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  • 解決を迫られる諸問題
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 解決を迫られる諸問題

      あなたは人類の直面する重大な諸問題から解放されて安どしたいと願っていますか。もしあなたにそうする力があるなら,あなたは喜んで問題解決に努めるのではありませんか。しかしどこから手をつけたらよいのでしょうか。解決を迫られている問題は,あまりにも多いのです。

      貧しい国々においては,働きたくても仕事のない人が何百万人もいます。また工業国においても,そのような人が増えてきました。すべての人が活動的で生産的な生活を送ることができるならば,なんとよいことでしょう。子供にじゅうぶん食べさせてやれるならば,飢えと病気で子供がやせ衰えるのを見ている親にとってなんという救いでしょう。寒さと土砂降りの雨さえ満足にしのぐことのできない貧しさ,あなたご自身にせよ他の人にせよ,だれひとりそんな貧しさを味わわなくてすむ時が来るなら,あなたはそれを喜ばないでしょうか。

      この地球上で飢えている何百万の人々を別にしても,いっそう安定した生活を切望している人は大勢います。長年のあいだ働いて得たものが,インフレのために事実上無になるようなことがないとすれば,そしてそのことを確かに知っているならば大きな安心が得られるでしょう。生活必需品の値段が安定するならば,老人,病気の人,身体また精神的障害者,その他,収入のふえない人は,大きな心配から解放されます。

      また高収入の仕事を持っていても,自分のしていることからほとんど満足を得ていない人がいるかもしれません。仕事が退屈で単調なのかもしれません。あるいは従業員の間に協調が欠けていたり,競争が激しかったりして,一日の仕事を終えるころには緊張といらだちで疲れきってしまうのかもしれません。心から楽しむことができ,また他の人のためにもなる仕事をできるならば,なんとうれしく,また救われることでしょう。また心から互いを気遣う人々と一緒に働くのは,たしかに心をさわやかにすることでしょう。

      そのほかにも,身体的に危害を加えられる心配がなくなれば,人々はいまよりもずっと喜びを感ずるでしょう。都会に住む人の多くは,女,子供でも夜間に安心して町を歩ける時が再び来ることを切望しています。あらゆる不正,圧迫,犯罪そして戦争のない世界,病気,老齢と老衰そして水,土壌,空気の汚染がない世界に住むのはどんなに喜ばしいことかを考えてごらんなさい。

      わたしたちの生活が真に,そして十分に楽しいものとなるには,わたしたちの直面する重大な問題すべてが解決されなければなりません。それが現実になることを示す証拠が豊富にあるのです。あなたも,それを体験する何百万の人々のひとりとなるかもしれません。これがどうして可能となるのかを理解するには,まず人類の問題の根源を見極めなければなりません。

  • 問題の根源はどこにあるか
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 問題の根源はどこにあるか

      今日起きている事柄を観察するとき,人類の問題の原因として,あなたはどんなことを考えますか。

      多くの問題は,事実上わたしたちを束縛している環境によって引き起こされていることに,おそらく気づくでしょう。たとえ望ましくない事態が生じても,人々はそれをどうすることもできません。人は現存する体制の枠の中で行動する以外にないのです。

      一例として,いわゆる先進国の農業経営者を考えてください。成功するには現代的な方法を使わなければならないと,彼らは考えています。これには当今,多くの資金を要します。かなりの利益がなくては,農業経営者は機械,燃料,肥料の高いコストを払いきれません。それで彼の生産物に対する需要が落ちたり,あるいは他の問題のために大きな損失をこうむるなら,農業を続けるのに必要な物を買えないかもしれません。資金の借入れによる経営ならば,破産することもあり得ます。

      それに世界の何百万という飢える人々を助けようとしても,今日の社会において一農業経営者にどれだけのことができるでしょうか。彼の住んでいる国では,大量の肉が冷凍倉庫に貯蔵されているかもしれません。すると豚や牛を市場に出しても,買い手がないでしょう。それで彼は,自分の持っているものを空腹な人のために役だたせたいと思います。しかし農業を続けるには,畜産物を売ることが必要です。ただで与えるわけにはいきません。

      彼の家畜を肉にして,世界のどこかの飢えている人々に届けるのは,決して簡単なことではありません。肉を処理,加工し,運ぶ人々に賃金を払うことが必要です。彼らはそれで生活しています。生産国の市場で買い手のない肉がたとえ寄贈され,飢えている国に無料で運ばれ,困っている人々に無料で与えられたとしても,それで問題が解決されるとは限りません。宗教上の理由で人々が全く肉を食べなかったり,特定の動物の肉を食べなかったりすることがあるのです。

      工業もまた大きな利益に依存する体制の中に組み込まれています。機械,燃料,賃金,原材料そして設備の維持には莫大な資金を必要とします。世界市場で競争するために,生産者は価格をできるだけ低くしておかねばなりません。利益につながらないこと,たとえば公害防止装置などに多額の費用をかける余裕のない場合もあります。大企業の中には,公害防止の法的な規制にしばられて多額の出費をするよりも,一部の工場の閉鎖を望むものがあるでしょう。

      工場地帯に住む人々は,ひどい騒音,煙,塵埃のやむことを望んでいます。しかし企業家は言います。「工場を閉鎖したらどうなるか。公害はなくなっても,こんどは失業で土地の人々は経済的に立ちゆかない」。それで有害なことはわかりきっていても,大規模な汚染はそのまま続きます。

      ほかにもいろいな例が挙げられるでしょう。しかしそのすべてはひとつの結論を指摘しています。すなわち今日のわたしたちは,何世紀にもわたって個人,団体,国家が犯してきた間違いの全体的な結果を身に受けているということです。現在の体制が生み出した問題は地球的な規模のものであり,人間の生存そのものを脅かしています。1974年8月2日,原水爆反対第20回世界会議において,ジョージ・ウォルド博士は次のように述べました。「ひとつだけでなく多くの危険が,かつてなかったほどに人間の生命を今脅かしている。そのうちどれひとつをとっても,人類を破滅させ得るものであるのに,そのすべては関連しており,またすべてが同時に我々に臨んでいる」。

      明らかに現在の体制を全く変えることが必要です。しかしそのような変化は,非常に大きな犠牲を伴います。人類の益のために何を犠牲にすべきか。この決定をだれに任せることができるでしょうか。生きるため基本的に必要なものを欠く人がひとりもないように事を運ぶ知恵を持っているのはだれでしょうか。部族,国家,人種の相違を考えるならば,決定を下すことに関与する人々が,自分自身,親族,友人,部族,国民,人種の利益を優先させないという,どんな保証がありますか。

