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目ざめよ! 1978
目78 6/8 16–19ページ

コーヒーの過去と現在

ブラジルの「目ざめよ!」通信員

入れたての熱いカフェジーニョはいかがですか。こうした習慣は,ある人々の間では衰えつつありますが,ブラジル人はいまだに朝早くから夜遅くまでコーヒーを飲むことで知られています。

コーヒーの価格が暴騰しても,そのためにすぐコーヒーから他の飲み物に切り換えるようなことはありませんでした。実際に,世界人口の三分の一はコーヒーを飲みます。例えば,ベルギー人は毎年,紅茶6㍑に対して,コーヒーを149㍑も飲みます。普通のアメリカ人は1杯の紅茶に対して10杯のコーヒーを飲みます。西洋では,英国人だけが例外で,毎年261㍑の紅茶に対してコーヒーは6㍑しか飲みません。

ブラジルは,世界一のコーヒー産出国,また輸出国という肩書きを保有しています。1977年の最初の四か月間にこの“褐色の金”の輸出総額は,450万袋に対して,記録破りの10億㌦(約2,500億円)という驚異的な額に達しました。

しかし,コーヒーは元々ブラジルのものではありません。ほぼ世界中に普及しているこの飲み物が飲まれるようになったいきさつ,その原産地,またブラジルに伝わった由来を知りたいと思われますか。

原産地と用途

“コーヒー”という語は,力を意味するアラビア語カーワーに由来しており,トルコ語カーベーを経てわたしたちのところに来ました。昔のコーヒーの発見にまつわる伝説はいろいろあります。ある言い伝えによると,カルディという一人の若いアラビア人のヤギ飼いは,自分のヤギが,ある常緑の低木の実や葉を食べた後,はしゃいではね回っているのに気付きました。好奇心を抱いたヤギ飼いは,自分もその不思議な実を少し食べてみて,陽気な気分にならせるその効果に驚きました。そのうわさは広まり,“コーヒー”が誕生しました。

コーヒーは最初,固形食として,それからぶどう酒として,後には薬として,そして最後に普通の飲み物として用いられるようになりました。薬としては,昔と同じく今でも,偏頭痛,心臓病,慢性のぜん息,水腫などの治療に用いられています。(しかし,度が過ぎると,胃酸過多や,神経過敏になったり,心臓の拍動を速めたりする場合がある。“胸やけ”の原因となることも多い。)食物にするには,果実全体をつぶして油を加え,混ぜ合わせたものを丸い型に入れるのです。現在でも,アフリカにはコーヒーを“食べる”部族がいます。その後,コーヒーの実からぶどう酒の一種がつくられるようになりました。また,乾燥した殻に熱湯を注いで飲み物をつくった人々もいました。さらに後になって,実を乾燥させ,いって,殻と混ぜ合わせ,飲み物をつくるようになりました。やがてだれかが,すりばちで豆をひき,それがコーヒーひき機の前身となりました。

ブラジルのコーヒー

コーヒーの原産地は恐らくエチオピアであると思われますが,15世紀に初めてコーヒーを栽培したのはアラブ人でした。しかし,アラブ人がそれを独占できたのはつかの間のことでした。1610年には,コーヒーの木が初めてインドで植えられました。オランダ人は1614年にその栽培法について研究を始めました。フランス人の海軍士官ガリエル・マティユ・デゥ・クリウは,1720年に,コーヒーの苗木を何本か携えてパリからアンティル諸島に向かいました。そのうちの一本だけが残り,その苗木はマルティニーク島に持って行かれました。コーヒーは,オランダ領ギアナからアンティル諸島を経て仏領ギアナへと普及してゆきました。そして,ブラジル人の陸軍士官フランシスコ・デ・メーロ・パーリェタは,1727年ごろ,そこからベレンを経てブラジルへコーヒーを持ち込みました。19世紀初頭には,カンピナスやその他のサン・パウロ州の諸都市でコーヒーの栽培が始まり,間もなく,他の諸州,特にパラナにまで広がってゆきました。

