの愛情を受けて育ちました。父は寡黙な人で,本を読むのが好きでした。私は物を書くのが好きで,新聞記者になりたいと思っていました。

12歳のころ,父の同僚ロドルフ・スーシーが友人と共にわが家を訪ねてきました。2人はエホバの証人でした。私はエホバの証人のことはよく知らず,あまり興味がありませんでした。でも,質問に聖書を使って筋の通った答えを示してくれたので感心しました。両親も感心し,家族で聖書を教えてもらうことになりました。

当時私はカトリックの学校に通っていました。時々,エホバの証人から教わった事柄についてクラスメートと話しました。やがてカトリックの司祭でもある教師たちにそのことが知られました。教師の1人は,私が言ったことの間違いを聖書から示すのではなく,革命思想を抱いているとして私のことをクラス全員の前で非難しました。この出来事は自分の中ではストレスになりましたが,良い結果になりました。宗教の授業で教わる事柄が聖書の教えとは違っていることが分かったからです。この学校には行きたくないと思い,両親の許可を得て別の学校に転校しました。

伝道を楽しめるようになる

私は聖書を教わっていましたが,進歩しませんでした。家から家の伝道に行くのが怖かったからです。当時はカトリック教会が絶大な権力を握り,エホバの証人による伝道に強硬に反対していました。ケベック州首相のモーリス・デュプレッシは,カトリック教会と緊密な関係にありました。デュプレッシの後ろ盾を得ていた暴徒たちによるエホバの証人に対する嫌がらせや襲撃が続いていました。当時,伝道するには大きな勇気が要りました。

私が恐れを克服するよう助けてくれた兄弟に,ギレアデ学校第9期生のジョン・レイがいます。ジョンは経験を積んだ兄弟で,穏やかで気取らず,近づきやすい人でした。ジョンは言葉で諭すというよりも,手本を示して大切なことに気付かせてくれました。フランス語が得意ではなかったので,私が伝道に付いていってジョンを助けました。ジョンと一緒に働いて真理の側に立つ決意が固まり,1951年5月26日にバプテスマを受けました。エホバの証人と初めて出会ってから10年後のことです。

レオンス・クレポー,ジョン・レイ,幾人かの友人たち

ジョン・レイ(A)の手本により,私(B)は家から家の伝道を恐れずにできるようになった。

私が所属していたケベック市の小さな会衆は,ほぼ全員が開拓者でした。良い刺激を受け,自分も開拓者になりたいと思いました。当時は戸別伝道で聖書だけを使いました。印刷物を渡すことはしなかったので,伝道で使える聖句をよく知るよう努力する必要がありました。しかし,聖書の言葉を見せても,家の人はカトリック公認の聖書でないと目を背けました。

1952年にシモーヌ・パトリと結婚しました。立派に奉仕してきた地元の姉妹です。結婚を機にモントリオールに引っ越し,次の年には娘のリーズが生まれました。私は結婚する少し前に開拓奉仕を中止しましたが,夫婦で生活を簡素にし,家族みんなで会衆の活動に十分に参加できるようにしました。

開拓奉仕を再開できないか真剣に考えるようになったのは,10年後のことです。1962年,カナダのベテルで長老のための1カ月間の王国宣教学校が開かれた時,カミール・ウェレット兄弟とルームメートになりました。カミールは伝道に熱心だったので,刺激を受けました。カミールも結婚し,子供がいました。当時ケベックでは,子育てをしながら開拓奉仕をする人がほとんどいませんでした。それでもカミールは,開拓奉仕ができないか考えていました。ルームメートだった間,私にも開拓奉仕について考えるよう勧めてくれました。数カ月後,私は正規開拓奉仕ができると判断しました。無理があるのではないかと言う人もいましたが,伝道に多くの時間を充てる努力をエホバが祝福してくださることを信じ,一歩を踏み出しました。

ケベック市での特別開拓奉仕

1964年,夫婦で郷里のケベック市で特別開拓奉仕をするよう割り当てられました。ケベックでの奉仕は何年か続きました。伝道では以前のような反対は受けませんでしたが,それでも反対がなくなったわけではありませんでした。

ある土曜日の午後,ケベック市に近い小さな町サントマリーで逮捕されました。警察署に連行され留置されました。容疑は,許可を得ずに戸別伝道をしていたというものです。後日,バヤルジョンという名の堂々とした風格の裁判官と対面しました。裁判で誰が弁護士になるのかと聞かれ,グレン・ハウaですと答えると,裁判官は嫌そうな顔をし,「なんてこった!」と言いました。グレン・ハウは当時,エホバの証人の弁護士としてよく知られ,幾つもの裁判で手腕を発揮していました。間もなく裁判所から,起訴を取り下げるという通知が届きました。

ケベックではエホバの証人の活動が反対されていたため,集会の会場をなかなか借りることができませんでした。私たちの小さな会衆は,暖房のない古いガレージで集まるしかありませんでした。極寒の冬には,オイルヒーターを使いました。集会の何時間も前から兄弟姉妹とヒーターを囲み,経験を語り合いました。

以来,大勢の人が真理を知るようになったことを本当にうれしく思います。1960年代には,ケベック市とその周辺,コートノール地方,ガスペ半島の全域で,小さな会衆が数えるほどしかありませんでした。今では2つ以上の巡回区があり,兄弟たちは立派な王国会館で集会を開いています。