      すべての人に対する公平な取扱いがたとえ保証されたとしても,利益や賃金の引下げに喜んで応じ,世界の他の場所に住む人々を飢餓から救うために自分の食生活を加減したり,何かのぜいたくをやめたりする人が,はたしてどれだけあるでしょうか。どれだけの人が今より少ないもので本当に満足し,こうした方法で人類同胞の益を喜んで求めるでしょうか。他の人の犠牲から利益を得ている人々については,どうですか。そうした人々は心から喜ぶでしょうか。このような人の中には,他の人の犠牲において自分の分け前をふやそうとする貪欲な人が,あるいはいるのではありませんか。

      いま存在する体制は,それ自体で存在するようになったのではありません。人々が関係しています。問題を考慮するとき,根本的な欠陥は人類にあることが明らかではありませんか。

      根本的な理由 ― 人間の不完全さ

      心ならずも他の人を傷つけることをしたり,言ったりするのはよくあることです。自分ではこうありたいと思っても,自分の望むような人間になことには一再ならず失敗します。いわば『的をはずす』と言えるでしょう。昔のヘブライ人やギリシャ人は,このように失敗することを表現するのに文字どおりには『的をはずす』という意味のことばを使いました。このように『的をはずす』ことを,現代語の多くは「罪」と称しています。

      このような落ちどのない人はいません。わたしたちすべては弱さと不完全さを受け継いでいます。しかしこの事はどうして生じたのですか。長年の研究にもかかわらず,科学者はこれを説明できません。年を取るにつれてからだが弱ってくる原因でさえ,科学者にとってなぞです。1974年版の大英百科事典によれば,「老化の根本的な原因は生理学的にはなお不明である」とされています。

      しかし人間が心もからだも不完全である根本的な理由を明らかにしている古い本があります。この本つまり聖書が納得のゆく説明をしているという結論に達した考え深い人は,男女を問わず大勢います。聖書には次のように出ています,「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。

      そうです,人類の最初の先祖であるアダムは,神に対する全き従順という点で「的をはずし」ました。完全さを失ったゆえに,アダムは不完全な子孫しか生み出すことができませんでした。昔,ある人が悟りをもって,「だれが汚れたもののうちから清いものを出すことができようか,ひとりもない」と述べたとおりです。―ヨブ 14:4,口語訳。

      それでも,受け継いだ不完全さということだけで,人類の直面している問題すべてをじゅうぶんに説明できるわけではありません。男女を問わず,たとえ不完全でも人間は他の人に対して深い思いやりを示すことができるではありませんか。同胞を助けようとして,命を捨てることさえいとわなかった人も少なくないではありませんか。すべての人を破滅に陥れるような道から離れることを人々や国々に訴える,憂いにみちた人々の発言を,わたしたちは何度も耳にしているではありませんか。それにもかかわらず,世界は狂気の道を進もうとするかにみえます。それはなぜですか。

      目に見えない,強力な霊者の影響

      世界に強い影響を及ぼしている勢力が,人間の領域の外にあるのではないでしょうか。まさにそのとおりであると感じている人は,決して少なくありません。ナチ時代の恐怖について,アーノルド・ウェーバーは,「ある種の勢力……超人間の集団的な力が地から湧いて出た」かのようであったと述べています。アンドルー・M・グリーレイがニューヨーク・タイムズ・マガジーン(1973年2月4日号)誌上に述べているとおり,今日の世界において行なわれてきた非人間的な行為は,悪を行なう人間の性向とはけたはずれのものです。

      「悪の程度は,それにかかわった人々の悪意と比例するものではない。殺人者の多くは,悪ではなくて善を望む,ふつうの善意を持った人々である。……悪行は悪意から生ずるよりも,あやまち,誤算,人力の限界から生ずる場合がはるかに多い」。

      しかし悪を行なう人間の傾向から推してひどすぎるように思われる暴虐を人間が行なうのは,だれのせいですか。人は何か超人間の力が存在するのを感じても,それが何であるかを見極めることはできません。しかし聖書はこの力が何であるかを明らかにしているのみならず,いつ,そしてどのようにそれが人間の事柄に影響しはじめたかを示しています。

      聖書によれば,地球のできる前から,理知のある霊者が存在していました。(ヨブ 38:6,7)そのうちのひとりが神に敵対し,また最初の人間そしてつまりは全人類を支配しようとたくらみました。そのたくらみを成し遂げるため,その者は悪意をいだいて神をそしりました。(創世 3:1-6)その理由で聖書はのちにこの者をサタンすなわち「さからう者」また悪魔すなわち「そしる者」と呼んでいます。この反逆者にそそのかされて最初の人間が神に反逆しただけでなく,他の霊者も神に反逆したのです。(ペテロ第一 3:19,20。ユダ 6)これら不従順な霊者は,「悪霊」と呼ばれるようになりました。―ヤコブ 2:19。

      聖書を読むとわかるように,サタンと悪霊は,悪の“霊”すなわち神の律法をことさら無視している人類の世にしみ込んだ支配的な精神の根源です。(エフェソス 2:2。ヨハネ第一 5:19)このような悪い精神がどれほど強い力を及ぼすかは,暴動に加わる人々がどうなるかを考えても理解できるでしょう。暴徒の集団も個人的にみれば,全部の人が残酷で乱暴なわけではありません。自分では平和愛好者であると唱え,表面的にはそのような人に見えることさえあるでしょう。ところが,ひとたび『暴徒の精神』に巻き込まれると,ふだんは法律を守る市民が狂った男女のように行動し,自分たちと同じ人間を襲って殺したり,物品を破壊したりします。その多くは,あとで深く恥じるようになり,自分のしたことが信じられない人々なのです。

      人間同志の恐るべき残酷さを考えると,神の律法を無視する不完全な人間の罪深い傾向に,悪霊がつけ込んでいるという聖書の説明を受け入れるのは理にかなっていないでしょうか。過去および20世紀の惨事を説明するどんな理由が,ほかにあり得ますか。

      欠けている,神との正しい関係

      人間が不完全であり,またサタンと悪霊に影響されるのは,創造者である神との正しい関係を人間が失ったためです。次のような事実はそれを示す確かな証拠となっています。すなわち聖書に記された神の律法を無視すると,必ず問題が増えるということです。たとえば,聖書には性の不道徳を非とする戒めが明白に記されています。(コリント第一 6:9,10)その戒めを無視するとどうなりますか。性病,望まない妊娠,破壊された家庭,別居と離婚が増加します。

      全体として見れば人間は神の導きを得ていないため,やみの中でつまずいています。神のご意志を行なおうとする人でさえ,自分の不完全さと今の体制のために限界を感じています。

      わたしたち人間にとって真に必要なのは,人間の創造者との完全な一致を可能にする取り決めです。わたしたちは受け継いだ弱さと不完全さ,加えてその苦痛に満ちた結果である病気,老齢,死から解放されることが必要です。どんな人,組織,国家もこの解放をもたらすことはできません。すると,人間は絶望的な状態におかれているということですか。それとも人間の直面する重大問題すべてからわたしたちが解放されることは可能ですか。

      [4ページの図版]

      農業経営者は飢える人々を助けたくても,作物をただで与えるわけにはいかない

      [5ページの図版]

      公害は悪である。しかし現在の経済体制において,その解決は容易ではない

      [6ページの図版]

      自分が望むような人間になることでは,人々はいつも的をはずしているように見える。それはなぜか

      [7ページの図版]

      暴徒の心理は人々の行動を狂わせる。今世紀の非人間的な行為は何のせいか?

