ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 現代にかかわる音信を携えた古代の預言者
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第1章

      現代にかかわる音信を携えた古代の預言者

      イザヤ 1:1

      1,2 (イ)今日の世界にはどんな悲しむべき状態が見られますか。(ロ)米国の一上院議員は,社会の悪化に関する懸念をどのように表明しましたか。

      今日,人類が直面しているさまざまな問題からの解放を切望しない人がいるでしょうか。それなのに,往々にしてわたしたちの熱烈な願いは満たされないままになっています。平和を夢みているのに戦争に悩まされ,法と秩序を大切にしているのに,増えつづける強盗,レイプ,殺人を食い止めることができません。近隣の人を信頼したいと思ってはいても,安全のためにドアにかぎを掛けなければなりません。子どもを愛し,健全な価値規準を教えようとしているにもかかわらず,我が子が友達から不健全な影響を受けるのを見ながらなすすべもないという場合が余りにも多いのです。

      2 人の短い命は『飽き飽きさせられるほど動揺で』満ちているとヨブは述べましたが,わたしたちはそれに同意できるのではないでしょうか。(ヨブ 14:1)今の時代は特にそのとおりであると言えます。社会は空前の規模で悪化しています。米国の一上院議員はこう述べました。「冷戦は終わった。しかし,痛ましいことに,安全になったはずの世界は今,民族的,部族的,宗教的な復しゅうと残虐行為の温床となっている。……我々が道徳規準をあいまいにしてきたために,若者たちの多くは当惑し,落胆し,深刻な問題を抱えている。我々は,親の怠慢,離婚,児童虐待,十代の妊娠,落ちこぼれの生徒,非合法の薬物,暴力だらけの街といった結果を刈り取っている。まるで自分の家が,冷戦という名の大地震は切り抜けたものの,シロアリに食い荒らされているかのようである」。

      3 特に聖書のどの書が将来に対する希望を差し伸べていますか。

      3 とはいえ,わたしたちは希望のないままにされているわけではありません。今から2,700年ほど前のこと,神は中東にいた一人の男性に霊感を与え,今日に関して特別な意味を持つ一連の預言を語らせました。その音信は,その預言者,つまりイザヤの名を付された聖書の書に記録されています。イザヤはどんな人だったのでしょうか。3,000年近くも前に記されたイザヤの預言が今日の全人類のための光となる,と言えるのはなぜですか。

      波乱の時代に生きた義人

      4 イザヤはどんな人でしたか。どの時代にエホバの預言者として奉仕しましたか。

      4 イザヤ書の最初の節で,イザヤは自分のことを「アモツの子」a と紹介し,自分が神の預言者として「ユダの王ウジヤ,ヨタム,アハズおよびヒゼキヤの時代に」奉仕したことを述べています。(イザヤ 1:1)そうであれば,イザヤはユダ国民に対する神の預言者として,恐らくウジヤの治世の終わりごろ ― 西暦前778年ごろ ― から,少なくとも46年間奉仕を続けたことになります。

      5,6 イザヤの家庭生活に関して,どんなことが確かに言えますか。なぜですか。

      5 ほかの預言者たちと比べると,イザヤの個人的な生活はほとんど知られていません。イザヤが既婚者であり,自分の妻を「女預言者」と呼んだことは分かっています。(イザヤ 8:3)マクリントクとストロングの「聖書・神学・教会 文献事典」(英語)によれば,この呼び方は,イザヤの結婚生活が「彼の使命と調和していただけでなく,それと密接に関連し合っていた」ことを示しています。古代イスラエルの他の幾人かの敬虔な女性たちと同じように,イザヤの妻も預言者としての割り当てを受けていたのかもしれません。―裁き人 4:4。列王第二 22:14。

      6 イザヤと妻の間には少なくとも二人の息子がいて,そのどちらにも預言的な意味を持つ名が付けられていました。長子シェアル・ヤシュブは,邪悪な王アハズに神からの音信を伝えるイザヤに同行しました。(イザヤ 7:3)イザヤと妻が家族として神を崇拝していたことは明らかで,それは今日の夫婦にとって立派な模範です。

      7 イザヤの時代のユダの状態を説明してください。

      7 イザヤとその家族はユダの歴史における波乱の時代に生活していました。政情不安は珍しくなく,賄賂が裁きを曲げ,偽善が社会の宗教機構をずたずたにしていました。丘の上には偽りの神々の祭壇が築かれており,王たちの中にさえ異教の崇拝を推進する者たちがいました。例えばアハズは,臣民の間の偶像礼拝を容認しただけでなく,自らそれに携わり,カナン人の神モレクへのいけにえの儀式として自分の子に「火の中を通らせ」ました。b (列王第二 16:3,4。歴代第二 28:3,4)こうしたことすべてが,エホバとの契約関係にあった民の中で生じていたのです。―出エジプト記 19:5-8。

      8 (イ)ウジヤ王とヨタム王はどんな模範を示しましたか。国民はこれらの王たちの指導に従いましたか。(ロ)反逆的な民のただ中でイザヤはどのように大胆さを示しましたか。

      8 ほめるべきことに,イザヤと同時代の人々の中には真の崇拝を推進しようとした人たち ― 幾人かの支配者たちも含む ― もいました。ウジヤ王はその一人で,「エホバの目に廉直なこと」を行ないました。それでもウジヤの治世中の人々は,「高き所で犠牲をささげたり,犠牲の煙を立ち上らせたりして」いました。(列王第二 15:3,4)ヨタム王も「エホバの目に正しいことを行ない続け」ましたが,「民はなおも滅びをもたらすことを行なって」いました。(歴代第二 27:2)このように,イザヤが預言者として奉仕した期間中,多くの場合,ユダ王国は霊的にも道徳的にも嘆かわしい状態にありました。国民は概して,王たちからの積極的な感化を受けようとはしませんでした。理解できることながら,こうした強情な民に神からの音信を伝えることは容易な割り当てではなかったでしょう。それにもかかわらず,「わたしはだれを遣わそうか。だれがわたしたちのために行くだろうか」というエホバからの問いかけに対し,イザヤはためらうことなく,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と叫びました。―イザヤ 6:8。

      救いの音信

      9 イザヤという名前にはどんな意味がありますか。それはイザヤ書の主題とどんな関係がありますか。

      9 イザヤという名前には,「エホバの救い」という意味があり,それがイザヤの音信の主題であったとも言えます。イザヤの預言の中に,裁きに関するものがあるのは確かです。それでも,救いという主題が明瞭に伝わってきます。残りの者がシオンに帰還して,その地を元の輝かしい状態に戻せるよう,エホバがどのように定めの時にイスラエル人をバビロン捕囚から解放されるかについて,イザヤは何度も述べました。愛するエルサレムの回復に関する預言を語ったり書き記したりする特権は,イザヤにとってこの上ない喜びだったに違いありません。

      10,11 (イ)イザヤ書が今日のわたしたちにとって興味深いのはなぜですか。(ロ)イザヤ書はどのようにメシアに注意を向けていますか。

      10 ところで,裁きと救いに関するそうした音信は,わたしたちとどんな関係があるのでしょうか。うれしいことに,イザヤはユダの二部族王国だけのために預言しているのではありません。それどころかイザヤの音信はわたしたちの時代に対して特別な意義を持っています。イザヤは,神の王国が近い将来この地に壮大な祝福をもたらす様子を壮麗なタッチで描いています。その点で,イザヤの書の多くの部分は,神の王国の王として支配する,予告されたメシアに焦点を合わせています。(ダニエル 9:25。ヨハネ 12:41)イエスの名とイザヤの名が実質的に同じ考えを表わしているのは決して偶然ではありません。イエスという名には,「エホバは救い」という意味があります。

      11 もちろん,イエスが生まれたのは,イザヤの時代から7世紀ほど後のことです。しかし,イザヤ書に収められているメシアに関する預言は非常に詳細かつ正確なので,まるでイエスの地上での生活の目撃証人によるかのようです。そのためイザヤ書は「第5の福音書」とも呼ばれる,とされています。ですから,イエスとその使徒たちが,メシアとはだれかを明らかにするのに,聖書中の他のどの本よりも頻繁にイザヤ書から引用したのも意外なことではないのです。

      12 熱意を込めてイザヤ書の研究に取りかかりたいと思うのはなぜですか。

      12 イザヤは,「ひとりの王が義のために治め」,君たちが公正のために支配する「新しい天と新しい地」を壮麗な言葉遣いで描いています。(イザヤ 32:1,2; 65:17,18。ペテロ第二 3:13)このようにイザヤ書は,メシアであるイエス・キリストが王として治める神の王国という心温まる希望を指し示しています。わたしたちにとって,『エホバによる救い』という喜ばしい期待を抱きつつ日々を過ごすための強い励みとなるのではないでしょうか。(イザヤ 25:9; 40:28-31)それでは,熱意を込めてイザヤ書の貴重な音信を調べてゆきましょう。そうするなら,神の約束に対する信頼は大いに強められるでしょう。また,エホバは確かにわたしたちの救いの神であられるという確信の点でも成長できるでしょう。

  • 父親と反逆的な子ら
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第2章

      父親と反逆的な子ら

      イザヤ 1:2-9

      1,2 エホバが反逆的な子らを持つようになったいきさつを説明してください。

      愛の深い親ならだれでもするように,子どもの必要を十分に顧みている父親がいました。長年にわたって子どもたちが衣食住に事欠くことのないようにしてきました。必要な時には懲らしめを与えましたが,罰する時にも決して度を超すことはなく,いつも「適度に」罰を与えていました。(エレミヤ 30:11)ですから,そうした愛の深い父親が次のように言わざるを得ない時の心痛は想像に難くありません。「わたしは子らを養い,そして育てた。しかし彼らはわたしに反抗した」。―イザヤ 1:2後半。

      2 ここで述べられている反逆的な子らとはユダの民のことであり,ひどく心を痛めている父親はエホバ神です。なんと痛ましい話でしょう。エホバはユダの人々を養育し,彼らの地位を諸国民の中で高めてこられました。後にエホバは預言者エゼキエルを通して以前のことを思い起こさせ,「わたしはあなたに刺しゅうの施された衣を着せ,あざらしの皮の靴をはかせ,上等の亜麻布であなたを包み,高価な生地であなたを覆った」と言われます。(エゼキエル 16:10)それにもかかわらず,ユダの民の大部分はエホバがしてくださった事柄を認識せず,むしろ反逆,ないしは反抗しているのです。

      3 エホバはなぜ天と地にユダの反抗の証人となるよう求めますか。

      3 エホバが反逆的な子らに関する上記の言葉を告げるにあたり,「天よ,聞け,地よ,耳を向けよ。エホバご自身が話されたからである」と前置きさせたことには十分な理由があります。(イザヤ 1:2前半)それよりも何世紀か前,天と地は比喩的な意味で,イスラエル人が不従順の結果に関して明確な警告を受けるのを聞きました。モーセは,「わたしは今日,天と地をあなた方に対する証人として立てておくが,あなた方は必ず,ヨルダンを渡って行って取得するその地から速やかに滅びることになるであろう」と言いました。(申命記 4:26)このイザヤの時代には,エホバが,目に見えない天と目に見える地に対して,ユダの反抗の証人となるよう求めます。

      4 エホバはユダに対してどのように接することにされますか。

      4 状況は深刻なので,単刀直入な取り組み方が必要です。しかし,こうした切迫した事態に面しても,エホバがユダに対して,彼らを買い取った単なる所有者としてではなく愛の深い親として接しておられることは,注目に値すると共に,心温まる事柄です。事実上エホバは,道に外れた子どもたちのことで苦悩する父親の観点から物事を考えてみるよう民に懇願しておられます。ユダの親たちの中には,自分自身そうした苦しい立場にかかわっていて,この例えに心を動かされる人さえいるかもしれません。いずれにせよ,エホバはユダに対するご自身の言い分を述べようとしておられます。

      動物のほうが賢い

      5 イスラエルとは対照的に,牛やろばはどのように忠実さを示しますか。

      5 エホバはイザヤを通して,「牛はその買い主を,ろばはその持ち主の飼い葉おけをよく知っている。しかし,イスラエルは知らず,わたしの民は理解ある振る舞いをしなかった」と言われます。(イザヤ 1:3)a 牛やろばは,中東の人にとってはなじみ深い荷役用の動物でした。そうした特に高等というわけではない動物でさえ,一種の忠実さを,つまり自分が主人に所属しているという鋭敏な意識を示すことは,ユダ人も認めるはずです。この点に関して,ある聖書研究者が中東の町で一日の終わりに目撃した次の光景を思い浮かべてください。「城壁の内側に入るとすぐに群れはばらばらになり始めた。どの牛も自分の飼い主と我が家への道順を完璧に知っていた。迷路のような狭くて曲がりくねった路地で迷うことなど一瞬たりともなかった。ろばも,わき目も振らずに戸口に,そして『主人のまぐさおけ』に向かった」。

      6 ユダの民は理解ある行動を取らなかったとどうして言えますか。

      6 そうした光景はイザヤの時代にはありふれたものであるに違いありません。ですから,エホバが言おうとされる要点ははっきりしています。動物でさえ自分の主人と自分の飼い葉おけを見分けるのであれば,ユダの民はエホバを捨てたことに関してどんな言い訳ができるのか,ということです。確かに民は,「理解ある振る舞いをし(ません)」でした。それは,まるで自分たちの繁栄が,そして存在そのものがエホバに依存しているという事実を全く自覚していないかのようです。エホバがいまだにユダ人のことを「わたしの民」と呼んでおられるのは,憐れみのしるしにほかならないのです。

      7 エホバの備えを認識していることをどのように示せますか。

      7 わたしたちは,エホバがしてくださったすべての事柄に対する認識を示さないという,理解の欠けた振る舞いをしたいとは決して思わないはずです。むしろ,次のように述べた詩編作者ダビデに倣いたいと思います。「エホバよ,わたしは心をつくしてあなたをたたえます。わたしはあなたのくすしい業をすべて告げ知らせます」。(詩編 9:1)この点で,エホバに関する知識を取り入れつづけることは有益です。聖書が,「最も聖なる方についての知識が理解なのである」と述べるとおりです。(箴言 9:10)エホバからの祝福について毎日黙想するなら,感謝の気持ちを抱くことができ,天の父を軽視することなどないでしょう。(コロサイ 3:15)エホバはこう言われます。「感謝のことばを自分の犠牲としてささげる者,それがわたしの栄光をたたえる者である。定まった道を保つ者には,わたしは神による救いを見させよう」。―詩編 50:23。

      「イスラエルの聖なる方」に対する衝撃的な侮辱

      8 ユダの民を「罪深い国民」と呼べるのはなぜですか。

      8 イザヤはユダ国民に対する次のような強烈な言葉で音信を語りつづけます。「罪深い国民,とがに重くまとわれた民,悪を行なう胤,破滅を来たす子らは災いだ! 彼らはエホバを捨て,イスラエルの聖なる方を不敬な仕方で扱い,その方に背を向けた」。(イザヤ 1:4)邪悪な行為が積み重なると,押しつぶさんばかりの重さになることがあります。アブラハムの時代に,エホバはソドムとゴモラの罪が「まことに重い」と言われました。(創世記 18:20)今やユダの民は明らかにそれと似た状況にあります。民は「とがに重くまとわれ(て)」いる,とイザヤが述べるとおりです。さらにイザヤは民のことを「悪を行なう胤,破滅を来たす子ら」と呼びます。そうです,ユダ人は非行少年のようなことをしているのです。彼らは「背を向け(て)」いる,あるいは,新改訂標準訳(英語)によると,父とは「全く疎遠に」なっています。

      9 「イスラエルの聖なる方」という表現にはどんな意味がありますか。

      9 ユダの民は,道に外れた自らの歩みによって,「イスラエルの聖なる方」に対する甚だしい不敬を表わしています。イザヤ書で25回使われているこの表現にはどんな意味がありますか。聖であるとは,清く,清浄であることを意味します。エホバは最高度に聖なる方です。(啓示 4:8)イスラエル人はそのことを,大祭司のターバンに付けられた輝く金の平板に彫り込まれた,「神聖さはエホバのもの」という言葉を見るたびに思い出します。(出エジプト記 39:30)ですからイザヤは,エホバを「イスラエルの聖なる方」と呼ぶことによって,ユダの罪の由々しさを強調しているのです。それら反逆的な人々は,父祖に与えられた次の命令に真っ向から違反しています。「あなた方は自分を神聖なものとし,聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者だからである」。―レビ記 11:44。

      10 どうすれば「イスラエルの聖なる方」に不敬を示すようなことを避けられますか。

      10 今日のクリスチャンは,「イスラエルの聖なる方」に対して不敬であったユダの轍を踏まないよう懸命に努力しなければなりません。エホバの神聖さに見倣わなければならないのです。(ペテロ第一 1:15,16)さらに,『悪を憎む』ことも必要です。(詩編 97:10)性の不道徳,偶像礼拝,盗み,酩酊などの汚れた習わしは,クリスチャン会衆を腐敗させかねません。だからこそ,そうした行ないを習わしにして,やめようとしない人は,会衆から排斥されるのです。悔い改めることなく汚れた歩みを続ける人は,最終的に神の王国政府の祝福からは除外されます。全くのところ,そうした邪悪な習わしすべては,「イスラエルの聖なる方」に対する衝撃的な侮辱となります。―ローマ 1:26,27。コリント第一 5:6-11; 6:9,10。

      頭から足まで病んでいる

      11,12 (イ)ユダのひどい状態を説明してください。(ロ)ユダのことを気の毒に思うべきでないのはなぜですか。

      11 イザヤは次に,ユダの民の病的な状態を指摘することによって民に推論させようとし,「あなた方はなおも反抗を増し加えることにより,この上ほかのどこを打たれようとするのか」と述べます。イザヤは事実上,『もう十分苦しんだのではないのか。どうして,反逆を続けてさらに身に害を招くのか』と質問しているのです。続けてイザヤは,「頭は全体が病んでおり,心臓も全体が虚弱になっている。足の裏から頭に至るまで,そのうちに健全なところは全くない」と言います。(イザヤ 1:5,6前半)ユダは,忌み嫌うべき,病んだ状態にあります。頭から足まで霊的に病んでいるのです。実に冷徹な診断です。

      12 ユダのことを気の毒に思うべきですか。とんでもありません。何世紀も前に,イスラエル国民全体は不従順に対する刑罰についてふさわしい警告を受けていました。例えば,「エホバはあなたの両ひざと両脚を悪性のはれ物で打ち,あなたはそれからいえることがない。それは足の裏から頭のてっぺんにまで至る」と告げられていました。(申命記 28:35)今やユダは,比喩的な意味ながら,自らの頑固な歩みのゆえに,まさにそのとおりの結果を経験しているのです。ユダの民がエホバに従順でありさえしたなら,それらすべては避けることができました。

      13,14 (イ)ユダはどんな怪我をしていますか。(ロ)ユダは苦しみのゆえに自らの反逆的な歩みを考え直しますか。

      13 イザヤはユダの哀れな状態の描写を続けて,「傷と打ち傷と生々しいむちの跡 ― それらは絞り出されたことも,巻かれたこともなく,油で和らげられたこともない」と言います。(イザヤ 1:6後半)ここでイザヤは3種類の怪我について述べています。傷(剣や短刀で付けられたような切り傷)と,打ち傷(殴打による腫れ)と,生々しいむちの跡(いやせないように見える,新しい,開いた傷)です。ここで描写されているのは,考え得る限りのあらゆる厳しい処罰を受けて,体じゅうに傷を負った人の様子です。ユダはまさに打ちのめされた状態にあります。

      14 ユダは自らの惨めな状態のゆえにエホバのもとに帰ろうとするでしょうか。いいえ,そうはしません。ユダは,箴言 29章1節が次のように描写する反逆者に似ています。「繰り返し戒められても,うなじを固くする者は,突然砕かれて,いやされることがない」。ユダ国民は治る見込みがなさそうに見えます。イザヤが述べるとおり,ユダ国民の傷は「絞り出されたことも,巻かれたこともなく,油で和らげられたこともない」のです。b ある意味でユダは,包帯もされないまま全身に広がってゆく,開いた傷に似ています。

      15 どうすれば霊的な病気から自分を守れますか。

      15 わたしたちはユダから教訓を学び,霊的な病気にかからないよう用心しなければなりません。身体的な病気と同様,だれでも霊的な病気にかかり得るからです。結局のところ,わたしたちのうちで肉の欲望に影響されない人がいるでしょうか。貪欲や過度の快楽に対する欲望が心に根を下ろしかねません。ですからわたしたちは,「邪悪なことは憎悪し」,「善良なことにはしっかりと付(く)」よう,自分自身を訓練しなければならないのです。(ローマ 12:9)さらに,毎日の生活において神の霊の実を培わなければなりません。(ガラテア 5:22,23)そうするなら,ユダを悩ませた状態,つまり霊的に頭から足まで病んだ状態を避けることができます。

      荒廃した地

      16 (イ)イザヤはユダの地の状態をどのように描写していますか。(ロ)この言葉はアハズの治世中に語られたものであろうと言う人たちがいるのはなぜですか。しかし,どのように理解できますか。

      16 次にイザヤは,医学的な例えを終えてユダの地の状態に注意を向け,あたかも戦いの爪痕の残る平原を見下ろしているかのように,こう述べます。「あなた方の地は荒廃し,あなた方の都市は火で焼かれたのだ。あなた方の土地 ― よそ者たちはそれをあなた方の真ん前で食い尽くしており,その荒廃はよそ者たちによって覆されたときのようだ」。(イザヤ 1:7)学者の中には,この言葉はイザヤ書の初めのほうにあるとはいえ,イザヤの預言者としての生涯のもっと後の時期に,たぶん邪悪な王アハズの治世中に語られたものであろう,と言う人たちがいます。ウジヤの治世中の繁栄ぶりに,こうした物寂しい描写はそぐわないというのです。なるほど,イザヤ書が年代順に編集されているかどうかについて,確かなことは何も言えません。しかし,荒廃に関するイザヤの言葉は恐らく預言的なものと思われます。上記の言葉を述べるに際して,イザヤは,聖書中の他の箇所にも見られる技巧,つまり将来の出来事をまるですでに生じたかのように述べて預言の成就の確実性を強調する技巧を用いているようです。―啓示 11:15と比較してください。

      17 ユダの民にとって荒廃に関する預言的な描写は意外なものではないはずだ,と言えるのはなぜですか。

      17 いずれにせよ,強情で不従順なユダの民にとって,ユダの荒廃に関する預言的な描写は意外なものではないはずです。何世紀も前にエホバは,反逆するなら何が生じるかについて警告し,こう言われました。「わたしはその地を荒廃に至らせる。そこに住むあなた方の敵たちはただ驚いて見つめるであろう。そしてわたしはあなた方を諸国民の中に散らし,あなた方の後ろで剣のさやを払う。あなた方の土地は必ず荒廃したところとなり,あなた方の都市は廃虚となる」。―レビ記 26:32,33。列王第一 9:6-8。

      18-20 イザヤ 1章7,8節の言葉はいつ成就しますか。その際,エホバはどのように『少しの者を残され』ますか。

      18 イザヤ 1章7,8節の言葉はアッシリアによる侵略期間中に成就するようです。その侵略の結果としてイスラエルは滅び,ユダにも広範にわたる破壊と苦難が臨みます。(列王第二 17:5,18; 18:11,13。歴代第二 29:8,9)しかし,ユダが完全に拭い去られるわけではありません。イザヤはこう言います。「シオンの娘はぶどう園の仮小屋のように,きゅうり畑の番小屋のように,封じ込められた都市のように取り残された」。―イザヤ 1:8。

      19 荒廃のただ中で,「シオンの娘」であるエルサレムは倒されずにすみます。とはいえ彼女は,ぶどう園の掘っ立て小屋やきゅうり畑の見張り小屋のように,非常に弱々しく見えることでしょう。19世紀のある学者は,ナイル川を下る旅の途中でこれと似た小屋を見かけ,イザヤの言葉を思い出しました。その学者によると,そうした小屋は「北風を防ぐ垣根にすぎないもの」です。ユダでは,収穫が終わると,そうした小屋はばらばらになって崩れるにまかされました。向かうところ敵なしというアッシリア軍にとってエルサレムは脆く見えるでしょう。それでも彼女は生き延びることになります。

      20 イザヤはこの預言的な陳述の結びにこう述べます。「もしも,万軍のエホバご自身が少しの生存者をわたしたちのために残してくださらなかったなら,わたしたちはまさにソドムのようになり,ゴモラにも似るものとなったことであろう」。(イザヤ 1:9)c 強大なアッシリアと戦うため,ついにエホバがユダを助けに来てくださるのです。ソドムとゴモラの場合とは違い,ユダが消し去られることはありません。ユダは存続するのです。

      21 バビロンがエルサレムを滅ぼした後,エホバはなぜ『少しの者を残され』ましたか。

      21 100年以上後に,ユダは再び脅威にさらされました。この民は,アッシリアを通して与えられた懲らしめから何も学んでいませんでした。「彼らは絶えずまことの神の使者たちを笑い物にし,そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていた」のです。その結果,「エホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでにな(り)」ました。(歴代第二 36:16)ユダはバビロニアの君主ネブカドネザルに征服され,今度は,「ぶどう園の仮小屋のように」残るものは何もありませんでした。エルサレムさえ滅ぼされたのです。(歴代第二 36:17-21)とはいえ,エホバは『少しの者を残され』ました。ユダは70年間の流刑を忍ばねばなりませんでしたが,エホバは,その国民,とりわけ約束のメシアを生み出すダビデの家系が途切れることのないようにされました。

      22,23 1世紀に,エホバはなぜ『少しの者を残され』ましたか。

      22 1世紀に,イスラエルは神の契約の民として最後の危機を経験しました。イエスが約束のメシアとして登場すると,イスラエル国民はイエスを退け,その結果,エホバに退けられました。(マタイ 21:43; 23:37-39。ヨハネ 1:11)それによって,エホバはもはや地上に特別な国民をお持ちにならなくなったのでしょうか。そうではありません。使徒パウロによれば,イザヤ 1章9節はもう一度成就することになっていました。パウロはセプトゥアギンタ訳から引用して,こう書きました。「イザヤがそれ以前に言っていたとおりです,『万軍のエホバがわたしたちに胤を残されなかったなら,わたしたちはソドムのようになり,またゴモラのようにされていたであろう』」。―ローマ 9:29。

      23 その成就において生き残ったのは,イエス・キリストに信仰を置いた,油そそがれたクリスチャンたちでした。当初,クリスチャンとなったのは信者のユダヤ人でしたが,後に,信者の異邦人が加わり,両者が共になって,「神のイスラエル」という新しいイスラエルを構成しました。(ガラテア 6:16。ローマ 2:29)この「胤」が,西暦70年に生じたユダヤ人の事物の体制の滅びを生き残りました。実のところ,「神のイスラエル」は今日でも存在しています。現在,彼らと共にいるのは,信者となった数百万の諸国の人々,つまり「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」を構成する人々です。―啓示 7:9。

      24 人類最大の危機を生き残りたい人は皆,何に注意を向けるべきですか。

      24 間もなく,この世界はハルマゲドンの戦いに直面します。(啓示 16:14,16)それは,ユダがアッシリアやバビロンに侵略されたときよりも,さらには,西暦70年にユダヤがローマによって荒廃させられたときよりも大規模な危機となりますが,それでも生き残る人たちがいます。(啓示 7:14)それで,ユダに対するイザヤの言葉を注意深く考察することは,すべての人にとって何と肝要なのでしょう。その言葉は当時の忠実な人たちが生き残ることを可能にしましたが,今日でも,信仰を抱く人々が生き残ることを可能にし得るのです。

      [脚注]

      a この文脈において,「イスラエル」とはユダの二部族王国のことです。

      b イザヤの言葉は当時の医学慣行を反映しています。聖書研究者のE・H・プランプトリはこう述べています。「化膿している傷を『ふさぐ』あるいは『圧迫する』ことは,膿を取り除くために最初に取られる処置である。その後,ヒゼキヤの場合(38章21)のように,傷には湿布が『巻かれ』,次いで,清涼感のある油か軟膏,恐らくルカ 10.34の場合のように油とぶどう酒を用いて潰瘍が洗浄された」。

      c C・F・カイルとF・デリッチの「旧約聖書注解」(英語)にはこうあります。「この預言者の話はここで一段落する。話がこの箇所で二つの別個の部分に分割されていることは,本文中の9節と10節の間にスペースが残されていることから分かる。スペースを残したり行を途切れさせたりして大小の部分に区切るこの手法は,母音符号やアクセント記号より古くからあり,太古の流儀に基づいている」。

      [20ページの図版]

      ソドムとゴモラの場合とは違い,ユダに永久に人が住まなくなることはない

  • 「事を正そう」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第3章

      「事を正そう」

      イザヤ 1:10-31

      1,2 エホバはエルサレムおよびユダの支配者たちと民をだれになぞらえておられますか。それが妥当であると言えるのはなぜですか。

      イザヤ 1章1節から9節に記録されている糾弾を聞いて,エルサレムの住民は自分たちのことを正当化したくなるかもしれません。自分たちがエホバにささげるすべての犠牲を誇りたいとも思うことでしょう。しかし,10節から15節には,そうした態度を萎縮させてしまうようなエホバの返答があります。それはこう始まります。「ソドムの命令者たちよ,エホバの言葉を聞け。ゴモラの民よ,わたしたちの神の律法に耳を向けよ」。―イザヤ 1:10。

      2 ソドムとゴモラが滅ぼされたのは,住民の倒錯した性的慣行のためばかりでなく,冷酷でごう慢な態度のためでもありました。(創世記 18:20,21; 19:4,5,23-25。エゼキエル 16:49,50)イザヤの言葉を聞く人たちは,自分たちがそれら呪われた都市の住民になぞらえられることに衝撃を受けているに違いありません。a しかし,エホバはご自分の民のありのままの姿を見ておられ,イザヤは『彼らの耳をくすぐる』ために神からの音信を和らげたりはしません。―テモテ第二 4:3。

      3 エホバは,民の犠牲は「もう沢山だ」という表現を用いて何を言おうとしておられますか。なぜこの場合にそれが当てはまりますか。

      3 エホバがご自分の民の形式的な崇拝についてどう感じておられるかに注目してください。「『あなた方の多くの犠牲は,わたしに何の益になろう』と,エホバは言われる。『雄羊の全焼燔の捧げ物や肥え太らせた動物の脂はもう沢山だ。わたしは若い雄牛や雄の子羊や雄やぎの血を喜ばなかった』」。(イザヤ 1:11)民は,エホバが自分たちの犠牲に依存してはおられないことを忘れています。(詩編 50:8-13)エホバは人間のささげる物を何も必要としてはおられないのです。それで,民が心のこもらない捧げ物をしながら自分たちはエホバに恩恵を施しているとでも考えるなら,それは間違いです。エホバは強烈な修辞的表現を用いておられます。「もう沢山だ」という部分は,「うんざりだ」あるいは「飽き飽きしている」とも訳せます。あなたは,食べ過ぎて,もう見るのもいやだという気持ちが分かるでしょうか。エホバはこうした捧げ物について,そうした,むかつくような気持ちを感じておられたのです。

      4 イザヤ 1章12節は,民がエルサレムの神殿に来ても無意味であることをどのように明らかにしていますか。

      4 エホバは続けて,「あなた方がわたしの顔を見るために次々と入って来るとき,あなた方の手にこのことを,わたしの中庭を踏みにじることを要求したのはだれか」と言われます。(イザヤ 1:12)『神の顔を見るために入って来る』こと,つまりエルサレムのエホバの神殿に来ることを民に要求しているのは,エホバご自身の律法ではありませんか。(出エジプト記 34:23,24)そのとおりです。しかし,民はただ形式的に神殿にやって来て,純粋な動機を抱かずに清い崇拝のまねごとをしているだけなのです。エホバから見れば,民が神の中庭をたびたび訪れることは「踏みにじる」ことにすぎず,床をすり減らすこと以外には何も成し遂げていないのです。

      5 ユダヤ人が行なう崇拝行為にはどんなものがありますか。そうした行為がエホバにとって「重荷」となったのはなぜですか。

      5 ここでエホバが,さらに強い言い方をされるのも当然です。「無価値な穀物の捧げ物をこれ以上持って来るのはやめよ。香 ― それはわたしの忌むべきものである。新月と安息日,大会の召集 ― 聖会と共に怪異な力を借りることにわたしは我慢できない。わたしの魂はあなた方の新月とあなた方の祭りの時節を憎んだ。わたしにとってそれは重荷となった。わたしはそれを負うことに飽きた」。(イザヤ 1:13,14)穀物の捧げ物,香,安息日,聖会はみな,イスラエルに与えられた神の律法に含まれています。「新月」について律法が指示しているのはそれを祝うことだけですが,時たつうちにその祝いに幾つかの健全なしきたりが付け加えられてゆきました。(民数記 10:10; 28:11)新月は月ごとの安息日とみなされ,その日に人々は仕事をしないだけでなく,預言者や祭司たちから教えを受けるために集まります。(列王第二 4:23。エゼキエル 46:3。アモス 8:5)そうした祝い方が悪いのではありません。人に誇示するだけのためにそうすることが問題なのです。さらにユダヤ人は,神の律法を形式的に守る一方で,「怪異な力」,つまり心霊術的な慣行に頼っています。b そのため,エホバに対する彼らの崇拝行為はエホバにとって「重荷」なのです。

      6 エホバはどんな意味で『飽きて』しまわれましたか。

      6 しかし,どうしてエホバが『飽きる』,あるいは疲れを覚えることがあり得るのでしょうか。何といっても,エホバは「満ちあふれる活動力」を有しておられ,「疲れ果てることも,うみ疲れることもない」方です。(イザヤ 40:26,28)エホバはここで生き生きとした修辞的表現を使って,ご自分の気持ちをわたしたちが理解できるようにしておられるのです。あなたも,重い荷物をあまりに長いあいだ持っていたためにすっかり疲れてしまい,荷物をほうり出してしまいたいと思ったことがあるのではないでしょうか。エホバがご自分の民の偽善的な崇拝行為に対して感じておられる気持ちは,まさにそれなのです。

      7 エホバがご自分の民の祈りに耳を傾けなくなられたのはなぜですか。

      7 次いでエホバは,あらゆる崇拝行為のうちでも特に親密で個人的な行為に注意を向けられます。「あなた方がたなごころを伸べるとき,わたしはあなた方から目を隠す。たとえあなた方が多くの祈りをしようとも,わたしは聴いてはいない。あなた方のその手は流血で満ちている」。(イザヤ 1:15)たなごころを伸べる,つまり手のひらを上に向けて両手を伸ばすのは,祈願の身ぶりです。その姿勢が,エホバから見て無意味なものとなっています。この民の手は流血で満ちているからです。その地には暴力がはびこり,至る所で弱い人たちが虐げられています。そのような残虐で利己的な人々がエホバに祈って祝福を求めるのは不快なことです。エホバが「わたしは聴いてはいない」と言われるのも当然です。

      8 今日,キリスト教世界はどんな誤りを犯していますか。クリスチャンがどのように同様のわなに陥ることがありますか。

      8 今日,キリスト教世界も同じようにむなしい祈りを絶えず繰り返し,ほかの宗教的な「業」も行なってはいますが,神の恵みを得ることができません。(マタイ 7:21-23)わたしたちがそれと同じわなに陥らないようにすることは非常に重要です。時として,重大な罪を習わしにするようになったクリスチャンが,自分の行なっていることを隠してクリスチャン会衆での活動を増やしさえすれば,それで罪は何とか帳消しになる,と考えることがあります。そうした形式的な業がエホバを喜ばせることはありません。イザヤ書の続く聖句が示すとおり,霊的な病気を治す方法は一つしかありません。

      霊的な病気を治す方法

      9,10 わたしたちのエホバへの崇拝において清さはどれほど重要ですか。

      9 思いやりのある神エホバは,今度はもっと温かくて心に訴える口調に切り替えて話します。「身を洗い,身を清め,わたしの目の前からあなた方の行ないの悪を除け。悪を行なうことをやめよ。善を行なうことを学び,公正を尋ね求め,虐げる者を正し,父なし子のために裁きを行ない,やもめの言い分を弁護せよ」。(イザヤ 1:16,17)ここには一連の九つの命令が述べられています。前半の四つは罪を除くことと関係があるという意味で消極的なものですが,後半の五つはエホバの祝福を受けることにつながる積極的な行動です。

      10 これまでいつの時代にも,洗うことと清さは,清い崇拝の重要な部分となってきました。(出エジプト記 19:10,11; 30:20。コリント第二 7:1)しかしエホバは,清めがもっと深いところに,崇拝者たちの心そのものの中に及ぶことを望んでおられます。最も重要なのは道徳的および霊的な清さであり,エホバが述べておられるのはそのことです。16節の最初の二つの命令は単なる繰り返しではありません。あるヘブライ語文法学者によれば,初めの『身を洗う』は清めの行為の第一歩を指しており,次の『身を清める』はその清さを保つための継続的な努力を指しているようです。

      11 罪と闘うには何をすべきですか。決して何をすべきではありませんか。

      11 わたしたちは,エホバからは何も隠せません。(ヨブ 34:22。箴言 15:3。ヘブライ 4:13)ですから,「わたしの目の前からあなた方の行ないの悪を除け」という神の命令が意味するものは,一つしかありません。つまり,悪を行なうのをやめよ,ということです。そして,それは重大な罪を隠そうとしないことを意味します。罪を隠そうとすること自体が罪だからです。箴言 28章13節は,「自分の違犯を覆い隠している者は成功しない。しかし,それを告白して捨てている者は憐れみを示される」と訓戒しています。

      12 (イ)『善を行なうことを学ぶ』のはなぜ重要ですか。(ロ)「公正を尋ね求め」,『虐げる者を正す』ようにという指示を,特に長老たちはどのように適用できますか。

      12 イザヤ 1章17節でエホバが命令しておられる積極的な行動から,多くのことを学べます。エホバが単に「善を行なえ」とは言わずに,『善を行なうことを学べ』と述べておられることに注目してください。神の目から見て何が善であるかを理解し,それを行ないたいと思うようになるには,神の言葉の個人研究が必要です。さらにエホバは,単に「公正を行なえ」とではなく,『公正を尋ね求めよ』と述べておられます。経験を積んだ長老たちでさえ,込み入った問題において公正な道を見極めるには,神の言葉を徹底的に調べなければなりません。また,エホバが続いて命令しておられるように,『虐げる者を正す』のも長老たちの責任です。こうした指示は今日のクリスチャンの牧者にとっても重要です。「圧制的なおおかみ」から群れを守りたいと思っているからです。―使徒 20:28-30。

      13 今日のわたしたちは,父なし子とやもめに関する命令をどのように適用できますか。

      13 最後の二つの命令は,神の民の中でも弱い立場の人たち,つまり孤児とやもめに関するものです。世はそうした人たちをえじきにしがちですが,神の民の間ではそうであってはなりません。愛のある長老たちは会衆内の父親のいない子どもたちのために「裁きを行ない」,その子たちをえじきにしたり堕落させたりしようとする世にあって,公正と保護を得られるよう助けます。長老たちはやもめの「言い分を弁護」しますが,それはこのヘブライ語の別の意味によれば,その人のために「奮闘する」ことでもあります。実際,クリスチャンはみな,困窮している仲間に保護と慰めと公正を与える者になりたいと願っています。その人たちはエホバにとって貴重な存在だからです。―ミカ 6:8。ヤコブ 1:27。

      14 イザヤ 1章16,17節はどんな積極的なメッセージを伝えていますか。

      14 これら九つの命令を通して,エホバは実に確固たる積極的なメッセージを伝えておられます。人は罪に巻き込まれると,自分には正しいことを行なう力が全くないと思い込むことがあります。そうした考え方は元気を失わせるだけでなく,間違いでもあります。エホバは,どんな罪人も神の助けにより罪深い歩みをやめ,身を転じて正しい事柄を行なうようになれることをご存じであり,わたしたちもそれを知るよう望んでおられます。

      同情に富む,公正な嘆願

      15 「わたしたちの間で事を正そう」という言葉はどのように誤解されることがありますか。実際にはどんな意味ですか。

      15 ここでエホバは,いっそう温かさと同情に満ちた口調で話されます。「『さあ,来るがよい。わたしたちの間で事を正そう』と,エホバは言われる。『たとえあなた方の罪が緋のようであっても,それはまさに雪のように白くされ,たとえ紅の布のように赤くても,まさに羊毛のようになる』」。(イザヤ 1:18)この美しい聖句の冒頭にある招きの言葉はしばしば誤解されています。例えば,「新英訳聖書」には,まるで合意に達するために両者が譲歩しなければならないかのように,「徹底的に論じ合おう」とあります。しかし,そのようなことはありません。エホバに落ち度はありません。とりわけこの反逆的で偽善的な民との交渉において落ち度などないのです。(申命記 32:4,5)この節が述べているのは,対等な者同士の持ちつ持たれつの話し合いではなく,公正を確立するための法廷のことです。エホバはここで,イスラエルに出廷を求めておられるかのようです。

      16,17 エホバが重大な罪をさえ進んで許してくださることはどうして分かりますか。

      16 それは考えただけで怖じ気づくような事柄かもしれませんが,エホバは最も憐れみ深く同情に富む審判者です。許しを与えるエホバの度量は比類のないものです。(詩編 86:5)エホバだけが,『緋のような』イスラエルの罪を清めて「雪のように白く」することができます。どんな人間の努力によっても,定式化されたどんな業や犠牲や祈りによっても,罪の汚点を除くことはできません。エホバの許しだけが罪を洗い去ることができます。神は,ご自分の定める条件に従ってそのような許しをお与えになります。その条件の一つは,純粋な,心からの悔い改めです。

      17 この真理は非常に重要なので,エホバは詩的な言い換えによって繰り返し,「紅の」罪も,染めていない,白くて新しい羊毛のようになる,と言われます。エホバは,ご自分が確かに罪を許す方であること,非常に重大な罪でさえ,純粋の悔い改めが神の目に明らかである限り許されることを,わたしたちが知るよう望んでおられます。これが自分の場合にも当てはまることを信じにくく感じる人は,幾つかの実例,たとえばマナセのことを考えてみるとよいでしょう。マナセは甚だしい罪を,それも何年もの間おかしていました。それでも,悔い改めた時には許されたのです。(歴代第二 33:9-16)エホバは,重大な罪を犯した人も含め,わたしたちすべてが,エホバとの関係で『事を正す』のにまだ手遅れではないことを知るよう望んでおられます。

      18 エホバは反逆的なご自分の民にどんな選択の自由をお与えになりますか。

      18 エホバはご自分の民に選択の自由があることを思い起こさせます。「あなた方がその気になり,本当に聴くなら,この地の良いものをあなた方は食べるであろう。しかし,あなた方が拒み,実際に反抗的になるなら,あなた方は剣で食い尽くされる。エホバの口がこれを語ったからである」。(イザヤ 1:19,20)ここでエホバは民の態度を重視し,要点を強調するために再び生き生きとした修辞的表現を使っておられます。ユダが選べるのは,食べるか,食べられてしまうかのいずれかです。もしエホバの言われることを進んで聴いて従う態度を取るなら,その地の良い産物を食べることになります。しかし,あくまでも反抗的な態度を取りつづけるなら,敵たちの剣に食われてしまうのです。快く許してくださる神の憐れみと豊かな恵みよりも敵の剣のほうを選ぶ民がいるなどとはまず考えられないでしょう。しかし,続くイザヤ書の聖句が示すとおり,エルサレムの場合はそうなのです。

      愛された都市に関する哀歌

      19,20 (イ)エホバは,裏切られたという気持ちをどのように表わしておられますか。(ロ)どのように『エルサレムに義が宿った』ことがありましたか。

      19 イザヤ 1章21節から23節には,この時のエルサレムの悪の全貌が示されています。ここでイザヤは,次のような哀歌あるいは嘆きのことばの形で,霊感を受けた詩を語り始めます。「忠実な町が何と売春婦になってしまうとは! 彼女は公正で満ちていた。そこには義が宿っていたのだ。しかし今は,殺人をする者たちが」。―イザヤ 1:21。

      20 エルサレムという都市は何と落ちぶれてしまったのでしょう。かつては忠実な妻であったのに,今や売春婦になってしまったのです。裏切られて失望したエホバの気持ちを表わすのに,これ以上強力な言葉があるでしょうか。この都市には「義が宿って」いました。いつのことですか。昔,イスラエルが存在してもいなかったころ,アブラハムの時代に,この都市はサレムと呼ばれていました。その都市を治めていたのは,王であり祭司でもある人でした。その人はメルキゼデクで,その名には「義の王」という意味があり,明らかにその人に非常にふさわしい名でした。(ヘブライ 7:2。創世記 14:18-20)メルキゼデクから1,000年ほど後に,エルサレムはダビデ王とソロモン王のもとで隆盛を極めました。『そこに義が宿っていた』のは,特に王たちがエホバの道を歩んで民の模範となっていた時代のことです。しかし,そうした時代はイザヤの時代には,遠い昔の記憶となっています。

      21,22 かすと薄められた麦酒にはどんな意味がありますか。ユダの指導者たちがそのように描写されて当然と言えるのはなぜですか。

      21 問題のおもな原因は,民の指導者たちにあるようです。イザヤは嘆きのことばを続け,こう述べます。「あなたの銀も浮きかすとなった。あなたの小麦酒は水で薄めてある。あなたの君たちは強情で,盗人の仲間。そのだれもがわいろを愛する者,贈り物を追い求める者。彼らは父なし子のために裁きを行なわず,やもめの訴え事も彼らには受け入れられない」。(イザヤ 1:22,23)生き生きとした二つの絵画的描写が矢継ぎ早になされ,続く部分の調子を予感させます。鍛冶屋は,炉で,溶けた銀から浮きかすをすくって捨てます。イスラエルの君や裁き人たちは銀ではなく,かすのような存在であり,処分されなければなりません。水で薄められて味わいを失った麦酒<ビール>程度の価値しかないのです。そのような飲み物は下水に流すしかありません。

      22 23節は,指導者たちがこのように描写されて当然と言える理由を示しています。モーセの律法は神の民を他の諸国民から分けて,高貴なものとしました。例えば,孤児ややもめを保護するようにとの規定がそうした働きをしました。(出エジプト記 22:22-24)しかし,イザヤの時代には,父なし子が親身な裁きを受ける見込みはほとんどありません。やもめにも,自分のために奮闘してくれる人どころか,訴えを聞いてくれる人さえいません。これらの裁き人や指導者たちは自分の利益になることに全く没頭して,わいろを要求したり贈り物を求めたりしており,恐らく被害者の苦しみをよそに犯罪者をかくまって,盗人の仲間ともなっているのです。さらに悪いことに,彼らは悪行の道に「強情」になって,つまり凝り固まっています。何と悲しむべき状況なのでしょう。

      エホバはご自分の民を精錬される

      23 エホバは敵対者たちに対するどんな気持ちを表現しておられますか。

      23 エホバはそうした権力の濫用をいつまでも大目に見たりはされません。イザヤはこう続けます。「それゆえに,まことの主,万軍のエホバ,イスラエルの強力な方のお告げはこうである。『ははあ! わたしはわたしに敵対する者たちに思いを晴らし,わたしに敵する者たちに復しゅうする』」。(イザヤ 1:24)ここではエホバに関して三つの名称が用いられ,エホバが正当な主であり,強大な力をお持ちであることが強調されています。「ははあ!」という叫びは,今やエホバの哀れみの感情に,ご自分の憤りに従って行動しようという決意が入り交じっていることを示しているようです。それには確かに理由があります。

      24 エホバはご自分の民にどんな精錬の過程を経験させることにされますか。

      24 エホバご自身の民が,自ら神の敵となってしまったのです。彼らは神の復しゅうを受けて全く当然です。エホバは彼らに『思いを晴らす』,あるいは,彼らに関する煩いを一掃されます。これは,神のみ名の民が完全に,ずっといつまでも消滅してしまうということなのでしょうか。そうではありません。エホバは続いてこう言われます。「わたしは手をあなたの上に引き戻し,灰汁によるかのようにあなたの浮きかすを溶かし去り,あなたの残りかすをことごとく取り除く」。(イザヤ 1:25)ここでエホバは精錬の過程を例えとして用いておられます。古代の精錬の際には,かすを貴金属から速やかに分離させるため,たいてい灰汁が加えられました。同様にエホバは,ご自分の民が徹底的に邪悪だとは考えておられないので,『適度に打ち懲らす』ことをされます。彼らの中から「残りかす」だけを,つまり,学んで従うことを拒む強情で好ましくない人々だけを取り除くのです。c (エレミヤ 46:28)イザヤはこのような言葉によって,歴史を事前に書き記す特権を与えられています。

      25 (イ)西暦前607年,エホバはどのようにご自分の民を精錬されましたか。(ロ)現代において,エホバはいつご自分の民を精錬されましたか。

      25 確かにエホバはご自分の民を精錬し,浮きかすのような腐敗した指導者たちや他の反逆者たちを取り除きました。イザヤの時代からずっと後の西暦前607年に,エルサレムは滅ぼされ,住民は連行されて,バビロンでの70年間の流刑に処されました。この出来事は,神がずっと後代に行なわれた事柄と幾つかの点で類似しています。バビロンでの流刑のずっと後に書かれたマラキ 3章1節から5節の預言は,神が再び精錬の業を行なわれることを示しています。その預言は,エホバ神がご自分の「契約の使者」であるイエス・キリストを伴って霊的な神殿に来られる時を指し示していました。証拠によれば,これは第一次世界大戦の終わりごろに生じました。エホバは,クリスチャンと唱える人々すべてを検分し,本物のクリスチャンを偽物からより分けたのです。その結果どうなりましたか。

      26-28 (イ)イザヤ 1章26節はまずどのように成就しましたか。(ロ)わたしたちの時代に,この預言はどのように成就してきましたか。(ハ)今日の長老たちはこの預言からどのように益を得られますか。

      26 エホバはこうお答えになります。「そして,最初のときと同じようにあなたのために裁き人たちを,始めのときと同じようにあなたのために助言者たちを連れ戻す。その後,あなたは“義の都市”,“忠実な町”と呼ばれるであろう。シオンは公正をもって請け戻され,そこに帰る者たちは義をもって請け戻される」。(イザヤ 1:26,27)古代エルサレムはこの預言の最初の成就を経験しました。西暦前537年に流刑者たちが自分たちの愛する都市に帰還した後,その都市には,かつてのような忠実な裁き人や助言者たちが再びいるようになりました。預言者のハガイとゼカリヤ,祭司ヨシュア,書士エズラ,そして総督ゼルバベルは皆,帰還した忠実な残りの者たちが神の道を歩むよう導きや指示を与えて仕えました。しかし,もっと重要な成就が20世紀に生じました。

      27 1919年,現代のエホバの民は試みの時期を終えて姿を現わしました。偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンへの霊的な束縛から救出されたのです。それら忠実な油そそがれた残りの者とキリスト教世界の背教した僧職者との違いは明らかになりました。神はご自分の民を再び祝福し,民のために『裁き人たちや助言者たち』を,つまり人間の伝統ではなくみ言葉に基づいて神の民に助言を与える忠実な男子を『連れ戻し』ました。今日,数の減りつつある「小さな群れ」と,その仲間である増加する何百万もの「ほかの羊」の中には,そうした男子が大勢います。―ルカ 12:32。ヨハネ 10:16。イザヤ 32:1,2; 60:17; 61:3,4。

      28 長老たちは,自分たちが時には会衆内で「裁き人」として行動し,会衆を道徳的にも霊的にも清く保ち,悪行者を正さなければならないことをわきまえています。そして,憐れみ深くて平衡の取れた神の公正の感覚に倣い,神の方法で物事を行なうことに心を砕きます。とはいえ,たいていの場合,長老たちは「助言者」として仕えます。言うまでもなく,それは君主や暴君であることとは全く異なります。長老たちは,「神の相続財産である人々に対して威張る」かのような印象を与えることさえないよう力を尽くします。―ペテロ第一 5:3。

      29,30 (イ)精錬過程から益を得ようとしない人々に対して,エホバはどんな宣告を下されますか。(ロ)人々はどんな意味で自分たちの木々や園を『恥じる』ようになりますか。

      29 イザヤの預言が言及している「かす」についてはどうでしょうか。神による精錬の過程から益を得ようとしない人々はどうなりますか。イザヤはこう続けます。「そして,反抗する者たちと罪深い者たちとの崩壊は同時に起こり,エホバを捨てる者たちはその終わりを迎える。彼らはあなた方の欲した強大な木々を恥じ,あなた方は自分の選んだ園のために恥じ入るからである」。(イザヤ 1:28,29)手遅れになるまで神の預言者たちの警告の音信を無視し,エホバに反抗して罪をおかす人々は,まさに「崩壊」して「終わりを迎え」ます。それは西暦前607年に生じます。しかし,ここで木々と園について述べられていることにはどんな意味があるのでしょうか。

      30 ユダの人々は偶像礼拝に関する根強い問題を抱えています。木々や園や木立は,しばしば彼らの堕落した慣行と結びついています。例えば,バアルとその配偶神アシュトレテの崇拝者たちは,乾期になるとそれらふたりの神は死んで葬られると信じています。ふたりの目覚めと性交を促し,それによって地に豊かな実りがもたらされるようにと,偶像礼拝者たちは集まり,木立や園の“聖なる”木々の下で倒錯的な性行為を行ないます。雨が降って地に豊かな実りがもたらされると,それら偽りの神々のおかげとされ,偶像礼拝者たちは迷信に対する確信を強めます。しかし,それら反逆的な偶像礼拝者たちがエホバによって終わりを迎え崩壊する時,偶像の神々は守ってはくれません。反逆者たちはそれら無力な木々や園を「恥じ」ます。

      31 偶像礼拝者たちは恥じるだけでなく,それより悪いどんなことを経験しますか。

      31 とはいえ,偶像を礼拝するユダ人は恥じるだけではすみませんでした。エホバは例えを切り替え,今度は偶像礼拝者自身を木になぞらえます。「あなた方は葉の枯れてゆく大木のように,水のない園のようになる(の)である」。(イザヤ 1:30)中東の暑くて乾燥した気候から見て,この例えは適切です。安定した水の供給がなければ,木も園も長くはもちません。そうした草木は乾ききると,とりわけ火がつきやすくなります。それで,31節の例えは,自然な流れでこう続きます。

      32 (イ)31節が述べる「強壮な者」とはだれですか。(ロ)その者はどんな意味で「麻くず」となり,どんな「火花」によって火をつけられますか。どんな結果になりますか。

      32 「強壮な者は必ず麻くずとなり,その働きの結果は火花となる。それは二つとも必ず同時に炎となり,それを消す者はだれもいない」。(イザヤ 1:31)この「強壮な者」とはだれですか。このヘブライ語の表現には強さと富という意味合いがあるので,これは偽りの神々を信奉する,豊かで自信に満ちた人のことを指しているのでしょう。現代と同様,イザヤの時代にも,エホバとその清い崇拝を退ける人が大勢います。中には成功しているかに見える人たちさえいます。しかしエホバは,そうした人々が「麻くず」のように,つまり非常に乾燥していてもろいため,いわば火のにおいだけでばらばらになってしまう粗い亜麻の繊維のようになる,と警告しておられます。(裁き人 16:8,9)偶像礼拝者の働きの結果は,偶像の神々であれ,富であれ,あるいはエホバの代わりに崇拝するいかなるものであれ,点火のための「火花」のようになります。火花も麻くずも,だれにも消せない火にのみ込まれ,ぬぐい去られることになります。宇宙に存在するどんな力も,エホバの完全な裁きを覆すことはできません。

      33 (イ)来たるべき裁きに関する警告に,どのように神の憐れみも示されていますか。(ロ)エホバは今,人類にどんな機会を差し伸べておられますか。それはわたしたち一人一人にどんな影響を与えますか。

      33 この最後のメッセージは,18節にある憐れみと許しのメッセージと両立しますか。確かに両立します。エホバは憐れみ深い方であるからこそ,そうした警告をご自分の僕たちによって記録させ,伝えさせたのです。結局のところ,神は,「ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれる」のです。(ペテロ第二 3:9)今日の真のクリスチャン一人一人にとって,悔い改める人たちが神の寛大な許しから益を得て永遠に生きるよう,神の警告の音信を人類に宣明するのは特権です。手遅れにならないうちに神との関係で『事を正す』機会を人類に与えておられるのは,エホバの側の親切にほかなりません。

      [脚注]

      a 古代ユダヤの伝承によれば,邪悪な王マナセはイザヤをのこぎりで切り裂いて処刑させました。(ヘブライ 11:37と比較してください。)ある文献によると,その死刑宣告を下すために,一人の偽りの預言者がイザヤを告発して,「彼はエルサレムをソドムと呼び,ユダとエルサレムの君たちのことをゴモラの民であると公言した」と述べました。

      b 「怪異な力」と訳されているヘブライ語の単語は,「有害なこと」,「怪異な事柄」,「誤った」とも訳せます。「旧約聖書神学辞典」(英語)によると,ヘブライ人の預言者たちは,「力の誤用によって生じる悪」を糾弾する際にこの語を用いました。

      c 『わたしは手をあなたの上に引き戻す』という表現は,エホバがご自分の民を支えることをやめ,打ち懲らすようになることを意味しています。

  • エホバの家は高められる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第4章

      エホバの家は高められる

      イザヤ 2:1-5

      1,2 国連広場の壁にはどんな言葉が刻み込まれていますか。その言葉は元々どこに書かれていましたか。

      「彼らはその剣を打ち変えて鋤となし,その槍を打ち変えて刈り込み鎌となすべし。国は国に向かいて剣を上げず,もはや戦いのことを学ばざるべし」。これはニューヨーク市にある国連広場の壁に刻み込まれている言葉です。何十年もの間,この言葉がどこから引用されたものであるかは明記されていませんでした。国連は世界平和を目指すという目標を掲げているので,その引用句は,1945年に国連の創設者たちが考え出したものとみなされがちでした。

      2 しかし,1975年,壁の引用句の下にイザヤという名が彫り込まれました。その時,その言葉が元々は現代のものでないことが明示されました。実際のところ,その言葉は今から2,700年以上前に預言として記録されたもので,今ではイザヤ書の2章に収められています。何千年もの間,平和を愛する人たちは,イザヤが予告した事柄はいつ,どのように生じるのだろうか,と考えてきました。もう,あれこれ思案する必要はありません。今日わたしたちは,この古代の預言の目覚ましい成就を目の当たりにしているのです。

      3 剣を打ち変えて鋤とする国とはどんな国民のことですか。

      3 剣を打ち変えて鋤とする国とはどんな国民のことですか。現代の政治上の国家や政府のことでないのは確かです。そうした国々は今に至るまで,一方では戦争を行なうため,他方では武力によって「平和」を維持するために,剣つまり兵器を開発してきました。いやむしろ,諸国家は常に鋤を剣に打ち変えようとしてきたのです。イザヤの預言は,すべての国を代表する人たち,すなわち「平和の神」エホバを崇拝する人たちに成就します。―フィリピ 4:9。

      流れのように清い崇拝に向かう国々の民

      4,5 イザヤ 2章の冒頭の二つの節は何を予告していますか。その言葉の信頼性を何が強調していますか。

      4 イザヤ 2章の冒頭の言葉はこうなっています。「アモツの子イザヤがユダとエルサレムに関して幻で見た事: そして,末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう」。―イザヤ 2:1,2。

      5 イザヤの予告している事柄が単なる憶測ではないことに注目してください。イザヤは,『必ず[間違いなく]起こる』(英文字義)事柄について記すよう指示されています。何であれエホバが意図される事は「確かな成功を収め」ます。(イザヤ 55:11)ご自分の約束の信頼性を強調するためと思われますが,神はイザヤと同時代の預言者ミカに霊感を与え,イザヤ 2章2節から4節にあるのと同じ預言をミカ書に記録させました。―ミカ 4:1-3。

      6 イザヤの預言はいつ成就しますか。

      6 イザヤの預言はいつ成就することになっているのでしょうか。「末の日に」成就します。「新国際訳」では「終わりの日に」となっています。クリスチャン・ギリシャ語聖書は,その時期がいつであるかを見極めるための特徴を予告しました。その特徴の中には,戦争,地震,疫病,食糧不足,「対処しにくい危機の時代」などがあります。a (テモテ第二 3:1-5。ルカ 21:10,11)そのような預言の成就は,わたしたちが「末の日に」,つまり現在の世界体制の終わりの日に生きていることを示す豊富な証拠となっています。それで,論理的に考えるなら,イザヤの予告した事柄がわたしたちの時代に成就するのを見ることが期待できます。

      崇拝を行なうための山

      7 イザヤはどんな預言的な描写を行なっていますか。

      7 イザヤは簡潔な言葉遣いで,生き生きとした預言的描写を行なっています。高大な山が見え,その頂には栄光に満ちた家,エホバの神殿があります。その山は周囲の山や丘の上にそびえ立っています。それでも,その山は不気味なものでも威圧的なものでもありません。むしろ,魅力的なものです。すべての国の民がエホバの家の山に上ることを切望し,流れのようにそこに向かいます。そのような様子を思い浮かべることは難しくありませんが,これは何を意味しているのでしょうか。

      8 (イ)イザヤの時代に,丘や山は何と結びついていますか。(ロ)国々の民が流れのように「エホバの家の山」に向かうことは,何を表わしていますか。

      8 イザヤの時代に,丘や山はしばしば崇拝と結びついています。例えば,偶像礼拝的な崇拝の場所,また偽りの神々の聖なる所として用いられています。(申命記 12:2。エレミヤ 3:6)しかし,エルサレムのモリヤ山の頂には,美しいエホバの家つまり神殿が立っています。忠実なイスラエル人は年に3度エルサレムへ旅をし,モリヤ山に上ってまことの神を崇拝します。(申命記 16:16)ですから,国々の民が流れのように「エホバの家の山」に向かうことは,多くの国の民が真の崇拝へと集まることを表わしています。

      9 「エホバの家の山」は何を表わしていますか。

      9 言うまでもなく,今日,神の民は石造りの神殿のある文字どおりの山に集まるわけではありません。エルサレムのエホバの神殿は西暦70年にローマ軍によって滅ぼされました。さらに,使徒パウロは,エルサレムの神殿とそれ以前に存在した幕屋は描画的なものであったことを明らかにしました。それらは,より偉大な霊的実体,つまり「人間ではなくエホバの立てた真の天幕」を表わしていたのです。(ヘブライ 8:2)その霊的な天幕とは,イエス・キリストの贖いの犠牲に基づき崇拝においてエホバに近づくための取り決めのことです。(ヘブライ 9:2-10,23)その点と調和して,イザヤ 2章2節の「エホバの家の山」は,わたしたちの時代における,高められた,エホバの清い崇拝を表わしています。清い崇拝を奉じる人たちは地理上の特定な場所に集まるわけではありません。崇拝において一致して集まるのです。

      清い崇拝が高められる

      10,11 わたしたちの時代に,エホバの崇拝はどんな意味で高められてきましたか。

      10 イザヤは,「エホバの家の山」つまり清い崇拝が「もろもろの山の頂より上に堅く据えられ」,『もろもろの丘より上に高められる』であろうと述べています。イザヤの時代よりずっと昔に,ダビデ王は契約の箱を,海抜760㍍のエルサレムのシオンの山に運び上げました。箱はそこに置かれ,後にモリヤ山上に完成した神殿に移されました。(サムエル第二 5:7; 6:14-19。歴代第二 3:1; 5:1-10)こうして,イザヤの時代にはすでに,その神聖な箱は物理的に高められて神殿に置かれ,偽りの崇拝に用いられた周囲の丘の多くよりも高い位置にありました。

      11 言うまでもないことですが,霊的な意味で,エホバの崇拝はこれまで常に,偽りの神々に仕える人々の宗教的な慣行より上位にありました。しかし,わたしたちの時代に,エホバはご自分の崇拝を天のように高め,あらゆる形態の汚れた崇拝より上に,そうです,すべての「丘」と「山の頂」よりはるか上に高めてこられました。どのようにですか。おもに,「霊と真理をもって」神を崇拝したいと願う人々を一つに集めることによって,そうしてこられました。―ヨハネ 4:23。

      12 「王国の子たち」とはだれのことですか。どんな集める業が行なわれてきましたか。

      12 キリスト・イエスは「事物の体制の終結」のことを収穫の時と呼びました。その時,み使いたちは,「王国の子たち」,つまり天の栄光のうちにイエスと共に支配する希望を抱く人々を集め入れます。(マタイ 13:36-43)1919年以来,エホバはそれらの子たちの「残っている者たち」に力を与え,その者たちがみ使いたちと共に収穫の業にあずかるようにしてこられました。(啓示 12:17)このように,まず「王国の子たち」,つまりイエスの油そそがれた兄弟たちが集められます。そして彼らは,その後に行なわれる集める業にあずかります。

      13 エホバは油そそがれた残りの者をどのように祝福してこられましたか。

      13 この収穫の時の期間中,エホバは,み言葉 聖書を理解して適用できるよう油そそがれた残りの者を漸進的に助けてこられました。そのことも,清い崇拝を高める要素となっています。『闇が地を,濃い暗闇が国たみを覆って』はいても,エホバに清められ精錬された油そそがれた者たちは,人類の中で『照らす者として輝いて』います。(イザヤ 60:2。フィリピ 2:15)それら霊によって油そそがれた者たちは,「あらゆる知恵と霊的な把握力とにより,神のご意志に関する正確な知識に満たされ」,『その父の王国で太陽のように明るく輝き』ます。―コロサイ 1:9。マタイ 13:43。

      14,15 「王国の子たち」を集めることに加えて,どんな取り入れの業が行なわれてきましたか。そのことをハガイはどのように予告しましたか。

      14 さらにほかの人たちも,流れのように「エホバの家の山」に向かってきました。イエスが「ほかの羊」と呼んだそれらの人たちは,楽園の地で永遠に生きるという希望を抱いています。(ヨハネ 10:16。啓示 21:3,4)それらの人はまず1930年代に何千人という規模で登場し,次いで何十万人,そして何百万人という規模になってきました。使徒ヨハネに与えられた幻の中で,それらの人は「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」と描写されています。―啓示 7:9。

      15 預言者ハガイはこの大群衆の出現を予告して,こう書きました。「万軍のエホバはこのように言われたのである。『あと一度 ― それはしばらくのことであるが ― わたしは天と地と海と乾いた地とを激動させる。またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいもの[油そそがれたクリスチャンに加わって清い崇拝を行なう人々]が必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす』と,万軍のエホバは言われた」。(ハガイ 2:6,7)依然として増加を続けるこの「大群衆」とその油そそがれた仲間の存在が,エホバの家における清い崇拝を高める,そうです,その崇拝に栄光をもたらしているのです。これまで,まことの神の崇拝においてこれほど大勢の人が結び合わされたことは記録にありません。これはエホバと,その即位した王イエス・キリストの栄光となっています。ソロモン王はこう書きました。「民の多いことには王の飾りがあ(る)」。―箴言 14:28。

      崇拝が人々の生活において高められる

      16-18 受け入れられる仕方でエホバを崇拝するために,ある人たちはどんな変化を遂げましたか。

      16 エホバは,今の時代に清い崇拝が高められていることに関して,すべての誉れを受けるにふさわしい方です。とはいえ,神に近づく人には,この業に加わる特権があります。山に登るには努力が要るのと同様,神の義の規準を学び,それに従って生活するのにも努力が必要です。1世紀のクリスチャンのように,今日の神の僕たちも,真の崇拝と相いれない生き方や習慣を捨て去りました。淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,盗む者,貪欲な者,大酒飲みといった人たちが歩みを改め,神の目から見て「洗われて清くなった」のです。―コリント第一 6:9-11。

      17 ある若い女性の経験はその典型的なものです。その人はこう書いています。「私はかつて希望を失い,当てのない生活を送っていました。酒におぼれ,不道徳な生き方をして,性病にかかっていました。麻薬を売ることもあり,全く自暴自棄になっていました」。この女性は聖書を学んだ後,自分を神の規準に合わせるために大きな変化を遂げました。今では,「思いの平安や自尊心,将来の希望,そして真の家族を得ていますし,何よりもうれしいことに,父エホバとの関係を楽しんでいます」と述べています。

      18 エホバに是認された立場を得た後も,すべての人は清い崇拝を自分の生活の中心に置くことによって,それを高めてゆかなければなりません。何千年も前に,エホバはイザヤを通して,今の時代に大勢の人が神の崇拝を自分の生活で最重要なものにしたいと熱望するであろう,という確信を表明されました。あなたもその中の一人ですか。

      エホバの道を教えられた民

      19,20 神の民は何を教えられていますか。どこで教えられていますか。

      19 イザヤは,今日清い崇拝を奉じる人たちについてさらに語り,こう述べます。「多くの民は必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう』。律法はシオンから,エホバの言葉はエルサレムから出るのである」。―イザヤ 2:3。

      20 エホバはご自分の民が迷える羊のようにさまようままにはされません。民がご自分の道を学べるよう,聖書と聖書に基づく出版物を通して,ご自分の「律法」と「言葉」を民に分け与えておられます。そうした知識により,この民は『神の道筋を歩む』備えができます。そして,感謝に満ちた心に動かされ,神の指示に調和して,エホバの道について互いに語り合います。聴いて神の道を学ぶために,大規模な大会に,また比較的少人数で王国会館や個人の家に集まり合います。(申命記 31:12,13)こうして,「愛とりっぱな業」に満ちあふれるよう互いに励まし鼓舞し合うために集い合った初期クリスチャンの型に倣っているのです。―ヘブライ 10:24,25。

      21 エホバの僕たちはどんな業にあずかっていますか。

      21 神の民は,高められたエホバ神の崇拝に『上る』よう他の人たちを招きます。これは,イエスが昇天の直前に弟子たちに与えた命令と,まさに調和しています。イエスは弟子たちにこう告げました。「それゆえ,行って,すべての国の人々を弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなた方に命令した事柄すべてを守り行なうように教えなさい」。(マタイ 28:19,20)エホバの証人は神からの後ろ盾を得て,従順に全地を行き巡り,人々を教えて弟子とし,バプテスマを施します。

      剣をすきの刃に

      22,23 イザヤ 2章4節は何を予告していますか。国連の一職員はその予告について何と述べましたか。

      22 では,次の節を取り上げましょう。その一部が国連広場の壁に彫り込まれています。イザヤはこう書いています。「神は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。―イザヤ 2:4。

      23 これを成し遂げるのは決してたやすいことではありません。国連教育科学文化機関の事務局長フェデリコ・マイヨールは,こう述べました。「昨今の視聴覚機器によって我々に突きつけられる,ぞっとするような戦争の光景すべてをもってしても,何世紀もかけて築き上げられ,維持されてきた巨大な戦争機構の前進を食い止めることはできないようである。現代の人々には,『剣を打ち変えて鋤となし』,遠い昔から発達させてきた好戦的な本能を平和を求める気持ちに変えるという,不可能に近い聖書的な課題がある。達成できるとすれば,それは“地球村”が成し遂げ得る最善かつ最も気高い行為であり,子孫への最良の遺産となろう」。

      24,25 イザヤの言葉はだれに成就しますか。どのようにですか。

      24 諸国家が全体としてこの高遠な目標を達成することは決してないでしょう。全く力の及ばない事柄なのです。イザヤの言葉は,多くの国から来て清い崇拝において結ばれている人々によって成就します。エホバはそれらの人々の間で『事を正して』こられました。互いに平和に生活するようご自分の民に教えてこられたのです。確かに,闘争に明け暮れる分裂した世界にあって,神の民は比喩的な意味で自分たちの『剣をすきの刃に,槍を刈り込みばさみに』打ち変えてきました。どのようにでしょうか。

      25 一つの点として,この民は諸国家の戦争において,いずれの側にもくみしません。イエスが亡くなる少し前のこと,武装した男たちがイエスを捕縛しにやって来ました。主人を守ろうとしたペテロが剣で打ちかかった時,イエスは,「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」と言われました。(マタイ 26:52)それ以来,イエスの足跡に従う者たちは,自分の剣をすきの刃に打ち変え,仲間の人間を殺すために武器を手にしたり,他の面で戦争努力を支持したりすることのないようにしてきました。『すべての人に対して平和を追い求める』のです。―ヘブライ 12:14。

      平和の道を追い求める

      26,27 神の民はどのように「平和を求めてそれを追い求め」ますか。実例を挙げてください。

      26 神の民の平和は,単に戦闘に加わることを拒むというだけのことではありません。神の民は,230を超える国や地域に暮らし,数え切れないほど様々な言語や文化の背景を持つにもかかわらず,互いの間で平和を楽しんでいます。イエスが1世紀の弟子たちに語った次の言葉は,現代の神の民の中でも実現しています。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:35)今日のクリスチャンは「平和を作る人たち」です。(マタイ 5:9,脚注)そして,「平和を求めてそれを追い求め」ます。(ペテロ第一 3:11)クリスチャンを支えているのは,「平和を与えてくださる神」であるエホバです。―ローマ 15:33。

      27 学ぶことによって平和を作る人となった人たちの劇的な実例が幾つもあります。ある若い男性は,自分の以前の生活についてこう書いています。「私はつらい目に遭って,自分を守るすべを身に着けました。そのため乱暴になり,いつもむしゃくしゃしていました。何かというとけんかになり,毎日,相手を変えては,近所の子どもとけんかをしていました。殴り合いもあれば,大きな石や瓶を持ち出すこともありました。大きくなると,たいへんな暴れ者になりました」。しかし,後にこの男性は「エホバの家の山」へ行こうという招きにこたえ応じ,神の道を学んで,平和を好む神の僕となりました。

      28 平和を追い求めるためにクリスチャンは何ができますか。

      28 エホバの僕の多くがかつてそのように乱暴だったというわけではありません。とはいえ,親切,人を許すこと,感情移入といった比較的小さな事柄においても,他の人との平和を促進しようと努めます。不完全ではあるものの,「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい」という聖書の助言を適用しようと努力するのです。―コロサイ 3:13。

      平和な将来

      29,30 地にはどんな見込みがありますか。

      29 この「末の日」に,エホバは驚嘆すべきことを行なってこられました。ご自分に仕えることを願う人たちをあらゆる国から集め,ご自分の道つまり平和の道を歩むよう,その人たちを教えてこられました。その人たちこそ,来たるべき「大患難」を生き残り,永久に戦争の根絶された平和な新しい世に入る人たちです。―啓示 7:14。

      30 剣つまり武器は,もはや存在しなくなります。詩編作者はその時のことをこう書いています。「あなた方は来て,エホバの働きを見よ。神が驚くべき出来事を地に置かれたのを。神は地の果てに至るまで戦いをやめさせておられる。神は弓を折り,槍を断ち切り,もろもろの車を火で焼かれる」。(詩編 46:8,9)そうした見込みを考えると,次のイザヤの勧めの言葉は,それが書かれた時と同様,今日でも適切であると言えます。「ヤコブの家の者たちよ,来なさい。エホバの光のうちを歩もう」。(イザヤ 2:5)そうです,今エホバの光がわたしたちの道筋を照らすようにしましょう。そうすれば,とこしえにわたってエホバの道を歩むことになるのです。―ミカ 4:5。

      [脚注]

      a エホバの証人の発行した「聖書は実際に何を教えていますか」という本の9章,「今は『終わりの日』ですか」をご覧ください。

  • エホバは,自分を高める者たちを辱める
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第5章

      エホバは,自分を高める者たちを辱める

      イザヤ 2:6–4:1

      1,2 わたしたちが,イザヤの時代のユダヤ人に対する預言的な音信に関心を抱くのはなぜですか。

      エルサレムとユダの状況に嫌悪を覚えた預言者イザヤは,次にエホバ神に向かってはっきりと,「あなたはご自分の民,ヤコブの家を捨て去られ(ました)」と言います。(イザヤ 2:6前半)なぜ神は,「特別な所有物」として自ら選んだ民を退けようとされたのでしょうか。―申命記 14:2。

      2 わたしたちは,当時のユダヤ人に対するイザヤの糾弾に大いに関心を抱きます。なぜでしょうか。それは,今日のキリスト教世界の状況がイザヤの民の状況と非常に似ており,エホバが宣告される裁きに関してもそう言えるからです。イザヤの布告に注意を払うなら,神が有罪とされる事柄について明快な理解が得られ,神が非とされる習わしを避けることができます。では,強い期待を抱いて,イザヤ 2章6節から4章1節に記録されているエホバの預言の言葉を考察しましょう。

      彼らは誇らしげに身をかがめる

      3 イザヤは自分の民のどんなとがを告白しますか。

      3 イザヤは自分の民のとがを告白して,こう述べます。「彼らは東からのもので満ち,フィリスティア人のように魔術を習わしにする者となり,異国人の子供たちであふれている(の)です」。(イザヤ 2:6後半)それより800年ほど前に,エホバは自分の選んだ民にこう命令しておられました。「これらの事のいずれによってもあなた方の身を汚してはいけない。わたしがあなた方の前から去らせる諸国民は[それ]によってその身を汚したのである」。(レビ記 18:24)エホバはご自分の特別な所有物として選び出した者たちに関して,バラムに次のように言わせました。「岩の頂からわたしは彼らを見,丘の上からわたしはこれを眺める。見よ,彼らはひとつの民として他から離れて幕屋を張り,自分たちを諸国の民の中に数えない」。(民数記 23:9,12)しかし,イザヤの時代に,エホバの選んだ者たちはすでに周囲の諸国民の忌まわしい習わしを取り入れ,『東からのもので満ちて』います。エホバとみ言葉に信仰を置く代わりに,「フィリスティア人のように魔術を」習わしにしているのです。諸国民から離れているどころか,地は「異国人[恐らく,神の民の中に不敬虔な習わしを持ち込む異国人]の子供たち」で「あふれて」います。

      4 ユダヤ人は富と軍事力のゆえにエホバに感謝するどころか,どんなことをしますか。

      4 イザヤは,ウジヤ王の治めるユダの当時の経済的な繁栄と軍事力に注目してこう述べます。「彼らの地は銀や金で満ち,その財宝には限りがありません。また,彼らの地は馬で満ち,その兵車には限りがありません」。(イザヤ 2:7)そのような裕福さと軍事力について,民はエホバに感謝するでしょうか。(歴代第二 26:1,6-15)いいえ,全く感謝しません。それどころか,裕福さそのものに信頼を寄せ,その源である方エホバ神から離れています。その結果,どうなっていますか。「彼らの地は無価値な神々で満ちています。彼らは人の手の業に,人の指の造ったものに身をかがめます。そして,地の人は身をかがめ,人は低くなります。あなたが彼らを赦すことはありえません」。(イザヤ 2:8,9)民は生ける神から顔を背け,命のない偶像に身をかがめているのです。

      5 偶像に身をかがめることが謙遜な行為でないのはなぜですか。

      5 場合によっては,身をかがめることは謙遜さの表われです。しかし,命のない物に身をかがめることは無益であり,当の偶像崇拝者を「低く」する,つまり堕落させることになります。エホバがそのような罪を赦されることなど,どうしてあり得るでしょうか。エホバが言い開きを求める時,それら偶像礼拝者たちはどうしますか。

      『ごう慢な目は必ず低くなる』

      6,7 (イ)自分を高める者たちはエホバの裁きの日にどうなりますか。(ロ)エホバはどんなものや人に対してご自分の怒りを表明されますか。なぜですか。

      6 イザヤは続けて,「エホバの怖ろしさゆえに,またその光輝ある優越性から,岩の中に入り,塵の中に身を隠せ」と言います。(イザヤ 2:10)しかし,全能者なるエホバから身を守るにはどんな岩も小さすぎ,エホバから身を隠すにはどんな覆いも薄すぎるでしょう。エホバが裁きを執行するために来られる時,「地の人のごう慢な目は必ず低くなり,人間の高ぶりは必ず身をかがめる。その日には,エホバただおひとりが必ず高く上げられる」のです。―イザヤ 2:11。

      7 「万軍のエホバの日」がやって来ます。その日は,神がご自分の怒りを,「高大で,高く上げられたレバノンのすべての杉と,バシャンのすべての巨木,すべての高大な山と高く上げられたすべての丘,すべての高い塔と防備の施されたすべての城壁,タルシシュのすべての船と望ましいすべての小舟とに」対して表明する時となります。(イザヤ 2:12-16)そうです,エホバの憤りの日には,うぬぼれの象徴として人間が作り上げたあらゆる組識とあらゆる不敬虔な人に注意が向けられます。そのようにして,「地の人のごう慢さは必ず身をかがめ,人間の高ぶりは必ず低くなる。その日には,エホバただおひとりが必ず高く上げられる」ことになります。―イザヤ 2:17。

      8 予告された裁きの日は,西暦前607年,エルサレムにどのように臨みますか。

      8 予告された裁きの日は,西暦前607年,バビロニアのネブカドネザル王がエルサレムを滅ぼした時にユダヤ人に臨みました。住民は,自分たちの愛する都市が炎に包まれ,その都市の堂々たる建物が破壊され,強大な城壁が打ち砕かれるのを見ます。エホバの神殿はがれきの山となります。住民の財宝も兵車も,「万軍のエホバの日」には何の役にも立ちません。では,彼らの偶像はどうですか。「無価値な神々は完全に過ぎ去る」というイザヤの予告どおりになります。(イザヤ 2:18)君たちや力ある者たちも含め,ユダヤ人はバビロンへ流刑に処されます。エルサレムは70年間,荒廃して横たわることになるのです。

      9 どんな点で,キリスト教世界の状況はイザヤの時代のエルサレムとユダの状況に似ていますか。

      9 キリスト教世界の状況は,イザヤの時代のエルサレムとユダの状況に何とよく似ているのでしょう。キリスト教世界は確かに,この世の諸国家と密接な関係を築いてきました。同世界は国際連合の熱烈な支持者であり,自分の家を偶像や非聖書的な習わしで満たしてきました。同世界の信奉者たちは物質主義的であり,軍事力を頼みとしています。また,僧職者を特別待遇に値する者とみなし,様々な称号や栄誉を付しているのではないでしょうか。キリスト教世界の自らを高める態度は必ず無に帰せしめられます。しかし,それはいつのことでしょうか。

      迫り来る「エホバの日」

      10 使徒のパウロとペテロはどんな「エホバの日」のことを述べていますか。

      10 聖書は,古代のエルサレムとユダに臨んだ裁きの日よりはるかに重大なものとなる「エホバの日」について述べています。霊感を受けた使徒パウロは,来たるべき「エホバの日」を,即位した王イエス・キリストの臨在と結び付けました。(テサロニケ第二 2:1,2)ペテロはその日のことを,『義が宿る新しい天と新しい地』の樹立と関連づけて述べました。(ペテロ第二 3:10-13)それは,キリスト教世界を含む邪悪な事物の体制全体にエホバが裁きを執行される日なのです。

      11 (イ)近づく「エホバの日」に『こらえ得る』のはだれですか。(ロ)どうすればエホバを自分の避け所とすることができますか。

      11 預言者ヨエルは,「ああ,その日よ! エホバの日は近く,全能者による奪略のようにしてそれは来るのである」と述べています。その「日」が迫っていることを考えると,だれでも,畏怖の念を抱かせるその時における身の安全を心配するのではないでしょうか。ヨエルは,「だれかその下でこらえ得ようか」と問いかけ,『エホバはその民のための避け所となる』と答えます。(ヨエル 1:15; 2:11; 3:16)エホバ神は,ごう慢な精神を抱いて,富や軍事力や人間のこしらえた神々に頼る人々のための避け所となられるでしょうか。そんなことはあり得ません。神は,ご自分の選んだ民でさえ,そのように振る舞った時には見捨てました。神の僕すべてにとって,「義を求め,柔和を求め」,自分の生活においてエホバの崇拝がどんな位置を占めているかを真剣に吟味することは何と肝要なのでしょう。―ゼパニヤ 2:2,3。

      「とがりねずみや,こうもりに向かって」

      12,13 エホバの日に偶像崇拝者たちが自分たちの神々を「とがりねずみや,こうもりに向かって」投げ出すのは妥当なことである,と言えるのはなぜですか。

      12 エホバの大いなる日に,偶像崇拝者たちは自分たちの偶像をどのようにみなすでしょうか。イザヤはこう答えます。「神が立ち上がって地が衝撃を受けるとき,人々はエホバの怖ろしさゆえに,またその光輝ある優越性から,岩の洞くつや塵の中に入る。その日,地の人は……銀の無価値な神々や金の無価値な神々を,とがりねずみや,こうもりに向かって投げ出すであろう。神が立ち上がって地が衝撃を受けるとき,エホバの怖ろしさゆえに,またその光輝ある優越性から,岩の穴や大岩の裂け目の中に入るためである。あなた方は自分のために,息がその鼻孔にある地の人から離れていよ。どんな根拠があってその人が考慮に入れられるというのか」。―イザヤ 2:19-22。

      13 とがりねずみは地面の穴に暮らし,こうもりは人気のない暗い洞くつをねぐらとします。その上,たくさんのこうもりが1か所にすみ着くと,胸の悪くなるようなにおいがすると共に,糞がうずたかくたまります。偶像をそうした場所に投げ込むのは妥当なことです。暗くて汚れた場所以外に偶像に似つかわしい場所はありません。民はと言えば,エホバの裁きの日に洞くつや岩の裂け目に避難しようとするでしょう。ですから,偶像とその崇拝者たちは同じ結末を迎えるのです。西暦前607年,イザヤの預言のとおり,命のない偶像はネブカドネザルの手から偶像崇拝者たちやエルサレムを救うものとはなりませんでした。

      14 偽りの宗教の世界帝国に臨む,迫り来るエホバの裁きの日に,この世的な考え方をする人たちはどんな行動を取りますか。

      14 キリスト教世界と偽りの宗教の世界帝国の他の部分に臨む,来たるべきエホバの裁きの日に,人々はどんな行動を取るでしょうか。全世界的に事態が悪化するのを目の当たりにして,恐らく大半の人は自分たちの偶像が無価値であることを悟るようになるでしょう。偶像の代わりに,霊的ではない,地的なさまざまな組織に保護を求めて避難しようとすることでしょう。啓示 17章の「緋色の野獣」である国際連合にも避難しようとするかもしれません。ほかならぬその象徴的な野獣の「十本の角」が,キリスト教世界を顕著な部分とする偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを滅ぼします。―啓示 17:3,8-12,16,17。