今日,コーヒーの植え付けは,組織的に計画されています。畑に種をまくかわりに,日よけのある苗床で苗木が育てられます。種がまかれてから40日ほどたつと,コーヒーの種は新芽を出します。その紛れもない姿ゆえに“マッチ棒”というあだ名が付けられています。苗床で一年間大切に手入れをしてから,苗木を外に植え替えます。

大抵の場合,機械化された畑仕事をしやすくするために,また土地が浸食されないように,丘の斜面の湾曲した列に沿って苗木は植えられます。苗木を植えてから四年たつと,木は最初の収穫の時期を迎えます。その間ずっと,引き水によって成長を促し,豊作を期待します。

一方,コーヒー栽培家の頭痛の種は,赤さび病やコーヒー豆せん孔虫など,虫や植物の病気との果てしない戦いです。さび菌とは,葉を台なしにして木を枯らしてしまう菌類のことです。コーヒー豆せん孔虫とは,コーヒー豆を食べて小さな穴をあけ,豆を台なしにしてしまう虫のことです。もちろん,よく効くカビ防止剤や殺虫剤はありますが,それらをいつも使うなら生産費が上がってしまいます。

コーヒー豆の処理法

農園で,コーヒー豆は“湿”式あるいは“乾”式いずれかの方法で処理されます。湿式によって良質のコーヒーができることが知られています。それは,熟したコーヒーの実だけが選ばれるからです。しかし,あまり労力をかけずにより安価にできることから,ブラジルのコーヒーは大抵,“乾”式で処理されています。

まず,緑色のものから乾燥したものまですべての実を大きな粗布の上に払い落とします。それから実は特別のふるいにかけられます。次に,成熟した実を未熟な実からえり分け,不純物を除去するために,実は乾燥場のわきの水路で水洗いされます。その後,実は戸外の日光の下で乾燥させるために段々の上に広げられます。そして実をむらなく乾燥させるために幾度もひっくり返します。最後に,乾燥した実は,後に使用するまで,木材で内張りをした保管場所に貯蔵しておきます。

ところで,実を乾燥させることは,コーヒーの最終的な品質を決める非常に重要な段階と言えます。それで,より速く乾燥させるために,特に雨期には,木材を燃やして乾燥させる装置を使用している農園もあります。

ラテン・アメリカの他の国々やそれ以外の所では,時間や費用はもっとかかりますが,ふつう“湿”式の方法が採用されています。まず,脱肉機で豆を皮から絞り出します。豆は大きなタンクの中に落ち,“はちみつ”と呼ばれる表面のゼリー状物質が少し発酵するようそこに約24時間放置されます。発酵した後に,その“はちみつ”は洗浄水路で洗い落とされます。次いで,コーヒーは,“乾”式の場合と同様,乾燥させるために日光に当てます。熱い空気がコーヒーの間を循環する,小さな穴がたくさんある回転式の円筒形乾燥機を利用している栽培家もいます。最後に,コーヒー豆は,外皮を取ってみがきをかける機械の中を通過します。そして,最上等のコーヒーが手で摘み取られるのと同じように,洗浄後の実の点検は手で行なわれます。

ほどなくして,最後の段階,つまり出荷のためにコーヒーを南京袋に詰める作業が行なわれます。ブラジルで採用されている60㌔入りの袋は,世界中で統計上の単位とみなされています。袋は,清潔で風通しの良い倉庫に積み上げられます。こうしてコーヒーはようやく売りに出されるばかりになります。

等級分け,商業化,そして価格

ブラジルコーヒー院は,ブラジルのコーヒー栽培家に,技術および経済上の援助を与えたり,国内取引きや輸出業を管理したりしています。等級分けに関して言えば,コーヒーは味と芳香で判定されます。品質を化学的に検査することは今まで不可能でした。嗅覚と味覚がいまだに決定的な要素となっています。その原産地や処理法,また乾燥法などによって,非常に口当たりの柔らかなもの,柔らかなもの(快い風味で刺激が少ない),きついもの(酸味のある刺激性の味),リオ(リオデ・ジャネイロで好まれる非常にきつい種類)などに等級分けされます。他の種類は取引きにさほど影響を及ぼしません。