  • 人類をほんとうに顧みてくださるかた
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 人類をほんとうに顧みてくださるかた

      人類を悩ましている幾多の深刻な問題を解決できるのは,最高の知恵の持ち主だけです。しかもその最高の知恵の持ち主は,わたしたち人類を深く思いやり,救済をもたらすことを望んでいなければなりません。

      数多くの証拠は,そのようなかたがまさしく存在しておられることを明らかにしています。地球が生命の存続に極めてふさわしい状態にあることを考えると,地球のこの驚嘆すべき固有性を,ある人々が言うように,『起こりそうもない出来事が偶然多く組み合わさった』結果にすぎないとしてかたずけることはできません。「地球には,生命に適した環境が,偶然ということばではとうてい説明できないほど多く備わっている」と,生物物理学者フランク・アレンは述べています。以下の事実を考えてみてください:

      太陽は毎日致死的な影響を及ぼす放射線を出しています。また推定2億個の隕石が地球に向かって飛んできます。このような明らかに危険な状態のもとに置かれていながら,生命が存続しているのはなぜでしょうか。それは目に見えない覆い,つまり大気が地上の生命を保護しているからです。オゾンの薄い層が太陽から来る有害な光線のほとんどを取り除き,一方,有益な光線を透過させるのです。落下する隕石も,そのほとんどが大気中で燃え尽きてしまい,地表に達することはごくまれにしかありません。

      大気を構成している気体についてはどうでしょうか。それらの気体の中にさえ,それ自体は致死的なものが幾つかあります。命を支える酸素でさえ危険になりうるのです。もし空気中の酸素の濃度がもっと高かったなら,火災はずっと発生しやすく,消火もはるかに困難になったことでしょう。しかし大気中には,それぞれの気体が,生命の維持にちょうどよい濃度で混じり合っています。これは単なる偶然でしょうか。決してそうではありません!

      また,水があります。この水がなければ,地球上での生命の存続は不可能です。土壌中の栄養分は,植物に吸収されないなら何の価値もありません。しかし現実には水があり,土壌中の栄養分はその中に容易に溶け込むため,生命は存続できるのです。

      生命を支えるための備えが貧弱ではなくて豊かに設けられている事実にも,感動をおぼえます。わたしたちの周囲には,触覚や嗅覚や味覚はもとより,視覚や聴覚をも楽しませる,変化に豊む美しいものがたくさんあります。人間の不完全な体制によって,地球の豊かな贈り物を十分に享受することを妨げられる場合が多いとはいえ,わたしたちは使徒パウロの次のことばに共鳴せざるをえません。『[神は]わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださいます』― テモテ第一 6:17。

      道徳上の導き ― 神のご配慮のあることを示すいっそうの証拠

      神のご配慮のあることを示す他の顕著な証拠は,良心という道徳上の機能が人間に付与されている点です。この道徳上の機能は,自分自身や仲間の人間を害さないようわたしたちを抑制する働きをします。わたしたちは良心の働きを通して次のことに気づきます。つまり人はみな他の人を必要としているということ,またそうした人々の権利を尊重し,福祉に関心を払わなければならない,ということです。人間に良心がなく,殺人,暴行,強盗といった行為までが普通のまた当然のこととして容認されていたとしたら,地上は現在と比べてどれほど悪い状態になっていたかを考えてください。

      しかし健全な導きを与えるものとなるためには,良心は正しい原則に従って訓練されなければなりません。というのは,この良心がことのよしあしを判定するからです。神の成文の律法を持たない人々について,聖書はこう述べています。「律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法中の事がらを行なう場合,その者たちは律法を持っていなくても,自分自身が律法なのです。彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が当人とともに証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです」― ローマ 2:14,15。

      環境や土地の習慣,または宗教上の見解によってまちがった影響を受けると,良心は重大な悪行をさえ許すことがあります。後に忠実な使徒パウロとなったサウロの場合がそのことを物語っています。彼は,イエス・キリストの弟子たちを殺すつもりで出かけました。そうすることによって自分は神に仕えているのだと考えたのです。―使徒 9:1,2。ガラテア 1:13-16。

      これから明らかなように,良心が適切な判断を下せるよう助けるためには,信頼の置ける規準が必要です。人類に対する思いやりから,エホバ神はそうした規準を文章の形で備えてくださいました。聖書に収められているこの規準は愛に立脚したものです。―ローマ 13:8-10。

      [8ページの図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      地球自体,人類をほんとうに顧みてくださるかたによって設計された証拠を示してはいないだろうか

      毎日2億個にのぼる隕石が大気に突入する: 大気はそれらの隕石を崩壊させることにより,わたしたちを保護している

      オゾンは太陽から来る致死的光線は遮断するが,明りに必要な光線は透過させる

      空気は,各種の気体が生命の存続にちょうどよい濃度に混じり合ってできている

  • 人類の諸問題を解決するための土台
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 人類の諸問題を解決するための土台

      人類の罪深い状態とそれに伴う問題は,わたしたちの先祖アダムが不従順になって神との正しい関係が失われた結果生じたものです。ですから,今日わたしたちが直面している多くの深刻な問題を解決するための基盤となるのは,アダムが罪を犯す前に享受した神の完全な子としての立場を取り戻すための備えであるはずです。わたしたちは,創造者と完全に一致した関係に入らなければなりません。わたしたちをほんとうに思いやってくださるエホバ神は,そのための土台をすでにすえてくださいました。

      神の行なわれた事がら,それを行なわれた理由,また神の設けてくださった備えがなぜ人類を弱さと不完全さから解き放つものとなるかを理解するためには,神の観点から物事を見なければなりません。聖書は,神が義かつ「聖」であられ,最高度に清いかたであることを明らかにしています。(出エジプト 39:30。詩 89:14。イザヤ 6:3。ヨハネ 17:11)ですから,不完全で罪深く,汚れているつまり純粋でない者は,自らの功績によって神との是認された関係に入ることはできません。(コロサイ 1:21)罪が贖われて,つまり覆われて初めてそれができるのです。罪を贖うためのその備えは,神の義と神聖さに完全に調和していなければならないはずです。さらに,神の取り決めの正当性は,知性を備えた被造物すべてが認識できるものであるべきです。どんな事がらが関係しているかを知るためには,わたしたちは人類史の出発点にまでさか上ることが必要です。