      15 エホバの裁きの日に,どのようにエホバただおひとりが「高く上げられ」ますか。

      15 大いなるバビロンを荒れ廃れさせて焼くことを直接行なうのはそれら象徴的な十本の角であるかもしれませんが,それは,実際にはエホバの裁きの執行なのです。大いなるバビロンに関して,啓示 18章8節はこう述べています。「そのために,彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼き尽くされるであろう。彼女を裁いたエホバ神は強い方だからである」。ですから,偽りの宗教による支配から人類を解放することの誉れは全能者エホバ神のものです。イザヤが,「その日には,エホバただおひとりが必ず高く上げられる。それは万軍のエホバの日だからである」と述べるとおりです。―イザヤ 2:11後半,12前半。

      『導く者たちはあなたをさまよわせている』

      16 (イ)人間社会の「支えと頼み」にはどんなものが含まれますか。(ロ)イザヤの民は,自分たちの社会の「支えと頼み」が取り除かれるため,どんな苦しみを経験しますか。

      16 人間社会が安定しているためには,「支えと頼み」― 食糧や水などの必要物,またさらに重要なものとして,人々を導き,社会秩序を維持することのできる,信頼の置ける指導者たち ― が不可欠です。しかし,古代イスラエルに関して,イザヤはこう予告します。「見よ,まことの主,万軍のエホバは,エルサレムとユダから支えと頼みを,すべてのパンの支えとすべての水の支えを,力ある者と戦士,裁き人と預言者,そして占いをする者と年配者,五十人の長,重んじられている者,助言者,専門の魔術師,熟練したまじない師を取り除こうとしておられる」。(イザヤ 3:1-3)ただの少年たちが君となり,気まぐれな支配を行なうでしょう。支配者たちが民を虐げるだけでなく,「民は,ひとりが他の者に対して……圧制を加える。彼らは,少年が老人に向かって,軽んじられている者が敬われるべき者に向かって襲いかかる」のです。(イザヤ 3:4,5)敬意の欠けた子供たちが長老たちに『襲いかかり』ます。生活があまりのどん底状態になるので,人は支配する資格のない人に向かって,「あなたはマントを持っている。あなたはわたしたちのために命令する者となるべきだ。そして,この覆された集団はあなたの手の下に置かれるべきだ」と言うでしょう。(イザヤ 3:6)しかし,そう勧められた人はそれを断わり,傷ついた地をいやす力も,その責任を果たすだけの裕福さも自分にはないとして,こう言うでしょう。「わたしは傷の手当てをする者にはならない。わたしの家にはパンもマントもない。あなた方はわたしを民に命令する者として立ててはならない」。―イザヤ 3:7。

      17 (イ)エルサレムとユダの罪はどんな意味で「ソドムのよう」でしたか。(ロ)イザヤは自分の民の状況に責任があるのはだれであると述べますか。

      17 イザヤは続けてこう言います。「エルサレムはつまずき,ユダも倒れた……。それは,彼らの舌と行動がエホバに逆らっているからである。その栄光の目から見て,反逆の振る舞いをしているのである。彼らの顔の表情そのものが実際に彼らに不利な証言をし,彼らはソドムのような自分の罪を言い表わす。彼らはそれを隠さなかった。彼らの魂は災いだ! 彼らは自分自身に災いをもたらしたからである」。(イザヤ 3:8,9)神の民は言行両面でまことの神に反逆してきました。恥も悔い改めもない顔の表情までが,ソドムの罪と同じほど嫌悪すべき彼らの罪をさらけ出しています。民はエホバ神と契約を結んでいますが,神は民のためにご自分の規準を変えたりはなさいません。「義なる者は良い結果を得る……。彼らは自分の行ないの実を食べることになるからである。邪悪な者は災いだ!―災難だ。自分の手のした仕打ちを自分の身に受けるからだ! わたしの民はというと,これに労働を割り当てる者たちは厳しい扱いをしており,ただの女たちがこれを実際に支配する。わたしの民よ,あなたを導いている者たちはあなたをさまよわせている。彼らはあなたの通って行く道を混乱させたのだ」。―イザヤ 3:10-12。

      18 (イ)エホバはイザヤの時代の長老や君たちに対してどんな裁きを宣告しますか。(ロ)長老や君たちに対するエホバの裁きから,どんな教訓を学べますか。

      18 ユダの長老や君たちに対し,エホバは次のように『宣告を下して』「裁きを行なわれ」ます。「あなた方自身がぶどう園を焼き払った。苦しむ者から奪い取ったものがあなた方の家にある。あなた方がわたしの民を打ち砕き,苦しむ者たちの顔をすり砕くとは一体どういうことなのか」。(イザヤ 3:13-15)指導者たちは民の福祉のために働くどころか,しばしば欺まん的な事柄を行なっています。自らを富ませ,貧しい者や困窮した者たちから奪い取ることによって,権威を濫用しているのです。しかし,そうした指導者たちは,苦しむ者たちを虐げたことに関して万軍のエホバに釈明しなければなりません。これは,今日,責任ある立場にいる人たちにとって何と重要な警告なのでしょう。そうした人たちは常に注意深く振る舞って,権威を濫用することがありませんように。

      19 キリスト教世界は,どんな虐げや迫害のゆえに有罪となっていますか。

      19 キリスト教世界,特にその僧職者と主だった人々は,一般大衆に属するはずの多くのものを詐欺的な手段で手に入れてきました。同世界はこれまで大衆を虐げてきましたし,今もそうしています。さらに,神の民を打ちたたき,迫害し,虐待し,エホバのみ名に多大の非難をもたらしてきました。エホバはご予定の時に必ず,同世界に対する裁きを行なわれます。

      「美しさの代わりに焼き印」

      20 エホバはなぜ「シオンの娘たち」を糾弾されますか。

      20 エホバは,指導者たちの悪事を糾弾した後,シオンつまりエルサレムの女たちに注意を向けられます。「シオンの娘たち」の間では,ちりんちりんと美しい音を立てる「くるぶし鎖」― 足首に結ぶ小さな鎖 ― を着けることが流行しているようです。女たちはわざと歩幅を小さくし,「軽やかな足取りで」歩いて,しとやかで女らしいとされる歩き方をしようとします。一体そのどこが悪いのでしょうか。それらの女たちの態度です。エホバは,「シオンの娘たちはごう慢になり,のどを伸ばし,色目を使って歩(く)」と言われます。(イザヤ 3:16)そうしたごう慢さは報いを受けずにはすみません。

      21 エルサレムに対するエホバの裁きはユダヤ人の女たちにどんな影響を与えますか。

      21 それで,エホバの裁きがその地に臨む時,これらごう慢な「シオンの娘たち」はすべてを,大いに誇りとしている美しさをさえ失ってしまうのです。エホバはこう預言されます。「エホバもシオンの娘たちの頭の頂を実際にかさぶたでおおい,エホバ自ら彼らの額をむき出しにされるであろう。その日,エホバは,くるぶし飾り,頭帯,月形の飾り,耳の垂れ飾り,腕輪,ベール,頭飾り,くるぶし鎖,胸帯,『魂の家』[多分,香物の入れ物],鳴り貝の飾り[または,お守り],指輪,鼻輪,礼服,上衣,外とう,財布,手鏡,下着,ターバン,大きなベールの美しさを奪い取られる」。(イザヤ 3:17-23。脚注をご覧ください。)何と悲劇的な逆転なのでしょう。

      22 エルサレムの女たちは,装飾品だけでなく何も失いますか。

      22 預言的な音信はさらにこう続きます。「バルサム油の代わりにただかび臭いにおいが生じることになり,帯の代わりに縄が,凝った髪形の代わりにはげが,華美な衣の代わりに粗布を身に巻くことが,美しさの代わりに焼き印が生じる」。(イザヤ 3:24)西暦前607年,エルサレムの誇り高い女たちは裕福さから貧困へと転落します。自由を失い,奴隷身分の「焼き印」を押されるのです。

      「彼女は必ず徹底的に荒らされる」

      23 エホバはエルサレムに関してどんな布告をされますか。

      23 次にエホバはエルサレムの都に向かって,こう布告されます。「あなたの男たちは剣によって,あなたの力強さは戦いによって倒れる。そして,彼女の入口は必ず嘆き悲しみ,悲しみを表わし,彼女は必ず徹底的に荒らされる。彼女はまさしく地に座すであろう」。(イザヤ 3:25,26)エルサレムの男たちは,力ある者たちさえ戦闘で殺されてしまいます。都は完全に覆されます。「彼女の入口」にとっては『嘆き悲しみ,悲しみを表わす』時となるでしょう。エルサレムは「徹底的に荒らされ」,荒廃したままにされるのです。

      24 剣によって男たちを失うことは,エルサレムの女たちにどんな厳しい結果をもたらしますか。

      24 剣によって男たちを失うことは,エルサレムの女たちに厳しい結果をもたらします。イザヤは自分の預言書のこの部分を締めくくるにあたり,こう予告します。「その日には七人の女が一人の男を捕まえて言う,『わたしたちは自分のパンを食べ,自分のマントを着ます。ただ,わたしたちのそしりを取り去るために,あなたの名で呼ばれるようにしてください』と」。(イザヤ 4:1)結婚できる男が極端に不足するため,数人の女が一人の男にしがみつきます。それは,その男の名で呼ばれる,つまり,その男の妻であると公に知られるようにするためであり,そのようにして,夫のいない女などと言って非難されないようにするためです。モーセの律法は,夫が妻に糧と衣服を与えることを要求していました。(出エジプト記 21:10)しかし,この女たちは『自分のパンを食べ,自分の衣服を着る』ことに同意し,進んで相手の男をこの法的な責務から解放しています。かつてはごう慢だった「シオンの娘たち」にとって,何と絶望的な状況なのでしょう。

      25 近い将来,自分を高める者たちはどうなりますか。

      25 エホバは,自分を高める者たちを辱めます。西暦前607年,エホバは確かに自分の選んだ民のごう慢さを「かがめ」させ,「高ぶり」を「低く」されます。真のクリスチャンは,「神はごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」ということを,決して忘れませんように。―ヤコブ 4:6。

      [50ページの図版]

      偶像も富も武勇も,エホバの裁きの日にエルサレムを救うものとはならない

      [55ページの図版]

      「エホバの日」に,偽りの宗教の世界帝国は荒れ廃れる

  • エホバ神は残りの者に憐れみをかける
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第6章

      エホバ神は残りの者に憐れみをかける

      イザヤ 4:2-6

      1,2 預言者イザヤはユダとエルサレムに関してどんなことを予告していますか。

      激しいあらしが人口密集地を襲います。強い風,滝のような雨,ひどい洪水が牙をむき,家々をなぎ倒し,作物を痛めつけ,命を奪ってゆきます。しかし,やがてあらしは過ぎ去り,その後の静寂がやって来ます。生き残った人々にとって,復興と再建の時が来たのです。

      2 それと似た事柄を,預言者イザヤはユダとエルサレムに関して予告しています。あらしのような神の裁きの前兆となる雲が不気味に接近していますが,それにはもっともな理由があるのです。その国民は重い罪を負っています。支配者も民も,地を不公正と流血で満たしてきました。エホバはイザヤを通してユダの罪をさらけ出し,非行を働くその国民に裁きを執行することについて警告されます。(イザヤ 3:25)このあらしが通り過ぎた後,ユダの地は完全に荒廃した状態で残されます。イザヤはその見込みを知って悲しむに違いありません。

      3 イザヤ 4章2節から6節にある霊感による音信には,どんな良いニュースが含まれていますか。

      3 しかし,良いニュースがあります。あらしのようなエホバの義の裁きは過ぎ去り,残りの者がそれを生き延びます。そうです,ユダに関するエホバの裁きには憐れみが加味されるのです。イザヤ 4章2節から6節に記録されている霊感によるイザヤの音信は,そうした祝福された将来を見通しています。それは,雲間から太陽が顔を出すかのようです。イザヤ 2章6節から4章1節で描写されている裁きの光景とざわめきから,見事に再生した土地と人々へと,舞台が転換するからです。

      4 残りの者の回復に関するイザヤの預言を調べてみるべきなのはなぜですか。

      4 残りの者の回復とその後の安全に関するイザヤの預言は,「末の日」であるわたしたちの時代にも成就します。(イザヤ 2:2-4)では,この時宜を得た音信を調べることにしましょう。その音信に預言的な意義があるからだけでなく,エホバの憐れみについて,またどうすればわたしたちが個人としてその憐れみを受けられるかについて学べるからです。

      『エホバの芽生え』

      5,6 (イ)イザヤは来たるべき大あらしの後に訪れる平和な時代をどのように描写していますか。(ロ)「新芽」という語にはどんな意味がありますか。それはユダの地に関してどんなことを示していますか。

      5 イザヤは,来たるべき大あらしの後に来る一層平和な時代を見通して口調を和らげ,こう書きます。「その日,エホバが芽生えさせるもの[「エホバの芽生え(新芽)」,脚注]は,飾りのため,栄光のためのものとなり,その地の実は,逃れたイスラエルの者たちにとって誇るべきもの,美しいものとなるであろう」。―イザヤ 4:2。

      6 イザヤはここで回復について語っています。「新芽」と訳されているヘブライ語の名詞は,『生え出るもの,若枝,枝』を指し,繁栄,増加,エホバからの祝福と結び付けられています。こうしてイザヤは希望を与える情景を描いています。近づく荒廃は永遠に続くわけではないのです。かつて繁栄していたユダの地は,エホバの祝福により,再び満ちあふれるほどの実りを産み出します。a ―レビ記 26:3-5。

      7 エホバの芽生えさせるものはどのように「飾りのため,栄光のためのもの」となりますか。

      7 イザヤは,生き生きとした言葉遣いで,将来に待ち受ける壮大な変化を描写しています。エホバの芽生えさせるものは,「飾りのため,栄光のためのもの」となります。「飾り」という言葉から思い浮かぶのは,これより何世紀も前にエホバがイスラエルに約束の地をお与えになった時の,その地の美しさです。あまりの美しさに,その地は「すべての地の飾り[「宝石」,新アメリカ聖書]」とみなされました。(エゼキエル 20:6)ですから,イザヤの言葉は,ユダの地がかつての栄光と美を取り戻すことを民に保証しているのです。実際のところ,その地は,地球を飾る宝石のようになります。

      8 ユダの地の回復された美しさを満喫するのはだれですか。その人々の気持ちを,イザヤはどのように表現していますか。

      8 しかし,ユダの地の回復された美しさをその場にいて満喫するのはだれでしょうか。「逃れたイスラエルの者たち」とイザヤは書いています。そうです,前もって予告されていた屈辱的な滅びを生き残る人々がいるのです。(イザヤ 3:25,26)生存者のうちの残りの者がユダに帰還し,ユダの復興に加わります。それら帰還者たち,つまり「逃れた者たち」にとって,復興した自分たちの地の満ちあふれるほどの産物は,「誇るべきもの,美しいもの」となるでしょう。(イザヤ 4:2; 脚注)荒廃という屈辱に代わって,新たな誇らしさがわき上がってくるのです。

      9 (イ)イザヤの言葉の成就として,西暦前537年にどんなことが生じましたか。(ロ)「逃れた者たち」の中には流刑中に生まれた人々も含まれていると言えるのはなぜですか。(脚注をご覧ください。)

      9 イザヤの言葉どおり,あらしのような裁きが西暦前607年に到来し,エルサレムはバビロニア人に滅ぼされ,大勢のイスラエル人が命を落としました。一部の人は生き残り,バビロンへの流刑に処されました。とはいえ,神の憐れみがなければ一人も生き残ることはなかったでしょう。(ネヘミヤ 9:31)やがて,ユダは完全に荒廃した状態で残されました。(歴代第二 36:17-21)その後,西暦前537年,憐れみの神は,「逃れた者たち」が真の崇拝を回復するためにユダに帰還することを許しました。b (エズラ 1:1-4; 2:1)それら帰還した流刑者たちの心からの悔い改めを,詩編 137編は見事に表現しています。その詩は,捕囚期間中かその直後に書かれたものと思われます。ユダに戻った人々は,その地で土地を耕し,種をまきました。自分たちの努力を神が祝福し,その地が,実り豊かな「エデンの園」のように新芽を生え出させるようにしてくださるのを見た時,人々がどう感じたに違いないか,考えてみてください。―エゼキエル 36:34-36。

      10,11 (イ)20世紀の初めに,聖書研究者はどのように「大いなるバビロン」に捕らわれていましたか。(ロ)エホバは霊的イスラエル人の残りの者をどのように祝福されましたか。

      10 同様な回復がわたしたちの時代にも生じました。20世紀の初めに,聖書研究者(エホバの証人の当時の呼び名)は,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」に霊的に捕らわれるようになりました。(啓示 17:5)聖書研究者は,多くの点で偽りの宗教の教えを退けてはいましたが,依然として幾つかの点でバビロン的な考えや慣行に染まっていました。僧職者の引き起こした反対のために文字どおり投獄された人たちもいました。聖書研究者の霊的な地 ― 宗教的または霊的な地所 ― は荒廃していました。

      11 しかし1919年の春に,エホバはそれら霊的イスラエル人の残りの者に憐れみをかけました。(ガラテア 6:16)残りの者が悔い改め,真に神を崇拝したいと願っているのを見たエホバは,彼らを文字どおりの投獄状態から,そしてさらに重要な点として,霊的な捕らわれから解放しました。それら「逃れた者たち」は,神から与えられた霊的な地所に復帰し,神はそこにあふれるほど豊かな芽生えを生じさせました。その霊的な地所は,人を引き付ける魅力的な様相を呈するようになり,神に恐れを抱く他の何百万もの人々が引き寄せられ,残りの者と共に真の崇拝を行なうようになってきました。

      12 イザヤの言葉は,エホバがご自分の民に対して抱く憐れみをどのように際立たせていますか。

      12 この箇所のイザヤの言葉は,神がご自分の民に対して抱く憐れみを際立たせています。イスラエル人が国民として背いたにもかかわらず,エホバは,悔い改めた残りの者に憐れみをかけました。重大な過ちを犯した人でさえ希望を抱いてエホバのもとに戻れる,ということを知ると,慰められます。悔い改めた人は,自分はエホバの憐れみに値しないと感じなくてもよいのです。深く悔いた心を退けたりはされないからです。(詩編 51:17)聖書はこう保証しています。「エホバは憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切に満ちておられる。父が自分の子らを憐れむように,エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった」。(詩編 103:8,13)確かに,そのような憐れみ深い神こそ,まさに賛美すべき方です。

      残りの者はエホバにとって聖なるものとなる

      13 イザヤ 4章3節に記されているとおり,イザヤは,エホバに憐れみを示していただく残りの者をどのように描写していますか。

      13 わたしたちは,エホバに憐れみを示していただく残りの者について,すでにある程度のことを理解しましたが,ここでイザヤはその人々のことを一層詳しく描写して,こう書きます。「そして,シオンに残っている者とエルサレムに残された者たち,すなわちエルサレムにおける命のために書き留められるすべての者は,神にとって聖なるものと言われることになる」。―イザヤ 4:3。

      14 「残っている者」と「残された者たち」とはだれですか。エホバが彼らに憐れみをかけるのはなぜですか。

      14 「残っている者」と「残された者たち」とはだれですか。それは,前節が述べている逃れた者たち,つまりユダへの帰還を許されるユダヤ人の流刑者たちです。ここでイザヤは,エホバが彼らに憐れみをかける理由を説明しています。彼らは「神にとって聖なるもの」なのです。「聖なる」ことは「宗教上の清さ,ないしは清浄; 神聖さ」を意味します。聖であることには,言葉と行ないにおいて清い,あるいは清浄であり,義にかなった正しい事柄に関するエホバの規準にかなっていることが含まれます。そうです,エホバは「神にとって聖なるもの」である人々に憐れみをかけ,「聖なる都」エルサレムに戻ることを許されるのです。―ネヘミヤ 11:1。

      15 (イ)「エルサレムにおける命のために書き留められる」という表現から思い浮かぶのは,ユダヤ人のどんな習慣ですか。(ロ)イザヤの言葉には,身の引き締まるどんな警告が含まれていますか。

      15 それら忠実な残りの者はエルサレムにとどまるのでしょうか。彼らは「エルサレムにおける命のために書き留められる」であろう,とイザヤは約束しています。このことから思い浮かぶのは,イスラエルの家族と部族のきちょうめんな記録を保つユダヤ人の習慣です。(ネヘミヤ 7:5)記録に載せられていることは生きていることを意味しました。死亡すると名前が削除されたからです。聖書の他の箇所には,エホバが報いとして命をお与えになる人々の名を記した比喩的な記録もしくは書に関する記述があります。とはいえ,名前はその書に条件付きで書き込まれます。エホバが名前を「ぬぐい去る」場合もあるからです。(出エジプト記 32:32,33。詩編 69:28)ですからイザヤの言葉には,帰還者たちはエホバから見て聖なるものであり続ける場合にのみ,復興された地にずっと住むことができるという,身の引き締まるような警告が含まれているのです。

      16 (イ)エホバは,西暦前537年にユダに戻ることを許した人々に,どんなことを要求なさいましたか。(ロ)油そそがれた残りの者と「ほかの羊」に対するエホバの憐れみは無駄になっていない,と言えるのはなぜですか。

      16 西暦前537年に,残りの者は真の崇拝を回復するという清い動機を抱いてエルサレムに帰還しました。イザヤは異教の慣行や汚れた行ないを是非とも避けるよう警告していましたが,そうしたものに汚された人には帰還する権利がありませんでした。(イザヤ 1:15-17)エホバから聖なるものとみなされた人だけがユダに戻ることができました。(イザヤ 35:8)それと同様に,油そそがれた残りの者は,1919年に霊的な捕らわれから解放された時以来,神から見て聖なるものであるよう力の限りを尽くしてきました。今では,地上での永遠の命の希望を抱く何百万もの「ほかの羊」もそれに加わっています。(ヨハネ 10:16)残りの者は数々のバビロン的な教えや慣行とのつながりを断ち切ってきました。一人一人が神の高い道徳規準を守ろうと努めています。(ペテロ第一 1:14-16)この人々に対するエホバの憐れみは無駄になってはいません。

      17 エホバはだれの名を「命の書」に書かれますか。わたしたちはどんな決意を抱くべきですか。

      17 エホバがイスラエルのうちの聖なる者たちに目を留め,『彼らの名を命のために書き留められた』ことを思い出してください。今日でもエホバは,わたしたちが『自分たちの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲として差し出し』,思いも体も清くあろうと努力していることに目を留めてくださいます。(ローマ 12:1)そして神は,そうした生き方をする人々すべてを,ご自分の「命の書」― 天においてであれ地においてであれ,永遠の命を受ける見込みを持つ人々の名を収めた比喩的な記録 ― に記録しておられます。(フィリピ 4:3。マラキ 3:16)ですから,神の目に聖なるものであり続けるよう最善を尽くしましょう。そうするとき,その貴重な「書」に自分の名をとどめることができるからです。―啓示 3:5。

      愛ある世話に関する約束

      18,19 イザヤ 4章4,5節によると,エホバはどんな清めをもたらされることになっていますか。それはどのように成し遂げられますか。

      18 次にイザヤは,復興した地の住民がどのようにして聖なるものとなるか,また彼らにはどんな祝福が待ち受けているかを示し,こう言います。「エホバが裁きの霊と焼き払う霊とによって,シオンの娘たちの糞便を洗い流し,エルサレムの流血をもその中からすすぎ落とされるとき,エホバはまた,シオンの山のすべての定まった場所とその大会の場所の上に,昼は雲,そして煙,さらに夜は燃え立つ火の輝きを必ず創造される。すべての栄光の上に覆いがあるからである」。―イザヤ 4:4,5。

      19 これより前にイザヤは,派手な装飾品の下に道徳的な腐敗を隠した「シオンの娘たち」を叱責しました。また,人々全般の流血の罪を暴き,身を洗うよう勧めました。(イザヤ 1:15,16; 3:16-23)しかし,ここでイザヤは,将来,神ご自身が人々の「糞便」つまり道徳的な汚物を「洗い流し」,『血痕を洗い清める』時のことを見通しています。(イザヤ 4:4,新国際訳)その清めはどのようにもたらされるのでしょうか。「裁きの霊」と「焼き払う霊」とによってもたらされます。来たるべきエルサレムの滅びとバビロンでの流刑は,汚れた国民に対する,神の裁きと燃える怒りとの突風のような表明となるのです。そうした災いを生き残って故国に帰る残りの者は,謙遜な者,精錬された者となっていることでしょう。だからこそ,彼らはエホバにとって聖なるものとなり,憐れみを受けるのです。―マラキ 3:2,3と比較してください。

      20 (イ)「雲」,「煙」,「燃え立つ火」という表現は,何を思い出させますか。(ロ)浄化された流刑者たちにとって,恐れる必要がないのはなぜですか。

      20 エホバはイザヤを通して,それら清められた残りの者に愛ある世話を施すと約束しておられます。「雲」,「煙」,「燃え立つ火」という表現は,エジプトを出たイスラエル人をエホバが世話された時のことを思い出させます。「火と雲の柱」が,追跡して来るエジプト人からイスラエル人を守り,またそれが荒野では彼らを導きました。(出エジプト記 13:21,22; 14:19,20,24)エホバがシナイ山でご自身を現わされた時,その山は『全山が煙り』ました。(出エジプト記 19:18)ですから,清められた流刑者たちには恐れる必要がありません。エホバが保護者となってくださいます。自宅で集まろうと,聖なる大会に集い合おうと,エホバが共にいてくださるのです。

      21,22 (イ)何のために,よく仮小屋や掘っ建て小屋が建てられましたか。(ロ)清められた残りの者の前途にはどんな見込みがありますか。

      21 神の保護に関する描写を締めくくるにあたり,イザヤは日常生活に焦点を合わせて,こう書きます。「昼は乾燥した熱気を避ける陰のための,また,雨あらしと降雨を避ける避難所や隠れ場のための仮小屋があるであろう」。(イザヤ 4:6)ぶどう園や畑には,よく仮小屋や掘っ建て小屋が建てられ,乾期の焼けつくような日ざしや雨期の寒さやあらしをしのぐための,なくてはならない覆いとして用いられていました。―ヨナ 4:5と比較してください。

      22 迫害の炎熱や反対のあらしに直面する時,清められた残りの者には,保護と防護手段と避難所を備える方エホバがいてくださいます。(詩編 91:1,2; 121:5)それで,残りの者の前途には素晴らしい見込みがあります。バビロンの汚れた信条や慣行を捨て去り,エホバの裁きという清めに服し,聖なるものであり続けるよう努めるなら,あたかも神の保護という「仮小屋」の中にいるかのように安全に過ごせるのです。

      23 エホバが,油そそがれた残りの者とその仲間たちを祝福してこられたのはなぜですか。

      23 まず清められ,それから祝福されるという点に注目してください。今日でも,そのとおりになってきました。1919年,油そそがれた残りの者は謙遜な態度で精錬に服し,エホバは彼らの汚れを『洗い流され』ました。その後,ほかの羊の「大群衆」もエホバによる清めを受け入れてきました。(啓示 7:9)こうして清められた残りの者とその仲間たちは,エホバから保護となる世話を施していただくという祝福を受けてきました。エホバは奇跡を起こして迫害の熱や反対のあらしが彼らに臨まないようにされるわけではありません。それでも,あたかも『陰のための,また,雨あらしを避ける隠れ場のための仮小屋』を建てて覆うかのように,必ず彼らを保護されます。どのようにでしょうか。

      24 エホバがご自分の民を一つの組織として祝福してこられたことは,どんなことから明らかですか。

      24 考えてみてください。史上最強の政府の幾つかが,エホバの証人の宣べ伝える業を禁じたり,証人たちを根絶しようと試みたりしてきました。それにもかかわらず,証人たちは確固とした態度を保ち,たゆむことなく宣べ伝えつづけてきたのです。強大な諸国家が,この比較的小さくて無防備に見えるグループの活動を止められずにいるのはなぜでしょうか。それは,エホバがご自分の清い僕たちを,いかなる人間も破壊することのできない保護の「仮小屋」に入れておられるからにほかなりません。

      25 エホバが保護者でいてくださることは,わたしたち個人個人にとって何を意味しますか。

      25 わたしたち個人個人については何と言えるでしょうか。エホバがわたしたちの保護者であるからといって,この事物の体制で何も問題のない生活を送れるというわけではありません。忠実なクリスチャンであっても,貧困,自然災害,戦争,病気,死といった非常につらい経験をする人は少なくありません。そうした苦難に遭うとき,わたしたちの神が共にいてくださることを決して忘れないようにしましょう。神はわたしたちを霊的に保護し,忠実のうちに試練に耐えるために必要なものを,まさに『普通を超えた力』を与えてくださいます。(コリント第二 4:7)神がそばにいてくださるので安全であり,恐れる必要はありません。結局のところ,わたしたちが神から見て聖なるものであり続けるよう努力する限り,何ものも「神の愛からわたしたちを引き離しえない」のです。―ローマ 8:38,39。

      [脚注]

      a 『エホバの新芽』という句は,エルサレムの復興を待って登場するメシアを暗に指しているのではないか,と言う学者たちもいます。アラム語タルグムはこの表現を「エホバのメシア[キリスト]」と言い換えています。興味深いことに,後代のエレミヤは,ダビデのために起こされる「義なる新芽」としてのメシアについて述べる際,同じヘブライ語の名詞(ツェマハ)を用いています。―エレミヤ 23:5; 33:15。

      b 「逃れた者たち」の中には流刑中に生まれた人々も含まれていました。そうした人々も「逃れた」と言えるのは,もし先祖が滅びを生き残らなかったなら,決して生まれて来なかったからです。―エズラ 9:13-15。ヘブライ 7:9,10と比較してください。

      [63ページの図版]

      あらしのような神の裁きがユダに臨もうとしている

  • 不忠実なぶどう園は災いだ!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第7章

      不忠実なぶどう園は災いだ!

      イザヤ 5:1-30

      1,2 「愛する者」は何を設けますか。それが期待外れであることはどのように明らかになりますか。

      「見事なまでに美しい言葉遣いと,完璧なまでに巧みなコミュニケーション手腕の点で,このたとえ話に匹敵するものはないと言える」。ある聖書注解者は,イザヤ 5章の冒頭部分に関して,そう述べました。イザヤの言葉は単なる芸術作品ではなく,ご自分の民に対するエホバの愛ある世話を感動的に描いたものです。同時にその言葉は,神の不興を買う事柄に注意するようにとの警告ともなっています。

      2 イザヤのたとえ話はこう始まります。「わたしの愛する者のために,どうか,そのぶどう園に関するわたしの愛する者の歌を歌わせて欲しい。わたしの愛する者が肥よくな丘の斜面に持つようになったぶどう園があった。そして,彼はそれを掘り起こし,石を除き,えり抜きの赤ぶどうの木を植え,その中央に塔を建てた。また,そこには彼の切り掘ったぶどう搾り場があった。こうして,彼はそれがぶどうを産み出すのを待ち望んだが,それはやがて野ぶどうを産み出すようになった」。―イザヤ 5:1,2。マルコ 12:1と比較してください。

      ぶどう園の世話

      3,4 ぶどう園に対してどんな愛ある世話がなされますか。

      3 イザヤが,聴いている人たちに向かって実際に歌っているかどうかはともかく,このたとえ話は聴き手の注意を引くに違いありません。恐らく大半の人がぶどう園の造園作業に通じており,イザヤの描写は生き生きとした写実的なものです。今日のぶどう栽培者と同様,このぶどう園の所有者も,ぶどうの種をまくのではなく,「えり抜きの」,つまり品質の高い「赤ぶどうの木」― ほかのぶどうの木から取った切り枝あるいは若枝 ― を植えます。このぶどう園を「肥よくな丘の斜面」に設けるのはふさわしいことです。ぶどうはそうした場所でよく育つからです。

      4 ぶどう園を産出的にするのは楽な仕事ではありません。イザヤは,ぶどう園の所有者が『土地を掘り起こし,石を除く』様子を描いています。くたくたになる,うんざりするような仕事です。大きめの石は『塔を建てる』ために使うこともあるでしょう。古代,そうした塔は,泥棒や動物から作物を守る見張りの詰め所として用いられました。a さらに,石垣を築いて,段々畑になったぶどう園を縁取ります。(イザヤ 5:5)一般的に,石垣は,大切な表土の流失を防ぐために築かれました。

      5 所有者がぶどう園に何を期待するのはもっともなことですか。しかし,何を得ますか。

      5 それほど骨折ってぶどう園を守ってきた所有者が,ぶどう園の実りを期待するのはしごく当然です。それを楽しみにして,ぶどう搾り場を切り掘ります。しかし,待ち望んでいる収穫は実現するのでしょうか。いいえ,そのぶどう園は野ぶどうを産み出します。

      ぶどう園とその所有者

      6,7 (イ)ぶどう園の所有者はだれですか。ぶどう園とは何ですか。(ロ)所有者はどんな裁きを求めますか。

      6 その所有者とはだれですか。また,ぶどう園とは何ですか。ぶどう園の所有者は,そうした質問に答え,自ら次のように語ります。「今,エルサレムの住民とユダの人たちよ,どうか,わたしとわたしのぶどう園との間を裁いて欲しい。わたしがわたしのぶどう園の中でまだ行なっていないこと,何かそのためになすべきことがほかにあるか。わたしはそれがぶどうを産み出すのを待ち望んだのに,やがてそれが野ぶどうを産み出すようになったのはどうしてか。それで今,よければ,わたしがわたしのぶどう園に行なおうとしていることをあなた方に知らせようと思う。すなわち,その垣は取り除かれることになり,それは必ず焼き払われる。その石垣は必ず崩され,それは必ず踏みにじられる場所となる」。―イザヤ 5:3-5。

      7 そうです,エホバがそのぶどう園の所有者なのです。エホバは,あたかも自ら法廷に立つかのように,ご自分と期待外れのぶどう園との間に裁きが下されることを求めておられます。では,ぶどう園とは何でしょうか。所有者が,「万軍のエホバのぶどう園はイスラエルの家であり,ユダの人々は神が親愛の情を抱いた栽培地……である」と説明しておられます。―イザヤ 5:7前半。

      8 イザヤがエホバを「わたしの愛する者」と呼んでいることから,どんなことが分かりますか。

      8 イザヤは,ぶどう園の所有者であるエホバを「わたしの愛する者」と呼んでいます。(イザヤ 5:1)イザヤがそのように親しみを込めて神のことを語れるのは,神と親密な関係にあるからにほかなりません。(ヨブ 29:4; 詩編 25:14と比較してください。)しかし,神に対するイザヤの愛も,神が「ぶどう園」― ご自分が『植えた』国民 ― に対して示してこられた愛には比ぶべくもありません。―出エジプト記 15:17; 詩編 80:8,9と比較してください。

      9 エホバはどのようにご自分の国民を貴重なぶどう園として扱ってこられましたか。

      9 エホバはご自分の国民をカナンの地に“植え”,他の国民による堕落から保護するための壁あるいは石垣としての役割を果たす律法や規定を与えました。(出エジプト記 19:5,6。詩編 147:19,20。エフェソス 2:14)その上,彼らを教えるため,裁き人や祭司や預言者たちも与えました。(列王第二 17:13。マラキ 2:7。使徒 13:20)イスラエルが軍事的侵略の脅威にさらされた時には,エホバは救出者たちを起こされました。(ヘブライ 11:32,33)エホバが,「わたしがわたしのぶどう園の中でまだ行なっていないこと,何かそのためになすべきことがほかにあるか」と問うのも,もっともです。

      今日の神のぶどう園を見分ける

      10 イエスはぶどう園に関するどんなたとえ話を語られましたか。

      10 イエスは,次のように述べて,殺人を犯す耕作人のたとえ話をした際,イザヤの言葉を念頭に置いておられたのかもしれません。「ある人,つまり家あるじがいました。その人はぶどう園を設け,その周りに柵を巡らし,その中にぶどうの搾り場を掘り,塔を立て,それを耕作人たちに貸し出して,外国へ旅行に出ました」。残念なことに,耕作人たちはぶどう園の持ち主を裏切り,その息子を殺すことまでしました。次いでイエスは,このたとえ話に関係するのが文字どおりのイスラエルだけではないことを示して,「神の王国はあなた方[肉のイスラエル]から取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」と言われました。―マタイ 21:33-41,43。

      11 1世紀に,どんな霊的なぶどう園が存在しましたか。しかし,使徒たちの死後,どんなことが生じましたか。

      11 その新しい「国民」とは,「神のイスラエル」であることが明らかになりました。それは,合計14万4,000人の油そそがれたクリスチャンで構成される霊的な国民です。(ガラテア 6:16。ペテロ第一 2:9,10。啓示 7:3,4)イエスはそれら弟子たちを,「真のぶどうの木」であるご自身の「枝」になぞらえました。当然ながら,それらの枝は実を結ぶことを期待されます。(ヨハネ 15:1-5)キリストのような特質を表わし,「王国のこの良いたより」を宣べ伝える業に参加しなければならないのです。(マタイ 24:14。ガラテア 5:22,23)しかし,十二使徒の死後,「真のぶどうの木」の枝であると唱える人々の圧倒的多数は,良い実の代わりに野ぶどうを産み出す,まがいものであることが判明してきました。―マタイ 13:24-30,38,39。

      12 イザヤの言葉はどのようにキリスト教世界を断罪していますか。そこには,真のクリスチャンに対するどんな教訓が含まれていますか。

      12 したがって,ユダに対するイザヤの断罪は,今日,キリスト教世界に当てはまります。戦争,十字軍,異端審問など,同世界の歴史を調べると,その実がいかに酸いものとなってきたかがよく分かります。とはいえ,真のぶどう園である油そそがれたクリスチャンと,その仲間である「大群衆」は,イザヤの言葉に留意しなければなりません。(啓示 7:9)ぶどう園の所有者を喜ばせたいのであれば,個人として,またグループとして,所有者の喜びとなる実を産み出さなければならないのです。

      「野ぶどう」

      13 エホバは,悪い実を産み出したぶどう園に対して何を行なわれますか。

      13 エホバは並々ならぬ努力を払ってご自分のぶどう園を育て,耕してきたので,当然,それが「泡だつぶどう酒のぶどう園」となるのを期待されます。(イザヤ 27:2)しかし,ぶどう園は,有用な実の代わりに「野ぶどう」を,字義どおりには「悪臭を放つもの」または「腐敗した(腐った)液果」を産み出します。(イザヤ 5:2; 脚注。エレミヤ 2:21)そのためエホバは,この国民の周りから保護のための「垣」を取り除くと宣言されます。この国民は『滅ぼされたものとされ』,見捨てられ,干ばつを経験します。(イザヤ 5:6をお読みください。)モーセは,神の律法に従わないならそうした経験をするであろうと警告していました。―申命記 11:17; 28:63,64; 29:22,23。

      14 エホバはご自分の国民にどんな実りを期待されますか。しかし,実際にはどんな実が産み出されますか。

      14 神は,この国民が良い実を産み出すことを期待されます。イザヤと同時代のミカは,「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」と言明しました。(ミカ 6:8。ゼカリヤ 7:9)それでも,この国民はエホバの勧告に留意しません。「神は裁きを待ち望んだが,見よ,律法を破ることがあり,義を待ち望んだが,見よ,叫び声があった」。(イザヤ 5:7後半)モーセは,この不忠実な国民が「ソドムのぶどうの木」から毒ぶどうを産み出すであろうと予告しました。(申命記 32:32)さらに,同性愛を含む性の不道徳という点でも,神の律法から逸脱しているようです。(レビ記 18:22)「律法を破ること」という表現は,「血を注ぎ出すこと」とも訳せます。そうした残虐な仕打ちの結果,虐げられた人々は「叫び声」を上げてきたに違いありません。その叫び声は,ぶどう園を設けた方の耳に届いています。―ヨブ 34:28と比較してください。

      15,16 真のクリスチャンは,どうすればイスラエルと同じ悪い実を産み出すことを避けられますか。

      15 エホバ神は「義と公正を愛される方」です。(詩編 33:5)そしてユダヤ人に,「あなた方は裁きのさいに不正を行なってはならない。あなたは立場の低い者に不公平な扱いをしてはならない。大いなる者を優遇してもならない。公正をもってあなたの仲間を裁くべきである」と命令されました。(レビ記 19:15)ですから,わたしたちは互いに不公平な扱いをしてはならず,決して人種,年齢,貧富などによって人々の裁きを曇らされてはなりません。(ヤコブ 2:1-4)とりわけ,様々な監督の立場で仕えている人が「何事も偏った見方で行なうことのないようにし」,判断を下す前にいつでも当事者双方の言い分を聞こうとすることは大切です。―テモテ第一 5:21。箴言 18:13。

      16 さらに,不法な世で生活しているため,クリスチャンでも,神の規準に対する否定的あるいは反逆的な態度を育てやすいかもしれません。しかし真のクリスチャンは,神の律法に『進んで従う』者でなければなりません。(ヤコブ 3:17)「現在の邪悪な事物の体制」に見られる性の不道徳や暴力にもかかわらず,「自分の歩き方をしっかり見守って,それが賢くない者ではなく賢い者の歩き方であるように」する必要があります。(ガラテア 1:4。エフェソス 5:15)性に関して何でも許容する見方は退けたいと願いますが,他の人と見解が一致しない場合には,「怒り,憤り,わめき,ののしりのことば」を避けつつ問題を解決すべきです。(エフェソス 4:31)真のクリスチャンは,義を培うことによって神に誉れを帰し,神の恵みを得るのです。

      貪欲の代償

      17 イザヤの述べる最初の災いで,どんな邪悪な行ないが断罪されますか。

      17 8節で,イザヤはエホバの言葉の引用をやめています。そして,ユダで産み出される「野ぶどう」のある部分を断罪しながら,六つの災いの最初のものを自らこう宣告します。「家に家を連ねる者たち,また畑に畑を合わせる者たちは災いだ! ついには余地がなくなり,あなた方は土地の真ん中にただ自分たちだけで住むことになった。わたしの耳に万軍のエホバは誓われた。たとえそれが大きくて良いものであっても,多くの家は住む人のいない,ただの驚きの的となるであろう,と。十エーカーのぶどう園もわずか一バト,一ホメルの種もわずか一エファしか産み出さないからである」。―イザヤ 5:8-10。

      18,19 イザヤと同時代の人々は財産に関するエホバの律法をどのように無視していますか。彼らはどんな結末を迎えますか。

      18 古代イスラエルでは,結局のところ,土地はすべてエホバのものでした。それぞれの家族には神から与えられた相続地があり,賃貸借はできても,「恒久的に」売り渡すことはできませんでした。(レビ記 25:23)その律法は,不動産の独占などの不正使用を防止すると共に,極度の貧困に陥ることのないよう個々の家族を保護しました。ところが,ユダの一部の人々は,貪欲にも財産に関する神の律法を破っていました。ミカは,「彼らは畑を欲してそれを奪った。また家を欲してそれを取った。強健な男子とその家の者たちから,人とその相続物からだまし取った」と書いています。(ミカ 2:2)しかし,箴言 20章21節は,「相続物は初めは貪欲によって得られるが,その将来は祝福されない」と警告しています。

      19 エホバは,そうした貪欲な者たちが不正な手段で手に入れたものをはぎ取ると約束しておられます。彼らがゆすり取った家々には『住む人がいなく』なるのです。貪り取った土地は,本来可能な量のほんの一部しか産出しません。こののろいの言葉が正確にいつ,どのように成就するかは述べられていませんが,少なくとも部分的には,将来のバビロン流刑によって生じる状況に言及していると思われます。―イザヤ 27:10。

      20 今日のクリスチャンは,どうすればイスラエルの一部の人々が示した貪欲な態度に倣うことを避けられますか。

      20 今日のクリスチャンは,当時の一部のイスラエル人が示したような,飽くことを知らない貪欲を嫌悪しなければなりません。(箴言 27:20)物質的なものを重視しすぎると,無節操な手段を弄してまで金銭を得ようとしかねません。たわいもなく,うさんくさい商取引に巻き込まれたり,一獲千金を狙う非現実的な話に乗せられたりするかもしれません。「富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない」のです。(箴言 28:20)ですから,持っているもので満足することは何と重要なのでしょう。―テモテ第一 6:8。

      疑わしい娯楽のわな

      21 イザヤの述べる2番目の災いで,どんな事が断罪されますか。

      21 次いでイザヤは2番目の災いをこう述べます。「酔わせる酒を求めるためだけに朝早く起きる者,遅くまで夕闇の中でだらだらと時を過ごし,ぶどう酒に身を燃やす者たちは災いだ! 彼らの宴には必ずたて琴と弦楽器,タンバリンとフルート,そしてぶどう酒がある。しかし,彼らはエホバの働きを見ず,そのみ手の業を見なかった」。―イザヤ 5:11,12。

      22 イスラエルではどんな自己抑制の欠如が明らかですか。その国民はどんな結末を迎えますか。

      22 エホバは「幸福な神」であり,ご自分の僕たちが適度のレクリエーションを楽しむのをとがめたりはされません。(テモテ第一 1:11)しかし,これら快楽追求者たちはあらゆる節度をかなぐり捨てています。『酔う者は夜酔うのが普通です』と聖書は述べています。(テサロニケ第一 5:7)ところが,この預言に出てくる浮かれ騒ぐ者たちは,夜明けに酒盛りを始め,夕方までずっと飲みつづけているのです。彼らはあたかも神が存在しないかのように,神から行動の言い開きを求められることなどないかのように振る舞います。イザヤは,そうした者たちの暗い将来を予言します。「わたしの民は知識の欠如のために必ず流刑の身となるであろう。その栄光は飢餓にひんしている者たちであり,その群衆は渇き切った者となる」。(イザヤ 5:13)神の契約の民は真の知識に従って行動することを拒んだため,身分の高い者も低い者もシェオルに下って行きます。―イザヤ 5:14-17をお読みください。

      23,24 クリスチャンはどんな自己抑制と節度を示さなければなりませんか。

      23 「浮かれ騒ぎ」,あるいは「奔放なパーティー」は,1世紀の一部のクリスチャンの間でも問題となっていました。(ガラテア 5:21; バイイングトン訳。ペテロ第二 2:13)ですから,今日の献身したクリスチャンの中に,社交的な集まりの点で判断力の欠如を示す人がいても意外なことではありません。ある人たちは量をわきまえずにアルコール飲料を飲み,大声を出したり騒いだりしました。(箴言 20:1)アルコールを飲みすぎて酔ってしまい,不道徳な振る舞いをした人たちもいます。集まりを切り上げず,ほぼ徹夜になり,翌日のクリスチャンの活動に支障をきたしたこともあります。

      24 しかし,平衡の取れたクリスチャンは敬虔な実を産み出し,レクリエーションの選択にあたって自己抑制と節度を働かせます。そして,ローマ 13章13節にある,「浮かれ騒ぎや酔酒……のうちを歩むのではなく,昼間のように正しく歩みましょう」というパウロの助言に留意します。

      罪を憎み,真実を愛する

      25,26 イザヤは3番目と4番目の災いの中で,イスラエル人のどんな邪悪な考え方を暴きますか。

      25 では,イザヤが述べる3番目と4番目の災いを聞きましょう。「不真実の縄でとがを引き,車の綱でするように罪を引く者たちは災いだ!『その業を急がせよ。それをぜひ速やかに来させよ。我々がそれを見るためだ。イスラエルの聖なる方の計り事を近づかせ,それを来させよ。我々がそれを知るためだ』と言っている者たちは。善は悪である,悪は善である,と言っている者たち,闇を光,光を闇としている者たち,苦いを甘いとし,甘いを苦いとしている者たちは災いだ!」―イザヤ 5:18-20。

      26 この聖句は,罪を習わしにする者たちを何と鮮烈に描写しているのでしょう。彼らは,荷役動物が荷車に結びつけられているのと同じように,罪につながれています。それら罪人たちは,裁きの日が来ることを少しも恐れません。あざけって,『神の業を速やかに来させよ』と言います。神の律法に服するどころか,物事をゆがめて,「善は悪である,悪は善である」と宣言しています。―エレミヤ 6:15; ペテロ第二 3:3-7と比較してください。

      27 今日のクリスチャンはどうすればイスラエル人のような態度を避けられますか。

      27 今日のクリスチャンは,そうした態度を是非とも避けなければなりません。一例として,クリスチャンは,淫行や同性愛を大目に見る世の見方を断固として受け入れません。(エフェソス 4:18,19)もちろん,クリスチャンである人が,重大な罪を犯すことにつながりかねない「誤った歩みをする」こともあります。(ガラテア 6:1)会衆の長老たちは,倒れて助けを必要としている人たちをいつでも喜んで援助します。(ヤコブ 5:14,15)祈りと聖書に基づく助言との助けにより,霊的に回復することが可能です。回復しなければ,「罪の奴隷」になる危険があります。(ヨハネ 8:34)クリスチャンは,神を侮って,来たるべき裁きの日を意識しなくなるのではなく,むしろエホバのみ前で「汚点もきずもない」状態を保つよう努力します。―ペテロ第二 3:14。ガラテア 6:7,8。

      28 イザヤの述べる残りの災いで,どんな事が断罪されますか。今日のクリスチャンはどうすればそうした罪を避けられますか。

      28 適切にも,イザヤは次のような残りの災いを付け加えます。「自分の目に賢く映り,自分の顔の前に思慮深く映る者たちは災いだ! ぶどう酒を飲むことに力強い者たち,酔わせる酒を混ぜ合わせることに活力ある者たち,わいろに対する報酬として邪悪な者を義にかなっていると宣告する者たち,義なる人からその義さえも取り去る者たちは災いだ!」(イザヤ 5:21-23)この言葉は,その地で裁き人として仕えている人々に向かって語られたようです。今日の会衆の長老たちは,『自分の目に賢く映る』かのようなことを避けます。仲間の長老からの助言を謙遜に受け入れ,組織上の指示をきちんと守ります。(箴言 1:5。コリント第一 14:33)アルコール飲料の用い方に節度を守り,酒に酔った状態で会衆の責任を果たすようなことは決してありません。(ホセア 4:11)さらに長老たちは,人を偏り見ているかのような印象を与えることさえないようにします。(ヤコブ 2:9)キリスト教世界の僧職者とは何と異なっているのでしょう。親しい有力者や裕福な人の罪を取り繕う僧職者も多くいますが,それは,ローマ 1章18節,26節,27節,コリント第一 6章9節,10節,エフェソス 5章3節から5節にある使徒パウロの警告とは全く対照的です。

      29 イスラエル人からなるエホバのぶどう園には,どんな災厄的な終わりが待ち受けていますか。

      29 イザヤはこの預言的な音信を締めくくるにあたり,「エホバの律法を退け」,義にかなった実を結ばなかった人々が迎える災厄的な終わりを描写します。(イザヤ 5:24,25。ホセア 9:16。マラキ 4:1)そして,こう宣言します。「[エホバは]遠く離れた大いなる国民に旗じるしを掲げ,地の果てにいるその国民に口笛を吹かれた。すると,見よ,それは急ぎながら迅速にやって来る」。―イザヤ 5:26。申命記 28:49。エレミヤ 5:15。

      30 エホバの民を攻める「大いなる国民」を集結させるのはだれですか。どんな結果になりますか。

      30 古代,高い場所に立てられた柱は,人々や軍隊のための「旗じるし」もしくは集結地点として用いられることがありました。(イザヤ 18:3; エレミヤ 51:27と比較してください。)この場合,エホバご自身が,裁きを執行するために,名の挙げられていないこの「大いなる国民」を集結させます。b エホバは「その国民に口笛を吹かれ」ます。つまり,征服されるにふさわしいご自分の片意地な民に対して,その国民の注意を引かれるのです。イザヤは次に,そのライオンのような征服者たちの迅速で恐るべき襲撃を描写します。それら征服者たちは,神の国民という『獲物をつかみ,それを無事に持ち去って』,とりこにします。(イザヤ 5:27-30前半をお読みください。)そして,エホバの民の地は何と悲しい結末を迎えるのでしょう。「人は地を実際に見つめるが,見よ,苦難の闇があり,光もその上に落ちる滴りのゆえに暗くなった」。―イザヤ 5:30後半。

      31 真のクリスチャンは,どうすればイスラエル人からなるエホバのぶどう園に科された罰を受けずにすみますか。

      31 このように,神が深い愛をこめて設けたぶどう園は,自らが不毛であり,滅びにしか適さないことを明らかにします。イザヤの言葉には,今日エホバに仕えようとする人すべてに対する何と強力な教訓が含まれているのでしょう。そうした人たちが義にかなった実だけを結ぶよう努め,エホバに賛美をもたらし,自らの救いを得られますように。

      [脚注]

      a 石造りの塔よりも,仮小屋や掘っ建て小屋のような,費用のかからない一時的な造りのもののほうがずっと一般的だった,と考えている学者もいます。(イザヤ 1:8)塔が立っているなら,それは所有者が自分の「ぶどう園」のために並々ならぬ努力を払っていることの表われだったでしょう。

      b イザヤはほかの幾つかの預言の中で,ユダに対するエホバの壊滅的な裁きを執行する国民がバビロンであることを明らかにしています。

      [83ページの図版]

      荷役動物が荷車につながれているように,罪人は罪につながれている

      [85ページ,全面図版]

  • エホバ神はご自分の聖なる神殿におられる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第8章

      エホバ神はご自分の聖なる神殿におられる

      イザヤ 6:1-13

      1,2 (イ)預言者イザヤはいつ神殿の幻を見ますか。(ロ)ウジヤ王はなぜエホバの恵みを失いましたか。

      「しかしながら,ウジヤ王の死んだ年に,わたしはエホバを見た。高大で,高く上げられた王座に座しておられ,そのすそは神殿に満ちていた」。(イザヤ 6:1)預言者イザヤのこの言葉をもってイザヤ書の6章が始まります。時は西暦前778年です。

      2 ユダの王ウジヤの52年にわたる治世の大部分は,成功に輝いていました。ウジヤは「エホバの目に正しい」ことを行ない,軍事,建設,農業におけるその数々の事業は神の後ろ盾を受けました。しかし,成功は同時に破滅にもつながりました。結局,ウジヤの心はごう慢になり,「彼はその神エホバに対して不忠実なことをし,エホバの神殿に入って香の祭壇の上で香をたこうと」しました。このせん越な行為と,それをとがめた祭司たちに対する激怒のゆえに,ウジヤはらい病人として死にました。(歴代第二 26:3-22)イザヤが預言者としての奉仕を始めたのはそのころのことです。

      3 (イ)イザヤは実際にエホバを見ますか。説明してください。(ロ)イザヤはどんな光景を見ますか。何のためですか。

      3 イザヤが幻を見ている場所については,何も述べられていません。しかし,イザヤが肉眼で見ているものは明らかに幻であり,全能者を実際に見ているわけではありません。「いまだ神を見た人はいない」からです。(ヨハネ 1:18。出エジプト記 33:20)とはいえ,幻の中と言えども,創造者エホバを見ることは畏怖の念を抱かせます。永遠の王また裁き主としての役割を象徴する高大な王座に座しておられるのは,宇宙の支配者,すべての正当な統治権の源である方です。その方の長く,ゆったりとした衣のすそが神殿を満たしています。イザヤは,エホバの主権者としての力と公正を強調する,預言者としての奉仕に召されています。その準備として,神の神聖さに関する幻を与えられます。

      4 (イ)幻に示され,聖書に記録されたエホバの描写が象徴的なものであるに違いないのはなぜですか。(ロ)イザヤの幻から,エホバに関してどんなことが分かりますか。

      4 イザヤは自分の幻の中でエホバの姿を全く描写していませんが,それはエゼキエル,ダニエル,ヨハネが伝えている幻とは違う点です。また,それら三つの記述は,天での光景に関してそれぞれ異なったことを述べています。(エゼキエル 1:26-28。ダニエル 7:9,10。啓示 4:2,3)とはいえ,これらの幻の本質と目的を銘記しておかなければなりません。これらは,エホバの臨在に関する文字どおりの描写ではありません。肉眼で霊的な事柄を見ることも,限界のある人間の知力で霊の領域を理解することもできません。ですから,これらの幻は,伝えるべき情報を人間の言葉で提示したものなのです。(啓示 1:1と比較してください。)イザヤの幻では,神の姿の描写は必要ありません。この幻は,エホバがご自分の聖なる神殿におられること,また聖なる方であり,その裁きは浄いことをイザヤに告げているのです。

      セラフたち

      5 (イ)セラフとはどんな者たちですか。その名称にはどんな意味がありますか。(ロ)セラフたちが自分の顔と足を隠しているのはなぜですか。

      5 耳を傾けてください。イザヤはこう続けます。「セラフたちがその上の方に立っていた。各々六つの翼を持っていた。二つで顔を覆い,二つで足を覆い,二つで飛び回るのであった」。(イザヤ 6:2)聖書の中でセラフのことが述べられているのはイザヤ 6章だけです。明らかに,セラフたちはエホバに仕えるみ使いとしての被造物であり,特権と誉れの点で非常に高い地位を有し,エホバの天の王座のそばにいます。誇り高いウジヤ王とは違い,全く謙遜かつ慎み深くその立場に就いています。セラフたちは,天の主権者のみ前にいるゆえに一対の翼で顔を覆い,聖なる場所に対する畏敬の念のゆえに,もう一対の翼で足を覆っています。セラフたちは宇宙の主権者の近くにいるゆえにいっそう控えめな態度を取り,神ご自身の栄光をそぐことのないようにしているのです。「セラフたち」という言葉には,「火のような者たち」もしくは「燃えている者たち」という意味があり,輝きを放っていることを暗示していますが,彼らはそれを上回るエホバの光輝と栄光から顔を隠しています。

      6 セラフたちはエホバに対してどんな位置にいますか。

      6 セラフたちは三対目の翼を用いて飛び,自分たちの場所で宙に浮かぶ,あるいは「立って」いるようです。(申命記 31:15と比較してください。)セラフたちの位置について,フランツ・デリッチ教授は,「セラフィムは確かに王座に座っておられる方の頭上に舞い上がることはなかったであろう。むしろ彼らは,広間を満たした,その方の長い衣の上方で宙に浮いていたのである」と注解しています。(「旧約聖書注解」[英語])これは道理にかなった理解であると思われます。セラフたちは「上の方に立って」いますが,それはエホバより上位にあるということではなく,従順かつ喜んで奉仕する態度でエホバに仕えているということなのです。

      7 (イ)セラフたちはどんな割り当てを果たしますか。(ロ)セラフたちが神の神聖さを3回宣言するのはなぜですか。

      7 では,それら特権を持つセラフたちの言葉に耳を傾けてください。「この者がかの者に呼びかけて言った,『聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,万軍のエホバ。全地に満ちるものはその栄光である』」。(イザヤ 6:3)彼らの割り当ては,エホバの神聖さが宣明され,神の栄光が,地球を含む全宇宙で認められるように見届けることです。神の栄光は創造された物すべてのうちに見られ,近い将来,地に住むすべての者がその栄光を認識するようになります。(民数記 14:21。詩編 19:1-3。ハバクク 2:14)「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな」と3回繰り返して宣言されていることは,三位一体の根拠とはなりません。むしろ,3回繰り返すことによって神の神聖さを強調しているのです。(啓示 4:8と比較してください。)エホバは最高度に聖なる方です。

      8 セラフたちの宣言の結果,どんなことが生じますか。

      8 セラフの数は述べられていませんが,王座の近くに配置されたセラフのグループが幾つかあるのかもしれません。セラフたちは,美しいメロディーの形で,神の神聖さと栄光に関する宣言を,ひとりずつ順に復唱しています。その結果,どんなことが生じるでしょうか。もう一度耳を傾けてください。イザヤはこう続けています。「呼んでいる者の声で敷居の軸が震え,家もしだいに煙で満たされるようになった」。(イザヤ 6:4)聖書中で,煙あるいは雲はしばしば神の臨在の目に見える証拠となっています。(出エジプト記 19:18; 40:34,35。列王第一 8:10,11。啓示 15:5-8)それは,わたしたち人間が近づくことのできない栄光を表わします。

      ふさわしい者ではないが,清められる

      9 (イ)幻はイザヤにどんな影響を与えますか。(ロ)イザヤとウジヤ王はどんな点で非常に対照的ですか。

      9 このエホバの王座の幻は,イザヤに強い影響を与えます。彼はこう記録しています。「それから,わたしは言った,『わたしは災いだ! 沈黙に陥れられたも同然だからだ。わたしは唇の清くない人間であり,唇の清くない民の中に住んでいるからだ。わたしの目は王を,万軍のエホバご自身を見たからだ』」。(イザヤ 6:5)イザヤとウジヤ王は何と対照的なのでしょう。ウジヤは油そそがれた祭司の立場を奪い取り,不敬にも神殿の聖なる仕切り室に侵入しました。ウジヤは金の燭台,金の香の祭壇,「み前のパン」の食卓を見たものの,エホバの是認の顔を見ることも,神から何らかの特別な任務を与えられることもありませんでした。(列王第一 7:48-50; 脚注)それに対し預言者イザヤは,祭司職を無視したり,不法に神殿に侵入したりはしません。それでもイザヤは,聖なる神殿におられるエホバの幻を見ると共に,神から直接に任務を与えられるという誉れにあずかります。セラフたちは王座に着いた神殿の主をあえて見ようとはしませんが,イザヤは幻の中で「王を,万軍のエホバご自身を」見ることを許されているのです。

      10 イザヤが幻を見て怖れるのはなぜですか。

      10 イザヤは,神の神聖さと自分自身の罪深さとの著しい違いに気づき,自分はこの上なく汚れていると感じます。そして,恐れの気持ちでいっぱいになり,自分は死んでしまうと考えます。(出エジプト記 33:20)イザヤはセラフたちが清い唇で神を賛美しているのを聞きますが,自分自身の唇は清くないだけでなく,民の清くない唇によってさらに汚されています。そうした民の中に住み,彼らが語るのを聞いているからです。エホバは聖なる方であり,その僕たちはそれと同じ特質を反映しなければなりません。(ペテロ第一 1:15,16)イザヤはすでに神の代弁者として選ばれているとはいえ,自分の罪深い状態を悟ってぼう然としており,栄光ある聖なる王の代弁者にふさわしい清い唇を持ってはいません。天からはどんな反応が返ってくるでしょうか。

      11 (イ)セラフのひとりは何をしますか。その行為は何を象徴していますか。(ロ)自分は神の僕としてふさわしくないと感じる時,イザヤに対するセラフの言葉を思い巡らすことはどのように助けになりますか。

      11 セラフたちは,立場の低いイザヤをエホバのみ前から追い払ったりはせず,むしろ助けようとします。こう記録されています。「すると,セラフのひとりがわたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火ばしで取った真っ赤におこっている炭があった。そしてわたしの口に触れて言った,『見よ,これがあなたの唇に触れたので,あなたのとがは離れていった。あなたの罪は贖われている』」。(イザヤ 6:6,7)象徴的な意味で,火には浄める力があります。このセラフは,祭壇の聖なる火から取った真っ赤におこっている炭をイザヤの唇に当て,イザヤが神から恵みと任務を受けるのに必要な程度まで罪を贖われている,と言って安心させます。このことから,わたしたちも本当に安心感を覚えます。わたしたちも罪深く,神に近づくのにふさわしい者ではありません。しかし,イエスの贖いの犠牲のおかげで請け戻されており,神の恵みを受けることも祈りのうちに神に近づくこともできます。―コリント第二 5:18,21。ヨハネ第一 4:10。

      12 イザヤはどんな祭壇を見ますか。火にはどんな効力がありますか。

      12 「祭壇」のことが述べられているので,この出来事が幻であることを再び思い起こさせられます。(啓示 8:3; 9:13と比較してください。)エルサレムの神殿には祭壇が二つありました。至聖所の垂れ幕のすぐ前には小さな香の祭壇があり,また,聖なる所への入口の前には大きな犠牲の祭壇があって,そこでは絶えず火が燃やされていました。(レビ記 6:12,13; 16:12,13)しかし,これら地上の祭壇は模型的なものであり,より壮大なものを表わしていました。(ヘブライ 8:5; 9:23; 10:5-10)ソロモン王が神殿を奉献した時,祭壇上の焼燔の捧げ物を焼きつくしたのは,天から下った火でした。(歴代第二 7:1-3)そして,ここでイザヤの唇の汚れを取り除くのは,天的な真の祭壇から取った火なのです。

      13 エホバはどんな質問を提起されますか。「わたしたち」と述べた際,だれのことを含めておられますか。

      13 イザヤと共に耳を傾けましょう。「わたしはエホバの声がこう言われるのを聞くようになった。『わたしはだれを遣わそうか。だれがわたしたちのために行くだろうか』。そこでわたしは言った,『ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください』と」。(イザヤ 6:8)エホバが提起された質問は,明らかにイザヤの反応を引き出すためのものです。この幻に,人間の預言者はほかに登場していないからです。紛れもなく,これはエホバの使者になるようにという,イザヤに対する招きの言葉です。しかし,なぜエホバは「だれがわたしたちのために行くだろうか」と言われるのでしょうか。エホバは,単数の人称代名詞「わたし」から複数の代名詞「わたしたち」に切り替えることによって,ここでご自分以外に少なくとももうひとりを含めておられます。それはだれですか。神の独り子,後に人間イエス・キリストとなった方ではないでしょうか。実際,まさにその独り子に向かって,神は『わたしたちの像に人を造ろう』とも言われました。(創世記 1:26。箴言 8:30,31)そうです,天の住まいでエホバのかたわらにいるのは,神の独り子なのです。―ヨハネ 1:14。

      14 イザヤはエホバからの招きの言葉にどのようにこたえ応じますか。それは,わたしたちにとってどんな手本となっていますか。

      14 イザヤはためらうことなくこたえ応じます。音信の内容にかかわりなく,直ちに,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と答えます。その割り当てを受け入れるなら自分にとってどんな得になるかと尋ねることもしません。進んで行なおうとするイザヤの精神は,『王国の良いたよりを人の住む全地で』宣べ伝える任務をゆだねられている今日の神の僕すべてにとって立派な手本です。(マタイ 24:14)多くの場所で反応が鈍いにもかかわらず,それら僕たちはイザヤのように忠実に割り当てを果たし,「あらゆる国民に対する証し」を成し遂げます。そしてイザヤがしたように,自分たちの任務は最高の源からゆだねられたものであることを思いに留め,確信を抱いて前進します。

      イザヤの任務

      15,16 (イ)イザヤは「この民」に何と言わなければなりませんか。どんな反応が返ってきますか。(ロ)人々の反応に関して,イザヤには何らかの責任がありますか。説明してください。

      15 次いでエホバは,イザヤが述べるべき事柄,またそれに対してどのような反応があるかをこう概説されます。「行け。あなたはこの民に言わなければならない,『人々よ,何度も何度も聞け。だが,理解するな。何度も何度も見よ。だが,知識を得るな』。この民の心を,受け入れる力のないものにし,その耳を鈍感にならせ,その目をのり付けせよ。彼らがその目で見ることのないため,その耳で聞くことのないため,また,その心が理解することのないため,彼らが実際に立ち返って自分のためにいやしを得ることのないためである」。(イザヤ 6:9,10)これは,イザヤが無神経でぶっきらぼうな態度を取ってユダヤ人の反発をさそい,エホバとの不和を続けさせるということでしょうか。決してそうではありません。これらの人々は,イザヤが親近感を抱く同胞なのです。しかし,エホバの言葉は,イザヤがいかに忠実に務めを果たすかにはかかわりなく,民がどのように神の音信に反応するかを示しています。

      16 責任は民の側にあります。イザヤは「何度も何度も」語りますが,彼らは音信を受け入れることも理解を得ることもしないでしょう。大多数の人々は,全く目が見えず耳が聞こえないかのように強情で鈍感です。イザヤは「この民」のもとに繰り返し行くことにより,彼らが理解したくないと思っていることを自ら示すようにさせます。民は自分たちに対するイザヤの音信 ― 神の音信 ― に思いと心を閉ざしていることを明らかにするでしょう。今日の人々もまさに同様です。来たるべき神の王国の良いたよりを宣べ伝えるエホバの証人に耳を貸そうとしない人が非常に多くいます。

      17 イザヤは何について「いつまでですか」と尋ねていますか。

      17 イザヤには気にかかることがあります。「これに対して,わたしは言った,『エホバよ,いつまでですか』と。すると,こう言われた。『都市が実際に崩壊して廃虚となり,住む人もなく,家々に地の人が絶え,土地自体も損なわれて荒廃し,エホバが実際に地の人をはるか遠くに除き去り,その地の中で荒廃の状態が極めて広い範囲に及ぶまで』」。(イザヤ 6:11,12)イザヤは「いつまでですか」と尋ねていますが,これは,鈍感な民にいつまで宣べ伝えつづけなければならないのか,と尋ねているのではありません。むしろ,民のことを気にかけ,民の嘆かわしい霊的な状態がいつまで続くのか,地上でエホバのみ名がいつまで辱められるのか,と尋ねているのです。(詩編 74:9-11をご覧ください。)では,この無分別な状態はいつまで続くのでしょうか。

      18 民の嘆かわしい霊的な状態はいつまで続きますか。イザヤは生き永らえて,預言が完全に成就するのを見ますか。

      18 エホバの答えによれば,悲しいことに,神との契約に略述されている,不従順に対する結果が十分に臨むまで,民の嘆かわしい霊的な状態は続きます。(レビ記 26:21-33。申命記 28:49-68)国は滅び,民は追放され,国土は荒廃します。イザヤは,ウジヤ王のひ孫であるヒゼキヤの治世に至るまで40年余りにわたって預言しますが,生き永らえて,西暦前607年にエルサレムとその神殿がバビロニア軍に滅ぼされるのを見ることはないでしょう。それでもイザヤは,その国家的な災厄が臨む100年余り前に亡くなるまで,忠実に任務を果たしつづけます。

      19 ユダ国民は木のように切り倒されるとはいえ,神はイザヤにどんな保証の言葉をお与えになりますか。

      19 ユダを『損なわれて荒廃した』状態にする滅びは必ず到来しますが,事態は絶望的ではありません。(列王第二 25:1-26)エホバはイザヤに保証して,こう言われます。「そこにはなお十分の一があり,それもまた必ず焼き払われるものとなる。すなわち,大木のように,巨木のようになり,それが切り倒されるときには切り株がある。聖なる胤がその切り株となる」。(イザヤ 6:13)そうです,「十分の一……聖なる胤」が,切り倒された巨木の切り株のように残るのです。この保証の言葉はイザヤにとって慰めとなるに違いありません。民の中に聖なる残りの者が見いだされるのです。その国民は,薪とするために切り倒された大木のように,繰り返し燃やされるかのような経験をしますが,イスラエルという象徴的な木の生気ある切り株は残ります。その切り株とは,エホバにとって聖なるものである胤,つまり子孫です。やがてそこから再び芽が出,木が再生します。―ヨブ 14:7-9; ダニエル 4:26と比較してください。

      20 イザヤの預言の後半は,まずどのように成就しましたか。

      20 この預言の言葉どおりのことが生じましたか。生じました。ユダの地が荒廃してから70年後,神を恐れる残りの者がバビロンでの流刑から帰還したのです。彼らは神殿と都を再建し,その地に真の崇拝を回復しました。そのようにしてユダヤ人が神から与えられた故国へ戻ったことにより,エホバがイザヤにお与えになったこの預言の2番目の成就が可能になりました。それはどんな成就でしょうか。―エズラ 1:1-4。

      他の成就

      21-23 (イ)イザヤの預言は1世紀においてだれに成就しましたか。どのようにですか。(ロ)1世紀の「聖なる胤」はだれでしたか。その胤はどのように保護されましたか。

      21 イザヤの預言者としての務めは,それから800年ほど後にメシアであるイエス・キリストが行なう業を予表していました。(イザヤ 8:18; 61:1,2。ルカ 4:16-21。ヘブライ 2:13,14)イエスはイザヤより偉大な方ですが,『ご覧ください,わたしは参りました,あなたのご意志を行なうために』と述べ,進んで天の父に遣わしていただこうとする,まさに同じ態度を示しました。―ヘブライ 10:5-9。詩編 40:6-8。

      22 イエスは割り当てられた業をイザヤのように忠実に果たし,イザヤと同じ反応に遭いました。イエスの時代のユダヤ人は,預言者イザヤが宣べ伝えた人々と全く同様,音信を受け入れようとする気持ちがありませんでした。(イザヤ 1:4)例えを用いることはイエスの宣教の特色の一つとなっていました。「例えを使って彼らにお話しになるのはどうしてですか」と,弟子たちが尋ねたのもそのためです。イエスは答えてこう言われました。「あなた方は,天の王国の神聖な奥義を理解することを聞き入れられていますが,あの人々は聞き入れられていません。わたしが例えを使って彼らに話すのはこのためです。すなわち,彼らは見ていてもむだに見,聞いていてもむだに聞き,その意味を悟ることもないからです。イザヤの預言は彼らに成就しています。それはこう述べています。『あなた方は聞くには聞くが,決してその意味を悟らず,見るには見るが,決して見えないであろう。この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,わたしが彼らをいやす,ということが決してないためである』」。―マタイ 13:10,11,13-15。マルコ 4:10-12。ルカ 8:9,10。

      23 イエスはイザヤ書を引用して,その預言が自分の時代に成就したことを示されました。全体として人々は,イザヤの時代のユダヤ人と似た心の態度を持っていました。イエスの音信に対して自らの目と耳をふさぎ,同じように滅びを経験したのです。(マタイ 23:35-38; 24:1,2)それは,西暦70年にティツス将軍指揮下のローマ軍がエルサレムを攻め,その都と神殿を破壊した時に生じました。とはいえ,ある人たちはイエスの言うことに耳を傾け,弟子となっていました。イエスは,それらの人たちは「幸い」であると宣言されました。(マタイ 13:16-23,51)そして,その人たちに,「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれる」のを見たなら『山に逃げはじめる』ように,と告げておられました。(ルカ 21:20-22)信仰を働かせ,「神のイスラエル」という霊的な国民へと形作られていた「聖なる胤」は,こうして救われました。a ―ガラテア 6:16。

      24 パウロはイザヤの預言をどのように適用しましたか。そのことから何が分かりますか。

      24 西暦60年ごろ,使徒パウロはローマで軟禁されていました。パウロはそこで「ユダヤ人の主立った人々」や他の人々との会合を取り決め,彼らに「神の王国について徹底的な証しを」しました。多くの人は音信を受け入れようとしなかったので,パウロはそれがイザヤの預言の成就であると説明しました。(使徒 28:17-27。イザヤ 6:9,10)ですから,イエスの弟子たちは,イザヤに匹敵する任務を遂行したのです。

      25 現代の神の証人たちは何を識別してきましたか。どのようにこたえ応じていますか。

      25 同様に今日のエホバの証人も,エホバ神がご自分の聖なる神殿におられることを識別しています。(マラキ 3:1)そしてイザヤのように,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と言います。エホバの証人は,近づくこの邪悪な事物の体制の終わりに関する警告の音信を熱心に鳴り響かせています。しかし,イエスが指摘されたとおり,目と耳を開き,見たり聞いたりして救われる人は比較的少数です。(マタイ 7:13,14)心をこめて聴き,「自分のためにいやしを得る」人たちは本当に幸いです。―イザヤ 6:8,10。

      [脚注]

      a 西暦66年,ケスティウス・ガルス指揮下のローマ軍は,ユダヤ人の反乱に対応してエルサレムを包囲し,神殿の壁のところまで都に侵入しました。その後,ローマ軍は撤退したので,イエスの弟子たちは,ローマ軍が西暦70年に戻ってくる前にペレアの山地へ逃げることができました。

      [94ページの図版]

      「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」。

      [97ページの図版]

      『都市が崩壊して廃虚となり,住む人もなくなるまで』

  • 逆境にあってもエホバに依り頼みなさい
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第9章

      逆境にあってもエホバに依り頼みなさい

      イザヤ 7:1–8:18

      1 イザヤ 7章と8章を考察することが今日のクリスチャンにとって益となるのはなぜですか。

      イザヤ 7章と8章は対照的な事例を取り上げています。イザヤとアハズはどちらも,エホバに献身した国民の一員でした。一方は預言者として,他方はユダの王として,どちらも神から与えられた割り当てを持っており,優勢な敵軍のユダ侵入という同じ脅威にさらされました。しかし,イザヤがエホバに確信を抱いて脅威に立ち向かったのに対して,アハズは恐れに屈しました。なぜ二人の反応は異なっていたのでしょうか。今日のクリスチャンも同様に敵意に満ちた勢力に取り囲まれているので,イザヤ書のこれら二つの章を考察し,そこにどんな教訓が含まれているかを知ることは有益です。

      決定を迫られる

      2,3 イザヤは冒頭の言葉で概要を述べ,何と言いますか。

      2 画家が筆を大きく数回走らせて新しい絵の大まかな構図を決めるのと同じように,イザヤは記述を始めるに際し,これから述べようとしている出来事の始まりと終わりを特徴づける概略的な点を手短に述べます。「さて,ユダの王,ウジヤの子ヨタムの子アハズの時代になって,シリアの王レツィンとイスラエルの王であるレマルヤの子ペカハがエルサレムと戦うためにそこに上って来た。しかし,彼はこれと戦うことができなかった」。―イザヤ 7:1。

      3 時は西暦前8世紀,アハズはユダの王として,父ヨタムの後を継いでいました。シリアの王レツィンと北のイスラエル王国の王ペカハがユダに攻め入り,その軍隊は猛攻撃をかけ,ついにはエルサレムそのものを包囲攻撃することになります。しかし,その攻囲は失敗します。(列王第二 16:5,6。歴代第二 28:5-8)なぜでしょうか。その答えは後ほど明らかになります。

      4 アハズとその民の心が恐れで満ちているのはなぜですか。

      4 戦いの初めごろ,「『シリアはエフライムに寄りかかった』との報告がダビデの家にもたらされ」ました。「それで,彼の心と民の心は風のために森林の木々が震えるときのように震えはじめ」ました。(イザヤ 7:2)そうです,シリア人とイスラエル人が手を組み,両軍が今まさにエフライム(イスラエル)の地に宿営しているということを知り,アハズと民は恐れおののいています。二,三日も行軍すればエルサレムに着いてしまう所にいるのです。

      5 今日の神の民はどんな点でイザヤに似ていますか。

      5 エホバはイザヤにこう言われます。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは,アハズに会うために,どうか,洗濯人の野の街道のほとりにある,上の池の水道の端に出て行くように」。(イザヤ 7:3)考えてもみてください。王がエホバの預言者を捜して導きを求めているべき時に,預言者のほうから出かけていって,王を見つけなければならないのです。それでも,イザヤは喜んでエホバの言われるとおりにします。それと同じように,今日の神の民も,この世界の苦難のゆえに恐れを抱いている人々を見いだすために出かけてゆくことをいといません。(マタイ 24:6,14)毎年,何十万人もの人たちがそうした良いたよりの伝道者の訪問にこたえ応じ,エホバの保護の手を受け入れていることには,深い満足を覚えます。

      6 (イ)預言者イザヤは,元気づけるどんな言葉をアハズ王に伝えますか。(ロ)今日,どんな状況が見られますか。

      6 イザヤはエルサレムの城壁の外でアハズを見つけます。アハズはそこで,予想される攻囲に備えて都への水の供給路を調べています。イザヤはエホバの言葉をアハズに伝え,こう言います。「自分に注意し,かき乱されてはならない。これらの煙る丸太の二つの端くれのために,レツィンとシリアとレマルヤの子の激しい怒りのために恐れてはならない。あなたの心をおじけさせてはならない」。(イザヤ 7:4)これに先立ってこれら敵たちがユダを荒らした時,その怒りは炎のように熱く燃えていました。しかし今,彼らは「煙る丸太の二つの端くれ」にすぎません。アハズは,シリアの王レツィンも,レマルヤの子であるイスラエルの王ペカハも怖れる必要はありません。今日でも同様です。幾世紀にもわたって,キリスト教世界の指導者たちは真のクリスチャンに火のような迫害を加えてきました。しかし今では,キリスト教世界はほとんど燃え尽きた丸太のような状態になっています。その命数は尽きようとしています。

      7 イザヤとその息子の名前が希望の理由となるのはなぜですか。

      7 アハズの時代には,イザヤの告げる音信だけでなく,イザヤとその息子の名前の意味も,エホバに依り頼む人々に希望を与えます。確かにユダは危険にさらされていますが,「エホバの救い」という意味を持つイザヤの名前は,エホバが救出してくださるというしるしです。エホバはイザヤに,息子のシェアル・ヤシュブを連れて行くように告げますが,その名前には,「ほんの残りの者が帰る」という意味があります。ユダ王国がついに倒れても,神は憐れみ深くも残りの者をユダに連れ戻してくださるのです。

      国家間の戦争以上のもの

      8 エルサレムに対する攻撃が国家間の戦争以上のものであるのはなぜですか。

      8 エホバはイザヤを通してユダの敵たちの策略を明らかにされます。敵たちの計画はこうです。「ユダに攻め上り,これを引き裂き,これを突き破って我々のために取ろう。そしてその中で別の王,タブエルの子に統治させよう」。(イザヤ 7:5,6)シリア-イスラエル同盟は,ユダを征服し,ダビデの子孫アハズの代わりに自分たちの意のままになる男を据えようと企んでいます。明らかに,エルサレムに対するこの攻撃は,今や国家間の戦争以上のものとなっています。サタンとエホバの間の闘争なのです。なぜそう言えますか。エホバ神はダビデ王と契約を結び,ダビデの子孫がエホバの民を支配すると保証しておられたからです。(サムエル第二 7:11,16)もしエルサレムの王座に他の王朝を据えることができるとしたら,それはサタンにとって大勝利となります。ダビデの家系に永遠の相続者である「平和の君」を生み出すというエホバの目的をくじくことさえできるかもしれません。―イザヤ 9:6,7。

      エホバの愛ある保証の言葉

      9 どんな保証の言葉に,アハズだけでなく今日のクリスチャンも勇気づけられるはずですか。

      9 シリアとイスラエルの企ては成功するでしょうか。いいえ,成功しません。エホバは,「それは立たない。それは起こることもない」と言明されます。(イザヤ 7:7)エホバはイザヤを通して,エルサレムの攻囲が失敗するだけでなく,「わずか六十五年のうちにエフライムはみじんに砕かれ,民ではなくなる」であろうと言われます。(イザヤ 7:8)そうです,65年のうちにイスラエルは一つの民としては存在しなくなるのです。a 具体的な時を定めるこの保証の言葉に,アハズは勇気づけられるはずです。同様に今日の神の民も,サタンの世に残された時が尽きようとしていることを知って強められます。

      10 (イ)今日の真のクリスチャンはどのようにエホバを見倣えますか。(ロ)エホバはアハズにどんなことを申し出られますか。

      10 恐らくアハズは,信じられないといった表情をします。それで,エホバはイザヤを通して,「あなた方に信仰がないならば,あなた方は長らえないであろう」と言われます。それでも,エホバは辛抱強く,「さらにアハズに話して」ゆかれます。(イザヤ 7:9,10)何と立派な手本なのでしょう。今日,王国の音信にこたえ応じようとしない人が多くいますが,わたしたちはエホバに倣い,繰り返し訪ねて,『さらに話す』べきでしょう。次いでエホバはアハズに,「あなたの神エホバから自分のためにしるしを求めよ。それをシェオルのように深く,あるいは上の領域のように高くせよ」と言われます。(イザヤ 7:11)アハズはしるしを求めてよいのです。そうすれば,エホバはダビデの家を保護することの保証として,しるしを行なってくださるのです。

      11 「あなたの神」というエホバの言葉にはどんな保証が含まれていますか。

      11 エホバが,『あなたの神からしるしを求めよ』と述べておられることに注目してください。エホバは実に親切な方です。アハズが偽りの神々を崇拝し,嫌悪すべき異教の習わしを行なっていることはすでに報告されています。(列王第二 16:3,4)それにもかかわらず,また,アハズが恐れにとらわれているにもかかわらず,エホバは依然としてご自分のことをアハズの神と呼んでおられます。これは,エホバが人を性急に退けたりはされないことの保証です。エホバは,過ちを犯した人や信仰が弱くなった人に進んで手を差し伸べられます。このように神の愛が保証されたので,アハズはエホバの助けを受け入れようとするでしょうか。

      疑いが不従順を生む

      12 (イ)アハズはどんなごう慢な態度を取りますか。(ロ)アハズはエホバに頼る代わりに,だれに助けを求めますか。

      12 アハズは反抗的な態度を取り,「わたしは求めません。また,エホバを試みることもしません」と答えます。(イザヤ 7:12)ここでアハズは,『あなた方は,あなた方の神エホバを試みてはならない』という律法の言葉を守っているわけではありません。(申命記 6:16)これより何世紀も後,イエスはサタンの誘惑を受けた時に同じ律法の言葉を引用します。(マタイ 4:7)しかしアハズの場合には,エホバが,真の崇拝に立ち返るようアハズを促し,しるしを行なうことによって彼の信仰を強めようと申し出ておられるのです。それでも,アハズは別のところに保護を求めようとします。アハズがアッシリアに多額の金を送り,北方の敵たちに対抗するための援軍を求めたのは,この時のことのようです。(列王第二 16:7,8)その間にシリア-イスラエル軍はエルサレムを取り囲んで攻囲を開始します。

      13 13節ではどんな言葉の切り替えが行なわれていますか。それは何を意味していますか。

      13 イザヤは王の信仰の欠如を念頭に置き,こう言います。「ダビデの家よ,どうか聴いてください。あなた方は,人を疲れさせることが自分にとってそれ程小さいことなので,わたしの神をも疲れさせようとするのですか」。(イザヤ 7:13)そうです,エホバは,絶えざる反抗の態度に疲れる,あるいはうんざりすることがあるのです。この預言者がここで,「あなたの神」と言う代わりに「わたしの神」と言っていることにも注目してください。この切り替えは悪いことを予感させます。アハズはエホバを退けてアッシリアに頼ることにより,神との関係を修復する絶好の機会を逸します。わたしたちは,一時的な便宜を求めて聖書に基づく信仰を曲げ,神との関係を犠牲にすることなど,決してありませんように。