旅行する奉仕

1977年,カナダのトロントで開かれた旅行する監督の会合にレオンス・クレポーが出席した時。

1977年,カナダのトロントで開かれた旅行する監督の会合に出席した時。

1970年に,夫婦で巡回奉仕の割り当てを受けました。1973年には地域奉仕に移りました。この時期に,やはり旅行する奉仕をしていたロリエ・ソーミュールbやデービッド・スプレーンcなど経験豊かな兄弟たちから多くのことを教わりました。大会後にはデービッドと教える技術を磨くための提案を述べ合いました。ある時には,デービッドからこう言われました。「結びの話は良かったですよ。いい話でしたが,情報が多過ぎます。あの内容だったらあと2つの話が作れます」。私は1つの話にあれもこれも詰め込む癖がありました。話す内容をもっと減らす必要がありました。

レオンス・クレポーが奉仕したカナダの幾つかの場所: サントマリー,ケベック,モントリオール,トロント

カナダ東部のさまざまな都市で奉仕した。

地域監督は巡回監督を励ますという役割も担っていました。ケベックの兄弟姉妹は私のことをよく知っていたため,巡回区を訪問すると,私と伝道することを希望する人が大勢いました。兄弟姉妹との伝道が楽しく,巡回監督と働くことをあまり意識していませんでした。ある時,巡回監督から優しくこう忠告されました。「兄弟たちのために時間を取っている姿に励まされます。でも今週は私と働く週なので,私のことも励ましてくださいね」。このように親切に言ってもらえたので,大切なことを見失わないで済みました。

1976年には,予期していない悲しい出来事がありました。愛するシモーヌが重い病気を患い,亡くなりました。自分を進んで犠牲にしエホバを深く愛するシモーヌは素晴らしい伴侶でした。伝道に打ち込むことがこのつらい時期に助けになりました。エホバが優しく支えてくださったことに感謝しています。後にキャロリン・エリオットと結婚しました。必要の大きな所としてケベックに移動してきた,英語を話す熱心な開拓者です。キャロリンは近づきやすく,仲間を深く気に掛けます。内気な人や独りでいる人によく関心を払います。旅行する奉仕をキャロリンと行えるようになり,たくさん助けられています。

思い出深い年

1978年1月,ケベックで初めて開かれた開拓奉仕学校で教訓者になるよう割り当てられました。とても不安でした。生徒だけでなく,教える側にとっても初めての機会だったからです。幸い,最初のクラスには経験豊かな開拓者が大勢出席しました。教訓者である私は,生徒からたくさんのことを学びました。

同じ年にはモントリオールのオリンピック・スタジアムで「勝利の信仰」国際大会が開かれました。ケベック州で開かれた最大の大会で,出席者は8万人を超えました。私は大会のニュースサービス部門で働くよう割り当てられました。大勢の記者と話ができました。報道が好意的だったのもうれしいことでした。テレビやラジオで放送されたインタビューの時間は20時間を超え,何百もの記事が新聞に掲載されました。エホバの証人のことが大々的に伝えられたのです。

新たな区域に移動する

私にとって大きな変化となった年は1996年です。バプテスマ以来,フランス語が話されるケベック州で奉仕してきましたが,トロント近郊の英語の地域区で奉仕することになったのです。不慣れな英語で講演をするのは大変で,無理だと思いました。エホバに頻繁に祈り,ひたすら頼る必要がありました。

予想とは裏腹に,トロントで奉仕した2年間には素晴らしい経験ができました。英語で自信をもって話せるよう,キャロリンは根気強く助けてくれました。兄弟たちもよく協力し,励ましてくれました。すぐに新しい友が大勢できました。

週末の巡回大会のための準備や,大会に関連した他の活動のために忙しくても,金曜日の晩には1時間ほど家から家の伝道を行うようにしてきました。「週末の大会で忙しいのに,なぜわざわざ大会前に伝道に行くのだろう」と思う人もいたことでしょう。でも伝道に出て家の人と話ができると,気持ちが爽やかになりました。今でも伝道に出ると元気になります。

1998年には,モントリオールで特別開拓者として奉仕するよう割り当てられました。これまで行ってきた奉仕には,公共エリアでの特別な伝道を組織することや,エホバの証人について正しく理解してもらえるよう報道関係者に働き掛けることなどがあります。最近では,カナダに移住して間もない外国人への伝道を楽しんでいます。聖書を学ぶ意欲を持つ人によく会えます。

レオンス・クレポーと妻のキャロリン

妻のキャロリンと。

エホバに奉仕した68年間を振り返り,豊かに祝福されたと感じます。伝道を楽しめるようになり,真理を知るよう大勢の人を助けることができたからです。娘のリーズも夫婦で子育てを終え,今は正規開拓者として奉仕しています。伝道に熱心な娘の姿を見ると,本当にうれしくなります。私に立派な手本を示し,役立つアドバイスをしてくれた兄弟たちには,特に感謝しています。おかげでエホバとの絆を強め,さまざまな奉仕を行うことができました。奉仕を忠実に続けるには,エホバの強力な聖なる力に頼ることがどうしても必要です。(詩 51:11)今もエホバに感謝しています。エホバの名を賛美する貴重な機会を与えてくださったからです。(詩 54:6)

a 「目ざめよ!」2000年4月22日号に掲載されたW・グレン・ハウのライフ・ストーリー,「戦いはあなた方のものではなく,神のもの」を参照。

b 「ものみの塔」1977年2月15日号に掲載されたロリエ・ソーミュールのライフ・ストーリー,「私は闘うだけの価値のあるものを見いだした」を参照。

c デービッド・スプレーンは現在はエホバの証人の統治体のメンバー。

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