      聖書は,最初の人間アダムが神の律法に違背した時,彼は自分自身とまだ生まれていない子孫のすべてを罪と死の奴隷として売り渡したことを告げています。(ローマ 5:12-19; 7:14-25)こうして,アダムの子孫すべては解放を必要とする身になりました。そして公正の原則は,そのための代価の支払いを要求しました。

      例えを通して考えてみましょう。父親が自分の財産を使い果たして莫大な負債を抱え込んだとします。債権者たちは,その父親の子どもたちが苦しまないように彼の負債を無視するよう義務づけられるべきでしょうか。父親の死後,浪費をほしいままにして全く気にかけないその家族がますます負債を大きくしていくのを許すのは正しいことでしょうか。それを許すなら,自分の財産や他人の財産を浪費するよう促すことになり,この問題に直接関係していない人々にも悪影響を与えるのではないでしょうか。

      貨財を浪費する父親のやり方や性向が子どもに影響しているとすれば,事態を正すにはどうしたらよいでしょうか。どうすれば負債は支払われ,子どもたちはその弱点を克服するよう助けられますか。

      家族以外のだれかが事態に介入して,負債のめんどうをみてやらなければならないでしょう。父親の轍を二度と踏むまいと本心から願っている証拠を示す子どもたちの場合には,その部外者は,自分の助けで彼らがその弱点を克服できるようになる時まで,彼らが受け継いだ負債を支払う責任全部を引き受けてくれるかもしれません。

      罪と死への隷属状態から人類を救い出すためにエホバ神が意図された事がらについてもこれと同じことが言えます。最初の段階は,請け出す価を支払う備えをすることでした。その価とはなんだったでしょうか。アダムは,神に反抗することによって,自分の財産つまり完全な人間としての自分の命をはなはだしく誤用し,それを失ってしまいました。またそれによって,アダムの子孫が持つことになっていた完全な人間の命をも失ってしまいました。ですから,アダムの子孫を請け出す価は,失われたものに対応する価値を備えたものでなければなりませんでした。このことは,モーセの律法中の,「魂には魂」という公正に関する原則とも調和しています。―申命 19:21,新。

      完全な人間の生命を持つ者は一人もいないゆえに,アダムの子孫はだれ一人としてそうした価値のある価を備えることはできませんでした。聖書はこう述べています。『たれ一人おのが兄弟をあがなうことあたわずこれがために贖代を神にささげ これをとこしえに生きながらえしめて朽ちざらしむることあたわず(魂をあがなうには費いとおおくしてこのことをとこしえに捨て置かざるをえざればなり)』― 詩 49:7,8。

      しかしながらエホバ神は,その価値ある価をご自身のみ子のうちに備えられました。エホバはみ子の生命を天の領域から処女マリアの胎に移されました。このようにして,マリアから生まれた子イエスは,神のみ子であると同時に完全な人間となりました。(ルカ 1:35。フィリピ 2:5-7)ですから人間イエス・キリストは,自分の完全な人間の生命を犠牲にすることができたのです。―マタイ 20:28。

      ご自分の命を犠牲にされた時,イエス・キリストは,人類を贖うつまり買い取るのにちょうど必要なだけの代価を差し出されました。しかしながら,個々の人がその“負債”を張消しにしてもらう,言い換えるなら贖いとなられたイエスの犠牲の価値に基づいて自分の罪を許してもらうためには,この備えを,神の望まれるとおりの仕方で有効に用いなければなりません。エホバ神は,罪を許すための条件とともにそのための法的な土台を備えて,ご自分に誠実に仕えることを願う不完全な人間を扱うさいにも,自らの義を保っておられます。不法を助長するようなことは一切しておられません。―マタイ 6:12。ローマ 3:25,26。ヨハネ第一 1:9。

      イエス・キリストの貴い血によって人類が買い取られてから,またイエス・キリストが天の不滅の生命に甦られてから,すでに1,900年余の歳月が過ぎました。(使徒 13:34-37)しかし,人間は依然として死んでいきます。これはいったいなぜでしょうか。なぜなら,人類を不完全な状態のもとから解放するためにキリストの犠牲の益を適用する神の定めの時は,まだ将来に属することであるからです。(啓示 22:1,2)このことは,弱さと欠陥を持つ人類を自由にするために,神がそれ以上何も行なっておられないという意味ですか。

  • 人類を解放する政府
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 人類を解放する政府

      エホバ神は,罪深い,死にゆく人類に解放をもたらす政府を,約19世紀にわたって準備してこられました。神はその政府の支配者となる人々を人類の中から選び,頭であるみ子の下で彼らが一致するよう取り計らってこられました。(エフェソス 1:9,10)そのような人たちの前途には,王なる祭司として仕えるため,復活して天の不滅の命を受ける見込みがあります。(コリント第一 15:42-54。エフェソス 1:3-23。啓示 20:6)これら王なる祭司たちは,イエス・キリストと共に,罪を贖うイエスの犠牲の恩恵を人類にもたらし,人類を罪と死への隷属状態から解放します。また現在死の眠りに就いている幾十幾百億もの人々も,復活してきて,その王なる祭司の奉仕の恩恵に浴します。―使徒 17:31。

      イエス・キリストとその仲間たちの支配には,人間の政府の持つ望ましくない特徴が一つもないという,どんな保証があるのでしょうか。神が幾世紀にもわたり選んでこられた人々からなる支配機関に,どうして信仰を持つことができるのですか。

      人間の行なう支配について考えると,いずれかの政府が,わたしたちの抱えている多くの問題の解決策を持っているとはとても信じられないかもしれません。歴史を通じて,だれが支配するかを決定する要素となったのは,大抵の場合,社会的地位,身分,武勇,名声,富などでした。多くの国では,最も有能な人物でさえ,強力な政党や豊富な政治献金などの後ろだてなしに,要職に就くのは容易ではありません。公職に就く人が,腐敗したり,自分の立場を利己的な目的で利用するよう影響されたりしないほど高潔な人物であるかどうかを確認できる制度を,人間は考え出すことができませんでした。

      試みられた,資格のある支配者たち

      神の政府,つまり神の天の王国の王なる祭司を選ぶ場合はどうでしょうか。その王国で人々が支配者としての立場を得る方法は,この世の政府内で行なわれてきた方法とは全く異なっています。神の政府内での地位を得るのに,社会的地位,教育,身分,この世での名声,金銭などは役に立たないことを,聖書ははっきりと示しています。(コリント第一 1:26,27)その立場に就くため選挙運動をすることのできる人は一人もいません。各人は支配者としての職務に就くための試みを受ねばならないのです。ゆえに,難しい状況下にあっても,自分が高潔な者であり,自分のことよりも他の人々の福祉をもっと気遣っているということを証明しなければなりません。(使徒 14:22。ヨハネ第一 3:16-18)各人が,求められている資格にかなっているかどうかを決める方は,心の動機をご覧になるエホバ神です。―サムエル前 16:7。ヨハネ 6:44。テサロニケ第二 1:11。啓示 22:11-15。