      インマヌエルというしるし

      14 エホバはダビデとの契約に対する忠実さをどのように示されますか。

      14 エホバはダビデとの契約にあくまでも忠実です。しるしを与えるという申し出のとおりに,しるしが与えられます。イザヤはこう続けます。「エホバご自身があなた方にしるしをお与えになります。見よ,乙女が実際に妊娠して,男の子を産みます。彼女はその名を必ずインマヌエルと呼ぶでしょう。彼は悪を退けて善を選ぶことを知るようになるまでには,バターとはち蜜を食べます。その男の子が悪を退け,善を選ぶことを知るようになる前に,あなたがむかつくような怖れを抱いている二人の王の地は完全に捨てられるからです」。―イザヤ 7:14-16。

      15 インマヌエルに関する預言はどんな二つの質問に答えていますか。

      15 侵略者によってダビデの王統が途絶えるのではないかと心配している人にとって,これは良いニュースです。「インマヌエル」とは,「わたしたちと共に神がおられる」という意味です。神はユダと共におられ,ダビデとの契約が無効になるのを許されません。さらに,アハズとその民には,エホバが何をするかだけでなく,いつそうするのかも告げられています。インマヌエルという男の子が善悪を見分けられる年齢になる前に,敵である国々は滅ぼされるのです。そして,実際そのとおりになります。

      16 アハズの時代のインマヌエルがだれかをエホバが明らかにしておられない理由として,どんなことが考えられますか。

      16 聖書は,インマヌエルがだれの子であるかは明らかにしていません。もっとも,幼いインマヌエルはしるしとしての役割を果たすことになっており,イザヤは後に自分と自分の子供たちは『しるしとなる』と述べているので,インマヌエルとはイザヤの息子の一人のことかもしれません。(イザヤ 8:18)アハズの時代のインマヌエルがだれかをエホバが明らかにしておられないのは,後代の人々の注意を,大いなるインマヌエルからそらさないためではないかと思われます。その大いなるインマヌエルとはだれですか。

      17 (イ)大いなるインマヌエルとはだれですか。その誕生は何のしるしとなりましたか。(ロ)今日,神の民が「わたしたちと共に神がおられる」と叫べるのはなぜですか。

      17 聖書の中でイザヤ書のほかにインマヌエルという名前が出てくるのは,マタイ 1章23節の一度だけです。エホバはマタイに霊感を与え,インマヌエルの誕生に関する預言を,ダビデの王座の正当な相続者であるイエスの誕生に適用させました。(マタイ 1:18-23)最初のインマヌエルの誕生は,神がダビデの家を捨て去ってはおられないことのしるしとなりました。同様に,大いなるインマヌエルであるイエスの誕生は,神が人類もダビデの家との王国契約も捨ててはおられないことのしるしとなりました。(ルカ 1:31-33)その時,エホバの主要な代表者が人類の中にいたので,マタイは事実に即して,「わたしたちと共に神はおられる」と言うことができました。今日,イエスは天的な王として支配し,地上にあるご自分の会衆と共におられます。(マタイ 28:20)確かに神の民には,「わたしたちと共に神がおられる」と大胆に叫ぶいっそう大きな理由があります。

      不忠実がもたらすさらに多くの結果

      18 (イ)イザヤの次の言葉を聴く者は,なぜ恐怖を抱きますか。(ロ)やがて事態はどのような展開を見せますか。

      18 慰めとなる言葉を語っていたイザヤは,次に,聞く者に恐怖を抱かせる事柄を述べて,こう言います。「エホバはあなたとあなたの民とあなたの父の家とに対して,エフライムがユダのそばを離れ去った日から来たことのないような日をもたらされます。すなわち,アッシリアの王です」。(イザヤ 7:17)そうです,災難が近づいており,それはアッシリアの王によってもたらされます。アハズとその民は,残酷さで悪名高いアッシリア人に支配されるかもしれないと思い,幾晩も眠れぬ夜を過ごすに違いありません。アハズは,アッシリアと友好関係を結べばイスラエルとシリアの手から救われるだろうと考えています。実際,この後,アッシリアの王はアハズの嘆願に応じ,ついにイスラエルとシリアを攻撃します。(列王第二 16:9)ペカハとレツィンがエルサレムの攻囲を解かざるを得なくなるのは,そのためであるようです。そのようにして,シリア-イスラエル同盟は結局エルサレムを占領できません。(イザヤ 7:1)しかしイザヤはここで,人々が保護者として待ち望んでいたアッシリアが圧制者になると述べ,聞く人々に衝撃を与えます。―箴言 29:25と比較してください。

      19 この歴史上のドラマには,今日のクリスチャンに対するどんな警告が含まれていますか。

      19 史実であるこの記述には,今日のクリスチャンに対する警告が含まれています。圧力がかかるとクリスチャンの原則の点で妥協したいと思うようになり,そうすることによってエホバの保護を退けるかもしれません。それは近視眼的な考え方であり,自殺的とさえ言えます。続くイザヤの言葉から明らかなとおりです。イザヤは,アッシリアの侵略がユダの地と民にもたらす事柄を描写してゆきます。

      20 「はえ」と「蜜ばち」とはだれのことですか。それらの者たちは何を行ないますか。

      20 イザヤは自分の宣言を四つの部分に分けます。その各々が,「その日」,つまりアッシリアがユダを攻撃する日に起きる事柄を予告しています。「その日には,エホバはエジプトのナイルの運河の果てにいるはえと,アッシリアの地にいる蜜ばちのために口笛を吹かれます。すると,それらは必ずみな来集し,険しい奔流の谷,大岩の裂け目,すべてのいばらのやぶ,すべての水場にとどまります」。(イザヤ 7:18,19)エジプトとアッシリアの軍隊は,はえや蜜ばちの群れのように約束の地に注意を向けます。それは一時的な侵略ではありません。「はえ」と「蜜ばち」はそこにとどまり,その地を隅から隅まで荒らします。

      21 アッシリアの王はどんな点でかみそりに似ていますか。

      21 イザヤはこう続けます。「その日には,川の地方の雇われたかみそりにより,すなわちアッシリアの王により,エホバは頭と足の毛とをそり,それはあごひげをもそり落とします」。(イザヤ 7:20)ここでは,主要な脅威であるアッシリアのことだけが述べられています。アハズはシリアとイスラエルを『そる』ためにアッシリアの王を雇います。しかし,このユーフラテス地方からやって来る「雇われたかみそり」は,ユダの「頭」に立ち向かって,それをきれいにそり,あごひげまでもそり落としてしまいます。

      22 イザヤはどんな例を用いて,差し迫ったアッシリアの侵略の結果を示しますか。

      22 その結果,どうなりますか。「その日には,人は群れの若い雌牛一頭と羊二頭を生かしておくことになります。そして,乳が多く出るので,彼はバターを食べます。その地の中に残される者はみなバターとはち蜜を食べるからです」。(イザヤ 7:21,22)アッシリア人がユダの地を『そって』しまうと,残された人は非常に少ないので,食料を供給するためにはほんの少数の動物がいれば十分でしょう。「バターとはち蜜」が食物となります。それ以外には,ぶどう酒も,パンも,他の基本的な食料品もありません。イザヤは,あたかも荒廃の度合いを強調するかのように,かつて高価で産出的な土地であった場所に,その時にはいばらの茂みと雑草が生じるであろうと3度述べます。あえて田舎に出かけて行く人は,やぶに潜む野生動物から身を守るために「矢と弓」を携えて行かなければならないでしょう。手入れされていた畑は,牛や羊の踏みつける所となります。(イザヤ 7:23-25)この預言は,ほかならぬアハズの時代に成就し始めます。―歴代第二 28:20。

      的確な予言

      23 (イ)イザヤは次に,何をするよう命じられますか。(ロ)書き板というしるしは,どのように確認されますか。

      23 次いで,イザヤは再び当面の状況に注意を向けます。エルサレムは依然としてシリア-イスラエル連合軍の攻囲下にありますが,イザヤはこう報告します。「エホバはわたしに言われた,『あなたは自分のために大きな書き板を取り,死すべき人間の尖筆で,その上に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書け。そして,わたしは,忠実な証人,祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤとによって,それが真正であることを自分のために証しさせよう』」。(イザヤ 8:1,2)マヘル・シャラル・ハシュ・バズという名前には,「急げ,分捕り物よ! 彼は速やかに強奪物のところに来た」という意味があります。イザヤは,自分がその名前を大きな書き板に書いたことの真正さを証しするよう,地域社会で尊敬されている二人の男性に依頼します。それは,後に二人がその書面の信ぴょう性を確認できるようにするためです。もっとも,このしるしは2番目のしるしによって確認されることになっています。

      24 マヘル・シャラル・ハシュ・バズというしるしは,ユダの人々にどんな影響を与えるはずですか。

      24 イザヤはこう言います。「それから,わたしは女預言者に近づき,彼女は妊娠して,やがて男子を産んだ。エホバはそのときわたしに言われた,『その名をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと呼べ。それは,その子が「お父さん!」「お母さん!」と呼ぶことを知るようになる前に,人はダマスカスの資産とサマリアの分捕り物をアッシリア王の前に運び去るからである』」。(イザヤ 8:3,4)大きな書き板と,生まれたばかりの男の子は,どちらも,アッシリアがやがてユダの圧制者であるシリアとイスラエルを強奪することのしるしとなります。それはいつ生じますか。その男の子が,たいていの赤子が最初に話せるようになる言葉 ―「お父さん」と「お母さん」― を言えるようになる前に生じます。こうした厳密な予言は,エホバに対する人々の確信を強めるはずです。一方,イザヤとその息子たちをあざけるようになる人々もいるかもしれません。いずれにしても,イザヤの預言の言葉はそのとおりになります。―列王第二 17:1-6。

      25 イザヤの時代と現代にはどんな類似点がありますか。

      25 クリスチャンは,イザヤが繰り返した警告から教訓を得ることができます。使徒パウロが明らかにしたところによると,この歴史上のドラマにおいて,イザヤはイエス・キリストを表わし,イザヤの息子たちはイエスの油そそがれた弟子たちを予表していました。(ヘブライ 2:10-13)イエスは,地上にいる油そそがれた追随者たちを通し,この危機的な時代にあって『目ざめている』必要性を真のクリスチャンに思い起こさせてこられました。(ルカ 21:34-36)それと同時に,悔い改めない反対者たちに対しては,しばしばあざけりを招こうとも,来たるべき滅びについて警告が与えられています。(ペテロ第二 3:3,4)時間的な要素を含む預言がイザヤの時代に成就したことは,わたしたちの時代においても神の時刻表どおりに物事が「必ず起きる」ことの保証となっています。「遅くなることはない」のです。―ハバクク 2:3。

      破壊的な「水」

      26,27 (イ)イザヤはどんな事柄を予告しますか。(ロ)イザヤの言葉は今日のエホバの僕たちに関してどんなことを示していますか。

      26 イザヤは警告を続け,こう言います。「この民が穏やかに流れるシロアハの水を退けて,レツィンとレマルヤの子に対する歓喜があるので,まさにそれゆえに,見よ,エホバは川の力強い多量の水,すなわち,アッシリアの王とそのすべての栄光を彼らに向かって連れ上る。そして,彼は必ずそのすべての川床に上り,そのすべての岸を越え,ユダを通って進んで行く。彼はまさに洪水となって越えて行く。彼は首にまで達する。そして,インマヌエルよ,彼の翼の広がりは必ずあなたの地の幅を満たすことになる」。―イザヤ 8:5-8。

      27 「この民」,つまり北のイスラエル王国は,ダビデと結ばれたエホバの契約を退けます。(列王第二 17:16-18)その民にとって,その契約は,エルサレムへの水の供給路であるシロアハの細い水の流れのように弱々しく見えます。彼らはユダと戦うことに歓喜します。しかし,この侮蔑的な態度は処罰を免れません。エホバは,アッシリア人が「洪水」のようにシリアとイスラエルに押し寄せ,壊滅させるのを許されます。同様にエホバは,近い将来,現在の世界の政治的な部分が偽りの宗教の領域に洪水のように押し寄せるのを許されます。(啓示 17:16。ダニエル 9:26と比較してください。)イザヤによると,次いで,その増水した「水」は『ユダを通って進んで行き』,「首にまで」,つまりユダの頭(王)が治めるエルサレムにまで達します。b わたしたちの時代にも同様に,偽りの宗教に対する政治上の処刑者たちはエホバの僕たちにまで迫り,『首のところまで』取り囲みます。(エゼキエル 38:2,10-16)どんな結果になるでしょうか。では,イザヤの時代にはどんなことが生じますか。アッシリア人は波のように都の城壁を越え,神の民を流し去るでしょうか。いいえ,神がその民と共におられます。

      恐れるな ―「神がわたしたちと共におられる」

      28 敵たちが力を尽くすにもかかわらず,エホバはユダにどんなことを保証なさいますか。

      28 イザヤはこう警告します。「[神の契約の民に反対する]もろもろの民よ,害を加える者となり,みじんに砕かれよ。地の遠い所にいるすべての者たちよ,耳を向けよ! 帯を締め,みじんに砕かれよ! 帯を締め,みじんに砕かれよ! 企てを考え出せ。それは破られる! 言葉を出せ。それは立たない。神がわたしたちと共におられるからだ!」(イザヤ 8:9,10)この何年か後,アハズの息子である忠実なヒゼキヤの治世中に,この言葉が実現します。アッシリア人がエルサレムを脅かすと,エホバのみ使いがアッシリア人18万5,000人を討ち倒します。神がご自分の民およびダビデの王統と共におられるのは明白です。(イザヤ 37:33-37)同様に,来たるべきハルマゲドンの戦いの際に,エホバは大いなるインマヌエルを遣わし,敵たちを粉々にするだけでなく,神に依り頼むすべての人々を救出されます。―詩編 2:2,9,12。

      29 (イ)アハズの時代のユダヤ人はヒゼキヤの時代のユダヤ人とどのように異なっていますか。(ロ)今日のエホバの僕たちが宗教上また政治上の同盟を結ばないようにするのはなぜですか。

      29 ヒゼキヤの時代のユダヤ人とは違い,アハズと同時代の人たちにはエホバの保護に対する信仰が欠けています。彼らは,シリア-イスラエル同盟に対する防壁としてアッシリア人と結託すること,つまり「陰謀」を好みます。しかしエホバの「み手」は,「この民の道」,つまり一般的傾向に反対論を唱えるようイザヤを駆り立てます。イザヤはこう警告します。「あなた方は,……彼らの恐れるものを恐れてはならない。また,それにおののいてはならない。万軍のエホバ ― この方をあなた方は聖なる方とすべきであり,この方こそあなた方の恐れるべきもの,あなた方をおののかせる方であるべきである」。(イザヤ 8:11-13)今日のエホバの僕たちはこの点を銘記し,様々な宗教協議会や政治同盟と結託したり,それらに頼ったりしないよう用心します。エホバの僕たちは,保護を与える神の力に全幅の確信を置いています。結局のところ,『エホバがわたしたちの側にいてくださる』なら,『地の人はわたしたちに何をなしえる』でしょうか。―詩編 118:6。

      30 エホバに依り頼まない人々はどんな運命をたどりますか。

      30 イザヤは言葉を続け,エホバに依り頼む人たちにとってエホバは「神聖な場所」つまり保護となる,ということを再び述べます。それとは対照的に,神を退ける人たちは「必ずつまずき,倒れ,砕かれ,わなに掛かって捕らえられ」ます。これら五つの生き生きとした動詞は,エホバに依り頼まない人々のたどる運命について疑問の余地を残していません。(イザヤ 8:14,15)1世紀においてイエスを退けた人々も,同様につまずき,倒れました。(ルカ 20:17,18)即位した天的な王イエスに忠誠を示そうとしない今日の人々も,同様の結末を迎えます。―詩編 2:5-9。

      31 今日の真のクリスチャンはどうすれば,イザヤと,その教えに耳を傾ける人たちの手本に倣えますか。

      31 イザヤの時代に,すべての人がつまずくわけではありません。イザヤはこう言います。「証しを包み,わたしの弟子たちの中で律法の周りに封印せよ! そして,わたしはヤコブの家から顔を覆い隠しておられるエホバを待ちつづけ,この方に望みを置く」。(イザヤ 8:16,17)イザヤと,その教えに留意する人たちは神の律法を捨てません。非行を働く同国人たちがエホバに頼ろうとせず,そのためエホバが同国人たちから顔を覆い隠しておられるとしても,エホバに依り頼みつづけるのです。わたしたちも,エホバに依り頼む人々の模範に倣い,その人々と同じように,清い崇拝から離れない決意を抱けますように。―ダニエル 12:4,9。マタイ 24:45。ヘブライ 6:11,12と比較してください。

      「しるし」と「奇跡」

      32 (イ)今日だれが『しるしや奇跡』としての役割を果たしていますか。(ロ)クリスチャンが世にあって際立っているべきなのはなぜですか。

      32 次いで,イザヤはこう宣言します。「見よ,わたしと,エホバがわたしにお与えになった子供たちとは,シオンの山に住んでおられる万軍のエホバからのイスラエルのしるしとなり,奇跡となっているのである」。(イザヤ 8:18)そうです,イザヤ,シェアル・ヤシュブ,マヘル・シャラル・ハシュ・バズは,ユダに対してエホバが持たれる目的のしるしなのです。同様に今日,イエスとその油そそがれた兄弟たちも,しるしとしての役割を果たしています。(ヘブライ 2:11-13)そして,彼らの行なう業には「ほかの羊」の「大群衆」も加わっています。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9,14)当然ながら,しるしは価値あるものとなるためには,置かれた環境の中で際立っていなければなりません。それと同様に,クリスチャンがしるしとしての任務を果たすためには,この世とは違う者,エホバに全幅の信頼を置き,神の目的を大胆にふれ告げる者として際立っていなければなりません。

      33 (イ)真のクリスチャンはどんな決意を抱いていますか。(ロ)真のクリスチャンが確固たる態度を保てるのはなぜですか。

      33 それで,すべての人は,この世の規準ではなく,神の規準を守らなければなりません。大いなるイザヤであるイエス・キリストにゆだねられた,『善意の年とわたしたちの神の側の復しゅうの日とをふれ告げる』という任務をさらに推し進めつつ,恐れを抱くことなく ― しるしとして ― 際立った者でありつづけましょう。(イザヤ 61:1,2。ルカ 4:17-21)アッシリア人が洪水のように全地に打ち寄せる時,たとえそれがわたしたちの首にまで達しようとも,真のクリスチャンが流し去られることはありません。「神がわたしたちと共におられる」ので,わたしたちは確固たる態度を保ちます。

      [脚注]

      a この預言の成就に関するさらに詳細な点については,ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書に対する洞察」,第1巻,88ページ,および305,306ページをご覧ください。

      b アッシリアは,広げた翼が「あなたの地の幅を満たす」鳥にもなぞらえられています。そのように,土地はどこまで広がっていようと,アッシリア軍に覆われます。

      [103ページの図版]

      イザヤはエホバからの音信をアハズに告げる際,シェアル・ヤシュブを連れて行った

      [111ページの図版]

      なぜイザヤは大きな書き板に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書いたか

  • 平和の君に関する約束
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第10章

      平和の君に関する約束

      イザヤ 8:19–9:7

      1 カインの時代以来,人類はどんなことを経験してきましたか。

      約6,000年前,人間の最初の子どもが生まれました。子どもの名はカインで,その誕生はまさに特別なものでした。その子の両親も,み使いたちも,さらには創造者も,それまでに人間の赤子を見たことはありませんでした。この初めて生まれた子どもは,有罪宣告を受けた人類に希望を与えることもできたはずです。それだけに,成長したその子が殺人者になった時の失望はどれほどだったでしょう。(ヨハネ第一 3:12)その時以来,人類は他の殺人を数え切れないほど目撃してきました。人間は悪を行なう傾向を持ち,人間同士の,また神との平和な関係にはありません。―創世記 6:5。イザヤ 48:22。

      2,3 イエス・キリストによってどんな見込みが開かれましたか。そうした祝福を受けるには何をしなければなりませんか。

      2 カインの誕生から4,000年ほど後,別の子どもが生まれました。その子の名はイエスで,その誕生も非常に特別なものでした。聖霊の力により,処女から生まれたのです。そのような誕生は,歴史を通じてほかに類がありません。その子が生まれた時,喜びに満ちた大勢のみ使いが神への賛美を歌い,「上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人々の間にあるように」と言いました。(ルカ 2:13,14)イエスは殺人者になるどころか,人間が神との平和な関係を築き,永遠の命を得るための道を開きました。―ヨハネ 3:16。コリント第一 15:55。

      3 イザヤは,イエスが「平和の君」と呼ばれるであろうと預言しました。(イザヤ 9:6)イエスは人類のために自らの命を差し出して,罪の許しを可能にするのです。(イザヤ 53:11)今日,イエス・キリストに対する信仰に基づき,神との平和を,また罪の許しを得ることができます。しかし,そうした祝福は機械的に得られるものではありません。(コロサイ 1:21-23)祝福を望む人は,エホバ神に従うことを学ばなければなりません。(ペテロ第一 3:11。ヘブライ 5:8,9と比較してください。)イザヤの時代に,イスラエルとユダは,それとは正反対なことを行ないます。

      悪霊に頼る

      4,5 イザヤの時代に人々はどんな状況にありますか。ある人たちはだれに頼りますか。

      4 イザヤの時代の人々は不従順のゆえに,嘆かわしい道徳状態に,まさに霊的な暗闇という穴に陥っています。神の神殿がある南のユダ王国にさえ平和はありません。ユダの人々は,不忠実さの結果としてアッシリア人の侵攻の脅威にさらされており,前途には困難な時代が待ち受けています。人々は助けを求めてだれに頼るでしょうか。残念なことに,多くの人はエホバにではなく,サタンに頼ります。もっとも,サタンの名を呼んで助けを求めるというのではありません。むしろ,昔のサウル王のように心霊術を行ない,死者との交信を試みて問題に対する答えを得ようとします。―サムエル第一 28:1-20。

      5 中には,そうした習わしを奨励する人たちさえいます。イザヤはそのような背教を指摘し,こう言います。「もし人々があなた方に,『霊媒に,または,さえずったり低い声でものを言ったりする予言の霊を持つ者たちに問い合わせよ』と言うのであれば,どの民もその神に問い合わせるべきではないか。生きている者たちのために死者に問い合わせることがあってよいだろうか」。(イザヤ 8:19)霊媒は『さえずったり低い声でものを言ったりして』人々をだますことがあります。死者の霊によるものとされるそうした効果音は,生きている霊媒が腹話術で作り出していることも考えられます。しかし時には,悪霊が直接関与し,死者のふりをすることがあります。サウルがエン・ドルの魔女に伺いを立てたときがそうだったようです。―サムエル第一 28:8-19。

      6 心霊術に頼っているイスラエル人が特に非難されて当然なのはなぜですか。

      6 エホバが心霊術の習わしを禁じておられるにもかかわらず,こうしたことすべてがユダで行なわれています。モーセの律法のもとでは,それらは死刑に値する違反です。(レビ記 19:31; 20:6,27。申命記 18:9-12)エホバの特別な所有物である民が,どうしてそのような重大な違犯を犯すのでしょうか。それは,エホバの律法と助言に背を向け,「人を欺く罪の力のためにかたくなに」なっているからです。(ヘブライ 3:13)「彼らの心は脂肪のように無感覚になり」,民は神から疎外された者となっています。―詩編 119:70。a

      7 今日の多くの人はどのように,イザヤの時代のイスラエル人と似たことを行なっていますか。そのような人は悔い改めないならどんな道をたどりますか。

      7 ユダの人々は,『アッシリア人の攻撃が目前に迫っている時に,エホバの律法が何の役に立つのか』と考えているようです。困難な事態がすぐに簡単に解決されることを望み,エホバがご意志を達成してゆかれるのを待とうとはしません。現代でも,多くの人はエホバの律法を無視し,問題を解決するために霊媒を探し出したり,星占いに答えを求めたり,他の形態のオカルティズムに頼ったりします。しかし,生きている人が死者に答えを求めるのは,当時も今も愚かなことです。だれであれ,悔い改めることなくそうした習わしを続ける人は,「殺人をする者,淫行の者,……偶像を礼拝する者,またすべての偽り者」と同じ道をたどります。将来の命の見込みはないのです。―啓示 21:8。

      神の「律法と証し」

      8 今日のわたしたちが導きを求めて頼っているべき「律法」および「証し」とは何ですか。

      8 ユダでは,心霊術を禁じるエホバの律法も他の数々の命令も隠されてはいません。律法は文書の形で保存されています。今日,神の言葉は完全にそろった文書の形,つまり聖書として読むことができます。聖書には神の律法や規定が集大成されているだけでなく,神とその民の交渉に関する記述も収められています。エホバと民との交渉に関するそうした聖書の記述は証し,もしくは証言であり,エホバのご性格や様々な特質を教えてくれます。イスラエル人は死者に相談する代わりに,導きを求めて何に頼っているべきですか。イザヤは,「律法と証しとに問え!」と答えます。(イザヤ 8:20前半)そうです,真の啓発を求める人は,書き記された神の言葉に頼るべきなのです。

      9 悔い改めない罪人が時折聖書を引用することには価値がありますか。

      9 心霊術に手を出しているイスラエル人の中にも,書き記された神の言葉に敬意を抱いていると唱える人がいるかもしれません。しかし,そうした主張はむなしく,偽善的です。イザヤは,「確かに,彼らは夜明けの光を持たないこの言葉にしたがって語りつづける」と言います。(イザヤ 8:20後半)ここでイザヤはどんな言葉について述べているのでしょうか。「律法と証しとに問え!」という言葉であろうと思われます。背教したイスラエル人の中にも,神の言葉を引き合いに出す人がいるのかもしれません。それは,今日の背教者や他の人々も聖書を引用することがあるのと似ています。しかし,それは口先だけのものにすぎません。聖書を引用しても,それと共にエホバのご意志を行ない,汚れた習わしを捨てないなら,「夜明けの光」つまりエホバからの啓発は得られません。b

      「パンの飢きんではない」

      10 ユダの民はエホバを退けたため,どんなつらい経験をしていますか。

      10 エホバに対する不従順は精神的な暗闇を生みます。(エフェソス 4:17,18)ユダの民は霊的な意味で盲目になっており,理解力がありません。(コリント第一 2:14)イザヤは民の状態を描写し,「各々ひどく苦しみ,飢えを覚えて,必ずその地を通り抜けることであろう」と言います。(イザヤ 8:21前半)この国民の不忠実さ,特にアハズ王の治世中の不忠実さのゆえに,ユダの独立王国としての存続は危うくなっています。ユダは敵に囲まれています。アッシリア軍はユダの都市に一つまた一つと襲いかかり,産出的な土地は敵によって荒廃させられ,食物は不足しています。多くの人は「ひどく苦しみ,飢えを覚えて」います。しかし,この地は別の種類の飢えにも苦しんでいます。これより何十年か前に,アモスはこう預言しました。「『見よ,その日が来る』と,主権者なる主エホバはお告げになる。『そしてわたしはその地に飢きんを送り込む。パンの飢きんではない。水の渇きでもない。エホバの言葉を聞くことの飢きんである』」。(アモス 8:11)今やユダは,まさにそのような霊的な飢きんにあえいでいるのです。

      11 ユダは与えられた懲らしめから教訓を学びますか。

      11 ユダは教訓を学び,エホバのもとに帰るでしょうか。ユダの民は心霊術や偶像礼拝を捨て,「律法と証しとに」戻るでしょうか。エホバは民の反応を予見し,こう言われます。「彼は飢えており,自分を憤らせたので,自分の王と自分の神の上に実際に災いを呼び求め,必ず上をじっと見ることであろう」。(イザヤ 8:21後半)そうです,多くの人は,こうした状況を招いたことを自分たちの人間の王のせいにするでしょう。愚かにも災厄をエホバのせいにする人たちさえいるでしょう。(エレミヤ 44:15-18と比較してください。)今日でも,多くの人はこれと似た反応をし,人間の邪悪さゆえに生じた悲惨な出来事を神のせいにします。

      12 (イ)ユダは神を捨てた結果,どうなっていますか。(ロ)どんな重要な質問が生じますか。

      12 神の上に災いを呼び求めることによって,ユダの住民には平和がもたらされるでしょうか。いいえ,そんなことはありません。イザヤは,「彼は地を見るが,見よ,苦難と闇,薄暗さ,困難な時,輝きのない暗がりがある」と予告します。(イザヤ 8:22)人々は神を非難するかのように目を上げて天を見た後,目を地に戻し,希望のない自分たちの先行きを見詰めます。人々は神を捨てた結果,災厄を経験しています。(箴言 19:3)しかし,神がアブラハム,イサク,ヤコブになさった約束はどうなったのでしょうか。(創世記 22:15-18; 28:14,15)エホバは果たされないのでしょうか。ユダとダビデに約束された王統は,アッシリア人や他の軍事強国によって終わりを迎えるのでしょうか。(創世記 49:8-10。サムエル第二 7:11-16)イスラエル人は永久に暗闇に閉じ込められるのでしょうか。

      『侮べつをもって扱われる』地

      13 「諸国民のガリラヤ」とは何ですか。それはどのように『侮べつをもって扱われる』ようになりますか。

      13 次にイザヤは,アブラハムの子孫に臨む極めてひどい激変をほのめかし,こう言います。「しかしその薄暗さは,その地が圧迫の下に置かれたとき,人がゼブルンの地とナフタリの地を侮べつをもって扱ったずっと以前の時,また,それより後の時に,人がそれに ― 海ぞいの道,ヨルダンの地方,諸国民のガリラヤに ― 誉れを受けさせたときのようではない」。(イザヤ 9:1)ガリラヤは,北のイスラエル王国の領土の一部でした。イザヤの預言の中では,ガリラヤには「ゼブルンの地とナフタリの地」,また「海ぞいの道」つまりガリラヤの海の沿岸を通って地中海に至る古代の道も含まれています。イザヤの時代には,その地方は「諸国民のガリラヤ」と呼ばれています。恐らく,その地方の都市の多くにイスラエル人ではない人々が住んでいるからでしょう。c この地はどのように『侮べつをもって扱われる』のでしょうか。異教徒のアッシリア人がそこを征服し,イスラエル人を流刑に処し,その地方全域にアブラハムの子孫でない異教徒を住まわせます。その結果,北の十部族王国は明確な国家としては歴史から姿を消してしまいます。―列王第二 17:5,6,18,23,24。

      14 どんな意味で,ユダは十部族王国ほど『薄暗く』はならないと言えますか。

      14 ユダもアッシリア人の圧力を受けています。ゼブルンとナフタリに代表される十部族王国に生じたように,ユダもいつまでも『薄暗い』状態に陥っているのでしょうか。いいえ,そうはなりません。「後の時」に,エホバは南のユダ王国地方に祝福を与え,さらには,かつて北の王国が支配していた地にも祝福を与えます。どのようにでしょうか。

      15,16 (イ)どの「後の時」に「ゼブルンとナフタリの地域」の状況が変化しますか。(ロ)侮べつをもって扱われた地は,どのように誉れを受けるようになりますか。

      15 使徒マタイは,地上におけるイエスの宣教に関する霊感を受けた記録の中で,その問いに答えています。マタイはその宣教の初めごろのことについて,こう述べています。「ナザレを去ってから,[イエスは]ゼブルンとナフタリの地域にある海辺のカペルナウムに来て住まわれた。これは,預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。こう言われていた。『ゼブルンの地とナフタリの地,海の道路ぞい,ヨルダンの向こう側,諸国民のガリラヤよ,闇に座する民は大いなる光を見,死のような陰の地方に座する者には,光がその上に昇った』」。―マタイ 4:13-16。

      16 それで,イザヤが予告した「後の時」とは,キリストが地上で宣教を行なった時のことです。イエスは地上での生涯の大半をガリラヤで過ごしました。宣教を開始し,「天の王国は近づいた」と宣明し始めたのも,ガリラヤ地域でした。(マタイ 4:17)イエスはガリラヤで,有名な山上の垂訓を与え,使徒たちを選び,最初の奇跡を行ない,復活後には500人ほどの追随者たちに現われました。(マタイ 5:1–7:27; 28:16-20。マルコ 3:13,14。ヨハネ 2:8-11。コリント第一 15:6)このように,イエスは「ゼブルンの地とナフタリの地」に誉れを与えることによってイザヤの預言を成就しました。言うまでもなく,イエスは宣教の対象をガリラヤの人々に限ったわけではありません。イエスは良いたよりを全土で宣べ伝えることにより,ユダを含むイスラエル国民全体に「誉れを受けさせ」ました。

      「大いなる光」

      17 「大いなる光」はどのようにガリラヤで照り輝きますか。

      17 では,マタイが言及したガリラヤの「大いなる光」についてはどうでしょうか。それもイザヤの預言からの引用でした。イザヤはこう書いていました。「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た。深い陰の地に住んでいた者たちには,光がその上に照り輝いた」。(イザヤ 9:2)西暦1世紀には,真理の光は異教の偽りの教えに覆い隠されていました。ユダヤ教の宗教指導者たちは,自分たちの宗教上の伝統に固執することによって問題を増やし,そうした伝統により「神の言葉を無にして」いました。(マタイ 15:6)謙遜な人たちは虐げられ,「盲目の案内人」に従って道に迷っていました。(マタイ 23:2-4,16)メシアであるイエスが登場すると,多くの謙遜な人たちの目は驚くべき仕方で開かれました。(ヨハネ 1:9,12)イエスが地上にいる間に行なわれた業と,イエスの犠牲の結果としてもたらされる祝福は,イザヤの預言の中で,特徴をとらえて適切にも「大いなる光」と呼ばれています。―ヨハネ 8:12。

      18,19 その光に反応した人たちには,大いに歓ぶどんな理由がありましたか。

      18 その光に反応した人々には,歓ぶ理由が大いにありました。イザヤはこう続けています。「あなたはその国民を多くし,国民のために歓びを大いなるものとされた。彼らは収穫の時に歓ぶように,分捕り物を分けるときの喜びに満ちた者たちのように,あなたのみ前で歓んだ」。(イザヤ 9:3)イエスとその追随者たちの伝道活動の結果,心の正直な人々は積極的にこたえ応じ,霊と真理をもってエホバを崇拝したいと願っていることを示しました。(ヨハネ 4:24)4年もたたないうちに大勢の人がキリスト教を信奉するようになり,西暦33年のペンテコステの日には約3,000人がバプテスマを受けました。そのしばらく後には,「男の数はおよそ五千人に」なりました。(使徒 2:41; 4:4)弟子たちが熱心に光を反映してゆくにつれ,「弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけ」,「非常に大勢の祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るように」なりました。―使徒 6:7。

      19 豊作を歓ぶ人たち,あるいは大勝利の後で高価な戦利品の分配に喜ぶ人たちのように,イエスの追随者たちはそうした増加を歓びました。(使徒 2:46,47)やがてエホバは,その光が諸国民の間でも照り輝くようにされました。(使徒 14:27)そのようにして,あらゆる人種の人々が,エホバに近づく道が自分たちに開かれたことを歓びました。―使徒 13:48。

      「ミディアンの日に行なわれたように」

      20 (イ)ミディアン人はどんなことを行なってイスラエルの敵であることを示しましたか。エホバはミディアン人による脅威をどのように終わらせましたか。(ロ)将来の「ミディアンの日」に,イエスは神の民の敵による脅威をどのように終わらせますか。

      20 続くイザヤの言葉が示すとおり,メシアの活動の効果はいつまでも続きます。「あなた(は),彼らの荷のくびきとその肩のむち棒を,彼らを仕事に追い立てる者の杖を,ミディアンの日に行なわれたようにみじんに砕かれた」。(イザヤ 9:4)イザヤの時代より何世紀か前に,ミディアン人はモアブ人と共謀し,イスラエルを誘惑して罪を犯させようとしました。(民数記 25:1-9,14-18; 31:15,16)後に,ミディアン人は7年にわたってイスラエルの村々や農地を襲って略奪し,人々を恐怖に陥れました。(裁き人 6:1-6)しかし,その時エホバは,ご自分の僕ギデオンを用いてミディアンの軍勢を敗走させました。その「ミディアンの日」以降,エホバの民が再びミディアン人の手にかかって苦しんだことを示す証拠はありません。(裁き人 6:7-16; 8:28)近い将来,大いなるギデオンであるイエス・キリストは,エホバの民の現代の敵たちに致命的な打撃を加えます。(啓示 17:14; 19:11-21)その時,「ミディアンの日に行なわれたように」,人間の武勇によらずエホバの力によって,永続する完全な勝利がもたらされます。(裁き人 7:2-22)神の民が圧制的なくびきの下で苦しむことは二度とありません。

      21 戦争が将来どうなるかに関して,イザヤの預言はどんなことを示していますか。

      21 神の力を示すことは,戦争をたたえることとは違います。復活したイエスは平和の君であり,敵たちを滅ぼし尽くすことにより,とこしえの平和を招来します。ここでイザヤは,兵士の装備がことごとく火で焼き尽くされることについて,「身震いしながら踏みにじる者のすべての長ぐつと,血にまみれたマントとは,火のための糧として焼かれるものとなったからである」と述べます。(イザヤ 9:5)行進する兵士たちが長靴を踏み鳴らすときの地面の震動が感じられることは二度とありません。戦闘慣れした非情な戦士たちの血まみれの軍服を目にすることも,もうありません。もはや戦いはないのです。―詩編 46:9。

      「くすしい助言者」

      22 イザヤ書の中で,イエスはどんな預言的な名で呼ばれていますか。

      22 メシアとなるべく生まれた方は,その奇跡的な誕生の際に,「エホバは救い」という意味のイエスと名づけられました。しかし,その方にはほかにも名前が,つまり,その方の重要な役割や高められた地位を概略的に示す預言的な名が幾つかあります。そうした名の一つは,「わたしたちと共に神がおられる」という意味のインマヌエルです。(イザヤ 7:14,脚注)イザヤはここで,ほかの預言的な名についてこう述べています。「わたしたちのためにひとりの子供が生まれ,わたしたちにひとりの男子が与えられた……。君としての支配がその肩に置かれる。そして彼の名は,“くすしい助言者”,“力ある神”,“とこしえの父”,“平和の君”と呼ばれるであろう」。(イザヤ 9:6)これらの預言的な名の持つ深い意味について考えてみましょう。

      23,24 (イ)イエスはどんな点で「くすしい助言者」ですか。(ロ)今日のクリスチャンの助言者たちはどのようにイエスの手本に倣えますか。

      23 助言者とは助言や忠告を与える人のことです。イエス・キリストは地上にいた時,くすしい助言を与えました。聖書は,「群衆はその教え方に驚き入っていた」と述べています。(マタイ 7:28)イエスは,感情移入をする賢明な助言者であり,人間の本性に関する並外れた理解を持っておられます。その助言は,譴責したり懲戒したりすることだけに限られてはいません。それよりも,教訓や愛ある忠告の形で与えられることのほうが多くあります。イエスの助言がくすしいと言えるのは,それがいつも賢明で,完ぺきで,誤りのないものだからです。その助言に従うなら,永遠の命に導かれます。―ヨハネ 6:68。

      24 イエスの助言は,単なる才気あふれる知性の所産ではありません。むしろイエスは,「わたしの教えはわたしのものではなく,わたしを遣わした方に属するものです」と述べておられます。(ヨハネ 7:16)ソロモンの場合と同様,イエスの知恵の源はエホバ神です。(列王第一 3:7-14。マタイ 12:42)イエスの模範を考えると,クリスチャン会衆内の教える者や助言者たちは,常に神の言葉に基づいた教訓を与えるようにしたいと思うはずです。―箴言 21:30。

      「力ある神」また「とこしえの父」

      25 「力ある神」という名から,天のイエスに関してどんなことが分かりますか。

      25 イエスは「力ある神」また「とこしえの父」でもあります。これは,イエスが,「わたしたちの父なる神」エホバの権威や地位を奪うという意味ではありません。(コリント第二 1:2)「彼[イエス]は……強いて取ること,つまり,自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした」。(フィリピ 2:6)イエスは,全能の神とではなく,力ある神と呼ばれています。イエスは自分が全能の神であるとは一度も考えませんでした。み父のことを「唯一まことの神」,つまり崇拝されるべき唯一の神と呼んでいるとおりです。(ヨハネ 17:3。啓示 4:11)聖書中で,「神」という語は「力ある者」あるいは「強い者」を意味する場合があります。(出エジプト記 12:12。詩編 8:5。コリント第二 4:4)イエスは地上に来る前,「神[God]の形で存在して」いる「神[a god]」でしたが,復活後は天に戻り,より高い地位に就きました。(ヨハネ 1:1。フィリピ 2:6-11)さらに,「神」という名称には別の意味合いもあります。イスラエルで裁きを行なう人たちは「神」と呼ばれており,一度はイエス自身もその呼び方を用いました。(詩編 82:6。ヨハネ 10:35)イエスはエホバの任命を受けた裁き主であり,「生きている者と死んだ者とを裁くように定められて」います。(テモテ第二 4:1。ヨハネ 5:30)確かに,イエスは力ある神という名を持つにふさわしいと言えます。

      26 イエスを「とこしえの父」と呼べるのはなぜですか。

      26 「とこしえの父」という称号は,地上でのとこしえの命の見込みを人間に与える,メシアなる王としての力と権威に注意を引きます。(ヨハネ 11:25,26)わたしたちの最初の親アダムが遺産として残したものは死でしたが,最後のアダムであるイエスは『命を与える霊になり』ました。(コリント第一 15:22,45。ローマ 5:12,18)とこしえの父であるイエスは永久に生きるので,従順な人類は父親としてのイエスの働きからとこしえに益を受けます。―ローマ 6:9。

      「平和の君」

      27,28 「平和の君」の臣民には,現在も将来も,どんなすばらしい益がもたらされますか。

      27 人間には永遠の命だけでなく,神および仲間の人間との平和も必要です。今日でさえ,「平和の君」の支配に服する人々は『その剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えて』きました。(イザヤ 2:2-4)そうした人々は,政治的,地域的,人種的,経済的な相違のために憎しみを抱くことはありません。唯一まことの神エホバの崇拝において一致しており,会衆の内外を問わず,隣人との平和な関係を維持するよう努めています。―ガラテア 6:10。エフェソス 4:2,3。テモテ第二 2:24。

      28 神のご予定の時にキリストは地上に平和を確立し,それは全地球的な,堅く立てられた恒久的な平和となります。(使徒 1:7)こう書かれています。「ダビデの王座とその王国の上にあって,君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない。それは,今より定めのない時に至るまで,公正と義とによってこれを堅く立て,支えるためである」。(イザヤ 9:7前半)イエスは平和の君としての権威を行使する際に,専制的な手段に訴えることはありません。イエスの臣民が自由意志を奪われ,力ずくで押さえつけられることはありません。むしろ,何であれイエスが成し遂げることは,「公正と義とによって」行なわれます。何とすがすがしい変化が生じるのでしょう。

      29 永遠の平和という祝福を受けたいなら,何をすべきですか。

      29 イエスの預言的な名の持つすばらしい意味合いを考えると,預言のこの部分の結びとしてイザヤが述べる言葉に本当に胸が躍ります。こう書かれています。「実に万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。(イザヤ 9:7後半)そうです,エホバは熱心さを抱いて行動されます。中途半端な態度で物事を行なわれることはありません。わたしたちは,何であれエホバが約束される事柄は完全に成し遂げられると確信できます。ですから,永遠の平和を楽しむことを切望する人はみな,心を込めてエホバに仕えましょう。エホバ神および平和の君であるイエスと同様,神の僕すべてが「りっぱな業に熱心」でありますように。―テトス 2:14。

      [脚注]

      a 多くの人は,詩編 119編を,ヒゼキヤが王になる前に書いたものであると考えています。そうであるなら,イザヤが預言していたころに書かれたのかもしれません。

      b イザヤ 8章20節の「この言葉」という表現は,イザヤ 8章19節で引用されている心霊術に関する言葉を指しているとも考えられます。もしそうであるなら,イザヤが述べているのは,ユダで心霊術を奨励している者たちは霊媒に問い合わせるよう他の人たちを促しつづけ,そのためエホバからの啓発を受けられない,ということになります。

      c ソロモン王がティルスの王ヒラムに提供したガリラヤの20の都市にはイスラエル人ではない人々が住んでいたのではないか,という説があります。―列王第一 9:10-13。

      [122ページの地図/図版]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      コラジン

      ベツサイダ

      カペルナウム

      ゲネサレの平原

      ガリラヤの海

      マガダン

      ティベリア

      ヨルダン川

      ガダラ

      ガダラ

      [119ページの図版]

      カインとイエスの誕生はどちらもまさに特別なものだったが,幸福をもたらしたのはイエスの誕生だけだった

      [121ページの図版]

      パンの飢えや水の渇きよりはるかに深刻な飢きんが臨む

      [127ページの図版]

      イエスは地の光だった

  • 反逆者たちは災いだ!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第11章

      反逆者たちは災いだ!

      イザヤ 9:8–10:4

      1 ヤラベアムはどんなひどい過ちを犯しましたか。

      エホバの契約の民が二つの王国に分裂した時,北の十部族王国はヤラベアムの支配を受けるようになりました。この新たな王は有能で精力的な支配者でしたが,エホバに対する真の信仰に欠けていました。そのため,北の王国の歴史全体にわたって悪影響を及ぼすことになる,ひどい過ちを犯しました。モーセの律法のもとで,イスラエル人は年に3度エルサレムの神殿に上るよう命じられていましたが,いま,その神殿は南のユダ王国の領地内にあります。(申命記 16:16)ヤラベアムは,そうした定期的な旅行によって臣民が南の同胞との再統一を考えるようになることを恐れ,「二つの金の子牛を造り,民に言(いまし)た,『あなた方がエルサレムに上るのは大変だ。イスラエルよ,ここに,あなたをエジプトの地から連れ上った,あなたの神がおられる』。それで彼は一つをベテルに据え,もう一つをダンに置(きまし)た」。―列王第一 12:28,29。

      2,3 ヤラベアムの過ちはイスラエルにどんな影響を与えましたか。

      2 しばらくは,ヤラベアムの思いどおりに事が運んでいるかに見えました。民は次第にエルサレムには行かなくなり,二つの子牛の前で崇拝するようになりました。(列王第一 12:30)しかし,この背教的な宗教習慣は十部族王国を腐敗させました。後代には,イスラエルからバアル崇拝を一掃する点で非常に立派な熱心さを示したエヒウでさえ,それら金の子牛に身をかがめ続けたのです。(列王第二 10:28,29)ヤラベアムの悲劇的なまでに間違った判断の結果,ほかにもどんなことが生じましたか。不安定な政情と民の苦しみです。

      3 ヤラベアムが背教者となったため,エホバは,その子孫がイスラエルを統治することはなく,ついには北の王国は恐ろしい災難に遭うであろうと言われました。(列王第一 14:14,15)エホバの言葉どおりになりました。イスラエルの王のうち7人は支配期間が2年以下で,わずか数日だけの者もいました。一人は自殺し,6人は野心を抱く男たちに暗殺されて王座を奪われました。とりわけ,ウジヤがユダで支配していた西暦前804年ごろにヤラベアム2世の治世が終わった後,イスラエルは社会不安,暴虐,暗殺事件に悩まされました。こうした状況を背景に,エホバはイザヤを通して北の王国に,率直な警告もしくは「言葉」を送られます。「エホバがヤコブを責めて送った言葉があり,それはイスラエルに下った」。―イザヤ 9:8。a

      ごう慢と不遜は神の憤りを招く

      4 エホバはイスラエルを責めてどんな「言葉」を送られますか。なぜですか。

      4 エホバの「言葉」は無視されたままにはなりません。「民はみな,エフライムもサマリアの住民も,必ずそれを知るようになる。そのごう慢と心の不遜のためであ(る)」。(イザヤ 9:9)「ヤコブ」,「イスラエル」,「エフライム」,「サマリア」はすべて北のイスラエル王国を指しており,エフライムはその有力な部族であり,サマリアは首都です。その王国に対するエホバの言葉は強力な裁きの声明です。エフライムは背教に凝り固まり,厚かましくもエホバに対して不遜な態度を取っているからです。神が民をその邪悪な歩みの結果から保護することはありません。民は,神の言葉を聞く,もしくはそれに対して注意を払わなければならなくなります。―ガラテア 6:7。

      5 イスラエル人はエホバの裁きに心を動かされていないことをどのように示しますか。

      5 状況が悪化するにつれ,民はひどい損失を被り,住まいも失います。その多くは,泥れんがと安手の木材でできています。そうした損失の結果,民は心を柔軟にしているでしょうか。エホバの預言者たちの言葉に留意し,まことの神のもとに戻るでしょうか。b イザヤは民の不遜な反応をこう記録しています。「れんがは倒れたが,我々は切り石で建てる。エジプトいちじくの木は切り倒されたが,我々は杉をもってこれに代える」。(イザヤ 9:10)イスラエル人はエホバに公然と反抗し,そうした辛苦の理由を告げる神の預言者たちをはねつけます。実のところ民は,『壊れやすい泥れんがと安手の木材でできた家は失っても,もっと良い材料,つまり切り石と杉で建て直し,前よりも良くするのだ』と言っています。(ヨブ 4:19と比較してください。)そのため,エホバは民をさらに懲らしめざるを得ません。―イザヤ 48:22と比較してください。

      6 エホバは,ユダに対するシリア-イスラエルの企てをどのようにくじかれますか。

      6 イザヤは続けて,「エホバはレツィンの敵対者たちを高く上げてこれを攻めさせ(る)」と述べます。(イザヤ 9:11前半)イスラエルのペカハ王とシリアのレツィン王は同盟を結んでいます。二人は,ユダの二部族王国を征服し,エルサレムのエホバの王座に「タブエルの子」という傀儡王を据えようと企てています。(イザヤ 7:6)しかし,その陰謀は破綻することになっています。レツィンには強力な敵たちがおり,エホバはそれら敵たちを「高く上げて」,「これ」つまりイスラエルを攻めさせます。『高く上げる』という表現は,この同盟とその目指すところを壊滅させる効果的な戦いを行なうことを敵たちに許す,という意味です。

      7,8 アッシリアによるシリア征服の結果,イスラエルはどうなりますか。

      7 この同盟は,アッシリアによるシリア攻撃と共に崩壊し始めます。「アッシリアの王はダマスカス[シリアの首都]に上って行き,これを攻め取り,その民をキルへ流刑に処し,またレツィンを殺し」ました。(列王第二 16:9)強力な同盟者を失ったペカハは,ユダに関する自分の謀りごとがくじかれたことを知ります。実際,レツィンの死後間もなく,ペカハ自身もホシェアに暗殺され,その後ホシェアがサマリアの王座を奪います。―列王第二 15:23-25,30。

      8 かつてイスラエルの同盟国であったシリアは,今やその地域の優勢な強国アッシリアの属国となっています。イザヤは,エホバがこの新たな政治上の結び付きをどのように用いられるかを,こう預言します。「[エホバは]その者[イスラエル]の敵たちをせき立てられる。東からはシリア,背後からはフィリスティア人が,そして彼らは口を開けてイスラエルを食い尽くす。このすべてのことのゆえに,神の怒りは元に戻らず,その手はなおも伸ばされたままである」。(イザヤ 9:11後半,12)そうです,シリアは今ではイスラエルの敵であり,イスラエルはアッシリアとシリア双方からの攻撃に備えなければならないのです。その侵略は成功します。アッシリアは王位を奪ったホシェアを僕とし,莫大な貢ぎを取り立てます。(これより何十年か前,アッシリアはイスラエルのメナヘム王から多額の金銭を受け取りました。)預言者ホセアの述べた「よそ人たちが彼[エフライム]の力を食い尽くした」という言葉は,何と真実だったのでしょう。―ホセア 7:9。列王第二 15:19,20; 17:1-3。

      9 フィリスティア人が「背後から」攻撃すると言えるのはなぜですか。

      9 イザヤは,フィリスティア人が「背後から」攻め入るとも述べていないでしょうか。そのとおりです。羅針盤のなかった時代に,ヘブライ人は,日の出の方角を向いた人の視点で方角を表現しました。ですから,「東」は正面であり,西つまり海沿いのフィリスティア人の土地は「背後」となりました。イザヤ 9章12節が述べる「イスラエル」には,この場合,ユダも含まれるのかもしれません。というのは,フィリスティア人はペカハと同時代のアハズの治世中にユダを侵略し,ユダの都市やとりでを幾つも攻め取って占領したからです。北方のエフライムと同様,ユダもエホバからこのように懲らしめられて当然です。ユダも背教で満ちているからです。―歴代第二 28:1-4,18,19。

      『頭から尾まで』― 反逆者の国民

      10,11 イスラエルが反逆し続けるので,エホバはどんな処罰をもたらされますか。

      10 北の王国は,様々な苦しみを味わっているにもかかわらず,またエホバの預言者たちの強烈な布告にもかかわらず,エホバへの反逆を続けます。「この民も自分たちを打つ方のもとに帰らず,万軍のエホバを求めなかった」。(イザヤ 9:13)そのため,預言者イザヤはこう述べます。「エホバはイスラエルから頭と尾,若枝といぐさを一日のうちに切り断たれる。老齢で,重んじられている者が頭,偽りの教訓を与える預言者が尾である。そして,この民を導いている者たちは彼らをさまよわせる者,導かれている者たちは混乱させられている者なのである」。―イザヤ 9:14-16。

      11 「頭」と「若枝」は,「老齢で,重んじられている者」,つまり国民の指導者たちを表わしており,「尾」と「いぐさ」は,指導者たちの喜ぶ言葉を述べる偽預言者たちを指しています。ある聖書学者は,「偽預言者たちが尾と呼ばれているのは,彼らが民の中で道徳的に最もさもしかったから,また邪悪な支配者たちの追従者だったからである」と書いています。エドワード・J・ヤング教授はこれらの偽預言者について,「彼らは指導者ではなく,導かれるままに指導者の後をついて回り,犬が尾を振るように媚びへつらうだけの存在だった」と述べています。―テモテ第二 4:3と比較してください。

      『やもめや父なし子』も反逆者

      12 腐敗はどれほど深くイスラエルの社会に浸透していますか。

      12 エホバは,やもめや父なし子の擁護者です。(出エジプト記 22:22,23)しかし,イザヤがここで述べることを聞いてください。「エホバはその若者たちをも歓ばず,その父なし子をも,やもめたちをも憐れまれないであろう。彼らはみな背教者,悪行者であり,すべての口は無分別なことを語っているからである。このすべてのことのゆえに,神の怒りは元に戻らず,その手はなおも伸ばされたままである」。(イザヤ 9:17)背教は社会のあらゆる階層を腐敗させており,やもめや父なし子も例外ではないのです。エホバは民が歩みを改めることを期待し,辛抱強く預言者たちを遣わされます。例えばホセアは,「イスラエルよ,さあ,あなたの神エホバに帰れ。あなたは自分のとがのためにつまずいたからである」と嘆願します。(ホセア 14:1)やもめや父なし子にさえ裁きを執行しなければならないとは,そうした人たちの擁護者である方にとって非常につらいことであるに違いありません。

      13 イザヤの時代の状況から何を学べますか。

      13 イザヤと同様,わたしたちも,邪悪な者たちに対するエホバの裁きの日に先立つ危機の時代に生活しています。(テモテ第二 3:1-5)ですから,生活状況のいかんにかかわりなく,真のクリスチャンが神の恵みを得つづけるために霊的,道徳的,精神的な清さを保つことは何と重要なのでしょう。一人一人がエホバとの関係を油断なく守るようにしましょう。「大いなるバビロン」から逃れたのに再び「彼女の罪にあずかる」ということが決してないようにしましょう。―啓示 18:2,4。

      偽りの崇拝が暴虐を生む

      14,15 (イ)悪霊崇拝は何を生み出しますか。(ロ)イザヤの預言によると,イスラエルはどんな苦しみが進行するのを経験しますか。

      14 偽りの崇拝は,実のところ悪霊崇拝です。(コリント第一 10:20)大洪水前に実証されたとおり,悪霊の影響は暴虐を生みます。(創世記 6:11,12)ですから,イスラエルが背教して悪霊を崇拝し始めると共に,その地が暴虐と邪悪で満たされるのも,意外なことではありません。―申命記 32:17。詩編 106:35-38。

      15 イザヤは生き生きとした絵画的表現を用いて,イスラエルにおける邪悪と暴虐の広がりをこう描写します。「邪悪が火のように燃え立った……。それはいばらの茂みと雑草を食い尽くす。そして森林のやぶの中でそれに火がつき,それらは煙が立ち上るときのように巻き上げられる。万軍のエホバの憤怒によってその地は燃え上がった。民は火の糧となるであろう。だれひとり自分の兄弟にすら同情を示さない。そして,人は右では切り倒しても必ず飢え,左では食べるが,彼らは決して満ち足りない。各々自分の腕の肉を食べるのである。マナセはエフライムを,エフライムはマナセを。彼らは共にユダに敵するであろう。このすべてのことのゆえに,神の怒りは元に戻らず,その手はなおも伸ばされたままである」。―イザヤ 9:18-21。

      16 イザヤ 9章18-21節の言葉はどのように成就しますか。

      16 いばらの茂みに次々と燃え移ってゆく炎のように,暴虐は手に負えなくなり,すぐに「森林のやぶ」に達して,本格的な山火事のような暴虐を生み出します。聖書注解者のカイルとデリッチによれば,この暴虐の程度は「無政府状態の内戦下での最も非人間的な自己破壊」であり,「人々は優しい感情を全く抱かずに,飽くことなく貪り食い合った」のです。エフライムとマナセの二部族が特に言及されているのは,それらが北の王国の主要な部族であり,ヨセフの二人の息子の子孫として,十部族の中で最も密接につながり合っているからでしょう。それにもかかわらず,これら二部族は,南方のユダと戦う時以外は,兄弟相互の暴虐をやめません。―歴代第二 28:1-8。

      腐敗した裁き人たちは裁き主の前に立つ

      17,18 イスラエルの司法および行政体制にはどんな腐敗がありますか。

      17 エホバは次に,イスラエルの腐敗した裁き人や他の役人たちに裁きの目を向けます。それらの人々は権力を濫用し,公正を求めてやって来た立場の低い人や苦しむ人たちから強奪しています。イザヤはこう述べます。「有害な規定を制定している者や,絶えず書きながら,ただ難儀を書いた者たちは災いだ! それは,立場の低い者たちを訴訟から押しのけ,わたしの民の苦しむ者たちから公正を奪い取り,やもめたちを彼らの分捕り物とならせるため,また,父なし子からも強奪するためである」。―イザヤ 10:1,2。

      18 エホバの律法はあらゆる形態の不正を禁じ,「あなた方は裁きのさいに不正を行なってはならない。あなたは立場の低い者に不公平な扱いをしてはならない。大いなる者を優遇してもならない」と述べています。(レビ記 19:15)これらの役人たちはこの律法を軽視し,やもめや父なし子のわずかな所有物を取り上げるという,極めてむごい,公然たる盗みに等しい行為を正当化するため,自分たち独自の「有害な規定」を作成します。言うまでもなく,イスラエルの偽りの神々はこうした不正に対して盲目ですが,エホバはそうではありません。エホバはここでイザヤを通して,これら邪悪な裁き人たちに注意を向けます。

      19,20 腐敗したイスラエルの裁き人たちの境遇はどのように変化しますか。その「栄光」はどうなりますか。

      19 「注意の向けられる日に,そして滅びにさいし,それが遠くから来るとき,あなた方はどうするのか。援助を求めてだれのもとに逃げるのか。どこに栄光を捨てるのか。人は捕らわれ人たちの下に身をかがめなければならなくなり,人々は殺された者たちの下に倒れつづけるだけではないか」。(イザヤ 10:3,4前半)やもめや父なし子には,訴え出ることのできる正直な裁き人がいません。ですから今,エホバから釈明を求められているそれら腐敗したイスラエルの裁き人たちが,いったいだれに頼るつもりなのかとエホバから問われるのは,いかにももっともなことです。そうです,それら裁き人たちは『生ける神の手に陥るのは恐ろしいことである』ということを,今まさに知ることになるのです。―ヘブライ 10:31。

      20 これら邪悪な裁き人たちの「栄光」,つまり裕福さや地位に伴う世俗的な名声や名誉や権力は長続きしません。ある者たちは捕虜となって,他の捕らわれ人たちの中で『身をかがめる』,つまりかがみ込むようになり,残りの者たちは無残にも殺され,その死体は戦死者の中に埋もれるでしょう。その「栄光」には,不正な手段で得た富も含まれますが,それは敵に強奪されます。

      21 イスラエルが受けた処罰からすると,エホバの怒りはやんだと言えますか。

      21 イザヤはこの最後の連を結ぶにあたり,次のような厳然たる警告を述べます。「このすべてのこと[この国民がこれまでに経験したすべての災い]のゆえに,神の怒りは元に戻らず,その手はなおも伸ばされたままである」。(イザヤ 10:4後半)そうです,エホバにはイスラエルに言うべきことがまだあるのです。エホバは,反逆的な北の王国に最後の破壊的な打撃を加えるまで,伸ばした手を引き戻されません。

      虚偽や私欲のえじきとなってはならない

      22 イスラエルに生じた事柄からどんな教訓を学べますか。

      22 イザヤを通して語られたエホバの言葉はイスラエルにとって重大な意味を持ち,『成果を収めずに神のもとに帰って来ることはありません』でした。(イザヤ 55:10,11)北のイスラエル王国の悲劇的な最期は歴史の記録に残っており,その住民が耐えなければならなかった苦しみのほどは想像できます。当時と同様,神の言葉は必ず現在の事物の体制,とりわけ背教したキリスト教世界に成就します。ですからクリスチャンが,神に反対するうその宣伝に耳を貸さないようにすることは何と肝要なのでしょう。神の言葉によってサタンのずる賢い策略はずっと前から暴露されているので,わたしたちは,古代イスラエルの人々のようにそうした策略に乗ぜられることを避けられます。(コリント第二 2:11)わたしたちのだれも,「霊と真理をもって」エホバを崇拝することをやめたりしませんように。(ヨハネ 4:24)そうしているなら,神の崇拝者たちは,反逆的なエフライムのように,伸ばされた神の手に打たれることはなく,むしろ神の腕に温かく抱かれ,楽園となった地での永遠の命に至る道を歩むよう助けていただけるでしょう。―ヤコブ 4:8。

      [脚注]

      a イザヤ 9:8–10:4は四つの連(リズミカルな章句の区分)で構成されており,各連は,「このすべてのことのゆえに,神の怒りは元に戻らず,その手はなおも伸ばされたままである」という不穏な響きを持つ反復句で終わっています。(イザヤ 9:12,17,21; 10:4)この文学的技巧には,イザヤ 9:8–10:4を一つの複合的な「言葉」にまとめる効果があります。(イザヤ 9:8)また,エホバの『手がなおも伸ばされたままである』のは和解を申し出るためではなく,裁きを行なうためである,という点にも注目してください。―イザヤ 9:13。

      b 北のイスラエル王国に対するエホバの預言者の中には,エヒウ(王ではない),エリヤ,ミカヤ,エリシャ,ヨナ,オデド,ホセア,アモス,ミカがいます。

      [139ページの図版]

      邪悪と暴虐が山火事のようにイスラエルをなめ尽くす

      [141ページの図版]

      他の人をえじきにする人はエホバから釈明を求められる

  • アッシリア人を恐れてはならない
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第12章

      アッシリア人を恐れてはならない

      イザヤ 10:5-34

      1,2 (イ)人間の観点からすると,ヨナが,アッシリア人に伝道する任務を受け入れようとしなかったのももっともなことと言えるのはなぜですか。(ロ)ニネベの人々はヨナの音信にどう反応しましたか。

      西暦前9世紀の半ばごろ,アミタイの子であるヘブライ人の預言者ヨナは,危険を冒してアッシリア帝国の首都ニネベに入りました。ヨナには,伝えるべき重大な音信がありました。エホバから,「立って,大いなる都市ニネベに行き,彼らの悪がわたしの前に達したことをふれ告げよ」と命じられていたのです。―ヨナ 1:2,3。

      2 ヨナは,最初に任務を与えられた時,反対方向のタルシシュに向かって逃げました。人間の観点からすれば,ヨナが乗り気でなかったのももっともなことです。アッシリア人は残酷な民でした。アッシリアの君主の一人は,敵たちにどんな仕打ちを加えたかについて,「わたしは役人ども……の手足を切断した。彼らの中の多くの捕虜をわたしは火で焼き,多くの者を生け捕りにした。わたしはある者たちの手や指を切り取り,ほかの者たちの鼻を切り落とした」と述べています。とはいえ,ヨナがついにエホバの音信を伝えると,ニネベの人々は罪を悔い改め,エホバはその時はニネベを容赦されました。―ヨナ 3:3-10。マタイ 12:41。

      エホバは「むち棒」を振り上げる

      3 エホバの預言者たちによって伝えられた警告に対するイスラエル人の反応は,ニネベの人々とはどのように異なっていましたか。

      3 イスラエル人も同じヨナから伝道を受けましたが,こたえ応じるでしょうか。(列王第二 14:25)いいえ,清い崇拝に背を向け,実のところ,『天の全軍に身をかがめ,バアルに仕える』ことまでします。それだけでなく,「自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせ,占いを行ない,兆しを求め,身を売ってエホバの目に悪いことを行なっては,神を怒らせ」ました。(列王第二 17:16,17)ニネベの人々とは違い,イスラエルは,エホバが警告するために預言者たちを遣わしても,こたえ応じません。そのため,エホバはもっと強硬な手段を取ることにされます。

      4,5 (イ)「アッシリア人」という言葉にはどんな含みがありますか。エホバはどのようにアッシリア人を「むち棒」として用いますか。(ロ)サマリアはいつ陥落しますか。

      4 ヨナがニネベを訪れた後,アッシリアによる侵略はしばらくのあいだ勢いを失います。a しかし,西暦前8世紀の初め,アッシリアは再び軍事強国であることを明らかにし,エホバはそのアッシリアを驚くべきかたちで用います。預言者イザヤは,北のイスラエル王国に対する,エホバからの次の警告を伝えます。「ははあ,アッシリア人,わたしの怒りのためのむち棒,また,彼らの手にあるわたしの糾弾のための棒切れよ! わたしは背教の国民に向かって彼を遣わし,わたしの憤怒の民に向かって彼に命令を出す。多くの分捕り物を取り,多くの強奪物を取り,民をちまたの粘土のように踏みつける所とせよ」。―イザヤ 10:5,6。

      5 イスラエル人にとっては何たる屈辱でしょう。神は,異教徒である「アッシリア人」を「むち棒」として用いてイスラエル人を罰するのです。西暦前742年,アッシリアの王シャルマネセル5世は,背教の国イスラエルの首都であるサマリアを攻囲します。高さ90㍍ほどの丘の上という戦略上有利な位置にあったサマリアは,ほぼ3年にわたって敵の攻撃をしのぎます。しかし,どんな人間の戦略も神の目的を阻むことはできません。西暦前740年,サマリアは陥落し,アッシリアの足下に踏みつけられます。―列王第二 18:10。

      6 どんな点でアッシリア人は,エホバが意図された以上のことを行なおうとしますか。

      6 アッシリア人は,神の民に教訓を与えるためにエホバに用いられているにもかかわらず,エホバを認めません。そのため,エホバは続けてこう言われます。「[アッシリア人]はそのようではないかもしれないが,その気になるであろう。その心はそのようではないかもしれないが,彼はたくらむであろう。なぜなら,滅ぼし尽くすこと,少なからぬ国の民を断ち滅ぼすことがその心の中にあるからである」。(イザヤ 10:7)エホバは,アッシリア人は神の手にある道具である,と述べておられるのです。しかしアッシリア人は,それ以外のものになろうという気になります。自らの心に促され,もっと壮大なこと,つまり当時知られていた世界の征服をたくらみます。

      7 (イ)「わたしの君たちは王でもあるのではないか」という表現の意味を説明してください。(ロ)今日エホバを捨てる人たちは何に注目すべきですか。

      7 アッシリア人に征服された,イスラエル人でない民の都市の多くは,以前は王に支配されていました。それらかつての王たちは,今や属国の君としてアッシリアの王に服従しなければなりません。それで,アッシリアの王はまさしく,「わたしの君たちは王でもあるのではないか」と誇ることができます。(イザヤ 10:8)諸国の有名な都市の偽りの神々は,崇拝者たちを滅びから救うことができませんでした。サマリアの住民が崇拝するバアル,モレク,金の子牛などの神々も,その都にとって保護とはなりません。エホバを捨てたサマリアには,エホバの介入を期待する権利はありません。今日エホバを捨てる人たちはみな,サマリアに臨んだ結末に留意しなければなりません。アッシリア人は,サマリアや,これまでに征服した他の都市に関して,次のように誇ることができます。「カルノはカルケミシュのようではないか。ハマトはアルパドのようではないか。サマリアはダマスカスのようではないか」。(イザヤ 10:9)これらはみなアッシリア人にとっては同じもの,つまりただの分捕り物です。

      8,9 アッシリア人がエルサレムを狙うのは出過ぎたことである,と言えるのはなぜですか。

      8 とはいえ,アッシリア人は誇りのあまりこう言います。「エルサレムやサマリアよりも多くの彫像を持つ,無価値な神の王国にわたしの手が及んだときにはいつでも,わたしはサマリアとその無価値な神々にすると同じようにエルサレムとその偶像にもするのではないか」。(イザヤ 10:10,11)アッシリア人がすでに打ち破った数々の王国は,エルサレム,さらにはサマリアよりもはるかに多くの偶像を有していました。それでアッシリア人は,『エルサレムをサマリアと同じ目に遭わせるのに何の妨げがあろうか』と考えているのです。

      9 何と思い上がった態度でしょう。エホバは,アッシリア人がエルサレムを攻め取るのを許したりはされません。もちろん,ユダには,真の崇拝を支持する点で申し分のない記録があるわけではありません。(列王第二 16:7-9。歴代第二 28:24)エホバは,ユダはその不忠実さのゆえにアッシリアの侵入期間中,多大の苦しみを経験するであろう,と警告しておられます。それでも,エルサレムは生き延びます。(イザヤ 1:7,8)アッシリアが侵攻してくる時,エルサレムの王位にはヒゼキヤがいます。ヒゼキヤは,父アハズのようではありません。実際,その統治のまさに第一の月に,ヒゼキヤは神殿の扉を再び開き,清い崇拝を回復します。―歴代第二 29:3-5。

      10 エホバはアッシリア人に関して何を約束されますか。

      10 それで,アッシリアのもくろむエルサレム攻撃はエホバの是認を得ません。エホバは,この不遜な世界強国との清算を行なうことを,こう約束されます。「そして,エホバがその業をシオンの山とエルサレムでことごとく終わらせるとき,わたしはアッシリアの王の心の不遜の実とその目の高ぶりのうぬぼれを清算する」。―イザヤ 10:12。

      ユダへ,エルサレムへ!

      11 アッシリア人が,エルサレムはたやすく獲物になると思うのはなぜですか。

      11 西暦前740年に北の王国が陥落してから8年後,アッシリアの新たな君主セナケリブがエルサレムに向かって進軍します。イザヤは,セナケリブの誇り高ぶった計画を,詩的にこう描写します。「わたしはもろもろの民の境界を取り除き,その蓄えられた物を必ず略奪し,その住民を強力な者のように下らせる。そして鳥の巣でもあるかのように,わたしの手はもろもろの民の資産に及ぶ。人が捨てられた卵を集めるときのように,わたしもまさに全地をかき集める。だれひとりその翼を羽ばたかせる者も,その口を開く者も,さえずる者もいない」。(イザヤ 10:13,14)他の諸都市は陥落し,サマリアももはや存在しないのだから,エルサレムもたやすく獲物になるだろうと,セナケリブは考えます。その都は中途半端な戦いを挑むかもしれませんが,住民はほとんどさえずることもなく速やかに征服され,住民の資産は,見捨てられた巣の卵のようにさらわれてしまうでしょう。

      12 アッシリア人の誇りに関して,エホバは物事の正しい見方としてどんなことを示されますか。

      12 しかし,セナケリブはあることを忘れています。背教したサマリアは,受けるべき処罰を受けたのです。しかし,ヒゼキヤ王のもとで,エルサレムは再び,清い崇拝の拠点となっています。だれであれエルサレムに手出しをしようとする者は,エホバを相手にすることを覚悟しなければなりません。イザヤは憤然としてこう問いかけます。「斧はそれを使って切る者の上に自分を高めるだろうか。のこぎりはそれを前後に動かす者の上に自分を大いなるものとするだろうか。あたかも杖がそれを高く掲げる者たちを前後に動かすかのように。あたかも棒が木でない者を高く掲げるかのように」。(イザヤ 10:15)アッシリア帝国はエホバの手にある道具にすぎません。それは,斧やのこぎりや杖や棒が,きこりや木びきや羊飼いに用いられるのとまさに同じです。棒が,それを使う人の上に自分を大いなるものとするなど,とんでもないことです。

      13 (イ)「肥えた者たち」,(ロ)「雑草といばらの茂み」,(ハ)『森林の栄光』について,その実体と,それがどうなるかを述べてください。

      13 アッシリア人はどうなるでしょうか。「まことの主,万軍のエホバはその肥えた者たちの上に身のやせ衰える病を送りつづけ,その栄光の下で燃焼は火の燃えるように燃焼しつづける。そしてイスラエルの光は必ず火となり,その聖なる方は炎となる。それは必ず燃え上がり,その雑草といばらの茂みを一日のうちに食い尽くす。そして,神はご自分の森林と果樹園の栄光を,実に魂から肉に至るまで終わらせ,それは必ず病んでいる者が溶け去るときのようになる。そしてその森林の木々の残り ― それはほんの少年が書き留めることのできる数になる」。(イザヤ 10:16-19)そうです,エホバは,このアッシリアの「棒」を削って小さくするのです。アッシリア軍の「肥えた者たち」,つまり頑強な兵士たちは,「身のやせ衰える病」に襲われ,あまり強そうには見えなくなるでしょう。アッシリアの地上部隊は,非常に多くの雑草やいばらの茂みのように,イスラエルの光であるエホバ神によって燃やされます。そして,『森林の栄光』であるアッシリアの士官たちも終わりに至ります。エホバがアッシリア人を処置し終えると,残された士官はあまりにも少ないため,ほんの少年でも指で数えられるほどになるのです。―イザヤ 10:33,34もご覧ください。

      14 西暦前732年までの,ユダの地におけるアッシリア人の前進について説明してください。

      14 とはいえ,西暦前732年にエルサレムに住んでいたユダヤ人にとって,アッシリア人が敗北するとは信じがたいに違いありません。アッシリアのおびただしい軍勢は情け容赦なく進軍しています。陥落したユダの諸都市の名が挙げられるのを聴いてください。「彼はアヤト……ミグロン……ミクマシュ……ゲバ……ラマ……サウルのギベア……ガリム……ライシャ……アナトテ……マドメナ……ゲビム……ノブ(に上って来た)」。(イザヤ 10:28-32前半)b ついに侵入者たちは,エルサレムからわずか50㌔のラキシュに達します。やがて,アッシリアの大軍が都を脅かすようになります。「シオンの娘の山,エルサレムの丘に向かって彼は脅しつけるようにその手を振る」のです。(イザヤ 10:32後半)アッシリア人を止めることなどできるでしょうか。

      15,16 (イ)ヒゼキヤ王が強い信仰を必要とするのはなぜですか。(ロ)エホバが救いに来てくださるというヒゼキヤの信仰には,どんな根拠がありますか。

      15 都の宮殿にいるヒゼキヤ王の不安は募ります。王は衣を引き裂き,粗布で身を覆います。(イザヤ 37:1)そして,ユダのためにエホバに問い尋ねるため,預言者イザヤのもとへ人を遣わします。しばらくして戻って来た使者たちは,『恐れてはならない。わたしは必ずこの都市を防御するであろう』というエホバの答えを伝えます。(イザヤ 37:6,35)しかし,アッシリア人は自信満々で威嚇しつづけています。

      16 信仰 ― それによってヒゼキヤ王はこの危機を切り抜けることになります。信仰とは,「見えない実体についての明白な論証」です。(ヘブライ 11:1)それには,見えている物事の向こうを見ることが含まれます。とはいえ,信仰は知識に基づいています。ヒゼキヤは,エホバが前もって次のような力づけとなる言葉を述べておられたのを覚えていることでしょう。「シオンに住んでいるわたしの民よ,……アッシリア人のことで恐れてはならない。ほんのもう少しすれば ― 糾弾は終わりに至る。わたしの怒りも,彼らが消滅して行くことにおいて。そして,万軍のエホバは,オレブの岩のほとりでミディアンが敗北したときのように,彼に向かって必ずむちを振り回す。その杖は海に臨み,神はエジプトに対して行なったように必ずそれを上げられる」。(イザヤ 10:24-26)c そうです,神の民は困難な状況に面したことがこれまで幾度もありました。ヒゼキヤの先祖たちは紅海で,エジプト軍に対してとても勝ち目はないかに見えました。何世紀か前にギデオンは,ミディアンとアマレクがイスラエルに攻め入った時,圧倒的な数の差に直面しました。それでもエホバは,それら二つの場合に,ご自分の民を救出されました。―出エジプト記 14:7-9,13,28。裁き人 6:33; 7:21,22。

      17 アッシリアのくびきはどのように「壊され」ますか。なぜですか。

      17 エホバは,それら以前に行なったことを再び行なわれるのでしょうか。そのとおりです。こう約束しておられます。「その日,彼の荷はあなたの肩から,彼のくびきはあなたの首から離れ,くびきは油のために必ず壊される」。(イザヤ 10:27)アッシリアのくびきは,神の契約の民の肩と首から外されます。実のところ,そのくびきは「壊される」ことになっているのです。そして,まさにそうなります。一晩のうちに,エホバのみ使いがアッシリア人のうち18万5,000人を殺すのです。脅威は去り,アッシリア人はユダの地から撤退して戻って来ません。(列王第二 19:35,36)なぜでしょうか。「油のために」そうなります。これは,ヒゼキヤをダビデの家系の王として油そそぐために用いられた油のことを指すのかもしれません。こうしてエホバは,次のような約束を果たされます。「わたしは自分のため,またわたしの僕ダビデのために必ずこの都市を防御して,これを救うであろう」。―列王第二 19:34。

      18 (イ)イザヤの預言の成就は一度だけですか。説明してください。(ロ)今日のどんな組織が古代サマリアに似ていますか。

      18 この章で考慮しているイザヤの記述は,今から2,700年以上前にユダで起きた事柄に関するものです。しかし,それらの出来事は今の時代と非常に密接に関連しています。(ローマ 15:4)それは,この興奮を呼ぶ物語の主要登場人物である,サマリアとエルサレムの住民およびアッシリア人に対応するものが今の時代にいる,ということでしょうか。そのとおりです。偶像を礼拝していたサマリアと同様,キリスト教世界はエホバを崇拝していると唱えますが,実際には全くの背教者となっています。「キリスト教教理発展論」(英語)の中で,ローマ・カトリックのジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿は,キリスト教世界が何世紀にもわたって用いてきた香,ろうそく,聖水,司祭服,像などの物品は,「すべて異教に起源を持つ」ことを認めています。エホバは,サマリアの偶像礼拝と同じく,キリスト教世界の異教的な崇拝を喜ばれません。

      19 キリスト教世界は何に関して,まただれから警告を受けてきましたか。

      19 エホバの証人は長年にわたって,キリスト教世界にエホバの不興が臨むことを警告してきました。例えば1955年には,「キリスト教国それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題する公開講演が全世界で行なわれました。その話は,キリスト教世界が純粋のキリスト教の教理と慣行からどのように逸脱してきたかをはっきりと説明しました。その後,この力強い講話の写しが多くの国の僧職者に郵送されました。キリスト教世界は,組織としてこの警告に留意していません。そのためエホバは,同世界に「棒」で懲罰を加えざるを得ません。

      20 (イ)現代のアッシリア人として振る舞うのは何ですか。それはどのように棒として用いられますか。(ロ)キリスト教世界はどの程度まで懲罰を受けますか。

      20 反逆的なキリスト教世界に懲罰を加えるため,エホバはだれを用いますか。その答えは啓示 17章にあります。そこには,キリスト教世界を含む全世界の偽りの宗教を表わす,「大いなるバビロン」という娼婦が登場します。その娼婦は,七つの頭と十本の角を持つ緋色の野獣に乗っています。(啓示 17:3,5,7-12)その野獣は国際連合機構を表わします。d 古代アッシリア人がサマリアを滅ぼしたのと全く同様,緋色の野獣は「娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くす」でしょう。(啓示 17:16)そのようにして,現代のアッシリア人(国連に連なる諸国家)はキリスト教世界に強烈な一撃を加え,粉砕して消滅させます。

      21,22 だれが,神の民を攻撃するよう野獣を動かしますか。

      21 エホバの忠実な証人たちは大いなるバビロンと共に滅びうせるのでしょうか。いいえ,そうではありません。証人たちは神の不興を被ってはいません。清い崇拝は存続します。とはいえ,大いなるバビロンを滅ぼす野獣は,貪欲な目をエホバの民にも向けます。その場合,野獣は神の考えではなく,他のある者の考えを遂行します。それはだれですか。悪魔サタンです。

      22 エホバはサタンの誇り高ぶった企てを暴露して,こう言われます。「その日には,あなた[サタン]の心の中に色々なことが上って来て,あなたは必ず有害な企てを考え出す。あなたは必ず言う,『わたしは……,騒乱のおそれもなく,安らかに住んでいる者たちのところに入って行く。彼らは皆,[保護となる]城壁もなく住んで(いる)』。それは多くのものを分捕り,多くのものを強奪するためであ(る)」。(エゼキエル 38:10-12)サタンはこう考えるでしょう。『そうだ,諸国家をあおってエホバの証人を攻撃させればよいのではないか。証人たちはもろくて,無防備で,政治的な影響力もない。何の抵抗もしないだろう。無防備な巣にある卵のように簡単にさらってしまえるだろう』。

      23 なぜ現代のアッシリア人は,神の民をキリスト教世界と同じ目に遭わせることができませんか。

      23 しかし,諸国家は心しなさい。エホバの民に手出しするなら,神ご自身を相手にしなければならなくなることを知っておくべきです。エホバはご自分の民を愛しておられ,ヒゼキヤの時代にエルサレムのために戦ったのと同様,必ずその民のためにも戦われます。現代のアッシリア人は,エホバの僕たちを根絶しようとする時,実際にはエホバ神および子羊イエス・キリストと闘っていることになるのです。それは,アッシリア人には全く勝ち目のない闘いです。「子羊は,主の主,王の王であるので,彼らを征服する」と聖書は述べています。(啓示 17:14。マタイ 25:40と比較してください。)昔のアッシリア人のように,緋色の野獣は『滅びに至り』ます。恐怖の的となることはもはやありません。―啓示 17:11。

      24 (イ)真のクリスチャンは将来に備えてどんな決意を抱いていますか。(ロ)イザヤはどのように,さらに先を見通していますか。(155ページの囲み記事をご覧ください。)

      24 真のクリスチャンは,エホバとの関係を強く保ち,神のご意志を行なうことを生活上の主要な関心事としているなら,将来に対して恐れを抱く必要はありません。(マタイ 6:33)「何も悪いものを恐れ」なくてよいのです。(詩編 23:4)クリスチャンは,自分たちを罰するためにではなく,神の敵たちから保護するために神の力強い腕が高く上げられるのを信仰の目によって見るでしょう。そして耳には,安心感を与える「恐れてはならない」という言葉が聞こえてくるのです。―イザヤ 10:24。

      [脚注]

      a 「聖書に対する洞察」,第1巻,72ページをご覧ください。

      b 理解しやすくするため,イザヤ 10章20-27節より先にイザヤ 10章28-32節を考慮します。

      c イザヤ 10章20-23節の考察については,155ページの「イザヤはさらに先を見通す」をご覧ください。

      d 娼婦と緋色の野獣の実体に関する付加的な情報は,ものみの塔聖書冊子協会発行の「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の34章と35章にあります。

      [155,156ページの囲み記事/図版]

      イザヤはさらに先を見通す

      イザヤ 10:20-23

      イザヤ 10章はおもに,エホバがどのようにアッシリアの侵入を用いてイスラエルに裁きを執行するかという点と,エルサレムを守るという神の約束に焦点を合わせています。20節から23節はそうした預言の真ん中にあるので,それと同じ時期に全般的な成就を見るものとみなされがちです。(イザヤ 1:7-9と比較してください。)しかし,言葉遣いからすると,これらの節は,より厳密には後の時期に,つまりエルサレムもその住民の罪に関して申し開きをしなければならなくなる時期に当てはまると言えます。

      アハズ王はアッシリアに助けを求めることによって安全を得ようとします。預言者イザヤは,将来,イスラエルの家の生存者たちはもう決してそうした無分別な道を追い求めない,と予告します。イザヤ 10章20節には,生存者たちが「エホバに,イスラエルの聖なる方に真実に寄りかかる」であろう,とあります。しかし21節は,そうするのがごく少数の人たちであることを示し,『ほんの残りの者が帰る』と述べています。このことから思い出すのは,イザヤの息子シェアル・ヤシュブです。その子はイスラエルにおけるしるしであり,その名には「ほんの残りの者が帰る」という意味があります。(イザヤ 7:3)10章22節は,定められている来たるべき「絶滅」について警告しています。そうした絶滅は,反逆的な民に対する当然の処罰であり,義にかなっています。結果として,「海の砂粒のように」人口密度の高い国の残りの者だけが帰って来ます。23節は,この来たるべき絶滅が全土に影響を与えると警告しています。今回は,エルサレムも容赦されません。