過去20年間,コーヒーはブラジルの輸出総額の50%を占めてきました。およそ1,550万人の人々がコーヒーの栽培や販売に携わっています。しかし,ブラジルコーヒー院の会長カミロ・カラザンス・デ・マガリャンイスは,1978年にはコーヒー業界の史上で前例のない事態が生ずるだろうと警告しました。それは,国外にあるブラジルコーヒーの在庫がそれまでには底をつくとの見通しから,初めてのことながら,全く収穫だけに頼らねばならなくなるからです。その上,霜害,害虫,病気などのため,1977-78年の,また1978-79年の収穫が減少するのではないかと,同院は懸念しています。

ごく最近のこと,世界有数のコーヒー産出国が相次いで災害に見舞われたため,コーヒーは不足し,価格は上昇し,多くの思わく買いが行なわれました。そのすべては1975年7月に起こりました。ブラジルは異常寒波に襲われ,農園のほぼ半数,つまり2億から3億本のコーヒーの木がだめになってしまいました。次いでコロンビアでは干ばつの後激しい雨が続き,農園は荒廃してしまいました。アンゴラとウガンダでは政治的不安が輸出に影響を及ぼしました。そしてその後地震がグアテマラを襲いました。こうして“コーヒー危機”が始まったのです。

在庫が減少するにつれて,コーヒー業界では緊張が高まりました。まずブラジルのコーヒーの価格が上がり,それに続いて,質の良い伝統的により高価なコロンビアのコフェア・アラビカも値上がりしました。それより安価なアフリカのコフェア・ロブスタがそれに続きました。もっと悪いことに,ブラジルは一袋につき100㌦(約2万5,000円)の輸出税を課したのです。そして1977年4月にはそれが134㌦にまで上がりました。

思わく買いによりコーヒーは前もって購入されるので業界の緊張はさらに高まります。それは,まさに賭けです。貿易業者や加工業者は“高値”を見越して大量に買い占めますが,荷渡しされるのは数か月も後のことです。そうした動きが活発になり,価格は急騰します。ブラジルコーヒー院は,登録料金を48時間以内に払うという条件で,荷渡しされる数か月前に輸出販売を登録することを許可します。したがって,輸出業者は,実際にはまだ成立していない販売を登録するという“危険を冒す”ことがたびたびあります。それによって業者は,貿易相手国に恩恵を与えることができるか,あるいは高値を利用できることになります。

値上がりの傾向はあるものの,今のところブラジル人は,他国の人たちほど値段の高いコーヒーを買わなくて済んでいます。土地のコーヒー加工業者は,ブラジル政府の保護を受けており,1㌔当たりの価格は依然として外国より安く,1977年7月には4㌦8㌣(約1,000円)でした。しかし,統計の示すところによれば,ブラジル人の飲むコーヒーの量は減少しつつあります。1970年当時,ひいたコーヒーの1人当たりの消費量は5.7㌔だったのに対して,1976年の消費量は3.5㌔でした。

生産者たちは,新しい価格政策に満足しているようでした。それは,消費者からより多くのお金が得られるからです。コーヒー農園で働く人々も金銭的にうるおっています。価格を上げておくために,ブラジルは中央アメリカとアフリカのコーヒーを買い占めました。しかし,突然,ブラジルの輸出業者は国際的な取り引きのできる買い手がいないという問題に直面しなければなりませんでした。その反動としてすぐに外国での価格が暴落し始め,1977年7月には,ニューヨークやロンドンの取引所における突然の策略により価格はさらに切り下げられ,三か月前の記録的な価格以来,50%の下落が記録されました。輸出業者は神経質になっており,買い手は,ブラジルが価格を下げるつもりなのか,コーヒーの将来はどうなるのかと尋ねています。その答えは時がたてば明らかになるでしょう。

一方,ブラジルの国家通貨審議会は,1977年から78年にかけてさらに1億5,000万本のコーヒーの木を植え,1980年までには合計30億本にし,生産を2,800万袋にすることにより,国内のコーヒー農園の復興と品質改良を図る計画を承認しました。それで,コーヒーが姿を消してしまう恐れは全くありません。人々に好まれているこの飲み物が今は比較的高価であっても,コーヒーがきのう与えてくれた喜びは今日もわたしたちのもとに残っているのです。

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