      この支配機関の主要な方であるイエス・キリストがどんな事柄に耐えねばならなかったかを考えてみてください。天の神の独り子として,イエスは,あらゆるものを持っておられました。イエスは,「富んでいたのに貧しい者となられ(た)」と,聖書は述べています。(コリント第二 8:9)イエスは,天におけるその高い地位を自発的に捨てて人間となり,不利な状況の下でみ父に対する従順を学ばれました。そして,多くの苦難を受け,ついには極悪非道の犯罪人であるかのように,刑柱につけられて死なれました。(フィリピ 2:5-8。ヘブライ 5:7,8)イエス・キリストは,ご自分が地上におられた時の経験から,人間の必要を本当に理解し,情け深い仕方で人間を扱うことができるのです。―ヘブライ 2:17,18。

      人間であった時,イエス・キリストは人々に対する関心や愛の深さを実証し,喜んで,そして熱意を込めて,悩んでいる人々を助けました。(マタイ 14:14。マルコ 6:34)イエスは,人類の直面している重大な問題を解決する能力を十分に備えていることをも実証されました。神から力を受けたイエスは,病人や足の悪い人や不具の人をいやし,盲人の視力を回復させ,耳しいの耳を開き,おしの人に話す能力を得させ,幾千人もの人に奇跡的に食物を与え,死人をさえ復活させました。こうした事柄は実際に起こり,その記録は目撃証人によって書き記されたものです。―マタイ 11:5; 14:16-21。

      イエス・キリストと共に支配する人々は,多くのことを公約しておきながら要職に就くとその公約を果たさないような人々ではありません。聖書は,天でキリストと共になる人々についてこう述べています。「その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」。(啓示 14:5)イエス・キリストがなさったように,彼らも利他的で自己犠牲の精神を持ち,クリスチャン兄弟のために死をもいとわないことを立証しなければなりません。―ヨハネ第一 3:15-18。

      人間の政府について言えば,大抵の場合,支配者は国民の持つ問題を本当に理解してはいません。しかし,過去1,900年にわたって,エホバが選んでこられた男女は,そうした人間の支配者たちとは異なっています。エホバの選んでこられた支配者たちは,一つのグループとしては,あらゆる背景や階層から出てきた人たちです。人間に共通の試みや問題で,そのグループの中のだれかが直面しないで済んだものは一つもありません。彼らはののしられ,虐待され,偽り伝えられ,憎悪の的となり,非業の死をさえ遂げました。(ヨハネ 15:19,20)そして,自らの弱さや不完全さにもかかわらず,神のみ前で是認された立場を首尾よく保ちました。神の選ばれた支配者たちは,人間男女の苦悩はどんなものかを自分の経験から知っているので,不完全な人間に真の同情を示し,必要な助けを与え得るのです。

      不滅の霊者であるその支配者たちは,人類を援助する力をも持つようになります。死によって自らの有益な奉仕が短縮されるような事態は,それら支配者のだれにも生じることはありません。人類を完全性へと導く時間は十分あります。その務めを成し終えるため,神は一千年の期間を取っておられることを聖書は示しています。―啓示 20:6。

      神のみ言葉によると,イエス・キリストとその仲間の王なる祭司たちは,自分にゆだねられた肝要な業を遂行する際,地上の代表者たちを援助者として用います。(詩 45:16)どんな人がそれら地上の代表者になるのでしょうか。もちろん,王なるイエス・キリストが,ごう慢で自己本位な態度の持ち主を用いることはありません。イエスは深い愛を示し,人類のために自らの命を進んでなげうたれたのですから,自分の利益のため他の人を利用しようとする人を大目に見て,ご自分の代表者にすることは決してありません。イエスの態度は,次のように述べた古代のダビデ王のようなものになります。「高ぶる目と高慢な心の人を耐え忍ぶ事はできません。わたしは国のうちの忠信な者に好意を寄せ,わたしと共に住まわせます。全き道を歩む者はわたしに仕えるでしょう」― 詩 101:5,6,口語訳。

      重大な諸問題からの確かな解放

      イエス・キリスト,その仲間の王なる祭司たち,そして王国の地上の代表者たちの持つ資格は,正義を愛する人々すべての福祉が守られることを保証しています。彼らは,利益を得るための競争による,どん欲な商業体制が発達するのを黙認しません。また,食糧やその他の必需品が均等に分配されるのを妨害するようなことをだれにも許しません。少数者だけでなく,全人類が貧困からの自由を味わいます。その時,すべての人があずかる豊かさに言及して,聖書はこう述べています。『万軍のエホバ……もろもろの民のために……久しくたくわえたる葡萄酒をもて宴をもうく 髄おおき肥えたるもの……の宴なり』― イザヤ 25:6。

      現在見られる,人間による地球資源のずさんな管理や汚染はどうなるのでしょうか。イエス・キリストは人間となる前に,み父の傍らで創造の業に携わった,と聖書は述べています。(ヨハネ 1:3。コロサイ 1:15,16)それでイエスは,植物や動物の命をささえている各種の循環系を理解しておられます。ゆえに,王であるイエスは,地球資源のずさんな管理のみならず,汚染をも防止するための知識を人類に授けることができます。そして,地上をパラダイスのような美しい状態に変化させ,地上の産物を最も効果的に用いるのに必要とされる導きを与えることもできます。―創世 1:28; 2:15と比較してください。

      イエス・キリストとその仲間の王なる祭司たちが,完全性に達するよう人間を助けるので,人間の弱さや不完全さから生ずる深刻な家庭問題や誤解や精神的苦痛などは終わりを告げます。人間が完全性に達する結果,年を取ること,病気そして死をも含め,受け継がれてきた罪に由来するその他の諸問題もすべて除き去られます。み子の手中にある王国によって,神は,「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやな(く)」なります。―啓示 21:4。

      その時,だれ一人として,犯罪や戦争や不公正や圧制の犠牲者になる恐れを抱く必要はありません。どこに行っても人々は,平和に生活する方法を学んでいるでしょう。(イザヤ 2:4)すべての人は公平に取り扱われます。聖書は,イエス・キリストが物事を扱う仕方について預言的に次のように述べています。『かれは……目みるところによりて審判をなさず 耳きくところによりて断定をなさず 正義をもて貧しき者をさばき 公平をもて国のうちの卑しき者のために断定をな(さん)』― イザヤ 11:3,4。

      人類は,この古い体制下での仕事に伴いがちな,すさまじい競争や欲求不満や単調さなどに,二度と再び直面することはありません。人々は,災害によってすべてが無に帰してしまうという不安のないことを知り,生産的な仕事をすることに喜びを見いだします。預言者イザヤの語った次の言葉は,仕事に関するそうした希望を確信させるための根拠を,神が与えておられることを明らかにしています。『かれら家をたてて之にすみ葡萄園をつくりてその果をくらうべし かれらが建つるところにほかの人すまず かれらが造るところの果はほかの人くらわず そはわが民のいのちは樹の命の如く 我がえらみたる者はその手の工ふるびうするとも存うべければなり かれらの勤労はむなしからじ』― イザヤ 65:21-23。