      これらの節では,エホバがバビロニア帝国を「むち棒」として用いた西暦前607年に生じた事柄が見事に描写されています。エルサレムを含む全土が侵入者の手に落ちました。ユダヤ人はバビロンでの70年間の捕囚に処されました。しかし,その後,「ほんの残りの者」だけであるとしても,エルサレムで真の崇拝を復興するために帰る人たちがいました。

      ローマ 9章27節と28節が示すとおり,イザヤ 10章20節から23節の預言は,さらに後代になって,1世紀にも成就しました。(イザヤ 1:9; ローマ 9:29と比較してください。)パウロの説明によると,西暦1世紀にユダヤ人の「残りの者」が霊的な意味でエホバのもとに『帰り』ました。そう言えるのは,少数の忠実なユダヤ人がイエス・キリストの追随者になり,「霊と真理をもって」エホバを崇拝し始めたからです。(ヨハネ 4:24)後に,それらユダヤ人に,信者となった異邦人が加わり,「神のイスラエル」という霊的な国民が作り上げられました。(ガラテア 6:16)その時,エホバに献身した国民が神に背き,人間をよりどころとして頼ることは『もう決してない』,というイザヤ 10章20節の言葉が成就しました。

      [147ページの図版]

      セナケリブは,諸国民をかき集めるのは卵を巣から集めるのと同じほどたやすい,と考える

  • メシアの統治のもとでもたらされる救いと歓び
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第13章

      メシアの統治のもとでもたらされる救いと歓び

      イザヤ 11:1–12:6

      1 イザヤの時代の神の契約の民の霊的状態について説明してください。

      イザヤの時代,神の契約の民は霊的にひどい状態にありました。ウジヤやヨタムといった忠実な王が支配している時でさえ,民の中には高き所で崇拝を行なう者が多かったのです。(列王第二 15:1-4,34,35。歴代第二 26:1,4)ヒゼキヤは王になると,バアル崇拝に関連したものをその地から除かなければなりませんでした。(歴代第二 31:1)エホバが,ご自分のもとに帰るよう民を強く促し,与えられようとしている懲罰について警告なさったのも何ら不思議ではありません。

      2,3 不忠実さが広まっているとはいえ,神に仕えることを願う人々に,エホバはどんな励ましをお与えになりますか。

      2 とはいえ,すべての者が全くの反逆者であったというわけではありません。エホバには忠実な預言者たちがいました。また,そうした預言者たちの言葉に耳を傾けるユダヤ人も幾らかいたようです。そうした人たちには,エホバからの慰めの言葉がありました。預言者イザヤは,アッシリア人が侵入してきた期間中にユダが経験する恐ろしい略奪行為を描写した後,霊感のもとに,聖書全巻の中でも特に美しい部分を書き記しました。それは,メシアの統治のもとでもたらされる数々の祝福に関する描写です。a それらの祝福の幾つかの面は,ユダヤ人がバビロン捕囚から帰還した時に小規模に成就したことが明らかになりました。とはいえ,この預言全体としては,今日,主要な成就を見ます。言うまでもなく,イザヤや同時代の他の忠実なユダヤ人が,それらの祝福を見るまで生き延びることはありませんでした。それでも,そうした人々は信仰を抱いてその祝福を期待していましたし,復活の後にイザヤの言葉の成就を見るでしょう。―ヘブライ 11:35。

      3 現代のエホバの民も励ましを必要としています。この世の道徳上の価値観の急速な低下,王国の音信に対する悪意に満ちた反対,自分自身の弱さなどが,エホバの民すべてにとって試練となっています。メシアとその統治に関するイザヤのすばらしい言葉は,神の民がそうした試練に対処するための力また助けとなります。

      メシア ― 有能な指導者

      4,5 イザヤはメシアの到来に関して何を預言しましたか。マタイはイザヤの言葉をどう適用したようですか。

      4 イザヤの時代より何世紀も前に,ヘブライ語聖書の他の筆者たちは,エホバがイスラエルに遣わす真の指導者であるメシアの到来を指摘していました。(創世記 49:10。申命記 18:18。詩編 118:22,26)ここでイザヤを通して,エホバはさらに詳細な点を付け加えられます。イザヤはこう書いています。「エッサイの切り株から必ず小枝が出る。その根から出る新芽はよく実を結ぶであろう」。(イザヤ 11:1。詩編 132:11と比較してください。)「小枝」と「新芽」という表現はいずれも,メシアがダビデを通してエッサイの子孫となることを示しています。ダビデはエッサイの子であり,油をそそがれてイスラエルの王として任命されました。(サムエル第一 16:13。エレミヤ 23:5。啓示 22:16)真のメシアが到来する時,ダビデの家から出るこの「新芽」は良い実を産み出すことになっています。

      5 約束のメシアはイエスです。福音書筆者マタイは,イエスが「ナザレ人」と呼ばれることは預言者たちの言葉の成就であると述べた時,それとなくイザヤ 11章1節の言葉に触れていました。イエスはナザレの町で育ったのでナザレ人と呼ばれましたが,ナザレ人という名称は,イザヤ 11章1節で「新芽」という意味で用いられているヘブライ語と関係があるようです。b ―マタイ 2:23,脚注。ルカ 2:39,40。

      6 メシアはどんな支配者になると預言されていますか。

      6 メシアはどんな支配者になるのでしょうか。北のイスラエル十部族王国を滅ぼす残忍で片意地なアッシリア人のようになるのでしょうか。そのようなことはありません。メシアに関して,イザヤはこう述べます。「彼の上にエホバの霊が必ずとどまる。それは知恵と理解の霊,計り事と力強さの霊,知識とエホバへの恐れの霊である。エホバへの恐れに彼の楽しみがあるであろう」。(イザヤ 11:2,3前半)メシアは油そそがれますが,それは油ではなく神の聖霊によって行なわれます。そのことはイエスのバプテスマの際に生じます。その時,バプテスマを施す人ヨハネは,神の聖霊がはとの形をとってイエスの上に下るのを見ます。(ルカ 3:22)エホバの霊がイエスの『上にとどまり』,イエスは知恵と理解と計り事と力強さと知識をもって行動して,それを証明します。支配者として何と優れた特質を備えているのでしょう。

      7 イエスは忠実な追随者たちにどんな約束をしましたか。

      7 イエスの追随者たちも聖霊を受けることができます。イエスはご自分の講話の中で,こう言明されました。「あなた方が,邪悪な者でありながら,自分の子供に良い贈り物を与えることを知っているのであれば,まして天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださるのです」。(ルカ 11:13)ですから,わたしたちは神に聖霊を求めることを決してためらうべきではありません。また,その霊の健全な実である「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,温和,自制」を培うことをやめてはなりません。(ガラテア 5:22,23)エホバは,「上からの知恵」を求めるイエスの追随者たちの願いを聞き届け,生活上の試練に首尾よく対処できるよう助ける,と約束しておられます。―ヤコブ 1:5; 3:17。

      8 イエスはどのようにエホバへの恐れを楽しみとしますか。

      8 メシアが示すエホバへの恐れとはどんなものですか。もちろん,イエスが神からの有罪宣告を恐れて神を怖がることはありません。むしろメシアは,神に対する恭しい畏敬の気持ち,愛のこもった崇敬の念を抱いているのです。神を恐れる人は,イエスのように常に『神の喜ばれることを行ない』たいと願います。(ヨハネ 8:29)イエスは言葉と手本により,エホバへの健全な恐れを抱いて日々歩むことに勝る喜びはない,ということを教えておられます。

      義にかなった,憐れみ深い裁き主

      9 クリスチャン会衆内の問題を裁くよう求められる人にとって,イエスはどんな手本となっていますか。

      9 イザヤはメシアの特性について,さらにこう予告します。「彼は目で見る単なる外見によって裁くのでも,ただ耳で聞くことにしたがって戒めるのでもない」。(イザヤ 11:3後半)あなたが法廷に立たねばならないとき,裁判官がこのような人であれば,うれしく思うのではありませんか。全人類の裁き主という立場にあるメシアは,偽りの論議やずる賢い法廷戦術やうわさにも,裕福さなどの表面的な要素にも惑わされることはありません。欺まんを見破り,好ましくない外見の背後にあるものを見抜き,「心の中の秘められた人」,あるいは「隠された人」を見分けます。(ペテロ第一 3:4,脚注)イエスのすばらしい手本は,クリスチャン会衆内の問題を裁くよう求められる人すべてにとって模範となります。―コリント第一 6:1-4。

      10,11 (イ)イエスはどんな仕方で追随者たちを矯正しますか。(ロ)イエスは邪悪な者たちにどんな裁きを下しますか。

      10 メシアのすばらしい特質は,裁定にどんな影響を与えるでしょうか。イザヤはこう説明します。「立場の低い者たちを必ず義をもって裁き,地の柔和な者たちのために必ず廉直さをもって戒めを与える。また,必ずその口のむち棒をもって地を打ち,その唇の霊をもって邪悪な者を死に至らせるであろう。そして義は必ずその腰間の帯となり,忠実はその腰の帯となる」。―イザヤ 11:4,5。

      11 イエスは,追随者たちが矯正を必要とする時に,最大の益となる仕方で矯正を与えます。それはクリスチャンの長老にとって優れた手本です。一方,悪を習わしにする者たちには,厳しい裁きが待っています。神がこの事物の体制に釈明を求めるとき,メシアは権威のある声をもって「地を打ち」,邪悪な者すべてに対して滅びの裁きを言い渡すでしょう。(詩編 2:9。啓示 19:15と比較してください。)最終的に,人類の平和を乱す邪悪な者は一人も残されません。(詩編 37:10,11)腰に,その腰間に義と忠実を帯びたイエスには,そうしたことを成し遂げる力があります。―詩編 45:3-7。

      地の状態は変化する

      12 バビロンから約束の地へ帰還することを考えるユダヤ人は,どんなことを心配するかもしれませんか。

      12 ユダヤ人はエルサレムに戻って神殿を再建するように,というキュロスの布告を知ったばかりの,一人のイスラエル人を思い描いてみてください。その人は,バビロンでの安全を後にして,故国への長旅をするでしょうか。イスラエルの地は,70年間放置されていた間に,雑草の生い茂る,さびれた所となっています。今では,おおかみ,ひょう,ライオン,熊などがうろつき回り,コブラもすみ着いています。帰還するユダヤ人が生き延びるためには,羊や牛の群れから乳や毛や肉を得,牛にすきを引かせるなど,家畜に頼らなければなりませんが,それら家畜は捕食動物のえじきとなってしまうでしょうか。幼い子供たちはへびにかまれるでしょうか。旅の途中で待ち伏せをされる危険についてはどうでしょうか。

      13 (イ)イザヤはどんな心温まる情景を描いていますか。(ロ)イザヤが描写している平和には野生動物からの安全以上の事柄が含まれると,どうして分かりますか。

      13 イザヤはここで,神がイスラエルの地に生じさせる状態について心温まる情景を描き,こう述べます。「おおかみはしばらくの間,雄の子羊と共に実際に住み,ひょうも子やぎと共に伏し,子牛,たてがみのある若いライオン,肥え太った動物もみな一緒にいて,ほんの小さな少年がそれらを導く者となる。また,雌牛と熊も食べ,その若子らは共に伏す。そしてライオンでさえ,雄牛のようにわらを食べる。そして乳飲み子は必ずコブラの穴の上で戯れ,乳離れした子は毒へびの光り穴の上にその手を実際に置くであろう。それらはわたしの聖なる山のどこにおいても,害することも損なうこともしない。水が海を覆っているように,地は必ずエホバについての知識で満ちるからである」。(イザヤ 11:6-9)この言葉は心に訴えるのではないでしょうか。ここに描写されている平和はエホバについての知識の結果としてもたらされる,という点に注目してください。したがって,単なる野生動物からの安全以上の事柄が含まれています。エホバについての知識が動物を変化させることはないでしょうが,人々には影響を及ぼします。故国への旅の途中も,復興された地においても,イスラエル人は野獣も獣のような人間も恐れる必要はないのです。―エズラ 8:21,22。イザヤ 35:8-10; 65:25。

      14 イザヤ 11章6-9節には,さらに大きなどんな成就がありますか。

      14 とはいえ,この預言にはさらに大きな成就があります。1914年,メシアであるイエスは天のシオンの山で即位しました。1919年,「神のイスラエル」の残っている者たちはバビロンへの捕らわれから解放を経験し,真の崇拝の回復に加わりました。(ガラテア 6:16)その結果,パラダイスに関するイザヤの預言が現代に成就するための道が開かれました。「正確な知識」,つまりエホバについての知識は人々の人格を変えてきました。(コロサイ 3:9,10)以前は暴力的だった人たちが平和を好む人になっています。(ローマ 12:2。エフェソス 4:17-24)こうした物事の進展は,今では何百万もの人々に影響を与えています。それは,イザヤの預言が,急速に数を増す,地的な希望を抱くクリスチャンたちも包含するようになったからです。(詩編 37:29。イザヤ 60:22)それらのクリスチャンは,全地が神の当初の目的どおり,安全で平和なパラダイスとして回復される時を待ち望むようになりました。―マタイ 6:9,10。ペテロ第二 3:13。

      15 イザヤの言葉が新しい世で文字どおりの成就を見ると期待するのは理にかなったことですか。説明してください。

      15 その回復されたパラダイスにおいて,イザヤの預言は,別の,恐らくいっそう文字どおりの成就を見るのでしょうか。そう考えるのは理にかなったことであると思われます。その預言は,メシアの支配のもとで生活するすべての人に,帰還するイスラエル人に与えたのと同じ保証を与えます。つまり,その人たちも子どもたちも,人間であれ動物であれ,何かから害を受けるのではないかとおびえることはないという保証です。メシアの王国支配のもとで,地の住民はみな,アダムとエバがエデンで享受したような平和な状態を楽しみます。もちろん聖書は,エデンでの生活がどんなものだったか,あるいはパラダイスでの生活がどのようになるかについて,詳細な点をすべて明らかにしてはいません。それでもわたしたちは,王イエス・キリストの賢明で愛のある支配のもとで,すべての物事がまさに本来の状態になることを確信できます。

      メシアによって回復される清い崇拝

      16 西暦前537年に,何が神の民のための旗じるしとして立ちましたか。

      16 清い崇拝はまずエデンにおいて,サタンが首尾よくアダムとエバをそそのかしてエホバに背かせた時に攻撃を受けました。今日に至るまで,サタンは,できる限り多くの人を神から引き離すという目標を捨てていません。しかし,エホバは清い崇拝が地から消え去ることなど許されません。み名が関係しており,神はご自分に仕える者のことを気遣っておられます。それで,イザヤを通して次のような顕著な約束をされます。「その日には,もろもろの民のための旗じるしとして立ち上がるエッサイの根がある。諸国の民は物を問い尋ねようとして彼のもとに向かい,その休み場は必ず栄光に満ちる」。(イザヤ 11:10)西暦前537年に,ダビデによってかつて首都とされていた都市エルサレムは旗じるしの役割を果たし,帰還して神殿を再建するよう,散らされていたユダヤ人の忠実な残りの者を呼び集めました。

      17 1世紀,そしてわたしたちの時代に,イエスはどのように『諸国民を支配するために起こり』ましたか。

      17 しかし,この預言はそれ以上のことを指し示しています。すでに考慮したとおり,この預言は,すべての国の民にとって唯一まことの指導者であるメシアによる支配を指し示しています。使徒パウロはイザヤ 11章10節を引用し,自分の時代に諸国民がクリスチャン会衆の一員となることを示しました。その聖句をセプトゥアギンタ訳から引用し,こう書いています。「イザヤは言います,『エッサイの根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望を置くであろう』」。(ローマ 15:12)さらに,この預言はもっと先のわたしたちの時代,つまり諸国民がメシアの油そそがれた兄弟たちを支持することによってエホバに対する愛を示す時にまで及びます。―イザヤ 61:5-9。マタイ 25:31-40。

      18 わたしたちの時代に,イエスはどのように集結点となってきましたか。

      18 現代の成就において,イザヤの言う「その日」は,1914年にメシアが天の神の王国の王として即位した時に始まりました。(ルカ 21:10。テモテ第二 3:1-5。啓示 12:10)その時以来,イエス・キリストは,霊的なイスラエルおよび義の政府を切望するすべての国の民にとって,明確な旗じるし,もしくは集結点となってきました。メシアの指導のもと,王国の良いたよりはイエスの予告のとおり,あらゆる国民に伝えられてきました。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)この良いたよりは強力な影響を及ぼします。「すべての国民……の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」は,油そそがれた残りの者の行なう清い崇拝に加わることによってメシアに服しています。(啓示 7:9)多くの新しい人たちが続々と,エホバの霊的な「祈りの家」にいる残りの者の仲間になるにつれ,メシアの「休み場」つまり神の偉大な霊的神殿に,いっそうの栄光がもたらされています。―イザヤ 56:7。ハガイ 2:7。

      一致した民がエホバに仕える

      19 エホバは2回にわたってどんな時に,全地に散らされているご自分の民の残りの者を回復されますか。

      19 次にイザヤはイスラエル人に,かつて強力な敵の圧制に直面していた時にエホバが救いを備えてくださったことを思い起こさせます。イスラエルの歴史のその部分,つまりエホバがエジプトでの捕らわれからイスラエルを解放されたことは,すべての忠実なユダヤ人にとって貴重な思い出となっています。イザヤはこう書きます。「その日,エホバは再び,二度目に手を差し伸べて,アッシリア,エジプト,パトロス,クシュ,エラム,シナル,ハマト,海の島々から残っているご自分の民の残りの者を得るのである。また,諸国の民のために必ず旗じるしを掲げ,イスラエルの追い散らされた者たちを集め,ユダの散らされた者たちを地の四方の果てから集められる」。(イザヤ 11:11,12)エホバはあたかも手を取るかのように,イスラエルとユダ両方の忠実な残りの者を,散らされていた諸国から導き出し,安全に故国に戻されます。それは西暦前537年に小規模に生じますが,大規模な成就はなおいっそう栄光に満ちたものとなります。1914年,エホバは,即位したイエス・キリストを『諸国民のための旗じるし』として掲げました。1919年に,「神のイスラエル」の残っている者たちは,神の王国のもとで清い崇拝に加わりたいという熱意を抱き,この旗じるしのもとに群がり始めました。この類例のない霊的国民は,「あらゆる部族と国語と民と国民の中から」やって来ます。―啓示 5:9。

      20 神の民はバビロンから帰還して,どんな一致を楽しみますか。

      20 イザヤはここで,この回復された国民の一致を描写します。北の王国をエフライム,南の王国をユダと呼び,こう言います。「エフライムのねたみは必ず去り,ユダに敵意を示す者たちも断ち滅ぼされるであろう。エフライムもユダをねたまず,ユダもエフライムに敵意を示さない。そして彼らは西のフィリスティア人の肩に飛びかかり,共に東の子らを強奪するであろう。エドムとモアブは彼らがその手を突き出すところの者となり,アンモンの子らは彼らの臣民となる」。(イザヤ 11:13,14)バビロンから帰還するユダヤ人は,もはや分裂した二つの国家ではありません。イスラエルの全部族の成員が一致して自分たちの土地に戻ります。(エズラ 6:17)もはや恨みや敵意を示し合うことはありません。一致した民として,近隣諸国の中にいる敵たちに対して勝利者の立場を得るでしょう。

      21 今日の神の民の一致はどのようにまさに際立っていますか。

      21 「神のイスラエル」の一致はさらに印象的です。霊的なイスラエルの象徴的な12部族は,ほぼ2,000年にわたって,神および霊的な兄弟姉妹に対する愛に基づく一致を楽しんできました。(コロサイ 3:14。啓示 7:4-8)今日,エホバの民は,霊的イスラエル人も地的な希望を抱く人々も,メシアの支配のもとで平和と世界的な一致を楽しんでいます。それはキリスト教世界の諸教会では考えられない状態です。エホバの証人は,自分たちの崇拝を妨害しようとするサタンの努力に対して一致した霊的な戦線を張り,一つの民として,メシアの王国の良いたよりをすべての国で宣べ伝えて教えるようにとの,イエスからゆだねられた務めを果たしています。―マタイ 28:19,20。

      障害物を乗り越える

      22 エホバはどのように『エジプトの海の舌を切り断ち』,『川に手を振り』ますか。

      22 文字どおりのものであれ比喩的なものであれ,イスラエル人が流刑から帰還するのを妨げる数多くの障害物があります。それらをどのように乗り越えるのでしょうか。イザヤはこう言います。「エホバはエジプトの海の舌を必ず切り断ち,その霊の勢いによって川に手を振る。また,必ずそれをその七つの奔流において打ち,民をまさにサンダルを履いて歩かせる」。(イザヤ 11:15)神の民が帰還する上での妨害物すべてを,エホバが取り除いてくださいます。紅海の舌のような圧倒的な障害物(例えばスエズ湾)も,強大なユーフラテス川のように越すことのできない障害物も,いわば干上がって,サンダルを脱がずに渡れるようになるのです。

      23 どのように『アッシリアから街道が生じ』ますか。

      23 モーセの時代にエホバは,イスラエルがエジプトから脱出して約束の地へ行進するための道を備えました。このたびは,それと似た次のようなことをなさいます。「残っているその民の残りの者のために,アッシリアから必ず街道が生じる。イスラエルがエジプトの地から上って来た日に,彼のためにそれが生じたように」。(イザヤ 11:16)エホバは,帰還する流刑者たちを,まるで流刑地から故国に至る街道を歩いているかのように導かれます。反対者たちは帰還を止めようとするでしょうが,神エホバが帰還者と共におられます。今日の油そそがれたクリスチャンとその仲間たちも,同様に悪意に満ちた攻撃を受けますが,勇気を持って前進します。現代のアッシリアであるサタンの世から出てきた彼らは,同じ行動を取るよう他の人たちを助けます。清い崇拝が成功を収め,栄えることを知っているのです。それは人の業ではなく,神の業です。

      メシアの臣民は終わりのない歓びを味わう!

      24,25 エホバの民は賛美と感謝のどんな表現をもって叫びますか。

      24 次いでイザヤは,神の言葉の成就に関するエホバの民の歓喜を,喜びに満ちた言葉遣いで描写し,こう述べます。「その日,あなたは必ず言うであろう,『エホバよ,わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに対していきり立たれましたが,あなたの怒りは徐々に去り,あなたはわたしを慰めてくださいました』」。(イザヤ 12:1)エホバが,道に外れたご自分の民に与える懲らしめは厳しいものです。しかしそれは,その国民と神との関係を修復して清い崇拝を回復するという目的を果たします。エホバは忠実な崇拝者たちに,最終的には救いを施すと述べて安心させておられます。崇拝者たちが感謝を言い表わすのも当然です。

      25 回復されたイスラエル人はエホバに対する確信を全きものとし,こう叫びます。「『見よ,神はわたしの救い。わたしは信頼し,怖れない。ヤハ,エホバはわたしの力,わたしの偉力であり,わたしの救いとなってくださったからである』。あなた方は歓喜して,必ず救いの泉から水をくむであろう」。(イザヤ 12:2,3)2節で「偉力」と訳されているヘブライ語は,セプトゥアギンタ訳では「賛美」となっています。崇拝者たちの口から,「ヤハ,エホバ」による救いに関する賛美の歌がほとばしり出るのです。エホバという名の省略形である「ヤハ」は,聖書中で,高揚した賛美や感謝の感情を伝えるために用いられています。「ヤハ,エホバ」という,神のみ名を二度繰り返す表現を用いることにより,神に対する賛美がいっそう強められています。

      26 今日,だれが諸国民の中で神の行ないを知らせていますか。

      26 エホバの真の崇拝者たちが喜びを自分たちだけのものにすることはありません。イザヤはこう予告します。「その日,あなた方は必ず言う,『あなた方はエホバに感謝せよ! そのみ名を呼び求めよ。もろもろの民の中にその行ないを知らせよ。そのみ名の高く上げられることを語り告げよ。エホバに調べを奏でよ。見事にことを行なわれたからだ。これは全地に知らされている』」。(イザヤ 12:4,5)1919年以来,油そそがれたクリスチャンは ― 後には,「ほかの羊」という仲間の助けも受けて ―『闇からご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださった方の卓越性を広く宣明して』きました。それらクリスチャンは,この目的のために取り分けられた「選ばれた種族,……聖なる国民」です。(ヨハネ 10:16。ペテロ第一 2:9)油そそがれた者たちは,エホバの聖なるみ名が高く上げられることを宣明し,み名を全地に知らせる業に加わっています。エホバの崇拝者すべての先頭に立って,救いのための神の備えを歓びとしています。イザヤが声を大にしてこう述べるとおりです。「シオンに住む者よ,甲高く叫び,喜びの叫びを上げよ。イスラエルの聖なる方はあなたの中にあって大いなる方だからである」!(イザヤ 12:6)イスラエルの聖なる方とは,ほかならぬエホバ神のことです。

      確信を抱いて将来を待ち望みなさい

      27 クリスチャンは希望の実現を待ちつつ,何に確信を置いていますか。

      27 今日,何百万もの人々が,「もろもろの民のための旗じるし」,つまり神の王国で王座に就いたイエス・キリストのもとに群がってきました。その人々は神の王国に服すことを歓びとし,エホバとみ子を知ることに興奮を覚えています。(ヨハネ 17:3)一致したクリスチャンの仲間との交友から大きな幸福を感じ,エホバの真の僕たちの特徴である平和を維持するよう懸命に努力しています。(イザヤ 54:13)ヤハ,エホバが約束を果たす神であることを得心し,希望に確信を置き,その希望を他の人に分かつことを大きな喜びとしているのです。エホバの崇拝者各人がこれからも力を尽くして神に仕え,そうするよう他の人を助けてゆけますように。すべての人がイザヤの言葉を心に留め,エホバのメシアを通してもたらされる救いを歓びとしますように。

      [脚注]

      a 「メシア」という語は,「油そそがれた者」を意味するヘブライ語マーシーアハに由来しています。それに相当するギリシャ語はクリストス,つまり「キリスト」です。―マタイ 2:4,脚注。

      b ヘブライ語で「新芽」はネーツェルであり,「ナザレ人」はノツリーです。

      [158ページの図版]

      メシアはダビデ王を通してエッサイから出た「小枝」である

      [162ページ,全面図版]

      [170ページの図版]

      死海文書のイザヤ 12章4節と5節(目立たせている箇所が神のみ名)

  • エホバは尊大な都を低める
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第14章

      エホバは尊大な都を低める

      イザヤ 13:1–14:23

      1 この部分で,イザヤ書はどれほど先を見通していますか。

      イザヤの預言の書は,西暦前8世紀,アッシリア人が約束の地に侵入したころに書かれました。イザヤ書のこれまでの章にあったとおり,イザヤは驚くほど正確に物事の進展を予告しています。しかしイザヤ書は,アッシリアの全盛期の先も見通し,バビロンの所在地シナルをはじめ,多くの流刑先からエホバの契約の民が帰還することを予告しています。(イザヤ 11:11)イザヤ 13章には驚くべき預言が収められており,それが成就する時に,そうした帰還のための道が開かれます。その預言の序文はこうなっています。「アモツの子イザヤが幻で見たバビロンに対する宣告」。―イザヤ 13:1。

      『わたしはごう慢を卑しめる』

      2 (イ)ヒゼキヤはどのようにしてバビロンと掛かり合いを持つようになりますか。(ロ)掲げられる「旗じるし」とは何ですか。

      2 イザヤが生きていた時代に,ユダはバビロンと掛かり合いを持つようになります。ヒゼキヤ王は重病に倒れますが,回復します。王の回復に対する祝いの言葉を述べるためにバビロンから大使たちがやって来ますが,それには,ヒゼキヤをアッシリアに対する戦いの同盟者として抱き込もうとする隠れた意図があるようです。浅はかにもヒゼキヤ王は,自分の財宝すべてを大使たちに見せます。そのため,イザヤはヒゼキヤに,王の死後,それらの富はみなバビロンに持ち去られるであろうと告げます。(イザヤ 39:1-7)その言葉は,西暦前607年,エルサレムが滅ぼされ,国民が流刑に処される時に成就します。しかし,神の選ばれた民は永久にバビロンにとどまるわけではありません。エホバは,民が故国に帰還するための道をご自分がどのように開くかを予告し,こう語り始められます。「あなた方はむき出しの岩の山の上に旗じるしを掲げよ。彼らに向かって声を上げ,手を振り,彼らが高貴な者たちの入口に入って来るようにせよ」。(イザヤ 13:2)「旗じるし」とは,バビロンを高位の立場から引きずり降ろす,ある新興世界強国のことです。その世界強国は,はるかかなたからもよく見える「むき出しの岩の山の上に」掲げられます。その新たな世界強国はバビロンを襲撃するよう呼び出され,「高貴な者たちの入口」,つまりその大いなる都の城門から押し入り,都を征服します。

      3 (イ)エホバが起こされる「神聖にされた者たち」とはだれですか。(ロ)異教徒の軍隊はどんな意味で「神聖にされた」と言えますか。

      3 次いで,エホバはこう言われます。「わたしは,わたしの神聖にされた者たちに命令を出した。また,わたしの怒りを表明するために,わたしの力ある者たち,わたしのひときわ歓喜している者たちを呼んだ。聴け,山々にいる群衆を,数多い民のようなものを! 聴け,多くの王国,集められた諸国の民のどよめきを! 万軍のエホバは戦いの軍勢を召集しておられる」。(イザヤ 13:3,4)ごう慢なバビロンを低くするために任命された,これら「神聖にされた者たち」とはだれですか。それらは諸国の連合軍,「集められた諸国の民」です。その連合軍は遠方の山地からバビロンを攻めるために下ってきます。「彼らは遠くの地から,天の果てからやって来る」のです。(イザヤ 13:5)それらの者たちはどんな意味で神聖にされているのでしょうか。聖なるものであるという意味でないことは確かです。エホバに仕えることに何の関心もない,異教徒の軍隊だからです。とはいえ,ヘブライ語聖書では,「神聖にされた」とは「神に用いられるよう取り分けられた」ことを意味します。エホバは,諸国の軍隊を神聖にし,その利己的な野心を利用してご自分の怒りを表明することができます。神はアッシリアをそのように用いたことがあり,バビロンも同じようにお用いになります。(イザヤ 10:5。エレミヤ 25:9)そして,他の国々を用いて,バビロンに処罰を加えるのです。

      4,5 (イ)エホバはバビロンに関して何を予告されますか。(ロ)バビロンを攻めるには何を突破しなければなりませんか。

      4 この時点では,バビロンはまだ支配的な世界強国となってはいません。しかし,エホバはイザヤを通して宣言を行ない,バビロンがそうした地位を占める時代を見越して,その倒壊をこう予告されます。「あなた方は泣きわめけ。エホバの日が近いからだ。それは全能者からの奪略として来る」。(イザヤ 13:6)そうです,誇り高ぶるバビロンは,一転して悲嘆に暮れて泣きわめくようになります。なぜでしょうか。「エホバの日」,エホバがバビロンに対する裁きを執行する日が来るからです。

      5 しかし,バビロンが奪略されることなど,どうしてあり得るのでしょうか。奪略のためのエホバの時が来ても,その都はいたって堅固に見えるでしょう。侵攻軍はまず,ユーフラテス川という天然の防御物を突破しなければなりません。その川は都の中央部を流れ,防衛用の堀を満たし,都に飲料水を供給しています。さらにバビロンには,攻略不能に見える堂々たる二重城壁があります。その上,都には食糧が十分に備蓄されています。「日々の聖書図版」(英語)という本によると,バビロンの最後の王ナボニドスは「多大の努力を払って糧食を貯め込んだので,バビロンには住民を20年間持ちこたえさせるに足る[食糧の]蓄えがあるとみなされた」とのことです。

      6 バビロンが予告された襲撃を受ける時,人々の不意をついてどんなことが生じますか。

      6 しかし,物事は外見どおりとは限りません。イザヤはこう言います。「それゆえに,すべての手は垂れ下がり,死すべき人間の心臓もすべて溶ける。そして人々はかき乱された。けいれんと産みの苦しみが捕らえる。彼らは子を産むときの女のように陣痛を覚える。彼らは驚いて互いに見つめ合う。その顔は燃える顔である」。(イザヤ 13:7,8)征服軍が都に侵入すると,それまで安らかに過ごしていた住民は,子を産む女性のように,にわかに激しい苦痛を感じるでしょう。住民の心臓は恐れのために溶けるかのようになります。手は麻痺して垂れ下がり,防戦することができません。顔は恐れと苦悩のために「燃え」ます。住民は,自分たちの大いなる都が倒れることなどどうしてあり得るのかと考え,驚いて互いに見つめ合うでしょう。

      7 どんな「エホバの日」が到来しますか。その結果,バビロンはどうなりますか。

      7 しかし,その都は必ず倒れます。バビロンは,「エホバの日」という,大変な苦痛に満ちた清算の日を迎えることになっているのです。至上の裁き主は怒りを表明し,罪深いバビロンの住民に当然の裁きを下されます。こう預言されています。「見よ,エホバの日が来ようとしている。それは憤怒と燃える怒りを伴う残酷なものであり,その地を驚きの的とし,その地の罪人たちをそこから滅ぼし尽くすためである」。(イザヤ 13:9)バビロンの見通しは陰うつです。あたかも太陽や月や星がすべて光を失ったかのようです。「天の星もケシルの星座もその光を放たず,太陽はその出て行くときに実際に暗くなり,月もその光を輝かせない」。―イザヤ 13:10。

      8 エホバがバビロンを倒壊に定めるのはなぜですか。

      8 この誇り高い都がそのような運命をたどるのはなぜですか。エホバはこう言われます。「わたしは産出的な地にそれ自身の悪を,邪悪な者たちに彼ら自身のとがを必ず帰させる。そして,わたしはせん越な者たちの誇りを実際に絶やし,圧制者のごう慢を卑しめる」。(イザヤ 13:11)エホバの憤りは,バビロンが神の民に加えた残虐行為に対する処罰として注ぎ出されます。バビロニア人の悪のゆえに,その全土が苦しみます。これらの誇り高い圧制者たちが公然とエホバに挑むことは,もはやありません。

      9 エホバの裁きの日に,バビロンはどうなりますか。

      9 エホバは,「わたしは死すべき人間を精錬された金よりも,地の人をオフィルの金よりもまれなものとする」と言われます。(イザヤ 13:12)そうです,この都は人口が激減し,荒れ果てた所となるのです。エホバはこう続けられます。「それゆえに,わたしは天を動揺させ,地は万軍のエホバの憤怒により,その燃える怒りの日により,そのある場所から激動する」。(イザヤ 13:13)バビロンの「天」,つまりその無数の男神や女神は動揺させられ,いざという時にバビロンを助けることができません。「地」,つまりバビロニア帝国は激動させられて放り出され,滅亡した帝国の一つとして歴史にとどめられるのみになります。「彼らは追われるガゼルのように,自分たちを集めてくれる者のいない羊の群れのように,各々自分の民に向かう。各々自分の地に逃げて行くのである」。(イザヤ 13:14)外国人で味方であった者たちもみなバビロンを捨てて逃げ,征服者である世界強国と新たな関係を築こうとします。ついにバビロンは,征服された都市の苦しみを経験します。それは,全盛期のバビロンが他の非常に多くの国々に味わわせた,次のような苦しみです。「見つけられる者はみな刺し通され,一度に集め捕られた者はみな剣によって倒れる。彼らの子供たちさえ,彼らの目の前で打ち砕かれる。彼らの家は略奪され,彼らの妻は犯される」。―イザヤ 13:15,16。

      滅びのための神の道具

      10 バビロンを打ち倒すため,エホバはだれを用いますか。

      10 バビロンに倒壊をもたらすため,エホバはどの強国を用いるのでしょうか。それより200年ほど前に,エホバは答えを明らかにし,こう言われました。「いまわたしは彼らに対してメディア人を奮い起こさせる。彼らは銀を何物とも思わず,金については,それを喜びもしない。そして,彼らの弓は若者たちをも打ち砕く。また,彼らは腹の実を哀れまず,その目は子らを惜しみ見ることもない。そして,もろもろの王国の飾り,カルデア人の誇りの美であるバビロンは,神がソドムとゴモラを覆されたときのようになるのである」。(イザヤ 13:17-19)壮麗なバビロンは倒れます。そのためのエホバの道具となるのは,遠方の,山の多い国メディアの軍勢です。a 最終的にバビロンは,はなはだしく不道徳な都市ソドムとゴモラのように荒廃します。―創世記 13:13; 19:13,24。

      11,12 (イ)メディアはどのように世界強国になりますか。(ロ)メディアの軍勢に関して,どんな珍しい特質が預言されていますか。

      11 イザヤの時代,メディアとバビロンはともにアッシリアのくびきのもとにあります。その約1世紀後の西暦前632年に,メディアとバビロンは軍事的に手を結び,アッシリアの首都ニネベを覆します。それによって,バビロンが優勢な世界強国となる道が開かれます。それから約100年後にメディアに滅ぼされるとは,バビロンは夢にも思いません。エホバ以外のだれがそのような大胆な予言を行なえるでしょうか。

      12 エホバは,ご自分が選んだ滅びのための道具が何であるかを示す際,メディアの軍勢が「銀を何物とも思わず,金については,それを喜びもしない」と言われます。戦い慣れした非情な兵士たちにしては何とも珍しい特質です。聖書学者のアルバート・バーンズは,「実際のところ,古今を問わず,戦利品への期待感に影響されない征服軍などめったにない」と述べています。メディア軍はこの点で,エホバの言葉どおりになるでしょうか。そうなります。J・グレントワース・バトラーの「聖書著作」(英語)の説明によれば,「戦争経験のある大半の国とは異なり,メディア人,とりわけペルシャ人は金よりも征服と栄光を重視した」とのことです。b この点を考えると,ペルシャの支配者キュロスがイスラエル人をバビロンでの流刑から解放するにあたって,ネブカドネザルによってエルサレムの神殿から略奪された何千という金銀の器をイスラエル人に返還するのも意外なことではありません。―エズラ 1:7-11。

      13,14 (イ)メディアとペルシャの戦士たちは戦利品に関心がないとはいえ,何に対しては野心的ですか。(ロ)キュロスはバビロンの誇る防御物をどのように克服しますか。

      13 メディアとペルシャの戦士たちは戦利品に飢えてはいないものの,やはり野心的です。いつまでも世界の舞台の脇役に甘んじるつもりはありません。さらに,エホバはそれら戦士たちの心に「奪略」という考えを入れます。(イザヤ 13:6)そのため,戦士たちは強い弓 ― 敵兵たちを「打ち砕く」矢を射るために用いられる ― をもってバビロンを征服することを決意します。

      14 メディア-ペルシャ軍の指導者キュロスはバビロンの城塞にもひるみません。西暦前539年10月5日から6日にかけての夜,キュロスはユーフラテス川の水を脇にそらすよう命じます。水位が下がると,兵士たちが,股までの水をかきわけて川床を歩き,バビロンに忍び込みます。バビロンの住民は不意をつかれ,バビロンは陥落します。(ダニエル 5:30)エホバ神はイザヤに霊感を与えてこれらの出来事を預言させているので,神が物事を導いておられることに疑問の余地はありません。

      15 バビロンにはどんな将来が待っていますか。

      15 バビロンの滅びはどれほど徹底的なものになるのでしょうか。エホバの宣告を聴きましょう。「彼女は決して人の住む所とはならず,また,彼女が代々にわたって住むこともない。そしてアラブ人はそこに天幕を張らず,羊飼いもその群れをそこに伏させない。そして,水のない地域にせい息するものが必ずそこに伏し,彼らの家々には必ずわしみみずくが満ちる。また,そこには必ずだちょうが住み,やぎの形をした悪霊たちもそこで跳ね回ることであろう。そしてジャッカルがその住まいの塔の中で必ず遠ぼえし,大きなへびが無上の喜びの宮殿にいることであろう。そして,その時期は間近に到来し,その日が延ばされることはない」。(イザヤ 13:20-22)バビロンは全くの荒廃という運命をたどります。

      16 現在のバビロンの状態を考えると,どんな確信を抱けますか。

      16 こうしたことが西暦前539年に直ちに起きたわけではありません。しかし今日,バビロンに関するイザヤの予告がことごとく現実のものとなったことは明白です。ある聖書注解者は,バビロンは「現在に至るまで幾世紀も大規模な荒廃の場所となっており,今では廃墟の山となっている」と述べ,さらにこう付け加えています。「この光景を目にすると,イザヤとエレミヤの予言がいかに正確に成就したかを思わずにはいられない」。イザヤの時代の人間がバビロンの倒壊と最終的な荒廃を予告できたはずのないことは,言うまでもありません。何しろ,バビロンがメディア人とペルシャ人の手に落ちたのは,イザヤ書が書かれてから200年ほども後のことです。さらに,バビロンがついに荒廃したのはそれより幾世紀も後のことなのです。このことから,霊感を受けた神の言葉としての聖書に対する信仰が強まるのではないでしょうか。(テモテ第二 3:16)さらに,神が過去において数々の預言を成就されたことから,まだ成就していない聖書の預言も神の定めの時に実現するという絶対的な確信を抱くことができます。

      『あなたの痛みからの休息』

      17,18 バビロンが打ち倒されることは,イスラエルにとってどんな祝福となりますか。

      17 バビロンが倒れたことはイスラエルにとっては救済となります。捕囚からの解放と,約束の地へ戻る機会を意味するのです。それで,イザヤは次にこう言います。「エホバはヤコブに憐れみを示し,なおも必ずイスラエルを選ばれる……。また,彼らにその土地の上で実際に休息を与えられる。外人居留者は必ず彼らに加えられ,必ずヤコブの家を愛慕する。そしてもろもろの民は実際に彼らを取り,自分たちの場所に連れて行く。イスラエルの家はエホバの土地で必ず彼らを自分たちのための所有物として取り,これを下男とし,はしためとする。彼らは自分たちをとりこにする者たちを必ずとりこにし,自分たちを仕事に追い立てていた者たちを必ず服従させる」。(イザヤ 14:1,2)ここでいう「ヤコブ」は,イスラエル全体,12部族すべてを指しています。エホバはイスラエル国民が故国に戻るのを許すことにより,「ヤコブ」に憐れみを示されます。その国民には大勢の異国人が同行し,その多くは神殿の僕としてイスラエル人に仕えることになります。イスラエル人の中には,かつて自分たちを捕らえていた者たちに対する権威を持つようになる人たちさえいるでしょう。c

      18 流刑者として暮らす苦もんは過去のものとなります。それどころか,エホバはご自分の民に,「痛みと動揺から,また,……奴隷とされたその厳しい奴隷労働からの休息」をお与えになります。(イザヤ 14:3)奴隷状態という身体的な重荷から自由にされたイスラエルは,偽りの神々の崇拝者に囲まれて暮らすことの痛みと動揺にはもはや悩まされません。(エズラ 3:1。イザヤ 32:18)この点について,「聖書の土地と人々」(英語)という本はこう説明しています。「バビロニア人にとって神々とは,自分の性格の最悪な面すべてにおいて自分そっくりなものであった。臆病者,酔いどれ,痴愚者だったのである」。そのような劣悪な宗教環境から脱することができたなら,どれほどほっとすることでしょう。

      19 イスラエルがエホバに許していただくには,何が必要ですか。そのことから何を学べますか。

      19 とはいえ,エホバの憐れみは無条件で与えられるものではありません。神の民は,神からそうした厳しい処罰を受ける原因となった自らの邪悪さに関して,悔恨の念を表わさなければなりません。(エレミヤ 3:25)隠しだてのない,心からの告白をするなら,エホバの許しを得ることができます。(ネヘミヤ 9:6-37; ダニエル 9:5をご覧ください。)今日でも,その同じ原則が当てはまります。「罪をおかさない人はひとりもいない」ので,わたしたちは皆,エホバの憐れみを必要とします。(歴代第二 6:36)憐れみある神エホバは,いやされるために罪を告白し,悔い改め,悪い歩みをすべてやめるよう,優しくわたしたちを促しておられます。(申命記 4:31。イザヤ 1:18。ヤコブ 5:16)そうするなら,再び神の恵みを受けられるようになるだけでなく,慰めも得ることができます。―詩編 51:1。箴言 28:13。コリント第二 2:7。

      バビロンに対する「格言的なことば」

      20,21 近隣諸国はバビロンの倒壊をどのように歓びますか。

      20 バビロンが顕著な世界強国として台頭するより100年以上も前に,イザヤはバビロンの倒壊に対する世界の反応を予告します。そして,預言として,バビロンへの捕らわれから自由にされたイスラエル人に次の命令を与えます。「あなたはバビロンの王に向かってこの格言的なことばを唱えて,言わなければならない。『他の者を仕事に追い立てる者がどうして休止したのか! 虐げがどうして休止したのか! エホバは邪悪な者たちのむち棒を,支配する者たちの杖を折られた。憤怒してもろもろの民を絶え間なくむち打つ者,怒りに任せて容赦のない迫害を加えながら諸国民を従える者を』」。(イザヤ 14:4-6)バビロンは,征服者として,また自由民を奴隷にして虐げる者として,かなりの評判を築き上げてきました。そのバビロンの倒壊を,その大いなる都の栄光の時代の主役であったバビロニア王朝をおもな対象とする「格言的なことば」によって祝うのは何とふさわしいのでしょう。その王朝はネブカドネザルに始まり,ナボニドスとベルシャザルで終わりました。

      21 バビロンの倒壊はきわめて大きな変化をもたらします。「全地は休息し,騒乱はやんだ。民は快活になって歓呼の声を上げた。また,ねずの木々もあなたのことで歓び,レバノンの杉も喜び,そして言った,『あなたが伏してからというもの,木を切る者はもうだれもわたしに向かって上って来ない』と」。(イザヤ 14:7,8)バビロンの支配者たちにとって,周辺諸国の王たちは,切り倒して好きな用途に使える立ち木のようなものでした。しかし,それもみな過去のことです。木を切る者バビロンはもはや木を切ることができないのです。

      22 詩的な意味で,バビロニア王朝の倒壊はシェオルにどんな影響を与えますか。

      22 バビロンの倒壊はあまりにも驚くべき事柄なので,墓までが次のように反応します。「下のシェオルも,あなたが入って来るのを迎えるため,あなたを見て動揺した。それはあなたを見て,死んだ無力な者たちを,地のやぎのような指導者すべてを目覚めさせた。それは諸国民のすべての王をその王座から立ち上がらせた。彼らはみな話しはじめ,あなたに言う,『あなたまでもわたしたちと同じように弱くされたのか。あなたはこのわたしたちに比べられる者とされたのか。あなたの誇り,あなたの弦楽器のさざめきはシェオルに下ろされた。あなたの下には,うじが寝いすとして広げられている。虫があなたの覆いなのだ』」。(イザヤ 14:9-11)何と強烈な詩的情景なのでしょう。まるで人類共通の墓が,バビロニア王朝以前に死んだすべての王たちを目覚めさせ,新入りのバビロニア王朝を迎えさせることになっているかのようです。それらの王たちはバビロンの支配権力をあざけります。今やそれは無力になり,豪華な長いすの代わりにうじの寝床に横たわり,高価な亜麻ではなく虫に覆われているのです。

      「踏みにじられる死がいのように」

      23,24 バビロンの王たちはどんな極端な尊大さを示しますか。

      23 イザヤは格言的なことばを続け,こう言います。「輝く者,夜明けの子よ,ああ,あなたが天から落ちようとは! 諸国の民を無力にさせていた者よ,あなたが地に切り倒されようとは!」(イザヤ 14:12)バビロンの王たちは利己的な誇りのために,周囲の人々の上に自らを高めます。早朝の空に明るく輝く星のように,尊大に権力と権威を振るいます。特に誇りとしているのは,ネブカドネザルによるエルサレム征服という,アッシリアにも不可能だった偉業です。この格言的なことばは,誇り高いバビロンの王朝が次のように言うところを描写しています。「わたしは天に上る。わたしは神の星の上にわたしの王座を上げ,北の最果ての会見の山に座すのだ。わたしは雲の高き所の上に上り,自分を至高者に似せる」。(イザヤ 14:13,14)まったくあきれ果てた言い草です。

      24 聖書では,ダビデの王統の王たちは星になぞらえられています。(民数記 24:17)ダビデ以降の「星」たちはシオンの山から支配しました。ソロモンがエルサレムに神殿を建立した後,シオンという名はエルサレム全市を指すようになりました。律法契約のもとで,イスラエルのすべての男子には年に3回シオンまで旅をする義務がありました。そのため,シオンは「会見の山」となりました。ネブカドネザルは,ユダの王たちを隷属させてその山から除くことを決意することによって,自らをそれらの「星」の上に高める意図を明らかにしています。それらの星に対して勝利を収められたのはエホバのおかげであるとは考えません。むしろ事実上,尊大にも自らをエホバの地位に据えます。

      25,26 バビロニア王朝はどのように恥辱的な終わりを迎えますか。

      25 誇り高いバビロニア王朝に,何という劇的な逆転が生じることになっているのでしょう。バビロンが神の星の上に高められることなど決してありません。むしろ,エホバはこう言われます。「あなたはシェオルに,坑の最果てに下ろされるであろう。あなたを見る者は,あなたを見つめ,あなたを念入りに調べて言う,『これが地を動揺させ,多くの王国を激動させていた者か。産出的な地を荒野のようにし,その諸都市を覆し,その捕らわれ人たちのためにも故国への道を開かなかった者か』」。(イザヤ 14:15-17)この野心的な王朝は,人間すべてとまったく同様,ハデス(シェオル)に下ります。

      26 では,多くの王国を征服し,産出的な地を損ない,無数の都市を覆したこの強国はどうなるのでしょうか。人々を捕虜にし,故国に帰ることを決して許さなかったこの世界強国はどうなるのでしょうか。何と,バビロニア王朝はまともな埋葬さえしてもらえません。エホバはこう言われます。「諸国民の他のすべての王,そうだ,彼らはみな栄光のうちにそれぞれ自分の家に身を横たえた。しかしあなたは,自分のための埋葬地もないまま投げ捨てられたのだ。憎み嫌われた新芽のように,剣で刺されて坑の石に下って行く殺された者たちにまとわれ,踏みにじられる死がいのように。あなたが墓の中で彼らと共になることはない。あなたは自分の地を滅びに陥れ,自分の民を殺したからである。悪を行なう者の子孫は,定めのない時に至るまで名を呼ばれることがない」。(イザヤ 14:18-20)古代の世界において,誉れある埋葬をされないことは王にとって恥辱とみなされました。では,バビロンの王朝はどうなのでしょうか。もちろん,王たち一人一人は名誉ある仕方で葬られたことでしょう。しかし,ネブカドネザルの系統を引く帝国の王朝は「憎み嫌われた新芽のように」処分されます。それは,まるでこの王朝が,戦死した一介の歩兵と同様に,墓標のない墓に投げ込まれるかのようです。何という屈辱でしょう。

      27 バビロニア人の将来の世代はどのように父祖たちのとがのために苦しみますか。

      27 この格言的なことばの終わりに,征服者であるメディア人とペルシャ人に次のような最後の命令が与えられます。「あなた方は彼らの父祖たちのとがゆえに,彼自身の子らのために屠殺台を用意せよ。彼らが立ち上がって,実際に地を所有し,産出的な地の面を都市で満たすことのないためである」。(イザヤ 14:21)倒れたバビロンは二度と立ち上がりません。バビロニア王朝は根こぎにされます。再興することはありません。バビロニア人の将来の世代は,「父祖たちのとが」ゆえに苦しむのです。

      28 バビロンの王たちの罪の根本的な原因は何でしたか。そのことから何を学べますか。

      28 バビロニア王朝に対して宣告された裁きから,貴重な教訓を学べます。バビロンの王たちの罪の根本的な原因となっていたのは,果てしない野望です。(ダニエル 5:23)それら王たちは心を権力欲で満たし,人を支配することを求めました。(イザヤ 47:5,6)さらに,本来神に帰されるべき人からの栄光を渇望しました。(啓示 4:11)これは権威ある立場にいる人に対する警告となっており,クリスチャン会衆内の人たちも例外ではありません。個人レベルのものであれ,国家レベルのものであれ,野心と利己的な誇りという特質をエホバが大目に見られることはありません。

      29 バビロンの支配者たちの誇りと野心は何を反映したものでしたか。

      29 バビロンの支配者たちの誇りは,「この事物の体制の神」である悪魔サタンの霊を反映したものでした。(コリント第二 4:4)サタンも権力を渇望し,エホバ神より高い地位に就きたいと切望しています。バビロンの王および王に隷属させられた民の場合と同様,サタンの汚れた野心のために全人類は惨めさと苦しみを味わってきました。

      30 聖書は別のどんなバビロンに言及していますか。そのバビロンはどんな霊を示してきましたか。

      30 さらに,「啓示」の書はもう一つのバビロン,「大いなるバビロン」について述べています。(啓示 18:2)偽りの宗教の世界帝国であるその組織も,誇り高く圧制的で残虐な霊を示してきました。その結果,その組織も必ず「エホバの日」を迎え,神の定めの時に滅ぼされます。(イザヤ 13:6)1919年以来,『大いなるバビロンは倒れた!』という音信が全世界で鳴り響いています。(啓示 14:8)神の民を捕らえておくことができなくなった時,このバビロンは倒壊を経験しました。そして,やがて完全に滅ぼされることになっています。古代バビロンに関してエホバはこうお命じになりました。「彼女の働きにしたがって返報せよ。すべて彼女のした通りに,これに行なえ。彼女はエホバに向かって,イスラエルの聖なる方に向かって,せん越な行ないをしたからである」。(エレミヤ 50:29。ヤコブ 2:13)大いなるバビロンも同様な裁きを受けます。

      31 大いなるバビロンはやがてどうなりますか。

      31 したがって,イザヤ書のこの預言の結びにエホバが述べる次の言葉は,古代バビロンだけでなく大いなるバビロンにも当てはまります。「そして,わたしは彼らに向かって立ち上がる。……そして,わたしはバビロンから名と残りの者と子孫と後裔とを断ち滅ぼす。……そして,わたしはこれをやまあらしの所有する所,また,葦の茂る水の池とし,絶滅のほうきでこれを掃く」。(イザヤ 14:22,23)古代バビロンの荒れ果てた廃墟は,エホバがやがて大いなるバビロンをどのように処置されるかを示しています。それは,真の崇拝を愛する人たちにとって何とすばらしい慰めとなるのでしょう。また,誇り,尊大さ,残虐さといったサタン的な特質が決して自分のうちに育つことのないよう努力する上での,何と大きな励ましなのでしょう。

      [脚注]

      a イザヤが名を挙げているのはメディア人だけですが,幾つもの国,つまりメディア,ペルシャ,エラム,また他の小さな国々が同盟してバビロンを攻めます。(エレミヤ 50:9; 51:24,27,28)近隣諸国は,メディア人とペルシャ人の両方を“メディア人”と呼んでいます。さらにイザヤの時代には,メディアが支配的な強国でした。キュロスのもとで初めて,ペルシャが支配的になります。

      b もっとも,メディア人とペルシャ人は後に,ぜいたくを大いに好むようになったようです。―エステル 1:1-7。

      c 例えば,ダニエルはメディア人とペルシャ人の支配下のバビロンで高官に任じられました。また,その60年ほど後,エステルはペルシャの王アハシュエロスの王妃になり,モルデカイはペルシャ帝国全体の首相になりました。

      [178ページの図版]

      倒壊したバビロンは荒野の生き物のすみかとなる

      [186ページの図版]

      古代バビロンのように,大いなるバビロンも廃墟の山となる

  • 諸国民に対するエホバの計り事
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第15章

      諸国民に対するエホバの計り事

      イザヤ 14:24–19:25

      1 イザヤはアッシリアに対するどんな裁きの宣言を記録していますか。

      エホバは,ご自分の民にその邪悪さゆえに懲らしめを与えるため,諸国民を用いることがあります。とはいえ,それら諸国民の無益な残虐さ,誇り,真の崇拝に対する敵がい心などを大目に見ることはされません。それでエホバは,じゅうぶん前もってイザヤに霊感を与え,「バビロンに対する宣告」を記録させておられます。(イザヤ 13:1)とはいえ,バビロンが脅威となるのは将来のことです。イザヤの時代には,アッシリアが神の契約の民を虐げています。アッシリアは北のイスラエル王国を滅ぼし,ユダのかなりの部分を荒廃させます。しかし,アッシリアの勝利は長続きしません。イザヤはこう書いています。「万軍のエホバは誓って,言われた,『まさしく,わたしの図った通りに事は成……る。それは,アッシリア人をわたしの地で砕くため,わたしの山々で彼を踏みにじるためであり,そのくびきが彼らから実際に離れ,その荷が彼らの肩から離れるためである』」。(イザヤ 14:24,25)イザヤがこの預言を語ってからほどなくして,アッシリアの脅威はユダから取り除かれます。

      2,3 (イ)古代において,エホバはだれに向かって手を伸ばされますか。(ロ)エホバが「諸国民すべて」に向かって手を伸ばされることは,何を意味しますか。

      2 しかし,神の契約の民の敵である他の諸国民についてはどうでしょうか。それら諸国民も裁きを受けなければなりません。イザヤはこう宣言します。「これが全地に向かって計られる計り事,これが諸国民すべてに向かって伸ばされる手である。万軍のエホバご自身が計ったのであれば,だれがそれを打ち破ることができようか。また,伸ばされたのはそのみ手である。では,だれがそれを元に戻すことができようか」。(イザヤ 14:26,27)エホバの「計り事」(もしくは「助言」)は単なる忠告以上のものです。それは神の確固たる決意,また布告です。(エレミヤ 49:20,30)神の「手」とは,神が行使される力のことです。イザヤ 14章の最後の部分,および15章から19章で,エホバの計り事は,フィリスティア,モアブ,ダマスカス,エチオピア,エジプトに向けられています。

      3 しかし,イザヤによると,エホバの手は「諸国民すべて」に向かって伸ばされています。ですから,これらイザヤの預言はまず古代に成就するとはいえ,おおむね「終わりの時」,つまりエホバが地のすべての王国に向かって手を伸ばす時にも当てはまります。(ダニエル 2:44; 12:9。ローマ 15:4。啓示 19:11,19-21)全能の神エホバはじゅうぶん前もって,確信を持ってご自分の計り事を明らかにされます。だれも,伸ばされた神の手を元に戻させることはできません。―詩編 33:11。イザヤ 46:10。

      フィリスティアを襲う「火のような飛ぶへび」

      4 フィリスティアに対するエホバの宣告はどんな内容のものですか。

      4 まず,フィリスティア人に注意が向けられます。「アハズ王が死んだ年にこの宣告があった。『あなたを打つ杖が折られたからといって,フィリスティアよ,あなたの中のだれも歓んではならない。蛇の根から毒へびが出,その実は火のような飛ぶへびとなるからである』」。―イザヤ 14:28,29。

      5,6 (イ)ウジヤはフィリスティア人にとって蛇のようであったとどうして言えますか。(ロ)ヒゼキヤは,自分がフィリスティアに対してどんな者であることを明らかにしますか。

      5 ウジヤ王は,フィリスティアによる脅威を食い止めるだけの強さを持っていました。(歴代第二 26:6-8)ウジヤはフィリスティアにとって蛇のようであり,その杖は,非友好的な隣国フィリスティアを絶えず打ちました。ウジヤが死んだ,つまり『その杖が折られた』後,忠実なヨタムが支配しましたが,「民はなおも滅びをもたらすことを行なって」いました。次いで,アハズが王になると事態は変化し,フィリスティアの軍勢がまんまとユダを襲撃するようになりました。(歴代第二 27:2; 28:17,18)しかし,事態は再び変化します。西暦前746年,アハズ王は死に,年若いヒゼキヤが即位します。フィリスティア人が物事はいつまでも思いどおりになると考えるなら,それは大間違いです。ヒゼキヤは自分が強敵であることを明らかにします。ウジヤの子孫(ウジヤの「根」から出た「実」)であるヒゼキヤは,「火のような飛ぶへび」のごとくすばやく突進して攻撃し,電光石火の早業で打撃を加え,まるで獲物に毒液を注入するかのように,焼け付くような痛みを与えます。

      6 これはこの新たな王にぴったりの描写です。ヒゼキヤは「フィリスティア人をガザ,またその領地に至るまで……打ち倒した」からです。(列王第二 18:8)アッシリアの王セナケリブの編年史によると,フィリスティア人はヒゼキヤの臣下になります。「立場の低い者たち」,つまり弱体化したユダ王国は,安らかさと物質的な豊かさを楽しむようになりますが,フィリスティアは飢きんに苦しみます。―イザヤ 14:30,31をお読みください。

      7 エルサレムに来た大使たちに対し,ヒゼキヤは信仰に基づくどんな宣言を行なわなければなりませんか。

      7 ユダには大使たちが来ているようですが,それは恐らくアッシリアに対抗するための同盟を求めてのことでしょう。それら大使たちには何と告げるべきですか。「その国民の使者たちに答えて何と言う」のでしょうか。ヒゼキヤは安全を求めて他国との同盟に頼るべきですか。いいえ,ヒゼキヤは使者たちにこう告げるべきです。「エホバご自身がシオンの基を据えられた,その民の苦しむ者たちはそこに避難する」。(イザヤ 14:32)王はエホバに全幅の信頼を置かなければなりません。シオンの基はしっかりしています。その都はアッシリアの脅しからの安全な避難場所として存続するのです。―詩編 46:1-7。

      8 (イ)今日のある国々は,どのようにフィリスティアに似ていますか。(ロ)エホバは,古代と同様,今日のご自分の民を支えるためにどんなことをしてこられましたか。

      8 フィリスティアと同様,今日でもある国々は悪意を抱いて神の崇拝者に反対しています。エホバのクリスチャン証人は刑務所や強制収容所に拘禁され,禁令を課され,かなりの数の人が殺されてきました。反対者たちは今でも「義なる者の魂に激しい攻撃を加え」ています。(詩編 94:21)敵する者たちの目には,このクリスチャンのグループは「立場の低い者」,「貧しい者」と映るかもしれません。しかし,これらクリスチャンはエホバに支えられて霊的な豊かさを楽しみ,一方,敵する者たちは飢きんに苦しみます。(イザヤ 65:13,14。アモス 8:11)エホバが現代のフィリスティア人に向かって手を伸ばす時,それら「立場の低い者たち」は安全に守られます。どのようにでしょうか。イエスを確固たる土台の隅石とする「神の家族」と共にいることによってです。(エフェソス 2:19,20)そして,「天のエルサレム」,つまりイエス・キリストを王とするエホバの天的な王国から保護を受けます。―ヘブライ 12:22。啓示 14:1。

      モアブは沈黙させられる

      9 次の宣告はだれに対するものですか。その民は,神の民の敵であることをどのように明らかにしてきましたか。

      9 死海の東には,イスラエルのもう一つの隣国,モアブがあります。フィリスティア人とは違い,アブラハムのおいロトの子孫であるモアブ人はイスラエルと親戚関係にあります。(創世記 19:37)そうした関係にあるにもかかわらず,歴史上,モアブはイスラエルに敵意を抱いてきました。例えば,かつてモーセの時代に,モアブの王はイスラエル人をのろわせようとして預言者バラムを雇いました。その試みが失敗すると,モアブは不道徳とバアル崇拝を用いてイスラエルをわなに陥れました。(民数記 22:4-6; 25:1-5)ですから,エホバがここでイザヤに霊感を与え,「モアブに対する宣告」を記録させるのも,もっともなことなのです。―イザヤ 15:1前半。

      10,11 モアブはどうなりますか。

      10 イザヤの預言は,アル,キル(またはキル・ハレセト)やディボンなど,モアブの数多くの都市や場所に対するものです。(イザヤ 15:1後半,2前半)モアブ人はキル・ハレセトの干しぶどうの菓子のために嘆き悲しむことになります。それはその都市の主要な産物だったようです。(イザヤ 16:6,7)ぶどうの栽培で有名なシブマとヤゼルは,たたきのめされます。(イザヤ 16:8-10)「三歳の雌牛」を意味すると思われるエグラト・シェリシヤは,若くて元気がよいのに哀れな苦もんの叫び声を上げる雌牛のようになります。(イザヤ 15:5)その地の草が干からびる一方で,モアブ人が殺りくされるゆえに「ディモンの水」は血で満ちます。「ニムリムの水」は,比喩的な意味で,あるいは文字どおりの意味で「全くの荒廃」となります。文字どおりの意味であるとすれば,恐らくそれは敵軍が水の流れをせき止めるからです。―イザヤ 15:6-9。

      11 モアブ人は,喪服である粗布を着けるでしょう。また,恥と嘆きの象徴として頭をそり,はげにします。あごひげは「短く刈り込まれ」,極度の悲しみと辱めを表わします。(イザヤ 15:2後半-4)イザヤ自身も,こうした裁きの成就を確信し,心を強く動かされます。たて琴の弦が振動するように,イザヤの内なる部分は,モアブに対する災いの音信のゆえに哀れみに動かされます。―イザヤ 16:11,12。

      12 モアブに対するイザヤの言葉はどのように成就しましたか。

      12 この預言はいつ成就するのでしょうか。遠い先のことではありません。「これが以前にモアブに関してエホバの語られた言葉である。そして今,エホバは語って言われた,『モアブの栄光もまた,雇われた労働者の年期にしたがって,三年のうちにあらゆる大騒ぎをもって必ず卑しめられる。残りの者はごく少数となり,力もなくなる』」。(イザヤ 16:13,14)この言葉と調和して,考古学上の証拠は,西暦前8世紀にモアブがひどい苦しみを経験し,その都市の多くで人口が激減したことを示しています。ティグラト・ピレセル3世は,自分に貢ぎ物を納めた支配者たちの一人としてモアブのサラマヌに言及しています。セナケリブは,モアブの王カンムスナドビから貢ぎ物を受けました。アッシリアの君主であるエサル・ハドンとアシュルバニパルは,自分たちの臣下としてモアブ人の王であるムスリとカマシャルトゥの名を挙げています。今から何世紀も前に,民族としてのモアブ人は存在しなくなりました。モアブ人のものと考えられる都市の廃墟がいくつも発見されていますが,これまでのところ,イスラエルの強力な敵であったこの民のことを示す物的証拠はほとんど出土していません。

      現代の「モアブ」も消滅する

      13 今日のどの組織がモアブと類似していますか。

      13 今日,古代モアブに似た世界的な組織が存在します。それは,「大いなるバビロン」の主要部分であるキリスト教世界です。(啓示 17:5)モアブとイスラエルはどちらもアブラハムの父テラの子孫です。同様に,キリスト教世界は,今日の油そそがれたクリスチャンの会衆と同じく,1世紀のクリスチャン会衆を基とすると唱えています。(ガラテア 6:16)しかし,キリスト教世界はモアブのように腐敗しており,霊的な不道徳や,唯一まことの神エホバ以外の神々の崇拝を助長しています。(ヤコブ 4:4。ヨハネ第一 5:21)一つの級として,キリスト教世界の指導者たちは,王国の良いたよりを宣べ伝える人々に反対しています。―マタイ 24:9,14。

      14 現代の「モアブ」に対してエホバの計り事があるとはいえ,その組織の個々の成員にはどんな希望がありますか。

      14 モアブは最終的に沈黙させられました。キリスト教世界も同じようになります。エホバは,アッシリアの現代版を用いてキリスト教世界を荒廃させます。(啓示 17:16,17)しかし,この現代の「モアブ」の中にいる人々には希望があります。イザヤは,モアブに対する預言の途中で,こう言います。「王座は愛ある親切のうちに必ず堅く立てられ,人はダビデの天幕の中で真実をもって必ずこれに座し,裁きを行ない,公正を求め,義に速やかな者となる」。(イザヤ 16:5)1914年,エホバは,ダビデ王の系統を引く支配者であるイエスの王座を確立されました。イエスの持つ王権はエホバの愛ある親切の表明であり,ダビデ王と結ばれた神の契約の成就として永久に存続します。(詩編 72:2; 85:10,11; 89:3,4。ルカ 1:32)大勢の柔和な人たちが現代の「モアブ」を後にし,命を得るためイエスに服するようになっています。(啓示 18:4)それらの人たちにとって,イエスが「公正とは何かを諸国民に明りょうにする」ということを知るのは,何と大きな慰めなのでしょう。―マタイ 12:18。エレミヤ 33:15。

      ダマスカスは廃墟となって朽ち果てる

      15,16 (イ)ダマスカスとイスラエルは,ユダに対してどんな敵対的な行動を取りますか。その結果,ダマスカスはどうなりますか。(ロ)ダマスカスに対する宣言にはだれも含まれていますか。(ハ)今日のクリスチャンはイスラエルの実例から何を学べますか。

      15 次にイザヤは,「ダマスカスに対する宣言」を記録します。(イザヤ 17:1-6をお読みください。)イスラエルの北にあるダマスカスは「シリアの頭」です。(イザヤ 7:8)ユダのアハズ王の治世中,ダマスカスのレツィンはイスラエルのペカハと同盟を結んでユダに侵入します。しかし,アハズの要請に応じて,アッシリアのティグラト・ピレセル3世がダマスカスを攻め,征服して,住民の多くを流刑に処します。その後,ダマスカスはユダにとってもはや脅威ではなくなります。―列王第二 16:5-9。歴代第二 28:5,16。

      16 イスラエルがダマスカスと同盟を結んでいたためと思われますが,ダマスカスに対するエホバの宣言には不忠実な北の王国に対する裁きの言葉も含まれています。(イザヤ 17:3-6)イスラエルは,収穫期になったのにほとんど実りのない穀物畑,あるいは枝から実の大半をゆすり落とされたオリーブの木のようになります。(イザヤ 17:4-6)エホバに献身した人々にとって,何と身の引き締まる思いのする実例なのでしょう。エホバは全き専心を期待し,心からの神聖な奉仕だけを受け入れられます。そして,自分の兄弟に敵対する者たちを憎まれます。―出エジプト記 20:5。イザヤ 17:10,11。マタイ 24:48-50。

      エホバに対する全き確信

      17,18 (イ)イスラエルの一部の人たちは,エホバの宣言にどう反応しますか。しかし,どんな反応が大勢を占めますか。(ロ)今日生じている事柄は,ヒゼキヤの時代とどのように似ていますか。

      17 次いで,イザヤはこう言います。「その日,地の人は自分の造り主を仰ぎ見,その目はイスラエルの聖なる方ご自身を見つめる。そして,彼は自分の手の業である祭壇を見ず,自分の指の造った物,すなわち聖木も香台も見つめない」。(イザヤ 17:7,8)そうです,イスラエルにも,エホバの警告の宣言に留意する人たちがいるのです。例えば,ヒゼキヤがイスラエルの住民にユダと共に過ぎ越しを祝うようにとの招待を送ると,一部のイスラエル人はこたえ応じて南へ旅をし,兄弟たちに加わって清い崇拝を行ないます。(歴代第二 30:1-12)とはいえ,イスラエルの住民の大半は,招待を携えた使者たちをあざけります。イスラエルは,いやしがたいまでに背教しています。そのため,イスラエルに対するエホバの計り事が成就します。イスラエルの諸都市はアッシリアに滅ぼされ,土地は荒れ果て,牧草地は不毛になります。―イザヤ 17:9-11をお読みください。

      18 今日ではどうでしょうか。イスラエルは背教した国民でした。ですから,真の崇拝に戻るようイスラエルの個々の人を助けようとしたヒゼキヤの行動は,背教したキリスト教世界の組織にいる個々の人を今日の真のクリスチャンがどのように助けようとしているかを連想させます。1919年以来,「神のイスラエル」の遣わす特使たちはキリスト教世界を行き巡り,清い崇拝に加わるよう人々を招いてきました。(ガラテア 6:16)ほとんどの人は招きを断わり,多くの人は使者たちをあざけります。しかし,中にはこたえ応じる人もいます。そうした人たちは今では幾百万を数えるほどになり,『イスラエルの聖なる方を見つめ』,その方から教育を受けることを喜びとしています。(イザヤ 54:13)汚れた祭壇での崇拝,つまり人間の作った神々への専心と信頼を捨て,切にエホバに頼ります。(詩編 146:3,4)一人一人が,イザヤと同時代のミカのように,こう言います。「わたしは,終始エホバに目を向ける。わたしの救いの神を待ち望もう。わたしの神は聞いてくださる」。―ミカ 7:7。

      19 エホバはだれを叱責なさいますか。それは,叱責を受ける人たちにとって何を意味しますか。

      19 死すべき人間に信頼を置く人たちとは何と対照的なのでしょう。この終わりの日に,人類は荒れ狂う暴虐と動乱の波にもまれています。反逆的で落ち着きのない人類の「海」は,激しく波立っては不満と革命を生み出しています。(イザヤ 57:20。啓示 8:8,9; 13:1)エホバは,それらざわめく群衆を「叱責」なさいます。問題を起こすあらゆる組織や人々は神の天の王国に滅ぼされ,『暴風の前であざみがうず巻くときのように遠くに逃げ去り』ます。―イザヤ 17:12,13。啓示 16:14,16。

      20 真のクリスチャンは諸国民に「強奪」されているにもかかわらず,どんな確信を抱いていますか。

      20 どんな結果になりますか。イザヤはこう言います。「夕方には,何と,見よ,突然の恐怖がある。朝になる前に ― それはもはやない。これがわたしたちに対して略奪を行なっている者たちの分,わたしたちに対して強奪を行なっている者たちに属する分である」。(イザヤ 17:14)エホバの民に対して強奪を行ない,過酷で無礼な扱いをする人は少なくありません。真のクリスチャンは世の主流をなす宗教の一部ではなく,その一部になりたいとも思わないので,偏見を抱く批評家や狂信的な反対者から,たやすい獲物とみなされます。しかし神の民は,自分たちの患難の終わる「朝」がますます近づいていることを確信しています。―テサロニケ第二 1:6-9。ペテロ第一 5:6-11。

      エチオピアはエホバのもとに贈り物をもたらす

      21,22 次に,どの国民が裁きの宣告を受けますか。霊感を受けたイザヤの言葉はどのように成就しますか。

      21 エジプトの南方のエチオピアは,少なくとも二度,ユダに対する軍事行動に関係しています。(歴代第二 12:2,3; 14:1,9-15; 16:8)ここでイザヤは,そのエチオピアに関する裁きを予言し,こう言います。「ああ,エチオピアの川の地方にある,翼を持ち,羽音を立てる虫の地よ!」(イザヤ 18:1-6をお読みください。)a エホバは,エチオピアが『切られ,取り除かれ,切り取られる』ことを定めます。

      22 一般の歴史は,西暦前8世紀の後半にエチオピアがエジプトを征服して60年ほど支配したことを伝えています。そして,アッシリアの皇帝であるエサル・ハドンとアシュルバニパルが相次いで侵入します。アシュルバニパルはテーベを滅ぼし,アッシリアはエジプトを服属させ,こうしてエチオピア人によるナイル渓谷の支配は終わりました。(イザヤ 20:3-6もご覧ください。)現代ではどうでしょうか。

      23 現代の「エチオピア」はどんな役割を演じますか。「エチオピア」が終わりを迎えるのはなぜですか。

      23 「終わりの時」に関するダニエルの預言の描写によると,好戦的な「北の王」はエチオピアとリビアを「彼の歩みに付く」,すなわち指示にこたえ応じるようにさせます。(ダニエル 11:40-43)さらに,エチオピアは「マゴグの地のゴグ」の軍勢の中にいるとも述べられています。(エゼキエル 38:2-5,8)北の王を含むゴグの軍勢は,エホバの聖なる国民を攻撃する時,終わりを迎えます。ですから,エホバの手は現代の「エチオピア」に向かっても伸ばされます。「エチオピア」がエホバの主権に反対するからです。―エゼキエル 38:21-23。ダニエル 11:45。

      24 エホバはどんな点で諸国民からの「贈り物」を受けてこられましたか。

      24 しかし,預言は次のようにも述べています。「その時,万軍のエホバのもとに贈り物がもたらされる。引き伸ばされ,擦り磨かれた民,至る所で畏怖の念を起こさせる民……から,万軍のエホバのみ名の場所,シオンの山に」。(イザヤ 18:7)諸国民はエホバの主権を認めないとはいえ,エホバの民の益となることを行なう場合もありました。国によっては,当局者が法律を制定したり判決を下したりして,エホバの忠実な崇拝者に法的な権利を与えてきました。(使徒 5:29。啓示 12:15,16)ほかにも贈り物あるいは供え物があります。「王たちはあなたのもとに供え物を携えて来るのです。……青銅の品々がエジプトから出てくる。クシュ[エチオピア]もその手を供え物と共に素早く神に伸べるであろう」。(詩編 68:29-31)今日,神を恐れる何百万もの現代の“エチオピア人”が,崇拝という形の「供え物」を携えて来ています。(マラキ 1:11)それらの人々は,全地で王国の良いたよりを宣べ伝えるという膨大な仕事に参加しています。(マタイ 24:14。啓示 14:6,7)エホバにささげる何とすばらしい贈り物なのでしょう。―ヘブライ 13:15。

      エジプトの心は溶ける

      25 イザヤ 19章1-11節の成就として,古代エジプトはどうなりますか。

      25 ユダの南方すぐ近くにある国エジプトは,ずっと昔から神の契約の民に敵しています。イザヤ 19章は,イザヤの時代のエジプト国内の不安定な状況を詳しく述べます。エジプトでは,『都市が都市に,王国が王国に敵する』内戦が生じています。(イザヤ 19:2,13,14)歴史家たちは,対立する幾つかの王朝が同じ時にエジプトの別々の部分を支配していたことを示す証拠を提出しています。エジプトの誇る知恵も,その『無価値な神々やまじない師』も,「無情な主人の手」からエジプトを救うものとはなりません。(イザヤ 19:3,4)エジプトは,アッシリア,バビロン,ペルシャ,ギリシャ,ローマに次々と征服されます。こうした出来事すべては,イザヤ 19章1節から11節の預言の成就です。

      26 より大きな成就において,現代の「エジプト」の住民はエホバの裁きの行動にどう反応しますか。

      26 しかしながら,聖書の中でエジプトはしばしばサタンの世の象徴となっています。(エゼキエル 29:3。ヨエル 3:19。啓示 11:8)そうであれば,イザヤの「エジプトに対する宣告」には,より大きな成就があるのでしょうか。そのとおりです。その預言の冒頭の言葉には,だれでも注意を引かれるはずです。こうあります。「見よ,エホバは速い雲に乗って,エジプトに入って来られる。そして,エジプトの無価値な神々はこの方ゆえに必ず震え,エジプトの心もその中で溶ける」。(イザヤ 19:1)近い将来,エホバはサタンの組織に対して行動を起こされます。その時,この事物の体制の神々は無価値に見えるでしょう。(詩編 96:5; 97:7)恐れのゆえに,「エジプトの心もその中で溶け」ます。イエスはその時のことをこう予告しました。「海のとどろきとその動揺のゆえに逃げ道を知らない諸国民の苦もんがあるでしょう。同時に人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失います」。―ルカ 21:25,26。

      27 「エジプト」に関して,どんな内部分裂が予告されていましたか。それは今日どのように成就していますか。

      27 裁きの執行に先立つ時期について,エホバは預言的にこう言われます。「わたしはエジプト人をエジプト人に向かってせき立て,彼らは各々その兄弟に,各々その友に,都市は都市に,王国は王国に敵して必ず戦うであろう」。(イザヤ 19:2)1914年に神の王国が設立されて以来,国民が国民に,王国が王国に敵対して立ち上がることは,イエスの『臨在のしるし』の特徴となってきました。この終わりの日に,部族間の大虐殺,血なまぐさい集団虐殺,またいわゆる民族浄化などにより,無数の人たちが命を落としています。そうした「苦しみの劇痛」は,終わりが近づくにつれ,悪化の一途をたどります。―マタイ 24:3,7,8。

      28 裁きの日に,偽りの宗教はこの事物の体制を救うために何を行なえますか。

      28 「エジプトの霊はその中でうろたえることになり,わたしはその計り事を混乱させる。そして,彼らは間違いなく,無価値な神々,まじない師,霊媒,出来事の職業的予告者に頼る」。(イザヤ 19:3)モーセがファラオの前に立った時,エジプトの祭司たちはエホバの力に太刀打ちできず,恥を被りました。(出エジプト記 8:18,19。使徒 13:8。テモテ第二 3:8)同様に,裁きの日に,偽りの宗教はこの腐敗した体制を救うことはできないでしょう。(イザヤ 47:1,11-13と比較してください。)結局エジプトは,アッシリアという「無情な主人」に支配されるようになりました。(イザヤ 19:4)それは,この事物の体制の惨めな前途を予表しています。

      29 エホバの日が到来する時,政治家たちはどんな役を果たせますか。

      29 では,政治指導者たちはどうでしょうか。助けになりますか。「ツォアンの君たちは全く愚かである。ファラオの助言者の中の賢者たちについては,その助言は道理にかなったものではない」。(イザヤ 19:5-11をお読みください。)裁きの日に人間の助言者たちが何かの役に立つと期待するのは,全く道理にかなっていません。たとえ世の知識すべてを意のままに活用できるとしても,神からの知恵に欠けています。(コリント第一 3:19)それら助言者たちはエホバを退け,いわゆる科学や,哲学,金銭,快楽など,代用の神々に頼ってきました。その結果,神の目的に関する知識を有していません。欺かれ,錯乱しています。その業はむなしいものです。(イザヤ 19:12-15をお読みください。)「賢い者たちは恥じた。彼らは恐れおののいた。そして捕らえられるであろう。見よ,彼らはエホバの言葉を退けたのだ。それでどんな知恵が彼らにあるというのか」。―エレミヤ 8:9。

      エホバへのしるしと証し

      30 どのように『ユダの土地はエジプトにとってこれをふらつかせるものとなり』ますか。

      30 しかし,「エジプト」の指導者たちが「女のように」弱いのに対して,神からの知恵を求める人たちもいます。エホバの油そそがれた者とその仲間たちは,『神の卓越性を広く宣明』します。(イザヤ 19:16。ペテロ第一 2:9)その人たちは力を尽くし,来たるべきサタンの組織の最期について人々に警告しています。イザヤはそうした将来の状況を見越して,こう言います。「ユダの土地はエジプトにとってこれをふらつかせるものとなる。人がそれについて述べるのを聞かされる者は皆,万軍のエホバが彼に対して計っておられる計り事のために怖れを抱く」。(イザヤ 19:17)忠実なエホバの使者たちは出かけて行き,エホバが予告された災厄の発表を含む真理を人々に告げます。(啓示 8:7-12; 16:2-12)そのため,世の宗教指導者たちは動揺します。

      31 (イ)古代において,(ロ)また現代において,どのようにエジプトの諸都市で「カナンの言語」が話されるようになりますか。

      31 この宣明の業はどんな驚くべき結果を生むでしょうか。「その日,エジプトの地にはカナンの言語を話し,万軍のエホバに誓いを立てる五つの都市があるであろう。一つの都市は,“打ち壊しの都市”と呼ばれるであろう」。(イザヤ 19:18)古代において,この預言は,エジプトの諸都市に逃げたユダヤ人がそこでヘブライ語を話していた時期に成就したようです。(エレミヤ 24:1,8-10; 41:1-3; 42:9–43:7; 44:1)今日,現代の「エジプト」の領域には聖書の真理の「清い言語」を話すようになった人々がいます。(ゼパニヤ 3:9)比喩的な五つの都市の一つは「打ち壊しの都市」と呼ばれていますが,これは「清い言語」の一部が,サタンの組織を暴いて『打ち壊す』ことに関係していることを表わしています。

      32 (イ)エジプトの地の中にどんな「祭壇」がありますか。(ロ)油そそがれた者たちはどのように,エジプトの境界のそばにある「柱」に似ていますか。

      32 エホバの民の宣明の業により,神の大いなるみ名は,この事物の体制の中で必ず知らされます。「その日,エジプトの地の中にはエホバへの祭壇が,そしてその境界のそばにはエホバへの柱があるであろう」。(イザヤ 19:19)この言葉は,神との契約関係にある油そそがれたクリスチャンの立場を示しています。(詩編 50:5)それらクリスチャンは「祭壇」として自分たちの犠牲をささげ,「真理の柱また支え」としてエホバのために証言しています。(テモテ第一 3:15。ローマ 12:1。ヘブライ 13:15,16)そして,「地の中に」いるとあるとおり,仲間である「ほかの羊」と共に,230を超える国や海洋の島々にいます。それでも,「世のものではありません」。(ヨハネ 10:16; 17:15,16)いわば,この世と神の王国との境界上に立ち,その境界を渡って天的な報いを受ける用意ができているかのような状態にあります。

      33 油そそがれた者たちはどんな点で,「エジプト」にある「しるし」また「証し」となっていますか。

      33 イザヤはこう続けます。「それはエジプトの地で万軍のエホバへのしるしと証しのためのものとなる。彼らは虐げる者たちのゆえにエホバに呼ばわり,神は救い主を,すなわち彼らを実際に救い出す偉大な方を彼らに遣わしてくださるからである」。(イザヤ 19:20)油そそがれた者たちは「しるし」また「証し」として,この事物の体制において宣べ伝える業に率先し,エホバのみ名を高めます。(イザヤ 8:18。ヘブライ 2:13)虐げられた人々の叫びが世界中で上がっていますが,概して人間の政府は救いの手を差し伸べることができません。しかし,エホバは偉大な救い主,王なるイエス・キリストを遣わし,柔和な者すべてを解放されます。この終わりの日がハルマゲドンの戦いにおいて最高潮に達する時,エホバは,神を恐れる人々に救済と永遠の祝福をもたらされるでしょう。―詩編 72:2,4,7,12-14。

      34 (イ)エホバはどのように「エジプト人」に知られるようになりますか。「エジプト人」はどんな犠牲と供え物を神にささげますか。(ロ)エホバはいつ「エジプト」に一撃を加えますか。その後,どんないやしが行なわれますか。