      キリストによる,神の王国こそ,人間の多くの問題に対する解決策となります。すべての人に,平和で安全で公正な状態をもたらし得るのは,その王国だけです。しかし,その王国が地上の物事を完全に掌握するのはいつのことですか。

      [13ページの図版]

      神の王国は間もなくこの地を楽園にする

  • その解決策が実現するとき
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • その解決策が実現するとき

      すべての人が共通の益を目ざし,力を合わせて働けるように,また生活から喜びを奪う争いをなくすために人類全体は一致する必要があります。そのことに異論のあろうはずはありません。幸いなことにエホバ神はみ子イエス・キリストをとおして万物をご自身と調和させるために時を定められています。このことについて,聖書には次のように記されています。「それは,定められた時の満了したときにおける管理[運営,処理]のため,[神]ご自身のうちに定められた意向にしたがってであり,すなわちそれは,すべてのもの,天にあるものと地にあるものを,キリストにおいて再び集めることです」― エフェソス 1:9,10。

      キリストとの一致を目ざして,この集めることは,「定められた時」すなわち神によって定められた時の「満了したときに」始まったことに注目してください。これは西暦33年であることが判明しました。み子と同じく支配する者として天に行くことを定められた男女をエホバ神が一致させはじめたのは,そのとき,ペンテコステの日のことでした。(使徒 2:1-4,14-21。コリント第二 1:20-22。エフェソス 2:4-7)しかし神の目的はこのことに限られていません。神は,「地にあるもの」すべてをも集めてみ子との完全な一致に至らせることを望まれています。

      なぜ今の世代のうちか

      このようにイエス・キリストのもとに一致させることの最初の段階が神の定めの時に始められたのであれば,「地にあるもの」を最終的に一致させることも同じく時を定めて行なわれるものと,当然に期待できるのではありませんか。問題に悩み,分裂した現在の世界を見れば,この一致が是非とも,また早急に必要なことは明白ではありませんか。

      たしかにわたしたちの生きている時代は,歴史上他に類を見ないものです。先例のない暴力,不安,不一致,激増する諸問題を特色とする今の時代が始まった年といえば,西暦1914年という年をおいてほかにはないでしょう。それで歴史家が一般に1914年を“転換点”と呼んでいるのも不思議ではありません。カーネル・R・アーネスト・デュプイは次のように書いています。

      「力の均衡を支点として揺れ動いていた国々の政治構造は,1914年に積み木の家のようにくずれ落ちてしまった。第一次世界大戦の終わらないうちに三つの大帝国が流血のさなかに消滅し,それと共に神聖ローマ帝国の衰えつつあった最後の名残りも消え去った。一方,世界の権力機構における新しい勢力が,カール・マルクスの理論をてこにして徐々に台頭しつつあった……

      「第一次世界大戦は,世界に起きた事件の中でも重要な意義を持つ画期的な出来事であった。それは一時代の終わりと別の時代の始まりをしるしづけた」。

      今日,エホバのクリスチャン証人として全世界で知られている誠実な聖書研究者たちは,現在の不敬虔な世界に大きな苦悩が始まる時として,第一次世界大戦勃発のずっと前から1914年を指摘していました。彼らは聖書の年代と預言に基づいてそうしたのです。第一次世界大戦が始まると,多くの人々は,これら聖書研究者の宣明していた事柄を決して軽くあしらうべきでないことに気づきました。1914年8月30日付ニューヨーク・ワールド誌に次のことが出ています。

      「欧州における恐ろしい戦争の勃発は,驚くべき預言の成就である。過去四半世紀にわたり,『国際聖書研究者』は伝道者により,また報道機関をとおして……聖書に預言された神の怒りの日が1914年に始まることを世界に宣明してきた。『1914年に注意せよ』。これはこの奇妙な信仰を代表する何百人の福音旅行伝道者が,『神の国は近づいた』という教えを宣べながら国中を行きめぐって叫んできたことばである」。

      その時以来起きてきた,そして聖書預言の成就となった出来事は,1914年が,現在の事物の体制の「終わりの日」の始まりをしるしづけたことを確証しています。

      事情に通じた人々は,将来に関して暗い見通しと深い恐れの気持ちをいだいています。たとえば1974年9月5日,クルト・ワルトハイム国連事務総長は,世界の成り行きに関して「ほとんど万人共通とも言える不安感」があると述べました。同総長は,この恐れに「無力感と宿命観」がともなっていることを非常に憂えています。

      たしかに今日の事態は,イエス・キリストの預言どおりになりました。「地上では……逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。……人びとは,人の住む地に臨もうとする事がらへの恐れと予想から気を失います」― ルカ 21:25,26。

      このような情勢の発展から見ると,将来はどうなるのですか。「終わりの日」が始まるのを目撃した人々の多くが生きているうちに,神の献身したしもべは大いなる救いを経験するでしょう。諸国民の恐れと不安について語ったのち,イエス・キリストは次のようにことばを続けました。「このすべてが起こり始めるとき,まっすぐに立ち,あなたがたの頭を高くあげなさい。なぜならあなたがたの解放が近いからです。……いちじくの木あるいは他のどの木でも見なさい。それが芽ぐむやいなや,あなたがたは夏の近いことを自分で悟ることができます。同様にこのすべてが起きるのを見るとき,あなたがたは神の国の近いことを知るのです。わたしはあなたがたにこれを言います。現在の世代は生きてこのすべてを見るでしょう」― ルカ 21:28-32,新英語聖書。

      ゆえに代わって神の王国が地上のすべての事柄を支配し,キリストの下に人類の完全な一致をもたらす時は,間近に迫っています。これは悪魔と悪霊の軍勢をも含め,この大いなる一致に反対するすべてのものが除かれねばならないということです。あらゆる反対を打ち砕く主要なかたは王イエス・キリストです。こうしてイエス・キリストはご自身の犠牲による贖いの益を人類に適用し,人類の更生への道を開かれます。―テサロニケ第二 1:6-10。啓示 19:11-21; 20:2,3。

      このようにして,人類の直面する複雑な問題は,正義を愛する人にとって真に益となる方法で,まもなく永久に解決されようとしています。あなたは,キリストによる神の王国がもたらす大いなる解放にあずかる人々のひとりになりたいと思われますか。そうであれば,積極的な行動をおこすことを望まれるに違いありません。「地にあるもの」を統一する神の方法を忠節に支持する者である立場をとってください。しかし,そのためにはどうすればよいのか,あなたはいぶかることでしょう。