      34 それまでの間,神のご意志は,あらゆる人が正確な知識を得て救われることです。(テモテ第一 2:4)それで,イザヤはこう書いています。「エホバは必ずエジプト人に知られるようになり,エジプト人はその日,エホバを知り,犠牲と供え物をささげ,エホバに誓約を立て,それを果たすことになる。そして,エホバは必ずエジプトに一撃を加えるであろう。一撃を加えることと,いやすこととがあり,彼らは必ずエホバに帰り,神は必ず彼らの懇願を入れ,必ず彼らをいやされる」。(イザヤ 19:21,22)個々の「エジプト人」である,サタンの世のすべての国から来た人々がエホバを知り,「そのみ名を公に宣明する唇の実」という犠牲をエホバにささげるようになっています。(ヘブライ 13:15)そして,エホバに献身することによって誓約を立て,忠節な奉仕の生活を送ることによりその誓約を果たします。エホバはハルマゲドンにおいてこの事物の体制に「一撃」を加えた後,ご自分の王国を用いて人類をいやされるでしょう。イエスの千年統治期間中に,人類は霊的,精神的,道徳的,身体的な完全さに引き上げられます。まさに,いやされるのです。―啓示 22:1,2。

      『わたしの民が祝福されるように』

      35,36 古代の場合,イザヤ 19章23-25節の成就において,エジプト,アッシリア,イスラエルの間にどんな結びつきが生まれましたか。

      35 次に,預言者イザヤは著しい物事の進展を予見し,こう言います。「その日,エジプトからアッシリアへ街道が生じ,アッシリアはエジプトに,エジプトはアッシリアに実際に入って来る。彼らは,すなわち,エジプトはアッシリアと共に,必ず奉仕を行なうであろう。その日,イスラエルはエジプトとアッシリアと並んで三番目になる。すなわち,地の中の祝福となるであろう。万軍のエホバがそれを祝福して,言われるからである,『わたしの民であるエジプト,わたしの手の業であるアッシリア,わたしの相続物であるイスラエルが祝福されるように』と」。(イザヤ 19:23-25)そうです,エジプトとアッシリアが友好関係を持つ日が来るのです。どのようにでしょうか。

      36 過去においてエホバは,ご自分の民を諸国民から救出する時,民のために,いわば自由への街道を作られました。(イザヤ 11:16; 35:8-10; 49:11-13。エレミヤ 31:21)この預言が限定的に成就したのは,バビロンが敗北した後,バビロンだけでなくアッシリアやエジプトからも流刑者が約束の地に戻された時のことでした。(イザヤ 11:11)では,現代においてはどうですか。

      37 今日の何百万もの人々は,「アッシリア」と「エジプト」の間に街道があるかのような,どんな生活を送っていますか。

      37 今日,油そそがれた霊的イスラエル人の残りの者は「地の中の祝福」となっています。それら残りの者は真の崇拝を促進し,すべての国の人々に王国の音信を宣明しています。それらの国の幾つかは,アッシリアのように軍国主義に凝り固まっています。他の国々はもっと自由主義的で,一時期ダニエルの預言の「南の王」であったエジプトのようだと言えるかもしれません。(ダニエル 11:5,8)そうした軍国主義的な国々や,もっと自由主義的な国々の何百万もの人たちが,真の崇拝の道を歩むようになりました。そのようにして,あらゆる国から来た人々が一致して『奉仕を行なって』います。その人々の間に国家主義的な分裂はありません。互いに愛し合っており,まさに『アッシリアはエジプトに,エジプトはアッシリアに入って来ている』と言えます。あたかも,両者をつなぐ街道があるかのようです。―ペテロ第一 2:17。

      38 (イ)イスラエルはどのように『エジプトとアッシリアと並んで三番目になり』ますか。(ロ)なぜエホバは『わたしの民が祝福されるように』と言われますか。

      38 さて,イスラエルはどのように「エジプトとアッシリアと並んで三番目になる」のでしょうか。「終わりの時」の初期に,地上でエホバに仕えている人の大半は「神のイスラエル」の成員でした。(ダニエル 12:9。ガラテア 6:16)1930年代以降,地的な希望を抱く「ほかの羊」の大群衆が登場しました。(ヨハネ 10:16前半。啓示 7:9)その大群衆は,エジプトとアッシリアが予表していた諸国民から出て来て,流れのようにエホバの崇拝の家に向かい,自分たちに加わるよう他の人たちを招いています。(イザヤ 2:2-4)そして,油そそがれた兄弟たちと同じ宣べ伝える業を行ない,同様の試練に耐え,同じ忠実と忠誠を示し,同じ霊的な食卓にあずかります。まさに,油そそがれた者と「ほかの羊」は,「一つの群れ,一人の羊飼い」となっています。(ヨハネ 10:16後半)エホバがそれらの人々の熱心さと忍耐を見て,その活動を喜んでおられることに疑問の余地があるでしょうか。エホバが,『わたしの民が祝福されるように』と祝福を述べられるのも何ら不思議ではありません。

      [脚注]

      a 「翼を持ち,羽音を立てる虫の地」という表現は,エチオピアで時折群れをなすいなごに言及しているのではないか,とする学者たちがいます。一方,「羽音を立てる」に相当するヘブライ語ツェラーツァルが,発音の点で,現代のエチオピアに住むハム系のガラ族がツェツェバエを指して使う名,ツァルツァルヤに似ている,と指摘する人たちもいます。

      [191ページの図版]

      敵に襲いかかるフィリスティアの戦士たち(西暦前12世紀のエジプトの彫刻)

      [192ページの図版]

      石の浮き彫りに描かれたモアブの戦士あるいは神(西暦前11世紀から8世紀)

      [196ページの図版]

      らくだに乗ったシリアの戦士(西暦前9世紀)

      [198ページの図版]

      反逆的な人類の「海」は,激しく波立っては不満と革命を生み出している

      [203ページの図版]

      エジプトの祭司たちはエホバの力に太刀打ちできなかった

  • 導きと保護を求めてエホバに依り頼みなさい
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第16章

      導きと保護を求めてエホバに依り頼みなさい

      イザヤ 20:1-6

      1,2 西暦前8世紀に,神の民はどんな危険に直面しますか。民の多くは保護を求めてだれに頼ろうとしますか。

      本書のこれまでの章で考慮したとおり,西暦前8世紀に神の民は,ぞっとするような脅威にさらされます。血に飢えたアッシリア人は諸国を次々に荒らしており,南のユダ王国が攻撃を受けるのもただ時間の問題となっています。ユダの住民は保護を求めてだれに頼るでしょうか。その民はエホバとの契約関係にあり,助けを求めてエホバを頼みとするべきです。(出エジプト記 19:5,6)ダビデはまさにそうしました。そして,「エホバはわたしの大岩,わたしのとりで,わたしを逃れさせてくださる方」であると認めました。(サムエル第二 22:2)しかし明らかに,西暦前8世紀の多くの人は自分たちのとりでとしてエホバに信頼を置きません。むしろエジプトやエチオピアに頼ろうとし,それら二つの国が,迫り来るアッシリアの侵入に対する堡塁となってくれることを期待します。しかし,それは考え違いです。

      2 エホバはご自分の預言者イザヤを通して,エジプトやエチオピアを避難所とするなら大変な災いが臨むであろうと警告なさいます。霊感を受けたイザヤの言葉は,同時代の人々への有益な教訓になると共に,エホバに依り頼むことの重要性に関するわたしたちへの貴重な教訓も含んでいます。

      流血の地

      3 アッシリアはどのように軍事力を重視していましたか。

      3 アッシリア人は軍事力で名をはせていました。「古代都市」(英語)という本はこう述べています。「彼らは力を崇拝し,ひたすら巨大なライオンや雄牛の石像に祈りをささげた。そうした像のどっしりした足,鷲のような翼,人間のような頭は,力と勇気と勝利の象徴であった。戦いは国家の事業であり,祭司たちは絶えず戦争を扇動した」。聖書の預言者ナホムがアッシリアの首都ニネベを「流血の都市」と呼んだのももっともです。―ナホム 3:1。

      4 アッシリア人はどのように他の国民の心に恐怖を植え付けましたか。

      4 アッシリア人の戦術は残虐を極めました。当時の浮き彫りには,鼻や唇に刺したかぎで捕虜を連行するアッシリアの戦士たちが描かれています。やりで目をつぶされた捕虜もいました。ある征服を伝える碑文によると,アッシリア軍は捕虜の体をばらばらにし,市外に二つの塚を築きました。一つは頭,もう一つは手足の塚です。征服された側の子どもたちは火で焼かれました。そうした残虐さが吹き込んだ恐れの気持ちは,アッシリア軍に手向かう者たちの抵抗力をくじき,軍事面でアッシリア人に有利に働いたに違いありません。

      アシュドドに対する戦い

      5 イザヤの時代の強力なアッシリアの王はだれでしたか。その王に関する聖書の記述の正しさはどのように立証されましたか。

      5 イザヤの時代に,アッシリア帝国はサルゴン王のもとで,かつてないほどの力を有するようになりました。a 長年の間,批評家たちはこの支配者の存在を疑っていました。批評家たちの知る限り,一般の文献にサルゴンへの言及はなかったからです。しかし,やがて考古学者がサルゴンの宮殿の遺跡を発掘し,聖書の記述の正しさが立証されました。

      6,7 (イ)サルゴンがアシュドドへの攻撃を命じるのにはどんな理由があるようですか。(ロ)アシュドドの陥落はフィリスティアの近隣諸国にどんな影響を与えますか。

      6 イザヤは,サルゴンの軍事遠征の一つを簡潔にこう描写しています。「タルタンがアシュドドに来た……,すなわち,アッシリアの王サルゴンが彼を遣わし,彼がアシュドドと戦い,これを攻め取った」。(イザヤ 20:1)b なぜサルゴンは,フィリスティアの都市アシュドドへの攻撃を命じるのでしょうか。一つには,フィリスティアがエジプトの同盟国であり,またダゴンの神殿を擁するアシュドドが,エジプトとパレスチナを結ぶ海岸沿いの道に位置しているからです。そのため,アシュドドは戦略上重要な場所にあります。アシュドド攻略はエジプト征服への踏み石とみなすことができます。さらに,アッシリアの記録文書によれば,アシュドドの王アズリはアッシリアに対する陰謀を企てていました。それでサルゴンは,反抗的なアズリを取り除かせ,アズリの弟アヒミティを王位に就けます。しかし,事態は収まりません。別の反乱が起き,サルゴンは今度はもっと強力な行動に出ます。王はアシュドド攻撃を命じ,アシュドドは攻囲されて征服されます。イザヤ 20章1節はこの出来事に触れているものと思われます。

      7 アシュドドの陥落は,近隣諸国,特にユダに暗い影を投げかけます。エホバはご自分の民が,南方のエジプトやエチオピアといった「肉の腕」に頼ろうとしていることをご存じです。それで,緊迫した警告を演じる任務をイザヤに与えます。―歴代第二 32:7,8。

      「裸になり,はだしで」

      8 イザヤは霊感を受けてどんな預言的な行為をしますか。

      8 エホバはイザヤに,「行って,あなたは腰から粗布を解かなければならない。サンダルも足から脱ぐべきである」とお命じになります。「彼はその通りにし,裸になり,はだしで歩き回った」とあるとおり,イザヤはエホバの命令に従います。(イザヤ 20:2)粗布とは,きめの粗い衣のことで,しばしば預言者が身に着け,時には警告の音信に関連して用いられます。また,危機の迫った時や,不幸な知らせを聞いた時にも身に着けます。(列王第二 19:2。詩編 35:13。ダニエル 9:3)イザヤは本当に,身を保護する物を何もまとわないという意味で,裸で歩き回るのでしょうか。そうとは限りません。「裸」と訳されているヘブライ語は,ある程度の,あるいはごくわずかの物だけを身に着けている状態を指すこともあります。(サムエル第一 19:24,脚注)ですから,イザヤは外衣を脱いだだけで,通例じかに肌に着ける短いチュニックは着ていたのかもしれません。アッシリアの彫刻には,男の捕虜たちが,しばしばそのような姿で描かれています。

      9 イザヤの行動にはどんな預言的な意味がありますか。

      9 イザヤの奇異な行動は,意味不明のままにはされません。「エホバは言われた,『わたしの僕イザヤが,エジプトとエチオピアに対するしるし,また異兆として,三年の間,裸になり,はだしで歩き回ったように,アッシリアの王はエジプトの捕らわれ人の一団とエチオピアの流刑に処せられた者たちを,少年も老人も裸にし,はだしにし,尻をむきだしにし,エジプトの裸のまま連れて行く』」。(イザヤ 20:3,4)そうです,エジプト人とエチオピア人はやがて捕虜として引かれて行くのです。だれ一人容赦されません。『少年や老人』,つまり子どもや年配者たちまでが,身ぐるみはがれて流刑に処されます。エホバはこうした物悲しい情景表現を用いて,ユダの住民に,エジプトやエチオピアに信頼を置くのはむなしいということを警告されます。それらの国は没落して,「裸」つまり最大の恥辱を経験するのです。

      希望は消えうせ,美はあせる

      10,11 (イ)ユダは,エジプトとエチオピアがアッシリアの前に無力であることを思い知らされると,どう反応しますか。(ロ)ユダの住民がエジプトとエチオピアに依り頼もうとする理由として,どんなことが考えられますか。

      10 次にエホバは,ご自分の民が,避難所として望みを託してきたエジプトやエチオピアがアッシリア人の前に無力であることを思い知らされる時に示す反応を,預言的に描写されます。「彼らは必ず恐れおののき,自分が望みを掛けたエチオピアと自分の美であるエジプトを恥じるであろう。そして,この海沿いの地帯に住む者はその日,必ず言うであろう,『わたしたちがアッシリアの王のゆえに救い出されるため,援助を求めて逃げて来たわたしたちの希望のよりどころはあの有様だ! そうであれば,わたしたちはどうして逃げられるだろうか』」。―イザヤ 20:5,6。

      11 強国であるエジプトやエチオピアと比べると,ユダはただの細長い海沿いの地帯のように見えます。「この海沿いの地帯」の住民の中には,印象的なピラミッド,そびえ立つ神殿,庭園や果樹園や池に囲まれた広々とした邸宅といった,エジプトの美に魅了された人たちもいるようです。堂々たるエジプトの建築物は,安定性と永続性の証拠のように見えます。その国が荒廃することなどないはずです! ユダヤ人は,エチオピアの射手や兵車や騎手たちにも感銘を受けているようです。

      12 ユダはだれに信頼を置くべきですか。

      12 イザヤが演じた警告とエホバの預言的な言葉を受けて,エジプトとエチオピアに依り頼もうとしている自称神の民はみな,どうするかを真剣に考えなければなりません。地の人にではなく,エホバに信頼を置くほうがどれほど勝っているでしょう!(詩編 25:2; 40:4)事態の進展に伴い,ユダはアッシリアの王の手にかかってひどく苦しみます。そして後には,自分たちの神殿と首都がバビロンに滅ぼされるのを見ます。しかし,大木の切り株のように,「十分の一」もしくは「聖なる胤」が残されます。(イザヤ 6:13)その時,イザヤの音信は,エホバに依り頼みつづけるその小さなグループの信仰を大いに強めるでしょう。

      エホバに信頼を置きなさい

      13 今日,信者か未信者かを問わず,すべての人はどんな圧力の影響を受けていますか。

      13 エジプトとエチオピアに依り頼むことのむなしさに関するイザヤ書の警告は,意味のない昔の話などではありません。現代に役立つ実際的な価値があります。わたしたちは「対処しにくい危機の時代」に生活しています。(テモテ第二 3:1)経済危機,広範な貧困,政情不安,内乱,大小の戦争などが,神の支配権をはねつける人々だけでなく,エホバの崇拝者たちにも破壊的な影響を及ぼしてきました。一人一人が,『自分は助けを求めてだれに頼るか』という問いに答えを出さなければなりません。

      14 エホバだけに信頼を置くべきなのはなぜですか。

      14 中には,人間の創意工夫や科学技術によって人間の諸問題を解決することについて語る,今日の辣腕財界人や政治家や科学者に感銘を受ける人もいるでしょう。しかし,聖書は率直に,「エホバのもとに避難することは高貴な者たちに依り頼むことに勝る」と述べています。(詩編 118:9)平和と安全を目ざす人間の企てはみな水泡に帰するでしょう。その理由を,預言者エレミヤはいみじくもこう述べています。「エホバよ,地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません」。―エレミヤ 10:23。

      15 苦難にある人類の唯一の希望はどこにありますか。

      15 ですから,神の僕はこの世の見かけの力や知恵に過度に注意を引かれてはなりません。(詩編 33:10。コリント第一 3:19,20)苦難にある人類の唯一の希望は創造者エホバにかかっています。エホバに信頼を置く人は救われます。使徒ヨハネが霊感を受けて書いたとおり,「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。―ヨハネ第一 2:17。

      [脚注]

      a 歴史家たちはこの王をサルゴン2世と呼んでいます。もっと早い時代の,アッシリアではなくバビロンの王は“サルゴン1世”と呼ばれています。

      b 「タルタン」は名前ではなく,アッシリア軍の最高司令官,恐らく帝国で第二の権力を有する者を指す称号です。

      [209ページの図版]

      アッシリア人は,しばしば捕虜の目をつぶした

      [213ページの図版]

      人間の業績に感銘を受ける人がいるとしても,エホバに依り頼むほうが勝っている

  • 「バビロンは倒れた!」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第17章

      「バビロンは倒れた!」

      イザヤ 21:1-17

      1,2 (イ)聖書全体を貫くテーマは何ですか。とはいえ,イザヤ書には,どんな重要な副次的テーマが現われますか。(ロ)聖書は,バビロンの倒壊というテーマをどのように発展させていますか。

      聖書は音楽の大作になぞらえることができるかもしれません。そうした曲には一つの主要なテーマがあり,さらに幾つかの副テーマが提示されて曲全体に独特の深みが増します。同様に聖書にも,メシアの王国政府によるエホバの主権の正しさの立証という,一つの大きなテーマがあります。そして,ほかにも重要なテーマが幾つかあり,繰り返し展開されています。その一つがバビロンの倒壊です。

      2 そのテーマはイザヤ 13章と14章で提示されています。そして,21章に,さらには44章と45章にも出てきます。それから1世紀後にエレミヤが同じテーマを敷延し,その後,「啓示」の書が雷鳴のとどろきのような終曲へと導きます。(エレミヤ 51:60-64。啓示 18:1–19:4)聖書を真剣に研究する人はだれでも,神の言葉のこの重要な副次的テーマにも関心を抱かなければなりません。その点で,イザヤ 21章は役立ちます。預言されたその大世界強国の倒壊に関して,大いに興味をそそる詳細な事柄を述べているからです。後ほど,イザヤ 21章がもう一つの重要な聖書のテーマを強調していることも考慮しますが,そのテーマは,わたしたちが今日のクリスチャンとしてどの程度警戒しているかを評価する助けとなります。

      「厳しい幻」

      3 バビロンが「海の荒野」と呼ばれているのはなぜですか。その名称はバビロンの前途に関して,どんなことを予示していますか。

      3 イザヤ 21章は,次のような不穏な言葉と共に始まります。「海の荒野に対する宣告: それは来襲する南の暴風のように,荒野から,畏怖の念を起こさせる地からやって来る」。(イザヤ 21:1)バビロンはユーフラテス川にまたがっており,その東半分は,ユーフラテスとチグリスという二つの大河にはさまれた地域にあります。実際の海からはかなり離れています。では,なぜバビロンは「海の荒野」と呼ばれているのでしょうか。かつてバビロン地方は毎年洪水に見舞われ,広大な沼のような「海」と化していたからです。とはいえバビロニア人は,堤防と水門溝と運河を複雑に組み合わせたシステムを造り上げ,その水の多い荒野を制御してきました。そして,巧妙にもその水をバビロン市の防衛システムの一部として活用しています。しかし,いかなる人間の努力も,バビロンを神の裁きから救うものとはなりません。かつて荒野であったバビロンは,再び荒野に戻るでしょう。災いが近づいており,それは,イスラエルにおいて南方の恐ろしい荒野から時折吹き付ける猛烈なあらしのように,今にも起ころうとしています。―ゼカリヤ 9:14と比較してください。

      4 「啓示」の書の「大いなるバビロン」の幻には,「水」と「荒野」という要素がどのように含まれていますか。「水」は何を意味しますか。

      4 本書の14章で考慮したとおり,古代バビロンには対応する現代版があります。それは,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」です。「啓示」の書の中で,大いなるバビロンも「荒野」や「水」と結びつけて描写されています。使徒ヨハネは荒野に運んで行かれ,大いなるバビロンを見せられます。そして,そのバビロンが,「もろもろの民と群衆と国民と国語」を表わす「多くの水の上に座る」と告げられます。(啓示 17:1-3,5,15)一般大衆からの支持は常に偽りの宗教が存続するためのかぎとなってきましたが,結局のところ,そうした「水」はバビロンの保護とはなりません。古代版と同様,大いなるバビロンは最終的に,空虚で,顧みられることのない,荒廃した状態に陥ります。

      5 バビロンはどのように,「不実」で「奪略を行なう者」という評判を得るようになりますか。

      5 イザヤの時代に,バビロンはまだ優勢な世界強国とはなっていませんが,エホバはすでに,バビロンが台頭すると自らの力を悪用することを予見しておられます。イザヤはこう続けます。「わたしに告げられた厳しい幻がある。不実な行ないをする者は不実な行ないをしており,奪略を行なう者は奪略を行なっている」。(イザヤ 21:2前半)バビロンは必ず,征服した諸国に対して奪略を働き,不実な行ないをします。それにはユダも含まれます。バビロニア人はエルサレムとその神殿から金品を奪い,住民を捕虜としてバビロンへ連行します。それら無力な捕虜たちはバビロンで不実な扱いを受け,信仰のゆえにあざけられ,故国に帰る希望を全く与えられないでしょう。―歴代第二 36:17-21。詩編 137:1-4。

      6 (イ)エホバはどんな溜め息を絶えさせますか。(ロ)どんな国々がバビロンを攻撃すると予告されていますか。その予告はどのように成就しますか。

      6 ですから,厳しい時期が来ることを意味するこの「厳しい幻」は,バビロンに全くふさわしいものです。イザヤは続けてこう述べます。「エラムよ,上れ! メディアよ,包囲せよ! 彼女ゆえに出るすべての溜め息をわたしは絶えさせた」。(イザヤ 21:2後半)この不実な帝国に虐げられた国々は安堵するでしょう。ようやく,溜め息をつかずに済むようになるのです。(詩編 79:11,12)何によってそうした安堵がもたらされるのでしょうか。イザヤは,バビロンを攻撃する二つの国の名を挙げています。それはエラムとメディアです。この時から2世紀後,西暦前539年に,ペルシャ人キュロスがペルシャ人とメディア人の連合軍を率いてバビロンを攻めます。エラムについて言えば,西暦前539年より前にペルシャの君主たちがその地の少なくとも一部を領有しています。a 従って,ペルシャ軍にはエラム人も含まれるのです。

      7 イザヤは自分の見た幻からどんな影響を受けますか。それは何を示していますか。

      7 イザヤがこの幻から受けた影響をどのように描写しているかに注目してください。「それゆえに,わたしの腰は激しい痛みで満ちた。子を産むときの女のけいれんのようなけいれんがわたしを捕らえたのだ。わたしは度を失って,何も聞こえない。わたしはかき乱されて,何も見えない。わたしの心はさまよい,身震いがわたしを恐れおののかせた。わたしの慕っていたたそがれは,わたしにとっておののきとされた」。(イザヤ 21:3,4)イザヤは,静かに物思いにふけることのできる,気持ちの良いたそがれ時が好きなようです。しかし今,日暮れはもはや魅力的ではなく,かえって恐れと痛みとおののきしかもたらしません。イザヤは,分娩の際の女性のようなけいれんに襲われ,心は『さまよって』います。ある学者は,この表現が「激しく,不規則な拍動」を指していることに注目し,この部分を「わたしの心臓は荒々しく鼓動する」と訳しています。なぜそれほど苦悩するのでしょうか。イザヤの感情には預言的な意味があるようです。西暦前539年10月5日から6日にかけての夜,バビロニア人は同様の恐怖を経験します。

      8 預言されていたとおり,敵が城壁の外にいるにもかかわらず,バビロニア人はどんな行動を取りますか。

      8 その運命的な夜のとばりが降りるころ,バビロニア人は恐怖に襲われることになろうとは夢にも思っていません。それより2世紀ほど前に,イザヤは予告として,「食卓を整えよ,座席の位置を決めよ,食べよ,飲めよ!」と述べていました。(イザヤ 21:5前半)その言葉どおり,尊大なベルシャザル王は宴会を催しています。王の大官1,000人と大勢の夫人やそばめたちのために座席が設けられています。(ダニエル 5:1,2)それら酒盛りをしている人たちは城壁の外に軍隊がいることは知っていますが,自分たちの都は難攻不落だと思い込んでいます。どっしりした城壁と深い堀があるので,バビロンは攻略不能に見えます。数多くの神々もいるので,攻略されるなどとは考えられません。だから「食べよ,飲めよ!」というわけです。ベルシャザルは酒に酔いますが,酔っているのは王ひとりではないようです。イザヤの次の言葉が預言的に示すとおり,高官たちの目を覚まさねばならないことからすると,それら高官たちも酔ってぼんやりしているものと思われます。

      9 『盾に油をそそぐ』ことが必要になるのはなぜですか。

      9 「君たちよ,立ち上がれ,盾に油をそそげ」。(イザヤ 21:5後半)突如,宴は終わります。君たちは目を覚まさなければなりません。その場に呼び出されていた老齢の預言者ダニエルは,エホバがバビロンの王ベルシャザルを,イザヤが描写したのと同様な恐怖に陥れる様子を目にします。メディア人,ペルシャ人,エラム人の連合軍が都の防御線を突破すると,王の大官たちは大混乱に陥ります。バビロンはたちまち陥落します。では,『盾に油をそそぐ』とはどういう意味でしょうか。聖書では,一国の王がその国の盾と呼ばれることがあります。王は国の防御者また保護者だからです。b (詩編 89:18)従って,イザヤのこの聖句は新たな王の必要性を予告しているようです。なぜ必要なのでしょうか。「まさしくその夜」ベルシャザルが殺されるからです。そのため,『盾に油をそそぐ』,つまり新たな王を任命する必要があるのです。―ダニエル 5:1-9,30。

      10 不実な行ないをする者に関するイザヤの預言の成就から,エホバの崇拝者はどんな慰めを得られますか。

      10 真の崇拝を愛する人はみな,この記述から慰めを得られます。現代のバビロンである大いなるバビロンは,その古代版と同じく,不実な行ないをして奪略を行なう者となっています。今日に至るまで宗教指導者たちは,エホバの証人が禁令下に置かれ,迫害され,厳しく課税されるようたくらんできました。しかし,この預言からも分かるとおり,エホバはそうした不実な行ないすべてを見ておられ,処罰せずにはおかれません。エホバは,ご自分について誤り伝えたり,ご自分の民を虐待したりする宗教すべてに終わりをもたらされます。(啓示 18:8)そうしたことは本当に起こるのでしょうか。信仰を強めるには,古代バビロンとその現代版の倒壊に関する神の警告がすでにどのように成就してきたかを考慮するだけで十分です。

      「彼女は倒れた!」

      11 (イ)見張りの者にはどんな責任がありますか。今日だれが見張りの者として活動していますか。(ロ)ろばの戦車とらくだの戦車は何を表わしていますか。

      11 ここでエホバは預言者イザヤに語りかけます。イザヤはこう記しています。「エホバはこのようにわたしに言われた……。『行って,見張り番を立て,その見るところを告げさせよ』」。(イザヤ 21:6)この言葉は,この章のもう一つの重要なテーマ,つまり見張り番もしくは見張りの者という点を提示しています。これは,今日の真のクリスチャンすべての関心を引きます。イエスがご自分の追随者たちに,「ずっと見張っていなさい」と強く勧めているからです。「忠実で思慮深い奴隷」は,神の裁きの日が近いことと,この腐敗した世の様々な危険に関して,自分が見る事柄を語るのをやめたことは一度もありません。(マタイ 24:42,45-47)イザヤの幻に出てくる見張りの者は何を見ますか。「彼は一対の乗用馬の引く戦車,ろばの戦車,らくだの戦車を見た。そして,彼は注意を集中して厳密な注意を払った」。(イザヤ 21:7)これらの戦車はそれぞれ,戦闘隊形を組んで,訓練された乗用馬と同じほどの速さで前進する戦車縦隊を表わしているようです。ろばの戦車とらくだの戦車は,結束してこの攻撃を開始する二つの強国,メディアとペルシャを適切に表わしています。さらに,戦争の際にペルシャ軍がろばとらくだの両方を用いたことは,歴史的にも裏づけられています。

      12 イザヤの幻に出てくる見張りの者はどんな特質を示しますか。今日だれがそうした特質を必要としていますか。

      12 それで,見張りの者は報告せずにはいられません。「[彼は]ライオンのように呼ばわりはじめた,『エホバよ,わたしは昼間ずっと物見の塔の上に立っております。わたしは夜ごとに自分の見張り所に就いております。そして,いま,人の乗った戦車が,一対の乗用馬に引かれてやってきます!』」(イザヤ 21:8,9前半)この幻に出てくる見張りの者は「ライオンのように」勇敢に呼ばわります。呼ばわって,バビロンのような恐ろしく大きな国に対する裁きの音信を告げるには,勇気が必要です。ほかにも必要なものがあります。それは忍耐です。見張りの者は昼も夜も持ち場にとどまり,決して警戒を緩めません。同様に,この終わりの日における見張りの者級にも,これまでずっと勇気と忍耐が必要でした。(啓示 14:12)真のクリスチャンはみな,そうした特質を必要としています。

      13,14 (イ)古代バビロンはどうなりますか。バビロンの偶像はどんな意味で砕かれますか。(ロ)大いなるバビロンはどのように,またいつ同様な倒壊を経験しましたか。

      13 イザヤの幻に出てくる見張りの者は,一台の戦車が前進しているのを見ます。どんなニュースがあるのでしょうか。「彼は語って言いはじめた,『彼女は倒れた! バビロンは倒れた。その神々の彫像を神はことごとく地に砕かれた!』」(イザヤ 21:9後半)何と胸の躍る報告でしょう。この,不実にも神の民から奪略する者は,ついに倒れたのです。c しかし,バビロンの彫像や偶像はどんな意味で砕かれるのですか。メディア-ペルシャの侵入者たちは行進してバビロンの数々の神殿に入り,無数の偶像を打ち砕くのでしょうか。いいえ,そうしたことは必要ではありません。バビロンの偶像の神々は,都を保護する力のないことを暴かれるという意味で砕かれるのです。そしてバビロンは,もはや神の民を虐げることができなくなるとき,倒壊を経験します。

      14 大いなるバビロンの場合はどうですか。大いなるバビロンは,第一次世界大戦中に神の民に対する虐待を仕組むことにより,一時期,神の民をいわば流刑状態にとどめました。神の民の宣べ伝える業は事実上,停止させられました。ものみの塔協会の会長をはじめとする主だった役員は,虚偽の告発により投獄されました。しかし1919年に,驚くべき逆転が生じました。役員たちは刑務所から釈放され,本部事務所は再開され,宣べ伝える業も再び開始されたのです。そのようにして,大いなるバビロンは,神の民を捕らえておく力を砕かれたという点で倒れました。d この倒壊は,「啓示」の書の中で二度,み使いにより,イザヤ 21章9節の発表の言葉を用いて布告されています。―啓示 14:8; 18:2。

      15,16 イザヤの民はどんな意味で「脱穀された者たち」であると言えますか。その民に対するイザヤの態度から何を学べますか。

      15 イザヤはこの預言的な音信を締めくくるにあたり,自分自身の民に対する同情のこもった言葉を述べ,こう言います。「わたしの脱穀された者たちとわたしの脱穀場の子よ,イスラエルの神,万軍のエホバから聞いたことをわたしはあなた方に伝えたのだ」。(イザヤ 21:10)脱穀は,聖書中でしばしば,神の民に対する懲らしめや精錬の象徴となっています。脱穀場ではもみがらが小麦から強制的に分けられ,混じり物のない望ましい穀粒だけが残ります。神の契約の民は,そのようにして『脱穀場の子ら』となるでしょう。イザヤはそうした懲らしめについて,いい気味だと喜んではいません。むしろ,それら将来の『脱穀場の子ら』に同情を抱いています。その子らの中には,異国の地で捕らわれの身のまま一生を終える者もいるのです。

      16 こうしたことは,わたしたちすべてに有益な事柄を思い起こさせてくれるでしょう。今日のクリスチャン会衆には,悪行者に対する同情を失いがちな人もいるかもしれません。また,自分の受けた懲らしめに憤慨する人もいるかもしれません。しかし,エホバがご自分の民を懲らしめるのは精錬のためであることを忘れないなら,懲らしめそのものや,謙遜に懲らしめを忍んでいる人を軽視することはなく,自分が懲らしめを受ける時にそれに逆らうこともないでしょう。神の懲らしめを,神の愛の表明として受け入れましょう。―ヘブライ 12:6。

      見張りの者に尋ねる

      17 エドムが「ドマ」と呼ばれるのはなぜふさわしいと言えますか。

      17 イザヤ 21章の2番目の預言的な音信では,見張りの者自身が前面に出てきます。冒頭の言葉はこうです。「ドマに対する宣告: セイルからわたしに呼ばわる者がいる,『見張りの者よ,夜はどうなのか。見張りの者よ,夜はどうなのか』」。(イザヤ 21:11)このドマとはどこのことでしょうか。聖書時代にドマと呼ばれた町は幾つもあったようですが,ここで言うドマはそのいずれでもありません。ドマはセイルにあるわけではありません。セイルはエドムの別名です。一方,「ドマ」には「沈黙」という意味があります。それで,前の宣告の場合と同様,前途を暗示する名がエドムに与えられているようです。長いあいだ執念深く神の民に敵対してきたエドムは,最終的に沈黙に,つまり死の沈黙に至ります。とはいえ,そうなる前に,心配して将来について尋ねる者がいます。

      18 「朝は必ずやって来る。そして夜もまた」という宣告は,古代エドムにどのように成就しますか。

      18 イザヤがこれを書いているころ,エドムは強大なアッシリア軍の進路上にあります。エドムの一部の人たちは,自分たちにとって圧制という夜が終わるのはいつなのかを是非知りたいと思っています。どんな答えが与えられますか。「見張りの者は言った,『朝は必ずやって来る。そして夜もまた』」。(イザヤ 21:12前半)エドムにとって好ましい前途は期待できません。朝のかすかな光が地平線に現われますが,幻影のようにすぐに消えてしまいます。朝に続いて直ちに次の夜,つまり新たな圧制の暗い時期が訪れます。エドムの将来を何と適切に描写しているのでしょう。アッシリアの圧制は終わりますが,バビロンが世界強国としてアッシリアの後を継ぎ,エドムに大打撃を与えるのです。(エレミヤ 25:17,21; 27:2-8)同様の交替が繰り返されます。バビロンによる圧制の後には,ペルシャの,そしてギリシャの圧制が続きます。その後,ローマの時代には,系統的にはエドム人であるヘロデ家がエルサレムで権力を握り,しばしの「朝」が来るでしょう。しかし,その「朝」は長続きしません。結局,エドムは永久の沈黙に下り,歴史から姿を消します。最終的に,ドマはエドムにぴったりの名となるのです。

      19 見張りの者は「あなた方は尋ねたければ,尋ねるがよい。また来るがよい!」と言いますが,それはどういう意味であると考えられますか。

      19 見張りの者は,簡潔なメッセージの終わりに,「あなた方は尋ねたければ,尋ねるがよい。また来るがよい!」と言います。(イザヤ 21:12後半)「また来るがよい!」という表現は,エドムに今後次から次に臨む数々の「夜」に当てはまるのかもしれません。あるいは,その表現が「戻る」とも訳せることからすると,イザヤは,エドムと運命を共にすることを望まないエドム人はみな悔い改め,エホバに「戻る」べきであることを示しているのかもしれません。いずれにせよ,この見張りの者は,さらに尋ねるよう勧めています。

      20 イザヤ 21章11,12節に記録されている宣告が今日のエホバの民にとって意味深いのはなぜですか。

      20 この短い宣告は,現代のエホバの民にとって非常に意味深いものとなっています。e わたしたちの理解によれば,人類は霊的な盲目状態と神からの疎外という暗い夜に深く沈んでおり,その夜の先には,この事物の体制の滅びが待ち受けています。(ローマ 13:12。コリント第二 4:4)この夜の間には,人類が何らかの方法で平和と安全をもたらし得るというかすかな希望の光が生じるとしても,それは,夜明けのきらめきが幻影のように現われたかと思うと以前にも増して暗い時間が訪れてしまうのに似ています。とはいえ,本当の夜明けが近づいています。それは,この全地に及ぶキリストの千年統治の夜明けです。それでも,夜が続く限り,わたしたちは見張りの者級の指導に従い,霊的に油断せず,この腐敗した事物の体制の終わりが近いことを勇敢に告げ知らせなければなりません。―テサロニケ第一 5:6。

      砂漠平原に夜が訪れる

      21 (イ)「砂漠平原に対する宣告」という言葉は,どんな掛け言葉として語られたものかもしれませんか。(ロ)デダンの人々の隊商とはどんな人々ですか。

      21 イザヤ 21章の最後の宣告は「砂漠平原」に対するものであり,こう始まります。「砂漠平原に対する宣告: デダンの人々の隊商よ,あなた方は砂漠平原の森林で夜を過ごす」。(イザヤ 21:13)ここで言う砂漠平原はアラビアのことであると思われます。この宣告がアラブの幾つかの部族に向かって語られているからです。「砂漠平原」と訳されている語は,「夕方」と訳されることもあります。両者はヘブライ語では非常に似ています。一説には,この箇所は,暗い夕方ともいうべき困難な時代がこの地域に訪れようとしているという掛け言葉ではないか,と言われています。この宣告は,アラブの有名な部族デダンの人々の隊商が登場する夜の情景とともに始まります。そのような隊商は,砂漠のオアシスからオアシスへ交易路に沿って旅をし,香辛料や真珠などの高価な品を運びます。しかしこの聖句によると,隊商は往来の多い道からはずれ,ひっそりと夜を過ごさざるを得ません。なぜでしょうか。

      22,23 (イ)どんな壊滅的な重荷がアラブの諸部族にのしかかろうとしていますか。それは,それら諸部族にどんな影響を及ぼしますか。(ロ)この災厄が臨むのはどれほど先のことですか。だれの手によって臨みますか。

      22 イザヤはこう説明します。「渇いている者を迎えるために水を携えて来るがよい。テマの地の住民よ,逃げ去る者のためのパンをもってこれと向かい合え。剣のゆえに彼らは逃げ去ったからである。抜き身の剣,引かれた弓,戦いの激しさのために」。(イザヤ 21:14,15)そうです,戦争という壊滅的な重荷がこれらアラブの諸部族にのしかかるのです。この地域でも特に水の豊富なオアシスにあるテマは,哀れな戦争難民に水とパンを運んで行かねばなりません。こうした難儀はいつ生じるのでしょうか。

      23 イザヤはこう続けます。「エホバはわたしにこう言われた……。『雇われた労働者の年期にしたがって,もう一年のうちに,ケダルのすべての栄光は必ずその終わりに至る。そして弓を引く人の数のうちの残っている者たち,ケダルの子らの力ある者たちは少なくなる。エホバご自身が,イスラエルの神がそう語られたからである』」。(イザヤ 21:16,17)ケダルは非常に際立った部族なので,全アラビアを代表するものとして用いられることがあります。エホバは,この部族の弓を引く人や力ある者たちの数が減って,残りの者だけになることをお定めになりました。いつそうなるのでしょうか。「もう一年のうちに」であり,それより先のことではありません。それは,雇われた労働者が給金の支払われる時間を超えて働くことがないのと同じです。正確に言ってどのようにこれらすべてが成就したかは定かではありません。アッシリアの二人の支配者サルゴン2世とセナケリブが,アラビアを服属させたのは自分の手柄であると主張しています。どちらであっても,これら誇り高いアラブの諸部族に予告どおりの大打撃を与え得たことでしょう。

      24 アラビアに対するイザヤの預言が成就したと,どうして確信できますか。

      24 いずれにせよ,この預言が一字一句成就したことは確信できます。その点を何よりも強力に示すのは,「エホバご自身が,イスラエルの神がそう語られた」という,この宣告の結びの言葉です。イザヤの時代の人々にとって,バビロンがアッシリアより優勢になり,その後,ほうらつな酒盛りの最中,一夜にして権力の座から追い落とされることなど,考えられないかもしれません。同様に,強大なエドムが死のような沈黙に至り,裕福なアラブの諸部族に辛苦と窮乏の夜が訪れようなどとは考えられないでしょう。しかし,エホバはそうなると言われ,実際そのとおりになります。今日エホバは,偽りの宗教の世界帝国が消滅すると告げておられます。それは,単なる可能性ではなく,確実に起きる事柄です。エホバご自身がそれを語られたのです。

      25 見張りの者の手本にどのように倣えますか。

      25 ですから,見張りの者に倣いましょう。あたかも高い物見の塔の上の持ち場につき,迫り来る危険を一つも見落とすまいと地平線に目を配っているかのように,警戒を怠らないでいましょう。忠実な見張りの者級,つまり今日地上に残っている油そそがれたクリスチャンと密接に協力するのです。見張りの者と共に,自分が目の当たりにしている事柄について勇敢に呼ばわりましょう。キリストが天で支配しており,まもなく神からの疎外という人類の長く暗い夜を終わらせ,その後,パラダイスとなった全地に対する千年統治という真の夜明けを招来する,ということを示す圧倒的な証拠について呼ばわるのです。

      [脚注]

      a ペルシャの王キュロスは「アンシャンの王」と呼ばれていることがあります。アンシャンは,エラムの一地方あるいは一都市でした。イザヤの時代,つまり西暦前8世紀のイスラエル人は,ペルシャのことはあまり知らず,エラムのほうを知っていたのかもしれません。これは,イザヤがここでペルシャの代わりにエラムの名を挙げている理由の説明となるかもしれません。

      b 『盾に油をそそぐ』という表現は,戦闘の前に革の盾に油を塗って,たいていの打撃をかわせるようにする古代の軍隊の習慣を指す,と多くの聖書注解者は考えています。そうした解釈も可能ですが,注目すべき点として,都が陥落した夜,バビロニア人にはほとんど応戦する暇もなかったのですから,盾に油を塗って戦闘に備える余裕などありませんでした。

      c バビロンの倒壊に関するイザヤの預言があまりにも正確なので,一部の聖書批評家は,その預言は事後に書かれたに違いないという説を唱えています。しかし,ヘブライ語学者のF・デリッチが指摘するとおり,預言者が霊感を受けて物事を何百年も前に予告し得ることを認めるなら,そうした憶測は不要です。

      d 「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」,164-169ページをご覧ください。

      e 「ものみの塔」誌は,創刊から59年にわたり,表紙にイザヤ 21章11節を掲げていました。その同じ聖句は,ものみの塔協会の初代会長,チャールズ・T・ラッセルが書き残した最後の訓話の主題ともなっていました。(前のページの写真をご覧ください。)

      [219ページの図版]

      「食べよ,飲めよ!」

      [220ページの図版]

      見張りの者は「ライオンのように呼ばわりはじめた」

      [222ページの図版]

      『わたしは昼間ずっと,また夜ごとに立っております』

  • 不忠実に関する教訓
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第18章

      不忠実に関する教訓

      イザヤ 22:1-25

      1 攻囲された古代都市の中にいるのはどんな経験だと考えられますか。

      攻囲された古代都市の中にいるとしたらどうだろう,と想像してみてください。城壁の外には敵が,それも強くて無慈悲な敵がいます。すでに幾つもの都市が落とされたことを,あなたは知っています。今や敵は,この都市を征服して金品を強奪し,婦女を犯し,住民を殺そうと心に決めています。敵軍はあまりにも強力なので,正面きって戦えばとうてい勝ち目はなく,できることと言えば,市の城壁がなんとか持ちこたえてくれることを願うのみです。城壁越しに外を見ると,敵が運び込んだ攻囲用の塔が幾つも見えます。敵は,大きな丸石を飛ばしてこちらの防衛施設を粉砕できる攻囲用の機械も有しています。破城づちや攻城ばしご,射手や兵車,大勢の兵士も見えます。何と恐ろしい光景でしょう。

      2 イザヤ 22章に描写されている攻囲はいつ生じますか。

      2 イザヤ 22章には,そうした攻囲,つまりエルサレムの攻囲に関することが述べられています。それはいつの出来事でしょうか。描写されている特徴すべてが当てはまる単独の攻囲を特定するのは困難です。むしろこの預言は,この後エルサレムに臨む様々な攻囲の包括的な描写,また将来起きる事柄に関する総合的な警告と理解するのが最も妥当なようです。

      3 エルサレムの住民は,イザヤの描写どおりの攻囲を経験して,どのように反応していますか。

      3 イザヤの描写した攻囲に直面して,エルサレムの住民は何をしているでしょうか。神の契約の民として,救いを求めてエホバに呼ばわっているでしょうか。いいえ,住民は非常に愚かな態度を示しています。それは,今日,神を崇拝すると唱える多くの人が取る態度と似ています。

      攻囲下の都市

      4 (イ)「幻の谷」とは何のことですか。そのような名で呼ばれているのはなぜですか。(ロ)エルサレムの住民は霊的にどんな状態にありますか。

      4 イザヤ 21章の三つの裁きの音信は,いずれも「宣告」を含む表現で始まっていました。(イザヤ 21:1,11,13)22章も同じように始まります。「幻の谷の宣告: それで,あなたはどうしたのか。こぞって屋根に上ってしまうとは」。(イザヤ 22:1)「幻の谷」とはエルサレムのことです。その都が谷と呼ばれているのは,高台にあるとはいえ,もっと高い山々に囲まれているからです。「幻」と結びつけられているのは,神からの数多くの幻や啓示がそこで与えられるからです。それゆえ,その都の住民はエホバの言葉に留意すべきです。しかし,住民はエホバを無視し,偽りの崇拝に迷い込んでしまっています。都を攻囲している敵は,道に外れたご自分の民に神が裁きを下すための道具なのです。―申命記 28:45,49,50,52。

      5 人々はなぜ屋根に上ると考えられますか。

      5 エルサレムの住民が『こぞって[自分たちの家の]屋根に上ってしまった』ことに注目してください。古代において,イスラエル人の家の屋根は平らで,しばしば家族の集まりの場となっていました。イザヤは,なぜこの場合に人々が屋根に上るのかを述べてはいませんが,その言葉には非難めいた響きがあります。ですから,恐らく人々は自分たちの偽りの神々に何かを請い求めるために屋根に上ったのでしょう。西暦前607年のエルサレムの滅びに先立つ時代,住民にはそのような習慣がありました。―エレミヤ 19:13。ゼパニヤ 1:5。

      6 (イ)エルサレムの中はどんな状況になりますか。(ロ)一部の人はなぜ歓びますか。しかし,前途には何が待ち受けていますか。

      6 イザヤはこう続けます。「騒がしい都市,歓喜の町,あなたは騒ぎで満ちていた。あなたの打ち殺された者たちは剣で打ち殺された者でもなければ,戦闘で死んだ者でもない」。(イザヤ 22:2)都には多くの人が集まり,騒がしくなっています。市街では,恐れを感じる人々が騒いでいます。しかし,歓んでいる人たちもいます。それは,安全だと思っているか,危険は去りつつあると思い込んでいるからでしょう。a しかし,この時点で歓ぶのはばかげています。都の中の多くの人は,剣の刃にかかって死ぬよりさらに悲惨な死に方をするでしょう。攻囲下の都市は外部からの食糧供給を断たれるものです。都の中の備蓄は減ってゆきます。飢えと込み合った環境のため,病気が蔓延します。こうして,エルサレムの多くの人は飢きんと疫病で命を落とします。それは,西暦前607年と西暦70年の2度にわたって生じます。―列王第二 25:3。哀歌 4:9,10。b

      7 攻囲中,エルサレムの支配者たちはどんな行動を取りますか。彼らはどうなりますか。

      7 この危機に際して,エルサレムの支配者たちはどんな指導を与えますか。イザヤはこう答えます。「あなたの命令者たちもみな一度に逃げた。弓を用いる必要もなく彼らは捕らわれ人となった。あなたのうちで見つかった者はみな一緒に捕らわれ人となった。彼らは遠くに逃げ去っていたのだ」。(イザヤ 22:3)支配者や力ある者たちは逃げ出し,そして捕らえられます。相手に弓一つ引かせることさえなく生け捕りにされ,捕らわれ人として連行されます。それは西暦前607年に生じます。エルサレムの城壁が破られた後,ゼデキヤ王は配下の力ある者たちと共に夜に紛れて逃げます。それを察知した敵は追跡し,エリコの平原で追いつきます。力ある者たちは散り散りになり,ゼデキヤは捕らえられて盲目にされ,銅の足かせを掛けられてバビロンへ引いて行かれます。(列王第二 25:2-7)ゼデキヤの不忠実は,何という悲劇を生んだのでしょう。

      災いを思い巡らして意気消沈する

      8 (イ)イザヤは,エルサレムに臨む災いを予告する預言にどう反応しますか。(ロ)エルサレムはどんな状態になりますか。

      8 この預言に深く心を動かされたイザヤは,こう言います。「あなた方の視線をわたしからそらせよ。わたしは泣いて苦しみを表わそう。わたしの民の娘が奪略を受けたことについて,あなた方は強いてわたしを慰めようとするな」。(イザヤ 22:4)以前イザヤは,預言されたモアブとバビロンの運命について悲しみました。(イザヤ 16:11; 21:3)今度は,自分自身の民に臨もうとしている災難について思い巡らし,さらにいっそう意気消沈して,嘆き悲しみます。イザヤはやるせなく思います。なぜでしょうか。「それは,主権者なる主,万軍のエホバが幻の谷で持たれる,混乱と踏みにじりとろうばいの日だからである。城壁を破壊する者がおり,山への叫びがある」。(イザヤ 22:5)エルサレムは手に負えない混乱状態に陥るでしょう。人々はパニックを起こし,あてもなくさまよいます。敵が都の城壁を突破し始めると,「山への叫び」が生じます。これは,モリヤ山上の聖なる神殿におられる神に向かって都の住民が呼ばわるということでしょうか。そうかもしれません。しかし,住民の不忠実さを考えると,これは単に,彼らの恐怖の叫びが周囲の山々にこだまするという意味のようです。

      9 エルサレムを脅かしているのはどんな軍隊ですか。

      9 どんな敵がエルサレムを脅かしているのでしょうか。イザヤはこう述べます。「エラムは,乗用馬の引く地の人の戦車の中で矢筒を取った。キルも盾の覆いを外した」。(イザヤ 22:6)敵勢は完全武装しています。射手たちの矢筒には矢が満ちています。戦士たちは戦闘に向けて盾を整えています。兵車もあれば,戦闘の訓練を受けた馬もいます。軍勢の中には,現在のペルシャ湾の北方にあたるエラムの兵士たちや,エラムの近くにあったと思われるキルの兵士たちもいます。これらの地名が挙げられていることから,侵入者たちがはるか遠方から来ていることが分かります。また,ヒゼキヤの時代にエルサレムを脅かした軍隊の中にエラム人の射手たちがいたかもしれないことも分かります。

      防御側の幾つかの試み

      10 事態のどんな進展によって,都は不利になりますか。

      10 イザヤは,事態が進展してゆく様子をこう描写します。「あなたの低地平原のえり抜きの所は必ず戦車で満ち,乗用馬も必ず門に整列し,人はユダの覆いを取り除くであろう」。(イザヤ 22:7,8前半)多くの兵車と馬がエルサレム市外の平原に集結し,都の城門を攻撃するための配置に着きます。取り除かれる「ユダの覆い」とは何でしょうか。それは都のいずれかの城門のことのようです。城門が一つでも破られるなら,防御側は不利になります。c この防御用の覆いが取り除かれると,都は攻撃に対して無防備になります。

      11,12 エルサレムの住民はどんな防御処置を取りますか。

      11 次にイザヤは,人々が我が身を守ろうとして試みる事柄に注意を向けます。人々の頭にまず浮かぶもの ― それは武器です!「その日,あなたは森の家の武器庫の方を見,あなた方は必ず“ダビデの都市”の破れを見る。実際,それは多いからである。そしてあなた方は下方の池の水を集める」。(イザヤ 22:8後半,9)兵器類は,森の家の武器庫に保管されています。その武器庫はソロモンが建てたものであり,レバノン産の杉でできているので「レバノンの森の家」と呼ばれるようになりました。(列王第一 7:2-5)城壁の破れが調査されます。水が集められます。それは,防御上の重要な処置です。生き延びるには水が必要です。水がなければ,都は持ちこたえられません。しかし何と,人々が救出を求めてエホバに頼るとは一言も述べられていません。それどころか,人々は自分自身の力に頼ります。わたしたちは,決してそのような間違いは犯したくありません。―詩編 127:1。

      12 それら都の城壁の破れはどうしたら良いでしょうか。「エルサレムの家を実際に数える。さらに,城壁を到達し難いものとするために家々を取り壊す」。(イザヤ 22:10)破れの修理に使う資材を得るにはどの家を壊したら良いかを見きわめるため,家々が評価されます。破れを修理して,城壁が敵の手に落ちるのを防ごうというのです。

      不信仰な民

      13 民はどのように水の供給を確保しようとしますか。しかし,だれを無視していますか。

      13 「あなた方が古い池の水のために,必ず二つの城壁の間に作る貯水池がある。それでも,あなた方はその偉大な造り主を決して見ず,それを昔に形造った方を決して見ないであろう」。(イザヤ 22:11)この節,また9節でも描写されている,水を集める努力は,侵入するアッシリア軍から都を守るためにヒゼキヤ王が取った行動を連想させます。(歴代第二 32:2-5)とはいえ,このイザヤの預言に出てくる都の民は全く不信仰です。都の防備を固めるにあたって,ヒゼキヤとは違い,創造者を完全に度外視しています。

      14 エホバの警告の音信にもかかわらず,民はどんな愚かな態度を取りますか。

      14 イザヤはこう続けます。「その日,主権者なる主,万軍のエホバは,泣き悲しむこと,嘆き悲しむこと,はげになること,粗布を着けることを呼び招く。しかし,見よ,歓喜と歓び,牛を殺すことと羊をほふること,肉を食べることとぶどう酒を飲むことがあり,『食べたり飲んだりせよ。わたしたちは明日は死ぬのだから』と」。(イザヤ 22:12,13)エルサレムの住民は,エホバへの反逆について,少しも悔恨の気持ちを示しません。悔い改めのしるしとして泣き悲しむことも,髪を切ることも,粗布をまとうこともしません。もしそうしていたなら,恐らくエホバは,迫り来る恐ろしい出来事をとどめてくださったことでしょう。ところが住民は,投げやりになって官能的な楽しみにふけります。それと同じ態度が,今日,神に信仰を置かない多くの人々に見られます。それらの人々は,死者の中からの復活の希望も,将来の地上のパラダイスでの命の希望もないので,自堕落な生き方を追い求め,「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」と言います。(コリント第一 15:32)何と近視眼的なのでしょう。エホバに信頼を置きさえすれば,永続する希望を持てるのです。―詩編 4:6-8。箴言 1:33。

      15 (イ)エルサレムに対するエホバの裁きの音信はどんなものですか。その裁きを執行するのはだれですか。(ロ)キリスト教世界がエルサレムと同様の運命をたどるのはなぜですか。

      15 攻囲されたエルサレムの住民に安全は訪れません。イザヤはこう言います。「万軍のエホバはご自身をわたしの耳に啓示された。『「このとがはあなた方が死ぬまであなた方のために贖われることはない」と,主権者なる主,万軍のエホバは言われた』」。(イザヤ 22:14)民の心がかたくなであるため,赦しは与えられません。必ず死が臨みます。間違いなくそうなります。主権者なる主,万軍のエホバがそう言われたのです。イザヤの預言的な言葉の成就として,不忠実なエルサレムには災いが2度臨みます。バビロンの軍隊に滅ぼされ,後にはローマの軍隊に滅ぼされます。それと同じように,不忠実なキリスト教世界にも災いが臨みます。その成員が,神を崇拝すると唱えながら,実際には業によって神を否認しているからです。(テトス 1:16)キリスト教世界の罪と,神の義の道をあざける世界の他の諸宗教の罪は,『重なり加わって天に達して』います。背教したエルサレムのとがと同様,それらの宗教のとがも大きすぎて贖うことができません。―啓示 18:5,8,21。

      利己的な家令

      16,17 (イ)今度はだれがエホバから警告の音信を受けますか。それはなぜですか。(ロ)高慢な野心のゆえに,シェブナはどうなりますか。

      16 預言者イザヤは,不忠実な民に向けていた注意を今度は一人の不忠実な人に向け,こう書きます。「主権者なる主,万軍のエホバはこのように言われた。『行って,家を管理しているこの家令シェブナのところに入れ。「あなたはここにどんな関係があって,また,ここにだれと関係があって,自分のためにここに埋葬所を切り掘ったのか」。彼は高みにその埋葬所を切り掘っており,自分のために大岩に住まいを切り抜いている』」。―イザヤ 22:15,16。

      17 シェブナは『家を管理している家令』であり,その「家」とは恐らくヒゼキヤ王の家のことです。家令であるシェブナは,王に次ぐ影響力のある地位にあり,多くのことを期待されています。(コリント第一 4:2)しかし,国事を優先すべき時に,シェブナは自分のために栄光を追い求めています。自分のために,王の墓にも匹敵するほどの豪華な墓を,大岩の高みに彫らせています。エホバはそれをご覧になり,イザヤに霊感を与え,この不忠実な家令に対して次のように警告させます。「見よ,強健な者よ,エホバは激しく投げつけることによってあなたを投げつけ,あなたを力ずくでつかもうとしておられる。神はあなたを広い地のための球のように必ずしっかりと包む。そこであなたは死に,そこであなたの栄光の兵車はあなたの主人の家の不名誉となる。そして,わたしはあなたをその地位から押しのけ,人はあなたをその公式の立場から引き降ろすであろう」。(イザヤ 22:17-19)自己中心的な態度のゆえに,シェブナはエルサレムに普通の墓さえ持てないでしょう。かえって,球のように投げられ,遠い地で死ぬのです。ここには,神の民の中で権威を委ねられている人々すべてに対する警告が含まれています。力を乱用するなら,そうした権威を失うことになり,場合によっては追放されることさえあり得ます。

      18 シェブナに代わって,だれが立てられますか。その者にシェブナの職服とダビデの家のかぎが与えられることには,どんな意味がありますか。

      18 さて,シェブナはどのように自分の地位から取り除かれるのでしょうか。エホバはイザヤを通してこう説明されます。「わたしはその日,わたしの僕,すなわち,ヒルキヤの子エリヤキムを呼ぶ。そして彼にあなたの長い衣を着せ,あなたの飾り帯を彼に固く締めさせ,あなたの統治権をその手に渡すであろう。そして,彼は必ずエルサレムの住民とユダの家にとっての父となる。また,わたしはダビデの家のかぎをその肩の上に置く。彼が開けると閉じる者はなく,彼が閉じると開ける者はない」。(イザヤ 22:20-22)シェブナに代わって,エリヤキムに家令の職服とダビデの家のかぎが与えられるでしょう。聖書で,「かぎ」という語は,権威,行政権,権力の象徴として用いられています。(マタイ 16:19と比較してください。)古代,そうしたかぎを委ねられた王の顧問官は,王の様々な部屋を総合的に監督し,さらには王に仕えることを志望する者に関して決定を下すことさえあったかもしれません。(啓示 3:7,8と比較してください。)このように,家令職は重要であり,だれであれその職にある者には多くのことが期待されます。(ルカ 12:48)シェブナは有能かもしれませんが,不忠実であるゆえに,エホバは彼を更迭されます。

      二つの象徴的な掛けくぎ

      19,20 (イ)エリヤキムが自分の民にとって祝福であることは,どのように明らかになりますか。(ロ)シェブナに頼り続ける人たちはどうなりますか。

      19 結びにエホバは,シェブナからエリヤキムに権力が移行することを象徴的な言い回しを用いて描写し,こう述べられます。「『わたしは彼[エリヤキム]を永続する場所に掛けくぎとして打ち込むであろう。彼はその父の家にとって必ず栄光の王座となる。そして,彼らはその父の家のすべての栄光を必ず彼の上に掛ける。末孫と枝族,すべての小さな器物,鉢の器物,およびすべての大きなかめの器を。その日には』と,万軍のエホバはお告げになる,『永続する場所に打ち込まれるその掛けくぎ[シェブナ]は取り除かれ,それは切り倒されて落ち,それに掛かっている荷は切り断たれる。エホバご自身がそう語られたからである』」。―イザヤ 22:23-25。

      20 この部分に出てくる最初の掛けくぎはエリヤキムです。彼は自分の父ヒルキヤの家にとって「栄光の王座」となります。シェブナとは違い,父の家あるいは父の評判に恥辱をもたらすことはありません。エリヤキムは,家の器物,つまり王に仕える他の人々にとって,永続する支えとなるでしょう。(テモテ第二 2:20,21)それとは対照的に,2番目の掛けくぎはシェブナを指しています。彼は今は安泰であるように見えるとしても,やがて取り除かれます。シェブナに頼り続ける人はみな,落ちてしまうでしょう。

      21 現代,だれがシェブナのように交代させられましたか。それはなぜですか。だれが代わりに立てられましたか。

      21 シェブナの経験から銘記できるのは,神を崇拝すると唱える人々のうち,様々な奉仕の特権を受け入れた人たちは,他の人に仕え,エホバに賛美をもたらすためにその特権を用いるべきだということです。そうした人たちは,自分を富ませたり個人的な名声を得たりするために立場を誤用してはなりません。一例を挙げると,キリスト教世界は長い間,任命された家令,イエス・キリストの地上の代表者として自らを高めてきました。しかし,シェブナが自分自身の栄光を求めて自分の父に不名誉をもたらしたのと全く同様,キリスト教世界の指導者たちは富や権力を我が物として蓄積することにより,創造者に不名誉をもたらしてきました。そのため,「神の家から」裁きの「始まる」時が1918年に来ると,エホバはキリスト教世界を退けられました。そして,別の家令,つまり「忠実な家令,思慮深い者」の実体が明らかにされ,その者はイエスの地上の家の者たちの上に任命されました。(ペテロ第一 4:17。ルカ 12:42-44)この複合の級は,自らがダビデの家の王の「かぎ」を肩に負うにふさわしい者であることを示してきました。その級は信頼できる「掛けくぎ」のように,様々な責任を持つ油そそがれたクリスチャンという様々な「器物」すべてにとって,確かな支えであることを実証してきたのです。それらクリスチャンは,霊的に命を支えるものを求めて,この級に頼っています。「ほかの羊」も,古代エルサレムの「門の内にいる外人居留者」のように,現代のエリヤキムであるこの「掛けくぎ」を頼りにしています。―ヨハネ 10:16。申命記 5:14。

      22 (イ)家令のシェブナがふさわしい時に交代させられたと言えるのはなぜですか。(ロ)現代,「忠実な家令,思慮深い者」がふさわしい時に任命されたといえるのはなぜですか。

      22 エリヤキムがシェブナに代わって立てられたのは,セナケリブとその大軍がエルサレムを脅かしていた時のことでした。同様に,「忠実な家令,思慮深い者」は終わりの時の期間中に奉仕するよう任命されています。その終わりの時は,サタンとその軍勢が,「神のイスラエル」とその仲間であるほかの羊に最後の攻撃を仕掛ける時に終結します。(ガラテア 6:16)その攻撃は,ヒゼキヤの時代のように,義に敵対する者たちの滅びをもって終わります。アッシリアがユダに侵入した時に忠実なエルサレムの住民が生き残ったのと全く同様,『永続する場所の掛けくぎ』である忠実な家令を自分の支えとする人たちは生き残ります。ですから,キリスト教世界という,信用に値しない「掛けくぎ」にしがみつかないことは,本当に賢明なことです。

      23 シェブナはその後どうなりますか。そのことから,わたしたちは何を学べますか。

      23 シェブナはどうなりますか。イザヤ 22章18節に記されているシェブナに関する預言がどのように成就したかを示す記録はありません。自ら高ぶり,次いで恥辱を被るという点で,彼はキリスト教世界に似ています。しかし,シェブナは懲らしめから教訓を学んだようです。その点で,キリスト教世界とは大いに異なっています。アッシリア人ラブシャケがエルサレムに降伏を要求した時,ヒゼキヤの新しい家令エリヤキムは代表団を率いてラブシャケに会いに出て行きます。とはいえ,シェブナも王の書記官としてエリヤキムの傍らにいます。シェブナは王に仕え続けているようです。(イザヤ 36:2,22)神の組織における様々な奉仕の立場を失う人たちにとって,何と良い教訓なのでしょう。苦々しく思ったり憤慨したりせず,エホバがどんな立場を与えてくださるにせよ,その立場でエホバに仕え続けるのが賢明です。(ヘブライ 12:6)そうするなら,キリスト教世界に臨む災いにあずからずにすみます。神の恵みと祝福をとこしえにわたって楽しむのです。

      [脚注]

      a 西暦66年,エルサレムを攻囲していたローマ軍が撤退した時,多くのユダヤ人は歓びました。

      b 1世紀の歴史家ヨセフスによると,西暦70年,エルサレムの飢きんがあまりにもひどくなったため,人々は革や草や干し草を食べました。伝えられるところでは,ある母親は自分の息子を焼いて食べました。

      c あるいは,「ユダの覆い」とは,都を守る他の物,例えば,武器を保管し,兵員も配置した要塞のような物のことかもしれません。

      [231ページの図版]

      逃亡したゼデキヤは捕らえられ,盲目にされる

      [232,233ページの図版]

      エルサレムに閉じ込められたユダヤ人には,ぞっとするような将来が待ち受けている

      [239ページの図版]

      エリヤキムはヒゼキヤによって『永続する場所の掛けくぎ』とされる

      [241ページの図版]

      シェブナのように,キリスト教世界の指導者の多くは富を蓄積することにより,創造者に不名誉をもたらしてきた

      [242ページの図版]

      現代において,忠実な家令級がイエスの家の者たちの上に任命されている

  • エホバはティルスの誇りを汚される
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第19章

      エホバはティルスの誇りを汚される

      イザヤ 23:1-18

      1,2 (イ)古代ティルスはどんな都市でしたか。(ロ)イザヤはティルスに関して,どんなことを預言しましたか。

      彼女は「美しさの点で完全」であり,「あらゆる富」を満ちあふれるほどに有していました。(エゼキエル 27:4,12,アメリカ訳)その大船団は海を越え,はるか遠くの地まで航海していました。彼女は『大海のただ中で,ひときわ栄光ある者』となり,自分の「貴重な物」によって「地のもろもろの王を富ませ」ました。(エゼキエル 27:25,33)西暦前7世紀,地中海の東端にあったフェニキアの都市ティルスはそのような発展を遂げていました。

      2 しかし,ティルスの前途には滅亡が迫っていました。エゼキエルがティルスを描写するより100年ほど前に,預言者イザヤは,このフェニキアのとりでの没落と,そこに依存していた人々の悲嘆を予告しました。さらにイザヤは,後に神がその都市に注意を向け,新たな繁栄をもたらされることも預言しました。イザヤの言葉はどのように成就したのでしょうか。また,ティルスに生じたすべての出来事から,わたしたちは何を学べるでしょうか。ティルスに何が臨んだか,またなぜそうした事柄が生じたかをはっきり理解するなら,エホバとその約束に対する信仰が強められます。

      「タルシシュの船よ,泣きわめけ!」

      3,4 (イ)タルシシュはどこにありましたか。ティルスとタルシシュはどんな関係にありましたか。(ロ)タルシシュと交易している水夫たちが『泣きわめく』のももっともと言えるのはなぜですか。

      3 「ティルスの宣告」という標題のもとで,イザヤはこう宣言します。「タルシシュの船よ,泣きわめけ! それは奪略され,港ではなくなり,入ってゆく場所ではなくなったからだ」。(イザヤ 23:1前半)タルシシュはスペインの一部であり,地中海東部のティルスからは遠く離れていたと考えられています。a とはいえ,フェニキア人は熟練した船乗りであり,耐航性のある大型船を有していました。また,一部の歴史家によれば,潮の干満と月の関係に最初に気づいたのも,航海の助けとして最初に天文学を利用したのもフェニキア人でした。ですから,タルシシュがティルスから遠く離れていたことは,フェニキア人にとっては何の障害ともなりませんでした。

      4 イザヤの時代,遠方のタルシシュはティルスの主要な市場であり,恐らく一時期はティルスの主な財源でした。スペインには,銀,鉄,すずなどの金属の埋蔵量豊富な鉱山がありました。(エレミヤ 10:9; エゼキエル 27:12と比較してください。)「タルシシュの船」とはタルシシュと交易しているティルスの船のことであると思われますが,それらの船が『泣きわめく』,つまり自分たちの母港の滅亡を嘆き悲しむのも至極もっともなことです。

      5 タルシシュから来た船員たちは,どこでティルスの陥落を知りますか。

      5 航海中の船員たちは,どのようにしてティルスの没落を知るのでしょうか。イザヤは,「それはキッテムの地から彼らに明らかにされた」と説明しています。(イザヤ 23:1後半)「キッテムの地」とは,フェニキアの沖合,西に100㌔ほどのところに浮かぶキプロス島のことであると思われます。そこは,タルシシュから東へ向かう船にとって,ティルス到着前の最後の寄港地です。そのため水夫たちは,キプロスに立ち寄った際に,愛する母港が覆されたというニュースを聞くのです。水夫たちは大きなショックを受けます。そして,悲嘆に打ちひしがれ,うろたえて『泣きわめき』ます。

      6 ティルスとシドンはどんな関係にありますか。

      6 うろたえるのは,フェニキアの海岸地方の人々も同様です。イザヤはこう言います。「海沿いの地帯の住民よ,沈黙せよ。シドンからの商人たち,海を渡る者たち ― 彼らはあなたを満たした。大水の上にシホルの種,ナイルの収穫,彼女の収益があった。それは諸国の民の利得となった」。(イザヤ 23:2,3)「海沿いの地帯の住民」,つまりティルスの近隣に住む人々は,ティルスの痛ましい陥落に驚くあまり,沈黙します。それらの住民を「満たし」て富ませた「シドンからの商人たち」とはだれのことですか。ティルスは元々,ほんの35㌔北にある海港都市シドンの植民地でした。シドンの硬貨には,シドンがティルスの母として描かれています。ティルスは富にかけてはシドンをしのいでいるものの,依然として『シドンの娘』であり,ティルスの住民は相変わらず自らをシドン人と呼んでいます。(イザヤ 23:12)それで,「シドンからの商人たち」という表現は,ティルスに住む商業関係の人たちを指していると思われます。

      7 シドン人の商人たちはどのように広範囲に富をもたらしていますか。

      7 裕福なシドンの商人たちは地中海をまたにかけて商売します。各地にシホルの種つまり穀物を運びます。シホルは,エジプトのデルタ地帯にあるナイル川の最も東の支流です。(エレミヤ 2:18と比較してください。)「ナイルの収穫」には,エジプトの他の産物も含まれます。そうした物品の交易や物々交換により,それら海を行き来する商人たちとその取り引き相手国とは共に大もうけします。シドン人の貿易商たちは,ティルスを収益で満たしています。彼らがティルスの荒廃を嘆き悲しむのも当然です。

      8 ティルスの滅亡はシドンにどんな影響を与えますか。

      8 次にイザヤはシドンに向かってこう言います。「シドンよ,恥じよ。海が,ああ,海のとりでであるあなたが言ったからである,『わたしは産みの苦しみを味わったことがない。わたしは子を産んだこともなく,若者を養ったことも,処女を育てたこともない』と」。(イザヤ 23:4)ティルスが滅びた後,その都市のあった海岸線は荒廃した不毛の地の様相を呈します。海は苦もんの叫びを上げているかに見えるでしょう。それは,子供を失ってひどく取り乱し,子供を持ったことなどないと言いだす母親を連想させます。シドンは自分の娘の身に生じた事柄を恥じるのです。

      9 ティルスの陥落後に人々が感じる悲嘆は,他のどんな出来事の後に人々が肝をつぶしたことに匹敵しますか。

      9 さらに,ティルス滅亡のニュースは広範囲に悲嘆をもたらします。イザヤはこう言います。「エジプトについての知らせのときのように,人々はティルスの知らせについても同様に激しい痛みを覚えるであろう」。(イザヤ 23:5)それら嘆き悲しんでいる人々の痛みは,エジプトに関する知らせがもたらした痛みに匹敵します。イザヤはどの知らせのことを言っているのでしょうか。それは,自分が以前に述べた「エジプトに対する宣告」の成就のことかもしれません。b (イザヤ 19:1-25)あるいは,モーセの時代にファラオの軍が滅ぼされたという,広範囲の人々の肝をつぶした知らせのことを言っているのかもしれません。(出エジプト記 15:4,5,14-16。ヨシュア 2:9-11)いずれにしても,ティルス滅亡の知らせを聞く人々は激しい痛みを覚えるでしょう。その人々は,遠いタルシシュに避難するよう勧められると共に,騒々しく悲嘆を表わすよう命じられてもいます。「タルシシュに渡れ。海沿いの地帯の住民よ,泣きわめけ!」―イザヤ 23:6。

      「その初めの時代から」歓喜している

      10-12 ティルスの富,往時の様子,影響力について説明してください。

      10 ティルスは古くからの都市です。イザヤの次の問いかけは,そのことを思い出させています。「これが,昔の日から,その初めの時代から歓喜していたあなた方の都市なのか」。(イザヤ 23:7前半)ティルスの繁栄の歴史は,少なくともはるかヨシュアの時代にまでさかのぼります。(ヨシュア 19:29)ティルスは長年の間に,金物,ガラス製品,紫の染料の生産地として有名になりました。ティルス紫の長い衣には最高の値が付き,貴族たちはティルスの高価な織物を競って求めます。(エゼキエル 27:7,24と比較してください。)またティルスは,陸路を行く隊商の交易の中心地であると同時に,輸出入品の大きな集散地でもあります。

      11 さらに,この都市は軍事面での強さも備えています。L・スプラグ・デ・カンプはこう書いています。「フェニキア人は特に戦争好きだったわけではない ― 彼らは兵隊ではなく実業家だった ― が,都市の守備にかけては熱狂的なまでの勇敢さと頑強さを示した。そうした特質と海軍力とが相まって,ティルス人は,当時最強のアッシリア軍の攻撃にも最後まで持ちこたえた」。

      12 確かに,ティルスは地中海世界で名をはせます。「その足は彼女を外国人としてとどまらせるために遠くに連れて行ったものだった」。(イザヤ 23:7後半)フェニキア人は遠くまで旅をして,交易所や寄港地を設けます。そうした場所が植民地となることもあります。例えば,アフリカ北岸のカルタゴはティルスの植民地です。やがて,カルタゴはティルスをしのぎ,地中海世界においてローマと勢力を争うまでになります。

      彼女の誇りは汚される

      13 だれがあえてティルスに裁きを宣告するか,という質問が生じるのはなぜですか。

      13 ティルスの往時の様子や富のことを考えると,次の質問は当を得ています。「冠を授ける者ティルスにこの計り事を与えたのはだれか。その商人は君たちであり,その商い人は地の誉れある者たちであったのに」。(イザヤ 23:8)自国の植民地などにおいて高い権力の座に有力者たちを据え,「冠を授ける者」となっているこの都市に,だれがあえて言い逆らうでしょうか。君である商人たちや,誉れある者とされる商い人たちを抱えているこの大都市にあえて言い逆らう者などいるでしょうか。レバノンのベイルート国立博物館古代文化部の元主任モーリス・シェハブは,「紀元前9世紀から紀元前6世紀にかけて,ティルスは,20世紀初頭のロンドンに比肩する重要な地位を占めていた」と述べています。そのような都市に,だれがあえて言い逆らうでしょうか。

      14 だれがティルスに対して裁きを宣告しますか。なぜですか。

      14 この問いに対する霊感による答えを聞くと,ティルスは仰天するでしょう。イザヤはこう言います。「万軍のエホバご自身がこの計り事をお与えになったのだ。それは,あらゆる美しさの誇りを汚し,地の誉れあるすべての者たちを侮べつをもって扱うためである」。(イザヤ 23:9)なぜエホバは,この裕福な古代都市に対して裁きを宣告されるのでしょうか。住民が偽りの神バアルの崇拝者だからですか。それとも,ティルスとイゼベル ― ティルスを含むシドンの王エトバアルの娘で,イスラエルの王アハブと結婚し,エホバの預言者たちを虐殺した人物 ― との関係のためですか。(列王第一 16:29,31; 18:4,13,19)そのどちらでもありません。ティルスは,その尊大な誇りのゆえに,つまりイスラエル人など他の民を犠牲にして肥え太ったゆえに有罪とされているのです。西暦前9世紀,エホバは預言者ヨエルを通して,ティルスと他の諸都市にこう言われました。「[あなた方は]ユダの子らとエルサレムの子らをギリシャ人の子らに売り渡し,これをその領地からはるか遠くに立ち退かせようとした」。(ヨエル 3:6)神は,ご自分の契約の民をティルスが単なる商品のように扱うのを,どうして見過ごせるでしょうか。

      15 エルサレムがネブカドネザルに倒される時,ティルスはどのように反応しますか。

      15 100年たっても,ティルスは変わらないでしょう。西暦前607年,バビロンのネブカドネザル王の軍隊がエルサレムを滅ぼす時,ティルスは歓喜して,「ははあ! 彼女[エルサレム]は破られた。もろもろの民の扉たる者が! 形勢は必ずわたしにとって有利となる。わたしは満たされるであろう ― 彼女は荒れ廃れた」と言います。(エゼキエル 26:2)ティルスは,エルサレムの滅びから利益を得ることを期待して歓喜します。ユダの首都エルサレムがもはや競争相手ではなくなったので,ティルスは自国の貿易拡大を期待するのです。誇らしげに神の民の敵と手を組む自称『誉れある者たち』を,エホバは侮べつをもって扱われるでしょう。

      16,17 ティルスが陥落すると,その住民はどうなりますか。(脚注をご覧ください。)

      16 イザヤはティルスに関するエホバの有罪宣告を続け,こう述べます。「タルシシュの娘よ,ナイル川のように自分の地を渡れ。造船場はもはやない。神はみ手を海の上に伸べ,もろもろの王国を動揺させられた。エホバご自身がフェニキアに向かって,そのとりでを滅ぼし尽くすよう命令を出された。そして言われる,『虐げられた者,シドンの処女なる娘よ,あなたは二度と歓喜してはならない。立ち上がれ。キッテムに渡れ。あなたにとってはそこも休息の場所とはならないであろう』と」。―イザヤ 23:10-12。

      17 なぜティルスは「タルシシュの娘」と呼ばれているのでしょうか。恐らく,ティルスの敗北後,タルシシュのほうが強力な都市になるからでしょう。c 荒れ果てたティルスの住民は,洪水で川の土手が決壊し,周囲の平原一帯に水があふれ出るときのように散らされます。「タルシシュの娘」に対するイザヤの音信は,ティルスの身に起きる事柄の厳しさを強調しています。エホバご自身が手を伸べ,命令を出しておられます。だれも結末を変えることはできません。

      18 ティルスが「シドンの処女なる娘」と呼ばれているのはなぜですか。ティルスの状態はどのように変化しますか。

      18 イザヤはティルスのことを「シドンの処女なる娘」とも呼んでいます。これは,ティルスがこれまで外国の征服者による攻略や強奪に遭ったことがなく,いまだ征服されていない状態にあることを示しています。(列王第二 19:21; イザヤ 47:1; エレミヤ 46:11と比較してください。)しかし,今やティルスは壊滅することになっています。住民の一部は難民のようにフェニキアの植民地キッテムに渡って行きますが,経済力を失っているので,そこでも休息を得ることはできません。

      カルデア人がティルスを奪略する

      19,20 預言によると,ティルスの征服者となるのはだれですか。その預言はどのように成就しますか。

      19 どの政治強国がティルスにエホバの裁きを執行するのでしょうか。イザヤはこう宣言します。「見よ,カルデア人の地を。これがその民である ― アッシリアはその民とはならなかった ― 彼らは砂漠にせい息するもののために彼女の基を据えた。彼らは自分たちの攻囲の塔を立て,彼女の住まいの塔をかすめて空にし,人は彼女を崩れゆく廃虚とした。タルシシュの船よ,泣きわめけ。あなた方のとりでは奪略されたからだ」。(イザヤ 23:13,14)アッシリア人ではなく,カルデア人がティルスを征服します。攻囲の塔を立て,ティルスの住まいの場所を平らにし,タルシシュの船というとりでを,崩れゆく廃虚の塚とするのです。

      20 この預言どおり,エルサレム陥落からほどなくしてティルスはバビロンに反逆し,ネブカドネザルに攻囲されます。市民は,ティルスは難攻不落であると信じて抵抗します。攻囲は長引き,バビロンの兵士たちの頭はかぶとで擦れて「はげ」,肩は攻囲柵の構築用資材運搬のため「擦りむけ」ます。(エゼキエル 29:18)この攻囲は,ネブカドネザルにとって高くつきます。ティルスの本土側の都市は滅ぼされますが,戦利品はネブカドネザルの手に入りません。ティルスの莫大な財宝は800㍍ほど沖の小島に移されていたのです。カルデアの王ネブカドネザルには艦隊がなく,その島を落とすことができません。13年後にティルスは降伏しますが,その後も存続し,別の幾つかの預言がティルスに成就します。

      『彼女は必ず自分の賃銀に戻る』

      21 ティルスはどのように,またどれほどの期間「忘れられ」ますか。

      21 イザヤは預言を続け,こう言います。「その日には,ティルスは一人の王の日数と同じく,必ず七十年間忘れられる」。(イザヤ 23:15前半)バビロニア人によって本土側の都市が滅ぼされた後,ティルスの島側の都市は「忘れられ」ます。この預言どおり,「一人の王」つまりバビロニア帝国の存続期間中,ティルスの島側の都市は重要な経済強国とはなりません。エホバは,神の怒りのぶどう酒を飲むものとして名指しにされる諸国にティルスを含め,エレミヤを通してこう言われます。「これらの諸国の民は七十年の間バビロンの王に仕えなければならない」。(エレミヤ 25:8-17,22,27)実際のところ,ティルスの島側の都市は,丸70年の間バビロンに服従するわけではありません。バビロニア帝国は西暦前539年に倒れるからです。この70年は,バビロニア王朝が自らの王座を「神の星」の上にまで上げたと誇る,バビロニアの支配の最盛期を表わしているようです。(イザヤ 14:13)その支配下にそれぞれの国が入った時期はまちまちです。しかし,その支配は70年の終わりに崩れ去ります。その後,ティルスはどうなるのでしょうか。

      22,23 ティルスはバビロニアの支配から解放された後,どうなりますか。

      22 イザヤは続けてこう述べます。「七十年の終わりに,遊女の歌にある通りのことがティルスに生じる。『忘れられた遊女よ,たて琴を取れ,都市を巡れ。最善をつくして弦を奏でよ。お前の歌を多くせよ。思い出してもらうためだ』。そして,七十年の終わりにエホバはティルスに注意を向けることになり,彼女は必ず自分の賃銀に戻り,土地の表にある地のすべての王国と売春を行なう」。―イザヤ 23:15後半-17。

      23 西暦前539年にバビロンが倒れた後,フェニキアはメディア-ペルシャ帝国の太守領となります。ペルシャの君主キュロス大王は寛容な支配を行ないます。この新たな支配のもとで,ティルスはかつての事業に復帰し,世界の商業中心地として再び認められるよう懸命に努力します。それは,忘れられて客を失った遊女が新しい客を見つけようとして,たて琴を弾き,歌を歌いながら市内を巡るのとよく似ています。ティルスの望みどおりになるでしょうか。なります。エホバがそれを許されます。やがて,この島側の都市は非常に繁栄し,西暦前6世紀の終わりごろには,預言者ゼカリヤがこう言うまでになります。「ティルスは自分のために塁壁を築き,銀を塵のように,金を街路の泥のように積み上げた」。―ゼカリヤ 9:3。

      『彼女の利得は必ず聖なるものとなる』

      24,25 (イ)ティルスの利得はどのようにエホバに献じられる聖なるものとなりますか。(ロ)ティルスは神の民を援助するとはいえ,エホバは霊感により,彼女に関するどんな預言を語らせますか。

      24 次の預言の言葉は極めて注目に値します。「彼女の利得と賃銀は必ずエホバに献じられる聖なるものとなる。それは蓄えられることも,ため置かれることもない。その賃銀はエホバのみ前に住む者たちのため,食べて満ち足りるため,優美な覆いのためのものとなるからである」。(イザヤ 23:18)ティルスの物質的な利得がどうして聖なるものとなるのでしょうか。エホバは物事を動かし,ティルスの利得がご意志に沿って用いられる,つまり,ご自分の民が食べて満ち足り,身を覆うものを得るようにされるのです。そうしたことは,イスラエル人がバビロン流刑から帰還した後に生じます。ティルスの人々は神殿の再建用に杉材を供給してイスラエル人を援助します。さらに,エルサレムの都との交易も再開します。―エズラ 3:7。ネヘミヤ 13:16。

      25 とはいえ,エホバは霊感を与え,ティルスに対する別の宣告を語らせます。ゼカリヤは,裕福になったこの島の都市に関してこう預言します。「見よ,エホバ自ら彼女を立ち退かせる。その軍勢を必ず海の中に打ち倒す。火の中で彼女自身はむさぼり食われる」。(ゼカリヤ 9:4)この言葉は,西暦前332年7月,この誇り高ぶる海の女王をアレクサンドロス大王が打ち砕く時に成就します。

      物質主義と誇りを避けなさい

      26 なぜ神はティルスを有罪とされましたか。

      26 エホバはティルスを,誇りのゆえに有罪とされました。それは,エホバが嫌悪する特質です。「高ぶる目」は,エホバの憎まれる七つのものの筆頭に挙げられています。(箴言 6:16-19)パウロは誇りを悪魔サタンと結び付けており,誇り高ぶるティルスに関するエゼキエルの描写には,サタン自身を描写する要素が含まれています。(エゼキエル 28:13-15。テモテ第一 3:6)なぜティルスは誇り高ぶったのでしょうか。エゼキエルはティルスに向かって,「あなたの心はその富のゆえにごう慢になりはじめた」と述べています。(エゼキエル 28:5)ティルスは交易と蓄財に没頭していました。そして,それがうまくいったため,鼻持ちならないほどごう慢になりました。エホバは,エゼキエルを通して「ティルスの指導者」にこう言われました。「あなたの心はごう慢になり,『わたしは神だ。わたしは神の座に……座した』と言いつづけ(る)」。―エゼキエル 28:2。

      27,28 人間はどんな落とし穴に陥ることがありますか。その点をイエスはどのように例えで示しましたか。

      27 一つの国が,誇りや,富に対する間違った見方に屈することがあります。個々の人も同様です。イエスの語ったたとえ話は,このわなが非常に油断のならないものとなり得ることを示しています。その話に登場する富んだ人の畑はとても豊かに産出しました。その人は喜び,産物用のもっと大きな倉の建設を計画し,安楽に長生きすることを夢見ていました。しかし,思いどおりにはゆきませんでした。この人に対して神は,「道理をわきまえない者よ,今夜,あなたの魂は求められる。そうしたら,あなたの蓄えた物はだれのものになるのか」と言われます。その言葉どおり,この人は死に,富は何の役にも立ちませんでした。―ルカ 12:16-20。

      28 たとえ話の結びにイエスは,「自分のために宝をためても,神に対して富んでいない者はこうなるのです」と言いました。(ルカ 12:21)裕福であること自体は悪ではなく,豊かな収穫を得ることも罪ではありませんでした。この人の間違いは,そうしたものを生活上の主要な事柄としたところにあります。自分の富だけを信頼していたのです。将来について考える際に,エホバ神を考慮に入れませんでした。

      29,30 自分を頼みとすることについて,ヤコブはどんな警告を述べましたか。

      29 ヤコブも同じ点を強調し,こう述べました。「さあ,『今日か明日,わたしたちはこの都市に旅してそこで一年過ごし,商売をしてもうけることにしよう』と言う人たちよ,あなた方は,あす自分の命がどうなるかも知らないのです。あなた方は,少しのあいだ現われては消えてゆく霧のようなものだからです。むしろ,『もしエホバのご意志であれば,わたしたちは生きていて,これを,あるいは,あれをすることでしょう』と言うべきです」。(ヤコブ 4:13-15)そして,ヤコブはこう言葉を続け,富と誇りの関係を示しています。「しかし今,あなた方は独り善がりの自慢を誇りとしています。そのような誇りはすべてよこしまなものです」。―ヤコブ 4:16。

      30 もちろん,商売をすることも罪ではありません。富を得る際に生じかねない誇り,尊大さ,自分に頼ることなどが罪なのです。昔の格言は,「わたしに貧しさをも富をも与えないでください」という知恵の言葉を述べています。貧しさゆえに生活が非常に苦しくなることがあります。しかし,人は富のゆえに「[神を]否み,『エホバとはだれか』と言う」ようにもなるのです。―箴言 30:8,9。

      31 クリスチャンはどんな自問をすべきですか。

      31 わたしたちが生活するこの世では,多くの人が貪欲と利己主義のえじきとなっています。営利本位の考え方が幅を利かせているため,裕福になることが大いに重視されています。ですから,クリスチャンは自己吟味をし,商業都市ティルスがはまったのと同じ落とし穴に陥っていないことを確かめるべきです。物質的な事柄の追求に多くの時間とエネルギーを費やすあまり,事実上,富の奴隷となっているでしょうか。(マタイ 6:24)自分より多くの,あるいは上等な物を持っている人をそねんでいるでしょうか。(ガラテア 5:26)裕福な人は,誇り高ぶって,自分は他の人よりも注目されたり多くの特権を与えられたりして当然だと感じているでしょうか。(ヤコブ 2:1-9と比較してください。)富んでいない人は,どんな犠牲を払ってでも「富もうと思い定めている」でしょうか。(テモテ第一 6:9)仕事に忙殺され,神に仕える時間がほとんど残っていないでしょうか。(テモテ第二 2:4)裕福になりたいという気持ちに負け,仕事上の習慣においてキリスト教の原則を無視しているでしょうか。―テモテ第一 6:10。

      32 ヨハネはどんな警告を与えましたか。その警告をわたしたちはどのように適用できますか。

      32 経済状態がどうであれ,生活においていつも王国を第一にすべきです。次の使徒ヨハネの言葉を決して忘れてはなりません。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその人のうちにありません」。(ヨハネ第一 2:15)もちろん,生きてゆくためには世の経済上の制度を利用しなければなりません。(テサロニケ第二 3:10)ですから,わたしたちは「世を利用」します。しかし,世を「十分に」用いることはしません。(コリント第一 7:31)物質的なもの,世にあるものを愛し過ぎているなら,もはやエホバを愛してはいません。「肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと」を追求しながら神のご意志を行なうことはできません。d そして,神のご意志を行なうことこそ,とこしえの命へと導くのです。―ヨハネ第一 2:16,17。

      33 クリスチャンはどうすればティルスのはまった落とし穴を避けられますか。

      33 ティルスは,物質的な事柄の追求を最優先するという落とし穴にはまりました。物質的な意味で成功を収めて非常に誇り高ぶるようになり,その誇りのゆえに処罰されたのです。この実例は,今日の諸国家にとっても個々の人にとっても警告となっています。使徒パウロの訓戒に聴き従うことは何と賢明なのでしょう。パウロはクリスチャンにこう勧めています。「高慢になることなく,また,不確かな富にではなく,わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を託すように」。―テモテ第一 6:17。

      [脚注]

      a タルシシュは地中海西部のサルデーニャ島のことである,としている学者もいます。サルデーニャ島もティルスから遠く離れています。

      b 本書の15章,200-207ページをご覧ください。

      c あるいは,「タルシシュの娘」とはタルシシュの住民のことかもしれません。ある文献は,「今やタルシシュ生まれの人々は,ナイルの水が四方八方に流れる時のように,自由に旅や交易を行なえるようになったのである」と述べています。いずれにせよ,強調されているのは,ティルスの陥落が及ぼす強烈な影響です。

      d 「見せびらかすこと」と訳されているギリシャ語のアラゾニアは,「地的な物事の安定性に頼る,不敬虔でむなしい,せん越な態度」と説明されています。―『セアの希英新辞典』。

      [256ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      ヨーロッパ

      スペイン(タルシシュがあったと思われる場所)

      地中海

      サルデーニャ

      キプロス

      アジア

      シドン

      ティルス

      アフリカ

      エジプト

      [250ページの図版]

      ティルスは,アッシリアではなくバビロンに服するようになる

      [256ページの図版]

      硬貨に描かれたティルスの主神メルカルト

      [256ページの図版]

      フェニキアの船の模型

  • エホバは王である
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第20章

      エホバは王である

      イザヤ 24:1-23

      1,2 (イ)だれがエホバの憤りを経験しますか。(ロ)ユダは処罰を免れますか。どうしてそう言えますか。

      バビロン,フィリスティア,モアブ,シリア,エチオピア,エジプト,エドム,ティルス,アッシリア ― これらは皆,エホバの憤りを経験します。イザヤは,これら敵対的な国や都市に臨む災いを予告しています。では,ユダはどうでしょうか。ユダの住民は自らの罪深い歩みに対する処罰を免れるのでしょうか。歴史の記録によれば,そのようなことは決してありません。

      2 イスラエルの十部族王国の首都サマリアに生じた事柄を考慮してみましょう。その国は神との契約を守らず,周囲の諸国民のみだらな習慣から離れていませんでした。かえって,サマリアの住民は「悪い事を行なってはエホバを怒らせ(まし)た。……それゆえ,エホバはイスラエルに対して大いにいきり立ち,彼らをみ前から除かれ」ました。イスラエルは自国から強制的に追い出され,「自分の土地を去ってアッシリアに流刑の身となり」ました。(列王第二 17:9-12,16-18,23。ホセア 4:12-14)イスラエルに生じた出来事は,姉妹国であるユダ王国に起こる不穏な事柄を予感させます。

      イザヤはユダの荒廃を予告する

      3 (イ)なぜエホバはユダの二部族王国を捨て去られますか。(ロ)エホバは何を行なうことを決定しておられますか。

      3 ユダには忠実な王もいましたが,大半の王は不忠実でした。ヨタムのような忠実な王の下でも,民は偽りの崇拝から完全には離れませんでした。(列王第二 15:32-35)ユダの悪は,血に飢えた王マナセの治世中に頂点に達します。ユダヤ人の伝承によると,マナセは,忠実な預言者イザヤをのこぎりでひき切るよう命じて殺害しました。(ヘブライ 11:37と比較してください。)邪悪な王マナセは「ユダとエルサレムの住民をたぶらかし続けて,エホバがイスラエルの子らの前から滅ぼし尽くされた諸国民よりももっと悪いことを行なわせ」ました。(歴代第二 33:9)マナセの支配下で,ユダの地はカナン人の手にあった時以上に汚されたのです。そのため,エホバはこう宣言されます。「見よ,わたしはエルサレムとユダに災いをもたらすことにする。それについてだれかが聞くなら,両耳が鳴るであろう。……そして,人が柄のない鉢をすっかりぬぐい,それをすっかりぬぐって,ひっくり返すように,わたしはまさしくエルサレムをぬぐい去るであろう。また,わたしは本当にわたしの相続物の残りの者を捨て去り,彼らをその敵の手に渡し,彼らはそのすべての敵にとってまさしく強奪物となり,略奪物となるであろう。それは,彼らの父祖たちがエジプトを出た日から今日に至るまで,彼らがわたしの目に悪いことを行ない,わたしを絶えず怒らせたからである」。―列王第二 21:11-15。

      4 エホバはユダに対して何を行なわれますか。その預言はどのように成就しますか。

      4 鉢をひっくり返して中身を全部こぼし出すのと同様に,地はそこに住む人々を出して空にされます。そうした来たるべきユダとエルサレムの荒廃が,再びイザヤの預言の主題となっています。イザヤはこう語り始めます。「見よ,エホバはその地を空にし,荒れ果てた所とされる。その面をねじ曲げ,その住民を散らされた」。(イザヤ 24:1)この預言が成就する時,エルサレムとその神殿はネブカドネザル王の配下のバビロニア侵攻軍により滅ぼされ,ユダの住民の多くは剣や飢きんや疫病によって命を落とします。生き残ったユダヤ人の大半は捕虜としてバビロンへ連行され,後に残された少数の人々はエジプトへ逃げます。こうしてユダの地は荒れ廃れ,人っ子一人住まなくなります。家畜さえ残りません。その地は見捨てられ,野生の獣や鳥しかすまない物寂しい廃墟の点在する荒野となるのです。

      5 エホバの裁きを免れる人がいますか。説明してください。

      5 ユダの住民の中に,来たるべきこの裁きの時に優遇される人がいるでしょうか。イザヤはこう答えます。「民にも祭司と同じことが,僕にもその主人と同じことが,はしためにもその女主人と同じことが,買い手にも売り手と同じことが,貸す者にも借りる者と同じことが,利息を取る者にも利息を払う者と同じことが生じるのである。その地は必ず空にされ,必ず強奪される。エホバがこの言葉を語られたからである」。(イザヤ 24:2,3)裕福であっても,神殿での奉仕の特権があっても同じことです。例外はありません。ユダの地はあまりにも汚されているので,生き残った人は,祭司であろうと,僕や主人,買い手や売り手であろうと,すべて必ず流刑に処されます。

      6 なぜエホバはその地から祝福を取り去られますか。

      6 イザヤは誤解のないよう,この来たるべき災難がいかに徹底的なものかを描写し,そうなる理由を説明して,こう述べます。「その地は嘆き悲しみ,衰えた。産出的な地は枯れ,衰えた。その地の民の高い者たちは枯れてしまった。そして,その地そのものが住民の下で汚されたのだ。彼らが律法をくぐり,規定を変え,定めなく存続する契約を破ったからである。それゆえに,のろいがその地を食い尽くした。そこに住む者たちは罪科に問われる。それゆえに,その地の住民は数が減り,ごく少数の死すべき人間が残されたのである」。(イザヤ 24:4-6)イスラエル人に与えられた当時,カナンの地は「乳と蜜の流れる地」でした。(申命記 27:3)とはいえ,イスラエル人は引き続きエホバの祝福に依存していました。神の法令やおきてを忠実に守るなら,地は「その産物を出し」ますが,神の律法やおきてをくぐり抜けるなら,耕作する労力は「いたずらに費やされ」,地は『その産物を出さない』ことになっていました。(レビ記 26:3-5,14,15,20)エホバののろいが『その地を食い尽くす』のです。(申命記 28:15-20,38-42,62,63)今やユダはそののろいを経験することを予期しなければなりません。

      7 律法契約はイスラエル人にとってどのように祝福となるはずでしたか。

      7 イザヤの時代より800年ほど前,イスラエル人は喜んでエホバとの契約関係に入り,その契約を守ることに同意しました。(出エジプト記 24:3-8)明文化された律法契約の条件によれば,イスラエル人はエホバのおきてに従うなら神の豊かな祝福を味わいますが,契約に違反するなら神の祝福を失い,敵対する民によって捕囚にされることになっていました。(出エジプト記 19:5,6。申命記 28:1-68)モーセを通して与えられたこの律法契約は,明記されていない不特定の期間,効力を持つことになっていました。契約は,メシアが登場する時までイスラエル人を保護するはずでした。―ガラテア 3:19,24。

      8 (イ)民はどのように「律法をくぐり」,「規定を変え」ましたか。(ロ)どんな点で,「高い者たち」が最初に『枯れる』と言えますか。

      8 しかし,民は「定めなく存続する契約を破(り)」ました。神から与えられた律法をくぐり抜け,それを無視し,エホバから与えられたものとは違う法律上の習慣に従って「規定を変え」たのです。(出エジプト記 22:25。エゼキエル 22:12)それゆえ,民はその地から除かれます。来たるべき裁きの際には,憐れみは全く示されません。エホバが保護と恵みを取り去られるために最初に『枯れる』者たちの中に,「高い者たち」つまり高貴な人たちが挙げられています。その成就として,エルサレムの滅びが近づくと,まずエジプト人が,次いでバビロニア人がユダの王たちを自分たちの従属者とし,その後,エホヤキン王などの王族を含む人々が最初にバビロン捕囚に処されます。―歴代第二 36:4,9,10。

      地から歓びが消える

      9,10 (イ)イスラエルにおいて農業にはどんな役割がありますか。(ロ)人が各々『自分のぶどうの木やいちじくの木の下に座る』ことにはどんな意味がありますか。

      9 イスラエルの国は農耕社会です。イスラエル人は約束の地に入った時からずっと定住生活をし,作物の栽培と牧畜を行なってきました。そのため,イスラエルに与えられた法制度において,農業は重要な位置を占めています。地力を回復させるため,土地を7年ごとに休ませる安息が義務づけられています。(出エジプト記 23:10,11。レビ記 25:3-7)国民が祝うよう命じられている年3回の祭りの時期は,農耕の季節と合致するようになっています。―出エジプト記 23:14-16。

      10 国中どこへ行っても,ぶどう園はありふれた光景です。聖書は,「死すべき人間の心を歓ばせる」神からの贈り物として,ぶどう酒を挙げています。(詩編 104:15)人が各々『自分のぶどうの木やいちじくの木の下に座る』ことは,神の義の支配のもとでの繁栄,平和,安全を表わします。(列王第一 4:25。ミカ 4:4)実り豊かなぶどうの収穫期は祝福とみなされ,歌って歓ぶべき理由となります。(裁き人 9:27。エレミヤ 25:30)逆のことも言えます。ぶどうの木が枯れたり実を結ばなかったりするなら,またぶどう園が,いばらだらけの荒れ果てた所になるなら,それはエホバが祝福を取り去られた証拠であり,大きな悲しみの時となります。

      11,12 (イ)イザヤはどのように例えを用い,エホバの裁きの結果として生じる状態を示していますか。(ロ)イザヤはどんな陰うつな見通しを述べますか。

      11 それでイザヤは適切にも,ぶどう園とその産物を例えにして,エホバが地から祝福を取り去られる結果として生じる状態を示し,こう述べます。「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ,ぶどうの木は枯れ,心に大いに喜ぶ者はみな溜め息をつくようになった。タンバリンの歓喜は絶え,意気盛んな者たちのざわめきは中断させられ,たて琴の歓喜は絶えた。彼らは歌なしにぶどう酒を飲む。酔わせる酒はこれを飲む者にとって苦くなる。捨てられた町は崩され,すべての家は閉ざされて入れない。ぶどう酒がないためにちまたには叫び声がある。すべての歓びは過ぎ去り,その地の歓喜は離れ去った。都市には驚くべき状態が残された。門は打ち砕かれて,ただの荒れ塚となった」。―イザヤ 24:7-12。

      12 タンバリンとたて琴は,エホバを賛美したり,喜びを表現したりするために用いる快い楽器です。(歴代第二 29:25。詩編 81:2)それらの楽器が奏でる音楽は,この神からの処罰の時には聞かれなくなります。喜びに満ちたぶどうの収穫もありません。荒れ果てて廃墟となったエルサレムには楽しげなざわめきはありません。門は『打ち砕かれて,ただの荒れ塚となって』おり,家々は「閉ざされて」いるのでだれも入れません。本来非常に肥沃なはずの土地の住民にとって,何と陰うつな見通しなのでしょう。

      残りの者は「喜び叫ぶ」

      13,14 (イ)収穫に関して,エホバの律法は何と述べていますか。(ロ)イザヤは,収穫に関する律法をどのように例えとして用いて,エホバの裁きを生き残る者たちがいることを示していますか。(ハ)暗い試練の時期が来るものの,忠実なユダの人たちはどんなことを確信できますか。

      13 オリーブを収穫する際,イスラエル人は木を棒でたたいて実を落とします。律法によれば,その木の大枝をもう一度見回して,残ったオリーブを集めることは禁じられています。ぶどう園の収穫後に残っているぶどうを取り集めることもしてはなりません。収穫されずに残ったものは,貧しい人たち,つまり『外人居留者や父なし子ややもめ』が採り残しの実を取れるよう,そのままにしておくのです。(申命記 24:19-21)イザヤは,そうしたよく知られた律法を例えとして引き合いに出して,来たるべきエホバの裁きを生き残る者たちがいるという慰めとなる点を示し,こう言います。「その地の中で,もろもろの民の間でこうなる……。すなわち,オリーブの木をはたき落とすときのようになり,ぶどうの取り入れが終わった後の採り残しの実を取るときのようになる。彼ら自ら声を上げ,喜び叫ぶ。彼らはエホバの優越性のゆえに,海から必ず甲高く叫ぶ。それゆえに,彼らは光の地方で必ずエホバの栄光を,海の島々の中でイスラエルの神,エホバのみ名の栄光をたたえる。その地の果てからわたしたちの聞いた調べがある。『義なる者に飾りあれ!』」― イザヤ 24:13-16前半。

      14 収穫後の木に実が幾らか残っているのと同じように,エホバの裁きが執行された後にも,残された者たちが幾らかいることでしょう。その者たちが,「ぶどうの取り入れが終わった後の採り残しの実」です。6節に記されているとおり,預言者イザヤはすでにそうした者たちについて述べ,「ごく少数の死すべき人間が残された」と言っています。少数とはいえ,エルサレムとユダの滅びを生き残る者たちがおり,その後,残りの者が捕囚から戻り,その地に再び住むのです。(イザヤ 4:2,3; 14:1-5)心の正しい人たちは,暗い試練の時期を経験するものの,前途には救出と喜びがあることを確信できます。生き残った者たちはエホバの預言の言葉が実現するのを目にし,イザヤが神の真の預言者であったことを悟るでしょう。彼らは,数々の回復の預言が成就するのを目撃して,喜びに満たされます。西の地中海の島々や「光の地方」(日の出の方角,つまり東)のバビロンなど,どんな遠方の地に散らされているとしても,生き延びることができたゆえに神を賛美し,「義なる者に飾りあれ!」と歌うのです。

      エホバの裁きから逃れることはできない

      15,16 (イ)イザヤは自分の民に生じる事柄についてどう感じますか。(ロ)この地の不忠実な住民に何が臨みますか。

      15 しかし,現時点で歓ぶのは早すぎます。イザヤは同時代の人たちを現実に引き戻し,こう言います。「しかし,わたしは言う,『わたしには,やせ細ることが,わたしには,やせ細ることが待ち受けている! わたしは災いだ! 不実な行ないをする者たちは不実な行ないをした。不実な行ないをする者は不実をもって不実な行ないをしたのだ』。この地に住むあなたに,怖れとくぼみとわなが臨む。そして,怖るべきものの音から逃げる者はくぼみに陥り,くぼみの中から出て来る者はわなに捕らえられることになる。高き所にある水門が開かれ,その地の基は激動するからである。その地は完全に張り裂け,その地は完全に揺るがされ,その地は完全によろめいた。その地は酔った人のように完全によろめき行き,それは番小屋のようにぐらついた。そして,その違犯はその上に重くのしかかった。それは必ず倒れ,再び起き上がることはない」。―イザヤ 24:16後半-20。

      16 イザヤは自分の民に臨む事柄を思い,悲嘆に暮れています。周囲の状況のゆえに,病気や災いに遭っているかのように感じるのです。不実な者たちがのさばり,この地の住民に怖れを抱かせています。エホバが保護を取り去られると,不忠実なユダの住民は昼も夜も恐怖を味わうようになります。自分の命もおぼつかなくなります。エホバのおきてを捨て,神の知恵を無視したがゆえに臨む災難から逃れることはできません。(箴言 1:24-27)たとえこの地の不実な者たちが,何もかもうまくゆくと民に信じ込ませようとして,滅びへといざなう偽りや欺きを用いようとも,災いは訪れます。(エレミヤ 27:9-15)外敵がやって来て強奪し,人々を捕虜として連れ去るのです。こうしたことすべてのゆえに,イザヤは大いに苦悩しています。

      17 (イ)逃れることはなぜ不可能ですか。(ロ)裁きを行なうエホバの力が天から放たれる時,この地はどうなりますか。

      17 その上イザヤは,逃れることはできないと宣言しなければなりません。逃げようとする人がいても,必ず捕らえられるでしょう。一つの災いを逃れた人も,別の災いに捕らえられます。どこにも安全はありません。それはちょうど,狩り立てられている動物が,落とし穴をうまくよけたのに,結局わなにかかってしまうのとよく似ています。(アモス 5:18,19と比較してください。)裁きを行なうエホバの力が天から放たれ,この地の基そのものを揺り動かします。この地は酔った人のようにふらついて倒れ,罪科の重さのために二度と起き上がれません。(アモス 5:2)エホバの裁きが変わることはありません。徹底的な滅びと荒廃がこの地に臨みます。

      エホバが栄光のうちに統治する

      18,19 (イ)「高みの軍隊」とは,だれのことかもしれませんか。それらの者たちはどのように「牢に」集められますか。(ロ)「多くの日の後に」,どのように「高みの軍隊」に注意が向けられると考えられますか。(ハ)エホバはどのように「土地の王たち」に注意を向けますか。

      18 次に,イザヤの預言は視野を広げ,エホバの目的の最終結果を示して,こう述べます。「その日,エホバは高みで高みの軍隊に,土地の上では土地の王たちに注意を向ける。そして,彼らは捕らわれ人が坑に集め入れられるように必ず集められ,牢に閉じ込められる。多くの日の後に彼らは注意を向けられる。そして,満月は恥じ入り,輝く太陽は恥じた。万軍のエホバがシオンの山とエルサレムとその年配者たちの前で,栄光に輝く王となられたからである」。―イザヤ 24:21-23。

      19 「高みの軍隊」とは,悪霊的な「この闇の世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力」のことかもしれません。(エフェソス 6:12)それらの者たちは,数々の世界強国に強力な影響を及ぼしてきました。(ダニエル 10:13,20。ヨハネ第一 5:19)そして,人々をエホバとその清い崇拝から引き離そうとしています。イスラエル人は全く見事にたぶらかされて周囲の諸国民の堕落した習慣に倣い,その結果,神の裁きに値する者となっています。とはいえ,サタンと配下の悪霊たちは,最終的に自分たちと,『土地の上にいる土地の王たち』,つまり神に背いて神の律法に違反するよう自分たちが仕向けてきた地上の支配者たちとに神の注意が向けられる時,神に言い開きをしなければなりません。(啓示 16:13,14)イザヤは象徴的な表現を用い,サタンと悪霊たちが集められて「牢に閉じ込められる」と述べています。「多くの日の後に」とは,イエス・キリストの千年統治の終わりにサタンと配下の悪霊たち(『土地の上にいる土地の王たち』は含まれない)が一時的に自由にされる時のことかもしれませんが,その時,神はサタンと悪霊たちに当然の報いとして最終的な処罰を下します。―啓示 20:3,7-10。

      20 古代と現代において,いつ,またどのようにエホバは「王となられ」ますか。

      20 このようにイザヤの預言のこの部分は,結びのところで,素晴らしい保証をユダヤ人に与えています。エホバはご自分の定めの時に古代バビロンを倒壊させ,ユダヤ人を故国に戻らせるのです。西暦前537年,エホバがそのようにしてご自分の民のために力と主権をはっきり示される時,その民に対してまさしく「あなたの神は王となった!」と言うことができます。(イザヤ 52:7)現代,エホバは,イエス・キリストをご自分の天の王国の王位に就けた1914年に「王となられ」ました。(詩編 96:10)また,霊的なイスラエルを大いなるバビロンへの束縛から解放することによって王としての力をはっきり示された1919年にも,「王となられ」ました。

      21 (イ)どのように「満月は恥じ入り,輝く太陽は恥じ」ますか。(ロ)どんな呼びかけの言葉が最も壮大な成就を見て鳴り響きますか。

      21 さらにエホバは,大いなるバビロンとこの邪悪な事物の体制の残りの部分に終わりをもたらす時にも「王となられ」ます。(ゼカリヤ 14:9。啓示 19:1,2,19-21)その後,エホバの王国支配はあまりにも荘厳なものとなるので,夜空にきらめく満月も,輝く真昼の太陽も,栄光の点で比べものにならないでしょう。(啓示 22:5と比較してください。)満月や太陽は,栄光に輝く万軍のエホバと自らを比べて恥じるかのようになります。エホバは至上者として統治されます。すべての者は神の全能の力と栄光をはっきりと目にするでしょう。(啓示 4:8-11; 5:13,14)何と素晴らしい見込みなのでしょう。その時,詩編 97編1節の呼びかけの言葉が最も壮大な成就を見て,全地に鳴り響きます。「エホバ自ら王となられた! 地は喜べ。多くの島々は歓べ」。

      [262ページの図版]

      この地では音楽も歓びの声も聞かれなくなる

      [265ページの図版]

      収穫後の木に実が残っているのと同じように,エホバの裁きを生き残る者たちがいる

      [267ページの図版]

      イザヤは自分の民に臨む事柄を思い,悲嘆に暮れる

      [269ページの図版]

      太陽も月も,栄光の点でエホバとは比べものにならない

  • エホバのみ手は高く上がる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第21章

      エホバのみ手は高く上がる

      イザヤ 25:1–27:13

      1 イザヤがエホバに対して正しい認識を抱いているのはなぜですか。

      イザヤはエホバを深く愛し,エホバを賛美することを喜びとしており,高らかにこう言います。「エホバよ,あなたはわたしの神です。わたしはあなたを高め,あなたのみ名をたたえます」。イザヤが創造者に対してこれほど優れた,正しい認識を抱けるのはなぜでしょうか。おもに,エホバとエホバの活動に関する知識を持っているからです。その知識は,イザヤが続けて述べる,「あなたはくすしいことを,初めの時代からの計り事を,忠実さのうちに,信頼性をもって行なわれたからです」という言葉に表われています。(イザヤ 25:1)昔のヨシュアと同様,イザヤは,エホバが忠実で信頼できる方であり,その「計り事」,つまり目的とされる事柄はみな実現する,ということを知っているのです。―ヨシュア 23:14。

      2 イザヤはここで,エホバのどんな計り事を述べますか。この計り事は何に対するものであると思われますか。

      2 エホバの計り事には,イスラエルの敵たちに対する神の裁きの宣告も含まれます。イザヤはここで,そうした宣告の一つを述べ,こう言います。「あなたは都市を石の山に,防備の施された町を崩れゆく廃虚に,よそ者の住まいの塔を都市ではないもの,定めのない時に至るまで建て直されることのないものとされ(ました)」。(イザヤ 25:2)名の挙げられていないこの都市は,どの都市でしょうか。イザヤはモアブのアルについて述べているのかもしれません。モアブは長いあいだ神の民と敵対関係にあります。a あるいは,別の,より強固な都市,バビロンについて述べているのかもしれません。―イザヤ 15:1。ゼパニヤ 2:8,9。

      3 エホバに敵する者たちはどのようにエホバの栄光をたたえますか。

      3 エホバに敵する者たちは,自分たちの強固な都市に対する神の計り事が実現する時,どのように反応するでしょうか。「強い民である者たちはあなたの栄光をたたえます。圧制的な諸国民の町,彼らはあなたを恐れ(ま)す」。(イザヤ 25:3)全能の神に敵する者たちが神を恐れるようになるのは分かります。しかし,どのようにして神の栄光をたたえるのでしょうか。自分たちの偽りの神々を捨て,清い崇拝を行なうようになるのでしょうか。そうしたことはまず考えられません。むしろ,ファラオやネブカドネザルのように,エホバが圧倒的に優位であることを認めざるを得なくなって初めてエホバの栄光をたたえるのです。―出エジプト記 10:16,17; 12:30-33。ダニエル 4:37。

      4 今日,どんな「圧制的な諸国民の町」が存在しますか。どのようにして,その町さえエホバの栄光をたたえざるを得なくなりますか。

      4 今日,「圧制的な諸国民の町」とは,「地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市」,すなわち偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」のことです。(啓示 17:5,18)その帝国の主要部分はキリスト教世界です。キリスト教世界の宗教指導者はどのようにエホバの栄光をたたえるのでしょうか。神の証人たちのために神が成し遂げたくすしい事柄を渋々認めることによって,栄光をたたえるのです。とりわけ1919年,エホバが,大いなるバビロンへの霊的な捕らわれから解放されたご自分の僕たちを精力的な活動へと回復させた時,それら指導者たちは「恐れ驚いて天の神に栄光を帰し」ました。―啓示 11:13。b

      5 エホバは,ご自分に絶対の確信を寄せる人々をどのように保護されますか。

      5 エホバは,敵する者たちの目には恐ろしく映りますが,神に仕えることを願う柔和で謙遜な人たちにとっては避難所です。宗教的また政治的な圧制者たちは,真の崇拝者たちの信仰を砕こうとしてどんな手段を用いようとも,失敗します。真の崇拝者たちがエホバに絶対の確信を寄せているからです。最終的に神は,焼けつく砂漠の日ざしを雲で覆い隠すかのように,また打ちつける雨あらしを壁でさえぎるかのように,わけなく反対者たちを沈黙させます。―イザヤ 25:4,5をお読みください。

      『すべての民のための宴』

      6,7 (イ)エホバはどんな宴を,だれのために設けますか。(ロ)イザヤが預言した宴は何を予表していますか。

      6 エホバは愛ある父親のように,ご自分の子供たちを保護するだけでなく,養い,特に霊的な面でそうされます。1919年にご自分の民を自由にした後,神は彼らの前に勝利の宴を設け,霊的な食物をあふれんばかりに供給されました。こう書かれています。「万軍のエホバはすべての民のために,この山で,油を十分に用いた料理の宴を必ず催される。それは,滓の上にたくわえられたぶどう酒,髄と共に油を十分に用いた料理,滓の上にたくわえられ,こされたぶどう酒の宴である」。―イザヤ 25:6。

      7 この宴はエホバの「山」で設けられます。この山とは何でしょうか。それは,「末の日に」すべての国の民が流れのように向かう「エホバの家の山」です。また,それはエホバの「聖なる山」であり,その山にいる神の忠実な崇拝者たちは害することも損なうこともしません。(イザヤ 2:2; 11:9)この高められた崇拝の場所で,エホバは忠実な者たちのために豊潤な宴を設けておられるのです。そして,現在そのように惜しみなく供給されている霊的な良いものは,神の王国が人類の唯一の政府となる時に備えられる物質的な良いものを予表しています。その時,もはや飢えることはありません。「地には穀物が豊かに実り,山々の頂であふれんばかりに実ります」。―詩編 72:8,16。

      8,9 (イ)人類の大きな敵であるどんな二つのものが取り除かれますか。説明してください。(ロ)神はご自分の民からそしりを取り除くため,何を行なわれますか。

      8 神の備える霊的な宴に今あずかっている人たちには,輝かしい見込みがあります。イザヤの次の言葉に注目してください。罪と死を,人を窒息させる「織物」あるいは「覆い」に例えて,こう述べています。「神はこの山で,すべての民を覆い包んでいる覆いの顔と,すべての諸国民の上に織り合わされている織物を必ず呑み込まれる。神は実際に死を永久に呑み込み,主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐわれる」。―イザヤ 25:7,8前半。

      9 そうです,もはや罪も死もないのです。(啓示 21:3,4)さらに,エホバの僕たちが何千年にもわたって耐え忍んできた偽りのそしりも除き去られます。「ご自分の民のそしりを全地から取り去られる。エホバご自身がそう語られたからである」。(イザヤ 25:8後半)これはどのように生じるのでしょうか。エホバは,そうしたそしりの源であるサタンとその胤を取り除かれるのです。(啓示 20:1-3)その時,神の民が感動して次のように叫ぶのももっともです。「見よ,これがわたしたちの神である。わたしたちは神を待ち望んだので,神はわたしたちを救ってくださる。これがエホバである。わたしたちはこの方を待ち望んだ。わたしたちは喜びに満ち,その救いを歓ぼう」。―イザヤ 25:9。

      ごう慢な者たちは卑しめられる

      10,11 エホバはモアブをどのように厳しく扱おうとしておられますか。

      10 エホバは,それら謙遜さを表わすご自分の民を救われます。ところが,イスラエルの隣国モアブは誇り高く,エホバは誇りを嫌悪されます。(箴言 16:18)そのため,モアブは辱められることになっています。「エホバのみ手がこの山にとどまる……。モアブは,わらのたい積が肥溜めで踏みつけられるときのように,自分の場所で必ず踏みつけられる。そして泳ぐ者が泳ぐために平手を伸べて打つように,神はその中で平手を伸べて必ず打ち,ご自分の手のこうかつな動きによって必ずそのごう慢さを卑しめられる。また,あなたの安全な高い城壁のある,防備の施された都市を必ず低くされる。それを卑しめ,それを地に触れさせ,塵に至らせるのである」。―イザヤ 25:10-12。

      11 エホバの手が,保護するために,神の聖なる山に『とどまり』ます。一方,ごう慢なモアブは平手打ちされ,「肥溜め」にあるかのように踏みつけられます。イザヤの時代,わらは踏みつぶされ,積み上げた糞に混ぜ込まれて肥料とされました。ですからイザヤは,モアブが安全そうに見える高い城壁に囲まれていても辱められることを予告しているのです。

      12 モアブが名指しでエホバの裁きの宣告の対象とされているのはなぜですか。

      12 なぜエホバはモアブを名指しにして,そうした厳しい計り事の対象とされるのでしょうか。モアブ人は,アブラハムのおいでありエホバの崇拝者だったロトの子孫です。ですから,神の契約の国民とは,近くに住んでいるだけでなく,家系的にもつながりが深いのです。それにもかかわらず,モアブ人は偽りの神々を信奉するようになり,イスラエルに対する根深い敵意をあらわにしています。彼らは当然の結末を迎えます。この点でモアブは,今日のエホバの僕たちに敵する者たちに似ており,特にキリスト教世界に似ています。キリスト教世界は,自分たちは1世紀のクリスチャン会衆の継承者であると唱えていますが,実際には,すでに述べたとおり,大いなるバビロンの主要部分となっています。

      救いの歌

      13,14 今日,神の民はどんな「強固な都市」を持っていますか。その都市に入ることを許されるのはだれですか。

      13 神の民はどうでしょうか。エホバからの恵みと保護があるので気持ちが高揚して,歌声を上げます。「その日,ユダの地でこの歌が歌われる。『わたしたちは強固な都市を持っている。神は城壁と塁壁のために救いを据えられる。あなた方は門を開けて,忠実な行ないを保っている義なる国民を入って来させよ』」。(イザヤ 26:1,2)この言葉は確かに古代において成就しましたが,今日においても明らかな成就を見ています。エホバの「義なる国民」である霊的なイスラエルには,強固な都市のような組織が与えられています。歓んで歌声を上げる理由があるのではないでしょうか。

      14 この「都市」に入って来るのは,どんな人々ですか。答えはこの歌の中にあります。「あなた[神]は,しっかりと支えられた意向を,長く続く平和のうちに守られます。人はあなたに依り頼むようになるからです。あなた方はいつまでもエホバに依り頼め。ヤハ,エホバに,定めのない時に至る岩があるからだ」。(イザヤ 26:3,4)エホバが支える「意向」とは,神の義の規準に従いたいという願い,また世の不安定な商業的,政治的,宗教的な体制にではなく神に依り頼みたいという願いのことです。「ヤハ,エホバ」だけが,信頼できる安全な岩なのです。エホバに全き確信を寄せる人々は,神によって保護され,「長く続く平和」を享受します。―箴言 3:5,6。フィリピ 4:6,7。

      15 今日,「高められた町」はどのように卑しめられてきましたか。「苦しむ者たちの足」は,どのようにその町を踏みつけますか。

      15 それとは正反対の事柄が,神の民に敵する者たちに生じます。「神は高みに住んでいる者たち,高められた町を低くされた。それを卑しめ,地に卑しめ,塵に触れさせる。足がそれを踏みつけるであろう。苦しむ者たちの足,立場の低い者たちの歩みが」。(イザヤ 26:5,6)先の場合と同様,イザヤはここでも,モアブにある「高められた町」について述べているのかもしれません。あるいは,他の都市,例えばバビロンのことを言っているのかもしれません。実際,バビロンはごう慢であるという点で高められています。いずれにせよ,エホバは「高められた町」に関して形勢を逆転させておられ,神の『立場の低い,苦しむ者たち』がその町を踏みつけます。今日,この預言は大いなるバビロンに,とりわけキリスト教世界にぴったり当てはまります。1919年,この「高められた町」はエホバの民を解放せざるを得なくなり,屈辱的な倒壊を経験しました。そして,今度はエホバの民が,かつて自分たちを捕らえていた町を踏みにじるようになりました。(啓示 14:8)どのようにですか。その町に臨もうとしているエホバの復しゅうを公に告げ知らせることによってです。―啓示 8:7-12; 9:14-19。

      義とエホバの「記念」を願い求める

      16 イザヤはどんな立派な専心の手本を残していますか。

      16 こうした勝利の歌に続いて,イザヤは自らの専心の深さと,義なる神に仕えることの報いを明らかにします。(イザヤ 26:7-9をお読みください。)イザヤは,『エホバを待ち望み』,エホバの「み名」と「記念」を強く願い求める気持ちを抱く点で,立派な手本となっています。エホバの記念とは何でしょうか。出エジプト記 3章15節には,「エホバ……は定めのない時に至るわたしの名,代々にわたるわたしの記念である」とあります。イザヤは,エホバのみ名を,また神の義の規準や義の道など,み名が表わすものすべてを大切なものとみなしています。エホバに対する同様の愛を培う人々は,必ず神の祝福を受けます。―詩編 5:8; 25:4,5; 135:13。ホセア 12:5。

      17 邪悪な者にはどんな特権が与えられませんか。

      17 しかし,だれもが皆,エホバとその高遠な規準を愛するわけではありません。(イザヤ 26:10をお読みください。)邪悪な者は,道徳的にも霊的にも正直なエホバの僕だけが住む「正直の地」に入るために義を学ぶよう促されても,頑固なまでにそれを拒みます。その結果,邪悪な者は「エホバの卓逸性を認めません」。それらの者が生き延びて,エホバのみ名が神聖なものとされた後に人類にそそがれる祝福を享受することはありません。全地が「正直の地」となる新しい世においてさえ,エホバの愛ある親切にこたえ応じない人がいるかもしれません。そうした人たちの名前は命の書に書かれません。―イザヤ 65:20。啓示 20:12,15。

      18 イザヤの時代のある人々は,どのように自ら好んで盲目になっていますか。その人々はいつ,やむを得ずエホバを『見る』ようになりますか。

      18 「エホバよ,あなたのみ手は高く上がりました。しかし彼らはそれを見ません。彼らはあなたの民に対する熱心さを見て恥じるでしょう。そうです,あなたに敵対する者たちのための火が彼らを食い尽くすのです」。(イザヤ 26:11)イザヤの時代,エホバは敵する者たちに対して行動することによりご自分の民を保護し,ご自分のみ手をはっきりと上げておられます。しかし,大半の人はそれを認めていません。そうした人々は自ら好んで霊的に盲目になっていますが,結局は,神の熱心の火によって食い尽くされる時にエホバを『見る』,つまり認めざるを得なくなります。(ゼパニヤ 1:18)後に神はエゼキエルに,「彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」と述べておられます。―エゼキエル 38:23。

      「エホバは自分の愛する者を懲らしめられる」

      19,20 エホバはなぜ,またどのようにご自分の民を懲らしめてこられましたか。だれが,そうした懲らしめから益を得ましたか。

      19 イザヤは,自分の同国人が享受している平和と繁栄はすべてエホバの祝福によるものである,ということをわきまえています。「エホバよ,あなたは判決によってわたしたちに平和を与えてくださいます。あなたはわたしたちのために,実にわたしたちのすべての業を行なってくださったからです」。(イザヤ 26:12)この事実にもかかわらず,また,「祭司の王国,聖なる国民」となる機会をエホバがご自分の民に差し伸べておられるにもかかわらず,歴史を通じてユダの歩みは定まりませんでした。(出エジプト記 19:6)ユダの民はたびたび偽りの神々の崇拝にそれて行き,その結果,何度も何度も懲らしめを受けてきました。しかし,そうした懲らしめはエホバの愛の証拠です。「エホバは自分の愛する者を懲らしめられる」からです。―ヘブライ 12:6。

      20 エホバは何度も,ご自分の民を懲らしめるために,「他の主人たち」である他の国々がユダを支配することを許します。(イザヤ 26:13をお読みください。)西暦前607年には,ご自分の民がバビロニア人によって流刑に処されることをお許しになります。そのことから民は益を得たでしょうか。人は,苦しむこと自体から益を得るわけではありません。しかし,苦しむ人が,生じる事柄から教訓を得て悔い改め,エホバに全く専心するようになるなら,その時,その人は益を得ます。(申命記 4:25-31)ユダヤ人の中に,敬虔な悔い改めを示す人がいるでしょうか。確かにいます。イザヤはこう預言しています。「わたしたちはただあなたによってのみ,あなたのみ名を語り告げるのです」。西暦前537年に流刑から帰還した後も,ユダヤ人はしばしば他の様々な罪に関して懲らしめを必要とします。とはいえ,石でできた神々の崇拝のわなに陥ることは二度とありません。

      21 神の民を虐げてきた者たちはどうなりますか。

      21 ユダを捕らえていた者たちはどうでしょうか。「死んで無力であり,起き上がることはありません。それゆえ,あなたはご自分の注意を向けられました。彼らを滅ぼし尽くして,彼らのことが語り告げられるのを全く滅ぼすためです」。(イザヤ 26:14)バビロンは,エホバの選ばれた民を残虐に扱ったゆえに苦しむことになります。エホバはメディア人とペルシャ人を用いて,誇り高いバビロンを覆し,流刑に処されていたご自分の民を自由にされます。その大いなる都市バビロンは無力にされて死んだも同然になり,最終的には存在しなくなります。

      22 現代において,神の民はどのように祝福されてきましたか。

      22 現代の成就において,懲戒を受けた霊的なイスラエルの残りの者は,1919年に大いなるバビロンから自由にされ,エホバへの奉仕を再開しました。油そそがれたクリスチャンは生気を取り戻し,宣べ伝える業に没頭するようになったのです。(マタイ 24:14)次いでエホバは,彼らを祝福して増加させ,さらには「ほかの羊」の大群衆も仲間に加え,共に奉仕を行なうようにしてこられました。(ヨハネ 10:16)「あなたはこの国民を増し加えられました。エホバよ,あなたはこの国民を増し加え,ご自分に栄光を添えられました。あなたはこの地のすべての境を遠く広げられました。エホバよ,彼らは苦難のときにあなたに注意を向けました。彼らはあなたの懲らしめを受けたとき,祈りのささやきを注ぎ出しました」。―イザヤ 26:15,16。

      『それらは起き上がる』

      23 (イ)西暦前537年,エホバの力はどんな際立った仕方で表明されましたか。(ロ)同様に,西暦1919年,神の力はどのように表明されましたか。

      23 イザヤは再び,ユダが依然としてバビロンに捕らわれている間に直面する状況に注意を向けます。そして,ユダ国民を,子を産みかけてはいるものの助けなしには出産できない女に例えます。(イザヤ 26:17,18をお読みください。)必要な助けは西暦前537年に差し伸べられ,エホバの民は,神殿を再建し真の崇拝を復興するという熱意を抱いて故国に戻ります。その国民は,あたかも死から生き返ったかのようです。「あなたの死者たちは生きます。わたしの死体 ― それらは起き上がります。塵の中の居住者よ,目を覚まし,喜び叫べ! あなたの露はあおいの露のようであり,地が死んだ無力な者たちをも生み落とすからです」。(イザヤ 26:19)エホバの力の何と素晴らしい表明でしょう。さらに,この言葉が1919年に霊的な意味で成就した時,神の力は何と壮大に表明されたのでしょう。(啓示 11:7-11)そしてわたしたちは,この言葉が新しい世で文字どおりに成就し,死んだ無力な者たちが『イエスの声を聞いて』記念の墓から『出て来る』時を本当に心待ちにしているのではないでしょうか。―ヨハネ 5:28,29。

      24,25 (イ)西暦前539年当時のユダヤ人は,身を隠すようにとのエホバの命令にどのように従ったかもしれませんか。(ロ)現代において,「奥の部屋」は何を指すと思われますか。わたしたちは,それに対するどんな見方を培わなければなりませんか。

      24 とはいえ,忠実な人たちも,イザヤを通して約束された霊的な祝福を享受するには,次のエホバの命令に従わなければなりません。「行け,わたしの民よ,あなたの奥の部屋に入り,あなたの後ろで扉を閉じよ。糾弾が過ぎ行くまで,ほんのしばらくの間,身を隠せ。見よ,ご自分に対する地の住民のとがに関して言い開きを求めるため,エホバはその場所から出て来られるからである。その地は必ずその流血をあらわにし,もはやその殺された者たちを覆い隠すことはない」。(イザヤ 26:20,21。ゼパニヤ 1:14と比較してください。)この部分は,西暦前539年,キュロス王の率いるメディアとペルシャの軍がバビロンを征服する時に最初の成就を見るのかもしれません。ギリシャの歴史家クセノフォンによると,キュロスはバビロンに入るにあたり,だれも家から出てはならないと命令します。「屋外にいる者は,見つけ次第,皆殺しにするようにとの命令」が騎兵隊に下されていたからです。今日,この預言の「奥の部屋」は,世界中にあるエホバの民の幾万もの会衆と密接な関連があると言えるでしょう。それらの会衆は今後も,「大患難」の間でさえ,わたしたちの生活において重要な役割を果たします。(啓示 7:14)会衆に対して健全な見方を保ち,定期的に会衆と交わることは,きわめて重要です。―ヘブライ 10:24,25。

      25 近い将来,サタンの世は終わりを迎えます。畏怖の念を抱かせるその時にエホバがどのようにご自分の民を保護されるかは,今のわたしたちには分かりません。(ゼパニヤ 2:3)とはいえ,生き残るかどうかはエホバに対する信仰と忠節と従順にかかっていることを,わたしたちは知っています。

      26 イザヤの時代とわたしたちの時代において,「レビヤタン」とは何,またはだれのことですか。その「海の巨獣」はどうなりますか。

      26 イザヤは将来のその時を見越して,こう預言します。「その日,エホバはその硬く,大きく,強い剣をもって,滑るように動く蛇レビヤタンに,曲がった蛇レビヤタンに注意を向け,海の中にいるその海の巨獣を必ず殺されるであろう」。(イザヤ 27:1)最初の成就において「レビヤタン」が指しているのは,イスラエルが散らされた先であるバビロンやエジプトやアッシリアなどの国々です。それらの国々は,エホバの民がふさわしい時に故国に戻るのを妨げることはできません。では,現代のレビヤタンはだれでしょうか。それは,「初めからの蛇」であるサタン,ならびにサタンが霊的なイスラエルと戦うために用いる道具であるこの地上の邪悪な事物の体制であると思われます。(啓示 12:9,10; 13:14,16,17; 18:24)「レビヤタン」は1919年に神の民を捕らえておくことができなくなりました。やがてエホバが「その海の巨獣を必ず殺される」時に完全に姿を消します。それまでの間,「レビヤタン」がエホバの民に敵対して企てるいかなることも,本当に功を奏することはありません。―イザヤ 54:17。

      「泡だつぶどう酒のぶどう園」

      27,28 (イ)エホバのぶどう園は全地を何で満たしてきましたか。(ロ)エホバはご自分のぶどう園をどのように保護されますか。

      27 次いでイザヤは,別の歌を用いて,自由にされたエホバの民の実り豊かな様子を美しく描いています。「その日,あなた方は彼女に向かって歌え。『泡だつぶどう酒のぶどう園よ! わたし,エホバが,彼女を保護している。わたしは絶えず彼女に水を注ぐ。だれも彼女に注意を向けて攻めることのないよう,わたしは夜も昼も彼女を保護する』」。(イザヤ 27:2,3)霊的なイスラエルの残りの者と,勤勉に働く仲間たちは,確かに全地を霊的な産物で満たしてきました。喜び祝い,歌声を上げるのは当然ではないでしょうか。すべての誉れは,愛をもってぶどう園を世話しておられるエホバに帰されるべきです。―ヨハネ 15:1-8と比較してください。

      28 そうです,エホバがかつて抱いておられた怒りは喜びに変わっているのです。「わたしの抱く激怒はない。だれが戦闘でわたしにいばらの茂みと雑草を与えるであろうか。わたしはそのようなものを踏みつける。わたしはそれらに同時に火をつける。さもなければ,彼にわたしのとりでをつかませ,わたしと和睦させよ。わたしと和睦させよ」。(イザヤ 27:4,5)エホバは,ご自分のぶどうの木が「泡だつぶどう酒」を必ず豊かに産出し続けるよう,ぶどう園を腐敗させかねない雑草のような影響をすべて打ち砕き,火で焼くかのようにして消し去られます。ですから,だれもクリスチャン会衆の福祉を脅かしてはなりません! むしろ,すべての人は『エホバのとりでをつかみ』,神の恵みと保護を求めるべきです。そうするなら,神と和睦することができます。神との和睦は非常に重要なので,イザヤはそれを2度繰り返しています。では,和睦した結果はどうなるでしょうか。「来たるべき日に,ヤコブは根づき,イスラエルは花を咲かせ,実際に芽を出すであろう。そして,彼らは産出的な地の表を産物でいっぱいに満たす」。(イザヤ 27:6)c この聖句の成就は,エホバの力の何と素晴らしい証拠となるのでしょう。1919年以来,油そそがれたクリスチャンは地を「産物」で,つまり滋養に富んだ霊的な食物で満たしてきました。その結果,何百万もの忠節なほかの羊が彼らに加わるようになりました。それらほかの羊も共に,「昼も夜も神に神聖な奉仕をささげて」います。(啓示 7:15)堕落した世のただ中で,これらの人々は喜びにあふれて神の高潔な規準を守っています。そしてエホバは引き続き彼らを祝福し,増加をもたらしておられます。「産物」にあずかり,それを自分自身の賛美の叫びによって他の人々にも分かつという大きな特権を,わたしたちが見失うことが決してありませんように。

      [脚注]

      a アルという名には「都市」という意味があるようです。

      b 「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の170ページをご覧ください。

      c イザヤ 27章7-13節の説明は,285ページの囲み記事にあります。

      [285ページの囲み記事]

      「大きな角笛」が自由をふれ告げる

      西暦前607年,エホバが,道に外れたご自分の民を流刑というむちで打って懲らしめられると,ユダの苦痛は増し加わります。(イザヤ 27:7-11をお読みください。)ユダ国民のとがは余りに大きく,動物の犠牲で贖うことはできません。それでエホバは,「脅しの叫び」をもって羊ややぎを追い散らすかのように,あるいは強い「突風」をもって木の葉を吹き払うかのように,イスラエルを故国から追い出されます。その後は,女性として表わされている弱い諸民族でさえ,その地に残されたものを勝手に使うことができます。

      しかし,エホバがご自分の民を捕らわれから救出する時が来ます。エホバは,言わば木に捕らわれているオリーブを農夫が自由にするかのように,民を自由にされます。「その日,エホバは川[ユーフラテス]の水流からエジプトの奔流の谷に至るまで実をはたき落とすことになる。それで,イスラエルの子らよ,あなた方は次々に拾い上げられるであろう。そして,その日には,大きな角笛が吹き鳴らされることになり,アッシリアの地で滅びてゆく者とエジプトの地に追い散らされる者たちは必ず来て,エルサレムの聖なる山でエホバに身をかがめるであろう」。(イザヤ 27:12,13)キュロスは西暦前539年に勝利を収めた後,アッシリアやエジプトにいるユダヤ人も含め,自分の帝国内のユダヤ人全員を自由にする布告を出します。(エズラ 1:1-4)それは,あたかも「大きな角笛」が鳴り響き,神の民のために自由の賛歌が響き渡るかのようです。

      [275ページの図版]

      「油を十分に用いた料理の宴」

      [277ページの図版]

      バビロンは,捕らえていた者たちに足で踏みつけられる

      [278ページの図版]

      『あなたの奥の部屋に入れ』

  • イザヤはエホバの『不思議な行ない』を予告する
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第22章

      イザヤはエホバの『不思議な行ない』を予告する

      イザヤ 28:1–29:24

      1,2 イスラエルとユダはなぜ安心していますか。

      イスラエルとユダはしばしのあいだ安心しています。両国の指導者たちは物騒な世の中での安全を求めて,力のある大国と政治同盟を結んでおり,イスラエルの首都サマリアは隣国シリアに頼り,ユダの首都エルサレムは無慈悲なアッシリアに望みをかけています。

      2 北王国のある人たちは,新たな政治的同盟国に信頼を置く一方で,エホバからの保護も期待しているようですが,相変わらず崇拝に金の子牛を用いています。同様にユダも,エホバの保護を頼みにできると思い込んでいます。何と言っても我々の首都エルサレムにはエホバの神殿があるではないか,というわけです。しかし,どちらの国の前途にも,予想外の出来事が待ち受けています。エホバはイザヤに霊感を与え,道に外れた民にとっては実に不思議に思える事態の進展を予告させます。その言葉には,今日のすべての人に対する肝要な教訓が含まれています。

      「エフライムの酔いどれたち」

      3,4 北のイスラエル王国は何を誇りにしていますか。

      3 預言の冒頭で,イザヤはびっくりするような言葉を述べます。「エフライムの酔いどれたちの卓逸した冠,ぶどう酒に打ち負かされた者たちの肥沃な谷の頭にあるその美しい飾りのしぼんでゆく花は災いだ! 見よ,エホバは強くて強壮な者を持っておられる。彼は,雹の雷雨……のように,力をこめて必ず地に投げ落とすことをする。エフライムの酔いどれたちの卓逸した冠は足で踏みにじられる」。―イザヤ 28:1-3。

      4 北の十部族の中で最も傑出した部族であるエフライムは,イスラエル王国全体を代表するものとなっています。イスラエルの首都サマリアは,「肥沃な谷の頭」の美しく堂々たる場所という地の利に恵まれています。エフライムの指導者たちは,エルサレムのダビデの王権からの独立という「卓逸した冠」を誇りにしています。しかし,彼らは「酔いどれ」であり,ユダに対抗してシリアと結んだ同盟のゆえに霊的な酩酊状態にあります。彼らが大切にしているものはみな,侵入者たちの足で踏みにじられようとしています。―イザヤ 29:9と比較してください。

      5 イスラエルはどんな危うい状態にありますか。とはいえ,イザヤはどんな希望を差し伸べますか。

      5 エフライムは危うい状態にあることに気づきません。イザヤはこう続けます。「肥沃な谷の頭にあるその美しい飾りのしぼんでゆく花は,必ず夏の前の早なりのいちじくのようになり,見る者がそれを見るとき,それがまだ自分のたなごころにある間に,彼はそれを呑み込むのである」。(イザヤ 28:4)一片の美味が一口で食べ尽くされてしまうかのように,エフライムはアッシリアの手に落ちます。では,全く希望がないのでしょうか。いいえ,他の多くの場合と同様,イザヤの裁きの預言には希望が加味されています。国は倒れても,忠実な人々はエホバの助けによって生き残るのです。「万軍のエホバはその民の残っている者たちにとっての飾りの冠,また美の花輪となり,裁きのために座す者にとっての公正の霊となり,門から戦闘を退ける者たちにとっての力強さとなられる」。―イザヤ 28:5,6。

      『彼らは迷い出た』

      6 イスラエルはいつ終焉を迎えますか。ユダがほくそえむべきでないのはなぜですか。

      6 サマリアの清算の日は西暦前740年に到来します。その時,アッシリア人がサマリアの地を荒れ廃れさせ,独立国家としての北王国は消滅します。ユダはどうでしょうか。ユダの地はこのあとアッシリアに侵略され,その後,首都がバビロンによって滅ぼされます。しかしイザヤの存命中は,ユダの神殿と祭司職は機能しつづけ,ユダの預言者たちは預言を続けます。ユダは,北の隣国が終焉を迎えようとしているからといって,ほくそえむべきでしょうか。断じてそうではありません。エホバは,ユダおよびその指導者たちに対しても,不従順と信仰の欠如のゆえに清算を行なおうとしておられるのです。

      7 どんな意味でユダの指導者たちは酔っていますか。その結果,どうなりますか。

      7 イザヤはユダに向かって音信を語り,こう続けます。「そして,これらの者たちもまた ― 彼らはぶどう酒のゆえに迷い出,酔わせる酒のゆえにさまよった。祭司と預言者 ― 彼らは酔わせる酒のゆえに迷い出,ぶどう酒のために混乱し,酔わせる酒のためにさまよった。彼らはその見ることにおいて迷い出,決定に関してふらついた。食卓もみな汚れたへどで満ちた ― それのない所はない」。(イザヤ 28:7,8)何と嫌悪すべき光景でしょう。神の家で文字どおり酒に酔っているだけでも十分悪いことです。ところが,これら祭司と預言者たちは霊的に酔っています。人間との同盟を過信しているために,思いが曇らされているのです。自らを欺き,実際的な道はこれしかないと思い込んでいます。エホバの保護では足りない場合に備えて,代わりの計画も立ててある,と考えているのかもしれません。これら宗教指導者たちは霊的な酩酊状態にあり,胸の悪くなるような汚れた言葉を吐き出し,神の約束に対する純粋な信仰が甚だしく欠けていることを露呈します。

      8 イザヤの音信を聞く人たちはどう反応しますか。

      8 ユダの指導者たちはエホバの警告にどう反応するでしょうか。彼らはイザヤをあざけり,自分たちを幼子扱いして話すと言って非難し,こう述べます。「人はだれに知識を教え諭し,聞いたことをだれに理解させるのか。乳から離された者たちにか,乳房から離された者たちにか。それは,『命令に命令,命令に命令,測り綱に測り綱,測り綱に測り綱,ここに少し,そこに少し』だからである」。(イザヤ 28:9,10)彼らにとって,イザヤの言葉は非常にくどく,奇妙に聞こえるのです。イザヤはずっと同じことを繰り返し,『これがエホバの命令した事柄である! これがエホバの命令した事柄である! これがエホバの規準である! これがエホバの規準である!』と述べています。a しかし,間もなくエホバは,行動によってユダの住民に『語り』ます。バビロンの軍勢を送って,彼らを攻めさせるのです。バビロン人は異国人であり,まさに異なった言語で語ります。その軍勢はエホバの「命令に命令」を確かに遂行し,ユダは倒れるでしょう。―イザヤ 28:11-13をお読みください。

      今日の霊的な酔いどれたち

      9,10 イザヤの言葉は,後のどの時代に,どのように当てはまってきましたか。

      9 イザヤの預言は古代のイスラエルとユダだけに成就したのでしょうか。決してそうではありません。イエスとパウロはどちらもイザヤの言葉を引用し,それを自分の時代の国民に適用しました。(イザヤ 29:10,13。マタイ 15:8,9。ローマ 11:8)今日でも,イザヤの時代と似た状況が生じています。

      10 今日の成就において,政治に信仰を置いているのはキリスト教世界の宗教指導者たちです。彼らはイスラエルとユダの酔いどれたちのようによろよろと歩き回り,政治的な事柄に口を出し,この世界のいわゆる大物たちから相談を持ちかけられることを歓びとします。そして,清い聖書の真理を語る代わりに,汚れた事柄を語ります。それら宗教指導者たちは霊的な視界がぼやけており,人類にとって頼れる案内人ではありません。―マタイ 15:14。

      11 キリスト教世界の指導者たちは,神の王国の良いたよりにどう反応しますか。

      11 キリスト教世界の指導者たちは,エホバの証人が,唯一の真の希望である神の王国に注意を引くと,どう反応するでしょうか。その人々は意味を悟りません。証人たちが赤ん坊のようにわけの分からない言葉を繰り返しているように思えるのです。宗教指導者たちはそれら使者たちを見下げ,あざけります。イエスの時代のユダヤ人と同様,神の王国を望みませんし,その王国に関することを信徒の群れに聞かせたいとも思いません。(マタイ 23:13)そのため彼らは,エホバがいつまでも穏やかな使者たちを通して語られるわけではない,との通告を受けます。神の王国に服さない者たちが「砕かれ,わなに掛かり,捕らえられる」時が,そうです,全く滅ぼされてしまう時が来るのです。

      『死との契約』

      12 ユダの想像上の『死との契約』とは何ですか。

      12 イザヤは宣告を続け,こう述べます。「あなた方は言った……,『我々は死と契約を結び,シェオルと幻を実施した。あふれ出る鉄砲水も,たとえそれが通り過ぎて行こうとも,我々のところに来ることはない。我々はうそを避難所とし,偽りの中に身を覆い隠したからだ』と」。(イザヤ 28:14,15)ユダの指導者たちは,政治上の同盟があるので自分たちが負けることはない,と自慢します。「死と契約を」結んだので,死も自分たちに手出しはしないと考えています。しかし,実質の伴わない避難所は守ってはくれません。彼らの同盟はうそであり,偽りです。今日でも同様に,清算のためのエホバの時が到来するとき,キリスト教世界が持つ世の指導者たちとの密接な関係は保護とはなりません。実際のところ,そうした関係は同世界を破局に至らせるものとなるのです。―啓示 17:16,17。

      13 「試みを経た石」とはだれのことですか。キリスト教世界はその方をどのように退けてきましたか。

      13 では,それら宗教指導者たちはどこに目を向けるべきですか。イザヤは,次のようなエホバの約束を記録しています。「いまわたしはシオンにひとつの石を基として据える。それは試みを経た石,確かな基の貴重な隅石である。信仰を働かせる者はだれも恐れ慌てることはない。そして,わたしは公正を測り綱とし,義を水準器とする。雹は必ず偽りの避難所を一掃し,水も激しい勢いで隠れ場所を押し流す」。(イザヤ 28:16,17)イザヤがこの言葉を語ってから少し後に,忠実な王ヒゼキヤがシオンで王位に就き,その王国は,近隣の同盟国によってではなく,エホバの介入によって救われます。しかし,霊感を受けたこの言葉はヒゼキヤに成就するのではありません。使徒ペテロはイザヤの言葉を引用し,ヒゼキヤのずっと後代の子孫であるイエス・キリストが「試みを経た石」であること,そして,その方に信仰を働かせる者は全く恐れを抱く必要がないことを明らかにしました。(ペテロ第一 2:6)何とも嘆かわしいことに,キリスト教世界の指導者たちはクリスチャンととなえながら,イエスが行なおうとはしなかった事柄を行なってきました。王イエス・キリストの支配する神の王国をエホバが実現させるのを待つどころか,この世での目立った立場や権力を欲してきたのです。―マタイ 4:8-10。

      14 ユダの結んだ「死との契約」はいつ解消されますか。

      14 バビロンの軍勢という「あふれ出る鉄砲水」が地を通り過ぎる時,エホバは,ユダの政治上の避難所が実際にはうそであることをあらわにされます。エホバはこう言われます。「あなた方の死との契約は必ず解消され(る)。あふれ出る鉄砲水,それが通り過ぎるとき ― あなた方はまた,必ずそれが踏みにじる場所となる。それは通り過ぎる度に……聞いたことを他の者に理解させるための身震いの理由となるだけである」。(イザヤ 28:18,19)そうです,エホバに仕えると唱えているのに諸国家との同盟に確信を置く人々に生じる事柄から,心に訴える教訓を学ぶことができます。

      15 イザヤはどんな例えを使って,ユダには十分な保護がないことを示しますか。

      15 それらユダの指導者たちは,今やどんな境遇になっているでしょうか。「寝いすはその上に身を伸べるには短すぎたし,織った敷布も身を包むには狭すぎる」。(イザヤ 28:20)つまり,休もうと思って身を横たえても休めないかのような境遇です。脚を伸ばせば足先が外に出て寒く,かといって脚を縮めると,掛け布が狭すぎるので暖かくくるまっていることができません。イザヤの時代には,そうした不快な状態が見られたのです。今日でも,キリスト教世界のまがいの避難所に信頼を置く人はみな,同様の状態にあります。実に嫌悪すべきことに,キリスト教世界の宗教指導者の中には,政治に手を出した結果,民族浄化や集団虐殺など,身の毛もよだつ残虐行為にかかり合うようになった人たちもいるのです。

      エホバの『不思議な行ない』

      16 エホバの『不思議な行ない』とは何ですか。その業が異常であると言えるのはなぜですか。

      16 最終的な結末は,ユダの宗教指導者たちの期待とは正反対になります。エホバは,ユダの霊的な酔いどれたちに不思議なことを行なわれます。「エホバはペラツィム山のときのように立ち上がり,ギベオンの近くの低地平原のときのようにかき立てられる……。それはご自分の行ない ― その行ないは不思議なもの ― をするため,ご自分の業 ― その業は異常なもの ― を行なうためである」。(イザヤ 28:21)ダビデ王の時代に,エホバはご自分の民に,ペラツィム山とギベオンの低地平原でフィリスティア人に対する著しい勝利をお与えになりました。(歴代第一 14:10-16)ヨシュアの時代には,エホバは太陽をギベオンの上にとどまらせることまでして,イスラエルがアモリ人に完全な勝利を収めることができるようになさいました。(ヨシュア 10:8-14)それは,極めて異常なことでした。今やエホバは再び戦われますが,今回は,神の民ととなえる者たちが相手です。これ以上に不思議なこと,異常なことがあるでしょうか。エルサレムがエホバの崇拝の中心地であり,エホバの油そそがれた王の都市でもあることを考えれば,なおのことです。この時に至るまで,エルサレムのダビデの王家が覆されたことは一度もありません。それでも,エホバはご自分の『不思議な行ない』を必ず成し遂げられます。―ハバクク 1:5-7と比較してください。

      17 嘲笑はイザヤの預言の成就にどんな影響を与えますか。

      17 それゆえ,イザヤはこう警告します。「あなた方は嘲笑する者となってはならない。あなた方の縛り縄が強くならないためである。主権者なる主,万軍のエホバからわたしが聞いた全土に関する絶滅が,すなわち定め置かれたものがあるからである」。(イザヤ 28:22)指導者たちが嘲笑しようとも,イザヤの音信は真実です。イザヤはその音信をエホバから,つまりそれら指導者たちと契約関係にある方から聞きました。今日も同様に,キリスト教世界の宗教指導者は,エホバの『不思議な行ない』について聞くと嘲笑します。わめき散らすことさえあります。しかし,エホバの証人がふれ告げる音信は真実です。その音信は聖書に,つまりそれら指導者たちが代表すると唱える本に記されているのです。

      18 イザヤは,エホバが平衡をとって懲らしめをお与えになることを,例えを用いてどのように示していますか。

      18 そうした指導者たちに追随しない誠実な人たちについて言えば,エホバはその人たちに再調整を施し,再び恵みをお与えになります。(イザヤ 28:23-29をお読みください。)農夫がクミンなど繊細な穀物を脱穀するのに穏やかな方法を用いるのと同様,エホバは相手と状況に応じて懲らしめ方を加減なさいます。エホバは決して専横でも圧制的でもありません。むしろ,過ちを犯した人が立ち直る可能性を念頭に置いて行動されます。ですから,エホバの訴えかけにこたえ応じる人には希望があるのです。同様に今日でも,キリスト教世界全体の運命は定められていますが,エホバの王国に服する人はみな,来たるべき不利な裁きを避けることができます。

      エルサレムは災いだ!

      19 エルサレムはどのように「祭壇の炉床」になりますか。それはいつ,どのように生じますか。

      19 さて,次にエホバは何について語っておられるでしょうか。「ダビデが陣営を張った町アリエル,アリエルは災いだ! あなた方は年に年を加えよ。祭りを巡って来させよ。そして,わたしはアリエルにとって必ず事態を難しくしなければならない。必ず悲しみと嘆きが生じ,彼女はわたしにとって必ず神の祭壇の炉床となる」。(イザヤ 29:1,2)「アリエル」は恐らく「神の祭壇の炉床」を意味し,ここではエルサレムを指していると思われます。エルサレムは,神殿とその犠牲の祭壇がある場所です。ユダヤ人は慣例に従い,エルサレムで祭りを執り行なったり犠牲をささげたりしていますが,エホバは彼らの崇拝を喜ばれません。(ホセア 6:6)かえって,都そのものが別の意味で「祭壇の炉床」になると布告されます。都は祭壇のように血をしたたらせ,火にさらされるのです。さらにエホバは,そうしたことがどのように生じるかも描写されます。「わたしは必ずあなたに向かって周囲に陣営を張り,塞柵を巡らしてあなたを攻囲し,あなたに向かって攻囲柵を築く。そして,あなたは必ず低くなるので,地から話すようになり,あなたのことばは塵からのように低く響くであろう」。(イザヤ 29:3,4)西暦前607年,この言葉はユダとエルサレムに成就し,バビロニア軍はエルサレムを攻囲して滅ぼし,神殿を焼きます。エルサレムは,自らが建設された土地と同じ低さにまで低められます。

      20 神に敵する者たちは最終的にどうなりますか。

      20 その決定的な局面に至るまでの間,ユダには,エホバの律法に従う王たちも時にはいます。そのような時にはどうなのでしょうか。エホバはご自分の民のために戦われます。敵する者たちは,地を覆い尽くそうとも,「細かい粉」や「もみがら」のようになります。エホバはご予定の時に,「雷鳴と,身震いと,大きな音,暴風と大あらし,また,むさぼり食う火の炎とをもって」それらの者たちを散らします。―イザヤ 29:5,6。

      21 イザヤ 29章7,8節の例えを説明してください。

      21 敵の軍勢は,エルサレムを略奪して戦利品をむさぼることを心待ちにしているかもしれません。しかし彼らは,突然,幻滅を感じることになっています。飢えに苦しむ人がごちそうを食べている夢を見ていたのに,目が覚めると相変わらず空腹であるのと同様,ユダの敵たちも,大いに心待ちにしている饗宴を楽しむことはありません。(イザヤ 29:7,8をお読みください。)忠実な王ヒゼキヤの時代に,セナケリブ配下のアッシリア軍がエルサレムを脅かす時の出来事を考えてみてください。(イザヤ 36章と37章)人間は一人も戦うことなく,一夜のうちに,泣く子も黙るアッシリアの軍勢は追い返され,しかも,その勇猛な戦士18万5,000人が死ぬのです。近い将来,マゴグのゴグの軍勢がエホバの民に襲いかかろうとする時にも,征服の夢はくじかれます。―エゼキエル 38:10-12; 39:6,7。

      22 ユダは霊的な酔いからどのような影響を受けますか。

      22 イザヤが預言のこの部分を述べている時,ユダの指導者たちはヒゼキヤのような信仰を持っていません。彼らは不敬虔な諸国家との同盟によって酔い,霊的な昏睡状態に陥っています。「あなた方はもう少しとどまって,驚き惑え。自分を盲目にし,盲目となれ。彼らは酔ったが,それはぶどう酒によるのではない。彼らはよろめきつつ歩いたが,それは酔わせる酒のせいではない」。(イザヤ 29:9)この霊的に酔った指導者たちは,エホバの真の預言者に与えられた幻の意味合いを認識することができません。イザヤはこう述べます。「エホバはあなた方の上に深い眠りの霊を注がれた。また,あなた方の目,すなわち預言者たちを閉じ,あなた方の頭,すなわち幻を見る者たちをも覆われた……。そしてあなた方にとって,すべてのことの幻は封じられた書物の言葉のようになる。人々はそれを書き物の分かる者に渡して言う,『どうぞ,これを声を出して読んでください』。するとその者は,『わたしにはできない。それは封じられているからだ』と言わざるをえない。そして,その書物は書き物の分からない者に渡されなければならず,ある者は言う,『どうぞ,これを声を出して読んでください』と。しかしその者は,『わたしには書き物は少しも分かりません』と言わざるをえない」。―イザヤ 29:10-12。

      23 エホバがユダに言い開きを求めるのはなぜですか。どのようにそうなさいますか。

      23 ユダの宗教指導者たちは自分たちは霊的に思慮深いと唱えますが,エホバを捨ててしまっています。そして,正邪に関する自分たちの曲がった考えを教え,自分たちの不信仰で不道徳な行ないや,民を神の不興へと導いていることを正当化します。エホバは,「くすしいこと」,つまりご自分の『不思議な行ない』によって,彼らの偽善に関する言い開きを求めます。こう述べておられます。「この民は口をもって近づき,ただ唇をもってわたしの栄光をたたえ,心をわたしから遠ざけており,わたしに対する恐れは人間の教えるおきてとなっているので,それゆえに,ここにわたしがいる。この民に対して再びくすしいことを,くすしい仕方で,くすしいことをもって行なう者がいる。彼らの賢人たちの知恵は必ず滅びうせ,彼らの思慮深い者たちの理解も覆い隠されるであろう」。(イザヤ 29:13,14)エホバが物事を巧みに導き,背教したユダの宗教体制全体がバビロニア世界強国によって拭い去られるようになさる時,ユダが知恵や理解ととなえるものは滅びうせます。1世紀にも同じことが,ユダヤ人の賢明な指導者と称する人々が国民を惑わした後に生じました。同様なことは,わたしたちの時代にも,キリスト教世界に生じます。―マタイ 15:8,9。ローマ 11:8。

      24 ユダの人々は,敬虔な恐れの欠如をどのように示しますか。

      24 とはいえこの時点では,ユダの指導者たちは自慢して,自分たちは如才ないので,真の崇拝をゆがめてもとがめを受けることはない,と思い込んでいます。しかし,そうでしょうか。イザヤは彼らの仮面をはぎ取り,彼らには神に対する純粋な恐れがなく,そのため真の知恵もないことを暴き,こう言います。「計り事をエホバから覆い隠すことに非常に深く入って行く者たち,自分の行ないを暗い所でしておいて,『だれが我々を見ていよう。だれが我々のことを知っていよう』と言う者たちは災いだ。あなた方の性情は何とゆがんでいることか! 陶器師が粘土のようにみなされるべきだろうか。いったい,造られた物が自分の造り主について,『彼はわたしを造らなかった』と言うべきだろうか。また,形造られた物が自分を形造ってくれた者について,『彼は理解を示さなかった』と実際に言うだろうか」。(イザヤ 29:15,16。詩編 111:10と比較してください。)それら指導者たちは,どれほどうまく身を隠していると思ったとしても,神の目には「裸で,あらわにされて」いるのです。―ヘブライ 4:13。

      『耳の聞こえない者は確かに聞く』

      25 どんな意味で,「耳の聞こえない者」が聞きますか。

      25 とはいえ,信仰を働かせる人たちには救いがあります。(イザヤ 29:17-24をお読みください。ルカ 7:22と比較してください。)「耳の聞こえない者」は,「その書物の言葉」つまり神の言葉からの音信を「聞き」ます。そうです,これは聴覚障害のいやしではありません。霊的ないやしなのです。イザヤは再び将来に注意を向け,メシア王国の設立と,メシアの支配による地上での真の崇拝の復興について述べています。そうしたことは,わたしたちの時代に生じてきました。そして,幾百万人もの誠実な人たちが,進んでエホバからの矯正を受け,エホバを賛美するようになっています。何と胸の躍る成就でしょう。最終的には,すべての人,すべて息あるものがエホバを賛美し,その聖なるみ名を神聖なものとする日が来るのです。―詩編 150:6。

      26 「耳の聞こえない者」は今日どんな霊的な諭しを聞きますか。

      26 今日神の言葉を聞くそうした「耳の聞こえない者」は,何を学ぶのでしょうか。すべてのクリスチャン,とりわけ会衆が手本とみなす人々は『酔わせる酒のゆえに迷い出る』ようなことを注意深く避けなければならない,ということを彼らは学ぶのです。(イザヤ 28:7)さらにわたしたちは,神の諭しを聞くことに決してうみ疲れてはなりません。そうした諭しは,すべての物事に関する霊的な見方を得させてくれます。クリスチャンは政府当局者に相応な服従を示し,各種のサービスの提供を期待するとはいえ,救いは,世からではなく,エホバ神からもたらされます。また,背教したエルサレムに裁きが臨んだのと同様,この世代にも神の裁きが必ず臨むことを,決して忘れてはなりません。わたしたちはエホバの助けにより,イザヤのように反対にめげることなく,引き続き神の警告をふれ告げることができます。―イザヤ 28:14,22。マタイ 24:34。ローマ 13:1-4。

      27 クリスチャンはイザヤの預言からどんな教訓を学ぶことができますか。

      27 長老や親たちは,エホバの懲らしめの与え方から学び,悪行者を単に処罰するのではなく,神の恵みに引き戻すよう常に努めることができます。(イザヤ 28:26-29。エレミヤ 30:11と比較してください。)そして,若い人たちも含め,わたしたちすべては,人を喜ばせるために見せ掛けだけのクリスチャンになるのでなく,心からエホバに仕えることがいかに肝要であるかを銘記させられます。(イザヤ 29:13)不信仰なユダの住民とは異なり,エホバに対する健全な恐れと深い敬意を抱いていることを示さなければなりません。(イザヤ 29:16)さらに,進んでエホバからの矯正を受けて学ぼうとする気持ちを示すことも必要です。―イザヤ 29:24。

      28 エホバの僕たちは,神の施される救いをどうみなしますか。

      28 エホバと,その物事の行ない方に対する信仰と確信を抱くことは,何と重要なのでしょう。(詩編 146:3と比較してください。)わたしたちの伝える警告の音信は,大半の人には幼稚に聞こえるでしょう。神に仕えると唱えるキリスト教世界という組織が将来滅びるということは,不思議で異常な考えです。しかし,エホバはご自分の『不思議な行ない』を完遂されます。その点に疑問の余地はありません。それゆえ,この事物の体制の終わりの日の間,神の僕たちは,神の王国とその任命された王イエス・キリストに全幅の信頼を置きます。それら僕たちは,エホバが『異常な業』を行なうと共に施される救いが,従順な人々すべてにとこしえの祝福をもたらすことを知っているのです。

      [脚注]

      a 原語のヘブライ語では,イザヤ 28章10節は繰り返しの韻を踏んでおり,幾分,わらべ歌に似ています。そのため,イザヤの音信は,宗教指導者たちにはくどく,幼稚に聞こえました。

      [289ページの図版]

      キリスト教世界は,神よりも人間の支配者たちとの同盟に頼ってきた

      [290ページの図版]

      エホバはバビロンがエルサレムを滅ぼすのを許し,ご自分の『不思議な行ない』を成し遂げる

      [298ページの図版]

      霊的に耳の聞こえなかった者たちが,今では神の言葉を「聞く」ことができる

  • エホバを待ち望みなさい
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第23章

      エホバを待ち望みなさい

      イザヤ 30:1-33

      1,2 (イ)イザヤ 30章にはどんな情報が収められていますか。(ロ)これから,どんな質問を取り上げますか。

      イザヤ 30章にも,邪悪な者たちに対する神の宣告が記されています。とはいえ,イザヤの預言のこの部分は,心温まるエホバの特質の幾つかを際立たせています。実際,エホバの特性が非常に生き生きとした言葉づかいで描写されているので,それを読むと,あたかも,慰めとなる神の姿を見,導きとなる声を聞き,その方に触れていやされるかのように感じるほどです。―イザヤ 30:20,21,26。

      2 それにもかかわらず,イザヤの同国人である背教したユダの住民は,エホバの元に帰ることを拒みます。それどころか,人間のほうに信頼を置きます。エホバはそれについてどうお感じになるでしょうか。また,イザヤの預言のこの部分は,今日のクリスチャンがエホバを待ち望む点でどのように助けになるでしょうか。(イザヤ 30:18)調べてみましょう。

      愚かで致命的な行動

      3 エホバはどんな策略を暴露されますか。

      3 この時までしばらくの間,ユダの指導者たちはひそかに策略を巡らし,アッシリアのくびきを課されないようにするための道を探ってきました。しかし,エホバはそれを見ておられました。今やエホバは彼らの策略を暴露し,こう言われます。「『強情な子らは災いだ』と,エホバはお告げになる,『計り事を実行に移そうとする者たちは。とはいえ,それはわたしからのものではない。また,献酒を注ぎ出そうとする者たちは。とはいえ,それはわたしの霊をもってではなく,罪に罪を加えるためである。エジプトに下って行こうと出発し……た者たちは災いだ』」。―イザヤ 30:1,2前半。

      4 神の反逆的な民は,どのように神の代わりにエジプトに頼っていますか。

      4 それら策略を巡らす指導者たちは,自分たちの計画が暴かれるのを聞いてびっくりします。同盟を結ぶためにエジプトへ旅することは,アッシリアへの敵対行為にとどまりません。エホバ神に対する反逆なのです。ダビデ王の時代に,国民はエホバをとりでとして頼り,『その翼の陰に』避難しました。(詩編 27:1; 36:7)しかし今では,「ファラオのとりでを避け所とし,エジプトの陰を避難所と」しています。(イザヤ 30:2後半)神の代わりにエジプトに頼っているのです。何という背反でしょう。―イザヤ 30:3-5をお読みください。

      5,6 (イ)エジプトと同盟を結ぶことが致命的な間違いであるのはなぜですか。(ロ)神の民が以前に行なったどんな旅から,このエジプトへの旅の愚かさがよく分かりますか。

      5 イザヤは,エジプトへの使節派遣は非公式な訪問にすぎないのではないかという見方を全く打ち消すかのように,さらに詳細な点を述べます。「南の獣たちに対する宣告: 苦難と窮境,ライオンや,うなり声を上げるひょう,まむしや火のような飛ぶへびの地を通り,彼らはその資産を成熟したろばの肩に載せ,その貯蔵品をらくだのこぶに載せて運ぶ」。(イザヤ 30:6前半)明らかに,これは周到に計画された旅です。使節は,高価な品々を載せたらくだやろばのキャラバンを組み,うなり声を上げるライオンや毒蛇の横行する不毛の荒野を通ってエジプトに下ります。使節はついに目的地に到着し,エジプト人に財宝を手渡します。保護を買ったのです。少なくとも使節はそう思っています。しかし,エホバはこう言われます。「民のためにそれらは何の益にもならない。そして,エジプト人はただのむなしい物にすぎず,全く何の助けにもならない。それゆえ,わたしはこの者を,『ラハブ ― 彼らはじっと座るためのもの』と呼んだ」。(イザヤ 30:6後半,7)「ラハブ」すなわち「海の巨獣」は,エジプトの象徴となっています。(イザヤ 51:9,10)エジプトは何でも約束はしますが,何も行ないません。ユダがエジプトと同盟を結んだことは致命的な間違いです。

      6 イザヤが使節の旅を描写すると,それを聴く人々は,モーセの時代に行なわれた同様な旅を思い起こすかもしれません。彼らの父祖たちもその,「畏怖を感じさせる荒野」を通ったのです。(申命記 8:14-16)とはいえモーセの時代,イスラエル人はエジプトを後にし,束縛からの解放の旅をしていました。ところが今回,その使節はエジプトに向かい,実際のところ服従への旅をするのです。何という愚行でしょう。わたしたちは,そうした間違った決定を下して,自分の霊的な自由を奴隷状態と引き換えることなど決してありませんように。―ガラテア 5:1と比較してください。

      預言者の音信に対する反対

      7 エホバがイザヤに,ユダに対するご自分の警告を書き留めさせるのはなぜですか。

      7 エホバはイザヤに,今述べたばかりの音信を書き留め,「それが将来の日のためのものとなり,定めのない時に至るまでの証しとなる」ようにせよ,とお告げになります。(イザヤ 30:8)神に頼るより人間との同盟を重視することをエホバが非とされる,ということは,将来の世代の益のために記録しておかなければなりません。それは,今日のわたしたちの世代のためでもあります。(ペテロ第二 3:1-4)とはいえ,書き記すことには,もっと切迫した必要があります。「それは反逆の民,不真実の子ら,エホバの律法を聞こうとしなかった子ら……である」。(イザヤ 30:9)民は神の助言を退けています。そのため,その助言を書き留めておき,しかるべき警告を受けたことを後になって否定できないようにしておかなければならないのです。―箴言 28:9。イザヤ 8:1,2。

      8,9 (イ)ユダの指導者たちはどのように,エホバの預言者たちを堕落させようとしますか。(ロ)イザヤは,おびえたりはしないことをどのように示しますか。

      8 イザヤは次に,民の反逆的な態度の一例を挙げます。民は,「見る者たちに向かって,『あなた方は見てはならない』と言い,幻を受ける者たちに向かって,『あなた方はわたしたちのために正直なことを幻で見てはならない。滑らかなことをわたしたちに話せ。欺きを幻で見よ』」と言います。(イザヤ 30:10)ユダの指導者たちは,忠実な預言者たちに,「正直な」,つまり真実な事柄を語るのをやめ,その代わりに「滑らかな」事柄や「欺き」つまり偽りを語るよう命令し,そのようにして,自分たちの耳をくすぐってほしいと思っていることを示します。非難ではなく,称賛されることを望んでいます。彼らの考えでは,自分たちの好みに合わせて預言しようとしない預言者は皆,「道からそれ,道筋から外れ(る)」べきです。(イザヤ 30:11前半)預言者は,聞いて心地よい事柄を語るか,宣べ伝えるのを全くやめるか,そのどちらかでなければならない,というのです!