      [15ページの図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      すべてが一世代のうち

      1914

      世界大戦

      広範なききん

      病気流行病

      暴力犯罪

      地球的汚染

      今の体制の終わり

  • あなたは今何を行なえますか
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • あなたは今何を行なえますか

      あなたとあなたの愛するかたがたは,人類が直面している深刻な問題のすべてが終わるのを間もなく見ることができるかもしれません。王イエス・キリストとみ使いの軍勢が問題をかかえて苦しむ現在の事物の体制を滅ぼすときは急速に近づいています。キリストによる神の王国が,その滅びののち人類の上にそそぐ祝福を得る機会はすべての人に開かれています。

      しかしながら,その王国の忠節な臣民の一員となるために要求されている事柄があります。この政府が人類の諸問題に対する神の解答であるという事実を頭の中で受け入れる以上のことが必要です。今でさえわたしたちの行ないは,人間の利己心と腐敗した体制ゆえに人類が直面している問題を増し加えるようなものであってはなりません。わたしたちは使徒パウロが書いている次のような人であってはなりません。「彼らは神を知っていると公言しながら,その業によって神を否認しています。彼らはいとうべき者,不従順な者であり,どんな良い業に対しても是認を受けていないからです」― テトス 1:16。

      偽りの宗教組織から離れる

      それで,わたしたちの行ないが本当に神の是認を得ているものであり,『その業により神を否認している』宗教組織の一部となっていないことを確かめる必要があります。しかし,「すべての宗教は人が正しい生活を送るよう助けているのではないか」という人もいるかも知れません。確かに,世の宗教は直接に不正,不道徳,憎しみなどをその慣行として教えている訳ではありません。では大抵の人が,商取引をする際に,その相手が宗教を持っている人の場合と,持っていない人の場合とを比べ,宗教を持っている人のほうをいっそう信用するということがないのはなぜですか。

      宗教を持つ人が,どの宗教団体にも属していない人と同じほど,そして時にはそれ以上に堕落している場合が少なくありません。あなたはそのことに気付いておられますか。キリスト教世界の教会や他の宗教組織は最善の努力をしているのに,人々がただ注意を払わないだけだと主張する人がいるかも知れません。では,正しい原則に従って生活しようとしない人を,どのように扱っていますか。そうした人でも,財政面の支持をするかぎり,たいてい良い立場を保っているのではありませんか。キリスト教世界では,公に性の不品行や倒錯を許す牧師を正すために何らかの処置が取られていますか。そのような牧師は,他の人に悪影響を与えないよう,少なくとも,責任のある地位から解かれていますか。

      聖書は,あらゆる努力を払って援助してもふさわしい行ないをしようとしない人の扱い方をはっきり示しています。霊感を受けて使徒パウロはコリントのクリスチャンに次のように書きました。「わたしは前の手紙で,不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが,わたしが実際に書いたのは,兄弟と呼ばれる人で,不品行な者,貪欲な者,偶像礼拝をする者,人をそしる者,酒に酔う者,略奪をする者があれば,そんな人と交際をしてはいけない,食事を共にしてもいけない,ということであった。外の人たちをさばくのは,わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は,内の人たちではないか。外の人たちは,神がさばくのである。その悪人を,あなたがたの中から除いてしまいなさい」― コリント第一 5:9,11-13,口語訳。

      あなたがよくご存じのキリスト教世界の教会は,誤った道をしつように歩み続ける人を教会から追い出していますか。そうしたことを行なっていない宗教組織を神が是認すると思われますか。それで,この世の態度に倣い,神の道に一致するよう人々を助けていない宗教にとどまるのは道理にかなっていますか。確かに人は神に仕えながら,神の優れた原則を擁護していない組織の一部となることはできません。それでそうした組織に固執するのは,神とキリストに対する不忠実な行為であり,おふた方の命令に従っていないのではありませんか。

      現代の神の真のしもべを見分ける

      前の記事の中で指摘したように,神の目的は人々をみ子イエス・キリストのもとに一致させることです。(エフェソス 1:9,10)そのことは,「終わりの日」にそのような一致の状態を保つ献身的なクリスチャンのグループが地上に存在することを示しているのではありませんか。それらのクリスチャンは,神のご意志と調和して,他の人々が神のみ言葉に従うことによってキリストの下に一致できるよう,彼らを助ける業に忙しく携わらねばなりません。

      イエス・キリストは,ご自分の真の追随者たちがいかに容易に見分けられるかを明らかにされました。忠実な弟子たちに対してイエスは次のように言われました。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それはあなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)このような愛は全く利他的で,自己を犠牲にするものであることに注目してください。

      あなたがよくご存じの宗教組織の中にそのような愛を見ることができますか。それらの宗教組織は今日の諸問題の原因となっている事柄そのものとかかわりを持たず,神の王国を人類の諸問題に対する解決策として指摘し,生活の仕方によりそのことを示していますか。それともこの体制の利己的な競争心に巻き込まれ,世の道を奨励していますか。それらの宗教組織は人々が民族,国家,人種上の偏見を克服するのに本当に強い力となっていますか。それらの宗教組織の成員は世界的な一致を楽しみ,世の争いに巻き込まれないようにしていますか。

      エホバの証人として知られるクリスチャンのグループについてはどうですか。彼らは世の争いに加わっていますか。また暴動,革命その他の反乱に参加しているとお聞きになったことがありますか。むしろ,彼らが世の一部ではなく,国家的な誇りや民族,国家,人種上の偏見を助長するような活動には決して参加しないことに気付いておられるのではありませんか。エホバの証人がクリスチャンと自称する多くの人とは全く異なることを認めるようになる人は次第に増えています。

      恐らくあなたは,エホバの証人が模範的な振る舞いをし,お互いに愛を示し合うのに気付いておられることでしょう。しかし,証人たちは飢えや病気,貧困など現在人々が直面している問題にもっと関心を持ち,広範にわたって慈善募金運動を行なうべきだと感じておられるかもしれません。実際,証人たちの慈善行為についてお聞きにならない点に関しては聖書的な根拠があります。イエス・キリストはご自分の追随者にこう言われました。「しかしあなたは,あわれみの施しをするさい,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたのあわれみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるのです」― マタイ 6:3,4。

      それで,エホバの証人は人々にお金や物質的な物を請い求め,そうした寄付が可能にする善行によって良い評判を得るということはしません。イエスの場合と同じように,彼らの主な関心はできるかぎりすべての人に霊的援助を与えることです。(ルカ 4:18-21)イエスの同国人であった群衆が奇跡的に備えられたパンのゆえにイエスを探していたとき,イエスは次のように言われました。「滅びる食物のためではなく,永遠の命へとながく続く食物のために働きなさい」。(ヨハネ 6:26,27)物質面の施しは,一時的な救済をもたらすかもしれませんが,霊的な施しは人々が現在,最善の生活を楽しみ,またキリストによる神の王国のみが提供できる人類の諸問題に対する永続的な解決から益を得ることができるよう人々を助けることができます。