      9 イザヤの敵対者たちは,「ただ我々のために,イスラエルの聖なる方をいない者とせよ」と言い張ります。(イザヤ 30:11後半)イザヤが「イスラエルの聖なる方」エホバのみ名によって語るのをやめさせたいのです。ほかならぬこの称号が彼らをいらだたせます。エホバの高尚な規準が,彼らの卑しむべき状態をあらわにするからです。イザヤはどう反応しますか。イザヤは,「イスラエルの聖なる方はこう言われた」とはっきり述べます。(イザヤ 30:12前半)ためらうことなく,まさに反対者たちが聞きたくないと思う言葉を語ります。おびえたりはしません。わたしたちにとって,何と立派な手本なのでしょう。神の音信をふれ告げる点で,クリスチャンは決して妥協してはなりません。(使徒 5:27-29)イザヤのように,「イスラエルの聖なる方はこう言われた」とふれ告げつづけるのです。

      反逆の結果

      10,11 ユダの反抗の結果,どうなりましたか。

      10 ユダは神の言葉を退け,うそに依り頼み,「ねじれたこと」に頼ってきました。(イザヤ 30:12後半)その結果,どうなるでしょうか。エホバは,イスラエルの望むとおりに事態を放置することはせず,むしろその国民の存続を断たれます。それは,イザヤが例えで強調しているように,突然に,徹底的に生じます。イスラエルの反逆的な態度は,「今にも落ちて来る破片,高く上げられた城壁の中の膨れのようになり,その崩壊は突然,たちどころに来るかもしれない」のです。(イザヤ 30:13)高い城壁の膨らみが大きくなり,ついには城壁を崩壊させるのと同様,イザヤと同時代の人々の反逆的な態度も増長して,イスラエルを崩壊させます。

      11 イザヤは別の例えを用いて,来たるべき滅びが徹底的なものとなることを示します。「人は陶器師たちの大きなかめを壊すときのように,必ずそれを壊し,それは人に惜しまれずに打ち砕かれ,その打ち砕かれた破片の中には,炉から火をかき集めるための,あるいは沼沢地から水をすくい取るための土器の一かけらも見いだせないであろう」。(イザヤ 30:14)ユダの滅びは全く徹底的なので,価値あるものは一つも残りません。炉から熱い灰をすくい,沼地から水をすくい取るに足りる大きさの陶片さえ残りません。何と不面目な結末でしょう。今日の真の崇拝に反逆する者たちに臨む滅びも,同じほど突然で徹底的なものとなるでしょう。―ヘブライ 6:4-8。ペテロ第二 2:1。

      エホバの申し出が拒絶される

      12 ユダの民はどうすれば滅びを免れますか。

      12 とはいえ,イザヤの言葉を聴く人々にとっては,滅びは避けられないわけではありません。逃れ道があります。預言者イザヤはこう説明します。「主権者なる主エホバ,イスラエルの聖なる方はこのように言われたからである。『帰って来て休息することによってあなた方は救われる。あなた方の力強さは,ただかき乱されないでいることと信頼していることにある』」。(イザヤ 30:15前半)エホバは進んでご自分の民を救われます。民が,「休息する」,つまり人間との同盟によって救いを確保しようとはしないことによって,また「かき乱されないでいる」,つまり恐れに屈せずに神の保護の力に対する信頼を表わすことによって信仰を示すなら,救ってくださるのです。「しかし,あなた方はそうしようとはしなかった」とイザヤは民に告げます。―イザヤ 30:15後半。

      13 ユダの指導者たちは何に確信を置いていますか。そうした確信は正しいと言えますか。

      13 次いでイザヤは,詳細な点をこう述べます。「そして,あなた方は言った,『いや,我々は馬に乗って逃げるのだ!』と。それゆえに,あなた方は逃げるであろう。『そして,我々は速い馬に乗るのだ!』と。それゆえに,あなた方を追いかける者たちも自分が速いことを示すであろう」。(イザヤ 30:16)ユダの人々は,エホバよりも,速い馬のほうが救いをもたらすと考えています。(申命記 17:16。箴言 21:31)しかしイザヤは,敵たちが追いつくので人々の信頼は幻影になる,と反論しています。人数が多くても助けにはなりません。「一人の叱責のために千人がおののき,五人の叱責のためにあなた方は逃げ(る)」。(イザヤ 30:17前半)ユダの軍勢は,わずか一握りの敵の叫び声を聞いて,慌てふためいて逃げます。a 結局は,残りの者だけが「山の頂の旗柱のように,丘の上の旗じるしのように」ぽつんと残されるでしょう。(イザヤ 30:17後半)この預言どおり,西暦前607年にエルサレムが滅ぼされる時,残りの者だけが生き残ります。―エレミヤ 25:8-11。

      有罪宣告に含まれる慰め

      14,15 イザヤ 30章18節の言葉は,古代のユダの住民と今日の真のクリスチャンにどんな慰めを差し伸べていますか。

      14 こうした身の引き締まるような言葉がまだイザヤの聴き手の耳に鳴り響いているうちに,イザヤの音信の調子が変わります。災難の脅威に代わって,祝福の約束が語られます。「それゆえにエホバはあなた方に恵みを示そうと待ち望み,それゆえにあなた方に憐れみを示そうと立ち上がる。エホバは裁きの神だからである。この方を待ち望む者はみな幸いである」。(イザヤ 30:18)何と心温まる言葉でしょう。エホバは同情心に富む父であり,子供たちを是非助けたいと願っておられます。喜んで憐れみを示されるのです。―詩編 103:13。イザヤ 55:7。

      15 人を元気づけるこの言葉が当てはまるのは,西暦前607年にエルサレムの滅びを生き残ることを憐れみによって許されるユダヤ人の残りの者と,西暦前537年に約束の地に帰還する少数の人々です。とはいえ,このイザヤの言葉は今日のクリスチャンにとっても慰めとなります。その言葉は,エホバがわたしたちのために『立ち上がり』,この邪悪な世に終わりをもたらすことを思い起こさせてくれます。忠実な崇拝者たちは,「裁きの神」であるエホバが,公正の要求する期間より一日でも長くサタンの世を存続させておくことはない,ということを確信できます。それゆえ,『その方を待ち望む者』は幸いである,と言うべきもっともな理由があるのです。

      エホバは祈りに答えてご自分の民を慰める

      16 エホバは,落胆している人をどのように慰めてくださいますか。

      16 しかし,自分が希望したほど早く救出が来ないために落胆する人もいるかもしれません。(箴言 13:12。ペテロ第二 3:9)そうした人は,エホバのご性格の特別な一面を際立たせているイザヤの次の言葉から慰めを得るでしょう。「シオンの民がエルサレムに住むとき,あなたは決して泣かないであろう。神はあなたの叫び声を聞いて,必ずあなたに恵みを示し,それを聞くとすぐに,あなたに実際に答えてくださる」。(イザヤ 30:19)イザヤはこの言葉の中で,18節の複数形の「あなた方」から,19節の単数形の「あなた」に切り替えることにより,優しさを表現しています。エホバは,苦しむ人たちを慰める際,それぞれの人を個別に扱われます。父親として,落胆している息子に向かって『なぜ兄さんのように強くなれないんだ』とは言われません。(ガラテア 6:4)むしろ,一人一人の述べることに真剣に耳を傾けます。事実,『それを聞くとすぐに,実際に答えてくださる』のです。何と元気づける言葉でしょう。落胆している人は,エホバに祈るなら大いに力づけられます。―詩編 65:2。

      神の言葉を読むことにより,導きとなる神の声を聞きなさい

      17,18 困難な時期でも,エホバはどのように導きをお与えになりますか。

      17 イザヤは話を続け,苦難が来ることを聴き手に思い起こさせます。民は「苦難という形のパンと,虐げという形の水」を受けるでしょう。(イザヤ 30:20前半)攻囲のもとで民が経験する苦難と虐げは,パンや水のようにありふれたものとなります。それでもエホバは,心の正しい人々を救出する準備を整えておられます。「あなたの偉大な教訓者はもはや自分を隠すことはされない。あなたの目は必ずあなたの偉大な教訓者を見る目となる。そして,あなた方が右に行くにしても左に行くにしても,あなたの耳はあなたの後ろで,『これが道である。あなた方はこれを歩め』と言う言葉を聞くであろう」。―イザヤ 30:20後半,21。b

      18 エホバは「偉大な教訓者」です。比類のない教え手であられます。では,人々はどのようにして神を『見たり』,その声を『聞いたり』できるのでしょうか。エホバは預言者たちを通してご自身を明らかにされ,それら預言者たちの言葉は聖書に記録されています。(アモス 3:6,7)今日,忠実な崇拝者たちが聖書を読む時,それはあたかも,父親としての神の声が行くべき道を告げ,その道を歩むためにふるまい方を再調整するよう勧めているかのようです。聖書に書かれている事柄と,「忠実で思慮深い奴隷」が備える聖書に基づく出版物とを通してエホバが語られる時,クリスチャン各自は注意深く耳を傾けるべきです。(マタイ 24:45-47)各人が聖書を読むことに打ち込むようにしましょう。『それはその人の命を意味する』からです。―申命記 32:46,47。イザヤ 48:17。

      将来の祝福を熟考しなさい

      19,20 偉大な教訓者の声にこたえ応じる人たちには,どんな祝福が待っていますか。

      19 偉大な教訓者の声にこたえ応じる人たちは,自分たちの彫像を嫌悪すべきものとみなして散らします。(イザヤ 30:22をお読みください。)そして,それらこたえ応じる人々は素晴らしい祝福を享受します。イザヤはそうした祝福を描写しており,それはイザヤ 30章23節から26節に記録されています。それは喜ばしい回復の預言であり,西暦前537年にユダヤ人の残りの者が捕囚から帰還する時に最初の成就を見ます。今日,わたしたちはこの預言のおかげで,現在の霊的なパラダイスと,将来の文字どおりのパラダイスにおいてメシアがもたらす,驚くべき祝福を知ることができます。

      20 「神はあなたが土地にまくその種のために必ず雨を,またその土地の産物としてパンを与えてくださり,それは必ず肥えて,油に富む。その日,あなたの畜類は広い牧場で草を食う。また,地を耕作する牛と成熟したろばは,シャベルとフォークであおり分けられた,酸葉で味付けした飼い葉を食べる」。(イザヤ 30:23,24)「肥えて,油に富む」パン,つまり栄養豊かな食物が人の主な食べ物となります。地はあふれんばかりに産物を産み出すので,動物も益にあずかります。家畜は,「酸葉で味付けした飼い葉」,つまり特別な時のために取ってあるおいしい飼い葉を与えられます。しかも,そのえさは「あおり分けられ」ています。これは普通,人間の食物となる穀物に施される処理です。イザヤはここで,忠実な人類に対するエホバの祝福の豊かさを例示するために,何と喜ばしい詳細な点を述べているのでしょう。

      21 前途にある祝福が徹底的なものであることを説明してください。

      21 「すべての高い山とすべての高くされた丘の上には流水……が必ず生じる」。(イザヤ 30:25後半)c イザヤは絵のような的確な描写で,エホバの祝福が徹底的なものであることを強調しています。貴重な必需品である水は不足することがなく,低地だけでなく,すべての山の上に,「すべての高い山とすべての高くされた丘の上に」さえ流れます。そうです,飢えは過去のものとなるのです。(詩編 72:16)そして,イザヤは山々よりもさらに高いものに注意を向けます。「エホバがその民の崩壊を包み,ご自分のむち打ちから生じる重い傷をもいやしてくださる日に,満月の光は必ず,輝く太陽の光のようになり,輝く太陽の光もその七倍となり,七つの日の光のようになる」。(イザヤ 30:26)この輝かしい預言の,何と興奮に満ちた最高潮なのでしょう。神の栄光が最高のきらめきをもって輝き出るのです。神の忠実な崇拝者たちが受けることになっている祝福は,これまでに経験したいかなるものをもはるかに ― 七倍も ― 凌駕します。

      裁きと喜び

      22 忠実な者たちの前途にある祝福とは対照的に,エホバは邪悪な者たちに何をもたらしますか。

      22 イザヤの音信の調子は再び変わります。イザヤは,聴き手の注意を引くかのように「見よ」と言い,こう続けます。「エホバのみ名はその怒りに燃えながら重い雲を伴って遠くからやって来る。その唇,それは糾弾に満ちており,その舌はむさぼり食う火のようだ」。(イザヤ 30:27)この時まで,エホバは事態に介入せず,ご自分の民の敵たちが勝手な歩みをするのを許してこられました。しかし,ここでエホバは,着実に接近する雷雨のように,裁きを執行するために近づいて来られます。「そしてその霊は,首にまでも達するみなぎりあふれる奔流のようであり,無価値のふるいで諸国民を振り動かす。人をさまよわせるくつわがもろもろの民のあごにあるであろう」。(イザヤ 30:28)神の民の敵たちは,「みなぎりあふれる奔流」に取り囲まれ,「ふるいで」激しくゆすり動かされ,「くつわ」で制されます。滅ぼされてしまうのです。

      23 今日のクリスチャンは何によって「心の歓び」を得ますか。

      23 イザヤは再び調子を変え,いつの日か故国に帰還する忠実な崇拝者たちの幸福な状態を描写します。「あなた方は,人が祭りのために自分を神聖なものとする夜のときの歌に似た歌を持つようになり,エホバの山,イスラエルの岩のもとに入って行くためにフルートを携えて歩く者の心の歓びに似た心の歓びを持つようになる」。(イザヤ 30:29)今日の真のクリスチャンも,サタンの世の裁きや,「救いの岩」であるエホバが差し伸べてくださる保護や,前途にある王国の祝福について熟考する時,同様な「心の歓び」を経験します。―詩編 95:1。

      24,25 イザヤの預言は,アッシリアに臨む裁きが現実のものであることをどのように強調していますか。

      24 イザヤはこうして喜びを表現した後,裁きというテーマに戻り,神の憤りの対象がだれであるかを明らかにします。「エホバは必ずその声の尊厳さを聞かせ,たける怒りと,むさぼり食う火の炎と,突然の豪雨と,雨あらしと,雹の石とをもってその腕の下るのを見させるであろう。エホバの声のためにアッシリアは恐怖に打たれるからである。神はそれをまさに杖をもって打たれるであろう」。(イザヤ 30:30,31)イザヤは,この目の当たりに見るかのような描写により,アッシリアに対する神の裁きが現実のものであることを強調しています。アッシリアは事実上,神の前に立ち,神の裁きの『腕が下る』のを見てわななきます。

      25 イザヤはこう続けます。「エホバがアッシリアの上にご自分の懲罰の棒を振り下ろす度に,タンバリンとたて琴が必ず伴うであろう。神は振り回す戦闘をもって実際に彼らと戦われるであろう。彼のトフェトは最近の時から整えられており,それはまた,王自身のためにも備えられているからである。神はそのまきの山を深くされた。火とまきは非常に多くある。エホバの息は硫黄の奔流のようにそれに向かって燃えている」。(イザヤ 30:32,33)ヒンノムの谷にあるトフェトは,ここでは,火の燃える比喩的な場所として用いられています。イザヤは,アッシリアが最終的にそこに至ることを示し,それによって,アッシリアに臨むことになっている突然かつ徹底的な滅びを強調しています。―列王第二 23:10と比較してください。

      26 (イ)アッシリアに対するエホバの宣言は,どのように現代に当てはまりますか。(ロ)今日のクリスチャンはどのようにエホバを待ち望みますか。

      26 この裁きの音信はアッシリアに対するものであるとはいえ,イザヤの預言にはもっと深い意味があります。(ローマ 15:4)エホバは再び,言わば遠くから来られて,ご自分の民を虐げる者たちすべてに大水を送り,ゆすり動かし,くつわをかけます。(エゼキエル 38:18-23。ペテロ第二 3:7。啓示 19:11-21)その日が速やかに来ますように。それまでの間,クリスチャンは救出の日を切に待ちます。イザヤ 30章に記録されている生き生きとした言葉を思い巡らして,力を得ます。それらの言葉は,神の僕たちが祈りの特権を大切にし,聖書研究に打ち込み,前途にある王国の祝福について黙想するよう励まします。(詩編 42:1,2。箴言 2:1-6。ローマ 12:12)そのようにしてイザヤの言葉は,わたしたちすべてがエホバを待ち望むよう助けてくれるのです。

      [脚注]

      a 注目すべき点として,もしユダが忠実であったなら,正反対のことが生じたはずです。―レビ記 26:7,8。

      b 聖書中でエホバが「偉大な教訓者」と呼ばれているのはこの箇所だけです。

      c イザヤ 30章25節前半には,「塔の倒れる大いなる殺りくの日に」とあります。これは,最初の成就においてはバビロンの倒壊を指すのかもしれません。その倒壊により,イザヤ 30章18節から26節に予告されている祝福をイスラエルが享受するための道が開かれました。(本文の19節をご覧ください。)また,ハルマゲドンにおける滅びも指しているのかもしれません。その滅びにより,そうした祝福が新しい世において最も壮大な成就を見ることが可能になります。

      [305ページの図版]

      モーセの時代,イスラエル人はエジプトから脱出した。イザヤの時代,ユダは助けを求めてエジプトに頼る

      [311ページの図版]

      『すべての高くされた丘の上には流水が必ず生じる』

      [312ページの図版]

      エホバは「その怒りに燃えながら重い雲を伴って」やって来られる

  • この世から助けを得ることはできない
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第24章

      この世から助けを得ることはできない

      イザヤ 31:1-9

      1,2 (イ)エルサレムの住民が恐れおののいているのはなぜですか。(ロ)エルサレムが窮地にあることを考えると,どんな質問をすることは適切ですか。

      エルサレムの住民は恐れおののいています。それも当然です。当時最強の帝国アッシリアが「ユダの防備の施されたすべての都市」を攻め,「これを奪いはじめた」のです。今や,アッシリアの軍勢はユダの首都を脅かしています。(列王第二 18:13,17)ヒゼキヤ王とエルサレムの他の住民はどうするでしょうか。

      2 ヒゼキヤは,自国の他の諸都市がすでに陥落しているので,エルサレムもアッシリアの強力な軍隊には太刀打ちできないことを知っています。その上,アッシリア人は残虐さと暴虐の点で他に例のない悪評を得ています。その国の軍隊はあまりにも恐ろしいので,戦いもせずに逃げ出す敵軍さえあるほどです。エルサレムの抜き差しならない状況を考えると,住民は助けを求めてどこに頼ればよいのでしょうか。アッシリア軍の手から逃れる道があるでしょうか。そもそも,どうして神の民はそのような事態に陥ったのでしょうか。こうした質問に答えるには,時代をさかのぼり,これに先立ってエホバがどのようにご自分の契約の国民を扱われたかを調べてみなければなりません。

      イスラエルにおける背教

      3,4 (イ)イスラエルの国はいつ,またどのようにして二つの王国に分裂しましたか。(ロ)ヤラベアムのゆえに,北の十部族王国は最初からどんな好ましくない状態にありましたか。

      3 イスラエルがエジプトを出た時からダビデの子ソロモンの死に至る500年余りの期間,イスラエルの十二部族は一つの国として統一されていました。ソロモンの死後,ヤラベアムが北の十部族を率いてダビデの家に反逆し,国は二つの王国に分裂しました。それは西暦前997年のことです。

      4 ヤラベアムは北のイスラエル王国の最初の王であり,アロンの家系の祭司職と律法に沿ったエホバの崇拝の代わりに,違法な祭司職と子牛崇拝の制度を持ち込むことにより,臣民を背教へと導きました。(列王第一 12:25-33)それはエホバにとって憎悪すべきことでした。(エレミヤ 32:30,35)そのため,また他の幾つかの理由により,エホバはアッシリアがイスラエルを隷属させることを許されました。(列王第二 15:29)ホシェア王はエジプトと共謀してアッシリアのくびきを砕こうとしましたが,その策略は失敗しました。―列王第二 17:4。

      イスラエルは偽りの避難所に頼る

      5 イスラエルは助けを求めてだれに頼りますか。

      5 エホバは,イスラエル人を迷いから覚めさせたいと思っておられます。a それで,預言者イザヤを遣わし,次のような警告を語らせます。「援助を求めてエジプトに下る者,単なる馬に頼る者,それが多いからという理由で戦車に,それが非常に力強いからという理由で乗用馬に信頼を置き,イスラエルの聖なる方を仰ぎ見ることも,エホバご自身を尋ね求めることもしなかった者たちは災いだ」。(イザヤ 31:1)何と嘆かわしいことでしょう。イスラエルは,生ける神エホバよりも馬や戦車に信頼を寄せています。イスラエルの肉的な考え方によれば,エジプトの馬は数が多くて力強い,というわけです。なるほどエジプトは,アッシリア軍に対抗するための貴重な同盟国となることでしょう。しかし,やがてイスラエル人は,エジプトとの肉的な同盟が役に立たないことを知るようになります。

      6 イスラエルがエジプトに頼るのはエホバに対する信仰が甚だしく欠けていることの表われである,と言えるのはなぜですか。

      6 イスラエルとユダの住民はどちらも,律法契約によって,エホバに献身した関係に入っています。(出エジプト記 24:3-8。歴代第一 16:15-17)イスラエルは助けを求めてエジプトに頼ることにより,エホバに対する信仰が欠けていることと,その聖なる契約の一部である律法を無視していることを明らかにします。なぜそう言えるのでしょうか。その契約の条項の中に,民がご自分に全き専心を示すならエホバはその民を保護する,という約束があるからです。(レビ記 26:3-8)その約束のとおりに,エホバはこれまで何度も『苦難の時の要塞』であることを実証してこられました。(詩編 37:39。歴代第二 14:2,9-12; 17:3-5,10)さらに,律法契約の仲介者であるモーセを通して,エホバは後代のイスラエルの王たちに,自分たちのために馬を多くしないようお命じになりました。(申命記 17:16)それらの王たちは,この規定に従うなら,保護を求めて「イスラエルの聖なる方」に頼っていることを示せるはずです。しかし残念なことに,イスラエルの支配者たちにはそれだけの信仰がありません。

      7 今日のクリスチャンは,イスラエルに信仰が欠けていたことから何を学べますか。

      7 これは,今日のクリスチャンにとって教訓となります。イスラエルは目に見えるエジプトの支持に頼り,エホバが与えるずっと強力な支持に頼りませんでした。同様に今日でも,クリスチャンは,エホバよりも,銀行口座や社会的な地位や世での人脈など,肉的な安全の源に確信を寄せたいと思ってしまうことがあるかもしれません。もちろん,クリスチャンの家族の頭は,家族に物質的な必要物を備える責任を真剣に受け止めます。(テモテ第一 5:8)しかし,物質的なものに信仰を置くことはありません。むしろ,「あらゆる強欲」に警戒します。(ルカ 12:13-21)唯一の「苦難の時の堅固な高台」はエホバ神なのです。―詩編 9:9; 54:7。

      8,9 (イ)イスラエルの計画は手堅い戦略に見えるかもしれないとはいえ,どんな結末になりますか。なぜですか。(ロ)人間の約束とエホバの約束にはどんな違いがありますか。

      8 イザヤは,エジプトとの条約締結を画策したイスラエルの指導者たちを事実上あざけり,こう言います。「神も賢い方であり,災いとなるものをもたらされる。神はご自分の言葉を呼び戻されなかった。神は悪を行なう者たちの家に敵して,有害なことを習わしにする者たちの援助に敵して必ず立ち上がられる」。(イザヤ 31:2)イスラエルの指導者たちは自分たちは賢いと考えているかもしれませんが,宇宙の創造者はこの上なく賢い方なのではないでしょうか。エジプトの助けを求めるイスラエルの策略は,外見上は手堅い戦略に見えます。しかしエホバの目から見れば,そうした政治的な同盟を結ぶことは霊的な姦淫に当たるのです。(エゼキエル 23:1-10)結果としてエホバは「災いとなるものをもたらされる」とイザヤは言います。

      9 言わずと知れたことですが,人間の約束は頼りになりません。人間による保護も当てにはなりません。一方エホバは,『自分の言葉を呼び戻す』必要がありません。約束した事柄を必ず果たされます。神の言葉が成果を収めずに神のもとに帰ることはないのです。―イザヤ 55:10,11; 14:24。

      10 エジプトとイスラエルは共にどうなりますか。

      10 エジプト人はイスラエルにとって頼れる保護となるでしょうか。いいえ。イザヤはイスラエルにこう告げます。「エジプト人といえども,地の人であって,神ではない。彼らの馬は肉であって,霊ではない。そして,エホバご自身がみ手を伸ばされるので,助けを与えている者も必ずつまずき,助けを受けている者も必ず倒れ,彼らはみな同時に終わりを迎える」。(イザヤ 31:3)エホバがアッシリアを用いて裁きを執行するためにみ手を伸ばす時,助ける者(エジプト)も助けを受けている者(イスラエル)も共につまずき,倒れ,終わりを迎えます。

      サマリアの陥落

      11 イスラエルはどんな罪の記録を積み上げてきましたか。最後には,どんな結果になりますか。

      11 エホバは憐れみ深くも繰り返し預言者を遣わし,悔い改めて清い崇拝に戻るようイスラエルを励まします。(列王第二 17:13)それにもかかわらず,イスラエルは子牛崇拝の罪を犯すだけでなく,占いや不道徳なバアル崇拝を行ない,聖木と高き所を用いています。さらに,イスラエル人は『自分たちの息子や娘たちに火の中を通らせて』,自分の身から生まれた者を悪霊の神々に犠牲としてささげることさえしています。(列王第二 17:14-17。詩編 106:36-39。アモス 2:8)エホバは,イスラエルの悪を終わらせるため,「サマリアとその王とは必ず沈黙させられる。折り取られて水の表にある小枝のように」と布告されます。(ホセア 10:1,7)西暦前742年,アッシリアの軍隊がイスラエルの首都サマリアを攻めます。3年間の攻囲の後にサマリアは陥落し,西暦前740年,十部族王国は消滅します。

      12 今日エホバはどんな業をゆだねておられますか。警告を無視する人々はどうなりますか。

      12 わたしたちの時代にエホバは,「どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に」警告するため,世界的な宣べ伝える業をゆだねておられます。(使徒 17:30。マタイ 24:14)神の救いの手だてを退ける人々は『折り取られた小枝』のようになり,背教したイスラエル国民のように滅ぼされるでしょう。一方,エホバに希望を置く人々は「地を所有し,そこに永久に住(み)」ます。(詩編 37:29)ですから,古代イスラエル王国の犯した間違いを避けるのは本当に賢明なことです。わたしたちは救いを求めてエホバに全き確信を置くようにしましょう。

      エホバの救いの力

      13,14 エホバはシオンに関してどんな慰めとなる言葉を語られますか。

      13 イスラエルの南の境界から数キロのところに,ユダの首都エルサレムがあります。エルサレムの住民はサマリアがどうなったかをよくよく承知しています。今度は自分たちが,北の隣国を滅ぼしたその同じ恐ろしい敵に脅かされています。住民はサマリアに臨んだ事柄から教訓を得るでしょうか。

      14 イザヤが次に述べる言葉は,エルサレムの居住者にとって慰めとなります。イザヤは,エホバが今でもご自分の契約の民を愛しておられることを保証して,こう言います。「エホバはわたしにこのように言われた……。『全部の数の羊飼いが自分に向かって呼び出されても,ライオン,たてがみのある若いライオンは自分の獲物の上でうなり,彼らの声にもかかわらず恐れおののかず,彼らの騒ぎにもかかわらずかがまない。それと同じように,万軍のエホバも下って来てシオンの山とその丘の上で戦われる』」。(イザヤ 31:4)獲物の上に立つ若いライオンのように,エホバはご自分の聖なる都市シオンを油断なく守られます。アッシリアの軍勢が自慢や脅しの言葉を述べようとも,また他のどんな動揺を起こそうとも,エホバをその目的からそらせることはできません。

      15 エホバはどのように優しく,同情心をもってエルサレムの住民を扱われますか。

      15 ここで,エホバがどれほど優しく,同情心をもってエルサレムの住民を扱われるかに注目してください。「飛ぶ鳥のように,万軍のエホバはそれと同じようにエルサレムを防御される。彼女を防御し,また必ず彼女を救い出される。彼女を許して,また必ず逃れさせる」。(イザヤ 31:5)母鳥はひなを守るために片時も警戒を怠りません。翼を広げてひなたちの上を舞い,危険が迫ってはいないかと油断なく目を配ります。捕食動物が近づいて来ると,すばやく舞い降りてひな鳥を守ります。同様にエホバは,アッシリア人が侵入してくるとき,エルサレムの住民を優しく世話されます。

      『あなた方は帰れ』

      16 (イ)エホバはご自分の民に,どんな愛ある訴えをされますか。(ロ)ユダの民の反抗が特に明らかになるのはいつですか。説明してください。

      16 次にエホバは,ご自分の民が罪を犯したことを思い出させ,誤った歩みをやめるよう励まして,こう言われます。「あなた方はイスラエルの子らがそれに向かって反抗を深めた方のもとに帰れ」。(イザヤ 31:6)反逆したのはイスラエルの十部族王国だけではありません。ユダの民も「イスラエルの子ら」であり,『反抗を深めて』います。そのことが特に明らかになるのは,イザヤが預言的な音信を語り終えてから少し後,ヒゼキヤの子マナセが王となる時です。聖書の記録によると,「マナセはユダとエルサレムの住民をたぶらかし続けて,エホバがイスラエルの子らの前から滅ぼし尽くされた諸国民よりももっと悪いことを行なわせ」ました。(歴代第二 33:9)考えてみてください。エホバは異教の国々をその嫌悪すべき汚れた状態のゆえに滅ぼし尽くされるのに,エホバと契約関係にあるユダの住民はその国々の民よりさらに悪いのです。

      17 今日の情勢は,どのようにマナセの治世のユダと類似していますか。

      17 21世紀の幕開けにあたり,今の情勢は多くの点でマナセの時代のユダと似ています。世界は,宗教的,人種的,民族的な憎しみによってますます分極化しています。無数の人々が,身の毛もよだつ殺人や拷問,レイプ,またいわゆる民族浄化などの犠牲となってきました。人々と諸国家,特にキリスト教世界の国々が『反抗を深めて』いることに疑問の余地はありません。しかしわたしたちは,悪がいつまでも続くことをエホバはお許しにならない,ということを確信できます。なぜでしょうか。イザヤの時代に生じた事柄から,そう確信できるのです。

      エルサレムは救い出される

      18 ラブシャケはヒゼキヤに向かってどんな警告を述べますか。

      18 アッシリアの王たちは,戦場での勝利は自分たちの神々のおかげであると考えていました。「古代近東テキスト」(英語)という本は,アッシリアの君主アシュルバニパルの文書を掲載していますが,その君主は,自分は「[自分と]共に(常に)行進している偉大な神また[自分の]主であるアッシュール,ベル,ネボによって」導かれ,「歴戦のつわものたちを大規模な野戦で打ち破った」と唱えています。同様に,イザヤの時代,アッシリアのセナケリブ王の代理であるラブシャケも,ヒゼキヤ王に向かって話す時に,人間の戦争に神々が関与していると信じていることを示します。ラブシャケは,救いを求めてエホバに頼らないようユダヤ人の王に警告し,他の国々の神々がアッシリアの強大な軍隊から自分たちの民を保護する点で無力だったことを指摘します。―列王第二 18:33-35。

      19 ヒゼキヤはラブシャケのあざけりにどのように反応しますか。

      19 ヒゼキヤ王はどのように反応するでしょうか。聖書の記述によれば,「ヒゼキヤ王はそれを聞くと,すぐに自分の衣を引き裂き,粗布で身を覆い,エホバの家に入(りまし)た」。(列王第二 19:1)ヒゼキヤは,この恐ろしい状況のもとで自分を助けることのできる方はひとりしかいないことを認めます。そして,謙遜になって,エホバに指示を求めます。

      20 エホバはユダの住民のためにどのように行動されますか。住民はそのことから何を学ぶべきですか。

      20 エホバは,必要とされている指示をお与えになり,預言者イザヤを通してこう言われます。「その日,彼らは各々その無価値な銀の神々や無益な金の神々を退ける……。それはあなた方の手が自分たちのために造って罪としたものである」。(イザヤ 31:7)エホバがご自分の民のために戦われる時,セナケリブの神々は正体を暴かれ,無価値なものであることが明らかになります。これは,ユダの住民が心に留めるべき教訓です。ヒゼキヤ王は忠実であるとはいえ,ユダの地はイスラエルと同じように偶像で満ちています。(イザヤ 2:5-8)ユダの住民にとって,エホバとの関係を修復するには,罪を悔い改め,『各々その無価値な神々を』退けることが必要です。―出エジプト記 34:14をご覧ください。

      21 イザヤは,アッシリア人に対するエホバの刑執行をどのように預言的に描写していますか。

      21 次いでイザヤは,ユダの恐ろしい敵に対するエホバの刑執行を預言的に描写して,こう言います。「アッシリア人は,人間のものではない剣によって必ず倒れる。地の人のものではない剣が彼をむさぼり食うであろう。そして彼は剣のゆえに必ず逃げ,その若者たちはまさに強制労働のためのものとなる」。(イザヤ 31:8)決着がつけられる時,エルサレムの住民は自分の剣をさやから抜くことさえ必要ありません。アッシリア軍の精鋭は,人間の剣ではなくエホバの剣によってむさぼり食われるのです。アッシリアの王セナケリブについて言えば,「彼は剣のゆえに必ず逃げ(ます)」。自軍の18万5,000人の戦士がエホバのみ使いの手にかかって死んだ後,セナケリブは国に帰ります。その後,自分の神ニスロクに身をかがめている時に,自らの息子たちによって暗殺されます。―列王第二 19:35-37。

      22 今日のクリスチャンは,ヒゼキヤとアッシリア軍に関する出来事から何を学べますか。

      22 ヒゼキヤをはじめ,だれ一人として,エホバがどのようにアッシリア軍からエルサレムを救い出されるかを予測できた人はいませんでした。それでも,ヒゼキヤが危機に対処した方法は,今日試練に直面する人たちにとって優れた手本となっています。(コリント第二 4:16-18)エルサレムを脅かしているアッシリア人の恐ろしい評判のゆえに,ヒゼキヤが恐怖を感じたのももっともなことです。(列王第二 19:3)それでも,ヒゼキヤはエホバに信仰を抱き,人間の導きではなく神の導きを求めました。ヒゼキヤがそうしたことは,エルサレムにとって何と大きな祝福となったのでしょう。神を恐れる今日のクリスチャンも,ストレスのもとで極度の感情の高まりを経験することがあるかもしれません。恐れを感じる状況も少なくないことでしょう。とはいえ,『自分の思い煩いをすべて神にゆだねる』なら,神は顧みてくださいます。(ペテロ第一 5:7)神は,わたしたちが恐れを克服できるよう助け,ストレスの原因となっている状況に対処できるよう強めてくださるのです。

      23 ヒゼキヤではなく,セナケリブはどのように恐怖にとらわれますか。

      23 最後に恐怖にとらわれるのは,ヒゼキヤではなく,セナケリブです。セナケリブはだれに頼れるでしょうか。イザヤはこう予告します。「『彼の大岩も全き怖れのために過ぎ去り,旗じるしのためにその君たちは必ず恐れおののく』と,ご自分の光をシオンに,ご自分の炉をエルサレムに持つエホバはお告げになる」。(イザヤ 31:9)セナケリブの神々,つまり彼がこれまで信頼してきた避難所である「大岩」は期待を裏切ります。そうした神々は,言わば『全き怖れのために過ぎ去る』のです。その上,セナケリブの君たちもほとんど役に立ちません。彼らも恐れおののきます。

      24 アッシリア人に生じた事柄から,どんな明確なメッセージを受け取ることができますか。

      24 イザヤの預言のこの部分は,神に反対しようとするすべての人に明確なメッセージを伝えています。どんな武器も力も企ても,エホバの目的をくじくことはできません。(イザヤ 41:11,12)とはいえ,神に仕えると唱えながら神から離れて肉的なものに安全を求める人も,失望を味わいます。『イスラエルの聖なる方を仰ぎ見ることをしなかった』者は皆,エホバが『災いとなるものをもたらす』のを見ます。(イザヤ 31:1,2)確かに,唯一の,永続する本当の避難所はエホバ神なのです。―詩編 37:5。

      [脚注]

      a イザヤ 31章の最初の三つの節はおもにイスラエルに向かって語られているようであり,最後の六つの節はユダに当てはまると思われます。

      [319ページの図版]

      物質的なものに信頼を置く人たちは失望する

      [322ページの図版]

      獲物を守るライオンのように,エホバはご自分の聖なる都市を保護される

      [324ページの図版]

      世界は,宗教的,人種的,民族的な憎しみによって分極化している

      [326ページの図版]

      ヒゼキヤは,助けを求めてエホバの家に行った

  • 王とその君たち
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第25章

      王とその君たち

      イザヤ 32:1-20

      1,2 イザヤ書死海写本の本文に関してどんなことが言えますか。

      パレスチナの死海付近の洞穴群で,1940年代の終わりごろ,注目すべき数々の巻き物が発見されました。死海文書と呼ばれるようになったそれらの巻き物は,おそらく西暦前200年から西暦70年の時期に書かれたものと考えられています。中でも特に有名なのは,耐久性のある革にヘブライ語で書かれているイザヤ書の巻き物です。その巻き物にはほとんど欠落部分がなく,その本文は,1,000年ほど後代のマソラ本文の写本と全くと言っていいほど一致しています。こうしてその巻き物は,聖書本文が正確に伝えられてきたことを実証しています。

      2 イザヤ書死海写本に関する詳細な点で注目に値するのは,今日イザヤ 32章と呼ばれる部分の欄外に,書士が走り書きで付けた“X”マークがあることです。書士がそうしたマークを付けた理由は分かりませんが,聖書のその部分に関して何か特別な事柄があるということは分かります。

      義と公正のために支配する

      3 イザヤ書と「啓示」の書は,どんな管理機関について預言していますか。

      3 イザヤ 32章の冒頭部分は,わたしたちの時代に著しい成就を見ている,次のような胸の躍る預言です。「見よ,ひとりの王が義のために治める。君である者たちは,まさに公正のために君として支配する」。(イザヤ 32:1)ここで,「見よ」という呼びかけがなされています。この叫びから思い出されるのは,聖書の最後の預言書にある同様な叫びです。そこにはこうあります。「み座に座っておられる方がこう言われた。『見よ! わたしはすべてのものを新しくする』」。(啓示 21:5)聖書のイザヤ書と「啓示」の書は,書かれた時期は900年ほど離れていますが,どちらも,新しい管理機関 ― 1914年に天で即位した王キリスト・イエスと,「人類の中から買い取られた」14万4,000人の共同支配者から成る「新しい天」― と,一致した世界的な人間社会である「新しい地」に関する,心温まる描写を行なっています。a (啓示 14:1-4; 21:1-4。イザヤ 65:17-25)その取り決め全体は,キリストの贖いの犠牲によって可能になります。

      4 この時代に,新しい地の中核をなすどんな人々がいますか。

      4 使徒ヨハネは,それら14万4,000人の共同支配者に最終的に証印が押されるところを幻で見た後,こう語っています。「わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,……み座の前と子羊の前に立っていた」。これは新しい地の中核をなす人々,今では幾百万を数えるまでになった大群衆です。大群衆は,14万4,000人のうちの残っている者たちの側に集められてきました。それら残っている者たちは少数であり,大半は年老いています。この大群衆は,急速に近づいている大患難を生き残り,パラダイスとなった地で,復活する忠実な人たち,また信仰を働かせる機会を与えられる他の無数の人たちを迎えます。信仰を働かせるすべての人は,永遠の命という祝福を受けます。―啓示 7:4,9-17。

      5-7 予告された『君たち』は神の羊の群れの中でどんな役割を果たしますか。

      5 とはいえ,憎しみに満ちた現在の世が存在する限り,大群衆に属する人たちには保護が必要です。その保護は,多くの場合,「まさに公正のために……支配する」『君たち』によって与えられます。何と素晴らしい取り決めなのでしょう。それら『君たち』は,心温まるイザヤの預言の言葉の中でさらにこう描写されています。「各々は必ず風からの隠れ場,雨あらしからの隠れ場所,水のない地方における水の流れ,やせた地における重い大岩の陰のようになる」。―イザヤ 32:2。

      6 現在,この世界的な苦難の時にあって,『君たち』が,そうです,「群れのすべてに注意を払い」,エホバの羊を世話し,エホバの義の原則に沿って公正を施行する長老たちが必要とされています。(使徒 20:28)そうした『君たち』は,テモテ第一 3章2節から7節,またテトス 1章6節から9節に規定されている資格にかなっていなければなりません。

      7 イエスは,苦しみに満ちる「事物の体制の終結」に関する大預言の中で,「恐れおののかないようにしなさい」と言いました。(マタイ 24:3-8)イエスの追随者たちは,なぜ今日の危険な世界情勢に恐れおののかないのでしょうか。一つには,油そそがれた『君たち』も「ほかの羊」の『君たち』も,忠節に群れを保護しているからです。(ヨハネ 10:16)『君たち』は,民族間の戦争や集団虐殺のような惨事に面しても,恐れることなく兄弟姉妹たちを世話します。霊的に枯渇した世にあって,『君たち』は,憂いに沈んだ魂が,人を築き上げる神の言葉 聖書の真理によってさわやかにされるよう取り計らいます。

      8 エホバはどのように,ほかの羊に属する『君たち』を訓練し,用いておられますか。

      8 過去50年をかけて,『君たち』とはだれであるかがはっきりと分かるようになってきました。ほかの羊に属する『君たち』は,成長を続ける「長」級として訓練を受けています。それは,大患難の後,その人たちのうち資格ある人々が,「新しい地」における管理的な立場で奉仕する務めをすぐにも果たせるようにするためです。(エゼキエル 44:2,3。ペテロ第二 3:13)それら『君たち』は,王国奉仕において率先し,また霊的な導きやさわやかさを与えることにより,自分たちが崇拝の領域において群れに安らぎをもたらす「重い大岩の陰のよう」であることを実証しています。b

      9 今日,どんな状況を見ると,『君たち』が必要であることが分かりますか。

      9 サタンの邪悪な世のこの危険な終わりの日にあって,献身したクリスチャンたちにはそうした保護が大いに必要です。(テモテ第二 3:1-5,13)偽りの教理や歪曲された宣伝が強風のように吹き荒れています。国家間の戦争や内戦,またエホバ神の忠実な崇拝者たちに対する直接的な攻撃という形のあらしも荒れ狂っています。霊的な干ばつで乾ききった世にあって,クリスチャンは霊的な渇きをいやすため,何も混ぜ物のない清い真理の水の流れを是非とも必要としています。うれしいことにエホバは,統治しているご自分の王が,その王の油そそがれた兄弟たち,および支援を与えるほかの羊の『君たち』を通して,この窮乏の時にあって意気消沈し落胆した人々に励ましと導きを与える,と約束しておられます。そのようにしてエホバは,義と公正にかなった事柄が行き渡るよう見届けられるのです。

      目と耳と心で注意を払う

      10 エホバは,ご自分の民が霊的な事柄を『見たり』,『聞いたり』できるよう,どんな備えを設けてこられましたか。

      10 大群衆はエホバの神権的な取り決めにどのようにこたえ応じてきたでしょうか。預言は続けてこう述べています。「見る者たちの目はのり付けされることなく,聞く者たちの耳は注意を払う」。(イザヤ 32:3)長年にわたってエホバは,ご自分の大切な僕たちを教え,円熟に至らせるための備えを設けてこられました。全世界のエホバの証人の会衆で行なわれている神権宣教学校をはじめとする種々の集会,地域大会や全国大会や国際大会,さらに,愛ある気遣いをもって群れを扱うため『君たち』に施される専門的訓練などはすべて,何百万もの人々からなる一致した世界的兄弟関係を築き上げることに寄与してきました。これらの牧者たちは地上のどこにいようとも,前進してゆく真理の言葉の理解における調整に一心に耳を傾けています。聖書に基づいて訓練された良心を持つそれら牧者たちは,いつでも進んで聞き,従います。―詩編 25:10。

      11 神の民が今では,不確かさのためにどもることなく,確信をもって語っているのはなぜですか。

      11 次いで預言はこう戒めます。「性急すぎる者たちの心も知識を考慮し,どもる者たちの舌でさえ明快なことを話すのに速くなる」。(イザヤ 32:4)何が正しく何が間違っているかに関して結論を出す点で,性急すぎることのないようにしましょう。聖書は,「あなたは言葉の性急な人を見たか。彼よりも,愚鈍な者のほうにもっと望みがある」と述べています。(箴言 29:20。伝道の書 5:2)1919年以前には,エホバの民もバビロン的な考えに染まっていました。しかし,その年以降,エホバはご自分の目的についていっそう明快な理解を与えてこられました。エホバの民は,啓示された真理が性急すぎるものではなく,よく考え抜かれたものであることを知るようになり,今では,不確かさのためにどもることなく,確たる信念をもって語っています。

      「無分別な者」

      12 今日の「無分別な者」とはだれですか。その人々はどのように寛大さに欠けていますか。

      12 次いでイザヤの預言は,それとは対照的なことを述べます。「無分別な者が寛大な者と呼ばれることはもうない。無節操な者については,その者が高貴な者と言われることはない。無分別な者はただ無分別を語(る)からである」。(イザヤ 32:5,6前)「無分別な者」とはだれでしょうか。ダビデ王は,強調するかのように,次のような答えを二度与えています。「分別のない者は心の中で言った,『エホバはいない』と。彼らは滅びとなることを行ない,その行ないにおいては忌むべきことを行なった。善いことを行なう者はだれもいない」。(詩編 14:1; 53:1)もちろん,無神論に凝り固まった人は,エホバはいないと言うでしょう。いわゆる“知識人”などの人々も,まるで神がいないかのように行動し,だれにも言い開きの必要はないと考えているなら,そう言っているも同然です。そうした人々のうちに真理はなく,その心に寛大さはありません。愛に関する福音も持っていません。真のクリスチャンとは対照的に,苦難に遭って困窮している人たちの必要にこたえる際,ぐずぐずしたり,全く腰を上げようとしなかったりします。

      13,14 (イ)現代の背教者たちは,有害なことをどのように行なっていますか。(ロ)背教者たちは,飢えている者や渇いている者から何を取り上げようとしていますか。しかし,結局はどうなりますか。

      13 そうした多くの無分別な者たちは,神の真理を擁護する人たちを憎むようになります。「その心は有害なことを行なう……。それは背教を行ない,エホバに向かって道理に反したことを語(る)ためであ(る)」。(イザヤ 32:6中)これは,現代の背教者たちに何とよく当てはまるのでしょう。ヨーロッパやアジアの多くの国々で,背教者たちは,真理に反対する他の人々と結び,エホバの証人に禁令や制限が課されることをもくろんで,おくめんもなく当局者に偽りを語ってきました。それら背教者たちは,イエスが次のように預言した「邪悪な奴隷」の精神を表わしています。「もしそのよこしまな奴隷が,心の中で,『わたしの主人は遅れている』と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば,その奴隷の主人は,彼の予期していない日,彼の知らない時刻に来て,最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちと共にならせるでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです」。―マタイ 24:48-51。

      14 それまでの間,この背教者は「飢えている者の魂を空のままにさせ……,彼は渇いている者をさえ飲み物もないままにさせてお(き)」ます。(イザヤ 32:6後)真理に敵する人々は,真理に飢えている者から霊的な食物を取り上げようとし,渇いている者には王国の音信という清涼な水を飲ませまいとします。しかし結局,エホバが別の預言者を通してご自分の民に宣言なさったとおりになります。こう言われました。「彼らは必ずあなたと戦うことになるが,あなたに打ち勝つことはない。『わたしがあなたと共にいて,あなたを救い出すからである』と,エホバはお告げになる」。―エレミヤ 1:19。イザヤ 54:17。

      15 今日,特にだれが「無節操」であると言えますか。その人たちはどんな「偽りのことば」を広めてきましたか。それはどんな結果になっていますか。

      15 20世紀の中ごろ以降,キリスト教世界の各地で公然たる不道徳のあらしが吹き荒れています。なぜでしょうか。預言は理由の一つをこう予告しています。「無節操な者についていえば,その者の道具は悪い。彼はみだらな行ないのために自ら計り事を与えた。それは,貧しい者が正しいことを話すときでさえ,苦しむ者たちを偽りのことばで滅ぼすためである」。(イザヤ 32:7)この言葉の成就として,とりわけ僧職者の中には,結婚前の性関係,同棲,同性愛など,実のところ「淫行やあらゆる汚れ」を大目に見る態度を取ってきた人が多くいます。(エフェソス 5:3)そのようにして,偽りのことばで信者の群れを『滅ぼして』いるのです。

      16 真のクリスチャンを幸福にするものは何ですか。

      16 それとは対照的に,続くイザヤの言葉の成就は何とさわやかなのでしょう。「寛大な者についていえば,彼は寛大なことのために計り事を与えた。そして,寛大なことのために自ら立ち上がる」。(イザヤ 32:8)イエスも,寛大さを励ましてこう言われました。「いつも与えなさい。そうすれば,人々はあなた方に与えてくれるでしょう。彼らは押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,あなた方のひざに注ぎ込んでくれるでしょう。あなた方が量り出しているその量りで,今度は人々があなた方に量り出してくれるのです」。(ルカ 6:38)同様に使徒パウロも,寛大な人が受ける祝福についてこう言いました。「主イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』との言葉を覚えてお(きなさい)」。(使徒 20:35)真のクリスチャンは,物質的な豊かさや社会的に目立った立場を得ることによってではなく,神エホバが寛大であるのと同様に自分たちも寛大であることによって幸福になります。(マタイ 5:44,45)神のご意志を行ない,他の人に「幸福な神の栄光ある良いたより」を知らせるために寛大に自分を与えることに,最大の幸福を見いだすのです。―テモテ第一 1:11。

      17 今日のどんな人々は,イザヤの述べる「何の思い煩いもない娘たち」に似ていますか。

      17 イザヤの預言はこう続きます。「安楽に暮らしている女たちよ,立ち上がれ,わたしの声を聴け! 何の思い煩いもない娘たちよ,わたしのことばに耳を向けよ! 一年と幾日かのうちに,何の思い煩いもないあなた方は動揺するであろう。ぶどう摘みは終わってしまうのに,実の取り入れはやって来ないからである。安楽に暮らしている女たちよ,おののけ! 何の思い煩いもない者たちよ,動揺せよ!」(イザヤ 32:9-11前半)この女たちの態度から連想されるのは,今日,神に仕えると唱えながら神への奉仕に熱心でない人々です。そうした人々は,『娼婦たちの母』である「大いなるバビロン」の諸宗教の一部となっています。(啓示 17:5)例えば,キリスト教世界の諸宗教に属する人々は,この「女たち」に関するイザヤの描写に非常によく合致しています。「安楽に暮らして」おり,やがて臨む裁きと動揺に無頓着なのです。

      18 「腰に粗布をまとえ」と告げられているのはだれですか。なぜですか。

      18 偽りの宗教に対する呼びかけは続きます。「衣を脱いで裸になり,腰に粗布をまとえ。望ましい畑,実を結ぶぶどうの木のことで嘆き悲しんで胸をたたけ。わたしの民の土地には,いばら,とげ草の茂みが生じるだけである。それらはすべての歓喜の家,そうだ,大いに喜ぶ町の上にあるからである」。(イザヤ 32:11後半-13)『衣を脱いで裸になれ』という表現は,衣服を全部脱げという意味ではないようです。古代の習慣では,下着の上に外衣を着用しており,外衣はしばしば身分証明の手段となりました。(列王第二 10:22,23。啓示 7:13,14)ですからこの預言は,偽りの宗教に属する人々に,外衣,つまり自らを神の僕のように見せかけるためのものを脱ぎ,代わりに,差し迫った裁きに対する嘆きを象徴する粗布の衣を着けるよう命じているのです。(啓示 17:16)神の「大いに喜ぶ町」であると唱えるキリスト教世界の様々な宗教組織においても,偽りの宗教の世界帝国の残りの部分においても,敬虔な実の豊かさが見られることはありません。それらの組織の活動領域からは,怠慢や放棄という「いばら,とげ草の茂みが生じるだけ」です。

      19 イザヤは,背教した“エルサレム”のどんな状態を暴いていますか。

      19 この陰うつな情景は,背教した“エルサレム”の全域に及びます。「住まいの塔も捨て去られ,都市のにぎわいも見捨てられたからである。オフェルと物見の塔も荒涼とした野となった。定めのない時に至るまで,しまうまの歓喜するところ,家畜の群れの牧場となった」。(イザヤ 32:14)そうです,オフェルも含まれています。オフェルはエルサレムの小高い場所で,堅固な防衛拠点です。オフェルが荒涼とした野となるという表現は,この都市の完全な荒廃を意味しています。イザヤの言葉は,背教した“エルサレム”,つまりキリスト教世界が神のご意志を行なう点で油断していることを示しています。同世界は霊的に不毛で,真理や公正から大きくかけ離れており,全く獣のようになっています。

      対照をなす輝かしい事柄!

      20 神の民の上に注ぎ出されている神の霊は,どんな効果を及ぼしていますか。

      20 次にイザヤは,エホバのご意志を行なう人々に,心温まる希望を差し伸べます。神ご自身の民がどんな荒廃状態に陥ろうとも,それがいつまでも続くことはなく,「ついには,霊が高い所からわたしたちの上に注ぎ出され,荒野が果樹園となり,その果樹園が真実の森林とみなされるようになる」のです。(イザヤ 32:15)喜ばしいことに,1919年以来,エホバの霊が神の民の上にあふれんばかりに注ぎ出され,実を結ぶ果樹園のような油そそがれた証人たちを回復させてきました。それら証人たちの後ろには,広がってゆく森林のようなほかの羊が従っています。今日地上にある神の組織の基調をなしているのは繁栄と成長です。神の民は,来たるべき神の王国を全世界でふれ告げることにより,回復された霊的パラダイスにおいて「エホバの栄光,わたしたちの神の光輝」を反映しています。―イザヤ 35:1,2。

      21 今日どこに,義と平穏と安全を見いだせますか。

      21 では,エホバの輝かしい約束に耳を傾けてください。「荒野には公正が必ず住まい,果樹園には義が宿る。そして,真の義の働きは必ず平和となり,真の義の奉仕は定めのない時に至る平穏と安全となる」。(イザヤ 32:16,17)この言葉は,今日のエホバの民の霊的な状態を何と見事に描写しているのでしょう。憎しみや暴虐や絶望的な霊的貧困状態によって分裂している人類の大多数とは対照的に,真のクリスチャンは,『すべての国民と部族と民と国語の中から来て』いるにもかかわらず,世界的に一致しています。神の義と調和して,ついには定めのない時に至る真の平和と安全を享受することを確信して生活し,働き,奉仕しているのです。―啓示 7:9,17。

      22 神の民の状態と偽りの宗教に属する人々の状態はどのように異なっていますか。

      22 霊的パラダイスにおいて,すでにイザヤ 32章18節が成就しています。その節にはこうあります。「わたしの民は平和な住まいに,全き確信の満ちる住居に,かき乱されることのない休み場に必ず宿る」。しかし,まがいのクリスチャンに関しては,「森林が倒れ,都市が低くなって卑しめられた状態に陥るとき,必ず雹が降るであろう」と書かれています。(イザヤ 32:19)そうです,エホバの裁きは今にも,偽りの宗教という虚偽の都市を激しい雹のあらしのように打ち,その「森林」のような支持者たちを低め,その者たちを永久に抹消しようとしているのです。

      23 どんな世界的な業が完了に近づいていますか。その業に参加している人々について何と言えますか。

      23 この部分の結びに,預言はこう述べます。「すべての水のそばに種をまき,牛とろばの足を送り出しているあなた方は幸いである」。(イザヤ 32:20)牛とろばは,古代の神の民が畑をすき返したり種をまいたりする際に用いた荷役動物です。今日,エホバの民は,印刷設備や電子機器,近代的な建物や輸送手段,そしてとりわけ一致した神権組織を用いて,膨大な数に上る聖書関係の出版物を印刷,配布しています。進んで働く人々はこうした道具を用いて,全地で,文字どおり「すべての水のそばに」王国の真理の種をまいています。すでに,神を恐れる何百万もの人々が収穫されており,さらに大勢の人が加わろうとしています。(啓示 14:15,16)そうした人たちすべては本当に「幸いである」と言えます。

      [脚注]

      a イザヤ 32章1節の「王」という言葉は,予備的な意味でヒゼキヤ王に当てはまったかもしれません。とはいえ,イザヤ 32章の主要な成就は王キリスト・イエスと関連があります。

      b ものみの塔聖書冊子協会発行の「ものみの塔」誌,1999年3月1日号,13-18ページをご覧ください。

      [331ページの図版]

      死海文書のイザヤ 32章には“X”マークが付けられている

      [333ページの図版]

      『君たち』一人一人は,風からの隠れ場,雨をしのぐ場所,砂漠における水,日ざしを遮るもののようになっている

      [338ページの図版]

      クリスチャンは,他の人に良いたよりを伝えることに大きな幸福を見いだす

  • 「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第26章

      「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない」

      イザヤ 33:1-24

      1 イザヤ 33章24節の言葉が慰めとなるのはなぜですか。

      「創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いているのです」。これは使徒パウロの言葉です。(ローマ 8:22)医学のさまざまな進歩にもかかわらず,人類は依然として病気と死にむしばまれています。それゆえ,イザヤの預言のこの部分の最高潮をなしている約束は実に素晴らしいものです。想像してみてください。「『わたしは病気だ』と言う居住者(の)いない」時が来るのです。(イザヤ 33:24)この約束は,いつ,どのように成就するのでしょうか。

      2,3 (イ)イスラエル国民はどのように病んでいますか。(ロ)アッシリアはどのように神の懲らしめの「むち棒」として用いられますか。

      2 イザヤ書が書かれているころ,神の契約の民は霊的に病んでいます。(イザヤ 1:5,6)背教と不道徳の淵に沈んでいるため,エホバ神からの厳しい懲らしめが必要です。その懲らしめを与えるためのエホバの「むち棒」として,アッシリアが用いられます。(イザヤ 7:17; 10:5,15)まず西暦前740年に,北のイスラエルの十部族王国がアッシリア人に倒されます。(列王第二 17:1-18; 18:9-11)その何年か後,アッシリアのセナケリブ王は南のユダ王国に対する全面攻撃を開始します。(列王第二 18:13。イザヤ 36:1)破竹の勢いのアッシリア軍がユダの地を席巻するので,ユダは全滅を免れないように思えます。

      3 しかしアッシリアは,神の民を懲らしめるために与えられた権限を踏み越え,今や,貪欲な世界制覇の野望を追求しています。(イザヤ 10:7-11)エホバは,ご自分の民を残忍に虐待するアッシリアを罰せずに放置されるのでしょうか。ユダ国民の霊的な病はいやされるのでしょうか。イザヤ 33章には,そうした問いに対するエホバからの答えが記されています。

      奪略者から奪略する

      4,5 (イ)アッシリアはどんな逆転を経験しますか。(ロ)イザヤはエホバの民のためにどんな祈りをささげますか。

      4 預言はまずこう述べています。「自分は奪略に遭っていないのに奪略を行ない,他の者から不実な行ないをされたことがないのに不実な行ないをしているあなたは災いだ! あなたは奪略者としての終わりを迎えるとすぐに,今度は自分が奪略に遭うであろう。あなたが不実な行ないをなし終えるとすぐに,今度は人々があなたに対して不実な行ないをするであろう」。(イザヤ 33:1)イザヤは,奪略者アッシリアに真っ向から語りかけています。その侵略国家は全盛期にあり,無敵に見えます。アッシリアは「自分は奪略に遭っていないのに奪略を行ない」,ユダの諸都市を荒らすだけでなく,エホバの家から財宝を取り去ることまでしており,しかも何の処罰も受けないかに見えます。(列王第二 18:14-16。歴代第二 28:21)しかし今,形勢は逆転しようとしています。イザヤは,『あなたは奪略に遭うであろう』と大胆に断言します。この預言は,忠実な人たちにとって何と大きな慰めなのでしょう。

      5 そうした恐怖の時期に,エホバの忠節な崇拝者たちは,助けを求めてエホバに頼らなければなりません。イザヤはこう祈ります。「エホバよ,わたしたちに恵みを示してください。わたしたちはあなたを待ち望みました。朝ごとにわたしたちの[力と支えの]腕となってください。そうです,苦難の時のわたしたちの救いとなってください。騒ぎの音を聞いてもろもろの民は逃げました。あなたが立ち上がられたので諸国の民は追い散らされました」。(イザヤ 33:2,3)適切にもイザヤはエホバに,過去に何度もしてくださったようにご自分の民を救出してください,と祈っています。(詩編 44:3; 68:1)そしてイザヤは,この祈りをささげてすぐ,それに対するエホバの答えを予告として告げます。

      6 アッシリアはどうなりますか。それがふさわしいのはなぜですか。

      6 「あなた方[アッシリア人]の分捕り物は,密集するときのごきぶりのように,人に向かって来襲するいなごの大群の来襲のように実際に集められるであろう」。(イザヤ 33:4)ユダでは,荒廃をもたらす昆虫の襲来はよく知られています。しかし,ここで荒廃すると言われているのはユダの敵たちです。アッシリアは屈辱的な敗北を喫します。その兵士たちは膨大な量の分捕り物を後に残して逃げざるを得なくなり,それをユダの住民が取り集めるのです。残虐さで知られるアッシリアが奪略される側になるのは,何ともふさわしいことです。―イザヤ 37:36。

      現代のアッシリア人

      7 (イ)今日,霊的に病んだイスラエル国民と似ていると言えるものは何ですか。(ロ)キリスト教世界を滅ぼすためにエホバの「むち棒」として用いられるものは何ですか。

      7 イザヤの預言はどのように,わたしたちの時代に当てはまるのでしょうか。霊的に病んだイスラエル国民と不忠実なキリスト教世界は似ていると言えます。エホバは,アッシリアを「むち棒」として用いてイスラエルを処罰したように,「むち棒」を用いて,キリスト教世界と,偽りの宗教の世界帝国である「大いなるバビロン」の残りの部分とを処罰します。(イザヤ 10:5。啓示 18:2-8)その「むち棒」となるのは国際連合の加盟諸国です。国連という組織は,「啓示」の書の中で,七つの頭と十本の角を持つ緋色の野獣として描かれています。―啓示 17:3,15-17。

      8 (イ)今日,セナケリブと似ているのはだれですか。(ロ)現代のセナケリブは厚かましくもだれに攻撃を仕掛けようとしますか。どんな結果になりますか。

      8 現代のアッシリア人が偽りの宗教の領域全体を荒らし回る時,それを止めることはできないかに見えます。悪魔サタンはセナケリブと似た態度を取り,厚かましくも,処罰に値する背教的な諸組織だけでなく,真のクリスチャンにも攻撃を仕掛けようとするでしょう。大いなるバビロンを含むサタンの世から出てきた何百万もの人々は,エホバの油そそがれた霊的な子の残っている者たちと共におり,エホバの王国の側に立場を取っています。「この事物の体制の神」サタンは,真のクリスチャンが自分に敬意を払おうとしないことに怒り,それらクリスチャンに対して全面攻撃を開始します。(コリント第二 4:4。エゼキエル 38:10-16)その攻撃は恐ろしいに違いありませんが,エホバの民は恐怖のために身をすくませる必要はありません。(イザヤ 10:24,25)神が『苦難の時の救い』となってくださるという保証があります。神は事態に介入し,サタンとその群衆を荒廃させます。(エゼキエル 38:18-23)古代と同様,神の民から奪略しようとする者たちは,自らが奪略されるのです。(箴言 13:22後半と比較してください。)エホバのみ名は神聖なものとされ,生き残った者たちは,「知恵と知識[と]エホバへの恐れ」を求めたことに対する報いを受けるでしょう。―イザヤ 33:5,6をお読みください。

      不信仰な人々に対する警告

      9 (イ)ユダの「英雄たち」と「平和の使者たち」は何をしますか。(ロ)アッシリア人は,ユダからの和平申し入れにどう反応しますか。

      9 では,ユダの不信仰な人々はどんな運命をたどるのでしょうか。その人々が今にもアッシリアの手に陥らんばかりになっていることについて,イザヤは陰うつな描写を行なっています。(イザヤ 33:7をお読みください。)ユダの軍隊の「英雄たち」はアッシリアの進撃に恐れをなして叫びます。「平和の使者たち」,つまり好戦的なアッシリア人との和平交渉に遣わされた外交官たちは,あざけりや辱めを受け,不成功を悔やんで激しく泣きます。(エレミヤ 8:15と比較してください。)残忍なアッシリア人がそれを哀れに思うことはありません。(イザヤ 33:8,9をお読みください。)アッシリア人は,ユダの住民と結んだ契約を無情にもほごにします。(列王第二 18:14-16)そして,ユダの「もろもろの都市を侮べつ」します。それらの都市を侮べつとさげすみの目で眺め,人の命を少しも顧みません。状況があまりにもひどいため,地そのものが嘆き悲しんでいるかのようになります。レバノン,シャロン,バシャン,カルメルも,同じように荒廃を嘆き悲しむでしょう。

      10 (イ)キリスト教世界の「英雄たち」が無力であることは,どのように明らかになりますか。(ロ)キリスト教世界の苦難の日に,だれが真のクリスチャンを保護しますか。

      10 近い将来,諸国家が宗教を襲撃し始める時に,同様な情況が生じることは間違いありません。ヒゼキヤの時代と同じく,そうした破壊的な勢力に物理的に抵抗しても無駄です。キリスト教世界の「英雄たち」,つまり政治家や資本家をはじめとする有力者たちは,同世界を助けることができません。キリスト教世界の利権を保護するために結ばれた,政治上また財政上の「契約」や協定は破られるでしょう。(イザヤ 28:15-18)外交手腕によって滅びを免れようとする必死の試みも失敗します。キリスト教世界の資産や投下資本が没収されたり破壊されたりすると,商業活動は停止します。いまだにキリスト教世界に親しみを感じている人たちでさえ,離れた安全なところに立って同世界の死を嘆き悲しむ以上のことはしません。(啓示 18:9-19)真のキリスト教は偽物と共に一掃されてしまうのでしょうか。いいえ,エホバご自身が次のような保証を与えておられます。「『今,わたしは立ち上がる』と,エホバは言われる,『今,わたしは自分を高める。今,わたしは自分を高く上げる』」。(イザヤ 33:10)ついにエホバが,ヒゼキヤのような忠実な人々のために事態に介入し,アッシリア人の進撃を止めるのです。―詩編 12:5。

      11,12 (イ)イザヤ 33章11-14節の言葉は,いつ,どのように成就を見ますか。(ロ)エホバの言葉は,今日に当てはまるどんな警告を与えていますか。

      11 不忠実な人々はそうした保護を当てにすることができません。エホバはこう言われます。「あなた方は乾いた草を宿す。あなた方は刈りわらを産む。あなた方の霊は火のようにあなた方を食い尽くすであろう。そして,もろもろの民は必ず石灰の燃えたもののようになる。彼らは切り取られたいばらのように火によって燃え立たされるであろう。遠くにいる者たちよ,あなた方はわたしが必ず行なうことを聞け! そして,近くにいる者たちよ,あなた方はわたしの力強さを知れ。シオンで罪人たちは怖れを抱いた。震えが背教者たちを捕らえた。『わたしたちのうちのだれが,むさぼり食う火と少しの間でも共に住むことができようか。わたしたちのうちのだれが,燃えつづける大火と少しの間でも共に住むことができようか』」。(イザヤ 33:11-14)この言葉は,ユダが新たな敵バビロンに直面する時に当てはまるようです。ヒゼキヤの死後,ユダは邪悪な歩みに逆戻りします。その後の何十年かにわたってユダの状態は悪化し,ついには国民全体が神の怒りの火に遭わざるを得ない段階に達します。―申命記 32:22。

      12 不従順な者たちが神の裁きを回避するために企てた邪悪な計画や陰謀は,刈りわら程度の役にしか立たないことが明らかになります。かえって,ユダ国民の高慢で反抗的な霊は,実際には滅びに至る数々の出来事を誘発します。(エレミヤ 52:3-11)邪悪な者たちは『石灰の燃えたもののようになり』,完全に滅びてしまいます。反抗的なユダの住民は,こうした差し迫った破滅を熟考して,胸の悪くなるような怖れを感じます。不忠実なユダに対するエホバの言葉は,今日のキリスト教世界の成員の状況を例証しています。神の警告に留意しないなら,彼らには陰うつな将来が待っているのです。

      『絶えることのない義のうちに歩む』

      13 『絶えることのない義のうちに歩む』人にはどんな約束が差し伸べられていますか。その約束は,エレミヤの場合,どのように成就しましたか。

      13 次いでエホバは,対比を用いてこう言われます。「絶えることのない義のうちに歩み,廉直なことを語り,詐欺による不当な利得を退け,きっぱりと手を振ってわいろを取らず,耳をふさいで流血を聴かず,目を閉じて悪いことを見ないようにしている者がいる。その者こそ高みに住むようになる者であり,その堅固な高台は近寄り難い険しい岩場である。その者のパンは必ずこれに与えられ,その水の供給も尽きることがない」。(イザヤ 33:15,16)後に使徒ペテロが述べたとおり,「エホバは,敬虔な専心を保つ人々をどのように試練から救い出すか,一方,不義の人々……を,切り断つ目的で裁きの日のためにどのように留め置くかを知っておられる」のです。(ペテロ第二 2:9,10)エレミヤはそうした救出を経験しました。バビロンによる攻囲の間,人々は「心配しながら目方によってパンを食べなければ」なりませんでした。(エゼキエル 4:16)我が子の肉を食べる女たちさえいました。(哀歌 2:20)それでもエホバは,エレミヤがずっと安全でいられるよう見届けられました。

      14 今日のクリスチャンはどうすれば『絶えることのない義のうちに歩む』ことができますか。

      14 同様に今日のクリスチャンも,日ごとにエホバの規準を守り,『絶えることのない義のうちに歩む』ことが必要です。(詩編 15:1-5)「廉直なことを語り」,偽りや不真実を退けなければなりません。(箴言 3:32)詐欺やわいろは多くの国で当たり前のことかもしれませんが,『絶えることのない義のうちに歩む』人にとってはいとわしい事柄です。さらにクリスチャンは,商取引において「正直な良心」を保ち,怪しげな,あるいは詐欺的な計画を慎重に避けなければなりません。(ヘブライ 13:18。テモテ第一 6:9,10)また,「耳をふさいで流血を聴かず,目を閉じて悪いことを見ないようにしている」人は,音楽や娯楽を注意深く選びます。(詩編 119:37)エホバはご自分の裁きの日に,そうした規準に沿って生活する崇拝者たちを保護し,支えてくださいます。―ゼパニヤ 2:3。

      自分たちの王を見つめる

      15 忠実なユダヤ人流刑者はどんな約束に支えられますか。

      15 次にイザヤは,輝かしい将来を垣間見させて,こう言います。「あなたの目は麗しい王を見つめることになり,それは遠くの地を見るであろう。あなたの心は怖ろしいことについて低い声で論じる,『書記官はどこにいるのか。支払いをする者はどこにいるのか。塔を数える者はどこにいるのか』と。あなたが不遜な民を見ることはない。その言語が深くて聴くことができず,その舌がどもってあなたが理解することのできない民を」。(イザヤ 33:17-19)忠実なユダヤ人は,将来のメシアなる王の王国をはるか先に望み見ることができるにすぎませんが,幾十年にもわたるバビロンでの流刑中,その王と王国に関する約束に支えられます。(ヘブライ 11:13)メシアの支配がついに実現する時,バビロンの圧制は遠い過去の記憶となります。アッシリア人の攻撃を生き残った人々は喜ばしげにこう言うでしょう。「我々に税を課し,負担を負わせ,我々から貢ぎを取り立てた,圧制者の役人たちはどこにいるのか」。―イザヤ 33:18,モファット訳。

      16 いつ以来,神の民はメシアなる王を「見つめる」ことができていますか。どんな結果になっていますか。

      16 イザヤの言葉がバビロン捕囚からの回復を保証しているとはいえ,個々のユダヤ人流刑者が預言のこの部分の完全な成就にあずかるには,復活を待たなければなりません。今日の神の僕たちの場合はどうでしょうか。1914年以来,エホバの民は,霊的な美に満ちたメシアなる王イエス・キリストを「見つめる」,つまり識別することができています。(詩編 45:2; 118:22-26)その結果,サタンの邪悪な体制の圧迫と統制からの救出を経験してきました。そして,神の王国の座であるシオンのもとで,真の霊的な安全を享受しています。

      17 (イ)シオンに関してどんな約束がなされていますか。(ロ)シオンに関するエホバの約束は,メシアの王国と,地上にいるその支持者たちにどのように成就しますか。

      17 イザヤはこう続けます。「わたしたちの祭りのときの町,シオンを見よ! あなたの目は,エルサレムがかき乱されることのない住まいであり,だれも畳むことのない天幕であるのを見る。その天幕用留め杭は決して引き抜かれず,その綱もひとつとして断ち切られることはない。しかしそこで,威光ある方,エホバは,わたしたちにとっての川の場所,広い運河の場所となられる。その上をガレー船隊が行くことはなく,威光ある船が通って行くこともない」。(イザヤ 33:20,21)イザヤは,神のメシア王国が根こぎにされたり滅ぼされたりすることはないと保証しています。そうした保護は,今日地上にいる忠実な王国支持者たちにも,明らかに差し伸べられています。個々の人が厳しい試みに遭うことは少なくないとはいえ,一つの会衆としての神の王国の臣民を滅ぼそうとするいかなる努力も決して功を奏さないことは保証されています。(イザヤ 54:17)エホバは,堀や運河が都市を守るのと同じように,ご自分の民を保護されます。その民を攻めようとしてやって来る敵はみな,たとえ「ガレー船隊」や「威光ある船」のように強力なものであろうと,滅びを被るのです。

      18 エホバはどんな責任を引き受けておられますか。

      18 では,神の王国を愛する人々は,なぜそれほどまでに神の保護を確信できるのでしょうか。イザヤはこう説明しています。「エホバはわたしたちの裁き主,エホバはわたしたちの法令授与者,エホバはわたしたちの王……である。神ご自身がわたしたちを救ってくださる」。(イザヤ 33:22)エホバは,最高主権者としてのご自分の立場を認める民を保護し,導く責任を引き受けておられます。その民は,エホバには法を制定する権威だけでなく,それを施行する権威もあることを認め,メシアなる王を通してなされる神の支配に喜んで服します。とはいえ,エホバは義と公正を愛する方なので,み子を通して行なわれるその支配は神の崇拝者にとって重荷ではありません。むしろ,それら崇拝者は神の権威に服することにより「自分を益する」のです。(イザヤ 48:17)神はご自分の忠節な者たちを決して見捨てません。―詩編 37:28。

      19 イザヤは,エホバの忠実な民の敵たちの無力さをどのように描写していますか。

      19 イザヤは,エホバの忠実な民の敵たちにこう告げます。「あなたの綱は必ず解き放たれる。それはその帆柱をしっかりとまっすぐに立てないであろう。それは帆を張らなかったのだ。そのとき,たくさんの分捕り物も必ず分けられ,足のなえた者たちも多くの強奪物を実際に取る」。(イザヤ 33:23)迫り来るどんな敵も,エホバに対しては,索具がゆるみ,帆柱がぐらつき,帆を失った軍艦のように全く無力なことが明らかになるでしょう。神に敵する者たちの滅びの結果,おびただしい分捕り物が得られるので,体の不自由な人々も強奪物の分け前にあずかります。それゆえわたしたちは,来たるべき「大患難」においてエホバが王イエス・キリストにより敵対者たちに勝利を収めることを確信できます。―啓示 7:14。

      いやし

      20 神の民はどんないやしを,いつ経験しますか。

      20 イザヤの預言のこの部分は,次のような心温まる約束をもって結ばれています。「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない。その地に住んでいる民は,自分のとがを赦された者たちとなるのである」。(イザヤ 33:24)イザヤの述べている病気はおもに霊的なものです。罪あるいは「とが」と結び付けられているからです。この言葉の最初の適用の場合,エホバが約束しておられるのは,この国民がバビロン捕囚から解放された後に霊的にいやされる,ということです。(イザヤ 35:5,6。エレミヤ 33:6。詩編 103:1-5と比較してください。)帰還するユダヤ人は以前の罪を許されており,エルサレムにおいて清い崇拝を再び確立します。

      21 今日のエホバの崇拝者たちは,どのように霊的ないやしを経験していますか。

      21 とはいえ,イザヤの預言には現代における成就があります。今日のエホバの民も霊的ないやしを受けてきました。霊魂不滅,三位一体,地獄の火といった,偽りの教えから自由にされてきたのです。道徳上の導きを与えられて不道徳な習慣から自由にされ,正しい決定をするよう助けられています。また,イエス・キリストの贖いの犠牲のおかげで,神のみ前で清い立場を得,清い良心も享受しています。(コロサイ 1:13,14。ペテロ第一 2:24。ヨハネ第一 4:10)こうした霊的ないやしには身体的な益もあります。例えば,クリスチャンは不倫なセックスやたばこ製品の使用を避けるので,性感染症や,ある種のがんにかからずに済みます。―コリント第一 6:18。コリント第二 7:1。

      22,23 (イ)将来,イザヤ 33章24節はどんな壮大な成就を見ますか。(ロ)今日の真の崇拝者たちはどんな決意を抱いていますか。

      22 さらに,イザヤ 33章24節の言葉には,ハルマゲドンの後,神の新しい世においていっそう壮大な成就があります。人々はメシア王国の支配下で,霊的ないやしと共に,素晴らしい身体的ないやしも経験します。(啓示 21:3,4)サタンの事物の体制が滅びてからまもなく,イエスが地上にいた時に行なったような数々の奇跡が地球的な規模で生じるに違いありません。盲人は見るようになり,耳の聞こえない人は聞き,足のなえた人は歩くようになるのです。(イザヤ 35:5,6)それにより,大患難の生存者全員が,地球を楽園の状態にする壮大な仕事に参加できるようになります。

      23 その後,復活が始まる時,生き返ってくる人々は健康な状態でよみがえるに違いありません。とはいえ,贖いの犠牲の価値が適用されてゆくにつれ,次々と身体的な益がもたらされ,人類は完全さへと高められてゆきます。そして,義なる者たちは全き意味で『生き返り』ます。(啓示 20:5,6)その時,霊的にも身体的にも「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない」のです。何と胸の躍る約束でしょう。今日の真の崇拝者すべてが,この言葉の成就を経験する人々の一人になろうという固い決意を抱けますように。

      [344ページの図版]

      イザヤは確信をもってエホバに祈る

      [353ページの図版]

      贖いの犠牲のおかげで,エホバの民は神のみ前で清い立場を得ている

      [354ページの図版]

      新しい世において,素晴らしい身体的ないやしが行なわれる

  • エホバは諸国民に憤りを注ぎ出す
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第27章

      エホバは諸国民に憤りを注ぎ出す

      イザヤ 34:1-17

      1,2 (イ)エホバの復しゅうに関して,どんなことを確信できますか。(ロ)神は復しゅうを遂行することによって何を成し遂げますか。

      エホバ神は,ご自分の忠実な僕たちに対してだけでなく,ご自身の目的にかなうなら,敵する者たちに対しても辛抱されます。(ペテロ第一 3:19,20。ペテロ第二 3:15)エホバに敵対する者たちは神の辛抱を正しく評価せず,神には行動する能力や意志がないと考えるかもしれません。しかし,イザヤ 34章から分かるとおり,エホバは最終的には常に,敵する者たちに言い開きを求めます。(ゼパニヤ 3:8)神は,エドムや他の国々が何の妨げも受けずに神の民に反対するのをしばらくのあいだ許されたことがあります。しかし,エホバは応報のための時を定めておられました。(申命記 32:35)同様に,エホバはご自分の定めの時に,神の主権を無視する現存する邪悪な世のすべての要素に復しゅうを表明されるでしょう。

      2 神が復しゅうを遂行する主な目的は,ご自分の主権を明らかにし,み名を栄光あるものとすることです。(詩編 83:13-18)また神の応報は,神の僕たちが本当に神の代表者であることを立証し,その者たちを望ましくない状況から救い出します。さらに,エホバの復しゅうは常に神の公正さと全く調和しています。―詩編 58:10,11。

      諸国の民よ,注意を払え

      3 エホバは,イザヤを通して諸国民に,どんな招きの言葉を述べておられますか。

      3 エホバは,エドムに対する応報に注意を向ける前に,イザヤを通してすべての国の民に,次のような厳粛な招きの言葉を述べます。「諸国の民よ,近寄って聞け。国たみよ,注意を払え。地とそれに満ちるもの,産出的な地とそのすべての産物は聴け」。(イザヤ 34:1)預言者イザヤは,これまでに何度も不敬虔な諸国民に対する言葉を語ってきました。そして今,それら諸国民に対する神の糾弾を要約しようとしています。そうした警告は,わたしたちの時代にも何らかの意味があるでしょうか。

      4 (イ)イザヤ 34章1節の記述によれば,諸国民は何をするよう求められていますか。(ロ)エホバは諸国民に裁きを表明するゆえに残酷な神である,と言えますか。(363ページの囲み記事をご覧ください。)

      4 あります。宇宙の主権者と,この不敬虔な事物の体制のあらゆる構成部分との間には論争があります。そのため,「国たみ」や「地」は,エホバが全世界でふれ告げさせてきた聖書に基づく音信を聞くよう求められています。イザヤは,詩編 24編1節を連想させる言い回しを用い,その音信が全地に伝えられるであろうと述べています。この預言は,エホバの証人が「地の最も遠い所にまで」伝道するわたしたちの時代に現実のものとなっています。(使徒 1:8)しかし,諸国民は聴こうとしていません。来たらんとする自分たちの終焉に関する警告を真剣に受け止めていません。もっとも,そのためにエホバがご自分の言葉を果たせなくなるわけでないことは言うまでもありません。

      5,6 (イ)諸国民は何に関して言い開きをするよう神から求められていますか。(ロ)どのようにして,「山々は彼らの血のゆえに必ず溶ける」という言葉どおりになりますか。

      5 次いで預言は,不敬虔な諸国民の暗たんたる前途を描写します。それは,後の部分で描写されている神の民の明るい希望とはまさに対照をなしています。(イザヤ 35:1-10)イザヤはこう述べます。「エホバはすべての国の民に向かって憤りを,彼らのすべての軍隊に向かって激しい怒りを抱いておられるからである。神は彼らを必ず滅びのためにささげ,必ず殺りくに渡される。そして,その打ち殺された者たちは投げ出され,その死がいについては,悪臭が立ち上り,山々は彼らの血のゆえに必ず溶ける」。―イザヤ 34:2,3。

      6 諸国民の血の罪に注意が向けられています。今日,とりわけ血の罪を負っているのはキリスト教世界の国々の民です。二つの世界大戦や数多くの紛争において,それらの国々は地を人間の血で満たしてきました。そうした血の罪すべてに対して,公正を要求してしかるべきなのはだれでしょうか。創造者,また偉大な命の与え主である方以外には考えられません。(詩編 36:9)エホバの律法には,『魂には魂を与えなければならない』という規準が定められています。(出エジプト記 21:23-25。創世記 9:4-6)その律法のとおり,神は諸国民の血を流れさせ,彼らを死に至らせます。埋葬されないその死体から生じる臭気が一面に漂うでしょう。何とも不面目な死です!(エレミヤ 25:33)返済を求められている血は多いので,山々を溶かす,あるいは言わば山々を消し去るに足るほどです。(ゼパニヤ 1:17)世の諸国民の軍勢は全滅し,それら諸国民は自分たちの政府の倒壊を目にします。幾つかの聖書預言は,そうした政府を山として描いています。―ダニエル 2:35,44,45。啓示 17:9。

      7 「天」とは何ですか。「天の軍勢」とは何ですか。

      7 イザヤは再び生き生きとした比喩的表現を用い,言葉を続けます。「天の軍勢の者たちはみな必ず朽ち果てる。そして,天は書の巻き物のように必ず巻き上げられる。その軍勢は皆しなびて枯れる。葉がぶどうの木からしなびて落ちるように,いちじくの木から落ちるしなびたいちじくのように」。(イザヤ 34:4)「天の軍勢の者たちはみな」という表現は,文字どおりの恒星や惑星のことを言っているのではありません。5節と6節は,そうした「天」で刑執行の剣が血でびっしょりぬれると述べています。ですからこれは,人間界にある何らかのものの象徴であるに違いありません。(コリント第一 15:50)人類の諸政府は,上位の権威としてのその高ぶりのゆえに,地上の人間社会を支配する天になぞらえられています。(ローマ 13:1-4)それで,「天の軍勢」は,それら人類の諸政府の連合体を表わしています。

      8 象徴的な天が「書の巻き物のよう」であることは,どのように明らかになりますか。その天の「軍勢」はどうなりますか。

      8 この「軍勢」は,腐りやすいもののように「朽ち果て」,分解します。(詩編 102:26。イザヤ 51:6)わたしたちの上にある文字どおりの天は,肉眼では湾曲しているように見え,古代の書の巻き物のようです。巻き物は,たいてい内側に文字が書かれました。巻き物の内側に書かれた事柄に目を通してしまうと,読み終わった巻き物は巻き上げて片づけられます。同様に,「天は書の巻き物のように必ず巻き上げられる」,つまり人間の諸政府は必ず終わりに至ります。自らの歴史の最終ページに達して,ハルマゲドンで最期を遂げることになります。諸政府の威風堂々たる「軍勢」は,ぶどうの木から枯れ葉が落ちるように,また「しなびたいちじく」がいちじくの木から落ちるように,倒れるでしょう。彼らの時は尽きるのです。―啓示 6:12-14と比較してください。

      応報の日

      9 (イ)エドムの祖先はだれですか。イスラエルとエドムはどんな関係になりましたか。(ロ)エホバはエドムに関してどんなことを布告されますか。

      9 次いで預言は,イザヤの時代に実在した国民,エドムを取り上げます。エドム人は,エサウ(エドム)の子孫です。エサウは,パンとひら豆の煮物と引き換えに長子の権を双子の弟ヤコブに売りました。(創世記 25:24-34)エサウは,自分を押しのけてヤコブが長子の権を有する者となったため,弟への憎しみに満たされるようになりました。後にエドムの国民とイスラエル国民は,双子の兄弟から出た民であるにもかかわらず,敵同士となりました。神の民に対するそうした敵意のゆえに,エドムはエホバの憤りを招きました。エホバは次にこう言われます。「天でわたしの剣は必ずびっしょりぬれる。見よ,それはエドムの上に下る。公正のうちにわたしによって滅びのためにささげられる民の上に。エホバは剣を持っておられる。それは必ず血で満ちる。それは脂肪,若い雄羊と雄やぎの血,雄羊の腎臓の脂肪で必ず脂ぎる。エホバはボツラで犠牲を,エドムの地で大いなる殺りくを行なわれるからである」。―イザヤ 34:5,6。

      10 (イ)エホバは「天で」剣を振るい,だれを引きずり下ろしますか。(ロ)ユダがバビロンに攻撃される時,エドムはどんな態度を示しますか。

      10 エドムの領地は高い山地にあります。(エレミヤ 49:16。オバデヤ 8,9,19,21)しかし,そうした天然の城塞も,エホバが「天で」裁きの剣を振るってエドムの支配者たちをその高い地位から低める時には,何の役にも立たないでしょう。エドムは強大な軍備を固めており,その軍隊は自国を防衛するために高い山脈を行進します。しかし強力なエドムは,ユダがバビロン軍に攻撃される時に何の手助けもしません。むしろ,ユダ王国の没落を見て大喜びし,ユダを征服する者たちをあおりたてます。(詩編 137:7)命からがら逃走するユダヤ人を狩り出して,バビロニア人に引き渡すことさえします。(オバデヤ 11-14)エドム人は,放棄されたイスラエル人の国土を乗っ取ろうと画策し,エホバに向かって自慢げに語ります。―エゼキエル 35:10-15。

      11 エホバは,不実な行ないのゆえに,どのようにエドム人に返報しますか。

      11 エホバは,エドム人のこうした兄弟らしからぬ行ないを見過ごされるでしょうか。そのようなことはありません。むしろ,エドムに関してこう予告されます。「野牛は彼らと共に,若い雄牛は強力な者たちと共に必ず下って来る。彼らの地は必ず血でびっしょりぬれ,彼らの塵も脂肪で脂ぎる」。(イザヤ 34:7)エホバは,エドムの大なる者や小なる者を,象徴的な野牛や若い雄牛,また若い雄羊や雄やぎと呼んでおられます。血の罪を負ったこの国民の土地は,エホバの刑執行の「剣」によるその民自身の血で必ずびっしょりぬれます。

      12 (イ)エホバは,エドムを処罰するためにだれをお用いになりますか。(ロ)預言者オバデヤはエドムに関して何を予告しますか。

      12 神は,シオンと呼ばれるご自分の地上の組織に対してなされた悪意に満ちる行ないのゆえに,エドムを処罰しようと決めておられます。預言は,「エホバは復しゅうの日を,シオンに関する訴訟のための応報の年を持っておられる」と述べています。(イザヤ 34:8)西暦前607年のエルサレムの滅びのしばらく後に,エホバはエドム人に対するご自分の義なる復しゅうを,バビロンの王ネブカドネザルを用いて表明し始めます。(エレミヤ 25:15-17,21)バビロン軍がエドムに向かって進撃する時,何ものもエドム人を救うことはできません! その山国にとって「応報の年」が来たのです。エホバは預言者オバデヤを通してこう予告されます。「あなたの兄弟ヤコブに対する暴虐のゆえに恥辱があなたを覆う。あなたは定めのない時に至るまで切り断たれることになる。……あなたがしたとおりにあなたに対しても行なわれる。あなたの加えた仕打ちがあなた自身の頭に帰する」。―オバデヤ 10,15。エゼキエル 25:12-14。

      キリスト教世界の陰うつな将来

      13 今日,どの組織がエドムに似ていますか。なぜそう言えますか。

      13 現代,エドムに似た記録を持つ,一つの組織が存在しています。どの組織でしょうか。では,現代において,どの組織が先頭に立ってエホバの僕たちをののしったり迫害したりしてきたでしょうか。キリスト教世界が,僧職者階級を通してそうしてきたのではありませんか。そのとおりです。キリスト教世界は世事において,自らを山のような高みに高めてきました。人類の事物の体制の中での高い地位を求めており,その諸宗派は大いなるバビロンの主要な部分を占めています。しかしエホバは,ご自分の民,ご自分の証人たちに対する甚だしい悪事のゆえに,この現代のエドムに対する「応報の年」を定めておられます。

      14,15 (イ)エドムの地とキリスト教世界はどうなりますか。(ロ)燃える歴青や,いつまでも続く煙について述べられていることは,何を意味していますか。また,何を意味してはいませんか。

      14 それで,イザヤの預言のこの部分の残りを取り上げる際,古代エドムだけでなく,キリスト教世界のことも考慮に入れます。「その奔流は歴青に,その塵は硫黄に必ず変えられ,その地は必ず燃える歴青のようになる。それは夜も昼も消されることがなく,その煙は定めのない時に至るまで立ち上る」。(イザヤ 34:9,10前半)エドムの地は乾き切るので,塵はまるで硫黄であるかのように,奔流の谷は水ではなく歴青で満ちているかのようになります。そして,それら可燃性物質は燃え上がるのです。―啓示 17:16と比較してください。

      15 こうして火や歴青や硫黄について述べられていることは火の燃える地獄が存在することの証拠である,と考えた人もいます。しかしエドムは,何らかの想像上の地獄の火に投げ込まれて永久に焼かれるのではありません。むしろ,滅びに至り,火と硫黄で全く焼き尽くされるかのように世界の舞台から消え去るのです。預言の続きの箇所から分かるとおり,最終的な結末は永遠の責め苦ではなく,「空漠……と荒漠(と)無」です。(イザヤ 34:11,12)「定めのない時に至るまで立ち上る」煙はそのことを鮮明に表わしています。家が焼け落ちると,火が消えてからもしばらくは焼け跡から煙が出つづけ,それを見て,人は火災のあったことを知ります。今日のクリスチャンは今もエドムの滅びから教訓を学んでいますから,燃えたエドムの煙はいまだに立ち上っているかのようです。

      16,17 エドムはどうなりますか。そうした状態はいつまで続きますか。

      16 イザヤの預言は言葉を続け,エドムには人間の代わりに野生動物がすみつくようになることを予告し,来たるべき荒廃を暗示します。「彼女は代々乾き切ったままとなり,限りなく永久にだれもそこを通り過ぎる者はいない。そして,ペリカンとやまあらしが必ずそこを所有し,とらふずくと渡りがらすがそこに住む。神はその上に空漠の測り綱と荒漠の石を必ず張り伸ばされる。彼女の高貴な者たち ― そこには人々が王位に呼ぶ者はだれもいない。その君たちもみな無になる。その住まいの塔には,いばらが,その防備を施された場所には,いらくさと,とげ草が必ず生じる。そこは必ずジャッカルの住まいとなり,だちょうのための中庭となる。また,水のない地域にせい息するものは遠ぼえする動物に必ず出会い,やぎの形をした悪霊もその友に呼びかける。そうだ,よたかはそこに確かに憩い,自分のために休み場を見いだすであろう。矢へびはそこに巣を作って,卵を産んだ」。―イザヤ 34:10後半-15。a

      17 そうです,エドムは空漠とした地となります。野獣や鳥やへびしかいない荒れ地となるのです。10節が述べるように,こうした地の乾き切った状態は「限りなく永久に」続くでしょう。復興はありません。―オバデヤ 18。

      エホバの言葉は確かに成就する

      18,19 「エホバの書」とは何ですか。その「書」には,キリスト教世界に関してどんなことが書き記されていますか。

      18 前述のエドムの現代版であるキリスト教世界にとって,これは何と希望のない将来を予示しているのでしょう。同世界はエホバ神にとって,その証人たちをひどく迫害する憎むべき敵であることを明らかにしてきました。そして,エホバがご自分の言葉を果たされることに疑問の余地はありません。預言とその成就とを比べるなら,両者が符合していることが必ず分かるでしょう。荒廃したエドムにすむ生き物が必ず『連れ合いを得る』のと同じほど確かに符合するのです。イザヤは,聖書預言を研究する後代の人々に向けて語り,こう言います。「あなた方は自分でエホバの書の中を尋ね求め,朗読せよ。それらのうち一つとして欠けているものはなかった。それらが各々その連れ合いを得損なうことは決してない。その命令を出したのはエホバの口であり,それらを集めたのはその霊だからである。そして,それらのためにくじを投げたのは神であり,そのみ手が測り綱によってこれらに場所を分け与えたのである。それらのものは定めのない時に至るまでそれを所有し,代々そこに住む」。―イザヤ 34:16,17。

      19 差し迫ったキリスト教世界の滅びは,「エホバの書」の中に予告されています。その「エホバの書」は,執念深く神に敵する者たちや,悔い改めることなく神の民を虐げる者たちに対してエホバが清算する勘定に関して詳述しています。古代エドムに関して記されている事柄はそのとおりになりました。それは,エドムの現代版であるキリスト教世界に当てはまる預言も同じくそのとおりになる,という確信を強めさせます。エホバの行動の規則という「測り綱」は,この霊的に瀕死の組織が荒廃した荒れ地となることを保証しています。

      20 古代エドムと同様,キリスト教世界は何を経験しますか。

      20 キリスト教世界は政治上の友たちをなだめようと全力を尽くしますが,それは無駄です! 啓示 17章と18章によると,全能の神エホバは,キリスト教世界を含む大いなるバビロン全体に敵して行動することをそれら友たちの心の中に入れます。それにより,全地からまがいのキリスト教が除かれるでしょう。キリスト教世界のありさまは,イザヤ 34章に描写されている陰うつな状態のようになります。同世界は,決着のつけられる「全能者なる神の大いなる日の戦争」の時には,存在すらしていないでしょう!(啓示 16:14)古代エドムのように,キリスト教世界は地の表から完全に,「限りなく永久に」除き去られるのです。

      [脚注]

      a マラキの時代には,この預言はすでに成就していました。(マラキ 1:3)マラキは,エドム人が荒廃した故国を取り戻したいと望んでいる,と伝えています。(マラキ 1:4)しかし,それはエホバのご意志ではありません。その後,別の民であるナバテア人がかつてのエドムの地を手に入れました。

      [363ページの囲み記事]

      怒る神?