      これはエホバの証人が他の人の物質面の必要をかえりみないという意味ですか。決してそうではありません。証人たちは物質の施しが真の崇拝の特色であることを認識しています。聖書はこう述べています。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。

      エホバの証人が特に災害の場合などに,どのようにそうしたことを行なって困っている人を助けているかを見ることができた人は少なくありません。エホバの証人の法的機関,ものみの塔協会とその支部は,世界中の諸会衆と密接な連絡を保っているゆえに,素早く救済手段を講じることができます。その理由でエホバのクリスチャン証人は,地震,ハリケーン,洪水その他の災害に見舞われた際に,直ちに兄弟たちからの援助を期待できるのです。同時に,自分たちのためにとられた救済手段により,同じ地域社会の中の困っている他の人々を援助することができます。米国ケンタッキー州,ルーイビルのある住民が語った感謝に満ちた言葉はその点を例証しています。1974年4月3日水曜日,クレセントヒル地区を襲ったたつまきの後に起きた出来事に関してその人は次のように書いています。「木曜日の早朝,わたしを含め多くの犠牲者を助けるため,携帯用の動力のこぎりとトラックを用意し一団となってかけつけたエホバの証人は際立ったものでした。証人たちは,犠牲者の幾人かが避難するのを助けるため,また他の車やトラックが道路を通れるようにするため,三つの街路(ベイリー,バーチウッド,ケネディー)を文字通り切り開き,きれいにしました。それらの人たちは建設の技術を持つ人々でしたが,自分の仕事を休み,無償でそうした奉仕を行なっていました。彼らはよく組織され,傍観者が驚嘆するほどてきぱきと仕事をしました」。

      今行動しなさい

      あなたの住む地区のエホバの証人は,神がご自分の是認される人々に求めておられる生き方に彼らがかなっているかどうかを,あなたがご自分でお調べになることを望んでいます。またあなたが聖書の知識を増し加えられるようにエホバの証人は喜んで援助します。現在お宅で無料の聖書研究が行なわれていないなら,あなたとご家族にとって都合のよい時間にそうした研究をなさるようお勧めいたします。

      他の人はお宅で聖書研究が行なわれることをあざけるかもしれません。あなたが学んだ事柄を適用し始めると聖書の次の言葉が成就するのを経験されるでしょう。「彼らは,あなたがたがこうした道を自分たちとともに放とうの同じ下劣なよどみにまで走りつづけないので,当惑してあなたがたのことをいよいよあしざまに言います」。(ペテロ第一 4:4)しかしこうした人々は,自分の問題さえ解決できないのです。また,言うまでもなく現在の体制を取り除き,人間の不完全さとその苦痛に満ちた結果からの完全な解放をもたらすこともできません。失敗するよう定められている不敬虔な体制にしがみ付いて,人からの好意を得ようとするより,神の王国のためにあざけりやののしりをさえ受けることの方が,もっと優れているのではありませんか。

      聖書の正確な知識を取り入れ,それに従って生活するための手段を取るのを遅らせてはなりません。『エホバの恵み深きを味わいしれ』と聖書は述べています。(詩 34:8)神のみ言葉と一致して生きることが今でも,どのように最善の生き方に人を導くかをご自分で見いだしてください。

      あなたも現在の不敬虔な体制の終わりを見る人々の中に数えられるかもしれません。さらにそののち,幾世紀ものあいだ人類をむしばんできた多くの問題を,神の王国が完全かつ永久に解決するのを目撃できるのはもっとすばらしいことです。

  • 真理に目ざめるよう援助される
    目ざめよ! 1975 | 10月8日
    • 真理に目ざめるよう援助される

      今日,進化論は一般に広く教えられており,その結果大勢の人々が進化論を支持しています。しかしエホバの証人は進化論ではなく聖書を終始信頼しており,人々が真理に目ざめるよう援助を差し伸べています。以前進化論者であった一人の人は自分の経験を次のように語っています。

      「私は真理を知る前は絶対的な進化論の信奉者でした。それもある進化論者に師事して学ぶほどの熱の入れようで,進化理論はまずゆるぎないものと確信していました。ですから聖書の奉仕者が来ても全く相手にしませんでしたし,むしろ彼らを妄信者とさえ思っていました。しかし,そんな私も,ある日奉仕者の持ってきた一冊の雑誌に目をうばわれました。それは1974年4月22日号の『目ざめよ!』誌で,『進化論は最大の挑戦に直面する』という特集号でした。私はその題名と記事の内容がどうも気になってしまい,それを買い求めてその晩に完読しました。驚いたことに,その雑誌には進化論よりはるかに理にかなった説明がなされていたのです。それからというもの聖書も調べてみる必要があると感じた私は,自分の持っていた進化論に関する資料と奉仕者が提供してくれた資料,特に『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』および『聖書はほんとうに神のことばですか』と題する本を中心に,約1か月位,それこそ寝る間も惜しんで徹底的に調べてみました。そしてついに結論に達しました。物質というものの存在があって初めて推論の成り立つ進化論は,どうして物質そのものが存在するようになったかを全く説明していません。いや,そうすることができないという点に気がついたのです。ところが,聖書はこの最も重要な問題に対して実に明解に答えてくれています。イザヤ書 40章26節には,『主のいきほひ(エネルギー)大なり』とあるからです。物質がエネルギーを生み出すように,エネルギーによって物質が産出されることが可能なことはすべての科学者も認めるところです。私はこれを知った瞬間に,今まで絶対的なものと信じていた進化論が音をたてながら崩れ落ちてゆくのを感じ,驚きとともにある種の恐れさえ感じました。

      「それ以来私は創造者のことをなお一層知りたくなり,聖書研究に応じました。集会にも出席するようになり,そのたびに確信が深まってゆきました。当然のことながら私はこの喜びを妻とわかち合いたく,一緒に真理を学ぶように勧めました。しかし,妻は14年来ある新興宗教の信者で,全く相手にしてくれませんでした。それどころか,私が真理の話をすればする程一層心を閉じてしまい,口もきいてくれなくなってしまいました。しかし,今振り返ってみるとそれも無理ありませんでした。私は,ただ真理に引き寄せたいばっかりに,妻の立場も考えず,分別や思いやりの欠けた古い人格まる出しの強引な証言をしばしば行なったからです。私たちの間柄が一時危機的になったこともありました。それで,私はクリスチャンとしての行状によって証言してゆくよう努力しました。こうして約5か月ほど後に,妻はついに真理に目ざめてくれ,偶像なども処分し,以前の組織から脱会してくれたのです。私はその時真理の偉大さを改めて知った思いで,エホバに感謝しました」。

      人類の創造者なる神のみ言葉は,確かに人の生活に大きな影響を及ぼします。

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