      多くの人は,イザヤ 34章2節から7節にあるような表現を読んで,ヘブライ語聖書に描かれているエホバは残酷で憤りに満ちた神である,と考えます。果たしてそうでしょうか。

      いいえ,そうではありません。確かに神は怒りを表明されることもありますが,そうした怒りは常に正当なものです。制御されない感情にではなく,常に原則に立脚しています。さらに,全き専心を受ける創造者の権利と,真理をいつも変わりなく擁護する態度に常に導かれています。神の怒りは,義に対する愛と,義を実践している者たちに対する愛にも支配されています。エホバは問題にかかわるすべての論点をご存じであり,状況に関する完全かつ限りない知識をお持ちです。(ヘブライ 4:13)心を読み,無知や怠慢や故意の罪の度合いに注目し,公平をもって行動されます。―申命記 10:17,18。サムエル第一 16:7。使徒 10:34,35。

      とはいえ,エホバ神は『怒ることに遅く,愛ある親切に満ちる』方です。(出エジプト記 34:6)神を恐れ,義を行なおうと努める人たちは,憐れみを受けます。全能者は,人間の受け継いだ不完全さを理解し,それゆえに憐れみを示されるからです。今日,神はイエスの犠牲に基づいてそうしておられます。(詩編 103:13,14)ふさわしい時に,エホバの怒りは,自分の罪を認めて悔い改め,誠実に神に仕える人たちから取り除かれます。(イザヤ 12:1)基本的に,エホバは怒る神ではなく幸福な神であり,近づきがたい神ではなく,親しみやすい平和の神,ふさわしい仕方でご自分に近づく者に穏やかに接する神です。(テモテ第一 1:11)これは,異教の偽りの神々が持つとされる性質,そうした神々の像に描かれている無慈悲で残酷な性質とは正反対です。

      [362ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      大海

      ダマスカス

      シドン

      ティルス

      イスラエル

      ダン

      ガリラヤの海

      ヨルダン川

      メギド

      ラモト・ギレアデ

      サマリア

      フィリスティア

      ユダ

      エルサレム

      リブナ

      ラキシュ

      ベエル・シェバ

      カデシュ・バルネア

      塩の海

      アンモン

      ラバ

      モアブ

      キル・ハレセト

      エドム

      ボツラ

      テマン

      [359ページの図版]

      キリスト教世界は地を血で満たしてきた

      [360ページの図版]

      「天は書の巻き物のように必ず巻き上げられる」

  • 回復されたパラダイス!
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第28章

      回復されたパラダイス!

      イザヤ 35:1-10

      1 多くの宗教が,パラダイスでの命という希望を差し伸べているのはなぜですか。

      「パラダイスへの郷愁は,人間につきまとう郷愁の中でも強い部類に入る。あらゆる郷愁の中で最も強く,最も執ようなものかもしれない。パラダイスを慕う気持ちは何らかの形であらゆるレベルの宗教生活のうちに認められる」。「宗教百科事典」(英語)はそう述べています。そうした郷愁は全く自然なものです。聖書によれば,人間の命はパラダイスで,つまり病気も死もない美しい園で始まったからです。(創世記 2:8-15)世界の多くの宗教が,多少の違いこそあれ,パラダイスでの将来の命という希望を差し伸べているのも,意外なことではありません。

      2 将来のパラダイスに関する真の希望をどこに見いだせますか。

      2 聖書は多くの箇所で,将来のパラダイスに関する真の希望を述べています。(イザヤ 51:3)例えば,イザヤ 35章に記録されている預言は,荒野の地域が庭園のような場所や実り豊かな野に変えられる様子を描写しています。盲人は視力を得,口のきけなかった人は話し,耳の聞こえなかった人は聞こえるようになります。約束されたそのパラダイスにおいては,悲嘆も溜め息もありません。つまり,もはや死さえないのです。何と素晴らしい約束でしょう。こうした表現はどのように理解すべきでしょうか。今日のわたしたちに希望を差し伸べているのですか。イザヤ 35章を調べるなら,そうした質問に対する答えが得られます。

      荒廃した地は歓ぶ

      3 イザヤの預言によると,地はどんな変化を遂げますか。

      3 回復されたパラダイスに関する霊感によるイザヤの預言は,次のような言葉をもって始まります。「荒野と水のない地域とは歓喜し,砂漠平原は喜びに満ち,サフランのように花を咲かせる。それは必ず花を咲かせ,喜びと喜びの叫び声とをもって真実に喜びあふれる。レバノンの栄光,カルメルとシャロンの光輝が必ずそれに与えられる。エホバの栄光,わたしたちの神の光輝を見る者たちがいるであろう」。―イザヤ 35:1,2。

      4 ユダヤ人の故国はいつ,どのように,荒野に似た様相を呈するようになりますか。

      4 イザヤがこの言葉を書いたのは西暦前732年ごろです。それから125年ほど後,バビロニア人がエルサレムを滅ぼし,ユダの民は流刑に処され,その故国は人の住まない荒廃した状態で放置されます。(列王第二 25:8-11,21-26)こうして,不忠実になるならイスラエルの民は流刑に処されるというエホバの警告どおりになります。(申命記 28:15,36,37。列王第一 9:6-8)ヘブライ民族が異国に捕囚になると,十分にかんがいされていた畑や果樹園は,手入れされないまま70年間放置され,荒野のようになります。―イザヤ 64:10。エレミヤ 4:23-27; 9:10-12。

      5 (イ)どのようにしてその地はパラダイスのような状態に回復されますか。(ロ)どんな意味で,民は『エホバの栄光を見る』ことになりますか。

      5 しかし,イザヤの預言は,その地が永久に荒廃したままにはならないと予告しています。紛れもないパラダイスへと回復されるのです。「レバノンの栄光」や「カルメルとシャロンの光輝」が与えられます。a どのようにでしょうか。ユダヤ人は流刑から帰還すると,再び自分たちの畑を耕し,かんがいすることができ,その地はかつての豊かな実りを取り戻します。その点で,すべての誉れはエホバのものです。神のご意志によって,また神の支えや祝福があればこそ,ユダヤ人はそうしたパラダイスのような状態を楽しむようになるのです。民は,その地の驚くべき変化のうちにエホバのみ手の働きを認める時,「エホバの栄光,[彼らの]神の光輝」を見ることができます。

      6 イザヤの言葉はどんな重要な成就を見ますか。

      6 とはいえ,回復されたイスラエルの地において,イザヤの言葉はもっと重要な成就を見ます。霊的な意味で,イスラエルは長年の間,乾いた砂漠のような状態にありました。流刑者たちがバビロンにいた間,清い崇拝は厳しく制限されていました。神殿も祭壇も,組織された祭司職もなかったのです。犠牲をささげる日課は途絶えていました。ところが今,イザヤは逆の事柄を預言しています。ゼルバベル,エズラ,ネヘミヤといった人々の指導のもと,イスラエル全12部族の代表者たちがエルサレムに帰還して神殿を再建し,妨げられることなくエホバを崇拝します。(エズラ 2:1,2)まさに霊的なパラダイスです!

      霊に燃える

      7,8 ユダヤ人流刑者が積極的な態度を取らなければならないのはなぜですか。イザヤの言葉はどのように励ましとなりますか。

      7 イザヤ 35章の言葉には喜びの響きがあります。イザヤは,悔い改めた国民の明るい将来を宣言しています。しかも,確信と楽観的な見方を抱いて語っています。それから2世紀後,流刑の身のユダヤ人は,回復を目前に控え,同様な確信と楽観的な見方を持たなければなりません。エホバはイザヤを通して預言的に語り,ユダヤ人にこう説き勧めます。「あなた方は弱い手を強くし,よろけるひざをしっかりさせよ。心に思い煩いのある者たちに言え,『強くあれ。恐れてはならない。見よ,あなた方の神はまさに復しゅうをもって,神は実に返報をもって来られる。神ご自身が来て,あなた方を救ってくださる』と」。―イザヤ 35:3,4。

      8 長い間にわたった流刑が終わり,行動の時が来ました。バビロンに対するエホバの復しゅうの道具であるペルシャのキュロス王は,エルサレムでエホバの崇拝を復興するようにとの布告を出しています。(歴代第二 36:22,23)バビロンからエルサレムまでの危険な旅をするために,幾千ものヘブライ人家族を組織しなければなりません。エルサレムに到着したなら,適当な生活設備を建設し,神殿と都を再建するという記念碑的事業の準備をしなければなりません。バビロンにいるユダヤ人の中には,こうしたことすべてに圧倒される人もいるかもしれません。しかし,今は弱くなったり心配したりすべき時ではありません。ユダヤ人は互いに強め合い,エホバに確信を置くべきです。エホバは,彼らを救うと保証しておられます。

      9 帰還するユダヤ人には,どんな素晴らしい約束が差し伸べられていますか。

      9 バビロン捕囚から解放される人々には,歓ぶべき十分の理由があります。エルサレムに帰還すると,そこには素晴らしい将来が待ち受けているからです。イザヤはこう予告します。「その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる」。―イザヤ 35:5,6前半。

      10,11 帰還するユダヤ人に関して,イザヤの言葉には霊的な意味があるに違いないと言えるのはなぜですか。その言葉は何を示していますか。

      10 明らかに,エホバはご自分の民の霊的な状態を念頭に置いておられます。民は,以前の背教のゆえに70年間の流刑という処罰を受けてきました。とはいえエホバは,懲らしめを与える際,民の目や耳や足や口を不自由にして苦しめたりはされませんでした。ですから,イスラエル国民を回復させるために身体的な障害をいやす必要はありません。エホバは,失われたもの,つまり霊的な健康を回復させるのです。

      11 悔い改めたユダヤ人は,霊的な感覚を取り戻すという点でいやされます。霊的な感覚とは,霊的な視力,およびエホバの言葉を聞いたり話したり,それに従ったりする能力のことです。彼らはエホバから離れないことの必要性を意識します。立派な行ないにより,喜びにあふれて神を賛美し,「叫びを上げ」ます。『足のなえていた者』はエホバの崇拝において熱心かつ精力的になります。比喩的な意味で『雄鹿のように登って行く』のです。

      エホバはご自分の民をさわやかにされる

      12 エホバはイスラエルの地を祝福して,どれほどの水をお与えになりますか。

      12 水のないパラダイスなどというものは考えられません。エデンにあった最初のパラダイスには豊富な水がありました。(創世記 2:10-14)イスラエルに与えられた土地も,「水のあふれる奔流の谷,また……わき出る泉や水の深みのある地」でした。(申命記 8:7)それで,適切にもイザヤは,気分をさわやかにする次のような約束を述べます。「荒野に水が,砂漠平原に奔流が噴き出るからである。そして,熱で渇き切った地は葦の茂る池となり,渇いた地は水の泉となるからである。ジャッカルの住まい,その休み場には,葦やパピルスの植物と共に青草があるであろう」。(イザヤ 35:6後半,7)イスラエル人が再びその地を世話するようになると,かつてジャッカルが歩き回っていた荒廃した場所には緑の草木が繁茂するでしょう。ほこりっぽい乾いた地面は,パピルスその他,水辺の葦の生育に適した「湿地」に変わります。―ヨブ 8:11。

      13 回復された国民にはどんな霊的な水が豊かに与えられますか。

      13 しかし,もっと重要なのは真理の霊的な水です。故国へ戻るユダヤ人はその水を豊かに受けるでしょう。エホバはみ言葉を通して知識や励ましや慰めをお与えになります。さらに,忠実な年長者や君たちは「水のない地方における水の流れ」のようになるでしょう。(イザヤ 32:1,2)エズラ,ハガイ,エシュア,ネヘミヤ,ゼカリヤ,ゼルバベルなど,清い崇拝を推し進める人々は,まさにイザヤの預言が成就していることの生きた証拠となります。―エズラ 5:1,2; 7:6,10。ネヘミヤ 12:47。

      「神聖の道」

      14 バビロンとエルサレムの間の旅の様子を説明してください。

      14 とはいえ,流刑の身のユダヤ人がそうした物質的また霊的なパラダイスの状態を楽しむには,まずバビロンからエルサレムまでの長くて危険な旅をしなければなりません。直線コースを取れば,約800㌔に及ぶ乾き切った荒れ地を横断しなければなりません。それより楽なコースを取れば,1,600㌔もの旅をしなければなりません。いずれにしても,厳しい自然条件にさらされ,野獣や獣のような人間に出くわす危険を冒しながら,何か月も旅をすることになります。それでも,イザヤの預言を信じる人々は過度に心配したりはしません。なぜでしょうか。

      15,16 (イ)エホバは,故国への旅をする忠実なユダヤ人にどんな保護をお与えになりますか。(ロ)別のどんな意味で,エホバはユダヤ人のために安全な街道を備えますか。

      15 エホバはイザヤを通してこう約束されます。「そこには必ず街道が,道が生じ,それは“神聖の道”と呼ばれるであろう。清くない者がそこを通って行くことはない。そして,それは道を行く者のためのものであり,愚かな者がそこをうろつくことはない。ライオンもそこにはいない。飽くことを知らない野獣もそこに上って来ることはない。どれもそこには見いだされない。買い戻された者たちは必ずそこを歩く」。(イザヤ 35:8,9)エホバはご自分の民を取り戻されました! その民は神によって「買い戻された者たち」であり,神は故国への道中の安全を保証しておられます。バビロンからエルサレムまで,盛り土をして柵を設けた,文字どおりの舗装道路があるのでしょうか。そうではありません。しかし,旅をするご自分の民をエホバが確かに保護されるので,民はあたかもそうした街道を歩いているかのようです。―詩編 91:1-16と比較してください。

      16 ユダヤ人は霊的な危険からも保護されます。比喩的な街道は「神聖の道」です。神聖な物事に対して不敬な態度を取る人や霊的に汚れた人には,その道を旅する資格がありません。回復された地において,そのような人は必要とされません。是認される人たちは正しい動機を抱いています。国家主義的な誇りの精神を抱いて,あるいは個人的な利益を求めてユダとエルサレムに帰ろうとしているのではありません。霊的な思いを持つユダヤ人は,帰還の主な理由はその地にエホバの清い崇拝を再確立することである,という点をよく理解しています。―エズラ 1:1-3。

      エホバの民は歓ぶ

      17 長い流刑の間,忠実なユダヤ人にとってイザヤの預言はどのように慰めとなりましたか。

      17 イザヤ 35章の預言は喜びに満ちた調子で結ばれます。「エホバによって請け戻された者たちが帰って来て,歓呼の声を上げつつ必ずシオンに来るであろう。定めのない時まで続く歓びが彼らの頭の上にあるであろう。彼らは歓喜と歓びを得,悲嘆と溜め息は必ず逃げ去るのである」。(イザヤ 35:10)流刑中にこの預言に慰めと希望を求めてきた捕囚のユダヤ人は,預言の様々な詳細な点はどのように成就するのだろうと考えたかもしれません。預言の数多くの面を理解してはいなかったことでしょう。しかし,彼らが「帰って来て,……必ずシオンに来る」ことは一点の曇りもなく明らかでした。

      18 バビロンでの悲嘆と溜め息の代わりに,回復された地における歓喜と歓びがどのように生じますか。

      18 それゆえ,西暦前537年,約5万人の男子(7,000人以上の奴隷を含む)および女性や子供たちは,エホバに対する全き確信を抱いてエルサレムに戻るための4か月の旅をします。(エズラ 2:64,65)それから数か月足らずでエホバの祭壇は再建され,神殿の完全な建て直しの準備が整います。200年前に語られたイザヤの預言が成就します。その国民には,バビロンでの悲嘆と溜め息の代わりに,回復された地における歓喜と歓びが生じます。エホバは約束を果たされました。パラダイスが文字どおりにも霊的な意味でも回復されたのです。

      新しい国民の誕生

      19 イザヤの預言は西暦前6世紀には限定的な成就を見るにすぎない,と言うべきなのはなぜですか。

      19 言うまでもなく,イザヤ 35章の西暦前6世紀における成就は限定的なものです。故国に戻ったユダヤ人が楽しむパラダイスのような状態は永続しません。やがて,偽りの宗教の教えや国家主義が清い崇拝を汚染します。霊的な意味で,ユダヤ人は再び悲嘆や溜め息を経験します。結局,エホバはユダヤ人をご自分の民としては退けます。(マタイ 21:43)ユダヤ人は再び不従順になるゆえに,とこしえに歓ぶことはできません。こうしたことすべてから,イザヤ 35章には,ほかの,もっと大規模な成就のあることが分かります。

      20 西暦1世紀に,どんな新しいイスラエルが存在するようになりましたか。

      20 エホバの予定の時に,別のイスラエル,つまり霊的なイスラエルが存在するようになりました。(ガラテア 6:16)イエスは地上での宣教期間中に,この新しいイスラエルの誕生のための舞台を整えました。清い崇拝を回復し,またその教えによって,真理の水が再び流れ始めるようにしたのです。イエスは,身体的にも霊的にも,病気の人をいやしました。神の王国の良いたよりがふれ告げられると,歓呼の声が上がりました。死と復活から7週間後,栄光を受けたイエスは,クリスチャン会衆,つまり霊的なイスラエルを設立しました。そのイスラエルを構成しているのは,イエスの流された血で請け戻され,神の霊的な子またイエスの兄弟として生み出され,聖霊によって油そそがれたユダヤ人や他の人々です。―使徒 2:1-4。ローマ 8:16,17。ペテロ第一 1:18,19。

      21 1世紀のクリスチャン会衆に関して,どんな出来事はイザヤの預言の幾つかの面の成就であると考えられますか。

      21 使徒パウロは,霊的なイスラエルの成員にあてた手紙の中でイザヤ 35章3節の言葉に言及し,「垂れ下がった手と弱ったひざをまっすぐにしなさい」と述べました。(ヘブライ 12:12)ですから,イザヤ 35章の言葉は西暦1世紀にも成就していたのです。イエスと弟子たちは文字どおりの意味で,奇跡により盲人に視力を,耳の聞こえない人に聴力を与えました。「足のなえた者」を歩けるようにし,口のきけない人を再び話せるようにもしました。(マタイ 9:32; 11:5。ルカ 10:9)さらに重要な点として,心の正しい人たちは偽りの宗教から逃れ,クリスチャン会衆内の霊的パラダイスを楽しむようになりました。(イザヤ 52:11。コリント第二 6:17)それら逃れた人々は,バビロンから帰還するユダヤ人と同様,積極的で勇敢な霊が不可欠であることを知りました。―ローマ 12:11。

      22 真理を求める現代の誠実なクリスチャンは,どのようにしてバビロンへの捕らわれの状態に陥りましたか。

      22 わたしたちの時代はどうでしょうか。イザヤの預言には別の成就が,つまり今日のクリスチャン会衆に関するもっと全面的な成就があるのでしょうか。そのとおりです。使徒たちの死後,油そそがれた真のクリスチャンの数は大幅に減少し,偽クリスチャンという「雑草」が世界的にはびこりました。(マタイ 13:36-43。使徒 20:30。ペテロ第二 2:1-3)19世紀に,誠実な人々がキリスト教世界とたもとを分かつようになって清い崇拝を求め始めた時でさえ,その人々の理解は依然として非聖書的な教えに染まっていました。1914年にイエスはメシアなる王として即位しましたが,その後すぐ,それら誠実に真理を求める人々にとって,事態は陰うつな様相を呈しました。預言の成就として,諸国民は『彼らと戦って彼らを征服し』,良いたよりを宣べ伝えようとするそれら誠実なクリスチャンの努力は押しつぶされました。事実上,それらクリスチャンはバビロンへの捕らわれの状態に陥りました。―啓示 11:7,8。

      23,24 1919年以来,イザヤの言葉はどのように神の民の中で成就してきましたか。

      23 しかし,1919年に事態は変化しました。エホバはご自分の民を捕らわれから連れ出されたのです。民は,それまで自分たちの崇拝を腐敗させていた偽りの教えを退けるようになり,その結果,いやしを受け,霊的なパラダイスに入りました。そのパラダイスは今日でも全地で拡大しつづけています。霊的な意味で,盲人は見えるように,耳の聞こえなかった人は聞こえるようになっています。つまり,神の聖霊の働きに十分に注意を払い,エホバから離れないことの必要性を常に意識するようになっているのです。(テサロニケ第一 5:6。テモテ第二 4:5)真のクリスチャンはもはや口のきけない状態にはなく,意欲的に「叫びを上げ」,他の人に聖書の真理を宣明しています。(ローマ 1:15)霊的に弱い,「足のなえた」ような人たちも,今では熱意や喜びを表わしています。『雄鹿のように登って行く』ことができるかのようです。

      24 それら回復したクリスチャンは「神聖の道」を歩みます。大いなるバビロンを出て霊的なパラダイスに至るこの「道」は,霊的に清い崇拝者すべてに開かれています。(ペテロ第一 1:13-16)それら崇拝者たちはエホバの保護を頼みとし,真の崇拝の根絶を狙うサタンの動物的な攻撃が成功を収めることはない,という確信を抱くことができます。(ペテロ第一 5:8)不従順な人も,飽くことを知らない野獣のように振る舞うどんな人も,神の神聖の街道を歩む人たちを堕落させることは許されていません。(コリント第一 5:11)そうした保護された環境の中で,エホバに請け戻された人たち,つまり油そそがれた者と「ほかの羊」は,唯一まことの神に仕えることに喜びを見いだします。―ヨハネ 10:16。

      25 イザヤ 35章は身体的な意味でも成就しますか。説明してください。

      25 将来はどうですか。イザヤの預言はいつの日か身体的な意味で成就するのでしょうか。そのとおりです。1世紀にイエスと使徒たちが行なった奇跡的ないやしは,エホバが将来そうしたいやしを大規模に行なおうと欲し,そのための力も有しておられることを実証しました。霊感を受けた詩編は,地上の平和な状態における永遠の命について述べています。(詩編 37:9,11,29)イエスもパラダイスでの命を約束しました。(ルカ 23:43)聖書は,その巻末の書に至るまで,文字どおりのパラダイスの希望を差し伸べています。その時が来ると,盲人,耳の聞こえない人,足のなえた人,口のきけない人は身体的にとこしえにわたっていやされます。悲嘆と溜め息は逃げ去ります。歓びがまさに定めのない時まで,永久に続くのです。―啓示 7:9,16,17; 21:3,4。

      26 イザヤの言葉は今日のクリスチャンをどのように強めますか。

      26 真のクリスチャンは,地上の物理的なパラダイスの回復を心待ちにしつつ,今でも霊的なパラダイスの祝福を享受しています。試練や患難に遭っても楽観的な見方を失いません。エホバに対する揺るぎない確信を抱き,互いに励まし合います。「あなた方は弱い手を強くし,よろけるひざをしっかりさせよ。心に思い煩いのある者たちに言え,『強くあれ。恐れてはならない』」という諭しに留意しているのです。そして,次の預言的な保証の言葉に全き信頼を置いています。「見よ,あなた方の神はまさに復しゅうをもって,神は実に返報をもって来られる。神ご自身が来て,あなた方を救ってくださる」。―イザヤ 35:3,4。

      [脚注]

      a 聖書は古代レバノンを,うっそうとした森林や堂々たる杉を有する,エデンの園に匹敵するほど実り豊かな土地として描いています。(詩編 29:5; 72:16。エゼキエル 28:11-13)シャロンは水の流れやかしの森林で知られており,カルメルはぶどう園などの果樹園や花の咲き乱れる丘陵地で有名でした。

      [370ページ,全面図版]

      [375ページの図版]

      砂漠のような場所は,水が豊富で,葦やパピルスの植物の茂る場所となる

      [378ページの図版]

      イエスは,霊的にも身体的にも,病気の人をいやした

  • 王の信仰は報われる
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第29章

      王の信仰は報われる

      イザヤ 36:1–39:8

      1,2 ヒゼキヤがアハズより良い王であることは,どのように明らかになりましたか。

      ヒゼキヤは25歳でユダの王になりました。どんな支配者になるでしょうか。父アハズ王の歩みに倣い,臣民をいざなって偽りの神々を信奉させるでしょうか。それとも,父祖ダビデ王のように,エホバの崇拝において民を導くでしょうか。―列王第二 16:2。

      2 即位してまもなく,ヒゼキヤが「エホバの目に正しいことを行な(おう)」としていることが明らかになりました。(列王第二 18:2,3)ヒゼキヤは治世の第1年に,エホバの神殿の修理と,神殿での奉仕の再開を命じます。(歴代第二 29:3,7,11)そして,盛大な過ぎ越しの祝いを組織し,北のイスラエル十部族も含む全国民を招きました。それはまさに忘れがたい祭りとなりました。ソロモン王の時代以来,そのような祭りは一度もなかったのです。―歴代第二 30:1,25,26。

      3 (イ)ヒゼキヤが取り決めた過ぎ越しに参加したイスラエルとユダの住民は,どんな行動を取りましたか。(ロ)その過ぎ越しに参加した人々の取った断固たる行動から,今日のクリスチャンは何を学べますか。

      3 過ぎ越しの祝いを終えるにあたり,参加者たちは心を動かされて聖木を切り倒し,聖柱を打ち壊し,高き所と偽りの神々の祭壇を取り壊しました。そして,まことの神に仕える決意を抱いてそれぞれの都市へ帰りました。(歴代第二 31:1)以前の宗教上の態度とは何と対照的なのでしょう。今日のクリスチャンはこのことから,『集まり合うことをやめたりしない』ことの重要性を学べます。地元の会衆の集会であれ,もっと大規模な大会であれ,そうした集まりは,クリスチャンが励ましを受けたり,『愛とりっぱな業とを鼓舞し合う』よう兄弟関係や神の霊に動かされたりする点で,肝要な役割を果たします。―ヘブライ 10:23-25。

      信仰が試みられる

      4,5 (イ)ヒゼキヤはアッシリアに頼っていないことをどのように示しましたか。(ロ)セナケリブはユダに対してどんな軍事行動を起こしましたか。目前に迫ったエルサレムへの襲撃を回避するため,ヒゼキヤはどんな手段を講じますか。(ハ)ヒゼキヤはエルサレムをアッシリア人から防御するため,どんな備えをしますか。

      4 エルサレムの前途には幾つもの重大な試練が待ち構えています。ヒゼキヤは,不信仰な父親アハズがアッシリアと結んだ同盟を解消し,アッシリアと同盟関係にあるフィリスティア人までも従がわせました。(列王第二 18:7,8)そのため,アッシリアの王は怒っています。それで,「ヒゼキヤ王の第十四年に,アッシリアの王セナケリブがユダの防備の施されたすべての都市に攻め上って,これを奪いはじめた」と書かれています。(イザヤ 36:1)ヒゼキヤは,目前に迫った残忍なアッシリア軍の襲撃からエルサレムを守ろうとしたためと思われますが,銀300タラントと金30タラントaもの巨額の貢ぎをセナケリブに支払うことに同意します。―列王第二 18:14。

      5 王家の宝物庫にはその貢ぎを支払うに足る金銀がないので,ヒゼキヤは神殿から可能な限りの貴金属を回収します。さらに,金をかぶせた神殿の扉を切り離し,セナケリブのもとへ送ります。しかし,それもそのアッシリア人を一時的に満足させることしかできません。(列王第二 18:15,16)ヒゼキヤは,アッシリア人がいつまでもエルサレムに手出ししないはずはないと悟ったようです。そうであれば,備えをしなければなりません。民は水源をふさぎ,アッシリアの侵入軍が水を得られないようにします。さらにヒゼキヤは,エルサレムの城塞を強化し,「たくさんの飛び道具と盾」を含む数々の武器を蓄えます。―歴代第二 32:4,5。

      6 ヒゼキヤはだれに信頼を置きますか。

      6 とはいえヒゼキヤは,如才ない戦略や城塞にではなく,万軍のエホバに信頼を置き,軍隊の長たちにこう訓戒します。「勇気を出し,強くあれ。アッシリアの王のゆえに,また彼と共にいるすべての群衆のために恐れてはならない。おびえてはならない。わたしたちと共にいる者は彼と共にいる者よりも多いからである。彼と共にいるのは肉の腕であるが,わたしたちと共にいるのは,わたしたちを助け,わたしたちの戦いを戦ってくださる,わたしたちの神エホバである」。すると民は,「ユダの王ヒゼキヤの言葉で元気を出す」ようになります。(歴代第二 32:7,8)では,その後の胸躍る出来事を思いに描きながら,イザヤ 36章から39章の預言を考慮してゆきましょう。

      ラブシャケが言い分を述べる

      7 ラブシャケとはだれですか。何のためにエルサレムに遣わされますか。

      7 セナケリブは,ラブシャケ(個人の名前ではなく,軍人の称号)と他の二人の高位者をエルサレムに派遣し,その都の降伏を迫ります。(列王第二 18:17)その3人は都の城壁の外でヒゼキヤの代理人3人に会います。ヒゼキヤの家の者たちの監督エリヤキム,書記官シェブナ,アサフの子である記録官ヨアハです。―イザヤ 36:2,3。

      8 ラブシャケはどのようにしてエルサレムの抵抗をくじこうとしますか。

      8 ラブシャケのねらいは単純です。エルサレムの住民を説得し,戦わずして降伏させるのです。それでヘブライ語で話し,まず大声でこう言います。「お前が信頼したこの確信は何か。……お前はだれに頼って,わたしに背いたのか」。(イザヤ 36:4,5)そしてラブシャケは,恐れおののくユダヤ人を嘲弄し,おまえたちは全く孤立無援なのだと言います。ユダヤ人は援軍を求めてだれに頼るというのでしょうか。かの「砕かれた葦」,エジプトにでしょうか。(イザヤ 36:6)この時点で,エジプトは砕かれた葦によく似ています。実際,そのかつての世界強国は一時的にエチオピアに征服されており,この時のエジプトのファラオ,ティルハカ王は,エジプト人ではなくエチオピア人です。そしてティルハカは,この後まもなくアッシリアに打ち破られます。(列王第二 19:8,9)エジプトは自らを救うことさえできないのですから,まずユダの助けにはならないでしょう。

      9 ラブシャケがエホバは自分の民を見捨てるだろうと結論するのはなぜだと考えられますか。しかし,事実はどうですか。

      9 次いでラブシャケは,エホバは自分の民に立腹しているので,その民のために戦うことはないだろうと主張し,こう言います。「もしお前がわたしに,『我々が依り頼んでいるのは,我々の神エホバである』と言うのであれば,その神は,ヒゼキヤがその高き所と祭壇とを取り除いてしま(った),その者のことではないか」。(イザヤ 36:7)もちろん実際には,ユダヤ人はその地の高き所と祭壇を取り壊すことによって,エホバを退けるどころか,エホバのもとに帰っています。

      10 ユダの守備兵の数が重要でないのはなぜですか。

      10 ラブシャケは言葉を続け,ユダヤ人は軍備の点で絶望的なまでに劣っているという点を指摘し,次のような尊大な挑戦を投げつけます。「わたしはあなたに馬二千頭を与えて,あなたが乗り手をそれに乗せられるかどうかを見よう」。(イザヤ 36:8)しかし,真に重要なのは鍛え上げたユダの騎兵の数でしょうか。いいえ。ユダの救いは,軍事力の優位に依存してはいません。箴言 21章31節が,「馬は戦闘の日のために備えられるものである。しかし救いはエホバによる」と述べるとおりです。しかしラブシャケは,エホバの祝福はユダヤ人の上にではなくアッシリア人の上にあるとも唱えます。さもなければ,アッシリア人がユダの領土にここまで侵入できたはずがない,というわけです。―イザヤ 36:9,10。

      11,12 (イ)ラブシャケが執拗に「ユダヤ人の言語」で話すのはなぜですか。彼は,聴いているユダヤ人の心を動かそうとして,どうしますか。(ロ)ラブシャケの言葉は,ユダヤ人にどんな影響を与えるかもしれませんか。

      11 ヒゼキヤの代理人たちは,ラブシャケの声の届く都の城壁の上にいる人々が彼の主張からどんな影響を受けるだろう,と気をもみます。そこで,それらユダヤ人の役人は,「どうか,シリア語で僕どもに話してください。わたしたちは聴いておりますから。城壁の上にいる民の聞こえるところでは,わたしたちにユダヤ人の言語で話さないでください」と頼みます。(イザヤ 36:11)しかしラブシャケは,シリア語で話すつもりなどありません。ユダヤ人の間に疑いと恐れの種をまいて降伏させ,戦わずしてエルサレムを征服したいと考えているのです!(イザヤ 36:12)それで,ラブシャケは再び「ユダヤ人の言語」で語り,エルサレムの住民に向かって,「ヒゼキヤがお前たちを欺くことがあってはならない。彼はお前たちを救い出すことはできないからだ」と警告します。そして,聴いている人々の心を動かそうとして,ユダヤ人がアッシリアの支配下に入ればどんな生活ができるかを言葉巧みにこう描写します。「わたしに降伏し,わたしのもとに出て来て,各々自分のぶどうの木から,各々自分のいちじくの木から食べ,各々自分の水溜めの水を飲め。やがてわたしは来て,お前たちをお前たちの土地のような土地,穀物と新しいぶどう酒の土地,パンとぶどう園の土地に実際に連れて行く」。―イザヤ 36:13-17。

      12 この年,ユダヤ人には収穫がないでしょう。アッシリアの侵入のために作物の植え付けができなかったからです。みずみずしいぶどうを食べたり,冷たい水を飲んだりできるという見込みは,城壁の上で聴いている人々にとって大いに魅力的であるに違いありません。それでもラブシャケは,ユダヤ人の士気をくじこうとすることをまだやめません。

      13,14 ラブシャケの主張とは異なり,サマリアに生じた事柄がユダの状況に当てはまらないのはなぜですか。

      13 ラブシャケは,準備してきた数々の主張の中から別の攻撃用論議を持ち出し,ヒゼキヤが「エホバご自身がわたしたちを救い出してくださる」と言っても信じてはいけない,とユダヤ人に警告します。そして,サマリアの神々は十部族がアッシリア人に打ち負かされるのを止めることができなかった,という点をユダヤ人に思い起こさせます。そして,アッシリアが征服した他の国の神々についてはどうですか。「ハマトやアルパドの神々はどこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。そして,彼らはサマリアをわたしの手から救い出しただろうか」とラブシャケは迫ります。―イザヤ 36:18-20。

      14 当然のことながら,偽りの神々の崇拝者であるラブシャケは,背教したサマリアとヒゼキヤの治めるエルサレムとには大きな違いがあることを理解していません。サマリアの偽りの神々には十部族王国を救う力がありませんでした。(列王第二 17:7,17,18)一方,ヒゼキヤの治めるエルサレムは偽りの神々を捨て,再びエホバに仕えるようになっています。とはいえ,ユダの3人の代理人たちはそのことをラブシャケに説明しようとはしません。「彼らは沈黙したまま,彼に一言も答えなかった。王の命令は,『あなた方は彼に答えてはならない』と言うものであったからである」。(イザヤ 36:21)エリヤキム,シェブナ,ヨアハはヒゼキヤのもとに帰り,ラブシャケの言葉について公式報告を行ないます。―イザヤ 36:22。

      ヒゼキヤは決断を下す

      15 (イ)ヒゼキヤはどんな決断を迫られますか。(ロ)エホバはどのようにご自分の民を安心させますか。

      15 ヒゼキヤ王は決断を迫られています。エルサレムはアッシリア人に降伏しますか。エジプトと手を結ぶでしょうか。それとも一歩も引かずに戦いますか。ヒゼキヤは重圧を受けます。それで,自分はエホバの神殿に行き,同時にエリヤキム,シェブナ,および祭司の年長者たちを遣わして,預言者イザヤを通してエホバに伺いを立てさせます。(イザヤ 37:1,2)それら王の使いたちは粗布をまとい,イザヤのもとに行って,こう言います。「この日は苦難と,叱責と,侮べつに満ちた不遜の日です。……恐らく,あなたの神エホバはラブシャケの言葉を聞かれるでしょう。その主,アッシリアの王が,生ける神を嘲弄するために彼を遣わしたのです。あなたの神エホバは,ご自分の聞いた言葉に対して彼に実際に責任を問われるでしょう」。(イザヤ 37:3-5)そうです,アッシリア人は生ける神に挑戦しているのです。エホバは彼らの嘲弄に注意を向けるでしょうか。エホバはイザヤを通してこう述べ,ユダヤ人を安心させます。「アッシリアの王の従者たちがわたしのことをあしざまに語った,あなたの聞いたその言葉のゆえに恐れてはならない。いまわたしは彼のうちにひとつの霊を置き,彼は必ずある知らせを聞いて,自分の地に帰る。わたしは必ず彼をその地で剣によって倒れさせるであろう」。―イザヤ 37:6,7。

      16 セナケリブは,どんな手紙を送り付けますか。

      16 一方ラブシャケは,リブナで戦っている王セナケリブのもとへ呼ばれて行きます。セナケリブはエルサレムを後回しにします。(イザヤ 37:8)しかし,ラブシャケが去ったからといって,ヒゼキヤが一息つけるわけではありません。セナケリブは脅迫状を送り付け,エルサレムの住民が降伏を拒む場合に覚悟すべき事柄をこう述べます。「お前は,アッシリアの王たちがすべての地を滅びのためにささげることによってそれに対して行なったことを自ら聞いた。それでも,お前が救い出されるというのか。わたしの父祖たちが滅びに陥れた諸国民の神々は,彼ら……を救い出したか。ハマトの王,アルパドの王,セファルワイムの都市の王は ― ヘナの王,イワの王はどこにいるのか」。(イザヤ 37:9-13)要するに,このアッシリア人は,抵抗するのは愚かである,抵抗しても事態が悪化するだけである,と言っているのです。

      17,18 (イ)ヒゼキヤはどんな動機でエホバに保護を求めますか。(ロ)エホバはイザヤを通して,セナケリブに何と答えますか。

      17 ヒゼキヤは,下さなければならない決断の結果を深く憂慮し,神殿でエホバの前にセナケリブの手紙を広げます。(イザヤ 37:14)そして心からの祈りをささげ,このアッシリア人の脅しに耳を傾けてくださるようエホバに懇願し,祈りの最後にこう述べます。「それで今,わたしたちの神エホバよ,彼の手からわたしたちを救ってください。地のすべての王国が,エホバよ,あなただけが神であることを知るためです」。(イザヤ 37:15-20)この言葉から明らかなように,ヒゼキヤの主な関心事は自分自身の救出ではなく,アッシリアがエルサレムを打ち破った場合にエホバのみ名にもたらされる非難です。

      18 ヒゼキヤの祈りに対するエホバの答えはイザヤを通して与えられます。エルサレムはアッシリアに降伏してはなりません。一歩も引いてはいけないのです。セナケリブに関して言えば,イザヤはそのアッシリア人に対するエホバからの音信を大胆に語り,こう述べます。「シオンの処女なる娘はあなたをさげすみ,彼女はあなたをあざ笑った。あなたの後ろでエルサレムの娘は[あざけって]その頭を振った」。(イザヤ 37:21,22)次いでエホバは,要約すると,こう言われます。『イスラエルの聖なる方を嘲弄するとは,あなたは何者なのか。わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは大いなる野望を抱いており,大言壮語をはく。自分の軍事力に信頼を置いて,多くの土地を征服した。しかし,あなたは無敵ではない。わたしはあなたの企てをくじき,あなたを征服する。そして,あなたが他の者にしたとおりのことをあなたに行なう。あなたの鼻に鉤を付け,アッシリアに連れ戻すのだ』。―イザヤ 37:23-29。

      「これがあなたに対するしるしとなるであろう」

      19 エホバはヒゼキヤにどんなしるしをお与えになりますか。そのしるしにはどんな意味がありますか。

      19 ヒゼキヤには,イザヤの預言が成就することのどんな保証があるでしょうか。エホバはこうお答えになります。「そして,これがあなたに対するしるしとなるであろう。すなわち,今年はこぼれ種から生えたものを,二年目には独りでに芽を出す穀物を食べることになる。しかし三年目には,あなた方は種をまき,刈り取り,ぶどう園を設けてその実を食べよ」。(イザヤ 37:30)エホバは,閉じ込められたユダヤ人に食物を供給なさいます。アッシリアによる占領のために種をまくことはできませんが,前年の収穫物の落ち穂から生じたものを食べることができるでしょう。安息年である翌年は,ひっぱくした状況にもかかわらず,畑を休閑させておかなければなりません。(出エジプト記 23:11)エホバは,民がご自分の声に従うなら,畑には彼らを養うに足る十分な穀物が芽生える,と約束しておられます。そしてその次の年には,通常どおりに種をまき,労働の実を楽しむことになります。

      20 アッシリアの攻撃を逃れる者たちは,どのように『下の方に根を張り,上の方に実を産み出し』ますか。

      20 次いでエホバは,ご自分の民を,容易に根こぎにはできない植物に例えて,こう言われます。「ユダの家の逃れる者たち……は必ず下の方に根を張り,上の方に実を産み出すであろう」。(イザヤ 37:31,32)そうです,エホバに依り頼む者たちは何も恐れる必要はありません。彼らも子孫も,地にしっかりと据えられて存続します。

      21,22 (イ)セナケリブに関してどんなことが預言されますか。(ロ)セナケリブに関するエホバの言葉はどのように,いつ成就しますか。

      21 エルサレムに対するアッシリア人の脅しについては何と言えるでしょうか。エホバはこうお答えになります。「彼はこの都市に入ることはない。また,そこで矢を射ることも,盾をもってこれに立ち向かうことも,これに向かって攻囲塁壁を盛り上げることもない。彼は自分が来た道を通って帰って行き,この都市に入ることはない」。(イザヤ 37:33,34)結局のところ,アッシリアとエルサレムが戦闘を交えることはありません。意外なことに,戦わずして敗北するのはユダヤ人ではなく,アッシリア人です。

      22 エホバはご自分の言葉にたがわず,ひとりのみ使いを遣わして,セナケリブの軍の精鋭18万5,000人を討ち倒させます。それはリブナで生じたようです。セナケリブが目を覚ますと,自軍の指揮官,長,力ある者たちが死んでいます。セナケリブは屈辱のうちにニネベに戻ります。しかし,完敗したにもかかわらず,かたくなにも偽りの神ニスロクを信奉しつづけます。何年か後,セナケリブはニスロクの神殿で崇拝中に自分の息子二人に暗殺され,またもや,命のないニスロクには救う力のないことが実証されます。―イザヤ 37:35-38。

      ヒゼキヤの信仰はさらに強められる

      23 セナケリブが最初にユダに攻め上ってきた時,ヒゼキヤはどんな危機に陥っていますか。その危機にはどんなことが関係していますか。

      23 セナケリブが最初にユダに攻め上ってきたころ,ヒゼキヤは重病にかかります。イザヤは,あなたは間もなく死ぬであろうと告げます。(イザヤ 38:1)39歳のヒゼキヤ王は打ちのめされます。自分のことだけでなく,民の将来も心配です。エルサレムとユダはアッシリア人による侵略の危険にさらされています。ヒゼキヤが死ねば,だれが戦いを指揮するでしょうか。この時点で,ヒゼキヤには支配権をゆだねるべき息子がいません。ヒゼキヤは熱烈な祈りをささげ,憐れみを示してくださるようエホバに願い求めます。―イザヤ 38:2,3。

      24,25 (イ)慈しみ深くも,エホバはどのようにヒゼキヤの祈りを聞き届けられますか。(ロ)イザヤ 38章7,8節に記されているとおり,エホバはどんな奇跡を行なわれますか。

      24 エホバは,まだ王宮の庭内にいたイザヤを,打ちひしがれた王の病床に再び遣わし,別の音信を伝えさせます。「わたしはあなたの祈りを聞いた。わたしはあなたの涙を見た。いまわたしはあなたの日数に十五年を加えよう。そして,アッシリアの王のたなごころから,あなたとこの都市を救い出すであろう。わたしはこの都市を防御する」。(イザヤ 38:4-6。列王第二 20:4,5)エホバは,並外れたしるしによって約束を裏打ちされます。「いまわたしは,太陽によってアハズの階段の段の上に下った段の影を,十段後戻りさせよう」。―イザヤ 38:7,8前半。

      25 ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると,王宮の中には階段がありました。そのそばには柱があったと思われます。太陽光線が柱に当たると,その影が階段に落ちます。階段上の影の動きを観察すれば,日中の時間を計ることができます。さて,エホバは奇跡を行なわれます。影はいつものようにゆっくりと段を下った後,十段後戻りすることになっています。そのようなことを聞いたことのある人がいるでしょうか。しかし,聖書はこう述べています。「すると,太陽はそれが下った階段の段の上を徐々に十段後に戻った」。(イザヤ 38:8後半)その後間もなく,ヒゼキヤは病気から回復し,そのニュースは遠くバビロンにまで広まります。話を聞いたバビロンの王はエルサレムに使者を遣わし,事実を探らせます。

      26 ヒゼキヤの命が延ばされたことの一つの結果は何ですか。

      26 ヒゼキヤが奇跡的に回復してから3年ほど後,長男マナセが生まれます。マナセは,神の同情がなければ生まれなかったはずなのに,成長すると,その同情に感謝を示しません! それどころか,生涯の大半にわたって,エホバの目に悪いことを大々的に行ないます。―歴代第二 32:24; 33:1-6。

      判断を誤る

      27 ヒゼキヤはどのようにエホバに対する感謝を表わしますか。

      27 ヒゼキヤは,父祖ダビデと同様,信仰の人です。神の言葉を大切にします。箴言 25章1節によると,ヒゼキヤは,今日箴言 25章から29章に収められている資料の編さん作業を取り決めました。ヒゼキヤが詩編 119編を作ったという説もあります。ヒゼキヤが病気から回復した後に作った感動的な感謝の歌から,彼が感受性の豊かな人であったことが分かります。結びの部分で,人生において最も重要なのは「私たちの命の日の限り」神殿でエホバを賛美できることである,と述べています。(イザヤ 38:9-20)わたしたちすべても,清い崇拝に関して同じ気持ちを抱けますように。

      28 奇跡的にいやされてからしばらくして,ヒゼキヤはどんな判断上の重大な誤りを犯しますか。

      28 忠実であるとはいえ,ヒゼキヤは不完全です。エホバにいやしていただいてからしばらくして,判断上の重大な誤りを犯します。イザヤはこう説明しています。「そのころ,バビロンの王バラダンの子,メロダク・バラダンはヒゼキヤに手紙と贈り物を送った。それは,彼が病気であったが,再び強くなったのを聞いた後のことである。そのため,ヒゼキヤはそれらのものを歓びはじめ,次いで自分の宝物倉,銀,金,バルサム油,良質の油,そのすべての武器庫,およびその財宝の中に見いだされるすべてのものを彼らに見せた。ヒゼキヤが自分の家の中,および自分の全領土の中で彼らに見せなかった物はひとつもなかった」。―イザヤ 39:1,2。b

      29 (イ)ヒゼキヤがバビロンの使節に自分の富を見せたのは,どんな動機によるものだったかもしれませんか。(ロ)ヒゼキヤの判断上の誤りはどんな結果を引き起こしますか。

      29 アッシリアは,エホバのみ使いによって手痛い敗北を喫した後でも,依然としてバビロンを含む多くの国々にとって脅威となっています。ヒゼキヤは,将来同盟相手となり得るバビロンの王に感銘を与えたいと思ったのかもしれません。しかしエホバは,ユダの住民が敵たちと親交を結ぶことを望まれません。ご自分に依り頼むことを望まれるのです。エホバは預言者イザヤを通してヒゼキヤに将来を明らかにし,こう言われます。「日がやって来て,あなたの家の中にあるもの,あなたの父祖たちが今日に至るまで蓄えてきたものがすべて,実際にバビロンに運ばれるであろう。何一つ残されないであろう……。また,あなたから出て来て,あなたがその父となる,あなたの子らのうちのある者たちは連れて行かれ,バビロンの王の宮殿で実際に廷臣となるであろう」。(イザヤ 39:3-7)そうです,ヒゼキヤが感銘を与えようとしたまさにその国が,結局エルサレムの財宝を強奪し,市民を奴隷の身分にするのです。ヒゼキヤが財宝を見せたことは,バビロニア人の貪欲さを刺激するにすぎません。

      30 ヒゼキヤはどのように,良い態度を示しましたか。

      30 歴代第二 32章26節は,ヒゼキヤがバビロニア人に財宝を見せた出来事について述べていると思われます。そこにはこうあります。「ヒゼキヤはその心のごう慢さの点でへりくだり,彼もエルサレムの住民もそうしたので,エホバの憤りはヒゼキヤの時代には彼らに臨まなかった」。

      31 ヒゼキヤはどんな人生を送りましたか。そのことから何を学べますか。

      31 不完全だったものの,ヒゼキヤは信仰の人でした。神エホバが感情を持つ実在者であることを知っていました。ヒゼキヤは圧力のもとでエホバに熱烈に祈り,エホバはその祈りを聞き届けられました。エホバ神はヒゼキヤが残りの人生を平和に過ごせるようにされ,ヒゼキヤはそのことに感謝しました。(イザヤ 39:8)今日のわたしたちにとっても,エホバは同様に現実の存在であるべきです。問題が生じる時,ヒゼキヤのようにエホバに知恵と逃れ道を求めましょう。「神はすべての人に寛大に,またとがめることなく与えてくださる」からです。(ヤコブ 1:5)忍耐し,エホバに信仰を働かせてゆくなら,エホバが今も将来も「ご自分を切に求める者に報いてくださる」ことを確信できます。―ヘブライ 11:6。

      [脚注]

      a 現在の貨幣価値に換算すると950万㌦(約10億円)以上。

      b セナケリブが敗北した後,近隣諸国はヒゼキヤに金銀などの貴重な品々を贈りました。歴代第二 32章22,23,27節には,「ヒゼキヤは富と栄誉を大変おびただしく得」,「すべての国々の民の目に高められるようになった」とあります。そうした贈り物によってヒゼキヤは,アッシリア人に貢ぎを支払った際に空になった自分の宝物倉を再び満たすことができたのかもしれません。

      [383ページの図版]

      ヒゼキヤ王はアッシリアの力に圧倒された時,エホバに依り頼む

      [384ページ,全面図版]

      [389ページの図版]

      王はイザヤに使いを送り,エホバの助言を求める

      [390ページの図版]

      ヒゼキヤは,アッシリアの敗北によってエホバのみ名が大いなるものとされるようにと祈る

      [393ページの図版]

      エホバのみ使いがアッシリア人18万5,000人を討ち倒す

  • 「わたしの民を慰めよ」
    イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
    • 第30章

      「わたしの民を慰めよ」

      イザヤ 40:1-31

      1 エホバは,一つにはどのように慰めてくださいますか。

      エホバは「慰めを与えてくださる神」です。一つには,み言葉に記させた約束を通して慰めてくださいます。(ローマ 15:4,5)例えば,いとしい人を亡くした時,その愛する人が神の新しい世で復活するという見込みに勝る慰めがあるでしょうか。(ヨハネ 5:28,29)また,間もなく悪を終わらせ,この地をパラダイスに変えるというエホバの約束についてはどうですか。来たるべきそのパラダイスに生き残り,ずっと生きつづけるという見込みがあるのも,慰めとなるのではないでしょうか。―詩編 37:9-11,29。啓示 21:3-5。

      2 神の約束が信頼できるのはなぜですか。

      2 神の約束は本当に信頼できるのでしょうか。確かに信頼できます! その約束をなさった方は,全く頼れる方です。ご自分の言葉を実行する能力も意志も有しておられます。(イザヤ 55:10,11)その点は,預言者イザヤを通して語られた,エルサレムに真の崇拝を回復させるというエホバの声明に関連して強力に示されました。では,イザヤ 40章に収められているその預言を考慮しましょう。そうすれば,約束を果たす方エホバに対する信仰が強められるでしょう。

      慰めとなる約束

      3,4 (イ)イザヤは,神の民が後代に必要とする,どんな慰めの言葉を記録していますか。(ロ)ユダとエルサレムの住民はなぜバビロンへの流刑に処されますか。隷属状態はいつまで続きますか。

      3 西暦前8世紀,預言者イザヤは,エホバの民が後代に必要とする慰めの言葉を記録します。イザヤは,迫り来るエルサレムの滅びとユダヤ民族のバビロンへの強制移住についてヒゼキヤ王に告げたすぐ後,回復を約束する次のようなエホバの言葉を語ります。「『慰めよ,わたしの民を慰めよ』と,あなた方の神は言われる。『エルサレムの心に語り,彼女に向かって呼ばわれ。その軍役は完了し,そのとがは払い終えられた,と。彼女はエホバのみ手から,自分のすべての罪に関して余すところなく受けたからである』」。―イザヤ 40:1,2。

      4 「慰めよ」というイザヤ 40章の冒頭の言葉は,イザヤ書の残りの部分に収められている光と希望の音信を見事に言い表わしています。ユダとエルサレムの住民は背教したため,西暦前607年にバビロンへの流刑に処されます。しかしそれら捕らわれのユダヤ人は,永久にバビロニア人に仕えるわけではありません。隷属状態は,彼らのとがが『払い終えられる』まで続くにすぎないのです。では,いつまででしょうか。預言者エレミヤによると,70年です。(エレミヤ 25:11,12)その後エホバは,悔い改めた残りの者をバビロンからエルサレムへ導き戻されます。ユダの荒廃の70年目に,捕らわれ人たちは,約束された救出の時が近いことを悟って本当に慰められることでしょう。―ダニエル 9:1,2。

      5,6 (イ)バビロンからエルサレムまでの長旅は神が約束を果たす妨げにならない,と言えるのはなぜですか。(ロ)ユダヤ人が故国に戻ることにより,他の国々の民はどんな影響を受けますか。

      5 バビロンからエルサレムまでの旅路は,ルートによって違いますが,800㌔から1,600㌔に及びます。その長旅は,神が約束を果たす妨げになるでしょうか。決してそのようなことはありません。イザヤはこう書いています。「聴け,だれかが荒野で呼ばわっている。『あなた方はエホバの道を開け! 砂漠平原を通る街道を,わたしたちの神のためにまっすぐにせよ。すべての谷は高められ,すべての山と丘は低くされるように。また,起伏のある土地は必ず平たんな地となり,高低のある土地は谷あいの平原となる。そしてエホバの栄光が必ず表わし示され,すべての肉なる者は必ず共にそれを見る。エホバのみ口がこれを語ったからである』」。―イザヤ 40:3-5。

      6 昔,東洋の支配者たちは,旅に出るに先立って人を遣わし,大きな石を取り除かせ,さらには土手道を築かせたり,丘を平らにさせたりして,道を備えさせることがよくありました。帰還するユダヤ人の場合は,あたかも神が自ら先頭に立って障害物をすべて取りのけてくださるかのようになります。そもそも,ユダヤ人はエホバのみ名の民であり,彼らを故国に戻すという約束が果たされることによって,神の栄光はすべての国の民の前に明らかに示されるのです。それら諸国民は,好むと好まざるとにかかわらず,エホバが約束を果たす方であることを見ざるを得ないでしょう。

      7,8 (イ)イザヤ 40章3節の言葉は,西暦1世紀にどんな成就を見ましたか。(ロ)イザヤの預言は1919年にどんなより大規模な成就を見ましたか。

      7 この預言の成就は,西暦前6世紀に生じた回復だけではありませんでした。西暦1世紀にも成就があったのです。イザヤ 40章3節の成就として「荒野で叫んでいる」だれかの声とは,バプテスマを施す人ヨハネのことでした。(ルカ 3:1-6)ヨハネは霊感のもとに,イザヤの言葉を自分自身に当てはめました。(ヨハネ 1:19-23)西暦29年,ヨハネはイエス・キリストのために道を備え始めました。a ヨハネが行なった事前の宣言は,約束のメシアを待ち受け,次いでメシアに聴き従うよう民の注意を喚起しました。(ルカ 1:13-17,76,77)エホバはイエスを用いて,悔い改めた人々を,神の王国だけがもたらし得る自由,つまり罪と死への束縛からの解放へと導き入れることになっていました。(ヨハネ 1:29; 8:32)イザヤの言葉は,霊的なイスラエルの残りの者が1919年に大いなるバビロンから救出されたことと,真の崇拝へと回復したことにおいて,より大規模な成就を見ました。

      8 では,この約束の最初の成就から益を受ける見込みを持つ人々,つまりバビロンにいる捕らわれのユダヤ人については何と言えますか。愛する故国へ彼らを戻すというエホバの約束は,本当に信頼できるのでしょうか。そのとおりです。続く部分でイザヤは,日常生活に基づく生き生きとした表現や例えを用い,エホバがご自分の言葉を実行なさるという全き確信を抱ける説得力のある理由を幾つか挙げています。

      神の言葉は永久に保つ

      9,10 イザヤは,人間の命の移ろいやすさと神の「言葉」の永続性をどのように対比させていますか。

      9 まず,回復を約束しているその方の言葉は永久に保ちます。イザヤはこう書いています。「聴け,『呼ばわれ!』と,だれかが言っている。すると,『何を呼ばわりましょうか』と,ある者が言った。『肉なる者はすべて青草であり,その愛ある親切はみな野の花のようだ。青草は干からび,花は枯れた。エホバの霊がその上に吹いたからである。確かに,民は青草である。青草は干からび,花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は,定めのない時に至るまで保つのである』」。―イザヤ 40:6-8。

      10 イスラエル人は,草が永久には保たないことをよく知っています。乾期には,照りつける太陽の熱のために緑が,乾ききった茶色に変わってしまいます。幾つかの点で,人間の命は草のようです。実際,非常にはかないものです。(詩編 103:15,16。ヤコブ 1:10,11)イザヤは人間の命の移ろいやすさを,神の「言葉」,あるいは述べられた神の目的の永続性と対比させています。そうです,「わたしたちの神の言葉」は永久に存続するのです。神が話されると,何ものも,その言葉を無効にしたり,それが果たされるのを妨げたりすることはできません。―ヨシュア 23:14。

      11 書き記されたみ言葉に収められている約束をエホバが果たされる,と信頼できるのはなぜですか。

      11 今日,エホバが目的として述べられた事柄は,聖書という書物の形になっています。聖書は何世紀にもわたって厳しい敵意にさらされ,勇敢な翻訳者や他の人々は命を懸けて聖書を保存してきました。とはいえ,そうした人々の努力だけによって聖書が生き延びてきたわけではありません。聖書を生き延びさせた誉れはすべて,「生ける,いつまでも存在される神」,またみ言葉を保存する方であるエホバに帰されるべきです。(ペテロ第一 1:23-25)では,こう考えてみてください。エホバは書き記されたみ言葉を保存してこられたのですから,そこに収められている約束も果たされると信頼できるのではないでしょうか。

      ご自分の羊を優しく世話する強い神

      12,13 (イ)回復の約束を信頼できるのはなぜですか。(ロ)ユダヤ人流刑者にはどんな良いたよりがありますか。彼らが確信を抱けるのはなぜですか。

      12 イザヤは,回復の約束を信頼できる2番目の理由を挙げます。その約束をしている方は強い神ですが,ご自分の民を優しく世話なさいます。イザヤはこう述べています。「シオンのために良いたよりを携えて来る女よ,高い山に向かってあなたの道を取れ。エルサレムのために良いたよりを携えて来る女よ,力を出してあなたの声を上げよ。声を上げよ。恐れるな。ユダの諸都市に言え,『さあ,あなた方の神です』と。見よ,主権者なる主エホバご自身が強い者として[「強さをもって」,脚注]来られ,そのみ腕はご自分のために支配を行なうのである。見よ,その報いは神と共にあり,その支払う賃金はそのみ前にある。神は羊飼いのようにご自分の群れを牧される。そのみ腕で子羊を集め,それをその懐に抱いて携えて行かれる。乳を飲ませるものたちを注意深く導かれる」。―イザヤ 40:9-11。

      13 聖書時代には,女性たちが,勝ち戦や将来の解放についての良いたよりを叫んだり歌ったりして勝利を祝う習慣がありました。(サムエル第一 18:6,7。詩編 68:11)イザヤは,ユダヤ人流刑者には良いたよりがあることを預言的に示しています。それは,恐れることなく山の頂からも呼ばわることのできるたよりです。エホバはご自分の民を,その民の愛するエルサレムに導き戻されるのです! 民は確信を抱けます。エホバは「強さをもって」来られるからです。それゆえ,何ものも神が約束を果たされるのを妨げることはできません。

      14 (イ)イザヤは例えを用いて,エホバがご自分の民を優しく導かれることをどのように示していますか。(ロ)羊飼いが羊を優しく世話することを示す,どんな実例がありますか。(405ページの囲み記事をご覧ください。)

      14 とはいえ,この強い神には穏やかな一面があります。イザヤは,エホバがどのように民を故国へ導き戻されるかを,ほのぼのとした表現で描写しています。エホバは,子羊を集めて「懐」に抱いて携えて行く,愛ある羊飼いに似ています。この「懐」という語は衣の上ひだを指しているようです。羊飼いは,群れに付いていけない生まれたばかりの子羊を,そこに入れて運ぶことがあります。(サムエル第二 12:3)牧畜生活に基づくそうした心温まる情景は,流刑に処されたエホバの民に神の愛ある気遣いを保証するものであるに違いありません。確かに,そのような強くて優しい神は民に対する約束を果たしてくださると信頼できます!

      15 (イ)エホバはいつ「強さをもって」来られましたか。『神のために支配を行なっている腕』とはだれのことですか。(ロ)恐れることなく,どんな良いたよりをふれ告げるべきですか。

      15 イザヤの言葉には,わたしたちの時代に対する預言的な意味が込められています。1914年,エホバは「強さをもって」来られ,天にご自分の王国を設立されました。『神のために支配を行なっている腕』とはみ子イエス・キリストのことであり,エホバはイエスを天の王座に据えられました。1919年,エホバは,地上にいる油そそがれた僕たちを大いなるバビロンへの束縛から救出し,生けるまことの神の清い崇拝を完全に回復することに取りかかられました。それは,広く遠く伝わるよう山の頂から呼ばわるかのようにして,恐れることなくふれ告げるべき良いたよりです。ですから,声を上げ,大胆に,エホバ神がこの地上に清い崇拝を回復されたことを他の人に知らせましょう!

      16 エホバは今日のご自分の民をどのように導いておられますか。それはどんな模範となっていますか。

      16 今日のわたしたちにとって,イザヤ 40章10節と11節の言葉には,別の実際的な価値もあります。エホバがご自分の民を優しく導かれることに注目すると,慰められます。羊飼いが,他の羊に付いていけない小さな子羊を含め,1頭1頭の羊に必要なものを理解しているのと同様,エホバもご自分の忠実な僕それぞれの限界を理解しておられます。加えて,優しい羊飼いであるエホバは,クリスチャンの牧者たちの模範となっておられます。長老たちは,エホバご自身が示される愛ある気遣いに倣い,群れを優しく扱わなければなりません。エホバが「ご自身のみ子の血をもって買い取られた」群れの一人一人についてどう感じておられるかを,常に思いに留める必要があるのです。―使徒 20:28。

      全知全能

      17,18 (イ)ユダヤ人流刑者が回復の約束に確信を抱けるのはなぜですか。(ロ)イザヤは,畏怖の念を抱かせるどんな質問を提起していますか。

      17 ユダヤ人流刑者が回復の約束に確信を抱けるのは,神が全知全能であられるからです。イザヤはこう述べます。「だれがただの手のくぼみで水を量り,単なる手尺で天を測定し,地の塵を升に盛り,あるいは山を計量器で,丘をはかりで量ったか。だれがエホバの霊を測定したか。だれがその助言者として神に何かを知らせることができようか。神はだれと一緒に協議したので,その者が神に理解させることができたというのか。だれが神に公正の道筋を教え,知識を教え,真の理解の道を知らせるのか」。―イザヤ 40:12-14。

      18 これらは,ユダヤ人流刑者が熟考すべき,畏怖の念を起こさせる問いかけです。単なる人間が,広大な海の潮の流れを押しとどめることなどできるでしょうか。もちろんできません。しかしエホバにとっては,地球を覆う海は手のひらに載せた一しずくの水のようです。b また,ちっぽけな人間が,広漠たる星空を測ったり,地球の山や丘の重さを量ったりすることなどできるでしょうか。できません。しかしエホバは,人間が手尺で物を測るのと同じほどたやすく天を測られます。手尺とは,手のひらを広げた時の親指の先から小指の先までの長さです。神は,はかりを使うかのようにして山や丘の重さを量ることもできます。さらに,最も賢い人間であっても,現在の状況下で何をすべきかについて神に忠告をしたり,将来何をすべきかを神に告げたりできるでしょうか。できるはずがありません!

      19,20 イザヤは,エホバの偉大さを強調するために,どんな描写表現を使っていますか。

      19 地の強大な国々については何と言えますか。神が約束の言葉を果たされるのを阻めるでしょうか。イザヤは諸国民を次のように描写して,答えを与えています。「見よ,諸国民は手おけの一しずくのようであり,彼らははかりの上の塵の薄い層のようにみなされた。見よ,神は島々をもただの微小な塵のように持ち上げられる。レバノンでさえ火を燃やしつづけるのに十分ではなく,その野生動物も焼燔の捧げ物のために十分ではない。すべての国の民は神のみ前にあっては存在しないもののようであり,無きもの,実在しないもののように神にみなされた」。―イザヤ 40:15-17。

      20 諸国民を一まとめにしても,エホバにとっては,手おけからこぼれる一しずくの水のようなものです。はかりに積もった微小な塵にすぎず,何の影響も及ぼしません。c 想像してみてください。巨大な祭壇を築き,その祭壇のまきとして,レバノンの山々を覆うすべての木を使います。そして,犠牲として,それらの山々を歩き回るすべての動物をささげます。しかし,それほどの捧げ物でさえ,エホバにはふさわしくありません。さらにイザヤは,そうしたイメージではまだ足りないかのように,より強烈な表現を用い,エホバの目にはすべての国の民は「無にも満たないもの」のようである,と述べます。―イザヤ 40:17,新改訂標準訳。

      21,22 (イ)イザヤは,エホバが比類のない方であることをどのように強調していますか。(ロ)イザヤの生き生きとした描写から,どんな結論を引き出せますか。(ハ)預言者イザヤは,科学的に正しいどんなことを記録していますか。(412ページの囲み記事をご覧ください。)

      21 次いでイザヤは,エホバが比類のない方であることをさらに強調するため,金銀や木で偶像を作る人々の愚かさを示しています。そうした偶像が「地の円の上に住む方」,地の住民を統べ治める方を適切に表わせるなどと考えるのは,何と愚かなことでしょう。―イザヤ 40:18-24をお読みください。

      22 こうした生き生きとした描写すべてから,一つの結論を引き出せます。比類のない全知全能のエホバが約束を果たされるのを何ものも妨げ得ないということです。イザヤの言葉は,バビロンで故国に帰ることを待ち焦がれていたユダヤ人流刑者を大いに慰め,力づけたに違いありません。今日わたしたちも,将来に関するエホバの約束が実現することを確信できます。

      「だれがこれらのものを創造したのか」

      23 ユダヤ人流刑者は,どんな理由のゆえに元気を奮い起こせますか。ここでエホバは,ご自身に関して何を強調しておられますか。

      23 ユダヤ人流刑者には,元気を奮い起こせる理由がもう一つあります。救出を約束しているのは,万物の創造者,またすべての活動力の源である方なのです。エホバは,ご自分の驚異的な力量を強調するため,創造物が明らかに示すご自分の能力に注意を引いておられます。「『あなた方はわたしをだれに例えて,わたしをそれに等しい者となし得るのか』と,聖なる方は言われる。『あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる。満ちあふれる活動力のゆえに,その方はまた力が強く,それらの一つとして欠けてはいない』」。―イザヤ 40:25,26。

      24 エホバは自ら語り,ご自分に並ぶものがないことをどのように示されますか。

      24 イスラエルの聖なる方ご自身が語っておられます。エホバは,ご自分に並ぶものがないことを示すため,天の星に注意を向けさせます。兵隊を整列させることのできる軍司令官と同様,エホバは星を指揮しておられます。仮にエホバが星の点呼を取ることがあるとすれば,『それらの一つとして欠けることはない』でしょう。膨大な数の星があるにもかかわらず,神は一つ一つを名によって,つまりそれぞれの固有の名あるいは名前のような呼称によって呼ばれます。星は,忠順な兵士のように持ち場を守り,適切な秩序を保ちます。指導者である方が「活動力」に満ちあふれ,『力が強い』からです。ですから,ユダヤ人流刑者には確信を抱く理由があります。星を指揮する創造者には,ご自分の僕たちを支える力もあるのです。

      25 イザヤ 40章26節に記録されている神の招きにどのようにこたえ応じることができますか。そうするなら,どのような気持ちになりますか。

      25 わたしたちは,イザヤ 40章26節に記録されている「あなた方の目を高く上げて見よ」という神の招きを拒むことなどどうしてできるでしょうか。現代の天文学者の数々の発見により,星空はイザヤの時代の人々が考えた以上に畏怖の念を起こさせるものであることが明らかになってきました。強力な望遠鏡で天空を探る天文学者たちは,観察可能な宇宙には推定1,250億もの銀河があると考えています。しかも,その一つである天の川銀河だけをとっても,一説によれば,1,000億以上の星があるのです。そうした知識を得ると,創造者に対する崇敬の念やその方の約束の言葉に対する全き信頼の気持ちが心の中にわき上がってくるのではないでしょうか。

      26,27 バビロンにいる流刑者の心情はどのように描写されていますか。彼らはどんなことを知っているはずですか。

      26 エホバは,長年に及ぶ捕囚状態によってユダヤ人流刑者の意気がくじけることをご存じなので,イザヤに霊感を与え,あらかじめ次のような保証の言葉を書き記させます。「どんな理由があって,ヤコブよ,あなたは言うのか,イスラエルよ,あなたは言い立てるのか,『わたしの道はエホバから覆い隠された。わたしに対する公正はわたしの神ご自身をよけて行く』と。あなたはまだ知るようになっていないのか。聞かなかったのか。地の果てを創造された方,エホバは,定めのない時に至るまで神である。神は疲れ果てることも,うみ疲れることもない。その理解は探り出すことができない」。―イザヤ 40:27,28。d

      27 イザヤの記録したエホバの言葉は,故国から何百キロも離れたバビロンにいる流刑者の心情を描写しています。一部の人たちは,神は自分たちの「道」,つまりつらい人生行路を,見ることも知ることもない,と考えています。エホバは自分たちが忍んでいる不公正に無関心だ,と考えているのです。そうした人たちは,個人的に経験してはいなくても,少なくとも伝え聞いた情報によって知っているはずの事柄を,思い起こさせられています。エホバはご自分の民を救出することができ,またそうすることを望んでおられます。とこしえの神であり,全地の創造者です。それゆえ,創造の際に発揮された力を今でも有しておられ,強大なバビロンといえどもエホバの手の及ばないものではありません。そのような神が疲れたり,ご自分の民の期待に背いたりすることはあり得ません。民は,エホバの行ないをすべて把握できると期待すべきではありません。神の理解,つまり洞察や識別や知覚は,民の理解力を超えているからです。

      28,29 (イ)エホバは,ご自分がうみ疲れた者たちを助けることを,どのように民に思い起こさせておられますか。(ロ)エホバがどのように僕たちに力をお与えになるかを示すため,どんな例えが用いられていますか。

      28 エホバはイザヤを通して,意気消沈した流刑者たちに引き続き励ましを与え,こう言われます。「神は疲れた者に力を与えておられる。活動力のない者にみなぎる偉力を豊かに与えてくださる。少年は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもある。また,若者も必ずつまずくであろう。しかし,エホバを待ち望んでいる者は再び力を得る。彼らは鷲のように翼を張って上って行く。走ってもうみ疲れず,歩いても疲れ果てることがない」。―イザヤ 40:29-31。

      29 エホバは,疲れた者に力を与える必要について述べた際,流刑者たちが故国に戻るためにしなければならない難儀な旅を念頭に置いておられたのかもしれません。エホバは,支えを求めて頼ってくるうみ疲れた者たちを助けるのは自分にとっては当然であるということを,ご自分の民に思い起こさせておられます。人間の中でも特に生気にあふれた「少年」や「若者」でさえ,疲れ切ったり,疲労こんぱいしてつまずいたりすることがあるでしょう。しかしエホバは,ご自分に依り頼む人たちに力を,走ったり歩いたりできる疲れ知らずの力を与えると約束しておられます。鷲は何時間も滑空を続けられる力強い鳥です。鷲が見るからにやすやすと飛ぶさまを例えに用いて,エホバがどのようにご自分の僕たちに力をお与えになるかが示されています。e ユダヤ人流刑者は,神からのそのような支えを期待できるので,絶望しなくてよいのです。

      30 今日の真のクリスチャンは,イザヤ 40章の結びの部分からどのように慰めを得られますか。

      30 このようにイザヤ 40章の結びの部分には,この邪悪な体制の終わりの日に生活する真のクリスチャンに対する慰めの言葉が収められています。人を気落ちさせやすい圧力や問題は数多くありますが,自分の耐えている辛苦や忍んでいる不公正が神に見過ごされることはない,ということを知っているなら安心できます。万物の創造者,また「その理解については語り尽くすことができない」方が,ご自分の時に,ご自分の方法ですべての不公正を正されることを確信できます。(詩編 147:5,6)それまでの間,自分自身の力に頼って忍耐する必要はありません。尽きることのない力を持つエホバは,試練の時にご自分の僕に力を,さらには『普通を超えた力』をさえお与えになることができます。―コリント第二 4:7。

      31 バビロンにいた捕らわれのユダヤ人にとって,イザヤの預言にはどんな光の約束が収められていましたか。わたしたちは何に絶対の確信を抱けますか。

      31 西暦前6世紀にバビロンにいた,それら捕らわれのユダヤ人のことを考えてみてください。何百キロもかなたの愛するエルサレムは荒廃し,神殿は廃墟となっていました。その人々にとって,イザヤの預言には,慰めを与える光と希望の約束が収められていました。エホバは故国へ戻してくださるのです! 西暦前537年,エホバはご自分の民を故国へ導き,ご自分が約束を果たす方であることを実証されました。わたしたちも,エホバに絶対の確信を抱くことができます。イザヤの預言の中で非常に美しく言い表わされている神の王国の約束は実現します。それはまさに良いたより,全人類のための光の音信なのです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする